倉科くんはパワータイプ

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 キ●ガイ、ア●ペ、ガ●ジ、●沼、シ●ショー、ジンジ●ードクター。そういう蔑称で呼ばれる存在が僕らの学年にやって来たのは、ゴールデンウィークを一週間後に控えた四月の下旬のことだった。
 倉科竜聖という名のその人物は、一見して僕らと同じ小学生には思えない外観をしていた。百八十センチを超えていそうな巨体を持ち、クスリをやっているおっさんのような、僕らの使う言葉でいうところの『ラリった』顔立ちをしている。小さくて細い目をしているのに、その黒目だけは内側からはち切れそうな程大きくて、ぎょろりとした不気味な輝きを放っていた。鼻は大きく一目で分かるほど右向きにひん曲がっていて、分厚い唇で自分の服の袖をちゅうちゅうと所かまわず吸い続けていた。
 「今日から皆の新しい友達になります、倉科竜聖くんです。皆、よろしくな」
 担任教師はそう言って、六年一組の生徒達にそいつを紹介した。
 倉科の存在は六年一組に甚大な被害を齎した。まず倉科は授業中静かにしていることができない。意味もなくあたりをうろうろと歩き回ったり、近くにいる生徒の身体をつついたり撫でたりする。気に入った女子の身体に絡みついて、その髪の毛やら服やらを引っ張ったり舐めたりしたがる。
 その度に担任教師の周藤が大きな声で注意をした。大きな声で鋭く言わないと聞く耳すら持たないのだ。その度に倉科は周藤の方を見てびくびくと怯えた顔をして叱責を受け、怯えた様子で自分の席に戻って行く。しかし大人しく席に着き続ける忍耐はほんの数分しか持たないらしく、しばらくすると再びふらふらと立ち上がり周囲の生徒にちょっかいを出す……。
 すると周藤はとうとう肩を掴んで激しく怒鳴りつける。そうでもしないと大人しくならないのでやむを得ないのだ。倉科は顔を醜くくしゃくしゃにして「あー! ああぁー! んわー! んわー!」と信じられないくらいに耳障りな声で泣き続け、叱られた怒りを何分でも何十分でも継続しながら周囲の机や椅子、生徒に手足をぶつけることで解消しようとするのだった。
 「いっつも先生に泣かされてて可哀そうなんだよね。普通の学校に通うのは本来難しいはずの子だって学年主任の先生が言ってた。でもお母さんがどうしても普通の子達と一緒に勉強をさせてあげたいって、譲らないんだとか……」
 そう言うのは僕の双子の姉で、倉科とクラスを同じくする優奈だった。たまたま倉科の前の席になった所為で、授業中ひっきりなしに髪を掴まれたり舐められたり意味もなく椅子から突き落とされたりと、碌な目に合っていないのだと優奈は語る。
 「席替えをしてもらえば良いじゃん。そんなキモい奴の近くにいられないだろ? 先生だって事情は知ってるはずだし」と僕。
 「でもそんなことをしたって他の子が同じことされるだけだし。それに、『キモチワルイからあの子とは席を離して』みたいなのって、感じが悪いじゃない」
 「そういうのとは違うだろ。話を聞く限り、ユーナはそいつにケガをさせられてもおかしくない状況な訳じゃん? なんか考えてもらえよ。それか、俺がぶん殴っておこうか?」
 「それはやめて欲しいな。だってしょうがないんだもの。ショーガイのある子なんだから」
 「特別扱いすんの?」
 「『特別扱い』っていう言葉は感じ悪いけど、でも、養護学級に通ってるんだったら、他の子とは違ってくる部分もあるんじゃないかな? 先生だって、倉科くんにはハイリョするよーに、って、言ってたよ? わたしもちょっとくらいなら嫌なことされても我慢するし、泣いてる時は慰めてあげるし、ちゃんと親切に……」
 自分が可愛くて臆病で偽善者で、一人では何もできなくて、優奈はそう言う奴で、そういう奴だから付け込まれるのかもしれない。
 ある日のこと僕が友達との遊びから家に帰ると、周藤が家のリビングに来ていて、優奈と母さんと三人で机を囲っていた。
 「お宅の優奈さんはクラスでも成績が良くて、優しくて責任感の強い性格をしています。この春転校して来た倉科くんという『事情のある生徒』にも、いつも親切に接してくださっています。倉科くんも優奈さんにとても懐いて、頼りにしています。そこで、優奈さんにはクラスの為にも倉科くんの為にも、学校生活における倉科くんのフォローを担ってほしいのです」
 「それって、娘を『倉科くん係り』にするということですか?」
 周藤の言い分に母親はそう言って眉を顰めた。その反応は正しい。娘を正しく思いやっている。
 「そういう言い方もできてしまいます。もちろんクラスの皆の迷惑にならないよう、倉科くんのことは私が職を賭けて監視をします。しかし私もいつも教室にいられる訳ではありませんから、信頼できる生徒に声をかけて倉科くんのことをお願いするしかない状況なのです」
 そう言ってくたびれた顔でアタマを下げた周藤に、母親は少しだけ同情したように顔をしかめる。しかしその表情から迷いと躊躇はまだ消えていない。
 周藤は畳みかける。
 「幸いだったのは倉科くんの在籍するのが比較的成熟した最高学年だということと、優奈さんのような素晴らしい生徒がクラスにいてくれたことです。優奈さんは私がお願いする前から後ろの席の倉科くんの身の回りの世話をしてくださり、とても助かっています。どうか娘さんの優しさにおすがりしたい。教師としてふがいない限りですが、お願いできませんでしょうか?」
 「わたしは良いですよ」
 そう言ったのは、二人の話を聞きながらピンクの靴下に包まれた小さな足をこすり合わせていた優奈だった。
 「倉科くんのことは皆で助けてあげなくちゃいけないと思います。わたし、がんばりたいです」
 それで話は決まった。
 思えばこの時周藤は僕達の母親にではなく一緒にいた優奈に語り掛けていたのではないだろうか? 優奈はおだてに弱い。優しいとか責任感があるとか親切だとか、そういう風に大人から褒められるとどんな汚れ仕事でも引き受けてしまう性質だ。
 そこに付け込まれる。
 そして、安請け合いして責任を取り切れない。

 〇

 優奈は日常生活すべてにおいて倉科のフォローをするようになった。移動教室に取り残されないよう声をかけたり、配膳の時にちゃんと給食を取りに行くよう促したり、本人の身体や持ち物に飛び散った食べかすや唾液を丹念にハンカチで拭いてやったり、そういうことだ。
 倉科がそこかしろでしでかしたトラブルの後始末も優奈の仕事だった。倉科には様々な悪癖がある。掃除の時間にバケツの中の水で水遊びをやりたがるだとか、教室の後ろで飼っているザリガニを素手で持ち上げて当たりに放り出したがるとか、そういうことだ。そういった行為を見かけた優奈が制止を呼びかけると、倉科はずぶ濡れの雑巾やもぎ取ったザリガニの腕を優奈に投げつけて、驚き顔をしかめる優奈をゲヘゲヘと爬虫類のような引き笑いで面白がった。
 薄情なクラスメイト達はあちこちで倉科が何かを始める度に優奈を呼びつけ、倉科をなだめすかし後始末をするように要求した。そういうことが少ない時でも日に三度や四度はあった。どう考えても十二歳の少女にやらせる仕事量ではない。だが誰しもが倉科に関わりたくない以上、押し付けることのできる相手に面倒を押し付けたがるのは無理のない話ではあった。
 何せ優奈は公式に『倉科くん係り』なのだ。自分から倉科の面倒を見たがる便利な点取り虫を、ボロ雑巾のように使い倒して、いったい何が悪いというのだろうか? 優奈が倉科のしでかしたことの責任を取るのは果たすべき義務と扱われ、倉科が何かする度に優奈が攻め立てられた。
 優奈はほとんど付きっ切りで倉科の傍にいるようになった。倉科は優しく献身的な優奈を気に入ってじゃれつきたがった。身長百五十二センチメートル、体重三十八キログラムの優奈にとって、百八十センチ百キロにそれぞれ迫る倉科の巨体はほとんど凶器だった。髪を引っ張りたがり顔中舐めまわしたがり身体に抱き着きたがる倉科に、優奈はいつももみくちゃにされていた。
 そんな優奈の存在属性は倉科のそれと同一視されるようになり、『あいつに触ると倉科菌が移る』とばかりに男子達の下らない菌遊びの標的にされた。優奈はクラスの大人しいグループにいてその中では人望の厚い方のはずだったが、薄情な友人達は倉科を厄介がって優奈から離れて言った。
 優奈は頻繁に腹を壊す様になり、悪夢にうなされ体重を落とし夜な夜な泣きじゃくるようになった。回りの大人達は皆同情した。保健室に頻繁に出入りし養護教師からカウンセリングを受け、担任の周藤が家にやって来て母親に状況を話して謝罪し、「もう娘さんに無理はさせませんししないように伝えてください」と深々と頭を下げた。両親は丹念に優奈のケアをして倉科の両親とも電話で話をした。
 それでも優奈は倉科の面倒を見るのをやめようとはしなかった。僕がどれだけ強い口調で倉科を見放すよう訴えても首を横に振った。理由を尋ねると、優奈は噛み癖を再発させて爪がボロボロになった指をこすり合わせて、「可哀そうじゃない」などと宣った。
 「皆あの子のことをキモチワルイって悪く言うけど、あの子だって好きであんな風に生まれた訳じゃない。許してあげなきゃいけないし、優しく接してあげないと」
 この発言がこいつの本質なのだ。僕は思った。はたしてこいつは分かっているのだろうか? 誰よりも倉科を蔑み、見下し、嘲っているのは他でもない優奈自身なのだと。そして人を侮った者は、必ず報いを受けることになっているのだ。優奈が考えているよりも、もっとずっとおぞましい報いを。
 やがて致命的な事件が起こる。

 〇

 その大騒ぎは隣のクラスにいる僕のところにまで飛び火していた。
 その昼休み、僕はクラスの仲間達に囲まれながら、友人でグループナンバー2の山川に逆四の字固めをかけて遊んでいた。抜け出そうとして足掻く山川の鼻水だらけの顔が面白く、仲間達のテンションも高まっていて、楽しい気分だった。「もうそろそろ勘弁してくれよ正太郎」と媚びた顔で言う山川に「もう後五分はこうする」と宣言したあたりで、後ろから声がかかった。
 「正ちゃんのお姉さん、倉科にレイプされるよ」
 振り向くと田辺がいた。田辺は僕達のクラスで一番勉強のでき、色んなことを良く知っているこましゃくれた男子だったが、優等生グループには属さずに僕の傘下で下っ端の地位にいた。
 「レイプって何?」
 山川が言う。僕はそんな山川のことを開放し、立ち上がって田辺の端正な顔を見やった。
 「本当のレイプなのか?」
 「床に押し倒して胸を触ると言う行いは、強姦とか強制猥褻とか、そういう言葉にあてはめうるものだと思うよ? 幸いにして、倉科の局部はまだ仕舞われたままのようだけれどね」
 そう言って、小学生離れした自分の物言いに『ウケた』ように、田辺は一人でケタケタと腹を抱えて笑った。自分の言葉もそうだが、意味をすぐには理解できない、回りの子供の様子を見るのが嬉しいようだ。
 すぐに隣のクラスに行く。
 言われた通りのことが行われていた。泣きじゃくる優奈の床に押し倒す倉科の姿は、体操着を着たでかいおっさんが同じく体操着を着た女子小学生に覆い被さっているようにしか見えず、とても正視に耐えるものではなかった。
 いつもは倉科に何かすることを優奈に止められてきたが、もうそういう訳にはいかない。僕は倉科の頭をカチ割るつもりで手近な場所にあった学習椅子を手に取った。
 「やめなさいっ!」
 背後から声がした。僕は学習椅子を振り上げる手を止めて振り返る。
 周藤がいた。
 「手を離してあげなさい倉科くん! それは良くない! 大人だったら、刑務所に行かされるようなことなんだ! さあ、やめなさい!」
 興奮した倉科に周藤の言葉は届かなかった。倉科は息を荒くしながら優奈の身体にしがみ付き不器用な手つきで服を脱がそうと体操着をまくり上げた。少し前に母親に買って貰ったピンク色のジュニアブラが露わになり、優奈が悲鳴をあげた。
 倉科は自分の行為の意味が分かっているのだろうか? 深く考えず、ただなんとなく楽しくて興奮するからという理由だけでこうしているように見えた。まさに獣だ。そして獣に人間の言葉は通じない。大きな声で驚かせるか、それすら通じないならこちらも武力に訴えるより方法がない。この場にいる誰かがそうしなければ、倉科から優奈を救い出すことは適わなかった。
 「やめなさいと言っているだろう!」
 周藤はそう言って倉科の身体に背後から組み付いて優奈から引きはがそうとする。腋から手を差し入れて力づくで後ろに引っ張った。
 驚くべきことにここでようやく倉科は周藤の制止に気付いたようだった。それを嫌がった倉科は闇雲に手足を振り回して暴れ始める。ムチャクチャに振った拳が優奈の顔に叩きつけられ、赤い液体がぴっとあたりに飛び散った。優奈の鼻血だった。
 「うぐぁあああっ!」
 倉科は獣の咆哮を上げて、手当たり次第目に映るものに手足を叩きつけ始めた。周藤は優奈を守る為にそれを抑え込もうとする。だが周藤の体格は成人男性としては平均的なものであり、倉科の太い腕に薙ぎ払われて尻餅を着いてしまう。
 「あぐぁああああっ! わぁああああ!」
 叫びながら倉科は優奈の身体を放り出し、顔を真っ赤にして周藤の方へと突進する。身の危険を感じたのだろう周藤はその場をぱっと立ち上がり、決死の表情で倉科の突進を回避すると、その体操着を掴み上げて柔道の投げを打った。
 「うぐぅ! あんぎゃあ!」
 投げられた周藤は近くの学習机にぶち当たり、額を切ってどくどくと血を流し始めた。そして痛みと出血の恐怖とに表情を醜く歪め、その場で蹲って泣きじゃくり始めた。
 「ふぁあああ! あぁああ。あぁああああっ!」
 言いながら意味もなく床にガンガンと腕を叩きつける倉科。息を切らしながら呆然と倉科を見詰める汗だくの周藤。
 「ユーナ」
 僕は優奈に駆け寄った。
 我が身を抱いて泣きながら震えていた優奈は僕の声に気付くと、こちらに手を差し出した。握り返してやる。優奈は僕の手を借りてその場を立ち上がり、鼻血を拭ってからよたよたとあろうことか倉科の方へ駆け寄ろうとした。
 手を握って止める。
 「なんでそいつの方へ行くんだよ」
 優奈は答える。
 「だって、頭から血が流れているんだもの」
 こいつは救えない。僕はそう思った。

 〇

 やがて学年主任や教頭を含む教師たちがやって来た。倉科と優奈の保護者に連絡が行き、優奈は氷入りの袋を巻いたタオルで鼻を冷やしながら早退して、母親の車で家に戻った。額から血を流していた倉科は病院へと救急搬送されたものの、命に別状はなく大きな障害を残す可能性もなくて済んだ、とのことだ。
 僕達目撃者の生徒達は状況について説明させられた。倉科が優奈に覆い被さって服を脱がそうとして、周藤がそれを止めに来た。倉科は周藤を振り払ってから立ち上がり、周藤に突進したが、周藤はそれを躱して倉科を机に向けて投げ飛ばした。
 驚くべきことに、このことによって周藤は教職を失う危機に瀕しているらしい。
 理屈は以下の通りだ。
 床に押し倒されている女子生徒を助けに言ったまでは良い。だが言葉で制止させられなかったのには、教育者としての能力に問題がある。言葉での制止に失敗しただけならまだしも看過してよい。だが、柔道経験者で初段を所持する周藤ならばケガをさせずに抑え込むことは可能だったにも拘らず、投げ技を打って救急車を呼ぶほどの大けがを生徒にさせたのは、大問題だと言わざるを得ない。
 それに周藤が投げ技を打った時点で、倉科の身体は女子生徒から離れていたというではないか? 投げを打ったのは女子生徒が助かった後、興奮した倉科と周藤が格闘する際の一連の流れで起きたことに過ぎず、女子生徒を助ける為とは言い難い。暴力を振るい生徒にケガをさせた周藤の対応はあまりにも不適切である。
 体罰を厳格に禁止されたこのご時世、あまりにも短絡的な行動だ。
 教師の風上にもおけない。
 「古き良き時代、倉科のような意思薄弱者は座敷牢の中に閉じ込められて過ごすか、山に捨てられて飢え死にさせられるかだったんだよ。働かせるにしたって、その前に暴力で念入りに調教した。今は、そのどちらもできない」
 全校朝会で周藤の退職を知らされた後、田辺はしたり顔でそんなことを僕に向かって言って来た。
 「新時代さ」田辺は言う。「障碍者様のまき散らすありとあらゆる被害を健常者が甘んじて受け入れて共存する。障碍者様に逆らうことは許されない。それは時に、社会的な死を意味する。僕らは今、そういう時代に生きているのさ」
 倉科はあれから当たり前のように学校に来ていた。そして身の回りの世話を優奈が行っている。誰も代わってやろうとも助けてやろうともしない。異常なことだった。
 あんなことがあったにも関わらず、倉科が障碍者学校等に転校する処置は行われなかった。倉科の両親が強固に今のまま学校に通わせたい主張した。その内容は以下の通りだ。
 押し倒されていたという女生徒と倉科は『日頃から仲が良く』、あれしきの『じゃれあい』なら日頃から『頻繁にあった』。それが『ちょっとエスカレートした』に過ぎない事件なのだ。倉科が闇雲に振るった腕が優奈の鼻を直撃して出血したのも、周藤が『下手なことをして』倉科を興奮させた結果に過ぎない。押し倒されていたという女生徒は変わらず『倉科と仲良く接している』というのだから、どうして転校させる必要があるというのだ?
 「倉科の親って地元の名士かなんか?」
 僕は問う。田辺は答える。
 「いやぁ。普通の中流家庭だそうだよ。つまりこの裁きが、この時代の常識という訳なのさ」
 狂っている。誰もがそう思っていた。

 〇

 その日の夜、僕がいつものように部屋でテレビゲームに興じていると、誰かが扉をノックした。
 足音やノックの音でそれが何者かを僕は判別できる。これは優奈だ。「入れよ」と促すと、ふすまが静かに開かれて、ピンク色の大き目の枕を抱えた優奈が姿を現した。
 「なんだよ」
 「一緒に寝てくれない?」
 時計を見る。九時四十七分。優奈はいくつになっても頑なに十時には布団に入りたがる習慣がある。
 「良いけど、これが終わるまで起きてられるならな」
 僕はテレビ画面を指さす。優奈は「分かった」と従順に言って、敷きっぱなしにしてある僕の布団に腰かける。そして枕を抱え込んでテレビ画面を眺め始めた。
 どうせ一時間と起きていられまいと思いながらテレビゲームを続けていた僕だったが、このまま他人の布団の上で下手な体勢で寝られても道厄介なことに気が付いた。優奈は枕に顎を乗っけてうとうとし始めては目を見開くということを繰り返している。こいつを抱き上げて部屋に運ぶみたいな間抜けな目にあうのはごめんだった。
 僕はゲーム機の電源を切る。「いいよ。一緒に寝よう」
 「まだボス倒してないよ」
 「いいんだよ」
 そう言って僕と優奈は同じ布団に潜り込んだ。灯かりを消す。
 「おまえこのことクラスの奴に言うなよ」
 「なんで?」
 「からかわれるだろ」
 他人と一緒に入る布団の中っていうのは妙にほかほかしている。優奈は他人より体温も高い。胸の下着のサイズを買い替えるくらいに身体も発育したはずなのに、優奈の全身からは未だに子供じみた甘ったるい匂いが漂うようだ。
 甘えて来る優奈は胎児のように丸めた身体を僕の方へと押し付けて来る。母親や父親だったらそんな優奈の期待に沿って抱きしめ返してでもやるんだろうが、僕はそれをしない。優しく包み込んでやれるほど僕は成熟していないし、じゃれて甘え返せる程幼くもない。それでも優奈は不服を言うでもなくじっと僕にくっ付き続けていた。
 「なんで母さんや父さんのところに行かなかったの?」
 優奈は今でも一人で寝るのをちょくちょく嫌がる。たまに僕のところにも来るので、同じ布団で寝るのも珍しくはない。
 「えぇ~。気分?」
 「そうかよ」
 「うん。後パパやママはわたしのことすぐ寝かそうとするし」
 「そりゃそうだろ。母さんや父さんだってまだテレビとか見てたいんだから、おまえのことなんてとっとと寝かしつけて部屋に運びたいに決まってるよ」
 「だからこっち来たんじゃぁん」
 「寝ろよ」
 「えぇ~。やだ。お話ししよう」
 「さっきまであんな眠そうにしてたのに」
 「眠くない。お話しする」
 「別に良いけど……」
 優奈の人格には問題を感じているが、それでも嫌っている訳でも仲が悪い訳でもない。僕らは学校の話やさっき一緒に見たテレビの話や、突拍子もない荒唐無稽な空想の話をした。しりとりや連想ゲームもした。なぞなぞやクイズも出し合ったが、どれも過去に一度はどちらかが出題したようなものばかりで、すぐに答えが出てしまっていた。
 そんなことをしていると僕の方の瞼が降りて来る。時計を見るともう十二時が近づいていた。僕は朝すっきり起きられないことが嫌いだし、優奈はちょっと夜更かしすると目覚ましが鳴っても起きられなくなる。もうこのあたりで眠っておかないとまずそうだ。
 しかし優奈はあのねぇそのねぇとまだ僕と話を続けたがっていた。何度か意識を失いかける度にわざわざ唇を噛んでまで覚醒を保ち続けている。いつも十時には布団に入ってかかっても半時間程度で寝てしまう優奈には、少々ばかり様子がおかしいと言えた。
 「おまえもう寝ろよ」
 僕は言った。
 「やだ。まだお話する」
 「俺が眠いんだ。おまえが思う程俺だって毎晩夜更かししてる訳じゃない。このくらいの時間にはいつも寝てるんだよ」 
 「もうちょっと一緒に起きててよ。お願い」
 「わがまま言うな。らしくないな。寝ろ」
 「寝たくないんだよぅ」
 「寝ろっつってんだろ!」
 僕は語気を鋭くする。優奈は息を飲んで全身を震わせる。びくりと跳ねた優奈の身体の動きを肌で感じた。
 いきなり突き放されたのがショックだったのか優奈は目に涙を溜め始める。身近な人間ですぐ泣く奴と言えばこいつだ。鬱陶しい。だが母さんによれば短気ですぐ怒鳴る僕も良くないようなので、僕は溜息を吐いて訊いてやる。
 「……なんで寝たくないんだよ」
 「だって、だってぇ……」俯いて顔は見えないが、優奈の声は今にも本格的に泣き出しそうに弱々しかった。「寝たら明日が来るんだもん……」
 「明日が来る? それが嫌なの?」
 「嫌だし怖い」
 「明日になったら何があるの?」
 「……学校」優奈は僕にしがみ付いて、縋るようにして頭を僕の身体に押し付けた。「学校行くの怖い……。学校行きたくない……」
 そう言ってすんすんと泣き始める。僕は肩を掴んでやり、好きに泣かせてやる。
 学校に行くのが怖くて明日が来るのが嫌だった。だから夜更かしさせてくれるだろう僕の布団までやって来た。大晦日でもなければまず起きていないような時間まで唇を噛んでまで起き続け、寝ろと言われると震えながら泣きじゃくり始める。
 そうまでして学校を嫌がる原因は何か? 理由は簡単に想像がつく。安請け合いして後に退けなくなった倉科の世話とそれに付随するクラスメイトからの孤立。男子からのからかい、女子からの嘲笑。かつての友人から距離を置かれる恐怖と喪失感。そして教師一人失職させておいて反省する様子もなく優奈にまとわりつく倉科の、不快な臭いに塗れた小学生らしからぬ巨体。ひっきりなしに行われ収集の付かないとてつもない暴挙、暴挙、暴挙の数々。
 生半可なストレスではない。
 顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくり続け、終いには「死んでしまいたい」などと口走り始めた愚鈍極まりない双子の姉を見詰めて、僕は悟った。
 限界だ。
 こいつも僕も。

 〇

 「今日これから倉科を殺す」
 放課後の教室で、クラスの仲間達を集めた僕は、皆の前でそう宣言した。
 「倉科はいつも西校舎の裏の出口から学校を出て、用水路沿いに歩いて家に帰る。途中で大きな道路に出る時に裏道を使うから、そこに先回りする。あそこなら人通りもなく大人に発見される心配もない。必ず倉科を殺す」
 「あいつキモいもんな」ナンバー2の山川がけらけらと笑う。「ボコボコにしてやらねぇとな」
 「言っておくが、これは遊び目的のいじめじゃない。あくまでも倉科が今後他人に迷惑をかけられないように教育することが目的だ。殺して締め上げる。本来なら一組の誰かがやらなきゃいけないことなんだが、あいつら腰抜け揃いだからな。代わりに俺達がやる」
 「倉科はパワータイプの池沼だから、そう簡単には倒せないっていうのもあるんだろうけどね。一組の奴らが手をこまねいている背景には」
 田辺が言う。
 「なんだ、そのパワータイプっていうのは?」
 「ガ●ジの分類さ。妙に身体がでかくて力が強く、関わると危険な知的障碍者のことをそういう風に言う」
 「タイプって……ゲームのモンスターかなんかか?」
 「それになぞらえたネットの用語だね。今だと少し古い用語みたいだけど。他に妙に速い脚であちこち走り回るスピードタイプとか、一見してガ●ジに見えないから被害を予測しにくいステルスタイプとか色々あるけど、パワータイプ以外の分類はあまり使われないのが実態かな」
 「パワータイプだか何だか知らないが、人数で囲んでリンチすれば大人しくなるはずだ。それすらできない一組はやっぱりヘボだよ」
 「ユーナちゃんが何でも倉科の面倒を見てくれるから、今すぐリンチするほどはひっ迫してないっていうのもあるかもしれない。しかしユーナちゃんも人が良いよね。あんなガ●ジの世話を進んで焼くだなんてさ」
 「愚図なんだ。自分が可愛いだけの臆病な偽善者だ。悪人じゃないだけマシだけど、そんな良いもんじゃないよ」
 「でもぼくは好きだよ。ぼくみたいな疎まれ者にこそ優しい子だしさ。それでいてあれだけ綺麗なんだから女神様だよ。ロングヘアで、持ち物はだいたいピンク色で、ああいう如何にもな可愛い装いがどんぴしゃで似合うのは、素材が抜群に良いってことなんだよな。きっと下着もピンク色なんだろうね。なあ正ちゃん、相談なんだけど、千円やるからユーナちゃんの下着を一つ盗んできてぼくにくれないか? なるだけ着古した奴を」
 「山川こいつにパワーボムをかけろ」
 「あいよ」
 山川は田辺にパワーボムをかけた。身体を逆さまにされ腰を掴まれ何度も床に叩きつけられる田辺は本気の悲鳴をあげている。
 こういう奴だから成績がどれだけ良くても優等生グループに入れないし、女子にも蛇蝎の如く忌み嫌われているんだ。幼馴染として僕が自分のグループの下っ端に加えてやっていなければ、きっといじめられていたことだろう。
 まあこいつが優奈に惚れているなら、今回はさぞかし働いてくれることだろう。
 僕達は近道を走り抜け倉科の先回りをする。そして茂みに潜み、倉科がやって来るのと同時に武器を構えた僕が先陣を切った。
 倉科は何もせずただ歩いているだけの時でさえ締まりのない顔でえへえへと笑っている。茂みから飛び出して現れた僕を見付けても、「あひゃはっ」と妙な声を出して駆け寄るだけだった。僕は優奈からこいつに悪口を言ったり暴力を振るったりすることを禁止されている。優奈を手伝って面倒を見てやることさえある。味方だと思われているのだ。
 僕は手にしていた鉄パイプを倉科の大きな腹へと突き出した。みぞおちに鋭くヒット。鈍い手ごたえがして倉科はその場で蹲った。信じられないという表情。
 こいつは今まで、生徒から悪口を言われたり暴力を振るわれたりすることはあっても、暴力を受けたことは一度もないはずだ。驚いているのも無理はなく、この先どんな行動に出るか予想もつかない。僕は相手が激高する隙も与えないようにさらに二度三度と鉄パイプの先端を倉科の身体に見舞った。
 倉科は立ち上がることもできずに闇雲に手足を振り回して僕を攻撃しようとするが、鉄パイプのリーチの方が長い。一方的にどつき回す恰好になる。
 だが勝負は付いたかに思われたのは束の間。息を切らしかけた僕がパイプを突き出す動きを止めた時、異常なタフネフで手足をばたつかせ続けていた倉科がその場を立ち上がり、僕に背中を向けて全力で逃げ出した。
 「おまえ達! ふさげ!」
 僕が鋭く命じると、顔を赤くして泣き叫びながら逃げ去ろうとする倉科の前に、僕の子分たちが立ちふさがった。山川を先頭にした五人はそれぞれ鉄パイプを掲げ持って倉科を威嚇する。
 倉科は雄たけびを上げながら山川達に突っ込んだ。闘牛のような重く激しい突進に、山川達はあっけなく弾かれてしまい、あちこちに吹き飛ばされて尻餅を着く。ボーリングのピンが倒れるかのような見事な光景だった。
 「バカ共が!」
 僕はそう叫び、手に持っていた鉄パイプを地面を這うような高さで放り投げる。くるくると回転しながら足元に飛び込んだ鉄パイプに躓いて、倉科はバランスを崩して転倒した。
 倒れた倉科に走り寄った僕は、その勢いのままに強烈なローキックを横っ面に浴びせかける。バコンと激しい音がしたが、倉科の身体は重すぎてほとんど転がりもしなかった。
 「ふぁああん。ふあぁああ。ふぁあああんっ!」
 倉科にはその場で蹲って泣きじゃくり始めた。悔しさをぶつけるように、その巨大としか言いようのない拳を地面に何度も叩きつける。立ち込める土煙が信じられないくらいに激しいのは、倉科の腕力の強さの表れだった。
 「こいつゴリラかよ。すげぇ力だったな」
 立ち上がった山川がそう漏らす。
 「間抜け」
 僕は一言コメントしておいてやる。山川はむっとした表情を浮かべたが、しかし僕の顔をまともににらむことはできず、いら立ちをぶつけるようにして横たわる倉科を鉄パイプでどつき始めた。
 そこに群がるようにして手下たちが倉科に追撃を浴びせかけ始める。集団リンチの様相だ。
 「なんでぇえええっ!」倉科がでかい声で泣き叫ぶようにして言った。「なんでリュウくんいじめるの? ねぇ、なんで!? ユウナちゃん。ユウナちゃぁああん!」
 リュウくんというのは倉科の一人称だ。『竜聖』という名前から来ている。優奈の名前を叫んでおいおい泣き出す倉科を、山川が「キッショ」とせせら笑った。
 「リュウくん、何もしてないよ? 何も悪いことしてないよ? なんでこんなことするの、ねぇ、なんで!?」
 「確かにおまえが悪い訳じゃねぇよ」僕は言う。「ただな、おまえみたいな大きくて愚鈍な豚を、子猿の群れは同類と認めないんだよ。養豚場に帰る羽目になりたくないのなら、せめて対等な顔するのをやめなきゃな。俺が調教してやるよ。恨むならおまえを俺達の中に放り込んだ大人を恨むんだな」
 僕達はじっくりと時間をかけて倉科をボコボコにした。抵抗しない奴をいじめる時だけは山川達は威勢が良い。如何に残酷で苛烈な仕打ちができるかどうかで、グループ内の自分の地位が変わると思っているかのようだった。
 倉科は泣きながら頭を抱え込み、「許して、許して」と力ない声で漏らすばかりだった。「まだまだ許さねぇぞ!」とすっかりリーダーの顔をした山川がそんな倉科の身体をどつく。最初はビビって遠慮がちだったこいつも、いい加減に暴力に馴れたのか手加減が無くなって来た。そろそろ、危険かもしれない。
 「こんなもんで良いだろう」
 僕がそう言って山川と倉科の間に立ちふさがった。山川は不平そうな顔をして僕の方を見たが、序列を弁えて鉄パイプを手放した。
 「……倉科」
 僕はそう言って、地面に蹲る倉科の髪の毛をひん掴んで身体を起こさせる。
 「おまえは今日から俺と優奈に逆らうな。俺と優奈に迷惑をかけず、俺と優奈に何を言われてもそれに従え。もしもおまえが優奈を困らせたり、言うことを聞かなかったりしたら、今日みたいに俺がおまえを血祭りにあげる。分かったか?」
 「……分かったよぉお」倉科は真っ赤にした顔で泣きじゃくりながら言った。「ユウナちゃんの言うこと、聞きます。ショウタロウくんの言うこと、聞きます。許して、許してぇえ……」
 「分かったなら良い。ちゃんと従うんなら、優しくしてやる」俺はそう言って倉科のことを放り出す。「手始めに、その場で腕立て伏せを百回しろ」
 「ハイっ!」
 そう言って倉科はきびきびと腕立て伏せをやり始めた。優奈曰く、こいつはこの手の筋トレを兄貴から面白半分に仕込まれている。ボコされてへとへとの状態でもすぐに行うことができる。それが故のパワータイプだ。サッカーチームに所属していてそれが正しいフォームと理解している山川は、「すげぇ……」と感嘆の息を漏らした。

 〇

 倉科は優奈に対して従順になった。授業中に席を立ってふらふらし始めても、優奈が一言「座っててね」とお願いするとその通りにする。背筋をピンと伸ばして両手を膝に乗せ、そのままの姿勢でテコでも動かない倉科を遠巻きに見ながら、「どうやったの?」とクラスメイト達は口々に優奈に尋ねた。
 「わかんない。正ちゃんがなんかしたんだと思う」
 倉科をボコしたことは優奈には言っていなかった。もっとも、僕の仲間達が嬉しそうに吹聴するのが多少なりとも伝わっているのか、風呂場で一緒になった時に「もう酷いことはしないでね」とわざわざ言って来た。
 「リュウくんちょっと様子おかしいんだよ。なんかね、わたしが何かお願いしたら頑なにそれを守ろうとするんだよ。こないだなんてね、『静かにしててね』って言ったら誰に話しかけても先生に指名されても、何が何でもって感じで口を閉じてるの。『無視すんな』って小突かれても『ちゃんと返事しなさい』って雷落とされても、何かに怯えてるみたいにだんまりなの。わたしが『喋って良いよ』って言ってあげるまで、絶対に絶対に喋ろうとしないんだよ」
 「校舎の窓から飛び降りろって言ったら飛び降りるんじゃねぇの?」
 「うん。それくらいはすると思うよ」優奈は確信を持った口調で言った。「正ちゃんに脅かされたんだろうなってのは感じるんだけど、やっぱりやりすぎだったんじゃない?」
 僕が無視をしていると、頭を洗い終えた優奈は泡を落として目を開ける。
 「っていうか正ちゃん、なんでそんな壁の方向いてお風呂入ってるの? わたし入るから隅によってこっち向いてよ」
 「俺風呂あがるわ」
 「駄目だよ正ちゃんまだ身体洗ってないもん」
 「おまえが入って来るまでに洗ったんだよ」
 「正ちゃんいつも身体洗う前に湯船でしょ」そう言って優奈は平気で脚を上げて湯船に入って来て、僕の髪の毛をくんくんにおう。「ほらねせっけんの匂いしないじゃん。お姉ちゃん、ちゃーんと分かってるんだから」
 ウザいウザいマジでウザい。つかこいつはこの歳で自分の裸見られて何も思わない訳? 平気で人のいる風呂場に入って来やがる。止めようとしない親も親だよ。
 こいつにちんちん見られるの、もういい加減に嫌なんですけど? けどそれを伝えようにも何故それが嫌なのかを優奈に分かるように説明するのはもっと嫌だ。だから僕は今日も湯船で心地良さそうにする優奈にケツを向けながら、できるだけ素早く身体を洗い終えるしかない。

 〇

 放課後、クラスの仲間達と一緒に遊び場へと向かっていると、「正ちゃーん」と背後から声がかかった。
 「どうしたユーナ」
 「一緒に帰ろうよ」
 そう言う優奈の後ろには母に倉科が孝順な幼児のように立っていた。最近は見慣れた光景。倉科に自由に言うことを聞かせられるようになってからも、優奈は自分に付き纏う倉科を遠ざけようとはしていない。押し倒されたり身体を舐められたりする危険がなくなってからは、世話を焼ける対象としてむしろ好意的に受け入れているようですらあった。
 「友達と遊ぶからまた今度な」
 倉科の件で友達と距離が出来てからの優奈は、度々こうして僕と登下校を共にしたがるようになっていた。だが仲間と合わせて一緒に帰るだけならともかく、遊びに付き合わせるのは気が引ける。優奈は少し悪い遊びをするといちいち僕に注意をして来るし、下手をすると教師に言い付ける。
 「なら一緒に遊ぶ」
 「やだよ。おまえ俺らがなんかするとすぐチクるだろ」
 「チクんない」
 「チクるだろ」
 「正ちゃんたちが悪いことするからじゃない。それに、今日はわたしだけじゃなくてね……」
 その時、倉科の巨体の裏から飛び出して来た女子がいた。御幸だ。
 「はあい正ちゃん。一緒に遊ぼう?」
 御幸は優奈や倉科のクラスメイトで、活発で垢抜けた性格の女子だ。黒のロングヘアで大きな垂れ目でいつもスカートを穿いている優奈とは違い、軽く脱色したショートヘアで切れ長の目でたいていは半ズボン(本人たちはこれを頑なにショートパンツと呼ぶ)を穿いている。クラスの立ち位置も教室の隅で本を読んでいる優奈とは逆で、輪の中心でくっきりとした輪郭を持って気ままに振る舞うタイプだった。
 「なんてとこにいるんだよ?」
 「驚かそうと思ってねぇ」
 御幸は明るく爽やかな笑い方をする。意識しないとここまで綺麗には笑えない。
 「なんでユーナといるんだ?」
 「一緒に正ちゃんに声かけようって誘ったの。実は仲良しなんだよ?」
 「嘘吐け。おまえはユーナみたいにトロい奴とは仲良くしない」
 「げぇー、ひっどぉ。妹なんでしょ? ……じゃなかった。お姉さんなんだっけ? 双子ってややこしいね、まあどっちでもいいか。なんでそんな言い方すんの?」
 「ユーナだっておまえみたいな奴とは仲良くしない。ユーナみたいなタイプはおまえみたいな奴にはいじめられると思い込むからな。というか、実際いじめるだろ?」
 「正ちゃんに言われたくないよ。いつも優奈ちゃんいじめてる癖に」
 「時々すごい冷たいけど別にいじめられてはないよ」優奈は否定する。「仲良いと思うよ。昨日も一緒にお風呂入ったし」
 空気が凍り付いた。
 信じがたいと言った表情で取り巻き達が僕を見詰める。山川が下卑た微笑みを唇に張り付かせ、御幸があからさまに顔をしかめる。飛び交う視線の台風の目で、優奈が一人だけけろりとした表情を浮かべている。
 なんたってこいつは平気でこんなことを言うんだ? 僕のような年代の男子にとって、そういうことを明かされるのがどれだけ深刻な屈辱なのか、想像することができないのだろうか?
 「は? なに、正ちゃんと優奈ちゃん、一緒にお風呂入ったりすんの? キッショぉ」
 「入らねぇよ」くすくす笑う御幸に僕は言った。「だってこいつの小便、くせぇもん」
 今度は優奈が凍り付く番だった。意味が分からないなりに僕がその言葉に込めた残酷な悪意には気付いたようで、焦った表情でおろおろとした様子で僕に訴える。
 「ちょ、ちょっと。わたし、そんな、臭くない。というか、なんでお風呂とそれが関係あるの?」
 「おまえ風呂場で小便するだろ?」僕は頬を強く捻じ曲げ、冷気を放射するような視線を優奈に向けた。
 「し、しないよ。しないもんっ」ありもしない悪口を言われた優奈はそれだけで縮み上がって指先を震えさせる。目に涙を溜め始める。
 「いいやしてるね。一度なんか勢い余ってウンコも出た。ほんっと臭くてたまんねぇんだよ。だからおまえと一緒に風呂入るとか絶対ありえねぇ。反吐が出る」
 僕が低い声でそう言い終えると、優奈はあっけなくその場で涙を流し始めた。こいつは本当にすぐに泣く。顔を赤くして、握りしめた拳を震わせながら顔の前に持って来て嗚咽するという、如何にもなことをする。今にも子供のように膝を折り畳まんばかりだ。
 「ひ、ひぅ。ひぅうう。ふぁああ。あぁああ。ふぅううぁああ……」
 「えぇ~。ちょっと、カワイソー」御幸が同情したような表情の中に、面白がるような様子を隠さずに言った。「ほらぁ、正ちゃん、優奈ちゃんのこといじめてるじゃん」
 「うるせぇな。つか、『正ちゃん』はやめろっつってんだろ?」
 「えぇなんで?」
 「そんな呼び方される程ガキじゃねぇし」
 「ガキじゃねぇって、あたし達皆小六のガキですよー。正ちゃんもまだまだ年相応だね。つか優奈ちゃんとか田辺とかには『正ちゃん』って呼ばせてるけど、それは良いの?」
 「こいつらは言っても聞かないからしゃぁねぇんだ」
 「ぼくは正ちゃんとユーナちゃんとは幼馴染だからね。幼稚園の頃から仲良しさ」そう言って田辺が僕の肩を抱いて来る。気色悪い。「君みたいに最近になって正ちゃんに付き纏い出したミーハーとは違うんだよ」
 「は? 何田辺誰に口訊いてんの? クラス別れたからって調子乗ってる?」
 そう言って御幸が田辺を睨む。御幸とその仲間の女子は去年同じクラスだった田辺を陰湿にイジメていた。田辺は学校に持ち込んだスマホでエロい動画とか自慢気に仲間に見せびらかすような性格なので、無理はないっちゃ無理はない。
 「ひーっ。怖いっ」怖がっているのは振りだけみたいな虚勢をしながら、本気で怖がって僕の後ろに回る田辺。「おまえなんてな、女子としてユーナちゃんの足元にも及ばねぇんだよ。中学高校とろくでもない男と付き合って平気で売春なんかして、将来はキャバクラか風俗に就職するんだ。おまえみたいな奴は必ずなっ」
 「優奈ちゃんみたいなタイプって、田辺みたいな生涯童貞クソ陰キャには好かれそうだよねー。ウケる」御幸はけらけら笑う。「あんたみたいな奴いくら勉強出来たって一生負け組だよ。断言する。中学に上がったら他の小学校から来た不良にメタメタにイジメられて引きこもりになってそのままニートだよ。ばーかばーか」
 「うっせぇなおまえら」僕は本気の溜息を吐く。「それで? 今日は御幸が付いて来るって?」
 「うんそう。そのつもりで優奈ちゃんに声かけた。だってあたし六年なってからの正ちゃんの行動パターンとか知らないし」
 「別に良いよ。新しい遊び場見付けたからそこ案内するよ」
 御幸とは遠慮忌憚ない会話の出来る関係だ。利発でアタマの回転が早いので話していておもしろい。優奈のようにすぐに傷付いて泣いたり、ほとんど悪意に近いような無神経な善意を押し付けて来たりもしない。簡単に言うと、気の合う奴なのだ。
 だから一緒に遊ぶにやぶさかではない。僕は御幸を仲間に加えることを仲間に納得させると、予定していた遊び場に向かおうとした。
 「……待ってよぉ」
 涙に濡れた声が後ろから聞こえた。
 「置いてかないでよぉ。ぐす、ぐす。わたしも、ぐす、連れてって……」
 優奈だった。泣きじゃくりながらめそめそと僕達の後ろを付いて歩いて来ていたのだ。背後では心配したような様子で倉科がおろおろとしている。
 「あ? なにおまえ、そんな泣かされてまで付いて来る気なの?」
 「わたしだけ置いてく気だったの? 意地悪、意地悪イジワルいじわる……。ぐす、ぐす」
 「ああもうめそめそすんな。分かったよ。どこに行って何をしてもチクらないって約束すんなら付いてって良いぞ」
 「チクんないよぅ……」
 「本当だな?」
 「うんっ……」
 「分かったよ」そう言って俺は皆を見回す。「すまんがこいつを連れて行かせてくれ」
 皆は渋々だったが納得した。めそめそ泣きながら付いて来ようとする愚鈍な女子を跳ねのけられる程、十一歳十二歳という年齢で残酷にはなり切れないのだろう。
 でも当たり前みたいに倉科が優奈にくっ付いて来るのには、何か言った方が良いのだろうか?

 〇

 僕達が暮らしている街には、ほとんど同じくらいの背の高さの廃墟ビルが二つ立ち並んでいるところがある。
 どういう経緯で廃墟になったかは知らないが、同じ系列だというそのビルは外観も良く似ている。二つのビルの隙間の薄暗く幅の狭い空間を秘密基地として使っていた僕らだったのだが、誰かが窓ガラスを割ってビルの内部に侵入することを想い付いてからは、しょっちゅう中を探検して遊んでいる。
 その日は屋上に行ってみることにしていた。四階建てのビルの屋上はなかなかの景色であり、柵の類の設けられていないその場所はなかなかのスリルがある。
 阿呆な仲間達は度胸試しと称し、どれだけ屋上の危険な端っこに近寄れるのかを競い合っていた。柵の無い屋上で転落の恐怖に立ち向かう遊び。
 「こんなところ、勝手に入って遊んだりして良いのぉ?」
 優奈が顔を青くして言った。
 「は? 自分から付いて来といてそんなこと言うなし。チクんなよ?」と御幸。「つっかさぁ、こんな風に柵のない屋上って、今のケンチクキジュンホー的にありうるの?」
 「問題ないに決まっているだろう。屋上自体を立ち入り禁止にすれば良いだけの話なんだから」と田辺。
 「は? でもその屋上にこうやって入れてる訳じゃん?」
 「だから、鍵を壊したんだよ。ぼくらがね」
 「あっぶなぁ」
 山川達の危ない遊びはいよいよエスカレートして来ていて、倉科に命じて転落寸前の端っこに立たせるという遊びをしている。
 倉科は山川達の言いなりだ。ロボットのように言われたことを言われた通りに実行している。落ちるスレスレの場所でジャンプして見せろとか片足で立てとか、普通なら恐怖に駆られてとてもできないようなことでも、本当に何でも従順に言うことを聞いていた。
 「やめてっ! ねぇリュウくんそんな言うこと聞かなくて良いからねっ!」
 見かねた優奈が声を張り上げると、倉科はびくりとした表情で屋上の端から離れた。
 「山川達の言うことでも、僕や優奈と同じように聞くんだな」と僕。
 「正ちゃんが倉科をボコにした時、僕らも一緒にいたからね。正ちゃん同様に言うとおりにしなくちゃいけない相手だと認識しているようだよ」と田辺。
 「そういうことだ」山川はけらけら笑う。「おい倉科、ズボン脱いで犬の真似をしろ」
 「くだらないことをやらせるな。汚えしつまんねぇ」
 僕はそう言って山川を制止する。
 「えぇ~。面白いじゃん。色々やらせてみようよ。例えばさあ」
 そう言ったのは御幸で、彼女はあろうことか隣のビルの屋上を指さした。
 「向こうの屋上にも柵付いてないし、高さだって一緒な訳でしょう? 助走付けて飛んだら向こうに飛び移ったりできるんじゃない? 飛ばせてみようよ」
 えげつないことを言う。優奈は信じられないとばかりに目を丸くして顔を青くした。冗談でもそんなことを口にする者がいるなどと、優奈の常識ではありえる話ではないのだ。
 「やめとけ。倉科は力は強いけど運動神経はあんまりだから、飛び越せずに落ちる可能性が高い」
 僕が言うと、山川が端に近づいて向こうのビルとの距離を測るようにじっと隙間を見詰める。それから「ううん」と唸るように言って、そしてしたり顔で頷いた。
 「じゃあ俺、ここ、飛んでみるわ」
 「は?」僕は目を丸くする。「おい、アホだろ、おまえ」
 「アホじゃねぇし。せいぜい二メートルちょいだろこんな幅。俺走り幅跳び三メートル超えてるし、ぶっちゃけ余裕」
 「やめろバカ」
 「なに、自分は飛ぶ勇気ないからって僻んでるの?」
 「おまえが死のうがどうでも良い。けど、それじゃ済まないから言ってるんだ。おまえがそこから落ちて死んだら、その場に居合わせた俺達だって警察とかから話を聞かれることになるし、親や教師にも怒られる。迷惑なんだよ」
 「センセーに怒られるのが怖いの? 正太郎、ビビりすぎたろっ」
 そう言ってけらけら笑う山川。こいつが本物のアホだってことは忘れていないつもりだが、ここまでだとは思わなかった。まともにやり合ったら敵わないからって、こんなどうでも良いことでマウントを取ろうとする。
 幼く愚かだから、自分が賭けることになる命というものにリアリティが持てないのだ。いいやそもそもこいつはどんなことに対してもリアリティなど感じながら生きてはいない。だからこそ、目先の見得や快楽の為に、他人のことも自分のことも踏みにじって平気な顔をしていられるのだ。
 「良いじゃん良いじゃん。飛べるもんなら飛んでみなよ」御幸が煽るように言う。「正ちゃんに奪われた学年のボスの座を奪い返せ山川! 男見せろ!」
 「おもしろがるなバカ」と僕。
 「本当にやめて」と優奈。
 「いいややるし。全然飛べるし俺。行くわ」そう言って山川は数歩下がって助走をつける。「それっ」
 そう言って山川は本当にビルとビルの隙間を飛び越してしまった。
 山川の走り幅跳びの記録が三メートルを超えているのは事実であり、このビルの隙間は多分二メートル程度だ。おまけにこちらのビルの方が向こうのビルよりもやや背が高く、向こうに飛び移るのには有利な条件だ。くだらない見得の為に無意味に命を危険に晒す愚劣さを持ってさえいれば、いとも簡単なことである。
 「うっわ。すっげーな山川!」下っ端の一人が歓声を上げる。「やっぱ度胸あるよな。運動神経良いし、やるよな」
 そう言って下っ端共が山川を称えて盛り上がる。山川はまるで何か意味のあることを成し遂げたかのような表情で笑っていた。その愚かしさに気付いているのは僕と優奈の他には、馬鹿を転がして面白がっている御幸くらいのものだった。
 「おう正太郎、どうよ?」山川は調子に乗ったようにこちらを見る。「おまえもやってみろよ」
 「やるかボケ」
 「は? ビビってんの? 結構臆病なんだな~、正太郎って」
 「ここでおまえの挑発に流されて無意味に危険を犯す方が余程臆病者だ。好きに言ってろよ」
 「うーん正ちゃんのそれはセーロンなんだけどねぇ」御幸が頬を捻じ曲げて僕の方を見る。「でもさぁ、正しいことを言っているかどうかってことと、周りの人間がどう思うかっていうのは、別な話なんだよねぇ」
 下っ端共が僕に向ける表情には、どこかしら落胆したような様子が浮かんでいる。こいつらにとって、ビルからビルへ飛び移らないということは、勇気なき証拠らしいのだから驚くべき愚かさだった。
 「飛ぶのは簡単だと思うけどねぇ、正ちゃんなら。とは言え猿山の大将でいることに大した意味なんてないだろうし、まあ、良いんじゃない?」
 「ごちゃごちゃ言ってるけど、結局飛ばない奴はダメだよな」安全な対岸から、まるでそこが勇敢な者にだけたどり着ける特別な場所であるかのように踏ん反り返りながら、山川はいよいよ勝った気になって僕を煽った。「まあ、こんな程度か。所詮正太郎なんて、元々は毎日泣いてた単なる弱虫なシスコンや……」
 「ああ?」
 僕はそれだけ言って冷気を孕んだ視線で山川を睨み付ける。これ以上言うようなら僕は躊躇わずにビルの隙間を飛び越えて山川のところに駆けつけるし、山川を叩きのめし血祭に上げ命を奪うつもりでビルの底へと突き落とすことを辞さない。そんな強い意思を込めた視線だった。
 本気だった。もし山川がこれ以上続けるようなら僕は心からそうするつもりでいた。だが奴にとって幸いなことに、山川は僕の表情に怯えたようにその場で口を閉ざし、視線を反らして硬直した。
 「山川ダッサ」御幸がそう言って小さく噴き出す。「正ちゃん怒らせちゃったじゃん。どうすんの?」
 沈黙する山川。重苦しい空気の中何も言えないでいる取り巻き共。様子を見ている御幸。おろおろする優奈と何も分かっていない様子の倉科。
 「くだらねぇ」
 僕は一人でそんな連中に背を向けて、その場を立ち去ろうとした。
 「ちょっと……正ちゃんどこに行くの?」と優奈。
 「帰るわ。気分が悪い」
 そう言って、僕は誰にも近寄らせないオーラを発しながら屋上の出入り口の扉を押す。僕の様子がおかしいことに気が付いた取り巻き達は、皆焦った表情を見合わせている。
 悄然とした場の空気の中、ただ一人優奈だけが「待ってよ正ちゃん」と言いながらぴょこぴょこと付いて来る。
 「正ちゃんは間違ってないと思うよ」
 激しい足音を立てて階段を降りる僕の背中に、優奈は心配げな声音でそう言った。
 「あんな酷いこと言われて一緒に遊ぶことないもん。飛ばなかったのも正しいしさ。うん、お姉ちゃんは分かる、正ちゃんは偉かった」
 愚図ののろまの癖にこいつはいつまでたっても対等以上の口を利いて来る。何度突き放されても泣かされてもウザがられてもずっとそうなのだ。
 だがしかし、今はどうしてか、そのことが心地良く感じられた。

 〇

 翌日。一時間目の算数の授業をぼんやりと聞き流していると、「ちょっと」と廊下から女教師の声がかかった。
 「山川くん、田辺くん、それに一条くんと西浦くんと佐々木くんと、あと間……間正太郎くん。廊下に出てきてください」
 隣の一組の新担任の酒井だった。倉科を投げ飛ばした責任で学校を放逐された周藤に代わり、優奈たちのクラスの担任になった比較的年配の女教師。
 名前を呼ばれたのは僕と僕の普段の遊び仲間達……というか、昨日ビルに侵入して遊んでいた面子だ。嫌な予感を覚えながら廊下に出てみると、案の定そこには泣きじゃくって下を向いている優奈とぼんやりした顔の倉科、そして不機嫌そうに眉を顰めた御幸が立っていた。
 「間さん、間優奈さんから話は聞いています。あなた達が廃墟ビルに侵入し、あまつさえビルとビルの隙間を飛び越えるなどという危険な遊びをしていたのは、本当ですか?」
 僕は優奈を睨む。多分、他の五人も同じような表情で優奈を見たことだろう。
 言い訳しても無駄だと分かったので、僕達は素直に白状して叱責を受ける。
 親からはともかくとして、教師から怒られた経験に乏しい優奈は説教の一つ一つに肩を震わせている。倉科はでくの坊のように突っ立って落ち着きのない様子を浮かべていて、説教に応えた様子もない。こいつは殴られないと何も堪えないから無理はないだろう。御幸はと言えば眉間に皺を寄せたまま自分の左腕を右手で強く握りしめ、ただ苛々とした表情で俯いて床を眺め続けていた。
 説教は授業の終わりまで続いた。チャイムが鳴り終えたところで酒井は僕の方を見た。
 「正太郎くん。君は、山川くんに挑発されても、飛ぶのを我慢したようですね」
 「我慢した訳じゃねぇよ。元々飛ぶつもりなんてなかった」僕は答える。
 「それは立派なことです。そこだけは、あなたにも勇気がありました」
 堺はそう言って僕ら全員の顔を順番に眺める。
 「後で保護者の方にも連絡を入れておきますので、そちらともしっかり話をしておくように。では、私からはおしまいとします」
 
 〇

 「マジ最悪」
 そう言って、御幸は鋭く優奈を睨み付けた。
 「ママに殺されるんだけど。あーやだやだ。つか優奈ちゃんあんたチクらないっていうから連れて来てもらってたんじゃん。自分も怒られるのになんで先生に言ったりするかな?」
 「だ、だってだって……」優奈は泣きはらした目をこすりながら必死の口調で言う。「あんな遊び続けてたらいつか死んだり大けがする人が出るかもしれないでしょう? 叱ってもらってでもやめさせるのが山川くん達の為になるって、そう思ったからわたし……」
 「だからって約束破る訳!?」
 そう言って吠える御幸の剣幕は凄まじかった。御幸はしようと思えば優奈のことなどいくらでも叩きのめすことができる。残虐な方法でハラワタを食いちぎり強力な苦痛を与えながら心を引き裂くことがいつでもできる。それを分かっているからこそ、優奈はその場で顔を真っ青にしてさらなる涙を流し卑屈に頭を垂れるのだった。
 「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい。約束破ってごめんなさい」
 優奈は嗚咽しながら身体を固くして怯えている。そんな優奈を御幸は容赦なく残酷な言葉で責め立て続ける。
 だが今回に限っては優奈の行動にも理解ができる。こいつだって大人が怒るようなことなら何だって密告する訳ではない。ビルの隙間を飛び越えるあの遊びが流行ってしまえばその内死者が出る可能性は確かにあって、そして山川達は本当にそう言った愚を犯す程度の知性しか持ち合わせていないのだ。
 だがしかし、優奈が子供社会のルールを破ったことにも違いはない。
 「本当あんた、ウザい。マジで。なんでいちいち勘に障るような真似ばっかりして周りに迷惑かけるかな? 周藤ちゃんがいなくなったのだって、あんたが倉科を甘やかして調子に乗らせたからじゃない? なんでもっと普通にできないの?」
 そう言って優奈を非難する御幸に、僕は横から口を出した。
 「こいつがムカつく奴なのは俺が一番知ってるけどさ。でも程々にしといてやってくんないかな? こいつは少なくとも、酒井にチクる時、自分を庇うような言い方はしなかった訳だろ?」
 優奈の懺悔はあくまでも『自ら悪事に加わった』と言った論調だった。やろうと思えば、優奈は『行き先を知らずに付いて行ったらビルの中だった。悪いとは思ったけど一人だけ帰ることができずに渋々一緒にいた。ビルの隙間を飛び越すことについてはずっと止めていた』と言った物言いだってできたはずなのだ。しかし優奈はそれをしなかった。それをせずに泣きながら叱責を受けていた。そういう意味で、優奈はある程度の示しを同級生達に対して着けたと、僕はそう感じている。
 「……は? 正ちゃんこんな奴庇う訳? ふうん。良いねきょーだいって、優奈ちゃんみたいな迷惑な愚図でも見捨てられずに味方してもらえるんだから」
 「こいつには俺から話しとくよ。念入りに泣かしとく。だから……」
 「良いよ正ちゃんは何もしなくて」
 そう言って、御幸は酷く嗜虐的な視線を優奈にぶつけた。
 「落とし前はあたしが付けさせるから。今日から毎日、地獄見せてやるからね」
 優奈は青白い顔をして泣き声も出せない程に震え上がった。

 〇

 「ユーナちゃん、御幸の奴にいじめられてるよ」
 掃除時間をサボって山川達と箒を振り回して遊んでいると、田辺が自分の掃除場所を抜け出してやって来た。
 「だろうな」と僕。
 「そんな他人事じゃなくってさ……」
 「いじめられてるってのは? どんなやり方? 酷い訳?」
 「ぼくの掃除場所は廊下なんだけどさ。自分の教室の前の廊下を掃除するんだけど、隣のクラスの廊下担当とは隣同士な訳。そしたらさ、なんかユーナちゃん、廊下の拭き掃除を一人で全部押し付けられてる風なんだよ」
 やりそうなことだ。優奈が約束を破って教師に悪い遊びを密告したことに、御幸は明らかに腹を立てていた。そして御幸は怒りを感じたことを我慢するようなことをしない。相手が自分より弱い人間だったなら猶更だ。怒りを晴らす為、相手を孤立させて嫌がらせを繰り返し自尊心を奪う。掃除を押し付けるくらいのいじめはするだろう。
 「女子のいじめって陰湿だからね。特に御幸みたいなのは最悪。ターゲットを一人決めたら学年が終わるまでずーっとそいつに執着していじめ続けるんだ」
 「去年のターゲットはおまえだもんな。知ってるよ」
 休み時間に本を読んでいると頭から紙吹雪を撒かれたりだとか、朝学校に行くと机の中身が全てあちこちにぶちまけられていたりだとか、そういうことを田辺は経験している。いずれの学年でも女子からは蛇蝎の如く忌み嫌われる田辺だったが、その年は特に散々でいじめを受ける時以外には誰とも目も合わせてくれなかったというのだから、御幸が行ういじめの影響力は計り知れないものがある。
 そしてこのままだと、優奈がその被害に合うかもしれないというのだ。
 「分かったよ。止めて来る」
 僕はそう言って箒を投げて、優奈と御幸のいる廊下へと向かった。
 その後ろを田辺が付いて来た。振り返ると、「ぼくも止めるの手伝うよ」と他人の手を借りに来ておいて偉そうなことを抜かす。
 「ぼくのことを一度も『キモい』と言ったことが無い女子は、学年でユーナちゃんだけだしね」
 などと言いながらポケットからメモ帳を取り出す。『この恨みはらさでおくべきかノート』と書いてある。学年中の女子の名前が書いてあって、『キモい』と言われる度に正の字で印をつけるというのを三年以上続けているというのだから、ぶっちゃけ僕でもキモいと思う。
 廊下へとたどり着く。
 床に尻餅を着いた優奈の頭上から、御幸が雑巾を絞って絞り水を浴びせかけていた。
 「おいやめろ」
 僕が制止を呼びかけると、御幸は「あ、正ちゃん?」と言ってニコニコとしながら振り返った。
 優奈は目に涙を溜めて僕の方を一瞥し、すぐに目を逸らした。姿を見られることを恥じるように身を抱いて俯いている。長い髪は絞り水でずぶ濡れになり肩までしっとりと濡れていた。
 「何てことされてんだよ」
 僕が言うと、優奈は「大丈夫だよ」と虚勢のようなことを言って、さらに「ごめん」と続けた。
 溜息が出る。
 「なんでこんな真似をしてるんだ?」
 「なんでって、こいつ雑巾の絞り方下手糞なんだもん」御幸は答える。「その所為でほら、雑巾がけした廊下がびしょびしょ。あんまり酷いもんで正しい絞り方を間近で教えてやってたんだよ」
 言いながら、御幸はぼしゃんと雑巾をバケツに放り込むと、灰色の水をたっぷりと吸った雑巾を優奈の頭上に掲げて力いっぱい絞った。垂れ流される汚水を全身に浴びながら、優奈は肩を震わせて項垂れるばかりで、抵抗する様子もない。言葉を発する気力さえ既に奪われている様子だった。
 僕は美幸の手から雑巾を叩き落とした。
 「は? 痛いんだけど正ちゃん。やめてくれる?」
 「やめるのはそっちだ。よくもまあそんな漫画の悪役みたいな真似ができるよな。みっともないと思わねぇの?」
 「ここ漫画じゃなくて現実だし。現実じゃ悪役の方が得だし楽しいよね? 他を選べなくて泥棒や詐欺をやってるようなテーヘンならともかく、本物の悪党は絶対に報いなんて受けないしね。弱い奴からサクシュし続けることができる。そんでこいつみたいな何もできない愚図は、死ぬまで踏み付けにされる人生なんだよ」
 くすくすと、御幸は嘲るような表情で、怯えて縮こまる優奈を見下ろした。
 「正ちゃんがそう見えて義理と人情に厚いのをあたしはとっても良く分かってる。でもいくらお姉ちゃんだからって、こんな奴無限に助けてやる必要なんてないじゃない? 見捨てた方が正ちゃんの為になるよ」
 そう言って、御幸は僕の方を向き直って、肩を掴んで無邪気な笑みを浮かべた。
 「優奈ちゃんにお似合いなのは倉科みたいなガ●ジじゃん? あんな奴の面倒を進んで見るだなんて、絶対アタマおかしいじゃんさぁ」
 「だがそれは新時代の理に合致している」
 妙なタイミングで、田辺が口を挟んだ。
 「今の時代は昔と違い、倉科のような者を見捨てることができなくなった。だから、嫌でも皆で守って行かなくちゃいけない。それを率先している優奈ちゃんは立派だよ」
 「キモいんだよ田辺。そんなウェットなホーガンビーキは平成まででしょ。令和はきっと個人主義と自己防衛のドライな時代だよ。普通の人は倉科みたいなキ●ガイに関わろうともしないはず。障碍者も老人も、全部優奈ちゃんみたいな逆らえないテーヘンに押し付けておけば良いじゃない。今ってそういう時代でしょう?」
 御幸はどうやら本気で言っているらしかった。優奈をバカにするために無茶苦茶を言っているのではなく、本人なりに明らかな理屈を口にしているように思われた。そしてそれは、一面的には的を射ているようでもあった。
 「自分の身を守る力を持っている人は、倉科みたいなキ●ガイには関わらずに済むんだよ。そしてデキる人同士豊かに楽しく暮らすんだ。正ちゃんは、そんな奴と違って、あたしのいるこっち側でしょ? だからさ……」
 戯言を抜かす御幸の頭上から、僕は灰色の水の入ったバケツを丸ごとひっくり返してやった。
 周囲が息を呑みこむ。水の跳ねる音があちこちに響く。
 バケツ一杯分の水たまりの中央で、御幸は表情を凍り付かせて立ち尽くしていた。鮮やかな栗色の髪は灰色の水で醜く汚れていて、ぴちゃぴちゃと音を立てながら滴が床に落ちている。ずぶ濡れの服が肌に張り付いて、下着の色さえ浮かび上がった。
 「ピンクなんだな」僕の影に隠れて田辺はせせら笑った。「君みたいな奴は絶対黒だと思ってた」
 「うるせぇよ!」御幸は人を殺せそうな目をして激しく怒鳴り散らす。「ちょっと正ちゃん何でそんなことすんの?」
 「別に? おまえバケツの水の捨て方下手だから、どうやるのかを間近で見せてやっただけだよ」
 相手が女子だからと言って容赦をするつもりはなかった。僕は相手が誰であってもやるべきと感じたらどんなにむごい仕打ちでもする。一切の躊躇はない。今後、この女が優奈を攻撃し続けるのならば、こちらは如何なる手段を用いてでも報復する。そういうことを示す意図があった。
 御幸は最初戸惑った表情で僕を見詰めていたが、ちらりと優奈を一瞥すると、小さく溜息を吐いてぼくから離れた。
 「残念」御幸は肩を竦めて気だるそうな表情を浮かべる。「あたしの中で一つの時代が終わりを迎えました。本当に本当に、下らなくてどうしようもない時代でした。壊れるのは一瞬で、もう二度と取り返しがつきそうもありません」
 「そうかよ」
 僕はバケツを御幸の頭に向けて投げつける。
 ばこんと鈍い音がして、バケツは御幸の頭に当たって床を転がった。
 「……正ちゃん」優奈が立ち上がって心配げに僕に縋りつく。「やりすぎだよ。わたし、本当に大丈夫だから……」
 「人を舐めるのも良い加減にした方が良いよ」御幸は言う。「覚えてな」
 そして御幸は僕に背を向けてその場を立ち去って行った。

 〇

 それから数日が立った。
 その時以来、少なくとも真正面からは御幸は優奈をいじめなくなっていた。しかし陰湿な悪意がなくなった訳ではないようで、こそこそと聞こえよがしに陰口を言うくらいの嫌がらせは続いていた。そのくらいならと気丈に耐えている優奈ではあったが、また腹を壊すようになって来たので、何か考えてやらねばならないのも事実だった。
 考えを巡らせながら、僕が重い足取りで一人学校から帰宅している時だった。
 「おまえが間正太郎?」
 そう言って、僕の顔を覗き込む男子中学生の姿があった。
 「そうだけど。なぁにセンパイ?」
 坊主頭で額に大きな傷のあるそいつは、良く見ると端正な顔立ちをしていた。瞳には猛禽のような鋭い目力があり、やせ形の長身と色白の肌を持っていて、しなやかな筋肉は全身を針金細工のように見せていた。並の大人を上回る体格。おそらく二年生か三年生。そしてそいつは僕の名前を確認するや否や一切の躊躇なしに僕の腹へと自分の膝を叩き込んで来た。
 思わず蹲る。
 中学生は蹲った僕の顔面に今度はつま先を叩きこもうとして来る。僕はやむを得ず体をひねって威力を殺しながらそれを食らう。そのままごろごろと地面を転がって土塗れになりながらどうにか立ち上がる。中学生は顔色を一つも変えずに踏み込んでその細長い腕を真っ直ぐ伸ばして僕を殴ろうとする。
 その拳を紙一重で躱し、僕は相手の懐に踏み込んでその尖った顎へと全力で自分の頭蓋を叩きこむ。頭突きをするにはちょうど良い身長差だったのだ。脳みそを揺さぶられて手足をふらつかせたそいつの身体に、仕返しの膝蹴りを僕は見舞った。
 鉄板を蹴ったような手ごたえがあった。
 中学生の腹筋は今まで僕が相手をした誰よりも鍛えられていた。中学生は僅かにダメージを受けたように身体を後退させながらも、ふらつきながら反撃の蹴りを僕に見舞う。
 もろに食らう。
 僕は再び地面を転がり土塗れになった。中学生はようやく脳震盪から脱したのか首を軽く二回振って鋭い双眸で僕を睨み付ける。僕は何とかその場を立ち上がろうとしたが、体勢を立て直す前に中学生の飛び蹴りが僕の胸元へと完全にヒットした。
 それで決着だった。飛び蹴りを食らって立ち上がれなくなった僕の全身に、中学生は二度三度と靴底をお見舞いする。僕はひたすら身を捩って可能な限りダメージを殺すことを試みるしかない。
 「なんなんだよ、センパイ」僕は息も絶え絶えに言う。「俺はあんたに覚えがねぇぞ」
 「おれも合うのは初めてだよ」中学生は鼻を鳴らした。「けど初対面で直接何かあった訳じゃないからって、殴られる心配がないっていうのはおかしいでしょ。そういうの傲慢っていうんだよ」
 「納得がいかない訳じゃないよ。ただ自分が殴られる理由くらい知っておきたい」
 「渚にバケツの水ひっくり返したんだって?」
 「渚って、御幸渚? 俺の同級生の」
 「そうだけど」
 「あんた御幸の何?」
 「カレシ」
 「いつから?」
 「昨日だけど」
 あーなるほどそういうことね。
 つまりこの中学生は御幸にけしかけられたのだ。御幸は自分を侮辱されるようなことがあるとどんな方法を使っても報復して来る。何かあることは予想は出来たし、正面から迎え撃つことを覚悟していたが、まさか中学生を使って来るとは思わなかった。
 「なんかないの?」中学生は言いながら僕の頭を踏みしめる。「ごめんなさいは?」
 「誰が言うかよ」
 「あそう? じゃあ裸にして小学校の前に放り出そうか?」
 「良いけど俺のちんちん見たらびびるよ。現時点で絶対あんたよりでかいと思う」
 虚勢だった。しかし虚勢としては上手く行ったようで、中学生は目と口元を丸くして口笛など吹いて見せた。
 「ははは見てみたいね。つか小学生でそんなこと言う? 普通? でも君、その威勢なら服脱がそうとしても絶対暴れるだろうし、裸にするのは手間だろうな。しょうがない」
 そう言って、中学生はその場で肩を竦める。
 「いくら渚の頼みっつったって、弱い者いじめは楽しくない。この辺で勘弁しといてやるよ。じゃあな」
 中学生は手をぴらぴらと振ってその場を離れて行った。
 僕はその場をしばらく伸びていた。
 中学生の馬力はこれまで戦ったどの相手よりも抜きんでていて、立ち上がろうと力を入れても身体が言うことを聞かなかった。ずきずきと身体のあちこちが痛み、叩きのめされたことによる敗北感が引きちぎれそうな苦悩を僕に齎していた。
 「正ちゃん」
 声がした。
 細く柔っこい腕に抱き起される。おそらくは僕にとって誰の物よりも身近だろう顔が、今にも泣き出しそうな様子で心配そうにこちらを覗き込んでいた。
 「なんでおまえが……」
 「御幸さんに言われたの。『面白いものが捨ててあるから拾って帰ってあげて』って……」優奈はそう言って僕の身体に絡めた腕に力を籠める。「……全身痣だらけじゃない。どうしてこんなことになってるの?」
 「おまえは関係ない」
 「そんな訳ないじゃないっ」
 「うるせぇな」
 そう言って僕は優奈のことを払いのける。
 優奈は尻餅を着きながら、やりきれなさそうな表情で僕を見詰めている。それがまた僕をいらだたせ、情けない気持ちにさせた。
 「大丈夫? 大人の人呼んで来ようか? 病院に行った方が良いよ。じっとしてて」
 「良いからさ……」僕はほとんど泣きそうな気持ちだった。「放っておいてくれ……」
 そう言って顔を伏せた僕を見ながら、優奈は胸を貫かれたような表情を浮かべている。優奈のこの顔を僕は良く知っている。数年前まで僕はしょっちゅう優奈にこの顔をさせていたのだ。弟の痛みに傷付き、自らの無力に打ちひしがれる姉の顔。
 「……さない」優奈は呟くように言う。「さない許さない許さない許さない」
 顔を赤くして眉間に皺をよせ、ぶつぶつと呟くよう言いながら、優奈は激しい感情を虚空に向かって注ぎ続けていた。

 〇

 その翌日。
 御幸が倉科に襲われ、裸で路上に放り捨てられた。
 ここ最近もっぱら御幸と一緒に行動をしている、友人のような子分のような女子の話を聞くと、以下のような経緯になるらしい。
 そいつはいつものように御幸と二人で小学校へ向けて歩いていた。晴れの予報に反して空は曇天で今にも雨が滲みだしそうな塩梅だった為、御幸は黄色いビニール傘を手に持っていた。急ごしらえのカレシにムカつく奴を襲わせたとかでその日の御幸は上機嫌であり、そんな自慢話にそいつはいつものように媚びた表情で聞き役に回っていた。
 そこで倉科が現れる。
 倉科は明らかに何かを探している様子であたりをきょろきょろと落ち着きなく眺めていた。そして御幸の姿を確認すると、『あぁあーっ!』と舌ったらずな声で叫んで指をさした。そしてどたどたと不格好な走り方で御幸ににじり寄って来た。
 『ちょっと倉科なんでこっちくんの。キモいんだよ』
 御幸はそう言って傘を突き出して倉科を追い払おうとしたが、倉科の強靭な肉体は少女が振り回す傘などではびくともしなかった。倉科の大きな手があっけなく御幸の細腕を掴む。御幸が悲鳴をあげる間もなく、倉科はその手から傘を奪い取り、御幸の頭上へと力いっぱい振り下ろしていた。
 その一撃であっけなく傘は圧し折れ、その衝撃で御幸はその場に膝を付いた。そして抵抗する力を失った御幸を押し倒し、倉科はかつて優奈にしたように服を脱がそうとまくり上げ始めた。
 御幸と一緒にいたその女生徒は悲鳴をあげ、その場を逃げ出した。
 とりあえず小学校へとたどり着き、安全を確保して息を荒げていると、近くにいる教師が何ごとかと声をかけて来た。ここでようやくそいつは御幸を助けねばならないことを思い出す。教師に事情を説明し、御幸のいるところに案内すると、既に倉科はいなかった。
 上半身を裸にされ、アタマから血を流しながら路上に横たわる御幸の姿だけが残されていた。

 〇

 どうして倉科がそんな凶行に及んだのか。本人に話を聞くことは適わなかった。何故なら、その後倉科はどういう経緯でか近所のビルの廃墟へと向かい、その屋上から身を投げて、意識不明の重体になっていたからだ。
 いつか僕達グループが忍び込んで遊んだ二つのビルの隙間で、倉科は骨を何本か折りながら横たわっているところを発見され、救急車で病院へと搬送された。意識が戻らないどころか、命が助かるのかも不明の状態だった。
 その話を僕達は臨時の全校集会で知らされた。倉科がどういう事情を抱えた生徒であるのかを教頭は一通り説明し、一連の行動には何かしらの訳があるはずだと推測を語り、何か知っている者がいたら些細なことでも良いから報告するようにと話は締めくくられた。
 あれから御幸は病院に運ばれて、呆然自失の状態にあるらしい。倉科に裸にされたという情報は六年生のほとんどに知れ渡っていて、もう一度彼女がこの小学校に登校して来られるかは微妙なところでもあった。
 倉科が昏睡状態で御幸が学校に来ることができないまま、数日が過ぎた。
 「なあ正太郎。どう思う?」
 ある日の帰りがけ、そう言って山川が僕に話しかけて来た。
 「どう思うって?」
 「しらばっくれんなよ。これを倉科が自分からやったんじゃないのなら、こんなことを倉科に命令できて、しかもそれをする動機のありそうな奴なんて……」
 「これ以上言うな」僕はそう言って山川を黙らせた。
 その日は真っ直ぐ家に帰る気にならず、僕はぼんやりとあたりを歩きながら考え事をしていた。
 もしも御幸が倉科に襲われなければ、優奈はいったいどうなっていただろう? 
 カレシだというあの男の暴力を背景にする御幸から、僕は本当に優奈を守り続けることができただろうか?
 そんなことを考えながら、一時間程、ただふらふらとしていた時だった。
 「正ちゃん」
 近所の病院の前を通る時、折りたたみ傘を手にした優奈が僕に声をかけて来た。ランドセルは背負ったままで、学校の帰りがけにこの病院にやって来たのだということが見て取れた。
 「……優奈。どうしたんだ?」
 「リュウくんのお兄ちゃんから、いつでも良いからお見舞いに来てくれって言われてたの」
 そういやこいつ倉科の兄ちゃんと知り合いだって言ってたな。どんな奴かは知らないが、しかし倉科の身内がこいつに感謝し、交流を持とうとするのはあまりにも自然な話だった。
 「その見舞いの帰りか」
 「うん。リュウくん、全身に管がささっててね。全身ギプスだらけでずっと寝てて……可哀そうだった。どうしてこんなことになったのかな?」
 そういう優奈の顔色には、庇護対象である倉科に対する強い同情心しか感じられない。
 僕は尋ねる。
 「どうする? このまま一緒に帰るか?」
 「……うん」
 僕達は並んで帰路に着いた。雲は湿った闇の色を増していつ雨を降らせてもおかしくないような様子を見せていて、季節が梅雨に差し掛かっていることを僕に思い出させた。倉科がやって来たのは四月だったから、もう一か月以上、奴が僕達の日常に絡んでいたことになる。
 優奈は倉科に優しかった。優奈だけが倉科に優しかったと言って良い。
 そんな優奈の頼みであれば、倉科はおそらく例えどんな無茶な要求でも聞いただろう。そもそも奴は、僕達のリンチによって僕や優奈の言うことはなんでも聞くように叩き込んでいたはずだ。窘められても怒鳴られても言うことを効かない奴だったが、暴力によって作られた序列に対しては偏執的に従順だった。
 だからそれこそ、人を殺すくらいのことは、言われればおそらく、やる。
 「ねえあれ」
 唐突に、優奈は僕の袖を引いて言った。
 「なんだよ」
 「だから、あれ」
 そう言って優奈が指差す先には例の廃墟ビルの姿があった。ほとんど同じ、しかし僅かな高さの差がある二つのビルが、双子のようにいつ見ても間近で並びあっている。
 その屋上に、何やら小さな人影があった。良く目を凝らしてみると、白皙の美少年とも言えるような華奢な男子が、ランドセルを背負ったままじっとその場で座り込んでいる。
 田辺だ。
 「……どうして、あんなところに」
 優奈は首を傾げる。
 僕は言う。
 「おまえちょっとここで待ってろ」
 「え? なんで」
 「良いから」
 そして優奈が何か言う前に、僕は未だ割れっぱなしのビルの窓から中に侵入し、音を立てて階段を駆け上がって行った。

 〇

 「田辺」と僕。
 「正ちゃん」と田辺。
 僕は田辺にどうしてそこにいるのかを尋ねることはしなかった。田辺もどうして僕がここに来たのかを尋ねることはできなかった。何故なら奴が何か言う前に、僕は田辺に近づいて肩を抱き、こんなことを言っていたからだった。
 「なあ田辺。俺達、一番の大親友だよな」
 田辺は目を丸くして、訝るように僕の表情を見詰める。その視線はクラスの男子の内の誰よりも無遠慮で、媚びも恐れもない自然体のものだった。
 「少なくとも、ぼくはそう思っていた。正ちゃんが未だにそう言ってくれるなら嬉しいよ」
 そう言って田辺は本当に嬉しそうに笑う。
 「正ちゃんも、元々はぼくと同じようなタイプだったしね」
 そうなのだ。
 こいつは筋金入りのいじめられっ子タイプ。気が弱い癖に余計なことを言い、空気が読めず上手く立ち回ることができないという人間。かつての僕もそうであり、それが故にいつもクラスメイト達からいじめられ、その度に決まって優奈のところに逃げ込んでいた。
 優奈はいつだって優しく僕を慰め、時には守ろうとしてくれた。僕が昔のようで無くなってからも、あいつが妙に姉ぶったところがあるのは、かつて双子の弟を懸命に庇護していた時代の記憶があるからかもしれない。
 「そうだったな。それで、立場の近いおまえといつもつるんでいたんだ。俺らをいじめて来る奴らの中には、確か山川もいたな」
 やがていつまでもやられっぱなしではいられなくなり、悔しさを爆発させてみたのが四年生の時。その時僕は初めて自分が喧嘩に強いことに気が付いた。無事に報復を遂げて、今の地位を手に入れたのだ。
 「さてと」俺は田辺の目をしっかりと見つめる。「そんな苦楽を共にした大親友の俺に、正直に話して欲しいことがあるんだ」
 「え?」田辺はあからさまに目を伏せる。「なんのこと?」
 「ああ。それなんだが……」
 僕はそれからたっぷりと間を作って、深刻な打ち明け話をするかのように、言った。
 「倉科が目を覚ました」
 田辺は信じがたいとばかりの表情で顔を上げ、僕の方へと縋るような視線を向けた。
 「え、う、嘘? 嘘だよね」
 「本当だよ。というか、四階建ての屋上から落ちたくらいじゃ普通は死なない。確実に殺そうと思ったら十二階の高さが必要だ。それを知らないなんておまえらしくもなかったが……しかし、このままだとユーナが倉科から事件の真相を聞きだすのは時間の問題だ」
 「なんで正ちゃんがそれを知ってるんだ?」
 「家に電話が来たんだ。ユーナは倉科の家族とも仲が良い。目を覚ましたから、その内見舞いに来てくれだとさ。倉科はユーナの言うことなら何でも聞くだろう。言えと言われればどんな口止めをされていることだって白状する。だがな……」
 僕はそう言って、田辺の耳元で囁くように言った。
 「おまえが心配することはない。倉科がもっとも恐れているのは俺だ。俺が脅せば倉科はユーナに対しても黙秘を貫く。例え……」
 田辺が息を呑む音が聞こえる。
 僕は続けた。「例え、おまえが倉科に御幸をレイプするように命じて、口封じの為にここから落下させて殺そうとしたのだとしても、奴はそのことを誰にも言わないさ」
 田辺はしばらく何も返事をしなかった。曇天の空の下、沈黙の世界で、僕と田辺は見つめ合う。
 しばらくすると、田辺は、頬が裂けるような、そんな奸悪な笑みを浮かべた。
 「うふ。うふふっ。うふふふふふっ」
 田辺は笑い続ける。おかしくてたまらないというように。
 「いやぁ。それは本当かい。助かるよ。でも、当然と言うべきかな。何せ正ちゃんはぼくの大親友で、ユーナちゃんの弟だ。ぼくがユーナちゃんの為にやったことで、ぼくを庇うのは当然のことだ」
 「うん? それは、どういうことなんだ?」
 「どういうことって? 分かるだろう? つまりだね、御幸のようなクズにこれ以上ユーナちゃんをいじめさせる訳にはいかないということなんだ。あいつのいじめは陰湿だからね。だから、倉科を使ってぶちのめしてやろうと思ったまでだよ」
 「それは……おまえ自身の復讐も、兼ねていたんじゃないか?」
 はっきり言って『キモい』キャラクターの田辺は女子に嫌われていて、それが故に御幸に五年生の一年間いじめられて過ごした過去がある。田辺も田辺で口が達者なので言葉で反撃をしていたようだが、それがまた対立を深めていたということらしい。
 「それもあるね。倉科は正ちゃんやユーナちゃんだけじゃなく、リンチに加わったぼくらの言うことも従順に聞く。前にこのビルに連れて来た時も、屋上の隅で片足立ちやジャンプを命令通りにやっていたしね」
 「その通りだ。倉科は暴力で服従した相手の言うことなら、どんな無茶でも従順に聞く」
 「御幸をレイプするように命令したんだ。レイプの意味が分からなかったので、とりあえずぶちのめして服を脱がすようにだけ言った。まあ御幸をビビらせるには十分だと思った。でもそんなことをしたのがバレたらぼくが危ない。だから、御幸をぶちのめした後は、このビルにやって来るように言ったんだ」
 「それで……どうやって飛び降りさせたんだ?」
 「ビルとビルの境目を飛び越えるところを見せて欲しいと頼んだ。ぼくは下から見てるからって言ってね。何度か飛ばせれば一度くらい脚を踏み外すと思ったんだが、結果は大成功。二つのビルは高さが微妙に違うから、こっちから向こうとその逆とでは、難易度が倍くらい違うんだ。だから……向こうからこっちに飛ぶ時に、あっけなくビルの底に落ちた」
 そう言って、田辺は僕の方を見て、誇るような表情をして見せた。
 「上手く行って本当に気持ちが良かった。事件の調査もひと段落したことになったのか、警察ももうこの屋上に出入りしていないから、この場所でその時の快感を思い出しに来ていたんだ。でもすごいと思うだろ? 完全犯罪って奴だ。なあ?」
 「そうだな」
 言って、僕は田辺の胸倉を掴んだ。
 「完全犯罪だ。今ここで、僕のカマかけにさえひっかからなければ」
 僕は田辺の胸倉を掴んだまま、屋上から力一杯突き落とそうとその華奢な身体を押しのけた。
 「……は?」
 唐突に突き飛ばされて、ふらふらと田辺は屋上から脚を踏み外す。絶叫を上げながら宙に浮いた田辺は、なんとか伸ばした手で屋上の淵を掴み取った。辛うじて屋上にぶら下がる。そして信じられないと言った表情で僕を見上げる。
 「倉科が目を覚ましたっていうのは嘘だ。どうせおまえの差し金だろうと思ってひっかけたんだよ」
 御幸を叩きのめす動機がありそうなのは、もし仮に優奈を入れたとしても他にこの田辺くらいだ。そして優奈はいうことを聞かせられる弱者を踏みにじって利用するような真似はしない。ならば糸を引いたのは田辺しかいない。
 「なんでだよ!」屋上の淵にぶら下がりながら田辺は叫ぶ。「なんでこんなことするんだ? ぼくは何ら間違ったことをしちゃいないのに!」
 「どう間違っていないっていうんだ?」
 「倉科なんてのは社会のお荷物だ。御幸なんてのは社会のダニだ。お荷物を有効活用してダニを駆除してやった。そしてユーナちゃんのような優しく世の中に必要とされる人間を守ったんだ! ぼくは正しいことを……良いことをしたんだ!」
 「確かに倉科はハンディを抱えた人間だ。普通の人間にできることが奴にはできない。それで人に迷惑をかけることもある。誰かを壊れる程追い込んだり、大切な物を奪ってしまったりすることもある。だがな……」
 僕はその場を屈み、屋上の淵を握りしめる倉科の指を手で掴んだ。
 「おまえがくだらない自分勝手で利用して殺して良い訳じゃないんだよ」
 「ふざけるなぁあああ!」
 田辺は絶叫した。
 「こんなことして何になる? おまえもただじゃ済まないぞ! 四階から落ちた如きじゃ死なないってんなら、おまえに突き落とされたって証言してやる!」
 「好きにしろよ。隠し立てする気があるならこんな方法は取らない。おまえがどうなったとしても、俺はそれを一生背負っていくつもりだよ。その覚悟はしてる」
 「どうしてそこまでするんだ? 倉科のような奴の為に?」
 「他におまえを裁く方法がないからだよ。例え倉科が死んだとしても十二歳のおまえを罪には問えない。それがこの国のこの時代の……おまえの言う『新時代の理』だ。だがおまえは確かな意思でくだらない策を練り、倉科のような弱者を利用して踏みにじって殺そうとした。それは看過されるべきではない。少なくとも、俺の思う倫理では」
 僕は本気の殺意を込めた視線で田辺を射抜く。田辺は絶望を表情に浮かべる。
 「だから俺が倉科と同じ目におまえを合わせてやる。死ぬんなら死ね。地獄へ行くなら道連れになってやる」
 僕は本気で倉科を屋上から叩き落すつもりで、淵を掴んだその指を一本ずつ捻り上げようとした。
 その時だった。
 「やめてっ!」
 背後から優奈の声がした。様子を見ておかしいと気付いて建物を駆け上がってこの屋上まで来たらしい。息を切らし、顔を真っ赤にし、目に涙を溜めながら僕の方を必死の形相で見詰めていた。
 「何をしているの?」
 「ユーナ」僕は振り返る。「話は聞いてたか? こいつは倉科を利用して御幸を襲わせ、この屋上から落下させて口封じをしようとした。倉科は目を覚まさない。このまま死ぬかもしれない。だから、その責任を取らせてるところなんだ。おまえは黙って見ていろ」
 「あなたは間違っている!」ユーナは泣き叫ぶ。「罪を裁く為に罪を犯して良いだなんて理屈はどう考えても狂っている! あなたは傲慢だ!」
 「だが他にどうしろっていうんだ?」
 「きちんと真実を明らかにして、その人に償いをさせる。その人は殺されちゃいけないし、あなたの手は汚れちゃいけない。反省もなく突き落として殺したら、その人もあなたも地獄に落ちるだけ」
 「ここで俺が突き落とさなかったら、こいつは一生償いなんてしない。今のくだらない人間のまま、勝手な理屈で自分より弱い奴を踏みにじり続ける。それじゃ倉科は浮かばれない。ちゃんと真実を見ろ。おまえは自分が可愛いだけの臆病な偽善者だ。綺麗ごとを言って自分の心を守りたいだけなんだろ。違うか?」
 「違う! わたしは偽善者なんかじゃない!」驚くべきことに、優奈はそうはっきりと僕の言うことを否定した。「わたしは理想を掲げていたいんだ。どんなに難しくても不可能でも、理想を理解してそこを目指していなければ、世の中は舵を失って本当にむごい時代に迷い込む。そして差別や戦争や格差が産まれるんだ。そうでしょう?」
 そう言って優奈は田辺の方に駆け寄った。立ちはだかる僕に向けて、これまでに見たことが無い程強い意思を込めた言葉で訴えかける。
 「あなたの言う真実っていうのは、狭い視野でその場しのぎを繰り返すだけで、冷酷な弾圧と真っ黒な憎しみしか産んでいない。倉科くんを皆で叩きのめしたことも、その人を突き落とそうとしていることも、あなたは何もかも間違っている。……そこをどいて!」
 僕は驚いた。優奈の言葉と意思が確かに僕のそれを凌駕していると感じたからだ。身体が硬直し、立ちはだかる意思を萎えさせ、自然と退けられてしまう。
 優奈は僕を押しのけた。そして屋上の淵にぶら下がっている田辺に向けて、迷わずに手を差し伸べる。
 「あなたの行いを軽蔑します」鋭い声でそう言って、それから優奈はふっと表情を和らげた。「でも大丈夫。きっと償える日が来るよ」
 田辺は差し伸べられた手を掴み、優奈によって引き上げられる。僕はその場でただ座り込んでその様子を眺めていた。
 引き上げられた田辺は呆然とした表情を浮かべている。命が助かったという実感が持てないらしい。
 僕は真実田辺を突き落とすつもりだった。一時の感情なんかじゃない。他人を一人突き落として殺したら一生涯その禊は付いて回ると知った上で、全てを覚悟して後悔しないつもりで、僕は田辺を突き落として殺そうと思っていたのだ。
 それが正しいことだと思った。人を踏みにじった者には報いを受けさせなければならないと思った。倉科の敵を討つべきだと思った。けれど優奈はそんな僕を否定した。
 優奈は僕の目の前にやって来て、じっと僕の顔を覗き込む。
 涙に濡れた大きな瞳の色は、僕の知る他の誰の者よりも澄み切って深い。強く濃密な、しかし純粋な感情をしなやかに宿し続け、決して折れることがないというそんな心がその瞳の奥にあることを、僕は知っていた。
 「……ユーナ」
 「ごめんね正ちゃん」
 優奈は僕の頬を力いっぱい平手で叩く。
 パンと小気味の良い音がする。 
 僕が唖然としていると、優奈は唐突に身体に抱き着いて来た。柔らかい感触。興奮した熱い体温と息遣い。抱きしめる両腕の力は強く、音と感触の二つから優奈が嗚咽を漏らしているのが間近に伝わって来た。
 こいつに殴られたのなんて幼稚園児代にまで遡らなければ記憶にない。その上、殴っておいて抱きしめて来てしかも泣き出すだなんて、あまりにも訳が分からなかった。
 だがしかし訳が分からないなりに、僕はこいつに殴り返すような気にはならなかった。結構強く殴られたらしく頬はピリピリと痛み続けている。きっとこの痛みは甘んじて受けるべきもので、この痛みはずっと覚えていなければならない。そんな風に僕は感じていた。

 〇

 優奈に説得された田辺は己の両親に自らの過ちを打ち明けた。
 改心したと言う程立派なものでないのは明らかだったが、しかし一度僕に白状してしまった以上、奴にはもうそれ以外に取れる選択肢がないことも確かだった。優奈がしてやったのは、ただ自ら罪を認めるだけの勇気を田辺に持たせてやっただけのことである。とは言え同じことができるのが優奈一人であることもまた事実ではあった。
 田辺は倉科の家族に深い謝罪をし、償いをすることを約束した。十二歳という年齢故に刑事罰を受けることこそないが、道義的な意味での禊はこれからも続いて行くのだろう。
 僕は僕であの屋上で起きたことを色んな人から叱責された。人を一人突き落とそうとしたのだからやむを得ない話ではあった。
 そんなある日、僕は倉科を見舞う為に病院を訪れていた。
 見舞いの品を家に忘れたと、優奈が病院の電話ボックスから家に掛けて来たのだ。倉科の容態について責任の一端がないとは言えないこともあり、一度くらいは見舞いに行っておこうと思っていた僕は、優奈の忘れ物である果物の入ったカゴを抱えた間抜けな格好で病院の廊下を歩いていた。
 だが倉科の病室の扉の前まで来たところで、いつか僕のことをボコボコにした中学生が、あろうことか病室の中から姿を現した。
 「は? ちょっと」僕は戸惑う。「なんであんたが倉科の病室から出て来るんだ?」
 「なんでって。何がおかしいんだよ」中学生は僕の言葉に面食らうように言う。「おれは竜聖の兄貴だぞ?」
 はあ?
 竜馬と名乗った倉科兄はどういう訳か頬に大きな赤い手の平の痕を付けていた。病室で優奈と会った時、僕をボコボコにした時の話をしたところ、感情的になった優奈が唐突にビンタをぶちかましたらしい。
 「いやさぁ。おれって今日まで優奈ちゃんの苗字って知らなかったんだよね。で、今日なんとなし聞いてみたら『間』って言うもんだから。ああ正太郎くんと関係あるのかなって思って、ボコした時の話したんだ。そしたら……」
 「ビンタされたのか。やり返さなかったのかよ?」
 「いや無理っしょ。優奈ちゃんなんて殴れないよ。優奈ちゃんだって一発ビンタしたらすぐ冷静になってぺこぺこ謝って来たし」
 情けない時はとことん情けない優奈だが、しかしその芯はそれなりに強いのだ。周りにどれだけ見放されても一人で倉科に優しくし続けたような頑固さを持っている。時には年上の男の頬を張るくらいのことはする。
 「良い子だよねあの子、竜聖に優しいなんてそれだけでもう天使確定だし」
 「倉科は……あんたの弟は僕のことあんたに話したりしてたの?」
 「いやぁそもそも竜聖と話とか通じんし。あのクリーチャーがせめていじめられたりしないように筋トレで鍛えてやるくらいかな、コミュニケーションと呼べるのは」
 「そうかよ」
 「うん。ああでも、正太郎くんが竜聖ボコしたっていうのは、後で人づてに聞いた」そう言って、倉科兄は頬を捻じ曲げて笑う。「まあでもその件についてはもう良いよ。あいつが迷惑な奴なのは分かるし、ボコした以上のことはしてないみたいだし。何より、正太郎のこと一回ボコしちまってるからな。だから正太郎もおれのこともう許せ」
 「分かったよ」僕は言って、倉科兄の頬の赤い手の平の痕を指さした。「そいつに免じて溜飲を下げといてやるよ」
 そもそもこれはある意味では因果応報と言えることなのだ。どんな理由があったのだとしても、誰かを取り囲んでリンチするなどという行為には報いはある。被害者である倉科の兄から降りそそぐ拳なら、理由は何であれ受け入れられるとそう感じられた。
 そして倉科兄は「次は渚のところに行く」と言って僕に背を向ける。
 僕は問う。「御幸はあんたが倉科の兄貴だってこと知ってんの?」
 「知らねぇんじゃないかな? ショック受けるだろうし話してない。親の離婚で苗字変わってるから、言わなきゃ気付かないと思う」
 御幸が受けた心の傷はそれなりに深いものらしく、未だに学校には出られていない。療養の為、遠くの田舎へと一時的に身を寄せるという話も出ているらしい。あいつのしぶとさを考えれば、いつかひょっこり戻って来るかもしれない。
 倉科兄は病院から立ち去った。
 僕は僕の目的を果たさねばならない。
 扉を開け、倉科の病室に入る。
 「正ちゃん」
 優奈がいた。たくさんの管に繋がれギプスをあちこちに嵌められた倉科に、馴れた様子で寄り添っている。
 「ごめんねわたしがお家に忘れたばっかりに」
 「良いさ。一度くらいは見舞いに着とこうと思っていたところだ」
 僕は見舞いの品を棚に置く。
 「まだ目が覚めないのか」
 「うん。……お医者さんも、いつ目が覚めるのか、そもそも目が覚めるのか、分からないって言うんだって」
 「ふうん」
 「……何が良くなかったのかな」
 そう言って、優奈は暗い顔で目を伏せた。
 「わたしね、多分、リュウくんの『可哀そうな障碍者』っていうレッテルだけを見て、その奥にあるリュウくん自身を見通せてなかったんだと思う。だから、わたし自身報いを受けたし、それで正ちゃんに心配をかけて、酷いこともさせてしまった」
 「俺のやり方だって間違っていた。力でねじ伏せてでも言うことを聞かせるしかないって思い込んで、平気で倉科のことをボコボコにした。安直で守るべき一線を越えていたんだ。ちゃんと向き合おうとせずただただ暴力で従順にさせた結果がアレだ」
 優奈の目指した優しさや理想も、僕が見ていた正義や真実も、どちらも幼稚で浅はかだったのだ。幼稚だったから互いに理解し合うことができず、浅はかだったから悲惨な結果を招いてしまった。
 「もし次があれば、もしもう一度チャンスをもらえるのならば、今度はもっと皆を幸せにできる方法を考えたい」優奈は倉科の頬を撫でる。「わたしの独りよがりじゃなくて、もっときちんとリュウくんと心を通じ合わせて、どうするのがリュウくんにとって、世の中にとってより良いことなのか、それをしっかり考えたい」
 「おまえは良くやっていたよ」僕は優奈の肩を掴む。
 「ううん。全然上手にできなかった」
 「おまえが一人だけでどれだけ頑張ったって、上手く行かないのは当たり前なんだ。周りの人間がおまえ一人に押し付けにせず、ちゃんと逃げずに倉科と関わって、どうやって一緒に生きるかを飽きずに考えていれば、それなりの答えは出たはずなんだ」
 僕は言う。そして、強い悔恨と、決意を込めた声でこう続けた。
 「一人で背負い込むのをやめろ。もしも次があるのなら、他の誰よりも、命を賭けてでも、俺がユーナに寄り添って支えるよ。力になる」
 優奈はしばらく目を丸くしていて、そして何か重い荷物を降ろしたように小さく息を吐くと、僕の方を向いてどこか幸せそうに微笑んだ。
 「ありがとう」
 その時だった。
 もぞもぞと、布団の中で倉科の身体がうごめいた。僕と優奈は弾かれたように倉科の方を見る。
 閉じられていた倉科の瞳が大きく見開かれていた。倉科は管だらけの自分の状況に驚いたように身体を上げようとする。
 だが骨折を残している倉科にそれは上手くいかない。闇雲に腕を振り回し口の周りの呼吸器を跳ね飛ばしてから、僕達の方に視線を向ける。
 目を覚ました倉科はその独特の呂律の回らない口調で言った。
 「ユウナちゃん? ショウタロウくん?」
 思わず、僕と優奈はお互いの手を握り合って立ち上がった。
粘膜王女三世

2019年04月29日 23時50分54秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:おまえは自分が可愛いだけの臆病な偽善者だ。
◆作者コメント:差別表現禁止ってルールに後から気付いて、該当しそうな言葉を全部『ガ●ジ』って感じで伏字にしました。
 だから許してください。なんでもしますから。

2019年05月15日 02時15分42秒
作者レス
2019年05月12日 23時53分32秒
+30点
Re: 2019年05月17日 01時02分03秒
2019年05月12日 20時15分40秒
+30点
Re: 2019年05月17日 00時59分55秒
2019年05月12日 15時33分30秒
+30点
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2019年05月10日 22時12分58秒
0点
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2019年05月08日 21時27分53秒
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2019年05月05日 06時54分19秒
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2019年05月04日 17時00分17秒
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Re: 2019年05月15日 03時09分55秒
2019年05月01日 15時16分35秒
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2019年04月30日 22時18分49秒
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