令和 |
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<愛しき日常> 「令」という字は、もともとは神様の言葉という意味、なのだそうだ。 ここから、「美しい」という意味と、「従うべき言葉」という意味が生じる。 たった今、隣を歩く同級生の妹が教えてくれた。 鳥居をくぐり石段を降りると、いつものように声を掛けられた。 「おはようございます、天野先輩!」 同級生の妹は、その名を大山 碧(おおやま みどり)と言う。 「おはよう、ミドリちゃん。今日も元気そうだね」 俺は、ミドリちゃんが幼稚園児のころから、なつかれている。 いつものように、ミドリちゃんの飼い犬が俺の足元にまとわりついてくる。 「バゥ、バゥ、ゲフィン!」 顔もいかつくて個性的だが、鳴き声も個性的だ。 「だめよ、パグ。先輩にご迷惑でしょう」 そう声をかけたミドリちゃんも、かなり個性的なかっこうだった。 濃い緑のベレー帽には、淡い青で蜂の巣模様が入っている。深い緑は、日の光をうけて艶めかしく光を放ち、なんとなく生き物めいた印象を与える。 まるで巨大な昆虫の複眼のようだ。 黒を基調とした革のジャケットは、こげ茶でふちどられており、ヘビーメタルのトゲトゲのように透明な結晶がいくつも突きだしている。 背負ったバッグの模様は、巨大な岩の断面を思わせる。 ミドリちゃんは、お転婆ではない。 むしろ、控えめな子だ。 それなのに、生命力あふれるたくましさは、象に踏まれても大丈夫と思える強靭さを感じさせる。 「すごいな、演奏会にでも行くのかい?」 ミドリちゃんは、小さな目をさらに細めて、ごつい顔をグシャリと歪めた。大きな口の両端がつりあがり、すこし開く。 プリッツを横にしたまま口に入れることができそうだった。 こいつを可愛い後輩と呼ぶのは、すこしためらいを感じるなあ。 「先輩、何か失礼なことを考えてませんか?」 「いやあ、そんなことはないよ」 俺は、あわてて言葉をさがした。 「ミドリちゃんが中学生になったことは、しっかりと覚えているさ」 「もっと失礼なことを考えてませんでしたか?」 す、鋭い! 俺は、プルプルと首をふった。 知らぬ間に時は過ぎ行くというけれど、ミドリちゃんはあいかわらず小学生のように見える。 俺も学年が一つあがったわけだ。 でも、俺が大学を受験するのは、来年のことだ。 いまは、のんびりと高校生活を楽しもう。 うん、これで重要問題を先送りできたぞ。 そう思ったとたんにミドリちゃんが言った。 「先輩は、大学受験だから、今年は大変ですよね」 そう言うと、ミドリちゃんは嬉しそうに俺の手を握った。それから、テレビで聞いたいろいろな話を俺に聞かせてくれた。いつものように、スキップしながら、そのまま学校まで付いてくる。 俺は、思春期の女の子の繊細さについて、少しだけ知っている。こんな風に手をつないでくれるのは、あと一、二年のことだろうな。 変わることのない、愛しい日々がそこにあった。 放課後の教室には、初夏を思わせる光が射しこんでいた。校庭の桜はすっかり散って、緑の葉におおわれている。 俺の前に、同級生の花井光男(はない みつお)が、こちらを向いて、イスに逆向きに座っている。学年で一番のイケメンで、同級生の女の子たちからは、ヒカル君と呼ばれている。 俺の脇に座っているのは、大山咲子(おおやま さきこ)。ミドリちゃんのお姉さんだ。男子生徒の人気を独り占めしている美少女で、みんなからサクヤ、あるいは姫と呼ばれている。 俺とサクヤは、小学校の同級生だ。 俺とは、小学校のころと同じように付き合ってくれる。 でも、近頃のサクヤの人気は、すごいことになっている。 学校が始まって早々に男子生徒の間では、サクヤ姫にはこちらから話し掛けてはならない。声を掛けられたときにだけは返事をしてよい、という不文律が出来あがっていた。 自分からサクヤに声を掛けたヤツは、コンクリート詰めにされ、港に沈められる、らしい。 すこし離れた所で男子の同級生が会話をしている。 「それじゃ、ゲーセンに行くぞ!」 「金が足りねえよ」 「大丈夫! コンティニューすれば、けっこう遊べるから」 「無理だよ。おれ、ゲーセンに行ったことないし」 「行ったこと無いなら、ぜひ行こうぜ」 たわいなさそうな会話をしながら、チラリ、チラリとこちらに向ける目は、はっきりと殺意に満ちている。 「そういえば、今度の年号は令和になったけど……」 俺は会話の口火を切った。 教室内の殺気が一気に高まる。 俺が話しかけてるのは、ヒカルだ。サクヤじゃない! そう言って、相手が納得するかは、分からない。 だが、もう始めてしまった。あとには戻れない。 俺は、もうすっかり古びてしまった話題を語った。 「令和って、問題のある年号だよな」 ヒカルとサクヤが、身を乗り出だして、俺の話しの続きを待った。 サクヤのスラリとしたボディが俺の体に触れそうになる。 (近い、近すぎるよ、サクヤ。これじゃ俺の命が危ないぜ) チリチリと首筋に殺気を感じる。 俺は、背中に冷たい汗を流しながら、先を続けた。 「だって、令和が18年目になると……」 ヒカルが吹きだした。 「あはは、たしかにその通りだね」 サクヤ姫がヒカルにたずねる。 「え? なに、なに?」 ヒカルが応える。 「だって、令和18年を縮めてかくと……」 「ああ、R18かァ。なるほど」 そう言って、サクヤは花がほころぶように笑った。 「でも、それを言ったら……」 ヒカルが語る。 「昭和は、ド・エスになるぜ」 たぶんヒカルは、このネタを知ったうえで、俺の話題に付き合ってくれているのだろうな。 サクヤが続ける。 「なら明治は、ド・エムね」 そう言って、サクヤは微笑んだ。華やかな笑みだった。 サクヤの微笑みは儚げで、今にも失われそうな危うさがある。思わず、守ってあげたいと感じさせる。 だから、男子生徒に大人気なのだ。 「昨日、お袋に起こされた時に、……」 ヒカルが別の話題を語り始めた。 「起きようとしたら、部屋の信号が赤だったんだ」 「なに、それ?」 サクヤが聞き返す。 「ああ、まだ起きちゃいけないんだ、と思いかけて、……俺の寝室に信号なんかないぞ! と気が付いた」 「夢だったのね」 「二度寝してた。危なかったよ」 俺は口をはさんだ。 「気が付いて良かったな」 会話が途切れた。 まずい。 何か話さないと。 話題のネタなんて、あれ以外は用意してないぞ。 少し離れた所でしゃべっている女生徒たちの会話が耳に入った。 「ヒカル君て素敵よね」 「私じゃ、とても釣り合わないなあ」 「でも、キラキラしてる」 よし、このネタをいただきだ。 「ヒカルは、いつもキラキラ輝いてるように見えるけど、なにかコツでもあるのか?」 女生徒たちの注意がいっせいにこちらを向くのが分かった。 視線が痛い。 ヒカルは、ゆっくりと語りだした。 「この前、風呂で体を洗っていたら、女神様が現れて……」 「えェェ~?」 という女生徒たちの声を無視して、ヒカルは続けた。 「あなたの洗い落とした垢は、この金の垢ですか、それともこの銀の垢ですか、と質問されたんだ」 サクヤは満開の桜のように華やかな笑みを浮かべた。 ヒカルは続けた。 「いいえ、普通の垢です、と答えたら、あなたは正直者なので、この金の垢と銀の垢を差し上げましょうと言われてね」 俺は、思わず噴いた。 「垢なんていりません、と断る暇もなく、女神の姿は消えてしまった。それからというもの、午後になるとなんとなく肌がキラキラ光るようになったのさ」 俺は思った。ヒカルは、やっぱスゲエわ。とっさにこんな話をでっちあげるなんてな。 「泉の女神様がヒカルに会いに、はるばるヨーロッパからいらっしゃったのね。すごいわねェ~」 サクヤのフォローもいい感じだなあ。 サクヤが話し始めた。 「絨毯タイプの持ち運びできる横断歩道があると便利だと思うな」 ヒカルは、返事をゆずってくれる様子だった。 よし、俺が応えよう。 「ああ、学校前の細い道だね。たしかに、あると便利そうだ」 ヒカルがあとを継いでくれた。 「どこかの校長が、学校近くの道路に白線を引いて、道路交通法で捕まったらしいよ。職員が細い道から自家用車で出ようとすると危ないから、自分で停止線を引いたのだって」 サクヤが微笑んだ。 「だから描かないで、持ち運びできる絨毯タイプの歩道にするのよ」 俺とヒカルの同意の言葉が、みごとにハモった。 三人で思わず顔を見合わせて笑った。 それから俺は、ミドリちゃんから聞いたばかりの話を繰りかえした。 「令和の令は、神様の言葉という意味なんだってな」 サクヤが続けてくれた。 「新時代は、神様たちの言葉が相和して、どんな時代を彩るのかな。楽しみね」 教室に満ちていた殺気は、いつの間にか消えていた。 <破滅の足音> 登校の途中で、声を掛けられる。 「おはようございます、天野先輩!」 ミドリちゃんは、いつものように神社の石段の下で待っていた。 俺の実家は古くて小さな神社で、ニニギノミコトを始めとして、意外とたくさんの神様が祭られている。 たいていの神頼みに対応できるそうだ。 ただ、ネノゴンゲンサマが祭られてるから、その御利益で、いくら寝ても、眠くて眠くてしょうがない。 たぶん「寝」じゃなくて、「根」の権現様なのだろうけどな。 犬のパグが俺の足元にまとわりついてくるのも、いつものとおりだ。 「ゲフッ、ゲフッ、ガゴフッ!」 あいかわらず個性的な鳴き声だ。 ミドリちゃんも、あいかわらず個性的なかっこうだった。 今日は、深い青のベレー帽を目深にかぶり、灰色の革のジャケットを着ている。 巨大な昆虫の複眼が岩から飛び出しているように見える。 いつもの挨拶が終わると、ミドリちゃんが今日の話題を始めた。 「男の子って、変わったモノが好きなのですね」 ミドリちゃんの恰好も、かなり変わってるぜ。 俺は嫌いじゃないけどな。 ミドリちゃんは俺を見つめて、何か言いたそうなそぶりを見せた。 でも思い直した様子で、さらに話を続けた。 「どうして男の子は、セミの抜け殻や蛇の皮を宝物にするのですか?」 さては、同級生の男の子からプレゼントされたな。 「珍しいから、だろうね」 俺にも覚えがある。 俺は、カブトムシやクワガタが大好きだった。 だから、形のいい大きなクワガタをサクヤにプレゼントしようとしたが、断られたことがある。 「そんなに大事な物は、受け取れないわ」 その時は、納得して引き下がった。 あとで、ミドリちゃんから聞かされた。 サクヤは、昆虫ならがまんできるが、毛虫や蛇はすごく苦手なのだそうだ。 田舎で手に入れた蛇の抜け殻をプレゼントしなくて良かった。あれは俺の掛けがえの無い宝物だから、いまでも大切に保管してある。 蜘蛛も嫌いじゃない。 黒後家蜘蛛やタランチュラなんかは、優雅で近寄りがたい美しさがあると思う。 家で飼いたかったなあ。 本物の黒サソリに出会ったら、たぶん抱き上げて頬ずりするだろう。 刺される痛みも可愛いと思ってしまうだろうな。 自信がある。 刺されても生きていられたらの話しだけど。 そんな風に思い出に浸っていたら、ミドリちゃんが別の話を始めた。 「おとうさんが、大きな仕事を、始めるんだって!」 ミドリちゃんは、いつになく興奮していた。 ミドリちゃんは、コンピューター会社社長の娘だ。御嬢様だから、少しくらい変わっていても良いのだろう。 「日本語のコンピュータ言語を開発するんだって!」 「日本語のコンピュータ言語?」 「うん! コンピュータ言語も、数式も、もとは英語なんだって。」 「数式も?」 「うん! だって日本語なら、2に3を足せば5になる、と言うでしょ! これを数式にしたら、2,3+5=なのだって!」 …… う~ん。 確かに、そうなのかもな。 そうか、だから英語の苦手な俺は、数学も大の苦手なんだ。 「なるほど、ナットクだ。気が付かなかったなあ」 これから日本語の数式で覚えれば、大学入試も大丈夫なのだ。 よし、今日も遊ぶぞ! 「先輩、なにか良くない事を考えてる顔をしてますよ」 「いや、決してそんなことはないぞ!」 「やけに強調するところが怪しいです」 ミドリちゃんの語ってくれたコンピュータ言語日本語の仕様は、次のようなものだった。 右手、左手のそれぞれ上下あわせて十二ずつのキーに名詞と動詞を割り付ける。その組み合わせで、すべての基本命令を入力できるようにする。 残る六つずつのキーは補助入力用で、状況に応じて機能が変化する。拡張命令はシフトして入力する。 まだ拡張命令の仕様は完成してないそうだ。 スペースバーの左右に、「取り消し(戻る)」と、「変換(進む)」のキーを用意する。 その日本語命令の基本セットが、とうとう完成したのだそうだ。 コンピュータ言語ベーシックの命令セットを例にすると、印刷を意味する命令はCOPY”だが、これを入力するのに五ストロークが必要になる。しかし「日本語」なら、「プリンター」、「~へ送る」という二ストロークで済む。 名詞と動詞に分けたから、百四十四の命令すべてをキーボードの二列のキーから入力できるそうだ。 「プリンター」、「~から受け取る」という二ストロークで、画像取り込みができる。 ファンクション・キーの概念を拡張したそうだ。 キーボードに割りつけられたファンクション・キーを操作するだけでプログラムの大部分を書くことができる。プログラムを作成する効率が二倍から五倍にあがるそうだ。 しかもそれが日本語になる。プログラムの内容は素人が見ても分かる。 画面は、絵を表示するか文字を表示するかによって、絵画面と文字画面とに区別されている。 たとえば「プリンターから受け取る」というプログラムは、詳細表示を指示すると、「プリンター(画像入力機能)から画像を取り込んで絵画面に表示する」になる。 これだけのプログラムの内容が、わずか二ストロークと詳細表示の一ストロークで入力できてしまうのだ。 プログラムの変更は簡単だ。 プリンターから文字情報を取り込むように変更するなら、「絵画面」を「消す」して、「文字画面」に変えればいい。 間違えて別の文字列を変えてしまったら「取り消し」を押せばいい。 操作方法は、ほかにもある。 「変換」を指示して、反転表示を「絵画面」に合わせてから「文字画面」にしても構わない。 そうすれば、「プリンター(画像入力機能)から画像を取り込んで、文字(文章・数字)に変換し、文字画面に表示する」というように詳細表示が変化する。 あるいはプログラムを組むときに、「プリンター」から「文字画面」に「取り込む」とキー入力してもいい。 拡張命令でプログラムに絵か文字かを判断させて、自動的に絵画面、文字画面に振り分けることもできる。 こうすれば出来そうだ、と思えるやり方は、ちゃんと出来るようにするそうだ。 さらに、キーバッファがあるから先行入力できるので、作業効率が飛躍的にあがるそうだ。 「日本語」はフォース(コンピュータ言語なのかな?)をベースに作るらしい。 この辺になると、俺にはもう理解が追いつかない。 ミドリちゃんに質問したら、詳しく教えてくれそうだ。というより、教えたくてしかたなさそうに見える。 でも、小学生、ちがった、中学生に成りたての後輩に、初歩の初歩からすべて教えてもらうのは、抵抗があるなあ。 コンピュータ・プログラムについて良く知らない学校の先生でも、簡単に生徒に指導ができる。というより、簡単な手引きだけで、誰でもプログラムが作れるようになる。 お父さん自慢の優れものなのだそうだ。 そりゃ、お父さんは興奮して、娘に語り聞かせるわな。 だけど、いいのか? 開発中の企業秘密を俺なんかに公開して。後悔しても知らないぞ。 「大丈夫です。先輩が悪用することは、ありえませんから」 それって、俺が善人だからって意味だよね? 悪用もできないコンピュータ音痴という意味じゃないよね。 何か言われるのがこわくて、どちらなのか訊ねられなかった。 「ミドリちゃんは学校でコンピュータ・プログラムを習ってるのかい? 大変だなあ」 「先輩、あまり落第してると、覚えることが増えて大変ですよ」 よけいなお世話だよ。 落第なんか、してません! これまでは、だけど。 それに俺には、いざとなれば神主になるという選択肢があるのだ。 なりたいとは思ってないけどな。 いまのところは、だけど。 でも、ほかに選択肢がなくなったら…… 犬のパグが俺の足元にまとわりついてくる。 大きな口を開け、俺のふくらはぎに噛みついて、ぶら下がる。パグは牙をたてないように気を使ってるから、痛くない。 重くて歩きにくいけどな。 幼稚園児たちとすれ違った。 パグが俺に噛みついてるのを見て、幼稚園児たちは顔をひきつらせながら、早足で脇を通り過ぎてゆく。涙目の子もいた。 「グェッ、グェッ、ブファン!」 パグは大きな口を開け、笑顔で幼稚園児たちに挨拶した。 あいかわらず個性的な鳴き声だ。バリエーションが豊富だなあ。 幼稚園児たちは、あわてて逃げ出した。 「おに~ちゃん、だいじょうぶ~?」 ずっと離れたところから、心配そうに声を掛けられた。 優しい子たちだなあ。 「大丈夫だよ」 そう答えて、笑顔で手を振ってやった。 幼稚園児たちは不安そうな顔をしたまま走り去っていった。 パグって、幼稚園児には怖そうに見えるのかなあ。 俺には、愛嬌がある顔と思えるのだが、たしかに口がやたらに大きいから、噛まれたら痛そうに見えるかもしれない。 意識が戻ってみると、そこは放課後の教室だった。 教室の窓から見える空には、黒雲が立ち込めている。 教室内では、論争が繰り広げられていた。 めずらしく、サクヤが熱くなっている。 「アイコォンを開発した時だって、アッコルは基本ソフトやアプリを国内で充分に用意してから発表して、一気にトレンドを作ったでしょ。だから日本の中小のソフト会社は急激な変化に追従できなかった。体力のある大手ソフト会社が追いかけたけれど、利益のほとんどを基本ソフトの使用料などに取られてしまう。製品を買っても、変化を追いかけて競争しようとしても、アメリカが儲けを手にする構図があらかじめ出来あがっていたのよ」 ヒカルが投げやりに反論する。 「アメリカが開発したのだから、儲けを手にするのは、当然じゃないかな」 サクヤは、ますます興奮した。 「日本は、1980年代にト○ン計画を立案していたわ。英語は基本が26文字だから、記号をあつかっても8ビットを拡張した16ビットの中央演算装置で十分だった。でも日本語を扱うには64ビットの演算装置が必要なのよ。そして、64ビットの演算装置を基本にすれば、日本語だけでなく、中国語もアラビア語も、一台のコンピュータで対応できる。ト○ン規格こそが真の世界標準だったのよ。それなのにアメリカは、自国の利益のために、世界中が必要としていた標準規格を葬り去ったのよ」 ヒカルは、そっけなく答えた。 「そうかも知れないね」 サクヤは止まらない。 「アメリカ政府はマイク○ソフトを守るために、日本に圧力をかけてト○ン計画を潰した。そのせいで、まともに折れ線グラフも書けないソフトが何十年も生き残ったのよ。裏ワザを使えば描ける? 裏技を使わないと描けないのは、まともに動かない欠陥ソフトということよ。ソフトの欠陥のせいで、世界中で多数のユーザーが、無駄な時間と努力の浪費を強要されたじゃないの」 「そうだね」 ヒカルは、気の無い返事をした。 でも、サクヤの弁舌は止まらない。 「だいたい、トランジスターもディスクも日本人の発明なのに、基本特許をアメリカに押さえられてしまったから、儲けのほとんどをアメリカが手にしたじゃないの。それに、特許や著作権という制度がもともとアメリカの発明で、じぶんたちに都合がいいように勝手に変更するから、最初からアメリカだけが儲けることは決まってるのよ!」 「たしかに」 そう言ってから、ヒカルは俺に気づいた。 「天野はどう思う?」 そんなことを、いきなり尋ねられても…… 「わるい、話についていけてない」 俺は、たったいま目を覚ましたところだから。 そうだな、プログラムは訳の分からない言葉を並べて人ならざるモノを操るわけだから、神主が唱える祝詞に似ていないこともない。 そんな返事をもっともらしく語って、無難に乗り切ろうかな。 「ヒカル……!」 サクヤが、ひどく冷静な声でヒカルに語りかけた。 ヒカルは、ハッとした表情になった。 二人して、ゆっくりと俺に向き直る。 すごく可哀そうなものを見るように、俺を見つめる。 無言の時が過ぎてゆく。 きまずい雰囲気が、どんどん強まってゆく。 やがて、ヒカルが重い口を開いた。 「すまない。全面的にボクが悪かった。天野にコンピュータのことを尋ねるなんて。あやまってすむ問題じゃないけれど、心から謝罪するよ」 サクヤも、深々と頭を下げた。 「ごめんなさい。つい熱くなってしまったの。天野君の前で国際政治の駆け引きについて話すなんて、本当にひどいことをしてしまった。あやまったからといって許されることじゃない。それは分かっているわ。だけど、本当にごめんなさい!」 俺たちに注目していた級友たちも、いっせいに深くうなずいていた。 ちょっとまてよ、お前ら! 俺にコンピュータや政治がらみの話しをするのは、絶対にダメなのか? そちらの方が、よっぽど傷つくぞ! 「アメリカは自分たちの利益を守るために、あらゆる手を打つだろうね。ボクにも立場があるから、それしか言えないけれど……」 そうヒカルが言った。 あらゆる手というと、非合法な手段もとるということか? サクヤが答える。 「そうね、気を付けるわ」 だめだ。途中から目を覚ましたのでは、話の流れについてゆけない。 ついてゆけないのは、寝てたからだぞ。 俺がコンピュータ音痴だからじゃないからな! 帰宅すると、俺はベッドに横になった。 外は雨になったようだ。 体がだるく、なんだか、ひどく虚ろな気持ちだった。 雨音を聞きながら、俺はぼんやりと本棚に並んだ大切な宝物、クワガタの標本や黒サソリの置物、じいちゃんからもらった大きな隕石、鹿の角、イノシシの牙、ガラガラヘビのしっぽ、ぬれたように光を放つ黒曜石、きらめく黄銅鉱や黄鉄鉱の結晶なんかを眺めていた。 突然に玄関のドアがノックされた。 「ゴブッ、ゴブッ、ガグォン!」 パグか。 ミドリちゃんが来たのかな。 珍しいな、俺の家に来るなんて。 俺は、玄関のドアを少し開けた。 やっぱりミドリちゃんだった。 いまは蜂の巣模様の真紅のベレー帽をかぶっている。 ミドリちゃんは、俺の顔を見て、すこし安心したような表情を浮かべた。 それから、事態の急変を告げる驚愕の言葉が発せられた。 「たいへんなの、お姉ちゃんが外国にお嫁にいっちゃうんだって……」 <引き返せない決断> 玄関の扉を大きく開くと、パグが飛び込んできた。 ブルブルと体をゆすって、雨粒をあたりにまき散らす。 そのまま、あがってこようとする。 「まて!」 俺はそう言って、雑巾をとりに風呂場に走った。 足を拭こうとしたら、パグのやつは嫌がった。 しょうがないので、洗ったばかりのタオルで拭いてやる。 贅沢なやつめ。 足を拭き終わり、「よし!」と言ったとたんに、パグは俺の部屋に飛び込んでいった。 こらこら、部屋の中の物を壊すなよ。 ミドリちゃんは、その間、暗い顔をしてうつむき、何も言わずに玄関で立っていた。 「まあ、あがれよ」 「うん……」 小さくうなずいて、ミドリちゃんは俺の部屋に入ってきた。 「だめよ、パグ! やめなさい!」 ミドリちゃんが大声で叫ぶ。 パグは、30センチ近くある隕石を飲みこもうとしていた。 「こ、こら、やめろよ!」 そんなものを食べたら、大変だ。 しかし、パグは一気に隕石を飲みこんでしまった。固く口を閉じ、くつろいだ様子で俺たちの顔をながめる。それから満足そうに短い尻尾を軽く振ると、座布団の上にゆったりと横たわった。 腹が痛そうな様子もないし、まあいいか。 いや、あんなに大きな隕石を呑みこんで無事なはずは無い。 あとで何とかしないと…… 「ご、ごめんなさい。パグの躾がなってなくて……」 ふつうは犬に隕石を食べないように躾をすることは無いと思うぞ。 予想できなかったのだから、これは仕方ないよ。 それにしてもパグは、やらかすことまで個性的だなあ。 ミドリちゃんは、あたりを見回して言った。 「先輩の家は神社なのに、ベットがあるのですね。あれ、勉強机がある。いったい何に使うのですか?」 さりげなく失礼なことを言うのじゃないぜ。 コミックを読んだり、ゲームをしたり、もえキャラをトレースしたり、頭をのせて眠ったり、使い道はいろいろとあるのだぞ。 ところでミドリちゃんは、なぜ俺の家に来たのだっけ。 そうだ! 大変だ! 俺は、できるだけ冷静をよそおってミドリちゃんに訊ねた。 「お姉さんが結婚するんだって?」 サクヤは、まだ高校生だぜ。 「ええ、そうなの。私にもよく分からないけど。知らない人たちが来て、いきなりそんな話になったの」 なんだか変だな。 「相手はどんなヤツなんだい」 「すっごいお金持ちで、お姉ちゃんのことは、とても大切にするって言ってたわ」 そうか、まあ、普通はそうだろうな。 「これまで、八歳から十七歳の子と結婚したけれど、四人は行方不明で、七人は病気や事故で死んじゃったんだって」 それって、ダメなやつじゃん! 「なぜ、そんな事になったのだよ」 「関係あるかどうか分からないけど、銀行が急にお金を返せと言い出したんだって」 貸し渋り、じゃなくて、剥ぎ取りとか言うやつかな。 大きな事業を始めようとするときにやられたら、こたえるだろうな。 「借金を返しに行った従業員の車が、事故渋滞に巻き込まれて、約束の時間に間に合わなかったから、月をまたぐことになったせいで、利息が跳ねあがったんだって」 そりゃ運が悪かったな。 「ジコハサンするか、もっと大きな借金をするかだけど。お姉ちゃんが結婚すれば、借金できるみたい」 それって、人身売買じゃないか。 これは、サクヤが無事であるはずなど無いな。 それに借金したら、さらに金を要求されるに違いない。 たぶん、だけど、間違いない……、気がするぞ。 でも、どうすれば良いのだろう。 「とにかく、サクヤを助けないといけないな」 「お姉ちゃんを助けてくれるの?」 「ああ、……」 でも、どうやって? 「方法は、あるわ。私が先輩に力を貸したら、何とかなる。でも、先輩は無事ではいられない」 なんだよ、それは。 ミドリちゃん、中二病になるには、一年早いぜ。 よし、まあ付き合ってやるか。 「どうすればいいか、教えてくれ」 ミドリちゃんは、じっと俺を見つめた。 俺の決心を見極めようとしてるな。 俺は、サクヤを救う決心を固める。 断固とした決意が生まれた、ような気がした。 ミドリちゃんは、深くうなずいた。 「本堂をお借りするわね。この毛布も借りるわよ」 ミドリちゃんは、毛布を引きづりながら本堂に向かった。 パグがあわてて立ち上がり、ミドリちゃんを追いかける。 まてよ、うちは神社だから、本堂じゃないぞ。 古びていて、小さいけれど、神殿なんだ。 そこは、こだわりたいな。 二畳ほどの狭い神殿には、しめ縄を巻かれた大きな岩が祭られている。 ミドリちゃんは、岩の後ろに回った。 「先輩、この岩を押してください」 俺と、ミドリちゃん、それにパグも手伝って、御神体の岩を押す。 岩の下から、扉が現れた。 ミドリちゃんは、ためらわずに扉を開ける。 狭い階段が、地下深くへと続いていた。 なぜ、ミドリちゃんが知ってるのだ? 俺でさえ知らなかったのに。 「先輩に知らせたら、絶対にいたずらしてたからです」 俺の心を読んだように、ミドリちゃんが答えた。 「明かりがいるな」 「だめです。明かりは点けないでください」 ミドリちゃんが鋭く言った。 パグが先頭になり、ミドリちゃん、俺の順番で、狭い階段を降りてゆく。 俺は、ミドリちゃんの肩に手を置いて、遅れないようについて行った。 ミドリちゃんは、しっかりとした足取りで、ためらうことなく進んでゆく。 まるで、あたりが見えてるようだ。 階段は、予想外に長かった。 何も見えないから、深く感じるのかな。 階段が終わり、なだらかな坂道になった。 さらに進むと、すこし広い場所にでた。 ミドリちゃんが立ち止まる。 振り返らずに、俺に告げる。 「この先に進めば、もう引き返せません。本当に良いのですか、天野先輩!」 俺は、サクヤを救いたい。それだけじゃない。なんと言っても、まずミドリちゃんを悲しませたくない。 長い階段を降り続ける間に、俺の意志は固まっていた。 「構わない。サクヤを救うために、俺の体、俺の命、俺のこれからの人生を、すべて捧げようじゃないか」 「大山咲子は、天野和彦先輩と結ばれるとは限りませんよ」 ミドリちゃんは、サクヤと俺を本名で呼んだ。 「構わない。サクヤが幸せになれるなら、俺はどんなことでも受け入れる。さあ、やってくれ、大山 碧!」 そうすべきだと思ったから、俺もミドリちゃんを本名で呼んだ。 ミドリちゃんは俺に向き直り、ベレー帽を外した。 なぜか、ベレー帽が濃い緑色になっていることが分かった。 微かだけど、光ってるのかな。 ミドリちゃんは背伸びをして、俺にベレー帽をかぶせた。 おい、おい、そんなに深くかぶせたら、前が見えないぜ。 そう思ったとたんに、辺りがグルリとまわった。 暗闇が渦をまいて、俺を呑みこんでゆく。 ゆっくりと、辺りの様子が見えてきた。 ミドリちゃんは、毛布を体に巻きつけ、俺に向かって革のジャケットを差しだしていた。 白く、か細い腕が、闇の中で頼りなげに震えている。 ひどく心細そうだった。 「まかせろ!」 俺はそう言ってジャケットを着た。俺の体にぴったりの大きさだった。ヘビーメタルのトゲトゲのように、透きとおった大きな結晶がいくつも突きだしている。 密かに、俺の好みだった。 俺の物にしたいなあ。 心が沸き立つ。 ベレー帽から、いくつもコードが垂れ下がっていた。 ミドリちゃんは、その一つにアイフォンをつなげた。 「先輩なら、これくらいかしら」 そう言いながら、もう一つ、アイフォンを接続する。 それから、ガラ携を接続した。 「いまのご時世に、ガラ携かよ」 「これは、最新の機種です。買ったのはずいぶん前になってしまったけれど」 ミドリちゃんは、律儀に答える。 「それに、柄携だなんて、そんな洒落たものではありません。無地の携帯です」 「おい、おい、どんだけ昔のギャグなんだよ。いくら俺でも、そこまで古くはないぜ」 ミドリちゃんは、うつむいて、言った。 「まさか、本当に先輩が引き受けてくださるとは思っていませんでした。そうなったらいいなと、ずっと前から思い続けて、どんな会話をするかを思い描いていたんです」 いったい、何十年前から思っていたのだよ。 まてよ、俺はベレー帽を深くかぶりすぎて、周りが見えないはずじゃなかったか。 ぼんやりとだけど、周りが見えてる。 どうなってるのだ? 急に、周囲が、はっきりと見え始めた。 見える範囲がどんどん広がってゆく。 すべてが、ひどく鮮明に見える。 ひょっとして、俺がかぶってるのはベレー帽じゃなくて、バーチャル・スコープなのかな。 すごい発明だ。さすがは大山のおやじさんだぜ。 インターネットを流れる無数の会話がはっきりと聞こえる。 すべてのメールが完璧に理解できる。 ひとつ、ひとつを、鮮明に区別できる。 すごいな。 俺はサクヤを探すことに集中した。 サクヤは見つからなかった。 しかし、すぐにサクヤをさらう相談をしたメールにたどり着けた。 サクヤはすでに拉致されていた。 いや、本人に同意させてる。 同意した証拠を残してる。 おそらく合法的に連れ去ったのだろう。 単に警察に届けるだけでは、かえって救いの道を閉ざすことになりそうだ。 さらに、意識を広げる。 つながりを追う。 さらに、追いかける。 今の俺から逃れられる者などいないぜ! 過去にさかのぼる。 いくつもの因果を追って、ふたたび現在にたどり着く。 よし、だいたい把握できた。 組織は、関東地方の全体に広がっていた。 構成員は五千七百三十二人。 役割は、大きく五つ。 借金を必要にさせるグループ。 言葉巧みに金を貸すグループ。 借金を返せない額に膨らますグループ。 厳しく取り立てをするグループ。 資産や家族を合法的に処分するグループ。 そして、その中心に、全体を統括する者。 借金を返しに行った従業員が巻き込まれた渋滞は、こいつらの仕業だった。約束の時間に間に合わないようにして、借金を増やしやがったんだ。 仲間同士が中古車をぶつけあって、交通渋滞を起こす。 事故の保険金も、ちゃっかり請求してやがる。 この事故で、サクヤ以外にも七件の借金が増額され、返済不能になっていた。 返すことのできる限度を綿密に調べ上げ、返せる範囲で金を貸し、小さなトラブルをぶつけて返済不能に追い込む。 みごとに連携をとって、効率よく仕事を遂行してやがる。 個人では対抗が困難な、闇にひそむ巨大企業だった。 全体を統括する者は闇の中にいた。周囲にいる者たちの言動から、その存在が間接的に感じ取れる。 「よし、把握できたぜ」 「それでは、これを使ってください」 ミドリちゃんが暗闇の奥から取り出したのは、ローラーボードだった。 ベレー帽から垂れたコードをローラーボードに接続する。 「パグ、頼んだわよ!」 まて、まて、いったいどこにパグがいるのだよ。 それとも、このボードの名前もパグなのか? ローラーボードが淡く輝いた。 俺を乗せて、ローラーボードは階段を駆け上った。 神殿の扉を開けて、一気に街を疾走する。 街がとんでもない速さで遠ざかってゆく。 俺は透明な膜に包まれていた。 凄まじい風は、その膜に遮られて、俺には届かない。 ローラーボードは、さらに加速した。 おい、おい、ひょっとして音速を超えてないか? いくつもの結晶がジャケットから突き出ている。極彩色に輝き、まぶしい光を放ちはじめる。 俺は、一条の光になって、街を駆け抜けた。 ヒャッホウ! ご機嫌だぜ! 待ってろ、サクヤ。いま行くぞ! たちまち、サクヤが拉致されたビルに着いた。 大きくターンしてブレーキをかける。 道路のアスファルトが、派手に削られて、吹き上がる。 ビルの頑丈な玄関扉が吹き飛んだ。 やっぱり、音速を超えてたな。 壊れたのは衝撃波のせいだ。 俺のせいじゃない。 俺は、玄関には、指ひとつ触れてないぜ。 信じられないほど爽快だった。 ハッハッハァッ~! 俺は、笑いながらローラーボードを肩にかけ、建物に入った。 <新時代の幕開け> 吹き飛ばされた玄関扉の先には、分厚い壁があった。 建物全体が襲撃を想定した作りになっているのが見て取れた。 玄関先にある受付は、グシャグシャに潰れている。 さいわい、誰もいないようだった。 俺は、瓦礫を乗り越えて、壊れたドアを開け、建物の内部に入った。 机が吹き飛び、資料棚がひっくり返っていた。 どうやら事務所のようだ。 十数人のスーツ姿の男たちが倒れている。 起きあがろうと、床でもがいている。 俺は、男の一人の肩を掴んで引き起こした。 「だ、誰だ」 俺の顔をみた男の顔に、驚愕の表情が浮かんだ。 「化け物め!」 いきなり拳銃をぶっぱなされた。 何発も、何発も、弾丸が俺に当たる。 不思議だ。 少しも痛くないぞ。 話をするのは、無理そうだった。 俺は、ベレー帽からたれたコードを男の頭につないだ。 直接に、男の思考を読み取る。 体をガクガクと震わせ続ける男を残して、俺は次の獲物をさがした。 俺はコードで部屋中の奴らの思考と記憶をさぐった。 統括する者について知ってるヤツは、いなかった。 それでも、知識をかき集めて、次の部屋に進む。 いきなり銃弾の雨にみまわれた。 手投げ弾がいくつも飛んでくる。 部屋にいるやつらがケガしないように、両手で受け止めてから爆発させた。 ロケットランチャーがぶっ放された。 「危ないじゃないか!」 撃ったやつをどなりつけながら、コードを振って、ロケットランチャーを空中で切断する。 閃光に続いて黒煙が噴き出し、部屋を満たした。 俺は気配を頼りに、ありったけのコードを伸ばして、部屋中の奴らの思考と記憶をさぐっていった。 なるほど。 ケイレンを続ける男たちを後に残して、俺は玄関にもどった。 瓦礫をどけ、受付机の残骸の下をさぐる。 四角い蓋がある。 配線や下水の管理するための穴の蓋に見える。 俺は蓋をあけ、梯子をつたって地下に降りていった。 粗末な扉を開けると、中は豪勢な応接室だった。 自宅用のバーが完備されている。 高級な革のソファーの前に黒檀のテーブルが置かれている。飲み掛けのグラスが二つ残されていた。 部屋を飾るシャンデリアは、たぶん本物の黄金でできてるのだろう。 かまわず奥に進む。 豪華そうな扉の奥に、大きなベッドがあった。 サクヤが横たえられていた。 縛られてもいないし、暴力を振るわれたようすも無い。 そして、ベッドの脇にたたずむ闇企業の統括者は、俺の知っている人物だった。 「思ったよりも早く着いたね」 ヒカルが語りかけてくる。 「闇企業の統括者が光の男だったなんて、冗談にもなってないな」 「しがらみを絶ち難くてね。組織をまとめることができるのは、ボクしかいなかったせいだよ」 花井光男は、寂しげに微笑んだ。 「始めはクラスの女の子たちに幸せな結婚先を探してあげるのが楽しかったけれど、だんだんそれだけじゃ済まなくなってしまってね」 「外国政府からの要請か?」 「そこまで分かってくれるのか。だったら、どうしようもない事も分かるだろう?」 俺は、断固とした意志を持って言った。 「そんなことには、ならない!」 俺の言葉は、幾千もの過去へと、さかのぼっていった。 ある中学校の教師に、母親が危篤だという知らせが届くのが、一時間ほど遅れた。教師はいじめられている生徒の話しを十分に聞いたあとで、同僚の教師に対応を頼んでから病院に向かった。 駅ですれ違う人混みの中で、かつての同級生が互いに気付いた。 「なんだか疲れた顔をしてるじゃないの。大変そうね。でも、がんばれ。ファイトォ!」 ひとこと、ふたことの会話が、折れ掛けていた心の支えになった。 獲物をさがすスカウトの目に小さなゴミが入った。瞬きを繰りかえしている間に、一人の美少女が気づかれること無く、その前を通り過ぎた。 わずかに増した勇気が、告白の言葉を口にさせる。 必死の思いで見つめる真剣な瞳に気がついて、惨劇のきっかけとなる行動に、ためらいが生じた…… 幾千もの過去に届いたささやかな干渉によって、現在が大きく変化する。 「まいったな。ボクがまとめあげた組織が壊滅状態じゃないか。恐れ入ったよ」 「これなら、ヒカルに何かをさせようと考える者はいなくなるだろう」 「たしかに、その通りだね。だけど、これほどの力を貸してくれたのは、誰なんだい。そいつも唯じゃすまないはずだよ」 ミドリちゃん! 「サクヤは連れて帰るぜ。構わないな」 「ああ、今ではすべてが無かったことになってるからね」 俺は、片手でサクヤを抱き上げると、建物の外にでた。 「君のことを、人は化け物と呼ぶと思うよ」 立ち去る俺たちに、ヒカルの言葉が届いた。 俺たちは一条の光となって、実家に戻った。 途中から速度を落として、衝撃波を分散させる。 神社の階段は、歩いて登った。 神殿に入って、灯明をつける。 俺は、明かりを掲げながら、地下の階段を駆け下りた。 いくら鈍い俺でも、もう気が付いていた。 どれほど優れたバーチャル・スコープでも、関東全体を同時に細部まで鮮明に見せることはできない。 インターネットを流れる無数の会話や、すべてのメールを、リアルタイムで完璧に理解するのは、人間には不可能だ。 ミドリちゃんは、俺に力を貸すと言っていた。 ミドリちゃんの力は…… 「ミドリちゃん、大丈夫か?」 「だめ、見ないで!」 ミドリちゃんの声は、悲鳴に近かった。 掻き抱いた毛布の隙間から、黒い体節が連なっているのが見えた。 灯明の明かりをうけて、玉虫の羽のように煌めいている。 「綺麗だね。さわっても良いかい?」 ミドリちゃんは後ずさりしながら言った。 「こんな体が、きれいなはず、無いでしょ!」 「いや、綺麗だよ」 ミドリちゃんは、淡いピンクの新しいベレー帽をかぶっていた。 いや、巨大な複眼なのかもしれない。 たぶん、複眼なのだろう。 顔の輪郭が、いつもよりも、ほっそりとしている。 モロに俺好みの顔になっていた。 巨大なムカデを思わせる黒い体は輝きを放ち、毛布には収まりきれずに闇の中へと続いている。 とにかく異様に美しく、格好が良かった。 「ちょっと触れてもいいかい?」 ミドリちゃんは、呆然とした表情で、しばらく俺を見つめていた。 それから、小さな声でささやいた。 「私のことが、怖くないの?」 自然に笑みが浮かんでくる。 「怖いわけないだろ。ミドリちゃんなのに!」 ミドリちゃんの巨大な複眼が大きく震えた。 ミドリちゃんは、俺の胸に飛び込むと、無数の脚で俺を強く抱きしめた。 いくつもの体節がツヤツヤと美しく輝いている。 男の子なら誰でも夢中になるだろうな。 ミドリちゃんを撫でながら、俺はそう思った。 俺は、ミドリちゃんを毛布でくるむと、お姫様だっこして階段を登った。 神殿に着いた俺たちを見て、サクヤはあきれたように言った。 「もう変化してしまったの? 早すぎるわよ」 それから、ひどく真剣な表情になった。 「どうやったのよ? 事態は取り返しのつかないところまで進んでしまったはずなのに」 ミドリちゃんは、短く言った。 「過去を変えたの」 「過去に干渉したの? ムチャクチャよ!」 自分でやっておいてなんだが、俺もそう思う。 ミドリちゃんは微笑んだ。 「ほとんどは気配を飛ばしただけだから、それほど力を使ってないわ」 笑みが広がる。 「それに、地上には無い力が、たっぷりと手に入ったの」 それからミドリちゃんは、満面の笑みを浮かべた。 「そして、私を怖がらない人を見つけたわ!」 サクヤは苦笑いした。 「怖がらないどころか、すっかり気に入られてるみたいじゃないの。本当に男の子の感性って謎ね」 俺は、いちばん気になっていることを、サクヤに尋ねた。 「ヒカルと一緒になる気かい?」 「そんなわけ無いでしょ。私を外国に売り払おうとしたやつよ」 「それじゃ、これからどうするのだよ」 サクヤは曖昧な笑みを浮かべた。 「差しつかえ無ければ、そばに居させていただくわ」 俺は即答した。 「こちらからお願いします!」 二人は、俺に向かって、嬉しそうに微笑んだ。 サクヤの笑みは花のように儚げで、ミドリちゃんの笑みには、たくましい生命力があふれている。 「過去が変わったのならば、新たな時代が始まるのだよな」 俺の口から、思ってもいなかった言葉が飛び出した。 サクヤがつぶやく。 「新たな時代は、花のように美しく……」 ミドリちゃんが、後を続けた。 「新たな時代は、岩のように堅固で変わることなく……」 それから二人は、声をそろえて唱えた。 「神の言葉は相和して新たな時代を彩りぬ」 二人の言葉が世界を染め上げてゆく。 俺にはそれがはっきりと感じとれた。 |
朱鷺(とき) 2019年04月29日 23時29分50秒 公開 ■この作品の著作権は 朱鷺(とき) さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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