ニート市民ランナー、オリンピックを目指す |
Rev.01 枚数: 95 枚( 37,753 文字) |
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部 |
だらりと腕から力を抜き、筋肉の硬直しかけた肺に息を落とし込む。足はすでに鉛のように重く、何万回と着地したダメージを重ねて膝が悲鳴をあげていた。よくこれで走れているなと、自分の足ながら不思議に思う。 残暑と呼ぶにはあまりに殺人的な九月半ばの太陽は、容赦なく肌を焼き汗すらも蒸発させて水分を奪っていった。 視界が揺れるのは走りながら上体がぶれているからか、あるいは脱水症状によるものなのかも判然としなくなってきた頭が、かろうじて左端に30km地点の看板を捉えて反射的にGPSウォッチのラップを止める。 すでに小さくなっている先頭集団の背中を眺めながら、遊離しかけた意識が断片的に単語を紡ぎだす。 マラソン、東京オリンピック、日本代表、そしてMGC。 特別意識したこともない様な単語がずらりと並び、ふと思う。 ……あれ、俺なんで、こんな苦しい思いまでして走ってんだろう。 *** ふんふふんふーん♪ ふんふん♪ ふんふふんふーん♪ ふんふん♪ 鼻歌を口ずさみながら、ポットの前でお湯が沸くのを待つ。 台所に用意してあるのは、カップ塩焼きそば『儂の塩』。一か月に及ぶ食事制限もようやく終わり、久方ぶりのジャンクフード祭りである。 テーブルにはすでに2Lのコーラとデザートのポテチがスタンバイ済み。 このやっちゃいけない禁断の組み合わせが、実に背徳的でたまらない。 じゅるるる…… 「おっと」 思わず垂れたよだれを拭いて、湧いたお湯を『儂の塩』に注ぐ。スマホのタイマーを三分にセットして、我慢しきれずコーラを一口。 「ッカー! たまらんぬ!」 この喉を刺激するブツブツ! 甘ったるい味! キンッキンに冷えたコーラが五臓六腑にしみわたり、誰もいない六畳一間のアパートに遠慮のないげっぷを響かせる。 録りためたアニメの何を見ようかと録画リストをスクロールさせていると、スマホが着信を告げる。相手は……愛しのクールビューティー早瀬タン!? 「はいもしもしあなたの心のパートナー斑鳩大地です!」 『大地! あんたまだ仕事決まらないの!? いい加減働きなさい! もう二十九歳でしょ!』 刹那で応じると、親の声より聞き慣れただみ声が耳をつんざいた。 というか、親の声だった。 「げえ、母ちゃん!?」 急いで耳からスマホを離す。だが、画面には確かに『早瀬』の文字。 いや待てよ、良く考えれ登録はきちんと『I LOVE 早瀬海香タン』にしてあったはず。早瀬と出てくるのはおかしい。 まさか。 『あんたお母さんからの電話じゃ出ないからね。前に掃除しに行ったときに登録名変えといたよ』 「か、勝手に人の携帯見んなや! あと掃除はありがとう!」 なんて母親だ。人のプライバシーを覗きやがって。 『そんなことどうだっていいんだよ。とにかく、いい歳なんだから定職見つけなさい、せめてなんか資格取るとか、とりあえずバイトくらいしたらどうなの』 「今探してるところだよ」 嘘である。職探しなど一秒だってしていない。 『あんた足速いんだし、それで就職できたりしないの? この前もなんとかって大会で優勝したんでしょ?』 「チャンジガルマラソンね。小さい海外の大会だし、実業団はどこもマラソンより駅伝重視だから。駅伝はスピード求められるから俺向きじゃないよ」 まあやる気ないだけだけど。働きながら走るとか体もたないでしょ。 『だったら、きちんとした仕事探しなさい。なんならお父さんに、良い仕事紹介してもらうとか』 「いいよ、こっちで何とかするから。じゃ、切るよ」 『あっ、待ちなさいニート』 ニート言うな。 まったく、せっかくの良い気分が台無しだよ。もう一度げっぷを漏らしたところで、今度は玄関のチャイムが鳴った。 今度はなんだよ、と顔をしかめさせたのも一瞬、どうせ新聞の勧誘かなんかだろうと、気分を持ち直して玄関へ行き、ドアの鍵を開ける。 「おいしーい、ものがだーいーすき♪ いーかるーがだーいちです♪」 キラッ☆ 手でポーズを決め、ウインクしながらドアを開くと、そこにいたのは新聞の勧誘などではなかった。 「あれ、本物の早瀬さんじゃないですか。今日来る約束なんかしてましたっけ?」 「本物……? いえ、一刻も早くお伝えしなければならないことがありましたので、直接赴いた次第です」 ぱりっとしたスーツに、切れ長の目。細渕のメガネと合わせていかにもできる女性といった風情を醸し出す彼女の名前は早瀬海香。細く長い手足と凹凸のないスタイルは高校・実業団でも活躍した長距離ランナーの面影を今も残している。 「せっかくだから上がっていきます? ポテチとコーラと、なんでしたら秘蔵の酒も出しますけど」 「上がらせてもらいますが、お酒は結構です。車で来ていますので」 「早瀬さんは真面目だなあ」 彼女を中に案内し、コップをもう一つ出して氷を入れ、テーブルに置く。 「……お茶はないのですか」 「ないです」 「では水で結構です」 「ミネラルウォーター? そんな上等なものおいとくわけないじゃないですか」 「なら水道水でも」 「今止められてるんで」 「はあ!?」 目を見開いて驚く早瀬さんに、流石にやり過ぎたと反省して「嘘です嘘です、軽い冗談です」と説明した。仕事はしてないが水道料金くらいはきちんと払っている。ますます眉間のしわを寄せた彼女に、「おつかれですね」と声をかける。 「誰のせいですか。まあいいです。それで、本題に入っても?」 「お湯捨ててくるんで、ちょっと待ってください。あ、コーラは飲んでいいですよ」 思わぬ電話や来客で少し伸びてしまったカップ焼きそばのお湯を捨て、テーブルに戻ってひとすすり。 さらに疲れたような表情になった早瀬さんの口から出た言葉は、あまりにも予想外だった。 「斑鳩大地さん、MGC出場が決まりました」 勢いよく啜っていた口が止まる。空いた口が塞がらないのは、焼きそばが噛み切れなかったわけではもちろんなかった。 そして、仮にもランナーである自分にとって、MGCがどういう意味を持つかもわかっている。 「……はひ?」 「おめでとうございます」 ゆっくりと頭を下げた早瀬さんに、反射的にお辞儀を返してから、ようやく麺を噛み切って咀嚼を再開することができた。 「MGC……え、ちょっと待ってください。なんで急に」 正式名称をマラソングランドチャンピオンシップという、東京オリンピックマラソン代表を決める大会。そこへの出場資格の取り方はいくつかあるが、主な方法としては選考対象のマラソン大会で規定以内の順位とタイムを達成することで獲得できる。 ただ、俺はそういった選考対象の大会にはそもそも出場しておらず、当然資格も得られない。 他に世界選手権などの国際大会で一定の順位に入ることでも出場資格を得られるが、もちろん出た覚えはない。 となると、思い当たる方法は一つだけ。 「ワイルドカード、ですか?」 「はい。国際陸連が公認したマラソン大会において、期間内の上位二大会の記録の平均値が2時間11分以内であれば、MGC出場資格を得ることができる。斑鳩さんは、ご自身の記録を覚えておいでですか?」 「そりゃ、まあ。でもセカンドベストは2時間15分台ですよ? MGC資格にはとても」 「先週、チャンジガルマラソンを走ったじゃないですか」 「はい。でもあれは出来立てほやほやの国際陸連未公認大会じゃ」 「公認です」 「マジで!? いや、確か早瀬さん未公認だって言ってたじゃないですか」 「見間違いでした。すみません」 「えー……いやでも、あれもタイムは2時間11分2秒だったから、自己ベストと合わせても1秒足りないハズ」 「それは速報値ですね。正式タイムで1秒繰り上がり、2時間11分1秒になっています」 「……うっそお……」 信じられない。いや、システムとしてワイルドカードがあることは一ランナーとして理解はしていたし、近いタイムを出していたことはわかっていた。 ただ、無理だろうと思っていたものが、急にとりましたと言われてもピンと来ない。 箸に絡めた焼きそばを動かすのも忘れて呆然としていると。 「今のお気持ちは?」 まるでインタビューのように、早瀬さんが聞いて来た。 「おそらく、最後のMGCランナーになるでしょう。その最後の一人が、今まで無名の市民ランナーと聞けば、きっと注目を集めることになると思います。唯一MGC出場権を得た市民ランナーとして、今の気持ちを教えてください」 きっとこの後、確実に聞かれますよ。 彼女はそう付け足すと、見えないマイクを差し出してきた。 いつもクールで疲れたような表情が、今はどこか嬉しそうに見える。 ――――でも、俺は。 「……そうですね、率直な感想としては」 「はい」 「驚き桃の木斑鳩大地!」 キラ☆ 「ぶっとばしますよ?」 早瀬さんめっちゃキレる。 「……まあいいでしょう。とにかく私が伝えたいのは、MGC出場資格を得られたということと、今後とても注目されるので頑張ってほしいということです」 そう言うと、彼女は立ち上がってドアの方へ向かう。 「あれ、もう行っちゃうんですか?」 「他にもいくつか仕事があるので、あまりゆっくりはしていられないのです。あなたと違って」 「大変ですね」 「皮肉が通じない……はあ」 そそくさと靴を履きドアを開けた早瀬さんを、「あ、駅まで送りますよ」と慌てて追いかける。 「結構です、車で来たと先ほど言ったでしょう」 「じゃあ駐車場まででも」 「いりません、焼きそばでも食べててください」 「そんなわけには」 サンダルをつっかけ、慌てて背中を追う、さっきから口元に手をやっていて、何か我慢しているような気がしたのだ。 「早瀬さん大丈夫ですか? なんか具合悪そうというか。吐き気とかないですか」 「ありません、いいから戻ってください」 「でも、さっきから妙に声小さいし、なにかおかしいですよ」 「だからっ」 そう反論しかけたとき。 げっぷ 「……あ」 「……あ、あー」 コーラ、飲んでたんだ。 「……ッ!」 真っ赤に染まった早瀬さんは、ハンドバッグを俺のこめかみに叩きつけると、早足に階段を下りて行った。 遠くなっていく足音を聞きながら、俺は思う。 恥ずかしがる早瀬タン、マジ可愛い。 *** 「たーのしーいアーニメーがだーいすき! いーかるーがだーいちでーす!」 キラ☆ お馴染みの挨拶で入った喫茶店は、いつも通りの閑古鳥だった。 「おういらっしゃい……なんだよまたお前かよ」 「なんだよはないでしょマスター。数少ない常連客は大事にしないと」 「けっ、はいはい何にしますか常連様」 「コーラ一つ」 「喫茶店に来た自覚があるならせめてコーヒーを頼め。ったくよお」 そうは言いつつ、マスターは読んでいた新聞を畳んで腰を上げる。俺はいつもの窓際の席につくと、しばらくしてウエイトレスさんがやってきた。 「お待たせしました、大地さん」 「お、ありがとう空ちゃん。今日も可愛いね」 コーラを受け取りざま褒めたたえると、「あ、あうう……」と赤くなった顔をお盆で隠してしまう。 「ま、またそんな……全然、わたし、可愛くないですよぅ」 「そんなことないさ、空ちゃんに会えるこのひと時がどれだけ僕の救いになっていることか。マイエンジェル、マイスイートハニー、僕の女神様は涼宮空ちゃんただ一人!」 「おいゴラァ! オヤジの目の前で娘口説くなっつってんだろうがぶっ殺すぞ!」 もかくやという怒声が客のいない喫茶店を震わせると、引き時と感じて口をつぐむ。 ふん、と鼻息荒くしたマスターは、再び新聞を広げ、 「……それに、娘は俺に似ちまってるからな。そんな大層な美人じゃねえことはオヤジの俺が一番よく知ってんだよ」 父親の呟きに、空ちゃんはえへへ、と苦笑いを浮かべた。いささか大きな鼻は確かに父親譲りではあるものの、だからと言って彼女の容姿が悪いとは思わない。 化粧っ気がなく、いつだって悪意ない顔で笑ってくれる涼宮空という少女を、誰がなんと言おうと俺は可愛いと思っている。 「まあともかく、今日もいろいろ話そうよ。今季のアニメの話とか、漫画の話とか」 「で、でも、仕事が」 「どうせ誰も来やしないよ。もし来てもマスターが何とかするでしょ」 「勝手なこと言ってんじゃねえぞ」 しっかり聞いていたのか、マスターが口を挟む。 だが、ちらりとこちらを見た後、すぐに新聞に目を戻し。 「……客が来たら仕事に戻れ。それまでは休憩でいい」 「だってさ。ほらほら、こっち座って」 「……う、うん。それじゃ、せっかくなので」 そう言って、空ちゃんは対面の席に座った。 まだ隣には座ってくれないか。 内心少し落ち込んだことは隠して、久しぶりに空ちゃんとするサブカル談義に花を咲かせた。 空ちゃんは今年高校を卒業したばかりの大学生で、高校生の頃から父親の喫茶店を手伝っている。もっと割のいいバイトがいくらでもあるだろうに。 レースへの調整もあって外食は控えていたので、最後にここに来たのはもうかれこれ一か月近くも前になるだろうか。 録りためた新アニメも全部消化して、ようやく話ができるようになった。 空ちゃんとは漫画やアニメの嗜好が近いので、自然と話も盛り上がる。 「しかし、アニメではまだメイン回はないが、俺の推しは先生と、次に先輩だな。先輩の小悪魔っぷりと、照れたときの表情のギャップがたまらん。それに先輩なのに小さくて、先輩として引っ張ってくれつつ、弱ったときには守りたいと思わせる、そんな魅力の持ち主だ。登場時期が遅いからアニメで出てくるか正直わからないが、実に楽しみである。 しかして、先生は、もはや他のヒロインよりも一歩先の関係性を主人公と結んでいるようなエピソードが多く、クールな感じとダメなところのギャップがたまらない。主人公の父親とも繋がりがあったりと物語的にもヒロインにふさわしいし、もはやメインヒロインと言っても過言ではないね」 おっと、つい熱く語り過ぎてしまったか。一方的に話し続けてしまったせいか、空ちゃんが不満げに唇を尖らせている。 「どうかした? 空ちゃん」 「……大地さんは、年上を推すんですね」 ぷいっとそっぽ向いてしまった。別に他のヒロインを否定したわけではないのだが、言い方が良くなかったのだろうか。 「いや、そういうわけでは」 「大地さんは、ああいう女性が好みなんですか?」 空ちゃんが指さした先を目で追う。 ぱりっとしたスーツできびきび歩く、いかにもキャリアウーマン然とした女性。 確かに雰囲気は先生に似ていなくもないが、もう少し固いような気がする。しかし美人だ、すらっとしていてとてもクールな感じ、正直超タイプ。 というかあの女性、どこか見覚えが……。 じっと見つめていると、窓越しの女性と目が合った。 「あっ」 彼女は一度大きく目を見開くと、きょろきょろして喫茶店への入り口を探した後、迷わず中へと踏み込んでくる。 「いらっしゃいませー。ご注文はー?」 マスターがやる気なさそうに対応するが、彼女はまったく聞いていない。 大股に俺と空ちゃんのテーブルに近づくと、ジロリと俺を睨みつけ。 彼女。早瀬海香は怨念でもこもった様な声で言った。 「……やっと見つけましたよ、斑鳩さん」 早瀬さんはコーヒーを頼むと、俺の隣に座った。 マスターが持ってきたコーヒーをブラックで一口飲むと、やがて切れ長の目で俺を見据える。 「いくら電話しても繋がらないのですが、通話料払っていないんですか?」 「や、流石にそれは」 珍しい早瀬さんの冗談に笑って応じつつ、スマホを確認。 「ありゃりゃ、電池きれてました」 なっははー! と笑ってごまかすが、眉間にしわを寄せて睨まれると嫌な汗がつうっと背中を伝い、とても冗談では済まないことを思い知らされる。 怒りのお説教か、と覚悟したときだった。 「あの、こちらの女性は?」 向かいの席に座ったままの空ちゃんが訪ねてきた。 早瀬さんの来店から間もなく、ちらほらと他のお客さんも入ってきていたのだが、空ちゃんは仕事に戻らなくていいのだろうか。 「そう言えば紹介したことなかったっけ。俺がいつもお世話になっているマラソンコーディネーターの早瀬さん」 「初めまして、早瀬海香と申します」 「マラソン……コーデ?」 「まああんまり馴染みないだろうね。マラソンコーディネーター」 つまりさ、とざっくり簡単に説明していく。 「基本的にはそのままの意味で、その人に合ったマラソンを、コーディネートしていく仕事。例えば俺の場合、いついつの大会に出たいですーとか、記録を狙いたいから気温が低くてフラットなコースの大会が良いですとか、そういう要望を出していって、ちょうどいい大会を推薦してもらうわけ。俺は自己ベストで2時間10分台の記録を持ってたから、ちょっとしたアレもあって希望すれば招待って形で呼んでくれる大会も多いのよ。ただ、個人でやるには色々難しいってことで、早瀬さんみたいなコーディネーターにお願いするってわけ」 ちなみに『ちょっとしたアレ』とはコスプレのこと。忍者やジャパニーズキャラクターの仮装ランは海外の人にも評判が良い。 「はあ……つまり、プロ野球における代理人みたいなものですか?」 「大体そんな感じです。日本だとエリートランナーは実業団に所属する人が多いので、あまり馴染みがない職業でしょうね」 ただ、と一つ間を置いて、早瀬さんは続ける。 「日本マラソン界のレベルが上がってきているように、市民ランナーのレベルも間違いなく上がってきています。いずれは斑鳩さんのように、市民ランナーでも実業団ランナーとそん色ない選手が出てくるでしょう。そうなれば、自然とマラソンコーディネーターも浸透していくようになるはずです」 今はもうプロランナーになってしまったが、以前かの有名な公務員ランナーもコーディネーターのお世話になっていたというネット記事を見たことがある。早瀬さんとの出会いもその記事からだが、彼女がいなければランナーとしての今の自分はないだろうことは間違いない。 「ところで、あなたは?」 早瀬さんが空ちゃんを見据える。 普段なら戸惑いそうな空ちゃんだが、今回は早瀬さんをキッと正面から見返した。 「わたしはこのお店で働いている者です。大地さんは良く来てくれるお客さんなので、仲良くさせてもらっています」 「涼宮空ちゃん。今年から大学生だよね。そういえば、まだ卒業&入学祝いのプレゼントって送ってなかったね、あとでなんか渡すよ」 「あっ、いえ、そんな、おかまいなく」 「いやいや、こういうのは大事なことだよ。今すぐってわけにはいかないけど、楽しみにしていてくれると嬉しいな」 「はい……ありがとうございます」 「……仕事してないくせに」 ボソっと早瀬さんが呟いた。「何か言った?」と聞くと、「いえ」と元の声音に戻し、 「それより、今日は大事な話があって参りました」 「大事な話?」 「これからMGCまで、私が斑鳩さんを専属で見ることになりました。ついてはマネジメント全般を、私が担当することになりますので、よろしくお願いします」 「えっ!?」 「嫌なのですか?」 ジロっと睨まれ、「嫌というわけではないけど」と慌てて言い訳する。 「ただ、早瀬さん俺以外の人も担当してるでしょ。その人たちはいいの?」 「知り合いのマラソンコーディネーターに一時的に代わってもらったり、事情を説明してしばらく外れることを了承してもらっています。何より、これは私にとってもチャンスですから」 「と言うと」 「マラソンコーディネーターを全国に知ってもらうためです。ランニングブームに盛り上がる昨今、エリートランナーやシリアスランナーは言うに及ばず、サブ5、サブ4、ファンラン目的の市民ランナーに至るまで、日本全国・世界にあるマラソンを一人一人に紹介し、適した大会を推薦するマラソンコーディネーターは、もっともっと広い裾野で活躍できる仕事です。だからこそ、市民ランナーである斑鳩大地の活躍はマラソンコーディネーターの宣伝としても良き機会となり、私が担当するあなたが日本代表ともなれば私にもメリットが大きい。これは私にとってもチャレンジなのです」 眼鏡越しでもわかるほど、早瀬さんの目には情熱が灯っていた。 俺の活躍が、早瀬さんにとってもチャレンジになる。 意識した瞬間、ズシンと腹の奥に重い物が落ちてきたような気がした。 「……わかった。よろしくお願いします」 「はい。こちらこそ」 ふう、と一息つくと、「これからのことですが」と続けた。 「練習メニューやとMGCに向けた今後の大会スケジュールなど、色々な決め事も追々詰めていくとして、一つ斑鳩さんに伝えておきたいことがあります」 「というと」 「簡単に言えば協力者の確保ですね。スタッフと言ってもいいかもしれません」 「どういうことですか?」 一人ポカンとしていた空ちゃんが疑問を示す。俺自身整理する意味も込めて、簡単に説明してあげた。 「例えば地方でマラソン大会があったとして、そこに向けて練習しようとしたらタイムを計ったり、給水をしてくれたりしてくれる人がいると練習が捗るでしょ? 他にも前日入りとなったら、ホテルの予約や開催地への交通ルートの確認。レース本番だったら、コース沿道にいてもらって、先頭と何秒差とか、コーチからの指示を伝えたりとか。助けてくれる人が多ければ、それだけやれることも増えるし、選手の負担も少なくなる」 「他にも、日々の食事メニューや専属のトレーナーなど、本人ではフォローしきれない部分を補ってくれる人もいれば大きな存在です。実業団選手ならすでにチームに担当者がいるでしょうし、プロランナーなら自分で選んだ専門家を集めてチームを作ります」 そこまで言ってから、あからさまに大きなため息をついて。 「まあ、普通の市民ランナーに過ぎない斑鳩さんではこうした人材を集めるのは困難でしょう、収入もないし。とりあえず話だけ耳に入れてもらって、何か機会があれば考えてみてください」 ……はい。親のすねかじりですみません。 その後、次回の打ち合わせの日程などを決めて、早瀬さんは店を出た。 彼女が居なくなった途端、力が抜けてぐったりと背もたれにもたれかかる。早瀬さんの前だと、どうにも体が緊張した。 「……あの人、すごい人ですね」 ぽつりと空ちゃんが言った。そろそろお客さんも増えて来たけど、仕事に戻らなくていいのかなと心配になる。カウンターに目をやると、マスターが忙しそうに立ち回り、俺の視線に気が付くと恨めしそうにこちらを睨んできた。 「まあね。仕事熱心だし、小さな大会まで良く知ってる。担当しているランナーが出てなくても、自費で世界の大会を見に行って特徴を調べたり、運営に会ってコネクションを作ったりしているみたいだからね。尊敬するよ」 それだけの人が、これから四か月の間自分に専念してくれる。先ほど感じた腹の奥の重みが、また一段と増した気がした。 「……あのっ、わたし、仕事戻ります」 俯いたまま空ちゃんが立つ。 「あっ、ごめんね、長く引きとめちゃって。それに、話も途中になっちゃったし」 「そんなことないです。わたしが勝手にいただけだし、楽しかったですから」 軽くお辞儀して、一度カウンターに入ってから空ちゃんは仕事に戻った。 しばらくぶりに一人になり、まだ残っていたコーラに口をつける。 氷が解け、炭酸も半ば抜けたコーラは正直に言って美味しくなかった。 *** 河川敷から眺める景色も、一年をかけて少しずつ変わっていく。 四月には菜の花が一面に咲く河川敷も、五月半ばとなれば鬱蒼と草が生え、虫が飛ぶ。 先週来たときは虫だらけでとても走れる状態ではなかったが、昨日より少し気温が下がった影響か、草刈されたことで虫が移動したのか、ともかく平和な状態に心からほっとした。 チームに所属せず、練習拠点のない俺にとっては河川敷が最高の練習場だった。 というか、消去法でここしか残っていない、ともいえる。歩道じゃあまりスピード出せないし、何より危ない。 河川敷なら信号もなく、起伏も少なく、基本的にいくらでも走れる。見晴らしが良いので気を付けていれば誰かとぶつかる心配もない。 GPSウォッチで走った距離と時間を計りながら、自分だけの走りに専念できる。 が、今日は違った。 「お待たせしました、準備はよろしいですか」 今日はスーツ姿ではなく、動きやすいジャージ姿の早瀬さんが確認する。ただ、俺としては彼女の後ろの男の方が気になった。 あまり身長による有利不利がない長距離において、180センチはあろうかという長身ランナーは珍しい。しかし細い印象はなくがっちりとした体つきで、パワフルな走りが容易に想像できた。 そのうえ坊主頭で顔も濃く、一度見れば忘れない男と言えるだろう。 「先に紹介しておきますね、彼が今日の練習パートナーとして来てくれた」 「知ってますよ」 彼女を遮り、頭一つ高い相手を見据える。 「安国寺正道。箱根駅伝三年連続区間賞、四年時には山登りの五区で区間賞を獲得、当時山の神と呼ばれていた柱谷に一分差をつけて圧勝した。一度しか五区を走らなかったことや、チームが優勝できなかったため山の神の異名こそつけられなかったものの、その圧倒的な走力から『神を超えた神』と称えられた男」 「あの年は元々五区を走る予定だった選手が二人とも調子が上がらんくてなあ。まあ一年に良いのがいたんでそいつに二区を任せて、俺が山上ったんだが、やっぱ準備しとらんとダメだな。あと一分は短縮できたわ」 がははは、と豪快に笑う男だが、嫌味も誇張も感じられない。本当に準備時間が足りなくて、もう少しきちんと準備して挑めば本当に一分縮められた自信があるのだろう。 テレビの中の人物が目の前にいることに、我知らず唾を飲み込んだ。 しかし、この顔でまだ三十歳、俺と一つしか変わらないのか……。 超絶老け顔! 「それじゃ、今度は斑鳩さん、お願いします」 「はーたらーく、ことーがだーいきーらい!」 バ! ババ! 「いーかるーが、だーいーきです!」 キラ☆ ポーズにウインクもつけた自己紹介に、早瀬さんがなぜか頭を抑えて天を仰いだ。 ぽかんと口を開けたままだった安国寺は、やがて、噴き出したように盛大に笑う。 「ぶっははは! なんだお前面白いな!」 バシバシと背中を叩かれ、背骨が折れるかと思った。 「気に入ったぞ三十四画! さあ走ろうじゃないか!」 三十四画? 何言ってんだコイツと思ってから、ふとある日の陸上雑誌のインタビュー記事を思い出した。確か人の名前を覚えるのが苦手とかで、失礼のないようごく親しい人を除いて画数で呼ぶことにしたそうだ。そっちの方が百倍失礼だろ。 「はいそこまで。自己紹介も終わったので今日の練習メニューについて説明します」 早瀬さんが手を叩くと、安国寺が隣に並ぶ。近くに来ると、身長差がより伝わってくる。 「今日はビルドアップ走をします。これからウォーミングアップを兼ねて軽く2キロをジョグで。そこから1キロ4分から徐々にペースを上げて、トータル12キロ、ラスト2キロをキロ2分50秒から3分フラットのペースで戻ってきてください」 「「はい!」」 二人の声が重なった。 キャラ被ってやがる。上げてない方の手で脇を隠すとこまで一緒だったぞ。 「3キロ走ったら、ここまで戻って逆方向にさらに3キロ、そこから戻って計12キロの二回折り返すコースです。では、アップはもう済んでいるようですので。用意がよければ始めましょう」 「ウム、オレがペースを作ればいいのだな?」 「はい、戻ってきたときにドリンクを用意しておきますので」 「わかった」 軽く手足を伸ばし、GPSウォッチを用意。 安国寺と並んで、スタートを待つ。 「むっ。三十四画、靴ひもがほどけているぞ」 「え? いや別に……」 「GO!」 「あ、て、てめえ!」 視線を外したすきに一人走り出した安国寺を、慌てて追いかける。 一時三メートル近く離されたが、最初の二キロはウォーミングアップ代わりのジョグだ。大して急がないので、案の定すぐに追いつくことができた。 そもそも競う理由もないので、さっきのは本当にただの子供じみたイタズラでしかない。 「やってくれましたね、安国寺さん」 「時に三十四画、お前の弱点はスピード不足だな?」 先ほどまでのおちゃらけた空気はどこへ行ったのか。安国寺の声は低く、真面目なものになっていた。 「徐々にペースアップしていくビルドアップ走はスタミナとスピードを同時に鍛えることができる。特に速いペースであれば、より速い人に引っ張ってもらうことで本来出せないスピードを出すことができる。高付加で高い効果を期待できる練習だ」 「ああ、ええ、まあ」 「ましてお前はトラックでの記録がない。今より上の世界へ行くためには、どうしたってここがポイントになってくるだろう。今後の練習も、主目的はスピード強化かな?」 「さあ、どうですかね」 言葉を濁したのは情報を隠したからではなく、単純にまだ決めていなかっただけだった。 ただ、俺の返事をどう受け取ったのか、安国寺はちらりと一瞥し、すぐに前に視線を戻す。 「……だからお前のような奴は嫌いなんだ」 「えっ?」 上手く聞き取れず聞き返したが、ちょうど二キロを超えてペースが上がるところだった。 グッと上がったスピードについていくため走りに集中する。安国寺も話しかけて来なくなり、風を切る音だけが全てになった。 三キロで折り返し、二キロごとにペースアップして、予定通りスタート地点の六キロで早瀬さんからスポーツドリンクを受け取り水分補給。フタを閉めて人に当たらないよう草っ原に放る。後で早瀬さんが回収してくれるはずだ。 順調に刻んでいたペースが崩れたのは、七キロを過ぎた辺りだった。 一定の距離を保って走っていたはずが、前を走っていた安国寺の背中にぶつかりそうになる。ペースを上げ過ぎたかと少し落とすが、時計を見るとペース自体が落ちていた。 「安国寺さん、ペース落ちてますよ」 単なるペースダウンなら良いが、もし何らかのアクシデントなら危ない。心配して声をかけたが、安国寺の反応は至って平然としていた。 「おう? そうか、すまなかった」 「え、ちょ」 言うが早いか、安国寺がスピードを上げる。急なペースアップについていけずあっという間に十メートル近く離された。 何だ急に、と言いかけたのをどうにか堪え、追いかけるべく一度だらりと両腕を下げる。大きく深呼吸して、急激なペースアップに向けて心身の態勢を整えた。 ぐっと地面を強く蹴り、小さくなっていく大きな背中を追いかける。ピッチもストライドも早く大きくなり心拍数の上昇を自覚するが、とにかくついていかなければ練習の意味がなくなる。 かなり開いたように見えたが、加速するとすぐに背中は大きくなり、思ったより早く追いつくことができた。 そこでGPSウォッチが八キロの経過を知らせる。タイムは3分20秒ジャスト。ペースの上げ下げこそあったが、1キロごとのタイムは設定通りだった。 ――――いや、ひょっとして。 嫌な予感は的中した。ちらりとこちらを振り返り、ニヤリを笑ってみせると、右手でついてこい、とアピールすると、またもペースががくんと落ちる。 コイツ、わざとペースを上げ下げして遊んでいやがる! なめられてたまるかと歯を食いしばり、急なペースの変化に備えるが、本気でついていこうとした分ハッキリと力の差を感じる結果になった。 残り3キロまではくらいついたものの、折り返しで大きく減速すると安国寺は一気にスパート。一度ゼロ近くなったスピードからまたアクセルをかけるには時間を必要とし、ジリジリと離されていく。時々振り返っては俺の様子を確認し、『おっ、まだ着いてきてるじゃないか』と言わんばかりの笑みには腹を立てたが、残り2キロでそんな思いもすぐに霧散した。 ラスト2キロで3分を切るペースまで上げた安国寺は、手をひらひらさせてお別れの合図を送ると、今度は振り返ることなく引き離していく。急激なペース変化でスタミナを削られた俺に追いかける余力はなく、苦々しく見送りながら残り2キロの自分にできる最速のペースで走り続けた。 自分の最速で追いかけてなお、悠々と走る安国寺がどんどんと小さくなっていく光景に、確かな力の差を感じずにはいられなかった。 安国寺から遅れてゴール地点まで遅れて戻ってくると、早瀬さんがドリンクを持って待っていた。 「お疲れ様です、はい」 「ありがと、ざーす」 荒れた息を整えながら、スポーツドリンクを一気に喉へ流す。キンキンに冷えた水分が体中に流れて行き、比喩として最上級の「生き返る」という実感を味わった。 「っはー! 美味い! ポカリ最高!」 よくよく見れば、早瀬さんの足元にはクーラーボックスが置いてあった。わざわざ用意してくれたのか。 ちなみに走っている最中は冷えていると体も冷えるし、かえって飲み難い。そのため、途中の給水ではあえて常温にして渡してくれていた。 選手のことを考えた配慮に感激していたが、早瀬さん本人は浮かない顔をしていた。 「……ごめんなさい。あなたの記録から推測してこの設定なら消化できると思ったのだけど。私の設定ミスです」 俺が最後に安国寺についていけなかったことに責任を感じているようだった。 だが、一定のペースアップを守ったビルドアップ走であれば最後まで行けた感覚はある。ついていけなかったのは、ペースメーカーの無茶苦茶なペースメイクのせいだ。 流石に文句の一つでもつけてやろうかと睨み据えると、安国寺は素知らぬ顔で、ちょいちょいと俺を呼びよせ、早瀬さんに見えない角度で両手を合わせて頭を下げた。 「今日はすまなかったな。君の実力と言うやつを見てみたかったのだ」 「実力?」 ようやく呼吸が落ち着いてきた俺と比べて、幾分早く戻ってきたとはいえほとんど疲労を感じさせない姿は、まだまだ余力を残していることを伺わせた。 そんな格上の人間が、滑り込みでMGCに間に合ったような市民ランナーの実力など気にするのだろうか。 「自覚がなさそうだが、今の陸上長距離界で君のことはちょっとした噂になっているのだよ。実業団はおろか、学生時代にすら陸上部に所属してなかった生粋の市民ランナー。MGC選考対象の大会を一度も走らず、ワイルドカードで出場権をとった変わり者。トラックでの記録すらない正体不明の異端児。それが君だ」 安国寺が朗々と語る。 なんだろう、すごい照れる。 「いやあ~それほどでもないですよ~」 「ああ確かに、それほどでもなかったな」 あっ、ダメ出しする流れすか。 「今日一緒に走って確信した。君がMGCで勝つことはない。故に君は脅威にはなりえない」 「何故そうと言い切れるのですか」 聞き返したのは早瀬さんだった。いつもクールな彼女の瞳が、今は怒りに似た火を放っているように見える。 「気を悪くしたなら謝罪しよう。だが、弱点は弱点として把握しておくべきだ。君たちは、斑鳩大地の弱点をスピード不足だと思っていないか?」 「……それが違うとでも?」 「間違ってはいない。だが、それ以上の弱点が彼にはあるということだ。東京五輪出場権を賭けて戦うにあたり、最も致命的な弱点が。それに気づかぬ限り、君が勝つことはない。そして、それはたった数か月で克服できるものでもない」 言い終わった瞬間に、風が強く吹いて行く。もう五月だというのに、冷たい風だった。 「だからまあ、呼ばれればまたいつでも練習には付き合おう。好きな時に呼んでくれ」 「いいんですか?」 「ウム、普段から一人で練習しているからな」 「安国寺さんて確か実業団に所属しているはずじゃ」 「そうなのだがな、一緒にやろうと声をかけるとコーチが寄ってきて、別メニューだからと言って聞いてくれないのだ。仲間のためなら喜んでペースメイクするのだが」 シュンと落ち込んだ安国寺に、思わず納得の息が漏れた。初対面の練習パートナーに何も言わず滅茶苦茶な揺さぶりをかけるような男である。悪気はないのだろうし、より負荷の強い練習をアシストしているつもりなのだろうが、日本トップクラスの選手にそんなことをされてはたまったものじゃない。 「それにだ」 安国寺はそっと身をかがめて、耳打ちする。 「君の練習に付き合えば、また早瀬氏と会えるだろう? そのためなら、記録会だってぶっちぎって駆けつけよう」 「ちょ、おま」 「ハッハッハ! これはオフレコで頼むぞ三十四画! あとできれば良い感じに言っといてくれたまえ!」 豪快に笑った安国寺と、最後に軽く挨拶を済ませて見送る。この後、再びチームの練習場に戻って走るそうだ。 「なんていうかこう、格の違いを感じるなあ」 俺は精一杯で走って置いていかれる。 方やぶっちぎりに引き離してなお物足りなさを感じる安国寺。 日本トップ選手との差を如実に実感した瞬間だった。 ふと視線を感じて振り返ると、早瀬さんがむすーっとした顔でこっちを見ている。 「どうかしました?」 「いえ、あまり悔しそうに見えないので」 「そりゃそうですよ。安国寺正道は日本長距離界の『BIG4』の一人。一方ワタクシはギリギリで滑り込みセーフの市民ランナー。どっちが主役かなんてわかりきってるじゃないですか」 「……そうですか」 なおも不満げに唇を尖らせた早瀬さんは、重たいクーラーボックスを持ち上げて帰ろうとする。 「あっ、俺が持ちますよ。重いでしょ」 「結構です。練習でお疲れでしょう。体を休めてください、無理せずに」 「無理じゃないですよ」 クールなのはいつもだが、今はどうにも機嫌が悪い。怒るときにはしっかり怒る人がヘソを曲げるのは珍しく、どうしていいのかわからなかった。 *** 六月のカレンダーに切り替わって間もなく、梅雨入りが発表された。 別に雨の中でも走れないわけではないが、蒸し暑いし視界が悪くて事故に遭う危険も高まる。いつもより練習量を落とすのが常だったのだが。 「……空ちゃん、これ、マジ、しんどい」 「がんばってください、もう少しです」 走らない代わりに、早瀬さんから指示されたのが自宅でもできる体幹トレーニングだった。要は体の中心部分を鍛えることで、長くフォームを維持できる体を作り上げる。体幹トレの必要性は以前から指摘されているところだが。 「はい、そこまで」 「ぐへえ。うう、ツカレタ……」 空いた時間に適当にやる程度で、本格的に取り組んだことはなかった。その分短い期間でも効果が期待できるとは早瀬さんの言葉だが、正直ただのトレーニングなので楽しくない。 「アニメ見ながらで良くない? こう、やる気も出るし」 「集中できなさそうだからダメです。終わったら見ましょう」 「うう、厳しい」 どうにかこうにかメニューをこなして床に突っ伏す。 MGCまで三か月を切り、俄かに熱気が高まるのは感じていた。初めて陸上関連の雑誌から取材を受け、市民ランナーと言うこともあってか俺の経歴をピックアップしたネットニュースもちらほら見る。 徐々に注目を集めるだろう、という早瀬さんの言葉が確実に現実味を持ち始めていた。 「……大地さん、ポカリ飲むんですね」 「ん?」 なんせボロアパートなので冷房がない。運動後の体に蒸し暑さがプラスされ、結構な汗をかいた。水分補給は大切だ。 「空ちゃんアクエリ派?」 「いえ、そうではなくて、コーラじゃないんだなって」 「あー、まあ、本番もあるしね」 「でもまだ三か月も先じゃ」 「うーん、そう、ではあるんだけど」 どうにも歯切れ悪い返事になった。 「基本的に大会前は炭酸控えることにしてるから。コーラは大会が決まってない時期とか、終了後の自分へのご褒美って感じにしてる。体重管理もあるし」 「そうでしたか、良かった」 胸をなでおろした空ちゃんは、ほっと一息ついて。 「なんだか大地さん、あまり乗り気じゃないような気がしていたので、ちゃんとやる気なんだとわかって安心しました」 「……そりゃ、そうだよ」 返事に少し間ができたことは、気づかなかったことにした。 意識して明るい声を出す。 「なんたって、日本のトップランナーが集まって東京オリンピックの代表を決めようっていう大会だからね。一ランナーとしては一世一代の大舞台だし、そりゃ精一杯頑張りますよワタクシは」 「ですよね、そうですよね! よし、じゃあ、はい!」 勢いよく手を挙げた空ちゃんは、ごそごそとカバンを開けて、何かを取り出した。 「あの、これ、良かったら食べてもらえませんか」 差し出されたのは、お弁当だった。 「えと、これ、ひょっとして手作り?」 こくんと頷く空ちゃん。少し赤らんだ頬に、天にも昇る心地だった。 ひゃっふうううううううううううううう!!!!!!! 「い、良いの?」 「そのために、作ってきました」 「いただきます!」 両手を合わせてすぐに蓋を開ける。 まず目に入ったのは、少し色の変わったご飯。古くなった米かとギョッとしたが、「胚芽米です」とすぐに説明してくれた。 「普通のご飯に比べてビタミンが多いのが特徴です。それに豆腐ハンバーグと、ひじき入りの五目豆。卵スープもあります」 そう言って、水筒からカップに注ぐと、温かそうな湯気が立ち上る。 デザートのバナナまで眺めてから、なんだかお弁当っぽくないなという感想を抱いてしまった。普通にたこさんウィンナーとか入ったお弁当をイメージしていたが、何というか随分と体に優しそう。 「あの、これから大地さんの食事、わたしに作らせてもらえませんか!?」 な、なんですと!? そ、それはつまりケッコ 「以前早瀬さんが言ってましたよね、栄養管理のできた食事を作る人も必要だって」 ああそっちね。 「わたしも栄養士目指してますし、仮にも実家は飲食店ですし、家でも時々作ってます。精一杯頑張るので、お願いします!」 直角になるまで深々と頭を下げられて、いやそうでなくても、断る理由は一つもない。 「もちろん大歓迎だよ! こちらこそよろしく空ちゃん!」 レースに向けてより良い調整ができるとかそういうことよりも、身近な人が俺のために頑張ってくれるというその事実が一番に嬉しかった。 たとえ彼女が三食カップめんを用意しようとも、俺は文句ひとつ平らげる自信がある。 「じゃあ早速、食べてもいいかな」 「は、はい! さめる前に、どうぞ。あっでも、トレーニング終わってすぐじゃ」 「大丈夫大丈夫、ちょっとくらい」 腹筋に若干の張りは感じたが、胸のドキドキが不安を上回っていた。 まずは湯気の立つ卵スープをひとすすり。うーん、温かなスープは塩分を控えてか随分と薄味で……うん。 うすい……。 俺が浮かべているであろう、何とも言えない表情に気づいた空ちゃんが、あわててカップを取り上げ口をつける。 「ああ、味がしない。ひょっとして水の分量間違えた……?」 「まあそういうこともあるよね、さて、ごはんごはん。うん。固い」 「炊飯時間間違えた!?」 「豆腐ハンバーグはと。そうだね、豆腐は醤油と相性抜群だよね」 「あー! デミグラスソースと醤油間違えたー!」 「お、落ち込まないで空ちゃん、ほら、バナナは美味しいよ、うん」 とても慰めにはならない慰めをかけ、感謝を示す。『気持ちだけで嬉しいよ』という言葉はこういうときに使うのだなと思ったが、使ったら余計追い詰めそうなのでぐっと堪えることにした。 なお、初めてもらった女の子からの手作り料理なので、残さず全部食べきった。 トイレにこもるのは彼女が帰るまで堪えた。 *** それから数日後、空ちゃんのいる喫茶店とは別の店で、インタビューを受けることになった。 平日の午後と言うこともあり、お客さんの数も多くない。 「斑鳩さん、絶対に変なこと言わないでくださいね」 「変なことって?」 約束の時間が近づいてきてそわそわする俺に、付き添いの早瀬さんが釘を刺す。 「常識的なことです」 「はいはい」 記者を待つ間に、頼んでいた飲み物が来てしまった。 「ご注文の紅茶とほうじ茶、お持ちしました」 「どうも」 飲み物を受け取り、会釈してウエイトレスさんを見送る。 「早瀬さんは今の時間に紅茶を飲むんですね」 「はい。それが何か?」 「いえ、ただこう思っただけです」 一泊置いた後、500ミリのペットボトルを持った振りをして。 「これが本当のサントリー 午後の紅茶」 「そういうくだらないことを言わないでくださいと先ほど言いました。大体、午後の紅茶は伊藤園ではなかったですか?」 「午後の紅茶はキリンですよ」 上から降ってきた声に顔を上げると、記者らしい人が立っていた。 男か。残念。 「お待たせしました、『マラソンマガジン』の井上と申します。本日は取材をお引き受けいただき、まことにありがとうございます」 「あ、いえ、こちらこそ」 間違いを指摘され、多少照れもある早瀬さんが慌てて会釈する。 彼が頼んだコーヒーが来てから、改めて取材が始まった。早瀬さんが自分の名刺を渡し、自己紹介をしていく。 「初めまして、マラソンコーディネーターの早瀬と申します。そしてこちらが」 「アーニメーとマーンガーがだーいすき! いーかるーがだいちでーす!」 キラ☆ 「あ、今のところ記事にするときは☆でお願いしますね、キラと☆でキラ☆にしてください」 ポーズをとりながら説明する傍らで、早瀬さんが額を抑えていた。 「はい、わかりました(笑)。では早速聞いていきたいと思います」 なんか今の、記事になったら(笑)とかつきそうな反応だったな。 「斑鳩大地さんは、変わった経歴の持ち主ですよね。大学はおろか高校でも陸上部に所属していない。ランニングはいつ頃から始められたんですか?」 「走るのは好きでしたから、ただ走るだけなら小学生くらいから走ってましたよ。高校くらいから、10キロ程度の市民マラソンにも出るようになって。そうですね、考えてやってたわけじゃないですけど、市民ランナーになったのはその辺りからだと思います」 「では、練習は全てお一人で?」 「はい。本で調べたり、今はネットでも練習方法が検索できますから。見つけた中から自分に合ってそうなのを探して、気の向くままにやってきたらここまで来てしまいました」 「なるほど。MGCには、市民ランナーとして唯一の参戦となりますが、何か思うことはありますか?」 「ハッキリ言って、今の自分では日本のトップランナーと大きな力の差があると思っています。ただ市民ランナーの中にも力のあるランナーは確実に増えて来ています。今後ますます増えていくであろう多くの市民ランナーの代表として、恥ずかしくないレースをしたいですね」 ちらりと、早瀬さんがこちらを見たのがわかった。今のセリフは、以前彼女が言っていたことを微調整しただけなのだが、井上記者はうんうんと深く二度頷いて。 「なるほど。ところで斑鳩選手は実業団に所属しているわけではありませんが、MGCの後、あるいは東京五輪の後、どのような展望を抱いていらっしゃいますか?」 「展望?」 考えてもいなかったことに、思考が一瞬止まってしまう。 そもそもMGC自体が降ってわいたような出来事だったのだ。その後のことなど何も考えていない。 返答に詰まってしまい空いた間に、早瀬さんが助け船を出してくれる。 「今はMGCに集中したい、というのが本人の考えです。まだ具体的なスケジュールは組んでおりませんが、MGCに選ばれたことで知名度も上がるでしょうし、仮装ランなどファンランにも積極的な彼であれば、エリート選手とは異なる形で日本マラソン界の盛り上げに貢献できるのではないでしょうか」 要は『これまで通り』ということを、それっぽく言い換えただけだった。 かれこれ15分ほど取材を受け、当たり障りのないことを答えていく。 「では最後に、MGCに向けて一言お願いします」 「力不足ではありますが、精一杯頑張りますので、応援よろしくお願いします」 こうして取材が終了し、記者が席を立つと、緊張が解けてどっと疲れが押し寄せてきた。 「少しは緊張していたんですね。意外でした」 「俺はこう見えて人見知りなの。初対面の人は苦手」 「よくそれで第一声にアレができましたね」 緊張が一周まわって変なテンションになったやつだね。長続きしないハイテンション。 早瀬さんは二杯目の紅茶を頼むと、「しかし、挨拶以外は随分と普通でしたね」と前を向きながら聞いて来た。場所を移動していないので、記者が居なくなっても隣同士に座っている。 「真面目に答えろって言ったの早瀬さんでしょうに」 「本気ではないからではないですか?」 同じく二杯目のほうじ茶を持った手が止まる。 「斑鳩さん。四月のマラソンを探しているときに、国際陸連非公認コースの大会を希望されたのは何故ですか? 自己ベストが2時間10分59秒。もう一度2時間10分台を出せばMGCが決まるというときに」 「それは……ていうか、今」 「はい。チャンジガルマラソンが公認コースであることは最初から知っていました。私があなたにMGCへ出ていただくために嘘をついたことは謝ります。しかし私には、MGCをむしろ避けているようにすら感じられました。やろうと思えば、選考大会に出場してもっと早く出場権を得ることもできたのではないですか?」 彼女は決して俺の方を見なかった。まっすぐに前を見据えながら、声だけをこちらに振り向けてくる。 手にしたほうじ茶を口につける。いつの間にか張りつくように乾いた喉が潤っても、言葉が出てこなかった。 彼女がどれだけ本気でMGCに取り組んでいるかを、傍でサポートしてもらっている俺が一番良くわかっているからだ。 「……ガラじゃないんですよ」 「ガラとかそういう問題では」 カッとなったような返事にかぶせるように、言葉を続ける。 「走るのは楽しいですよ。もちろん苦しくて辛いけど、それに見合うくらいには楽しい」 走るだけのシンプルなスポーツである分、極限まで肉体を酷使するのがマラソンだ。だが、摩耗するのは肉体より精神の方が早い。大体いっつも途中で苦しくなり、毎回必ず一度は嫌になるのだが、不思議とまた走りたくなるのがマラソンなのだ。 でも、そういうことではない。 「……中学のときに、一回だけ駅伝出たことあるんですよ。陸上部はあったけどあんまり強くなくて、校内マラソンで勝った俺が助っ人で呼ばれて。十人くらいは抜いたと思う。区間順位も俺が一番良かったんじゃないかなあ」 考えてみれば十年以上も前の話か。随分と懐かしく感じるわけだ。 「まあ普通に褒められて、感謝されたんですけどね。その後トイレ行ったら、個室から泣き声がして。クラスメイトだったし、声ですぐわかった。ああこいつ、俺のせいで大会出られなかった奴だなって」 活躍はしたが、区間賞をとったわけでもチームが全国に行ったわけでもない。三年間苦楽を共にしてきた仲間を追いやって、助っ人の自分が入って稼いだ十二、三個くらいの順位上昇にに、果たしてどれだけの価値があったのだろうか。 「まあ要するに何が言いたいのかっていうと、走るのは楽しいし、応援されるのも嬉しい。だから俺は俺のために走るけど、誰かを蹴落としてまで自分が前に行きたいとも思わない。一緒に走る選手は俺にとってみんな仲間で、勝負する敵じゃないんです」 MGC選考レースは、日本人六位以内でタイムが2時間10分以内、または日本人三位以内で2時間11分以内であればMGC出場資格を得ることができる。逆に言うと、もし俺が2時間11分以内の記録で三位に入った場合、四位の選手が規定内のタイムでも出場資格を得られなくなってしまう。 勝負の世界だから当然と言えば当然だが、高校大学、そして実業団やプロとして必死にやってきた人たちを、市民ランナーとしてぬくぬくとやってきた自分が押しのけて入ることに罪悪感じみたものを感じていた。 「だから、俺は俺の走りをする。でもそれは多分勝つための走りじゃないんだと思う。俺はきっと、どこまでも市民ランナーなんだろうな」 以前早瀬さんは、マラソンコーディネーターという職を広めるために、俺を全力で応援すると言ってくれていた。俺の言葉は彼女を深く裏切っただろうことは間違いない。軽蔑されても失望されても仕方ないと思った。 「……そう、ですか。いえ、それでいいと思います」 すっかり冷めた紅茶を置いて、彼女はそう呟いた。 「楽しいから走る。相手と競うのではなく、高め合う。確かにアスリートの姿勢とは違うのかもしれない。でも一方で、市民ランナーとしてのあるべき姿の一つなのかもしれません。少なくとも、私が見てきた斑鳩大地の走りは、思い返せばそういうものでした」 良いじゃないですか。彼女はそう言って、久しぶりにこちらを見返した。 「まったく、インタビューでもそれを言えば目立ったでしょうに」 「いやでも、勝ちたくないようなコメントはどうかなって」 「まあそうかもしれませんが、あなたらしくて私は良いと思いますよ」 そう言って、彼女は口元に小さく笑みを浮かべた。 ひとまず受け入れてはくれたのだろうかと、ほっとする。 ただ、MGCへ向けて感じていた漠然とした不安を言葉にしたことで、より輪郭を濃くしたようには思う。 ふと、安国寺の言葉が脳裏をよぎる。 『君がMGCで勝つことはない。故に君は脅威にはなりえない』 単純に実力を見極めての発言かと思っていたが、思い返すと少し違う気もした。実力以前に、決定的に違う何かがあるような言い方に聞こえる。 そしてそれは、俺が市民ランナーであることと近いのかもしれない。 さて、どうしたものか。 ふんと息を吐き、窓の外を見やる。梅雨は今だあけず、空は雲に覆われていた。 *** MGC本番を明日に控え、夕食を済ませる。 「ごちそうさまでした」 両手を合わせると、「お粗末様でした」と空ちゃんが答える。 「今日も美味しかったよ」 「本当ですか?」 「今日は本当」 「あっ、ひどい」 二人で笑い合う。東京の九月といえばまだまだ酷暑が続くが、夜ともなれば扇風機だけでも過ごせる程度には熱さが和らいだ。 今まで自炊してこなかった俺にとって、初めての取り組みとなるカーボローディングの最終日だった。簡単に言えば『糖質を多くとり、体に蓄えられる最大限までエネルギーを確保する』というものだが、量やタイミングを間違えれば単なる体重増加になりかねない。 空ちゃんは早瀬さんに相談し、マラソンランナー用の食事メニュー作りやカーボローディングに関する専門家を紹介してもらい、勉強したのだという。大学と喫茶店のバイトもしながら、である。 たまに奇天烈な味が来ても、愛嬌で済ませられるほどに感謝している。 いよいよ明日が本番である。天気予報は見事までの晴れ。天気に合わせて気温も高くなり、30度を楽に超すだろうという予報である。レース開始は8時50分と比較的早いとはいえ、ゴールは11時前後。タフなレースになることは間違いない。 「この後、どうしますか? よければマッサージくらいしますけど。それともアニメでも見ますか?」 「いや、この後少しジョグで体動かすから、まだいいよ。それより、ちょっといい」 「はい」 「大事な話があるんだ」 「え」 ちゃぶ台を片し、正面に座布団を置いてそこに招く。 「あ、えと、あ、はい」 わたわたしながら、妙に髪をいじる空ちゃんを座らせ、こほんと一つ咳払い。 よしと気を引き締めて、言った。 「実は、実業団からオファーが来てる」 「わ、わたしもです!」 なんのこっちゃ。 「え、ちょっと待って空ちゃんにも実業団からオファー? どゆこと?」 「じつぎょうだん……? はっ、ち、違います! わ、わー! わわわわー! おめでとうございます!」 真っ赤に染まった空ちゃんがあからさまに誤魔化そうとしていた。 考えてみればいささか前置きが告白っぽかったか。悪いことしたな。 追及はしないでおこう。 「で、そのチームがDUNAっていう会社で」 「あっその会社知ってます。確かスマホのゲームとか作ったりしてる」 他にプロ野球チームも経営するなど、知名度の高い企業である。最近駅伝から撤退し、選手を絞ってマラソンに特化した強化を目指すという記事は、以前ネットで目にしていた。 「スピードのない俺には駅伝参加しないチームで、練習も自主的に決められるらしいから合ってるかもって思いもある。もちろん社員だから仕事もやらないといけなくなるけど、まあ、それはね」 アニメ鑑賞の時間が減るかもしれない不安はあるが、かといって三十路手前で収入なしの現状を何とも思っていないわけではなかった。マラソンで就職が決まるなら、頑張ってきた甲斐もある。 ただ。 「あんまり乗り気じゃないみたいですね」 「まあね」 オファーをもらってから、何故こうも気分が高まらないのかを考えていた。 一つは企業名を冠することへのプレッシャー。今までは結果まで含めて勝手に走れていたものが、今後は企業の広告塔として走ることになる。当然凡走すればそれは企業へのマイナスイメージになり、より重い意味を持って走らなければならない。 それに、市民ランナーという今の地位も好きだった。六分七分くらいの力で声援に応じながら楽しんで走る。地方大会の公式エイドで特産品に舌鼓を打つ。どれもトップを争うレースをしていてはできないことだ。実業団に入ることでそれらがどうなるのか、正直わからない。 それに…… 「わたしは、大地さんがしたいようにするのが一番だと思います。月並みなことしか言えないですけど」 「俺のしたいように」 「はい。少なくとも、楽しく走れることが大地さんにとって一番なんじゃないかって」 「……うん、そうだね。それもそうだ」 どちらにせよ、結論はMGCの後だ。もし本番で凡走したら、オファー自体が無くなる可能性も否定できない。 迷いが少しだけ晴れた。 「さて、ちょっとだけ走ってくるよ。空ちゃんもそろそろ帰りな。途中まで送ってくから」 「はい」 空ちゃんが帰り支度を済ませている間に軽く着替えて、シューズを履いて外へ。 明るい通りまで送ってから別れると、河川敷へと進路を変える。 以前安国寺とビルドアップ走をした時と同じ場所で、早瀬さんが待っていた。 「あれ」 彼女は見慣れたスーツ姿ではなく、膝までのタイツにスカート、厚めの生地のシャツを着ていた。女性市民ランナーが走るときによくする格好だ。 気温を考慮して日が落ちてから走るとは伝えていたが、本人が来るとは思わなかった。 「今日は私も一緒に走ろうと思いまして。ジョグならついていけるでしょうし」 彼女も高校大学と長距離選手だったことは知っている。あるいはあまり飛ばさないようお目付け役も兼ねているのかもしれないが、一人で走るよりも楽しいのは確かだ。 軽くストレッチして、ゆっくりと走り出す。それでも常人なら結構なペースになるが、早瀬さんは軽々とついてきた。 「斑鳩さん、体調はどうですか?」 「万全です。強いて言えばちょっと足が短くなった気がしますが」 「安心してください、元からその短さです」 せめて『長さ』って言ってくんないかな。 月明かりの綺麗な夜だった。前方には橋の上を電車が走っていく。風もなく、静かな夜だった。 そういえば実業団からのオファーの話、いつ切り出そう。マラソンコーディネーターである早瀬さんにとって、実業団からのオファーは他人事ではないはずだ。 「斑鳩さんに、私が競技を引退した理由はお伝えしたでしょうか」 相変わらず綺麗な横顔で、彼女は言った。 「いえ、聞いたことないと思います」 「面白い話でも珍しい話でもないですからね。ケガですよ。足底の痛みから始まって、ふくらはぎの肉離れ、脛の疲労骨折。あっちを治せばこっちが痛み、こっちを庇ってあっちも痛む。きっかけは最後に故障した膝でしたが、その前からすでに競技へのモチベーションは下がっていたと思います。私にとって長距離は、辛い記憶が多くを占めています」 河川敷は街灯が少なく、彼女がどんな表情をしているのかはよく見えない。 「せめて実業団まで続けられれば、就職に生かせたと納得することもできたでしょう。しかし大学で満足に結果を残せず、競技継続も困難になった私にスカウトなどあるはずもなく、リハビリばかりだった大学での部活動を、面接でどうアピールすればいいというのか。私にとって長距離は、目を背けたいだけの過去なんです」 ふと、隣を走っていたはずの早瀬さんの気配が消える。急に立ち止まったことに、何かアクシデントでもあったのかと不安になって振り返る。 「あなたは、私にとって夢の続きなんです」 古くなった街灯が、不意に明かりを灯し、早瀬さんを照らす。 彼女は恥ずかしそうに笑っていた。 「先輩にマラソンコーディネーターを仕事にしている人がいて、その人の手伝いという形で最初は携わっていました。元々英語が得意だったこともあって誘われたのですが、そこで見かけたのが、あなたでした。トップ集団にいながら、声援に応じて手を振りスパートのタイミングを逃す。バナナの格好をして走り、レース前後はおろか、レース中にすら写真撮影に応じてしまう。なんて楽しそうに走るんだろう。 その姿は、私が陸上を始めた頃に描いていた、私の理想の姿と重なりました」 そして、俺に声をかけてくれた、というわけか。 彼女にとっては俺はマラソンコーディネーターとしての数いる顧客の一人だと思っていた。 でも、もし本当に俺が何らかの形で良い影響を与えていたのなら、それはとても嬉しい。 「……でも、もしそれがあなたにとって負担になっていたのであれば、申し訳なく思います」 「そんなことないですよ。それは絶対にないです」 「でも、私は嘘をつきました。あなたにMGCに出てほしいから、あなたの意志に構うことなく」 「いや、そういう意味でも、俺は早瀬さんに感謝してるんですよ。強引にでもこうしてくれなきゃ、俺はMGCの舞台には立てなかった。立とうとも思ってなかったし、早瀬さんが尻を蹴っ飛ばしてでも上げてくれなきゃ、俺はまだ同じ景色の中にいたと思う」 結果はどうあれ、あの時があるから今がある。 経緯はどうあれ、感謝の気持ちに変わりはない。 あまり長く立ち止まっていると汗が冷えてしまう。あまり長く走る予定もなかったので、今来た方向へとまた走り出す。早瀬さんもついてきた。 「実は俺、実業団からオファー来てるんです」 まるで弾かれたみたいに、彼女が顔を跳ね上げた。 「そろそろ就職しないといけないし、良い話だなーとは思うんですが」 そこで言葉を切り、ちらりと早瀬さんの様子を窺う。 「もし早瀬さんがどうしてもイヤっていうなら、この話はお断りします」 ニヤリと笑ってみせる。早瀬さんは困惑の顔を見せた後、むすっと唇を引き結んだ。 「……ちなみに、いいよって言ったらどうするんですか?」 「今はおおよそ8:2にくらいで断るに傾いてますね」 じゃあ別に聞かなくたっていいじゃん、などとは言わせない。 これはただただ純粋に、早瀬さんの本音を聞きたいだけなのだから。 早瀬さんはむうっと数秒ほど俺を睨んだ後、満面の笑顔を浮かべて言った。 「…………ダメです!」 *** まだ午前八時半だというのに、ジリジリと日差しが肌を焼いていく。 MGCのスタート地点である明治神宮前には、選手スタッフはもちろんのこと、大勢のファンが駆けつけ、夏の気温以上の熱気を放っていた。 スタート五分前。故障による欠場者に加え、二週間後に控えた世界選手権に選ばれた選手を除く、MGC出場権を得た三十人がスタート地点に集まっていた。いずれも大きな駅伝やマラソンで顔を見たことがある、陸上関係者から見ればオールスターさながらの贅沢なメンバーである。 「おう、久しぶりだなあ三十四画」 バシバシと遠慮なく背中を叩き、人を画数で呼ぶ男。安国寺正道は相変わらずリラックスしているようだった。 「どうも」 「なんだ素っ気ないな。今日はやらないのか? なんとーかかーんとーか、なんたったーってやつ」 「流石に今日の今やるようなことじゃないでしょ」 そもそも初対面じゃないし。 「なんだつまらん、アレ好きだったのになあ」 「どうも」 もう一度言って、ぐっぐと脇腹を伸ばす。ストレッチもウォームアップも充分にやったが、緊張からか体を動かさずにはいられない。 「さて三十四画。君が勝つ可能性は限りなく低いと言ったが、それは否定しない」 「わざわざ言うことですか」 「代わりに、一つ良いことを教えよう。一緒に走っていられる間に、彼の走りを見ておくと良い」 「彼って」 安国寺の太い指が示していた人物を見て、反射的に唾を飲み込んだ。 白のユニフォームに、最近増えてきた太腿を覆うタイツ。細く締まった足を除けば外見的に大きな特徴はないが、その背中にぞくりと肌が粟立つのを自覚する。 大城礼。現マラソン日本記録保持者。大学卒業後一年で実業団を離れ、拠点を海外に移す革新的かつストイックな選手であり、フルマラソンの他トラック5000mなど複数の日本記録を保持している。マラソン挑戦からまだ二年そこそこ、年齢も26歳と若くまだまだ伸びる余地がある。 間違いなく今の日本マラソン界の中心にいる人物であり、唯一日本人で2時間5分台の記録を持つ男だった。 「オレを含めて『BIG4』なんて呼ばれているが、実際には奴が一人抜きんでている。何が凄いかわかるか?」 「スピードでしょ」 トラックで日本最速のタイムを出してから、そのタイムを土台にしてマラソンに耐えうるスタミナを培った。今日の結果はともかく、単純なスピードだけで言えば、間違いなく『日本最速』のランナーだ。 「間違いではないが、正確ではないな。奴の本当に優れている点は、その精神力にある」 ドンドン、と安国寺は自分の心臓を叩く。 「学生時代も世代トップクラスのランナーではあったが、無敗ではなかった。だが負けるたび悔しがり、悔しさを糧にして強くなり上の世界へ進み、そこでまた負けて強くなる。それを繰り返して、奴は日本最強のランナーにまで上り詰めた。そして世界と戦い、また負けて強くなることだろう。奴はそうして、変わらぬ速度でいつまでも成長していく」 満足しない、妥協しない、諦めない。 「ずっと勝負していく男の強さだと、オレは評価している。よく見ておけ、三十四画」 ぽんと、今度は優しく背中を叩いた。 「あれは今後五年十年、日本男子マラソン界の新時代を切り開く、旗手になる男だ」 安国寺はそう言い残し、スタート地点へと並ぶ。いつの間にかスタート時間が迫っており、駆け足で追いかけた。 わずか三十人しか並ばないスタート地点は、時に何千何万と並ぶ市民マラソンと比較するととてつもなく少なく見えた。女子と合わせてもたかだか五十人といない参加者のために道路を封鎖し、ボランティアを雇い、給水所を設け、各媒体が競って取材し、放送する。 改めて、すごい大会なのだと気を引締めるとともに、目の前の背中を注視する。日本記録保持者、大城礼は時計に指を当てたまま、スタートの姿勢から動かない。 安国寺が最初から勝つことを諦めたような言い方をしたのは、意外でもあったが理由はわかっていた。 MGCで五輪切符を得られる人数は、二人。 本当に大城礼が優勝する程強いなら、俺たちはその次を争うことになる。 安国寺の弱音とも思える考え方は、一方で他のやつなら絶対に勝てるという根拠ある自信のようにも伺えた。 「いちについてー……」 始まる。思考を一度リセットし、大きく深呼吸。 パン、とどこか頼りない音を合図に、日本トップクラスのマラソンランナーたちが一斉に駆け出した。 明治神宮外苑前の銀杏並木を通り過ぎ、数少ないアップダウンを超える。スタートしたばかりなので誰も苦にしないが、スタート地点はゴール地点にもなり、大きな下りはラストに大きな上り坂となってランナーを苦しめることだろう。 最初の一キロは3分10秒。ここから下り基調のコースになり、自然とペースアップするはずだが、予想通りそうはならなかった。 靖国通りに入っても、ペースは上がらない。これから気温が上がっていくのがわかっているから、誰もがスタミナを温存したい。そのため、先頭に立って引っ張っていく選手がおらずペースが上がっていかないのだ。 集団の一番後ろにつき、楽に走ることだけを意識する。この展開は折り込み済み。誰か行けよ、と隣の顔を見るような牽制対決が続いているが、流石にぽっと湧いて出て来たような市民ランナーが引っ張ってくれるとは期待していないらしい。 『斑鳩さん、注意する点としては、とにかく前半は前に出ないことです』 下り基調で2キロから3キロのラップが3分15秒。楽についていけるペースを確認し、あらかじめ早瀬さんと練っていた対策を思い返す。 『気温とペースメーカー不在の大会形式からして、絶対に前半はスローペースになります。おそらく焦れて飛び出す選手もいないでしょう。ひたすら我慢して、遅いレースで体力消費を抑え込む。そして、給水は確実にとってください。動かず、ミスらず。後半にどれだけ力を残しておけるかが、前半の肝です』 一番後ろにいるので、全体の様子がよくわかる。みんなリラックスするよう腕を回したり、腕振りを小さくして体力の温存に余念がない。 作戦と言っても、前半に関してはおそらく全選手が同じことを言われているだろう。動かず、温存し、給水はしっかりとって、後半勝負。20キロを過ぎてからどこで出るか、誰をマークするかは選手によって違うかもしれないが、前半はほぼ同じと思われた。 4キロを過ぎてもペースは上がらない。後ろの選手が前にくっついてしまい、集団は徐々に横長になっていく。無駄な距離を走らないよう。真ん中の二列目より前には決して出ないようにする。 5キロの通過タイムが15分50秒。帽子をとって頭の汗を軽く払い、体調を確認。痛む箇所なし、呼吸正常、違和感なし。 5キロを過ぎれば最初の給水がある。確実に給水をとるために場所取りをする選手が出始め、集団が少しずつ崩れる。だがスローペースは変わらない。給水を確実にとり、前半はゆっくり行くのがこの場にいる全員の、暗黙の了解だからだ。 だらりと腕から力を抜き、大きく息を吸って酸素と共に全身に力を送る。 ここまでは、そして今後しばらく、誰も飛び出そうとはしない。 だからこそ、行く。 二列目から飛び出し、崩れた集団の先頭に出るとさらに加速。自分のスペシャルドリンクを横目に素通りし、予備として用意してある共通のゼネラルドリンクをとって軽く口に含み、さらにペースを上げる。 大舞台でエライことをやってしまった緊張感と高揚感、加速の負荷で心臓がバクバクと鳴り続ける。これで失速すればいい笑いもの、下手すれば目立ちたがり屋と非難を受けることになるかもしれないが、飛び出しのタイミングとしては絶好だ。 なんたって最下位人気の超大穴が、自殺行為のタイミングで飛び出しただけ。わざわざ追いかけて道連れになる必要はない。実際、聞こえてくる足音が徐々に遠くなっている――いや。 来てる。 つう、と熱さとは異なる汗が背中を伝う。まさか、そんなバカな奴がいるのか。ペースは確実に上がっている。気配の多くは後ろに置き去りにしている。もしこんな早く追いつけたとしたら、俺のスパートにしっかり反応してついて来たか、あるいは異次元のスピードで悠々追い上げてきたかのどちらかだ。 誰だ、と横目で背後を確認する。 大城礼が、表情をなんら変えることなく背後にピタッとついていた。 「――――ッ!」 崩れかけた呼吸を整え、前を向きなおす。落ち着け、肩の力を抜け、そして臆するなと自分に言い聞かせる。 振り返った限りでは、ついて来たのは半分弱。大城の後ろには安国寺ら力上位と予想されていた選手がいたが、随分縦長になっており、もう少し減っていくだろうと思われた。残りの半分は良く見えなかったが、おそらく集団を作って動いていない。先頭集団についていけなかった選手たちを拾い、徐々に追い上げる腹積もりだろう。 ふと、隣に安国寺が上がってくるのが見えた。反応が早かったのか、さほど息が上がっている様子はない。 やるじゃないか、三十四画。 ニヤリと笑った口元からそんな言葉を幻聴し、ニマリと口元をへし曲げて返す。 単独で抜け出すまでは行かなかったが、おおよそ半分を振り切り、レースの主導権を握った。悪くないスタートだと言い聞かせる。いつの間にか飯田橋を過ぎ、東京ドームの白い屋根が背後に流れていく 水道橋を過ぎれば秋葉原が見えてくる。自分のホームだと言い聞かせ、走ることに集中した。 中央通りを駆け抜け、10キロを通過。体力温存のため振り返りはしないが、先頭集団はそれなりに絞られたようだった。おそらく十二、三人。足音からして集団は縦長で、俺のペースが悪くないことを教えてくれる。 一度時計を確認。俺が引いてきた5キロから10キロはおおよそキロ3分5秒のペースを保っている。暑さを考えればやや速いくらいのペースだった。 5キロで取り損ねたスペシャルドリンクを、今度はしっかり取りに行く。ナンバーカード一桁目と同じ給水テーブルをめざし、ボトル上部についた輪っかに手を通せば高確率でとれるはずだ。慎重に左手でつかみにいき。 目測を誤りボトルが倒れた。 「あっ」 通り過ぎた瞬間斜め後ろに手を伸ばして、小指が辛うじて輪っかに引っかかる。ギリギリで吊り上げたボトルに安堵の息を漏らしつつ、ストローから一口。レモン風味の酸っぱさが脳を刺激し、全身に水分とエネルギーが伝わるのを感じた。 思いのほか疲労があるのかもしれない。 心持ち大目に飲み、ついでゼネラルテーブルでスポンジを手にする。唇を湿らせ、額に当てると火照った体が冷やされて気持ち良い。ぽんぽんと両腕に当てて湿らせてからスポンジを捨て、再び走ることに集中する。 東京の名所を回るよう設計されたコース上、曲がりが多いことが特徴の一つだった。 ここから北上して浅草雷門からとって返し、芝公園まで南下する。スカイツリーから東京タワーまで拝める贅沢なコース、こんな機会でなければ一度立ち止まって記念撮影くらいしたいところなのだが。 うん、まだまだ余裕あるな。 自分にそう言い聞かせる。まだレースは四分の一を回ったばかり。ここで苦しんでいるわけにはいかない。 俺が順調なペースで引いていることもあり、後ろから出てくる選手もおらず、雷門まで行って戻っての間に大きな出来事はなかった。伏兵の奇襲で大きく動いたレース展開も、今は再びこう着状態に陥っている。 動くとすれば、早ければ20キロを過ぎたあたりか。 再び中央通り戻ってきて、さらに南下するところで20キロ、そして中間点を迎える。おそらく多くの選手の想定より速いペースで来ているだろうから、すぐに勝負を仕掛けてくる可能性は低いとはいえ、スパートに備えて警戒心は強まっていく。背中に感じる気迫にこれまで以上のものを感じ、渇いた唇を舐めた。 ――――ピリッ。 「ん?」 ふと足の違和感に気づく。左足つま先か。大した痛みではない。 気にしなくていいか。 すぐに忘れて、芝公園へ向かう。折り返したら25キロ地点が見えてくる。その辺りで仕掛けてくる人が現れるか。 折り返し用の高いポールを、時計回りに回って折り返す。ここでスピードを止めるか、あるいは減速して大回りする必要があるため、割とコツが必要な場所だった。 いつもよりややペースが速い。できるだけスピードを殺さず、少し大回りで回ろうとして。 つま先に鋭い痛みが走った。 「痛ッ!?」 思わずがくんと膝が落ちる。ターンは膨らみ、後ろから選手が追い抜いていく。 さっき違和感のあったつま先だ。爪が割れたか、あるいはマメか靴擦れが破れたのかもしれない。奥歯を噛んで痛みを堪え、痛みの出ない走り方を試行錯誤し集団を追いかける。 だが、元々スピードのない俺がフォームを崩して追いつけるほど、トップランナーたちは甘くなかった。 一歩踏み出すたび、一秒ごとに離されていく。痛みや疲労もあるが、なにより小さくなっていく背中が精神力を抉っていった。 先頭集団にいたのは七人。いつの間にかこんなに少なくなっていたんだと小さな驚きの後、すぐに追いつくのを諦め自分のペースを刻む。 集団を遠目に眺めながら25キロ地点を通過。見た限りでは十五秒前後の差といったところか。 まだ追いつけないことはない。微かな希望を胸に、失速だけはしないようピッチを刻む。 体力回復のためにも、給水をしっかりとる。輪っかに手を通せば確実に……。 ――――ズキッ! 痛みに顔が歪み、手の位置がずれた。 「あっ!」 今度こそ大きくボトルを倒し、テーブルの下に落としてしまう。これではもうとることはできない。 ゼネラルの水があるとはいえ、このタイミングでミスとは……! スペシャルドリンクが飲めないことより、ミスをしたという事実が精神的に追い詰めてくる。 残り17キロ。まだおおよそ半分しか来ていないことに絶望感を覚え、この暑さの中にも関わらず体の底から凍りつくような恐怖を味わった。 ――――あれ、なんで俺、走ってるんだっけ? 白昼夢のような感覚で、そんなことを考える。 アニメ見て、漫画読んで、空ちゃんと楽しくおしゃべりする。なんて充実した毎日だろう。こんな苦しい思いをする必要はまったくないじゃないか。 ――――あなたは、夢の続きなんです。 うるさい、俺だって頑張ってるじゃないか。頑張っても届かなかっただけだ。責めないでくれ。君の夢を、俺に押し付けるな。 ――――楽しく走れることが大地さんにとって一番なんじゃないかって 楽しく? 楽しいって、何が? 走ることが楽しい。ああ、そう言えばそんな風に思っていたこともあった気がする。そして大体、走っている最中に後悔するんだ。疲れた、痛い、苦しい、しんどいって。もう二度と走らないと心に誓い、悪態つきながら走り続ける。 でも結局、最後まで走り続ける。 そしてまた、新しい大会を目指して練習し、出場する。 なんでだ? 楽しいからだ。 答えは簡単に出た。 頑張って、ゴールという成果を得る。自分のやっていることを、応援してくれる人がいる。嬉しくて、申し訳なくて、だから少しでも応えられるよう頑張る。 声援の一つ一つが潰れかけた肺を癒し、棒になりかけの足にエネルギーを届ける。 声援? 聞こえないよ。真っ暗だ。そんなの、どこに―――― 「――――大地さん! 先頭と三十秒差! がんばれええええええ!!!!!!」 まるで頭をぶっ叩かれたような衝撃に意識が戻る。思わず振り返れば、沿道に必死な表情で叫ぶ空ちゃんの姿があった。 ついで、大きな声援が反対車線からまで聞こえてくる。 「がんばれー!」 「まだ追いつける!」 「ナイスラン! ナイスランッ!!」 「斑鳩大地! 市民ランナーの星! 応援してるぞー!」 「チャンジガルマラソン一緒に走りましたー! 頑張ってー!」 ――――別に俺だけが特別なわけじゃない。同じくらい、色んな選手が多くの声援を受けているのだろう。 それでも、走る以外はただのニートでしかないこんな俺を、こんなにも応援してくれる人がいる。 ああそうだ。 こうして応援されるのがあんまりにも嬉しいから、辛いのも忘れて何度も走るんだった。 必死に息を吸いながら、鼻をすする。 右手で目元を抑える。水分の無駄だ、引っ込め涙。 元気が漲る、使命感が膨らむ。勝てずともせめて声援に恥ずかしくない走りをしよう。空ちゃんから聞いた三十秒はもうひっくり返せないが、ベストを尽くせ。 ……ん? 三十秒? 「そんだけ?」 思わず口に出た。そういえばそもそも今は何キロ地点なのか。25キロを過ぎてから記憶があやふやだ。 見覚えのある通り、靖国通りの看板を見て、30キロ地点を過ぎた辺りだと気付く。コースに従い左に曲がって内堀通りに入ると。 見えた。 意外と失速していなかったのもあるが、何より前が遅い。 俺がペースメイクしたとはいえ、序盤での想定外なペースアップと熱さによる疲労がある。引っ張る選手の不在で牽制し合い、先頭集団のペースが落ちているのだ。だから思いのほか離されていない。 ――――届く。 「斑鳩さん!」 一際綺麗に届いた声の主は、沿道にいた早瀬さんだ。意識ははっきり、視界も広く音も良く拾える。心配そうに揺れる彼女の瞳に、むしろ少し余裕が生まれたほど。 力の入らない左手を、わかるかどうかも微妙なほどに挙げ、すぐ視線を前に戻す。 ――――あなたは、夢の続きなんです。 早瀬さんの言葉が脳裏をよぎる。ずっとずっと、MGCが決まる前から献身的にサポートしてくれた。決まってからは、より一層、自分のこと様に考えてくれていた。応援してくれた。空ちゃんも、忙しい中で助けてくれている。 期待に応えたい。 勝ちたいとは少し違う、最高の走りをして、みんなのおかげでしたと伝えたい。自分のためじゃなく、早瀬さんや空ちゃんに喜んでもらうために、死力を尽くす。諦めない。 だらりと腕から力を抜き、筋肉の硬直しかけた肺に息を落とし込む。 声援の一つ一つが皮膚を貫き神経を通って全身にエネルギーを伝わらせ、意識が徐々に明瞭になっていく。 つま先の痛みはあるが、痛いだけ。我慢できる。 大きく深呼吸一つ。決意を新たに、地面を蹴る足に力を込めた。 皇居を右手に見ながら二重橋前を折り返し、神保町まで戻れば35キロ地点。 疲労がピークに達し、一人二人と選手が落ちてきていて、彼らを拾って徐々に順位を上げていく。すでに限界なのか後ろについてくる気配はない。追い抜いたうちの一人はBIG4に数えられていた一人だった。 前の集団がおそらく四人、うち一人が落ちかけている。目算でおおよそ十秒差。 そろそろ足音が聞こえるか、それとも背後で盛り上がる声援に気づくか。遅れた一人が振り返って俺を認めると目を見開き、ついで集団の中にいた大きな背中が俺に気づく。 安国寺は二番手の位置から俺を見つけ、今度ばかりは表情を強張らせた。 遅れた一人を抜きさり、集団の最後尾へ追いつく。 入れ替わるように一人が落ちて行き、安国寺が信じられないと言わんばかりに憎々しげな視線をこちらに振り向け、俺がどうだと見返したときだった。 ほんのわずかな隙を、大城礼が逃さず、駆け出す。 針の穴程の小さな油断。予想外の選手が追いついてきた驚きと、体力とスピードの限界、そしてようやく追いついた安堵が重なった瞬間を、まるで背中に目でもついているかのように正確に見極めて加速する。 後ろについて休めると思っていた足をもう一度働かせ、強引にでも大城を追う。ほぼ並ぶ形で安国寺も加速する。もうゴールまで距離がない。ここで離されたらもう追いつけない。 必死に追いかける二人を、しかし大城はものともしなかった。 広いストライドに高速回転するピッチ。つま先から着地する『フォアフット走法』で駆ける大城礼の姿は翼でも生えているかのように軽やかだった。 どうやったって追いつけない。レース前、安国寺が言っていたことを思い出す。 『あれは今後五年十年、日本男子マラソン界の新時代を切り開く、旗手になる男だ』 世界と戦えるスピードを身に着けた大城礼は、間違いなく日本最速のランナーだろう。日本が出せる最高のスピードを携えた最高傑作。本当に日本のマラソン界が世界と再び肩を並べるためには、この走りを何人ものランナーができなければならないのか。 悔しささえ消えるほどに、拍手を送りたくなるくらい、綺麗で強い走りだった。 離れて行く背中を、しかしただ見送っているだけではいられない。戦いはまだ終わっていないのだから。 MGCで決めるオリンピック出場者の数は、二人。 今最大のライバルは、大城礼ではない。互いに、隣を走る相手が最後の敵だ。 荒む呼吸に顔を歪めて、安国寺正道を見る。同じタイミングでこちらを見て来て、ちょうど視線がぶつかった。 ――――今度は勝つ。ビルドアップ走の時のリベンジだ。 ――――来い。今度もオレが勝つ。 大城礼を追って加速した勢いそのまま、一歩安国寺の前に出る。安国寺はピタリと俺の後ろについた。 前に出て引けばそれだけ力を消耗する。後ろに下がって力を温存した安国寺の判断は正しく、このままの配置で行けばラストスパートの差で負ける。かといって安国寺を前に出せば、また揺さぶられてスタミナを削られるだけ。 ならばやるべきなのは、一つ。 駆け引きなし。ロングスパートで真っ向勝負。 38キロ地点通過、この1キロが3分5秒。 39キロ地点通過、この1キロが3分5秒。 40キロ地点通過、この1キロが3分3秒。 靖国通りから再び外苑西通りに入っていく。スタート時には下りこう配この5キロは、今はランナーを阻む上り坂になる。棒になった足を懸命に持ち上げ、痛みで広がらないため大きく息を吸えない肺に小刻みに空気を取り込む。長くできる呼吸法ではないが、残り2キロなら耐えられる。 安国寺はまだいる。足音だけでなく荒い呼吸も聞こえてくる。ビルドアップ走の時の余裕はない。 着地するたび足首が痛む、膝がガチガチに固まっている気がする、太腿は鉄になったように重い。肺は疲労で呼吸すらままならず、少しでも集中が途切れれば意識そのものが飛びそうだ。折り返しで痛めたつま先は、すでに麻痺して感覚がない。 それでも、体が動く限り走る。止まらない 落ちると思ったか。どこかで失速すると。甘く見たな安国寺。俺は絶対に失速しない。 カサカサに乾ききった唇を舐め、ほんのわずか笑みを作る。 俺は市民ランナーだ。記録狙いのガチレースから楽しむためのファンラン、10キロからもっと長い距離まで、色んな大会に出ている。 100キロ超を走るウルトラマラソンだって経験済みだ。スタミナなら実業団選手にだって負けない。 自信を見せろ、背筋を伸ばせ。両腕を揺らして肩の力を抜け。まだ余裕があると思わせろ。 ついて来られるものならついて来ればいい。42キロまでしか想定していないスタミナで、まだ走れるのなら。 「……くそ」 小さく呪詛が聞こえた。ついで、足音が離れる。 41キロ地点通過、この1キロは起伏はあっても上り一辺倒ではなく、多少走りやすくなる。3分ちょうどのラップタイムを確かめると、足音は随分と離れていた。油断はしない、このままいく。 声が届く。沿道の人が喉をからして叫んでいた。もう一度追い上げろ、諦めるなと安国寺を叱咤する声とともに、唯一の市民ランナーの下剋上に湧く声援も多い。 全部聞こえるよ。 ありがとう。 ラスト1キロ、最後まで緩めない。 スタート地点の銀杏並木に戻ってきた。小さくジグザグするコースの最後に、微かにゴールが見えてくる。 あそこで終わり。たったそれだけの事実に、現金な体が急に元気になった気がした。 早く終われと何十回何百回と思ったこの長いコースが、今更名残惜しくなる。 ゴールが目の前に来た。体ごと体重を預けるようにして白いテープを切る。 終わった。そう考えた途端、体中から残っていた微かな力がひとつ残らず抜け落ちていき、糸の切れた人形のように膝から地面に倒れ込む。 勝ったことへの達成感は正直言ってなく、あるのはとにかく終わったことへの安堵感だけ。どうやら俺は、どこまでも勝負するアスリートではなく、自分と戦う市民ランナーなんだなと思う。 ただ、いつまでもやまない歓声と拍手の雨は、とても気持ち良かった。 *** 横になっているはずなのに、世界がグルグルと回っているようだった。 「流石に、祝勝会という体調ではなさそうですね」 早瀬さんの声がおぼろげに聞こえる。額に当てた濡れタオルを代えてもらうと、ひんやりとした冷たさが気持ちいい。 「大地さんのこんな姿初めて見ました。マラソンって、こんなに過酷な競技なんですか?」 「今回は特別ひどいと思いますが、マラソン完走後の発熱は珍しくありません。まして今日は、文字通り限界を超えた走りでしたから」 空ちゃんの心配そうな声に、早瀬さんが冷静に答える。喜ばせるどころが、すっかり心配かけてしまった。 ゴールした後のことは、ほとんど記憶に残っていなかった。満足に立って歩くこともできず、車いすに乗せられてゴール地点を後にしたことや、会見も欠席したことは後になって知らされた。 「大地さん、何か食べれますか?」 「……ゼリー」 「はい、あーん」 「……あーん」 まともに体を起こせもしないので、仕方ないのは仕方ないがとてつもなく恥ずかしい。まるで赤ん坊にでも戻った気分だが、空ちゃんはなんだかとても楽しそうなのが余計に恥ずかしさを煽る。 まるでお母さんみたいだという感慨を振り払い、「早瀬さん」と無理矢理違う話に持って行く。 「どうですか、世間の反応。悪く書かれたりしてないですか」 「色々ですが、概ね良好です。日本人は下剋上が好きですから、今回のことを褒め称える人の方が圧倒的多数です。最有力候補だった大城礼が貫録の優勝を飾ったことで、一枚は順当に、一枚はサプライズとバランスよく入ってきて面白いと言った感想が多いですね。まあ一部、スピードのない選手ではケニア・エチオピア勢に太刀打ちできないという批判もありますが、小さなものです」 「……そっか」 ひとまず大きな批判はなさそうでほっとした。ネットバッシングとかホント怖いし。SNSやらなくて本当に良かったと思う。 「あっ、そうだ早瀬さん、空ちゃん」 考えてみればあまり二人揃っているタイミングと言うのは少ない。今のうちに言っておかないと。 「今日は、それに今日まで、本当にありがとう。もうダメだって思ってた時、空ちゃんの声が聞こえて、なんとか踏ん張れた。みんなの支えがあるから走れるんだなって、今更ながらに実感したよ」 「今日まで、ではありません」 やんわりと、早瀬さんが否定する。 「これからも、ですよ」 「そうですよ大地さん。一年後には東京オリンピックが控えているんですから」 「はは……よろしくお願いします」 先のことは、また後で考えれば良い。刹那的に生きるのがニートの本領だ。 うつらうつらと意識が揺らいでくる。「また寝るかも」と呟いてから、目を閉じる。 ふわりと意識を持ってかれそうになったとき、枕元に置いてあったスマホが振動した。 「今日は体力を使い果たしたんですし、スマホも電源を切ってしまっては? 事務的な連絡であれば、私の方に来るでしょうし」 「いやまあ、大丈夫だよ」 夢現でスマホをとり、画面を見る。 「えと、早瀬さんからだって。早瀬さんなにかあったのかな、早瀬さん何か聞いてる?」 「いえ何も」 早瀬さんが平然と答える。この会話に微かな違和感を抱きつつ、スマホをタップした時、前にもこんなことがあったと思い出す。 そして、その正体に気が付いたときにはもう遅かった。 『大地! なんでスゴイ大会に出るなら出るってお母さんに言わないの!』 「母ちゃん!?」 眠気も吹っ飛ぶ母ちゃんのだみ声だった。 『お隣さんにオタクの息子さん出てるって聞いてびっくりして飛び上がって慌ててテレビつけたら、あなたテレビの中にいるじゃない! 途中で遅れるし顔色悪いしですっごい心配して、そしたら二位で、よくわかんないけど日本代表っていうし、とにかくおめでとう!』 怒りたいのか褒めたいのかどっちなんだ。 っていうか、なんか息荒いな。ひょっとして外出でもしてるのか。 『ゴールしたら倒れ込むし、それからもう全然テレビでないし、お母さんとにかく心配だから、今来たから!』 キタカラ? 突如ドアからガチャガチャと物音がする。 うそだろ、まさか。 ドアが微かに開く。その小さな隙間からでも、生まれた頃から見た実の母であることはわかるわけで。 「待っ」 何もかもがもう遅かった。 母ちゃんはお土産を両手いっぱいに足でドアを開けると、アメフト選手のタックルさながら突っ込んでくる。 呆然と事の成り行きを見送っていた早瀬さんと空ちゃんに気づいた母ちゃんは、すぐに俺のことなど忘れ、二人に俺との関係を根掘り葉掘り聞いていき、ついには俺の過去の恥ずかしいあれこれまで得意げに語りだす。 精根尽き果てた俺に止める力があるはずもなく、現実逃避をするように夢の世界へと逃げ出した。 新時代の到来は、どうやら悪夢から始まることになりそうである。 |
燕小太郎 2019年04月29日 22時13分08秒 公開 ■この作品の著作権は 燕小太郎 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月18日 13時15分15秒 | |||
|
作者レス | |||
---|---|---|---|---|
|
作者レス | |||
---|---|---|---|---|
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月16日 13時28分46秒 | |||
|
+40点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月16日 13時26分45秒 | |||
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月16日 13時16分16秒 | |||
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月16日 13時14分48秒 | |||
|
+20点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月15日 15時48分20秒 | |||
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月15日 15時36分12秒 | |||
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月15日 15時33分12秒 | |||
|
+20点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2019年05月15日 15時27分49秒 | |||
合計 | 9人 | 260点 |
作品の編集・削除 |