いつかあのコンビニで |
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昼間は警備のバイトをして、夜は大体、午後七時から午前一時までコンビニのシフトに入る。 それが俺の日常だった。 昼間も夜も両方とも働くことはまれで、あって一週間の内に一日、バイトの人手がなかったり、ごくまれに気が向いたとき、もしくは金がなかったりした時に、二日か三日あるかないか程度だ。 それぐらいのペースで働けば、生活費とパチンコ代くらいは稼ぐことが出来る。そんなバイト生活を続けて、三年目に入る。 時々会って飯を食う知り合いには、そんな生活をしていて不安にならないのか、と聞かれることがある。 確かに、企業や役所で定職に就いている連中に比べれば、バイトだけの生活はリスクが高いのかもしれない。何かの拍子で体が壊れればその途端、収入は絶え、路頭に迷うことになるかもしれない、と知り合いは考えているのかもしれないが、俺はそれほどリスクがあるとは考えていなかった。 バイト生活を始める前に就いていた仕事で、多少の蓄えはあるし、その頃に比べれば少ないけれど、毎月少額の貯金は出来ている。 警備とコンビニの深夜帯のバイトは実入りが良く、健康保険料と年金料は払うことが出来ている。もし万が一病気やケガで働けなくなった場合でも、まあ生きるに困ることはないだろう、と俺は考えていた。 「違う違う違う。そっちじゃない」 俺がそう話すと、知り合いはビールジョッキ片手にかぶりを振った。 「独り身のまんまでいいのか、って話しだよ」 そう言った知り合い自身、結婚はしていなかった。ただ彼女はいて、知り合いとしてはあわよくば結婚まで行こうと頑張っているところだそうだ。 俺に恋人はいないし、今までいたこともなかった。知り合いはそれが気になっているらしい。 「ただバイト行って、たまにパチンコ打って、糞して寝るような生活してる、それを続けて何も感じない神経が俺には信じられんね」 そう言って、ぐい、とビールを飲んだ知り合いは、その話しを続けるかと思ったら、次に口を開いた時には、結婚しようとしている彼女の愚痴を始めた。 ビールの空き缶をちょっと置いておいただけで怒鳴られる、帰りのラインを送るのを忘れてただけで機嫌が悪くなる――そんな答えようのない愚痴も、最後には、でも彼女は可愛い、という結論で終わる。 知り合いは愚痴の間にビールを中ジョッキで二、三杯飲んでいた。アルコールにそれほど強くない知り合いは、それですっかり酔っ払ってしまい、店を出る頃には完全に千鳥足になっていた。 酒を飲んでいなかった俺が(そもそも、体質的にアルコールを全く受け付けない)、なんとか知り合いを担いで駅に向かった。 知り合いが同棲しているという彼女を呼ぶのも考えたが、その連絡先を知っている訳でもないし、仮に知ってたとしても、知り合いの口から愚痴ともノロケともつかない話しを聞いた後では、呼ぶのは気が引ける。 幸い、知り合いの家の場所は知っていたので、なんとか俺は知り合いを担いでその家に向かうことが出来た。 そうして深夜の三時少し前に辿りつくと、家ではその知り合いの彼女とやらが出迎えてくれた。 夜半に飲んだくれた彼氏が帰ってきたというのに、彼女は笑顔で俺を迎えてくれた。しきりに彼氏を連れてきてくれたことに礼を言い、少し上がるよう勧めてくる彼女を誇示し、俺はさっさと知り合いの家を後にした。 自動運転と人工知能が導入されたおかげで、深夜でも動いているのが当たり前の鉄道だったが、さすがに三時を回れば終電は過ぎていて、俺は家へ歩いて帰ることになった。 知り合いの家に泊めてもらえば良かったのかもしれない、と徐々に明るくなる空を見ながら思ったものの、知り合いと、彼女の生活臭が染み込んだ家で寝起きするのはどちらにしろ耐えられなかっただろう、と思い直し、曲がりくねりながらどこまでも続いているように見えるアスファルトをただ歩き続けた。 今まで誰かと深く付き合おうと思ったり、ましてや、誰かを抱きたいという感情を抱いたことが、俺にはなかった。 人並みに性欲はあって、他の同年代の連中がそうであったように、中学・高校時代にはそういう雑誌を収集したり、ネットサイトを探し回ったり、ということはした。 しかしそれを現実世界で体験したい、と考えたことは何故かなかった。 その理由は自分では分からない。 もしかしたら生まれた時点でそういうものが欠落していたのかもしれないし、育っていく中で頭の中からこぼれ落ちていったのかもしれない。 ただ理由はどうあれ、人と深く交わりたい、という気持ちが自分の中に存在しないことだけは確かだった。 時々、飯を食いに行くあの知り合いだって、あっちから誘われれば行くだけで、自分から誘う――それ以前に、あいつに会いたい、という気持ちが湧くことはない。ただあちらが誘う気になって、そして会えれば、まあそれなりに時間潰しと多少楽しい気分を味わえるから会う。それだけだった。 そんな自分に、違和感や悩みを感じることがない、と言えば嘘になる。 一時期は深刻に悩み、なんとか自分にそういう気持ちが湧くように、対して興味のない相手と付き合おうとしたこともあった。 しかし、そんな努力をしても、自分の心に、誰かに会いたい、という強い感情は浮かぶことはなかった。 俺はこういう人間で、それは仕方のないこと。 色々な体験を経て、受容とも、諦観とも言えるそんな考えに俺は辿りついた。 あの知り合いと、その彼女を見た時とかに、自分の欠落が強く意識されることはあった。しかし、それはどうしようもないことに変わりはなく、時間の経過と共に、自分の欠落への意識が薄らぐのを待つしかなかった。 自分の人生はそういうことを繰り返し、そしていずれ終わるものだ。 そう考えていた時に、あの人に会った。 深夜のコンビニバイトは案外忙しい。 今のコンビニは他の仕事と同じく、オートメーション化が進んでいる。昔は商品一つごとに店員がバーコードを読み取り、現金で会計をする、という方法が多かったけれども、今では商品の入った買い物カゴを計量器に似た形のレジに置けば会計が脇のディスプレイに表示され、客はクレジットカードかスマホをかざして支払いをする、という方法が主流だ。 場所によっては商品を持って外に出れば自動的に会計が済まされる、というところもあるらしいが、俺の働くコンビニにはまだ導入されていない。 電子技術の発達と人手不足で進んだオートメーション化だったが、人間の仕事が減ったかといえばそうでもない。 レジ会計の仕事からバイトが解放されたものの、そのおかげか深夜帯はワンオペが当たり前になった。商品の陳列や唐揚げといったホットスナックの用意、客との応対はバイトがやらなければならないので、一人あたりの仕事はむしろ増えている。 そして俺の入る午後七時から深夜一時までのシフトでは、十一時頃から商品の補充が来るので、そこから閉店の一時までは目が回るような忙しさになる。 その日も俺は、いつものように七時からのシフトに入っていた。 九時までのシフトのおばさんが帰ると、十一時までの間は少しだけ余裕のある時間になる。 普段ならその時間帯に夜食を食べたり、細々とした用事を済ませる形になる。その日も俺は、いつものように廃棄直前の弁当でも食おうと、陳列棚に並んだ弁当の物色を始めた。 ハンバーグ弁当か、オムライス弁当にするかと悩んでいると、コンビニの自動ドアが電子音を鳴らしながら開き、新しいお客さんが入ってきた。 「いらっしゃいませー」 そう言いつつ、ドアの方を見ると、常連の一人である、スーツ姿のお姉さんが疲れた顔で入ってきたところだった。 俺のいつも入るシフトでは、三人くらいの常連さんがいる。 毎日必ずカルパスと缶ビールを買っていく作業服姿のおっちゃんと、人生に絶望しきった、と言わんばかりの表情で一時間くらい立ち読みをしていくおばさん、そして、先ほど入ってきたお姉さんの三人だ。 会計が自動化した昨今ではお客さんと関わる機会は減ったものの、特徴的な客や毎日来る人は否応なく印象に残る。 常連さんの内、このスーツ姿のお姉さんは特徴的、という訳でもよく来るわけでもなかった。 カルパスのおっちゃんや、立ち読みのおばちゃんとは違って、買っていくものはいつもヘルシー弁当にサラダと、二十代半ばの女性ならよく買っていくものばかりだったし、来る頻度も週に二、三日程度だった。 彼女が俺の印象に残っているのは、いつも漂わせている香水のせいだった。 基本的に、俺は香水というものが苦手だ。 客でよく来る、お水系とおぼしきお姉さんや、中高年のサラリーマンがつけている、数メートル離れていても鼻につく甘ったるい臭いの香水なんかを嗅ぐと、それだけで気分が悪くなってくる。 その姉さんのつけている香水は、柑橘類のような、爽やかな匂いのものだった。 商品の陳列や、掃除のために彼女のすぐ傍を通る時に、ようやく香ってくる程度のその香水は、彼女以外のつけている香水と違い、自己主張することなく、ただ自然に気分を安らかにするような感じがした。 そんな香水と、夜にも関わらず清潔さを保ったスーツ姿と、人の良さそうな微笑を浮かべた彼女は、自然と好意的な印象と共に、記憶に残っていた。 その日、彼女が来たのはいつもとそれほど変わらない九時半頃だった。いつもなら顔に浮かんでいる微笑の代わりに、その日の彼女は酷い疲れを張り付かせていた。 ふらふらとおぼつかない足取りで店内に入ってきた彼女は、そそくさと野菜ジュースとおにぎりだけをカゴに入れ、そのままレジで会計を済ませると、さっさと店の外へ行ってしまった。 仕事が忙しかったか、上司に酷いことを言われたのかしたのだろう。店の外へ出て行く彼女の背中を見てそんなことを思いつつ、俺は夜食に選んだハンバーグ弁当の会計を済ませようとレジに立った。 自分のスマホをレジにかざそうとした時に、俺はその財布に気がついた。 黒い革製の長財布が、ちょうどスマホやカードをかざすパネルの下に置いたままになっていた。 デザインとしてはシンプルなものだったが、取り付けられたキーホルダーが、女の子向けのキャラクターのもの――名前はしらない、ただ街中でよく見るもの――だったので、持ち主が女性であることは間違いなさそうだった。 先ほど店から出て行った、あのお姉さんの疲れた足取りが脳裏に浮かぶ。 その財布を手にとった俺は、とりあえず店の中を見回した。店の中には、今日発売の漫画雑誌を、つまらなさそうにパラパラめくる、いつものおばさんがいるだけだった。トイレの中は確認しようがないが、ここ数十分の間にトイレに入った客は確かいなかったはずだ。 しばらく店を空にすることにはなるが、まあ良いだろう、と考えて、俺は財布を持って店の外に出た。 まず普段の俺ならば、財布やスマホの忘れ物は事務所に保管するだけで、たとえ忘れたお客が誰かが分かっていたとしても、まずそんなことはしない。 そんな、不親切の塊のような俺がこんなことをするのは、彼女へ抱いている好印象のなせる技だろう。 我ながら現金な奴だ、と思いながら、コンビニの前を通る道路に立った。 コンビニは住宅街の中にあって、目の前の道路には一定の間隔で街灯が立っている。白いLED電灯の下で、ふらふらと歩く彼女の姿を認めた俺は、小走りでそちらへ向かった。 「あの」 そう声をかけると彼女は足を止めて気だるそうに俺の方を振り向いた。 少しだけ迷惑そうな顔で、俺の顔と服装を見た彼女は、コンビニの店員が何の用だ、と思ったのだろう。そんな彼女の前に、俺はあの財布を出した。 「これお客さんのですか?」 街灯の下で目を細めた彼女は、すぐに「あ」と言い、そして大きくため息をついた。 少しだけこめかみを押さえてから顔を上げた彼女は、苦笑いを浮かべ、「うん、私のです」と言った。 「どこにあったの?」 「レジのところに置いてありました」 「うーそうか……ごめんね、ちょっと今日疲れてて、ぼーっとしてたみたい」 「仕事が忙しかったんですか?」 「そうなのよー。実は昨日の夜は職場に泊るハメになっちゃってさ。おかげでもうフラフラよ」 「あー大変だったんすね」 「そう……もう勘弁してほしいわ。けど本当ありがとう。助かったわ」 「いえいえ。気をつけて帰って下さいね」 「そうね、ありがとう」 そう言って、財布を受け取った彼女は夜道を自宅の方へ歩いていった。 単に財布を渡すだけのはずが、思いがけず世間話をしたことに、自分でも少し驚きながら、俺もコンビニの方へ向かって歩き出したのだった。 次に彼女と会ったのはコンビニの外でのことだった。 俺は勤めているコンビニから歩いて十分ほどのところにある古いアパートに住んでいた。 間取りは1Kで家賃は共益費等の諸々込みで月々三万五千円。日当たりが悪いのが欠点だが、家賃は周辺の相場から見れば格安だし、中の設備もそこそこ綺麗で気に入っていて、住み始めてもう三年ほどになる。 その日は警備もコンビニのバイトのどちらも休みだったので、久々に部屋でゆっくりと眠っていた。起きだしたのは午前十時すぎくらいで、それからもだらだらと朝飯を食ったり、テレビを見たりして過ごし、部屋の外に出たのは大体一時過ぎくらいだった。 部屋の中でテレビやネットを見るのにも飽きたので、俺はパチンコで一勝負しようとドアを開けたのだった。 太陽は中天を大分過ぎ、日差しが真上から降ってくるようだった。 初春の割に日差しは強く、その日は大分暖かかったように思う。部屋の薄暗闇に慣れた目には強すぎるように感じる日差しをうっとおしく思いながらアパートを出ると、目の前からランニングウェア姿の女が走ってくるのが見えた。 「あれ、やっほー」 訓練でもないのにご苦労なことで、程度しか考えず、俺はその横をとおり過ぎようとした。 「ち、ちょっと、無視って酷くない?」 そう間近で声をかけられて、俺はそのランナーが自分に声をかけてきていたことにようやく気がついた。 赤いキャップを目深に被ったそのランナーは、いつぞやコンビニで財布を忘れた彼女だった。 「ああ、あんたか」 「あんた、って大分失礼ね」 「悪いね。仕事以外だと口が悪いんだ」 「まあ大分すれた性格してそうな顔はしてるわね」 「おい」 「冗談、冗談。っていうかこの辺に住んでたんだ」 「そう、このアパート」 そう言いながら、築二十年ほどのボロアパートを指差すと、彼女はふうん、と頷いた。 「あんたもこの辺なのか?」 「ええ。ここから走ったら二、三分もかからないところね。奇遇だね、ご近所さんだったなんて」 そう言って彼女はにっこり笑った。まああのコンビニによく来るのだから、生活圏は当然近いだろうな、と特に感慨もなく考えながら、俺は彼女のランニング姿に目をやった。 「走るのが好きなのか?」 「いや、どっちかというと体調管理かな? 日中はお日さまの光を浴びながら運動するのが自律神経が整うんだって」 「仕事のストレスで自律神経が乱れ気味だからか」 「うう、まあそうね」 苦笑いを浮かべる彼女の顔を見ながら、ご苦労なことだ、と内心で呟くと、俺は「邪魔して悪かったな。また会ったらよろしく」と言い、その場を離れようとした。 「ああ、ちょっと」 二三歩行ったところで、彼女が背後から声をかけてきた。 「このあとなんかあるの?」 「パチンコ」 「うわあ」 「うわあ、ってなんだよ。うわあって」 「まあまあ、深い意味はないから気にしないで……でさあ、パチンコに物凄く行きたくてしょうがないって状態だったら無理しなくて良いんだけど、良かったら一緒に、お茶でもどう? この間のお礼がしたいし」 「いいよ。別にお礼されるほどのことはしてない」 「そんなことないよ。それに、お礼をしないと私の気も済まないし」 走っていたせいか、少し上気した彼女の顔と、パチンコの喧騒を少しだけ秤にかけてみる。 「分った。お言葉に甘えよう」 何千円かスってしまうよりは、タダでコーヒーを飲んだ方がまだマシか。 そう考えて俺は彼女についていくことにした。 好きなものを頼んでいい、と彼女に言われたので、フリフリの制服を着た定員に「チョコバナナパフェとブレンドコーヒー」と言うと、向かいの席に座った彼女――そういえばまだ名前も聞いていない――が、ぶっ、と吹き出した。 オーダーを取る、俺よりいくらか年下らしい女性の店員も少しだけ微笑んでいたが、「かしこまりましたー」と何事もなかったように、今どき珍しい紙の伝票にさらさらとオーダーを書いた。 「何がおかしい?」 カフェラテを頼んだ彼女にそう尋ねると、まだ顔に笑みを浮かべたままの彼女は「いや、だって……」と言って、さらに、くっく、と肩を震わせて笑う。 「喫茶店ではブラックコーヒーだけしか頼みません、って感じの顔してるよ、君」 「コーヒーも頼んだだろ」 「でもパフェも頼んだでしょ?」 「仕方ないだろ、好きなんだから」 そんなことを話している内に、オーダーしたものが目の前に運ばれてきた。 大通りに面した喫茶店は、立地の良さの割に、時間帯のせいか客は少なく、注文からそれほど経たずにパフェとコーヒーそしてカフェオレが運ばれてきた。 細長いスプーンを手に取り、生クリームに先端を突きさす。 うん、美味い。 「普通の男の人ってさ」 「うん?」 彼女にそう応じながら、パフェの後にブラックコーヒーを飲み、さらにパフェをほおばる。 「甘いもの好きでも、女の人の前だとカッコ悪いから、ってそれを隠そうとするものだと思ってたけど」 「人によるんだろうな。俺は別にそういうことは気にならない。単に社会性がないだけなのかもしれないけど」 そしてバナナを口に入れる。タダで美味しいものが食べられるのだから、我慢する必要は欠片もないのだ。 「面白い人だね、君」 「そう面と向かって言われたのは初めてだな」 「そう? 絶対そんなことないと思うけどな」 褒められてるのか馬鹿にされてるのか、いまいち判断がつかないまま、パフェを食い続けていると、ふと俺は大事なことを聞いていないことに気がついた。 「そういえば、君、名前は?」 「ああ、自己紹介もまだだったね。私はちひろ。布施ちひろ」 俺も彼女に名乗り返す。 狭山四郎と、自分でも古臭いと気にしている名前を名乗ると、彼女はまた吹き出した。 「四郎でパフェとか……」 「名前は関係ないだろ」 「いや、だけどさ……」 「……パフェ返すわ」 「拗ねないでよもー」 こうして、彼女との付き合いは始まったのだった。 よく分からないが、彼女は俺を気に入ったらしい。 別れ際にラインの交換を求められ、特に拒む理由もなかったのでそれに応じ、そのまま彼女と定期的に会う関係になっていった。 彼女――ちひろは、小さな出版社に勤めているらしい。実家は東北の方にある名前もしらない小さな街にあり、今は一人暮らしをしている。普段は健康とお金のために自炊をしているそうなのだが、残業で遅くなったときや、料理をする気にもなれない時に、俺のコンビニで夕食や、翌日の朝食を買っていくそうだ。 休みは週に二日、もらえることになってはいるそうだが、ただでさえ多忙な雑誌編集の仕事なので、確実ではないらしい。取材の都合や、編集作業が残っている場合には休日にサービスで出勤することもあるそうだ。 「経営者ってのはどれだけ労働者から搾取するかしか考えてないのよ」 紅茶の入ったマグカップを俺の前に置きながら、ちひろはそう言った。 少し落ち着かない気分を味わいながら、俺はそのカップを手にとった。 ちひろの部屋は女の子のそれにしては置いてある物が少なく、小奇麗に片付いていた。かといって殺風景、という訳ではなく、あの財布のキーホルダーと同じキャラクターのぬいぐるみが置いてあったり、友達と映った写真が机に飾ってあったりもした。 この日、俺はちひろに自宅でのお昼に誘われ、彼女の手料理を味わった後だった。 常日頃から自炊しているだけあって、彼女の料理の腕はなかなかのものだった。 普段はレトルトか、せいぜい生野菜や果物を齧る程度の貧相な食生活をしている俺にとって、ちひろが出してくれる手料理は、乏しい俺の語彙で表現するなら、暖かみのある味がした。 レトルトの食品も温かいことには変わらないのだが、人の手で一から作られたことで添えられた、暖かみが彼女の作る料理には感じられた。 食後に出された紅茶をすすりながら、俺は彼女の部屋にいることに、場違いさ、のようなものをどうしても感じてしまう。 俺の本来いるべきところと、ここは大きく違う。そんなことをつい考えてしまうのだ。 「最大効率で労働力を搾り取るっていう古い考えから抜け出せてないのよウチの会社はさ。雑誌編集がやりたかったから入ったけど、もう辞めちゃおっかな」 「いいんじゃないか、あんただったら、別のとこでもやってけるだろうよ」 「あー、そう思う? よし、しーくんに言われたから辞めちゃおっかな」 「ちょっと待て、しーくん、って誰のことだ」 「え、四郎くんのこと。四郎、だからしーくん」 「しーくんねえ……」 「あれ、嫌だった?」 「嫌ではないけどさ」 「じゃあ良いじゃん、しーくん」 そう言ってえへ、と笑う彼女に、思わず俺も笑みを返してしまう。 一緒にいる時間が増えるにつれ、彼女との距離は徐々に近づいていった。それを嬉しく感じる一方で、戸惑い、迷う自分も確かにいた。 覚えてる限りでは、人と近しく付き合うということがなかった俺に取って、ここまで関係が近くなることは初めての経験だった。 その距離の近さに戸惑い、そして上手くやっていけるのか、という不安が、俺の中で芽生えていった。 そんな俺の様子に気付いた様子もなく、ちひろは俺のことをしーくん、と呼び、休みが合う度に俺たちはどこかへ出かけた。 出かける、とはいっても、出会って半年ほど経つとルーティンのようなものが決まってきた。 気になる映画が上映された時には、もっぱら俺たちは映画館に出かけるのだが、特に用がなければ、昼食をちひろの家で食べ、その後は近所の公園で読書をする、というのが、いつしか二人の間の決まりごとのようなものになっていった。 ちひろは本が好きで、俺も好きというほどではないが読むには読む。 互いに読みたい本を持ち寄り、公園の中に設けられた休憩所に並んで座り、時々雑談しながら本を読む。 こうする時間が、その頃の俺にとっては大切なものになっていた。 公園に植えられた草木の匂いや、日差しの暖かさを感じ、本のページをめくる。その合間にちひろと馬鹿な話すると、自分の中に、暖かな気分が満ちていくのを感じることが出来た。 公園には本をただ持っていくだけでなく、ちひろが淹れた紅茶と、お茶菓子を持っていくのが常だった。 その日のお茶菓子のクッキーをつまみながら、俺はちひろの方に目をやる。 ちひろはずっしりと重そうな文庫本を身じろぎもせず読んでいた。ちひろが読むのは古典文学が多く、今日読んでいるのはロシアの古典文学の有名なものらしい。 一度、ちひろに勧められて読んでみたのだが、文章が堅苦しい上に登場人物が無駄に多く、正直楽しめなかった。 「面白い?」 そう尋ねると、ちひろは目を文庫本にやったまま答えた。 「うん」 「……どこら辺が?」 「なんていうか、最近の本の面白い、っていうのとは違うよね。昔の人はこんな感じだったんだー、とか、こんなこと考えながら生きてたんだーっていうのが知れること、感じることが面白い、っていう感じ」 「ふうん」 そう言いつつ、俺は自分の読んでいる一昔に流行った小説に目を戻した。 文章は分かりやすく、筋も読みやすい。小説にも楽しみ方は色々なのだ、と思いながら、俺は本のページに目を戻した。 その時、ふと風が吹き、公園の中に植えられた木々が葉音を鳴らす。 ざざざ、という大きな音が響くほどに風は強く、俺たちはページがめくられないよう本を押さえた。 「ちょっと今日風強いね」 「そうだな」 そう言い合い、俺たちはまたページに目を戻す。 俺たちのいる公園は中心に池があり、その周りに遊歩道が整備されている。俺たちが本を読んでいる休憩所は遊歩道の脇にあり、散歩する老人や、連れ立って歩く恋人達が目の前をよく通る。 彼等は休憩所で話す訳でもなく、ただ並んで本を読む俺たちを見て――中には頬笑む人もいたが――不思議そうな顔をして通り過ぎていく人がほとんどだった。 並んで本を読むだけのカップルというのも、確かに珍しいのかもしれないな、とその度に俺は考えた。 そこでふと、気がついたことがあった。 俺とちひろは一体なんなのだろう。 傍から見れば恋人同士、とでもなるのだろう。しかし彼女に告白をしている訳ではなく、正式な恋人同士というわけではない。ならば仲の良い異性の友人、という感じでもない――それに、その程度の関係で済ませたくない、と思っている自分も確かにいた。 ちひろの方を見る。 彼女は先ほどと同じように、身じろぎもほとんどせずに小説をじっと読んでいた。時折風が彼女の髪をなで、ショートボブに切り揃えられた茶髪をさらさらと揺らしていた。 俺の視線に気がついたのか、ちひろはふと、本から顔を上げ、俺の目を見つめ返してきた。 「どうしたの?」 「いやどうもしない」 ふうん? と不思議そうに彼女が首をかしげると、再び風が俺たちの方に吹き込んできた。 遊歩道には脇に木が植えられているのだが、休憩所のところには植えられておらず、日差しがたっぷり入ってきてくれるものの、風も容赦なく吹き込んでくる。 「風も強いし、そろそろ出ようか?」 「そうだな」 そう言って、俺たちは休憩所に設けられたテーブルに並べたお菓子やお茶を片付け始めた。 行き先も特に決めずに、俺たちは休憩所を出た。特に言い合わせることもしなかったが、二人の足は自然と遊歩道を歩き始めた。 風は少し強いものの、並木の合間から降り注ぐ陽光は気持ちが良い。散歩日和、というやつだった。 「このあとどうしよっか?」 「ああ」 「駅前でちょっとお買い物とか」 「ちひろがしたいならそれで良いよ」 無意識の内にぞんざいな受け答えになってしまってたらしく、ちひろは、「しーくん、今日ちょっとやる気ない感じ?」と言ってきた。 「いや、そんなこともないぞ」 「えーなんかあんまり楽しんでないように見えるけどなー」 「いやいや」 「なんだい悩みかい? お姉さんに話してみ?」 俺と同い年で三ヶ月だけ早生まれのちひろがそう言ってくると、俺は苦笑いを浮かべて彼女に軽く返そうとした。 しかしどう返せば良いのか分からず、口を半開きにして、結局口をつぐんでしまう。 俺の言葉を楽しそうな顔で待ち構えていたちひろだったが、なかなか言葉を出せない俺を見ている内に、少し心配そうな顔をして俺の目を覗き込んできた。 「あれ、ガチで悩み事?」 「いやそんなことはない」 お前と俺はどういう関係なのか、わからないんだ、とは言えず、そう答えたものの、ちひろは怪訝な顔をしたまま、俺の目を見つめ続けた。 「悩みがあるなら、言ってよ。しーくんと私の仲なんだからさ」 「俺とお前はどういう仲なんだ」 水の入ったコップを持って歩いていて、何かにつまずいた拍子に、水をこぼしてしまったかのように、俺の口からそう言葉が出てしまった。 自分で思っていた以上に深刻に考えていたようで、口から溢れ出たその言葉は強い響きを持っていた。 少し虚を突かれた顔をしたちひろに、自分の不用意な言葉を慌てて詫びる。 「いきなり変なことを言ってすまない。ただ、違うんだ。ちひろといて俺は物凄く楽しいんだ。ただ、君との関係が一体なんなのか、よく分からなくなってしまって、俺が勝手に戸惑ってしまったんだ。いきなりこんなこと言って、傷つけてしまったら申し訳ないんだけど」 そう一息にまくし立てるように言う俺は、我ながら気持ち悪かったと思う。 戸惑った顔をしてちひろは俺の言うことを聞いていた。 遊歩道の途中で立ち止まった俺達の横を、何人もの人が歩きすぎていく。別れ話をしているようにも見えるのか、その内の何人かは面白そうな顔をして俺達の横を通り過ぎていく。 少しの間、何も言わずにいたちひろだったが、ふとその顔に微笑みを浮かべた。 「彼氏と彼女じゃダメかな」 その頬には少しだけ赤みが差していたようにも見える。 「しーくん、恋愛経験少ない? 今更私としーくんがどういう感じなのかって、普通悩む?」 「いいのか、俺なんかで」 その言葉を聞いたちひろは、頬を赤くしたまま吹き出してしまった。 「よくなかったらこんなに一緒にはいませんよーだ」 胸の中に、今まで感じたことのない暖かいものが満ちていくのが感じられた。 こういう場合、やはり正式に付き合ってください、と言うべきなのだろうか。 しかしあらためてそう言うことは出来ず、俺は黙ってちひろの体を抱きしめた。 小さなちひろの体は暖かかった。細い腕で俺の体を抱きしめ返してくるちひろを、俺はそっと抱きしめ続けた。 遊歩道を風が通り過ぎていく。俺達の傍らを、人々が通り過ぎていく。 この世界に俺と彼女だけしかいなくなったような、そんな錯覚を俺は覚えていた。 生まれて初めて感じる気持ちに、俺は包まれていた。 誰かを愛おしいと思うこと、誰かに愛おしいと思われることが、ただただ嬉しかった。 彼女のために生きていこう。 そう俺は決めた。 だがそんな俺の決意はいとも簡単に折られることになった。 それまで気付きながらも、目を背けていた簡単な事実によって、俺のささやかな決意は無為なものにされてしまったのだ。 俺達のいる世界は、どうしようもなく狂っていたのだ。 俺の睡眠は基本的に浅く、夜中に何度も起きてしまう。 その時も深夜にふと目覚めたのだが、いつもの目覚めと違って、形容しがたい不吉な予感がどうしてか伴っていた。 目覚めて最初に、俺は枕元の時計を見た。 時計の針は深夜の三時を指していた。 それをぼんやりと認識した後に、俺はようやく、重要なことに気がついた。 隣に寝ていたはずのちひろがいなかった。 眠りに入る直前には、確かに隣にいたはずの彼女が忽然と消えていた。 明日は彼女も仕事が休みなので、今日は泊まっていくと言ったはずなのに、彼女は霞でもあったかのように、体温すら残さず消えていた。 寝室からトイレの方を見るが、誰かが入っている痕跡はない。 ならば、ちょっとコンビニかどこかに出かけているだけだろう。そう頭の冷静な部分では考えていたが、俺は頭の芯から湧いてくるような不安に突き動かされ、寝ていた布団から起き上がるとパーカーを身に付け、外に出ようとした。 部屋のドアが開いたのは、スマホを握ってキッチンと居室の間をまたごうとした時だった。 そのドアから入ってきたのはちひろではなく、見覚えのない男だった。 深夜に、チャイムすら鳴らさず、部屋の中に侵入してくるとすれば泥棒以外の何者でもないが、その男は泥棒、というにはあまりにも似つかわしくない格好をしていた。 男は黒いスーツ姿で、皺のないYシャツにきっちりとネクタイをしめていた。清潔感のある短い髪が乗っかった顔は人が好さそうで、少々気だるげだったその表情は、俺の顔を見たとたん驚きに変わった。 「あれ、ええと」 すいません、部屋を間違えました、とでも言うかと思いきや、男は「なんで起きてるんだろ」と、頭をかきながら呟いた。 状況はよく分からなかった。 分からなかったものの――いやだからこそ、俺は男に向かって飛びかかった。 男のYシャツの襟元を掴み、親指を男の喉元に押し込む。苦しげに呻いた男を力任せに自分の方へ引っ張り込み、そのまま床へ倒れさせる。 フローリングされた床に倒れた男の喉に、徐々に体重を乗せながら親指を押し込むと、呼吸がしづらくなった男の顔がどんどん苦しそうに歪んでいく。 男は苦しそうに、喉元に突きこまれた俺の腕を掴んでくる。俺は一度喉元から手を離すと、男の頬に拳を見舞った。 二度、三度と男を殴りつけてから、再び喉元に親指を押し込む。 先ほどよりは弱めた力で、しかし男が苦しむ程度に気道を塞ぎながら、俺は男に話しかけた。 「誰だお前」 男の目は血走り、涙が浮かんでいた。恐怖に満ちた目で俺を見ていたが、男は何も言わなかった。 もう一度男を殴りつける。 「誰だ、って聴いてるんだ」 何度か殴りつけられ、男の鼻と口からは血が流れ出ていた。涙を流しながら、男は「やめて、ごめんなさい」と言った。 「謝るってことは何か俺に対してやましいことがあるんだな? 俺の横にいた女をどうした? 答えろ」 「それは――」 「また殴られたいのか、次はもっと酷いことにしてやろうか?」 「言います、言いますから! だからもう殴らないで!」 ひいひいと情けない声を出す男が話しやすいように、喉元への力を弱めてやる。男はゆっくりと、話し始めた。 「あの人は僕の仲間が保護しました」 男の首を思いっきり――骨が折れるくらいに締めたい、という衝動を我慢しながら、俺は男に尋ねる。 「保護? 誰から?」 「あなたからです」 「俺から? 俺が彼女に何をしたっていうんだ」 「何もしてません。今は」 ただ、と男は続けた。 「将来、あなたと彼女が結ばれた場合、あなたが彼女に暴力といった行為を働く可能性が高い、と本庁の人工知性が判断したんです。あなたと彼女のこれ以上の交際は認められない、との認定が下りて、彼女を保護することになったんです」 男の言っている意味がよく分からなかった。 しばらく俺が男の襟首を掴んだまま固まっていると、俺の背後――開けられたままだった玄関のドアから別の男が声をかけてきた。 「彼の言っていることは本当のことだよ」 その男が声をかけてくるまで、俺はその気配を察することが出来なかった。 おそらく俺の気の抜けていたせいだっただろうが、背後のその男は突然、後ろに現れたようだった。 背後を振り向く。その男は、俺が今首を絞めている男とは大分風情が異なっていた。 暗闇のせいで色は定かではなかったが、おそらくはこげ茶色のコートに、ジーンズ姿。丁寧になでつけられた白髪と丸めがねは洒落っ気のような感じがした。俺の腕の中で息を荒くしている男が真面目な勤め人のような雰囲気を持っているのに対して、この白髪の男は気ままな遊人、のような様子だった。 素早く身を返して俺は腕の中の男の首を締め上げる。苦悶の表情を浮かべる男を、白髪の男に見せつけるようにしてやるが、それに対して、白髪の男は少しだけ笑うだけだった。 「別に彼は僕の仲間じゃない。むしろ、彼と私は敵同士、とも言える。そして」 丸めがねの奥の瞳が俺を見た。 「どちらかといえば、私は君の味方だよ」 「どちらかといえば、っていうのはどういう意味だ」 「味方となるかどうかを、最終的に決めるのは君だからさ」 「正直、色々言われてもよく分からん。ただ、教えろ。彼女はどこに行った?」 「残念だが、彼女を取り戻すことは、もう出来ない」 「どういう意味なんだそれは」 「詳しく説明している暇は無いんだ。申し訳ないんだが、君にはさっさと決めてもらわなければならない」 男の瞳はとらえどころのないものだった。何の感情も浮かんでいないようで、そこには様々なものが浮かんでいるようにも見える。そしてその声も、四十半ばと見える男の外見に比べて若く聞こえるようで、どこか老成したような響きも持っていた。 「私と行くか、行かないか」 「意味が分からん」 「ただ一つ言えるのは、君が私と来なかった場合、君もまた、永遠に彼女を失うことになる。しかも、彼女を失ったことすらも忘れてしまう」 そして男は「もう一度だけ聞こう」と言う。 「私と来るかね?」 白髪の男と一緒にアパートの階段を下りていくと、周りには明らかに堅気とは思えない連中が立っていることに気付いた。 服装は様々だったが、皆、目付きが鋭く、緊張した面持ちで周囲を警戒しているようだった。暗闇で定かではなかったが、中には手に拳銃らしきものを握っている奴までいた。 そんな連中は、白髪の男が俺の部屋から出てくると、それとなく視線をこちらに寄越してきた。 白髪の男が軽く右手を上げると、連中はばたばたと動き始める。 全部でおそらく八人はいる連中は、あの、最初に俺の部屋に入り込んできた男とは全く毛色が違っていた。 その最初に入ってきた男は、白髪の男が持っていたスタンガンで気絶させられ、部屋の玄関に転がっている。俺に締め上げられた上にスタンガンを食らわされたのだから、可哀想とも言えなくもないが、人の部屋に勝手に侵入してきたのだから当然の報いとも言えた。 俺の目の前を歩いていた白髪の男は、アパートの近くに停っていた乗用車に近づくと、俺を手招きしてきた。 ポケットから黒い布を取り出し、男は「この車に乗って移動する」と言う。 「ただし、君にはこれで目隠しをしてもらわなければならない。これから行くのは私達のいわばアジトだからね。詳しい場所を知られるのは不味いんだ」 「お前らは俺の味方なんだろ?」 「まだ、君が私達の味方になってくれるとは分からないんでね。従ってくれ」 少しだけ、白髪の男を引きずり倒してしまいたい、という衝動に駆られたが、深呼吸をしてそれを我慢すると、俺は「さっさとやれ」と男に言った。 黒い布をキツめに縛られると、白髪の男の手によって、俺は乗用車の中に入れられた。 真っ暗な視界の中、車に何人かの男が乗り込んでくる気配がした後、乗用車は走り出した。 荒事を終えた連中が乗っている車にしては、その走り方は慎重で、ゆっくりとしたものだった。 未だに気分は落ち着かなかったが、俺は深呼吸を一つして、つい先程からの事態を整理しようとした。 ちひろは、あの玄関で気絶している男とその仲間によって連れ去られたらしい。そして、あの男達と、白髪の男が率いているこのガラの悪い連中は対抗しあっていて、そいつらは――そいつらが言うことには――俺の味方になっている。 まだ気を抜けない状況だが、とにかく今はこの白髪の男に付いていき、今、俺とちひろがどういう状況に置かれているか知らなければならない。 目隠しを取り、白髪の男を引きずり倒して、彼女のことを問い詰めたい、という衝動を我慢しながら、俺は白髪の男に尋ねた。 「どこに向かっている?」 「安全なところさ。申し訳ないけど、そこに着くまでは静かにしててくれ」 そう言う白髪の男に、俺は黙って従うことにした。 車はそのまま二時間ほど走り続けた。目隠しをされた状態ではどこに向かっているかは分からなかったが、途中、どうやら高速道路か何かを走っていたのは気配でなんとなく察せられた。 そこから曲がりくねった道に入り、さらにしばらく走った後、俺達が乗った車はようやく停った。 「着いたよ」 そして俺は目隠しをされたまま車を下ろされ、どこかの建物の中に移動させられた。 ようやく目隠しを取ると、目の前にはバーカウンターがあった。ビリヤード台やダーツも並んだそこは、地下にあるようで、白髪の男はバーカウンターでウイスキーの瓶を取ったところだった。 俺の目隠しを取ったのは白髪の男とは別の男で、その目付きの鋭い男はさっさとその部屋を出て行った。 「お疲れ様。何か飲むかい」 「いらない」 そう俺が答えると、白髪の男は軽く肩をすくめ、ウイスキーをグラスに注いた。 グラスの半ばくらいまで琥珀色のウイスキーを注いだ男は、それを一気にあおった。 ほう、と息をついた男に、俺はしびれを切らして話しかけた。 「もういい加減教えてくれないか」 「急速に発達した人工知性が、この国――というか、全世界的に政府の意思決定に使われているのは知っているかい」 突然の問いかけに、俺はすぐに応じることが出来なかった。もともと男は答えを待ってはいなかったようで、すぐに再び話し始めた。 「どこの国も様々な問題を抱えている。少子高齢化、外交問題、経済の停滞、温暖化の進行――それらの問題は互いに絡み合い、問題は複雑化、多様化の一途を辿っていった。各国のエリートが知恵を絞っても、最適解にたどり着く事が難しいということに気付いた各国は、意思決定に人工知性を導入することを決めた。 二千二十年代に始まったこの流れは現在でも続き、その有効性から、人工知性は国の意思決定に広く活用されている――というのは、一般的に教えられているが、実際はそんなレベルじゃない。この世界では人は、人工知性の決定に従って生きることを強制されているんだ」 男は再びグラスにウイスキーを満たす。さっきのように一気にあおることはせず、今度は舐めるように少しづつ飲んでいく。 「人工知性の判断は確かに有効だった。起こるはずだった紛争は抑止され、全世界の二酸化炭素濃度を下げつつ、経済成長を果たすことが出来た。人工知性の判断を当初は、決定材料の一つとして扱っていた各国政府は、その判断の的確さから、いつしか判断を全て人工知性に委ねるようになったんだ。外交、経済、そして社会保障。 そして、君から彼女が引き離されたこともこの人工知性の判断によるものだ。この国では社会保障費の増大、荒廃した家庭によって起こされる悲惨な事件の数々が問題とされていた。就労能力と意欲を持たない人間の増加、虐待を繰り返す家庭。それを無くすためにはどうしたら良いか、この国の政府が尋ねると、人工知性は明快な答えを出した」 白髪の男は俺を見る。その瞳にはどこか憐れむような、そんな色が浮かんでいた。 「社会保障に深く依存する人間がいるのなら、それを排除すれば良い。そして、新しく生まれなくしてしまえば良い。子供や家族を虐待するような人間を結婚させなければ良い。そうすることが、問題解決の特効薬だと、人工知性は答えたんだ。そして、政府はその判断に従うことにした」 「うそだ」 男の言葉を遮り、俺はそう言った。 「そんな馬鹿なことを選ぶはずがない」 「そう。そう考えるのは当然だ。機械に全てを委ねるなんてことは、常識的に考えれば正気の沙汰じゃない。しかし政府はそうしてしまったんだ」 男の話しが耳に入ってくるごとに、俺は頭が痛くなる錯覚を覚えた。男の言葉は嘘だと考える自分もいた。しかしその一方で、男の声音は端的で、それに嘘が挟まれている気配がなかった。 俺はただ男の言葉を聴き続けた。 「政府は秘密裏に、社会生活能力が著しく低く、今後も改善する可能性がない、と判断された人間を処理し始めた。そして、将来的に、家族に虐待を働く可能性がある人間の婚姻を妨げることにした。 虐待の影響というのは大きい。仮に夫が妻とその子供に虐待をした場合、被害を被るのはその二人だけじゃない。妻に関して言えば、その親や親族に心理的なダメージが与えられる。もし働いていればその生産性は著しく低下する。子供に至ってはさらに大きい。虐待を受けた子供はその友人にも攻撃的になるし、成人し、子供が生まれた場合にはその子供に虐待をする可能性が高い。そうはならなくても、社会生活能力に著しい障害を持つことは間違いなく、そんな人間を養うためにかかる社会保障費は莫大なものになる。 君が、彼女と結婚した場合に、彼女やその子供へ虐待を図るリスクが著しく高い、とこの国の人工知性は判断した、そのため、彼女と君は離れ離れにされることになった」 「俺は彼女を傷つけるようなことはしない」 怒ることも忘れて、俺はただそう言うことしか出来なかった。 「彼女は俺にとって、初めて一緒にいたい、と思える人だった。そんな人を傷つけるようなことは絶対にしない」 「君は子供の頃、実の父親から暴力を受けていたんだろ?」 白髪の男を見る。男はもうウイスキーには口をつけておらず、ただじっと俺の目を見返していた。 「度の過ぎた父親の暴力のせいで児童養護施設に入所し、十八歳まではそこで生活していた。ただ高校は同級生への暴力事件で中退。その後は職を転々としていた。 人工知性はこの国に住む人間の経歴や性格傾向の全てを把握し、それを元に将来的なリスクを算出する。君の過去、性格傾向から、人工知性は、たとえ今は彼女を大切にしていたとしても、将来的には暴力を振るう、そう判断したんだ」 「仮に、その人工知性とやらがそう判断して、俺と彼女を離したんなら」 俺はゆっくりとバーカウンターに近づく。そして、カウンターに手をついた男の襟首を掴み、奴の顔を間近に引き寄せた。 「お前もその使い走りなんだろ? でなければ、そこまで知っている筈がない」 「今まで話したのは、私達が事前に知っていた事実と、最近のハッキングによって明らかになったことだ」 殺意を込めて男を睨みつけるが、男は微塵も動じた様子を見せず、ただ俺を見返してきた。少し締め上げてやろうと指に力を込めるが、男は淡々と言葉を続けた。 「もし君を傷つけてしまったのなら謝るよ。君が置かれた状況を説明するには、事実をはっきりと伝えた方が良いと思ってね。僕は君の人格に欠陥があると言う気はない。ただ、人工知性がそう判断している、そのことを伝えたかった」 男の気道が締まり、その顔に赤みがさす。このまま殺してしまおうか、と少しだけ考える。 その時、背後のドアが勢いよく開かれる音がする。部屋の外からは何人かの男がばたばたと入ってきて、白髪の男を締め上げる俺に掴みかかってくる。 その内の一人は後ろ蹴りを放って昏倒させたものの、二人の男によって取り押さえられてしまった。 なんとか拘束から逃れようとするが、自分よりも大柄な男二人に押さえ込まれ、まともな抵抗も出来ないまま、地面に倒れ込む。 「離してあげてくれ」 そのまま全体重をかけてくる男達に、白髪の男はそう言った。 「しかし」 「突然、あんなことを言われれば、誰だって怒りもする。離すんだ」 不服そうな男達だったが、結局は白髪の男の言葉通りに、俺から体を離した。 白髪の男を締め上げて、人質にしてしまおうか。 少しだけそう考えてしまったが、結局そうはしなかった。 「お前はさっき、彼女はもう取り戻せない、と言った。あれはどういう意味だ」 「ただ、リスクの高い人間から婚姻する相手を引き離したところで、意味はない。彼等に、人工知性とそれに従う役人達はある処理をするんだ。 ナノマシンと電気刺激を使い、結婚する相手の記憶を消去するんだ。 君達の処理を、政府が始めたことを察知した私達が向かった時には、彼女は既に連れ去られてしまった後だった。もう彼女は今頃、記憶を操作され、君のことは何も覚えていないだろう」 「嘘だ」 そう言う俺の言葉は、弱々しいものだった。 男の言うことに偽りはなさそうだ、そのことを分かりながら、ただそれを認めたくなかった。 「――確かめてみるかね」 そう男が言う。 その瞳には何の感情が浮かんでいないようにも、様々な感情が入り混じり、区別が無くなってしまったかのようにも見えた。 階段を上がるごとに、コンコン、という硬質な音が暗闇の中に広がっていった。俺の前で階段を登る白髪の男によれば、政府に俺は追われているらしい。未だに男の言葉を全て信じた訳ではなかったが、階段を登る音が辺りに響くことに落ち着かない気分を覚えてしまう。 その時、脳裏にある光景が浮かび上がってきた。俺は暗闇の中で膝を折り曲げて座っている。 父親によって入れられた押入れで鼻水をすすると、その音はいつもより大きく聞こえた。何をしてもはっきりと聞こえる闇の中で、俺は必死に声を押し殺していた泣き声でももらせば、父親は外から俺を引きずり出し、また殴ってくるのだから。 このことを思い出すのはひどく久しぶりのことだった。どうしてこんな時に思い出すのか、思わず舌打ちをしてしまいながら、俺は男の背中を追った。 階段を登りきった先のドアを開けると、強烈な西日が目を灼いた。 闇になれた目には強すぎる光に、俺は少しだけ目をしばたくが、白髪の男――偽名かもしれないが、鈴木、と名乗った――は、平然と歩みを進めていく。鈴木に遅れないよう、奴の背中を追う。 俺達がいるのは、街中にあるビルの屋上だった。ビルからは街を一望することが出来、目をこらせば、俺の住んでいたアパートや、ちひろとよく行った公園を見ることも出来る。 そして、幹線道路を隔てたすぐ先には、ちひろの勤める出版会社が入るビルがある。 屋上の端に設けられた手すりに寄りかかりながら、鈴木は双眼鏡を使い、そのビルの方を見ていた。 俺が横に立つと双眼鏡を差し出してきて、「三階の、ちょうど真ん中辺りにいるよ」と言ってきた。 鈴木から双眼鏡を受け取り、一つ深呼吸をしてあら目に当てる。 拡大されたビルの中では無数の机が並び、何人もの人が働いていた。 ちひろは机に座って仕事をしていた。目尻にしわを寄せながらラップトップ型のパソコンに向かい、キーボードを打っていた。時々指を止め、腕をくみながら何事かを考えるが、すぐにキーボードの上に指を戻す。 後輩だろうか、そんな彼女に別の女性が近づいてきて、何事か話しかけながら湯気の立つマグカップを渡してくる。それをちひろは笑顔を浮かべて受け取ると、そのままその女性とおしゃべりを始める。何か面白いことを言われたのか、ちひろは心底楽しそうに笑う。そんな二人の話に、たまたま通りかかった男――年頃もちひろに近い、小奇麗な格好をした優男だった――が混じってくる。 男が何事か言うと、ちひろはさらに楽しそうに笑う。 そこまで見るのが限界だった。 双眼鏡から目を離すと、俺はちひろのいるビルから背を向け、屋上の真ん中に向かって走った。 コンクリート打ちされたそこに這いつくばり、額をこすり付け、俺は何度も拳でコンクリートを打った。打つ度に衝撃が手に走るが、痛みは感じない。骨はおそらく折れてしまうだろうが、手を止めることは出来なかった。 手を止めれば、狂ってしまいそうな気がした。 あの夜から、今日で三日が経とうとしていた。たった三日過ぎただけだというのに、どうしてちひろはああも穏やかに笑っていられるのだろうか。俺と突然別れさせられたというのに、ああも楽しそうに笑っていられるのだろうか。 彼女の先程浮かべていた笑顔、双眼鏡ごしに見ていたあの笑顔が脳裏に浮かぶ。以前、つい三日前ならば、気分を穏やかにしてくれるものだったその顔が、今は俺の心臓をすりつぶしてくる。 彼女の中に俺なんて物は存在しなかった、そんな笑顔だった。 拳を痛めつけ続けていた俺の肩に、鈴木が手を乗せてくる。 思わずその手を振り払い、そのまま鈴木に殴りかかってしまいそうになったが、穏やかに鈴木が声をかけてきて、危ういところで俺は踏みとどまった。 「君と彼女が一緒に過ごした時間は確かに存在したものだよ。ただ彼女がそれを忘れてしまっているだけなんだ」 「記憶は戻るのか」 「戻らない」 鈴木の言葉は端的で、容赦がなかった。 「私達に出来るのは、せいぜいこうして、君を捉えるために、彼女の周囲を張っている政府の職員の目に止まらないギリギリの距離から彼女の姿を見せてあげることくらいさ」 「連中は俺を捕らえてどうするつもりなんだ。殺すのか」 「いや、おそらく彼女と同じように記憶を消すだろう」 鈴木はまぶしそうに太陽を見上げる。 「君は就労もしていたし、税金や保険料も納めていた。そうしたものも納めない連中は処分の対象になるが、君は単に婚姻が制限されるだけだ。彼女の記憶を消され、もしかしたら婚姻への欲求も消去されるかもしれないね」 「……後者についてはわざわざ消す必要もないがな」 そもそも俺に、人とつながり合いたい、という気持ちはなかった。子供の頃に父親から受けた虐待のせいか、昔からそうした気持ちを持つことはなかった。ただ一人、ちひろを除けば。 「政府に出頭し、記憶を消してもらうかね?」 鈴木はそう尋ねてくる。その選択肢はひどく魅力的に感じられた。 彼女とのあの穏やかで幸せな時間を覚えながら、それを忘れた彼女のいる世界で生きる。それはひどく辛いことだった。しかし―― 「そんなことさせるかよ」 人工知性の判断だか何か知らないが、勝手に人の記憶を都合の良いようにもてあそぶ連中のやりたいようにさせる訳にはいかなかった。 俺がそう言うと、鈴木は深く頷いた。 「私達はね、君と同じように人工知性の勝手な判断によって人生を狂わされた者達の集まりなんだ。機械の判断に全てを委ねる今の世界を否定し、人の運命を人の手に戻すために、日夜活動を続けている」 「それに俺も加われ、と」 「そうだ」 「危険を冒してまで、俺を引き入れようとする理由は何だ? 俺の昔の仕事のせいか」 「その通りだ。君が昔の仕事で培った知識と技術を、私達に貸して欲しいんだ」 「頼りがいのある仲間なら、何人もいるようだがな」 「まあそれでも、人手は多い方がありがたい。それに、私個人が君を助けたかったというのもあるんだ」 「見ず知らずの他人の俺を?」 鈴木の言葉に冷笑を返してしまいそうになる。他人を無条件に助ける奴なんている筈がないからだ。そんな俺に、鈴木はあくまで淡々と答える。 「自分でも理由はよく分からない。私が私の恋人と引き離されたのが君と同じくらいの年の頃だったせいかもしれないし、君の過去の境遇が私と似ていたせいなのかもしれない。ただ、恩を売るつもりはないよ。君が仲間に加わってくれれば嬉しいが、去るとしても止めはしない」 そう話す鈴木の顔には何の感情も浮かんでいないようにも、様々な感情が入り混じっているようにも見えた。ただ言葉は率直で嘘が混じっているようにはやはり思えなかった。 そういえば、出会って三日足らずとはいえ、俺はこの男が俺の機嫌を取ろうとすることがなかったことに気が付いた。俺を自分の仲間にしようとしているにも関わらず、その言葉に虚飾は感じられず、奴は自分が思ったことを正直にしか話さないようだった。 鈴木が話すことには、この男も過去に人工知性の判断とやらで恋人から引き離されたのだという。 人工知性が俺を彼女から引き離したこと、俺が将来的に彼女を虐待するかもしれないことについて言えば、全く心当たりが無い訳ではない。彼女に対してそんな感情を抱いたことはないが、俺の部屋に侵入してきた政府の職員と思しき男や、鈴木に、殺意に近い感情を抱き、実際に暴力をふるってしまった。将来的に、ちひろに対しても同じことを絶対にしないとは、くやしいが、言うことは出来ない。ただ、この鈴木という男が、自分の大切な相手に暴力をふるうことを想像することは出来なかった。正直すぎて、物事を率直に言うことしか出来ない不器用なところはあるのだろうが、感情に任せて人を殴ったり、傷つけたりする人間にはどうしても思えなかった。それとも、また何か別の要因から誰かと結婚させられないと判断したのかもしれないが、こいつと一緒にいる人間が不幸になるとは思えない。 人工知性とやらがする判断には重大な誤りがあるのは間違いがない。この国の政府がその決定に従っているというのなら、それを認めてはいけない。 ちひろが戻らないことは耐え難いことだけれど、人工知性とこの国をそのまま放っておくことは出来ない。 ちひろのいるビルの方を見る。建築されてから大分年数が経っているのか随分と古めかしい外見をしたあのビルの中で、ちひろは今も雑誌を作っているのだろう。 俺のことを忘れ、自分を取りまく世界がどうしようもなく狂っていることも知らずに、穏やかな日々をこれからも送っていくのだろう。 鈴木に力を貸すということは、その穏やかな日々を壊すことにつながるのかもしれない。もしかしたら彼女を不幸にすることをしてしまうかもしれない。そうなる可能性があることを認識しながら、俺は「あんたに力を貸すよ」と鈴木に言った。 「感謝するよ、狭山四郎」 安堵したのを言葉ににじませ、鈴木はそう言った。 「ただ、頼みが一つだけあるんだ」 * 現代社会では国民の全員に個人IDカードの携帯が義務づけられている。 行政、経済活動が高度にデジタル化された現代で個人の情報が集積され、買い物の決済から身分証明、契約締結といった社会活動全般を一括して行えるIDカードは生活になくてはならないもので、たとえ義務化されなくても人々はそれを持ち歩くだろう。 人々が生活する上で有用な一方で、IDカードは人々を管理する側にとっても有用なものだった。IDカードの出現の直後から、政府はそれを人々の動態把握や、個人情報の収集に活用した。 社会的な生活不能者のあぶり出しや婚姻制限、犯罪の抑止・操作にも恐ろしく有効であることが分かった政府は、さらに一歩進んだ個人管理のツールを導入した。 人間の体に、ごく微小なチップを埋め込み、それに個人IDカードに準ずるあらゆる個人情報を逐一入力するようにしたのだ。 その導入は秘密裡に行われ、人々は生まれた時や医療機関に受診した時、知らず知らずのうちに、鈴木達が“首輪”と呼ぶチップを植え込まれていった。 俺が鈴木のアジトに連れていかれた時、まずされたのはそのチップの処理だった。チップは骨――それも頭蓋骨に埋められていた。しかし埋めるのが簡単なようにそれは骨のごく表層にあって、皮膚の上から特殊なレーザーを何秒か当てるだけで機能を失わせることが出来た。 その上で、俺と似た年恰好の他人のIDカードを用意すれば、政府から追われる身の俺でも自由に外を出歩くことが出来るようになる。 俺が全てを失ったあの夜から、一年もの月日が流れていた。 その間、俺は様々なことに手を出してきた。俺の昔の仕事――自衛隊にいた時に培っていた知識とスキルを使い、本当に色々なことをした。中には、果たして本当に正しいことなのか、と自問せざるをえないことも多くある。それでも、俺は政府と人工知性への反抗を止めることは出来なかった。 「いつか、君が言っていた頼み事だけどね」 ある仕事が終わった後の夜のこと、ウィスキーをなめながら、鈴木がそう話しかけてきた。 「ようやく叶えられそうだよ」 「本当か」 「嘘を言うと思うかい、私が」 そう淡々と言いながら、鈴木はウィスキーの入ったグラスを傾ける。 「俺も飲みたい」 「珍しいね」 鈴木から別のグラスをもらい、いつもこいつがしているようにウィスキーをなみなみとつぐと、それをゆっくりと飲んだ。 今俺達が飲んでいるのは、初めて出会ったバーカウンター付きの地下室ではなかった。 俺達のアジトは何度も変更を余儀なくされ、今いるのは古びたアパートの和室だった。 カビの臭いが染みついた部屋で、あぐらをかいて飲むにはウィスキーは似つかわしいとは言えなかったが、舌を灼くそのアルコールはひどく旨かった。 「色々とお膳立てをした後で、こう言うのは適切でないかもしれないけど」 しげしげと俺の方を見ながら、鈴木はそう話しかけてきた。 「何がどうなるものでもないんだよ。むしろ、今の君にとっては有害なことかもしれない」 「どうしても、心の整理がつかないんだよ、そうしないことには。お前や他の連中に手間を取らせたのは悪かったけどな」 「そこら辺の気持ちの機微が、私には分からない」 「それでも手を貸してくれるのが、お前の良いところだよ」 グラスを空にした鈴木は、おかわりを注ぎながら俺をしげしげと見てくる。 「未だに不思議だよ」 二杯目のウィスキーをちびちびとなめながら、鈴木は言葉を続ける。 「人工知性が君を危険と判断したのが、未だに不思議でならないよ」 政府の措置を拒否して逃亡し、さらには政府と人工知性の活動を妨げる活動家となった俺が、かつての恋人である布施ちひろに接触を図る可能性は高い、と政府は判断していた。 そのため彼女は監視対象とされ、その周囲には政府の連中が張り込んでいた。 ただ、この一年、活動家狭山四郎が活発な工作活動をする一方で、布施ちひろへの接触を試みる気配を全く見せなかったことから、監視態勢は順次解消されていった。 俺とちひろが出会ったコンビニの近くに車を停め、俺は彼女が来るのを待っていた。 俺が鈴木に頼んだこととは、彼女――俺の記憶を失った、彼女に会うことだった。 鈴木が調べたところでは、彼女は一年前と同じ所に住み続け、あれだけ嫌だと言っていた出版社にも未だに勤め続けているらしい。 新しい男とも付き合い始めたそうだ。相手は同じ会社の後輩で、付き合ってもう少しで三ヵ月になる。 俺達が活動用に何台か確保している車――多くは盗んだものだ――から、煌々と照るコンビニの灯りを見ながら、ちひろと新しい男が公園で隣り合って読書をしている様を思い浮かべてしまい、嫉妬で死んでしまいそうな感覚を覚える。 歯を噛みしめ、ハンドルを握り、頭をヘッドレストに押し付ける。コンビニの光が滲んでくるのを認めながら、一方で俺はちひろの幸せを願う。 どうか幸せで、穏やかに生きて下さい。あなたのおかげで、俺は幸せになることが出来ました。 車の中で、一人俺は泣いた。ルームミラーに映る自分の泣き顔を見ないようにしながら、視線を再びコンビニに転じると、そこにちひろがいた。 隙のないスーツ姿は一年前と寸分変わらない。また残業が続いたのか、ふらふらとした足取りでコンビニへ彼女が入っていくのを確認すると、俺は涙を拭いてから車を降りた。 思い入れはない、と思っていたが、一年ぶりにかつての職場に入った瞬間、懐かしさと悲しさが同時に心を揺さぶってきた。ちひろと久しぶりに会えることで感傷的になっていたのか、この一年の間の拠り所のない生活が思っていた以上に堪えていたのか、そのコンビニの床に額を打ち付け、泣きじゃくりたい衝動に、一瞬だけ駆られる。 それをなんとか押さえ、俺は店内を物色するフリをしながら、ちひろの姿を探す。 店内のレイアウトは一年前と全く変わっていなかった。思わず笑ってしまいそうになったのは、俺が勤めていた時の常連の一人、立ち読みおばさんが以前と全く変わらない様子で雑誌を立ち読みしていたことだった。 ページをめくりながらため息をつく彼女の横を通り過ぎる時「お久しぶりです」と声をかけそうになってしまった。泣きそうに、笑いそうになりがら店内を進む。遠くない過去に確かにあった、俺の生活の残滓がそこかしこに転がる中を歩くのは、思っていた以上に辛く、胸を打つものだった。 そして俺は、弁当を選ぶちひろの脇に立つ。弁当コーナーの脇にある、野菜ジュースやヨーグルトといったものが並ぶ棚で、品物を選んでいる風を装いつつ、俺はどうしようか、と今更ながらに考えた。 もともと、彼女に感謝を言おうと思っていた。俺のことを忘れてしまった彼女にとっては、一方的なものになってしまうが、そうすることで彼女への俺の想いを全て精算するつもりだった。 ただ、実際に彼女の傍らに立つと、それだけで済ませることは出来そうになかった。 彼女を抱きしめ、泣きたい――そんな強い衝動が心臓を打つ。 鈴木といった仲間達全てを捨て、そうしてしまおうか、と逡巡するうちに、横に立っていたちひろは弁当コーナーを離れる。 「あ」 そう呟いてしまうと、ちひろが俺の方を向く。 残業で疲れ切った顔に、怪訝そうな表情を浮かべたちひろが、俺を見る。 ちひろ、と思わず呼んでしまいそうになる俺に、彼女はただ不可思議なものを見る目を向けるだけだった。 「どうかしました?」 ちひろはそう俺に話しかけてくる。 「……独り言です」 そう俺が返すと、ちひろは軽く肩をすくめ、さっさとレジへ向かった。 俺は全てを失ったのだ、と一年ぶりの絶望を感じる。 俺の存在は彼女の中から消え、あの彼女との日々も全て霞のようなものになったのだ。通路の真ん中に立ち尽くした俺を他の客が迷惑そうに通り過ぎていく。 そのまましばらくの間、呆然としていた俺がふと顔を上げると、目がレジに吸い寄せられた。見覚えのない店員がぼーっとした顔で横に立つレジには、見覚えのあるものがあった。 「あの」 夜道でそう俺が声をかけると、ちひろがゆっくりと振り向いてくる。 コンビニでの俺の挙動不審ぶりを思い出したのか、彼女が俺を見る目は厳しい。 「何ですか?」 そんな彼女に、俺は持っていたものを上げて見せた。 「忘れ物、あんたのじゃないのか」 女子に人気というキャラクターのストラップが付いた長財布を見た彼女は、一瞬目を丸くし、続いて顔に手を当てると、はーとため息をついた。 「……どうもありがとうございます」 「疲れてたのか?」 「もう残業続きで、頭がボーっとしてたんです」 「気を付けた方が良い。誰でもこういう風に親切にしてくれるとは限らないからな」 「自分が親切だなんて、普通言いますか?」 「根が正直なんだよ、俺は」 少しだけ笑ったちひろに、俺は言葉を続ける。 「随分ふらふらしてるが、大丈夫か」 「ああ……家まであと少しなんで平気ですよ。心配してくれてありがとう」 「そうか、まあ気を付けて帰れよ」 そこまで話して、俺は胸の中でわだかまっていたものが、流れていったような感覚を覚えた。もう十分だ、そう考えて立ち去ろうとした俺に、ちひろが声をかけてきた。 「あの、お兄さんお名前は?」 「狭山四郎」 「うわ、渋い」 「失礼だな」 「ああ、ごめんなさい……ところで狭山さん、どこかで私と会ったことありません?」 「いや、気のせいだろ」 「そーかなー」 「他人のそら似、ってこともあるんじゃないか」 「むー。そーなのかなー」 「そうだろう」 「ところでスマホ見せてもらえません? 今度お礼とかしたいんで、連絡先教えて下さいよ」 「……いきなりだな。そもそもあんた彼氏持ちだろうが」 「……なんで知ってるんですか」 「そんな気がしただけだ」 「うえ、なんかキモい」 「ことごとく失礼だなあんた……まあ悪いがスマホは持ってないし、見ず知らずの男と連絡先も交換するもんじゃない。お礼はまたあのコンビニで会った時にでもしてくれ」 「ふむ、まあそうですね」 「じゃあ……気を付けて帰れよ」 「はーい、ありがとうございました、シローさん」 「ありがとう、ちひろ」 「え?」 ちひろの方はもう振り返らず、俺は車に向かって歩く。 目からは留めようのない涙が次から次へとあふれ、嗚咽を我慢するのが精いっぱいだった。 何年先、何十年先になろうとも、彼女と絶対にあそこで再開しよう。 そして喫茶店でコーヒーと、何か甘い物をおごってもらうのだ。 車のエンジンをかけ、俺は走り出した。 |
赤城 2019年04月29日 21時25分50秒 公開 ■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2019年05月18日 20時25分14秒 | |||
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Re: | 2019年05月18日 20時19分14秒 | |||
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