童貞教師と不良JK、愛について語る。 |
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<1> 俺の母校である北海道立札幌中央高等学校は、道内でも有数の進学校である。 毎年、北大の合格者は一〇〇人を超え、東大や京大・国立医学部といったトップクラスの大学にも合格者を輩出している。 そんな母校の教壇に、俺は今立っていた。 「起立、礼!」 号令を担当する日直の声が教室に響き渡り、パタパタと四〇個の頭が行儀よく下げられていく。 俺もまた、それに合わせるように礼をし、教材を抱えて教室を出ていった。 背後でバタバタと生徒たちが移動を始める音を聞いてから、ようやく一つ息を吐く。 (ほんと、真面目な奴らだよなぁ) 俺がいた頃はもっとヤンチャな連中が多かった気がする。これも時代の違いって奴だろうか。 そう考えながら職員室へ向かおうとすると、背後から聞き慣れた声が飛んできた。 「村谷センセっ」 振り返ると、そこにはやはり大森美瑠(おおもりみる)先生が立っていた。ゆるふわの栗色ヘアを揺らしながら、トコトコと駆け寄ってくる。 「午前中お疲れさま。月曜日は大変だね」 「えぇ、朝から四コマ連続ですからね……。さすがに疲れます」 苦笑いを浮かべると、ちょうど腹の虫がグウッと鳴った。そして気付いた。そう言えば今日、コンビニ弁当買い忘れてたんだった! 購買部へダッシュで向かおうとすると、再び大森先生に呼び止められた。 「ねぇ村谷君……その……」 握られた手が豊かな胸の上に置かれる。うわぁやっぱり大きいなぁと恥ずかしながら凝視してしまっていると、大森先生は意を決したように顔を上げた。 「実は今日、お弁当作り過ぎちゃって。良かったら一緒に食べない?」 あぁ、今日はなんていい日なのだろう。大森先生の花の咲くような笑顔に、俺は二つ返事で了承したのだった。 「うん……美味い!」 思わず口から出た言葉に、大森先生はホッとしたような表情を浮かべた。 「よかったぁ。一応味見はしたんだけど、村谷君の口に合うかどうか分からなくて」 「いやいや、このから揚げめっちゃ美味いっすよ。冷めてるのにべちゃっとしてないし、肉はすごいジューシーだし」 「そんな……褒め過ぎだよ」 恥ずかしそうに頬を染める大森先生は幼気な少女のようで、俺は居ても立っても居られない気持ちになった。 (あぁ、今すぐこの人を抱きしめたい……!) とはいえ、それを行動に移せるほどの勇気は俺にはない。そんなことをすれば大森先生に嫌われるのはもちろん、変質者として警察に通報される可能性すらあるだろう。そうなれば俺は終わりだ。教職の道は閉ざされ、お先真っ暗な人生を送り続ける羽目になるに違いない。 そうなるぐらいだったら、手の届かないものを欲しがるのはやめよう。そう思い、俺は突如として転がり込んできた幸せを噛みしめるように、ゆっくりとおかずの一つ一つを咀嚼していった。 (あぁ……本当に美味しい。それにしても、こんな日が現実として来るなんて。何だか夢の中にいるみたいだな) 箸を動かしながら、隣に座る大森先生の横顔をちらりと見る。彼女は風に揺られる中庭の木々を見るともなしに見ているようだった。 ――へぇ、村谷先生も北大なんだぁ。それじゃわたしの後輩ってことだね。 昨年、この学校に着任したばかりの頃、俺は大森先生が同じ大学の出身であることを知った。彼女は国語教師で文系の学部だったし、俺は物理教師で理系の学部だったから、学年が違えばお互いのことを知らないのも当然だった。 ――ふふふ、母校の後輩が同じ職場だなんて嬉しい。……ねぇ、わたし先生のこと『村谷君』って呼んでもいいかな? あぁもちろん、他の先生や生徒がいない所だけにするから。ね、どうかな? 気さくな大森先生に対し、好意を抱くのに時間はかからなかった。彼女の後輩として働く日々は楽しく、一年はあっという間に過ぎ去っていった。 正直、もっと仲良くなりたいという思いはある。彼女も俺のことを嫌ってはいないようだし、果敢に攻めていけばチャンスも万に一つくらいはあるだろう。 それでも、足は前に動かなかった。同じ職場だし、もし拒絶されでもしたら辛すぎる――リスクを盾に、俺は胸の内から湧き上がる欲求を撥ね退けていた。 要するに、俺は極度のヘタレだった。 「ねぇ、村谷君」 不意に声を掛けられ、ビクリと肩を震わせる。箸でつまんでいた卵焼きがスルリと抜けて宙を舞ったが、慌てて手の平でキャッチし事なきを得た。 「わ、ナイスキャッチ。ごめんね、何か考え事でもしてた?」 「い、いえ、何でもないですよ?」 ドギマギしてしまったものの、大森先生はさほど気にしなかったようだった。彼女は既にお弁当を食べ終えていたようで、空になった膝の上にちんまりと手を置き、 「あのね、村谷君。土日ってさ……どう過ごしてる?」 「えっ。土日、ですか?」 「うん。なにか趣味とかあるの?」 特にないです、と答えれば会話が終わってしまう。とはいえ、決まってやることは特に何もなかった。 「そうですね、たまに草野球したりしてます」 「あぁ、村谷君って野球部だったんだもんね。今でも続けてるんだ?」 「はい。本当にたまにですが」 「ふーん、そっかぁ」 「…………」 「…………」 なんだろう。話を振ってきた割に、何だか反応が薄いような? いつもの大森先生らしくない態度に、俺が訝し気な視線を送っていると。 「あ、予鈴だ」 キーンコーンカーンコーン、と澄んだ音が鳴り響き、俺は手早く弁当箱を片づけた。 一方で大森先生はというと、その場から一歩も動こうとしない。 「大森先生、早くしないと昼休み終わっちゃいますよ」 「……うん、そうだね」 ようやくノロノロと動き出したかと思うと、彼女は不意に口を開いた。 「ねぇ村谷君。もうすぐさ、夏が来るよね」 「……? そうですね」 今は五月。確かにあとひと月もすれば初夏の風が心地よい季節になるだろう。 でも、それがどうしたっていうのだ? 大森先生は続ける。 「夏になればさ、夏祭りがあるよね」 「はい、そうですね」 「…………」 「…………」 まさか、まさかとは思うが―― (俺のこと、夏祭りに誘おうとしているんじゃないか……?) だとすれば、彼女らしからぬ態度にも納得がいく。女の子の方からデートに誘うなど、よほど勇気を持たなければできないだろう。 しかし、そんな夢みたいな展開が現実にあり得るだろうか? (…………………………無いな) 俺は心の中でかぶりを振りながらも、大森先生が続く言葉を口にしてくれることを期待していた。 『あのね、わたしと一緒に夏祭り行かない?』 しかし、もじもじとした様子の大森先生は何も言わない。ここは一つ、俺が言葉を引き出してあげるべきだろうか。 というか、俺から誘ってみるべきなんじゃないか? (…………………………………………………………無いな) もしそれで断られたらどうする? 俺は心に傷を負いながら、針の筵のような環境で仕事を続けていかなくてはならなくなるんだぞ? とはいえ、こんなチャンスはもう二度と来ないかもしれない。やはりここはもう一度考え直すべきではないか―― そんな堂々巡りを続けていると、不意にタイムリミットが訪れた。 「やばっ、本鈴!」 さすがに大森先生も慌てたらしく、お弁当箱をカバンに突っ込むようにして走り出した。その華奢な後ろ姿を見て、今さらアプローチしてみたいという衝動に駆られたが、もはや後の祭りである。 (……相変わらずだな、俺) 五月七日。新時代を迎えて最初の出勤日だというのに、俺は相変わらずヘタレだった。 <2> 放課後。 俺は人目を忍んで階段を駆け登り、屋上へと続く扉の前まで来ていた。 ジャケットの胸ポケットには最近流行りの電子タバコが一本。 ニコチンを含んだ液体を水蒸気にして吸うタイプのもので、匂いはほとんど残らず、タールなどの有害物質が含まれていないため切り替える人が増えている。俺も大学時代は紙タバコ一筋だったが、今では電子タバコしか吸わないようにしていた。 理由は単純。俺の想い人――大森先生が大のタバコ嫌いだからである。 禁煙することも考えた。しかし吸ってはいけないと思えば思うほど、いつも以上に吸いたくなってしまうのが人間というものである。俺は早々に禁煙することを諦め、電子タバコとファ○リーズを組み合わせることで愛煙家であることを悟られないよう振る舞うことにしたのだった。 とはいえ、喫煙室から出てくるのを見られたら元も子もない。というわけで、俺は大森先生の目を盗んでは屋上へやってきて、静かな一服タイムを楽しんでいたのだった。 しかし。 「えっ……?」 屋上には先客がいた。 いつもの無機質な白が鮮やかな夕焼け色に染まり、思わず見とれてしまうような美しい光景の中に。 一人の女子生徒が、そこにいるのがあまりに自然な佇まいで立っていた。 (なんていうか……まるで名画を見てるみたいだな。名画の良さなんて全く分からないけど) 背後で扉の閉まる音がし、それに気づいた女子生徒が振り返る。まずいと思った頃にはすでに目を合わせてしまっていた。 「瀬戸……か?」 外国人を思わせるような色素の薄い瞳。白く透き通るような肌と艶やかな黒髪のコントラストが、思わず見とれてしまうほどに美しい。 瀬戸凛奈(せとりんな)。俺が担任をしているクラスの生徒で、ある意味で最も印象深い存在。そんな彼女がここにいることに、俺は少しばかり驚いていた。 (さすがに挨拶もせずに立ち去る訳にはいかないよな……) 意を決して瀬戸に近づいていく。正直なところ、俺はこの子が苦手だった。面談などで話していると、こちらが考えていることを全て見透かされているような、そんな感覚に陥ることがあるのだ。 「よ、よう。こんな時間まで学校にいるなんて珍しいな」 瀬戸は金網越しに眼下の景色を眺めているようだった。ポーカーフェイスの彼女にしては珍しく不機嫌そうで、やっぱり話しかけるべきじゃなかったかなーと恐るべき速さで後悔していると。 「ねぇ先生、訊きたいことがあるんだけど」 真っ直ぐにこちらを見てきたのち、彼女はこう言った。 「先生ってさ……童貞でしょ?」 その瞬間、世界が凍り付いたかのように感じた。 ドウテイ……道程? 同定? 童貞? (いや、たぶん童貞って意味だよな……。瀬戸はクスクス笑ってるし) すぐに否定するべきだったんだろう。しかし内心焦りまくっていた俺は、表情を隠すことすら忘れていたらしく、 「図星なんだ。でも、そんなに焦ることないじゃん。誰にも言い触らしたりしないからさ」 ふふふ……と笑い続ける瀬戸。 俺は彼女の意図が分からず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。 瀬戸はひとしきり笑った後、ようやくこう続けた。 「秘密にしといてあげる代わりに、一つだけお願いがあるの。聞いてくれる?」 「……なんだよ、お願いって」 まさかこいつ、教師である俺を脅す気か。良からぬ噂が絶えない彼女だからこそ、俺は身構えずにはいられなかった。 しかし彼女の要望は、俺の想像を遥かに超えるものだった。 「あたしにさ……愛を教えて欲しいの」 (……………………は?) 今、何を言われたのだろう。こいつは今、愛を教えて欲しいと言ったか? 愛? 愛ってなんだ? まさか英語に訳すとL・O・V・Eのことか? どうしてそれを俺に訊く??? 頭の中がクエスチョンマークに埋め尽くされ、俺は正常な思考回路を奪われてしまったようだった。ただ瀬戸のきれいな瞳を見つめながら、 「愛っていうのは、そりゃ…………誰かを大切に想う……その…………」 うわ言のような回答に、瀬戸は薄く微笑んだ。 「明日の放課後、三組の教室でちゃんと授業をすること。あたし待ってるから……もし来なかったら、チェリーだってことミルちゃん先生にばらしちゃうからね」 「……え」 俺が言い返す間もなく、瀬戸はあっさりと屋上を後にした。時間にして一〇分くらいだっただろうか。それなのに、ここに来てから一時間近く経ったような気がする。 (……ていうか) 「どうして俺が大森先生好きなの知ってるんだ……?」 独りごちたその言葉は、誰の耳にも入ることなく夕闇に溶けていった。 *** 「……愛を教えて欲しい、ねぇ」 何だかんだあって帰宅後。 教え子が何を考えているのか全く分からず、気付けば高校以来の腐れ縁・井上琢磨(いのうえたくま)に電話を掛けていた。 「そりゃ、お前のことが好きなんじゃね?」 「冗談はよせ。相手はJKだぞ」 「お前だってまだ二四だろ。JKにとっても守備範囲内だと思うぜ」 「いや好きな相手に童tじゃなかったあんな回りくどいこと言わないだろ普通」 「……童貞?」 失言だった。電話の向こうで奴がほくそ笑んでいる姿が目に浮かぶ。 「なぁ和人、俺とお前の仲だ。隠し事なんて意味がないと思わないか?」 「思わねぇよ気持ち悪い」 「高校野球部で三年間バッテリーを組み、大学でも同じ野球サークルに所属して切磋琢磨した、親友と呼ぶべき俺のことが信じられないか?」 「あぁ、全くな」 「…………」 「…………」 「お前童貞だろって言われたのか?」 「分かってんじゃねーか!!!」 怒鳴った拍子に電話を切ってやろうかと思ったが、相談した手前さすがに申し訳ないのでやめておいた。 一方の琢磨はひとしきりゲラゲラ笑った後、 「確かに、そりゃ好かれてるわけじゃなさそうだな。ご挨拶にも程がある」 「ようやく分かって頂けましたか……」 「それにしても面白いJKだなぁ。先生に童貞だろって……ククッ」 「電話切るぞ?」 「まぁ待てって。もう笑わないからさ」 やっぱり相談したのは失敗だったか。そんな思いが頭の中を過ぎる中、琢磨は続けた。 「その子、瀬戸って言ったか。お前が受け持ってるクラスの生徒なんだろ?」 「あぁ」 「何か相談したいことがあったんじゃないのか? それで話すきっかけに、意味深なことを言ってみたとか」 「うーん……」 あり得なくはない。だが、あの瀬戸が担任教師に相談するなんていうことは、にわかに信じ難かった。 「何にせよ、もう少しコミュニケーションを取ってみたらどうだ? そうすれば、相手の考えていることも見えてくるだろうよ」 「……まぁ、そうだな」 「もっとも、お前が愛について語れるとは思えないけどな。超絶ヘタレのチェリー君じゃなあ」 「クッ」 悔しいが言い返せない。 大森先生以外にも、俺は過去何人もの女の子を好きになった。中にはどう見ても両想い(琢磨曰く)な相手もいたのだが、俺が一歩踏み出せず、最終的には何事もなく疎遠になってしまったのだ。 そんな俺に対して「愛を教えろ」だなんて……ちょっと見る目がなさすぎじゃないか、瀬戸よ? 「まぁとにかく、お前は教師だ。ちゃんと答えを教えてやらないとな」 「……お前、当事者じゃないからって適当言ってない?」 「あ、バレた?」 ハハハと笑う琢磨をよそに、俺の気持ちは暗くなる一方だった。 <3> 瀬戸凛奈という生徒は、進学校と呼ばれる札幌中央高校の中では極めて浮いた存在である。 容姿端麗、成績優秀。それだけなら人気者になれそうだが、彼女は級友たちと決して群れることなく、いつも一人で窓の外を眺めていた。 話しかけるなオーラを出しているというよりは、周囲に対する完全な無関心。担任教師としてもう少し協調性を発揮しろと諭したこともあったが、暖簾に腕押し、馬の耳に念仏といった状態で、彼女の考え方や行動が変えることは一切なかった。 そんな中、ある噂が流れたことで彼女の評判は一段と悪くなっていった。 ――瀬戸凛奈は、夜な夜な出歩いて他校の生徒と良からぬ遊びに興じている。 根も葉もない噂話だとは思う。しかし彼女の学校での態度を見ていると、何か他のことに執心しているのはないか、そう思うことがあるのも確かだった。学校の成績が良いことすら「これだけ勉強しているんだから文句はないでしょ」と、そんなメッセージに思えてくることもあった。 彼女のことが知りたい。苦手なタイプであることは確かだが、担任教師として少しでも力になってあげたい。屋上で思いがけず出会った時は、腹を割って話せる良い機会だと思ったのに―― 「あたしにさ……愛を教えて欲しいの」 一体、瀬戸は何を考えているのだろうか。 果たして自分は、彼女が納得する答えを出してあげられるだろうか――そんな不安を、俺はいつまでも拭うことができなかった。 *** 一夜明け、再び放課後。 約束通り二年三組の教室に向かうと、そこには既に瀬戸の姿があった。 彼女は俺が現れてもさほど表情を変えなかったが、不意にわざとらしく頬を膨らませ、 「せんせ、おそーい」 「ごめんごめん。急な仕事が入っちゃってさ」 両手を合わせながら教卓の前に立つ。本当は行くべきか直前まで悩み続け、教室の前に来てからも一〇分くらいモタモタしていたのだが、さすがにそれは言えない。 「それじゃ、早速授業を始めるぞ。今日はその……あ、愛について、だったな」 気恥ずかしさに思わずどもってしまう。瀬戸は相変わらず、真っ直ぐな視線をこちらに向けてきていた。わずかに口の端が持ち上がっているところを見ると、面白がっているのかもしれない。 (やっぱりこいつ、俺のことからかってる?) しかし、話を進めてみなければ真意は確かめようもない。 俺は一つ深呼吸すると、意を決して彼女の透き通るような瞳を見つめた。 「なぁ瀬戸……お前、好きな人がいるんだろ」 「え?」 「隠さなくてもいい。お前ぐらいの年頃なら好きな人の一人や二人当たり前だ。俺は最高で五人同時に好きになったこともある」 こんな話、大森先生に聞かれたら死ぬしかないだろう。まさに身を切る覚悟で語ったエピソードだったが、瀬戸はピクリとも笑わなかった。もしかするとちょっと引かれてしまったのかもしれない。 しかし、心折れてる場合ではない。瀬戸は何かに苦しみ、『答え』を求めてここにやってきているのだ。そんな彼女に対し、担任教師である俺には出来る限りの『授業』を行う義務がある。 「人を好きになるのはいいことだ。学校に来るのが楽しくなるし、好きな人に好かれようと勉強やスポーツ、いろんなことで努力するようになるしな。俺も高校の時は好きな人に応援されたいがために野球を頑張って、二年生の春にはエース投手の座を獲得した。人を好きになるっていうことはものすごいエネルギーを生み出すんだよ」 言いながら、顔から火が出そうになる。瀬戸は静かに話を聞いているようだったが、表情は全く変わらなかった。傾聴してくれているのか全く響いていないのか、どうにも判断がつかない。 俺は一つ息を吐くと、話を続けた。 「でもな……想ってるだけじゃいけない。相手に気持ちを伝えなければ、それはいつまでも一方通行の気持ちでしかない。俺は昔から自分の気持ちを伝えるのが苦手だった。もし断られたらどうしよう、傷つくって思ってしまってな。だけどそれじゃ、いつまでも想いは通じ合わない。一歩踏み出す勇気を持って初めて、恋愛がスタートしたと言えるんじゃないかな」 何だこれ。俺は一体何を語っちゃってるんだ。 巨大ブーメランが何本も体に突き刺さるような感覚を覚えたが、瀬戸の様子は相変わらずだった。担任教師を童貞呼ばわりした彼女だし、「童貞が何語っちゃってんの」くらいの言葉は飛んできそうなものなのだが。 俺は全く手ごたえのようなものを感じないまま、締めくくりの言葉に入った。 「俺は今まで、一度も好きな女の子に告白しなかった。それを今はすごく後悔してる。だから瀬戸、勇気を出して想いを伝えてみよう。今は草食系男子なんてのも多いし、女の子から告白するのも全然変じゃない。だからさ、瀬戸――」 「先生」 「なんだ?」 「あたしが聞きたいのはそういうことじゃないんだけど」 「…………は?」 文字通りぽかんと口を開けていると、瀬戸は頬杖を突きながら、 「別にあたし、誰のことも好きになってないから。ていうか好きになったこともないし。だから先生、無理して自虐ネタ披露しなくていいよ?」 「な……」 なんだってぇぇぇえええ!!!??? じゃあ俺は、ただ恋愛のエネルギーやら告白することの重要性やらについて語っちゃった、恥ずかしい大人ってこと? しかも童貞なのに! 巨大ブーメランぐさぐさ突き刺さってるのに! 「先生、大丈夫?」 「あぁ、ちょっとな……」 ダメージがでかすぎる。ここは一旦、大森先生のことを思い浮かべよう。愛らしい彼女の姿を思い描いて、さっきまでの自分を忘れるんだ。 「…………」 「…………」 できねぇぇぇえええ!!! 死にたい! あぁもう死にたい! そうしてムンクの叫びのようなポーズを取っていると、不意に瀬戸が訊いてきた。 「ねぇ先生、ミルちゃん先生のどんなところが好きなの?」 「……え?」 「だから、ミルちゃん先生のこと。好きなんでしょ?」 なるほど、やはり俺が大森先生を好きだということはバレているらしい。しかしこれは渡りに船、さっきまでの自分を忘却するチャンスだ。 俺は一つ咳払いをすると、再び想い人の姿を思い浮かべ、 「そうだな……普段は真面目で生徒想いのお姉さんなんだけど、笑うと子供みたいに可愛いところかな。先生として尊敬も出来るし、女の子としてもすごく魅力的というか」 「ふーん」 「…………」 「…………」 いや、これも十分恥ずかしくね? ていうか恥の上塗りじゃね? 内心で悲鳴を上げそうになっていると、瀬戸が再びずいっと視線を向けてきた。 「他には?」 「……え?」 「他にもあるんでしょ、ミルちゃん先生の好きなところ」 「そ、そりゃ……でももう十分だろ。さすがにこれ以上話すのは――」 「せーんせ。ば・ら・す・よ?」 にこり、と笑う瀬戸。こいつ、間違いなくSだ。ドSだ。 俺は肩を落とすと、大森先生の魅力を一つ一つあげつらった。 気さくで誰とも壁を作らないコミュニケーション力があるところ。 生徒想いで見た目とは裏腹に熱い心を持っているところ。 教師である俺の悩みにも真剣に相談に乗ってくれるところ。 料理が上手で家庭的なところ。 清楚系のファッションがおしゃれで似合っているところ。 綺麗好きでデスクがいつも片付いているところ。 「あとは胸が――」 「胸?」 「いやなんでもない気にしないでくれ」 俺が全速で首を左右に振ると、瀬戸は「そう」とだけ呟いた。 「先生ってさ、本当にミルちゃん先生が好きなんだね」 「……そ、そうだな」 「好きってどんな感じ? モヤモヤってするみたいな?」 「あぁ、居てもたってもいられなくなるというか……気付くと先生のことばかり考えている時もある」 「キモイね」 「……聞いといてそういうこと言う?」 そういうのJKに言われたら傷つくんだぞと内心抗議していると、瀬戸は「じゃあさ」と呟いた。 「好きな人とどんなことをしたい? デートとか?」 「そうだなぁ……映画観に行ったり遊園地で遊んだり、一人じゃつまらないことでも好きな人とだと楽しいだろうからな」 まぁあくまで、童貞野郎の妄想なんですけどね。 そんな自虐ツッコミを内心で呟いていると、瀬戸が何気ない調子で言った。 「ふーん。じゃ、デートしてよ」 「……は?」 「あたしとデートして。行き先は先生が決めていいから」 「…………」 「…………」 な、なんですと? いま俺、教え子からデートに誘われたのか? プライベートならめっちゃ嬉しい。それこそ飛び上がるように喜び、謎の踊りを五分くらいは続けるだろう。 しかし一方で、俺にも人並みの理性がある。惜しみながらも丁重にお断りするに違いない。 そんなこと、頭のいい瀬戸なら分かるはずなのに―― 「お前、本気で言ってるのか?」 「うん」 「俺は先生で、お前は生徒なんだぞ?」 「分かってる」 「そうか……それなら良し。…………って言うかボケぇ!」 豪快なノリツッコミを披露するも、瀬戸は眉ひとつ動かさなかった。 「せんせ、デートしてくれなかったら……分かってるよね?」 形のいい口の端が持ち上がる。こいつ……あくまで俺を脅す気か。 バレたら処分は免れないだろう。場合によっては懲戒免職まであるかもしれない。そうなれば俺は終わりだ。教職を失うだけでなく、社会的信用も失い再就職も難しくなる。 しかし―― (大森先生に童貞ってバレたくねぇぇぇえええ!!!) どちらに転んでも地獄。それならば、教え子のことを信用してやるべきだろうか。 瀬戸はクラスで浮いているものの、決して悪人ではない。俺を陥れるためにこんなことは計画しないはず。 おそらくはきっと、この場で言えないような悩みがあるのだろう。 だったら俺は、担任教師として瀬戸を救う義務があるんじゃないか。 「……分かった」 俺が不承不承といった感じで返答すると、瀬戸はすぐに折り畳まれた紙片を渡してきた。 「それ、あたしの連絡先だから。あとで連絡してね」 そう言い残し、あっさりと教室を出て行ってしまった。 (あいつは一体、何を考えているんだ?) 今日こそ教師と生徒の対話ができると思ったのに、俺はますます瀬戸のことが分からなくなってしまっていた。 <4> 日曜日の札幌駅は、若者を始めとした大勢の人々で混雑していた。 東側改札口からほど近いところにある赤いオブジェにたどり着くと、周囲をさっと見渡す。どうやらまだ来ていないようだ。腕時計を見ると約束の十三時まであと五分ほどだった。 とりあえず遅刻しなくてよかった。そう胸を撫で下ろしていると、ここ数日で大分聞き慣れた声が聞こえてきた。 「せんせ、遅いよ?」 白のTシャツにベージュのニットカーディガン、それに濃紺のハイウエストデニム。モデルと見紛うような美少女がそこに立っていた。 「瀬戸……だよな?」 「そうだよ。他にせんせって声かける人、いないでしょ?」 「そ、そうだよな。ははは……」 いつもは化粧っ気のない彼女だったが、今日はいつも以上に瞳がぱっちりと見えるし、リップを塗っているのか唇は艶やかに光っていた。 やばい。教え子を前にして、ちょっとドギマギしちゃってるぞ俺。 「せんせ、どうかした?」 「な、何でもないよ。それよりその呼び方、今日だけは変えてくれよ。あらぬ誤解を呼びそうだから」 「別に誤解じゃないでしょ。今日は先生と教え子のあたしがデート――」 「わーわーわーっ! とにかく、今日は別の呼び方で呼ぶこと。分かったか?」 「うん。……じゃ、ムラやんでいい?」 「おっさん臭いな! もうちょっとマシなのにしてくれよ」 「それなら……タニやん?」 「同じだっつーの!」 思わず大きくなってしまった声に周囲の人たちが反応する。まずい、注目を浴びるのだけは避けなければ。 一方の瀬戸は、そんなことなどお構いなしといった様子で、 「ねぇせんせ、下の名前教えてよ」 「え……和人、だけど」 「じゃ和人君。それならいいでしょ?」 はい決まり、とばかりに瀬戸は両の手のひらを合わせる。 俺としてもその呼び方に文句はない。それどころかちょっと嬉しい。女の子に名前を呼ばれるなんて俺、初めてだよな? (いやいや瀬戸は教え子だぞ? 変なこと考えるなっ) 小さくかぶりを振って雑念を追い払うと、俺はポケットからスマートフォンを取り出した。 「それじゃ早速行くか。一応考えてきたけど、本当に俺のプラン通りで良いんだよな?」 「うん。あたし、デートのこととかよく分からないし」 SNSのやり取りで当日の待ち合わせについて決めた時、瀬戸は改めて「デートプランは先生が全部決めて」と言ってきた。俺だって経験はないに等しいので困惑したが、女の子に決めてもらうのは流石に情けなさすぎるだろうと思い直し、一晩掛けて行き先を練ったのだった。おかげで少し寝不足だが、これで瀬戸も少しは楽しんでくれる……はずだ。 俺は見られないように欠伸をかみ殺すと、 「よし、出発だ」 「どこ行くの?」 「それはついてのお楽しみだ」 言いながら、これってちょっとハードル上げてないか……? と思ったが、気にし過ぎないようにして歩を進めていった。 昨夜、俺はデートに関するハウツーサイトを巡って行き先を練りに練った。 定番はカラオケや遊園地、他にも動物園やボーリング・ウィンドウショッピングなど、男女の行き先は多種多様である。 そんな中、俺が選んだのは―― 「映画館、かぁ」 瀬戸の呟きに、俺は思わずドキリとした。やっぱり少し定番過ぎただろうか。 しかし彼女の考えていたことは違ったようで、 「あたし、映画見に来るのなんて小学生の時以来かも。こんなに狭かったかな?」 キョロキョロと辺りを見回す瀬戸の目は、いつもより少しだけ輝いて見えた。 「ねぇせんせ……じゃなかった和人君、映画はどれを見るの?」 「え? えーっと、そうだなぁ」 壁に掲示されたポスターを見渡す。俺が目星を付けていたのは「泣ける」と話題の恋愛ものだったが、瀬戸の趣味は違うかもしれない。 「瀬戸は普段、どんな映画を観るんだ?」 「何も。だから、和人君が決めていいよ」 ここでも俺に委ねるのか。それなら予定通り恋愛ものを見ることにしよう。 サクッと二人分のチケットを買って瀬戸の元に戻ると、彼女は売店の方をじっと眺めていた。 「何か欲しいものでもあるのか?」 「……別に」 視線の先にあるのはポップコーンの機械のようだった。映画館に来るのは久しぶりだと言っていたし、懐かしく感じているのだろうか。 「ポップコーン、買ってきてやろうか?」 「……え、でも」 「気にするなって。これでも俺、それなりに稼いでるからさ」 五分ほど並んで目当ての物を入手すると、瀬戸に手渡した。 彼女はどうすればいいか分からず戸惑っているように見えたが、 「……ありがとう」 俯き加減でそう呟くと、ポップコーンを美味しそうに頬張り始めたのだった。 ハウツーサイトには、初めてのデート先を映画館とすることの利点についてこう書かれていた。 ――会話がなかったとしても気まずくなりにくく、観終わった後には映画の内容という共通の話題ができるので、会話が盛り上がりやすくなります。 これには「なるほどなぁ」と唸り、行き先を映画館とする決め手となったのだが―― この映画、ちょっとエロくね? 泣ける恋愛ものとして評判を博し、多くの女子中高生から支持されていると聞いていたのだが……。 蓋を開けてみればラブシーンの連続。キスの雨あられ。男優は腰をグラインドさせ、女優は気持ちよさそうに身悶えする。 なにこのAV? 女子中高生はこれを見てオ○ニーでもしてんの? 瀬戸はどう思っているのだろう。こんなものを教え子に見せるなんて変態とでも思っているのだろうか。 気になるが怖くて聞けない。それどころか顔を横に向けるのもはばかられる。 しかし、気になる。こういうものを見て瀬戸がどんな表情を浮かべるのか。 (言っておくけど、俺は変態じゃないぞ。言っておくけど) 自分に言い訳をしながら、意を決して横を向こうとしたその時。 右肩に暖かな感触が寄りかかってきて、俺は自然と首を横に向けていた。 「……寝てる、のか?」 スピーカーからの音が静かになると、かすかに寝息が聞こえてくる。 その顔はあどけない少女そのもので、俺は思わず微笑ましい気持ちになった。 「おやすみ、瀬戸」 そう呟き、俺もまた静かに目を閉じたのだった。 「面白かった?」 シネコンからの帰り道、瀬戸は大して興味もなさそうに訊いてきた。 「まぁまぁかな。思ってたのとは違ったけど」 「そう。あたしは良く分からなかったな」 そりゃそうだろ。何しろお前は寝てたんだから。 しかしあえて突っ込まず、俺はスマートフォンで次の行き先を確認した。 しかし瀬戸はそれより先に、 「次はどこ行くの? もしかして喫茶店?」 「……えっと」 そうです、とはすぐに言えなかった。何だろう、簡単に当てられると無性に恥ずかしくなる。 瀬戸も表情を見て察してくれたらしく、 「インターネットのページでさ、デートの定番として書いてあったんだよね。理由はよく分からなかったけど」 瀬戸さんそれ、僕と同じホームページ見てます? 考えが筒抜けじゃん恥ずかしいと思ったが、今さら行き先を変えようにも代案など用意していない。 俺は一息ついて気を取り直し、 「チーズケーキが美味しい店があるんだ。行ってみよう」 そうして、スマートフォンの地図を見ながら有名店の前までたどり着いたのだが―― 「……満席か」 ガラス越しに見える店内は女性客で一杯。他にも候補はあったのだが、電話してみるとどこも満席のようだった。 (どうしよう。こういう時に狼狽える男って、一番格好悪いと書いてあったよな……) ハウツーサイトの文言を思い出し軽く絶望していると、瀬戸が背中をつんつんしてきた。 「あたし、行きつけのお店があるんだけど。そこにする?」 俺は情けなさにうなだれながら、首を縦に振ったのだった。 札幌駅から地下鉄南北線に乗り、大通駅で東西線に乗り換えて新札幌方面へ。 白石駅で降りると、札幌駅周辺ほどではないものの賑わった町並みが見えてきた。 「ここから五分くらいで着くから。ついてきて」 瀬戸は歩くのが速い。俺は引き離されないように頑張って歩いた。俺の方が大分背が高いのに、運動能力の差だろうか。 そうして見慣れない土地を進んでいくと、路地裏に小さなお店があるのが見えた。入口上の看板には『瀬戸珈琲店』とある。 (ん……瀬戸……?) 首を捻る間もなく瀬戸が店内に入っていくので、俺も慌てて後に続いた。 カランカラン、とベルの小気味良い音がし、すぐにコーヒーの香りが漂ってくる。 「いらっしゃい……って何だ、凛奈ちゃんか」 マスターと思しき壮年の男性が声を掛けてきた。彫りの深い顔立ちに短く切り揃えられた白髪がよく似合っていて、今でも現役バリバリといった雰囲気を漂わせている。 「今日はシフト入ってなかったけど、忘れ物でもした?」 「ううん、今日はせんせとデートしに来たの」 「え……先生……?」 じろり、と眼光鋭い目で見つめられる。おい瀬戸、今日は先生と呼ぶなと言っただろうが! どうしよう今すぐ逃げ出したいと考えていると、瀬戸はようやくこちらを振り返り、 「ここ、あたしのバイト先なの。この人はあたしの叔父さん」 「え……叔父さん……?」 再びマスターと顔を見合わせる。彼もこの状況に戸惑っているようだったが、俺よりも早く理解に達したらしく、 「もしかして、学校の先生ですか?」 「……はい、そうですけど」 「これはこれは。折角来てくださったんですから、どうぞ座ってください。コーヒーでもお出しいたしますから」 そう言って、カウンターの向こうでカップの準備を始めた。 俺は未だに少し混乱していたものの、瀬戸と並んでカウンター席に座り、 「おい瀬戸、あの人が叔父さんっていうのは本当か?」 「うん」 「それなら先に説明してくれよ……」 俺は改めて確認を取ってから、マスターに自己紹介をした。 二人でここに来た理由については何も言わなかったが、マスターも特に追求はしてこなかった。 「先生はコーヒーお好きですか」 「ええ」 「そうですか。お口に合うといいのですが」 白のコーヒーカップが目の前に置かれる。立ち上る湯気は香り高く鼻腔をくすぐった。 軽く口をつけ、ゆっくりとカップを傾ける。 「……うん。美味しい」 「ありがとうございます」 そう言うと、マスターは再び仕事に戻った。俺はコーヒーを頂きながら、改めて店内を見渡す。 こじんまりとしているが、居心地の良さを感じる。カウンター席が六つとテーブル席が二つしかないものの、普段は常連客で賑わっているのだろうと思った。その証拠に、壁のあちこちにライブイベントやヨガ教室などのチラシが貼ってある。 「凛奈ちゃんはここでバイトをしてくれているんですよ」 不意にマスターが話しかけてきたので、俺は慌てて視線を戻した。 「そうなんですか?」 「えぇ。可愛いウエイトレスとして人気もあるんです」 マスターがニコニコ笑っているのに対し、瀬戸はどこかつまらなさそうだった。 「別に、普通に働いてるだけだよ」 「それでもありがたい。求人を出してもあまり応募がないからね」 最近はどの業界も人手不足だ。路地裏に佇むこの店とて例外ではないのだろう。 それにしても、瀬戸がアルバイトをしていたというのは初耳だった。もしかすると『夜な夜な出歩いている』という噂は、遅くまでバイトした後の帰りを誰かに見られたのかもしれない。 何か、少しだけ安心できたような気がする。そんな思いを抱きながら瀬戸の横顔を見つめると、彼女もまたこちらを見つめてきた。 「ねぇせんせ。聞きたいことがあるんだけど」 「なんだ?」 「あたしのこと、好き?」 「……お前はまた、藪から棒だな」 デートのことといい、瀬戸は突然話を振るのが好きなのだろうか。 しかし、彼女は至って真剣らしく、 「答えて。好きか嫌いか」 「……そりゃ、生徒として大切な存在だと思ってるよ」 俺が答えを絞り出すと、瀬戸は「そう」とだけ呟いた。 「あたしってさ、人を好きになったことがないんだ」 「……え?」 「中学の頃、男の子に何度も告白されたの。でもあたし、どうしてそういうことをするのか分からなくて。男の子に対しても全然興味が湧かなくて」 「友達はいなかったのか?」 「いない。話をしても退屈だし、関わっても意味無いなって思ったから」 瀬戸はそれだけ言うと、マスターの出してくれたオレンジジュースに口を付けた。 「お母さんは? たった一人の家族じゃないのか?」 瀬戸の両親は早くに離婚し、母親が女手一つで育てたと聞いている。たった一人の母親であれば、さすがに愛情の少しぐらいは湧くのではないか。 しかし、瀬戸の表情は一層冷たいものに変わり、 「あんな人、母親だと思ったことない。好きになんてなる訳がない」 吐き捨てるように放たれたその言葉に対し、俺は何も返せなかった。 「ねぇ先生。どうすればあたし、人を好きになれるかな?」 店を出るまでの三〇分間。俺は結局、何も答えることができなかった。 瀬戸珈琲店を出ると、辺りは既に薄闇に包まれていた。 瀬戸はあれきり何も言わない。答えを出せなかった俺に対して失望しているのかもしれない。 「……今日は、ここでお開きにしようか」 それしか言うことのできない自分が情けない。しかし、今の俺はあまりに力不足だった。 瀬戸も理解したのか、一度は背を向けて歩き出そうとしたのだが、不意にピタリと足を止めた。 「ねぇ先生。これからあたしの家に来ない?」 突然の提案に、彼女が何を言っているのか分からなかった。 「……家って、まさか瀬戸のか?」 「当たり前じゃん。あたし、この近くに部屋借りてるんだ。あの女と同じ空間で生活したくないから、一人暮らししてるの」 あっけらかんと言う瀬戸に対し、俺は少し語気を強めた。 「そんなこと、聞いてないぞ」 「今初めて言ったからね。でも問題ないでしょ、自分のお金だし」 「そういう問題じゃなくて――」 強く言い返そうとした時、瀬戸の両手が俺の右手を包み込んだ。 「せんせ、経験ないんでしょ。いい機会じゃん、あたし誰にも言わないからさ」 「お前……」 「大丈夫、心配ないよ。今日のあたしは――」 「瀬戸!」 怒鳴るように声を発すると、瀬戸はびくりと手のひらを硬直させた。 俺は彼女の肩に手を置き、 「いい加減にしろ。……もっと、自分を大切にしてくれよ」 本心から出た言葉だったが、瀬戸の心には届かなかったらしい。 彼女は乱暴に手を離すと、俯いたまま消え入りそうな声で言った。 「……いくら自分のことを大切にしたって、誰もあたしのことを大切にはしてくれないんだよ」 「おい、瀬戸!」 走り去っていく背中に声を掛けるも、彼女は一度も振り返らなかった。 <5> 六月に入り、季節は春から初夏へと移ろい始めていた。 北海道には梅雨という呼ばれる時期はないのだが、ここ数日はしとしとと雨が降り、上空には灰色の厚い雲が覆っていた。 「起立、礼!」 日直の声が響き渡り、教え子たちが一様に頭を下げる。その中に、瀬戸の姿はなかった。三九人だけになった二年三組は、見かけの上ではほとんど何も変わらなかった。 教材を持って教室を出ていく。生徒たちが移動する音が聞こえ始める。授業の感想を言い合ったり、何でもないことで笑い合ったり。そんな声が背後からたくさん漏れ聞こえてきて、俺はやるせない気持ちになった。 (誰も……瀬戸のこと、気にしないんだな) 彼女はすでに三日間、学校を休んでいた。母親に電話すると「ちょっと風邪を引いちゃって」という答えが返ってきたが、嘘であることは明白だった。 俺は瀬戸の一人暮らしについて言及した。母親はしばらく沈黙した後、「最近は難しい年ごろなので、時々近くに借りたアパートで生活してもらっています」。瀬戸の話と食い違いがあったが、証拠もないので追及することはせず、その場は電話を切った。 そして――俺はいま、どうするべきか分からないままでいる。 瀬戸に会いに行くのは簡単だ。喫茶店のマスターに言って、アパートの場所を教えてもらえばいい。しかし、その後はどうすればいいのだろう。何て声を掛ければいい? ――ねぇ先生。どうすればあたし、人を好きになれるかな? 答えを示すことが出来なかった俺は、どうやって彼女を迎え入れればいい? これからどうすべきなのか。あるいは、どうすべきだったのだろうか。 暗い思考の海を、俺はいつまでも彷徨い続けた。 *** 一夜明けた放課後。 俺は意を決し、ある場所を訪れていた。 木製のドアを押し開けると、カランカランという乾いた音とともに先日見たばかりの顔が出迎えてくる。 「いらっしゃいませ。……あぁ、先生でしたか」 マスターは相変わらず落ち着いた調子で言った。俺は小さく会釈すると、カウンター席の端に座った。幸いにも他に客はいないらしい。 「ご注文は?」 「……ブレンドで」 「かしこまりました」 背を向けてカップの準備を始めるマスター。あえて何も聞いて来ないのが彼らしいなと思った。 白いカップが目の前に置かれると、俺は膝に置いていた手をぎゅっと握り、 「瀬戸のこと、聞きに来たんです」 マスターは表情を変えなかった。小さく静かに頷き、グラスを磨く手を止めた。 「凛奈ちゃんなら、ここには来ていませんよ」 「……え?」 「先生がこの店に来てから一週間。彼女は一度もこの店を訪れていません。三回入っていたシフトは、全て私がウエイターをこなすことで対応しました」 マスターが薄く微笑む。なるほど、瀬戸はあれ以来どこにも姿を現していないらしい。 俺はブレンドを一口啜ると、温かくなった息を吐いた。 「学校にも、来ていません。だから俺……いや私、瀬戸のことを聞きたいと思って」 「俺、でいいですよ」 素のあなたと話したいから。そう言わんばかりの微笑みに、俺は「すみません」と頭を下げた。 「何から話せばいいでしょう。そうですね……まずは、家族の話をしましょうか」 そう言って、マスターは瀬戸凛奈という人間を形作った過去について話し始めた。 瀬戸の母親は、マスターの姉にあたる人物だった。 両親が二人とも働いており、幼い頃から寂しい思いをして育った彼女は、中学校に上がる頃にはいじめや非行に手を染めるようになった。 全て、親の気を引きたいと思ったのが始まりだったのだろう。しかし彼女の行動は次第にエスカレートしていき、高校一年生の時に退学処分を受けることに。 それと時期を同じくして、彼女は凛奈を妊娠した。一六歳ということを考えると、望まない妊娠であることは明白だった。父親にあたる男は責任から逃げ、一六歳のシングルマザーが誕生した。両親は深く失望し、金はやるから家には寄り付くなと言い放ったという。 凛奈は、愛されなかった。母親は娘の存在を疎んじ、食事を与える以外はほとんど世話をしなかった。家に連れ込んだ男が酒に酔い、当時幼かった彼女に暴力を振るうこともあったという。だからこそ彼女は、愛というものが何なのか理解できないに違いない。 「一人暮らしを勧めたのは、私なんです」 マスターの表情は、いつしか暗く重いものに変わっていた。 「母親は相変わらず家を空けていたし、一度顔を合わせれば口論は当たり前。そんな状態なら、一度離れて生活してみればいいのではないか、とね」 「でも、何も変わらなかった……?」 「はい。お仕事は真剣にこなしてくれましたが、いつも心ここにあらずといった様子で、人形のようだと言ったお客様もいました。彼女は整った顔立ちをしてますから、余計そうお感じになったのでしょうね」 マスターは苦笑いを浮かべた。確かに瀬戸は、どこか魂の抜けた人形のような印象を抱かせる時がある。 だが……瀬戸にだって感情はある。だからこそ愛とは何か悩み、苦しんでいるのだろう。 俺はそんな彼女を、救うべきというよりは救いたい。一人の教師としてというよりは、一人の人間として。 「……このままだと、あの子は幸せになれないかもしれない。しかし私では役者不足だ。先生、どうか凛奈ちゃんをよろしくお願いします」 マスターから頭を下げられ、俺は静かに、しかし力強く頷いたのだった。 <6> 週が明け、月曜日。 新たな一週間が始まっても、瀬戸は学校に姿を現さなかった。 こちらから会いに行くべきなのだろう。マスターとも約束したし、俺は一人の人間として彼女を救うことを決意した。 だが、俺はあくまで教師で、瀬戸はその教え子だ。愛に飢えている彼女にしてあげられることは限られている。当然、恋人のように女性として愛してやることはできない。卒業することを考えれば、担任としていつまでも側にいられる訳でもない。 助けてあげたくても、その手段がない。教師としてこれほど無力を感じる瞬間が他にあるだろうか。気付くと俺は目の前にある自分の机を叩いてしまっていた。 思ったよりも大きな音が響き、慌てて周囲を見渡す。夜の七時を過ぎ、職員室には誰も残っていなかった。俺はほっと溜息をつき、椅子の背もたれに身を預けたのだが。 「あの、村谷君……?」 恐る恐るといったか細い声。見上げると、そこには大森先生が立っていた。俺は慌てて佇まいを直し、 「お、大森先生。まだ帰ってなかったんですか」 「うん」 「す、すみません。乱暴なことしちゃって」 平謝りするも、大森先生は「気にしないで」と優しかった。 「それより……さ。何か、悩み事でもあるの?」 「え……」 「だって村谷君、最近何だか上の空で。わたしが話しかけても反応してくれないこと多いし」 「そ、そうでしたかね?」 おいおい、そんな勿体無いことしてたのか俺。 慌ててここ数日の記憶を辿っていると、大森先生は近くにあった椅子に腰かけた。 「わたしで良かったら相談に乗るよ。もちろん、無理にとは言わないけど」 先生はにこりと笑った。いつもならドキドキするところだが、今日は何だか違った。段々と、目の前の視界がぼやけてくる。 「村谷君、大丈夫?」 「……はい。それよりも話、聞いてくれますか」 優しさが心にしみるというのは本当なんだな、と思いながら、俺は瀬戸のことについて話し始めたのだった。 全て話し終わった後、大森先生はしばらく何も言わなかった。 ヘタレな俺に失望しているのだろうか……と思ったが、どうやらそれは違ったらしく。 「せ、先生。泣いてるんですか……?」 「ぐすっ……うん。だって村谷君も瀬戸さんも、そんな辛い思いしてたんだって思って……」 感情移入し過ぎたのか、大森先生はわんわん泣いた。それから少し落ち着いて、彼女はようやく話し始めた。 「それで、村谷君はどうすればいいか悩んでるんだよね?」 「はい……。何が彼女にとって本当の意味での救いになるのか、分からなくて」 その答えに対し、先生はしばらく考えた後、少しだけ頬を緩めた。 「あのね……村谷君はちょっと、難しく考えすぎじゃないかと思うの」 「え……?」 「女の子としては愛せないとか、いつまでも側にはいられないとか。確かにそれはそうなんだけど……そこまで考えてあげなくちゃいけないほど、瀬戸さんは弱いのかな?」 「……それは」 「村谷くんが言うように、瀬戸さんはいま苦しんでいるんだと思う。でもだからって、一挙手一投足を見守らなくちゃいけないわけじゃない。彼女だって立派な高校生なんだから。違う?」 「……違わない、です」 俺が同意すると、大森先生は「だったらさ」と続けた。 「後は、村谷くんが自分の想いを伝えればいいんじゃないかな。だってこんなに自分の時間を削って心配してくれる先生、他にいないよ? 村谷君が考えていることを言葉にするだけで、瀬戸さんにも伝わるんじゃないかな」 「そう……でしょうか」 「うん。わたしが太鼓判を押すよ」 大森先生が花の咲くような笑顔を浮かべる。 俺もつられて笑顔になる。 彼女の表情や言葉には、人を動かす力があるから。 「ありがとうございます。俺……」 やっぱり、大森先生のことが好きです。 無性にその言葉を発したくなったが、今はその時ではない。そう思い直し、俺は迷いを振り払うように首を左右に振った。 「きっと上手くやってみせます。相談に乗ってくれた先生の為にも」 ガッツポーズを浮かべ、すぐに帰り支度を整える。こういうことは迷わないうちに行動した方がいい。そう考えた俺は、ジャケットを羽織ると改めて大森先生に一礼した。 「それじゃ、俺はこれで失礼します。帰り道はお気をつけて」 背を向けて歩き出したその時、「村谷君」と呼び止められた。 振り返ると、目の前にはこちらを見上げる大森先生の姿があり―― 背伸びした彼女の唇が、俺の頬に柔らかくタッチした。 「えへへ、上手く行くようにおまじない。頑張ってね」 頬を赤くする大森先生に対し、俺はしばらく口をパクパクさせていたが、 「あ、ははは、はいっ……!」 滅茶苦茶に動揺した返事をした後、駆けるようにして職員室を後にしたのだった。 *** 学校を出ると、俺は真っ直ぐに瀬戸の家へ向かった。 しかし、彼女は家におらず。待てども待てども、一向に帰ってくる様子はなく。 二十三時を過ぎたところで、仕方なく自宅へと帰ったのだが―― 「マジかよ……」 今日の学校での顛末を話すと、琢磨は心底驚いたようだった。 その証拠に、スマホの受話口からはもう十秒ほど声が聞こえてこない。 「琢磨?」 「……ぐすっ」 「……えっ? なにお前、もしかして泣いてるの?」 思いがけない反応に戸惑っていると、ずずっと洟をすする音が聞こえてきた。 「いや、ちょっと感動しちまってな……。苦節二十四年、ついにお前の恋が実ったかと思うと」 「人の人生を苦節呼ばわりするなよ」 「あぁ、悪い悪い。でも恋愛ごとに限って言えば事実だろ?」 「まぁ……な」 確かに、これまでの俺は色恋沙汰からは程遠い生活を送ってきた。片思いは数あれど、極度のヘタレもあってどれも成就しなかった。 とはいえ、あくまで頬にキスされただけである。そのことを改めて主張すると、琢磨からは「心配するなって」と返ってきた。 「たとえほっぺただろうが唇だろうが、女の子が男にキスするっていうのはハードルが高いもんだ。少なくとも気がない奴にはしない。特に大森ちゃんみたいな真面目なタイプはな」 「そういうもんか」 「そういうもんだ。だからお前はガンガン積極的に行け。向こうも喜んで受け入れてくれるだろうよ」 琢磨は自信満々に言った。俺だってそうできるならそうしたい。だが今は、それより先に解決すべき問題がある。 そのことについて考えていると、琢磨は沈黙の意味を取り違えたらしく、 「なんだぁ、いつものヘタレ発動か。言っとくけどな、こんなチャンスはもう二度と――」 「いや違うって。実は…………」 かくかくしかじか、瀬戸の現状についてあれこれ話すと、琢磨は大きくため息をついた。 「あのなぁ和人」 「なんだ」 「お前、そんな大事な時に何やってんの……?」 「……おっしゃる通りです」 返す言葉もないとはこのことである。とはいえ、俺も人間だ。親友にぐらいは今日の出来事を報告してもバチは当たらないのではないだろうか? そのことを琢磨も察したらしく「まぁいいけどな」と流し、 「それで、お前はどうする気なんだ? 瀬戸ちゃんを助けるつもりなんだろ?」 「あぁ」 「どうやって」 「あいつに告白する」 あえてインパクトのある言葉を使うと、琢磨は案の定誤解したらしく、 「お前、堂々二又宣言かよ……」 「違うって。告白っていうのは、俺が考えてることを伝えるってことだよ。俺が担任教師として瀬戸のことをどれだけ想ってるか。あいつは親に愛されずに育ったから、俺はいつまでも味方だぞって、そう伝えてやりたいんだ」 誰からも愛されず、愛が何なのか分からずに生きていくなんて、そんなの寂しすぎるから。 琢磨も今度ばかりは俺の言葉を茶化そうとはしなかった。 「お前、何か成長したな。人間的に」 「そうか?」 「あぁ。頑張れよ、先生」 琢磨の激励に、俺は「おう」と気合を入れて答えてみせた。 <7> 翌日以降も、俺は仕事が終わると瀬戸の家を訪れた。 彼女は決まって家におらず、またどれだけ遅くまで待ってみても帰ってこない日々が続いた。 さすがに心配になり、しつこくSNSで連絡を取ってみたものの、返信は一つも帰ってこなかった。 もしや、思いつめた末に最悪の行動を起こしたんじゃないか――そんな心配が頭をもたげ始めた頃、彼女はようやく姿を現したのだった。 「よう、瀬戸」 深夜一時。俺が電柱の陰から姿を現すと、彼女は小さく悲鳴を上げた。 「え、先生……?」 大方、不審者と勘違いしたのだろう。無理もない、この五日間は付近の住民から幾度となくそんな視線を浴びてきた。そろそろ警察に通報される頃だと思っていたから、ギリギリのタイミングで帰ってきてくれた瀬戸には感謝すべきかもしれない。 「こんなところで何してるの?」 「そりゃこっちのセリフだ。お前こそどこほっつき歩いてた」 街灯の照明に照らされた瀬戸の姿は、あちこちが泥で汚れていた。家を離れている間、ずっと野宿していたのかもしれない。 どうしてそんなことを、とは思わなかった。人生に絶望した時、人はどんな行動を取ってもおかしくないと思うから。 「……別に、関係ないでしょ」 吐き捨てるように言うと、瀬戸は俺の横を通り過ぎた。 何も言い返せない。瀬戸凛奈という生徒のことをずっと見て見ぬふりしてきた俺に、そんな資格はない。 だから――俺はその場に膝を折ると、頭を地面に擦り付けた。 「ごめんっ!!!」 深夜の町に大声が響き渡る。さぞかし近所迷惑だろうと思ったが、今この時ばかりは気にしてられなかった。 「ちょっと、何してるの?」 気付いた瀬戸が戻ってくる。戸惑う彼女をよそに、俺は言葉を続けた。 「今まで気づいてやれなくて済まなかった。お前がこんなに苦しんでいたなんて……俺、本当に瀬戸のこと知らなくて。知ろうとする努力もしていなくて。最低な担任だよな……」 瀬戸は何も言わなかった。呆れているのか、もう関係ないと無視を決めているのか。 例えそうだとしても、俺には謝罪の限りを尽くす義務があると思った。 「頼りない先生で申し訳ない。でも……決めたんだ。俺、どんなことがあってもお前の味方をする。例えお母さんと仲違いしていても、クラスで孤立していても……俺だけはお前の味方だ。卒業したって、辛くなったらいつだって相談に乗ってやる。だからさ、瀬戸」 視界の端に彼女の靴が見え、俺はようやく顔を持ち上げた。 表情はよく見えない。怒っているのか、悲しんでいるのか。 それとも……少しは俺の想いが伝わっているのだろうか。 「約束するよ。俺はずっと――」 そうして、締めの言葉を口にしようとした時だった。 ぐう~~~~~~~~~~~っ………… 長い長い腹の虫が、閑静な住宅地に響き渡った。 念のため弁明しておくが俺ではない。これほど大きな腹の虫、鳴って気付かない訳がないだろう。だとすれば残る候補は一人だけだ。 見ると、瀬戸はすでに顔を背けていた。よほど恥ずかしかったのだろう、暗がりの中にもうっすらと頬が赤くなっているのが見えた。 俺は吹き出しそうになるのを寸でのところで抑え込み、 「メシ、食いに行くか」 否定も肯定もしない教え子を連れ、俺は深夜の町を歩き出したのだった。 *** 深夜まで営業している店となると、選択肢は限られてくる。 ファミレス、牛丼、ハンバーガー屋……どれもお財布には優しいものの、最も庶民的かつ暖かさを感じる場所と言えば、ここしかなかった。 「いらっしゃいませー。空いてるお席にどうぞ」 トンコツスープ独特の香りが漂ってくる。初めて入る店だったが、店内は清潔感があるし店員の愛想もいい。これは期待できそうだ。 「瀬戸は何にする? と言ってもラーメンしかないみたいだけどな」 二人並んでカウンター席に座り、壁に貼られた『ラーメン六五〇円』というシンプル過ぎるメニュー表を見つめる。端の方には『当店のラーメンは味噌のみです』と記されており、よほど味に自信があるようだった。定番のチャーハンや餃子も、メニューのどこにも書かれていないし作っている様子もない。 「すみませーん、ラーメン二つ」 瀬戸は何も言わなかった。ひょっとしてラーメン嫌いかと思ったが、それなら店に入った時点で抗議するだろうと思い直す。 俺はセルフになっている水を二つのグラスに注ぐと、一つを瀬戸の前に置いた。 「…………」 「…………」 嫌な沈黙じゃなかった。しかし、何を言えばいいのか分からなかった。 店内は赤ら顔の客で溢れていて、賑やかな声があちこちから聞こえてくる。いっそ、酒にでも酔っていれば本音で話しやすいのかもしれない。 (瀬戸は今、何を考えているのかな) そっと彼女の横顔を見つめる。髪はボサボサに乱れ、顔のあちこちには黒っぽい汚れがついていた。拭ってあげようかと思ったが、勝手に触ったらセクハラだろうと思い手を引っ込める。 この一週間、瀬戸はどんな思いで過ごしてきたのだろう。そのことを聞いて初めて、俺は彼女を知るきっかけを得られるような気がした。 「はい、お待ちどおさまでーす」 注文から一〇分ほどしてラーメンが運ばれてきた。夕食は済ませてきたものの、立ち上る湯気と豚骨味噌のかぐわしい香りに食欲をそそられる。 「いただきます」 両手を合わせ、まずはスープを一口。それから麺を豪快に啜り、冷えた水をぐいっと呷る。 美味い。このラーメンは間違いなく美味い。 感想を聞こうと隣を見ると、瀬戸はすっかりラーメンに夢中になっていた。俺よりも早いスピードで、次々と麺や具材を胃袋の中に収めていく。 そんな彼女の様子が無性に嬉しくて、俺は頬を緩ませながらラーメンを啜り続けた。 「……ふう、完食だな」 俺は注文通り一玉、瀬戸は替え玉を注文して二玉。よほどお腹が減っていたのだろう。スープもほとんど飲み干し、彼女はようやく箸を置いた。 「美味かったか?」 無視されるかと思ったが、瀬戸は素直に頷いた。水を一口飲むと、ティッシュで丁寧に口元を拭き、 「ねぇ、先生」 「うん?」 「あたし、さ。…………死んじゃおうと、思ったんだ」 「…………そうか」 その言葉に、不思議と驚きはしなかった。そうかもしれないと思ったし、そうであってもおかしくないと思っていたから。 無言で続きを促すと、瀬戸は途切れ途切れになりながらも話してくれた。 「でも、できなかった。いざとなったら怖くて…………馬鹿みたいだよね。死ぬこともできないなんて…………あたしって、何なんだろうねっ…………」 新しいティッシュを手渡す。彼女はそれを目元に当てながら、静かに泣き続けた。店主が心配そうな顔でこちらを見つめていたが、首を振って大丈夫ですよとサインを送る。 「ありがとう」 背中をさすりながら、耳元でそう呟いた。 「俺は、瀬戸が生きていてくれただけで十分だよ。だから……ありがとう」 本当に、生きていてくれてよかった。 自分が泣いていることに気付いたのは、頬を温かな感触が伝った後だった。 「あのね、せんせ」 ラーメン屋からの帰り道。 すっかり泣き止んだ瀬戸は、くるくると踊るようにして歩きながら話してくれた。 「屋上でせんせと会った日、あるでしょ。あの日……本当は、死のうと思ってたんだ」 「……マジかよ」 「でもせんせが来ちゃってさぁ。最初はなんてタイミングが悪い人なんだって、ちょっとムカついちゃった」 なるほど、だからあの時は不機嫌オーラ全開だったのか。今更ながら瀬戸の反応に合点がいった。 俺が内心で頷いているのに対し、瀬戸は「でもね」と続けた。 「その時、ふと思ったんだ。どうせなら、ずっと分からなかった愛について、先生に訊いてみようと思って。先生なら真面目だから、何か答えてくれるんじゃないかって」 「……それで、俺を脅して聞き取ろうと?」 「ごめんね。誰かを好きになってる人のことが、羨ましくって……さ」 今ならその気持ちも理解できる。両親から愛されなかった瀬戸は、ずっと愛に飢えていた。でもその正体が分からず、ずっとモヤモヤしていたのだろう。自分が持っていないものを他人が持っていることに対し、苛立ちもあったに違いない。 そんなことをようやく理解できたことに、俺は少しだけ安堵していた。 「せんせ、ありがとう」 不意に瀬戸が立ち止まる。肩越しに聞こえてきた声は、今まで聞いたどの声よりも暖かかった。 振り返った拍子に目が合ったが、彼女は真っ直ぐにこちらを見つめ返してきて、 「いつでもあたしの味方になるって言ってくれて。相談に乗るって言ってくれて。あたしも……先生がいてくれて良かった。先生が担任で…………良かった」 声は濡れそぼり、頬には幾筋もの涙が伝っていた。それでも彼女の笑顔は輝いていて、俺はそれを美しいと思った。 (綺麗だよ、瀬戸) 内心でそう呟いたせいか、見つめられると急に恥ずかしくなってくる。ドギマギして顔を背けていると、瀬戸が大声で言った。 「あっ、流れ星!」 ほんとうか――と声を上げようと思った時には、もう遅かった。 頬に触れる、柔らかくも温かな感触。 驚いて瀬戸を見つめると、彼女は腹の虫が鳴った時と同じくらい頬を赤らめていた。 くすぐったそうに髪の毛を触りながら、 「愛って……こんな感じ、なのかな」 はにかむような彼女の笑顔は、年相応の少女らしい魅力に溢れていた。 「きょ、今日はここまででいいや。おやすみ!」 突然、背を向けて走り出す瀬戸。自分でやっといて、キスがよほど恥ずかしかったのだろう。 (でも正直、帰ってくれて助かった……) 心臓のドキドキは、もうしばらくの間収まりそうになかった。 <8> それから一か月後。 雲一つない青空が広がったその日、俺は学校の正門前である人物がやってくるのを待っていた。 「よっ、村谷センセイ」 からかうような口調で声を掛けてきたのは、親友の井上琢磨。トレードマークの黒縁眼鏡越しに頭上を見遣ると「へぇ、立派なもんだなぁ」と呟き、 「しっかしここに来るのも久しぶりだなぁ。おっ可愛いJK発見」 「そういう危険な発言は慎むように。時間ないんだから行くぞ」 「あっ。おい待てって」 琢磨を先導するように歩きながら、俺もまた頭上を見上げる。そこには『第五〇回札幌中央高校文化祭』とカラフルな文字が躍っていた。 いつも真面目な生徒たちも今日ばかりは違うようで、あちこちから賑やかな声が聞こえてくる。この学校では火を使った調理も許されており、焼き鳥やお好み焼き、クレープといった模擬店が所狭しと並んでいた。無論、営業に携わっているのは全て生徒たちである。 「俺のクラスは豚丼をやったっけなぁ。肉焦がしまくって調理担当降ろされた記憶しかないわ」 「お前、最悪だな……」 「別にいーんだよ楽しけりゃ。センセイは真面目過ぎなの」 「はいはい、ソウデスネ」 俺が棒読みで返すと、琢磨はだははっと笑った。 「……でも、今回は良くやったよ。お疲れさん」 独り言のように言ったのは、照れ隠しの表れだろう。俺もあえて何も返さず、親友の心遣いに感謝したのだった。 「へぇ、ここが和人のクラスかぁ」 二年三組の教室へ案内すると、琢磨は途端にテンションを上げた。中では生徒たちが某有名ドーナツを販売する模擬店を営業している。とはいえ、ドーナツに目がないというわけではないだろう。 こいつの目当ては、どう考えてもただ一人―― 「お邪魔しまーす」 掛け声に続いて中に入ると、色とりどりのドーナツが並べられたバットの前、そこに彼女はいた。 「いらっしゃいませ……って、せんせじゃん」 瀬戸は艶やかな黒髪を後ろで束ね、ポニーテールにしていた。ギンガムチェックのエプロンも、意外なほどよく似合っている。 「なぁ和人、この子が瀬戸ちゃん……?」 「あぁ」 「滅茶苦茶可愛いじゃん……」 ひそひそと小声で話すのが気になったらしい。瀬戸が近づいてきたので、俺は慌ててドーナツを注文した。 二人して教室内の椅子に座り、彼女の働く姿を遠くから眺める。 「なんか……思ったより打ち解けてるな、瀬戸ちゃん」 「あぁ、そうだな」 ついこの間まで、瀬戸はクラスで孤立した存在だった。しかし二人で深夜のラーメンを啜ったあの日以降、彼女は目に見えて明るくなった。元々見栄えよく成績もいい彼女だから、クラスメイトから声を掛けられることも多くなった。まだまだ変化の途中にはあるものの、その先には明るい未来が待っているように思う。 「お待たせしました」 間もなくして、瀬戸がドーナツを運んできた。こういう甘いお菓子は正直苦手なのだが、頑張って胃袋に収めるしかない。 「……んっ……これ、けっほうのろにつまるな……」 無料で提供された水で流し込んでいると、瀬戸が「ねぇせんせ」と声を掛けてきた。 「今日の文化祭、その人と回るの?」 「え……あぁ、こいつはこの後用事があるからな。ドーナツ食べたらもう帰るよ」 「そうなんだ。じゃあさ……あたしと一緒に、回ってほしいな」 一瞬の静寂。それから、一斉に生徒たちの囃し立てる声。 琢磨の奴も驚いていたが、俺の表情はそれを遥かに凌駕していただろう。 「おい和人、なに女の子を待たせてんだよっ」 バシッと背中を叩かれ、俺は背筋を伸ばしながら瀬戸と目を合わせた。 やばい。俺、このままじゃ―― そんな時、静寂を破る声が教室の中を貫いた。 「だ、ダメですっ!!!」 教室中の視線が前方の出入り口へと集まる。 声の主は、あろうことか俺の想い人・大森美瑠先生だった。 彼女は注目を浴びたことに動揺しているようだったが、それでも俺たちのいる方へ真っ直ぐ進んできて、 「せっ、先生と生徒がそんな、デートみたいなことしちゃダメです。そんなの、ひ、一人の教師として容認できませんっ!」 大森先生の叫ぶような言葉に、教室は水を打ったように静かになる。そんな雰囲気の中、瀬戸は気にした様子もなく一言、 「ねぇ先生」 「……な、何よ」 「もしかして、せんせのことが好きなの?」 その言葉を聞いた瞬間、大森先生の顔はリンゴのように赤くなった。 「なっ、なっ、なっ…………! なに、を、言ってるの…………?」 狼狽えるなどというレベルではない。それこそ酒にでも酔ったのかというほどに、大森先生は我を失っていた。 そんな彼女の姿に驚いていると、琢磨がおもむろに肩に手を置いてきた。 「なぁ和人」 「なんだ」 「お前……クズだな」 言っている意味が分からず、立ち上がった親友に「帰るのか?」と尋ねると、 「死ねっ! お前なんか童貞こじらせて死ねっ!」 そんな捨て台詞を残し、逃げるように教室を後にした。 (あいつ、どさくさに紛れて童貞ばらしやがって……!) 慌てて周囲を見渡したが、そのやり取りを聞いていた人間は俺を除いて一人もいなかった。 なぜなら―― 「あたしがせんせと回るの!」 「そんなのダメです! 先生が代わりに村谷君を案内します!」 JKと女教師の言い争いが、教室中を巻き込んでヒートアップしていたからだった。 (なんだこれ。まさか、俺を巡ってケンカしてるのか……?) 妄想すらしなかった光景に、俺は言葉を失うしかなかった。 「ねぇせんせ。また二人でラーメン食べに行こうねっ」 隙を見て手を振る瀬戸の姿は、もうすっかり愛を知らなかった彼女とは違っていた。 |
クロウ rDwmlYJSIE 2019年04月27日 00時00分12秒 公開 ■この作品の著作権は クロウ rDwmlYJSIE さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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