汝は聖なる者なるか

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●十六番目の守護聖人
 場は、さながら劇場のようであった。
 王国は首都、聖教が誇る中央大聖堂に、儀典聖堂と呼ばれるドーム型の大空間があった。
 今、そこには五千人を超える民衆が詰めかけている。
 聖堂は実際に演劇舞台を意識した造りになっていた。儀式を行なう大祭壇と、一段下がって、民衆のための観覧席と、そして二階に設けられた貴族専用の観覧個室と。
 最も特徴的なのが、大祭壇背面の壁にある、儀典の大鏡と呼ばれる巨大な丸鏡であった。
 観覧席の最後列からでもはっきり見える大きさのそれは、秘跡によって一種のスクリーンとなっており、大祭壇を真正面から見る構図で映し出していた。今そこに見えるのは、壇上に立っている紫色の祭服を着込んだ壮年の男性の姿だった。
 男性は左手に、大司祭の証である銀色の司祭杖を持っていた。司祭杖の先端は二股に分かれ、その部分は一対の翼を模した造形になっている。
 この場にいる者達が奉じる、命の神のシンボルを模したデザインだった。
「本日、皆様にお会いできたことを、このウェリアルムは盃の女神に感謝いたします」
 男性の深みのある声が、これもまた秘跡によって、ドームの隅々にまで響き渡った。
「この身に命あることへの感謝を、共に神へと捧げましょう」
 ウェリアルムは言って、司祭杖をゆるく掲げた。
 場の全員が立ち上がり、Yの字の形をしたシンボルを手に、しばし祈りを捧げる。
 訪れる十数秒間の静寂。
 大司祭の杖が硬い床を叩くことで、祈りの時間は終わった。
 そして信徒達の目が、再び大祭壇へと注がれる。
「先日のことです。王都の近郊にある農村が、盗賊団に襲われました」
 語るウェリアルムの声は低く、重かった。それは内容の深刻さを聞く者に予感させた。
 民衆にどよめきが起きたのは、場にいる多くの民が、それを今初めて知ったからだった。
 一方で、先んじて情報を掴んでいた貴族席の方では大した反応は見られなかった。
 ウェリアルムが語り続ける。
「忌むべきことに、討伐のために出陣された勇敢なるラシュティマ伯爵が、この戦いで命を落としてしまわれました」
 民衆の前で、鏡に映る大司祭はその表情を重く沈ませていた。
 その伯爵の名は、王都ではかなり知られていた。最近代替わりしたばかりの若き貴族だ。
「盗賊団の討伐は成功しました。しかしその代償は、大き過ぎるものでした」
 大司祭の言葉に合わせ、青の祭服の助祭達が、数人がかりで真っ白い石棺を運んできた。
 棺は、大祭壇中央部にある儀礼台と呼ばれる台の上に置かれる。
「御覧なさい。この国のために勇敢に戦い、そして散った若き勇者の姿を!」
 ウェリアルムは司祭杖を高く掲げると、その身を傾けて棺の方に皆の意識を集めた。
 助祭達の手で、閉ざされていた棺の蓋が、重々しい音を立てて開かれていった。
 鏡に、若い男の死骸が映し出される。
 その死体は首が深く切り裂かれていた。一目見て、死んでいると分かる深さの傷だ。
 場に衝撃が走る。それは平和に慣れきった民達を飲み込み、速やかに伝播していった。
 ウェリアルムは、わざわざざわめきが最高潮に達した頃を見計らって、告げた。
「主は、この英雄の死を悼まれました。そして――」
 そこで彼は言葉を切って溜めを作った。その短いラグの間に民達は次の展開を予測していた。それは恐れを払拭することへの期待を孕んだ予測でもあった。
 誰もが待ちわびる言葉を、ウェリアルムはついに述べた。
「主は彼に、今一度の生を与えることをお許しになられたのです!」
 オオオオオオオオオオオオ――!
 場が一気に沸き返る。民も貴族も関係なく、期待は高まっていた。
「主の奇跡を、神の御手を今ここに」
 司祭杖が床を叩くと、パイプオルガンの演奏が始まった。
 そして満を持して、主役が舞台に上がろうとする。
 大祭壇の右脇から中央、儀礼台へ、白い祭服を着たその人物は歩みを進めていった。
 顔をフードで覆った、一見しただけでは性別も分からない人物である。
 しかし大鏡にその人物が映った瞬間、喝采が起きたのだ。
「真白き御手の聖女様だ!」
「聖人様がいらっしゃったぞ!」
 巻き起こる讃美の中、ウェリアルムが司祭杖で床を叩き、告げた。
「お静かに」
 厳かなる一声で、喝采はピタリと止んだ。
 そして場を満たすのは、さらなる緊張、さらなる期待、そうした感情の発散であった。
「……皆様」
 白い祭服の人物の声は、まだ若い女性のものだった。おおらかで、柔らかい声だ。
 フードを外すと、亜麻色の長い髪がサラリと流れるように落ちた。
 優しげな顔立ちで、卵形の小さな輪郭に細い眉と大きく丸みを帯びた瞳、通った鼻筋と唇は可愛らしく、頬に差すほのかな赤みが、儚げな印象の中に健康的な色を添えている。
 美しいその少女の名は、リーセアという。
「本日、わたくしは、畏れ多くも主に成り代わり、息吹の盃を傾けさせていただきます」
 リーセアが、真っ白なシンボルを持った手を胸の前で重ねる。
「この大役に、どうか皆様のお力添えを。わたくしと共に、お祈りください」
「おお、神よ……」
「我らが盃の女神よ」
 少女の祈りを基点として、場が、神に捧げられた数多の想いで満たされようとしていた。
「神よ、死の闇を彷徨う猛き英雄に、今一度、息吹の盃を傾けたまえ」
 リーセアが祈りの言葉を口にすると、儀典聖堂内に白い光が広まり始めた。
 信徒達は光に包まれて、そこに母なる安らぎと、力強い命の鼓動を見出す。
 場が熱を帯び、檀上、祈るリーセアの額に浮かぶ汗が、頬を伝い滴となって棺へ落ちた。
「神よ」
 そして光が、聖堂を白一色に染め上げる。
「…………」
「……熱い」
 光は去って――
 ほのかに残った熱だけを、人々は余韻として感じていた。
 その時、彼らは確かに自分達に寄り添う神を見たのだ。
 ほとんどの者が、余韻の中で己を曖昧にしている中、聖女は天を仰ぎ、ただ一言、
「感謝を」
 その声に、多くの者が我に返り、大鏡に映る棺の中を見た。
「おォ……」
 感嘆の声が重なる。棺に横たわる青年の頬には、命の赤みが差していた。
「見ろ、傷も残っていないぞ!」
 誰かが指摘する。半ばまで切り裂かれていた首にも、今は傷一つ見当たらなかった。
 死体であった青年に生の鼓動は脈づいて、呼吸による唇の動きまではっきり映っている。
「う……」
 その青年の呻き声が、切っ掛けとなった。
「奇跡だ!」
 場はまたも沸き返り、聖堂内に響き渡る声。声。声。人々はただただ、興奮する。
 その人ならざる業に、そして、その業を行なったリーセア自身に、意思と視線と祈りと敬意が注がれて、亜麻色の髪の聖女は、恥じ入るようにフードを被った。
「この奇跡の御業は、神と、そして皆様の祈りがあってこそ、成し得たものなのです」
 彼女が言う傍らで、助祭達が青年を納めた棺を大祭壇の脇へと運んでいった。
「おお、神よ!」
 沈黙を保っていたウェリアルムが、司祭杖を高く掲げて、吠えるように言った。
「この場に大陸十六聖人の一人、真白き御手の聖女を遣わしたこと、感謝いたします!」
「聖女様!」
「十六聖人様ァ!」
 彼は熱狂の炎に聖人という油を注いだ。それは常識を焼き尽くす信心の劫火であった。
 人の祈り、奇跡への信仰、形なき想念は熱という形で発露して、人々を狂わせていく。
 だがリーセアは熱狂の渦に一人背を向け、大祭壇を下りていった。
 大陸に十六人しかいない、死者蘇生の秘跡を担う聖人。彼女は、その一人であった。

●秘跡の真実
「は、ァ……」
 木の扉を閉めて、興奮に毒された人々の声を遠ざけると、リーセアは扉に背を預けた。
 心臓の高鳴りが耳にうるさい。大祭壇では恥をかかずに済んだが、色々と限界だった。
 聖女、聖人などと呼ばれ、持て囃されても、リーセアは十七になったばかりの小娘で、しかも聖人の称号を授かってからまだ半年も経っていないのだ。
 蘇生の儀式も今日が二回目。死に触れるのが怖かった。慣れる日が来るのかも疑わしい。
 深呼吸を繰り返してから更衣室へ。祭服を脱ぎ、愛用している紺色の修道服に着替える。
 彼女の耳の奥には、まだ狂信的な民衆の声が強く響き続けていた。
 誰もいない通路の真ん中で、そっとシンボルを握る。心に安定を欠いた時の癖だった。
「早く、部屋に戻りたいわ……」
 呟きを漏らして、足を速める。しかし途中、耳にいきなり大きな声が飛び込んできた。
「本当に、ありがとうございます!」
 声は、すぐ先にある大司祭の執務室から聞こえてきたようだった。扉は開いたままだ。
 この時間、広い執務室にいるのは最高齢の大司祭、ニフカエフという男性であった。長い髭も髪も真っ白な好々爺で、年齢は八十を過ぎているはずだ。そんな大司祭に向かって、年甲斐もなく泣いて頭を下げている男がいる。大声の主は彼のようだ。
「倅が、救われました! 本当に、本当に……、ありがたい!」
「これも主の思し召しですわ。それに、救ったのは、ほれ、そちらにおる子ですわい」
 覗くリーセアと老人の視線が交わって、大司祭の笑みに彼女は身を仰け反らせてしまう。
「入ってきなさい」
 気まずい顔をしつつ、リーセアは執務室に入る。見つかった時点で退路は断たれていた。
「大司祭様、この男の方、は……?」
「この方はな、先代のラシュティマ伯だよ」
 秘跡で復活した青年の父親、ということか。
「先代様、この子が貴公の御子息を死の闇より救い上げた、真白き御手の聖女ですわ」
「おお、おお……! あなた様が! このたびのこと、なんとお礼をすればよいのか! 神よ、聖女よ! 心よりの感謝を!」
 先代伯爵が強く手を握ってくる。何かを言うことも躊躇われる、凄い勢いだった。
 大切な者が蘇る。その事実を前にした時、人が見せる感情の大きさは計り知れない。
 ただ、リーセアはそれを、どこか醒めた目で見てしまうのだ。
「神は――」
 言いかけたところで、執務室にウェリアルム大司祭が戻ってきた。
「おや、先代様……」
「おお、ウェリアルム司祭! 今回は、誠にありがとうございました!」
 先代伯爵が彼の方に歩いて、またその両手を握ってしきりに礼を言い出した。
 これを喜びの表現と見るならば、狂喜とはまさに、読んで字の如く、なのだろうか。
「先代様、伯爵様ですが、すでに医療院の方に移っておいでです」
「おお、それでは顔を見せに行かねば。アレもまだ心細いでしょうしな!」
「私めも、所用ありまして、これから医療院に向かうところでございます」
「なんと、それは奇遇ですな! では、私の馬車をお使いください!」
 リーセアが見ている前で、話はどんどん進んでいった。ウェリアルムはまたすぐに出かけることになり、執務室を出る前、彼女の方を見た。
「リーセア、あなたは今日はもうお休みなさい。疲れたでしょう」
「はい、司祭様。そうさせていただきます」
 と、リーセアは返しはするものの、二人が出ていった後、しばし執務室の扉を見つめた。
「……新しく大聖堂を立てる計画がありましたよね、確か」
「あの先代様、今回のことで幾らでも出資してくれるだろうわいさ」
 執務机の椅子に座り、ニフカエフ老はリーセアのことを面白がるように見ていた。
「ご不満かい」
「そんなことは――」
「ご不満なんだわいな。ほっほ、分かりやすい娘っ子だわ」
 押し黙ろうとしたリーセアだが、老人に表情を読み取られると、一転して本心を告げた。
「あの方は、本当に英雄なのですか?」
「復活させる対象の話かえ」
「英雄だからと、ウェリアルム様は言っておられました。でもだったら、他にも……」
 リーセアが眉根を寄せるのを見て、ニフカエフ老が自分の髭を弄りながら言う。
「英雄なんてもんはな、本人の資質より持ってる金と権力と立場が本義の肩書きだわい」
 立場ある大司祭のものとは思えない、身も蓋もない発言であった。
「それらがなければ対象に選ばれる資格もない、と……?」
「そういうことよ。逆に条件さえ揃ってりゃ、七光り扱いを嫌がって手柄欲しさに自分から盗賊団のアジトに突っ込むような馬鹿でも、英雄になれるっつうことだわ」
 声を重く震わせるリーセアに、応える老人の言い様はあまりにも軽々しい。
「そんな! そんなことが……!」
「ならば大陸の死者を全部復活させるのかえ? できるのかえ?」
 ニフカエフ老の言葉は、反発を露わにしようとしていたリーセアの胸に深く突き立った。
「所詮、人の世、人の身、人の分際。死者の復活だけでも十分に神の恩寵っつーもんよ」
 だが彼が重ねた言葉こそ、リーセアが抱える最も大きな疑問を刺激するものであった。
「神の恩寵、だなんて……」
「あン?」
「だって……、復活の秘跡に、神は――」
 カツン、と、ニフカエフ老が自身の司祭杖で床を叩き鳴らした。
「あ! すみません……」
 自分の言いかけていたことに気づいて、リーセアは素直に頭を下げた。
「部屋に戻ります。お邪魔しました」
 自分を見送るニフカエフの視線を背中に感じながら、リーセアは執務室を出た。
 出るのはため息。ニフカエフ老が止めてくれなければ、自分はどうなっていたのか。
 遅まきながら、鈍い恐怖に肝が冷えた。
 ただ、それでも――思わずにはいられないし、感じずにはいられない。
「――神よ」
 祈りを捧げるその相手。生と死を司る命の神が、復活の秘跡に全く関係ないなんて。
 神がこの世界にいないなんて、納得できるはずがなかった。

●その邂逅は
 現在、聖教が秘跡と呼ぶ数々の超技術は、かつて魔法という名で呼ばれていた。
 聖教はただそれを利用しているだけで、魔法の技術的原理に神の意思は介在していない。
 リーセアが聖人となったとき、告げられた真実である。
 つまり、神はいない。
「そうではない。神は今のところ未確認である、とするのが正しいのではないかね、君」
 王都の中央大聖堂、ここは学務室と呼ばれる個人学習用の部屋である。
 そこにいるのはリーセアともう一人、シックなデザインの服装の老紳士だった。
 彼はオールドマン。王都が誇る神教大学の名誉教授であると共に、リーセアに知識を教える、個人教師でもあった。それは、彼も聖人であることが理由だった。
「その言い方は詭弁です、教授」
「ほぉ、この私にそのような物言いをするとはね」
 自分に喰らいつこうとする生徒を面白そうに眺めながら、教師は紳士髭を指で撫でた。
「ただの技術を奇跡と嘯いて、どうして私達は神に信仰を捧げることができましょう」
「だが、神の実在を確認できずとも、人々は神を信じ、心を寄せているじゃないかね」
「聖教が騙しているだけではありませんかっ」
 リーセアが語気を荒くする。オールドマンは「落ち着きたまえ」と、窘めた。
「君はこの話になると、いつも周りが見えなくなるな」
 続く教師の言葉が、それだった。
「気を付けたまえ。その純粋なる信仰心が、君を殺すことだってありうるのだから」
「……う、はい」
 叫びかけてしまったことに恥じ入って、リーセアは縮こまる。
 そのときチャイムが鳴った。講義の時間が終わったのだ。
「さて、私は大学に戻るが、君は?」
「礼拝堂に行きます。掃除を仰せつかっていますので」
 オールドマンはもう一度、肩を竦める。会話の中での、彼の癖だ。
「聖人であっても儀式の外ではただの民かね」
 奇跡の担い手とされる聖人は、実はその素性を一般に公開していない。オールドマンも、大学の教授の方が本職であり、リーセアも普段は修道女として振る舞っていた。
「君の信仰心は純粋だが危うい。私や君、聖人に嵌められた枷を、努々忘れないように」
「はい……」
 そして教授は山高帽を被ってステッキを手に取ると、学務室を出ていった。
 バタンと扉の閉められる音を背後に聞いて、リーセアは純白のシンボルを握る。
「――神よ、あなたはどこにおわすのですか」
 一人残った学務室で、問いかけた言葉に答えは返ってこなかった。
「行かなきゃ」
 吐息を一つ漏らすと、彼女も学務室を出た。
 向かうのは、大聖堂の敷地内に幾つかある礼拝堂の一つだった。
 扉を開けたリーセアは、そこで並べられている木の長椅子に座っている男性を見つけた。
「あら……」
 少し意外だった。ここは最も目立たない場所にあり、普段からほとんど人が来ないので、彼女も誰もいないと思っていたのだが。
「おや、こりゃあ、邪魔しちまいましたかね」
「そ、そんなことないです!」
 こちらに気づいた男性に、リーセアの返事は、つい大声になってしまう。
 男性の方はそれに驚きもせず、「そうですかい」と人懐こい笑みを見せる。
「えっと……」
「ああ、レジオっつぅモンですわ。近くの村から来ました」
「これは、ご丁寧に。リーセアと申します。こちらは、初めてで?」
「ええ。王都に来るンも初めてですわ」
 二十代半ば程に見える牧歌的な雰囲気を持つ男だった。王都で見るタイプではない。
「こちらにはどういったご用件で?」
 少々不躾であるとは思いながらも、そう問いかけてみた。観光ではなさそうだが。
 彼は、「ああ……」と息苦しげな声を漏らして、礼拝堂最奥に佇む神像を仰ぎ見る。
「立派な神様だぁな。村じゃあ、こんなでっけぇ神様はお目にかかれませんや」
 彼が言うそれは聖教が崇める神。盃の女神と呼ばれる命の神の像だった。
 長い衣を纏い、差し出した両手に大きな盃を持った、一対の翼を生やした女性の像だ。
 白と黒に塗り分けられたその翼は生と死を意味し、同時に罪と罰を司っていた。
 その像には首がない。先端でスッパリと切り取られ、綺麗な断面を晒している。
 それは、盃の女神が咎人であるという伝承に由来する形状だった。
 女神は命で満たされた盃を覆し、全ての命に死のさだめを与えてしまった。そして罪を悔いながら斬首に処され、その死と引き換えに世界に生誕という命の芽吹きをもたらした。
 レジオがポツリと零すのが聞こえた。
「神様よぉ、命っつぅモンは平等じゃあないんですか?」
「――ええ。主は、命の盃の下に、全ての生は等しいと説いております」
 一聖職者として、リーセアは導きの言葉を口にする。
「けどもよぉ……」
 しかしレジオは浮かない顔をしたままで、
「生き返ったンは伯爵様だけだったァ。俺ン家族ァ、墓に入れなきゃなんねぇ」
 思いがけない言葉であった。聞いた瞬間に、リーセアの瞳が見開かれる。
「修道女さんは知らんだろうがね、近くでこないだちょっとした荒事があったんさ」
「そ、そんなことが……?」
 白を切るリーセアではあったが、近くでの荒事なんて、心当たりは一つしかなかった。
「それでよ、俺の弟……、兵士だったオードってのが死んじまったんだぁ……」
「死……?」
 呟く彼女の声は消え入るようだった。レジオは、気づいていないようだが。
「そうさァ、死んだのァ俺の弟と伯爵様……。その二人だけだ」
 伯爵の他に死者がいたことを、ここで彼女は初めて知った。
「ここにゃあ、弟の体ァ受け取りに来ました。あいつ兵士だで、体ァ軍がこっちに持ってきてたんでさ。伯爵様の話聞いて生き返し頼んでみたけど、駄目でしたわ」
 彼は訥々と語る。その声に感情は薄く、平坦でも、だがそれは間違いなく嘆きであった。
 彼の震える肩を見て、逃げたいと、リーセアは思った。
「神様ァ、不平等だよなぁ……」
 低く呟き、彼が神像を見上げても、首のない女神は、何も答えようとはしてくれない。
「そんなことは、ありません!」
 代わりに修道女が、鋭い声で否と告げる。レジオは彼女の方を見た。
「神は、全ての命に平等なんです。命の価値に、貴賤はないんです!」
「ああ、すまねぇな。愚痴っぽくなっちまってよぉ」
 レジオは熱っぽく語るリーセアに、薄い笑いを返すだけだった。
 言葉が届かない。想いが伝わらない。それが、リーセアからさらに冷静さを奪っていく。
「あなたのご家族を、私が生き返らせてあげます!」
 ついにはそんなことを口走っていた。
「ハハ、ハハ、ハ……」
 返されるのは乾いた笑い。レジオの瞳に、彼女の幼さを蔑むような、荒んだ光が揺らぐ。
「あんたみたいな若い修道女なんかが、どうやってよぉ……」
 そこにある声の揺らぎを、リーセアは敏感に察した。
 諦観と、滲む儚い期待。きっと鬩ぎ合っているのだろう。希望を見出したいのだろう。
 この邂逅は運命に違いないとリーセアは解釈した。主の采配としか思えなかった。
 ゆえに彼女はレジオに、純白のシンボルを見せてしまった。
 それを目にした瞬間に、レジオの顔が青ざめ驚愕に固まった。白きシンボルは聖人の証。それは信徒であれば誰だって知っている常識だった。
「私が、オードさんをお救いします」

●禁じられた言葉
 広大な面積を誇る中央大聖堂で、ここが最も死に近い場所なのかもしれなかった。
 ここは地下のモルグ。無数の棺が整然と並べられた、空気の凍えきった空間である。
「寒ィモンですなァ……」
 肌を刺す空気の冷たさに、レジオはため息交じりにそう呟く。息は真っ白い。
「死者の方を長く眠らせておくための場所ですから」
 リーセアがここに来るのは、もう何度目になるだろう。生と死を担う聖人として、管理者であるニフカエフの許可をもらって、ここにはもう何度も足を運んでいた。
 二人で歩くには広すぎるモルグには、薄い明るさがあった。ランタンもなく、天井そのものが薄く発光している。室温も薄明かりも、聖教が誇る秘跡。魔法技術の産物だった。
「癒しの御業といい、秘跡ってなぁ凄ェもんですなァ……」
 レジオが言う癒しの御業は、聖教の聖職者が行使する傷を癒す術のことだ。
 熟達すれば重傷をも即座に治すそれは、聖教の名を大陸中に知らしめている最たる要因であり、その最上位に位置付けられているのが、死者の蘇生。つまりは復活の秘跡だった。
「なぁ、聖人様よォ……」
 死者眠る棺の間を歩きながら、レジオは声を潜めて尋ねてくる。
「オードのヤツよォ、本当に生き返らせてもらえるんですかい?」
 その懸念は当然だった。民の集まる儀典聖堂と違って、生ある者はこの場に二人。周りには無数の棺。死者。ここは永く眠れる者達の寝所であって、儀式を行う祭壇ではない。
 そして聖人と彼は呼ぶが、所詮は小娘。証を見せられても全幅の信頼は難しかろう。
「大丈夫です」
 だがリーセアは即答する。その様子があまりにも自信満々だった。レジオは頷きを返す。
 しかし実のところ、リーセアに成功の確信があるわけではなかった。
 魔法は、想念と呼ばれる力を必要とする。想念とは、感情が持つエネルギーのことだ。
 このモルグの気温を調節し、天井を光らせているエネルギーも、昼夜問わず大聖堂を訪れる一般信徒達の祈りや信仰の想念によって賄われていた。
 ただ、復活の秘跡に限っては、行使の条件として他に二つ、必須なものがある。
 誰でも習得できる癒しの御業と違い、復活の秘跡は『適性のある人間』にしか習得できず、その上、『媒介となる鉱物』がなければ使用することもできないのだ。
 つまりはそれが聖人であり、そして、聖人の証である純白のシンボルであった。
 これらを揃え、さらに千人規模の莫大な想念を使って、復活はようやく可能となる。
 条件だけを見れば、想念が圧倒的に不足している。成功の目は万に一つもないだろう。
「私が、オードさんを蘇生させますから」
 だが彼女の言葉は力強かった。
 盃の女神は、正しき者を見捨てない。リーセアは、それを強く信じているから。
 見上げるモルグの柱には、迷わないように定められた区画の番号が刻まれている。
「……三十七番。ここに、オードさんの棺があるはずです」
 二人の間で、にわかに緊張が高まってくる。
 並べられた棺には納められている死者の名が刻まれている。一つ一つ確認しながら、ただでさえ冷たい空気はさらにキンと張り詰めていくような感じを、リーセアは覚えた。
「あった……」
 見つけたのは、レジオであった。リーセアは「そちらへ」と告げて、彼の方に向かう。
 レジオはそこに佇んで棺を見下ろした。その震える肩を、彼女は見逃さなかった。
 もはや物言わぬモノと成り果てた弟。棺越しとはいえ、それを目の当たりにする兄の胸中、リーセアに推し量れるものではなかった。
「開けてください」
 努めて張りのある声を出して言うリーセアに、レジオは吐息に混ぜたか細い声で応じた。
 そして彼の手によって、金属製の棺の蓋が、かすかな音を立てながら開けられていく。
「おォ……」
 天井の光の下、晒される弟の骸を見たレジオの口から、短い嗚咽が漏れた。
 棺の中の男性と、今は健やかに眠っているだろう伯爵と。生と死。決して交わらない、此方と彼方。それがどうして、同じく死した二人を隔てているのか。
 全ての命は等しく尊いものであるから、彼女は棺の前に出る。普段、彼女が死に感じる嫌悪も、この時ばかりは薄れていた。
「オードさんのためにどうか、お祈りください」
 レジオはその場に膝を折って祈り始めた。強い想念が発散されて、空気が揺らぐ。
 数日前の儀式とは違う、見守る者がたった一人しかいない死者復活の儀式。リーセアはあの時と同じように、両手で持った純白のシンボルを胸の前に掲げた。
「神よ――」
 復活の秘跡が関わらないのだとしても、祈りを捧げる者がいる。救いを求める者がいる。
 ならば奇跡は起きるべきなのだと、そう心に強く思いながら彼女は神と向き合った。
 彼女の、そしてレジオの想念に呼応して、白のシンボルが淡く光を放ち始める。
「死の闇を彷徨う猛き英雄に、今一度……」
 祈り、言葉を紡ぎ、想いを捧げる。
 復活の秘跡の正体は、局所的な時間遡行現象だ。
 対象物の時間を無理矢理巻き戻し、『死』という結果を覆す。
 それは、自然治癒力を高める癒しの御業とは、実は根本からして異なるものなのだ。
 無論、大量の想念が必要となる。だが信じる。神は、奇跡は、世界にあるのだと。
 奇跡を願って、復活を願って――
「息吹の盃を傾けたまえ!」
 叫びと共に、モルグの一角に純白の輝きが迸った。
「オード!」
 響くレジオの声。輝きは消えて、リーセアは、棺の中に眼を落としていた。
 モルグに重苦しい薄闇が戻る中、彼女が見るオードは――
「どうして……」
 死体のままだった。
 蒼褪めたその肌。閉じた瞼。唇の色は白く、胸、全身、血の色はない。全て死んでいる。
「せ、聖人さ……」
「待ってください、まだです!」
 レジオの不安からの呼びかけを鋭く制して、リーセアは再びシンボルを掲げた。
「祈ってください!」
 リーセアは怒鳴ると、シンボルに自らの想いを注ぐつもりで、再び、
「神よ、死の闇を彷徨う猛き英雄に、今一度……!」
 シンボルに白い光は灯る。だがそれも――
「息吹の盃を傾けたまえッ!」
 明らかに、輝きは一度目よりも弱かった。
 当然、その程度のエネルギーで、復活の秘跡は成就しない。するわけがない。
「聖人様よ……、こりゃ、どういう……」
 失敗も二度目ともなると、レジオの方も事態を飲み込みつつあるようだった。
 だがリーセアには彼の声は聞こえていなかった。三度目の儀式に入ろうとする。
 シンボルを掴む手から血の滴が零れ落ちた。渦巻く激情のまま握り続けた結果だった。
「神よ……、奇跡を……!」
 噛み締める奥歯に覚えた痛みも、今の彼女には些末事。聖女はみたび儀式を敢行する。
 そして、失敗した。
「まだ……、まだ!」
 だが諦めきれない。死者の復活を成し得るのがこの身に宿った力なら、今こそそれを使って、奇跡を起こし、横たわる死の壁を乗り越えるべき時なのに。
「まだよ――!」
 悲鳴にも似たその叫びが死者達の部屋に響き渡ってから二時間が過ぎた。
 結果は、記すまでもない。残酷な現実がそこにあるだけだった。
「どォ、して……!」
 声を出し続けてのどを枯らしたリーセアの手から、血に濡れたシンボルが零れ落ちた。
 その様子を見ていたレジオが、肩を落とし、言ってくる。
「もぉ、いいです……」
「レジオ、さん……?」
 彼は笑っていた。涙の跡が見えるその顔には、何ともいえない空虚さが滲んでいる。
「聖人様ァ、頑張ってくださいました。ありがてェことです」
 いたわるようなその声から、彼の中にある確かな諦念が伝わってくる。
「待ってください、まだ……!」
 リーセアは止めようとした。止めようとして、
「けど、どうにもなんねぇじゃねぇですか……」
 返す言葉は、探しても見つからなかった。
 奈落にも等しい底なしの絶望がそこにあった。死が整えられて並べられたこの空間で、生きたまま死よりも深い闇に、レジオは今、突き落とされている。
 それを理解できるからこそリーセアは焦り、そしてそれ以上に、縋ろうとした。
「待って……、もう一度。まだ、奇跡は……!」
「奇跡? 奇跡ってなんだァ? 生き返しってヤツが神様の奇跡なんだろォ? それができねぇってことはよ、俺の弟にゃあ奇跡なんか起こらねぇってことだろうが」
 レジオの口調が露骨に変わる。年下のリーセア相手にも敬語を使っていた彼が、今は侮るように蔑むように、神とリーセアを見下ろしていた。
「違い、ます……。主は、神は全ての命を……」
「だったら何で弟は生き返らねぇんだ。何でだ? 何でだ!」
 怒りの絶叫が、夜のモルグに轟いた。
 リーセアの胸倉を、伸びてきた大人の手が無造作に掴み、締め上げる。
「神様ァ、俺の弟を見捨てたんだ。神なんかいねぇ。奇跡なんかねぇ。ねェんだ!」
「ち、違います。神は……」
 涙をとめどなく溢れさせて吼える彼に、しかし、リーセアは肯定の言葉を返せない。
「奇跡も何も起きねぇなら、神様なんていねぇのと同じだぁあ!」
 彼の声は、ただただ悲痛。そしてリーセアは、息苦しさに苛まれながらも言葉を紡いで、
「違うん、です……」
「何がだよォ!」
「復活の秘跡は、主の御業ではありま――」
 言ってはならない言葉まで、口にしてしまった。
「ああ?」
 不自然に途切れたリーセアの声に、虚を突かれたようになったレジオが眉を寄せる。
 変化は、唐突であり、そして急激であった。
 彼女の体はいきなり身を仰け反らせるほど強張って、しかも激しく痙攣を始める。
 瞳は大きく見開かれ、開いたままの口からは声と吐息の混じった唸りが漏れた。
「が……、ぐガ……!」
「なんだ、ァ!?」
 女の声とは思えない、濁った音をその耳に聞いて、レジオが彼女から手を離す。
 床に伏したリーセアの顔、その頬に、ジワリと小さな赤黒い斑点が浮かび上がる。
 一つ浮かび上がると、それは立て続けに無数に現れ、全身に広まっていった。
 それは幾つも。幾つも幾つも幾つも幾つも。幾つも幾つも幾つも幾つも幾つも。幾つも。
「ひっ――」
 明らかに尋常ならざるその様子に、息を飲むレジオ。
 リーセアの白い肌に浮かび上がったそれは、文字だった。
 今は使われていない、古き聖典でしか見られない古代聖典文字という秘文字である。
 それは、魔法を構成するプログラミング言語でもあった。
「ハ、ァァ、ハッ、カハッ、あ、あぁぁぁ……!」
 全身を秘文字に冒されて、リーセアが悶えた。張り詰めた腕の先で指が床を掻き毟る。
 骨の折れる痛み。炎に焼かれる痛み。槍に貫かれる痛み。石を溶かす劇薬を飲み下す痛み。百万にも及ぶその痛みこそ、聖人に課せられた呪いの発露だ。
 決して口外してはならない、秘跡の真実。
 神が関わらないというその事実を口にしようとしたとき、聖人に施された呪縛は、秘密厳守の緊急セキュリティとしてそのおぞましき効果を発揮する。
 リーセアは、それを知っているはずだった。聖人としてまだ経験が浅くとも、己を殺すかもしれない呪いなのだ。注意して当然のことだった。
 ――君のその純粋なる信仰心が、君を殺すことだってありうるのだから。
 地獄の苦痛の中で、彼女はオールドマンの言葉を思い出していた。
「あああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
 のたうち回るリーセアが、絶叫と共に血の塊をブチ撒けた。
「ひぃ! だァ、誰か! 誰か来てくれェェェェ!」
 この異常事態に、彼女への怒りも忘れて、慄き震えたレジオが助けを呼びに行く。
 尽きぬ痛みの炎の中で、リーセアは遠のく背中を見て思った。
 これは罰だ。悩める者に救いを与えられなかった自分に神が与えた罰なんだ。
 このまま、億千万の苦痛の中で、罪を抱えて死ぬがいい。
 自身に対しての嫌悪を重ね、意識はいよいよ堪え切れずに闇の底へと沈もうとする。
「いや……、死に、たくな、い……」
 漏れた声を最後に、リーセアの意識はそこで途切れた。

●命の質量について
 リーセアが目を覚ました時、そこは大聖堂の医務室だった。
 背にある固くも柔らかい感触は、ベッドか。右手を軽く挙げて、自分の瞳に映してみる。
 白く細い手がそこにあった。肌に、呪縛の秘文字は刻まれていない。
「目が覚めたようだね」
 聞き覚えのある声に、ピントのズレていた意識がようやく完全な覚醒を果たす。
「先生……」
 首だけを曲げて、声のした方を見ると、椅子に座るオールドマンが見えた。
「安心したまえ。女性として傷物になるような痕は残っていないそうだ」
 いつものように自分の髭を撫でながら、彼はこちらを見つめている。睨んでいる。
「レジオという男が、自分の村へ戻っていったよ」
 彼が口に出したその名を聞いたとき、まだ鈍かった体の感覚までもが一気に醒めた。
 漠然としていた記憶のピースが次々連結していって、リーセアは飛び起きた。
「私は――」
「話は全て聞いた。よりにもよって聖人にとって最悪の禁忌を冒しかけたのだな」
 唇を開き、言おうとしていた言葉ごと、リーセアはつばを飲み込んだ。
 オールドマン教授はしばし、そんな彼女を見つめる。
「だが今は君に一つ、問いを投げようと思う――」
 リーセアが何も答えられないでいると、唐突に、オールドマンは話の矛先を変えてきた。
「リーセア、君は人が人を殺すことを、どう思うかね」
 彼がその問いをしてくる意図が分からないまま、それでもリーセアは考えた。
「人が人を殺すことは、己の都合で他者の命を軽んじ、踏み躙ることだと思います。どんな理由がそこにあったとしても、決して許されることではありません」
 生と死、その両面を司る神のしもべとして当然の思考ではあった。あったのだが――
「ならば、己の都合、己の感情、己の事情だけで、死んだ人間に再び生を与える行為は、果たして、命を軽んじていないと言えるのだろうかね」
 容赦のない返しが、彼女の意識をブッ叩いた。
「それは……!」
 オールドマンは肩をすくめている。少女は、完全に絶句していた。
「君は、神の実在証明という自分の理由のためだけに一つの命を軽んじ、弄んだのだ」
 教授の彼女を見る目つきに鋭さが増す。
「何を感じたのかね」
 説明は丁寧で、問いかけは突き刺すようだった。
 瞳に射竦められたリーセアは、彼の顔を見ていることができなくなって項垂れる。
「死にたくないと、思いました……」
 オールドマンは一度うなずくのみで、それ以上、何かを追及してくることはなかった。
「あ、あの……!」
 山高帽を被って立ち上がった彼を、リーセアが呼び止める。
「何だね?」
「レジオさんは、その、何か……」
 沈黙しか返ってこなかった。ただ彼の眼差しに潜む憐みの色は、言葉以上に雄弁だった。
「そう、ですか……」
 せめて、何か一つでも伝えられたらと、だがその想いも、感傷に過ぎないのだろう。
 オールドマンは踵を返し、医務室を去っていく。
 一人残ったリーセアは、しばらく、声を出さずに泣いていた。

●巡教馬車に揺られて
 巡礼の地アノンへ向かえ。
 大司祭の執務室に呼ばれてリーセアを待っていたのが、その通達であった。
「ウェリアルム、大司祭様……?」
「一週間以内に王都を発ちなさい。分かりましたね」
 ウェリアルムはれまで見たことがないくらい高圧的だった。反論を許す空気ではない。
「アノンで、私は何をすれば……」
 問うても、返ってくるのは薄い笑みと意の知れない彼の眼差しだけ。
「準備をしておきなさい。分かりましたね」
「……はい」
 にべもない様子に頷くしかなくて、リーセアは執務室を後にする。
 モルグでの出来事から一週間。突然の指示だった。
 自分を遠ざけようというのだろう。この一週間、リーセアには修道女としての雑務以外の仕事は回されていないことからも、その思惑が伝わってくる。
 聖人の称号と純白のシンボルを剥奪されていないだけ、まだマシとも言えるが。
 悔しさはなく、虚しさだけを胸の中で噛み締めながら、彼女は王都を出る準備を始めた。
 ――およそ三日前の話である。
「いつまでも同じ景色が続くと、さすがに飽きてしまうものね」
 物憂げな顔つきになっていたリーセアに、隣に座る中年女性が微笑みかけてきた。
「……そうね」
 彼女の方を流し見て、リーセアはなんとか無理に笑顔を作る。
 ガタゴトと、車輪が山道を進む音が終わりなく続き、車内は常に揺れていた。
 二人が乗る巡教馬車は、十二人乗りの大型乗合馬車である。王国各地に存在する巡礼地と王都を結ぶ公共の交通機関の一つだ。
 車内で窓がある席に座れた彼女は、流れる景色を見ながら、隣の女性に話しかけた。
「どうして、ついてきたの? お母さんって……」
 女性はリーセアの母だった。名をエルシアという。上品な雰囲気を持つ女性だ。
「あら、随分薄情なことを言うのね」
「だって……」
 口元を軽く手で覆い、コロコロと笑っている母へ、しかしリーセアは言い淀む。
 母娘の再会は実に半年ぶりのことだった。リーセアが中央大聖堂に招かれたのをきっかけに、地方から二人で王都に出てきて以来のこととなる。
「アノンに行くこと、黙っているつもりだったんでしょう?」
 母に図星を突かれて、娘は目を泳がせた。
「当たったみたいね」
「お母さんは強引なのよ。体が弱いのに……」
 笑みを深める母に、リーセアは居直って、憮然とする。
 病弱なエルシアが長距離を移動する。体にかかる負担を、もっと考えてほしかった。
 王都へも、今回のアノンへも、リーセアが一人で行こうと思ったその裏には、母の体に対する気遣いがあるのだが、当の本人が強引についてくるのだから始末に負えない。
「大聖堂の人が教えてくれなかったら、どうしようかと思ったわ」
「もォ……」
 リーセアは唇を尖らせるが、今となってはどうしようもない。それよりも、彼女は先程からエルシアの顔色の悪さが気にかかっていた。
「大丈夫なの?」
「ちょっと、酔ってるだけよ」
「……嘘つき。苦しいなら言ってよ」
「だって、考え事してたじゃない」
「いいから、手」
 リーセアはエルシアの手を握ると、服越しに自分のシンボルを握り、呟いた。
「神よ……」
 祈りの言葉をスイッチにして、想念に呼応したシンボルを媒介に魔法が発動。外に何ら影響を見せることなく、母は体の不調が取り除かれて、顔色にもかすかに赤みが増した。
「ありがとう、楽になったわ」
「お願いだから、もっと早めに言ってよね……」
「はいはい」
 母の返答にリーセアは嘆息する。いつもこう。母は自分が苦しくても、娘を優先する。
 だからリーセアも、強く言うことができないでいた。
「私ばっかり神様に助けてもらって、いいのかしらねぇ」
 逆にその言葉に、リーセアは小さく胸を衝かれた。
「いいのよ。みんなやっていることよ」
 取り繕って言う。そして実際、ほとんどの聖職者は御業を憚らずに使っている。
 リーセアの心に刺さったのは、「神様に助けてもらう」という、母の表現の方だった。
「お母さんは、何も聞かないのね。その……、東へ行くこと……」
 王都を出て明日で三日。ようやく口に出したそれは、しかし小さな小さな声での問いかけであった。アノン行きの理由をまだ母に告げていない負い目があった。
「馬鹿な子ねぇ」
 だが応じるエルシアの声は、娘への慈しみに溢れていた。
 エルシアの手がリーセアの手に重なる。ぬくもりが伝わってくる。
「あなたさえ生きていればいいわ。それ以上なんて、贅沢よ」
「……うん」
 胸の中の不安が薄らいでいく。この安心感に、リーセアは浸っていたかった。
 だが間もなく、巡教馬車はその日の宿場に到着しようとしていた。
 アノンは王都から特に離れた巡礼地で、山を幾つも隔てた先にある。
 乗員の疲労も考えて、その道程には、幾つもの中継地点となる宿場が存在していた。
 宿場に到着して馬車が停まる。続いていた震動が止むと、それまで座っていた客達が思い思いに席を立ち、ちょっとした喧騒が生まれた。
「ああ、疲れたわねぇ」
 荷物を手に馬車を下りたエルシアが、一息ついた。
「無理しないでも、よかったのに……」
「フフフ、死んじゃっても、もしかしたら、聖人様が甦らせてくれるかも」
「……やめてよ、もう」
 縁起でもない冗談を言う母に、リーセアは素直に笑いを返せない。
 聖人の身元非公開の規則によって、リーセアは母に己の身分を明かしていなかった。
 空が夕焼けに染まる今頃、往来は宿を探す人々が多く行き来していた。
「ホテル、こっちみたいね」
 そんな中で二人が向かったのは聖教関係者が経営している巡礼者専用のホテルである。
 そこへ向かって歩いていると、一際大きな声が場に響いた。
「おとーさん! 早く早くー!」
 道は出店なども出ており賑やかだったが、それにしても通りのいい声で、周囲の人々の視線は声の主である女の子へと注がれた。
「こ、こら、ニコ!」
 周りから視線の集中砲火を受けて狼狽しているのは、眼鏡をかけた線の細い男性だった。父親らしき彼にニコと呼ばれた女の子の方は、旅行鞄を持ったまま首を傾げていた。
「あの、ニコ、何か悪いことしちゃった? ごめんね?」
「い、いや、ニコは別に何も悪いことはしてないよ。こっちこそ、すまないね」
 男性は娘の方にもそんな風に気を遣って、親子はお互いに謝っていた。そのやり取りだけでも、二人の善良さが伝わってくる気がする。
「あの子、小さい頃のリーセアみたいだわ」
「……ええ、そうかしら?」
「覚えてないかしら。まだお父さんが生きてた頃に旅行に行ったときのこと」
 言われて、リーセアは記憶を探る。三年前に事故で亡くなった父は豪胆な性格の大男だった。そんな父を困らせていた幼い頃の自分を、彼女は思い出してしまった。
「そんなの、覚えてないわ」
 だが、嘘をついた。ちょっとした見栄である。
「嘘おっしゃい」
 母には通じなかったようだが。
「もう、本当に覚えてないんだってば」
 頬を膨らませる娘に母は笑って、母娘は立ち並ぶ宿の一つへと入っていった。
 景色の向こうには、黒い雲が募りつつあった。

●信仰は誰が為に
 オールドマン教授から手紙が届いたのは、翌日の朝のことだった。
 手紙はアノンではなく宿場に届いた。何か理由があるのだろうかと思い、封を開ける。
「やっぱり――」
 そこには、アノン行きの大まかな理由が書かれていた。
 地理的にも恵まれていないアノンにある教会は、王国でも最古に近いくらいの歴史を持つものの、赴任を希望する者が少ないため常に人手不足であるという。
 リーセアはその教会への応援人員として、アノンへ派遣されることとなったのだ。
 つまるところは厄介払い。ウェリアルムに「勉強し直して来い」と言われたかのような心地であった。不満は大きいが、そう言われるだけのことをした自覚もあった。
 オールドマンは「人と神について考えなさい」と書いていた。そうしようと思った。
「手紙?」
「うん、王都の方で勉強を教えてくれた先生から。元気でやってるか、って」
「そう。いい人なのね」
 エルシアはそれ以上、手紙について何も言ってこなかった。助けられた気分になる。
 外に出ると、湿った空気が二人を出迎えた。空は曇天。雨は今にも降り出しそうだ。
「天気、悪いみたいね……。お母さん、大丈夫そう?」
「ん、多分だけど」
 リーセアが気にかけているのは、母の体調だった。特に天候に左右されやすいのだ。
 時間も迫り、馬車の発着場へと向かう。途中、見覚えのある親子が目に留まった。
 ニコと、その父親である。リーセア達と同じ方角へ歩いていた。
 ニコ達親子とは巡教馬車の待合室で再び出くわした。行き先が同じであるようだ。
「こんにちは!」
 少し気にかけていると、ニコの方からリーセアにいきなり挨拶してくる。
「こんにちは。何か、ご用かしら」
「お姉ちゃんは、アノンの教会に行くの?」
 唐突に尋ねられ、リーセアはこの少女にどう答えたものか、しばし考えようとする。
 そこに、荷物を抱えた父親が慌てた様子でやってきた。
「ああ、ニコ、何をしているんだい」
「あ、おとーさん!」
 困った声を出しつつ小走りにやってくる父親に、ニコはのん気に手を振った。
「こらっ、全くはしたない……!」
「ねぇねぇ、このお姉ちゃん、おとーさんの教会に来る人かもよ!」
 父の叱責を意にも介さず、ニコが腰に抱きついてくる。
「おとーさんはね、マンフレドっていうんだよ。アノンの教会の司祭なの!」
「ああもう、本当に落ち着きのない子だ……」
 マンフレドはほとほと困り果てた様子で肩を落とすと、リーセアの方を見た。
「えーっと……、アノンの教会に来られる、という話は……?」
 どうやら、ニコのことを諦めたらしい。
「申し遅れました。私はリーセア。王都からアノン教会に赴くよう言われた者です」
「これはご丁寧に。私は、まぁ、すでに娘が言いましたが、マンフレドです。よろしく」
 頭を下げ合う二人を、ニコがじっと見上げていた。その目は何かを訴えようとしている。
「どうしたんだい、ニコ」
「んと、おばちゃん、痛そう」
 やや舌足らずに、ニコが言う。おばちゃんとはエルシアのことだろう。
 見ると、エルシアの顔色はいつもよりさらに悪かった。リーセアは背中に寒いものを感じた。血色を欠いた母の肌に、あの薄暗いモルグで見た死体を想起してしまったからだ。
「ご婦人。大丈夫ですか」
「ああ、司祭様。ありがとうございます」
 マンフレドがエルシアを支えようとした。そのとき、巡教馬車の御者が姿を見せる。
「そろそろ出発しますが、お客様はお揃いでしょうか!」
 呼びかけに乗客達が動き始め、欠員がないことを確認した御者は、馬車への誘導を開始した。待合室の小屋を出ると、ブルルという馬のいななきが聞こえた。
 マンフレドはエルシアの手を取って馬車に入って行った。
「大丈夫だよお姉ちゃん!」
 心配していたリーセアを、ニコが慰めてくれる。二人もすぐに馬車に乗り込んだ。
 危惧していた通り、エルシアの不調は旅疲れと悪天候が原因だった。
 馬車ではエルシアとマンフレド、ニコとリーセアの組み合わせでひとまず席に着く。
「それでは出発します!」
 高らかに御者の声が響き、巡教馬車がガタンと揺れた。そして回る車輪のその震動に揺られていると、隣の席からマンフレドの声が聞こえてきた。
「神よ、どうか――」
 マンフレドが御業を使ったのだろう。リーセアは彼の想念が弾けるのを感じとっていた。
 魔法を使える者ならば誰でも知覚できるそれは、聖教では神の力の顕現と教えている。
 一般の聖職者たちにとっての常識。神の実在の証明ともされているものだった。
「はぁ……」
 こんなときに考えることでもないが、腹の底に湧く重苦しさに、思わず吐息が漏れた。
「お姉ちゃん、大丈夫だから。神様が助けてくれるよ!」
 ニコがリーセアを元気づけようとしてくれている。
「神様なんて、いらっしゃるのかな……」
 だが口から零れ出たのは、そんな弱音めいた呟きだった。
 普段は胸の奥にしまい込んでいたものが、この機にポロっと口から出てしまったのだ。
「神様なんて、どこにいらっしゃるかも分からないのに……」
「えー……」
 返ってきた困惑の声に、俯いていたリーセアは弾かれたように顔を上げた。
「あ、ごめんね……?」
 彼女に言って何になるのか。聖教が隠し続ける欺瞞など、ニコには関係ないことだ。そもそもリーセアの悩み自体、確かな正答のない抽象的なものなのに。
「お祈りしたらだめなの?」
 だから、ニコにそう尋ねられたとき、彼女の口から出た返事は「何のこと?」だった。
「神様がいないと、お祈りしたらいけないの?」
「え、それは……」
 言われて、素直にそれについて考えてしまう。神がどこにいるかわからない。だから、祈ることをしてはならない。それはあまりに、無茶苦茶な話ではないだろうか。
「そんなこと、ないよね」
「うん、じゃあ、おばちゃんが早く良くなるように、神様にお祈りしよ!」
 言うが早いか、ニコはむにゃむにゃと祈り始める。そんな彼女を見て、リーセアは単純な話を複雑に考えすぎて、視野を極端に狭めていた自分を、今更ながらに自覚した。
 窓から外を眺めると、景色はずっと同じに見えて、けれど本当は全て違う景色。
 自分の中にある悩みも、つまりはきっと、そういうことだ。だから――
「少し、時間をかけて考えた方がいいのかもね」
 そんなことを独りごちて、リーセアはニコと一緒に祈り始める。
 強めの雨が、降り出していた。

●汝、聖人たるか
 意識は闇の底にあり、しかし頬に冷たい感触。それは濡れて、今も自分を打っている。
 ようやく目が覚めてきて、瞼を上げると、そこには黒が満ちていた。
 分厚い黒雲が空一面に広がって、今も絶え間なく滴を地に降らせている。
 雨。
 彼方より、遠雷の音が響いていた。
「何……?」
 リーセアの声は、しかし雨が地を鳴らす音の中に掻き消えて、一切どこにも伝わらない。
 自分は一人。そして雨に打たれている。何故。
 手で頬を触ると、指先にぬめる感触があってドキリとした。恐る恐る顔に近づける。香る土の匂いが、それが泥であることを教えてくれた。
「泥。どうして――」
 この大雨の中で、地面に寝転がっていたらしい。今度こそ、訳が分からなかった。
 立ち尽くし、彼女は呆けたような顔つきで視線を周囲に巡らせた。
 暗い。そして寒い。視界は最悪で、少し先も見通せない。
 歩き出そうとすれば、踏みしめたその先はぬかるみで、しかも傾斜になっているらしく、彼女は滑って転んでしまう。
「つゥ……、く」
 泥の地面に体を横たえると、口の中に土と砂利の味を感じて、リーセアは軽い吐き気に何度もえずいた。何とも厭らしく尾を引く後味が口に残って、心をささくれ立たせる。
 立ち上がろうとする。そのときに、関節、そして体中のそこかしこに、鈍い軋みのような痛みを覚えた。今打った、というわけではなさそうで、彼女は一層混乱した。
 記憶を探って、まず思い出したのは巡教馬車のことだった。
 山を越えた先にある宿場を目指し、馬車は雨の中、道を走っていたはずだ。
 ここ数日降り続けていた雨は、今日になって一気にその勢いを強めていた。だが巡教馬車は、宿場がもう近いということもあり、山を越えようとして――
「……まさか」
 その可能性に思い到った瞬間、雷鳴が轟いた。
 稲光がほんの刹那、闇に沈んだ場を照らす。
 そしてリーセアは閃きの向こう側に、虚しく横転した巡教馬車を見たのだった。
 馬か、それとも馬車の車輪か、山道を踏み外し斜面を転落したのだ。
「嘘……!」
 今度は言葉を鋭く発し、彼女は馬車に向かって駆け出そうとする。
 だが、その足元、山の斜面には木の根が露出していて、リーセアはそれにも躓いた。
「ぐ、ェ……!」
 顔から泥に突っ込んで、泥と雨水が気管に入りこむ。何度もむせて、彼女は喘いだ。
「お母さん……、どこ!」
 たった少しの距離。だが焦燥に駆られたリーセアには、そのたった少しが長かった。
 何度も転び、亜麻色の髪を泥に汚しながら、ようやく馬車に近づいて、そして、
「いや、こんなの……!」
 巡教馬車の現状に悲鳴があがる。それは、惨憺たるものであった。
 一体、どれだけの高さを転がり落ちたのか、頑丈に作られているはずの車体は完全に潰れて、骨組みが露出していた。その近くには馬が四頭、転がっている。動かない。死んでいる。遠目に見ても、その肉の塊にもはや命の息吹は感じられなかった。
 呼吸をしない生き物は、それだけで生の質感を失うのだと、その時初めて知った。
 そして、人のものでないとしても、命の死という現実を前に、恐怖は膨れ上がっていく。
「……お母さん? ニコちゃん? 司祭様!」
 あらん限りの声で、彼女は叫ぶ。だが声は雨の音に紛れ、薄れていくばかりだった。
 長い長い数分間を探し続けて、リーセアは、視界の端に人が倒れているのを捉えた。
「お母さん……!」
 走り寄ってみると、確かに大人の女性だったが、エルシアではなかった。
「ああ……、なんてこと……」
 乗客の一人だ。腰から下が横転した馬車の下敷きになって、息絶えていた。
 潰された部分を想像してしまい、リーセアは胃の底に不快感が溜まるのを感じた。
 死体を見たことはある。けれど、それは全て綺麗に整えられたものでしかなく、
「ああ、ああ……!」
 また死体を見つけた。今度は見覚えのある人物の。御者だった。
 転落している最中に岩にでも打ち付けられたのか、額の辺りが陥没し、ひしゃげていた。
 人間の頭部が、あるべき形をいびつに変えている事実。しかもそれが見知った顔であるということが、リーセアに二重のショックを与えた。
「うっ……」
 堪え切れずに、彼女はその場に膝をつき、地面に吐瀉物をブチ撒けた。
 吐き気は全く収まらず、立ち上がろうとして、転ぶ。平衡感覚が完全に死んでいた。
「ああ……、神よ……、あ、ァ……」
 シンボルを握り、リーセアはうわ言のように祈りの言葉を呟いた。
 だが目が闇に慣れてくると、惨状がついに現実の景色として彼女に突き付けられた。
 人が倒れている。倒れている。倒れている。その全てが死体。こと切れた肉の塊。
 気がつけば、千切れた誰かの腕がすぐ足もとに転がっていた。
「いやぁぁぁぁぁ!」
 雷鳴轟く山中に、叫びは反響の一つも起こさない。恐怖に彼女は踵を返して逃げ出した。
「お母さん! ニコちゃん! マンフレド司祭様! ……神様、神様!」
 探す声ではなくて、縋る声だった。救いを求めて、リーセアはただ叫び続けた。
「イヤぁ! イヤよ! どうして、神様、どうしてェ!」
 嘆きは遠く、されど雨に潰されて、両手で頭を抱えて目を伏せて、彼女は声を振り絞る。
 そしてぬかるむ斜面にまたも足をとられ、地面を転がり落ちた。
 全身を何度も木や石に打ち付けた痛みが、ジクリジクリと熱を帯びた。
「う、あァ……」
 恐怖に、痛みに、追い詰められたリーセアは啜り泣き、死んでしまいたくなった。
 ここは地獄だ。誰もいなくて、死しかなくて、空は嘆きに荒れているのだから。
「うう、ゥ……」
 雨に打たれ、体温の冷え切った体は、もはや動かすのも億劫だった。
 しかし、エルシア達を探さなければならない。その思いだけは萎えず彼女を支え続け、リーセアは重みに軋む身をゆっくりと起こそうとした。
 その時、確かに見えた。見覚えのある服装の人物がうつ伏せで倒れている。
「マンフレド司祭様!」
 重かった体が嘘のように動いて、彼女は司祭のもとへと走り出していた。
「司祭様!」
 呼びかける彼女の声には、ここまでに失われつつあった生気が戻っていた。
「大丈夫ですか。司祭さ――」
 だが呼びかけは途中で途切れ、リーセアの足も止まる。
 彼女の両腕が脱力して垂れ下がった。その顔からは、一切の表情が抜け落ちていた。
 揺らぐ瞳が見る先に、マンフレド司祭の服を着た『それ』があった。
 司祭、なのだろう、きっと。
 ただ、その顔は倒れた木の下敷きになっていて、確認できないけれど。
 見えているものを信じ切れずに後ずさると、靴が固いものを踏み割った。見下ろすと、マンフレドの眼鏡だった。リーセアの意識が、現実からの逃避を開始する。
 このまま逃げれば、きっと王都に帰れる。そんな、まさに夢でしかないことを、今の彼女は本気で受け入れてしまいそうになっていた。
 だが現実は、彼女に追い縋る。
 マンフレドの骸から彷徨うように離れていた彼女のつま先が何かに触れる。柔らかいその感触は、服を着た人間のものであるとすぐに分かった。
 湧き上がる嫌悪と共に、しかし彼女はそれを見てしまう。注意力はもはや絶無だった。
 やはりというべきか、死体があった。
 木に背をもたせ、四肢を投げ出して力なく項垂れる様は、糸が切れた人形のようだ。頭から血を流し、見開かれたままどんよりと濁った両目には一片の生気も残っていない。
 人型の肉塊。人型の物体。それが、母エルシアの変わり果てた姿であった。
「お……、かあ……?」
 リーセアが呼びかける。だが答えはない。
「お母さん? お母さん。お母さん……。おか、あ……、あ、ああ……」
 さらに二度呼びかけ、どちらも返事はなく、呼ぶ声はみるみるうちに震えていって、
「あァ――」
 絶叫が、彼女ののどから迸った。
「なんで、なんでェ! なんでよォ! うああああああああ、お母さァァァァァァん!」
 逃避の夢は砕かれて、リーセアは最悪の形で現実感を取り戻してしまった。
 彼女は母の骸に縋り付き、その両肩を掴んで揺さぶった。無駄なのに。
 迸る絶叫のうちのどがすり切れ、口の中に血の味が広がっても慟哭は止まらなかった。
 リーセアは母の骸を抱きしめて空を見上げ、力の限りに訴えた。
「神様! 神よ! 何故母がこんな目に遭わなければならないのですか! 奇跡は、どこにもありはしないというのですか!」
 地獄の底に嘆きは響き、リーセアはひたすらに泣き続けた。
「罪を犯したのは私なのに! 神よ、どうして私だけがここに生きているのです! これが罰だというのですか! そんな、どうして、何で一緒に死なせてくれなかったのです……。神よ。答えて、お願いだから……、神様……。お母さん……、う、ああぁ……」
 彼女は母を抱きしめたまま泣き崩れ、勢いを失った声は言葉にならなくなっていった。
 死ぬしかないと、決意しかけた。しかし雨の音の中に、彼女は聞いた。
「……ゥ」
 小さな、とても小さな声。幻聴かと思った。しかしすぐにまた、
「ン……」
 今度はよりはっきりと聞こえたのだ。女の子の声。聞き覚えのある声だ。
 リーセアは目を見開くと、二度目に声を聞いたその方向に顔を向けた。
 すぐ近くの巨木の根元。そこに、人の足が見える。
「……ニコ!」
 駆け寄るとニコが倒れていた。胸元を見る。かすかに上下している。生きてる!
「ニコちゃん、生きて……!」
 呼んでも、だが返事はない。意識を失っているようだった。
 しかし生きている。この、死と絶望しかない地獄の底で確かに彼女は、生きていた。
 まさしく奇跡だった。ニコは神に救われた。そうとしか思えない。
 彼女だけでも生きていてくれたこと。それが嬉しくて、そっと彼女を抱き起そうとする。
 だがニコに触れて、リーセアは事態がまだ決着を見ていないことを知る。
 指先に感じる熱いぬめり。それは鉄の匂いがした。
「こんな……!」
 血だった。夥しい量の血液が、リーセアの手にべったりと付着していた。
 こんな出血、相当大きな傷に違いない。放置すればまず間違いなくニコは死ぬ。
「駄目……、死なせない。死なせたくない……!」
 やっと出会えた神の奇跡。何としても、ニコを救ってやりたかった。
 だが死に瀕する程の傷となれば、ただの癒しの御業で塞ぐことはできない。
 魔法の強さは想念の量に比例する。致命傷を癒すには、最低でも十人分は必要だ。
 もちろん足りない。状況を鑑みれば、それは絶望的な数字だった。
「どうすれば……」
 思い悩んでいるうち、手は自然と純白のシンボルを握っていた。そしてふと、気づいた。
「そういえば、どうして私――」
 そう。これだけ大きな被害が出ている中で、何故リーセアは無事なのか。
 負った傷といえば、精々が擦過傷やら切り傷、打ち身程度でいずれも軽傷。馬車の被害を思えば、ただ運が良かった、というだけでは説明が付けられない。
「まさ、か……?」
 思い至り、彼女は手の中のシンボルに目を落とす。聖人の証とされるそれは、魔法の媒介として最高の性能を持つ品であるとオールドマンから聞いたことがあった。
 推測からの仮説。馬車が転落する際に、自分が無意識のうちに助かりたいと願い、その想いにこのシンボルが反応したのだとしたら――
「往生際の想念が……、満ちている?」
 苦痛への叫び。死への恐怖。助かりたいと願う想い。縋る心。あらゆる想いの中で、命に関わる実感を伴った想念は格別に強い。
 つまりこの場には、死者達の強烈な想いが今も残留しているということになるのだ。
「助けてあげられる……」
 口にした言葉には強い確信があった。
 死の運命にあるはずだったリーセアを守るくらいに強力な想念。それが渦巻くここならば、傷ついた女の子の肉体を完全に癒すことだってできるはずだ。
 冷静さを取り戻したリーセアが、シンボルを強く握り締めた。
 そうすると改めて、この一帯に残留している想念を感じ取ることができた。
 確信がさらに深まった。そして、
「これだけの想念、もしかしたら復活の秘跡だって……」
 呟いたそのとき、彼女の心は禁忌に触れた。
「復活の――」
 その言葉を繰り返し、リーセアはゆっくりと首を巡らせた。
 母エルシアの亡骸がそこにあった。あの優しかった母の、無惨に過ぎるなれの果て。
「お母さん……」
 気づいてはならないことだった。
 ザアザアと雨は降り続け、今も彼女と母とニコを濡らし続けている。
 これ以上放置すれば、程なく、ニコの命は尽きるだろう。
「ああ、どうして、こんな……」
 救いという名の希望に彩られていたリーセアの胸中が、ドス黒い絶望に覆われていく。
 死者の残留思念を使って成就できる魔法は一回きり。
 これだけ想いが強くても、想念の量から見ればそれが限度。だからこそ、神を恨んだ。
 奇跡は確かにここにあった。あってしまった。
 悩んでいる時間ももはや残っていなかった。死者の想念は所詮残り香。短い時間の中に薄れて消える陽炎のようなものでしかない。
 だから。そう、だから――頬に一筋の涙を伝わせて、彼女は決断する。
「神よ――」
 白き祈りの光の中で、今、救いはもたらされた。

●神よ、あなたの懐で
 リーセアがアノンに来て、一年が過ぎようとしていた。
「久しぶりだね、リーセア」
「オールドマン教授! いつ、こちらへ?」
 教会の裏手にある墓地で、二人は一年ぶりの再会を果たしていた。
「つい先ほどさ。巡教馬車で一週間、やはり疲れるものだね」
 恩師の言葉に、リーセアは小さく笑う。
「髪を短くしたのだね」
「ええ、ここに来た時に、ですけど」
 しばし他愛のない会話に興じ、その中でオールドマンは彼女が佇む墓碑に目をやる。
「例の、転落事故の犠牲者の慰霊碑です」
「ああ……、一年前の……」
 リーセアはオールドマンの視線に気づくと、短く説明を添えた。
「そうだ、彼女の調子はどうなのだね。先日の手紙では、触れられていなかったが」
「このところは調子がいいみたいですよ。元気です」
「それはよかった、非常に幸いなことだ」
 そしてひとしきり話したところで、彼は本題を切り出した。
「中央大聖堂の方が、君を呼び戻そうとしている」
「……初耳です」
「だろうね。私が来た理由がそれだ。つまり伝言役だよ、十六聖人を捕まえてな」
 手紙を使えば済むことではあった。だからきっと彼にとってもそれは口実なのだ。
「どうするかね。秘跡から離れた生活を送ってきたんだ。思うところもあるだろうが」
「いえ、王都に戻ります」
「ほぉ……、即答、かね」
「――何か?」
「いや、実を言えば、君は断ると思っていたからね。少々意外だっただけだよ」
 オールドマンは肩を竦める。その癖を見るのは、久しぶりだった。
「なあ、リーセア。君は覚えているかね。一年前の、あの雨の日のことを」
「忘れられるわけが、ありません」
 リーセアはその顔を神妙なものに変えてオールドマンを見た。
「神は、どこにおわすのだろうね」
 いつしか論じ合った話題。かつての彼女は、信仰の炎にその目を灼かれていた。
「さぁ……、どこかにおわすのではないでしょうか」
 だが今、彼女が返す答えは、乾き切っていた。
「主にそれを問う資格を、私はあの日に失いましたから」
「それを分かりながらも、君は王都に戻って聖人として務めようというのかね」
「違いますよ、教授。私は皆さんと同じように、詐欺師として王都に戻るんです」
 二人の会話がふつりと切れる。そしてそのタイミングで、彼女はやってきた。
「まだこんな所にいたのね。そろそろご飯よ、リーセア」
「うん、今行くから、待ってて。お母さん」
 エルシアだった。
 彼女は今、アノンの教会に住み込んで、家事手伝いとして働いていた。
「先生もいかがですか。ちょっと作りすぎちゃいまして」
「ああ、それではご一緒させていただきましょうか。私も空腹でね」
 話すオールドマンの目は、転落事故の慰霊碑の方に向けられていた。
 その表面に、犠牲者達の名前が刻み込まれている。
 マンフレド。
 ニコ。
 教え子からの手紙にいつか書かれていた二つの名前も、そこにあった。
「行きましょう」
 二人の聖人が、慰霊碑に背を向けて教会へと歩き始める。
 途中、リーセアはふと空を見上げて、呟いた。
「神よ、あなたはどこにおられるのですか」
 その声は、青い空の果てに溶けて消えていった。
6496

2018年02月25日 12時24分52秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:神よ、あなたはどこにおられますか?
◆作者コメント:3年前に公募に出した作品です。今回の企画にちょうどいいので出してみました。

2018年03月10日 23時51分07秒
+30点
2018年03月10日 22時28分15秒
+20点
2018年03月10日 21時21分44秒
+10点
2018年03月09日 23時38分47秒
+10点
2018年02月27日 07時21分47秒
+20点
合計 5人 90点

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