自称神と操り少女

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『バレずに人を殺す方法』
 猛はグーグルの検索バーに文章を打ち込み、溜息をついた。すぐに削除する。シークレットモードなら、検索履歴に残ることはないと思うが、万が一、警察にパソコンを押収され、見つけられたら面倒なことになる。
 猛はパソコンの電源を落とした。暗い画面に、十七歳の男が映っている。髪は綺麗に整えられ、肌荒れもなかった。若干、目の下に隈があるのは、夜通し、殺人について考えているからだ。
 ふいにノックの音が聴こえ、「どうぞ」と声を掛ける。
 義理の妹が顔を出した。
 髪を後頭部でまとめ、Tシャツにショートパンツという姿だった。動きやすそうな恰好をしている。
 真奈は愛らしい丸顔をこちらに向け、怠そうに言った。
「ご飯できてるから食べなよ」
「真奈はもう食べたのか?」
「まーねー」
 スマホを弄りながら扉を閉める。どたどたと足音が遠ざかっていった。
 数週間前までは、一緒に食事を取っていた。今では別々に食べることが多い。
 やはり、あの女が転校してから、すべてが変わったのだ。
 みだりと初めて会った時のことを思い返した。

 ▼

 その日、猛はリビングでネットフリックスを観ていた。ソファに寝転がり、クーラーの冷気を肌に感じながら、画面の中で怒声を上げている女刑事を眺めていると、玄関の方から、物音が聞こえた。少しして、リビングの扉が開かれ、真奈が姿を現した。
 猛を見つめて眉を吊り上げる。身を乗り出して言った。
「お兄ちゃん、なんでここにいるの?」
「俺の家だからだよ」
「そういうのいいって……」
 怠そうに言われる。
 友達をリビングに呼ぶから部屋にいてくれ、というメッセージを昼頃に送っていたらしい。気づかなかった。
「スマホの電源切ってたわ」
「言い訳うっざ。……まったく、そんなんだからモテないんだよ」
「は? ちょっと待て」
 猛はソファから身を起こした。ごほん、と咳払いしてから、妹を睨みつける。
「俺がモテないことと、今回の件は関係ないだろ」
「モテないことは否定しないんだね……」
 悲しい事実を突きつけちゃってごめんね、と謝られる。本気のトーンで言われるのは心外だった。中学二年の時、女子から告白されたことはある。その時の話を持ち出そうと思ったが、必死さが滲み出そうなので、ぐっと堪え、別の言葉を吐き出した。
「確かに俺はモテないよ。だけどな、モテまくる奴っていうのは軽薄で浮気性な奴ばかりだぞ。その点俺は誠実でめっちゃ尽くすタイプだからな。毎日彼女に『おはよう』『おやすみ』メッセージを送れる自信あるし」
「そう……。彼女できたら、がんばってね」
 軽くあしらわれた。
 その時だった。廊下の方から、あはは、と聞こえた。大きくはないが、不思議と耳に通る声だった。
「笑われちゃったじゃん……」
 真奈は不服そうに顔を歪めてから、「入っていいよ」と呼びかけた。
 小柄な女子が入ってくる。
 髪はショートで、少し釣り目気味な女の子だった。顔の造形は整っていて美人と言っていいだろう。真奈と同じくらいの身長で、一五五センチほどに見える。
 猛は姿勢を正して、「いらっしゃい」と挨拶した。少女が「お邪魔します」と微笑む。
 大人っぽい子だな、と思った。育ちが良いのか、立ち振る舞いに無駄がなかった。
 どうやら彼女――原田みだりは、五月の半ばに地方からこちらに転入してきたらしい。席の近い真奈とすぐ仲良くなり、プライベートで遊ぶ間柄になったという。
「俺は退散するから、ここ使っていいよ」
 スナック菓子の袋を持ち上げながら言った。
「え? お兄さん、行っちゃうんですか……」
 みだりが呟く。
「俺がいたら邪魔でしょ」
「いえ、そんなことはありません。お兄さん、とても面白いじゃないですか。もっと話したいです」
 あ、と表情を曇らせる。
「さっきは笑ってすみませんでした」
「や、それはいいけど……。俺、面白いかな……?」
「はい、面白いです」
「そ、そっか」
「お兄ちゃん、お世辞だからね。本気で照れるのはキモすぎる」
 みだりは首を横に振った。
「本当に面白かったですよ。私、もっとお兄さんとお話してみたいです」
「えー」
 真奈が唇を尖らせる。
 流石に妹とその友達と一緒に遊ぶのは、高校二年の兄としては辛すぎる。真奈が全力で拒否することを期待していたら、
「ま、みだりがそこまで言うならいいけど……」
 いいのかよ。猛は苦笑した。どうやら既に、みだりの方が力関係では上らしい。
 三人でテーブルを囲み、会話をした。みだりの地元の話、高校の話、近所の美味しい飲食店の話で盛り上がる。
 みだりの話術は、高校生離れしていると猛は感じた。どこで話題を掘り下げ、どのタイミングで相槌を打ち、どれくらいの距離感で話すか。みだりは完全に掴んでいるように見えた。
 真奈がトイレで席を外したタイミングで、みだりが口を開く。
「スナック菓子、普段から食べていらっしゃるんですか?」
「え」
 そういえば、まだ片付けていなかった。
「だな。健康に悪いのはわかっているんだが、つい手が伸びちゃって」
 どうせ手元にあるのだから、器に入れてシェアできるようにしよう。そう思い、腰を浮かせたところで、
「もう、食べるのはやめにしてください」
 みだりが言った。
 一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
 え、と聞き返す。
「もう、食べるのはやめにしてください」
 真顔で言われた。
 沈黙が落ちる。時計の針の、カチカチという音だけが響いている。
 みだりは、猛を見上げて微笑んだ。
「体に悪いですよ。早死にします」
 猛は自分が呼吸を止めていることに気づき、慌てて息を吐き出した。ふっと笑いながら言う。
「早死にはしたくないなぁ……。長生きしたいよ」
 単なる冗談だったか。胸を撫で下ろす。
 みだりは笑みを消した。猛を見つめて続ける。
「死にますから、スナック菓子はやめましょうね」
「ああ、やめるよ。そのうちね」
「今、やめてください」
 ゴミ箱を指差して、「今、そこに捨ててください」と続ける。真っ直ぐな瞳に見つめられ、猛は言葉を失った。
 この子は本気だ。本気で捨てさせようとしている。
 背筋に寒気が走った。
 彼女は、まだ会って一時間程度の先輩に対して、「スナック菓子を今後、食べるな」と命令しているのだ。
 異常だ、と感じた。
 猛は顔を強張らせて言った。
「……悪いけど、それを決めるのは俺だから。みだりさんに、命令されたくはないな……」
 みだりが真顔でこちらを見つめてくる。
 猛はソファに腰掛けた。貧乏ゆすりをしてしまう。
 みだりは溜息をついた。
「すみません。余計なお世話でしたね」
 その時、扉が開いた。真奈が戻ってきたのだ。猛は、全身から力が抜けていくのを感じた。これほど、妹の存在を、ありがたいと感じたことはない。
「どうしたの、変な空気じゃない?」
 みだりが微笑む。
「スナック菓子は健康によくないですよ、という話をしていたんです」
「あー。お兄ちゃん、健康に悪いもの好きだからね~」
「真奈ちゃんはどうなんですか?」
 絡みつくような声だった。
 真奈は、能天気な声で言った。
「最近、ダイエットしてるから食べてないよ」
「そうですか」
 二人のやりとりを聞き、猛は心から安堵した。返答によっては、また、さきほどのような展開になるのではないか、と予測していたからだ。
 しかし、続く言葉に、猛は戦慄した。
「みだりにダイエットしなきゃダメ、って言われてるからね。一切、食べてないよ」
「ちょっと待ってくれ」
 猛は掠れた声を出した。
「みだりちゃんに言われてダイエットしてるのか?」
 真奈は不思議そうに首を傾げた。
「そうだね。みだりには、カロリーチェックしてもらってるんだよ。ダイエットメニューも作ってくれた。ほんと、感謝しかないよ」
「友達ですから、当然ですよ」
 友達だから当然?
 それは、友達のすることなのか?
 さまざまな疑問が過ぎる。しかし、口に出せなかった。また、さきほどのような、凍った空気に戻ることを避けたかったからだ。喉がカラカラに乾き、洗面台に移動する。コップに水を注ぎ、渇きを潤した。キッチンから二人の様子が見え、猛は、とてつもない不安に駆られた。
 妹は、とんでもない女に目をつけられたのではないか?

 嫌な予感は的中した。
 真奈は、みだりを自室に招くようになった。スナック菓子の件で警戒されてしまったのか、あの日以降、みだりが積極的に猛と絡もうとすることはなくなった。
「みだりちゃんとは、どういうことをしてるんだ?」
 夕食の席で尋ねると、真奈は眉を顰め、怠そうに言った。
「秘密」
「は? なんだよそれ」
「お兄ちゃんには教えたくない」
 むっとする。こちらは心配して訊いているのにその態度はないだろう、と抗議したくなった。
 真奈は、箸を置き、ごめんね、と謝罪する。
「お兄ちゃんには、どうしても言えないの」
 どうしても? 大袈裟な表現に戸惑う。
「まさか、何か悪いことでもしているのか?」
「そんなんじゃないよ。ただ……」
 真奈は俯きがちに口を開いた。
「みだりが、お兄さんには今後、部屋でのことは何も話すなって言われてるの……」
 唖然とする。耳を疑った。
 幼い頃、庭に転がっている大きい石を持ち上げて裏を覗いたことがある。大量の虫がいて、そいつらが一斉に蠢めくところを見た時、吐き気を覚えた。その時と似た感覚に苛まれる。
「別に悪いことはしてないから。普通のことしかしてないよ」
「じゃあ、なんで言えないんだよ。変だろ、それ」
「ごちそうさま」
 真奈は席から立つと食器を片付け、二階に上がっていった。これ以上の追及をされたら困るのだろう。
 みだりとの約束を破ることになるからだ。
 猛は食べかけの食事を見つめ、溜息をついた。
 猛の義理の母――真奈にとっての実母は、一年前に事故で他界している。猛の父は単身赴任中で、ほとんど家に帰ってこない。実質、この家の主は猛だった。
 妹を守ってやれるのは自分しかいない。
 猛は自分に言い聞かせた。

 ▼

「久しぶりだね、猛くん」
 文芸部室に入ると、黒川礼子が迎えてくれた。コの字型に机が並べられている。真正面に礼子は腰掛け、カバー付きの文庫本を開いていた。
 窓から吹き込む風が、セミロングの髪を微かに揺らしている。妖艶さ、と言えばいいのか、礼子には大人のような魅力が備わっていた。男子からモテ、よく告白されていると聞く。それと同時に、悪い噂もいくつか聞いていた。どれも真偽不明だったので、猛は普通の同級生として礼子と接していた。
「ここのところ、あまり来てなかったから心配してたんだよ?」
「ほんとかよ……」
「もちろん。夜、猛くんのことを考えて、眠れない夜を過ごした時もあったんだから」
「誤解されそうなことを言うなよ」
「誤解? 何のこと?」
 小首を傾げる。
 天然なのか、わざとなのか。
 たぶん、わざとだろう。
 文芸部での活動を通してわかったことがある。礼子は、人をおちょくることが好きだ。よく言えば悪戯好き、悪く言えば性悪。正直なところ、長時間一緒にいると疲れるタイプだった。
 しかし、猛は今、自宅に帰るのが億劫だった。間違いなく、みだりがいるからだ。数日前、廊下で鉢合わせた時のことを思い返す。
 みだりは、冷淡さを感じさせる表情で「お邪魔しています」と口にした。そのまま素通りしようとする。
 猛は、覚悟を決めて引き留めた。
「ここのところ、毎日来てるよな。ちょっと来すぎじゃないか?」
 みだりは足を止めると振り返った。セミの抜け殻を見るような目を向けてくる。
「どういうことですか?」
「言葉通りの意味だよ。流石に来すぎだろ」
「そうは思いませんけどね……」
「あと、妹に何か、言っているみたいだな」
「何か? 何かとは?」
 自分の言葉に歯切れがないことを自覚する。舌打ちが出そうになった。
 猛は口ごもった。準備なしで話しかけたことを後悔する。
 みだりは肩を竦め、すたすたとトイレに入り、扉を閉めた。猛はそれをただ黙って見送った。
 その日の夜、「お兄ちゃん、みだりに何か言ったでしょ!」と責められた。もう口をきいてあげないからね、と言われ、実際しばらくの間、会話することがなくなった。最近、ようやく口をきいてくれるようになったのだ。
 なぜこうなったのか、と頭を抱えたくなる。
 礼子は、文庫本を鞄に入れた。猛を見つめて微笑む。
「死人みたいな顔をしてるよ」
「死人、見たことあるのか?」
「あるよ。それなりにね」
 本当だろうか。
 礼子と話していると、なぜか不安感と焦燥感を覚える。
 逃避場所として文芸部室を利用したのは最悪の判断だったかもしれない。とはいえ、今更、すぐに退室するのは感じが悪いので、どうしたものかと思っていたら、礼子が口を開いた。
「死人を見たことある、っていうのは、人を殺したことがある、って意味ではないよ」
 猛は脱力した。
「それはわかってるよ」
「そう? 人は人を簡単に殺せてしまえるものだから、意外な人が、意外な人を、意外な動機で殺してるかもしれないよ」
 ニコニコと笑いながら、自分の首を掻ききる動作をする。
「簡単に殺せたとしても、殺さないもんだろ」
「どうして?」
「法律があるからだ。人を殺したら極刑だろ。死刑もありうる」
「なら、法で裁かれなかったら人を殺すのはありなの?」
「少なくとも、俺は殺さないだろうな」
「なぜ?」
「子供のなぜなぜ期かよ……。罪悪感に苛まれるのが嫌だからだよ」
「凶悪な犯罪者が相手でも罪悪感は生まれる?」
「ああ。たぶんな」
 なぜこんな話をしているのか。やはり、別の場所に移動すべきか。
 礼子は、伸びをしながら言った。
「私はいずれ、人を殺してみたいと思ってるんだよねー」
 聞き間違いか、と思い、顔を見つめる。大真面目な表情だった。
 礼子は、何でもない事のように続けた。
「正直、今殺したい相手はいないよ。いたとしても、殺して捕まりたくはないと思っている。でも、殺してはみたいんだよね。人を殺した時、自分の心は罪悪感に苛まれるかどうか、実験してみたい気持ちがあるんだ」
「死刑執行をする人になればいいんじゃないか?」
「それもありだね」
 礼子は笑った。
「でも今後、日本から死刑という制度は消えるかもしれない。その可能性は、結構高いと思っている。だから、私が目指すべきは完全犯罪の方だよ」
「ばれなきゃ犯罪ではない理論か」
「完全犯罪は、そんなに難しいことではないと思うんだよね」
 礼子は手を弄びながら続ける。
「日本では、年に七万から八万の人間が消息を絶っている。その中には、犯罪に巻き込まれて死んでいる人も多いと思う。上手くやった人間が、今も平然と、日常生活を送っているんだよ。なぜ、そういう連中が捕まっていないと思う?」
「さあ。考えたこともない」
「簡単だよ。警察は科学捜査と目撃証言と動機の面から、犯人に辿り着こうとする。でも、証拠が残っていなかったら? 動機のある人物を見つけられなかったら? 目撃者がいなかったら? 犯人の指紋が残っていたとして関係者や警察のデータベース上に適合するものがなかったら?」
 導き出される結論は一つだよ、と微笑む。
「犯罪歴を作らず、まったく自分と関係のない人間を、目撃者と監視カメラのないところで殺害する。これで完全犯罪は達成できる。実際、未解決事件の大半は、そういう形で成立してるんじゃないかな」
「……あのなぁ」
 猛は苛立ちを覚えた。倫理観を刺激されたからだ。
「お前、そういうことを学校で言うなよ。笑えないからな」
「確かに笑えないね」
 礼子は笑いながら言った。

 ▼

 食事を済ませ、ベッドに寝転がり、天井を見上げる。
 完全犯罪は可能だ、と礼子は言っていた。動機の線から辿れないことが重要である、と話していたことを思い出す。
 みだりを殺す動機は、自分にあるだろうか。
 毛布の端を強く握りしめ、頭を働かせる。
 ……ない。
 客観的に見て、自分がみだりを殺害する理由は何一つなかった。
 妹に対して支配的で、自分を邪険に扱ったから殺す――。
 馬鹿げた動機だった。仮にみだりが殺されたとして、猛を警察が本気で疑うとは到底思えなかった。
 礼子の論では、「まったく自分と関係のない人物」という条件もあったが、そちらはどうあがいても覆せそうにない。もう顔を合わせてしまっている。
 ベッドから起き上がり、本棚を眺める。推理小説は数冊程度しかなかった。一冊を抜き出して、ぱらぱらと捲る。
「やってみるか……」
 呟き、苦笑する。本を机の上に放り投げて伸びをした。
 中二病的な妄想は、そろそろやめた方がいいだろう。どうせ、できやしない。もっと現実的な対処法を考えるべきだ。
 その時だった。
 ばたん、と派手な音が聴こえた。廊下の方からだ。
 部屋を出る。
 真奈が床に倒れていた。
「お、おい大丈夫か!」
 慌てて駆け寄る。真奈は顔を上げて笑った。
「ごめん、ちょっと眩暈がして……」
 濃い隈があった。目が充血していて、顔全体が青白い。
「ちゃんと寝てるのか?」
「う、うーん……。ど、どうかな~……」
 頭が働いていないのか、ろれつが回っていなかった。
 真奈は苦笑しながら続けた。
「わたし、馬鹿だからさ。小テストの点数、低くて、だから、勉強してたんだ」
 まさか、と上擦った声が出る。
「……誰かに言われてやってるのか?」
「うん。みだりに言われて。馬鹿は損するから勉強しなきゃダメだ、って」
 頭に血が上った。震える声で続ける。
「今日は勉強しないで休め」
「でも、みだりが……」
「みだりには俺が言っておくよ」
 その後、自室に運び、ベッドに寝かせた。体温計で熱を測ったら、三十八度近くあった。平熱を大きく上回っている。
 熱さまシートをつけ、立ち上がる。ふと違和感を覚え、部屋を見回した。
 あっ……。
 棚を見て、違和感の正体に気づく。
 家族写真が消えているのだ。友達の写真も消えていた。
 部屋にあるすべの写真が、みだりとのツーショットに置き換わっていた。
 肌が粟立つ。
 猛は立ち眩みを覚え、机に手を突いた。
 真奈は、不思議そうにこちらを見ている。
 ――殺すしかないんじゃないか?
 猛は、悪魔のささやきを聞いた気がした。

 ▼
 
 みだりが郊外の一軒家に入っていくのを、猛は見届けた。家の外観をスマホで撮影する。
 二階建ての、真新しい建物だった。壁の色はグレーで、窓の数が多い。駐車場には一台、ワゴン車が停められていた。
 調べられる範囲で、みだりの経歴、家族構成を調べた。ほとんどは、真奈から訊いた情報だった。風邪で気が弱くなっていたからか、素直に多くの質問に答えてくれた。
 もともとは仙台に住んでいたらしい。親の仕事の都合でこちらに引っ越してきたという。家族構成は、父、母、みだり、弟の四人。共に暮らしていると聞く。真奈は、みだり家にお呼ばれされたことはなく、実際のところ、家族は誰一人知らないと話していた。
 みだりを殺害する。一瞬、そんな考えに囚われたが、いざ実行する自分を想像してみて、絵空事だと思った。妄想の中ですら上手くいかなかったのだ。現実で実行したら目も当てられない事になることは確実だった。絶対に失敗するだろう。
 では、なぜ調べているのか。それは、対抗手段を見つけるためだった。
 妹の目を覚まさせるか、みだりに手を引かせるか。猛にできることは、その二つしかなかった。最初に手をつけたのは前者だった。
 真奈の体調が回復した翌日。みだりと距離を置いた方がいい、と説得した。自分が熱を上げ、言葉を繰り出せば繰り出すほど、妹の態度は冷ややかになっていった。
 一時間近い説得は、無駄に終わった。真奈は「考えておくね」と言い残して去っていった。まったく心に響いた様子はなかった。
 猛は無力感に打ちひしがれた。
 妹は洗脳されている。そう確信した。
 以前、洗脳に関する本を読んだことがある。現実に起きた事件を参照しながら、洗脳の恐ろしさ、その実態に迫るものだった。
 人間を操作することは難しいことではない。そう書かれていたことを思い出す。
 おそらく、真奈だけではないのではないか。猛はそう推理した。みだりが転校してきて二ヶ月弱。事態の進行が速すぎる。過去に、似たようなことをしていたから、真奈を簡単に手玉に取ることが、簡単にできたのではないか、というのが猛の考えだった。
 ひょっとしたら、何か過去に事件を起こしているかもしれない。それさえわかれば、こちらが有利な立場を取れるだろう。
「何してるの?」
 突然、背後から声を掛けられ、心臓が縮まる。
 振り返ると、真奈が立っていた。
「何してるの?」
 さきほどと同じ問いかけだ。猛が言葉を失っていると、真奈は腕を組み、溜息をついた。
「そこ、みだりの家でしょ?」
 返事ができなかった。
「このことは黙っておいてあげる。みだりにバレたら大変なことになるからね。怒らせない方がいいよ」
「お、俺をつけていたのか……?」
 喉を鳴らす。
 真奈は肩を竦めた。
「……これはお兄ちゃんのためなんだよ」
「何がだ? 何が俺のためなんだ?」
「みだりはね、特別な子なの」
 目を輝かせて言う。
「みだりは、神に守られているんだよ」
「は、はぁ……?」
 宗教めいた話は苦手だった。眉を細め、妹を見つめる。真奈は大真面目な顔をしていた。
「とにかく、みだりの詮索はやめた方がいいよ。神にもらった力で、報復されるかもしれないからね」
 真奈は、みだりに会う予定はなかったらしい。踵を返して、交差点を曲がっていった。
 猛は改めて家を眺めた。今すぐ玄関の扉を蹴り破り、みだりの部屋に侵入して、妹に近づくな、と怒鳴りつけたくなった。
 もちろん、それをすれば、不利になるのはこちらだ。
 猛は唇を嚙みしめた。

 ▼

 夏休みを間近に控えた水曜日。
 猛は教室で友人達と談笑していた。くだらない話で盛り上がっていると、クラスの女子に声を掛けられた。
「後輩さんが呼んでるよ」
 扉の方を見て、どきりとする。
 みだりが佇んでいた。
 表情を消して、みだりの前に足を進める。立ち止まり、「どうした?」と声を掛けた。
「二人でお話しませんか?」
「ああ、わかった」
 教室から離れ、廊下の端に移動する。窓際で向かい合った。
 みだりは、制服を着こなしていた。シャツに皺やよれは見受けられない。髪飾りも普段より地味めなものをつけている。
 みだりは、憂いを込めた表情で、息を吐き出した。
「真奈ちゃん、お兄さんに余計なことを言ったみたいですね……」
「余計なこと?」
「神についてです」
 その話か、と警戒心を強める。
「悪いが、宗教系はあまり信じていないんだ」
 みだりはこちらの話を無視した。遠い目をして言う。
「私が初めて神に出会ったのは小学生の時です。森で迷子になったわたしに、神は力を与えてくれたのです」
 辟易とする。学校で話すようなことではないだろう、と感じた。
 みだりは窓の外を見つめた。少し離れた雑居ビルに視線を向け、囁くように続ける。
「人を操る力です。なぜ神が私に、そんな力をあたえてくれたと思いますか?」
「知らない。興味もないな」
 みだりは真顔で続ける。
「理由なんてないんですよ。単なる気まぐれでしょう。神とはそういうものです。人間の考え、合理では測れない存在なんです」
 気が遠くなる。
 やはりこの女はおかしい。初めて会った時の印象に間違いはなかったのだ。
 みだりはくすくすと笑った。
「わたしは、能力を使い、いろいろと遊ぼさせていただきました。せっかく力を貰ったのですから、使わなきゃ損ですからね」
 七階建てのビルの屋上を指差す。
 一人の女子が、屋上に現れた。この高校の制服を着ている。
「彼女は私のクラスメイトです。中学時代に万引きしていたことを自慢されました。彼女にとって万引きとは、ちょっとした娯楽のようですね。神の天罰が怖くないんですか、と聞いたら、彼女は手を叩いて笑っていましたよ」
「……何がしたいんだ?」
 嫌な予感を覚えて、声を絞り出す。
「見ていてください。面白いものが見れますよ」
 女子生徒は、屋上の隅に向かうと、フェンスをよじ登り始めた。器用に手と足を引っ掛け、あっという間に、天辺に到達する。またがるような形になった。
「おい」
 猛は窓に手を置いた。日光の熱で、手がじんわりと熱くなる。
「彼女には今朝、この時間に飛び降りることを命じています」
「おい、止めてくれ!」
 大声が出る。
 次の瞬間だった。
 女子生徒が、フェンスを乗り越え、身を投げ出した。視界から消失する。
「これはお兄さんと真奈ちゃん、二人のせいなんですからね」
 横を向く。
 みだりは、にたにたと笑っていた。
「神の存在は本来、誰にも知られてはいけないんです。知られてしまったら、捧げものをしなくてはならない。だから、彼女には死んでもらったんですよ」
「そんな……馬鹿なこと……」
 頭が回らなかった。血の巡りが滞っている。
 みだりは笑いながら言った。
「そんな顔をしないでください。私、お兄さんのことは尊敬しているんですよ? 私の理不尽な命令に従いませんでしたよね?」
 スナック菓子のことを言っているのだろう。
「私の理不尽な命令に従った人間を、私は支配下に置くことができるんです。お兄さんは見事、私の支配から逃れましたね」
「なんで……」
「なんで、そんな説明をわざわざするのか。頭のいいお兄さんは、気になりますよね」
 その場でダンスを踊りかねないご機嫌な様子で、みだりは笑みを浮かべ続けた。
「真奈ちゃんを人質に取っているからですよ。だから、私はお兄さんに本当のことを話せたんです」
「……」
「お兄さんは何もできない。そもそも、こんな話をしても誰も信じないでしょうね。神のことを誰かに話したら、今度は真奈ちゃんを、神に捧げるつもりですから、ご内密にお願いします」
 みだりは距離を置くと、軽い会釈をした。
「長々と付き合わせてしまってすみませんでした。そろそろ昼休みも終わりですね。楽しかったです。またお話しましょう」
 にこりと微笑み、階段を降りていく。それを見送り、猛は床に崩れ落ちた。

 ▼

 高校二年の桜坂ねねがビルから飛び降り、歩道に立っていた会社員の田中春樹と接触。両名は病院に搬送された後、息を引き取ったらしい。
 ニュースサイトを見て眉を顰める。
 あれは夢ではなかったのだ。本当のことだった。そのことを受け入れるのに、丸一日を費やした。
 人を支配する力を神から与えられた、とみだりは話していた。馬鹿げている、と思う。すべてを鵜呑みにするわけにはいかなかった。
 ただ単に、みだりが人を操る能力に長けていて、神から貰ったと勘違いしているだけかもしれない。自殺の件だって、前もってあそこから飛び降りると桜坂ねねから聞いていて、猛に見せることができただけかもしれない。いくらでも可能性は考えられた。
 とはいえ、何が真実であるにしろ、憂慮すべき問題は一つだ。
 それは、みだりが人の死を嘲笑うようなサイコで、こちらに脅しをかけてきているという点だ。
 これ以上、あの女を、真奈に接近させるわけにはいかない。
 ホームルームが終わり、教室を飛び出そうとしたところで、黒川礼子に捕まった。今日も部活をサボっちゃうの、と問い詰められる。
「悪いけど、それどころじゃないんだ」
「へえ、私との時間より大切なことがあるんだ。悲しいなぁ」
 面倒くさいな、と心の底から思う。無視して立ち去ろうとしたところで、ふいに以前の会話が思い出された。
「バレずに人を殺したいって話をしてたよな?」
 声を潜めて訊いた。礼子が目を見開く。
「え、そうだっけ? そんな物騒な話したかなぁ?」
「しただろ」
「学校でそういう笑えない話をするのは、お姉さん、どうかと思うんだよなぁ」
 やり返されている。猛は肩を竦め、「あの時は悪かったよ。言い過ぎた」と謝罪する。
「で、人を殺害するとして、どういう状況でやるのが一番いいんだろうな。つい考えちゃって」
「サイコパスなの?」
「授業中、暇だったんだよ」
「授業訊きなよ」
 礼子は人好きのする笑みを浮かべて言った。
「この前、話した通りじゃない? 目撃者、監視カメラがないところがいいだろうね」
「ターゲットがノコノコ、そんなところについてくるかな?」
「難しいだろうね。そこは、犯人の工夫次第なんじゃないかな。私だったら、ターゲットの行動パターンを把握して、カメラや人気がなさそうなところにターゲットが足を運んだところで襲うかな。何事も、準備が大切で、それは殺人も一緒。下調べをしたうえで、殺すのがいい」
 声は小さくしているが、ここは教室だ。聞かれたら、ぎょっとされるだろう。さらに声を潜めた。
「どう警察の目を逸らせばいいんだろうな」
「警察の目、ねえ……。気にし過ぎはよくないと思うよ。下手にトリックを仕掛けたら、それで足がつくかもしれないからね。シンプルイズベストだよ」
 シンプルイズベストか。頭に刻み込む。
 鞄を背負った。これ以上、話を続けるのはリスクだと判断したからだ。
「帰っちゃうんだ」
「悪いな」
「人を殺すときは私に相談してよ。めちゃくちゃ上手い方法、考えてあげるから」
「そうさせてもらう」
 軽口を叩き合った。
 教室を出る直前、振り返ると、礼子がこちらを見つめ、にっこりと微笑んでいた。その目を見て、一瞬、身体が硬直する。お前の考えていることはすべてわかっているぞ、と言われている気がしたからだ。

 ▼ (ここから推敲)

 猛はマスクをつけ、公衆トイレの中で息を潜めていた。時計を確認してから、ふーっと息を吐き出す。
 塾を終え、みだりがこの公園の脇を通るのは、だいたい午後十時頃である。
 外へ出ると、電灯に虫が集まっていた。それを見上げながら、昨夜のことを思い返す。

「みだりと会うのはやめるんだ」
 猛は妹の部屋に押し掛けていた。真奈はベッドから体を起こすと、大きく溜息をついた。
「悪いけど、それはわたしが決めることだから」
「聞けって」
 猛は椅子に腰掛けた。覚悟を決め、みだりとの会話の内容をすべて話した。
 真奈は大きく目を見開いた。
「それ、本当のことなの?」
「あいつは、お前のクラスメイトが自殺するのを知っていたんだ」
 いや、と首を振る。
「みだりの神様の話が事実なら、みだりは人を殺したってことになるな。あいつは、クラスメイトを殺して笑ってやがったんだ」
「……へえ……」
 真奈は珍しく真剣な表情を浮かべていた。顎に手を当て、壁を見つめている。
 ふいに視線を感じて脇を見た。写真立てに、みだりとのツーショットが入っていた。みがりが微笑みを浮かべ、こちらを凝視している。鳥肌が立った。この部屋での会話は、すべてみだりに筒抜けになっているのではないか。ありえない話ではないと思えた。
「家族写真はどうしたんだよ」
 沈黙に耐えられなくなり口を開く。
「青森に住んでいた時の写真、飾ってただろ。どこにやったんだ?」
「え」
 真奈は目をぱちくりさせた。
「母親とのツーショットもなくなってるだろ」
「あー、そういえば、そうだったね。どこいったかな……」
 微妙な返答だった。
 心が冷えていくのを感じる。
「あ、そっか」
 真奈は笑顔を浮かべた。
「全部、燃やしちゃったんだ」
 言葉の意味が理解できなかった。猛は、まじまじと妹を見つめた。
 真奈は、当然のように言った。
「みだりに言われたんだよ。燃やしちゃいな、もう必要ないでしょ、って」

 あと五分か……。口の中で呟く。
 猛は周囲を確認した。今のところ、人気はない。誰かいた場合は計画を延期するつもりだった。
 階段近くの茂みに入り、スタンバイする。じんわりとした暑さがあり、汗が頬を伝った。
 昨夜の会話で、真奈を説得するのは不可能だとわかった。あの後、何を言っても、「わたしはみだりが好きだから」「みだりを信じているから」と返され、会話にならなかった。
 なぜこうなってしまったのか。泣きたくなる。だが、ぐっと我慢して、腹に力を込めた。弱気になっている場合ではない。
 真奈と初めて会った時のことを思い出す。
 二年前だった。真奈と真奈の母親は、二人で青森に住んでいたらしい。仕事関連の行事で、真奈の母親と猛の父は出会い、意気投合した。それから三ヶ月という速さで結婚したのだ。正直なところ、猛は辟易とした。しかし何も文句を言わなかったのは、真奈の存在があったからだ。
 真奈は底抜けに明るい性格をしていて、親の結婚に積極的だった。真奈のサポートがなければ、二人は結ばれていなかっただろう。
 真奈の手前、年上である猛は文句を言えなくなっていたのだ。
 家族となり、四人は共同生活を始めた。それなりに上手く回っていたと思う。いざ家族となったら、互いのいいところが見えるようになってきたのだ。
 しかし、想像もしていなかった不幸が我が家を襲った。
 真奈の母親が、交通事故で亡くなったのだ。ガードレールを突き破り、崖下に転落した。事件性はなく、ハンドルの操作ミスだと結論付けられた。
 母親は家を出る直前、真奈と喧嘩をしていた。母さんは猛ばかりを優遇している、と真奈が主張したのだ。二人の口論は激化し、最終的に真奈は母親に対して「もう帰ってこなくていいよ。一生、帰ってこないで。今日中に死んで」と言った。母親はそれを聞き、「そう、わかったわ」と扉を閉め、出て行ってしまったのだ。
 母親が死んでから、真奈は一週間、部屋に引きこもった。
 猛は扉越しに何度も「お前のせいじゃない」という言葉を掛けた。返事はなかった。一週間が経ち、扉に前に立ったら、真奈の方から「わたしのせいじゃないと本当に思ってるの?」と訊かれた。猛は扉を開け、真奈を思いきり抱き締め、もう一度、「お前のせいじゃないよ」と言った。
 真奈は泣かなかった。自分には泣く資格がないと思っていたのかもしれない。
 これからは義母の代わりに、自分が真奈を守らなければ。
 猛は胸に誓った。

 意識が現実に戻る。目の前を、五十代くらいの男性が、自転車で横切っていった。
 ふと、写真の件が思い出された。
 真奈は、すべての写真を、燃やしたと話していた。その中には、母親とのツーショットもあったのだ。
 腸が煮えくり返る。握りこぶしを固め、落ち着け、と呼吸を整える。
 木陰で待っていると、女子が近づいてきた。目を細めて凝視する。
 みだりだ。間違いない。
 心臓が音を立てる。
 この先の交差点で友達と別れ、一人になったのだろう。
 手汗をズボンで拭う。尻ポケットから手袋を取り出して装着した。
 ――本当に、俺に人を殺せるのか? 
 猛は自問自答する。
 できる、と腹の中で答えた。すでに覚悟は決まっていた。
 みだりが公園を横切り、急こう配の階段を降りていこうとする。
 猛は木陰から出た。ゆっくりと背後に近づいていく。
 みだりの背後に追いついた。手を伸ばそうとして、動きが止まる。
 ――なぜだ。なぜ動かない。動け、動け、動け。
 猛は、思い切り下唇を噛んだ。
 今更、引き返すことはできない。やるしかないんだ。
 みだりが足を動かすのを間近で見つめる。このまま、気づかないまま、行ってくれるかもしれない。
 そこではっとする。
 そうか。まだ引き返せるのか。
 今ならまだ、計画を取り消すことができる。
 猛は腕を下ろした。
 自分は、何を考えていたのか。おかしな考えに染まり、とんでもない過ちを犯そうとしていた。
 人を殺すなんて、できるわけがなかったのだ。
 息を殺して離れていこうとする。
 その時、予想外のことが起きた。
 背後から「わぁ!」という声が響いた。
 声に釣られ、みだりが振り返る。
 視線が合った。みだりは大きく目を見開いていた。驚愕の色を顔全体に浮かべている。
 違う、誤解だ。
 そう弁明する前に、猛は腕を突き出していた。みだりの肩が押される。
 視界からみだりが消えた。一瞬のことだった。
 下を見ると、女が倒れていた。
 心臓が早鐘を打っている。平衡感覚を失い、手すりに摑まった。
「……ああ、なんで……」
 呟く。
 夢なら覚めてほしかった。
 現実に押しつぶされそうになる。
 振り返ると、意外な人物が立っていた。

 ▼

「まさか、本当に人を殺すなんてね」
 黒川礼子だった。Tシャツにパンツというラフな格好で、猛に笑顔を向けている。
 言葉を失った。
 なぜ、彼女がここにいるのか。
 礼子は頬を上気させていた。興奮しているようだった。
「止めようと思ったのに、間に合わなかったよ。ごめんね」
 震える手を押さえつけ、同級生を睨みつける。
 この女は、わざと声を上げ、猛を追い込んだのだ。確信犯だった。
 礼子は笑顔で続ける。
「たまたまコンビニに行こうとしたら、猛くんを見つけてね。変装っぽいことをしていたから、まさか、と思ってつけてみたら……。いやぁ、驚いたよ。私より先に人を殺すとはね」
「たまたま、じゃないだろ」
 声を尖らせる。
「お前は、俺をつけてたんだ。そうだろ?」
「そんなことしないよ」
 苛々する。
「お前のせいだ」
「え」
 猛は眉尻を上げ、唾を飛ばした。
 礼子が目を細める。
「それはちょっと、理論が飛躍しすぎてると思うんだけど」
「お前のせいだろ。そもそもお前が、人を殺したいなんて話を文芸部室でするから、こういうことになったんだ。どうするんだよ」
「どうするって言われてもねぇ……あっ」
 礼子は、階段の下を指差した。釣られて下を見ると、みだりが消えていた。
 いや、消えたわけではなかった。腹ばいのまま移動しているのだ。
「生きていたみたいだね」
 礼子がスマホを取り出した。
「おい、何してるんだ」
「救急車を呼ぶんだよ。死んだら、しゃれにならないでしょ」
 指を動かしている。猛は焦った。
「待ってくれ」
「え、駄目だよ。急がないと、死んじゃうかもしれない」
「……救急車は呼ばないでくれ」
 肩を思い切り掴む。礼子は表情を強張らせた。 
「頼むよ」
「でも……」
「もう帰れ。帰ったら、今日あったことはすべて忘れてくれ」
 目を見て頼み込む。
 礼子にすべての責任を転嫁しようとしていた。だが、それは無理筋だと気づいた。この結果を招いたのは、他ならぬ自分だった。
「……ふうん、そっか……」
 礼子は表情を消した。溜息をつき、ひらひらと手を振る。
「猛くん、腹を決めたみたいだね」
「消えてくれ。今すぐに」
「わかったよ。私はここには来なかった」
 距離を置き、笑顔を浮かべて言う。
「完全犯罪は難しいみたいだね。勉強になったよ」
 闇の中に消えていった。 

 ▼

 猛は、階段近くにあった石を持ち上げた。かなり大きいが、すぐ手に馴染んだ。自分のため、誰かがここに配置してくれたのではないか。そんな妄執に駆られそうになる。
 階段を降りていく。
 みだりは腹ばいの状態で、芋虫のように体をくねらせていた。彼女に追いつき、全身を見下ろす。
 少し前まで、みだりに恐怖を感じていた。しかし今は、憐憫の気持ちしか湧いてこなかった。
「すまない」
 みだりはこちらに顔を向けた。声が出ないのか、ひゅーひゅー、と喉を鳴らしている。
 みだりの頭に石を打ち付けた。一発で殺してあげたかった。しかし、みだりはまたこちらに顔を向けた。顔が歪んでいる。二度、三度、打ち付けた。それでも死ななかった。人間の生命力の高さに衝撃を受ける。
 やはり人を殺すのは、自分には向いていなかったのだ。
 後悔の念を押し殺して、また打ち付ける。
 七回殴ったところで、ぐったりとして、動かなくなった。
 石を放り捨てる。呼吸が乱れていた。汗を拭い、身体を動かす。まだ終わりではなかった。
 鞄の中身を漁り、財布を取り出した。カードとお札を抜き、ポケットに入れてから財布を捨てた。物取りの犯行に見せかけるためだった。
 階段を駆け下り、その場を離れる。
 曲がり角を折れるたび、涙が出そうになった。無心で足を進めていく。
 自宅の玄関を抜け、自室に入り、枕に顔を押し付け、絶叫した。
 涙が止まらなくなる。
 人として、大切な何かが、失われた気がした。

 ▼

 翌朝の土曜。
 猛はベッドから起き上がり、私服に着替えた。洗面台で顔を洗い、鏡を見る。想像よりは酷い顔をしていなかった。吹っ切れたのかもしれない。
 ニュースサイトやテレビはまだ怖くて観れていなかった。警察がここに来ていないということは、決定的な証拠は残していないということだ。ひとまず胸を撫で下ろす。
 リビングに入ると、真奈がソファに腰掛けていた。こちらを見つめてくる。
 ぞくりとした。
 目に光を宿していなかったからだ。
 真奈は機械人形のような表情で、口を開いた。
「みだり、殴られたんだって」
「えっ……?」
 猛は声を跳ねさせた。
「殴られたって……それ、いつのことだ?」
「昨夜。もうニュースになってるよ」
「そ、そうか……」
 真奈の隣に腰掛ける。
 自分は今、上手く演じられているだろうか?
 わからない。だが、致命的なことはまだしていないはずだ。
「真奈、大丈夫そうか?」
「どうだろう。まだ、心の整理が追い付いてないよ」
「そうだよな……。友達が殺されたんだ。大丈夫なわけないよな」
 妹の受けた精神的ダメージは、計り知れなかった。母親のことまで思い出されている可能性がある。
 猛は腹に力を込めた。
 これからは自分が真奈を支えていくのだ。単身赴任中の父や死んだ母の代わりに。
 真奈は小首を傾げた。目を細め、こちらを見つめて言う。
「今お兄ちゃん、変なこと言わなかった?」
「え」
「殺されたって言ったよね?」
 質問の意図がわからず、猛は押し黙った。
 真奈は、感情を押し殺したような顔で話を続けた。
「みだりは死んでないよ。生きてる」
 沈黙が落ちた。
 冷たいものが背中を伝う。喉仏が上下した。
 猛は、強張った表情を妹に向けた。
 真奈は眉を顰めていた。
「みだりは生きてる。意識も回復してるってさ。まだ、喋れる状態でないみたいだけどね」
「……そ、そうか……」
 視線を逸らす。
 みだりは死んでいない? 本当に? そんなことがあり得るのか?
 虫の息だった少女の頭を、あれだけ殴ったのだ。死んでいないどころか、たった一晩で意識を取り戻したとは考えづらい。
 スマホで検索したい衝動に駆られる。だが、今は弁明が先だった。なぜ自分は今、みだりが殴られたと聞いただけで、殺されたと断言してしまったのか。理由を説明しなければならない。
 猛は唇を舐め、言った。
「てっきり殺されたのかと……。たぶん、三日目に見たドラマのせいだな。変な先入観があった」
 冷たい声で「そう」と返される。猛は焦った。さらに言葉を重ねようとしたが、ぐっと吞み込んだ。これ以上は心証を悪くしかねない。
 スマホを取り出して検索する。ニュースサイトで記事を見つけた。真奈の言った通りだった。意識は回復しているらしい。
 愕然とする。
 なんという生命力の高さなのか。
「は、はは……」
 乾いた笑いが漏れる。
 絶対に失敗するから、やめた方がいい。数週間前に結論は出ていたはずだ。なのに、実行して、このざまである。
 スマホをテーブルに放り投げる。がたん、と音が鳴り、真奈が驚きの色を浮かべた。
 終わりだ。自分は取り返しのつかない失敗をしたのだ。
 みだりは間違いなく猛の名前を出すだろう。
 警察に捕まるのは時間の問題だった。
「お兄ちゃん……」
 真奈が不安そうに見つめてくる。
 猛は、ゆっくりと口火を切った。
「みだりを殴って病院送りにしたのは俺だ」

 ▼

 説明は三十分に及んだ。
 どこかのタイミングで、罵倒されたり泣かれたりすることを覚悟していたが、真奈は取り乱すことなく、最後まで話を聞いてくれた。
「コーヒー、淹れるね」
 真奈は立ち上がると、キッチンに移動した。二人分のインスタントコーヒーをカップに注ぎ、リビングに持ってくる。受け取り、淵に口をつけた。喉をごくごくと鳴らす。想像以上に自分は水分を欲していたらしい。美味しかった。
「これからどうするの?」
 真奈が真剣な表情で訊いてくる。猛は口角を持ち上げて答えた。
「自首するよ」
 その言葉を発した瞬間、肩の荷が下りた気がした。
 みだりが死ななかったのは不幸中の幸いだった。結果論だが、心の底からそう思う。
「いいの?」
「もう、それしか選択肢はないだろ。みだりは、俺の名前を出すだろうからな。どちらにしろ、逮捕はされる」
 真奈は項垂れた。ぶつぶつと何かを呟いている。
 ひょっとしたら、と猛は考える。みだりの洗脳は解かれたのかもしれない。洗脳状態であれば、自分が殴ったと告げた瞬間、何かしらアクションを起こすと思われるからだ。
 カップを見下ろす。黒い水面を眺めていたら、嫌な予感が頭をもたげてきた。
 ひょっとして、毒を入れられた……?
 まさか、と笑い飛ばす。毒なんて、そう易々と手に入るものではない。映画、ドラマの見過ぎだ。
 その時、ばりん、と激しい音がした。突然のことで、咄嗟に反応できなかった。
「え?」
 視線を向け、はっとする。
 壁に黒い染みができていた。その下に、割れたカップがある。
 慌てて前に目を向ける。
 真奈が見たことのない形相で、こちらを睨みつけていた。
「な、なん……」
 なんでカップを投げたんだ、と言い掛け、口を噤む。あまりに馬鹿げた質問に思えたからだ。
 真奈は顔を赤くしながら言った。
「自首はよくないでしょ」
「え?」
 眉間に皺を刻んで続ける。
「自首するってことは、みだりを放置する、って言っているのと同じだからね。わたしを危険に晒したまま、警察の厄介になるってことでしょ。みだりを襲った意味ないじゃん。もっと頭を使いなよ」
 いつもの愛らしい丸顔が、醜く歪んでいた。こちらを心底、見下すような目つきをしている。
 唖然としていると、足の脛を蹴られた。思わず声が出る。
「頭を使いな、って言ってるの。今の状況を冷静に考えてよ。まず、警察はまだここに来ていないでしょ」
「あ、ああ……。でも、それが?」
「でもそれが? でもそれが、ってマジで言ってんの?」
 腕を組み、馬鹿を見るような目を向けてくる。
「つまり、みだりはまだゲロってないってことだよ。意識が回復しているのに、お兄ちゃんの名前を出せていない。つまり、まだ喋れなくて文字すら書けない状態でいるか、記憶の混濁があるか、何か別の思惑があって勿体ぶっているか。色々可能性は考えられるでしょ」
「あ、ああ、そうだな」
「まだお兄ちゃんにはチャンスがあるってことだよ。自首を選択するのは早計」
 チャンスとは何なのか、と質問しようとして思い留まる。たくさんの罵倒が飛んでくる気がしたからだ。
「一つ、確かなことがあるよ」
 真奈は不機嫌の色を顔いっぱいに広げて続けた。
「お兄ちゃんが悲劇のヒーローぶって警察に囲われている間、わたしは、みだりの脅威に晒され続ける。お兄ちゃんのしたことは全部、無意味になるよ。ううん、むしろ脅威は増したと言っていいね。報復されるかもしれない。それでいいわけ?」
「それは……」
「よくないでしょ?」
「あ、ああ……よくないな。全然よくない」
 キツイ物言いだが、言っていることは正論だった。そもそも猛は、妹を守るために犯罪を犯したのだ。妹を危険に晒している今の状態は、最悪と言っていい。
 自己嫌悪で死にたくなった。
 ――結局、俺は自分のことしか考えられていないじゃないか。
 項垂れていると、また脛を蹴られた。
 顔を上げる。
「お兄ちゃんは頑張ったよ。そこは認める。ありがとう」
「え……」
 驚く。
 真奈は愛らしい笑みを浮かべていた。それは、母親がまだ生きていた頃、真奈がよく見せてくれていた表情と同じだった。心が満たされていくのを感じる。
 そうか、自分はこの笑顔を見たくて頑張っていたのか。
 真奈は笑みを浮かべたまま続けた。
「でも、頑張りは足りてないかな。自首したいなんて、言語道断だよ」
「そうだな……。確かに、そうだ。お前の事を危険に晒してるもんな」
 優しく肩を撫でてくる。
「あともう少し。あともう少し踏ん張れば、全部解決するよ」
 柔らかな声音だった。すべてを委ねたくなる。
「今度こそ、ちゃんと殺そうよ。最初の襲撃より難易度は上がった。でも、不可能ではないんじゃないかな。みだりがゲロる前に殺す。そうしたら、わたしもお兄ちゃんも助かる。そうでしょ?」
 そうか。もはや自分に残された選択肢は、それしかなかったのだ。
 妹によって可能性が一つに絞られた。
 迷いや不安感が消えていく。
 自分は真奈のため、今後こそ、みだりを殺すのだ。
 それで家族に幸せがもたらされるのだ。
 妹に抱きしめられる。
 猛は声を殺して泣いた。

 ▽

 お兄ちゃんが子供のように泣いている。
 あの時と似ているな、と背中をさすりながら思う。
 母が死んだ後、わたしは部屋に籠った。悲しみに暮れる娘を演じるのが面倒だったからだ。食事だけを運んでもらい、学校を休み、ネットサーフィンを楽しんでいた。
 しかし、空気を読まない人間がいた。猛だ。
 猛は部屋に上がり込み、「お前は悪くない」とわたしを抱きしめ、泣いた。なぜか、わたしが兄を慰める立場となった。
 正直、鬱陶しかった。しかしそれ以上に嬉しさがあり、わたしの胸は満たされていった。
 お兄ちゃんはやはり運命の人なのだ。そんな確信を深めていった。
 猛と出会う前、わたしはまだ中学生で、一目惚れ、というものを馬鹿にしていた。そんなものは少女漫画、恋愛映画の世界にしかない概念だと思っていた。だが、猛を見て、わたしは一目惚れという概念を完璧に理解した。ここまで自分の好みに合う男性とは、会ったことがなかった。この人が義理の兄になるのか、とわくわくして、危険な妄想をたくさんした。
 しかし、わたしのよくない考えは、母にあっさりと見抜かれた。母は、兄妹の仲を悪化させようと、さまざまな策を弄した。真奈が猛くんの悪口を言っていたわよ、と猛に嘘をついている場面に遭遇したりした。日に日に親子関係は悪化していった。
 いつしか母は、猛の前で色気を出すようになった。何を考えているのか、恥ずかしくないのか、と罵ったら、母はあっけらかんと「何言ってるの? それ、あんたの妄想でしょ」と娘を嘲笑った。
 許せなかった。
 だから、死んでもらうことにしたのだ。
「もう帰ってこなくていいよ。一生、帰ってこないで。今日中に死んで」
 猛の前でそう言った。
 母は、真奈の言葉を忠実に守り死んでくれたのだ。
 神の力で人を殺したのは、その時が初めてだった。

 地元青森の自然公園で迷子になった時のことだ。わたしは神と名乗る存在と出会った。全身毛むくじゃらで、赤い目をしたそいつは、にんまり笑い、「あげる?」と訊いてきた。幼いわたしは、わけがわからないまま、「うん」と頷いていた。そう言わないと、命を奪われるのではないか、と感じていたからかもしれない。
「おいらと会ったことは誰にも言うなよ。どうしても言いたいときは捧げものをしろ」
 そいつが消え、わたしは大人に発見された。親と離れてからの体感時間は、三十分程度だった。しかし現実では、三日間もの間、わたしの姿は消失していたらしい。
 神から人を操る能力を与えられていた。理不尽な命令をして、それを聞いて実行した人間を、能力発動中に限り、人形のように操ることができるようになったのだ。理不尽であればあるほど、人形としては優秀な存在となった。逆に理不尽の度合いが低いと、応用の利かない人形となり、命令を実行させることが難しくなった。
 幼いわたしは、実験を繰り返した。おもちゃを与えられ、それで遊ばない子供はいないだろう。ちょっとした悪戯に使っていた。
 ある日、いじめをしている男子を操り、自傷行為をさせた。軽い気持ちで、悪を成敗しようと思ったのだ。しかし、実行して、痛みに悶える男子を見て怖くなった。それ以来、よほどのことがない限り、能力は使わないと決めた。
 その誓いは、母の件で破られた。
 母を殺してから、わたしの中で、ぱんと弾けるものがあった。
 なぜ、自分はこんな便利な能力を出し惜しみしてきたのか。
 この能力を使えば、猛だって自分のモノにできる。
 しかし、わたしは、猛に能力を使わなかった。
 猛には、素の状態で自分のことを好きになってもらいたかったのだ。
 猛は、母が死んでからというもの、わたしのことを気に掛けてくれるようになった。文芸部に所属していたらしいが、部活には出ず、ホームルームが終わり次第、家に帰ることが増えた。口には出さなかったが、家にいるわたしを心配してくれていたのだろう。
 優しいな、と感じた。
 しかし同時に、猛に対しては、大きな不満を抱えていた。
 わたしは猛のため、実の母を殺したのだ。それなのに猛は、そのことに気づこうとせず、のうのうと生きている。
 不公平だと思った。理不尽だと思った。
 不満を溜めていた時、転校生がクラスにやってきた。
 原田みだりという子だった。
 少し絡んでみて、すぐに嫌な性格をしているとわかった。自分が優位に立つためなら、平気で他者を馬鹿にして、傷つけるタイプだった。マウントを取るのが好きで、わたしが青森出身だと知ると、「よく熊に食べられず生きてこられましたね」と嗤われた。母の顔が重なるようだった。
 わたしは、「こいつを使ってやろう」と心に決めた。
 みだりを人形化するのは簡単だった。クラスメイトの財布を盗もう、と提案したのだ。わたしが盗み役をやるから、見張り役をお願い、と命じた。みだりは、面白そうだね、とすぐに応じた。予想以上に、倫理観が狂った子だった。実行したところで、みだりはわたしの人形と化した。
 みだりにはまず、人を操れる能力があると思い込ませた。それから、みだりは真奈のことが好きで、兄である猛のことをライバル視している、と思い込ませた。能力を発動している間は、その設定に忠実な言動を取ってくれた。
 真奈が設定したゴールは一つ。
 猛が、愛する妹のため、みだりを殺すことだった。
 わたしは猛のため、母を殺したのだ。
 ならば、猛も、手を血に染める必要がある。
 お互いが、お互いのために人を殺す。
 それこそが正しい関係性だとわたしは考えた。
 ゴールへの道は平坦ではなかった。
 わざと自分を追い込むようなダイエットや勉強をした。みだりとのツーショット写真を撮り、以前、飾っていた写真をすべて処分した。
 事態を大袈裟に見せかけるため、二人の人間も犠牲にした。桜坂ねねは、中学時代いじめの主犯格として同級生数名を、不登校に追い込んでいた。ターゲットにした理由はそれだ。会社員は、煽り運転の常習犯だった。ネットで実名と住所を晒されていたから、ターゲットにした。流石に死なせたのはやりすぎだったかもしれない。
 しかし、神のことを猛に話したから、誰かは犠牲にする必要があったのだ。
 すべては正しい兄弟愛のためである。立ち止まることはできなかった。
 唯一、未だに解せないのは、兄の同級生である黒川礼子の存在だった。
 どういうわけか、あの女はこちらが望んでいる方向に、猛を導いた。まるで、こちらの思惑をすべて見抜き、パスを出してくれているみたいだった。
 必要とあらば、礼子は消す必要があるかもしれない。だが、何となく、あの女とは関わるべきではないと感じた。足元をすくわれそうな気がするからだ。
 思考を断ち切り、髪を撫でる。
「……今度こそ、みだりを殺そうね」
 猛の背中を何度も擦りながら言う。猛は、赤ちゃんのように泣き続けていた。
 ――そいつが女を殺してくれたら、最高だな。
 不意に声が聞こえ、心臓が大きく跳ねる。
「え?」
 部屋を見回した。当然ながら誰もいなかった。
 幻聴だと自分に言い聞かせる。
 ――自分のために人を殺せとは、とんでもなく理不尽な命令だな。その命令を聞いたら、そいつ、最強の人形にできるんじゃないか。
 何を言っているのか、と心の中で反論する。兄を人形にするつもりはなかった。人間として、わたしのことを好きになってもらうのだ。好きな人を人形にするわけがなかった。自分はそこまで墜ちてはいない。
 ――別にいいだろ。好きな奴を人形にしたって。恋人にできるんだからな。
 心が揺れ動くのを、自覚する。
 自分はまともな人間だ。そんな、人道に外れるようなことはできない。
 待てよ、と呟く。
 気づくことを避けていた考えが、次々と、頭の中に湧いてくる。
 そもそもわたしは、母親を殺すような人間ではなかったのではないか。兄に色目を使うな、と言ったが、本当に母は、猛に色目を使っていたのだろうか。わたしの勘違いだったのではないか。勘違いでなかったとしても、能力がなかったら殺してはいなかったと思う。殺す手段がなければ、殺せないからだ。
 つまり。
「……考えちゃダメ」
 口の中で言葉を転がす。
 しかし、声とは裏腹に、思考があふれ出してくる。
 能力を与えられなかったら母は死ななかった。それ以降、わたしの考えで、人が死ぬこともなかった。猛が人を殺そうと追い込まれることもなかった。
 ふいに視線を感じて窓を見る。
 息が詰まった。全身から汗が噴き出る。
 黒い毛玉のような化物が庭にいた。赤い目を、こちらに向け、にんまりと笑っている。
 ――まだ足りない。
 黒い毛玉の化け物が言う。
 ――捧げろ。人を捧げろ。
 わたしは化け物を睨みつけた。
 神の話をしたのは、みだりと猛の二人だけだ。
 すでに、二人の人間を、そちらに捧げている。だから、消えてくれ。
 心の中で念じる。
 ――足りない。
 黒い毛玉が言った。足りない足りない足りない足りない、と繰り返す。
 わたしは表情を強張らせた。唇をわななかせる。
 人間の理屈が通用する相手ではなかった。全身が震え、涙が出そうになる。
 ――捧げろ、捧げろ、捧げろ。その男を使って、捧げろ。たくさん殺させろ。
「あ、あはは……」
 脱力する。
 わたしに能力を与えたのは、たくさんの人間を、捧げものとして送らせるためだったのか。
 今、わざわざ姿を見せているのは、すべて気づかせるためだ。
 お前は俺に踊らされていたのだと。
 更に体から力が抜けていく。
 最早、どうでもよかった。
 わたしはたぶん、気が変になっていたのだ。自分のしていることが、どういうことなのか、理解できていなかったのだ。
 人知を超えた能力に、狂わされてしまっていたのだ。
 もうすべて取り返しがつかない状況だった。
 わたしは一生、化け物に生贄を捧げる人生を送ることになる。
 兄を人形に変え、人を殺し続けるのだ。
 狂いながら。狂い続けながら。一人、堕ちていく。
「あはは……」
 視界が暗くなっていった。

 ▽

 いや。

 ▽

 まただ。

 ▽

 まだ終わりではない。

 ▽

 わたしは目を見開いた。
 猛は、まだ子供のように泣いていた。やはり好きだな、と情けない姿を見てさえ思う。
 わたしは兄を突き飛ばした。どん、と尻餅をつかせる。
「……は?」
 猛を唖然としていた。何が起きたのか、理解できていないらしい。
 わたしは立ち上がった。兄を見下ろして口を開く。
「さっきまでの、ぜーんぶなし! みだりは殺さなくていいから!」
 猛は何度も瞬きした。
「は、はぁ? な、なんだよ急に……」
 窓の外に目を向ける。神を自称する化物は消えていた。朝陽が差している。
「わたし、まだみだりに洗脳されてるみたいなの」
「え? そ、そうなのか……」
「洗脳を解くため、わたしの部屋へ言って、バットを振り回して。部屋をめちゃめっちゃにして。壁、窓、家具を壊しまくって。そうすれば、洗脳が解けるから」
 理解が追い付いていないのだろう。猛は目を白黒させていた。
「早く! 間に合わないくなるから! これ、命令だからね! 急げ!」
「わ、わかったよ」
 猛は慌てた様子でリビングを出て行った。防犯用のバットを持ち、わたしの部屋を、ぐちゃぐちゃにしてくれるだろう。
 命令を聞いてくれたら、お兄ちゃんを人形にできる。
 お兄ちゃんから記憶を取り除ける。わたしとの記憶をすべて消すことができる。
 みだりの記憶も改ざんするつもりだった。忘れさせるには、声で命じる必要がある。直接会うのが一番だが、電話やボイスメッセージで命じることもできた。自分の能力さえあれば、難しいことではないだろう。
 もちろん、忘れさせたからといって、何一つ現状は好転しない。わたしの罪は消えない。
 単なる自己満足だった。
 でも、それでいい。
 どうすれば責任を取ることができるか。どうすれば現状を少しはマシな方向に持っていけるか。明確な答えがあるわけではなかった。
 だが、いずれ必ず答えを出すつもりだった。その模索に、猛を付き合わせるつもりはなかった。
 当然、あの化け物を介入させるつもりもない。
 自分の罪は、わたし一人で清算するべきものだ。
 能力を与えられたからこうなった、というのは逃避だ。言い訳でしかない。
 すべてわたしの判断で行った。それは、絶対に覆してはならない事実だった。
「見てるか、化け物」
 いずれわたしは、自らの手で命を絶つだろう。でもそれは、今ではない。
 ――考え直せよ。
 また声が聞こえた。
 わたしは窓の外に中指を立て、「おとといきやがれ」と叫び、口を大きく開け、ふてぶてしく笑った。
 

円藤飛鳥

2023年08月13日 23時57分42秒 公開
■この作品の著作権は 円藤飛鳥 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:そいつは神を自称した
◆作者コメント:間に合わないかと思った……。好きな要素を、いろいろと詰めました。よろしくお願いします。

2023年08月27日 21時52分03秒
作者レス
2023年08月27日 18時24分59秒
作者レス
2023年08月26日 14時57分05秒
+20点
2023年08月25日 18時21分09秒
+20点
2023年08月24日 21時18分08秒
+10点
2023年08月21日 08時14分14秒
+30点
2023年08月18日 14時44分44秒
+30点
2023年08月18日 00時14分20秒
+10点
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