長い長い道の先には

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『私、サプライズって嫌いなんだよね』

 妻の千里(ちさと)がそう言ったのは学生の頃、付き合い始めてすぐだった。
 その当時の、「サプライズこそ真の愛」とも言いたげな風潮には乗ってくれるなよ、という牽制だったのだと思う。万事不器用で、その上嘘が顔に出るタイプの僕にはありがたかった。
 その後何度も訪れた互いの誕生日や記念日、季節のイベントなんかをサプライズ演出なしでこなした後、僕は彼女にプロポーズした。
 プロポーズくらいは少しは驚いてほしくて、こっそり準備を進めていたつもりだったが、全部顔に出ていたらしい。「バレバレだよ」と、内緒で購入したせいで少し緩い婚約指輪をはめて、千里は笑っていた。

 そんな彼女が、今、激怒している。

『こんなこと、許せない。いきなりすぎる。ひどすぎる!』

 その言葉を最後に、千里は僕のほうを向いてくれなくなった。いくら声をかけても、ひたすら謝っても、いい加減にしろ怒ってみても、ひたすら無視。家の中で、まるで僕などいないようにふるまうのだ。
 千里は、本来マイナスの感情をいつまでも引きずるタイプではない。お互いに怒鳴りあうような喧嘩も何度かしたが、大体はその日のうちに仲直りをして、翌日にはケロッとしていることがほとんどだった。そんな千里が、あんなに怒っているなんて……。重苦しい空気の晴れない家の中で、僕はもう何度目かわからないため息をつく。
 なにより問題なのは、千里がなにに怒っているのかわからないことだった。
 僕に向けられたあの言葉から察するに、僕が彼女を心底驚かせるひどい失態をしてしまったのだろう。けれど、思い当たる節がないのだ。千里と出会ってから十年近く。彼女の怒りのツボは抑えているはずなのに。
 毎朝作ってくれるお弁当がマンネリだと文句をつけたから?
 いや、それについては三日間僕が二人分の弁当を用意することで落着したはずだ。
 千里のお気に入りのカップでこっそり栄養ドリンクを飲んでいたことがばれた?
 いやいや、千里だって僕のビアグラスで牛乳を一気飲みしていたんだから、お互い様だ。
 毎朝毎朝、三回以上声をかけられないと起きないから? 
 うーん、「いい加減にしろ」と言われるかもしれないが、「いきなり」ではないよな。

 いいや、そんなことではないのだ。そんな些細なことではないなにかを、僕はしでかしてしまったのだ。
 なのに、それを思い出せないなんてどうかしている。

 僕は追い詰められていった。家の中の殺伐した空気に。僕を見ない千里の暗い目に。大切な人を傷つけておいて、その理由もわからない僕のダメさ加減に。

――………――………――………――………――………――………――………――………

 妻が口をきいてくれなくなってから、今日で一か月だ。理由はいまだにわからない。
 もう僕は限界だった。家に帰るのが怖い。
 千里の機嫌をうかがって、努めて明るくふるまって、あいさつは欠かさず、嫌味にならない程度のプレゼント。
 それに返ってくる、冷たい静寂。
 でもおそらく、限界なのは千里も同じなのだ。このひと月で、彼女はすっかりやつれてしまった。日に日に元気がなくなる彼女を見るのもつらい。なんとか、この状況を打開しなくては。
 今日こそは、千里と話し合おう。きっと僕が悪いんだ。彼女が嫌いなサプライズを、意図せずにやってしまったんだ。謝ろう。なにが悪いのかわかっていないことも含めて。
 僕のほうを見てほしい。なんでもいいから、声を聴きたい。
 決意を固めて、僕は玄関のドアを開けた。

「ただいまー」

 千里の返事はない。
 薄暗い玄関から、リビングの明かりが漏れているのが見えた。それと共に、鼻と胃袋をくすぐるいい匂い。僕の心にもポッと明かりが灯った気がした。
 いそいそとリビングに向かうと、湯気の立つ夕飯がテーブルに並んでいた。炊き立てのご飯にお味噌汁、小鉢の納豆。千切りキャベツが山ほど添えられた生姜焼きは、すりおろした玉ねぎがたっぷり入っている千里の得意メニューで、僕の大好物だ。条件反射のように腹が鳴った。

「千里、これ……」
「……春道(はるみち)くん、好きでしょ。食べてよ」

 千里は、僕に背を向ける形でテーブルに着いたまま、ポツリと言った。短い一言には、どこか懇願するような響きが含まれている。
 あぁ、やっぱり。千里も仲直りがしたいんだ!

「うん……うん! ちょっと待ってて。すぐ手を洗ってくるから!」

 僕は顔がにやけるのを抑えきれないまま、跳ねるようにして洗面所に向かった。大急ぎで上着を脱いで手を洗い、拭くのももどかしく感じながらリビングへ戻る。
 すると、千里は僕の分の食器を手に、キッチンに向かおうとしているところだった。

「あっためる必要なんてないよ。千里の作ってくれた生姜焼き、早く食べたい、な……」

 うきうきとして僕の言葉は、千里の手元を見て凍りついた。
 彼女は、まだ湯気の立つ生姜焼きをそのままゴミ箱に流し込んだのだ。

「……っ」

 動けない僕の目の前で、千里はご飯と小鉢も続けて捨て、みそ汁はシンクに流した。そして極めつけとばかりに、僕の汁椀を勢いよくシンクにたたきつけたのだ。
 スーッと血の気が下がっていくのを感じた。千里と仲直りがしたくてあれこれ手を尽くしてきたこの一か月間のことが泡のように浮かんできては、パチンとはじける。そのたびに頭の中が黒く染められていく。そんな気がした。
 長い髪に隠れて、千里の表情は見えない。今、どんな顔をしているのだろう。許された気になって、仲直りができると有頂天になった僕のことを嘲笑っているのだろうか。
 僕は、黒く染まった感情のままにこぶしを壁に叩きつけた。
 突然の大きな音に、千里の肩がビクリと揺れる。

「いい加減にしろよ。僕がなにをしたっていうんだ、はっきりを言えよ! そんな陰険なことする奴だったのか、お前は!」

 千里が振り向いた。怪訝そうな顔でこちらをまっすぐ見つめている。その表情は僕をさらに苛立たせた。

「なんだよ、そのとぼけた顔は。ふざけんな!!」

 もう一度壁を殴る。その拍子に掛けていた写真立てが落ち、ガラスの割れる派手な音がした。
 千里の表情が怯えに変わる。恐怖に染まった瞳が、僕と写真立てを何度も行き来した。唇はなにか言いたそうにわなないたが、声が漏れることはなかった。

 ――やっと僕を見てくれたと思ったら、こんな顔をさせてしまった。

 僕は家を飛び出した。
 怒りや苛立ちや、いたたまれなさに後悔。
 いろんな感情がないまぜになった腹を抱えながら、あてもなく夜の街を駆け抜けた。

――………――………――………――………――………――………――………――………

 家を飛び出してから数十分。あたりはすっかり暗くなり、群青色の空には細い月がかかっている。
 ぐちゃぐちゃの感情のまま走り続け、気がつけば僕は府内(ふない)駅まで辿り着いていた。
 府内駅はこの辺りでは一番大きなターミナル駅だ。最寄駅の二駅先にある駅だから、がむしゃらにそれなりの距離を走ってきたことになる。
 しかし、走って気分がスッキリするということはなかった。どんよりとした疲労感が身体中にまとわりつき、おまけに汗まみれの体が気持ち悪い。

(中は、少しは涼しいかな)

 僕は吸い込まれるようにフラフラと駅ビルの中に入っていった。
 まだ夜も浅い時間とあって、駅は人でごった返していた。帰宅途中の会社員、これからデートなのかめかし込んだ若者、すでに出来上がっている学生の集団、イベント帰りと思しき夫婦。心なしか、すれ違う顔がみな明るく楽しそうに見える。

(……そっか。今日は金曜日か)

 週末の始まりを謳歌しようとする人波の中で、自分だけが不幸のような気分になって、僕は駅に来たことを後悔した。
 ここには僕の居場所はない。
 かといって、家にもいられなくて飛び出してきたのだ。一体、どうしたらいいんだ。
 強いめまいを感じて、たまらず僕はその場にしゃがみこんだ。だというのに、駅を行く人々は足早で、僕には目もくれようとしない。ここでも無視されるのか。腹の底からおかしな笑いがこみ上げそうになった時だった。

「あの、なにかお困りごとですか? 大丈夫ですか?」

 後方から遠慮がちにかけられた声に、すっと体の力が抜けるような気がした。
 振り向くとそこにいたのは、平凡な印象の男だった。白いワイシャツにスラックス、首からかけたネームプレート。駅員にしては軽装だし、会社帰りのサラリーマンというには少し野暮ったい。しかし、僕と同じ三十代前半と思える彼の左目は白い医療用眼帯で覆われていて、そこだけ妙に浮いて見えた。

「あ……大丈夫、です」

 掠れた声でそう答えると彼は小さく微笑み、僕が立ち上がるのに手を貸してくれた。軽い立ち眩みがして足元がもつれる。

「っとと」
「もしよければ、向こうで少し休んでいかれませんか? 軽い脱水なのかも。なにしろ、この暑さですからね」

 そのセリフに警戒を示すよりも先に、彼は胸のネームプレートを僕に見えやすいよう持ち上げた。

「わたし、県の福祉事業所で働いている在月裕章(ありつきひろあき)と申します。毎週この府内駅で、出張福祉相談ってのをやってるんです。よかったら、どうぞどうぞ」

 その、人の騙し方なんて知りもしないような笑みに引かれ、僕は支えられるようにして在月の示すほうに歩いて行った。

――………――………――………――………――………――………――………――………

 在月に連れていかれたのは、僕がしゃがみこんだ場所から歩いて数分の、改札脇の小さなスペースだった。
 素行の悪そうな少年少女や、くたびれたホームレスなんかが座り込んでいるのを時々見かける、その薄暗い一角に、ちゃちな長机とパイプ椅子が三脚、そして『出張福祉相談』と書かれたのぼりが一本、頼りなく立っている。
 それでもプライバシーに配慮したのか、長机の後ろにはパーテーションに仕切られたスペースがあって、僕はそこでだらしなくパイプ椅子に身を預けた。

「はい、これどうぞ」

 在月が冷たいスポーツドリンクを差し出してくれた。

「ありがとうございます……あの、お金は」
「いいんですいいんです。経費で落ちますから」

 そういいながら、彼自身もペットボトルのお茶を口にする。つられるように一口飲んで、思いのほかのどが渇いていることに気が付いた。一気に半分ほど飲み干し、僕は大きく一息つく。

「ぷはぁ!」
「この暑さですからね。気づかずに脱水とか熱中症になってしまう方、多いんですよ。先月も駅構内で倒れた方がいて」
「そ、そうなんですね。その方、大丈夫だったんですか?」
「……亡くなったそうです。熱中症でふらついて、階段から落ちてしまったんですよ。お気の毒でした」
「そうですか。他人事ではないですね、お互い気を付けないと」

 在月は寂しそうな顔で頷いて、自分も椅子を出して僕の隣に座った。

「失礼ながら、先ほどのご様子は暑さのせいだけではないようにお見受けしました。なにかお力になれることはありませんか? 話をするだけでも、スッキリするかも」

 片方しか出ていない在月の右目は、心配そうな色を湛えている。人のよさそうな表情にほだされそうになるが、僕は口ごもる。

「でも……すごく、個人的なことだし」
「構いませんよ。その個人的なことにおせっかいをするのが、わたしたちの仕事ですから」

 優しい物言いに涙が出そうになるのを堪えながら、僕はたどたどしくこれまでの経緯を彼に話した。
 妻に無視をされていること。彼女をそうまで怒らせてしまった原因がわからないこと。家に帰るのが憂鬱で、なんなら恐怖さえ感じてしまっていること。

「つ、ついさっきは、千里が、妻が、僕の分の夕食を、す、捨てていてっ。僕がそこにいるの、わかってるはずなのにっ……」

 話をしているうちに感極まって、情けないことに鼻水まで出てきた。在月が差しだしてくれたティッシュで鼻をかみながら、僕は続ける。

「今まで、こんなことなかったんです。妻はあっさりした性格だし、僕も喧嘩は嫌いだから、こんな膠着状態に慣れてなくて。正直、もうしんどい。謝らせてもくれない、無視するばかりなら、何のために夫婦でいるのか……」
「くつろげるはずの自宅でその状態は、おつらいですね。話してくれてありがとうございます」

 在月の慰めにもう涙が止まらなくなって、僕は差し出されるままにティッシュを消費した。本当は縋りついて泣きたかったが、さすがにそれは耐えた。
 在月は時間をかけて待ってくれ、やがて僕の鼻をすする音が小さくなったころ、ゆっくりと口を開いた。

「奥様の態度の理由には、本当に心当たりがないんですね?」

 僕は首を縦に振った。。
 在月は口元に手を当ててしばらく考える風をしていたが、やがて顔を上げてまっすぐに僕を見た。
 通常の右目と、白い眼帯に覆われた見えない左目。歪なそれらに見つめられ、僕は一瞬たじろいでしまう。

「一度奥様と、第三者であるわたしも含めて、面談をしてみましょうか」
「め、面談?」

 思っていた斜め上の提案に、僕は素っ頓狂な声を出してしまった。対する在月は、至極真面目に「はい」とうなずく。

「で、でも。千里は、あ、妻は、僕の話を聞いてくれないどころか、無視してるんですよ? 話し合うどころか顔も合わせてくれないのに、面談なんて、どうやって」
「そこはわたしたちにお任せください。調整は得意分野です」
「いったい、なにを話したらいいんですか⁉」
「今わたしに語ってくれた、率直なお気持ちを奥様にもお伝えください。うまく伝えられるようサポートしますから」
「……千里は、来てくれるでしょうか?」

 僕の声は情けなく震えていた。在月は優しく微笑んで答える。

「大丈夫。私も尽力します。それにきっと奥様にも、伝えたい思いがあるはずです。それをしっかり聞くためにも、ぜひ会って話をしましょう」

 千里に会いたい。話をしたい。
 そう思う反面で、それをとてつもない恐怖に感じているのも事実だった。なにを言われるのか、千里は僕をどう思っているのか。千里の心の中に、僕はまだいるのか。それを確認するのは、今の僕にはとても恐ろしいことだった。
 それでも、僕は在月の提案に乗った。

「よ、よろしくお願いします」
「はい。では、早速ですが日程の調整を」

 在月は手帳を取り出してしばらく眺めた後、「月曜日はどうですか?」と訊いてきた。

「え、月曜日って、来週の?」
「えぇ。早いほうがいいんですが、明日明後日は残念ながら休日なので」
「それはそうですけど、そんなに早くできるんですか?」

 僕はともかく、これから千里にも連絡を取らないといけないのだ。彼女も仕事を待つ身で、もちろん月曜日は出勤のはずだ。
 僕の困惑をよそに、在月は妙に確信を持った様子で頷いた。

「はい、その日がちょうどいいですよ。大丈夫ですね?」

 僕は脳裏にスケジュールを思い浮かべようとする。しかし、急な事態への混乱もあったが、モヤがかかったようにはっきりとしなかった。
 しかし、今の僕に千里と話をする以上の大事はない。僕もまた、大きく頷き返した。

「では、場所はわかりやすいようにこの府内駅にしましょう。駅ビル内の貸し会議室をひとつ取っておきますので、19時にここに来てもらってもいいですか」
「わかりました」
「それから、苦しいでしょうが面談までは、奥様とは少し距離を置いたほうがいいかと思います。お互い頭を冷やすためにも。できますか?」

 その提案にも僕は同意した。正直、はっきりと言ってもらったことはありがたかった。人と話したことで少しは落ち着いたとはいえ、家に帰るのはやはり気まずいし、千里からの沈黙に再び爆発しない保証はなかった。
 話がまとまりかけたところで、ふと僕は思いつく。

「あ。そういえば連絡先、お伝えしていたほうがいいですよね」

 すると在月は、また柔らかな笑みを浮かべて首を横に振った。

「いえ、大丈夫ですよ。柏(かしわ)春道さん」

 それは間違いなく、僕の名前だった。

「あれ……僕、名前とか言いましたっけ。やだな、なんかボーっとしてて。暑さのせいかな」
「どうかお気をつけて。明々後日の月曜日、お待ちしてます」

 在月に見送られて、僕はその場を離れた。
 この週末をどこで過ごそうとか考えることは色々あったが、ひとまず、ぼんやりする頭に叩き込むように「月曜日、19時、府内駅」を何度も口の中で呟いた。
 在月の片目だけの視線が、背中を見守ってからるのを感じながら。

――………――………――………――………――………――………――………――………

 約束の日。
 僕は時間通りに府内駅にやって来た。あの場所に机とのぼりはなかったが、先日と同じ格好で在月が待っていた。

「こんばんは。よかった、いらしてくれて」
「こ、こんばんは」
「緊張してますか」
「そりゃ、もう。緊張というか、不安です。千里と、ちゃんと話ができるかどうか……」
「それでは、リラックスするためにも少し歩きましょうか。奥様が来られるには少し時間がありますから」

 最初からこのことを想定していたのだろうか、在月はごく自然にそう切り出し、屋上の展望公園に僕を誘った。
 月曜日ということもあって、公園に人はまばらだった。僕はベンチに座り、ようやく暗くなり始めた夏の空を見上げた。羽音が聞こえるほどすぐ近くをコウモリが飛んでいる。紫がグラデーションを織りなす空には、三日月とそれに寄り添う一番星が輝きはじめていた。

「きれいだな……」

 こんなにゆっくりと空を見上げたのはいつぶりだろう。もうずっと俯いていた気がするし、上を見たって美しいものに目を止める余裕はなかった。

「次は一緒に見たいな」
「奥様とですか?」

 思わず漏れた心の声は、アイスコーヒーを手に近付いて来た在月にしっかり聞かれてしまった。聞かなかったふりをしてくれればいいのに、と内心ボヤきながら、ありがたくコーヒーを受け取る。冷たい飲み物が体の中を通っていく感覚が心地よい。この感じも、ずいぶんと久しぶりな気がした。
 在月も僕の隣に座り、同じようにコーヒーを口にした。彼の左目は相変わらず白い眼帯に覆われている。

「その目は、ものもらいかなにかですか?」

 先日から気になっていたそれを尋ねると、在月は少し照れくさそうに笑ってそっと眼帯に触れた。

「昔、事故で失明してしまったんですよ。ただ完全に見えないわけではなくて、なんとなく明暗だけはわかるんです。目を開けていると、それが邪魔で。だからこうやって、隠しているんですよ」

 澱みのないその口調は、彼が今までこのことについて数えきれないほど説明してきたことを物語っていた。

「す、すいません。ズケズケと」
「いえいえ、誰でも気になりますよ、コレ。学生の頃はね、前髪を伸ばして左目だけ隠していたんですけど、社会人になったら流石にちょっと、ね」
「あー、ちょっとビジュアル系っぼく?」
「いやー、オタクっぽいと言われてました」

 僕は、左目だけを隠した髪型の在月を想像し、思わず吹き出した。笑うのも久しぶりだった。
 最後になにで笑ったのか、それは覚えていなかったが、そのとき確かに千里が隣にいた。それを思い出すと、今度は涙が出てきた。

「すいません、情緒不安定で……」

 子どものように鼻を啜りながら、僕は頼まれてもいないのに、千里との思い出を語り始めた。初めて出会ったときのこと、お互いに趣味が同じこと、初めてのデートや旅行、プロポーズに結婚式。二人での暮らし、家事の分担で大喧嘩したこと、くだらないことで笑いあえる幸せ。
 在月はまとまりのないそんな話を、黙って聞いてくれていた。
 ふと、場違いな電子音が鳴り響いた。在月は慌ててズボンのポケットを探る。そしてスマホを耳に当てながら、申し訳なさそうに肩をすくめて僕に背を向けた。
 その背中を見ながら、僕は感慨深いものを感じた。三日前にこの駅で彼に声をかけられていなければ、僕は一体どうなっていたんだろう。
 最悪の結果として、人生を悲観してあのまま電車に飛び込んだり、もっと最悪の結果として、凶器を片手に千里を道連れにしていたかもしれない。平時なら笑い飛ばしてしまうような妄想を実行してしまいそうになるほど、あのときの僕は追い詰められていた。
 そんな悪夢が現実にならなかったのは、在月のおかげだ。
 だから僕は、電話が終わってこちらを振り向いた在月に、深々と頭を下げた。

「こんなことになって……もう、離婚、しかないのかなって思ったりもしたんですけど。でもやっぱり、これからも千里と一緒に生きていきたいから。だからあのとき在月さんに会って、千里と話す機会を作ってもらえたのには、本当に感謝してますす。ありがとう。……って、いきなりすぎますよね、すみません、ほんと」

 僕が改めて礼を言ったことに、てっきり恐縮するかと思った在月は、しかし思いの外険しい顔つきだった。
 僕はふいに不安に駆られる。

「あの、なにか……?」
「今の電話は同僚からでした。奥様が、あと十五分ほどでここに来られるそうです」
「会議室じゃなかったんですか? あ、でもまぁ、ここの方が雰囲気がいいから話しやすいかもな」
「わたしもそう思います。ただ、柏さん。わたしはあなたに黙っていたことがあります。奥様が来るまでの間、それについてお話しさせてください」
「……なんですか?」

 僕は自然と身構える。在月の態度から、「僕に黙っていたこと」が嬉しいサプライズなどではないことは明白だ。
 うつむき加減で口を開こうとする在月の前髪が一筋、左目の眼帯の上にかかった。その様子を見て、さっき吹き出してしまった彼の学生時代の髪型の話題を思い出す。今度はまったく、笑いの訪れる気配はない。

「……覚えていますか。三日前にお会いしたとき、わたしが話した事故の話。府内駅内で熱中症のせいで階段から落ちて亡くなった方がいるから、気を付けてくださいね、と」
「? そういえば、そんな話をしましたっけ。それが、なにか?」
「それは、あなたです」
「え?」
「その、駅内の不幸な事故で亡くなった方というのは、あなたなんですよ。柏春道さん」

 僕の耳を、まるで風のように在月の言葉が通り過ぎていった。

「……はぁ? なにを言ってるんです? 僕が事故で死んだって……じゃあ、今あなたと喋ってる僕はなんなんですか」
「幽霊、というやつでしょうか」
「でしょうか、って。あんたねぇ」
「実はわたしは、そういうのがみえるタチなんです」

 言いながら、在月は眼帯をめくった。

「事故で視力をなくして、かわりに、他の人が見えないものがみえるようになったんです」

 彼の左目に傷や濁りはなく、一見すぐ隣の右目と変わらないように思えた。しかし、そうではないとすぐにギョッとする。その目玉は、おそらく在月の意思とは関係なく縦横無尽にぎょろぎょろと、上下の瞼の間を絶えず動き回っていたのだ。

「この目がみせる要らぬものを、見ずに済むように眼帯をしているというのが、本当のところでして」

 淡々と言いながら、在月は眼帯を元に戻した。

「とはいえ、わたしが福祉事業所で働いていることや、その一環としてこの駅で福祉相談をやっているっていうのは、本当です。柏さんには、失礼ながら黙っていたこともありましたが、お話ししたことに嘘はありません」
「…………」
「ま、毎週駅に来ていると、時々柏さんのような方もお見かけします。けっして、珍しいというわけでは……」

 自分でもおかしなフォローだと思ったのか、在月は途中で口を閉じた。

「すみません。わたしは、余計なことをしてしまったのかもしれません。でもあのとき、柏さんがとても困っているように見えたので、声をかけさせていただきました」

 在月は腰を九十度に曲げて頭を下げた。
 僕はなんだか気が抜けてしまって、ヘナヘナとベンチに座り込む。ベンチに置いていたさっき飲んだはずのアイスコーヒーは、ちっとも減っていないままカップの表面に大粒の水滴を溜めていた。

 ーーあぁ、僕はもう、本当にこの世のものではないのか。

「だ、大丈夫ですか、柏さん」
「……大丈夫もなにも。幽霊なんでしょ、僕。いまさら心配されたって」
「えっと、まぁ、そうなんですが」
「…………千里と、話をさせてくれるっていうのは。それは、本当なんですよね?」

 僕の問いに、在月は大きく頷いた。

「はい。先ほどの電話の通り、ここに向かっています」
「……じゃあ、いいや。それが本当なら、あとのことはもう、いいや」

 僕の言葉はずいぶん投げやりに響いたが、心中は自分でも驚くほど落ち着いていた。
 というのも、僕が死んでいる、というその事実は、妙に僕の腑に落ちだのだ。

「なんか、おかしいなって思ってたんですよ。千里があんなふうに僕のことを長期間無視するの。だって、そんな女じゃないもん。千里をそんなに怒らせるって、どんな悪事を働いたのかと思ったら、突然死かぁ。そりゃ怒るわ。最悪のサプライズだもんな」

 千里には当然、幽霊になった僕の姿は見えないし、声も聞こえない。その結果が無視となって、僕をこの一ヶ月間悩ませていたのだ。

「千里に、謝らなきゃ。驚かせてごめん、って」
「奥様は今日、もともとここにグリーフケアのために来られる予定でした。グリーフケアとは、近しい大切な人を亡くした心の傷を癒すためのものです。駅であなたを見かけて話を聞くうちに、お二人の関係に気がつきました。それで、騙したような形にはなってしまいましたが、この場を設けさせてもらったんです」
「……僕のせいで、千里を苦しめてしまったんですね。なんて謝ったら、許してくれるのかな……」

 そう呟いたときだった。視界の端に、二つの人影がうつる。前に立つ女性は、在月と同じネームプレートを首から下げていた。そしてその後ろからついてくる、俯き加減の小柄な姿は、

「千里」

 僕の小さな声は、当然彼女には聞こえていなかった。千里は在月に気がつき、躊躇いがちに頭を下げた。前に立つ女性が口を開く。

「在月さん、お連れしました。柏千里さんです」
「はじめまして、柏さん。在月と申します。今日はいらしてくださり、ありがとうございます」
「は、はい。あの、私……」

 千里は言い淀み、キョロキョロと辺りを見回した。
 僕を探しているのだ。そう気づいた途端、両目から涙が溢れてきた。

「あの、夫に、会わせてくれるって……本当ですか⁈」

 千里の声が切羽詰まって響く。彼女の目にも涙が溜まっていた。

「私、夫に、春道くんに謝りたくて。あの日、朝から体調が悪そうなのに気がついていたのに、なにも言わずに仕事に行かせたんです。あのときなにか一言でも彼を気遣っていたら、きっとこんな結果にはならなかった! それに、病院で亡くなる直前にも、酷いこと言っちゃって……だって、し、死んじゃうなんて、あんまり急過ぎて。春道くん、きっと怒ってる。あ、謝らせて……」

 千里は一気に捲し立て、ワッと顔を覆って泣き出した。隣にいた女性が優しく背中をさする。
 僕も同じく千里を慰めようと近づいたが、差し出した手は彼女の肩に添えられることはなく、空を掻いたような感覚だけが残った。
 呆然とする僕の手を、在月が左手がそっと握った。彼の眼帯は取り払われていた。
 在月は空いた右手で千里の手を握る。在月を見上げた彼女はその左目にギョッとしたように目を見開いたが、すぐに目の前の異変に気がついたようだった。

「え……は、春道くん?」
「千里」

 千里の、涙をいっぱいに湛えて湖面のようななった瞳に、たしかに僕の姿が映っていた。
 湖はすぐに決壊し、涙が止めどなく溢れてくる。それは僕も同じことだった。

「春道くん、はるみちくん」
「千里。千里、ごめんな。驚かせてごめん。勝手に死んでごめん」
「わ、私こそ、ごめんなさい。酷いこと言っちゃった。本気じゃないの、あれが最後だなんて、思いたくなくて」
「うん、うん。わかってるよ」
「あのね、好きな生姜焼き、作ったの。春道くんに食べてほしくて。でも、すぐ虚しくなって捨てちゃった。だ、だって、春道くん、もういないんだもん」
「うん、ごめん」
「あ、あなたがいないと、ご飯が減らないの。毎日寂しくて、寒くて、悲しくて、つらいの。ねぇ、ねぇ。なんで……っ」

 千里はそこで言葉を区切り、唇を引き結んだ。大きく深呼吸をし、涙に濡れた顔をまっすぐ上げて、僕を見た。

「違う。こんなことを言いたいんじゃないの。あのね、春道くん……」

 言いかけた彼女の唇に、僕は人差し指をそっと添えた。僕から先に言いたかった。

「千里、愛してる。結婚してくれて、僕と人生を歩んでくれてありがとう。この先もずっと一緒に生きていきたかったけど、ごめんな。先にいって待ってるから、僕が退屈するほどゆっくりおいで。土産話、たくさん持ってこいよ」
「春道くん……」

 千里は何度も頷き、子どものような仕草で涙を拭ってから、無理やり笑ってみせた。

「私も愛してる。でも、私は寿命をまっとうさせてもらうわ。春道くんが驚くほど、長生きしてやるんだから」

 それはなにより、僕が千里に望むことだった。
 ホッとすると同時に、急に体が軽くなる感覚に襲われた。直感する。これが本当に最後なのだ。
 僕は、僕の手を握る在月の手に力を込めた。

「在月さん、あなたのおかげで最後に妻と話ができました。本当にありがとうございます」
「いいえ。お力になれたのなら、わたしも嬉しいです。柏さん、さようなら」

 在月の言葉にあわせて、千里を連れてきてくれた女性も頭を下げる。僕も負けじと、深々と三人にお辞儀をした。
 感謝と別離と愛情を、ありったけ込めて。

――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………――………

「……いってしまった、んですか?」

 柏千里は、呆然として呟いた。
 つい先程まで、信じられないことが起こっていた。一月前に死んだ夫が目の前に現れ、あまつさえ言葉まで交わしたのだ。
 千里は、前にいる二人の男女を交互に見る。福祉事業所の職員だという彼らは、とうていその職域とは異なる所業で、彼女とその亡き夫を邂逅させたのだ。

「あなたたちは、いったい……?」
「福祉職員の、在月です。出張相談もしてますので、お気軽に声をかけてください」
「同じく、尾崎(おざき)早苗(さなえ)です。私はカウンセリングも担当しております」

 二人は穏やかに微笑む。

(これ以上は、詮索するなということかしら?)

 思わず笑顔の裏が気になるが、しかし二人がなんであれ、千里にとって大切なのはただひとつ。

「あなたたちのおかげで、二度と会えないと思っていた夫に会えました。もう伝えられないと思っていた気持ちまで伝えられて……感謝の言葉もありません。本当に、ありがとうございます」

 先ほど夫の春道がそうしていたように、千里も深々と頭を下げた。

 胸はまだジクジクと痛むし、一人きりの家に帰るのは怖い。ふとした折に流れる涙は、これからも何度も頬を濡らすだろう。
 それでも、もう自分は大丈夫だ。何度うずくまったって、またきっと立ち上がれる。
 大好きな人が、長い長い道の先で待っていてくれるのだから。

 すっかり紺色に染まった夜空では、三日月とそれに寄り添う一番星が、金色の輝きを祝福のようにあたりに振りまいていた。
カイト rolkyM0VKM

2023年08月13日 15時55分29秒 公開
■この作品の著作権は カイト rolkyM0VKM さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:妻が僕を無視する理由がわからない
◆作者コメント:久しぶりにまとまった量の作品を仕上げることができました。どうぞご笑覧ください。

2023年09月01日 23時02分22秒
Re: 2023年09月03日 01時09分26秒
2023年08月26日 23時37分06秒
+20点
Re: 2023年08月27日 23時05分06秒
2023年08月26日 20時17分51秒
+10点
Re: 2023年08月27日 23時04分08秒
2023年08月26日 04時27分07秒
+30点
Re: 2023年08月27日 22時56分57秒
2023年08月25日 18時20分27秒
+30点
Re: 2023年08月27日 22時52分22秒
2023年08月22日 06時41分43秒
+30点
Re: 2023年08月27日 22時50分42秒
2023年08月20日 19時36分24秒
+10点
Re: 2023年08月27日 22時49分33秒
2023年08月19日 13時46分48秒
+20点
Re: 2023年08月27日 22時48分10秒
2023年08月18日 01時53分55秒
+20点
Re: 2023年08月27日 22時46分26秒
2023年08月16日 19時27分43秒
+30点
Re: 2023年08月27日 22時41分45秒
合計 10人 200点

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