青空病

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 十九世紀の哲学者ジョン・カービー曰く、空は鮮やかな透き通るような青色で、そこには白い綿のような物体が常に漂っているのだという。
 信じられない話だ。
 我々一般人には濁った乳白色にしか見えていない『空』が、カービーにはそんな風に見えているらしかった。そしてカービーはそれこそが本当の空の姿であり、そうは見えない者の方が間違っていると、そう主張した。
 何が正しいのか、何が狂っているのかなんて、誰にも分からない。
 自分には空は青色にしか見えないのだから、自分にとっておかしいのはそう見えない他者の方で、自分ではない。カービーはそう考えたのだ。
 カービーは本心から空が青色に見えているようだった。どうしてそう見えてしまうのか。目がおかしいのか頭がおかしいのか。当時の心理学者達はカービーの症例を、『青空病』と呼んでいたそうだ。
 『青空病』にかかっていないぼくらまともな人間にとっては、空は白くて薄い被膜のようなくすんだ色で、もちろんそこには何も漂っていない。太陽なんて遠く離れた場所にある天体やその光が、目視で確認できたりはしない。ただ何となく感じる眩しさで、どのあたりに太陽があるかが分かる程度だ。夜になると空はただ黒く変化するばかりで、太陽よりも遥か遠くにある星が散りばめられて見えたりはしない。月が目に見えるようなことも、もちろんない。
 実際のところ、歴史上カービーと同じような空の見え方をする人間……すなわち『青空病』の患者と認定された者は、ただの一人も見付かっていない。
 しかし困ったことに、ぼくの周りにはそんな『青空病』にかかっているらしき人間が一人いて、それは隣に住んでいる幼馴染だった。

 〇

 幼稚園の時、物部穂乃花(もののべほのか)は画用紙に空を青色で描いた。野を駆け回る動物達の頭上に、水色のクレヨンで塗りつぶした空を描き、そこに白い綿のようなものを散りばめて見せた。
 子供が妙な絵を描いた如きこと、周囲の大人たちが気に掛けることはなかった。しかし物部と良く話をするぼくは、彼女が本当に空をそんな風に見ていることを知っていた。
 もちろん、ぼくには空はミルク色に見えていた。どちらの見え方が正しいのか、口喧嘩という訳ではないが論争めいたことをしたことは何度もあり、押しの弱い性格の物部はその度にぼくにやり込められて落ち込んでいた。
 小学生に上がると物部のその認識の歪さはさらに浮き彫りになり、気味が悪く思われたり、仲間外れにされたり、場合によってはいじめのようなものに発展することもあった。
「おまえさ。どうして空が青く見えるなんてこと、わざわざ口に出して言うことないだろ」
 物部をいじめていた連中を追い払った後、ぼくは彼女の為に物部にそう助言した。
「だって、本当に青く見えるんだもの」
「それを意固地になって口に出すからいじめられるんだろう? おまえに空がどう見えてるかは知らないけど、それは胸の中にしまっておけば良いだろうが」
 物部は悪い奴ではなかった。多少おっとりとしてすっとろいところもあるが、その分優しい性格をしていた。無暗に人を傷つけるようなことはせず、弱っている者を見るとまずは駆け寄ってやろうとする。
 だから空が青く見えるということも、強く訴えることをしなければ、そこまで大きなハンデにはならないはずなのだ。ある種の不思議ちゃんだと思われて、少々の失笑を買うだけで済むはずだった。
 しかし物部は、普段大人しい癖にこのことに関しては意固地なまでの偏執を見せた。顔を真っ赤にして『空は本当は青い! 濁った白色なんかじゃない! あなた達の方が間違っている!』と訴えるその様は狂信的でさえあり、その姿はやはりキモくて不気味で、客観的にも恐ろしいのだった。
「でも、わたしがちゃんと教えてあげなかったら、皆本当の空の色を知らない」
「……俺達とおまえとで、どっちが本当の空の色を見ているかはもう議論しないけど。でもじゃあ仮に、空が本当は青色だったとして、それを知らないことで俺達がどう困るっていうんだ?」
「分からない。でも、とにかくそれは良くないことのような気がする。取り返しのつかないくらい、良くないことに繋がる日が、いつか必ず来るような気がする。だからわたしは、皆に空は本当は青色なんだって言い続けてるの」
「それは毎日周りから気味悪がられて友達失くしてハブにされて、そんな風になってまですることなのかよ?」
「そうだよ。だってそれはわたしにしかできないことだもん。だからそれは」
 物部は酷く澄み渡った目をしていた。
「義務だと思う」

 〇

 結局物部は空が青く見えるまま、そしてそのことを人に強く訴えることをやめられないまま、中学生になる。
 中学生になった物部は綺麗だった。背は低いままだったが腰の位置が高く、華奢な体に似合わず胸も突っ張っていた。やや癖のある髪を肩まで伸ばしていて、目は大きくまつ毛は長く、鼻は小さめだが鼻筋がしっかりと通っていて、肌も真っ白なその顔立ちはどこか人形めいてすらいた。
 空が青色であることを皆に納得させるために、自分の見える世界を油絵にして表現するようになったのもこの頃だ。元々絵は飛び抜けて上手かったのだが、中学から入った美術部で良い指導者に巡り合ってからはその才能に磨きをかけ始め、コンクールでいくつかの賞を取る程になった。
 そんな物部との関係性は中学に上がってからも続いていた。それぞれの中学生活を精一杯生き抜きつつも、時々は顔を突き合わせて空の色やそれ以外の話をした。
 そして二年生になり、一年ぶりに物部とも同じクラスとなった。描き掛けの物部の絵に卑猥な落書きをした男子をぼくがぶん殴って警察沙汰になりかけたり、高校生との喧嘩に負けて線路の上で寝かされていたぼくを物部が街中練り歩いて助けてくれたり、色々なことが起きて春が過ぎて夏が過ぎた。
 そして二学期の最初の日の朝に、ぼく達のクラスに転校生が現れた。

 〇

 梨木・マルグリット・涼子はたいていの男子より高い上背のスレンダーな身体つきと、漆のようなストレートのロングヘア、ハーフということで青く澄み切った瞳と彫りの深い顔立ちを持つ美少女だった。誰にでも敬語を使って接するのは日本語に不慣れな為だと本人は説明したが、そのイントネーションは滑らかで、日本に来て数か月しか経っていないというのがとうてい信じられない程だった。
 そんな梨木はすぐにクラスの人気者になった。気さくで明るいながら上品な人柄と、文武両面に傑出した能力は、九月からの転校生であるというハンディを跳ね除けるのに十分すぎるものだった。
 梨木は誰にでも親切で接し方も限りなく公平だった。どんなに冴えない男子にも優しく丁寧に接したので、クラスの男の半数近くが梨木に惚れているのではないかと思える程だった。ぼくも何度か話をしたが、ものの見方が中学生離れしていて話も面白く、基本的には優等生ながら適度に砕けたところもあった。
 だがしかし、そんな梨木を初対面から恐れ、怯えた様子で距離を取り、時に遠巻きに警戒しきったような目で見ている女子が一人いた。
 物部だ。
「人間じゃないよ梨木さん。化け物みたいな姿をしている。皆にはそう見えてないだけで、本当は怪物なんだよ」
 そんなことを深刻な顔で、物部はぼくに打ち明けた。
「おまえには、梨木の奴が他の人間とは違ってみるのか? 空の色が俺達とは違って見えるのと、同じように」
「そうだよ。だってどう見ても化け物なんだもん。とっても恐ろしいし、気味が悪いよ」
「おまえには梨木がどんな風に見える?」
「本当の梨木さんは、ぬめぬめとした細長い、穴の開いてない真っ黒な管みたいなのが、ほつれた毛糸みたいにぐちゃぐちゃに絡まった、大きな玉みたいな姿をしている。触手の妖怪みたいなの。それがぬちゃぬちゃ嫌な音を立てながら、管をあちこちに伸ばしながら、床を這い攣って動いているの」
「おまえ、その話他の奴にしたか?」
「ううんしてない。でも、いつか話さなきゃいけないと思う。本当は、いつかとか言わず、今すぐにでも言わなきゃいけないんだろうけど……」
「やめろ」
 ぼくは物部の肩を掴んで、大きく澄み切った物部をじっと見詰めた。
「絶対にその話はするな。そんなことをして、おまえがクラスでどうなるか分かっているのか?」
「そうだけれど……。でも、このまま放っておくなんて、できないでしょ?」
「だからって、その為におまえの学校生活を犠牲にする義務なんてどこにもない」
「そんなことないよ。だってわたしにしかできないことなんだもの。それにわたし、昨日、見たの」
「何を?」
「物陰に潜んでいた梨木さんが、触手を伸ばして子供を襲うところ。五歳くらいの男の子をからめとって、本体の大きな触手の塊の中に飲み込んだんだ。わたし、怖くて怖くて、逃げるのが精いっぱいだった」
 そう言う物部の顔は青白く、声は震えていた。目には涙が溜まっていて、それらは今にもあふれ出しそうだった。
「最初はね。梨木さんとは、まず一対一で話をしようと思ってたんだ。見た目が恐ろしいだけで、邪悪な存在かどうかは分からないから。でも、昨日の出来事を見ちゃった以上は、もうそんなことも言ってられないから。皆にも、本当のことを話す」
 それから物部はぼくの制止も聞かず、自分から見える梨木の『本当の姿』を皆に訴えて回ってしまう。
 梨木は今度こそ完璧に孤立して、陰口や嫌がらせに耐えながら、自分の席でただ俯いているだけの学校生活を送るようになった。

 〇

 空が青く見えるというだけなら、それ自体は人を傷付けることのない主張だし、妄言だとしても害のない類の妄言だ。いくらかその主張はしつこいものではあったとしても、そもそも本人の人柄が無害だったこともあり、中学に上がってからは鬱陶しがられて疎外されるだけで済んでいたのだ。
 それが今では、梨木というクラスの人気者をどうしようもない妄想で誰とも構わず悪く言い続けた為に、そんな物部を誰もが軽蔑するようになった。
「いくら不思議ちゃんキャラをやりたいからって、他人を傷付けるようなことを言っちゃダメよね? しかもその相手が寄りにもよって梨木さんだなんて……あれって僻みなのかな? 物部さんって陰キャだから、梨木さんのことが羨ましいのかも」
 梨木の取り巻きである女子達の態度は特に冷ややかだった。物部が梨木について何か言う度、彼女らは物部を黙らせようと寄って集り、集中砲火を浴びせかけた。
 だが気が弱い癖に妙に意固地なところのある物部は、それで引き下がったりはしなかった。
「だって、梨木さん、本当に妖怪みたいな姿をしてるんだよ。わたしには見える。子供を食べるところを、見たこともあるの」
 それから物部はあろうことか梨木の『本当の姿』を描いた画用紙を、彼女たちの前に提出してしまう。ぬらぬらと輝く光沢のある触手の塊の奥から、青白い単眼が薄っすらと覗いている様は、見ていてぞくりとする程のリアリティがあった。
「皆には見えていないかもしれないけれど……梨木さんは本当はそんな姿をしているの。どうか信じて。梨木さんをそのままにして置いたら、きっといつか恐ろしいことが起こるに違いないから」
「あんたさぁ……。アタマ、おかしいんじゃないの?」
 そう言って、取り巻き達は物部から渡された怪物の絵を、無造作に床に捨て、踏みにじる。
「あんたがどんな妄想をしてようと、それ自体は自由だと思うよ? でもさ、それは自分の中か、最悪でも本当に親しい友達の間でだけ留めておくべきなんじゃない? それを本人にも聞こえるような場所で、こんな絵まで他人に見せて色んな人に吹聴したらさ、それってやっぱり最低だよ」
「妄想じゃない。本当に梨木さんはこういう姿をしている。何かが起きてからじゃ遅い」
「……一回痛い目見ておく? 中庭、来ようか? やって良いことと悪いこと、教えてあげるから」
 そう言って取り巻きの一人が物部の腕を掴んだのを見て、止めに入ろうとぼくが立ち上がった時、凛とした声が教室に響いた。
「やめてください」
 梨木だった。梨木はその青い瞳で窘めるように取り巻きを一瞥した後、物部に視線を注ぎつつ、優し気な口調で言う。
「不思議少女というのはどこにでもいます。ドイツの学校にいた時にも、そう言う子は常にクラスにいました。ワタシ達中学生の心はとても未成熟で、とても危うい作りになっていて、現実と妄想の区別がつかなくなることも良くあるんです。それを悪戯に断罪するのは必ずしも良いことではありません」
 すべらかなその口調は、とうてい日本語が不慣れなようには見えなかったし、またぼく達と同じ中学生であるようにも見えなかった。
「でも梨木さん。あなた、こんな絵まで描かれて毎日悪く言われてさ……嫌じゃないの?」
「一番苦しんでいるのは物部さんです。彼女に悪意がないのは見ていて分かりますし、憎む気持ちにはなりません。それに、彼女がどれだけワタシを化け物だと言っても、信じる人は一人もいないでしょう。だから、彼女が何を言っても、こんな絵を描いたとしても、それは意味がないことなのです」
 そう言って、梨木は席から半分腰を浮かしながらやり取りを見守っていたぼくの方に視線をやり、ぞっとするほど耽美な微笑みを浮かべて、言った。
「あなたもそう思いますよね?」
 唐突に水を向けられたぼくは、梨木や取り巻き達の視線に交じって、物部までもがぼくの方をじっと見つめているのに気付く。
 縋りつくようなその視線に、ぼくは心臓を引き絞られるような気持ちになりつつも……確かな意思でこう答えたのだった。
「そう思う」
 ……物部は良い奴だ。ぼくはそのことを良く知っている。
 ……空が何色だろうと梨木が何者だろうと、それはそんな物部がこんな吊し上げのような目に合ってまで、強く主張し続ける意味があるとは思えない。
 だがしかし、その答えによって、物部の澄んだ瞳に備わっていた気高い光が掻き消えたのを、ぼくは目の当たりにした。

 〇

 それから物部は学校に来られなくなり、家で引き籠るようになった。
 ぼくは何度か物部の見舞いに家を訪れたが、彼女は完全にふさぎ込んでしまっているらしく、会うことはままならなかった。
 物部に拒絶されたことにぼくは若干のショックを覚えつつ、自分に何か落ち度があったかと思いを巡らせた。苦しみながら一人戦っていた物部にもっと明確な形で味方してやるべきだったのか、怒鳴りつけてでも妄言をやめさせるべきだったのか。それとも。
 街ではいくつかの失踪事件が起こっていた。老若男女問わず、様々な人が何の痕跡もなく唐突にいなくなるというのだ。と言っても明るみに出ている失踪者の数は然程でもなく、中学でも集団下校が敷かれることは今のところなかった。
 そんなある日の放課後、特に明確な理由もなく仲間とつるむ気が起きなくなっていたぼくは、一人当てもなく街をふらついていた。
 そこで、梨木の姿を見かけた。
 小学生の頃仲間と悪戯で入って遊んでいたこともある、廃墟ビルの前を通った時だった。ビルの屋上の淵の方に立つ人影に気付いて目を向けると、それが梨木の姿であることが分かった。
 ぼくはビルの階段を登った。
 屋上に出る。梨木は何やら指同士を組み合わせて手を合わせ、濁った乳白色の空に祈りを捧げていた。目を閉じて静止したその姿は如何にも敬虔で一途で、祈りを捧げること以外のあらゆることを気に留めていないかのようだった。
「何をしてるんだ?」
 微動だにしない梨木にそう声をかけると、彼女はこちらを振り向くこともせず、声を掛けられたことに驚いた様子もなく、ただ淡々とした様子で
「我々の神に讃美歌を捧げているのです」
 と澄み切った声でそう言った。
「梨木は神を信じているの?」
「はい。ですが、それはあなたの思う神とは異なります」
「それは、日本とは異なる宗教における神って意味?」
 梨木は転校して来る前はドイツに住んでいた。
「いいえ。地球上の、どの宗教が創り出した神とも、我々の神は異なります。その姿も、成さんとすることも。何より異なるのは、それが空想上の存在ではないということです。今もこの空の上で、揺り籠にくるまりながら目覚めの時を待っているのが、はっきりと目に見えます」
 言っている意味が分からない。それがただの電波発言なのか、或いは物部のように心の底から信じ込んで口にしていることなのかを測りかねていると、梨木はおもむろにこちらを振り向いて、青い瞳で俺を見竦めながら問うた。
「あなたは物部さんのいうことを信じていますか?」
「信じていない」
 ぼくははっきりとそう答えた。そして
「でも、物部という人間のことは、信じている」
 続けてそう言った。これもまた、本心だった。
「そうですか」
 梨木は今度は目を開けたまま首を上向けて、乳白色の空に向けて目をやった。くすんで濁った、世界を覆いつくす白い膜のようなその空の色は、物部のような特殊な目を持っている人間以外には見慣れたものだった。
 梨木は言う。
「綺麗な空ですね」
「どこが?」
 そんな風に思えたことは一度もない。そんな風に言う人間も、ぼくは他に一人しか知らない。
「綺麗ですよ。今に分かります。あなたにも。他の人たちにも」
 梨木は再び空に向けて両手の指を組み、祈りを捧げ始める。
 敬虔なその姿に、ぼくは冷やかすようにこう言った。
「またそれをやるの? 神様にお祈り?」
「祈りではありません。讃美歌を捧げているのです」
「讃美歌って?」
「聞きたいですか?」
 そう言って一瞬目を開けて、耽美な微笑みをこちらに向けた梨木の表情は、どこか邪悪でもあった。
「耳を澄ませてください。あなたにも、聞こえるようにしてあげましょう」
 口を噤んだまま、何も声を発さないまま、しかし確かに、梨木はその歌を歌い始める。
 それは人間が出しているとは思えない、そもそもこの世の者が出しているのとは思えない声だった。それは声のようで声ではなく、音のようで音ではなかった。しかし確かにその歌はぼくの耳に聞こえ、ぼくのアタマの中でおぞましく反響した。
「いあ! いあ! くとひゅーるひゅーふたあぐん! いあ! いあ! くとひゅーるひゅーふたあぐん! いあ! いあ! くとひゅーるひゅーふたあぐん! いあ! いあ! くとひゅーるひゅーふたあぐん! いあ! いあ! くとひゅーるひゅーふたあぐん! いあ! いあ! くとひゅーるひゅーふたあぐん! いあ! いああ!」
 それを歌っているのは間違いなく梨木であるにも関わらず、どうしてかそれは自分の魂の奥底から響き渡っているかのように感じられた。全身を震わせ心臓を凍り付かせるような、恐ろしい声であり音だった。或いはそれは声でも音でもなかった。一つ確かなのは、そんな歌を歌える梨木が人間でないということだった。
 あまりの恐ろしさに、ぼくは慌てて階段を駆け下りた。

 〇

 ビルを降りたぼくは、身を震わせながら街を走り回った。
 梨木の歌が頭から離れなかった。梨木の歌から逃れる為に、ぼくはどこへともなく走り続けて居なければいけなかった。どこにも逃げ場がないことを知りながら、必ず追い付かれることを知りながら、いや、既に追い付かれて取り付かれていることを知っていながら、それでもぼくは逃げ続けるよりどうしようもなかったのだ。
 小学生の頃良く物部と遊んでいた公園を、ぼくは走っていた。その時だった。
 携帯電話が鳴り響く。その音に正気に戻ったぼくは、震える指先で携帯電話を取り出した。
 物部からだ。ぼくは電話を出る。
「何だ?」
「今家に来られる?」
 物部の声は焦燥に満ちていた。
「すぐに行く」
 ぼくは物部の家に向かった。
 物部の家は共働きで、この時間は共に出払っていた。チャイムを鳴らすと、久し振りに合う物部が顔を出す。物部は引き籠る前と比べて、若干やつれているようだった。
 物部はぼくを自室へと案内する。そして窓を指さしながら訪ねた。
「空に何か見える?」
「何も」
 そこにはいつもと同じ乳白色の空しか見えない。ぼくはずっと信じて来た、信じているはずの空の色が。
「おまえには何が見える?」
 そう尋ねると、物部は僅かに視線を俯かせて、声を震わせながらこう言った。
「大きな繭が……。大きな白い繭が、空に浮かんでる」
 物部の表情は恐怖で蒼白になっていた。
「ここからじゃ見えないくらいに細い糸でぶら下げられているのか、それとも何か超常的な力で浮遊しているのか、それは分からない。どんなに大きな雲よりもそれは大きくて、中に何かが眠っているみたいに、時々震えたり、蠢いたりする。そしてその中にいる『何か』の動きは、どんどん激しくなっているの」
「それはいつから見える?」
「昨日の昼くらいから」
「それは誰かに言ったか?」
「お父さんとお母さんに。でも、バカなことを言うなって𠮟られちゃった」
 物部は拳を震わせながら言った。
「いつか、あの繭の中にいる邪悪な何かが、繭を突き破って出て来るような気がするの。それが起こるまで、もう何日もないかもしれない。もしかしたら、次の瞬間にもそれは起こるのかもしれない。そうなった時に起こることは……多分、もう取り返しの付かないような、この世の終わりみたいなこと」
 言いながら、物部は膝を着いて座り込み、頭を抱えて蹲った。そして錯乱したかのように、己の頭をかき回しながら、のたうち回るように物部は嘆き叫ぶ。
「このままじゃ世界が大変なことになる! でも皆はそれを知らないから止めようがない。……わたしが悪いんだ。わたしがもっときちんと、信じてもらえるように説得できなかったから。わたしの見る世界が本当だって皆に分かってもらえていたら、梨木さんのことも、あの繭のことも、きっと皆に信じて貰えた。わたしが……わたしが! もっと、もっとしっかりしていたら。頑張れていたら!」
「違う!」
 ぼくは強い口調で言った。
「おまえは十分頑張ったよ。たった一人で、できる限りのことをしたよ。誰から何を言われても、信じてもらえなくても、ずっと一人で戦って来たんだ。おまえ、強いよ。すごいよ」
 俺はそう言って、蹲る物部の隣に座り込み、肩を抱いた。そして背中を撫でてやり、彼女が落ち着くまで優しく声をかけ続けた。
「本当に、その繭っていうのは、今にも破けて中から何かが出てきそうなんだな?」
「そう。それはとても邪悪なもの。わたし達から何もかもを奪うもの。この世界を壊すもの」
「今からそのことを皆に知らせても、間に合わない?」
「多分。それに、きっと信じてもらえない」
「分かった。じゃあ、この街から逃げよう。俺達、二人だけで」
 それしかない。ぼくは物部にそう告げた。
「でも……それだと他の皆は」
「仕方がない。おまえは良く頑張った。できる限りのことをした。それでも皆信じなかった。だったらおまえは悪くない。本当の世界を見ているおまえが逃げるのは当然だ」
 ぼくは物部を説得し、一緒にこの街を逃げることを了承させた。
 物部は自転車を持っていた。ぼくはそれに乗り込み、後ろに物部を乗せる。
 ぼく達は二人乗りした自転車で、街を走り始めた。
 相変わらず、空はくすんだ乳白色をしている。何か生き物の白い胃袋のような、生々しく気味の悪い色だ。それが澄み切った青色であるようには、ぼくにはどうしても見えない。
 しかしぼくは梨木の歌を聞いた。異形にしか歌えないはずの、邪神へのおぞましい讃美歌を。
 何故それを梨木がぼくに聞かせたのかは分からない。もっと言えば、あの二人しかいない屋上で、どうとでも出来たはずのぼくのことを、梨木が見逃した理由も分からない。
 だがおそらく理由なんかないのだ。ぼくは思った。
 足元を這いまわる虫けらを踏み潰すのに理由がないのと同じで、踏み潰さないことにも理由なんてないのだ。どうとでもできるゴミクズ一匹、まともに相手をしてやる道理はない。そしてそれは、梨木が物部のことを殺さなかった理由にも、おそらく通じている。
「ねぇ。わたし達、逃げ切れるのかな?」
 物部が怯えたような声を出す。
「分からない」
 ぼくは言う。
「それでも逃げるんだ。とにかく逃げるんだ。俺達にはもう、それしかできないんだ」
「ねぇわたし。怖い」
 物部はぼくの背中にしがみ付く。その声は涙に濡れている。
「俺だって怖いよ。だけど、俺達は決して一人じゃない」
 ぼくは精一杯に答える。
 自転車を漕ぎ続けながら、ぼくは心の中では、背中に感じる物部の体温や息遣いに、震える体で縋りついていた。
粘膜王女三世

2022年04月30日 02時52分02秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:何が狂っているのかなんて、本当は誰にも分からない。
◆作者コメント: 知っている人には明らかだと思いますが、作中に登場するあるフレーズは、有名なアレから拝借しました。
 拝借したのはあくまでもフレーズだけであり、その設定や作中での扱いは本家とは異なります。二次創作厳禁というルールがこの企画にはありますが、最早アレに登場する固有名詞やフレーズ等は、ゼウスとかルシファーのようなパブリックな代物で、それを流用するだけのことを二次創作と呼ぶことは今更ないと思っています。
 それでは共に掌編企画を楽しみましょう。

2022年05月14日 23時45分09秒
+10点
Re: 2022年05月20日 21時37分13秒
2022年05月14日 10時06分01秒
+10点
Re: 2022年05月20日 21時37分46秒
2022年05月14日 02時18分05秒
+40点
Re: 2022年05月20日 21時38分19秒
2022年05月13日 01時45分17秒
+30点
Re: 2022年05月20日 21時38分38秒
2022年05月10日 22時04分43秒
+20点
Re: 2022年05月20日 21時39分01秒
2022年05月10日 20時05分04秒
+20点
Re: 2022年05月20日 21時39分41秒
2022年05月05日 11時44分40秒
+20点
Re: 2022年05月20日 21時41分09秒
Re:Re: 2022年05月21日 13時10分24秒
2022年05月02日 21時51分49秒
+10点
Re: 2022年05月20日 21時41分43秒
2022年05月02日 07時46分36秒
+20点
Re: 2022年05月20日 21時42分44秒
合計 9人 180点

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