始まりの町ベルルにて

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 夏の日差しが、古びて所々欠けている石で出来た街道をチリチリと焦がし、陽炎がゆらゆらと空気を震わせる。べルルと呼ばれる町に続く一本道に、一人の少女がフラフラと歩いていた。暑さに悪態をつくかの如くうめき声を上げながら、一人黙々と歩き続けている。
 少女は小柄な体格に比べて大きめの、ベージュ色をしたフードを目深に被り、その隙間からは赤い髪の毛と白い肌が見え隠れしていた。頬を伝って汗が一粒、また一粒地面に落ちていく。汗が地面に触れる度に熱された石がジュッという音を立てて、すぐ様乾いていった。
 背中には小柄な少女が背負うには少々大きめな茶色のリュックを背負い、左手には魔法使いが持っているような立派な木製の杖を持ちながら支えにして、赤いロングスカートを引きずるように様に歩いていた。
「あと……もう少し」
 自分に言い聞かせるように少女はそう呟くと、もうひと頑張りといった様に大きく息を吐き、一度立ち止まって背中のリュックを背負い直すと再び歩き始める。街道のすぐ脇には青々とした木々が生い茂り、一度足を踏み入れれば二度と帰って来れないのではないか、と思うほどに先が見えない。
 足を一歩一歩踏みしめるたびに、茶色の革靴がコツコツと高い音を立てる。やや遅れて杖が地面に当たると、乾いたカンという音が街道に響いた。べルルへと向かう旅人は辺りを見る限り少女一人だけで、昼間だというのに少女の足音と鳥のさえずり以外、目立った音は聞こえない。
 昼間で、街道に人気が無く森が静かというのは変だ。彼女が慣れた旅人ならそう疑問に抱いただろう。しかし、たどたどしい歩みで暑さに苦しめられながら、顔の半分が隠れるほどにフードを深く被り、目的地へと無我夢中になりながら歩いている今の彼女には、暗い森の奥からじっと眺める捕食者の視線を感じることは出来なかった。
 捕食者は森の影から少女を目で追うだけで、襲い掛かってはこない。焦らず、じっくりと獲物の様子を観察している。確実に捕らえることの出来る瞬間を、今か今かと待ち構えているのだ。
 少女は、街道のすぐ脇にあるちょうど人が一人座れそうな大きめの石を見つけると、休憩するために背中のリュックをヨロヨロと下ろし、糸の切れた人形のようにどさっと座り込んだ。おもむろにリュックを開けると、そこには分厚い本や衣服や食料、そして木材で作られた水筒がぎゅうぎゅうに詰まっているのが見える。そこからおもむろに水筒を取り出し、栓に付いた紐を引っ張るとポンっという軽い音と共に栓が抜けた。そして勢いよく水筒に口をつけると、ゴクゴクと喉を鳴らせながら水を飲む。
「はぁ……」
 少女は思わずため息をついた。地獄のような暑さを和らげてくれる涼しい風と木陰があればいいのだけれど、残念ながら近くにそれは無い。街道から道を逸れて森に入ったなら、少しはうっとおしい日差しから逃れることが出来るかもしれないが、森には往々にして獰猛な生き物や恐ろしい化物が幅を利かせている。いくら日差しが辛いからといって、木陰に入るために命をかけるほど少女は無謀では無かった。
 少女はリュックから水筒の他に、折りたたまれた一枚の紙を取り出した。それを丁寧に広げると、ぶつぶつと独り言をしゃべり始める。どうやら自分の現在位置を探しているようで、それはベルルへと案内してくれる地図のようだった。朝から歩き詰めだった彼女はあとどのくらいで、ベルルへとたどり着くのかを確かめたかったようだ。
「そろそろ町が見えてきてもおかしくないはずなんだけど……」
 額の汗を右手の袖で拭いながら少女はそう呟く。そして、忌々しい夏の太陽を睨みつける様に空を見上げた。小さな雲がぽつりぽつり、一人ぼっちで浮かんでいるだけで、それ以外は澄み渡るような清々しい青空だ。風が吹いていれば尚良かっただろう。
 突如、少女の隣からガサガサと何者かが枝をかき分ける音が聞こえた。突然の出来事に不意を突かれ、少女は体をビクッと震わせる。そして恐る恐る音のした方向を見ると、暗い森の奥に何かがいるのが見えた。
「え? なに……?」
 そこで少女はようやく気が付く。辺りがやけに静かすぎる、何か変だと。しかし時すでに遅し、森の影から獰猛な生き物が一匹、ぬるりと姿を現した。それは四足歩行の鋭い牙と爪と、灰色の頑丈な皮膚を持った肉食獣で、大きさは少女の一回りか二回りほど。赤い目をぎらつかせながら、ゆっくりとした足取りで少女の方へと向かってくる。その肉食獣は低いうなり声を上げながら下顎から牙を覗かせた。牙の隙間から、小川の様に唾液が流れ出る。襲い掛かってくるのは時間の問題だった。
「お、落ち着いて……こんな時のために、毎日魔法の特訓をしてきたんでしょ?  追い払うなんて、なんてことないんだから……」
 少女は、目の前の獰猛な肉食獣を刺激しないようにそっと立ち上がり、横目でリュックの方を見ながら左手に持った杖を相手に向け、右手で何かを探している。肉食獣はしきりに辺りの匂いを嗅ぎながら、少女の周りを回っていた。恐らく他に仲間がいないか、もしくは自分以外に目の前の獲物を狙っている者がいないかを探っているのだろう。     
お互いに警戒し合いながらしばらくこう着状態が続くと、少女はお目当ての物を見つけたのか、おもむろにリュックから右手を引っ張り出した。彼女が持っていたのは分厚く、薄汚れて焦げ茶色になっている一冊の本だった。文字や図形が幾重にも表紙に描かれているそれは、魔導書と呼ばれる本だろう。
 少女はやっとの思いでその本を開くと、小声でぶつぶつと呪文を唱える。すると、僅かに魔導書の周辺の空気が振動したかと思えば、今度はひとりでにページが捲り上がり途中でピタリと止まった。一触即発の危うい雰囲気の中で、空気がピリピリとひりつく。額から止めどなく溢れる汗を拭いもせず少女は瞬きすらやめ、朱色の瞳で目の前の脅威を睨みつける。緊迫とした状況の中、一秒一秒を知らせるが如く、頬を伝って流れ落ちた汗が一滴ずつ衣服を濡らしていった。
 しばらく、周辺の様子を伺っていた肉食獣は邪魔者が現れないと確信したのか、姿勢を低くして今にも襲いかかりそうな体勢をとる。少女は迫り来る恐怖に耐えるために奥歯をぐっと噛み締め、襲い来る猛獣に反撃するかのように杖を正面に向けながら、今度はよりはっきりとした声で呪文を唱えた。
「エルム!」
 杖の先が光出すと同時に、開いた本のページに描かれた文字も淡く輝き始める。杖の先の光がより一層輝きを増すと、弾けたような音がするのと同時に何かが杖の先から飛び出した。勢いよく飛び出したそれは、肉食獣の灰色の頑強な皮膚を掠めて儚く消えてしまったが、その正体はマッチほどの大きさの火で、およそ目の前の獰猛な化け物を追い払えるような代物では無かった。
「うそっ!? どうして? 火の魔法……練習の時は上手くいってたのに……!」
 少女は青ざめた表情で口元を歪ませる。よろよろと後退り、とっさに周りに誰かいないか目を配った。しかしいくら目を凝らしてみても、ここには目の前の猛獣と自分以外誰もいない。大声で助けを呼ぼうかと考えてはみたものの、声が誰かに届く前に化け物に襲われる、そんな考えが頭をよぎった。もう一度目の前の化け物に杖の先を向け、襲い来る猛獣を追い払うための呪文を唱えようとしたが、口が震えて舌が回らない。ガチガチと奥歯が鳴り、目に涙が浮かんだ。
 肉食獣はググッと後ろ足に力を入れる。恐らくもうすぐ自分は襲われる、次の瞬間には喉元を噛みつかれ、奴のお昼ご飯になるのだろうと少女は想像した。未来予知など使うまでもなく、数分後の未来が少女には見えたような気がした。
 少女は恐怖で足がすくみ、その場にへたり込む。心の中で『助けて!』と何度も叫ぶものの、助けが来ることは無く、無常にも肉食獣は彼女目掛けて襲いかかってきた。
 とっさに少女は、右側の上着のポケットからピンポン玉程の大きさの、灰色がかった白っぽい丸い玉を二個取り出すと、肉食獣目掛けて右手を大きく振りかぶりそれを投げた。それは見事に肉食獣の顔に当たり、今にも少女の首元目掛けて噛みつこうとした化け物は、思わず反射的に顔を仰け反らせた。次の瞬間、軽い破裂音の後煙幕が肉食獣を中心に広がっていく。辺りが白い煙に包まれていく中、少女はその隙に何とか立ち上がり、乱暴に本をリュックに詰めると肩に担ぐ暇も無く引きずりながら走り出した。
 その時、走り出した勢いでフードが脱げて少女の顔が露わになる。ショートボブの毛先が少しカールしている赤い髪が走るたびに揺れ、白い肌は興奮しているせいか紅潮していた。薄い桜色の唇を目一杯開けて息を吸い込みながら、朱色の瞳に涙が浮かべる。長く尖った耳が印象的な少女は、整った小顔がまだ十代くらいの幼い印象を与える。彼女は、必死の形相で何とか逃げ切ろうと街道の真ん中をひた走った。この街道の先、恐らくそう遠く無い所に人の住む町がある。何とかそこまで逃げ切れれば、あるいは町の人に声が届く範囲まで近づければ、誰かが助けてくれるかもしれない。一縷の望みをかけて少女は煙幕が晴れる前に背後の肉食獣から逃げようと、無我夢中で街道を突き進んでいった。
 息を切らしながら街道の先に意識を集中すると、町の建物らしき黒い影の様な物が小さく見えてきた。僅かに希望が見えてきた少女は、頬を緩ませる。逃げ切れるかもしれないと、心の何処かに安堵感の様なものを微かに感じながら、少女は足を早めた。
 背後からはまだ、肉食獣が追いかけてくるような足音は聞こえない。このまま逃げ切れる、少女がそう確信しようとした時、何かが彼女の目の前を横切った。勢いよく飛び出してきた黒い影は、どうやら街道の脇の森からやってきたようだった。咄嗟の出来事に少女は足を止める。考えうる限り、最悪の状況が少女を待ち受けていた。
 最初に襲ってきた肉食獣と同じ化け物が正面に二体、べルルへと繋がる道を塞ぐように現れた。仲間か、あるいは獲物を横取りしにきたのかは分からないが、少女に残された最後の希望が跡形もなく砕け散る。さらに最悪なことに、背後から煙幕を振り切った肉食獣が、少女に向かって今まさに走ってきていた。息も絶え絶え、今更もう一度魔導書を引っ張り出して魔法で反撃する気力も無く、暑さと息苦しさと絶望感に打ちひしがれながら少女は膝から崩れ落ちた。
 猛獣の足音が、地響きを立てながらどんどん近づいてくる。正面の化け物二体も、今まさに襲い掛かろうと牙を剥いて唸り声を上げた。もうダメだと少女が目を瞑ると、森の奥から何かか飛んでくる。丸くて黒い団子の様な物が、少女の正面と背後にいる肉食獣目掛けて次々と飛んでいった。それに不意をつかれたのか、少女に襲い掛かろうとした化け物達は思わずその足を止める。しばらく、団子の様な物が飛んできた森の方向を睨みつけると、周囲の匂いを嗅ぎ始めた。すると何かを悟ったかのように鼻息を鳴らし、肉食獣は飛んできた物から逃げるように、やって来た森へと走って引き返していった。
 少女はしばらく放心していたのだが、はっと我に返って丸くて黒い団子の様な、得体の知れない物が飛んできた方向へと顔を向けた。森の方を警戒しつつ、さっき膝から崩れ落ちた拍子に落としてしまったリュックから魔導書を引っ張り出すと、震えながら杖を左手に持って呪文を唱えようとした。しかし上手く発音出来ず、魔法は不発に終わる。
 そうこうしている内に、森の方から人影が見えた。それはゆったりとした足取りで木々をかき分け、少女の方へと姿を現す。
「まだ生きてるか?」
 男はそう言うと、今だに尻餅をついたままこちらを睨みつけている少女に対して手を差し伸べた。浅黒い肌をした、無精髭と黒いボサボサ頭とやさぐれた瞳が目に付く人間の男だ。ボロボロの黒い布切れをマントのように靡かせ、全身薄汚れて黒っぽい、まるで猟師の様な格好をしているその男は、およそ三十代前半のように見えた。さっきまでずっと森の中で生活していたのか、所々衣服が擦り切れ木の葉の欠片や、小さな木の枝がくっ付いている。
 少女は差し伸べられた男の手を無視して、森の中から現れた奇妙な人間を警戒しながらゆっくりと立ち上がった。
「あ、あなた何者ですか……?」
「それが命の恩人にかける最初の言葉か?」
 男はぶっきらぼうにそう言うと、右手でわしゃわしゃと髪の毛をかく。
「さっきのあれは……」
 少女はチラリと、街道にまだ転がったままの黒い団子の様な物を見た。その丸い物体の周りからは、嗅いだことの無い異様な匂いが漂っている。彼女の質問に対して、男はあっさりとこう言った。
「ん? あれか。糞だ」
「ふ、糞!?」
 少女は驚愕した表情で、声を裏返しながら叫ぶ様に言った。もう何が何だか訳も分からず、緊張の糸が切れたのか、はたまた何だか馬鹿らしくなったのか、少女は力が抜けてその場にへたり込んだ。男はそんな少女の様子を意にも介さず、淡々と街道に転がる何者かの丸い糞を森の方へと蹴飛ばしていく。
「クィントス何ぞに目を付けられるとは、運が悪かったな。奴らは臆病な生き物だから日中、人の出入りがある街道に姿を現すなんて、そうそうあることじゃない。奴らは人間が自分より弱い生き物だと理解してはいるが、それでも用心深く観察するだけで、本来真昼間に襲いかかってはこない。とはいえ、今回はよほど腹が減っていたのか、お前に襲いかかってきた訳だが。しかし、奴等もベヒモス相手には尻尾を巻いて逃げる。大木の様にでかくて凶暴で、縄張り意識の強い糞で自分のテリトリーを誇示する怪物だ。臆病なアイツらは糞の匂いを嗅いだだけで、一目散に逃げだす」
 男は少女の返答も待たずにぶつぶつと、捲し立てる様に話した。そして男はまだ放心状態の少女に対して、腰から茶色い革製の巾着袋を一つ取り出して差し出す。
「欲しければやるぞ」
 男が差し出した革袋に入っている物は、恐らくさっきの糞だろう。少女は苦々しい表情をしながら黙って首を横に振った。革袋を再び腰に掛けると、少女に怪我が無いか様子を見るために、男は少女の方を注意深く観察した。
 急に、何かに気が付いた様に男は少女の顔をまじまじと見始める。それに気が付いた少女は、自分のフードが脱げてしまっていることにようやく気が付いて、慌てて頭に被り直した。
「デミヒューマンの子供が、一人ぼっちで一体何をやっているんだ?」
 男は衣服についている木の葉や木の屑をパタパタとはたき落としながら、少女に尋ねた。少女は男の質問に答えず、無言で俯いたままその場を動かない。
「自己紹介がまだだったな、俺はコルネ。ヒューマンだ。べルルに向かっている。お前もべルルに?」
 少女は暑さと疲れでまとまらない思考を何とか整理して、自分の命を救ってくれた怪しげな風貌をした男に自己紹介をした。
「助けてくれてありがとうございました、私はメルと言います。私もべルルへと向かう途中です。あと私、デミヒューマンでは無くハーフなので……」
「なるほど、ハーフか。逃げてきたのか?」
 メルはコルネの質問に返答しなかった。メルは魔導書を今度は丁寧にリュックに入れ直すと、肩に背負い直し、コルネに向かって一礼して再びべルルへと続く街道を歩き始める。その様子にコルネはそれ以上、少女が何者かを追求しようとはしなかった。なぜならその理由をコルネはよく知っているからだ。
 デミヒューマンやそのハーフは、人間から避けられ迫害されている。彼らは魔物と呼ばれ、人々から忌み嫌われてきた。それは今からおよそ千年前に、人間が彼らを束ねる魔王を討伐しようとしたから。いや、その前から続く人間と魔物との偏見の果てに生まれた、憎しみによる弊害だった。
 五分ほど街道を歩き続けると、いよいよベルルの姿が明らかになってきた。メルは安堵した表情で町の入り口を見つめる。しかし後ろには怪しげな風貌をしたコルネと名乗る男が、付かず離れずの距離を保ったまま歩いていた。メルは何だかコルネの方が気になってしまい、度々横目で後ろの様子をチラチラと見てしまう。しかしコルネはそんなメルの様子を気にもせず、無表情でメルの後ろを黙々と歩いていた。
 化け物を追い払った後、コルネは心配だからとメルと一緒にべルルまでついて行く事にしていた。いくらさっき会ったばかりの赤の他人とはいえ、子供が一人で、危ない道を歩いていくのを黙って見ている訳にはいかないからと。
「あの……」
 我慢出来ずにメルは立ち止まって振り返り、コルネに向かって話しかけた。何だか居心地が悪いというか、命を助けてくれた恩人には間違い無いのだけれど、無言で黙々と背後を歩かれていると気が休まらないと思ったからだ。
「良ければ教えて欲しいんですけど、コルネさんでしたっけ。どうして、森の中にいたんですか? それに、何であの……ベヒモスの糞を持っていたんですか?」
 メルの質問にコルネは無表情で、淡々と答えた。
「暑いからな、森の中を歩く方が涼しくていい。長い間一人であちこち旅をしているから、ああいう連中の対処の仕方をよく知っているというだけだ」
「それであの……」
 メルは何か言いづらそうにコルネから目を逸らし、口籠った。その様子にコルネは『どうした?』と声を掛ける。コルネに促され、メルは渋々といった表情で言いにくそうに答える。
「コルネさんはどうしてベルルに? 言いたくなければ結構ですけど」
 その質問に、コルネはしばらく何かを考えるように間を空けてから答えた。
「ある人間を探していてな。それで一人で旅をしていたんだが、べルルにその人物がいるという噂を聞いたんで、久しぶりにここにやってきたんだ」
「前にもべルルに来たことがあるんですか?」
「ああ……ずっと昔に一度だけ」
 二人は再び無言になった。夏の太陽が照り付ける中、またあの化け物が現れるのではないかと警戒しながらべルルに向かって歩いて行く。しばらく歩き続けると、べルルと街道を繋ぐ大きな門が固く閉ざされているのが見えた。門の近くまで歩いて行き、声を掛けると門番が現れ扉を開けてくれた。どうやら、街道周辺に獰猛な肉食獣が現れたとの話を聞き、警戒のために扉を閉めていたとの事。
 門番は二人に向かって『襲われたら大変だぞ、隣町にも警告の案内文を飛ばしたんだが見ていないのか?』と言った。メルは苦笑いを浮かべながら頷き、コルネは無言でべルルへと繋がる門をくぐった。
 一悶着有りながらも何とかべルルへとたどり着いた二人。コルネは『ここまで来れば安全だな』と言い、メルに別れを告げた。
「一つだけ聞いていいですか? さっき聞きそびれちゃったこと……」
 コルネが歩き出そうとした時、メルが引き止める様に言った。コルネは突然の質問に少々驚いた表情をしながらも、メルの方へと向き直り『いいぞ』と答えた。
「どうして、私にそこまで親切にしてくれたんですか?」
 意外な質問にコルネはどう答えたものかと少し考えて、メルに向かって穏やかな口調で言った。
「昔、親しい友人がいた。デミヒューマンでとても優しい心を持った、素敵な女性だった。だから、俺はお前がデミヒューマンとか、人と違うからといって差別はしない」
 思っていた答えとは違ったのか、メルは目を丸くしてコルネの話を聞いていた。ただ、コルネの言動に嘘が無いのは口調や表情を見れば明らかで、メルは久しぶりに聞いた他人からの優しい言葉に、少し心が温まるような気がした。
「あの……」
 メルはまた何か言いづらそうにコルネから目を背けて、口籠る。その様子にコルネは再び『どうした?』と声を掛ける。
「私、この町のことよく分からなくて……コルネさんは一度この町に来たことがあるみたいだし、コルネさんがその、良ければ教えていただけませんか? この町の事」
 メルは精一杯の勇気を振り絞り、生まれて初めて他人を頼った。そんなメルの様子に、少し困ったような表情をしたコルネは、しばらく考えてから『行き倒れないように最低限の事は教えてやる』と快諾した。
 べルルは通称石の町とも呼ばれていて、希少な石材や鉱物が採れる非常に大きな鉱山が近くにある事で有名な場所だ。昔からこの土地に、仕事や良質な金属を求めて多くの人間が往来していた。また、多くの鉱物が採掘され取引されているこの町は、大きな工房としての役目を同時に担っている。生活用品から武器、魔力を帯びた貴重な岩石の加工まで様々な役割を古くから担ってきたこの町には、勇者が訪れる最初の町としての伝説が残されている。
 千年以上の昔の話だが、魔王討伐の長い旅に備えるために勇者は、この町へ武器や道具を調達するべく最初に訪れたのだとか。町には至る所に石碑が置かれており、そこには勇者伝説について事細かに記録されている。
「勇者が最初に訪れる始まりの町なんだ」
 メルは中央広場にある大きな石碑を見ながらそう呟いた。宿屋に荷物を置いて、今はコルネに案内される形でべルルの町を探索している。べルルの街並みは千年前からほとんど変わらず、勇者伝説が語る通りに様々な石材から作られた趣きのある建物が並んでいた。ほとんどの建造物が千年以上前から存在しているというのだから驚きで、古びた雰囲気はむしろ町の特色になっている。
 所々欠けたり、苔が生えたり、長い年月によって変色している建物もちらほら存在するけれど、今でもその建物には立派に人が暮らしていて、メルにとってはまるで生きた古代遺跡の様に思えた。さらにこの歴史ある町は今でも活気に溢れていて、人の行き来が激しい。恐らく、貴重な石材や鋼材等の資源が町を賑わらせているのだろう。千年以上の時が経った現在も。
 建物だけでは無く、町の中は全て石畳が敷き詰められている。古びてはいるが、定期的に町の住民によって整備されているみたいで、とても綺麗だ。歩くたびに、コツコツと高い音が軽快に石畳を鳴らす。
「勇者伝説が気になるのか? お前たちにとっては聞きたくも無い話だろう」
 石碑を一生懸命見つめるメルに向かって、コルネは不思議そうに尋ねた。
「私、自分が住んでた町以外のことはよく知らないから」
 メルは好奇心いっぱいの表情でそう言う。じっと石碑を見ていると、欠けて読めなくなっている部分をメルは見つけた。そこには、この町を訪れた歴代勇者の名前が刻まれているのだが、最後の一人だけ故意に削られて読めなくなっている。
「ねぇ、どうして最後の一人だけ名前が無いの?」
 メルは何気なくコルネにそう尋ねると、コルネは『さぁ? 何でだろうな』と言ってメルから顔を背けた。続けてメルはコルネに質問する。
「千年前に、最後の勇者が人間を裏切ったことが関係してるのかな?」
 コルネはその質問に答えなかった。無表情でじっと、千年前の石材で作られ風化して、誰の顔なのか面影すら分からなくなった勇者の像をただ眺めているだけだった。
 メルがあまりにも教えてほしいとしつこいので、勇者伝説についてコルネはメルに自分の知っている限りの話を渋々教えた。そしてメルがようやく満足して、そのお茶目な好奇心を十分に満たせた後、コルネはメルが今後この町を暮らしていく上で重要な、生活に必要な物を売っているお店を紹介する事にした。それが終わると、息抜きにコルネはとある露店へと案内する。
 通称石の町らしく、この町には様々な特殊な石材や鋼材が売られている。その一つの浮遊岩に、メルは釘付けになった。名前の通りふわふわと浮いており、石によって浮く強さも異なる。中央広場に繋がる長い一本道に並び立つ様々な露店が、それぞれ色々な種類の珍しい石のお土産を売っていた。
 その中の一つに浮遊岩を売っている露店があり、それにメルは目を引かれた。どこかに飛んで行かないよう、浮遊岩は小さな縄の紐に一つ一つ繋がれていて、それがメルにとってはまるで逃げようとしてロープに縛られた、可哀想な生き物の様に見えた。
 メルは小指ほどの大きさの浮遊岩を人差し指で物珍しそうに、ツンツンと突いている。その度に浮遊岩はふわふわと揺れ、あっちに行ったりこっちに行ったり、忙しく逃げ回っている。その様子を見ていた露店の店主がメルに向かって声を掛けた。
「浮遊岩が気になりますか? それはお目が高い!」
 店主は四十代くらいの前髪が少し禿げ上がり始めた中年男性で、営業のため長年鍛えた自慢の笑顔で、饒舌にメルへと話し始める。
「この石の町、べルルから採れる浮遊岩はまさに一級品! 浮力もそこいらの雑多な物とは比べ物になりません。その証拠に、こうして紐で結んでいないと何処かへと勝手に飛んでいってしまいます! こちら、大きな物は飛行船など多くの人に利用される様々な乗り物に使用されておりまして、安全性も折り紙付き! 小さい物はこうしてアクセサリーに加工され、べルルでも一押しの石材となっているんですよ」
「あの、でも私ーー」
 メルが断ろうとしたところ、食い下がる様に店主はさらにメルへと詰め寄った。
「もちろん、用途はアクセサリーだけに止まりません! なんとこちらの浮遊岩、べルルの腕の良い職人たちの加工によって中に蛍火石がはめ込まれておりまして、浮遊岩を空に飛ばせば緊急時には何と近くの人に助けを求めることの出来る、旅人必須の防災グッズとなっております! いや実に素晴らしい商品でしょう? こちらお一つ今だけ、百二十四パーセルとなっておりまして……かなりお買い得だと思いますよ」
 半ば強引に購入を促され、メルは冷や汗を流しながらどうしたものかと考えている。日が暮れかかり、周辺が少しずつ薄暗くなってゆく中で、小さな小指ほどの浮遊岩が何個もふわふわと浮きながら青色、紫、赤、緑と様々に淡く光り輝いて店先を照らしている。その光景はとても幻想的で美しく、メルは目を奪われてしまった。欲しく無いと言えば嘘になる。
 しかし、メルには今持ち合わせが無い。殆どのお金を宿泊費と日々生きる上で必要な生活用品に使ってしまっていて、とてもじゃ無いがアクセサリーになんてお金を使っている余裕は無い。メルが危険を冒しながらもこの町にやってきたのは、自分の事を知らない人たちが住んでいる場所で、働きながら静かに暮らして生きたいと思っているからだ。安定して働き、暮らせるようになるまで無駄遣いは絶対にしないと彼女は心に誓っている。
 自分のために今まで女手一つで育ててくれた母が残してくれた最後の財産を、無闇に使い果たす訳にはいかないと自分に言い聞かせ、メルは何とか店主に断ろうと言葉を探す。
「すみません、私ここに来たばかりでお金があまり無いんです……」
 メルが申し訳なさそうな顔で正直に店主へ打ち明けると、店主は落胆した表情で『はぁ、冷やかしなら帰ってくれ』と言い、そそくさと店の奥に引っ込んで行ってしまった。メルが落ち込みながらとぼとぼと店を後にすると、その様子を離れたところから見ていたコルネが声をかけてきた。
「欲しい物でも見つかったか?」
 コルネがそう尋ねると、メルは黙って首を横に振った。ただ、メルの表情は暗いまま後ろ髪を引かれるように、店先でキラキラと光り輝いている浮遊岩をチラチラと見ている。
「浮遊岩が気になるのか?」
 コルネの言葉に動揺しながらも、メルは首を横に振って否定した。ただそのメルの表情は何か悔しいような、悲しいような表情で、明らかに浮遊岩を気にしている様子から、コルネはメルが店主から追い返されたのだと推測した。
 すると、コルネは背中に担いだ大きな巾着袋から何かを取り出しメルに差し出す。それは小指ほどの大きさの浮遊岩で、店先に売られている浮遊岩と同じように中心に蛍火石がはめ込まれており、淡く輝いている。上部に小さな穴が空いており、そこに紐が輪っか状に通されていてネックレスのようになっていた。
「これは昔、ある人から貰った浮遊岩だが俺にはもう必要無い。お前にやるよ」
 そう言って、コルネはメルに浮遊岩を手渡した。メルはそれを受け取ると表情をパッと明るくする。次の瞬間メルははっとして、コルネに申し訳なさそうに尋ねた。
「でも、いいの? コルネにとって何か大切な物なんじゃないの?」
 それに対してコルネは笑顔で『ああ』と言った。
「俺には必要無かったが、これを俺にくれた人はきっと誰かに使って欲しいと願っていたはずだ。だからお前にやるよ」
 それを聞いたメルは、笑顔でコルネにありがとうと頭を下げた。頭を下げた拍子にフードが脱げそうになったが、とっさに慌てて手でフードを抑えてことなきを得る。早速、メルはコルネから貰った浮遊岩をネックレスの様に首に掛けるも、ふわふわ浮いていないことに気が付いて、コルネにその事を尋ねた。
 するとコルネは『浮遊岩の使い方を教えてやる』と言い、人差し指で浮遊岩を軽く弾いた。するとふわふわと浮遊岩が浮き出した。
「誰かに助けて欲しい時、思いっきりそれを地面に叩きつけろ。そうすれば、浮遊岩は空高く浮き上がって衝撃で蛍火石が光る。人里離れた森の奥地でない限り、誰かに気付いて貰えるはずだ」
 夕日が地平線に沈みかけ辺りが黒に染まっていく中、ふわふわと浮かぶ浮遊岩だけが、空色に淡く光ってメルの顔を照らす。メルはしばらくの間、子供が大好きなおもちゃを見つけたみたいに、じっと浮遊岩を眺めていた。コルネはそんなメルに向かって『帰るぞ』と言い、メルはそれに対して静かに頷いて、浮力が弱まってきた浮遊岩を自分の胸にしまいながらコルネの後を付いていく。
 いよいよ日が沈み、夜の帳が下りるとベルルの町はまるでお祭りのような様相を呈する。町の至る所に置かれた蛍火石が、提灯の様に石畳で出来た道を橙色に照らしていた。夜になったというのに、町の活気は収まるどころかさらに盛り上がる。その様子を不思議に思ったメルは、コルネに質問した。
「夜になったのに、どうしてここの人たちはお家に帰らないんだろう?」
 それに対してコルネは淡々と説明調で答える。
「一年に一度の祭りがあるからだ」
「お祭り?」
「ここは勇者が魔王討伐のため、最初に訪れる町という伝説があったろ? そのお祭りだ」
「お祭りか……話には聞いたことあったけど、実際に見るのは初めてかも」
 メルは抑えきれない好奇心を表情から漏れさせながら、鼻息を荒くしている。その様子に、複雑な感情を抱きながらコルネはこう言った。
「勇者は、お前たちにとっては言わば同族を殺し、魔王を滅ぼそうとした殺戮者だ。そんな奴を讃える祭りなんて、あまり気持ちのいいものじゃ無いだろ?」
 メルはコルネの言葉に少し戸惑い、何かを考えるように空を見上げた。すっかり日が落ちた空には星が煌めいていて、昼間の青空の清々しさから一変、まるで宝石を散りばめた黒い絨毯のような気品のある美しさに、メルは思わずため息をつく。心を奪われる様な感覚に身を委ねながら、何かを思い出した様にメルは言った。
「きっとね、勇者もみんながみんな、私たちにとって悪い人じゃなかったんだと思う」
 メルから出た意外な言葉にコルネは思わず聞き返してしまった。
「どうして……そう思うんだ?」
 すると、メルはコルネに向かって笑顔で言った。
「お母さんがね、言ってたの。『私たちのご先祖様は、とても優しい勇者の人に救われたのよ』って。『だから、私はあなたのお父さんと結婚したのよ』って。だから、私勇者の事嫌いじゃ無いんだ。むしろ好きだよ」
 そしてメルは何かを思い出したように、急に暗い表情になって付け加える様に言った。
「でも、やっぱり人間は嫌い」
 メルの落ち込んだ様子を見て、過去に何があったのかを尋ねる事無く、コルネは正面を見続けたまま『そうか』と一言だけ呟いた。夜のベルルの町を二人で歩きながら、メルはコルネに対して奇妙な感覚を覚えた。今日会ったばかりの素性も知らないただの人間に、メルはどこか懐かしくて暖かい気持ちを抱いていた。
 コルネの大きな背中に、どことなくお父さんの面影が重なる。『会いたい、お父さんとお母さんとまた一緒に暮らしたい』忘れようと、ずっと努力してようやく忘れることの出来たあの気持ちが、不意に間欠泉の如く吹き出してしまう。
 一瞬泣きそうになってメルは我慢した。何とか唇を噛み締めて、目から流れ出そうになる涙を押し留める。でも、このまま黙って歩いていると我慢できずに泣き出しそうで、メルは思わずコルネに話しかけた。
「コルネは、今までどんな風に生きてきたの?」
 純粋に思ったことをつい、コルネに質問してしまった。質問してメルはすぐにはっと気が付く。安易に他人の素性を知りたがるのは悪い事だと。自分がやられて一番嫌な事をコルネにしてしまったと、メルは後悔した。せっかく知り合えた、お父さん以外の良い人間。その人に嫌な思いをさせたのではないかと、メルは急に怖くなってしまう。
「ごめんなさい」
 メルはコルネが返答する前に謝る。いつも、人間の顔色を窺って生きてきたのに、つい気が緩んでしまったとメルは反省した。
「どうして謝る?」
 コルネは不思議そうにメルに尋ねた。それに対して、メルは『知り合って間もないのに、急にこんな質問してごめんなさい』と答えた。
「別に、謝るほどの事じゃない」
 コルネはメルに対して優しく諭すようにそう言った。しばらく何とも言えない沈黙が続くと、メルは静かにコルネに対して自分の身の上話をし始めた。
「コルネ、言ったでしょ? 『逃げてきたのか?』って。その通りだよ、私逃げてきたんだ。自分が生まれたあの町から……ううん、人間から」
 


 メルが生まれたのは今からおよそ十二年前。メルはべルルから二つほど町を経由して離れた、マルクという小さな村に両親と三人で住んでいた。デミヒューマンの母と人間の父との間に生まれたハーフだから、メルや両親は村の人たちからいつも避けられていた。
 お母さんもお父さんも元々この村に住んでいた訳では無く、何かから逃げる様に小さな集落を転々としながら暮らしていた。だから、この三人の親子の素性を村人は知る由も無く、外から来た変わり者として腫れ物に触る様な扱いを受けていた。
 元々、お母さんは魔女の森と呼ばれる場所に住んでいて、そこで多くの兄弟と暮らしていたのだが、何か理由が有って、この森から出なければならなくなってしまったらしい。その理由を、お母さんはメルに頑なに話さなかった。そして、村や町を転々としている時にメルのお父さんに出会い、この村でメルが生まれたという経緯だった。
 メルには友達がいなくて、いつも村の子供たちに苛められて一人ぼっちだったけれど、幸せだった。大好きな優しいお父さんとお母さんとただ一緒に居るだけで、それだけで十分だった。メルは朝早く起きて、お父さんの畑仕事を見るのが好きだった。お母さんの美味しいご飯が楽しみで、お昼からはお母さんから習う魔法の勉強が大変だったけど、大好きなお母さんと一緒なら何だって嬉しかった。
 ずっと、平凡で何よりも幸せな毎日がこの先も続いてゆくと思っていた。けれどそんな幸福な日々は突然、音もなく消え去った。
 夏の日差しが照りつける午後。いつもの様に、お父さんは自分の畑で採れた野菜を荷車に乗せて、隣町へと売りに行く途中だった。お父さんは隣町に続く街道の真ん中で、化け物に襲われて死んだ。村の人たちは事前に隣町から『街道に猛獣が現れた。追い払うまで村の外を出ない様に』と通告を受け取っていたのに、お父さんにだけは、わざと伝えず見殺しにした。
 帰ってきたのはベージュ色のフードの付いた血塗れでボロボロの上着だけ。野菜もお父さんも化け物に食い荒らされて、これだけしか残っていなかった。それをお母さんは丁寧に洗って、千切れた箇所を糸で縫ってメルに着させこう言った。『お父さんは、目には見えないけどいつもメルのことを見守っているの。会えないのは寂しいけど、こうすればいつでもお父さんの温もりを思い出せるでしょ?』そう言って、泣きじゃくるメルの頭を優しく撫でた。お父さんが死んで、村人から二人への風当たりはより厳しくなっていった。
 それから一週間ほど経った頃、逃げる様に畑と家を焼いて村を出た。幸せな思い出がいっぱい詰まったあの家が、夕闇の中赤々と燃えている。それがメルの脳裏に焼き付いて忘れられない。その日はメルが生まれて五歳になる誕生日だった。
 あれから、お母さんは一人でメルのことを育てるために必死に働いた。魔法を使えるという特技を活かして、獰猛な化け物退治や危険な仕事を何度も請け負った。自分のことを人間と偽って、接客業をしたこともあった。魔法で、デミヒューマン特有の長く尖った耳や赤い髪、そして朱色の瞳を誤魔化して。
 お父さんが死んでから、お母さんはメルに厳しく魔法を教えていった。いつか、メルがたった一人で生きていかなければならない事を悟っていたかの様に。
 お母さんはずっと無理をしていたのだ。メルが生まれる前から病弱で、お父さんに守られながら生きてきたのだ。本来なら、こんな事一日だって続けられない。それを七年間、立てなくなるまで必死に仕事をし続けた。その結果、メルのお母さんはメルを一人残してこの世を去った。最後に『一緒にいてあげられなくてごめんね』と言い残して。遺体はメルが一人で埋葬した。人里離れた、お母さんの大好きな星が見える丘だ。
 メルはお母さんの茶色いリュックと魔導書と杖を持ち、お父さんの上着を着て長い耳が見えない様にフードを目深く被り、生きるためにお母さんと二人で七年間過ごした家を出る。べルルに着くまで、メルは村や町を転々とした。毎日必死に生きてゆく中で、いつしかお母さんが話してくれた優しい勇者の物語が、心の支えになっていった。しかし誰も彼も、メルがデミヒューマンのハーフだと分かると追い払った。一人として手を差し伸べてくれる人間はいなかった。
 べルルに繋ながる街道でコルネに出会うまでは。



「お母さんが話してくれた優しい勇者の物語を聞いて、ずっとべルルに来てみたかったの」
 メルは照れ臭そうに言う。隣を親子だろうか、父と母と小さな女の子がお揃いの浮遊岩を首にかけて、笑い合いながら通り過ぎて行った。それを、メルは思わず目で追いかけてしまう。コルネとメルが歩いてゆく方向とは反対に進んでゆく親子に、かつて幸せだった頃の自分をメルは見た。そして、もう二度とあんな幸せはやってこないのだと気が付いてしまい、胸が苦しくなる。
「頑張って働いて、べルルへの地図を買って、何を期待してたんだろ私」
 寂しそうな表情でメルはそう言った。コルネは、メルの話をずっと黙って聞いている。暗くてコルネの表情はよく見えなかったが、コルネはメルの歩く速度に合わせてゆっくりと、隣に寄り添う様に歩いている。その様子にメルはコルネの優しさを感じていた。
「どうして、自分の辛い過去を俺なんかに聞かせたんだ?」
 コルネは優しい口調でメルに尋ねた。すると、メルは少し意地悪く笑ってみせながら言った。
「コルネの過去が知りたいから……じゃだめ?」
 コルネは少し困惑した様な声色で、メルに優しく言った。
「俺の過去なんて、知ったところで何の意味も無い。つまらない話だ」
「それでも、知りたいの。やっぱりだめ?」
 メルのお願いにコルネは深くため息をつき『俺の過去は退屈なだけで、あまり期待されても困る』と前置きをしつつ、自分の過去をメルに話し始めた。
「俺は昔、親に森に置き去りにされたんだ。小さな村じゃよくある事さ、間引きだよ。人間が増えすぎると、小さく貧しい村では食料を全ての人間に行き渡らせる事が出来ない。だから健康で強くて、将来見込みのある子供以外は、森へと置き去りにされる」
 生きるためには仕方の無い事だと、コルネは淡々と話した。メルはそれに対して、悲しい気持ちになった。それと同時に自分以外にも孤独と戦っている人がいる、それだけで彼女はどこか救われた様な気持ちになった。もちろん、後ろめたい気持ちもあるけれど、それでも自分と同じ苦しみを少しでも理解している人がいるということは、彼女にとって大きな希望になった。
「本来そこで俺はその森に捨てられた子供と同じく、飢えて死ぬか森に住む化け物に食われて死ぬか、どちらかの運命だった。けれど、そうはならなかった」
「どうして?」
「デミヒューマンの女性に命を救われたからだ」
 コルネはその女性をふっと思い出したのか、優しい表情になる。しかし、次の瞬間にはいつもの仏頂面に戻ってしまった。コルネの目の奥に、何か悲しみの様な後悔の念の様なものを感じたメルは、コルネに『大丈夫?』と尋ねる。それに対してコルネは淡々と『大丈夫だ』と言った。
「その女性に命を救われたばかりか、立派に育てて貰った。一生かかっても返しきれない恩がある」
「もしかして、コルネがべルルに探しにきた人ってーー」
 メルがそう言いかけて、コルネはメルの言葉を遮る様に言った。
「違う。彼女は……メラトリーネはもうこの世にはいない」
 メルは残念という表情をして、ぽつりと呟く様に言った。
「そう……なんだ。会ってみたかったな」
 その一言に、コルネはメルに優しく笑いかけながら言った。
「そうだな。きっと生きていたら、お前のことを可愛がっていただろう。お人好しだから、困っている奴を見るとほっとけないんだ」
 それを聞いて、メルはコルネに『私も、コルネみたいな人が側にいたら……』と言いかけて口をつぐむ。その先の言葉を言ってしまったら、恐らく自分はもう耐えられないと思ったからだ。父と母が死んでから、今まで誰にも手を差し伸べて貰えなかった。辛い時相談に乗ってくれる人はいなかった。いつも、本当は誰かに助けて貰いたかった。人間の中には、お母さんが話してくれた優しい勇者の様に、私のことを救ってくれる人がいるはずだと、心のどこかで思っていた。しかし、現実は違った。
 何度も人間に騙されて、それでもまだ信じようとして、また騙される。だから、もう二度と人間なんて好きにはならない、そう心に深く誓ったのに。コルネはいい人だと、心では感じている。でも頭では人間に心を許すなと、自分を諌めている。コルネのことが気になるたびに、葛藤がメルの心をぐらぐらと揺らしていた。
「宿屋についたな」
「えっ?」
 メルは気が付くと、今夜泊まる予定の宿屋の前についていた。話に夢中になっていてどうやってここまできたのか、メルは思い出せない。コルネはここに来るまでずっと持っていてあげた、メルが今日買ったばかりの小物が入った袋を手渡した。
「それじゃあな」
 コルネはそう言って立ち去ろうとする。メルは急に心細くなって、思わずコルネのことを引き止めようと声をかけそうになって、やめた。コルネにはコルネの事情がある。これ以上、私の我儘でコルネを振り回す訳にはいかないと、メルは思ったからだ。メルは、淡い橙色の光が照らす石畳を歩いていくコルネの背中をじっと見つめながら、これでいいんだと自分に言い聞かせた。
「俺はしばらくこの町にいる、何かあればいつでも相談に来い」
 コルネは去り際に一言、背中越しにメルにそう言った。メルは嬉しくなって、大きな声でコルネに向かって『うん!』と言って手を振る。メルはこれから先の未来に希望が見えた様な気がして、思い切ってべルルの町に来て良かったと思いながら、宿屋の中に入っていった。

 一年に一度、べルルの町は一週間ほどお祭りが開かれる。それは、千年前からの伝統として代々行われてきた重要なこの町の行事。勇者祭と名付けられたこのお祭りは、今やべルルの町で生きる人々にとって欠かせないものとなっていた。ただでさえ、人の往来が激しいこの町は祭りによって普段の二倍以上の人が行き来する。年に一度のこの日を商売のチャンスとして、この地に様々な商売人が物を売りにやってくるからだ。
 この祭りの一番の目玉と言えば、何と言ってもこの町に司祭がやって来るという事だろう。司祭は、その昔勇者に神の代理人として力と使命を与えた者として有名な要職で、それは勇者がいなくなってしまった現代においても、伝統を重んじるこの国においては重要な人間だと言える。かつての力は失われてしまったが、形だけのお祈りであっても、町に生きる人々の心を癒すためには必要な存在である。
「司祭様がお見えになったぞ!」
 コルネとメルがべルルの町に訪れてから一夜が過ぎ、まだ日が上り始めたばかりの朝の早い時間に、町の住人の一人から声が上がった。町中から歓声が波の様に伝播する。司祭と呼ばれた男の着ている白と赤の厳かな雰囲気を醸し出す修道服は、金の細工で縁取られていて気品を感じさせた。およそ六十代から七十代に見える司祭の男性は、朗らかな印象を感じさせる穏やかな声の人だ。
 その隣には腰に剣を差した、白銀色の騎士の様な格好をした若い色白の好青年が立っている。彼は成人したばかりでありながらキリッとした切長の青い瞳が印象的であり、その立ち振る舞いからは、普通の人には無いオーラの様なものを感じさせた。金色の髪を靡かせた清々しい印象を抱かせる青年は、べルルの町の人たちに向かって優雅に手を振る。町の人たちが彼らを取り囲む様に輪になって歓迎している中、町の隅っこで一人野宿をしていたコルネは、離れた場所で彼らをじっと見ていた。
 コルネは司祭の顔を注意深く観察している。そして間違い無いという何かの確証を持ったのか、無表情だった彼の顔は、見る見る内に憎しみに満ちた怒りの表情に変わっていった。
「コーネリウス……」
 両手をわなわなと振るわせながら、コルネは目の前で町の住人に盛大に歓迎されている司祭の名前を呟いた。それと同時に、コルネの頭の中で在りし日の光景がフラッシュバックする。それは、彼の命の恩人であるメラトリーネと、かつて一緒に過ごした幸せの日々。彼女が、わざわざコルネのために用意したお守りの浮遊岩と一緒に、コルネを森から送り出した日。そしてかつて自分が育った森が焼かれ、彼女が殺された日。
 コルネは今すぐにでも司祭と呼ばれた男に襲い掛かりたかったが、奥歯を噛み締め何とか踏み止まった。風の噂で司祭が一年に一度、このお祭りが開かれるべルルの街に現れると聞いた時、半信半疑で実際に自分の目で見るまでは、まさかと思っていた。しかし噂は本当だった。
 奴が生きていて、このべルルの町に毎年やって来ているともっと早く知っていたのならと、コルネは自分の不甲斐なさに激怒して、隣の古い石で出来た民家の壁を殴りつける。
 奴が生きていると知っていれば、俺は『彼女の子孫』をむざむざ殺されずに守り抜く事が出来たはずだと、コルネは自分をなじった。そして決意する、今度こそ奴を確実に殺すと。
 意を決して、コルネは司祭コーネリウスの元へとゆっくり近づいてゆく。その時、突然コルネを呼ぶ声がした。懐かしく聞き覚えのある声だった。びっくりして振り返ると、そこにいたのはかつて自分を救ってくれた命の恩人であり、愛していたメラトリーネだった。
「メラトーー」
 そう呼びかけて、違うということに気が付く。彼を呼び止めたのは、メルだった。赤い髪、白い肌、朱色の瞳、桜色の唇、美しい声。そして慈愛の籠った笑顔。メルは、コルネの命の恩人の若かりし頃にそっくりだったのだ。コルネがまだ三歳の頃、飢えて森の中を芋虫の様に這いずり回っていた時、手を差し伸べてくれたあの時の彼女に。
 だからこそ、コルネは街道でメルに出会ってからずっと、彼女のことを気にかけていた。
「コルネ?」
 メルはこちらを見つめたまま呆然と固まっているコルネの様子に、心配になってもう一度声をかけた。はっと我に帰ったコルネはさっとメルから視線を逸らす。その間に、司祭の男は町の住人に連れられてどこかへ行ってしまった。コルネはメルに対して、邪魔されたと憤りを感じるかと思いきや、むしろ彼女が自分を呼び止めてくれた事に対して安堵していた。そんな自分が情けなくて、コルネは思わず唇を噛み締める。
「どうかしたの?」
「いや、何でもない」
 メルの心配を受け流す様に、軽くコルネは返事をする。そして、一呼吸おいてメルに『昨日別れてから一日も経ってないぞ』とからかった。
「うん。迷惑だった?」
 メルは心配そうにコルネに尋ねる。それに対して、コルネは『迷惑だと感じた事は一度も無い』と返した。すると、メルは嬉しそうな顔でコルネを見つめる。コルネは、自分の荒々しい感情がどんどん穏やかになるのを感じていた。
「あのね私、司祭様に会ってみたくて。でも、私ハーフだから一人で会いに行くのは色々と難しいと思うの。だから、人間で唯一頼れるコルネに助けて欲しくて」
 メルの突然のお願いにコルネは困惑する。動揺して、コルネは思わずメルに聞き返してしまった。『どうして奴に会いたいんだ?』と。まるで、司祭の事をよく知っているみたいな口ぶりで話すコルネに、メルは思わず聞き返した。
「司祭様のこと知ってるの?」
「いや、別にそういう訳じゃ無い」
「でもーー」
「悪い。それは力になれない。それ以外の話ならいつでも相談に乗るから」
 コルネはメルに対して、説得する様に強く言った。コルネのおかしな態度にメルは違和感を感じながらも、渋々了承する。
「司祭様に会われたいのですか?」
 急に後ろから声をかけられ、メルとコルネはとっさに後ろを振り向いた。そこにいたのは、さっき司祭と一緒にいた好青年。育ちの良さそうな気品のある立ち姿に、思わずメルは萎縮してしまう。
「失礼。私は勇者を務めさせていただいております、アレスと申します。不躾ながら、お二人の会話が耳に入りまして。微力ながら私に力になれる事があればと」
 突然の告白に、メルは驚いて目を見開いた。勇者は千年前に人間を裏切って以来、いなくなってしまったはずだ。それがどういう経緯で、この人は自分の事を勇者だと言っているのか。冗談か、本気か、メルには分からず混乱して固まってしまっている。
 コルネは、目の前の自称勇者と名乗る青年を警戒しながら注意深く観察していた。
「『勇者は千年前に滅びた』そう思うのも無理はありません。しかし、勇者は魔王に滅ぼされてはいなかった。この千年という節目に、司祭様は様々な方と協力して、勇者を復活させようと尽力されたのです」
 声高々に語るアレスにコルネは訝しみながら言った。
「お前が勇者だと?」
「お前では無く……私の名前はアレスです。そう言う貴方はどこの誰ですか?」
 喧嘩腰のコルネに対して、アレスも不快感を露わにしながら言葉を返す。その様子に、メルは慌てて仲裁しようと二人の間に割って入った。
「す、すみません。私たちこの町にやってきたばかりで……」
 メルが申し訳なさげにそう言うと、アレスは大きなため息をついてコルネを一瞥し、次の瞬間には爽やかな笑顔になってメルに向かって言った。
「いえ、私も大人げない事をしてしまいました。ところで話を戻しますが、司祭様に会われたいのですか? であれば、私は勇者として貴方の助けになる事が出来ます」 
 急にやってきた願っても無い申し出に、メルは困惑する。確かに、メルは司祭に直接会いたいと思った。それは、母から聞かされていた勇者伝説の中でも司祭が、勇者に力と助言を与える最も重要な人物だったからだ。メルはどうしても知りたかったのだ、優しい勇者のことを。千年前の話とはいえ、何か記録があるはずだ。メルは少しでも、母の語る優しい勇者に近付きたくて、この千載一遇の機会を生かそうと居ても立ってもいられなかった。
 昨日べルルの町の石碑を見たり、コルネに勇者伝説を尋ねたりして、一年に一度ベルルのお祭りに司祭がやって来ると知り、メルはこの願っても無いチャンスを何としても、ものにしたかった。しかし、目の前にいる自称勇者と名乗る青年は、メルにとっては知らない人間だ。コルネとも知り合ったばかりだが、彼には命を助けられ、ベルルの町を案内して貰いさらには大事な物を頂いたという恩がある。
 メルは、『人間を信じたい』という気持ちと『もう騙されたくない』という気持ちの狭間で揺れ動いていた。そんなメルの迷いを断ち切るかのように、コルネがアレスに向かって一言『いや、彼女は司祭に会うつもりは無い』と言った。
「しかし、彼女は確かに司祭様に会いたいとおっしゃっていました」
「そもそも、他人の会話を立ち聞きして尚且つ割って入るなんて、勇者としてどうなんだ?」
 コルネの強い口調に、アレスは苛立ちを覚える。
「私は彼女に話しているのであって、貴方には関係ない」
「いや、ある。俺は彼女と一緒にこの町に来た。言わば道連れの関係だ」
 もはや収拾のつかない事態になりそうな雰囲気に、メルが思わず『やめてください!』と一言大きな声で叫ぶ。すると、熱くなっていた二人は我に帰り、ばつの悪そうな顔をして押し黙った。
「アレスさんの話、私にとってはとても有難い話です。でもーー」
 メルはそう言って、今まで必死に隠していた長い耳を露わにするべく、目深く被っていたフードを上げる。メルの突然の理解し難い行動に、コルネは慌てて『やめろ!』と制止するも、間に合わず彼女のありのままの姿が晒される。
「私はデミヒューマンのハーフです。今までそのせいで、人に忌み嫌われてきました。貴方が勇者だというのなら、私は貴方にとって敵になるかもしれない存在です。それでも、私のことを信じていただけますか?」
 メルの勇気ある行動に、アレスは感心したのか一言『素晴らしい』とだけ言った。コルネは苦虫を潰した様な表情でアレスを睨む。メルは真剣な表情でじっとアレスの目を見た。そこに、恐れやあるいは侮蔑の感情が現れないか、注意深く観察しているのだ。
 だが、アレスは恐れや侮蔑とは程遠い、歓喜の表情でメルの方を見た。メルはそれに少し安堵する。今まで自分の正体を知った人達は、掌を返して虫を追い払うような顔でメルの事を遠ざけたからだ。
「デミヒューマンかつ、そんなに幼い身で人の国を生きるのはさぞ大変だった事でしょう。立派な方だ。貴方こそ、司祭様に会われるのに相応しい」
「あ、ありがとうございます」
 お父さん以外の人間に、そこまで褒められたのは生まれて初めてだ。メルの心に淡い希望という火が灯る。もしかしたら彼は優しい勇者の末裔で、だからこそ、彼は私を差別せずに受け入れてくれたのではないかと、メルは期待してしまった。
 それを傍から見ていたコルネは、アレスの胡散臭い言動と表情に疑いの目を向けている。こいつは、何か裏があるのではないか? と。そんなコルネの心の内を知ってか知らずか、メルは上機嫌になってアレスに話しかけた。
「本当に、私が司祭様に直接会えるのですね?」
 それに対して、アレスはにこやかな表情で自信たっぷりに『はい』と言った。メルはコルネの方を見る。コルネはメルに対して、心配そうな顔で『やめた方がいい』と言った。
「私は大丈夫だから。司祭様に会って色々お話を聞きたいの」
 メルはそう言ってアレスの提案を了承した。それならせめてと、コルネはメルに杖と本を持っていくように提案した。メルは『大丈夫、心配しないで』と言ったが、コルネが『念のために』と言うので仕方なく、アレスにも杖と本を持っていくのを納得してもらい、彼の後をついていくことにした。
 メルがアレスに連れられて行くのを見守りながらコルネは思った、嫌な予感がすると。コルネは二人の後をつけることにした。あの司祭が、自分の見間違いでは無く『あの男』なのだとしたら、メルが危険だ。ある種の強迫観念にも似た様な感情で、奴を二人より早く見つけなくてはならないと強く思っていた。

 べルルの中心街から少し外れた場所に、大きな教会がぽつりと立っている。この建物も他のべルルで建てられた物と同じく石造で、古びて所々欠けたり、崩れたりしている部分は千年の時の流れを感じさせるかの様な、壮大で厳かな雰囲気に包まれている。教会の窓は光の角度によって七色に変わり、神聖な空気を感じさせた。アレスに案内されるがままこの教会にやってきたメルは、その壮大な雰囲気に圧倒されて息を呑む。
「さあ、こちらへ。この中に司祭様がいらっしゃいます」
 アレスの声に導かれる様に、メルは教会の扉の前まで来た。しかし、ふと何か思い返した様に立ち止まる。
「どうかなされましたか?」
 メルの不可解な行動に、アレスは思わず尋ねた。メルは困った様な顔をしながら『ちょっと緊張しちゃって』とアレスに向かって言う。
「気にすることはありません。司祭様はとても心の優しい方です。貴方も、会えばすぐに気に入ることでしょう」
 不安そうなメルに、アレスは満面の笑みでそう言った。
「あの、やっぱり不安なのでコルネを呼んできてもいいですか?」
 メルの突然の提案に、アレスの笑顔が引き攣る。
「コルネ……貴方と一緒にいたあの怪しげな風貌の男ですか」
「はい。司祭様に一人で会うのはどうしても恐れ多いというか……」
 メルは、アレスにコルネも一緒に呼んでいいかと頼み込んだ。アレスは少し困った様な顔をして、メルを説得する様に『あの男を呼ぶ必要はありません。大丈夫です、司祭様は快く貴方を歓迎するでしょう』と繰り返し言う。
「ごめんなさい。やっぱり私帰ります」
 メルは司祭と直接会う事に、土壇場になって怖気付いてしまっていた。ここまでウキウキでやってきて、なぜこんな事になってしまったのか、メル自身にも分からなかった。私がデミヒューマンのハーフだと分かったら、やっぱり嫌われてしまうのではないだろうか。本当はいい人のふりをして、私を騙そうとしているのではないだろうか。考えたくは無いが、急にそんな考えが頭の中でぐるぐると渦巻いて、ずっと不安でしょうがなくなる。
「そうですか……それでは仕方がない」
 アレスは残念そうに言った。メルは、そんなアレスに対して申し訳なくなって深々と頭を下げる。アレスは優しげな声で、『頭を上げてください』とメルに言った。メルがゆっくりと頭を上げると、アレスはメルに向かって小声でぼそりと、呟く様に言う。
「ここまで来て、むざむざ帰す訳無いだろ」
「えっ?」
 先ほどまで優しかったアレスの顔は、まるでメルのお父さんを見殺しにした村人や、メルをデミヒューマンのハーフだと知って掌を返してきた人間たちと同じ様な、軽蔑の瞳で歪んだ恐ろしい表情に変わっていた。
 アレスは急にメルの右手首を左手で強く握ると、自分の方へ強く引っ張った。
「その赤い髪、朱色の瞳。そして長く尖った耳。間違いない、お前が『最後の生き残り』だ」
「ど、どういうこと? 痛い! 離して!」
「うるさい黙れ!」
 アレスは右手でメルの頬を平手打ちすると、『忌々しいデミヒューマンのガキが。調子に乗るなよ』とメルを罵った。
「騙したの……? 私を司祭様に会わせると言って嘘をついたの?」
 メルはぽつりと呟く様に言った。絶望感で力が抜け、目に涙を浮かべる。その様子に、アレスは満足げな表情で言った。
「安心しろ、会わせるさ。その為にここまで連れてきたんだ。わざわざ、お前の様な汚らわしいデミヒューマンを連れて教会までな」
 メルはアレスを睨みつける。それを嘲笑う様にアレスは口の端を吊り上げた。
「離して……離さないと」
「離さないと? なんだ? その左手に持った杖で、魔法でも使うというのか。所詮、魔導書と杖が無ければ魔法が使えない、三流エルフにこの私が倒せるとでも?」
 メルはアレスに杖の先を向けて威嚇するが、頭の中では彼の言っている事が正しいと感じていた。メルは、お母さんの杖と魔導書が無ければ、まだ魔法を制御する事が出来ない。杖は左手に持っているが、魔導書は背中に背負ったリュックの中に入ったままだ。アレスに右手を掴まれているこの状況下では、とてもじゃないが魔法は使えない。
 仮に魔法が使えたとしても自分の腕ではアレスを追い払うことが出来ない事も、メルは薄々感じている。けれど、このままアレスのなすがままに教会の中へと連れて行かれる事だけは、何とか避けたいとメルは考えていた。近くに誰かが……コルネが隣にいてくれたのなら。
 その時やめたほうがいいと言って、メルのことを引き留めようとしてくれたコルネの顔が脳裏に浮かぶ。コルネの言葉をもっとちゃんと聞いていればと、メルは後悔して涙が零れそうになる。
「おら、とっとと来い!」
 アレスはメルの右手を掴みながら、反対の手で教会の扉を開けて引きずる様に中へと引き込もうとした。メルは必死に抵抗するも、力では敵わずジリジリと引きずられてゆく。その時、首にかけ胸にしまっていた浮遊岩が衝撃で外に出た。それを見てメルは思い出す。『誰かに助けて欲しい時、思いっきりそれを地面に叩きつけろ』というコルネの言葉を。
 メルは左手に持っていた杖を離すと、首に掛けていた浮遊岩を掴み、思いっきり引っ張って取る。
「何のつもりだ?」
 アレスはメルの不審な行動を警戒する。メルは、左手に持った浮遊岩を思いっきり自分の足元の石畳に投げつけた。すると、浮遊岩は衝撃で跳ね上がり、その勢いのまま空高く宙を舞う。
「貴様!」
 アレスが気付いた時にはもうすでに遅く、浮遊岩は空を飛ぶように高く舞い上がっており、メルの行動に憤りを覚えたアレスは、再びメルの顔に平手打ちをした。叩かれたメルの右頬は真っ赤に腫れ上がったが、その顔は痛みに恐怖する訳でも無く、力に屈する訳でも無く、誰かが助けに来てくれると信じているかのような、反抗と決意に満ちた表情でアレスの方を睨んでいた。
 一方その頃コルネは二人の後を追い、離れた場所で二人の様子を見ていた。すると、何かもみ合う動作の後に空に一筋の閃光が見える。それは二人が向かったあの古い教会が建っている場所だ。
「メル……!」
 無意識にコルネはメルの名前を呼んでいた。あの光は、おそらくメルにあげた浮遊岩の光。それが見えたという事は、彼女の身に何か有ったという事だ。コルネは胸騒ぎを覚えて、光の見えた教会の方へと一心不乱に走り出す。
 この時コルネの脳裏にチラついていたある可能性が現実味を帯びてきている事に、彼自身薄々気付き始めていた。メルは、ただのデミヒューマンのハーフでは無い。『彼女』に関係しているのでは無いかと、コルネは疑い始めていた。
 コルネが急いで協会へと向かっている中、メルはアレスに無理やり協会の中へと連れられていた。古びた建物ながら、綺麗に整備されているらしく、床は埃一つ無い。外からの太陽光が協会のガラスを通して七色に変わり、内部を燦々と照らしている。七色の帯状の光に照らされながらメルは、この教会をこのような形で訪れなければならなかった事に対して、非常に悲しくなった。
 やがてメルはアレスに無理やり引っ張られる形で、協会の地下へと案内される。蝋燭に照らされた階段は非常に不気味で、黒い闇がその先を覆い隠している。メルはこれから自分が一体どんな酷い目に合うのかを、思わず想像して背筋が凍った。そのまま二人が階段を降りきると、今度は広い空間に出た。天井には沢山の蝋燭が吊り下げられており、暗い地下の部屋を不気味に照らしている。中央には、神に何かを捧げるための神聖な祭壇の様なものが有り、その隣に一人の男が佇んでいた。
「いや、待ちくたびれたよ。本当に」
 その男はそう言って、地下にやってきた二人を歓迎した。その男は白と赤色の鮮やかな、金の細工で縁取られた修道服を着こなし、およそ六十代から七十代に見える朗らかな印象を感じさせる穏やかな声の人。そう、司祭コーネリウスだった。
 アレスは司祭に一礼すると、メルを祭壇の前に連れてきて、その前に置いてある儀式用の飾り付けのされた煌びやかな椅子に無理やり座らせる。
「貴方が司祭様?」
 メルが恐る恐る尋ねると、修道服を着た男は『そう、私こそが司祭コーネリウス・トラベイト。長い間、君を探し続けていた男だよ』と言った。
 メルが困惑した表情で目の前のコーネリウスと名乗る男を見ると、穏やかな声で彼は言った。
「なぜ? という顔をしているね。話せば長くなる」
 そう言って、司祭はメルの前に立つとしゃがんで顔を近づけた。
「君は魔王の血を受け継ぐ、呪われた一族の最後の生き残りなのだ」
 それを聞き、メルは驚愕する。そして言葉にならない叫び声を上げた。混乱しているメルを余所目に、司祭は淡々と話を続ける。
「もう千年も昔になるが、かつての勇者とその仲間達は魔王とその一族を滅ぼすために旅立ち、この地を訪れた。そして、国民の恒久的な平和の為に忌まわしい魔女の森に巣食う魔王と、その一族を根絶やしにして帰ってくるはずだった」
 司祭は立ち上がり祭壇の前へと歩いていく。そして、メルを背にして話の続きをし始めた。
「無事に魔王を倒したと思いきや、ある日勇者が裏切った。自分の仲間と善良な国の兵士を皆殺しにし、その時国を納めていた王を殺し、魔王の一族を庇った。勇者の名前は石碑から消され、我々には永遠に解けない呪いがかかってしまった」
 司祭はメルの方へと向き直り、穏やかな表情で淡々と言う。
「君はその魔王の一族の最後の生き残りで、ここで死ななければならない。自分の立場が分かって貰えたかな? 魔女の森を焼いた時、エルフは全て皆殺しにしたつもりだったが、一人取り逃がしていた。しかもそれが女で人間と子供を作っているとは思いも寄らなかったよ。しかし、隣町の知り合いから赤い髪のデミヒューマンの子供がこのべルルに向かってるという話を聞いて、私はこれを運命だと感じた」
 司祭がアレスの名前を呼ぶと、彼は司祭の横にやって来た。
「彼は殺された王の子孫で本来、この町を含め今は亡きアレイスト王国を治める立場になるはずだった男だ。しかし、千年前の事件以来、国力が落ち隣国に吸収される形で彼の一族は失脚した。故に彼には新たな勇者になってもらい、千年前、かつての勇者が放棄した仕事を行って貰う。そして、彼が再びこの国の王として返り咲くのだ」
「そのために……ずっと私を探していた。殺すために?」
「そうだ。君は本来、生まれてはいけない存在だったのだよ。今日ここで、晴れて君は救われる。忌々しい宿命と共にね」
 司祭はそう言って、祭壇に置かれた豪華な装飾のされた一本のナイフを手に取る。
 メルは絶望した。あの司祭の言っている事のどこまでが本当で、どこまでが嘘なのか。彼女には、はっきりとは分からない。しかし、今までこの国で生きてきて、どうして自分や自分の家族がここまで人間に嫌われているのか分からなかった。どうして、お父さんとお母さんが逃げる様に村や町を転々としていたのか、分からなかった。もし、あのコーネリウスとかいう司祭の言っている事が真実であるのなら、今まで理由の分からなかった事に説明がつくとメルは思った。
「その男の言葉に耳を貸すな!」
 背後から聞き覚えのある声がした。思わず振り向くと、一階に繋がる階段の入り口にコルネが立っていた。メルは思わずコルネの名前を叫ぶ。すると、コルネは『もう大丈夫だ』と言ってメルに駆け寄る。
 次の瞬間何かがひび割れる音が辺りに響き、コルネが急に壁に叩きつけられた。突然の事に何が起きたのか訳が分からず、メルは困惑する。メルが振り返るとアレスが右手の掌をコルネに向かって開き、何かを唱えている姿が見えた。
「コルネ!」
 メルは慌てて立ちあがろうとしたが、それをさせまいと何かがメルの両足に絡み付いて立ち上がれない。コルネとメルには、太い縄の様な物が巻き付いていて、それが体の自由を奪っていた。
「これが、勇者にのみ許された神の奇跡だ」
 アレスは自信満々にそう言った。よく見ると、コルネやメルに巻きついている縄の正体は、ひび割れた石壁の隙間から伸びてきた植物の茎や蔓だった。アレスは、魔法によって植物を意のままに操っている。それは、魔法を扱えるデミヒューマンのメルでさえも知らない、恐るべき魔術だった。
 太い蔓がギリギリと、コルネの首を締め上げていく。コルネはこめかみに青筋を立てながら、何とか脱出しようと必死にもがいていた。だが、コルネの努力も虚しく身体中に巻きついた蔓が自由を奪い、首に巻きついた蔓がどんどん締まっていく。メルは大声でアレスに向かって『やめて!』と叫んだが、それを意にも返さずアレスは笑いながら呪文を唱えていく。
「久しぶりだな、コルクエイド・ネルス」
「コーネリウスっ……!」
 司祭は旧友を懐かしむ様にコルネに向かってそう呼びかけ、コルネは首を締められながらも、無理矢理絞り出す様に司祭の名前を口にした。
「司祭様、この男はどうされますか?」
 アレスは余裕綽々といった表情で司祭に尋ねると、司祭は一言『好きにしろ』と言った。するとアレスは、にやりとほくそ笑み、コルネに対してさっきより一段と強く魔法をかける。
 ギリギリと音を立てながら、コルネの首を締め上げる蔓がより太くなっていく。コルネはやっとの思いで、声を絞り出すとメルに向かって言った。
「俺に……魔法を……撃てっ!」
 それに対して、メルは半泣きになりながら『そんな事出来ないよ!』と訴える様に叫んだ。コルネは何とか意識を失うまいと踏ん張るが、それもあまり持ちそうにない。コルネはメルに自分に魔法を打ってくれと、必死に説得する。メルはコルネが自分の魔法で、コルネの体と首に巻きつく植物を焼いて欲しいと言っているという事は理解出来たが、杖も無く魔導書も取り上げられた今の状態で、魔法を使うことなんて出来る訳が無いと思っていた。
 それに両方持っていたって昨日は化け物一匹、追い返す事すら出来なかったのだ。しかし、コルネは今にも魔法で操られた植物の蔓に首をへし折られそうになっている訳で、迷っている暇は無かった。メルは無我夢中で意識を集中する。コルネを助けたい一心で、自分の中のありとあらゆるエネルギーを左手の一点にかき集めた。
 自分の思いを全てぶつけるかの様に、メルは大声で火の魔法の呪文を叫ぶ。
「エルムっ!!!」
 メルは今まで制御した事の無い大きなエネルギーを両手に感じ、それをコルネに放った。放たれた光弾は、大きな火の玉となり、コルネに絡みつく植物をコルネごと焼き尽くす。
「嘘……やだ! コルネ! コルネっ!」
 火の勢いは瞬く間に広がり、一瞬のうちに天井まで燃やし尽くした。メルは心の内で静かに呟く。やっぱり無理だった、制御出来なかった。私に、誰かを助けることなんて出来るはずがなかったと、メルは心の中で後悔する。『ごめんね、ごめんね』と、涙を流しながらメルは何度もコルネに謝った。
「はははっ! これは傑作だな! 自分を助けようとした人間を焼き殺すとは、中々に滑稽だ!」
 メルを馬鹿にするように、アレスは言った。しかし、アレスのメルに対する暴言を否定するかのごとく、コルネは常人では到底生きていられないほどの灼熱の炎から、まるで不死鳥の様に這い出てきたのだ。
「どうして……」
 その様子を見てメルは絶句する。コルネの服は火で焼けてしまい、多少ボロボロになってしまったが本人は何事も無かったかの様にピンピンしている。その理由を知っているかの様に、アレスが言った。
「まさか貴様が『裏切り者の勇者』だったとはな。しかし、不死の呪いはしっかりとその魂に焼き付いているみたいだな」
 その言葉にコルネは自分の過去を思い返す。



 コルネは、とある小さな村の農民の五人目の男の子として生まれた。しかしこの村ではここ数年の雨不足により、作物の不作が続いており、これ以上彼の両親は誰かを養う余裕が無かった。コルネが三歳の誕生日を迎える頃、彼は魔女の森と呼ばれている場所に捨てられた。他の兄弟に比べて生まれた時から体が弱く、小さく、栄養不足で満足に歩くことも出来ないコルネは、生きてゆく事は出来ないと両親に見捨てられたのだ。
 魔女が住み着き、無闇にこの森へと訪れたものは殺されるという伝承があるこの森に、いらない子供はよく捨てられていた。それは別に、この村だけの悲しい風習では無かった。彼の生まれたこの村を始め、隣町や別の村でも当たり前の様にこの悲劇は行われていた。皆、生き残る為に必死だったのだ。そして、コルネもこの森に捨てられた他の子供たちと同じ様に飢えて死ぬか、森に住む化け物に食われて死ぬか、どちらかしか選択肢は無かった。そのはずだった。
 コルネが生きようと、芋虫の様に森の中を這いつくばっていた時、メラトリーネという一人のデミヒューマンの少女に救われた。コルネが三歳、メラトリーネが十二歳の時だ。
 彼女はエルフという種族で、生まれた時からこの森に住み、自然を愛し守りながら生きているデミヒューマンだった。彼らは魔法を扱う事が出来るため、森を伐採して荒らそうとする人間はそれで追い払ってきた。エルフと人間はあまりいい関係とは言えなかったが、彼女は人間だとかデミヒューマンだとか関係無く、困っている者を見つければ構わず助けようとする心の優しい娘だった。
 コルネは彼女やその家族に育てられ、立派に成長していった。コルネはメラトリーネのことをメラトと呼び、メラトは彼にコルネという名前を与えた。今まで家族に奉仕する為の道具としてしか扱われてこなかったコルネは、新しく出来た居場所、そして家族と自分を救ってくれたメラトを心の底から愛していた。
 コルネは人間である為、魔法を扱う事は出来なかったが、メラトから森と一緒に共存していく術を学び、自然を愛する心を学んでいった。コルネは成長していくと徐々に歩ける様になり、森でエルフたちと生活していく中で、体を鍛え上げられていった。成人する頃には、筋骨隆々のガタイのいい青年になっており、森の中を縦横無尽に駆け巡る事が出来る様になっていた。
 そして、彼が立派に成人すると、メラトはコルネに旅に出る様促した。コルネは実の親に捨てられた事をずっとコンプレックスに思っており、その心の傷を何とかしようとメラトなりに精一杯考えての事だった。旅に出て、立派になった自分自身を他の人間に認めてもらえれば、彼の心の傷が少しは癒えるのでは無いかとメラトは考えていた。
 コルネが今まで育ってきた森から旅立つ日の朝、メラトはお守りにと浮遊岩を手渡した。上部に小さな穴が空いており、そこには首にかけられるよう紐が通されていた。浮遊岩の中心には蛍火石が入れられており、メラトが自分で加工してはめ込んだ物だった。
 メラトは『何かあったらこれを地面に叩きつけなさい。何処にいても、私たちがコルネのことを必ず助けに行くから』と言った。その瞳には涙が浮かんでおり、コルネはメラトの思いに感激して思わず抱きしめた。メラトは、旅立つコルネの後ろ姿が見えなくなるまで、ずっと彼を見送り続けた。そして心の中で『どうか彼が無事旅を終える事が出来ます様に』と願った。
 それからしばらく、コルネは困っている人たちを助けながら放浪の旅を続け、十年後アレイスト王国の首都アリアに辿り着く。そこで、魔王の脅威から救ってくれる勇者を募集する張り紙を見つけたコルネは、自分という存在を他人に認めてもらう絶好の機会だと思い、勇者に志願する為王の住まう城へと向かった。
 紆余曲折ありながら勇者となったコルネは、王様にコルクエイド・ネルスという名前を与えられ、早速魔王討伐の任務を言い渡された。しかし、討伐せよと命じられた魔王の名は、自分にとっての命の恩人かつ育ての親のメラトリーネと、その一族だった。アレイスト王は隣接する魔女の森を切り開き、自分たちの領土にしたいと常々思っていた。しかし、そこに住まうエルフの存在は目の上のたん瘤だった。つまり、アレイスト王は若くしてエルフの長になったメラトリーネと、そのエルフの一族を根絶やしにするつもりだった。
 コルネは後に、この国において魔王とは自分たちの王国にとって邪魔な存在を指し、勇者とは邪魔者を討伐するためだけの存在だということを知る。アレイスト王国に代々伝わる、古代の神々によって作られた契約により勇者は、神の奇跡とも呼べる加護や力を与えられた。しかし、同時に勇者は魔王を倒すまで死ねないという呪いも契約によって受ける羽目になる。
 コルネは迷わず裏切った。今までずっと、辛い勇者の試練を一緒に乗り越えてきた、かけがえの無い仲間達を。自分の事を慕ってくれた、可愛い後輩達を。守りたいと思ったこの国の人々を。誰にも認められなくていい。必要とされなくていい。ただ、メラトさえ生きてくれれば。例え、この命を差し出すことになっても構わない。そう思いながら、コルネは自分の生まれ育った魔女の森へと急いで向かった。
 しかし、一足遅かった。久しぶりに訪れた彼の故郷は、勇者の仲間達の手によって燃やされ、メラトリーネは無惨な姿で横たわっていた。
 コルネは天に向かって怒鳴る様に吠えた。そして、地に向かって呪詛を吐くかの如く叫んだ。『どうして、メラトが殺されなければならなかったのか』と。メラトの亡骸を抱きしめながら、自らの不甲斐なさを呪った。
 気が付くと、コルネは自分の仲間を殺していた。その場にいた全員を皆殺しにした。そして首都アリアに戻ると、兵士や王、そして側近たちを殺した。最後に自分を勇者と認め、勇者の契約を施し、メラトリーネを殺す様コルネに命じた司祭、コーネリウスを殺すと、コルネは魔女の森へと帰っていった。
 コルネは千年もの長きに渡り、魔女の森とまだ僅かに生き残っていたメラトリーネの一族を守り続けた。勇者としての奇跡や加護の力は失われてしまったが、不死の呪いだけはずっとコルネに付き纏っていた。
 ただ千年という長い時間は、彼の魂をゆっくりと摩耗していき、コルネは徐々に意識を保てなくなっていった。ある日、一ヶ月の間意識を失っていたコルネが目を覚ますと、自分が守り続けていた森が燃やされ、灰になっていた。そして、自分が千年間、命懸けで守り続けた最後の生き残りのエルフ達も皆殺しにされていた。
 コルネは疲れ果て、生きる気力も希望も目的も何もかも失い、地面に打ち捨てられていた剣で自らの心臓を突き刺した。しかしコルネは死ねなかった。痛みが、失われつつある彼の自我を繋ぎとめ、奮い立たせる。自分が死ねないという事は、まだメラトの子孫は生きているという事。彼は、森の中でエルフを殺していった人間を追いかけ、一人の兵士を捕まえ拷問した。そして、その兵士が司祭コーネリウスの命令でやったと吐くと首を切り、止めを刺した。
 コーネリウスが生きている。奴もまた、コルネと同じく契約により不死の呪いに囚われていた。コルネは思った、司祭コーネリウスを見つけなくては。彼女の最後の子孫が奴の手によって殺される前に、俺が奴を殺すと。当ても無く森を彷徨うその姿は、まるで魔女の森に住まうと言われていた、化け物の様だった。



 コルネは初めてメルを見た時、こんな偶然あるはず無いと思っていた。しかし、今は信じている。彼女が、かつて自分が愛したメラトの子孫であると。だからこそ、今度こそ守り通す。二度と同じ過ちは繰り返さない。コルネはそう胸に誓っていた。
 燃え盛る火の中から這い出たコルネを見て、メルは呆然としている。アレスは、呆れた様な顔をしてコルネの方を一瞥すると、馬鹿にする様に言った。
「いくら不死身とは言え、痛覚ぐらいはあるでしょうに。まさか火で自分ごと焼いて脱出するとは、いくらなんでも馬鹿すぎる」
 アレスの罵倒を無視してコルネはメルの方を見る。そして、穏やかに宥める様な声で言った。
「怪我は無いか?」
 その質問に、メルは涙目で震えながら首を縦に振って答えた。それにコルネは心の底から安堵する。コルネはボロボロになった上着を脱ぎ捨て上半身を露にすると、引き締まった筋肉の上に痛々しい無数の傷跡が見えた。コルネは司祭を睨みつけると、怒鳴る様に言う。
「コーネリウス。いつ、その餓鬼と勇者の契約を行った? このままじゃ二重契約だな」
 それに対して、司祭は今まで見せてこなかった感情を顕にするかの如く、捲し立てる様に返答する。
「貴様は勇者としての責任を放棄して裏切った大罪人よ。もうすでに、神の加護も消えているだろう。唯一不死の呪いだけが、貴様がかつて勇者だった事の証に過ぎない。故に真の勇者はアレスだ」
 そういうと、司祭は祭壇から一枚の古びた紙を取り出す。古びてはいるが、劣化しないように強固な魔法をかけられている。その紙には古の神々の文字が書かれていたが、唯一コルネの名前とメラトリーネの名前だけは人間の文字で書かれている為、読み取れた。それは千年前、司祭とコルネが契約した勇者の証。そして、さらにもう一枚司祭は紙を取り出す。そこには、アレスの名前が書かれていたが、魔王の名前の部分が空欄だった。
「これが何を意味するか分かるか? ここに魔王の名を書けば、正式に貴様との契約は終わり、貴様は不死の呪いから解放されるだろう。だが、敢えてそうはしなかった。貴様には自ら殺してくれと懇願する様な酷い目に合ってもらう。貴様自ら私に死を願った時、ここにあの小娘の名前を書き、殺して楽にしてやろう」
 その司祭の言葉を鼻で笑いながら、コルネは『やれるものならやってみろ』と言って挑発する。
「ようやく、会えたな裏切り者。お前が私の先祖を、アレイスト王国の王を裏切りさえしなければ、私はこのような惨めな人生を送らずに済んだんだ。アレイスト王国が滅び、我が一族は奴隷の様な扱いを受けてきた。まるで生き地獄さ。貴様には、今まで我が一族が受けた苦しみ以上の地獄を味わってから死んでもらう。そして私が新たな勇者として民の羨望を集め、再びアレイスト王国の王として君臨するのだ!」
 そう言ってアレスは腰から剣を抜き、コルネに襲いかかってきた。コルネはそれを躱すと、腰に括り付けられていたナイフを取り出す。素早くメルの体を拘束する蔓を切り、彼女を解放した。部屋中に充満する煙の影響で、メルは息苦しさを感じ咳き込んでいる。そんなメルを一刻も早く逃がそうと、コルネは彼女を抱えて逃げようとするが、アレスが植物を操り一階に繋がる階段の入り口を塞ぐ。
「ここまで来て、みすみす逃す訳無いだろ。この部屋から逃げたければ、この私を殺すしか無いな」
 苦しそうに咳き込むメルを見て、コルネは一刻も早くここから出なくてはと焦った。覚悟を決め、アレスと戦う事を決意する。コルネは持っているナイフを構え、アレスに襲いかかった。アレスは一歩下がって剣でそれを受ける。アレスが呪文を唱えると、剣が赤く発光し、熱を帯びた。たまらずコルネはアレスから離れる。
「どうした? そんなものか先輩。今度はこっちの番だ!」
 そう言ってアレスが目を瞑り、何かに意識を集中しながら呪文を唱えると、地面から無数の針の様なものが生えてきた。コルネは躱そうとしたが、その針がメルの方に向かっている事に気付くと、メルを庇う様に針を迎え撃った。地面から生えた無数の針が、コルネの足から先を串刺しにする。コルネは苦痛で顔を歪ませながら、何とかメルを背中に抱え、襲い来る針の群れからメルを守った。
「必死だな。女を庇ってばかりいると、痛い目に会うぞ? 私はその方が楽しいが、いつまで精神が持つかな?」
 アレスの挑発に、コルネは静かに怒りながら低い声で脅す様に言う。
「粋がるなよ小僧」
 コルネは地面に生えた針から自分の足を引き抜くと、メルを床に寝かせた。火の勢いは収まるどころか次第に強まっていく。石造の教会とはいえ、柱や壁や装飾にはふんだんに木材が使われていた。アレスの操る植物から燃えやすい柱や壁に火が移り煙が部屋に充満してきた影響で、メルはさらに苦しそうに咳き込んでいる。このままではメルの身が危ないと思ったコルネは、決着を早めなくてはと内心焦った。
「あまり時間が無い。とっとと終わらせる」
 そう言って、コルネは再びアレスに向かってナイフで襲いかかる。しかし、アレスはすでに魔法を使って剣を熱しており、したり顔でコルネを待ち受けていた。振り下ろされたナイフに合わせアレスは剣を構えるが、ナイフを剣で受け止める前に、コルネに足を払われて、アレスは地面に仰向けで倒れ込んだ。
 その隙に、コルネはアレスの右足のアキレス腱をナイフで突き刺す。アレスは鋭い痛みに叫び声を上げた。思わずアレスは自分の持っていた剣を手放すと、すかさずコルネがそれを奪い、アレスの胸に剣を突き立てる。アレスは叫び声を上げる間も無く、胸を串刺しにされた。
 続いて、コルネは司祭の方に向かって歩いていく。司祭は、祭壇に置いてあった勇者の契約書を奪われない様に右手に持つと、『近づくな! この裏切り者! 王を裏切り、民を裏切り、私を殺した! この悪魔!』と罵る。コルネは一切司祭の罵倒に反応せず、右手に持っていたナイフで逃げ場を失った司祭の首を切った。
 首を押さえ地面に横たわる司祭から二枚の紙をひったくると、苦しそうに地面にうずくまるメルを背中におぶる。そして片手に持ったナイフで、階段の入り口を塞ぐ植物を切り裂きながら、教会の地下から脱出した。もうすでに火の手は教会全体を包み込んでおり、熱気で空気がゆらゆらと揺れている。苦しそうにするメルを一刻も早く救う為に、コルネは急いで教会の出口へと向かった。
 コルネはやっとの思いで一階まで階段を上りきり、ようやく出口から教会の外へと出る事が出来た。教会は真っ赤な炎に包まれており、火の粉が宙を舞っている。ようやく新鮮な空気を吸う事が出来たメルは、大きく咳き込みながら肺をいっぱいに膨らませた。
 コルネが助かったと安堵していると、燃え盛る教会から何者かが飛び出してきた。コルネはそれに気が付かず、一瞬の間に背中を剣で突き刺される。衝撃で、メルの顔に血飛沫が付いた。メルは必死にコルネの名前を呼ぶ。コルネはゆっくり後ろを振り向いた。コルネの背後に立っていたのはアレスだった。
「無駄だって。分かってたんだろ? こうなる事は」
 アレスはそう言うとコルネの背中から剣を抜き、袖で血を拭った。痛みで膝をついたまま動けないコルネに、我が物顔でアレスは言う。
「魔王とその一族を殺さなきゃ、死ねないんだよ。司祭様も、私も、お前もな。ここで一生殺し合うか? それもいいだろう。だが、結局は不毛だ。あのデミヒューマンの女を殺さなきゃ、前に進めないんだよ」
「よせ、この子に近づくな」
 コルネは威嚇する様にアレスに向かって叫んだ。アレスはそんな動けないコルネを、剣で弄んだ。メルは煙を深く吸ってしまった影響か、今だに苦しそうに咳き込んで身動きが取れない状態だ。そんなメルを必死にコルネは庇っていた。遅れてやったきた司祭は、コルネに向かって悪態をつく。『この私を二度も殺すとは、絶対に許さんぞ』といい、司祭はアレスから無理矢理剣を奪い、コルネの心臓に向かって剣を深く突き刺した。
「コルネ、逃げて……」
 メルはか細い声で、訴えかける様にコルネに言う。しかしコルネはメルの事を庇い続け、その場を動かなかった。コルネの胸から血が滴り落ちていく。コルネがしゃがみ、俯いたまま動かない様子を見て司祭は、コルネの耳元に顔を近づけて言った。
「千年という時間は人を易々と変えてしまう。貴様のおかげで色々と思い知ったが、これからはこの不死の力を私の為に使わせてもらうぞ」
 と言い、コルネの胸に刺さった剣を思いっきり引き抜いた。うめき声を上げて動けないコルネの姿を見て、司祭は『痛かったか? 本番はこんなものじゃないぞ』と吐き捨てる様に言う。
 コルネはしばらく俯いていたかと思うと、急に胸を押さえながらよろよろと立ち上がった。司祭はコルネの足元に、二枚の紙が落ちているのを見つける。それは、勇者の契約書だった。一枚は、千年前コルネが交わした物。もう一枚は、アレスが新たに司祭と契約した物。アレスが契約した物には、魔王の名前は書かれていないはずだった。しかし、そこには赤い文字で誰かの名前が書かれている。
 それはコルネの名前だった。コルネはアレスの契約書に、自分の血で自分の名前を書き込んだ。完全に更新された勇者の契約に、千年前コルネが交わした契約書は灰になって消えていった。
「一体何をした?」
 司祭の問いに、コルネは答えず司祭の方に向かって近づき、ナイフで心臓を突き刺した。司祭が仰向けに倒れ込むと、ナイフを引き抜き今度は、アレスの方に向かって近づく。
「俺に近づくな!」
 そう言ってアレスは魔法を使い、また植物の蔓を使ってコルネの動きを拘束しようとしたが、動きを止める前に、コルネによって喉元にナイフを投げられた。それが首に刺さるとアレスは思わずよろけ、自分の首に刺さったナイフを引き抜く。すると、同時におびたたしい血が首から吹き出した。
 アレスは違和感を覚えた。体に力が入らないので、その場に倒れる様に座り込む。首から噴き出る血を右手で止めようと抑えるも、一向に血が止まる気配が無い。
「何だ……これ?」
 勇者の契約上、アレスは魔王が死なない限り不死身のはずだ。そして、その契約を取り持った司祭も立場上不死の呪いを受ける。そのはずが、司祭が地面に横たわったまま動かない様子に、アレスは気付いた。自分がもう、不死の存在では無い事に。アレスは地面に向かってうつ伏せに倒れた。
 コルネは胸から血を流しながら、その場に座り込む。すっかり血の気の引いた顔で、虚な瞳をしていた。その様子を見てメルは何かを察したのか、肩で息をしながらも必死に立ち上がって、コルネの方へと駆け寄る。
「コルネ……しっかりしてよ」
 コルネは死にかけていた。空欄だった魔王の部分に自分の名前を書き込み、自ら殺される事でその呪いを解いたのだ。次第に弱っていくコルネの様子に、メルは必死になって揺さぶって彼の名前を呼んだ。それに応える様に、コルネは虚な瞳で確かにメルを見た。もはや、朧げにしか認識出来ない意識の中でコルネはメルの頬にそっと手を添える。
 それに応える様にメルはコルネの手を握りしめた。
「コルネが優しい勇者様だったんだ。せっかく出会えたのに……もっと一緒にお話ししたかったのに」
 メルは涙を流しながら、コルネに向かってそう言った。涙が、雨の様にコルネの頬を濡らしていく。朧げな意識の中でコルネは思い返していた、自分が森に捨てられたあの時の事を。
 その日は雨がしとしと降っていた。コルネは体がびしょびしょに濡れていて、寒さに体を震わせながら森の中を這っていたら、目の前に誰かが急に現れた。精一杯空に向かって顔を上げると、雨粒が頬に当たって流れてく。『大丈夫? 君どうしたの? お父さんとお母さんは?』その質問に、コルネは首を横に降って答えた。『大丈夫、安心して。私が、貴方のこと絶対助けるから』そう言うと、少女はコルネのことをおぶって歩き始める。コルネが救われた日、初めて誰かの優しさに触れる事の出来た日だった。
「私が、コルネのこと絶対助けるから」
 そう言ってメルは必死にコルネの体を起こし、自分の背中にコルネをおぶろうとしていた。本当は肺が焼け爛れた様に苦しくて、立っているだけでも精一杯だというのに。それでもメルは諦めずに、コルネのことを懸命に助けようとしていた。コルネはメルにとって大きすぎて、背中に背負うどころか立ち上がる事さえ困難だというのに。
「もういい……ありがとう。やっぱり君は優しすぎるよ」
 コルネは、朦朧とした意識の中で静かにそう言った。もはや、目の前のメルの事さえ認識出来ないくらい、夢と現実が混濁していた。メルはコルネの言葉を聞いていないフリをして、必死に彼を持ち上げようと、うんうん唸っている。
「あの日、君が俺のことを見殺しにしていれば。あの日、俺が森を出なければ」
 コルネの口から、後悔の言葉がぽつりぽつりと口から溢れていく。それに対して、メルは声を振り絞ってコルネの後悔を払う様に言った。
「コルネがいなかったら、私は生まれていないんだよ? ずっと苦しくて、何のために生きているのか分からない毎日だったけど、それでも私には、お父さんとお母さんと一緒に過ごした幸せな日々があったの。お母さんから、寝る前に優しい勇者様の話を聞くのが幸せだったの。コルネがいなかったら私は、そんな当たり前の幸せに気付くことすら出来なかったんだよ」
 コルネはメルの言葉を聞いて、静かに涙を流していた。朧げな意識の中で、確かにメルの言葉はコルネに届いていた。
「そうか。生きてて良かったんだ。誰かの役に立てたんだね」
 コルネは心底安堵したように言った。それを聞いて、メルは『そうだよ。だから、いつも私のことを救ってくれた優しい勇者様を、今度は私が助けるの!』と言って力強く引っ張る。しかし、メルはついに背負いきれずその場で倒れてしまう。メルは地面に横たわるコルネに向かって必死に声をかけた。
 コルネはすでに事切れていた。穏やかな表情で、楽しい夢でも見ているかのような優しい顔だった。コルネに寄り添う様に、浮遊岩が彼の顔の隣に落ちている。まるで、今までの彼の旅の終わりを見送る様に。

 かつてアレイスト王国と呼ばれる国が有り、その隣には広い樹海が鬱蒼と広がっていた。その森を人は恐れと畏敬を込めて、魔女の森と呼んでいた。
 しかし何度かこの森は焼かれ、その度にこの森に住む多くの生き物が死に絶えた。この森を長い間守り続けていたエルフ達も、一人を残していなくなってしまった。今日も誰かがこの森に子供を捨てていく。千年の時が経ったというのに、今だに人減らしのために子供をここに捨てるという風習は、無くなってはいなかった。
「大丈夫? 君どうしたの? お父さんとお母さんは?」
 森に捨てられ、途方に暮れ、弱っていた男の子に一人の女性が心配そうに声をかける。男の子は黙って首を振った。ボロボロの布切れを着た男の子はお腹が空いているのか、お腹を抱えてその場でうずくまっていた。
「お腹空いてるの? でももう大丈夫! 安心して。私が貴方のこと絶対助けるから」
 およそ二十二歳くらいの、赤い髪で色白の長い耳をした綺麗な女性はそう言って、男の子をおぶって歩き出した。
「どうして?……」
 男の子は不思議そうに尋ねた。それに対して赤い髪の女性は『ん? どうしたの?』と聞き返す。
「どうして僕を……助けたの?」
 男の子は、純粋に疑問に思った事を女性に尋ねた。今まで彼を道具扱いしてきた人はいっぱいいたけど、助けてくれた人はいなかった。それは男の子より年上の兄弟の方が、男の子よりもずっと優れているから。家は貧乏だから毎日食べる物にも困っている生活をしていて、とてもじゃないけど家族が役立たずの自分を養っている余裕は無いと、子供ながらに男の子は知っていた。だから男の子は自分なりに、この森へと置き去りにされる事になった状況を受け入れていた。
 だからこそ、不思議に思ったのだ。この女性はどうして自分を、何の得にもならないのに助けようとするのか。
「君は、優しい勇者の話って知ってる?」
 それに対して、女性は唐突に男の子に聞き返してきた。男の子が一言『知らない』と応えると、女性は『私は優しい勇者様に救われたの』と言った。
「私も昔一人ぼっちで、ずっと寂しかったけど優しい勇者様に救われたんだ。だからね、私も困っている人がいたら助けたいの。優しい勇者様みたいに」
 男の子は、赤い髪の女性の話を黙って聞いている。女性の背中から感じる温もりに、男の子は段々と心が安らいでいく様な気がしていた。
「いつか君も、生きていて良かったって思える日がきっと来るから。辛くて悲しくても、手を差し伸べてくれる人は必ずいるって知って欲しいの。そして、いつか君も困っている誰かに手を差し伸べてくれたら、私は嬉しいな」
 女性は穏やかな、優しい声で男の子にそう言った。男の子は、返事をする代わりにゆっくりと頷く。
「お姉ちゃんの名前、なんて言うの?」
 男の子の問いに、女性は一呼吸置いて答えた。
「私はメル。この森を守っているエルフなの。君の名前は?」
「僕は……アル」
 背中に揺られながら男の子は眠くなってしまったのか、そのまま目を閉じてメルの背中に頭を預ける。
 かつて焼かれ、切り倒され、朽ちた大木の間からは、新しい草木が芽吹いていた。夏の日差しが木々の間から差し込み、まるでメルの歩く道を照らしているようだった。男の子をおぶっているメルの首元には、あの日コルネから貰った浮遊岩がぶら下がっている。
 かつて魔女の森と呼ばれた場所は、一人のエルフを中心に多くの人々が集まっていた。もうすでに、この森は人々が恐れる魔女の森ではなく、多くの人が助け合い、自然に寄り添って暮らす平和の森となっている。
 メルがこの地に来ておよそ十年の時が経ち、彼女は立派な大人へに成長した。魔法も、もうすでに母の杖と本を使わなくても制御出来るようになっている。
「でもまだ火の魔法は苦手なんだ」
 メルは独り言をポツリとつぶやいた。
「でも、あれから私頑張ったんだよ? 今はもう一人ぼっちじゃないよ。沢山友達も出来たんだ。だからね」
 メルは首元にかけた浮遊岩に向かって語り掛ける様に言った。
「私、コルネみたいになれたかな?」
 メルがそう言うと、首元でゆらゆらと揺れている浮遊岩が微かに光る。それは、周囲の光をたまたま映しただけかもしれないし、太陽の光がたまたま反射しただけかもしれない。それでもメルは、コルネが確かに返事をしてくれたように感じて嬉しくなり、思わず微笑んだ。
キーゼルバッハ 3Slt0jAGAw

2021年08月08日 22時09分48秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆テーマ:【夏】×【火】【風】
◆キャッチコピー: ひとりぼっちの女の子とひとりぼっちの男の物語
◆作者コメント:
 夏企画主催並びに運営の皆様、夏企画開催おめでとうございます! そして大変な時期ながら企画運営誠にありがとうございます!
 参加者の皆様も執筆の方お疲れ様でした。
 微力ながら、夏企画の賑やかしになればと参加させていただきました。
 少しでも皆様の印象に残る作品であれば幸いです。

2021年08月21日 23時56分30秒
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