2006

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 母親の財布に、千円札が六枚入っている。
 この中から果たして一枚盗るのか二枚盗るのか、それが問題だった。
 判断は可及的速やかに下さなければならない。今母親はベランダにて洗濯物を干しているところだが、過去の傾向から推測して、およそ三分から五分後にはリビングルームに戻って来てきてしまう。財布を覗き込んでいるところを発見され、現行犯逮捕という最悪の事態だけは避けなければならなかった。
 もちろん、一枚よりは二枚盗れた方が嬉しいことは言うまでもない。
 俺はトレーディングカードゲーム『デュエルマスターズ』の大ファンであり、それは六年二組の男子の大半がそうである。クラスの友人達とは互いに切磋琢磨し合う関係であるのだが、強力なデッキを作る為には高額なカードが必要だ。千円でも多く獲得できるに越したことはない。
 三枚ある万札の一枚を抜いたのならともかくとして、千円が二枚減ったところで気付かないのではないか? そう期待して千円を二枚抜こうとした途端……背後でガラス戸を開く物音がした。
 全身に水をぶちまけられたような薄ら寒い焦燥感。俺は咄嗟に母親の財布を元あった鞄に放り込んだ。
 「そんなとこで何してんの? 夢人(ゆめと)」
 俺は「何でもない」と言って誤魔化し、この場から逃げ出したくなって
 「冬野んとこ行って来る」
 と告げた。
 「え? 冬野さんのところへ行くの? あんまり、あの子とは仲良くしない方が……」
 「大丈夫だよ。冬野本人はすげぇ大人しい普通の奴だし。それじゃあっ」
 そう言った俺の言葉には嘘が含まれている。後半部分がそうだ。
 クラスメイトの冬野星空が大人しい奴なのは事実である。教室でも放って置いたら一日中本を読んで過ごしているような奴で、二クラス四十数人しかいない学年で六年間過ごしてまともに友達と呼べる相手もいない。教師を怒らせるようなことは滅多にせず、勉強が良くできる。
 しかし普通の奴であるとは……とうてい言い難い。

 〇

 冬野星空という女子について語る時、最初に言及すべきはその可憐さである。
 もう本当に顔の作りが良い。クラスで一番可愛いとかアイドル級の容姿だとか、星空はそういう次元に収まりきらない。確率上、何万人かに一人は完璧な造形の顔を持った人間が産まれて来ると言われているが、星空はおそらくその類である。
 まず目がでかい。これでもかってくらいに漫画みたいにでかい。『ぱっちり』とかそういう落ち着いた表現はまず当てはまらない。見た途端、『うわ、でっか!』とびびる感じである。
 その目はかなり黒目がちである。肌は雪みたいに白い癖して、髪と瞳の色素は強く、黒の絵の具をそのまま絞ったように漆黒だった。弱気な性格を表すかのように垂れ目がちで、大量のまつ毛はまばたきでそよ風を起こせそうな程である。
 鼻と口は小さめである。小さいながら通った鼻筋の先は高く尖がっており、桃色の唇は薄さの割には健康的にふっくらとしている。きめ細やかな肌は雪のように真っ白で、卵型の整った顔の輪郭をややボリュームのある黒い長髪が覆っている。
 背丈は先の健康診断の結果によれば百五十一センチ。体重は三十八キログラム。体格が出来上がっていない子供であることを差し引いても、痩身の部類である。ただし完全な児童体型という訳ではなく、最近ではバストがピンと突っ張るようになって来ており、女の身体に発育し始めている傾向も見受けられる。
 長々と星空の容姿について語って来たが……その性格の方もなかなか強烈である。
 表向きの印象としては、大人しい奴と言った感じである。大人しいというより、鈍重と言った方が良いかもしれない。勉強はまあ出来て大人の言うことはちゃんと聞くので、少しばかり動作が『とろい』ことを差し引いても、親や教師からはそれなりに良くできた子供に見えるようだ。
 そんな星空は、自分は異世界から来たとしばしば主張している。
 星空は八歳ごろまで自分の生まれた世界で生活した後、道路を歩いている時にトラックに跳ね飛ばされた。死んだかと思って目を閉じた次の瞬間、気が付けば今の世界に転生していた、などと言うのだ。
 元いた世界がどんな場所かと尋ねると、『今いる世界とほとんど違いはない』と答える。文化や技術水準が近い、という次元でなく、鏡写しにしたかのように相似しているらしい。町の様子も流行っているテレビ番組にも違いはなく、星空の家や両親、クラスメイトに至るまで、どちらの世界にも同じように存在している。
 パラレルワールドのようなものだそうだが、しかし別世界から転生して来た俺の知る『冬野星空』は、こちらの世界固有の『冬野星空』をどこにも発見できなかったらしい。それ故に、俺の知る今の世界で新しい生活を始められたのだそうだ。
 二つの世界にある違いはただ一つ。元いた世界にはあった『ハナ』と『ホシ』という二つの概念が、こちらの世界では消えてしまっていることらしい。
 『ハナ』というのは植物の茎の先端に付随している、たいていは良い香りを放つ色とりどりの美しい物体を差す言葉である……らしい。よく分からんが本人はそう主張している。
 『ホシ』というのは、夜空を見上げた時に暗い天蓋を覆うよう輝いている小さな光点を差す言葉である……らしい。星空はそう主張していた。ついでに言うと、その『ホシ』がたくさん輝いている空のことを『ホシゾラ』と言う。それはまさに星空の名前の由来であるはずなのだが、そのことを名付け親の両親は覚えておらず、他で全く見たことのない『星』なんて珍妙な漢字を何故自分たちは娘に与えたのか、疑問でたまらないのだそうだ。
 もちろん俺達が生きている現実に、『ホシ』や『ハナ』なんてものはどこにも存在していない。かと言って異世界なんぞある訳もない。にも拘らず、ありもしない過去の景色を脳内ででっちあげ、声高に主張する星空は妄想癖の変人だった。
 その変人性故、星空は敬遠されがちである。まあ彼女が敬遠される……というかぶっちゃけ無視や陰口などのいじめにも晒されているのには、他にもいくつか理由があるのだが、それは後述することにするとして。
 問題は、どうしてそんな女子の家に、俺がたまに遊びに行くのかということだ。
 それには歴とした理由がある。
 星空の家は環境が良いのだ。
 星空の部屋は十二畳ほどの広くまったりとした空間である。そして複数ゲーム機と大量のソフトが揃っている。ゲームキューブもPS2もゲームボーイアドバンスSPも全部あり、百本を超えるゲームソフトに加え、四十八インチの大型液晶テレビまでをも所有している。さらに魅力的なのは千冊を超える漫画を収納した本棚で、金がなくて渋々図書館での読書を趣味としている俺からすると、人気作を大量に詰め込んだその本棚は宝の棚も同然である。星空はこれらを気前よく遊ばせてくれ、読ませてくれる。加えてお菓子もジュースも望めば臨んだだけ出て来るのだから、いたれりつくせりとはこのことである。
 星空の家は金持ちで、父親はヤの付く仕事をしている。表向きの肩書は金融会社の社長であるが、債務者を追い込んでマグロ漁船に乗せるくらいのことは日常茶飯事との噂だった。
 星空の父さんにはしばしば会ったことがあるが、ハンサムで子供に優しい人物だったし、何の仕事をしていようが子供の俺には関係がない。俺の母親は「あんまり冬野さんとは遊ばない方が……」などと言って来るが、気にしたことはなかった。
 星空の家は最高の環境だ。大切なのはそこだけだ。

 〇

 その日は星空とデュエルマスターズのカードで遊んだ。
 星空にはデュエルマスターズのルールを一通り覚え込ませてある。アタマの悪い奴ではないので、丁寧に教えれば簡単な遊び方を覚えるのはすぐだった。
 その日は星空とデュエルマスターズのカードで遊んだ。
 星空にはデュエルマスターズのルールを一通り覚え込ませてある。アタマの悪い奴ではないので、丁寧に教えれば簡単な遊び方を覚えるのはすぐだった。
 無論、覚えさせた目的は俺の相手をさせる為である。星空自身がカードを集めている訳ではないので、俺のデッキを一つ貸し渡して……ということになる。
 ぶっちゃけ女子とカードをしても盛り上がりは半減だし、自分のデッキと戦っても新鮮味がないのでそこまで愉快でないのだが、それでも妥協できる程度には俺はこのカードゲームが好きだった。
 「夢人くんは強いねぇ、全然敵わないなあ」
 なんて媚びたような顔をする星空。
 「夢人くんのそのカード強いよね。出してすぐ攻撃出来て、一回にシールド三枚墓地における奴。わたしには使わさしてくれないけど……」
 女子をカードゲームに付き合わせるというのは、通常なら相当困難なことだ。だが星空に関しては別である。こいつは何だって俺の言うことを聞くし、文句を言ったことなど一度もない。
 何故俺と星空がこうして遊ぶようになったのかと言えば、その理由は俺がこの街に引っ越して来たばかり日々に遡る。
 小学四年生の、夏休み中のことである。父親の仕事の都合でこの街に引っ越して来た俺は、近所への挨拶の一環として、同じ年の女の子がいるという冬野家の豪邸に連れられた。
 そこで星空と出会った。その途轍もない美少女ぶりに驚嘆したのは言うまでもない。冬野家の家長である星空の父は、一緒に挨拶しに来た俺を気前良く自宅へ案内し、星空の部屋で遊ばせてくれた。
 最初は星空と遊ぶのではなく、星空の部屋で遊んでいたというのが正確だった。星空は俺に話しかけるのにも緊張した様子でずっともじもじしていたし、俺だって最新のゲーム機を前にただただ感動して星空のことはそっちのけにしていた。
 だがゲーム機のコントローラーは一つではなく複数あった。やがて一緒にプレイする流れになるのは自然なことである
 星空は楽しそうにしていた。星空はヤクザの父親を持つことと持ち前の妄想癖とエトセトラの理由で、周囲から敬遠されていた。そんな彼女にとって、一緒にゲームをしてくれる同級生を得て、宝物を貰ったような気持ちになったのだそうだ。俺が帰らねばならない時間になると涙ぐむ程で、その様子を見た星空父は俺に微笑みかけて「いつでも好きな時に来て欲しい」とそう告げた。
 それから夏休みの間中、俺は星空父の言葉に甘えまくった。星空の部屋はそれほど最高の環境だったのである。あまりに毎日来ていたので、星空など『家族みたいに足音で夢人くんが分かる』と言っていた程だ。
 冬野家の人達は俺を歓迎してくれた。何せ炭酸飲料が苦手だという星空が飲まないコーラが俺の為だけに冷蔵庫に常備されていたのだから、相当なもてなしぶりだ。
 星空には妄想癖があったが、それにテキトウに付き合うのは難しくなかった。別に人を傷付けたりバカにしたりする類の妄言ではないし、そもそも俺もバカだったので若干信じてしまいつつそこそこ真剣に聞いていたのだ。そのことも星空を喜ばせたようだった。
 だが夏休みが明けて学校での星空の立ち位置を知り、男子の友達も増えて行く中で、星空とはあまり遊ばなくなった。そもそも女子と学校で仲良くすること自体割と地雷なのだ。あのゲームも漫画も充実した部屋が懐かしくなった時や、他に遊び相手が捕まらない時を除いて、この家にもあまり来なくなった。それが星空を寂しがらせたのは言うまでもない。
 「あの夏休み、楽しかったね。人生で一番素敵だった時間だと思う」
 そんなことさえ、会話する度星空は俺に漏らした。俺は首肯することが出来ない。
 確かに一昨年のあの夏もそれなりに楽しかった。だが女子とゲームをしていただけでは、人生最高の夏というのには程遠い。転校先の学校にも馴染んで、出来た友達と街を駆け回った去年と今年の夏の方が、よっぽど充実していたと言える。
 しかし……それでも星空にとっては人生最高の夏だったというのなら、そのことに奇妙な愉悦を覚えもする。
 その愉悦感が星空の極端に優れた容姿にも起因しているという自分の気持ちにも、俺は薄々、勘付いてもいた。

 〇

 ひさしぶりに星空と遊んで、カードゲームに付き合わせたり最新のゲームをプレイさせてもらったりして、まあまあ楽しい気分で一日を終える。これが土曜日。
 で、翌、日曜日。俺は男子の友達と遊びに出ていた。
 神社である。
 お参りをするのではない。サッカーボール等を持ち込んで、単純な遊び場として空間を利用するのでもない。
 ……賽銭をせしめるのだ。
 「最低でも、三百円は集めるぞ」
 そう言ったのは川崎正義……転校して来てからというもの、一番多くつるんでいる男子である。
 この男子の外見的特徴の最たるものは、その身長である。小六で百六十八センチある。高い。そしてガリガリに痩せている。全体のフォルムはゴボウのようである。
 長身痩躯と言えば聞こえは良いが、身だしなみに疎く入浴や歯磨きさえサボるようなところがあるので、決して恰好良くは思われず女子には基本的に嫌われていた。
 性格的特徴としては、喋り口調が小学生らしくないことが上げられる。自室にパソコンを持っているらしく、『2ちゃんねる』というアングラなネット掲示板を趣味としており、そこで大人達と書き込みに夜会話を行う内に、子供じみた語彙や言いまわしを獲得したらしかった。そんな喋り方にも、俺は本をよく読むから付いて来られるし、むしろ最近ではその喋り方が俺に移って来てもいた。
 「賽銭泥棒は立派な窃盗行為だが、僕達小学生には少年法が適応される。遠慮なくその恩恵を享受するとしよう」
 そう言う川崎に、俺は頷いて見せる。そして川崎と二人で神社に落ちている小銭を拾い集め始めた。
 神社にはあちこちに……意味の分からないモニュメントの前などに十円や一円、たまに五十円や百円などが落ちている。これらを数週間ごとに見て回り、小遣い稼ぎをするのが俺たちの日課であり、月の小遣いが千円の俺達の貴重な収入源だった。
 黙々と十円玉を拾い集めつつ、川崎は俺に話しかけて来た。
 「クラスの、福本という奴に付いて言いたいのだが」
 それを聞いて、俺はいつもの愚痴が始まったことに気が付いた。川崎は続ける。
 「あんなに鬱陶しい、モラルも品性も欠如した男はそうはいないよなあ」
 川崎は福本といういわゆるいじめっ子に良くちょっかいを出されている。その悪臭をこっぴどくバカにされたり、脚を掛けて転ばされたり、あまり良い思いはしていないようだ。
 福本は身長が百六十センチほどで、小太りの体格をしている。小太りだが、力がある。浅黒い肌をしていて、ぽっちゃりとした頬とつぶらな感じの瞳を持つという少年で、いわゆるガキ大将的なポジションの男だった。
 「そうだなあ。ああ見えて塾にも通ってるから成績も良くて、親も裕福な方で。嫌味ったらしいし、俺も嫌いだよ」
 俺はそう言って川崎に共感してやる。
 「いじめっ子だしなあ。おまえもしょっちゅうちょっかい出されてるし……他にも西園とか田浦とかもいじめてるじゃんか? 俺も前に当てたばかりのカードを集られそうになった。まあ、地味派の男子はだいたい被害にあっているよな」
 「そうだろう。僕は思うんだ。ああいった悪辣な輩は、一度酷い目に見せてやった方が、世の為人の為だとな」
 そう言う川崎に、俺は厳かに頷いた。常々俺は、福本の蛮行に参っていたのだった。
 「そんな福本の奴を、懲らしめる方法があると言ったら?」
 俺は目を丸くして顔を上げた。
 「どういうことだ?」
 「明後日、街に新しいカードショップが回転するのを知っているか?」
 「知っているとも」
 知らない訳がない。むしろ、誰よりも胸をときめかせているという自負がある。
 「じゃあな真崎。そのカードショップ『スマイル』で、週に一回、土曜日にデュエルマスターズの大会が開かれるのも知っているか?」
 「知ってるぞ。タカラトミー公認の大会だから、公式プロモーション・カードも手に入るんだよな? 俺も出たいと思っているが、次の土曜日は学校があるから……」
 既に小学生たちに完全週休二日制が敷かれて数年が立つが、しかし次の土曜日は半日だけ授業があった。代わりに月曜日が休みになる。どうもその土曜日に生徒を集めなければならない用事があるらしく、そのような変則的な日程が組まれているのだ。
 「塾で一緒の奴に聞いた話だが……その土曜日の大会に、福本達は何としても出るらしい」
 「バカな」
 俺は答えた。大会の開催日時は土曜日の午後一時、そして土曜日に学校が終わるのは午後零時三十分。どう考えても間に合わない。
 「学校から『スマイル』までは自転車で十五分程かかるだろう? そりゃあ学校が終わってすぐにショップへ向かえばぎりぎりで間に合う可能性もあるが、いったん家にデッキを取りに行かなければならないから、結局無理だ。特に福本なんかは家が遠いから、まず間に合わないぞ」
 「それが間に合うんだよ。……学校にカードを持ち込めばな」
 なるほど、そういうことか。
 家にカードを取りに行く手間を省けば、確かに大会には間に合うかもしれない。店舗が開店して最初の大会だ。盛り上がるし、可能ならば出たいに決まっているのだ。
 だが学校にカードを持ち込むのは大きなリスクだ。教師に見付かれば没収されてしまい、取り戻すのには決して愉快とは言えないイニシエーションを通過せねばならない。
 「教師にチクるのか?」
 俺は言った。福本を懲らしめるのなら、悪くない方法であるように思われる。
 「違う。もっとすごいことをやるのだ」
 そう言って、川崎は黄色い歯を見せて笑う。そしてポケットから一本の鍵を取り出すと、俺に差し出してふらふらと横に振った。
 「これは教室の鍵だ」
 俺は目を見開いた。
 確か、三日前に級長が一時的に管理を任されていた教室の鍵を失くすという事件があった。理科の実験中に机の上に置いておいたのを、紛失したものと思われる。
 鍵の捜索は今も続けられているが、もうほとんど諦められているような状況である。そろそろ教室の錠事態を取り換えなければならないはずなのだが、学校側も忙しさを理由に先延ばしにしているのが現状だった。なあなあなものである。
 「おまえが盗っていたのか、川崎」
 「そうだとも。僕の目は一瞬の隙も見逃さない」
 そう言って誇らしげに黄ばんだ歯を見せ付ける川崎。
 「土曜日の時間割がどういうものかは知らないが、移動教室の授業も一つくらいはあるだろう? そこを狙って、この鍵で教室に侵入して、おそらく福本がランドセルにいれてあるだろう奴のカードを盗むのだ」
 「ど、泥棒か。それは大仕事だな」
 「だが福本のデッキを手に入れられるのは大きいぞ? 裕福な奴は相当なカード資産を有しており、デッキなど八つも所持している。奴がデッキケースごと学校に持ち込むとすると、それらが一挙に手に入る。僕と君とで二等分したとしても、相当な収穫になるぞ」
 「そ、それはすごいな」
 「やるか?」
 「おう。やるとも」
 俺は目を輝かせる。あの福本に一泡吹かせた上、自身のカード資産を大幅に増やすことが出来る。俺は胸の高鳴りを感じていた。
 「それにあたってだ。まず真崎。僕はこの鍵を級長から盗んだよな?」
 そう言う川崎に、俺は頷いて見せる。
 「つまり、一つ大きな貢献をしていることになる」
 俺は頷く。もし川崎が鍵を盗んでいなかったら、カードを盗む計画を立てるのは相当難航したに違いなかった。
 「では、実際にこの鍵を使って教室に侵入しカードを盗む役割は、当然君がやってくれるよな?」
 「はあ?」
 俺は目を見開いた。すると、川崎は鷹揚な態度で
 「鍵を盗んだ僕が、カードまで盗むんだったら、全部一人でやった方が良いことになるだろう」
 「そうだけど……一番危険な役割を俺がやらなければならないのは……」
 「嫌ならば良い。この計画自体水に流そう」
 「おまえはやらないのか?」
 「その場合収穫は全て僕の物だな。無論やっても良いが、既に計画を知っている君がいるからな。全てをバラすぞとゆすりをかけられてはつまらないだろう」
 「なら何故俺に話した?」
 「一番危険な役割を代行させたいからに決まっているだろう?」
 そう言ってさも当然の理屈だとばかりに肩を竦める川崎。どうもこいつは、こういう男なのだ。
 「どうやって教室に侵入するんだ? この鍵があったとしても、移動教室中に俺だけが教室に行くのは難しいぞ」
 「それは自分で考えるんだ。助言くらいならしてやっても良いがな」
 「そんな無茶な……」
 「おまえがやらないんなら計画はなしだ。まあ、鍵は渡して置くから、土曜日までじっくり考えてみることだな」
 そう言って川崎は俺に教室の鍵を押し付けると、ほくそ笑んだ表情のまま再び賽銭を探し始めた。

 〇

 一晩中悩み抜いたが、妙案は思い浮かばなかった。
 体育ないし音楽家庭科と言った授業の最中に何らかの方法で抜け出し、教室に向かうという方法が考えられたが、しかしその抜け出す為の方法が思い付かない。
 トイレに行きたいと主張したところで稼げる時間はたかが知れているし、ならば保健室に行くと主張するのはどうかというと、体調不良の演技に自信がない。俺は健康優良児で、今まで一度も保健室を利用したことなどないから、怪しまれる可能性は高かった。
 結局、どうすることも出来ないということだ。毎朝登校を共にしている川崎にそれを告げると、奴は嫌味ったらしく肩を竦めて両腕を晒した。
 「君には失望したよ」
 なんというウザい奴なのだろう。どうして俺はこんな奴と友達なのだろうか。
 「まあ土曜日までにはまだ数日ある。じっくり考えてみてはどうだ?」
 「そういうおまえには何か案があるのか?」
 「ないな。昨日はネットで『涼宮ハルヒ』を視聴するのに忙しくその暇はなかった。あの作品は本当に凄まじい。2ちゃんねるでも大ブームだ」
 知らん。だがそんな俺の内心にお構いなく、川崎は『涼宮ハルヒ』の人気ぶりや見どころについて一席ぶち始めた。こいつのオタ・トークに付き合わされてはたまらないので、俺はテキトウな奴に話しかけてこいつから離れようとして目を配る。そして星空の背中を見付けて、「よう冬野」と声をかけた。
 赤いランドセルを背負った星空は一瞬だけ肩を震わせると、声を掛けたのが俺であることに気付いて振り向いた。豊かな黒髪を揺らしつつ、整った笑顔をこちらに向けるその所作には、光の粒子が飛び散るような眩さを感じる。美少女とは、星空とはそういうものだ。
 そんな星空に強烈な足払いをかけ、転ばせる存在があった。
 色黒小太りの子供社会の帝王、福本である。
 福本は何やら怒り狂った様子で、尻餅を着いた星空の肩を二、三発小突いた。星空は恐怖の表情で固まりながら甘んじて暴力を受け続けるしかない。
 「い、痛い痛い。どうしてそんなことをするの? やめて」
 悲鳴をあげる星空。俺は何が起きているのか分からず戸惑った。女子に暴力を振るうという控えめに言っても人間の屑としか言いようのない行為に、度肝を抜かれてしまったのだ。福本は卑劣極まりない人物だったが、ここまで酷いことは滅多にしない。
 福本は背後に自身の取り巻き数名他、広沢という女子を従えている。この広沢というのがまた女子の帝王として威張り散らすばかりか、俺や川崎のような地味派の男子をバカにし虐げにする嫌な奴であり、しかも福本と仲が良かった。
 「お、おいおい福本くん。何をしているんだ。流石にそれはまずいだろう。先生に怒られるぞ」
 俺はびくびくしながら福本に制止を呼びかけた。
 「あんたは何も知らないんだから、黙ってなさいよ」
 そう言ったのは広沢である。バスケットボールで鍛えたがっちり目の体格と、細い三白眼で持って睨み付けられると、女子と言えども迫力は満点である。
 「だ、だ、ダメだぞ。黙らないぞ。せめて理由を聞かせて欲しいぞ」
 俺は絞り出すようになんとかそれだけ言った。星空は人望とは無縁の女子である。福本&広沢という六年生の男女それぞれの帝王を前に、俺以外誰が星空を庇えるというのか。
 「こいつがおれらの猫を保健所に連れて行きやがったんだよ」
 福本は言った。福本と俺の間には抗い様のない序列関係があるとはいえ、一応、男子同士だ。パシりにされたり搾取されたりすることがあっても、遊ぶことが全くない訳ではない。多少の話はできるのだ。
 「そ、そうなのか? 詳しく聞かせてくれ」
 「だからな。おれと広沢で、灰屋の中で段ボールに入れて飼ってた猫がいてだな。昨日も餌をやりに灰屋に行ったら猫が消えてて。色々聞き込みしたら、冬野が保健所に連れて行くのを見たって奴がいたんだよ」
 「……だから、それは図書券が欲しくて……」
 星空は弁解するように言う。いやそれはまったく弁解になっていないどころか、犯人が犯行動機を供述したに過ぎないし、また情状酌量の余地があるようなものではなかったので、ますます福本を怒らせて蹴りを二発もらった。きゃんきゃんという悲鳴。
 福本だって余程のことがなければ女子に暴力を振るったりしない。が、可愛がっていた動物を失った悲しみは、彼の中のストッパーを解除させたらしかった。
 「冬野おまえ……またそれやったのかよ」
 俺は溜息を吐いた。
 星空には近所で野良猫を発見すると、保健所に連れて行き図書券を手に入れるという習性がある。
 別に金持ちの星空が五百円ぽっちの図書券を本気で欲しい訳じゃない。ただ自身の行動によって大人から褒めてもらい、図書券と言う『ご褒美』を獲得するという一連の行程に、充実感を覚えているそうなのだ。
 「だって、だってぇっ。保健所の人、すっごく褒めてくれるんだもん……」
 「でもなあ。おまえ、それやってるからクラスでいじめられるって分かんないかなあ」
 「で、でもっ。別にわたし、悪いことしてる訳じゃないし……」
 野良猫を保健所に連れて行く道程でクラスメイトに発見された星空は、そのクラスメイトに洗いざらいを説明したらしい。悪いことはしていないから隠す必要などない、という理屈である。
 まあそれは間違ってはいないのだ。野良猫というのは地域住民に迷惑を掛ける害獣であり、それを保健所に連れて行くことは、世の愛猫家がどれだけ顔をしかめようと歴とした善行に当たる。感情としてなら、野良とは言え人が可愛がっている猫を連れて行くのは酷いというのも分からんではないが、元はと言えば野良猫を餌付けする方が間違っていると言われればそれまでだ。
 星空は変わった奴だし空気も読まないが、今回の件を客観的に分析すれば、悪いのはどう考えても福本&広沢ペアである。だが子供社会ではそんなモラルが通用するはずもない。
 福本は星空を蹴りつけ、怒鳴る。
 「返せよ! おれ達のミャーコを! おまえが保健所に連れて行かなきゃ、もう少しで飼い主が決まるところだったんだぞ!」
 「わ、わぁん! ごめんなさぁい! 許してっ、許してよー!」
 等と言いながら、星空は不自然に背中を向けて壁の方を向いた。その行為を話し合い(なんてものは最初から行われていないが)の拒絶と認識した福本&広沢は、怒りを増して彼女の肩や臀部を攻撃し続ける。
 「お、おい。やめろって……。せめて口で言えって。暴力は……」
 等と、俺が止めに入ったところで、おもむろに星空はこちらをふり向いた。
 顔中が血に塗れている。
 福本と広沢は息を呑みこんで沈黙した。いやただ鼻血が出ているだけであるのだが、それが顔中に塗り広げられているので、まるでとてつもない大けがをしたかのような迫力がある。少なくとも、教師が見付ければ大事と捉え騒ぎになることは明白だ。
 「お、おお、お、おまえどうしたんだよ? なんでそんなグロいことになってるんだよ?」
 福本はビビった様子で口にした。チャンスだと思い、俺は星空の手を握ってその場から強引に連れ出した。
 「保健室連れてって来る! 理由はテキトウに誤魔化しとくから!」
 そう言ってその場を離れる俺達を、福本らは「チクんなよ!」とだけ告げて見送ってくれた。幸いである。
 「大丈夫か? 星空」
 俺が尋ねると、星空はちょんと頷いて、涙と鼻血で塗れた顔をハンカチで拭いながら
 「多分手加減されてたし本当に痛かった訳じゃない。ケガもしてないし、大丈夫だよ」
 誰が体のケガを心配しているというのか? それに。
 「いやあでも鼻血出てるじゃないか? それでケガしてないってのはおかしいぞ」
 「これは自分で出したんだよ」
 「は? じ、自分で出した? ……ああ、そうか」
 こいつには『いつでも好きな時に自由自在に鼻血を出す』という特技がある。『どうやってんだ?』と尋ねると、『こうやるの。こう!』と言いながら自分の鼻を手の甲で叩いて見せていた。嫌いな体育の授業の前などに発揮される技であるのだが、そうまでして休みたいのかと思うことは多い。
 「じゃあ、あいつらに背中を向けた隙に、技を使ったのか?」
 「そう。騙されてくれて良かったーっ」
 騙されたというのは違うと思う。自分の顔を叩いて鼻血を出した上、それを顔中に塗り広げなければならなかったというのは、十分に悲惨な目にあっていると思う。
 だがそれを指摘することを俺はしなかった。加虐者達に対するちっぽけな勝利に満足の笑みを浮かべている哀れな星空の、なけなしの矜持を奪い取るなど誰が出来よう。
 「あの、ありがとうね夢人くん。助けに入ってくれて」
 「いや、大したことはしてないし、それは良いんだ」
 可能なら福本達いじめっ子をぶちのめして星空を助け出したかったのだが、そんな腕力も度胸も俺にはないのでどうしようもない。星空が助かったのは、彼女自身の鼻血と引き換えにしたからであって、俺は本当に何もしていない。
 だがそんな俺のことも星空はまるでヒーローを見るかのように、目を輝かせて見詰めている。さらには若干頬を赤らめ、宝物でも触るかのように俺の手を握りしめているのだ。そう言えば手をつないだままだった。
 俺は慌てて手をふりほどき、そしてふと思い付いた。
 こいつはいつでも鼻血を出すことが出来る。そして、嫌なことがあるとしょっちゅう鼻血を出して保健室に逃げているから、それは『いつもの行動』でしかなく、怪しまれづらい。
 そしてこいつは多分俺のことが(どういう種類かは考えないことにしているが)好きで、俺の言うことは何でも良く聞く。あんなにされるくらいだから福本のことは憎んでいるに違いなく、利害関係も一致する可能性が高い。
 「なあ、星空」
 俺は手を振りほどかれて悲しそうにしている星空に向けて声を掛ける。
 「な、何?」
 「頼みたいことがあるんだ」
 「いいよっ」
 内容も聞かず、星空は元気に答えた。
 「夢人君の為なら何でもするよ」
 その言葉に、俺は息を飲み込む。そしてあたりを見回して誰もいないことを確認してから、川崎に持ちかけられた計画について説明し始めた。

 〇

 「本当に、そいつに盗んで来られるんだろうな?」
 問題の土曜日である。三時間目の体育の始業前、運動場前の倉庫に隠れ潜みながら、星空を親指で示しながら川崎が言った。
 「で、できる、出来ますよ」
 緊張しているのか、星空は裏返った声で宣言する。それを聞いた川崎は、やや胡乱な視線を向けつつも渋々首肯した。
 それを見て俺は言う。
 「作戦を確認するぞ。まずあらかじめ冬野に教室の鍵を渡して置く。そして授業の開始と同時に、鼻血を出した冬野が保健室へ向かうと言って運動場を離れる。そして保健室に行くと見せかけて教室に行った冬野は、福本のカードを盗んで自分のランドセル内に隠すという訳だ。終わった後は本当に保健室に行って何食わぬ顔で寝ていれば良い」
 星空が保健室に行くのはしょっちゅうだから、いちいち保健委員が付き添ったりしない。まさか福本も女子である星空にカード泥棒の容疑を掛けたりはしないだろう。なかなか良い作戦だ。
 「まあ良いだろう」川崎は横柄に言った。「で、どうやって鼻血を出すんだったかな?」
 「こうするんです。こう!」
 そう言って冬野は手の甲で自分の鼻を軽く叩いて見せる。
 「良いだろう。時間も少なくなって来たし、さっさとやっちゃってくれ」
 二時間目と三時間目の間の長めの休み時間……行間休みと呼ばれる……ももう残りわずかだ。冬野は厳かに頷いて、手の甲を自分の鼻にぶつけた。
 「んん、んっ。んふっ」
 びたん、びたんびたんと手の甲が鼻にぶつかる音がする。しかし鼻は軽く赤くなるばかりで、一向に出血する様子を見せない。
 「んっ、んっんっんっ。んふっ!」
 三分ほど続けて力一杯何度も鼻に手の甲をぶつける続ける星空だったが、思うように鼻血が吹き出さないようだった。これには川崎も焦れた表情で
 「おいおいおい。出ないじゃないか!」 
 と文句を付けた。
 「ご、ごめんなさい。ちょ、調子が悪い時もあって……」
 「ああもう。何を手加減しているんだ。思いっきり全力で自分の顔を殴りたまえよ」
 「そうしてるんだってばあ……。えいっ! んっ、んんっ。んふっ! んんんんっ!」
 「じれったい! そうだ、自分でやるからダメなんじゃないのか?」
 そう言って、川崎は己の手を振り上げる。
 「わっ! わ、わ、わ。何するの?」
 「ようは鼻腔内に出血が生じる程の刺激を与えれば良いのだろうが。だったら僕が代わりにやってやるというのだ」
 「おいおい川崎。それはいくらなんでも……」
 俺が停めようとすると、しかし星空はしばし思案顔を浮かべ、それから目を閉じて顔を川崎に差し出した。
 「やって」
 「は? いや……良いのか星空」
 俺は不安になって尋ねる。
 「うん。本当に時間もないし、それに、なんか今日調子悪いみたいだから……」
 こいつが今日上手く鼻血を出せないのは、川崎が睨むもんだから緊張して普段通りの力加減が出来ていないからだ。だがそんな自己分析を星空には出来ないらしく、ただ『何となく調子が悪い』と受け取ってしまっているようである。
 「良いだろう。やってやろうじゃないか」
 そう言って、川崎は思い切り手を振り上げる。
 「ふんぬっ!」
 川崎は本気でやった。もう本当に情けも容赦もなかった。びたーんと小気味良い音が響いて、星空の顔面に真っ赤な手の痕が出来た。
 星空は思わずと言った様子で自分の顔を抑えていたが、顔を上げても鼻血が流れ出てはいなかった。
 「まだダメか。冬野、君と言う奴は、本当に鼻血を出す特技があるのか?」
 「ご、ごめんなさい。でも、も、もうちょっと下かなあって……。そこだと本当単にすごく痛いだけっていうか……」
 悪態を突く川崎に、媚びたような態度で指摘する星空。川崎は不機嫌な態度を取りつつも、「こうか?」と言いながら星空の顔面を再び平手で殴った。
 「も、もっと下!」
 「ならばここか?」
 ばちん。
 「そ、それだと下すぎる……」
 「ならこれで良いか?」
 ばちん。
 「も、もっと右かも……」
 「注文の多い奴だな!」
 ばちん。
 「で、出ない……全然鼻血出ない……」
 「ああもう時間もないというのに! もう良い! ことここに至ってはしょうがない! 禁じ手を使おう!」
 そう言って、川崎は開いていた右手をぎゅっと握りしめて構えた。パーからグー、ビンタからパンチへの移行である。
 「お、おい川崎。いくら何でも女子の顔を殴るのは……」
 ただでさえ星空の顔面はもう酷いことになっているのだ。赤い手形が顔のあちこちに出来ているのみならず、両目は充血して今にも涙が流れそうになっており、唇が切れて赤い血が滲んでいる。その上グーで追い打ちを掛けるのはあまりにも気の毒だった。
 「時間が足りないと言っているだろう! 冬野もそれで良いな! 良いと言え!」
 「……え、い、いや。ちょっと、あの、わたし、怖い……」
 「誰の所為でこんなに時間を食っていると思っているのだ! 覚悟を決めろこの女郎!」
 「せ、せめて一発で! 人思いに一発で出るようにして! 何度もグーはいやだよぅ……」
 「望むところだ。行くぞ! うおおおおっ!」
 そう言って川崎は星空から一歩距離を取り、腰を大きく後ろに退いた。そして一歩分の踏み込みで助走を付けつつ、腰を巧みに回転させ体重と勢いを拳に乗せる。そうして見事なパンチを星空の顔面に全力でお見舞いした。
 ゴカっ! という鈍い音がした。もう皮と肉とを通り過ぎて骨と骨とが衝突し合うような生々しい音である。星空はあっけなくその場を吹っ飛ばされて、コンクリートの床に転げてから顔をうつぶせた。
 「お、おい星空……大丈夫か?」
 星空はうつ伏せになったまま震えて何も言わない。本気で心配になって来た俺が彼女の肩に手をやろうとすると、星空は気でも触れたかのように唐突に自分の顔を床に叩きつけ始めた。
 長い黒髪を振り回しながら自傷行為に走るその様子はほとんどホラーである。思わず身を退く俺と川崎の前で、鈍い音が複数回連続して響き渡る。
 それがある回数に達した時、星空はその行為をやめた。そしておもむろに立ち上がると、鼻血塗れの顔で満面の笑みを浮かべる。
 「鼻血、出ましたーっ!」
 俺と川崎は表情を引き攣らせつつも、「お、おおーっ」と震える声で言いながら両手を叩く。
 「先生には転んだって言って来るねぇっ。あはは、うふ、うふっひひひふふっふふえへへへへへっ」
 そう言って背中を向ける星空を見送りながら、川崎は「あいつ、大丈夫か?」と俺に問いかけた。
 俺は答えた。
 「分からん」

 〇

 鼻血を吹いたと申告する星空に、「またかおまえ」と呆れたように振り返った体育教師は、彼女の重症具合に顔を引き攣らせすぐさま保健室に行く許可を出した。
 帰りのホームルームの時間になるまで、星空は保健室から帰って来なかった。どうやら顔面を複数回強打したダメージを保健室で癒していたらしい。だが保健室に行く途中で仕事はちゃんと済まして来たようで、教室に戻って真っ先に俺のところへいて耳元に顔を近づけた。
 「作戦、成功したよ」
 そう言って微笑みを浮かべる星空。間近に感じる星空の髪の匂いや吐息の感触が恥ずかしくてたまらなかった俺は、その成功の報せを聞いて安堵と歓喜とを胸に滲ませた。
 俺は頬に笑みが滲むのを堪えつつ、「分かった。川崎には俺が知らせとく。今日、川崎とおまえん家行って良い?」と尋ねる。星空は笑って頷いた。
 下校の時間になっても福本が自分のカードが無くなっていることに気付くことはなかった。学校でカードを出すのは危険な為、いちいちランドセルを確認したりしなかったのだろう。帰りのホームルームが終わるなり、取り巻きを連れて慌ただしく校舎を去って行った。
 これから奴は大会に出る為に嬉々としてカードショップに向かい、デッキを取り出そうとランドセルを開け、そこにデッキケースがないことに気付いて悲鳴をあげるだろう。そのことを想像すると愉快でたまらなかった。
 俺と川崎はいったんそれぞれの家に戻ってから、遊びの準備も整えつつ星空の家へ向かった。
 星空は盗んだデッキケースを用意して手柄顔で俺達を迎え入れた。期待した通り、福本はデッキケースごとカードを持ち歩いていたようで、そこにはデッキ八つ分、三百二十枚の強力なカードが収納されていた。
 俺と川崎が驚喜したのは言うまでもない。俺達は事前の取り決め通りドラフト形式で好きなカードを順番に指名しあい、カードを分け合った。
 その後もそれぞれ新しく入手したカードで強化したデッキで対戦するなどして、川崎と二人で盛り上がった。星空はずっと一人で見ているだけだったが文句は言わなかった。流石にちょっと気遣って俺のデッキを貸してやって川崎と対戦させたりもしたが、川崎は容赦なく叩きのめすのみならず星空の戦い方に文句をつけるので、星空が楽しめたかどうかは微妙なところだ。
 帰る時間になって、俺と川崎は星空に見送られて玄関にいた。
 「あの、夢人くん。わたし、夢人くんの役にたてたかな?」
 そう言ってもじもじとした表情を浮かべる星空を見て、俺は彼女にお礼を言ったり褒めたりするのを忘れていたことに気が付いた。
 「ああ、もちろんだとも。本当にありがとう」
 そう言うと、星空は顔をくしゃくしゃにして笑った。
 その笑みを見ていると……なんだか罪悪感のようなものが湧いて来る。今回こいつには本当に働いてもらったし、そうまでしてこいつが得た物は何一つない。ならばせめてもっと早く、多少大袈裟な形で感謝や称賛を表現してやるべきだったんじゃないのだろうか?
 ならせめて今からでも、何か感謝を形にしたい。……そう思い、俺は「ちょっと待て」と口にして鞄を漁り、スリーブに入ったままの一枚のカードを取り出して星空に渡した。
 「これ、やるよ」
 福本から盗んだ『ボルメテウス・サファイア・ドラゴン』のカードだ。今このカードゲームで、最も強力な一枚と言っても過言ではない。
 「え? でも……わたし自分ではカード集めないし」
 「気持ちとして受け取ってくれよ。何なら、これを気におまえがカードやっても良いと思うし。あんだけ頑張ってくれたのになんもなし、っていうんじゃ可哀そうだしな」
 「でも……これすごく良いカードでしょう?」
 「そうだぞ真崎」川崎が眉をしかめた。「なんてもったいないことをするんだ君と言う男は」
 「いや、俺これ、今回福本から盗んだ所為でダブったし」
 「一枚でデッキが安定した動きをすると思うなよ。そんなんだから君は僕より弱いのだ」
 「うるせぇ。良いんだよ」
 星空は目をぱちくりとさせながらも、嬉しそうな笑みを浮かべて俺からカードを受け取った。
 「ありがとう。大事にするね」
 「おう。……じゃあ、またな」
 「うん。またね」
 そう言って、俺たちは星空と別れてそれぞれの帰途に着いた。
 後から後悔したことは言うまでもない。しかしだとしても、取り返す気にはどうしてもならなかった。

 〇

 翌日曜、月曜の連休を俺は福本から奪ったカードを眺めたり、デッキをさらに改造したり、自分のデッキ同士を戦わせたりしてまったりと楽しく過ごした。
 そんな素晴らしい週末も終わりを告げ、風呂から出て歯を磨いて眠る準備をしていたところで、母親から部屋を呼び出された。
 「お友達から電話よ」
 俺の友達と言えば第一が川崎、第二第三にクラスの地味派グループの男子が名を連ねる。四番目はまあ星空だろう。これはそのまま電話を掛けて来る確率の大小も表している。
 ……が、その電話の主は塚田と言う男だった。ナンバーを割り振るなら、おそらく十四番目くらいの人物である。彼の特徴および立ち位置を一言で言い表すならば、『福本の配下』で事足りる。ジャイアンに対するスネ夫、福本に対する塚田と言ったところだ。
 「なぁに、塚田くん」
 「……真崎か? 明日な、早めに学校に来て、皆でデュエルマスターズをして遊ぼうと思ってるんだ。まあおれ達内の大会という訳だ。景品も容易している。おまえ、デッキ持って来られるか?」
 「はあ?」
 どうしてそんな時間に仲間大会をするというのか? だいたい学校にデッキなんぞ持って来る訳がないだろう。そんな危険な真似わざわざするものか。
 「そんな危ないこと、したくないよ」
 「良いから持って来いよ! 全員で集まって最強を決めるんだ。おまえだけ不参加なんてことがあったら、今後おまえのことはハブにするぞ!」
 ドスの効いた声。俺は逆らう気力を失くし、「分かったよ……」とか細い声で返事をした。
 電話を切り、俺は小首を傾げる。
 ろくでもないことのような予感がしてならない。もしかしたら、俺達にカードを盗まれた福本が、他者からカードを巻き上げることで損失を補填しようと裏で糸を引いているのかもしれない。
 ただでさえ学校にカードを持ち込むことは危険なのだ。どっちにしろ、大したカードは持って行かない方が良いだろう。
 そう思い、俺はなるだけ取られても良いようなカードの在り合わせでデッキを組み、ランドセルの奥にしまいこんだ。これだって失うのは痛いがメインのデッキを取られるよりは百倍マシだ。
 一応の対策を敷いた俺は、枕を高くして眠りに着いた。

 〇

 翌日早朝。言われた通り早めに家を出た俺は、塚田に指定された身内大会の開催地……中庭にある旧体育用具室に向かっていた。
 『旧』と名の付くところから、そこは既に使われておらず立ち入り禁止にもなっている。立ち入り禁止ということで当然鍵もかけられているのだが、誰かが破損させた窓が取り外された状態で放置されており、福本ら悪童はこっそり中に忍び込んでは溜まり場に利用していた。
 「来たな」
 その旧体育倉庫に入った俺を、口に煙草を咥えた福本と、塚田を初めとするその配下達が待ち受けていた。煙草なんて自販機でいくらでも買えるとは言え、わざわざ高い金を払ってまで意味のない悪事を行う気が知れなかった。
 しかも福本の悪行は喫煙に留まらなかった。なんとライターの火を利用して火遊びまでしているらしく、黒焦げになった数枚のプリントが煙の匂いを絶たせながら福本の足元に転がっていた。
 「ちょっと持ってるカード全部見せろよ」
 言いながら、福本は俺を壁際に追い込んで羽交い絞めにした。訳も分からないままでいる俺に、福本の取り巻き達が殺到する。
 「カードどこ入ってるんだよ」
 意味不明だが抵抗しても無駄なようだ。俺は小便でも漏らしそうな気分で「ランドセルの中」と呟いた。
 すぐに取り巻き達によって改められる。
 俺のランドセルから出て来たのは昨日こしらえた、『取られても良いカード』で構成されたありあわせのデッキだけである。「なんだよこの雑魚いデッキは! いつものデッキはどうしたんだよ!」と福本は息まく。
 「が、学校に持って来たら、没収される可能性もあると思ったので、念を入れたまでだ」
 「本当にそうなのかよ? 何かおれに隠してることねぇだろうな?」
 「な、何もないよ。いったい何を疑ってるんだよ?」
 「川崎と一緒にカードを盗んだの、おまえじゃねぇのか?」
 そう言われ、俺は背筋が震えるのを感じた。
 こいつは何らかの理由で川崎が自分のカードを盗むのに加担したことに勘付いたらしい。そして俺のことまで疑っているようである。俺のデッキを改めたのは、その中に自分が元々所持していたカードが含まれていないかを調べる為だろう。そうする為にデッキを持ってくるように告げていたのだ。
 「俺は関係ないよ。ってか、川崎がカード盗んだって今言ったけど、それも初めて知ったよ」
 「本当か?」
 「本当だよ。デッキ返してくれよ」
 「いや、返さない」
 「取る気かよ?」
 「ふん。そうしてやっても良いが、こんな雑魚デッキ、取る価値もねぇよ」
 言ってから、福本は俺の持って来たデッキを床に叩き落とすと、あろうことかライターの火を近づけた。
 俺は思わず息を呑みこむ。すぐには火が点かなかったが、しかし福本が執拗に火を擦りつけ続けたことで、俺のデッキには火が点いた。
 炎は真っ赤で、俺のデッキを包み込みながら丸々と燃えている。床がコンクリートとは言え、いつ誰の服に燃え移るかも分からない。危険な火遊びだ。自分の持ち物がそんな思い付きのような愚行の餌食になったことに、俺はショックを覚えていた。
 「なんでそんなことするんだよ。……意味分かんねぇよ」
 「黙れ! もうあっちへ行け!」
 そう言われ、俺は旧体育倉庫を叩き出された。
 疑われているという事実にはショックを受けたが、しかしこの場は切り抜けたらしい。メインのデッキを持って来なくて、本当に良かった。
 しかしなんたって川崎が犯行に関わっているとバレているのだ? あいつはカードを盗む時危険な役割を俺に押し付けて来たことからも分かるよう保身の男だ。バレるようなミスをするようには思えない。それに、俺が疑われている理由も気になった。
 「真崎」
 背後から声を掛けられ、振り向くと川崎がいた。
 酷い様子だった。右の頬のあたりが大きく腫れているばかりか、手足のあちこちには擦り傷や痣が刻まれていた。
 「来い」
 一言そう言われ、俺は川崎に付いて近くの男子トイレに入った。密談の為だ。
 「さっき旧体育用具室に連れて行かれていたが、一体何があったんだ?」
 川崎は尋ねて来る。俺は昨日塚田から電話がかかって来てからの経緯を説明した上で、川崎に質問を返した。
 「そういうおまえこそ、なんで犯人扱いされてるんだよ?」
 「迂闊だったんだ」川崎は溜息を吐く。「一昨日の話だ。君と別けたカードの一部を、『スマイル』に売りに行ったんだ。父親に付き添ってもらいながらな」
 川崎がドラフトで指名したカードは多種多様であり、中には価格こそ高いが川崎の需要には合致しないカードもあった。最初から売って金にするつもりで指名したのだろう。
 「それがどうした?」
 「その時、どうやら店内に福本がいて、俺がカードを売るのを見ていたようなんだ。気付かなかったのは本当に迂闊だったとしか言えない。奴は僕がカードを売り終えた後で、店長に何を買い取ったか尋ねたんだそうだ」
 「答えた店長も店長だな、それ」
 「子供のプライバシーなど必ずしも守ってはもらえないさ。しかもあの店長は客に対して間違った意味でフレンドリーだからな。まあ一度に多く売りすぎた僕もいけなかった。自分が盗まれたのと同じカードが大量に売られているのを目の当たりにすれば、奴だって僕のことを疑うさ」
 「それでボコボコにされた訳か」
 「そういうことだ。昨日の公園に呼び出されてみると、福本とその配下が待ち構えていて、尋問と言う名の拷問が始まった。だが、僕はゲロなどしていないぞ? 売ったカードについても『自分で当てた』と言い張り続けたからな。限りなくクロに近いグレーという訳だ」
 「だとしても、ヤバいな」
 「もちろん、ヤバい。だがしかし気になるのは、疑われる理由のある僕はともかく、真崎までもが疑いを掛けられているのは何故かということだ」
 それは本当に謎だ。川崎と話せばそれもはっきりすると思っていたが、その期待も外れていた。
 俺たちが肩を落としてトイレから出ると、廊下で星空と出くわした。
 星空は俺の方を見ると目に見る見ると涙を浮かべ、そしてびくびくと身体を震わせながら近づいて来ると、必死の形相で頭を下げて来た。
 「ごめんなさい夢人くん。本当にごめん!」
 「なんだ冬野。ごめんって、何があったんだ?」
 俺が尋ねると、星空は目からぽろぽろと涙の粒を落としながら答える。
 「ごめんねぇ。あのねぇ、わたしねぇ。悪気があったんじゃないんだけどぉ。でもねぇ、そのねぇ……」
 そこから支離滅裂に話す星空の訴えを要約すると、以下のようになる。
 土曜日に俺から『ボルメテウス・サファイア・ドラゴン』のカードを貰ったことに、星空はいたく感動していたらしい。デュエルマスターズにはあまり興味を持っていなかったが、それでも貴重なはずのそのカードをくれたのが本当に嬉しかったのだそうだ。
 その為、星空は自分もデュエルマスターズを始めて見ることを決意したのだそうだ。せっかくカードを貰ったのだし、その気持ちに応えたいという健気な考えに至ったらしい。
 日曜日、星空は『宝物の引き出し』から取り出した『ボルメテウス・サファイア・ドラゴン』のカードを握りしめ、カードショップ『スマイル』に足を運んだ。しかし販売カウンターは多くの子供達でごった返していて、気の小さな星空には近づくことがままならなかった。その為近くのテーブルに腰かけて、自分が持っている唯一のカード……『ボルメテウス・サファイア・ドラゴン』を眺めてぼんやりしていた。
 そこで、福本に声をかけられたらしい。『どうしてそんなものを持っているのか?』と。
 「わたしぃ、そこで、それが夢人くんに貰ったって言っちゃってぇ……」
 悪気はなかったらしい。ただ俺からカードを貰ったのだという事実が嬉しくてたまらなかった為、そのことをつい無警戒に漏らしてしまったのだ。
 「なんかあのカード……福本くんが使ってた、スリーブ? っていうんだっけ? カード守るプロテクターみたいなのに入ってるじゃない? それがちょっと珍しい物だったみたいで……だからそのぅ……夢人くんが怪しいって」
 別にあのスリーブはそんなに珍しいものじゃない。四十三枚入りで四百二十円とスリーブの中では値が張る代物なので、小学生にはあまり流通していないだけだ。だが俺のような貧乏人が持つのは不自然な代物であることには間違いない。
 自分のカードが盗まれた翌日に、自分が入れていたのと同じスリーブに入ったカードを同級生が所持していれば、それを訝しく思うのは妙なことではないだろう。
 「それで俺が疑われたのか」
 「……ごめんねぇ。せっかく夢人くんから貰ったカードも取られちゃったし。夢人くんに迷惑もかけるし。本当、ごめんねぇ」
 「取られたも何も、あれは元々福本のカードだけどな」
 こんなことになるならカードなんかやるんじゃなかった……とは、くれてやった時の屈託のない笑顔を思い返すと、どうしても口に出来ない。
 「良いよ。悪気はなかったんだしな」
 様々な気持ちを堪えて俺はそう言った。こいつを責めている場合ではないのだ。この先自分達に対して行われるであろう様々な追及を如何にして回避し、黙秘を貫くのかと言うことを考えねばならないのだ。
 しかしこの先俺達に追及がかかることがなかった。そんなことを福本は必要とはしなかった。
 何故か? 疑わしきは罰するという考えの上でなら、追及や捜査など意味を成さないからだ。
 そのまま教室に着いた俺達が目撃したのは……横倒しになり中身が教室のあちこちにぶちまけられた、俺達の机だったのだ。

 〇

 『いじめ』が始まった。
 この日に至るまでも俺達はある程度福本達にバカにされ、時には搾取の対象となることはあった。地味派の人間の宿命だ。しかしこうまであからさまな攻撃が行われたのは初めてのことだった。福本は明らかに俺と川崎を犯人だと見做して攻撃していた。
 悪口や仲間外れにあったり、持ち物が隠されたりといったことは日常茶飯事。休み時間になると紙の飛礫を投げつけられたり、脚を掛けられて転ばされたりする。給食には異物を混入され、トイレに行けば頭から水を吹っ掛けられる。
 「いつまでこんなことが続くんだよ」
 ある日の下校中、川崎が俺にそんなことを漏らした。俺はただのグレーだが、川崎はほとんどクロに近い立場ということもあり、福本からの攻撃も俺と比べて苛烈だった。川崎の『ついで』でいじめを受けるグレーの俺とは、心労の程度が違うようだった。
 「大丈夫かよ、おまえ」
 「決して大丈夫ではない。見ろよ」
 そう言って、川崎は冬服に移行した自分の制服を捲って二の腕を見せた。
 黒い火傷のような傷跡が穿たれている。これは何だと問いかける前に、川崎は自らの声で「根性焼きだ。煙草の火の痕だ」と告げた。
 「旧体育館倉庫で連中が喫煙や火遊びをしているのは知っているな? そこに僕も連れて行かれ、いじめられたのだ。殴る蹴るの暴力を受けた挙句、煙草の火を押し付けられたのだからたまらなかったぞ」
 「良く学校に来られるな、おまえ」
 「自分でもそう思う」
 「あんな奴ら、自分で起こした火で燃えて、死んでしまえば良いのにな。そうすれば俺達の苦労もなくなるっていうもんだ」
 そう言って見せることで、俺は川崎に自分は味方であると伝えたつもりだった。川崎は決して良い奴などではないが、それでも一応一番の友達と言うことになっている相手なのだ。このくらいの慰め方をしてやりたくなる情はある。
 「……本当にそう思うか?」
 だがしかし、川崎はそこで瞳に真っ黒な憎悪のようなものを漲らせて俺の方を見た。
 「……なんだよ」
 「可能ならあいつらを燃え死なせてやりたいと、本気でそう思うのか?」
 息を呑みこむ。それが深刻な問いであることに気が付いたからだ。
 俺は思考を巡らせてじっくりと自分の気持ちと向き合ってから、心から正直にこう答えた。
 「……出来ることならそうしてやりたいよ」
 確かにカードを盗んだ件については俺にも非がある。しかし、だからと言ってこんな陰湿ないじめを繰り返すのはどうなのだ? そうでなくとも奴は女子にも平気で殴る蹴るの暴行を加えるような人間の屑で、気の弱い者から搾取することを厭わない暴君なのだ。
 確かに世の中には福本を上回る無数の悪がいるだろう。福本だってまだ幼いのだから、成長する過程で今よりまともなに人間になって俺達にしたことを後悔するかもしれない。しかし今現在の俺のちっぽけな世界における最大の悪は福本に違いなく、俺に最も危害を加える存在も福本だったのだ。
 そんな奴が焼き殺される?
 最高じゃないか!
 「そうか。だったらな」川崎は鬱屈した視線を俺に向けた。「良い方法がある」
 「なんだよ、それ」
 「福本に旧体育倉庫に連れ込まれて分かったのだが、奴は色んなものを火遊びの材料にする傾向がある。火の怖さを全く理解していないんだな」
 俺は頷く。実際、俺も自分のデッキが……四十枚の厚い紙の束を燃やされるところを目の当たりにしている。思えばあれは危険極まりない愚行だった。一歩間違えれば大火事に繋がりかねない。
 「奴は目に着いたものならとりあえず火にくべて見る性癖を持っている。自分で持ち込んだプリントや煙草の吸殻などはもちろん、木の枝やガラスの破片などもだ。一度など、ペットボトルに火を押し当てさえしたんだぞ!」
 「そ、それはヤバいだろ! ペットボトルって一度火が点いたら無茶苦茶燃えるんだろ? 誰か止めなかったのか?」
 「それが塚田も広沢も止めんのだ。バカだバカだとずっと思っていたが、あいつらどうやら本物のバカだよ! だから、不良などやっているのだがな。僕が説得してなんとか思いとどまらせたが、はっきり言って生命の危機だった。しかしその経験を経て僕はある天啓を得たのだ」
 川崎は強い口調で力説する。
 「つまりだ。旧体育倉庫内に、非常に良く燃えやすい物を用意しておく。良く燃える燃料の詰まったペットボトルなどをだ。愚かな福本は中身をよく確認せずに、ペットボトルに火を点けて見たり、中身を振りまいてみたりする。するとどうなると思う?」
 旧体育倉庫は大炎上し、福本は焼死する。
 直接放火する訳じゃないから、俺達に調査の手が伸びる確率は低い。もし上手く行くのなら確かに魅力的な話。なのだが。
 「そんなに上手く行くとは限らないんじゃないか? 確かに奴らはバカだが、おまえの思う通りに行動してくれる確率は高くないぞ」
 「その通りだろうな。成功率は低いと言わざるを得ない。だがしかし、失敗したらしたで何も起こらないだけじゃないか。しかし万が一成功したら? 連中は焼け死んでくれるのだぞ!」
 俺は吟味する。成功率……つまり福本らが火遊びで愚かにも燃料に引火させてしまう確率は、どれだけ高く見積もっても二十パーセントくらいだろう。しかし失敗しても何のリスクもないというのであれば、賭けるのには当然値する確率でもあった。
 「だが一つ問題があるぞ? おまえは燃料をたっぷり詰め込んだペットボトルを用意すると言っているが、それを準備するリスクはどうなる? そもそも方法すら俺には思い付かんぞ?」
 「実はもう、準備の方は済ませてあるんだ」
 そう言って、川崎は制服の袖を使ってランドセルから一本のコーラのペットボトルを取り出した。中には何やら透明の液体が八分目まで詰め込まれている。
 「ガソリンだ。兄貴のバイクから拝借した」
 そう言われ、俺は絶句した。
 「おまえ、どうかしてるんじゃないのか? 危険すぎるぞ。バレたらどうするつもりなんだ?」
 「僕以外が出払っている時に盗んだし、バイクに指紋を残すような真似もしていない。このペットボトルだって自販機で買ったコーラだから何ら特別なものではなく、指紋は付けないようにした上で定期的に拭いているから証拠もない」
 「……おまえがとてつもなくヤバいことを考えているのは良く分かった。でも、どうしてそんなことを俺に打ち明けるんだ?」
 「実行するつもりで今日一日持ち歩いたが、一人だとどうしても踏ん切りがつかなかったんだ」
 どうやらこいつは危険を共有する人間がいないと実行に移せない性質らしい。川崎は話を続ける。
 「一人ではなく二人で実行するメリットは大きい。計画の不備を互いに指摘し合えるし、実行犯と見張りのような役割分担も可能だ。何より大きいのは、計画遂行後に訪れるであろう様々な感情を吐露し合える相手を確保できるということだ」 
 「だがボロを出す口が二つになるのはデメリットだぞ。そもそも役割分担というが、まさかおまえまた実行犯を俺にやらせるつもりじゃないだろうな?」
 「そうに決まっているだろう。実行犯として旧体育倉庫にこいつを放り込むのは君なんだよ!」
 「何故そんなことを俺がしなければならないんだ!」
 「福本を焼き殺したいのは君も同じだろうが。無論、全てを話した以上、君が決行する気にならない限り、この作戦は実行には移行しない。僕が一人で全部やったら、君は必ず全てを人に話すだろうからな」
 「バラさないよ。だから、一人でやってくれよ。福本を殺してくれ。頼む」
 「いやバラすね。少なくとも、バラさないことを僕に証明できないだろう。そもそも僕は本質的に指揮官タイプなのだ。計画を立てるのは好きだが、実行力はない。だから、実行犯に相応しい人間を探し出して、そいつにやらせるのだ」
 最悪な奴だ。碌でもないことをいくらでも思い付く癖、一番危険な、心の負担のキツいポジションは他人にやらせる。そしてそのことを悪びれようともしない。
 「……そのガソリンは受け取らない」
 俺は答える。
 「やるなら一人でやってくれ。何度も言うが、俺はバラさない」
 「いいや一人ではやらない。考えが変わったら、いつでも声を掛けてくれてかまわない」
 そう言ったあたりで二人の帰路が別れるところに差し掛かった。
 俺は無言で川崎に背を向ける。川崎もまた、何も言わずに俺を見送った。

 〇

 翌朝の登校中、いつもの合流地点で川崎を待ち構えていたが現れなかった。だから俺は仕方なく一人で学校に行った。
 ついに根をあげて不登校に陥ったのかと考えた。しかし予想に反して川崎は先に学校に来ていた。いつもの待ち合わせをすっぽかしたことに文句を言おうと近づくと、教室の異常の空気を察して俺は思わず立ち止まった。
 ピリピリと緊張したような、嘲るような、或いは冷たく憐れむような、そんな視線が俺の方に向けられている。どうしてか星空が一人机で泣きじゃくっていて、川崎は鬱屈した視線で虚空を見詰めながら頬だけをニヤニヤとさせていた。
 川崎は俺に気付いて口火を切った。
 「なあ君。最早これ以上日寄ってはいられないぞ」
 「何を言ってるんだよ」
 「今に分かるさ」
 意味が分からず小首を傾げる俺の背中を、何者かが乱暴に蹴飛ばした。
 転びそうになってから振り返る。福本がいた。
 「……今朝川崎から聞いたぞ。おまえ、やっぱりおれからカード盗んだんだってな」
 俺は絶句して川崎を見た。奴はどんよりと据わった視線を無遠慮に投げかけながら、唾液の糸が幾重にも上下に繋がった黄ばんだ歯を見せて笑った。
 「冬野を使ったんだって? それで川崎とカードを山分けしたんだろう? ええ?」と福本。
 「……なんでだ」俺は川崎に問うた。「なんで吐いたんだよ、川崎」
 「真実が知れようが知れまいが、僕の状況は何も変わらない。どれだけ否定したところで僕の疑いは強固で、晴れることはないだろうからな。それならいっそ君を僕と同じ状況に叩き落としてやろうと思ったまでだ」
 その方が……、と川崎はにちゃにちゃ音を立てながら頬を捻じ曲げる。そしておれの耳元に顔を近づけて、囁くようにしてこう言った。
 「……君も『その気』になるだろうと思ってな」
 ありえない……。確かに俺は、今日までもこいつを良い奴だとも友達甲斐がある奴だとも感じたことはなかった。むしろ奸悪卑劣矮小な便所虫の類だと思っていた。それでもここまで最低の糞尿野郎だとは知らなかった。
 つまりこいつは、何が何でも俺に自分の考えた殺人計画の片棒を担がせたいのだ。その為に俺に福本を殺さざるを得ない状況にまで叩き落すことを考えたのだ。
 絶望する俺の背中を福本が突き飛ばした。あえなく床に叩きつけられ、顔を打ち付けて悶絶する俺のケツを蹴り飛ばす。
 「大丈夫?」
 星空が唯一俺を心配して駆け寄って来てくれた。だがそれをかき消すようにして、福本がドスの効いた声で死の宣告を下した。
 「今から男子トイレに来い。冬野もだ。おれからカード盗んだこと後悔させてやるからな」

 〇

 息が出来なかった。
 便器の中の水に強引に顔を埋めさせられるという古典的なそのいじめは、屈辱感嫌悪感共に凄まじいものであると同時に、窒息という肉体的苦痛をも俺に齎した。
 福本は俺を嘲笑うこともせず、ただ怒りに任せて俺を苦しめることに無心に打ち込んでいた。笑うのは塚田ら取り巻き連中だ。女子の広沢もいじめの見物に来ていたが、現場が男子トイレということで入口の前に陣取ってもがき苦しむ俺をおもしろがっていた。
 死ぬんじゃないかと思い始めた頃、ようやく顔を上げてもらえる。気が付けば予鈴のチャイムの音が鳴り響いていた。近くではさっきまで俺と同じ目に合っていた星空が、床に座り込んで打ちひしがれている。
 「こんなもんで済ませると思うなよ。明日も明後日もいじめてやる」
 福本が絶望的な宣告を口にする。
 「……やめてくれよ。カードなら返すから」
 「もちろん返してもらうが、それで済ませたりはしない。慰謝料として、おまえの持ってるカード全部持って来い。川崎が売り払ったカードの分の金もだぞ? もちろん、そんなことをしたっておれは許してやらないがな」
 そう言って、福本は俺の頭を二、三発小突いた上で取り巻きを連れて退散して行った。
 俺はしばらく悄然としていて、星空の泣き声に気付いて座り込む彼女を振りむいた。
 「……大丈夫か?」
 星空は返事をする気力もない。女子のこいつにとってみれば、男子トイレに顔を埋められたダメージは、俺が感じたそれよりも強烈だろう。
 このままどこかに逃げ出すか、いっそ消えてしまいたい気分だった。が、学校と言う場所は俺たちにそれを許してはくれない。次の授業には出なければならない。俺は泣き続けている星空の手を引いて立ち上がらせ、洗面台で顔を洗わせてトイレから出た。
 川崎が腕を組んで待ち構えていた。
 「……川崎。おまえ……」
 「よう真崎。やる気になったか?」
 そう言ってニヤニヤとした笑みを浮かべる川崎を、ぶん殴ることを考えてみた。しかしそれはとてつもなくみじめなことだと理解できたから、俺はそうするのをやめた。
 「昨日の話は忘れていないだろう? 気が変わったらいつでも僕に声をかけるのだ。待っているぞ。あははは」
 そう言って、肩を竦めながら川崎は俺の前から立ち去って行く。
 俺はその背中を睨み続けていた

 〇

 それから数日、福本は有言実行とばかりに俺や星空にさらなる危害を加えて来るようになっていた。男子である俺などはしょっちゅう暴力的な攻撃を受け、時には福本の溜まり場……旧体育倉庫に連れ込まれ、タコ殴りの目にあうこともあった。
 そこで目の当たりにしたことだが、福本は本当に火の怖さを良く分かっていないらしい。俺の教科書やノートを焚火と称して燃やしては、それを消し止めるのに自分の上履きで繰り返し叩くという乱雑な方法を用いる。一度など上履きに火が燃え移りそうになり火花が高く散ったが、それでも奴は何ともなさそうに笑っていた。
 星空の方も同じくらい酷い被害を受けていた。福本は女子に対し暴力に訴えることしないかわり、陰湿で間接的な手段で持って星空を攻撃した。溜まり場に連れ込んで暴力を振るうことはしないまでも、酷いあだ名を付けたり持ち物に悪戯をしたり、女子の帝王である広沢を使って星空を政治的に追い込んだりした。時には暴力よりも尚残酷な仕打ちで、皆の前で女子である彼女を恥ずかしめることさえあった。
 「ねぇ夢人くん。これからちょっと一緒に来てもらえる?」
 帰りのホームルームが終わり、一目散に学校から逃げ去ろうとしたところで、星空に声をかけられた。
 何かの相談だろうかと思った。考えて見れば今、俺とこいつは唯一の味方同士だった。この頃になると友人達は俺から離れていたし、川崎とも口を利かなくなっていたからだ。
 「良いよ」
 俺はそう答えた。星空は頷いて、黙ったまま俺を先導して歩き始めた。
 星空が俺の前を歩くのは珍しかった。常に俺の後ろをちょろちょろと付いて来る奴だったから。何も言わずにどこか悄然とした様子で歩いている星空に、俺は声を掛けることも出来ずにただ後ろを付いて歩いた。
 連れて行かれたのは近所のマンションの十階だった。アパートの三階に暮らす俺にとっても、十階という高さは慣れないものだった。地面を見下ろすと下半身が縮み上がるような感覚を味わい、思わず目を反らして遠くの景色に視線を向けた。
 普段暮らしている街の様子が、ここからなら遠くまで一望できる。星空と二人、二人でその景色をぼんやりと眺めて過ごした。星空は高さが何も怖くないかのように、そもそも怖さを感じるような精神が摩耗してしまったかのように、虚ろな視線を地も空もなく漂わせていた。
 「あのさ。夢人くん」
 ふと星空は口を開いた。
 「わたしね。昔はずっと元いた世界に戻りたかったの。二つの世界にほとんど何の違いもないけれど、それでもやっぱり、ここは自分の居場所じゃないっていう感じがしたからさ」
 俺は頷いた。高学年になるつれ星空がそのことを話題に出すことは減っていたが、しかし彼女がその妄想を捨てた訳ではないことも俺は把握していた。
 星空は自分は異世界から転生して来たと主張している。前いた世界と今いる世界にほとんど違いはない。ただ一つ、向こうの世界には『ホシ』と『ハナ』があり、こちらにはないという部分だけが相違しているのだそうだ。
 おそらく星空は自分の生きている世界が好きではないのだろう。そこが自分の居場所であることに耐えられなくて、だからこそそのような妄想に縋っているのだ。
 「でもね。夢人くんと会えてからは違ったの。向こうに夢人くんがいるっていう保証なんてどこにもないから。だからこっちに来て良かったって、そう思えるようになっていたの」
 そう言って星空は俺の方を向いて儚げに笑う。
 「でもね夢人くん。わたし、もうこっちの世界嫌になっちゃった。元いた方に帰りたい。でもね。向こうの世界に帰るにしても、向こうにいる夢人くんがわたしと仲良しでいてくれる保証はどこにもないの」
 ふわふわとした足取りで、星空は俺に近づいて来た。
 「前の世界からこっちに来た時さ、わたしトラックに轢かれて死んだんだ。それで気が付いたらこっちにいたんだ。だからさ……」
 星空は俺に向けて手を伸ばす。俺をどこか恐ろしいところへ連れ去ろうとする、そんな手だった。
 「前と一緒のことをすれば、きっと二人で別の世界に行ける。夢人くん、わたしと一緒に、ここから飛び降りて死のう。二人だけでここじゃない安全なところへ逃げようよ」
 俺は慄いた。星空の大きすぎる瞳の中には絶望と諦観と死がはち切れん程に詰め込まれている。希望とか生きる喜びとか、そう言った前向きで明るい感情は完全に失われてしまっていた。
 今生きている日々がつらくてたまらないが為に、星空は肥大化させた妄想によって死への恐怖を覆い隠した。それは十階から飛び降りるという行為の本質を見失わせた。今の星空にとって飛び降り自殺という行為は希望への逃避に他ならず、しかもそこに俺を道連れにすることさえ望んでいた。それは狂気と言うしかない考えだった。
 「……星空」
 そう言って、俺は星空の肩を掴んで言い聞かせるように訴えた。
 「おまえはそんなことをする必要はないんだ。そんなことをしなくても、おまえも俺も助かるんだ。俺がおまえを助けてやる。だから飛び降りるなんて言わずに、この世界で一緒に生きよう。この世界を安全で幸せなものに俺がしてやるから」
 俺がそういうと、星空は目をぱちくりとさせ……そしてその暗黒に囚われていた瞳に小さな希望の火を宿す。だがそれはあまりにも幽かな、おぼろげな光だ。風前の灯火のように今にも消えてしまいそうだ。
 ……これを消してはならない。
 「……どうやって?」
 星空は問う。俺は答える。
 「言えない。でも大丈夫だ。俺に任せて欲しい」
 そう言うと、星空は眉を顰めて俺の顔をじっと覗き込むと、表情にいつもの媚びるかのような笑みを取り戻して、頬を赤らめてこう言った。
 「……分かった。待ってる。信じてるからね」

 〇

 翌朝。
 過去に川崎と一緒に登校する為の合流地点としていた場所で、俺は川崎が来るのを待ち受けていた。
 奴がここを通る時刻は知っている。わざわざここで待ち合わせることをしなくなっただけで、二人ともこの場所は通って登校しているのだ。速めに来てここで待っていれば、必ず川崎と会うことが出来る。
 「……なんだよ」
 案の定、奴は現れた。俺は訝しそうにする川崎に近づいて、決意を固めた声で言った。
 「おまえの言う通りにしてやる。ガソリンの入ったペットボトルを寄越せ」
 そう言うと、川崎の瞳が爛漫と輝く。そして期待に満ち溢れた表情で、「待っていたぜ」と俺の肩を叩いた。

 〇

 「良いか? 怪しい行動は取るな。人のいない時間帯に、旧体育倉庫にこのペットボトルをただ放り込んでやるだけで良いんだ。ほんの数秒で完了作業だ。ペットボトルに指紋などの痕跡を残さず、犯行前後に不自然な態度を取らないようにすれば、まず発覚しないんだからな」
 川崎は口を酸っぱくしてそのようなことを俺に繰り返した。
 この男に言われなくとも、そのくらいのことは俺も弁えていた。放課後ほとんどの生徒が校内から消えるのを図書室で時間を潰し、しかる後旧体育倉庫前を通るルートで学校を去る際、ペットボトルを投げ込むつもりだった。
 ランドセルの中には川崎から受け取ったガソリン入りのペットボトルが入っている。俺は計画をアタマの中で復唱しながら、放課後まで待った。そして図書館に行こうと教室を出て、福本達と目が合った。
 福本、塚田、広沢の三人が星空を取り囲んでいる。どこかに連れ出してまた酷いことをするのだろうと思ったが、俺は止めに入ることをせず目を反らした。
 星空はつらそうに目を伏せているだけだった。見捨てる形になったことに胸が痛んだが、しかしもうちょっとの辛抱なのだと心の中で呼びかける。彼女の心に灯った小さな希望の火がそれまで持ってくれることを、俺は祈った。
 作戦通り図書室で時間を潰す。俺は元々学校の図書室を利用することの多い生徒であり、放課後長くここにいることも珍しいことではない。だからこの行動も不自然なものには映らないだろう。
 そして午後五時を回ろうとした時……俺は行動を開始した。
 校内に人気は全くと言って良いほどなかった。廊下の窓から俺の行為を見咎められるのが一番まずいのだが、それについては一安心といったところだ。運動場で玉蹴りに興じる奴も今日はいない。これなら決行できそうだ。
 俺は周囲の人気を確認しながら旧体育倉庫の方へ向かう。心臓が早鐘のように鳴り響き、自分の全身が捻じ曲がるような緊張が俺を包み込む。俺は何とか自分を鼓舞して歩き続けて、窓の前でほんの一瞬だけ立ち止まり、ペットボトルを投げ入れた。
 上手く行った。後はさりげなく立ち去るだけだ。
 やや足早になるのを堪えきれずに、俺は倉庫から距離を取り続けた。そうすると胸の中に安堵が広がって来ると同時に、周囲の音や匂いが鮮明に感じられるようになった。あまりの緊張の為、全身の間隔が鈍っていたらしい。
 そして、俺はどこかから、カツカツと何かがぶつかり合うような音が耳朶を揺さぶるのに気付いた。それはほとんど気の所為とも言えるような、儚く小さな音だった。
 誰かいるのかと思い振り返る。しかし誰もいない。そもそも近くに人がいないことは何度も確認したことだ。
 音の発生源を探すことも考えてみたが、そんなことをして立ち止まる方が危険に思えた。きっと、何かつまらない理由なのだろう。一種の耳鳴りかもしれない。俺は一刻も早く立ち去りたい一心でそう考えることにして、足早にその場を去った。

 〇

 家に帰り付く。俺は布団の中に潜り込み、これからの展開について考えながら時を過ごした。
 果たして福本らはあのガソリンに引火させるだろうか? そうなる確率は低そうだったが、しかし俺はそれでもかまわなかった。何も本気で奴を焼き殺そうと思っている訳ではないのだ。
 コーラのペットボトルの中のガソリンに気付いた福本が、その意味するところ……自分を殺そうとしている者がいる……ことに気付いて、恐怖してくれればそれで良かった。それが俺達であることにも福本は気付くかもしれなかったが、そうなったらそうなって、それは牽制として作用するに違いない。
 いじめ殺されるくらいなら、俺はおまえ達を殺す覚悟があるんだぞ……そうしたメッセージを、俺はガソリン入りのペットボトルに込めたのだ。
 もちろん、福本ら本当の愚か者で、火災を発生させたとしても、それはそれで構わなかった。確かに人を殺すのはいけないことだろう。だがこのままでは俺や星空が奴にいじめ殺されるのも時間の問題だ。自分の身を守っただけなのだから、それをいったい誰が責められよう?
 ……そう何度も自分に言い聞かせる。しかし、強い恐怖感がどうしても拭い去れなかった。
 確かに福本は殺さなければならない相手かもしれない。だが、殺した後の俺はどうなるのだ? 確かに俺はまだ十二歳だから刑罰を受けることはない。しかし人を殺したのだと言うプレッシャーは一生涯付き纏う。何かの拍子にバレてしまえば、刑務所に入ることはないまでも、残りの人生を福本らへの償いに生きることを余儀なくされてしまう。
 万が一福本達が死んだとしたら、俺はずっとそんなことに怯えながら生きねばならなくなってしまうのだ。もしそうなったとしたら、俺はどうにかなってしまうに違いなかった。
 そう思うと、一体俺は何をしようとしているのだという疑問が、胸を張り裂けんばかりに膨らんで来た。いてもたってもいられなくなり、俺は胸を掻きむしって絶叫した。
 いじめの苦痛と恐怖とて、正常な判断力を失っている自分に気付く。思わず時計を見る。午後六時二分。親が帰って来る六時半までまだ時間はある。
 俺は大急ぎで学校に向かった。全身に汗を拭き出しながら、何度も息を切らして街を走り続ける。一刻も早く、仕掛けて来たペットボトルを回収しなければ、この恐怖感から逃れられそうになかった。
 激しい息を吐きながら、学校に辿り着く。あたりはもう薄暗くなっていた。俺は一目散に旧体育校舎に潜り込み、自分で放り込んだコーラのペットボトルを探した。
 「……あれ?」
 しかしペットボトルはどこにもなかった。全身が砂埃に塗れる程床を這いまわり続けても、仕掛けたはずのペットボトルは見当たらない。
 そんなはずはない。俺は確かに放り込んだのだ。それが無くなっている。何故? どうして見付からない? 誰かが見付けて回収したのか? 
 足元が崩れ去り、天井が落ちて来るような錯覚を覚えた。何でもないただの空気に窒息して、その場でのたうち回りそうになる。
 パニックに陥りそうになるのを、俺は必死で堪えていた。
 ……もし回収されたのだとしたら、それは最早俺が思い描いていたような効力を発揮することはなくなるはずだ。そう思うことで、胸を撫で下ろすには至らないまでも、どうにか平静を保つことに成功していた。
 俺は旧体育倉庫を這いだす。校舎の時計を見ると、親が帰って来る時間が近づいていた。速く戻らないと怪しまれる……。
 俺は足早に自宅へと立ち去った。

 〇

 俺は一晩中まんじりとも出来ず、目を赤く腫らして翌日を迎えた。 
 学校に行くと、川崎が小声で話しかけて来た。
 「上手く行ったか?」
 俺はきちんと説明をするのが億劫で、首を縦に振ってしまった。昨日の出来事は、最早口に出すことさえおぞましい程、俺を戦慄させていたのだ。
 「そうか。前にも話し合ったことだが、今日は倉庫に連れ込まれそうになったら全力で逃げろよ? 自分達が焼き殺されたらたまらないからな。それと、冬野が連れ込まれそうになった時上手く誤魔化してやる役は、手筈通り君に任せておくからな」
 川崎は小声でそう言って、自分の席に帰って行った。
 授業が始まってからも、俺は何がどうなったのか疑問で仕方がなかった。誰かがペットボトルを回収したと考えるのが一番自然だったが、回収したのが教師など学校の大人であれば、おそらく騒ぎになってホームルームでそのことに言及しているはずだ。なのに何ごともなくホームルームは終わり、授業の時間へと移行している。
 やはり、おかしい、と思った。
 何かが起きている、と思った。
 二時間目の授業が終わった後の行間休み。福本らは俺と川崎に軽くちょっかいを出してから校舎の外へと出て行った。いつもの溜まり場に向かうのかもしれない。
 深海とか宇宙とか、そういうところを上下もなく漂うような気分だった。俺は自分の席で身動きも取れないまま顔を伏せ続けている。
 行間休みも残り五分を切ろうと言う、その時だった。
 火災報知器のけたたましい音が鳴り響く。俺は弾かれたように顔を上げた。騒然とした教室から、甲高い話し声が俺の耳朶を打つ。
 校内放送が鳴り響き、旧体育倉庫から火が出たことが俺達に知らされた。ほとんど同時に、担任教師が俺達の教室に駆け込んで来た。
 「非難するぞ。整列し、落ち着いて行動すれば大丈夫だ。さあ」
 大人の声は冷静で厳かで、そのお陰で、俺は辛うじて何も考えずそれに従うことが出来た。
 後のことは良く覚えていない。

 〇

 倉庫は全焼。焼死者は三名。福本、塚田、それに広沢という福本グループの中核を成す三名である。
 福本らが喫煙や火遊びを行っていたという事実は警察の調査によって知れ、それが火元となったと考えられていた。しかし三名が窓から逃げる時間もなかったこと、驚く程の勢いで炎が燃え広がったという外から見ていた者の証言が得られたことなどから、ガソリンのような危険物に引火した可能性も囁かれていた。
 火事のあった当日、避難を済ませた俺達は、もちろん授業など受けずに家に帰された。
 何日か休校になることになり、俺は顔を真っ青にした状態でそれを過ごした。両親はそんな俺を心配したが、その様子のおかしさも学友が焼死したことに対する物と判断され、不審に思われることはなかった。何せ俺は火の付いた瞬間にアリバイを持っているのだ。謎多き事件として取り上げられる今回の火災について、関係を疑われる心配はないのだ。……本来ならば。
 俺には安心していられない理由がある。何故取りに戻った時、ペットボトルが消えていたのか、どうしてもそれが分からないことだ。
 ペットボトルが見付からなかったということは、誰かが回収したということである。にも拘らず、火災は起きた。その火災が、俺が倉庫に持ち込んだガソリンと無関係ということはないだろう。つまりその何者かは、ペットボトルを一時的に倉庫から遠ざけた上で、後から再び設置し直したということになる。
 何のためにそんなことを?
 何より重要なのは、いったいそいつがどこまでのことを把握しているのかということだ。もしそいつがペットボトルを仕掛けたのが俺だと知っているのなら、そいつの同行次第で俺の犯行は発覚しかねないということになる。そう考えると俺は気が狂いそうな不安感に苛まれるのだった。
 部屋のベッドで一人のたうっている時、家の電話が鳴り響いた。
 両親は仕事で出払っているから出るのは俺しかいない。無視しようかとも考えたが、しかし警察や学校からの電話なら、どんな内容かを知っておきたい。
 そう思い、電話機に向かうと……意外な人物が電話に出た。
 「もしもし? 夢人くん?」
 媚びるような星空の声だ。そしてその声は、普段以上に本心を媚び諂いによって塗り隠しているようにも、俺には聞こえた。
 「どうした星空」
 「えっとね……その……。ちょっと言いたいことあるから、会えないかなって思って」
 「話って?」
 「…………火事のこと」
 そう言われ、俺はその意図を測り兼ねつつも、「分かった。今からそっちに行く」と口にして電話を切った。そしてあらゆる身支度を放棄して、ただ一目散に星空の家に走った。

 〇

 星空の部屋に招かれて、部屋全体を見回した時、俺はあることに気が付いた。
 部屋の隅にある大きな勉強机の、引き出しの一つが開いているのだ。そこは星空の『大切な物入れ』だった。つまらないものが入れられていることは絶対にない。生涯をかけて大事にすると決めた記念品のみを収納する、神聖な場所であると本人は主張していた。
 俺はなんとなく中を覗き見る。何がそんなに大事なのか分からないガラクタの中で、コーラのペットボトルのキャップが目についた。
 思わずそれに手を伸ばそうとすると、星空の手が唐突に伸びて引き出しを閉めた。星空は大きな失態を誤魔化すような焦りに満ちた表情で、「見られるの恥ずかしい場所だから」と言ってから俺に座ることを促した。その通りにする。
 「それで。火事にまつわる話って、なんだ?」
 俺が水を向けると、星空は「あのね、ええとね」としばらく話しづらそうにしてから
 「夢人くん、わたしを助けてくれたんだよね? あのペットボトルを放り込んだの、夢人くんなんだよね? わたしを助ける為に、福本くん達を殺そうとしてくれたんだよね……?」
 などと切り出した。
 俺はアイスを丸呑みしたような感覚を覚え、震えそうになる声でどうにか星空に問い返した。
 「何の話だ?」
 「あのね、わたし、夢人くんがペットボトルを放り込んだ時、倉庫の中にいたんだ。福本くん達に、中に閉じ込められていてね……」
 星空は話し始める。あの日の放課後、福本達に連行された星空は、奴らの溜まり場である倉庫に監禁されていた。
 彼らは星空の両手足をガムテープで縛りつけ、口をガムテープで塞いだ状態で、星空を倉庫に置き去りにしたのだ。出入り口はガラス戸の外れた窓の一つしかなく、手足を縛られた状態で高所にあるこれは超えられない。星空は閉じ込められる恰好になった。
 このいじめはとてつもなく残酷で効果的だ。星空はいつまで放置されるのか不安でたまらず、薄暗い中で涙を流し続けていたと言う。
 「そんな時……足音が聞えたんだ。夢人くんの足音が」
 星空は足音で俺を俺と判別できる。小四の夏、あまりにも頻繁にこの家に来ていた為、判別できるようになったのだという。
 家族の足音くらいは認識できるという人間は然程珍しくない。最初俺の足音はその中の異物に過ぎなかったが、異物だからこそそれは良く耳に残り、他との区別の為に嫌でも特徴を覚えることになる。そのようにして星空は俺の足音を覚えた。そしてその足音は、二年は経ち俺の足の長さが変わっても判別不能になることはなかった。
 「わたし助けてもらおうと思って壁叩いたりしたんだけど、夢人くん、気付かなかったよね。それからさ、何かペットボトル投げて来たよね?」
 俺が何も答えないでいると、星空はやや口調を速めて捲くし立てるように話を続ける。
 「わたしね、なんだか良く分からなかったけど、とりあえずペットボトルはそのまま置いといたんだ。その内福本くん達がやって来てわたし開放されたんだけど、あの人達、その時はペットボトルに気付かなかったな」
 奴らがペットボトルに気が付いたのは、翌日の行間休みのことだった。中のガソリンに何らかの形で火が燃え移り、倉庫が全焼したあの時だ。
 「倉庫が燃えた時ね、わたし気付いたんだ。あのペットボトルの中身はガソリンみたいな良く燃える燃料で、夢人くんは福本くん達を殺す作戦を立てていたんだって。あの人達、火遊びするもんね。しかもあの人達はばかだから、ガソリンの怖さなんて全然分からない。試しに火にかけて見るくらいのことは平気でする。それであの人達は燃え死んだんだ。全部全部、夢人くんの思い通りになった。すごいよ!」
 俺は沈黙を守るしかなかった。しかし否定をしないいうことは、何より強い肯定を示してもいる。
 「夢人くん、わたしを助けてくれるって、言ってくれてたよね? これがそうなんでしょう? 福本くん達の火遊びを利用して、焼き殺すことでわたしを守ってくれようとしたんでしょう? そうなんでしょう? 全部全部、わたしの為にしてくれたことなんだよね?」
 俺は何も答えない。黙って俯いたまま、星空が何か言うのをじっと待っている。
 星空はやや拗ねたような顔になり、しかし、すぐに打ち消すように笑顔を作った。
 「ごめんね。『やった』だなんて言えないよね。夢人くん、今心の中すっごい大変な状態だもんね。でも本当に大丈夫だよ。わたしバラす気なんてないから。本当だよ?」
 「……本当にそうか?」
 「うんっ。本当本当! 安心して!」
 「本当に……本当にそうなのか? 俺のしたことを……俺が福本たちを殺したことをバラさないでいてくれるのか? 一生か?」
 星空はペットボトルを放り込む俺を目で見た訳ではない。足音で誰か分かったのだという、何の証拠もない主張をしているに過ぎない。だが星空が自分の考えに確信を抱いていることも間違いはない。
 星空が今の推理を人に漏らせば、俺が不利になることは間違いがない。全てはこいつは胸先三寸。その恐怖の中優しい言葉をかけられたことで、俺はどうかしてしまっていたのだ。
 気が付けば自分の犯行を認め、星空に縋り付いて懇願を初めてしまっている。それが致命的な屈服であると気付いていたが、しかし俺はそうすることをこらえ切れなかったのだ。
 「もちろんバラさないであげる! 一生だよ。わたし夢人くん大好きだもん。だから……だからね……っ」
 そう言って、星空は俺の身体を抱きしめた
 星空の身体は温かく、全身の香りは柔らかだった。こんな積極的なことをされたことはなかったので、俺は戸惑った。その抱きしめ方は恋人ごっこというよりは、ぬいぐるみを扱うのに近かった。アタマやら背中やら撫でまわすその手つきは、どこか無遠慮で支配的だ。
 「わたしの恋人に……なってくれるよね?」
 俺は全身に星空のぬくもりを感じている。全身を星空に優しく包み込まれ、俺は身動きも一気をすることさえできなくなっていた。
 「バラさないでいてあげるからね。わたし、夢人くん大好きだから。誰にも言わないであげるし夢人くんを守ってあげる。だからね夢人くんわたしの恋人になって。わたしを好きになって。ずっとわたしと一緒にいて」
 星空の口調は懇願するようなものだったが、しかし片方が片方を確実に破滅させる材料を持っているという状況での哀願は、脅迫と同じ意味を持っている。
 「ね? 良いでしょう? 良いはずだよね? そうだよね? ……ね? 嫌なんて言わないで。嫌って言ったら……言ったら」
 「嫌なんて言わないよ」
 俺はそう言って、縋るようにして星空を抱きしめ返した。そしてその柔らかな身体に縋り付き、助けてくれと言う意味を込めてこう言った。
 「俺も星空のことが大好きだ」
 そう言うと、星空の全身が突然熱を帯びたように感じた。
 燃え上がるように体温を上げた星空は、俺を抱く手に強い力を込め始める。それは一生涯俺を離すことはないという意思表示だった。それに絡めとられることを、俺はただただ許容するしかなかった。
 「うんっ。そうだよね。わたしも夢人くん好き。恋人になろう。大人になったら結婚しよう」
 星空は求めていたおもちゃをようやく手に入れた子供のように、屈託のない笑顔を浮かべ、はしゃいだ。
 「……でもねでもねっ、恋人になるって言うの夢人くん分かってるかな? どうしたら良いのか本当に分かるかな? どうするべきなのか言っても良いかな?」
 「何でも言ってくれよ」
 「そう? じゃあ言うね。あのね夢人くん、恋人同士だったら、夢人くんはもうわたしが遊ぼうと誘っても断ったりしないし、わたしのことを邪険そうにしたりしないの。本当は優しくてわたしのことを大好きなのを、照れて隠したりせずにわたしに示してくれるの。それでねっ、わたしが困ってたり誰かに攻撃されてたりしたら全力で助けてくれるの。そりゃ夢人くん強くないから負けちゃうことも多いと思うけど、それでも一生懸命やってくれるの。それで良い?」
 「もちろん、全部言うとおりにするよ」
 「そっかそっか良かったっ。そうだよねぇ。もっと早くそうなるべきだったんだよこれまでが絶対おかしかったんだ! ああ良かったこれで全部思い描いた通り。願っていたとおり。えへ。えへへ。えへへへへっ。へへへへっ」
 そう言って、星空は俺から身体を離し、最早媚びなど微塵もない彼女本来の笑みで俺を見据え、こほんと咳払いして言った。
 「あのね夢人くん。わたし、前からこの世界には二つ、元いた世界にはないものがあったって言ってるよね」
 「ああ。ホシとハナだろう?」
 「そう星と花。でもね、実はその二つの他にも、もう一つこっちにだけないものがあるんだ。それは形の無いもので、だからわたしもなかなか気付かなかったんだけど……。でもね、それは本当はとっても素敵なものなんだ。夢人くんにも教えてあげるね」
 そう言って、星空はノートを取り出して、鉛筆で大きく『愛』と記して見せる。
 「誰に見せても、この字も言葉も知らないって言うんだ。夢人くんもそうなんでしょう?」
 「そうだね。初めて見るよ」
 「だよねだよねっ。『あい』って読むの。実はね、この言葉の意味っていうのは……わたしの夢人くんへの気持ちと一緒なの。誰かを好きで、大切で、一緒にいたくて、たまらないっていう気持ち。そういう気持ちを人に向けることを、『愛する』とか『愛してる』っていうの。だからね、夢人くんもそれを覚えて。そして、わたしのことを全力で愛して」
 「分かった。そうするよ。俺は星空のことを愛する」
 俺が言うと、星空は再び俺に抱き着いて来た。星空の柔らかな匂いと、熱い体温を全身に感じる。強く長く抱きしめて来る星空の胸の中で、俺は彼女の言った内容を吟味していた。
 星空の話には絶対的におかしな点がある。
 あの日、俺は後から怖気付いてペットボトルを取り戻しに倉庫に向かったが、どこを探してもペットボトルを見付けることはできなかった。これは、星空のそのペットボトルの意図が分からず放置して置いたという主張と、明らかに矛盾している。
 星空はコーラのキャップを『大切な物入れ』に保管していた。彼女は炭酸飲料が苦手でコーラなど絶対に飲みはしない。そんな彼女がコーラのキャップを持っているのは明らかに不自然だ。
 上記の二点を組み合わせると、とある推理が浮かび上がって来る。
 倉庫にペットボトルが投げ込まれた時、星空は縛られた両手でキャップを開けたのだ。そして、それがガソリンであることを理解した。
 その時点で星空は、俺の考えていたことを悟ったのだろう。そして星空は、一度は恐ろしくなったのだ。そしてペットボトルを自分の懐に入れ、いじめっ子達に隠して持ち帰った。その時点での星空は、俺の凶行を停めようとしてくれていたのだ。
 そこまでなら良かった。しかしその後で行われた星空の精神活動は、後から怖気付いた俺とは真逆のものだった。
 星空からしても、福本達はいなくなって欲しい存在である。自殺を試みる程精神的に追い込まれていたのだから、もう何をしても排除したいと思っていてもおかしくはない。そしてそれが達成されうる可能性を、自ら潰してしまったことに星空は気が付いた。
 星空は考えた。このペットボトルを倉庫に戻せば、彼らが死んでくれる可能性は復活する。自分が疑われる心配はない。すべての罪咎は俺が背負ってくれるのだから。
 そう考えて、星空はペットボトルを倉庫に戻した。俺が倉庫にペットボトルを取りに戻ったのは、星空がペットボトルを持ち帰ってから戻すまでの間の出来事だったのだ。
 しかも星空はただペットボトルを倉庫に戻すだけでなく、ある工夫を行った。それはシンプルで、かつ効果的に福本らの致死率を高めるものだった。
 彼女はペットボトルのキャップを外しておいたのだ。そうしておくだけで、福本らが死亡するまでのルートは格段に数を増やす。
 蓋を開けた状態ならば、気体化したガソリンがペットボトルの中から溢れ、倉庫内に充満することになる。そこで火遊びをすれば、火災が発生する可能性は当然高い。仮に上手く気体に引火しなかったとしても、蓋が開いているのと開いていないのとでは、福本らが中身をぶちまける心理的抵抗がまるで変わるし、火遊び中に誤って倒してしまうと言う可能性も生じる。
 そして実際に火災は発生した。それは福本らが愚かだったことも理由の一つだが、星空が明確な殺意を持って引き起こしたことでもあった。そして成功した殺人のいわば記念品として、或いは俺の『愛』の証として、星空はペットボトルのキャップを大切に保管している。
 星空は俺と罪咎を分け合った殺人者だ。
 その殺人者は今、俺に愛を求めている。幸福そうに俺を抱きしめ続けている。
 「……夢人くん。愛してるよ。ずっとずっと愛してる。だから、夢人くんも、永遠にわたしを愛してね」
 星空の言う通り、俺は生涯に渡って星空を愛し続けなければならないだろう。それがどういう感情なのか今は良く分かっていないが、星空の考えるそれがどういう物なのかを読み取って、彼女を愛し続けることになるのだろう。
 俺は覚悟を決めた。星空を愛する覚悟を。愛し抜く覚悟を。
 本心から永遠の愛を誓った恋人を目の前にして、星空はどこまでも幸せそうに微笑んでいた。
粘膜王女三世

2020年12月27日 02時54分08秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆テーマ:
 天に星【○】
 地に花【○】
 人に愛【○】

◆キャッチコピー:つらいことばかりだったあの日々に、どうしてか今は縋り付いている。
◆作者コメント:私の、ではもちろんありませんが、子供の頃の話です。
 お題の使い方はこれで許して。
 タイトルはちょっと悩みました。いやすぐに決まったんですが、本当にこれで良いのかを悩みました。結局これにしましたが、まあ良かったんじゃないかと思います。
 感想よろしくお願いします。

2021年01月10日 23時48分36秒
+20点
Re: 2021年01月19日 23時49分40秒
2021年01月10日 19時37分21秒
+10点
Re: 2021年01月19日 23時39分46秒
2021年01月10日 19時32分24秒
+30点
Re: 2021年01月19日 22時47分59秒
2021年01月10日 18時45分59秒
+20点
Re: 2021年01月19日 22時32分20秒
2021年01月06日 07時21分40秒
+20点
Re: 2021年01月19日 22時31分35秒
2021年01月04日 20時49分00秒
+10点
Re: 2021年01月19日 17時00分11秒
2021年01月03日 06時46分56秒
+20点
Re: 2021年01月19日 16時37分07秒
2021年01月02日 02時39分52秒
+20点
Re: 2021年01月19日 15時57分31秒
2021年01月01日 01時17分37秒
+30点
Re: 2021年01月19日 00時41分50秒
2020年12月30日 10時00分45秒
+20点
Re: 2021年01月19日 00時25分56秒
合計 10人 200点

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