デッドマンイズノットデッド

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※ グロ注意


1.


 あたしを殺そうとしたサイコヤクザは、突然現れたジャージ男にあえなく殺された。
 一部始終を目の前で見ていたあたしでも、訳が分からない。
 ただ、そんなあたしにはお構いなしに首から上が無くなったサイコヤクザの体からは血がびゅーと噴き出てあたしの顔を汚してくるし、部屋の隅にはジャージ男に切り飛ばされたヤクザの顔がこっちを見ているし、血まみれのジャージ男は黙ってあたしに向かってくる。
 年頃は二〇後半から、三〇に差し掛かったくらいだろうか。ぼさぼさした髪と無精髭に覆われた顔はイケメンの部類に入るだろうけど、無表情な上に血まみれで全て台無しだ。
 そんな彼は黒いジャージに身を包み、右手には大ぶり、とかそんなレベルじゃない巨大な鉈を握っている。ついさっき、サイコヤクザの首を切った鉈だ。
 先ほど彼は、あたしがサイコヤクザに殺されそうになったこの部屋に、文字通り霞のように現れた。鉈を握って無言のままサイコヤクザに向かったジャージ男は、彼に怯えたサイコヤクザが放った銃弾にひるみもせず、サイコヤクザの首をぶった切った。
 サイコヤクザが苦し紛れに放った銃弾は、ジャージ男の頭に当たっていた。
 銃弾はジャージ男の頭の中で暴れ回った後に後頭部から出て行き、彼の頭は後ろ半分が綺麗になくなっていた。砕けた骨、そして頭に収まっていたピンクと灰色の脳みそは床にべしゃりと広がってるけど、ジャージ男は何事もないようにサイコヤクザの首を切った。
 頭がおかしくなりそうだった。それともおかしくなってこんな光景を見てるんだろうか。
 幻覚か、現実か。どちらなのか分からないけど、ジャージ男はあたしに、無表情のまま向かってきた。

   *

 あたしがこうなったのは、父親と継母のせいだ。モラハラパワハラをかましてくる継母と、それを見て見ぬ振りで押し通す父親に耐えかね、家出したあたしは、SNSで知り合ったおっさんのいる、東京に向かった。
 待ち合わせ場所に指定された山手線の駅で待っていたのは、一見すると小金持ちの、平凡な、うだつの上がらなさそうなおっさんだった。
 昔、ニュースに映っていた、キムジョンナムとかいう北朝鮮のお偉いさんに、おっさんはそっくりだった。ただ、テレビで人の良さそうな笑顔を向けてた麻薬と武器のブローカーをしていたというジョンナムと違い、こっちのおっさんはちょっと気弱で、神経質っぽかった。
 強ばった笑顔を浮かべて、おっさんはあたしを甲高い声で呼んだ。DMで名乗った偽名を聞いて、はい、とあたしが答えると、おっさんは早口で路肩に付けた車に乗るよう言い、自分はさっさと運転席に収まってしまった。
 この時点で、あたしの頭の危険センサーは警告を発してたけど、それよりも寝床の確保を優先したあたしはそれを無視した。
 おっさんの乗った車が黒塗りのベンツだったり、おっさんの金ネックレスが見える胸元から綺麗な絵がちょっと見えた時点でもセンサーはわんわん鳴ったけど、それよりもあの継母のいる家へ戻ることへの嫌悪感が勝って、あたしは黙って助手席に乗り込んだ。
 車、かっこいいですね。と、お世辞を言ってみたものの、おっさんは小さく頷いただけで無言で車を発進させる。黙って前を見つめ、あたしの方を見ようともしないくせに、鼻息だけは妙に荒い。
 そんなおっさんが不意に、喉渇いたでしょ、飲みなさい、とか言ってお茶のペットボトルを渡してきたら、適当に誤魔化して、飲まないのが普通だろう。
 でも、あたしは、生まれて初めての家出で少なからずテンパっていて、寝床と安全を提供してくれるはずのおっさんの気を悪くしちゃ不味いという考えを優先して、そのお茶を一口だけ飲んだ。
 ありがとうございます、と言って何分も経たない内に、あたしは急激な眠気に襲われた。


 気がついた時にはあたしは下着姿にされ、椅子に拘束されていた。
 手は後ろ手に、足は椅子の脚にそれぞれ結束バンドで拘束されたあたしの前で、おっさんはパンツ一枚の格好で立っていた。
 手にはブロック肉を切るのにでも使うような大ぶりなナイフ。脇には見るだけで痛くなってきそうな様々な種類の器具が乗ったワゴンが置かれている。
 ボクサーパンツと胸の金ネックレスだけ、というおっさんの胸元には綺麗な入れ墨が刻まれていた。そんな変な格好をあたしに見せつけるおっさんは、まさにオリジナルのキムジョンナムみたいな、人の好い、悠然とした笑顔を浮かべていた。
 どうやら自分が酷く迂闊なことをして窮地に陥っちゃってることはすぐに分かった。下着以外何も身に着けていなかったけど、背中に汗が浮かぶ。
 あたしはおっさんに、儚い希望を込めてにっこり笑う。
 薬は盛られてナイフを向けられてるけど、もしかしたらこうして怖がる様を見て満足かもしれない……なんてあたしの淡い希望を、笑顔のおっさんは容赦なく吹き飛ばす。
 これから君を拷問しながらヤらせてもらう。最後は殺すね。
 きんきんとした早口でそう言うおっさんは、相変わらずのジョンナムスマイル。その満足そうな笑顔についあたしも笑顔で返しちゃってから、ふざけんじゃねえと暴れ始める。
 がっちり肌に食い込んだバンドから逃れようともがく。でも非情なプラスチックは動くごとにさらに食い込んでくるだけで少しも緩まない。
 キチガイなヤクザに殺される!
 とか必死に叫ぶけど、サイコなヤクザのおっさんが笑みを深めただけだった。
 しばらく叫び続け、あたしが息をついたところで、サイコなヤクザはきいきいとした声で言う。
 ここは地下だし、周りには家もないし、ついでに防音もされてる。いくら叫んでも誰も来ないよ。
 そう言ったおっさんの股間ふと見ると、ボクサーパンツがぱんぱんに膨らんでいた。どうやらあたしの暴れよう、そして取り乱しようは、おっさんの好みに合ってしまってたらしい。
 ふざけんな、とあたしは思う。せっかくあの家から逃げたっていうのに、こんなところでサイコヤクザの歪んだ性欲のはけ口にされてたまるか。
 おっさんをより興奮させるだけ、と思いつつ、それでもあたしは声を張り上げ、自由にならない体を揺らす。
 警察舐めんな、あんたなんてすぐに捕まるんだから! とかあたしは叫ぶけどサイコヤクザはおかまいなしに、ぱんぱんになったボクサーパンツを揉みつつナイフ片手に向かってきて、さすがに絶望しかけたその時に、あのジャージ男は現れたのだ。
 そのジャージ男がもともと部屋にいて、取り乱したあたしが気付かなかった、なんてことはないと思う。
 サイコヤクザとあたしのいる部屋は白色の壁に四方を囲まれていて、その白に真っ向から喧嘩を売るような黒のジャージ姿の男を、気付かないというのは考えづらい。ジャージ男は、まるで霞のように、その部屋に出現したのだ。
 鉈を片手に突然現れた男に、助けを求めることも忘れ、あたしが呆けた顔をしていると、あたしの視線に気付いたサイコヤクザもジャージ男の方を見る。
 ジャージ男に気付いたサイコヤクザはナイフをそっちに向ける。てめーどこから入ってきやがったオラア、と精一杯に怒声を張り上げるけど、ジャージ男は全く気圧された様子もなく、鉈片手にサイコヤクザに向かっていく。
 怯えたサイコヤクザはジャージ男から離れ、壁際に置かれた机に向かい、引き出しをがさがさと探り始める。あわてふためくサイコヤクザにジャージ男は容赦なく向かっていき、鉈を持った右手を振りかぶるけれど、それが一閃する直前、サイコヤクザは引き出しから取り出した拳銃でジャージ男を撃った。
 ジャージ男の頭が半分吹っ飛ばされ、血とか脳みそが噴き出し、あたしは悲鳴を上げる。
 ただ、頭を半分吹っ飛ばされたにも関わらず、ジャージ男は死なず、鉈をサイコヤクザに振るった。


 ……振り返っても訳が分からない。
 恐怖とか混乱とかが振り切れちゃったあたしは、ジャージ男があたしに向かってきても、ただぼんやりと彼を見ることしか出来なかった。
 ママ、と呟いてしまいながらジャージ男の鉈を見ていたあたしだったけど、その鉈はあたしの頭に打ち込まれることはなかった。
 ジャージ男は鉈を地面に置くと、ポケットからカッターナイフを取り出し、それで結束バンドを切ってくれる。
 手足が自由になったあたしは、おずおずとジャージ男にありがとう、と言うけど、彼はそれに応じることなく、さっさとあたしに背中を向けた。
 あいつが振り向くと、ぽっかり空いた後頭部もあたしの方を向く。赤く濡れた頭蓋骨に、思わず息を呑むけど、その巨大な孔はあたしがぽかんとしてる間に、みるみる内に塞がっていった。
 孔の下の方、脊髄とかのある方から、無くなった脳みそが盛り上がり、頭蓋骨に満ちる。さらに瞬く間にその上を血管や神経、そして骨が覆う。みちみちと音を立てながら再生していく後頭部の足下では、吹っ飛ばされた脳みそが黒い煙を立てながらぶすぶすとひとりでに燃えていった。
 また気が遠くなりそうだったけど、あたしはなんとか堪え、ジャージ男に、待って、と言う。
 ジャージ男はあたしの言葉に動きを止めようとせず、床の鉈を拾い、さっさとあたしから離れていく。
 あたしは慌てて、ジャージ男に駆け寄ろうとする。
 今自分がどこにいるのか、これから何をすれば良いのか、全く分からない状況にテンパったあたしは、どうやらあたしを助けてくれたらしいこのジャージ男に助けてもらおうとしていた。でもこいつ後頭部吹っ飛ばされても生きてたよね、っていう突っ込みが頭の片隅から起こるけど、それよりも誰かに助けて欲しい、っていう願いの方が大きくて、あたしはジャージ男に向かう。
 女の子が後ろから抱きつけば、こいつも待ってくれるだろう、なんてことも考えるけど、ジャージに血がこびり付いていたことを思い出してそんな考えは一瞬で消え去り、どうしようどうしようとテンパりつつ周りを見回すと、先ほど、サイコヤクザが拳銃を取り出した机の上にあたしの服と、バッグが乗ってることに気がついた。
 それに駆け寄り、スカートのポケットからスマホを取り出す。
 サイコヤクザの死体とジャージ男を撮って、これを警察にバラされたくなければあたしの言うことを聞け……と言うのはどうだろう。
 とにかく必死なあたしは、結構ゲスなそんなことをすぐに実行する。スマホのロックを解除、カメラ起動。血の海に沈んだサイコヤクザの体を画面越しに見て、うえ、となったあたしは、次の瞬間には目を丸くすることになった。
 カメラの画面に映っているのは、サイコヤクザの丸いお腹だけだった。カメラから視線を外すと、確かにサイコヤクザに背中を向けるジャージ男がいるのだけど、カメラを見ると、彼の姿はどこにも見えなかった。
 何で何で何で? と呟いちゃうあたしを、ジャージ男は振り向きざまに見てくる。その無精髭とボサボサ頭に浮かんだ無表情を見つつ、もういいや、とボタンを押す。これを警察にバラされたくなかったら言うこと聞いて、と決めの台詞を言ったところで、ジャージ男は現れた時と同じく、霞のように目の前から消えてしまった。


2.


 多量の血とサイコヤクザの死体と共に、部屋にぽつんと残された下着姿のあたしは、しばらくそのまま立ち尽くすしかなかった。
 ここ何分……もう何時間もの出来事に感じたけど、間違いなく一〇分も経ってない間に降りかかってきた出来事の非常識さと異常さは圧倒的で、ただのJKでしかないあたしは茫然とするしかなかった。
 ふと、体についた血を拭おうと思い立ったあたしは、部屋の隅に置かれた戸棚に向かう。棚の中にはコンドーム、大人のおもちゃ、ナイフとか拷問器具っぽいものと一緒に、畳まれたバスタオルが入っていて、あたしはそれで体を拭う。
 ほんとはシャワーでも浴びたいところだけれど、そんな気の利いたものはサイコヤクザの拷問部屋にあるはずがない……と思いきや、ふと視線を転じてみると地上に向かっているらしい階段のすぐ隣にそれっぽいドアがあり、ダメ元で開けてみるとそこはバスタブ付きのシャワー室になっていた。
 血にまみれたさっきの部屋と綺麗なシャワー室の落差はあんまりで、ちょっとくらくらした感じを覚えるけど、あたしは下着を脱いでシャワーを浴びた。
 熱いシャワーで体についた血を流すと、血の混じったお湯がバスタブの排水溝に流れていく。それを見た途端頭にサイコヤクザが首を切られる様や、部屋の隅に転がったあいつの頭が浮かんできて、うぇ、となる。
 そしてあたしはいらんことにも気付く。もし、サイコヤクザに襲われた女の子が、あたしが初めてじゃなかった場合、サイコヤクザは事が終わったあとに、今のあたしと同じようにシャワーを浴びたかもしれない、ということだ。血まみれのサイコヤクザが鼻唄を歌いながら全身の血を洗い流す、すぐ隣の部屋には首を切られた女の子が転がってる、そんな様を思い浮かべてしまってとうとう限界を迎えたあたしは、堪えきれずにその場で吐いた。東京に向かう電車の中で食べたおにぎりが胃液やよだれと一緒くたになって排水溝に流れていき、サイコヤクザと同じ場所でシャワーを浴びてる自分が滅茶苦茶汚いもののように感じる。
 ひとしきり胃の中をものを出してしまってから、あたしはバスタブから出る。脱衣所で体を拭くとまだ体にサイコヤクザの血のぬめりが残ってる気がしたけど、また浴室に戻る気にもなれなくてあたしは血に濡れた下着を脱衣所のクズカゴに放り投げてから、さっきの部屋に戻った。
 部屋にはやっぱり、血まみれのサイコヤクザが転がっていた。何もなくなったはずの胃からまた何かがこみ上げるのを感じたけどなんとかこらえ、あたしは死体の方を見ないようにしつつ、机の上にあった自分の服とバッグの方へ向かう。あたしが死んでたらこれヤクザのオナニーとかコスプレに使われてたんだろうか、なんてまたしょうもないことを思いつつ、バッグから予備の下着を取り出して身に着け、服を手早く身にまとう。スニーカーを履き、居住まいを整えたあたしは、地上に向かっているはずの階段に足をかけた。
 控えめに言って最悪だった。


 階段を登った先は普通の住宅のリビングになっていた。高級でもなく、かといって粗末でもない、田舎によくある、一家族が無理なく暮らせるくらいの家だ。家には灯りがついていたけど、人気はない。サイコヤクザは、ここに一人暮らししてたんだろうか。
 でも家の中はジョンナムなサイコヤクザに似合わず、結構丁寧に片付けられていて、もしかしたら昼間はお手伝いさんか、部下ヤクザがあいつの世話をしてるのかもしれない。どっちにしても長居はしちゃまずいので、あたしはさっさと家の外に出た。
 サイコヤクザの言葉通り、その家の周りには他の家は見当たらなかった。家の前を通る砂利道を除けば、視界の大方は、二階建てのその家よりも高い木々で覆われていて、耳には木の枝がこすれる音がやたらと聞こえてくる。どんだけ長距離移動したんだ、と思ってスマホで位置を確認してみると、意外にもここは都内だった。
 東京でもこんな場所があるんだ、とか場違いに感心しつつ、あたしはスマホに指を滑らせ、警察に電話しようとする。至極当たり前に一一〇をダイヤルしようとしたあたしだけど、〇を押す直前になって、ふと気付く。警察に保護されれば、あの家に戻らなきゃならなくなる。
 父親と継母の顔を思い浮かべちゃったあたしは、反射的に電話を閉じ、地図アプリを起動して、人気のありそうな方に目的地を設定し、歩き出した。
 警察に届け出ないのは不味いと分かっていたけど、それよりも継母父親への嫌悪感の方が勝って、特にああしようこうしようというプランもないまま、あたしは闇の中を歩き出した。頭の中ではサイコヤクザの死体とかジャージ男の脳みそとか色々なものがぐるぐるしていて、冷静に考えをこねることも出来ない。でもあたしはほとんど衝動的に歩き続けた。
 砂利道を数分歩くと、舗装された結構広い道路へ出る。最近整備されたばかりに見えたものの、森と山の合間を走る道の灯りはかなりまばらで、雲一つ無い空には星の光がくっきりと見えた。車の通りもかなり少なかったけれど、あたしはエンジン音が聞こえてくる度にガードレールから外に出て身を隠した。闇夜にJKが一人歩いてるっていうのがかなり奇妙だ、ということはまだまだテンパってたあたしにも分かっていた。
 そうして歩いている内に、考える余裕があたしの頭に戻ってくる。
 乗ってた車や装飾品、そして拷問部屋を備えた一軒家を持ってる経済力を見る感じ、サイコヤクザはヤクザ組織の中でもそれなりのポジションにいるんだと思う。だとすればお付きの部下ヤクザが無事を確かめに、遅くとも数日内にはあの家を訪ねるんじゃないだろうか。そうして、あたしが警察に届けなくてもあいつの死は、さほど時間を経ずに明らかになる。
 拷問器具とナイフを脇に置いたサイコヤクザの死を、ヤクザが警察に届け出るかどうかは分からないけど、彼らだけでも、サイコヤクザを殺した犯人を探すかもしれない。そうなった場合、彼らはあたしがサイコヤクザを殺したか、そうでなくても何らかの事情は知ってると考えるはずだ。そして、彼らがあたしに辿り着く可能性は十二分にある。あの家にはあたしの髪の毛、足跡、指紋、脱いだ下着がそのまま残ってるし、サイコヤクザと待ち合わせた駅にある監視カメラにも、あたしの姿はばっちり映ってる。
 ヤクザの追っ手に捕まった場合、あたしはどうなるだろう。ヤクザと待ち合わせただけの家出少女です、あいつを殺したのはいきなり現れた鉈持ったジャージ男です……間違いない事実なんだけど、連中がそんな話を信じるとは思えない。あたしから満足な答えを得るために、奴らは拷問とかするかもしれない……それを考えると警察に出た方が良いかもだが、父親と継母の待つ家に戻るのはヤクザに捕まるのと同じくらい、嫌だった。
 足を止める。大きく息を吐く。そして八方塞がりな自分の状況に向かって叫ぶ。ファック、と。
 叫べば気分もすっきりするかと思えば余計に惨めになってきて、頬に涙が伝うのを感じた。
 こうまで追い込まれたのは自分のせいなんだろうか、父親と継母が酷かったとしても、家出しちゃった自分が悪いんだろうか。そうでもしないと自分が壊れちゃいそうな気がしたし、今でもその考えは変わってない。ちょっとしたことであたしを責め、四六時中あたしを監視する継母と、あたしと顔を合わせようもしない父親。そこから逃げようとするのは、そんなに悪いことだったのか。それとも、逃げるためにパパ活に近いようなことを選んでしまったのが悪いんだろうか。それって、拷問してレイプされて殺されるようなことだろうか。
 考えれば考えるほど頭のぐちゃぐちゃは酷くなり、頭痛までしてくる。全てを覚悟して、警察に連絡するしかない、と考えかけたあたしだったけど、そのときふと、酷く気持ちの悪い光景が浮かんできた。
 黒のジャージの上下と、血に濡れた、中身のない頭蓋骨だ。


 結局、あたしは警察に電話せずに道を歩き続ける。大体一時間ほど歩くと、ほんの少しの遊具が置かれただけの公園に辿り着いた。少しずつだけど、住宅も増えてきて、もう少しすれば漫喫とか、屋根のある泊まれる場所にたどり着けるかもしれなかったけど、あたしの体力はそろそろ限界だった。
 さび付いた遊具や、広い砂場の間をふらふらと歩き、あたしは公園の中で唯一明かりが灯った場所に向かう。トイレだ。
 いくら何でもトイレって、とも思ったけど、あたしの頭と体にこびりついた疲れはそんなものが些細に感じられるほど圧倒的で、そしてあたしは、つい何時間か前にレイプついでに殺されそうになり、得体のしれない超能力キリングマシーンが人を殺す様まで見てしまったのだ。もう寝られればどこでも良かった。あたしは個室の一つに入って、サイコヤクザの家からもらってきたバスタオルを床に敷き、そこに寝そべる。さすがに汚れがついた便器を目の前に見た時は、うっ、となったけど、こみ上げてくる不快感を無視して無理矢理に目を閉じる。
 季節はもう春になるところだったけど、夜の冷え込みはまだキツい。持ってた衣類を全部身に着け、ついでにサイコヤクザ宅から持ってきたバスタオルの最後の一枚もまとったもののまだ寒い。こんな状況にあたしを追いやった直接の元凶たるサイコヤクザをあらためて呪う。ついでに継母と父親も呪う。
 寒い寒い眠れない、とか呟いていたのだったけど、いつの間にか眠りに捕れていたらしい。気付けばあたしは、スズメの鳴き声で目を覚ました。
 清浄な朝の空気と鳥の鳴き声に目を覚ますのは気持ちが良い、と言えたかもしれないけど、目を開けた途端汚い便器が目に入り、アンモニアが鼻を突いてくれば全て台無しだ。
 変な姿勢で寝たおかげで体の節々は痛かったけど、眠りは意外に深かったらしく、頭はすっきりしていた。人の気配がないか確認してから、個室を出て、薄汚れた洗面台で顔を洗って、あたしは公園を出た。


 公園を出たあたしは、近くのマックで朝ご飯を食べることにする。店に入り、中年のおばちゃんクルーに注文するときになって、自分がトイレの臭いを纏ってないか気になったけど、人前で自分の臭いを嗅ぐわけにもいかずに、内心で汗をかいてる内におばちゃんは人の好い笑顔でパネルを操作し、さほど経たない内にコーヒーとマフィンが乗ったトレイが渡された。おばちゃんと離れてから自分に臭いが付いていないのを確認し、でも一応他のお客さんから離れて、あたしは窓に面した二階の席に着く。そしてコーヒーを飲む。
 コーヒーの香りと温かさを感じた途端、泣きそうになった。
 継母からのいじめに始まり、サイコヤクザにレイプついでに殺されそうになり、ジャージ男を見て、とどめにトイレで一晩を過ごしたあたしにとって、朝の光に満ちたマックで飲む安コーヒーは異常なくらいに美味しかった。
 馴染みある世界に戻ってこれたこと、それを自分が喜んでいるらしいことに気付いたあたしは、すぐにまだそう思うのは早いと自分に言い聞かせる。
 まだあたしはハードボイルドなファッキンワンダーランド《非日常》にいる。


 コーヒーを半分だけ飲んでから、あたしはスマホで昨日の晩に撮った写真を見た。ジャージ男が消える前、あいつを引き留めようと撮ったあの写真だ。ほとんど空になったお腹はいち早くマフィンを食べるように主張してたけど、我慢する。写真には首から上がなくなったサイコヤクザも映っていて、また戻したら大変だ。自分の回りに人がいないことを確認してから、赤とか肌色が目立つサムネに指を滑らせる。薄目で恐る恐るその写真を見たあたしは、またため息をつくことになる。
 画像にはボクサーパンツ一枚で血の池と化した床で死んでるサイコヤクザは映っていた(いつの間に耐性がついたのか、それを見てもそんなに気持ち悪くなることはなかった)けど、やっぱりジャージ男は映っていない。どういう理屈かは分からないけど、目には見えても、あいつはカメラには映らないようだった。
 何もなかったところから現れて消え、脳みそが半分なくなっても平然としているジャージ男なら、カメラから自分だけ消すなんてことも出来るかもしれない。
 鼻息を吐いてから、あたしはマフィンを頬張る。
 あたしは、あのジャージ男を頼れないか、と思っていた。昨日、あたしが殺されそうになったところに彼は現れた。酷い偶然と片付けるよりも、あたしを助けに来てくれた、と考える方が自然で、そして彼には、不気味な、しかし強大な力がある。彼に頼れば、警察に届けてあの家に戻らなくても済む、そう思ったのだ。
 でも、彼がどこにいるか分からなければ意味がない(それに彼が助けてくれるかも分からない)。昨日の画像に彼が映っていないことが分かった今、彼への手がかりは何もなく、あたしはマフィンを噛みながら酷く暗い気分に捕らわれてしまった。
 気分が晴れないまま、あたしはそのマックを出る。
 もっとも、外を出た途端、ジャージ男への手がかりは自ら現れたのだけど。


 すごく綺麗な人。というのが、その女の人を見たときの第一印象だった。
 小ぶりな頭の形も完璧なら、瞳、鼻、唇、耳。そうしたパーツの形も、その配置のバランスも完璧で、その顔を縁取る腰まで伸びる艶やかな黒髪も、初春の今の季節にはちょっと薄く見える黒のワンピースすら非の打ちようがないように見える、常軌を逸したとすら思えるくらいに、綺麗な人だった。半ば途方に暮れつつマックを出たあたしの真ん前に、いつの間にかその女の人は立っていて、思わずその美貌に見とれちゃったあたしに、彼女はこう言ってきた。
「彼に会いたいの?」
 前置きは一切なく、告げられた言葉に呆気に取られるしかないあたしに、彼女は笑いかける。
「突然ごめんなさいね。で、あなたは彼に会いたいの?」
 彼って言うのは? と、あたしが聞くと、彼女はこう答えた。あなたが思い浮かべている彼よ、と。
 何をどうやってあたしが思い浮かべてる人が分かるのか、とか、色々な疑問が頭の中にぶわーっと浮かぶけど、女の人の浮かべた笑みは、そんなあたしの戸惑いを顧みない、悠然としたものだった。
「鉈を握った、あの殺人者に会いたいんでしょう?」
 その女の人の言葉に、もともと頭にあったいぶかしさに不気味さと緊張、恐怖が加わる。ヤクザの追っ手、とあたしが考えると、女の人は笑顔を深めた。
「私はそんなのじゃないよ」
 いや今あたしの考え読んだのかこの人、と、混乱しまくるあたしに向けられる女の人の笑みは、先ほどと変わらず、ひどくゆったりしたもの。それは美しい一方で、限りなく怪しい。
 逃げるべき、と思う。それでも彼女の艶っぽい笑みに張り付けられ、動けないあたしは、ただ背中に冷たい汗を感じるしかない。不意に、女の人はくるりと振り向き、そして歩き始める。
「ついてきて」
 そんな言葉に、あたしの混乱はさらに深まる。謎めいたことしか言わない女の人にはもう怪しさしか感じなかったけど、それでもあたしは、女の人の背中についていってしまった。


 軽い足取りで歩き始める女の人に付いてしばらく歩いてから、あたしは彼女に声をかけた。今更な印象は拭えないけど、果たして彼女に付いていって良いものか、確かめようと思ったからだ。
「あなたは、あの人とどういう関係なんですか?」
「秘密。今のところはね」
 鼻息をつきたくなるのを我慢しつつ、あたしは女の人に質問を重ねた。
「あいつの名前は」
 あたしがそう言うと、女の人は足を止めて、こちらを振り向いた。
「デッドマン」
 女の人は、酷く嬉しそうにそう言った。まるで下手なアメコミヒーローのような名前に、思わず笑ってしまいそうになるけど結局は口元がひくついただけのあたしに、女の人は言葉を続ける。
「彼に名前はないけれど、彼は彼を追う者からそう呼ばれている。理不尽な死から人を救う、優しい破綻者。それが彼。私のお気に入り」
 デッドマン、死人なんて酷い名前で彼が呼ばれてることも、彼女がそのことを酷く嬉しそうに話すことにも戸惑うしかないあたしを捨て置いて、女の人は再び、歩き始めた。


3.


 女の人の脚は、運動? 何それ美味しいの? ってくらいに細くて華奢だったけど、彼女は三時間ぶっ通しで歩き続けた。バテたのはあたしの方で、一時間くらい歩いたところで道の端に腰を下ろさざるを得なかった。ぜーぜー息をつくあたしを、女の人は相変わらずの微笑みを浮かべて待っていて、あたしが立ち上がると、彼女も何も言わずに再び歩き始めた。
 女の人に付いていくのにためらいを感じていたあたしだけど、いつの間にかもうどうでもいい、っていう感じになっていた。そもそもあたしは、頭半分無くても生きてるようなあのジャージ男、デッドマンに頼ろうとしたのだ。やべー奴に頼るなら、一人に頼ろうが、二人に頼ろうが同じだ、と、ひどく投げやりに考えつつ、あたしは、女の人を追って歩き続けた。
 歩いている内に、周囲の光景が徐々に、あたしの知っている東京らしい、建物の密集したごみごみとしたものになっていく。建物のひしめき合う街の中、その片隅に建つ一軒のアパートの前で、女の人は脚を止めた。
 それは、箱のような形をした、あたしが住んでいた街にもよくある二階建てのアパートで、建てられて多分、何十年も経っている。外壁は蔦で覆われていて、二階に繋がる階段の金属製の手すりは塗装の代わりに錆びで覆われている。
 その一階の一室で女の人は、ここよ、とあたしに言う。そんな彼女に、あたしは気になっていたことを尋ねた。
「どうして、あたしを連れてきたの?」
「楽しくなりそうだから」
 にっこりと、女の人は笑う。
「彼の周りでは今、色々なことが動き始めている。そこにあなたを投じたら、どうなるか。彼がどう悶えるか、それが見たいの。せいぜい楽しませて頂戴ね。天木ハルさん」
 名乗ってもいないあたしの名前を呼んで、にっこり笑った女の人は、あたしが瞬きをした次の瞬間には消えていた。その消え方は昨日の夜のジャージ男の消え方と全く一緒だった。
 あらためて、薄ら寒さを感じる。私が逃げ切るためには、あのジャージ男の力を借りるしかない、と思ってここまで来てしまったけど、こんな得体のしれない人たちに、頼ってしまって大丈夫、っていう不安が今更ながら鎌首をもたげた。もしかしたら、ヤクザに捕らわれるよりももっと酷いことになるんじゃないだろうか。
 もういいや、っていう気分と、いややっぱり、という気分に挟まれたあたしだったけど、結局はここまで来たらこうするしかないと、あたしはその部屋のチャイムを鳴らした。
 電子音が、部屋の中で響いたのが聞こえる。でも中から人が出てくる気配はない。もう一度鳴らす。やっぱり人の気配はない。
 実は女の人にからかわれた? ここは無人なんじゃないの? そもそもあんな常識外れのジャージ男がこんな平凡なアパートにいるっていうのも変な話だ、なんて思ってると何の予兆もなしにドアが開き、ぼさぼさ頭のジャージ男が現れた。
 間違いなく、昨日の夜にサイコヤクザの首を切り飛ばしたジャージ男、デッドマンだった。チェーンをかけたままドアを開けたデッドマンは、昨日と同じジャージ姿。ただ手に鉈は無く、ジャージも昨日のものと同じ種類の別のものか、血の臭いはない。けだるさに覆われた無精髭の浮いた顔は、掃いて捨てるほどいる無気力なお兄ちゃんでしかなく、よく分からない力を持った殺人鬼の気配は、欠片もなかった。
 それでも思わず身を引いてしまうあたしの顔を、デッドマンはいぶかしそうな顔で見た。彼を前に、意味もなく口をぱくぱくするしか出来ないあたしの顔をじっと見ていたデッドマンは、たっぷり一〇秒くらい眺めたところで、ああ、という顔をした。どうやら、あたしが昨日、サイコヤクザから助けたJKだということをようやく思い出したらしい。
「あの……」
 そうあたしが声をかける前に、彼はチェーンを外してドアを開けてくれる。安心と嬉しさが胸いっぱいに満ちていくあたしの首根っこを、彼は掴んで無理矢理中に引き込んだ。
 引き倒されたあたしの首には手、お腹には膝を容赦なく当ててくる。その姿勢のまま、デッドマンはギラついた目をあたしに突きつけてきた。
「何をしに来た」
 ちびりそう、いやちょっとちびっちゃってるあたしだったけど、なんとか彼に答えようとする。あなたに、助けてもらいたくて……そう言う前に、彼は
「ここをどうやって知った」
 と、詰問を重ねてくる。そして首にかけた力を緩めるけど、あたしが何も話せないでいるとすぐに力を込め直した。
 怖い。殺される。圧倒的に過ぎる恐怖に泣くことも忘れたあたしだったけど、彼が二度目に手の力を抜いたときには、なんとか、あなたに助けて貰いたくて、と言うことが出来た。でも、デッドマンはすぐに「嘘だな」と言って首に力を込め直した。
「俺が昨日殺した男の仲間に脅されて来たんだろう? 油断させろ、もしくは毒でも盛れとでも。違うか」
 違う、とあたしは答えるけど、彼は聞く耳を持とうとしない。
「今すぐこの部屋から出て仲間に伝えろ。何をしようが俺は殺せない、それでも殺したいなら正面から来い、もう心悩まないよう一人残らず殺してやる、と」
「違うんです!」
 聞く耳を持たないデッドマンへの苛立ちが恐怖を上回ったのか、あたしはそう彼に叫んだ。彼があたしの首を締め直す前に、あたしは言葉を続ける。
「私は本当に! あなたに助けて欲しくてここに来たんです!」
「どうやってここに来た」
「凄い綺麗な女の人に連れてきてもらったんです!」
 どん、とあたしの首の横に何かが突き立てられる。
 鉈だった。
 昨日、サイコヤクザの首を切った時に使った大きく分厚く重く大雑把、まさに鉄塊なその鉈を握るデッドマンの顔は、殺気がより増してるようだった。
「どんな女だ」
 より鋭さが増した瞳をあたしに向けるデッドマンに、またちょっと漏らしてしまいながら、あたしは答える。とにかく顔立ちが綺麗で、腰まで届く長い髪をしていて、細い割に体力が凄くあって、なんかあたしの考えを読んでる感じの人でした、と声をかすれさせながら答えてからようやく、デッドマンは鉈を離してくれる。
「あの女……」
 そう呟き、視線をそこらに彷徨わせ、デッドマンはしばらく何事かを考え込んでいた。
 そして、あたしに視線を向け直したデッドマンの顔からは幾分、鋭さは減ってたけど、彼はすげなく、こう言った。
「出て行け」
「いや、でも、あの」
「出て行け」
 そう言って、デッドマンは軽々とあたしを立たせた。
「行くところが無いんです」
「親か友達に頼れ」
「それも、ダメなんです」
「とにかく俺に頼るな」
「お願いします! 本当に行くところが無いんです!」
「俺は人を守れない」
 そう言って、あたしを部屋の外に出し、デッドマンはドアの鍵をがちゃり、と閉めた。途端に、涙が目一杯に浮かんだ。彼に殺されそうになったこともショックなら、なんとか安全そうな場所に来たと思ったらすげなく放られたこともショックで、あたしは一目をはばからず、ぼろぼろと泣いてしまう。
 どうしよう、お金もない、ヤクザが追ってるかもしれない。もう何もかも全て警察に話してしまおうか……。不安と恐怖で一杯のあたしは、もう一度だけ、部屋のチャイムを鳴らす。電子音が響いたのが聞こえるけど、ドアに彼が近付く気配はない。
「誰にも、頼れないんです」
 ぼろぼろ泣きながら、あたしはドアに向かってそう呟く。
「お願いです、助けて下さい」
 背後でぎ、という音がして振り向くと、ママチャリに乗ったおじいさんが何事かと見ていた。恥ずかしくなって顔を服の袖で拭っていると、唐突に、部屋のドアが開いた。
「さっさと失せろ」
 迷惑そうな顔のデッドマンは、そうあたしに言う。そしてあたしはふと気付く。今のシチュエーションは、何も知らない人から見れば、男女の痴話喧嘩に見えないこともないだろう。
「行くところが無いんです。親はあたしを子供だと思ってないし、お金も無いし、もしかしたら昨日のヤクザがあたしを追ってるかもしれないので友達にも頼れません」
「警察へ行け」
「……あの家に戻るのは嫌です」
「そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
「行けば、あの家に戻されます……それに、あなたのことも、警察に話さなければならなくなります」
 デッドマンはあたしへ向ける目の傾斜を強め、そして小さくため息をついた。
「で、俺ならお前を守ってくれると?」
「……自分勝手なのは、分かってます」
「俺は化け物だぞ?」
 サイコヤクザの地下室、その床に落ちたピンクと灰色の脳みそが脳裏に浮かんで、ちょっと吐き気がこみ上げる。でもなんとかこらえて、あたしはデッドマンの清潔さとは無縁の顔を見据える。
「でも、あたしを助けてくれました」
「あれはついでだ。俺は人殺しをする馬鹿を殺すために、あそこに行ったんだ」
「だったら、あたしの拘束を解く必要は無かったでしょう? ……お料理、お掃除は得意だし、置いて貰えるなら何でもします。だからお願いです」
 そしてあたしは、デッドマンに深く頭を下げた。デッドマンが迷惑そうにあたしを見下ろしているのが、さっきの自転車のおじさんとはまた別の人があたし達を囲むギャラリーに加わって、話し始めているのが聞こえる。
 頭を下げてしばらく経ったあと、デッドマンは深くため息をついた。
「妙なことをしたら、すぐに叩き出す」
 ぱ、と顔を上げると、デッドマンはまさに、苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。
「忘れるなよ」
「ありがとうございます!」
 そしてバッグを抱え直し、あたしはデッドマンの部屋に足を踏み入れた。ドアを閉じる直前、あたし達を見るおじさん達がにんまり笑ったのが見えた。


4.


 あたしの本当のママは、とても綺麗で優しい人だった。どうしてあんないい人が何人もの愛人を抱え、家をほったらかしにするようなあの父親と一緒になったのか、未だに理解が出来ない。自分が持ってないものを持ってる人に、人は惹かれるとは聞くけど、人が持ちたいと思えるような美点を父親が持ってるとは思えないし思いたくない。それとも、結婚前はあの父親も多少は良いところがあったんだろうか?
 生活費入れるだけで家族は放りっぱなし、な父親とは正反対に、ママはあたしに全力で愛情を注いでくれた。このことを話した友達の中には、ママのそれは、しょうもない父親への当てつけだったんじゃない、って言う子もいた。あなたはそんなですけども、あたしはこうして素晴らしい母親をしておりますわ、っていう感じの。
 その可能性が全くのゼロではないのは確かだけど、少なくとも、あたしはママに凄く感謝してるし、死んじゃった今でも大好きだ。あたしが感じたママの愛情は、紛うごとなき、本物だったから。
 そんなママが死んでしまったのは、一年前のこと。体の調子が悪いと病院にかかったら、末期のガンだと宣告されて、それから一年も経たない内にあっさり死んでしまった。退院と入院を繰り返す間、父親は病院関係の手続き以外に、あたしとママのもとに、顔を見せることはなかった。
 あのクソ親父、死んじゃえ。
 あたしはママの前でそうよく言っちゃったけど、ママはその度にあたしをたしなめた。
 そんなこと言うと、ハルちゃんの心がすさんじゃう。怖いことは言わないで。
 その言いつけを守ろうとしたけど、無理だった。どう頑張っても、あの父親の所業は理不尽以外の何ものでもなく、それを許すことなんて出来なかった。ママが病気になったのも、あの父親の無関心がママを追い詰めたせいだと思ったし、父親が元気でママが苦しまなきゃいけないことも許せなかった。
 なのにママはよくあたしに謝った。ベッドの上での生活が続く中、どんどん痩せていく中、ママは、ハルちゃんごめんねと、ことあるごとにあたしに言った。
 一人にしちゃうね、ごめんね。それを聞く度に、あたしは死ぬほど悲しくなったし、ちょっとママに苛立ちもした。
 ママは謝る必要は全くない。仮にあたしに謝るとすれば、それはあのクソクソファックな父親であり、こんな良いママに病気をくれたどこかのクソッタレのマザファッカーな神様《バカ》だ。どうしてママが謝るの?
 ごめんねごめんね、と言うママの手を握りながら、頭の中でファック×3とあたしが言っている日々が続いたある日、あたしが学校でつまんない授業を受けてるとお世話になってる訪問看護の人から、ママの容態が急変したっていう着信があって、急いで病院に行ったけどママはもう死んじゃってた。あたしは一人ぼっちになった。
 ママがいなくなったことで一気に居づらくなった家には、さほど経たない内に父親の愛人の一人がやってきた。そいつは、あの父親と付き合いますわな、って感じの人格が崩れた奴だった。


 ……話を戻そう。
 ママは死んじゃったけど、色々なものをあたしに残してくれた。料理とか、お掃除とかの家事スキルもその一つだ。大人になってあたしが困らないように、そして良いお嫁さんになるようにと、あたしがちっちゃかった頃から仕込んでくれたのだ。
 家事が得意だ、とデッドマンに言ったのは本当のことだったし、もちろんそれを活かそうと思ってた。でもそれが部屋に入ってすぐに必要になるとは思ってもみなかった。
 デッドマンの部屋は、まあ、ひどかった。
 家具は少ないのだけど、床はコンビニ弁当とかタバコの空箱とかお酒とかが一面に敷き詰められ、僅かに片付いてるのはお布団の回りだけ。台所に至っては描写すらしたくない。
 デッドマンがあたしを受け入れてくれたことに浮ついていたあたしの気分は、部屋の惨状を目にした途端、那由他の彼方に消えていった。
「あの、掃除の道具ありますか?」
「ああ?」
 そう聞くと、デッドマンはキツい視線であたしを見てくる。一瞬でビビったあたしがごめんなさい、と頭を下げると、デッドマンはため息交じりに、んなもんない、と答えてくる。
「ええっと、ですね……ちょっと片付けようかなーと思うんですけど、どうでしょう」
「余計なことはするな」
「でもこれじゃああたしの生活空間が……」
 ぎろり、とデッドマンが見てきたのであたしは再び頭を下げる。そのまましばらくあたしを見下ろしてから、デッドマンはぽつり、と言う。
「勝手にしろ」
 そう言ってデッドマンは部屋の隅、僅かに片付いている布団の上にあぐらを組むと、本棚から一冊の文庫本を取り出して読み始めた。彼を怒らせてないことにほっとしつつ、あたしはおずおずと、部屋の片付けを始めた。まずはゴミの分別から。燃えるゴミ、燃えないゴミ、プラゴミ……と分け、ゴミの山から引っ張り出したゴミ袋にそれぞれまとめる。掃除道具なんてない、とデッドマンは言ってたけど、ゴミの中からバケツに入ったぞうきんとかはたきとかが出てきて、あたしはそれで厚く埃が積もった机、椅子、ちゃぶ台等などを清める。
 その汚さは、不快を通りこして関心しちゃうくらいで、あたしはわきたつ埃に咳き込みつつ、後ろで読書をするデッドマンを見る。
 デッドマンは本から顔を上げ、あたしの方を見てたけど、目が合うと、すぐに視線を本に戻した。多少は部屋が汚いことに引け目を感じてるのをその仕草から感じて少しほっとする。これで汚さを全く気にしてないなら、彼との生活は酷く辛いものになるだろうからだ。
 部屋っていうのは、綺麗好きじゃない限り、人が来なくなるとあっという間に汚れるものだ。彼が自分の部屋を汚いと感じつつ、放置していたということは、彼はもしかしたら、ずっと一人だったのかもしれない。
 誰とも関わらず、常識外れの力を使って、殺人者を殺し続ける。
 ほこりをまとってすぐに黒くなる雑巾をしぼりながら、あたしはそんな彼の生活を想像して、少しぞっとする。


 お掃除を始めたのは昼頃で、とりあえず部屋が人の生存に適したくらいの状態になるまでには、日暮れまでかかった。顔が映るくらいに磨き上げられたシンクに満足したあたしがふと見てみると、その様を見ていたデッドマンも感心しているように見えて、あたしはちょっと得意になった。
 よし次は夕飯作ろ、と冷蔵庫を開けて、あたしはこめかみを押さえた。ビールとつまみしかない。
「ご飯、いっつもどうしてるんですか?」
「コンビニ弁当」
 まあ殺人マシーンには似合ってるっちゃ似合ってるか、とかあたしが呆れ半分に考えてると、デッドマンは渋い顔をした。
「ええと、たまには手料理とか、食べてみたくなりません?」
「毒でも盛るつもりか」
 そう怖い顔で言う彼に、少しむっとしつつ、あたしは答える。
「そんなことするわけないです」
「……弁当で良いだろ」
「でも、どっちにしても、買い物には出かけるんですよね? ならお弁当の代わりに野菜とかご飯買うだけで、デッドマンさんの手間は変わりませんよ。それに、自分で言うのもアレですけど、あたし料理上手いんです」
「だから……」
 ちょっと押し過ぎた? と心配するあたしの前で腕を組み、デッドマンは少し考え込んでいたようだった。
「……まあ、良い」
 意外と素直にデッドマンが応じてくれたので、内心でちょっとガッツポーズしつつ、あたしは買い物リストを作る。ヤクザの追っ手があたしを探してる可能性があるので、買い出しは彼にお願いするしかない。お米に野菜に調味料にお肉と結構な長さになるリストを見てデッドマンがちょっと渋い顔をするのには気付かなかったフリをして、一杯に字が敷き詰められたメモ用紙を渡した。
 リストを渡したデッドマンについでにお金を渡そうとすると、彼はいい、と断ってきた。
「家出娘にたかるほど金には困ってない」
 そう言って、財布をジャージのポケットに入れて外に出ようとしたデッドマンだったけど、ふと気付いたようにあたしに尋ねてくる。
「デッドマン、っていうのは何だ?」
「あの女の人があなたをそう呼んでたんです」
 表情を厳しくするデッドマンにちょっとビビりつつ、あたしはおずおずと答えた。
「死人、か」
「えっと……ごめんなさい。良い呼び方じゃないですよね」
「いい、俺のことは好きに呼べ」
「ええと、名前とかは?」
「俺は誰でもない」
 彼……デッドマンの口調は断固としたもので、あたしはそれ以上、聞くことは出来なかった。代わりに、あたしは気になっていた別のことを尋ねることにした。
「あの人とは、どういう関係なんですか」
 また機嫌を損ねないか心配だったけど、彼は怒らない代わりにこう答えてきた。
「俺はあいつのおもちゃだ」
「え?」
 疑問が深まるばかりのあたしを捨て置き、彼はさっさと、部屋を出て行ってしまった。


 お米とか野菜とか豆腐とかお肉とか。そうしたものでぱんぱんになったビニール袋を下げて帰ってきたデッドマンにありがとうございます、と言ってから、あたしはお料理に入る。
 お料理するのは結構久しぶりだったけど、あたしはてきぱきと夕飯の用意をすることが出来た。お米をざっと研いで炊飯器へ入れ、ほんとはじっくり出汁を取りたいところを我慢して顆粒だしで味噌汁を作り、お豆腐とネギと豚肉で簡単すき焼き風煮込みを作る。
 さらさらっと出来上がった夕飯を、畳敷きの部屋に置いたちゃぶ台の上に並べる。デッドマンの家にはまともに食器がなく、味噌汁はステンレス製のコッフェルだし、あたしのご飯は戸棚の奥から引っ張ってきた紙皿の上に乗っちゃってるけど、まあ良いだろう。
「さ、召し上がれ」
 と言いつつデッドマンの方を見ると、彼はぼんやりと、ちゃぶ台を眺めていた。
 湯気を立てるご飯や味噌汁が、そんなに珍しいのか、静かに、じっとそれを眺めるデッドマンの姿に、どうしてかどぎまぎしちゃってると、あたしの視線に気付いたデッドマンはすぐにぼんやりした顔を仕舞って顔をしかめた。押しかけてきた女とどうして食卓を囲まなきゃならんのだ、とでも言いたそうだ。
「皆で食べた方が、美味しいですよ」
 と言いつつ、あたしはデッドマンの背中を押して、むりやりちゃぶ台前に置いた座布団に座らせる。彼の向かいに腰かけて、頂きます、と手を合わせた。
 何でか分からないのだけど、デッドマンの前に腰を下ろしたとき、あたしは自分の肩から、す、と力が抜けるのを感じた。
 どうしてだろう、と、自分の心情にいぶかっていたあたしだけど、そんなものは圧倒的な食欲に、どこかへ行ってしまった。
 思い返してみれば、昨日の晩は東京への電車の中でおにぎりを食べただけ(しかもそれはサイコヤクザ宅の排水溝に消えた)、そして今日は朝にコーヒーとマフィンを口にしただけで、ほぼほぼ一日、歩いて働き続けたのだ。
 デッドマンが呆れ顔をする前で、あたしはごはんをもりもり食べた。ご飯と味噌汁をそれぞれおかわりして、ようやくお腹が落ち着いたあたしは食器を台所へ持って行き、そして居間に戻って壁にもたれる。
「ごめんなさい、食べ過ぎて苦しくて……」
 そうデッドマンに断りつつ、ちょっと休憩のつもりで目を閉じたけど、昨日は公衆トイレで眠っただけのあたしの睡眠欲求は並大抵のものじゃなく、あたしはあっという間に、深い眠りに落ちてしまった。


 夜中に目覚めたとき、あたしは畳に横になってしまっていた。体にはかび臭いけど暖かい毛布がかけられていて、それにくるまるあたしの前に、電気の消えた部屋に佇む、デッドマンがいた。
 二人でご飯を食べたちゃぶ台は部屋の隅に畳まれて置かれ、壁にもたれつつあぐらをかいたデッドマンは、薄く開けた窓に横顔を向け、タバコを吸っていた。
 もしかして、部屋に煙がこもらないようにしてくれてる? とか思いつつ、外の街灯の明かりに照らされたデッドマンをあたしが眺めていると、ふと、彼はあたしの視線に気付いた。
 彼は何も言わずにタバコを灰皿に押しつけ、煙を吐き出す。窓を閉めてから、彼は部屋の隅に畳まれた敷き布団を指さす。
「寝違えたくなかったら使え」
 それだけ言うと、彼は既に床に敷いてあった別の布団に行くと、あたしに背中を向けて横になる。言葉に甘えて布団を敷き、そこに横になる。なんか昔のドラマみたい、とか思いつつ、彼の背中を見ながらあたしは毛布にくるまる。
「毛布ありがとうございました」
 とあたしが言っても、デッドマンは何も言わなかった。
 なんというか、デッドマンは、凄くいい人みたいだった。何だかんだ言ってあたしを匿ってくれるし、こうして毛布もかけてくれる。彼があたしを思いやってくれてるらしいことに嬉しくなるけど、脳裏には、サイコヤクザの首を切り飛ばす彼の姿が再び浮かぶ。
 こんな人が、どうしてあんなことをするのだろう。ああしてくれたことで、あたしの命が助かったのは間違いがないけど、それでも彼が人を殺したことに代わりはない。
 人殺しを殺すために、あそこに行った。昨日のことをデッドマンはそう言ったけど、彼が、どうしてそんなことをするのか。
 ……疑問は尽きないけど、少なくとも、これだけは言っておかないとならない。
「昨日は助けてくれてありがとうございます」
「同じことを言わせるな。お前を助けた訳じゃない」
 あたしに背中を向けたまま、デッドマンはそう答えた。
「でも、本当に、ありがとうございました」
「うるさい」
 そう言う彼の声に、恥ずかしさのようなものを感じたのは気のせいだろうか。ちょっとだけ笑ってしまいながら、あたしはもう一度、彼に言う。
「本当に、ありがとう」
 答えない彼の背中を見やってから、あたしは寝返って天井を向き、目をつむり、深い眠りの中へ、落ちていった。


5.


 デッドマンは週の内六日間は、昼間どこかへ出かけていた。本人曰く、仕事らしい。頭吹っ飛んでも平気なのにお金は作れないんだ、と思うと、彼は渋い顔をした……どうやらあたしは、考えてることが顔に出やすいタイプらしい。
 彼が一日家にいるのは日曜日だけだったけど、その日は筋トレして、ご飯食べて、ビール飲んでタバコ吸って終わる。
 右手にタバコ、左手にビールの缶を持ち、口から煙を吐く様は、無気力なおじさん以外の何者でもなく、サイコヤクザの首を切り飛ばした人とホントに同一人物なのか、ちょっと疑問を抱いちゃうくらいだ。


 サイコヤクザの死は、いくら経っても報道されることはなかった。あの日から毎日朝夕、TVやネットのニュースサイトをあたしはチェックしてたけど、ヤクザのヤの字も上がらない。それでも水面下でヤクザがあたしを探してる可能性は無くなったわけではなく、あたしは部屋から一歩も出なかったけど、これが辛い。
 デッドマンがいれば話しかけることも出来るのだけど、週の大体は一人きりで、あたしはひたすら、スマホいじったり、部屋にある本を読んだりしてなきゃならない。
 そんなあたしにとって、週に一度、デッドマンが仕事の休みで家にいてくれる日は物凄く嬉しいことだった。未だに気安く声をかけることは出来ないけど、それでも誰かが同じ部屋にいてくれることはそれだけで喜ばしいことだった。
 その日も、あたしが洗濯物を畳んだり、お掃除したり、ご飯作ったりする横でデッドマンは腕立てしたり、ビール飲んだり、タバコ吸ったり、TV見てたりしてたのだけど、夕方、急に消えた。
 寝そべってTVを観ていたデッドマンの横で、あたしも一緒に観ていたら、急に彼が立ち上がった。相変わらずの黒のジャージ姿の彼は黙って玄関脇の靴箱に行き、そこに隠していた鉈を取ると、ふ、と、もともと幻だったかのように消えてしまう。
 彼のいた空間をたっぷり数十秒眺めた後に、あたしはようやく気付く。
 彼は誰かを殺しに行ったのだ。あの夜のように。


 デッドマンが戻ってきたのは、それから一時間ほどあとのこと。
 居間の隅に腰かけてあたしがぼんやりとしていると、つい一時間前に消えたときと同じ場所に、デッドマンは現れた。あの夜のように、頭の後ろ半分が無いなんてことはなかったけど、それでも結構ひどいケガをしていて、顔の所々は赤く腫れ、折れているのか、左手は変な向きになっていた。
「寄るな」
 あたしが手を伸ばそうとすると、デッドマンはそう言って無事な右手をあたしに振ってくる。何も言えずに彼の異様な姿に怯えてしまっていると、彼は黙って着ていたジャージを脱ぎ始める。デッドマンの体とジャージから血が滴り、フローリング敷の玄関を汚す。ジャージの下から露わになった彼の体のケガはやっぱり酷くて、一面に赤黒い、打撲の痕が刻まれていた。中でも左手は肘のすぐ下の所で折れていて、赤く腫れた皮膚からは細い骨が飛び出していた。思わず小さく叫んでしまいながら、それでも近寄ろうとするあたしに、デッドマンは鋭い視線を向けてくる。
 あたしを視線だけで制した彼は、玄関の脇の流し台で水を飲み始める。ごくごくと、喉を鳴らして彼が水を飲む間に、全身に刻まれた傷はあっという間に癒えてしまう。打撲は煙が立った、と思った次の瞬間には綺麗になり、折れた肘はごりごりと音を立てて独りでに本来あるべき向きに戻っていく。皮膚から突き出た骨は先端から黒い煙となって消えてしまった。
 その様に圧倒されるしかないあたしに、デッドマンは笑ってみせる。
「俺がこういう化け物だって承知した上で来たんだろ?」
 嘲りが強く浮かんだ笑顔に、あたしは憤ることも出来ない。
「俺と一緒にいることと、ヤクザ達に追われること。どちらがマシか、よく考えた方が良い」
 それだけ言って、デッドマンは足下に放ったジャージを乱雑に丸めて浴室へ放った。
 彼自身も浴室に入っていき、すぐにシャワーを浴びる音が聞こえてきた。彼は五分も経たない内に浴室から出てきて、肌着姿のまま居間の洋服棚から新しいジャージ(どこかでまとめ買いしたのか、彼は同じ種類のジャージをたくさん持っている)を取り出して身に着け、居間の床に布団を敷いて、さっさと横になってしまった。黙って彼は電気を消し、あたしは闇の中に放られる。
 居間の闇の中、カーテンから僅かに差し込む街灯の光で、ほのかに浮かび上がった背中を、しばらく眺める。
 目の前で行われた彼の異常な再生に怯えていた。それを承知の上で来た自分が怯え、彼にそれをなじられたことが、辛かった。
 彼の背中を見ていると、そうしたものが頭の中でぐるぐる回り、気分が悪くなってくる。
 このままあたしも、布団を敷いて寝ちゃおうか、とも思ったけど、ふと、さっき部屋に戻ってきた時の彼の顔を思い出す。次いで、あの夜、サイコヤクザの血にまみれたまま、あたしの元を去ろうとした時の顔が脳裏に浮かび、それは一つの疑問を形作る。
「誰かを、助けてきたんですよね」
 やめておいた方が良い、と頭の片隅で声がする。あくまであたしは、彼の家に居候させている家出女でしかない。彼の内面に踏み込むような言葉は彼を苛立たせるだけ……そう思っていたはずなのに、あたしは気付けば、そう声をかけていた。
「どこかの誰かを殺してきただけだ」
 デッドマンはあたしに背中を向けたまま、そう答える。
「あなたは、それで良いんですか」
「当たり前だ」
「本当に?」
「同じことを言わせるな」
「でも」
 やっぱりやめとこう、そう冷静な自分がもう一度呟く声が聞こえたけど、でもあたしは言うのをやめない、やめることが出来ない。
「人を殺したとき、あなた、苦しそうに見えた」
 サイコヤクザを殺したあの夜、そしてつい先ほど、この部屋に戻ってきたとき。無表情に固めた彼の顔に、そんなものをあたしは感じた。
 そしてそれは何故か、かつてママが浮かべていたものと重なった。痛みを感じながらも、あたしに気丈な様子を見せようとした時の顔。彼とママがどうして、とは思うけど、どういう訳か、重なってしまったのだ。
 あたしの言葉を聞いて少しだけ間を置いてから、デッドマンは布団から立ち上がる。
「教えてやる」
 怒り。それを肩から立ち上らせながら、デッドマンは腰かけたあたしに向かってきて、ずい、とその顔を近付けてくる。
「俺はああいう馬鹿共を殺すことを望み、こうなった。人を理不尽に殺しながらも、殺された奴が受けた苦痛を想像することも顧みることも、人から裁かれることもなく、勝手に死んだり、生き続ける奴がいる、それが我慢ならなくて、俺はこうなった。そしてそれが出来ている。これ以上の満足はない」
「でも、あたしにはそう見えたんです。どうしてかまでは分からないけど……人を殺すのが、辛かったりはしないの」
「相手は人の形をしたゴミだ」
「でもあなたは、優しい人なのに」
「勝手に人の家に押しかけておきながらよくもまあそこまでずけずけとものが言えるな?」
 デッドマンのその言葉に、あたしは言葉を詰まらせる。
「お前は俺の何だ? どうして俺にそこまで構う? 不快だ。俺は殺人を犯す馬鹿しか殺さないが、お前は例外になるかもしれない。死にたくなければその口を閉じるか、ここから出てくかしろ」
 間近に迫り、そう言うデッドマンの顔を、あたしはじっと見返すしかない。自分の目に涙が浮かび、堪えようとしたものの、それはあたしの頬を流れていく。デッドマンはそんなあたしを見て大きなため息をつくと、立ち上がり、布団へ戻っていった。
「もう寝ろ」
 布団に再びくるまったデッドマンはそう言ったけど、あたしは言われたとおり、横になることは出来なかった。彼の顔に苦しそうな様子を感じたことは事実だし、それを放って良いはずがない……そのことを彼に伝えたことは、間違ってないと思うけど、彼に拒絶されたことが、どうしようもなく、悲しかった。
 どうしてあたしは、こうもこの男に入れ込んでしまってるのだろう。彼に命を救われたから? 辛いことを我慢する姿をママに重ねてるから? それとも、別の理由から?
 疑問はまたも頭をぐるぐる回り、あたしの視界はより一層、滲んでしまう。
「……悪かった」
 あたしが声を堪えきれずに泣いていると、デッドマンは背中を向けたまま、そういってくる。
「気が立っていた。言い過ぎた」
 彼がそう言ってくれたことに、単純なあたしの頭のぐるぐるは少しだけ、収まる。まだ涙は収まらなかったけど、あたしは彼を見て、そして、また怒らせてしまうかも、と思いつつ、声をかけてしまう。
「本当に苦しくないの?」
 デッドマンは、それに答えない。でも怒ることはなく、ただなんとなく、彼も考えに沈んでいるように、あたしには見えた。
「考えることがある」
 沈黙のあと、彼はこう言ってくる。
「俺は自分で望んでこうなった。奴らを殺し続けることは本望のはずだった。でもいつまでこれを続ければ良いのだろう、そもそも俺がこうすることで何になるのか、そう考えることがある。でも俺はそれしか出来ない。苦しいと感じたことは、ない。でも考えることはある」
 どこか辛そうな彼の声を聞いて、悲しくなると同時に、あたしは、ちょっと嬉しさも感じてしまう。彼が自分のことを、あたしに打ち明けてくれたことが……自分でもしょうもないと思うのだけど、嬉しいらしい。
 ほとんど反射的に、体が立ち上がり、彼のもとへ向かう。彼のすぐ後ろで横になったあたしは、布団ごと、彼を抱きしめる。
「あたしは、あなたがいなかったら死んでた」
 戸惑い顔を向けてくる彼を見ながら、あたしは言う。
「相手が人殺しでも、人を殺したらいけないとあたしは思う。でもあなたのおかげで救われた人がいるのは、間違いがないことだとも思う」
 彼はあたしを黙って見つめる。
 胸の中で何かが弾けるような、そんな感覚を覚えた。
 彼の胸元に回した手を彼の顔に持って行き、無理矢理自分の顔に寄せて唇を奪う。彼はびくり、と体を震わせるけど、あたしは構わず唇を押しつける。ざらざらとした無精髭がこそばゆい。
 息が苦しくなって顔を離す。目の前には彼の驚いた顔。それを見て、あたしの頭も、恥ずかしさと、甘酸っぱい何かで一杯になる。
 あたしは彼から離れ、自分の布団を敷いて、その中に収まった。眠気はなかなか、訪れなかった。


6.


 眠れたのは多分、二時間にも満たなかったと思う。鳥の鳴き声、カーテンから差し込む光で粘ついた眠りから起きたあたしは思う。やっちまった。
 布団から顔を出し、恐る恐る、デッドマンの方を見る。すうすう、という寝息と、呼吸と一緒に上下する布団が見えて、あたしはちょっとほっとする。顔を合わせる前に心の準備をする時間はまだあるみたいだ。
 そっち方面について、あたしは至極慎重なはずだった。彼氏がいたことはあるし、一通りの経験は済ませてる……やむにやまれずとはいえサイコヤクザと連絡を取ったこともあるけど、本来的にそういうことは、慎重にゆっくり進めるものだと思ってる。
 そんなあたしが昨日は何であんな大胆なことしちゃったんだろう。ざらついたあいつの唇、ちくちくとこそばゆかった無精髭を思いだし、顔が熱くなる。あいつが自分のことを話してくれたことが嬉しかった。そうしたら体がほとんど勝手に動いてしまったのだ。
 いつあいつを好きになった? 布団から体を起こし、両手で頭を抱えながら、あたしはそう自問する。何も無いところから現れる、頭半分無くしても生きてる、殺人鬼の首を鉈で切って回るこいつに、いつどうしてあたしは惚れたんだ。
 考えても混乱は深まるばかりなので、とりあえずあたしは布団から出る。浴室の脱衣所で服を着替え、顔を洗い、そうしてからデッドマンの方へ向かう。
 彼はまだ寝ていた。相変わらずの乱雑ヘアに、無精髭の殺人者は、なんだか子供みたいな安らかな寝顔を浮かべていた。あたしがこうも落ち着かないというのに……と思う一方で、あたしがキスしたからこうも安らかな寝顔をしてるのかな、とも思って少し心がざわつく。そんなあたしの前で、彼は急に目を開けた。
 ぱっちりと開かれた彼の瞳が、あたしを見る。あたしを見た彼の顔には、どういう訳か、戸惑いのようなものが浮かんでいた。
「晶穂?」
 ちょっとどきどきしていたあたしの心臓は、そんなデッドマンの言葉で一気に冷えた。誰だその人は。
「……勘違いだ」
「あたしは天木ハルって言います」
「そうか」
「……誰ですか、アキホって」
「お前には関係ない」
「いや気になります」
 昨日、あんなことしちゃったんだし、とは言えずにちょっと顔が熱くなるあたしの前で、デッドマンはおもむろに立ち上がる。
「とにかく、話は後だ」
 そして彼は早足で台所に向かい、蛇口から出した水で顔を洗う。乱雑に顔を拭った彼は玄関、そこの靴箱の中から、あの鉈を取り出した。
「二日連続、っていうのは初めてだ」
 鉈の重みを確かめてから、彼はあたしにそう言う。
「またどこかの馬鹿が馬鹿をしようとしてる」
 その馬鹿を、彼は殺しに行く、ということだ。あたしは居間から、慌てて彼に駆け寄る。近付いたものの、どうすれば良いのか分からず、彼の顔をあたしはただ見ることしか出来なかった。彼が人を殺すこと、また苦しそうな顔をすることは嫌だった。それでも彼が行かなければ、誰かが傷つけられたり、殺されたりするし、そもそも彼は、あたしが何を言っても、止めないだろう。
「気をつけて」
 そう言うのが、やっとだった。
 彼はあたしに小さく頷いて見せると、唐突に消えた。


 彼のいなくなった空間をしばらく見ていたあたしだけど、いつまでもそうしててもしょうがない。包丁とかまな板を台所に広げ、冷蔵庫から野菜を出して、朝ご飯の用意を始める。
 味噌汁に入れる具材を切りながら、あたしはやっぱり混乱していた。どうやらあたしは、彼が好きだ。でも彼にどうやって関われば良いのか、キスまでしておきながら、あたしはよく分からなかった。人を殺さないで、そう言うのは簡単だ。でも彼がどうして殺人鬼を殺す存在になったのかは分からないし、それを知らないまま、ただ殺すなと言うのは、何の解決にもならない気がする。
 まずはあの人を知ろう、そうあたしは決める。そもそもあたしは彼の名前すら知らないのだ。いつまでも彼のことをデッドマン、なんて酷い名前で呼んでる訳にもいかない。
 そう思いながら、煮立った鍋に切った野菜を入れたところで、部屋のドアが唐突に開いた。
 あたしがここに来て二週間、そのドアがデッドマン以外の人に開けられるのは初めてのことだった。
 ドアを開けたのは中年の男。灰色のくたびれたスーツに身を包み、目には四角い黒縁眼鏡、後退した髪を丁寧に七三に分けたその風情は、うだつの上がらないサラリーマン、っていうのがしっくりきた。
「おはようございます」
 あたしと目が合うと、そいつはにっこりと人の好さそうな笑みを浮かべてそう言う。その笑顔に釣られてあたしもあいさつを返しそうになるけどその前にこいつが不法侵入してきたことを思い出す。
 言葉を発する前に、その中年が握った拳銃のようなものから何かが伸びる。拳銃の形をした装置と細いワイヤーで繋がれた金属製のそれはあたしのお腹の辺りに突き刺さり、次の瞬間、何かが爆発したような感覚が弾けた。
 スタンガンのようなものなのか。強烈な痛みを感じて、あたしは台所の床に倒れ、持っていた包丁と、まな板が床に転がる。なんとか体を動かそうとするけど力は少しも入らない。
 土足のまま、部屋に上がってきた中年が鍋の火を止めてから、あたしの腕を取り上げ、注射を差し込むのをただ見ていることしか出来ない。注射の中の冷たい何かがあたしの体に入ってくるのを感じた次の瞬間、あたしの意識は闇の中に放られた。


 意識が戻ったとき、あたしは真っ白な壁に囲まれた変な部屋にいた。
 広さは大体十畳くらい。白い壁紙にコンクリート敷きの床、という組み合わせの時点で違和感があったけど、最も変なのは部屋の真ん中くらいに重々しい鉄格子がはめられていることだった。鉄格子の向こう側には、さらにアクリル板のようなもので囲まれた小部屋があり、透明の板を通した向こう側には、テーブルに置かれたノートパソコンを見て難しい顔をする、一人の男がいた。
 薬の影響か、ぼんやりしたあたしは、その男が部屋に侵入してきたあの中年だと気付くのにちょっと時間がかかる。そして、自分が椅子に腰かけられ、いつかのように結束バンドで脚と手を拘束されていることにも気付いた。
 なんとか拘束から逃れようとするけど、固いプラスチックはやっぱりびくともしない。そこでアクリル板の向こうの中年はあたしが目覚めたことに気付いたようで、顔を上げてあたしに微笑んでみせた。
 睨み返すあたしに、その中年の笑みは揺らがない。机の上に置かれたヘッドセットを、中年はおもむろにかけると、そのマイクに声を吹き込んだ。
「こんにちは、中村さん……天木さん、と呼んだ方がよろしいですか?」
 どこかに設えられたマイク越しに聞こえてきた男の声を聞き、背筋に、冷たい何かが走る。表情が強ばってしまったあたしに、中年は悠然とした微笑みを浮かべる。
「あなたのことは調べさせて頂きましたよ、中村ハルさん。戸籍上は中村ですが、お父さんの姓を名乗るのが嫌で亡くなったお母さんの旧姓を使っているみたいですね……今日は突然、失礼しました。昨晩、あなた方が眠っている内に鍵を開けさせて頂きました」
「あなたは誰?」
「殺し屋です」
 そう話す中年の、微笑みは揺らがない。
「今回、あのデッドマンの殺しを依頼されています」


 そして殺し屋は話し始める。
 あたしを殺そうとしたサイコヤクザ……奴はとある暴力団の組長の息子だったらしく、その組長から依頼を受けたこと。殺し屋は以前からデッドマンのことに興味を持っていて、彼を殺せる今回の依頼を喜んで受けたこと。今日の朝は、殺人者を設えてデッドマンをおびき出し、その隙にあたしを拉致したこと。聞いてもいないことを、殺し屋は楽しそうに話し続ける。
「デッドマン、あなたの彼は、私たちの業界ではとても有名人です。何せ、銃で撃っても、首を切っても、燃やしてもとにかく死なない。霞のように現れたと思えば、巨大な鉈を軽々と振るい、私のような職業殺人者や快楽殺人者をあっという間に殺してしまう。彼を殺すため、今まで何人もの名のある殺し屋が挑みましたが、ことごとく返り討ちです。彼は何故死なないのか? それはもともと死んでるからだ……と言って誰かが呼び始めたデッドマン、という呼び名が裏社会では定着しています。そんな彼を殺したい、っていう依頼は今でもたくさんありますが、受ける奴は誰もいません。皆、命は惜しいですからね」
「どうして、あんたは受けたの」
「あいつを殺す自信があるからです」
 その殺し屋の言葉に、鼻がつん、とするけど、すぐにあたしは、極力嫌みったらしく見える笑顔を浮かべてやる。それを向けられた殺し屋は、にっこりとした笑顔を返してくる。
「どうせ殺せない、そう思うのが自然でしょうね」
「あんたなんかに、彼は殺されない」
「デウスエクスマキナ、というのをご存じですか?」
 突然飛んだ話に、呆れ顔のあたしに、殺し屋は楽しそうに話を続ける。
「演劇で詰まった状況を無理矢理解決する役柄のことです。古代ギリシャのエウリピデスという人が多用したそうですが、もうどうしようもない状況になったところに急に神様が登場して、お前ああしろ、お前こうしろ、と言って全てを解決してしまう。滅茶苦茶です。でもそれは因果関係が通っている。全能の神がいる、だから解決する、というね」
 話が分からず戸惑うしかないあたしに構わず、殺し屋は話を続ける。
「デッドマンの力も滅茶苦茶です。科学の諸々の法則を無視し、いきなり現れ、いきなり殺し、上半身を吹っ飛ばされても何事もなかったように再生する。ですが、それも何かの理由があってのことだ。ただそれを私たちが知らないだけで。その理由を見いだせば、あいつを殺せる。そして、私はそれを見いだした」
 鷹揚な感じだった殺し屋の笑みは、言葉を続ける内にどこかへ行き、変わって妙に熱っぽい何かがその顔に現れた。
「申しわけありませんが、あなたにはそれに協力して貰わなければなりません。私が彼を殺す上で、あなたほどの適任者はいない。彼が殺人者を殺し終え、家に帰ってあなたがいないことに気付いた時、血相変えて探しに行った様子を見せてあげたい。カメラを回してなかったのが非常に悔やまれます」
「意味が分からないけど、あんたなんかに協力する訳がない」
「そう言うと思いました。ですがこれは決めたことです。もうあなたの意思が介在する余地はない」
 そして殺し屋はあたしにノートパソコンを向けた。
「ここには、一キロほど離れたある場所の映像が映っています。ガラス越しで見えないでしょうから説明すると、ここには二人の人間が映っています。一人は少女、一人は男です」
 そして殺し屋はヘッドセットを外し、スマホに指を滑らせた。そして耳にあてて、何事かを誰かに話す。
 ええ、お願いします。分かっています、あなたの家族はちゃんと面倒みます、はい、ではよろしく。
 そんな会話が、外されたヘッドセット越しにマイクから聞こえてくる。殺し屋はため息をつきながらスマホを置くと、再びヘッドセットを付けた。
「さあ、これから男が少女を殺します。ナイフを握り、真っ直ぐに少女へ向かいます。少女は可哀想な子です。借金まみれの両親によってヤクザに売られたんですから。その境遇を聞かされている男も同情してるでしょうが、躊躇はしません。何しろ、病に侵された妻と、子供の将来がかかっているのですから。さあ、男が少女を殺します……はい、デッドマン登場です。カメラには映っていませんが、男と少女がそちらを向いています。男がナイフを向けますが、まあ無駄です。男はデッドマンに殺されます」
 嬉々とした口調で、ノートパソコンの映像を中継していた殺し屋は、そこで言葉を止めると、おもむろに座っていた椅子から立ち上がる。そしてアクリル板に設けられたドアを開け、外に出てくる。
 懐に手を差し込んだ殺し屋は、そこから拳銃を抜く。両手で保持したそれを、鉄格子の合間から出し、殺し屋はあたしに向けた。
 ぱん、という音と共に、あたしの胸に衝撃が走る。誰かに思い切りなぐられたような衝撃。痛みを感じる前に、殺し屋はもう一度、あたしを撃った。
 銃弾が顔に刺さり、脳を、頭蓋骨を貫く。自分の体が床に倒れ伏す、その感覚が、あたしが感じた最後のものになる。あたしは何も無いところへ放られる。

   *

 天木ハルの体が床に転がる様を見て、殺し屋はほう、と息を吐いた。
 未だ生気に満ちている若い体から、血と脳が散る様は、酷く美しい。
「まるで花のようじゃないですか」
 思わずそう呟いてしまってから、殺し屋は顔を引き締め、拳銃を仕舞う。そしてアクリル板のようなものの向こう側に体を引っ込める。いつもなら、少女の死体をじっくりと鑑賞するところだが、今日の仕事の本番はこれからだった。
 扉をしっかり閉めたのとほとんど同時に、天木ハルの傍に、黒のジャージで身を包んだ男が現れる。殺人鬼を殺す殺人者、デッドマン。
 血にまみれたデッドマンは呆けた表情のまま、床に倒れた天木ハルを見て、次いで殺し屋を見た。息を呑む殺し屋だが、デッドマンはただ見つめてくるだけだった。
 察した殺し屋は、スーツをまくり、ホルスターに収まった拳銃を見せ、それととんとん、と叩いて見せた。
 途端、彼の目の前が白く染まる。
 彼を囲んだアクリル板のようなもの……ポリカーボネート等の素材を積層した防弾ガラスに、デッドマンが投げた鉈が突き立ち、格子状に広がった無数のヒビでガラスが白く濁ったからだ。鉈は殺し屋に到達することは無かったものの、一部はガラスを貫通し、その切っ先は殺し屋の眼前に迫った。
 思わず息を呑む殺し屋の前で、デッドマンは床を蹴る。彼と殺し屋を隔てる鉄格子を掴み、それを引き裂こうとする。しかし、巨大な鉈を振るい、人体を容易に切断するデッドマンの膂力でも、鋼鉄製の格子を破ることは出来ない。格子を握りしめた指が湿った音を立てて、指の骨が折れる。折れた骨は皮膚を突き破るが、それは黒い煙を立てて片端から癒えていく。癒えた次の瞬間には、またもデッドマンはあらん限りの力で格子を握り、そしてまた指の骨が折れる。
 その様に、怖気と同時に、悦びを覚えつつ、殺し屋は大きく息を吐いた。
 ここからが本番だ。
 獣のように唸りながら鉄格子に向かうデッドマンに、殺し屋は話し始めた。


 初めまして、デッドマン。私は殺し屋です。あなたを殺すためにここにいます。
 あなたを頼り、あなたを慕った天木ハルさんが死にました。私が殺しました。こんなことを見せてしまったことを、私は非常に申し訳なく思っています。私にとっては心躍る光景ですが、あなたにとっては、心引き裂かれるものでしょうから。
 あなたが何度も見せつけられた光景でしょうから。

 あなたのことは、私たちの業界の噂となった時から追っていました。どうしてあなたを追ったのか、一つはあなたがまず殺せない存在だ、ということがあります。いかに殺し難い相手を綺麗に殺すか、それが殺し屋という仕事の腕の見せ所です。その点、あなたを殺せば、殺し屋にとって最上の栄誉となると思ったからです。
 ただ、あなたについて調べ、あなたの正体を知る中で、また別の想いが私の中で生まれました。
 私はあなたを愛してしまったのです。
 ……私はホモセクシャルではありません。少々ネクロフェリアの気はありますが、少なくとも男の尻にはそそられません。そんな私ですが、今ではあなたが愛おしくてしょうがなくなってしまったのです。

 あなたを調べるに辺り、あなたのその転移能力、再生能力の源がどこにあるのかを調べるのはすぐに止めました。あなたの体組織はあなたから離れた途端、黒い煙になって消えてしまうし、まず物理法則を無視したあなたの能力は現在の科学では調べようがない。しがない殺し屋の私では余計に無理です。
 あなたの能力はそれはそれと承知するしかないとして、私が調べたのはあなたの素性です。
 カメラには映らないし、あなたを目にした殺人者のことごとくは殺されて、手がかりといえばあなたを目撃した生き残り……あなたに助けられた人達からの聞き取りしかありません。彼らから聴取したあなたの人相から似顔絵を作り、過去の事件もさらった結果、ようやく私はあなたがかつて誰だったのかを突き止めました。

 あなたは、とても悲惨な人生を歩まれたようですね。
 いや、あなたの人生の全てが悲惨という訳ではない。素晴らしい人と出会い、人の愛情に包まれたこともあった。ただ、間違いなく、あなたの人生には闇がつきまとっていた。
 あなたは八歳の時、実の母親を通り魔によって殺されています。母親と二人で買い物をしていたところを、通り魔は襲い、あなたをかばった母親を滅多刺しにします。その後、もともと精神的な病を抱えていた父親は、唯一の支えであった伴侶を失ったショックから自殺。あなたは天涯孤独の身となります。
 あなたを独りにした元凶の通り魔が、法律に基づき、適正な罰を受ければ、あなたのその後は少し変化したかもしれない。しかし、そうはならなかった。その場で取り押さえられた通り魔は罪を償うことなく留置場で自殺を遂げ、事件は容疑者死亡のまま書類送検、となります。
 これは私の想像ですが、あなたはその時、こう思ったんじゃないでしょうか。母親が死んだのは、僕のせいだ、と。僕が悪いことをしたから、バチが当たったんじゃないか、もしくは、僕に力がなかったから、お母さんは死んだんだ、と。
 ……決してそんなことはない。ないのですが、得てして災害や事件によって親を失った子供はそう自分を責めてしまう。そんな心理状況に追い込まれてしまうのです。

 心なき、狂った通り魔によって闇に放られたあなたですが、あなたを救ったのもまた、人だった。人の愛だった。
 両親を失ったあなたは、心優しい親戚の夫妻に預けられます。子供がなく、また、あなたを昔から知っていた彼らは、心からの愛情をあなたに注ぎます。PTSDを発症したあなたを抱きしめ、あなたの苦しみを理解し、共に歩んでくれた。彼らのおかげで、あなたの心の傷は一見すると癒え、あなたも彼らに、実の両親と同じような愛情を抱くようになります。
 ただ、あなたの傷は完全に癒えることはなかった。そもそも心の傷というのは、すっかり癒えることはない。それへの対処を学び、傷を別のもので代償することで、何事もなかったような生活を送ることは出来るが、決して傷はなくならない。何かの拍子に、心の傷は再び、人を苛むのです。
 事実、残った傷はあなたを焼くことになった。
 母親を奪った者とは別の、殺人者の登場によって。

 ……あなたは養父母のもと、健やかに成長します。順調に学歴を重ね、進学した大学では恋人に出会い、将来を誓い合う程の仲になります。
 大学卒業を控えたその年の冬のある日、あなたは彼女の部屋で夕食をごちそうになり、その足でアルバイトに出かけます。あなたと別れて数時間後、彼女は死ぬ。重度の精神病と人格障害、そして薬物中毒を抱えた殺人鬼によって。
 そいつは、あなたの恋人が住んでいたアパートの一室に窓から侵入した。警察の現場検証によれば彼女は背後から襲われて叫び声を上げる間もなく気絶し、殺人鬼は周囲の人に知られることなく犯行に及ぶことになった、とされています。
 ……もっとも、彼女は早々に気絶して、良かったのかもしれません。
 殺人鬼は彼女を犯した後、首を絞めて殺害します。そしてアンフェタミンがもたらした神に指示されるまま、奴は彼女の遺体を徹底的に解剖します。両手両足、内臓に至る全てを解体し、部屋に血と肉で祭壇を設け、数時間に渡って祈りを捧げた後、奴は血まみれのまま外に出ます。
 あなたは血まみれの奴を、彼女の部屋の異常に気付いた近所の人と共に、発見し、取り押さえます。そしてあなたは彼女の部屋の扉を開け、変わり果てた彼女を発見し、全てが遅かったことに気付いたのです。

 以前の通り魔のように、奴は自殺することはありませんでしたが、精神疾患により責任能力なしとされそうになります。
 その時、変わり果てた彼女に半狂乱となったあなたを、癒えることのなかったあの傷がさらに苛んだ。自分のせいで母親を失い、今度は恋人をも失うことになった。自分がバイトに行かなければ、いや自分に力がなかったから、晶穂は死んだ。それは違うと頭では分かっていても、その想念はあなたを苛む。自分のせいで、彼女は死んだ。死んだんだ……そしてあなたは、行動してしまう。
 精神鑑定のために、病院に移送される犯人を、どこかで調達した銃であなたは襲います。しかしその目的は警察官によって阻まれ、今度はあなたが銃刀法違反、公務執行妨害、そして殺人未遂で逮捕されることになる。
 留置場で過ごす夜、あなたはこう思ったんじゃ無いでしょうか。
 人を殺す殺人者から、人を守る力が欲しい……いえ、殺人者を殺し尽くす、力が欲しいと。
 記録によれば、あなたはその夜、留置場から煙のように消え、そのまま行方不明となった、とされています。
 あなたはその夜、デッドマンの力を得たんじゃ無いでしょうか? それこそ、神か、悪魔か、何かと契約をして、殺人者を殺す、殺し続けるための力を身に付けたんじゃないでしょうか? 何しろ、その夜の内に例のヤク中は留置場でミンチになり、翌日以降、無数の殺人者が殺され始めたのですから。

 この私の自説を話した仲間からは、妄想だ、と切り捨てられましたが、決してそうではないと私は思っています。私は無神論者ですが、そうでもしないとあなたの力には説明がつかない。
 そして、私はこうも仮説を立てた。力を授けたのは、想像もつかない邪神か何か。ただ、常識外れの転移、摂理を無視した再生能力、そして映像には映らない秘匿性、怪力……それは殺人者を殺し続ける、というあなたの願望を果たすために生まれたのだ、と。
 ならば、とも私は考えました。
 あなたのその願望が絶えた時、あなたの力は失われるんじゃないか。
もしかしたら、死に至るんじゃないか、と。

 あなたの能力があなたの願望から生まれたとしたら、あなたはとても自己中心的だと私は思いました。なぜならあなたは、あなたの近くにいる殺人者しか殺さないのですから。あなたの出現を境に、この国の多くの快楽殺人者や職業殺人者が殺されましたが、全てではありません。殺されるのは関東地方が中心で、それ以外の地域では今も日常的に快楽殺人者はホームレスや家出少女を殺し、私たち職業殺人者も女子供を手にかけています。あなたは、自分の半径数十キロで起きた殺人しか感知しえないのでしょう? その範囲外で行われたものには飛んでいくことは出来ないし、また、同時に行われた殺人には、僅かでも先に行われたところにしかいけない。ちょうど今、私が仕向けた殺人にあなたが行っている間に、私が難なく天木さんを殺せたように。それがあなたの能力の限界なのです。
 だからしょうがない、救えない人がいたとしても、本来救われなかった人を救っているのだからそれで良いだろう、そう言えるかもしれません。
 だが本当にそうか? あなたの力は、あなたが願ったからある。あなたがそこまでの力しか望まなかったから、あなたはあなたの近くにいる人しか救えない。あなたがそれで良いと思うから、あなたの近くにいない人は今も殺される。
 それはこのことも差している。あなたは人を理不尽な殺人から救うことを目的に殺してるのではない。あなたは、自分の身を今も焼く自己嫌悪をかき消すために、人を殺している。


「うるせえええええええええええええ!!」
 いくら力を込めようとも破壊出来ない鉄格子を握ったまま、デッドマンは叫ぶ。殺し屋が言葉を重ね続ける間、デッドマンは叫び続けていたが、殺し屋の言葉は、その叫びを貫き、容赦なく彼の耳に届き続けた。
「お前らが悪いんだ! 金や楽しみのために人を殺すお前らが悪いんだ!」
 デッドマンは、殺し屋を睨む。見るだけで殺せてしまいそうなその視線を、殺し屋は真っ直ぐに受け止め、そして笑った。
「ほうほう。それは確かだ。だが本当にそうかな? 天木さんの死もそう言えるかなデッドマン? まああなたの能力の限界、あなたが殺人を行う動機のことはさて置いたとして、天木さんの死にあなたが関与してないと本当に言えるのか? 彼女を殺したのは確かに私だ。受けた依頼を果たすために私は彼女を殺した。だがそもそも、あなたが彼女を救った時、本当にあのヤクザの倅を殺す必要があったのか? もう二度と同じことをしない、と思う程度にいたぶればそれで済んだのではなかったか? しかしあなたはそれをしなかった。あなたは奴の首を切り飛ばし、それに怒った父親は私にあなたの殺害を依頼し、私はあなたに死をもたらせるのではないかと考え天木さんを殺した。そもそもの発端は、あなたが奴を殺したことにある。そう、言ってあげよう、デッドマン」
「黙れ黙れ黙れ黙れ」
「天木さんを殺したのは、あなただ」
「黙れええええええええええええええええええ!!」
 狭い部屋に響く、デッドマンの叫び。叫びながら、デッドマンは泣いていた。その様を見た、殺し屋も泣いていた。天木ハルの血の臭い、そして狂気が渦巻く部屋に、あらたに別の血の臭いが混じる。
 鉄格子を掴み、叫んでいたデッドマンの口から、血がほとばしった。尋常な量ではない。常人なら致死量の血が、デッドマンの口から吐き出され、床を新たに汚す。
 床に突っ伏し、なお血を吐き続けるデッドマンを、殺し屋は見下ろす。瞳は涙に濡れながら、その口には穏やかな、凄惨なこの場には不釣り合いな微笑みが浮かんでいた。
「自らが殺人者に理不尽な死を振りまきながら、殺人者を断罪する。あなた自身、その矛盾に気付いていたのでしょう? あなたが目を背ける矛盾、それによってもたらされる結果を眼前に突きつければ、全て事足りる、そう私は考え、そしてそれは間違っていなかった。だから今、あなたは死のうとしている。やはり、あなたを殺すのに銃も爆薬も必要なかった。
 ……独善的、いや、愚直なあなたを、私は愛した。私の思う通りにあなたが死ぬことは、とても嬉しい。でも、同時に、私はとても、悲しい」
 言葉を切り、自分の言葉の余韻を味わうような沈黙の後、殺し屋は言う。
 とても、満足だ、と。そう言う殺し屋の前で、デッドマンは今も死のうとしていた。
 自らの血の海に沈むデッドマンの体からは、刻一刻と、命が失われていく。その瞳から、生命が消えていく様を、殺し屋は目をそらすことなく、見つめていた。
 そんなデッドマン、そして殺し屋を、
 あたしは頭上から、女の人と見下ろしていた。

   *

 自分の死体を見下ろしながら、ものを考えるというのは物凄く気分が悪いことだった。
 最初は生気を失った自分の顔が視界の端に見えるのが気味悪くてしょうがなかったけど、いつの間にか、そんなものは気にならなくなっていった。
 あたしと女は二人に見えてないらしく、頭上のあたしたちに気付いたそぶりもなく、殺し屋はデッドマンを苛み、そして彼は泣き、血を吐いた。
 それを見て、あたしは泣いていた。幽霊でも泣くんだ、と奇妙な感慨を覚えるあたしだったけど、涙は止まらない。
 そんなあたしを、女の人は横から面白そうな顔をして見ていた。
 あたしを彼の家にいざなった、あのおかしいくらいに綺麗な女だ。
 自分が死んだ、と思った瞬間、あたしはこうして自分の死体やデッドマン達の上にいて、横には当然のようにこの人がいた。あたしが彼の姿に心を痛める様、涙を流す様、そのいちいちが楽しい、とでも言わんばかりの顔の女をあたしは睨む。
 女はおそらく、殺し屋の言う邪神なんだろう。想像もつかない力を持ってるんだろう。でもあたしは、女への嫌悪感を隠さないまま、言う。
「あなたは一体、何者なの」
「私自身、分からない」
 笑顔のまま、女の人は話す。
「分かるのは、私が人間じゃないこと、人に力を与えられる、ってことだけ」
「あたしは、あなたの力で、今のところ死なないで済んでいる?」
「ええ」
「彼に力を与えたのは、あなたなの」
「そうよ」
 そうこともなげに、女の人は言う。あたしは彼に視線を戻す。血の海に沈む彼はもうほとんど、動かない。
「だらしない」
 そう言った女を睨むけど、女はそれに堪えた様子はない。
「もっと強い男かと思ったのだけど、女一人の死と言葉責めで心が折れるなんてねえ」
「……黙って」
「おお怖い……想い人を悪く言ったのはごめんなさいね。でもあなたはどう思った?」
 少しも怖じ気づいた様子もなく、女は言葉を続ける。
「殺し屋の言っていることは、全て事実よ。彼が自分の罪悪感を誤魔化すために殺し続けたことはその通りだし、その矛盾に気付いていたこともそう。あなた自身、彼が人を殺すことは良くないと思っていたのでしょう?」
 女の人を睨み、あたしは再び、彼に視線を戻す。
「……かわいそう」
 そう、あたしは言う。
「あいつ、かわいそうだよ」
「身勝手に人を殺し続けた彼が?」
「それでも、かわいそうだよ。自己嫌悪を誤魔化したいだけだ、って言うけど、あんなに酷い目に遭ったら、そうなっちゃうのは無理ないと思う。あいつは、好き好んでああなりたかったんじゃない。好きな人と、穏やかに笑い合えるんだったら、そうしたかったんだと思う。でも出来なかった……あいつは、色々とギリギリな中で、ああ望むことしか出来なかったんだと思う」
 そして、あたしはそれをどうすることも出来なかった。ただ殺し屋の計画に乗せられ、彼を死に至らしめるきっかけになってしまった。
 なんとかしたい、とあたしは思う。このままじゃあ、あたしは彼に何も出来ずに終わってしまう。
 ふと、女の人が黙りこくっていることに気付いて、あたしはそちらを見る。そして、背筋が凍えるような感覚を覚えた。
「天木ハル」
 女の人の白い顔に、喜悦が浮かんでいた。大きく開けられた赤い口腔は、あたしを飲んでしまうようにすら見えた。
「あなたも、面白い人だったのね。彼をかき乱す一要素としか見てなかったけど、あなたは、本当に面白い」
「……どういう意味」
「私は誰にでも力を授けることが出来る。あたしが自然を超越する力を人々に与えれば、人類の抱えた様々な問題が一気に解決するかもしれない。でもそれは絶対にしない。つまらないから。私が力を授けるのは、葛藤と自己嫌悪にすり潰されながらも、それでも力を望まずにはいられない、そんな人よ。
 留置場で、あんな願いを抱いた彼のように。そして」
 女はあたしを見つめる。
「あたしも、そうだっていうの」
「あなた自身、よく分かっているはずだけど」
 あたしは、デッドマンを見る。ここで死ぬこと、もしかしたらそれは、彼にとってある意味救いになるかもしれない。ここで死んでしまえば、これ以上苦しむことはない。でもあたしは、彼に生きていて欲しいと望んでいた。彼のためじゃない。あくまであたしの、身勝手な願いのために。
「さあ、どうするの」
 あたしは、女をじっと見つめ。
 そして答えた。

   *

 デッドマンを殺し、涙を流す殺し屋の前で、あたしは立ち上がった。
 自分の後頭部から脳みそがぼたり、と落ちるのも、後頭部に空いた孔がみちみちと音を立ててみるみるうちに塞がっていくのを感じながら。
 あたしを見て殺し屋が呆けた顔をしたのは一瞬で、すぐに彼は防弾ガラスの部屋から出て、あたしに向かって拳銃を放つ。銃弾が頭、心臓と、体中に刺さるけど、あたしは止まらない。
 血とか肉をぼたぼた落としつつ、あたしは死のうとしているデッドマンに手を伸ばした。
「死なないで」
 あたしの手が、彼に触れる。
「あんたが、好きみたい」
 あなたが苦しんだまま死ぬのが嫌だった。生き返ったあなたが余計に苦しむことになるかもしれなくても、あたしはあなたの優しさを押し隠した仏頂面が、また見たかった。
「生きて」
 変化は急激だった。力なく倒れていた彼の体は、電気を流されたようにぴん、と張る。床に広がった彼の血液は一斉に黒い煙となって蒸発していく。死に満たされようとしていたその顔に、意識が戻っていく。死の淵から無理矢理引き出された彼は、ぽつりと呟いた。
「お前……」
 あたしを見て戸惑う彼だったけど、それはゆっくりと、驚き、そして怒りに変わる。あたしがどうなったのか、どうしたのか、彼はすぐに理解したようだった。
「馬鹿が」
「ごめんなさい」
 視線を床に落とすあたしに、彼はそっと、肩に手を乗せてくれた。あたしは、もうそれで十分で、まだ傷が治りきらない腕で彼を抱きしめる。
「あたしは」
「何も言うな」
 そう、色々なものが混じった声音で言ってから、彼は手をあたしから離す。そっとあたしの体をのけてから、彼は立ち上がる。
 その視線の先には、茫然とする殺し屋がいた。
「いやはや、この展開は考えられなかった」
 彼を見て、殺し屋は笑う。
「ただ、あり得ますよね。デッドマンの生を望むデッドマンが現れるのも。何せ、私たちは邪神の掌の上で踊っているに過ぎないのですから」
 それにしても、と彼は続ける。
「自身の身勝手さ、矛盾、それに気付きながらそれでもなお私を殺そうと?」
「俺も薄汚い殺人鬼に過ぎない」
 デッドマンは、あの鉄格子に手をかけた。
「それでもお前を活かしておくのは無理だ。お前はこの女を殺した。そのせいで、こいつは化け物になったんだからな」
 諧謔の滲んだ笑みを浮かべる殺し屋の前で、それまでびくともしなかった鉄格子が飴細工のように歪む。ダメージが蓄積していたのか、はたまた復活したデッドマンにあらたな力が宿っていたのか、鋼鉄製の格子は、彼によって易々と引き裂かれた。
「私は満足だ」
 殺し屋は言う。
「たとえ果てるとしても、私は満足だ! 私はあなたを一度、殺したのだから!」
「もう死ね」
 デッドマンは殺し屋の右手を掴み、力任せにそれを握りつぶす。叫び声と共に、骨ごと潰れる腕。悪夢のような光景に、あたしは息を呑むしかない。
「はははははははあはははははははははあああああああああああああああああああ!!」


 デッドマンは三〇分ほどかけて、殺し屋を殺す。その間、あたしは目を閉じ、耳を塞いでいることしか出来なかった。
「終わった」
 殺人を終えた彼は、そうあたしに声をかけた。恐る恐る目を開けると、目の前には、血にまみれた彼がいた。
 凄惨、としか言いようがない格好の彼は、酷く沈痛に笑ってみせた。
「全部、俺のせいだ」
 あたしが、彼と同じ存在になったことを、彼は言っていた。
「すまない」
 そう言いながら彼は泣いた。
 それでも良い、とあたしは思う。矛盾に満ちた、自分勝手な願いを抱き、そのために悪魔と手を結び、それを後悔したとしても、それで良いと、あたしは思った。
 それが人というものだろうから。これを知った誰かは、彼を愚かと、笑うことが出来るだろうか。同じ立場になったとき、彼と違うことを望むことが、誰でも出来るだろうか。
 そんな彼に生きて欲しいとあたしは望んだ。それもまた、愚かな決断なんだろう。
 馬鹿なことをしている。それでもあたしは、こいつと一緒にいたいと、望んだのだ。
 言葉はいらない。
 あたしは、デッドマンを抱きしめる。
 死なない彼を、血の臭いとは無縁ではいられない彼を、あたしはぎゅっと、抱きしめ続けた。
 どこかで、女が笑った声が聞こえたような気がした。
赤城

2020年12月26日 16時08分36秒 公開
■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆テーマ:
 天に星【○】
 地に花【○】
 人に愛【○】
(1つ以上に【○】をつけてください)
◆キャッチコピー:
 何故死なないのか? それはもともと死んでるから……故に彼はデッドマンと呼ばれるのです。
◆作者コメント:
 今回の企画、最初は青春格闘ラノベで挑むつもりだったんですが、なんでこうなっちゃったのか作者も分かりません。
 一生懸命書きました。面白いと思って頂けると嬉しいですが……よろしくお願いします。

2021年01月11日 14時01分53秒
作者レス
2021年01月11日 13時59分16秒
作者レス
2021年01月10日 23時54分34秒
+20点
Re: 2021年02月23日 18時16分45秒
2021年01月10日 23時46分51秒
+30点
Re: 2021年02月23日 18時01分15秒
2021年01月10日 21時21分18秒
+20点
Re: 2021年02月23日 17時55分09秒
2021年01月10日 20時51分14秒
+30点
Re: 2021年01月17日 20時58分02秒
2021年01月10日 17時07分27秒
+30点
Re: 2021年01月17日 20時57分25秒
2021年01月08日 21時13分37秒
+30点
Re: 2021年01月17日 20時56分09秒
2021年01月06日 02時15分43秒
+20点
Re: 2021年01月17日 20時49分19秒
2021年01月04日 23時04分29秒
+30点
Re: 2021年01月16日 20時30分32秒
2021年01月02日 02時35分53秒
+20点
Re: 2021年01月13日 20時47分53秒
2020年12月29日 21時33分01秒
+20点
Re: 2021年01月13日 20時46分46秒
2020年12月29日 03時11分46秒
+30点
Re: 2021年01月11日 14時04分43秒
2020年12月28日 23時46分58秒
+30点
Re: 2021年01月11日 14時03分22秒
合計 12人 310点

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