新山友人は対魔力が高い

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 その女は青い炎の中にいた。
 炎の中で、俺と同い年くらいのその少女は、うっすらと笑う。
 コンクリートの敷かれた屋上から火元もなく出現した炎は、刻々と、大きさと勢いを変えていく。それはただゆらめく炎とは違い、自ら意思を持っているようだった。
 その子をいたわるかのようにたゆたう炎の中で、彼女は小さく、舞っていた。
 軽くステップを踏み、時折、両手を揺らめかせる彼女を、俺は茫然と見ることしか出来なかった。


 俺がこの非現実的な光景を見ることになったのは、高校の屋上でのこと。
 午後の授業を屋上で寝てサボっていると、ふと、人の気配に目を覚まされた。寝ていた建屋の裏から顔を出してみると、女の子が炎と一緒に舞っていた、という訳だ。
 のぞき見してることがバレると不味いと思いつつ、俺は建屋の真ん前で舞う彼女と炎から目を離せない。
 その非現実的な光景自体への驚きは、それほどでもない。
 ただ、それとはちょっと別の理由から、俺は驚き呆れ、そして、自分が酷く不味いことに巻き込まれてるんじゃないかという予感に捕らわれていた。
 そのせいか、炎の中の女の子に、見覚えがあることに気付くまでにも、結構な時間がかかった。
 ただ、炎に彼女の顔は遮られ、どうやら結構な美少女らしいその子と自分の記憶はなかなか結びついてくれない。
 彼女の顔をじっと見ていると、
 不意に、彼女の視線と俺の視線がかち合う。
 途端に、彼女の顔に驚きが広がり、少女の周りの炎も一瞬で消える。
 あちゃー、と内心で思っている俺の目の前で、彼女は俺から後ずさった。
 炎が消えたおかげで、俺はその女の子の顔をはっきりと見ることが出来た。
 沙原理彩(さはら りさ)。
 俺と同じ二年生で、クラスメイトだ。
 西洋人の血が混じっているという噂の、日本人離れした美貌を持つ彼女は、今年の始めにウチの高校に転入してきた。
 そのあんまりな美人ぶりに、入学当初はクラスや学年どころか、学校中の話題をかっさらった彼女だったが、夏休みにぼちぼちさしかかろうという今では目立つ存在ではなくなっている。
 最盛期には十人以上が挑戦したという彼女への告白の全てをすげなく断り、友達もほとんど作らなかったせいもあるかもしれない。
 ただ、それにしては、彼女のクラスの立ち位置には、少々不自然なところがあった。
 そういう女の子は無用の関心を他の女子から集め、いじめられたりすることが多いのだが、沙原はいじめられるどころか、女子から注目されることもなかった。
 それどころか、男子を含めたクラスのほぼ皆から、用事がない限りは話しかけられることがない。
 何かの拍子に話に昇れば、ああ、あの美人の子ね、ということになるが、それ以上、彼女についての話が広がることはない。
 嫌われたり、タブー視されたりして、話が広がらないという訳ではない。彼女についての話がいつも尻すぼみになるのは、彼女が皆から関心を持たれていないせいのようなのだ。
 
 街中を歩けば、おそらく十人中十人が振り返る容貌の沙原が、クラスでまるで空気のようになっているのは、あらためて考えれば異様なことだった。
 俺自身、そのことに気付きつつ、さほど違和感を抱いていなかった。
 そんな自分の認識を不可思議に思い、かつ呪いつつ、こちらをじっと見てくる彼女に、俺は愛想笑いを浮かべるしかない。
 そんな俺に、沙原は平静そのものの声で尋ねてきた。
「見た?」
 そのストレートな質問に、ちょっとだけ迷ってから、俺はうん、と答える。
 よくも見たな、死ね。
 ……と、先ほどの炎をけしかけられてもおかしくないと、内心で怯える俺に、彼女は小さく笑いかけた。
「驚かせちゃって、ごめん」
 その笑みに結構ホッとする一方で、俺は彼女の平静な様子に少しばかりの違和感も覚える。
 物理法則から考えればありえない出現と消失の仕方をした炎を見られたにも関わらず、彼女の様子に戸惑いや、警戒する感じは全くなかった。
「何だったんだ、今の?」
 その俺の問い掛けに、沙原は曖昧な笑みを浮かべた。
 言うべきか、言うまいか……そんなためらいを感じさせる笑みをしばらく浮かべた後、沙原は落ち着いた口調で話し始めた。
「新山くんは、さ、私が、異世界からやってきた、って言ったら驚く?」
 そう言った沙原に、俺はすぐには答えられない。内心、ちょっと呆れてたからだ。
 そんな俺を見て誤解したのか、沙原は少し、苦笑いを浮かべる。
「アニメの見過ぎだって思ったでしょ?」
「いや、そういうのじゃない」
 あんなもの見せられて、お前の話が妄想だとは思わないよ、と言うと、沙原はにっこりと笑う。
「良かった。引かれてないか、ちょっと心配だったんだ」
「いや、結構引いてはいるぞ」
「ふふ、正直だね」
「正直は一生の宝、なんてことわざもあるからな」
「新山くんって面白い人なんだね」
「変わり者とはよく言われる」
 ふふ、とやはり嬉しそうにしていた沙原は、急にその笑顔を仕舞う。
「あなたには、どうやら強い対魔力があるみたい」
「……魔力ってのはなんだ」
「私の世界に存在する、人の意思で、物理法則をねじ曲げる力のこと。さっき、私の〝カルシファー〟の練習をする前に、私は探知の魔法でこの屋上を探索し、人がいないことを確かめた……なのに、あなたはいた。これはあなたが強力な魔力への耐性を持っていなければ、説明が出来ない」
「それは、凄いな。ただ、就職とか勉強には役に立たなさそうだな」
 ははは、と笑う俺だが、沙原は真剣な表情を崩さない。
 彼女は真っ直ぐに俺を見つめるまま、こう言ってきた。
「私の戦いに、協力してくれないかな?」
 協力? 戦い? そう尋ねる俺に、沙原は答える。
「私は、私のいた世界で勇者と呼ばれた存在。この世界には、敵を追ってやって来たの」
「敵っていうのは……」
「黒の道化師」
 あんまりな話に、ちょっと気が遠くなる。
 そんな俺に気付かない様子で、沙原は言葉を重ねる。
「私はそれを倒すために、この世界にやってきた」

 戸惑わせると思うけど、ごめんなさい。
 そう断ってから、沙原は話し始める。
 沙原がやってきたという世界では、王国と反乱勢力との間で戦いが繰り広げられていたこと。沙原は王国側について、戦いの最前線に立っていたこと。敵の勢力の親玉は、強力な魔力を持った、黒の道化師という二つ名を持つ魔術師だったこと。王国の勝利で戦いは終わったけど、黒の道化師はこの世界に逃げたらしいこと。それを追って、沙原はこの世界にやってきたこと。僅かに残った魔力の痕跡から、黒の道化師はこの街にいる可能性が高いこと……。

 ただ聞くことしか出来ない俺に、沙原は申し訳なさの混じった笑みを向けてくる。
「戸惑わせてしまって、本当にごめんなさい」
「話はかろうじて理解したけど、どうして俺なんかに協力を?」
「魔法っていう力はあるけど、私はこの世界のことにまだまだ疎い。私の事情を知った上で協力してくれる人が欲しかったこともあるし、あなたの対魔力は、黒の道化師に対して有効かもしれない」
「おいおい、ただの一般人捕まえて戦いに巻き込もうとするなよ」
「……無理なお願いなのは、分かってる。それでも、黒の道化師は強い。力になってくれる人が必要なの」
「……どうして俺がそんな無茶に乗ると思ったんだ」
「新山くんが、いい人に思えたの」
 普段の俺なら、アホか、と一蹴するような言葉だけれど、思い詰めた様子の美少女からそんなことを言われてうろたえない男がいるだろうか。
 さらに沙原は
「お礼はする」
 とか言って俺の手を取ってきた。
 心臓が跳ね上がるのと同時に、自分の手のひらに固くて丸いものが押しつけられるのを感じる。
 沙原の手が離れてから手のひらを見てみると、そこには見知らぬ文字と、髭生やしたおっさんの横顔が刻まれた金貨があった。
 残念なような、ほっとしたような。そんな妙な感慨に、小さくため息をつく。
 そして、手にあった金貨を沙原に返した。
 差し出された異世界製の金貨を見てどうやら勘違いしたらしく、沙原は色々な感情の混じった笑みをその顔に浮かべた。
「無理なお願いを言って、ごめんなさい」
「違う違う。ちょっと考えさせて欲しいってだけだ」
「え……」
「いきなり色々なことを聞かされて俺もかなり戸惑ってるんだ。協力するかどうかは、よく考えてから決めたいんだ」
 彼女の願いに応じたわけでもなんでもない。
 それでも、俺の言葉を聞いた沙原の顔に嬉しさが満ちていった。
「ありがとう、新山くん」
「……おう」
 裏表のない沙原の顔から、思わず視線を逸らす。
 実は、彼女には言っていないことがある。それを隠す俺に向けられる、彼女の純真な瞳に、多少の罪悪感を感じてしまう。
 それを顔に出さないようにしつつ、俺は沙原に言葉を続ける。
「悪いが、ちょっと待っててくれ」
「うん、ありがとう」
「別に協力する、って決めたわけじゃないからな」
「それでも、ありがとう」
 互いにじゃあ、と手を振ってから、沙原は校舎へ繋がる建屋へ消えていった。
 あんまりサボるのは感心しないぞ、と言い残した沙原に、お前もサボっとるだろうが、と内心で呟いてから、俺は建屋の裏に戻る。
 両手を重ねて枕にして、屋上で仰向けになった俺は、頭上の青空を流れる雲を見つめる。
 間違いなく、不味いことに巻き込まれかけている。
 色々と考えをまとめようとした俺だったが、目の前を流れる白い雲を眺めている内に、昨日の夜更かしによる睡眠不足が容赦なく頭を苛んできた。


 目が醒めた時には、もう放課後になっていた。
 六限目の終わりを告げるチャイムの音に覚醒した俺は、眠気が残った頭を持ち上げる。
 呑気に寝てる場合じゃなかろう、と、ほどよい気候と爽やかな風に誘われるまま眠ってしまった自分を少し呪う。
 屋上のざらざらとした床にあぐらをかいたまま、じっと、これからどうするべきか考えていた俺だったが、下手の考え休むに似たり、という言葉を思い出す。
 やれやれ、と村上春樹風に呟きつつ、俺はおもむろに立ち上がった。

 ウチの高校は教室棟と別棟、そして体育館の三つの建物から成っている。
 家や部活に向かう生徒達でごった返す教室棟の廊下を教師に見つからないように歩きつつ、俺は別棟へ向かう。
 別棟には職員室、理科室、家庭科室、その他もろもろの特殊教室、そして文化部室が収まっている。俺が向かったのは職員室でも特殊教室でもなく、一階の最奥部にあるとある部屋だった。
 ほの暗い廊下に立ち、そのドアを小さく、ノックする。
 どうぞーという女の子の声が返ってくるのを待ってから、俺はおもむろにそのドアを開けた。
 現代文学探究同好会、というのが、この狭い部屋に収まっている非公認同好会の名前だ。
 会員はわずかに二人。教師はもちろん、生徒にもその存在がまず知られていない同好会には、その名前以外にも色々と変わったところがある。
 その一つが、部屋のレイアウトだ。
 単調な白い壁、愛想のない黒板、がたがたとしたサッシ窓にダサいカーテン、という学校の標準的なレイアウトは、今の部屋には痕跡の欠片もない。
 ベージュ混じりの白だった壁はレンガ地の壁紙と観葉植物で覆われ、左側の壁一面を覆っていた黒板はアンティークな本棚が置かれてその存在を隠されている。窓はさすがに替えられなかったものの、カーテンは壁紙や本棚に調和する、パールグリーンのものに替えられている。
 同好会の活動場所というよりは、田舎の片隅によくあるカフェ、という方が適当な感じの部屋には、実際に電気ケトルとドリップコーヒーを入れるためのセットが、少しばかりのお茶菓子と一緒に置かれている。
 部屋に入った途端、ふんわりとしたコーヒーの匂いが俺の鼻孔をくすぐる。
「やあユージン」
 そんな俺を、部屋の奥に置かれた木製の机に座った少女が迎えてくれた。
 根津都子(ねづ みやこ)先輩。
 現代文学探究同好会、略して現探の会長だ。
 机の上には湯気の立ったコーヒーカップが置かれていて、根津先輩はそれを飲みつつ、読書にいそしんでいた。
 古びた文庫本にじっと視線を注いでいた先輩だが、俺が部屋の入り口に立ちっぱなしでいると、ふと、顔を上げた。
「どうしたねユージン、そんなところに突っ立って」
 高校三年、というには少々大人びた風貌の根津先輩は、不思議そうな顔でそう尋ねてきた。
「先輩に見とれちゃってまして」
「冗談が上手くなったなユージン。さあ、そんな可愛いことを言う後輩にはコーヒーを淹れてやろう」
 花も恥じらう年頃にしては妙な口調でそう言った根津先輩は、よっこいしょと立ち上がって部屋の片隅のコーヒーセットに向かった。そして、手際の良い手つきでコーヒーの準備を始めてくれる。
 ごっちゃんです、と言いつつ、俺は本棚へ向かって読みかけのラノベを手に取った。
「たまには古典でも読んだらどうだね」
「読んでるとつい眠くなるんすよ」
「老婆心かもしれんが、古典に潜んだ鋭い人間観察や深い思慮を味わっておくのは大切だと思うぞ。ライトなものばかり読んでると、本当にライトな頭になってしまう」
「もともとライトな頭しか持ってないっすから」
「まったく……」
 そう言ってちょっと呆れた顔をした先輩は、沸騰したお湯をポットへ移す。
 その脇で立ったままラノベに集中しようとした俺だが、その内容はちっとも頭に入ってこない。
 頭の中では今も、今読んでるラノベより数倍ラノベしてる、沙原とあの青い炎がちらついてしまっていた。
 ため息ついてページを閉じると、根津先輩が湯気の立つマグカップを俺に渡してくれる。
「珍しく元気がなさそうじゃないか。どうした、道端に落ちてるもんでも食べたのかね」
「猫や犬じゃないですよ俺は」
「えっ」
「怒りますよ」
「冗談だよユージン」
 そう言いつつ、根津先輩は自分のコーヒーを一口すすった。
 ユージン、というのは根津先輩が俺に付けたあだ名だ。
 俺の名前は新山友人(にいやま ゆうと)というのだが、下の名前がゆうじん、とも読め、それをヨーロッパ風にしたユージン、という呼び方が、先輩の嗜好に合っちゃったらしく、入会当初から彼女は俺をそう呼んでいる。
 部屋の真ん中にはソファが二つ置かれていて、先輩はその内の一つにどっこいしょ、と腰かけた。
 その腰かけてコーヒーをすする様を形容するのにこんな表現は合ってないかもしれないが、彼女のその姿は至極、堂に入っていた。
 十八、という年齢にしては貫禄のある彼女を、俺はついじっと見てしまう。
 やっぱり、この人の言ってたことは嘘でも冗談でもなかったんだよな、と、俺は内心で呟いた。
 そんな俺を、先輩はうっとうしそうな顔で見返してくる。
「私の顔に何かついてるか? それとも変なものでも食ったのか?」
「んな訳ないんですけど……」
「何かしら気がかりはあるように見えるが?」
「まあ、そうっすけど」
 再び、沙原と青い炎が脳裏にちらつく。
 とりあえず、事実確認から、と思い、俺は先輩に尋ねた。
「先輩の、前の世界での名前ってなんでしたっけ?」
 いきなりそんなことを問われた先輩は、目をぱちり、と見開いた。
 驚いた表情をしたのは一瞬のことで、先輩はすぐにいつものおどけたような表情を取り戻す。
「おや、とうとう私のこの世界での部下になることを決意したのかね」
「そんな訳じゃないんですが」
「じゃあどんな訳で?」
「まあ、ちょっと」
 ふむ、と先輩は小さく呟く。
「その理由は大変に気になるところだが……まあ、いい。私は彼の世界では、ゼン、と名乗っていた」
「確か、二つ名的なものありませんでしたっけ?」
「黒の道化師」
 前聞いた時に、敵からは畏怖を持ってそう呼ばれていた、と言っていたその妙な二つ名を、先輩はこともなげに口にした。
「黒の道化師ゼン、というのが、私の彼の地での名前だった」
 異世界の勇者を名乗った沙原が、敵だと言っていた黒の道化師。
 それを前にした俺は、それが淹れてくれたコーヒーを片手に、もう片方の手でこめかみを押さえる。
 厄介なことになりそうだ。
 ずーんとした頭痛を感じる俺を、根津先輩は怪訝そうな顔でのぞき込んできた。





 現代文学探究同好会、略して現探は妙な会だ。
 ただひたすらに書籍を読みふける、という活動内容ももちろんだが、そんな活動内容が学校から許されていることも、そもそも官品なはずの公立高校の内装をああも弄りまくり、さらにはコーヒー、紅茶、ケーキにドーナッツといった嗜好品を嗜んでおきながら、教師から目を付けられていないことも……そして、そんな怠惰で蠱惑的な活動内容にも関わらず、生徒の大多数がその存在を知らないことも、妙だった。
 ちょっと考えれば不自然なところにダース単位で気付きそうなものだが、現探への入会を決め、その後もしばらくの間、俺はそんなことに気付きもしなかった。
 俺がアホなせいもあるだろう、ただ多分、根津先輩のかけた魔法の力も、少なからず作用していたのかもしれない。


 俺が現探の存在を知ったのは、全くの偶然からだった。
 あれは一年生の夏のこと。
 帰りしなに教師から呼び出しを食らい、職員室でのお小言を聞き終わった俺が、さて帰ろうと別棟の一階に差し掛かったところ、鼻孔にふんわりとしたコーヒーの香りが入ってきた。
 さっきまでいた職員室で嗅いだインスタントコーヒーの味気ない匂いではなく、焙煎したての新鮮な豆を丁寧にドリップした感じのその匂いに誘われ、俺は一階の最奥にある現探の部屋にたどり着いた。
 コーヒーフリークの俺がノックも忘れて現探の部屋を開けると、根津先輩はぽかん、とした顔で出迎えた。
 学校らしからぬ内装にぽかんとする俺に、根津先輩は、出て行け、でも、誰だお前は、でもなく、コーヒー飲むかね、と可愛らしい顔立ちには似合わない、おじさんくさい口調で話しかけてきたのだった。

 先輩は自分の同好会の名前、現代文学探究同好会、という名前を、少しばかり噛みながら俺に告げた。
「ただひたすらに文芸を楽しむ。それが当同好会の目的さ。やることは自由。ただ本を読む、コーヒー淹れる、小説書く。何をするかは会員に任せられている」
「所属している人は?」
「こんな妙な活動内容を怪しがってね。今のところ、私一人さ」
 年季の入った手回しタイプのコーヒーミルで、豆をごりごり挽きながら、根津先輩はそう言った。
「君は、何か部活に入っているのかね」
「帰宅部です」
「本は好きかい?」
「ラノベとか、漫画を読むくらいっすね」
「そうか」
 粗めに挽いた豆をドリップにセットし、それにゆっくりと湯を注ぐ。
 お湯を含んだコーヒー粉がふんわりと膨らむと、良い香りがさらに強まる。
 コーヒーには多少のこだわりのある俺でも関心するくらい、先輩は手際の良い手つきで、コーヒーを入れてくれた。
「砂糖とミルクは?」
「ああ、いらないです」
 俺がそう言うと、根津先輩はひねた笑みを浮かべた。
「ブラック好きは、いい男の条件の一つだよ」
 何の気はない言葉だと分かっていながら、コーヒーカップを受け取りつつ、つい顔が赤くなってしまう。
「スマホとか、色々便利なものが出来て、読書なんてする必要ない、なんて言われてるがね……私は、読書でしか得られないものがあると思っている」
「自分磨きのためにやってるんですか?」
「いいや、純粋に好きだからだよ」
 俺と同じくブラックコーヒーを満たしたカップを手に、根津先輩はそう言った。
「ああ、分かってると思うけど、ここでコーヒーを飲んだことは決して口外しないように。学校で好き勝手コーヒー飲んでるのがバレるのは、さすがに不味いんでね」
 分かりました、と言いつつ、俺はコーヒーを一口すする。
 豆も良いんだろうが、淹れ方も上手なんだろう。
 香り、苦み、酸味、コク。それらのバランスが取れた、ブレンドコーヒーを飲みながら、部屋の壁の一方に設えられた本棚を俺は見やる。
 様々なジャンルの本を無節操に詰め込んだ感じの本棚を眺めていると、横にいた先輩がぽつり、と呟くように言った。
「興味あるかね?」
 そう言った先輩の顔を見ると、茶目っ気の混じった笑顔が浮かんでいた。
「美味しいコーヒーを飲むのも、センスの良い本のチョイスを楽しむのもし放題。そんな現代文学探究同好会に、興味はあるかね?」
 そう言ってきた先輩にどう答えたか、あらためて言う必要はないだろう。
 読書にそこまで魅力を感じた訳じゃ、もちろんない。
 おそらくは、美味しいコーヒーに魅力を感じたこともあったんだろうけど。
 根津都子という、妙な先輩が気になったことは、否定は出来ない。


 中学から今に至るまで帰宅部で通してきた俺だったが、現探にはほぼ毎日通うことになった。
 放課後、俺が現探の部室に行くと、根津先輩は既にいて、コーヒーを淹れている。
 先輩がコーヒーを淹れてくれる間にしゃべり、本を読んでる合間にもまた喋る。
 四時から六時までの活動時間の中で、本を読むのと先輩と話すのは大体半分ずつくらいだった。
 同好会の活動、というよりは友達の部屋に遊びに行ってる、という方が適切だろう。
 束縛されることにほとんど病的な嫌悪感を持ってる俺でも、飽きることも、嫌になることもなく、あの部屋に通い続けることが出来たのは、そんなノリだったおかげもあるだろう。
 ……しかしまあ、通い続けた一番の要因は、根津都子という先輩の存在だった。
 俺の十六年の人生の中で、根津先輩は間違いなく一番面白い人だった。
 気が好くて明るいキャラクターをしている上に、頭の回転は早くて、読書のおかげか話題もびっくりするほど豊富な先輩と話すのが、俺は楽しくてしょうがなかったのだ。
 そのまま何事もなく、旨いコーヒー飲んでだらだらお喋りして、読書する時間が続いてくれれば良かったのだが。
 そんなことはなく、俺は黒の道化師の存在を知ることになる。


 その日、現探の部屋を開けると、俺が一番乗りだった。
 普段ならいくら俺が早く来ようと根津先輩は既にいて、コーヒーを淹れてるのだが、ドアを開けた俺を迎えたのは、酷く寂しく感じるがらん、とした部屋だった。
 人がいないだけで、こうも印象が変わることにどこか新鮮な感じを覚えつつ、俺はカバンを置き、いつものように読みかけのラノベを取りに本棚に向かう。
 ラノベにしては最早古典の部類に入る、風変わりな女の子とUFOと夏の物語を手に取ったところで、俺はふと、先輩の代わりにコーヒーを淹れることを思い立つ。
 この部屋ではもっぱら先輩にお任せだけど、家では自分でコーヒーを淹れる。
 先輩ほどじゃないけれど、コーヒー豆を求めて焙煎所を回ったり、自分なりのブレンドコーヒーを開発したりもする。
 そんなコーヒーフリークの血がうずいたこともあるけれど、先輩に褒められるかもしれない、なんていう下心も若干、あったのかもしれない。
 いつも彼女がやってるように手回し式のミルを回し、ゆっくりとお湯を回し淹れて出来上がったコーヒーだったが、その味は根津先輩のそれと比べれば、良く言って三割減、てところだった。
 思わずため息をつきつつ、コーヒーをすする。
 コーヒー淹れ始めてたっぷり三十分は経っているけれど、先輩はまだやってこなかった。
 ラインしてみるか、と思ったけど、そもそも先輩はスマホ持ってないんだった、とか思ったところで、俺はその足音に気がついた。
 それは明らかに先輩のものじゃなかった。
 こんな荒くて不躾な足音を、先輩は立てない。
 その聞くだけで不快な足音の主は真っ直ぐにこちらへ向かってきて、そしてノックもせずにドアを開けてきた。
 林田純一、三十五歳。
 授業は淡々と説明しているだけでつまらなく、何かにつけて生徒のすることに文句をつけてくる、よくいるけれど、酷く不快な教師。
 不躾にドアを開けた林田は、隠れ家的カフェみたいな部屋の様子に呆気にとられていた。
 その眼鏡に縁取られた視線が、観葉植物、アンティークな本棚、そして俺へと移るにつれ、その顔に戸惑いに変わって、怒りがゆっくりと浮かんでいく。
 ……一応話しておくと、俺はこの頃既に、教師連中から目をつけられていた。
 授業をよくサボり、教師への反抗は日常茶飯事、ただ、そこそこの成績を維持する……なんてことをしていたおかげで、大方の教師からは害虫みたいに見られていた。
 コーヒーの臭いに嫌な予感を覚えつつ、部屋を開けてみれば、いたのは問題児の俺。
 林田の頭を盛り上げるのに、これ以上のネタはまあないだろう。
 コーヒー仕舞っておきゃ良かった、と後悔したものの既に遅い。林田は俺に詰め寄り、俺が持つコーヒーカップを無理矢理奪う。
 そして奴は近くにあったテーブルにカップを勢いよく置き、その縁からコーヒーがこぼれる。
 こぼれたコーヒーが着ていた詰め襟にかかり、頭に一気に血が上るのを感じた。
 そんな俺の前で、林田は話し始める。
 どうして学校でコーヒーを淹れて飲んでいる、学校はスターバックスじゃないんだぞ。
 タバコを吸っているらしい林田の歯はヤニで汚れ、ついでにその口臭は酷く鼻についた。
 奴の台詞と口臭、そして大人という存在へもともと抱えてた苛立ち。
 そういうものが頭の中で混ぜ合わされ、こいつをおちょくろう、という決断に結実する。
 ……我ながらしょうもないと思うが、こういう時の俺の頭は、妙な方向によく回る。
 どんな行動が一番林田の気を逆立てるかについて、酷くナイスなアイディアを思いついた俺は躊躇なくそれを実行した。
 ついさっき、あいつがテーブルに置いたコーヒーを、俺はおもむろに口に運ぶ。
 それを一口すすり、せいぜい美味しそうに見えるように、ほっとため息をついてやる。
 コーヒーの香が混じった俺の吐息を吐きかけられた林田は、反射的に俺にビンタをかます。
 頬に走った痛みに、喜悦と怒りを同時に感じた俺は、あいつのクソみたいな顔を見返そうとして
 その背後に立った影に気がついた。
 思わず、目をしばたく。
 濃い、深い黒に見えたそれは錯覚で、そこには根津先輩がいた。
 先ほどまで感じていた林田への怒りをどうしてか忘れ、俺は彼女の姿に目を奪われる。
 俺のそんな視線に林田も気付き、あいつも背後を見る。
 その時根津先輩に初めて気付いたあいつは、体をびくん、と震わせた。思わずうろたえたあいつが、それを取り繕うように何事かを先輩に言おうとする前に、先輩の涼やかな声があいつに向けられた。
 先生、どうか落ち着いて。中でコーヒーでも飲みましょう。
 先ほどまでの奴の言葉を聞いていないような、林田なら、発狂してもおかしくないくらいの言葉だった。
 しかし、林田は狂うことはない。
 先輩の、涼しげな言葉が耳に入った途端、林田の背筋がぴん、と伸びる。
 そして、そのまま百八十度振り返り、俺の方に顔を向けてくる。
 その顔を見て、思わず息を呑む。
 くるみ割り人形、っていうのを見たことがあるだろうか。
 目はまん丸で、くるみを割るために口が常に半開きに開いた、呆けた表情で固まったあの人形に、その時の林田の顔はそっくりだった。
 その顔を崩さないまま、林田はぎこちない動作で歩き出す。
 思わず奴の体を避けた俺の横を通り、林田は部屋の中央に置かれたソファに腰かける。
 ユージン。
 奴が着席すると、根津先輩の声が、続いて俺にかけられる。
 後は私に任せて、君は帰りなさい。
 いつもと変わらないはずの、根津先輩の声。普段なら、俺に色々なことを話し、一緒に笑ってくれる先輩の声だったが、その時のそれは俺の頭蓋を不可思議な響きで揺さぶった。
 耳を打った先輩の声は、俺の鼓膜を揺らし、脳髄を震えさせる。その声が指図するまま、俺はきびすを返し、部屋の片隅に置いたカバンを取ろうとする。
 ……いやいやいやいや。違う。違うぞ新山友人。やるべきことはそんなことじゃない。
 カバンの持ち手に手をかけたところで、俺は動きを止める。夢見心地になった自分を覚ますために、一発ビンタを入れた。
 頬に走る痛みと共に、自分が戻ってくる。
 そして、俺は先輩の顔を見つめ返した。
 どういうことなんですか、と詰め寄る俺に、彼女は目を丸くする。
 今のあれは、何なんですか。事実を十分に飲み込めず、混乱したまま、言葉をぶつけてくる俺を、先輩は呆気に取られた顔で見ていた。
 人形と化した林田を後ろに放置したまま、俺と先輩はじっと見つめ合う。
 戸惑いがちょっと落ち着くと、先輩と見つめ合うことの気恥ずかしさが立ってきて、俺が目を逸らそうとすると、先輩が諦めたような苦笑を漏らした。
 君の対魔力は高いらしい。
 そう呟くように言った先輩は、俺の横を通り、林田の方へ向かう。
 説明する。その前に、先生にコーヒーを差し上げてくれ。
 そう言って、林田の向かい側のソファに腰かけた先輩に、俺は従うことしか出来なかった。


 埃を被っていた予備のカップをティッシュで簡単に拭き、それに俺のイマイチコーヒーを満たして、林田の前に置いてやる。
 それをぼんやりとした顔で眺めていた林田だが、先輩が、召し上がって下さい、と言うと、ぎこちない動作でそれを取る。
 ロボットダンスのようなカクカクとした動きでカップを取り、コーヒーを一口すすった林田は、やはりカクカクとした動作でカップをソーサーに戻す。
 飲みながら、聞いて下さい。そう林田に断ってから、先輩は話し出す。
 コーヒーセットは片付けておくので、どうか今日はお仕事に戻って下さい。そして、今日のことは忘れた方が良いでしょう。こんなことに気を煩わされる時間は、お忙しい先生にはないでしょうから。
 根津先輩の話に、林田はいちいち、カクカクと首を上下させる。
 さあ、コーヒーを片付けたら職員室へ戻りましょう、と最後に先輩が言うと、林田はカップに残ったまだ熱いだろうコーヒーを一気飲みし、そしてやはりぎこちない動作で部屋を出て行った。
 ……正直言って、もの凄く気味が悪かった。
 思わずぞっとしながら林田の後ろ姿を見送った俺を、先輩は少し寂しそうな顔で見てきた。
 そして、サーバーに残っていた俺の淹れたコーヒーを自分のカップに入れて飲んだ。
「ユージン」
 さも美味しそうに俺のコーヒーを飲んだ先輩は、小さくため息をついてから、こう言った。
「私が異世界から来た、と言ったら驚くかい?」


 林田先生の記憶と認識を操作し、君にも同じようなことをした先ほどのアレ。
 アレは種も仕掛けもあるけれど、催眠術とかそういう類いのものじゃない。私のかつていた世界で、魔法、と呼ばれる、物理法則を超越するための力なんだよ。
 いつもの調子でひどくメルヘンなことを話し始める先輩に、俺はやはり呆気に取られるしかなかった。
 先輩が強力な魔法の使い手であったこと。
 先輩のいた世界で、とある王国が苛烈な支配体勢を敷いていたこと。
 それに反抗する勢力に先輩が力を貸すよう請われたこと。
 参加したらいつの間にかリーダーに担がれたこと。
 黒の道化師、なんて二つ名で呼ばれたこと。
 戦には負けて、この世界に逃れてきたこと。
 先輩の話を聞き終わる頃には、俺の頭はショート寸前だった。
「マジですか」
 そんなアホなことを聞くのが、俺はようやっとだった。
 冗談や、妄想を言っているとは思えない先輩のマジな表情、そして、林田のさっきの様子。
 それを見てれば、マジ以外の何物でもないことは明らかだが、俺はそう尋ねることしか出来なかった。
 そんなアホな俺に、先輩は薄く微笑みつつ、頷いて見せた。
「どうして、俺にこんな話を」
 先輩の微笑みに少しだけ精神が回復した俺は、ついで、そう尋ねる。
「今、見たことを私の魔法で忘れてもらうのが、本当は一番なのだけど、君はどうやら、この世界の住人でありながら常識外れの対魔力を持っている。魔法をかけても、何日かぼんやりするだけで、多分、忘れることはない。なら、正直に話した方が良いと思ったんだ」
「俺に、どうしてそんな力が」
「分からん。親戚にドラゴンでもいるんじゃないか?」
 親類に爬虫類はいたっけか、なんて半ば真面目に考えちゃうくらいには混乱している俺の前で、ソファに腰かけた先輩は頭を下げる。
「今日見たこと、私が話したことは、どうか忘れて欲しい。こんな力はあるけれど、私はこの世界で穏やかに過ごしたいだけなんだ。決して、この世界に害を為さないと約束する。だからどうか、このことは他言無用に頼む」
 そう、先輩は張り詰めた表情で話す。
 固い口調にとその表情からして、先輩は、俺に信じてもらえるか不安に感じているらしい。
 まあ、得体の知れない、それこそ人の記憶や認識さえ歪める力を目の当たりにすれば、それを邪な方へ使うかも、と疑う方が自然なんだろう。
 ただ、俺は先輩の言葉は信じても良いと、妙に確信していた。
 仮に、先輩が魔力で人類制圧をもくろんでいたとしたら、そもそも校舎の片隅で本読んだりコーヒーを飲んだくれてたりはしない。学校生徒全員をマインドコントロールして国会襲撃、とかやってるはずだ。
 んで、現探に入った俺の扱いだ。
 仮に、俺を部下にでもするために誘ったとしよう。対魔力、とやらが高い俺を洗脳することはどっちみち出来なかったろうが、ただ先輩は俺にそんなことをしようとしなかった。
「この部屋のことは、忘れて欲しい」
 んなことを言う先輩に、すぐに俺は言葉を返した。
「それは無理です」
「ユージン……」
 酷く悲しそうな顔を先輩がしたので、慌てて、言葉を続ける。
「俺は、先輩との付き合いを終わらせようと思いませんし、まして先輩のことを皆に伝えるなんてことはしませんよ」
「……どうして?」
 戸惑いがちに、先輩は呟く。
「先輩がんなことする人じゃないって、信じてるからです」
 ……我ながらこそばゆい台詞を誤魔化すために、俺は余計な一言を付け加える。
「美味いコーヒー飲めなくなるのは切ないですし」
「……現代文学探究同好会、なんてのは君が偶然入ってきた時に私が咄嗟についた嘘だ。本当は、ただ私が怠惰な時間を過ごすためだけに設えた部屋だ」
「分かってます」
「そんな場所に、私が得体の知れない魔女だと知りつつ、通いたいと?」
 はい、と俺が答えると、先輩の顔に、苦笑い半分……もしかしたら自惚れかもしれないが、安心半分の笑みを浮かべた。
「変わった男だな」
「今更じゃないですか」
「それもそうだ」
 そう言うと、先輩は心底嬉しそうに笑ったのだった。


 まあこんな経緯を経て、俺は黒の道化師ゼン……という正体を隠した根津都子という人と、現代文学探究同好会という非公式同好会の活動を続けることになった。
 ああ格好よく言ったものの、内心、結構ビビりながら俺は現探の部室に通った。
 先輩が変なことをやらかす危険はないと分かってはいたが、彼女が持ったのは魔法なんていう得体のしれない代物だ。
 ラノベ、アニメ、映画で魔法に対して妙なイメージをすり込まれていた俺は、ファンタスティックなビーストが解き放たれたり、白い外道が魔法少女の勧誘をしにやってこなかったり……そんな心配をしてしまっていた。
 そんな諸々の心配が杞憂だと気付き始めたとき。
 俺は沙原理彩と、青い炎を見たのだ。





 コーヒーフリークの中には自宅で豆を焙煎する人もいるらしいが、先輩も俺もそこまでではない。
 所々にある焙煎所を回り、良い豆を求めるのが俺達で、なおかつ、林田の一件があってから何日か経ったあの日、先輩が持ってきてくれた豆は凄く良い豆だった。
 それに気をよくしたのか、先輩は余興だ、とか言って、手のひらに小さな炎を出現させた。
 火だねもなく、彼女の小さな手のひらに、黒い炎が出現する。
 墨のような黒一色の炎はしかし、本物の炎のように揺らいでいた。
 先輩がほれ、と言うと、それは手のひらから浮き上がり、宙をふわふわと舞った。俺の眼前に近付いてくるそれは、確かに強い熱を持っていた。
 俺にぶつかる直前、シャボン玉のように宙で消えたそれを見て、俺は大はしゃぎだった。
 宴会芸で使えますね、とか言った俺に、先輩は確か、よーし五年後に楽しもうじゃないか、とか言ってたような気がする。

 ……そんなことが以前あったこともあり、沙原と青い炎を見たとき、その光景自体への驚きはさほどのものではなかった。
 炎を纏って舞う沙原を見て、俺がまず感じたのは、驚きではなく、不安だった。
 かつての世界で、王国とやらと戦いを繰り広げていたという先輩の話と、目の前にいる、先輩とは別の魔法の使い手。
 その二つの事実がつなぎ合わさり、頭で湧いてきた嫌な予感に、俺はおののいた。
 単に俺の思い過ごしであって欲しい。そんな儚い願いは、直後の沙原の台詞でさっさと打ち砕かれてしまった。
 そのあんまりな展開に、俺が呆れちまったのも無理ないと思う。


 話を、沙原と遭遇した日の放課後、現探の部屋に戻そう。
 こめかみを押さえる俺と、それを怪訝な顔で見やる先輩がいる現探の部屋は、いつものようにコーヒーの匂いに満たされていた。
 その匂いは部屋の外にもちろん漏れ出ていたけれど、それに気付いているのは俺と先輩だけだった。
 この部屋とその周辺には、先輩の手によって人の注意を逸らす魔法がかけられている。
 一度かければ数日は持続するその魔法だが、林田襲来のあの日、先輩は魔法の効力が切れたことをつい失念していたらしい。
 あの日、コーヒーの匂いが満ちた妙な部屋の存在に気付いたのは林田だけではない。
 現探の手前にある図書館にいた生徒がダース単位でその匂いに気付いていて、俺との話が終わった後、先輩は夜遅くまでそいつらの記憶の操作に追われることになった。
 おそらくだが、沙原も同じような人の注意や認識を操作する魔法を使っているんだろう。
 人を惹き付ける容姿をしていて、なおかつ入学当初はクラスメイトや学校の連中があれだけ関心を持っていながら、現在の沙原がほとんど周りから関心を持たれていないのは、そうでないと理由がつかない。俺自身、そんな彼女の人間関係に違和感を覚えつつ、それを本格的にいぶかしく思わなかったのは沙原のかけた魔法の影響が多少なりともあったのかもしれない。
 沙原の言う、黒の道化師が、実は名前は同じで、根津先輩とは全くの別人でした、という一縷(本当にごく僅かだが)の希望を繋ぎたいところだった。
 ただ、二人が使っているらしい魔法は非常によく似ていて、同じ世界の同じ魔法を使ってる可能性は高い。二人が赤の他人だというその可能性は、考えを進めれば進めるほど、か細くなっていくばかりだった。
 黒の道化師と、異世界の勇者。
 敵同士らしい二人と、どういう訳か関わり合いになってしまった、対魔力の高い俺。
 厄介なことになった。
「ユージン、マジで大丈夫か」
 コーヒー飲みながら黙って一人で考え込む俺に、本格的に心配そうな顔を先輩が向けてくる。
 人の良さそうな(ついでに可愛い)顔の先輩は、果たして沙原理彩……異世界の勇者のことをどう考えているのだろう。
 二人から聞いた断片的な話しを繋ぐと、二人は対立する陣営で、それなりにハードな戦いをしていたらしい。
 この世界で荒事をするつもりはない、と言った先輩だが、沙原の存在を知った途端、黒衣に身を包み夜討ちをかける、なんてことになる可能性も無きにしもあらずだろう。
 沙原のことを正直に伝える、というのも一つの手かと思ったが、まずは先輩の認識を確認するのが先だ。
「実は賞味期限一週間前のフルーツサンドを昼に食っちゃいました」
「やっぱり変なもの食ってるじゃないか……それでコーヒーがぶ飲みするとは良い度胸だな。ちょっと待って……」
 そう言って机にかがみ込んだ先輩は、見慣れたラッパのマークの錠剤を取り出した。
「先輩の魔法で治せないんすか?」
「治せないことはないが、そのためには私はもの凄ーく疲れてしまうし、君も代謝がびっくりするくらい上がるよ? 三日三晩寝たくない、というなら話しは別だがね」
「ゲームみたいに便利なもんじゃないんですね」
「そう。何かを得るためには必ず代償が必要なのだ」
 そこで何故かドヤ顔する先輩。俺が紹介したハガ○ンのネタを会話にぶっこめたことが嬉しいらしい。
「なんでそんな面倒なもんなのに、先輩の世界で魔法は発達したんですか」
「医療系の魔法は対象者の体に負担をかけるものも多かったが、工業、農業系の魔法は少ない対価でかなりのリターンが得られたからね。それに目を付けた資本が研究に投入され、さらに発展。発展するとさらに資本が……という具合で、まさに日進月歩の進歩を遂げた」
「この世界での科学技術と同じみたいな感じなんすね」
「その通り。人の営為は世界が変われど、大きく変わりはしないらしい。より便利に、より効率よく、より儲かるように、世界は進む……そうした結果、酷い代償を払うことになるところも、同じだ。悲しいことに」
「戦争、ですか」
「……ああ」
 そこで、先輩の顔に影が差す。
 仕方ないとはいえ、自分が先輩の顔を曇らせるように話をしむけたことに、罪悪感のようなものが湧いてきた。
 先輩はぬるま湯と一緒に正露丸を俺に渡してくれる。
 彼女に嫌なことを思い出させることになる。それでも俺は、さらに話を続ける。
「酷かったんですか」
「……この世界の世界大戦に比べれば児戯のようなものだが、それなりに酷かった。かつての知り合い同士が干戈を交えあった。戦争で重要な役割を演じる魔法使いは、特にそうなることが多かったよ」
「友達とかとも、ですか」
「そう。かつての研究仲間、恩人や、その血族。それを容赦なく、踊るように、道化のように切り捨てた女を、人はいつしか、黒の道化師と呼んだ」
 思わずはっとして、先輩の顔を見つめる。
 そんな俺に、根津先輩はおどけた笑みを浮かべて見せた。
「昔のことだ」
「すみません、嫌なこと思い出させちゃって」
「良いんだよユージン。結構すんなり話せてしまって、私も少し驚いてる。もしかしたら深層心理のところでは、このことを誰かに話したかったかもしれない。それより、薬、薬」
「あ」
 先輩に促され、俺は正露丸を口に含む。
 痛くもない腹に入れる、正露丸を酷く苦く感じながら、俺はそれをお湯で飲み下す。
「いずれ、責めを負うことになるんだろうよ」
「はい?」
 薬を飲むことに意識をとられていた俺は、何事か呟いた先輩にそう聞き直す。
 何でもない、と先輩は笑うだけだった。


 最近、自覚し始めたんだが、俺は結構チキン野郎だ。
 自分から話を仕向けておきながら、辛い過去の一端を話してくれた先輩と一緒にいるのがいたたまれなくなってしまい、調子が悪いと嘘をついて、部屋をあとにした。
 また来週。ゆっくり休んでおくんだよ。
 と、先輩はいつもの調子で言ってくれた。
 今日は金曜で、土日は基本的に先輩と会うことはない。
 二日の間で、沙原と根津先輩の間にトラブルが起きる可能性は低いとは思うが、ゼロではない。二人の接近や衝突を回避するなら少しでも動いておいた方が良いと思いつつ、結局それが出来なかった。
 自分の意気地のなさに、少しばかりの嫌悪感を覚える。
 そんな嫌な気分な時に限って、嫌な顔というのは現れるものらしい。
 そいつに出くわしたのは、別棟の曲がり角を曲がったところだった。
 林田純一。この前誕生日を迎えて三十六歳になった独身数学教師だ。
 互いの存在に同時に気付いた俺と林田は、お互いに嫌な顔をする。
「なんだ新山。お前帰宅部だろうが。何を油売ってる」
「図書館で勉強しちゃ悪いんですか」
「その話が本当ならな。妙なことしてないだろうな」
「妙なことってなんすか」
「お前のよくやってることだ」
 嫌みったらしく鼻を鳴らした林田は、それ以上何も言わずに、俺の横を通っていった。
 今日の俺は特別機嫌が悪く、周りに生徒もいたというのに、立ち去るあいつの背中に中指を立ててしまう。
 ちなみに、後日確かめて見た感じ、あいつはあのときのことをすっきりと忘れたらしい。
 俺がコーヒー飲んでたことも、自分がくるみ割り人形になって根津先輩に良いように操られたことも、欠片も覚えていないあいつにバーカと呟きつつ、俺は少しだけ羨ましくも感じていた。
 何も知らずに、学校で魔法バトルが繰り広げられるかもという不安に苛まれることもなく、呑気に過ごせるあいつに、俺はもう一度中指を立てた。
「それって、何?」
 そんな俺に、気苦労の元の一つが声をかけてきた。
 見ると、沙原理彩が目を丸くして、俺がおっ立てた中指を見ていた。どうやら、海外ドラマとか映画はあんまり見ないらしい。
「これは、先生大好き、お元気でいて下さい、っていう意味だ」
「へえ」
 俺の憎々しげな表情に気付いてない様子で、沙原は感心した顔であっさり俺の嘘を信じる。
 魔法の使い手の異世界の勇者は、間違いなく良い子だが、ちょっとアホのようだ。
「すまん嘘」
「じゃあどういう意味?」
「大分良くない意味だから言いたくない。家帰ってファックサインで検索しろ。間違っても先生や外国人にするんじゃないぞ」
 そう俺が言うと、沙原は少しばかりむっとしたようだった。
 今までほとんど話したことなかったので断言はできないが、その仕草はいつもの学校での様子に比べて、大分子供っぽくなってる気がする。
 真面目に授業を受け、先生の質問にそつなく答え、クラスメイトとの話では静かに笑う。
 今まで普通だと思ってた彼女の仕草は、実は繕ったもので、この若干天然っぽくて、感情の起伏が激しい感じが彼女の素なのかもしれない。
「そうむくれるなよ異世界の勇者」
「からかわれるのはあんまり好きじゃないの。ていうかその呼び方もやめてよね」
「実際そうなんだからしょうがないだろ」
「……他の人も聞いてるかもしれないでしょ」
「それはそうと異世界の勇者。こんなとこで何をやってた」
「新山くんって、結構いじわるだね」
 はあ、とため息をついてから、沙原は持っていたノートを持ち上げた。
「数学の質問を林田先生にしていたの」
 目を上げると、職員室の表札があった。考え事をしながら歩いている内に、俺は学校で嫌いな場所断トツナンバーワンに入る場所にたどり着いてしまったらしい。
「真面目なんだな、お前」
「そんなでもないよ」
「今のご時世、放課後に質問なんてする生徒はごく少数だと思うぞ」
「一応、正体隠して潜入してる訳だから、違和感覚えられない程度の成績を維持するっていうのもあるけど」
 そして、沙原は信じられないことを言う。
「勉強って楽しいじゃない?」
「一週前のフルーツサンドでも食ったのか」
「……どういう意味か分からないんだけど」
「気でも違ったのか、っていう慣用句だ」
「絶対違うでしょ……ていうか、勉強を面白く感じるのってそんなに変なこと?」
「少なくとも、俺は面白いと感じたことはないな」
 まあ新しいことを覚える、論理のつながりを理解することに充実を感じることはあったけど、勉強それ自体にのめり込んだり、楽しさを感じたことはなかった。
 勉強はあくまで手段だ。教師の鼻を明かし、学校を卒業し、あのクソ親父の扶養からさっさと抜け出す。その目的を達成するための、手段でしかない。
「楽しい、とか言ってる奴は気が違ってるとしか思えない」
「酷いな……私から見ると、この世界の人の方がおかしく思えちゃう……やっぱり私がおかしいのかな? よく分からない」
 そこで沙原は手に持っていた数学のノートをぱらぱらとめくった。
「前の世界じゃ、勉強もほとんど出来なかったから」
 チキン野郎の上に、失言癖まである。
 俺はどうしようもない奴だな、と思った。
「戦争のせいか」
「そ。ずっと魔法と剣の練習ばっかりだったから、何の役に立つのかよく分からない勉強をするのが、なんだか新鮮で楽しいんだ」
「……すまん。茶化して悪かった」
「新山くんでも、反省はするんだ?」
「俺をなんだと思ってる」
「屋上では、ちょっと変わった男の子だと思ってたけど、今はかなり変わった人だって思ってる」
 まともに話もしてこなかった奴をよくもまあそこまで言える……とは思いつつ、俺がよくないことを言った引け目もあって、言い返すことは出来なかった。
 そんな俺の引け目を、アホの沙原はアホのくせに見逃さなかった。
「新山くんにも良心はあるんだね」
「失礼だぞ」
「お詫びに協力してよ」
「だからそれは考えさせて欲しいと……」
「戦いへの協力じゃなくてさ」
 そう言って、沙原は、カバンから現社のノートを取り出してきた。


 夕日に照らされた教室で、美少女と二人きりでお勉強。
 最近のラノベでも滅多に採用されない、ベッタベタの展開に、戸惑いつつも、俺は拒否出来ない。
 情けないことに、少々どきどきしながら付き合うことにした沙原とのお勉強だが、そんな甘酸っぱい感慨は開始五分で終了する。
 現社なんてものは何もしなくても八割取れる教科だと思っていたが、それは日頃からニュースや新聞に目を通す一般常識のある高校生に限られたもんらしい。
 この世界にたどり着いて数ヶ月しか経っていないという沙原の現社の知識はすっかすかでとんちんかんなところも多く、それを修正するのに、俺は多大な労力を費やすことになった。
 俺の容赦ない指導に、沙原も涙目になる。
 アホ、勇者、人間チャッカマン、マスタング大佐。
 そんな風にイジったり、しょうもない冗談を言い合う時間は、まあ大変だったが、楽しくもあった。
 へこんだと思えば、腹を抱えて笑う。沙原の浮かべるそんな表情は、今までクラスで見たことのなかったもの。
 異世界の勇者であることをひた隠し、自分を殺し、過ごす学校での時間は、沙原にとってかなりしんどいものだったのかもしれない。
 ひょんなことから、俺はあいつの正体を知った。その正体を、沙原は俺に明かした。
 自分を隠す必要がない相手とのやり取りは、あいつにとって、とても貴重なものかもしれない。
 常識的には考えられない対魔力を持ったという俺に、異世界からの勇者はもしかしたら親近感を持ってくれていたのかもしれない。
 黒の道化師と対峙するために、敵に出し抜かれないように、自分を殺し、潜まなければならない。
 その孤立に、沙原は結構苦しい思いをしていたんだと思う。


 そして、それは多分、根津先輩も同じだ。
 彼女が自分の家でなく、どうして学校に魔法をかけてまで、現探の部屋を作ったんだろうか。
 黒の道化師という正体を隠して生活しなければならない中、少しだけ期待していだんじゃないだろうか。
 自分が正体を隠さなくても一緒にいる相手が訪れることを。


 二人の美少女と関わる……そんなシチュエーションにうかれてる暇はない。
 同じ苦しさと葛藤を抱えている二人が、争うなんてことをしてはいけない。
 二人の間に、昔の世界で拭いがたい確執があったとしても、そんな二人が争いあってはいけないと、俺は思った。


 絶対王政が敷かれた世界から来た沙原には、まず民主主義とはどんなもんか、というところから伝えなければならなかった。
 互いに結構な気力体力を使った俺達は、とりあえず休憩をとることにする。
 机につっぷす沙原をとりあえずうっちゃり、俺は廊下の片隅にある自販で缶コーヒーとお茶を買う。
 教室に戻ると、沙原はまだ自分の机で死んでいた。
 その前にペットボトルのお茶を置きつつ、自分はコーヒーのプルタブを引く。
 ドリップでコーヒー淹れるときはブラック派の俺だが、今日は健康が不安になるくらいの甘いものを買う。勉強で脳みそを使った後は、糖分を取るに限る。
「今日はもうやめとかないか」
 頭から湯気を出しそうな感じになってる沙原にそう言うと、異世界の勇者は顔をつっぷしたまま、顔を横に振る。
「もう少し。もう少しでデモクラシーが分かりそうなの」
「やめとけ。バカが一朝一夕にバカ卒業できるもんじゃない」
「……新山くん、友達いないでしょ」
「うるせえ」
 そのまましばらく寝ていた沙原は、一つため息をつくと、おもむろに起き上がった。
「沙原よう」
 教科書やらなんやらを仕舞いはじめた沙原に、俺は缶コーヒーを飲みながら、話しかける。
「どうしても、戦わなきゃならんのか」
 ノートと教科書を揃えてた沙原の手が止まる。あいつとは顔を合わさないまま、コーヒーを一口ずつ飲みながら、俺は話を続ける。
「お前とまともに話したのは今日が初めてだ。偉そうに者を言える立場じゃないことはよく分かってるけど……でも、お前が戦う姿は、どうにも、想像出来ない。こうして、うんうん言いながら勉強したり、笑ったりしてる方が、お前には似合ってる」
 そこで、俺の体が動きを止める。
 体が金縛りにでもあったように、動かないのだ。
 もしかして、魔法か。と思ったが、そもそも俺には魔法は効果が薄いらしいことを思い出す。
 沙原の顔を見る。
 奇妙に感情というものが抜けた、沙原の顔がそこにあった。どんな感情も見通すことの出来ない、端正な顔立ちの中で、瞳だけが、奇妙な光を湛えていた。
 これが殺気、というものだろうか。
 生唾を飲み込むことすら出来ない俺の顔は、間違いなく恐怖に固まっていただろう。
 それに沙原も気付いたらしく、あ、と小さく呟いて、その表情を引っ込める。
「確かに、私は敵を追い回す上での緊張感だとか、狡猾さは無いように見えたかもしれないよ」
 ため息をつき、こめかみに手を当て、沙原はとつとつと、話す。
「でも、私はあいつと戦わなきゃならないの。あいつが死なないことには、もとの世界の人が安心出来ないし、それに……」
 沙原の継ぐ言葉を待っていたが、結局、沙原はそれ以上、何も言わなかった。
「帰ろう」
 そう言って、沙原はノートや教科書を収めたカバンを手に立ち上がった。
「……ごめん、怖かったでしょ、私の顔」
 顔は俺に向けないまま、そうぽつりと彼女は呟く。
「美少女と見つめ合う貴重な経験をさせてもらったよ」
 とか、格好つけた言葉を返した俺だったが。
 沙原と玄関で分かれた途端、膝ががくがくし始めた。
 冗談抜きで、殺されるかと思った。
 いくらこの世界でアホに見えるといえ、本当は気の良い性格をしているといえ、沙原はあの世界で、過酷な戦争に行った奴なのだ。
 人を殺したことも、多分たくさんあるんだろう。
 そして、おそらくは根津先輩も。
 心臓がいかれたリズムで鳴り続け、制服の下にじっとりとした脂汗をかく。
 あんな二人の争いを止める? HAHAHA,馬鹿なことを言ってんじゃないよ。
 とか、頭の片隅で声がする。
 そのエセ外国人な俺を、俺は心の中で殴り飛ばす。
 ビビるな馬鹿。
 深呼吸を二十回くらい繰り返してから、俺はどうするべきか、考える。
 争いを望まないのは、俺だけじゃないはずだ。
 そう考えて、俺はスマホに指を滑らせた。





 駅前のペストテリアンデッキに現れた先輩は、予想外の格好だった。
 普段、学校で見る先輩は、とてもじゃないがオシャレに気を使ってるようには見えない。化粧気は皆無だし、髪型も雑なボブカットで、俺は私服も結構適当だろうと勝手に見当をつけていた。
 ただ、この日待ち合わせに現れた先輩の格好は、そんな俺の予想を(良い意味で)くつがえした。
 目を丸くする俺の前で、先輩はにやりと笑い、くるりと回ってみせる。
 グレーのスカートと、白いニットの上に羽織ったクリーム色の薄いジャケットがふんわりと舞う。多分、来る前に美容室に寄ってきたらしく、いつもは寝癖がぴんぴん立ってるボブも、人形のように整えられていた。
 清楚系の大人女子コーデでやってきた先輩に、Tシャツと着古したジーンズ、サンダルという姿の俺は、気恥ずかしさが嫌にも増す。
「黒の道化師だから黒づくめでくるとでも思ってただろう?」
「……ごめんなさい」
「その思い違いを、寛大な私は許そう。そして、私を舐めくさった君の格好も、まあ食事諸々のおごりで手を打とう」
「……何でも良いっす」


 何でも良いとは言った。
 ただ、高校生にたかるのにステーキをチョイスするのはあんまりだと俺は思った。
 げんなりする俺の前で、先輩は黒毛和牛のサーロイン二百グラムに、にこにこ顔でフォークを突き立てた。
「ほらほらユージン、さっさと食べないと冷めちゃうぞ?」
「……そっすね」
 俺は力なく頷き、おろしハンバーグの前に置かれたナイフとフォークを手に取った。
 焼きたてのハンバーグは石のプレートの上で美味しそうな匂いを立てていて、ナイフを差し込んだら油と肉汁が跳ねるのは間違いない。紙エプロンを付けるのを忘れてたので慌てて付ける俺は、ふと気付いて先輩に声をかけた。
「先輩もエプロンつけないと、服汚れますよ?」
「心配ご無用」
 エプロンも付けずに肉をフォークに刺し、それを一口で口に入れた先輩は、ひどく幸せそうな表情になる。
「魔法でしっかり防御してる」
「……さいですか」
「ちなみに防臭もばっちりだ」
「何でもありっすね」
 呆れつつそう呟いてから、俺ははっと気付き、辺りを見回した。
 先輩の世界の魔法がどんなもんかは未だによく分かっていないが、ラノベとかだと高確率で、魔法の使用は他の使用者にバレる。
 例えば、何とかの霊圧が消えた……? とか(違うか)。
 実際、沙原は魔法の痕跡を辿ってこの街に来たとか言ってたし、先輩達の魔法もそういう特徴を持っていてもおかしくはない。
 沙原が青い炎を纏って突撃してこないか。狼狽える俺の前で、先輩はサーロインを咀嚼し、ぶどうジュースでそれを流し込んだ。
「そこまで心配しなくても、魔法が使われても一般人はほとんど認識できないよ」
「ほとんど?」
「ごく僅かに認識出来る人間もいるが、私は黒の道化師だよ? 万が一に備えて隠蔽魔法はちゃんとかけてる」
 ふん、と鼻を鳴らしてから、先輩はサーロインの二切れ目に手を伸ばした。


「最近、ユージンは私に隠し事してないかね?」
「ンナコトナイデスヨ」
「……分かりやすい奴だな。今日だって、私たちの初デートだというのに気もそぞろだ。それは女の子に失礼だと思わないかね?」
「いや、今日は純粋に現探の備品の買い出しですって」
 昨日の帰りしな、俺はラインで先輩を部屋に置く本の買い出しにと誘った。
 実際、誘い文句の通りに、こうしておしゃべりしつつ書店の文庫本コーナーを探してもいる。
 もちろん、本来の目的は別のところにある。
「本当かな?」
 先輩はいつものおどけた感じの顔で俺を見つめてくる。ただ、もしかしたら俺の考えすぎかもしれないが、その瞳に、怜悧なものをつい、感じてしまう。
「本当ですって」
「ふーん」
 わざとらしく顎に手を当てて考えてる風を装う先輩は、そこではっと気付いたようにオーバーなジェスチャーをしてきた。
「もしかして、私を不埒な場所に連れ込む気だったり?」
「……違いますって」
 いちいち先輩のいじりに反応するのは良くないと分かりつつ、それでも俺は思わず顔を赤くする。
「じゃあ何だね」
「ただ暇な休みを有意義に過ごしたくなっただけですよ……お、あれ先輩の好きな本じゃないですか」
「おお、実は図書館で昔読んだだけなんだよな」
「プレゼントしますよ」
「……良いの?」
「いつもお世話になってるお礼です。他にもなんかありますか?」
「ええと……あれにこれにそれとか行っちゃうぞ? 本当に良いの?」
 返事の代わりに、ぐ、と親指を立てる。内心で悲鳴を上げたのは内緒だ。
 異世界からの放浪者である根津先輩は、とある夫婦の養子としてこの世界では暮らしてる。
 血の繋がっていない自分に優しくしてくれるいい人達だよ、と先輩は言っていたが、こと金銭面に関してはかなり厳しい……というか、現探の備品を揃えるためにお小遣いを前借りしまくった結果、今の先輩の小遣いは、月額五百円になってしまっているらしい。
 本好きなのに買う金がないのは拷問に等しいな、とよくボヤいていた先輩に、このプレゼント攻勢の効果はばつぐんだった。
 文庫コーナーに目を輝かせる先輩を見てホッとする一方、高校生の日払いのバイトってなんかあったっけ、と俺は内心でため息をついた。


 昼のステーキに、本、そしてその後のコーヒーショップで、出費はかなりのものになった。
 ただその甲斐あって、目の前を歩く先輩の足取りはとても軽い。
 女の子の機嫌取りたきゃ、まず金を使え。
 むかーし昔に、そんな身も蓋もない真理を教えてくれた兄貴に感謝をする。
 そんな俺の前で、先輩はくるりと振り返って俺を見てくる。
 その仕草も、笑顔の咲いた顔も、悔しいことに全て可愛い。
「今日は色々ありがとう、ユージン」
「日頃のお礼っすよ。気にしないで下さい」
「いやあ、いつも男前だと思ってたけど、今日は五割増しくらいに見えるぞ」
 女の子ってのは本当に現金だな、と思う。
「楽しかった」
 先輩は、言葉の通りに、心底楽しそうに笑う。
 ただ、心なしか、だけれど。
「本当に、今日は楽しかった」
 その笑顔に、ほんの少し寂しさが混じっている気がした。
 そう見えたのは一瞬で、すぐに先輩はいつものおどけたような様子を取り戻した。
「今日はこれで解散なのかな?」
「いや……その、ですね」
「うん?」
 首を傾げる先輩は、やっぱり可愛い。
 私は魔術のおかげで、新陳代謝をコントロールして若さを保ってる。実年齢は二百歳なのだー。
 冗談なのか本当なのか、んなことを前、言っていたが、今の仕草は本物の十八歳にしか見えない。
 そんな先輩と、もうちょいこんな感じのやりとりをしてたいところだけど、そろそろ本題に入らないといけない。
 ことは、人の生き死にに関わるのかもしれないのだ。
 気恥ずかしさを覚える自分を深呼吸で追い出し、俺は先輩にこう言った。
「ちょっと、俺の家に来てくれませんか?」


 コーヒー、というのは趣味として立派に成立する。
 凝った人になれば自分で豆をローストしたり、自家栽培した木から豆を取る人もいるらしいけど、俺は焙煎済の豆を買ってきて、それをブレンドするのがせいぜいだ。
 日頃の研究の結果生まれたユージン・ブレンド。
 最新の注意を払って淹れたそのコーヒーを、椅子に腰かけた先輩の前に出す。
 そこで、アホの俺はようやく、先輩に無用の誤解を与えていたことに気付く。
 いつもの悠々とした感じは、地平線の彼方に消えていた。
 肩を張り、突っ張った両手を膝の上に乗せた先輩は、まるで貰われてきた猫みたいに緊張していた。俺がコーヒーを置くと、びくりと体を震わせて赤みの差した顔を上げ、「ありがとう……」と、消え入りそうな声でお礼を言ってくる。
 お年頃の男が一人暮らしをしてる部屋に誘う。
 ……まあ、誤解をまねきかねないシチュエーションではある。
 本題に入る前にまずそれを解くところから、と思った俺は、まず自分が落ち着くためにコーヒーを飲む。
 らしくない先輩の様子に、そんな意図は全くないのだけど、俺もつられて緊張してたからだ。
 先輩の真向かいの席に腰かけてコーヒーを飲むけれど、俺はつい、口をつぐんでしまう。
 いかんいかん、落ち着け友人。
 そう自分に言い聞かせ、コーヒーをもう一口。我ながらなかなかのブレンドの味に落ち着きを取り戻したところで、
「覚悟はしてる」
 と先輩が言った。
 ぶへえ、とコーヒーを吐いた。
「いや、あの、覚悟って」
「冗談だ」
「ほひ?」
 真っ赤、と思ってた先輩の顔は、すぐに平静そのものに戻った。
 顔が赤くなるのは、今度は俺の番で、そんな俺を見て先輩は爆笑した。
「ん-? 私が何を覚悟しとると思ったんだね?」
「……何でもないっす」
「何でもないということはないだろう」
「いや、もうホントに……勘弁して下さい」
 結局、俺はこの人の手のひらで踊らされる。
 ……それでも、今日ばかりはそうもいかない。
 乱されたペースをもう一口のコーヒーで立て直す。
 香りと味に自分を取り戻し、ついでに小さく息を吐いてから俺は話し出す。
 沙原理彩という異世界の勇者のことを。


 この間、偶然にあいつと出会ったこと。
 沙原が、黒の道化師を討つために、この世界にやってきたと言っていたこと。
 俺がその協力を求められたこと。
 その話を聞く先輩の顔に、動揺とか、そういうものは全く見えない。
 平静そのもののその顔には、むしろ微笑すら浮かんでいた。
 先輩のその、悠然、とすら言える様に、違和感が湧く。
 自分の命を奪おうという相手が来たというのに、先輩の落ち着きようは信じられなかった。
 何だかんだ言って平和な現代日本に住む平和ボケした俺の認識が特異なんだろうか。死が日常としてあった、異世界の人間にとっては、自分が死ぬかも知れない、というのは大した問題じゃないと言うんだろうか。
「知ってたよ」
 そう言って、先輩はコーヒーを飲んだ。
「沙原のことですか」
「うん。ついこの間のことだ。多分、ユージンが彼女を目撃した時だろうな」
 魔法の使用は、当然、魔法の使い手は探知することが出来る。ただ、その辺を分かっていた沙原は、魔法の気配を遮断する魔法をかけた上で、屋上で青い炎を使ったらしい。
 体力知力と同じく、魔法も使わなければその力はどんどん衰える。
 火災のリスクとか、諸々考えて屋上で練習してたんだろうけど、色々と浅はかだ。
 沙原の行動を、先輩はそう、しめくくった。
 あの世界で沙原は、焔の勇者の二つ名を持っていた。
 炎の精霊〝カルシファー〟と契約し、その強力な炎と剣技で最前線に切り込むその様は、味方の士気を鼓舞し、敵を大いに恐れさせた。
 勇敢さにおいて並ぶ者がない焔の勇者だが、こと、魔力において黒の道化師とは比べものにならない。遮断の魔法をかけていたといえど、魔力の気配を察知するのは先輩には容易なことだったのだ。
 自分を殺そうと企む刺客の出現を、先輩は気付いていたのだ。
「彼女と私じゃ、格が違うなんてことは、王国の連中もよく分かってただろうに」
 コーヒーを飲み干した先輩は、ため息をつきつつ、そう言った。
「それでもやってきたのは、多分、政治的な理由だろうな。王族にとって、戦場で活躍し、民衆の人気も高い焔の勇者は、戦争が終わった今となっては厄介な存在。なら、黒の道化師に始末してもらおう、もし万一、私の暗殺に成功したとしても、戻ってきたときに毒でも盛れば無問題……と考えたんだろう。エリーサは素直な子だから、そんなこととは夢にも思わず、強い使命感を持ってやって来たんだろう。全く」
 呑気にすら感じられる仕草で、先輩は空のコーヒーカップを俺の前に上げてきた。
「腕を上げたなユージン。おかわりもらえるかい?」
「いや、んなことより」
「焔の勇者をどうするか、かい」
 腹立たしいくらいに、いつもと変わらない調子で先輩は話した。
「私と君で、殺っちゃうか」
「笑えないっすよ、その冗談」
「まあそうだろうな」
「そろそろ怒りますよ先輩」
 握った両手にこめられた力が、無意識のうちに強くなる。
 そんな俺を、先輩は静かな目で見つめてくる。
「ユージンは、どうするつもりだったんだ」
「話し合うんです」
 俺の言葉を聞いた先輩の顔に、皮肉の色の濃い、笑みが浮かぶ。
「さんざん仲間をあいつに殺された私が、あいつの仲間をさんざん殺しておきながら、あいつと話し合う?」
「それでもです。先輩も、沙原も、仕方なくこの世界にやってきて、正体かくしながら生活して、結構辛い思いをしてます。同じ境遇の二人なら、わかり合えるはずです……それに、先輩がもう争う気がないってことを話せば、あいつは分かってくれます」
「よくもまあ、知り合ってばかりの女のことを信じられるね」
 先輩の口調に、心なしか苛立ちが混じった。
「それに、私が本当に争う気がないと、よく断言出来るね」
 呆れた先輩の口調に、少し苛立つ一方で、呆れるのも無理はない、と思う自分がいた。
 話でしか二人のことを知らないというのに、二人が話し合えば丸く収まる。
 もの凄く青いことを言ってると、自分でも分かってた。命のやり取りをしてきた先輩から見れば、その青さは余計に際立つんだろうとも、思っていた。それでも、俺は、こうすることしか出来ない。
「俺は先輩を信じてます」
 心の底から、俺はそう思っていた。
 コーヒー好きの話し好き。余裕綽々に見えて、孤独を抱えた先輩を、俺は信じてる。そして。
「沙原も、きっと分かってくれます」
 あの、実はアホでお人好しの沙原も、俺は信じている。放課後の教室であいつのガチな殺気を向けられたとしても、あいつが良い奴だということを、俺は疑わない。
 話し終えた俺を、先輩はじっと見据えてきた。
 彼女からじっと視線を逸らさない、俺をしばらくの間見ていた先輩は、瞳を閉じ、深いため息をついた。
「意外と、アツい男なんだな君は……むしろ、暑苦しいと言って良い」
 分かったよ、と先輩は言う。
「とにかく、彼女と会おう。彼女は多分、私が高校にいることに気付いてない。いきなり驚かせるのは不味いから、まずはユージンが話しかけてくれ」
「……ありがとうございます」
 深々と頭を下げた俺を見て、先輩は苦笑いを浮かべた。
「黒の道化師でも、君には敵わないよ」
 そう言った先輩は、おもむろに立ち上がった。
「もう遅くなっちゃったな、夕食にしようか」
「冷凍のチャーハン、まだ残ってたかな」
「……女の子にそんなジャンキーなもの食べさせようとするもんじゃないよ」
 ため息をついて、キッチンに向かう先輩は、こきん、と首をならした。
「私が作るよ」
「コーヒー茶漬けですか」
「なんだそりゃ」
「浦安鉄筋家族って言う漫画だけの話かと思ったら、ガチでそういうメニューがあるみたいで……」
「コーヒー好きだからってその発想は安易だし、大分失礼だぞ」
 すんません、とわざとらしく頭を下げながら、俺は酷くホッとしていた。
 全てが丸く収まる。あの現探での日々がこれからも続く。もしかしたら、そこに沙原も加わってくれるかもしれない。
 んなアホなことを考えた俺を、俺は心底殺したいと思う。


 普段、冷食と果物と牛乳で過ごしてる俺の冷蔵庫を見た先輩は、今日一番のためいきをついて、近所のスーパーへ買い出しに出かけた。
 ぱんぱんに膨らんだビニール袋を下げた先輩が帰ってきてから一時間ほどで、味噌汁に雑穀米のご飯、肉じゃが、という、女子力かなり高めの夕食が俺の食卓に並ぶことになった。
「先輩ってマジで異世界人なんすか」
「私は有能で、なおかつ探究心豊富なのだ」
 普段、ジャンクなものばかり食ってる俺の体に、先輩のオーガニックな料理は酷く染みた。
 もりもり食ってる俺を、先輩は半ば呆れ、半ば微笑ましく見ていたようだった。
 ご飯を三杯おかわりした俺に、先輩は緑茶まで淹れてくれる。
 洗い物はやっとくよ、とまで言ってくれる先輩に、俺はあっさり甘えることにする。
 まあ普段の俺ならそこまでやってもらうのは不味いとさすがに思うのだが、この時はそうもいかなかった。
 尋常じゃない眠気に襲われていた。
 沙原と先輩のことで気を張っていた反動が来たのか、満腹になった俺は眠くてしようが無かった。
 リビングのソファに腰かけ、せめて座位は保とうとするが、堪えきれずにソファの上で手をつく。
 これが、正常な眠気でないことに気付き始めた時、先輩が俺の隣に座った。
 彼女に声をかけようとするが、それを制するように、先輩は俺の体にそっと手を回す。彼女の細腕に導かれるまま、俺は彼女の膝に頭をのっけてしまう。
「嬉しかったよ、ユージン」
 曖昧になる意識の中で、俺は確かに彼女の声を聞く。
「君が私の部屋に来てくれたことも。私の正体を知った上で、一緒にいたいと言ってくれたことも。私を信じてると言ってくれたことも、全部嬉しかった……君になら、全てを委ねて良かった。覚悟してる、と言ったのは、まんざら冗談でもないんだよ? 最後くらい……そうつい、思ってしまった」
 右の頬に、先輩の太ももの感触を感じ、左の頬に、何か熱いものを感じる。
 先輩が泣いてる、と、ぼんやりとした頭で俺は思う。
「どういう訳かはしらないけど、高い対魔力を持って生まれてくれた君に感謝する。それがなければ、君と会うことは出来なかった。君と会えて、本当に良かった」
 意識は途切れがちになり、先輩の言葉を捉え続けることも難しくなる。
「もっと一緒にいたかった」
 それが、俺の認識できた、先輩の最後の言葉だった。





 目覚めた時、俺は両手両足をそれぞれ結束バンドで拘束されていた。
 みじろぎすると痛みが走るくらいにバンドは思い切り閉められ、口にはご丁寧にタオルまで巻いてある。
 そんな特殊なプレイの後、みたいな格好の割に、風邪をひかせないためか体にはタオルケットがかけられ、ほどよい温度に設定されたクーラーは静かな作動音を立てている。
 リビングに寝かされた俺は、ぼんやりとした頭のまま、カーテンの隙間から差し込む朝日と、呑気なスズメの鳴き声を聞く。
 ゆっくりと、記憶を辿る。
 昨日は土曜日で、先輩とお出かけした。
 さんざん先輩に奢り、最後に先輩を家に連れ込んだところまで覚えてる。
 その後、一線越えてSMプレイごっこでもかましたんだろうか、と冗談半分で考えたあと、
 俺は全てを思い出す。
 先輩の作ってくれた肉じゃがの旨さも、その後襲ってきた猛烈な眠気も。
 もっと一緒にいたかった、なんていう先輩の言葉も。
 両手と両足に力をこめる。
 なんとかバンドを引き千切ろうとするが、そいつは皮膚と肉に食い込むばかりで、いくら力をこめても千切れる気配がなかった。
 次に、あらんかぎりの大声を出す。
 しかし口腔をしっかりと覆うタオルは、俺の叫びを吸い込み、せいぜいが、部屋に妙な呻き声を広げるだけだった。
 もっとも、大声を出したとしても、近所づきあいの少ない現代のマンションで、助けに来たりする奇特な人はいなかったかもしれないが。
 散々動き回ってから、息が続かなくなって動きを止める。息を整えるが、タオルのおかげでそれも満足に出来ない。
 口の端からよだれをたらしながら、俺は自分がどうしてこの拘束から逃れようとしたのか考える。
 自由を奪われ、密室に押し込まれたことへの恐怖感というのももちろんあった。
 ただ、それよりも強い恐怖が、俺を突き動かしていた。
 断片的に残った記憶。そこから導かれることは、先輩は、沙原に討たれようとしている、ということだ。
 何でなのか、理解できない。
 話し合いの余地はまだあるはずだし、そうする、と一度は先輩も言った。
 あれは、逸る俺を押さえるための、リップサービスだったんだろうか。
 ……殺し合いを繰り広げた敵と、話し合う。
 それは難しいことだと思うけど、する価値はあることだと俺は思った。
 でもそれは、沙原と直に殺し合った先輩から見れば、まず不可能に思えることだったんだろうか。
 自分を殺そうとする沙原を収めるためには、これしかないと思ったんだろうか。
 それを果たすために、俺に、多分睡眠薬を盛って拘束し、自分は彼女に殺されにおでかけしたんだろうか。

 ふざけんじゃねえ、と俺は思う。
 てめえの命をそうあっさり諦めるな。
 俺のあんたへの気持ちをどうしてくれる。
 怒りに身を焦がし、俺は再び全身に力をこめる。
 俺の近くでそう簡単に死ねると思うなよ、と俺はどこかで死の覚悟を固めてるだろう先輩に言った。

 これが漫画かラノベなら、なんかの拍子にバンドがぶち切れて、俺は先輩のところへ一目散に向かう、なんてことになるんだろうが、物理法則は非情だ。
 皮膚が千切れて血が滲んだり、口が切れたりしたものの、先輩のかました拘束はちっとも緩む気配がなかった。
 ……どこでこんなスキルを仕入れたんだ根津都子。
 んなことを憎々しげに思う俺は、タオルに覆われてない鼻で大きく息をする。
 力任せにやってもダメなら、頭でなんとかするしかない。
 道徳と体育を除いて4未満の評価を出したことのない俺の頭脳をフル回転させる。
 ここを抜け出すために、何が出来る。
 答えはすぐに見つかった。
 もう七月に入ろうとする今でも、出しっぱなしにしてたこたつだ。地球温暖化の影響か、今年は肌寒い日が今もぼちぼちあって、寒がりの俺は未だに使う日がある。
 んで、今俺を包むタオルケット。
 ……OK,かなりの賭けになるが、迷ってる暇はない。
 まずなんとか寝返りを打ち、後ろでに縛られた手をコタツのスイッチの方に向ける。そこから芋虫よろしく這い回り、手をコタツのスイッチに到達させてスイッチオンすると、鈍い作動音と共にコタツが作動し始める。
 次に手を伸ばすのは、払いのけたタオルケットだ。
 それを後ろ手に縛られた両手と、結束バンドの食い込む両足を使い、俺はなんとか小さく丸めることに成功する。
 丸めたタオルケットを苦労してコタツの中にぶち込む。
 コタツの発熱面とクッションが上手く合わさったことを確認した俺は、体をよじらせて急いで玄関に逃げる。
 普段から、温度の設定を最強にしてあるコタツなら、ポリエステルと綿のタオルケットを燃え上がらせるのにそこまで時間はかかるまい。
 燃え上がらせ、その熱で結束バンドを焼き切ることも考えたが、それだと俺自身炎に巻かれるリスクがあるので、俺はまだ生存可能性の高い方を選ぶことにする。
 なんとか玄関先にたどり着いたところで、火災報知器がけたたましく鳴った。
 見ると、コタツ布団の中から煙が出ている。防火設備がしっかりしてるウチのマンションだから、多分、俺が黒焦げになる前に消防士さんが来てくれる。んで、大分恥ずかしいことにはなるけれど、拘束された俺を見つけてくれるという算段だ。
 玄関で待ってれば、いの一番に消防隊に見つかる。
 んな甘いことを考えてた俺に、物理法則はかなり非情だった。
 最初は煙がちょっと出てるだけだったコタツだが、気付いた瞬間には、火柱がリビングに立っていた。
 こたつもテーブルも、すぐに煙と炎に巻かれて見えなくなる。
 煙は玄関まですぐに充満してきて、ついでに尋常じゃない熱も感じる。
 大丈夫、俺の対魔力は高い。
 んなことを脂汗かきながら思うが、まあ純粋な物理法則としての炎には通用しないだろう。
 ついでに、煙に混じる一酸化炭素か何かの影響か、息も徐々に苦しくなってきた。
 大丈夫、一酸化炭素は燃焼中は天井布巾にたまるらしいから、地面付近には吸える空気が残ってる。
 とか考えて冷静になろうとするが、苦しさと恐怖は徐々に高まってくる。
 自分の決断を後悔する自分に気がつく。
 そいつにアッパーカットを、頭の中でかます。
 女を想って死ぬなら本望じゃないか。
 一酸化炭素中毒をくらうか、炎に巻かれるかして死ぬのが先か、救急隊が到着するのが先か、最高のチキンレースだ。
 炎のチャレンジャー、これが出来たら百万円……なんて番組がクソ親父やお袋が若かった頃にあったらしい。
 燃える建材の作った毒ガスが頭に回ってきたのか、思考がそんな感じに滅裂となった頃。
 救急隊が、玄関のドアをぶち破った。


 走る。とにかく走る。
 まともに運動してこなかった足は、多分明日筋肉痛だろうし、酸素不足の脳みそと肺は悲鳴を上げまくる。
 それでも俺は学校に向かって走った。


 九分九厘で勘だが、先輩が沙原と対峙するのに選ぶのは、学校だと確信してた。
 煙の充満した部屋に突入してきた消防士さんにも確認したが、今日は日曜日。
 学校には宿直の先生か警備員くらいしかいないだろうし、そのくらいなら人払いも魔法で容易いだろう。
 そして、学校には、あらかじめ先輩の手によって諸々の魔法がかけてある。
 魔法の痕跡を消したり、現探の部屋の処分を済ませた上で、沙原に討たれる……意外と真面目なところのある先輩は、そう考えるだろうと、俺は妙に確信していた。
 俺が呑気に寝ていたのは、昨日の夕方から今日の朝まで。先輩の決意を聞いてから、もう十二時間ほど経っている。
 諸々の処理にそれなりの時間はかかるだろうから、まだ沙原と対峙はしてないはず。
 そう思うが、もし既に全てが終わってたら、という不安も俺の頭を灼く。
 とにかく俺は、走り続けた。


 校門に立った瞬間、学校を覆う、猛烈な違和感に気付く。
 対魔力があるらしいが、俺は魔法の気配なんぞ今まで気付くことなく、先輩が現探の部屋に張った結界とやらも無意識の内に突破してた。
 そんな俺でも、今日の学校にただならぬ空気が漂っているのには容易く気付いた。
 今までとは比べものにならないほどに濃度を増した魔力のものか、それとも、殺気によるものか。
 判別はつかなかったものの、一見、平穏そのものの学校に、ただならないものが漂っていた。
 ちょっと震える自分の足に一発パンチをかましてから、俺は校門に突撃した。


 まず向かったのは現探の部屋。
 ドアを勢いよく開けた俺の目に入ってきたのは、殺風景な物置だった。
 オシャレな壁紙に、暖色系のカーテン、アンティークの調度品……つい一昨日に俺を迎えてくれたはずのそうしたものはどこにもなく、黒板に味気ない壁、サッシ窓という、クソみたいな学校の一室がそこには広がっていた。
 力任せにドアを閉じてから、俺はどこに二人がいるのか考える。
 考えたのはほぼ十秒ほど。
 すぐに俺は結論にたどり着く。
 カルシファーとかいう炎の精霊を飼っているらしい沙原理彩こと、エリーサなんちゃら。
 消防法をクリアしつつ、炎を思う存分扱え、なおかつ一目に比較的突かない場所は、学校で一カ所しかない。

 俺が建屋のドアをぶち破った時には、既に遅かった。
 建屋の前に、立ちはだかった、沙原の小さな背中。
 その向こうに見える根津先輩。
 沙原の手は、天に向かって大きく振り上げられ、その手には、長大な炎……まるで剣のような形に成型された、青い炎があった。
 対峙する先輩は、何も魔法を発動させてないように見える。
 しかし沙原が腕を振り下ろし、炎の剣を彼女にぶつけた、と見えた途端、根津先輩の前で、猛烈な光が沸き起こる。
 根津先輩が展開したらしい不可視の盾だったが、それはさほど時間を経ずに消える。
 沙原の炎に耐えきれなくなったのか、それとも、先輩がわざと消したのか。
 先輩の全身を、青い炎が覆った。
「沙原! バカ、やめろ!」
 そう俺が叫ぶと、沙原は驚いた表情で振り向いてくる。
 同時に、その手から炎が消えるが、根津先輩を包む炎は消えない。青い炎は先輩を巻き、そのまま彼女を焼き続ける。
 その炎に、最初見た時のような、穏やかな感じは全くない。
 容赦なく先輩を苛む炎は、彼女の着た服を焼き、その下の彼女の体に、その焔を伸ばした。
 叫びながら、俺は走った。
 呆気に取られて俺を見る沙原の横を駆け抜ける時に、俺は彼女がいつもの学校の制服姿なことに気付く。そして、根津先輩にたどり着いた時に、もうほとんど炭になりかけた彼女の服が、昨日俺に見せた、あの服であることに気付く。
 簡単に死ねると思うんじゃねえぞ。
 んな叫びが自分の口をついた気がした。
 対魔力が強い、って言うんなら。
 カルシファーなんてもんもぶっ飛ばしてやる。
 目を閉じ、炎に身を委ねる先輩を、俺は抱きしめた。
 熱い、というより、痛い。
 先輩の体を包む炎を掴み、抱きしめた途端、俺の体をそんな感覚が突き抜ける。
 ただ俺はそんなの関係ねえと、ぎゅ、と彼女の体を抱きしめた。
 服は一瞬で燃え尽きる。
 初めて抱く、根津先輩の体は、柔らかいとかちっちゃいとかじゃなく、ただただ熱くて痛かった。
 頑張れ、俺の対魔力。
 おらおらおらおらおらおらおらオラオラア!!!
 とか叫びながら、俺は包む炎ごと、先輩の体を抱く。
 古今東西、こんなこと叫びながら女の子を抱いた男は俺が初だろう。
 ……こんな時でもんなことを考える俺に、少々辟易しつつ、俺は根津先輩を抱きしめた。
 青い炎の向こうで、先輩が俺に気付く。
 火に巻かれる先輩の顔が、苦しげに歪んだことに気付く。
 俺は思いきり、彼女に笑ってやる。
 妙なことした先輩が悪いんすよ。
 焼かれ、筋肉がひきつれた俺の口は、そんなクールな台詞を十分に発せない。
 意識も、本格的に遠くなる。
 先輩を包む青い炎が勢いを弱める様を目にしたところで、俺の視界は途切れる。
 暗い視界の中、俺があらかじめ呼んでおいた救急車のサイレンが聞こえた。





 目覚めると、そこにはパイプ椅子に腰かけて俺の覚醒を待つ沙原と根津先輩がいた。
 俺が目を開けたことに気付いた二人は、俺を抱きしめ、ついでにキスまでしてくる。
 おいおい、病院だぜお二人さん。

 なんてことには当然ならず、ICUで俺が覚醒した時に最初に気付いてくれたのは宿直の看護師さんだった。
 人工呼吸器に繋がれたまま、ちっす、とその中年のナースさんに挨拶すると、その人は持ってたバインダーを取り落とし、医者を呼びに走り出した。
 先輩どうなりました? 沙原は?
 んなことを聞こうとするが、口に付けられた呼吸器のおかげでそれは言葉にならなかったし、次の瞬間にはまた意識を失った。


 ICUからはそれから三日くらいで出ることが出来たけど、一般病室に移ってからも面会はしばらくの間謝絶だった。
 面会が許可されてから、まず最初に会ったのは、やっぱり根津先輩でも沙原でもない。
 クソ親父に最後に会ったのは確か半年以上前の正月、お年玉もらいに実家に一時間だけ滞在したときだ。
 まだ点滴がぶっささったまんまだというのに、クソ親父は俺を殴った。
 良い度胸だこの野郎。
 強烈なパンチに、むしろ眠気を覚まされた俺は、点滴ぶち抜き、親父の胸ぐらを掴もうとする。
 しかし、良かったのは勢いよくベッドから出た時までで、俺はそのまま病院の床とキスをかますことになった。
 ずっと寝たきりで、筋力がもの凄く弱まってたらしい。でも親父に仕返しは手足がダメでも出来る。
 床を這いずり、スーツに包まれた親父の脚に思い切りかぶりつく。噛筋力はまだ残ってたらしく、布ごしに、自分の歯が親父の皮膚と肉に食い込むのを俺は感じる。
 親父のことだ、そのまま脚ごとおれを蹴り飛ばしてくるだろう。だが絶対に離さん……とか考えてた俺だが、予想してた親父の攻撃はちっともやってこない。
 親父は、俺の頭に手を乗せた。
 引き剥がしてくるかと思ったら、んなことはなく、ただ俺に手を乗せたままだった。
 戸惑いがちに、親父の顔を見る。
 その時、親父の顔に浮かんでたものを表現する言葉を、俺は知らない。
 ことあるごとに、俺の行動をしばり、俺を自分の所有物のように扱ってきた親父。
 自分の意に沿わないことがある度に、手を上げ、声を荒げた、俺の大人嫌いの大元となった親父。
 そいつは、俺に手を伸ばし、抱きしめてくる。
 振りほどこうという気には、なれなかった。
 嫌にデカく感じるそいつの手のひらを感じる。
 そいつを引き剥がさないのを、俺は手足に力が入らないせいにすることにした。


 親父の次は、遠くの大学に通ってる兄貴の悠太だった。
 部屋から出てった親父と入れ替わるように入ってきたブラザーは、まあ俺をひどくしかった。
 家でボヤ騒ぎ起こして、何のつもりだ、バカ、アホ、クズ。
 そんな感じで罵ってきた兄貴は、親父が俺の救命のために自分の尻の皮を俺に移植したという特大の爆弾を言い捨てて、病室を出て行った。
 意識が戻ってから一番の衝撃を受ける俺だったが、落ち込んでる暇はなかった。
 兄貴と入れ替わりになるように、根津先輩がやってきたのだ。
「君が家でボヤ騒ぎを起こして大やけどを負った……申し訳なかったが、それが一番話が丸く収まるので、その形で人々の記憶を操作させてもらった」
「先輩、怪我は?」
「彼女に魔法で施術してもらった」
 おかげでふらふらだよ、と言う先輩に、少しばかり安心する。
 俺が倒れたあと、二人が第二ラウンドを始める、なんてことはなかったらしい。
「その沙原は?」
 そう聞くと、絆創膏を顔の所々に貼った先輩は、苦笑いを浮かべた。
「顔を合わせづらいって」
「そすか」
 いつもの調子は、そこにはない。
 固く、強ばった表情には、俺と会うことへの気まずさ以外の感情があるような気がした。
 俺への非難だ。
「エリーサ・ファル・サバーナ。それが彼女の本当の名前だ」
「早口言葉に使えそうっすね」
「茶化すな。どうして、彼女に私を討たせなかった」
「そんなに死にたかったんすか先輩」
「私は彼女の父親を殺したんだ」
 表情を固くしたまま、先輩はそう言う。
「私の魔法の師匠でもあった。まだ幼いエリーサがいると知りながら、私はその人を殺した。敵の勢力の有力な魔術師だから。彼を殺害することはこちらの勢力に利すると分かっていたから。その罪を償うこともないまま、私はあの世界を逃げ出した。エリーサの魔力を感知した時、私は嬉しかった。これで、自分の罪の意識から抜け出せると」
「沙原に自分を殺させるから。それで罪を償えるから」
「その通りだ」
 それを、君は無碍にした。自分の命を危険にさらすことまでして。
 顔を上気させたまま、そう言った先輩の顔を、俺は見返す。
 その顔に手を延ばす力すらない、自分の腕を、ちょっと憎々しく思いながら。
「バカな君を巻き込まないよう、私が考えたこと全てを君は蹴破った。そのおかげで私は今も罪の意識に苛まれ、君は死にかけている。本当に君はバカだ」
 そう言う先輩の頬を、一つ、また一つと涙が伝う。それに手を伸ばそうとするが、やっぱりそれは出来なかった。
「先輩は本当に死にたかったんですか」
「当たり前だ」
「俺と一緒にいたい、って言ったのも嘘だったんすか」
「……聞こえたのか」
「ばっちりと」
「私も冷静じゃなかった」
「だから思いもしないことを言っちゃった?」
「その通りだ」
「……分かりました。ただ、先輩は死んじゃいけないです」
「どうして?」
「先輩はどうか知りませんが」
 そこで一つ、息を吸う。
「俺は先輩のこと好きなんで」
 陰キャで、しょうもないくらいの奥手だと自分では思ってたから、想いをこうもストレートに表現したのは自分でも意外だった。
 まあ、一度死にかけてるんだから、大胆になるのも自然かもしれない。
「心底惚れてます。だから死んで欲しくない。俺と子供作ってそれを育てて一緒に老後過ごすまでは死んじゃいけません」
 そんな俺の口上を理解するまで、それなりに時間がかかったようだった。
 固い表情が一気に崩壊し、顔を真っ赤にし、口をあんぐりと開け、何かを言おうとしたんだけど、結局台詞にならない、って感じで、先輩は口を押さえて病室を出て行った。
 その様すら、可愛かった。
 絶対に、添い遂げてやる。
 そんな決意を固めた俺は、ふと、個室の窓の外に気配を感じた。
 見ると、沙原が外で、多分魔法の力だろうが、宙に浮いていた。
 自分が燃やし、ついでに自分の敵討ちを邪魔した俺と顔を合わせるのは気まずい。でも、仇である黒の道化師とどういう話をするかは気になる……そんなところだろうか。
 俺と先輩の話を全部聞いちゃってたんだろうか。沙原はその細面を真っ赤にしていた。
 俺と目が合うと、窓越しに何か言おうとする。
 どうして邪魔をした、よくも騙してくれたな。
 んなことを言いたかったんだろうが、酷いメロドラマを見た直後の沙原は、動揺と恥ずかしさに顔を赤くすることしか出来なかったようだ。
 ……色々あるけど、後でね。
 そう言ったらしい沙原は、顔を真っ赤にしたまま、窓の外、屋上の方へフェードアウトする。
 屋上が好きな奴だな、と、ため息混じりに呟いてから、俺はベッドに横になる。
 そのまま天井を眺めてた俺だが、体から力が抜けていることに気がつく。
 これで良い。
 沙原と根津先輩の葛藤が解消された訳でもないし、もしかしたら、俺と二人の関係性は、後戻りが出来ないようなものになったかもしれない。
 それでも、二人は生きている。二人が殺し合うことはなかった。
 それで良いんだ。
 そう思うと、体の芯から力が抜け、俺の意識は眠りの淵へ落ちようとする。
 その快い感覚に身を委ねようとしたが、不意に、俺は意識を覚醒させる。
 あることに気がついたのだ。
 こういうことがあればいの一番にやってくるはずのお袋が、まだ現れてないのだ。


 先輩が黒の道化師であることを知ってからというもの、それは脳裏に疑問となってこびりついていた。
 なんで俺は対魔力が高いのか。
 親父は地方公務員、お袋は専業主婦のどこにでもよくいる両親から俺は生まれた。
 なのになにゆえ、先輩の結界を突破し、沙原の、かるしふぁ、とやらになんとか耐えるくらいの対魔力があるのか。
 その理由は、もしかしたら。
 んなことを考えてると、親父が俺の病室に戻ってくる。
 考え事を邪魔してくれやがった親父にガン付けるが、あいつはそれには構わず、ベッドの脇の丸椅子に腰かけてきた。
「さっきの子は誰だ?」
「んなことてめーに話す訳ないだろ」
「……自分の親父にその口の利き方はなんだ」
「うるせーハゲ」
「さっきの感動のハグを忘れたか」
「てめーが勝手に抱いただけだろうが、タバコ臭いんだよ」
「……友人。お前の俺に対する認識を変えようとは思わん。だけどこれだけは真面目に教えろ」
 眼鏡の下の親父の目を見ると、あいつに似つかわしくなく、懇願するような色が浮かんでいた。
「あの子は、あの子達はどんな人なんだ」
「カタギに見えないって?」
「ふざけるな、って言ったよな」
「……なんでもない。普通の先輩と、クラスメイトだよ」
 そう答えた俺を、親父はじっと見つめてくる。
 狼狽えると同時に、俺の神経が警告を発する。滅茶苦茶嫌な予感がする、と。
「本当か」
「…………本当」
 穴でも空くくらいに俺を見てきた親父は、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「これから、母さんに話をしてもらう。それは容易には信じがたいことで、ショックを受けるかもしれんが、それでも間違いなく、事実だ。実際、悠太にはもう話してる。しょうもない反抗期だったお前に言うのは早いと思ったが、ただ、俺の本能がすげー嫌な予感がする、って言ってるから、お母さんと二人で相談して、言うことにした」
 ちょいタンマ、と俺が言う前に。
「母さーん!」
 と、新山雄生六十歳は、病院じゃ出しちゃダメな類の大声でお袋を呼んだ。
 普段はアホなことばかり言う母ちゃんが、神妙な顔をして部屋に入ってくると、俺の警戒レベルはさらに上がる。
 お袋と入れ替わりで親父は部屋を出て行く。無言で視線を交わし合う二人の仕草に、やっぱりものすごーく嫌な予感を覚える俺の前に、お袋は腰かけた。
 お袋と親父はかなりの歳の差婚で、その出会いはちょっとした〝事件〟で、と前、お袋は話していた。
 そんな記憶が蘇る俺は、同時に、何かとガキの頃から俺や兄貴を束縛した親父のことを考える。
 そうしたのは、親父なりの親心だったんじゃなかろうか。
 何かとトラブルが起こる可能性の高い兄弟を心配するあまり、過剰なほどに声を大きくしてしまったんじゃならろうか。
 なぜなら、トラブルの巻き起こりうる体質を兄弟が持っている可能性が高いから。
 いやいやいやいやいや、あんまりにも妄想逞しくしすぎだ。んな訳なかろう、んな訳なかろう。
「友人」
 そんな俺の一縷の希望を、お袋はあっさりとぶっ壊してきた。

「お母さんが、異世界から来たって言ったら、信じる?」

 新山花子三十六歳の告白に、俺は何も言えない。
 何も言えずに、そのまま五分くらいが経過する。
「母ちゃん」
 ようやく紡げた言葉は、自分でも情けないくらい、か細くなっていた。
「もしかして対魔力高かったりしない?」
  

赤城

2020年08月08日 12時27分41秒 公開
■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:どうやら俺は対魔力が高いらしい。
◆作者コメント:
 非常に難産した作品です。
 ラノベらしい作品を自分なりに志向したつもりです。よろしくお願いします。

2020年08月29日 12時33分21秒
作者レス
2020年08月22日 22時18分18秒
+10点
Re: 2020年10月26日 20時13分43秒
2020年08月22日 20時17分51秒
+20点
Re: 2020年10月26日 20時09分26秒
2020年08月21日 19時09分32秒
+30点
Re: 2020年10月26日 20時03分55秒
2020年08月20日 20時55分02秒
+10点
Re: 2020年10月26日 19時58分03秒
2020年08月17日 07時21分38秒
+20点
Re: 2020年10月26日 19時51分16秒
2020年08月14日 21時26分37秒
+20点
Re: 2020年10月26日 19時44分07秒
2020年08月12日 23時25分38秒
0点
Re: 2020年10月26日 19時34分40秒
2020年08月11日 00時28分44秒
+20点
Re: 2020年10月26日 19時27分53秒
合計 8人 130点

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