異世界転生したのにチートもスキルもない!

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 ない。
 オレの受験番号がない。
 偏差値ぎりぎり60の第一志望の大学の合格発表。一つ下の弟は同級生を超え先輩になっていたのだが、さらに2年分先輩になった。
 完全に詰んだ。
 マジでめまいとか吐き気とかやべー。これがストレスってやつか。ははは。
 去年は応援されて落ちて、お前程度は大学に行くべきだと言われた。今年はセンター試験でA判定が出てから祭り状態。絶対合格できるんだろ、と超解釈して併願の入学金を振り込まない。4月から勉強して、やっともらったA判定。あのセンター試験は、オレを陥れるためにあったんじゃないか?
 ってか、キャーキャーうるせぇな。何だ!?
 ……あ、トラックか。

 血液が舞い、骨が見える。体がここまでズタボロになっても、意外と意識があるものなんだな。
 これが、転生トラックね。そうなりそうなシチュエーションだ……。


  * * * * * * * * * *


 The end of the world.


  * * * * * * * * * *


 1、2つ目の世界


 ……ん?
 見たことのない白い天井。病院? ってことは、現実か。
 なかなか悪くない病室にありそうな、鉄のパイプがフレームになっているベッド。Uの字で仕切られるカーテンや、少し汚れた感じのベージュの床。いかにも病室。
 結構ヤバい状況に思えたけど、ギプスも酸素マスクもない。思ったより大したことなかったのか。

「お兄ちゃん!?」

 銀髪とまではいかない髪の色の女の子。どうみても未成年。たくさんの大人のお兄さんを目覚めさせることが出来そうだ。
「気が付いたんだ!?」
 オレ?
 弟はいた。先輩だったが、女の子ではなかったはずだ。女の子は、少し目が赤い。
「お母さん! お父さん! お兄ちゃんが気が付いたみたい!」
 女の子が言うと、黒い髪の男性と、その女の子の面影のある髪が銀色の女性が、病室の入り口から入ってきて小走りにオレのそばに来る。
「ハイト! 気が付いたのか!? 体は大丈夫か!?」
 男性が言う。気迫のある感じだ。そんなに重傷だったのか。ハイトって……流れからして、オレのことか?
「すみませんが、状況がよくわかりません」
「えっ!」「そんなっ!?」「なんだと!?」
 オレの言葉で明らかに動揺する3人。
「お兄ちゃん、私がわからないの?」
 そう言って女の子は、お願いでもするようにオレに視線を強く送る。
「本当に……わからないです」
 妹なんていない。妹とか関係なく、こんなにかわいければ絶対に忘れるわけがない。
「なんてことだ……。記憶を失ったのか?」
「あの……トラックにひかれそうになったことは覚えているんですが」
「トラック? 何を言っているんだ? ハイトは8年前に突然病気で倒れて、医療の進歩で……やっと意識が戻ったんだ」
 すごいSF設定だな。
「だから、リテスの顔はわからないかもしれないが、父さんと母さんはどうだ?」
「申し訳ないですが、わかりません」
 オレの知っている父と母は、もっと田舎っぽく、引きこもり気味のオレをゴミだと思っていたはずだ。この人たちとは明らかに違う。
「そうか。でも、お前が私たちの息子のハイトであることは変わらない。少しずつ治していけばいい。今日はハイトの意識が戻ったことを祝おう」
 父親に同調する母親と女の子。
 女の子の名前はリテス。聞かない名前だな。日本ではなさそうだ。これは転生来たか?
「記憶がないと違和感を感じるかもしれないが、私たちのことは親だと思ってくれ。強制はしないが」
「わかりました」
 優しい表情で話してくれる。いい家庭なんだな。
「私もリテスって呼んで。お兄ちゃんはお兄ちゃん!」
「わかりまし……わかったよ、リテス」
「えへへー」
 嬉しそうにするリテス。かわいいやつだな。
「ともかく、医者に知らせて、これからのことを考えよう。ハイトも病み上がりでいきなりは動けないだろう」
「ありがとうございます」
「家族なんだから、ありがとう、でかまわないわ」
「ありがとう。えっと……父さん、母さん」
 オレがそう言うと、二人は顔を見合わせて嬉しそうにする。
「体は動くのか? 無理はしないでいい」
 父さんに言われて、手を見る。転生前よりはきれいな気がする。自分の思い通りに、グーもパーもできる。足も動きそうだ。ちょっと貧血には感じるな。
「動くみたい」
「わかった。医者に伝えてくる」
 父さんは笑顔で病室を出て行った。母さんはハンカチを取り出して涙をぬぐっている。
「お兄ちゃん」
「なに?」
「呼んだだけー」
 なんだこれ。
 日本だったら、ゴミのように扱われていたのに、ここだと存在するだけでみんな笑顔になってくれる。
 これじゃあ、転生モノが流行るのもしかたない。


  * * * * * * * * * *


 周りの景色は、昭和に連載が始まったマンガの中、と言った感じ。
 トタン、だったか。あのよくわからない縦線のでこぼこのある壁の家。他には、瓦の屋根でペンキを塗られた家。ブロック塀で仕切られている。
 道路にも横断歩道や道路標識があり、歩行者を分ける白い線やガードレールまである。
 空は青いし雲もある。オゾン層とかはちゃんとあるのかな。
「そっか。お兄ちゃん、記憶がないんだよね。なにかめずらしいものでもある?」
 きょろきょろ周りを見ていたせいか、リテスが聞いてきた。
「えっと、あれ。信号機……でいいのかな? ずいぶんでかいね」
 信号機は灰色の帽子のつばのようなものが付いていて、青の色が緑にしか見えない。
「信号機だよ。言われてみると、立派な電球使ってるように見えるね……」
 電球? ……そうか。LEDと違って電球だからでかいのか。
 住宅街から広い道路に出て、道路を走る車を見かけると、ちょっと古びた感じがする。見かける町の人も、令和のカジュアルさじゃない。田舎っぽいというと失礼かもだけど、そんな気がする。
「えっと、リテス? ここって、ヤマトって国なんだよね?」
「そうだよ?」
 不思議そうに答えるリテス。国の名前が違うなら、日本の過去に来たわけじゃなさそうだ。こういうのって、中世みたいなところにいくものじゃないのかなぁ……。
 それに……。
「お兄ちゃん、気になることでもある? きょろきょろして、どうかしたの?」
「いや……大丈夫」
 ウィンドウが無い! ステータスも無い! こういうのって、チートとかスキルとかで無双するもんじゃないの!?
 転生って、まぁ、当たりばかりじゃないってことか……。
「本当? 気にしないで、わからないことは私に何でも聞いて?」
 僕の手を取ってリテスが言う。
「ありがとう」
 ……これは、転生特典と言えなくもないか。
 この目がぱっちり、薄めの髪の色のロングヘアのかわいい子に、お兄ちゃんお兄ちゃん連呼されるのは、なんとも言い難い気分だ。
 それに日本語も通じる。実は違う言語をしゃべっているのかもしれない。これが転生特典なのかもしれないな。
 要は考え方だ。仮に昭和の時代に来たのなら、高度経済成長の後のバブルとか、ITが必要になるとか、そういう知識を大学受験で必死で勉強したじゃないか。こういうことを活かせばいい。
 日本だったら、家族で一緒になって退院して我が家に帰る、なんて想像もできなかった。
 こっちの父親と母親は、ずいぶん身なりも礼儀もいい。オレのほうが気を使ってしまう。
 歩けると言っているのに、車いすやらタクシーやらをやたら推してくる。だから、今は無理をしないという条件付きで、徒歩で帰宅中。病院から20分はかからないらしい。
「ここが私たちの家だよ!」
 広い通りからまた、住宅街に入ってしばらくある場所に家があった。
 見た感じは悪くはない。2階建てでかわらの屋根に、ペンキを塗った白い壁。外から見える窓の数から、部屋は5つくらいはあるんじゃないかと思う。結構広そう。
 近くに電信柱が立っていて、そこから出ているケーブルで電気をつないでいるんだろう。日本ではよく見る風景。
 ちょっと古い感じがするのは、平成の後半だと見た目もデザインを気にする家が増えてきたからかな。そういうのと比べると、ちょっと単調すぎる気がする。
「お兄ちゃんは、私の次に家に入ってね」
 そう言ってリテスが家に入る。防犯意識の高い家はカギが二つあると聞いていたが、本当だったんだ。
「お帰りなさい。退院おめでとう、お兄ちゃん!」
 オレが家に入ると、リテスは玄関より少し段差のある家の床から、そう言ってオレを出迎えてくれた。
「……ただいま」
 ただいまって……今までに何回言ったか。日本では、こんな幸せな状況じゃなかった。
 リテスの兄は……オレなんかでいいのか?
「お兄ちゃん? どこか調子悪いの?」
「いや……ごめんな、オレ、何も思い出せなくて」
「いいよ、そんなの! 気にしないで。お兄ちゃんはお兄ちゃんだよ! 記憶が少しなくったって、家族なんだから!」
「ハイト。何も遠慮することは無い。お前は私たちの自慢の息子であることは、変わっていないからな。ここはお前の家なんだ」
 父親が僕の後ろから言う。記憶が無くても家族、は家族か。
 そうだよな。この人たちから見れば、まぎれもなくオレは黒野灰人なんだ。日本人だったかどうかは関係ない。
「暗いこと言ってごめん。みんな、ありがとう」
 オレがそう言うと、みんな嬉しそうにしてくれた。


  * * * * * * * * * *


 2、2つ目の世界での生活


 オレがこっちの世界に来てから一か月。
 毎日、こっちのヤマトの国で目が覚めるから、やっぱりこれが現実なんだと、思えるようになってきた。
 今の住み家では、本名、ハイト・フィール・クロノを縮めて黒野灰人と名乗っている。これは地方の風習に合わせるものらしい。
 こっちの世界にも学校があって、オレはこの4月から、黒野灰人として高校に入学するらしい。
 二浪を失敗したタイミングだったから、5年分得したわけか。転生ほどじゃないけど、全然悪くない。
 オレの見た目も、前と比べると信じられないイケメンだった。流石に男のアイドルほどじゃないが、クラスで1、2を争うくらいにはモテそうな見た目だ。根暗だからそうはならないだろうが。
「お兄ちゃん、中学校はあっちだから、行ってくるね」
「了解。いってらっしゃい」
「いってきまーす!」
 手を振りながら違う道へ向かう制服姿のリテスは、もうかわいすぎてシスコンになりそう。退院してからずっと、ずっとオレを慕う。毎日変わらない。
 父親も母親も、注意されることもあるけど、とにかく優しい。
 これらが一番の転生特典だろう。幸せだと思う。本当に。
 今歩いている通学路も、退院した時と印象は変わらない。ちょっと古い住宅街。ほどほどに車が走る道路。トタンだったりペンキだったりの壁に、瓦の屋根もちらほら。大通りの車も古っぽい。
 日本の都市部には見えない。こういう地域もあるだろうけど、ここら辺が首都圏らしい。そう聞くと、やっぱりちょっと古さを感じる。
 本当に転生したんだな。
 何度も疑って色々調べた。世界地図を確認しても、島の形は全然違った。ヤマトの国以外の言語は全然知らないものだった。ヤマトの四季は、日本ほど差が広くない。
 本当に日本と全然違う。こんなことってあるんだな。
 今、目に入ってきた高校の校舎も、立派ではあるが、昭和のスクールドラマの新品みたいな感じだ。古い校舎だって、昔は新しかったんだな。
 制服はちょっとだけラフな感じで、男子はブレザー。女子はよくあるかわいらしいスカートの制服。こっちの世界も悪くないな。
 せっかくもらえた、2度目の高校生活。楽しんでやろうじゃないか。


  * * * * * * * * * *


 あかん。ボッチになりそう。
 どうやら、オレのしゃべりはおかしいらしい。そりゃそうだ。ネイティブのヤマト語を話していない。日本語っぽい何かをしゃべってるんだから。
 こっちの国だって方言があってもおかしくない。なんだかアクセントが微妙に違う気がする。リテスと両親は、話してて違和感を感じなかったから、オレに合わせてくれていたんだろう。
 そして、常識が無い。テレビ番組も芸能人も知らねーよ。ニュースで見たレジスタンスってのだけは珍しさゆえに覚えている。ファンタジーであるような異種族とかじゃなくて、ただの反政府組織だと報道されてたが。
 空気を読む、とかは意味が通じないらしい。リアルな状況だけど、こういうのってきついな……。
 昼休みで飯を適切に食えって? 40人くらいのクラスで、数人が何か所かに集まって弁当を食べる。食堂に行くグループもある。高校だから、同じ中学とかで知り合いがいるんだろう。部屋も蛍光灯も黒板も机も椅子も、何もかも新品で、弁当を広げるのは気持ちが良さそうだ。
 それをみんなやってるから、オレは逆に浮く。……食堂に行くか。母親が準備してくれた弁当を無駄にできないが、教室はキツイ。食堂ならクラスメイトだけじゃないから、ちょっとは落ち着けるかもしれない。
 席を立って廊下に出ると、その景色は懐かしさを感じる。日本の高校も、緑っぽい床と、白い壁と、日の光の射す窓だった。
 日本だと創立30年とかは普通だったが、ここは建物が新しいのがなんとも不思議だ。懐かしいのに新しい。

「きゃっ!?」

 ぶつかった。考えながら歩くのは良くない。
「ご……ごめん」
 T字路のところにちょうど階段があって、実質十字路みたいになっている……というのは言い訳か。
 相手の女の子はしりもちをついて……見えてはいけないあられもないものが……。え?
「これって……日本のマンガ?」
「えっ? に……日本?」
 向こうも驚いたようにしている。
 ぶつかったせいで散らばった紙には、どう見ても日本のスポーツマンガのキャラクターが描かれている。……ちょっと腐っている気もする。腐女子的な意味で。
「こんにちは……?」
「こんにちは……」
 試しに挨拶をすると返ってくる。そのアクセントは日本のもの。目の前の女の子はもしかして……。
「これって日本のマンガですよね? テニスのやつ」
「知っているんですか!? じゃあ、あなたも日本から?」
 オレはうなずいて返事をした。
 ……とにかく、この状況はあまりよくない。公序良俗は大事だ。ばらまかれたものを拾っていることにしよう。オレは見えてはいけないものは見ていない。
 向こうも意図を察したらしく、身だしなみを整え、ばらまかれたマンガの原稿のようなものを集め出した。
「ありがとうございます」
 集めたものを渡すとお礼を言われた。いろいろと見えて、こっちもありがとうと思った。
 改めて見ると、小柄でかわいらしい子だ。
「日本のことを知っているんですか?」
「……はい。気づいたらこっちにいました」
 僕がそう言うと、女の子の顔が明るくなる。

「やっぱりこれって転生ですよね!?」
「そう思います!」

 オレからしたら、現実感がまだ小さい。ただ、彼女からしたら、同じような人にやっと出会って嬉しい、とかそういうことだろう。
「えっと、私、大木富紀といいます」
「オレは黒野灰人です」
「黒野くん。よければ、放課後に現代美術同好会に来てくれませんか? お話をしたいです!」
 やっぱり、これは転生だな。こんなかわいい子と登校してすぐにフラグが立つとか特典以外に考えられない。
「こちらこそよろしくお願いします、大木さん」


  * * * * * * * * * *


 放課後に訪れた場所は部室棟。現代美術同好会の部屋に入ると、うまく言葉が思い浮かばなかった。
 スポーツ、異能バトル、日常系。ありとあらゆる日本のマンガの絵が壁に貼られている。作業机らしき場所にも、例のテニスのマンガがある。ここは……日本じゃないんだよな?
「あ、黒野くん。お待ちしていました。どうぞこちらへ」
 大木さんから普通の教室の半分くらいの広さの部屋に招かれる。足の踏み場はぎりぎりあるくらい。
「黒野くんは、この部屋の作品を知っていますか?」
「だいたい知っています」
 有名なものばかりで、半分は誰でも知っているような作品。残りもオレみたいなオタクには常識というものばかり。
 でも、こういうのっていいのか。
「こういうのって堂々と飾っていいんでしたっけ?」
「黒野くん。それこそが私たちの転生特典なのですよ」
 転生特典……? ……あ。
「これらの作品の著作権は大木さんにある、ってことですか!?」
「そういうことです。だって、ここは日本でも地球でもないから」
 ということは、これが売れればそれだけでお金が稼げる……?
 すごいな。これは確かに特典だ。……でも、オレには特典としての効果が無いな。絵心無いし。
「……黒野くんって、絵は苦手なんですか?」
「はい……」
 オレは絵が苦手な上に、大木さんの絵はうますぎる。
「大木さんはマンガ家だった、とかですか? 絵がすごい上手ですね」
「私は絵を描くことが趣味のただの会社員でしたよ」
 プロではなかったんだ。それに会社員ということは、おそらく年上か。
「日本の私は、アラサー独身のさえない女でした。いまでこそ、こんな見た目ですが」
 転生した後の良い見た目を自虐的に言うのはわかる気がする。
「オレは日本では浪人生でした。結構なブサメンでした」
「失礼かもだけど、私もそうでした。日本で29年生きてて彼氏とかいたことないんです。こっちでもいないんです。告白とかはされたけど、どうすればいいのかわからなくて……」
 ウェーブのかかった髪と透きとおるような肌。ひかえめなしゃべり方。
 大木さんは間違いなくかわいい。色恋沙汰に慎重になるのは正しいだろう。男なんて、オレも含めてろくなものではない。
「よし! とにかく、私たちは同じ日本育ちだから、敬語はやめるってことにしよ? これからもたくさん話すと思うし」
「わかりまし……わかったよ」
「そうそう」
 ニコニコと話す大木さん。笑顔がまぶしいというのはこういうことか。
「黒野くんは浪人だったなら、日本でもこっちでも年下だね?」
「そう……なるね」
「たよりない先輩かもだけど、わからないことがあったら私に聞いて。力になるから」
「ありがとう、助かる」
 このアウェーの学校に居場所ができたようだ。心底ありがたい。
「転生のことは周りには内緒にしてるの。面倒なことはいやだから。黒野くんもそう?」
「オレもそうしてる。面倒だから、っていうのも同じ」
「じゃあ、2人だけの秘密だね。明日もまた放課後にお話ししよ? いい?」
「わかった。明日もまた来るよ」
 大木さんはマジで天使。こんなんじゃ惚れてしまう。


  * * * * * * * * * *


 3、現代美術


 昨日までは本当に心苦しかったが、今日はむしろ楽しい。
 人もまばらになっている放課後の廊下。部室棟の現代美術同好会の部屋に向かう。
 便所飯なんてしなくていい。教室で堂々とボッチで食べればいい。放課後に大木さんと日本の話ができると思うと、どんなことも苦ではなくなった。
 それが顔にでも出てたのか、本当に少しだけど、クラスにもなじめた。学校ってこんなに楽しいものだったのか。
「こんにちは」
「こんにちは、黒野くん」
 天使。今日の大木さんもすごくまぶしい笑顔。

「こんにちは。あんたが黒野ね」

 誰だ、この至福の空間を邪魔するやつは!?
 眼鏡こそしていないが、委員長という言葉が似合いそうな見た目。
 そういえば、ここは同好会なんだから他に人がいてもおかしくない。
「初めまして。黒野灰人です」
 とりあえず、大木さんより強そうなので下手に出るしかない。
「私はユウカ・ブライト。ユウカのほうが名前。よろしく」
 ブライトさんは大木さんと違って、オレを100パーセント歓迎しているわけではなさそうだ。何かまずかったか?
「黒野って……こういうのが好きな人なの?」
 ブライトさんが手にするのは……いわゆる現代美術。
 この世界への転生時の特典である著作権を使い、大木さんが生み出した男同士の恋愛模様。キラキラしていてラブラブしている男たち。
 なるほどね。こっちの世界の人から見れば、この同好会に来ているオレは、こういうのが好きな人、ってことになるのか。ははは。
 大木さんのほうを少し見ると、手を軽く合わせて悪そうにしている。
 そりゃそうか。日本から転生しているからこういうのを書きました、なんて言ったらおかしい人だ。説明が面倒すぎる。おそらく精神科に送られる。
 ということで、答えは……。
「……少しくらい? 少なくとも大木さんと語り合うことはできます」
 嘘だろ!? という顔のブライトさん。
 その通りです。嘘です。
 ブライトさんのような委員長さんタイプの人に、そんな視線を向けられると、自分がとんでもないクズに思える。こういうやりとりが好きな人は日本ならいるだろう。オレは悲しいと思うほうだが。
 しかし、ここは嘘を通さないといけない。でないと、せっかくの居場所が……。
 オレが悩んでいると、ブライトさんがため息をつく。
「富紀と趣味が合う人なんてめったにいないし……。目をつぶるしかないのか……」
 同好会ってことは、合う人間が他にもいるとか? こっちにもBLってあるの? 怖い……。
「……富紀と趣味が合う人はあんたしかいない、に訂正しとく」
 考えを読まれている!? 何故だ!?
 このゲテモノを見るような視線。特別な業界ならご褒美です。
「ごめんね、黒野くん。ユウカは私を気遣って言っているだけで悪気はないの。優しいんだよ」
 大木さんが言うとバツが悪そうなブライトさん。大木さんには逆らえないのか。
「それでね。黒野くんにはお願いがあるの。現代美術同好会に入ってほしいの」
「は!? 何言ってるの富紀!? なんでこんなやつ…………そういうことか」
 ブライトさんは一旦驚いて、すぐに何かを察したようだ。
「黒野くんが入ってくれると、同好会から部になって部費をもらって活動できるの」
 なるほど。そういうことか。
「入学したてで学校に慣れていない黒野くんにも、悪い話じゃないと思うんだけど、どうかな?」
 大木さんの言う、入学したて、というのは建前だ。一年生はみんな入学したてだから。悪い話じゃない、というのは日本つながりのことだろう。
「オレはこの同好会……この部に入りたいと思います」
 入るしかない。教室だと浮いているがここなら居場所がある。しかも、一緒にいるのはかわいい女の子で、日本という断ち切れないつながりがある。
「やった!」
 嬉しそうにする大木さんと、微妙な顔のブライトさん。
「これからもよろしくね、黒野くん」
「はい」
「……えっと、どうせ3人しかいないし、普通の話し方でいいよ。ユウカもそう思うでしょ?」
 明らかに否定の視線をこっちに向けるブライトさん。いや、オレを否定しても仕方ないのでは……。
「じゃあ……どう呼べばいいんだろう?」
 否定を振り切ってしゃべってみても、呼び方で困った。話し方は普通でも、大木さんを何て呼べばいい? 大木先輩?
「私は富紀でいいよ、灰人」
 大木さんの言葉が胸に突き刺さる。
 我を忘れるってこういう時に使うんだな。天使や女神どころじゃない。本当に名前で呼ぶなんて許されるんだろうか……?
「よ、よろしく……富紀」
「よろしく」
 大木さん……富紀の笑顔がまぶしすぎる。もう何度まぶしかったことだろうか。
「えっと……よろしく……ユウカ」
「灰人。この部屋以外で名前で呼んだら社会的に消すから」
 あー、これガチで怖いやつだ。ユウカ様は部室以外ではブライト先輩と呼ぶようにしよう。
「ユウカ。そんなに照れなくても大丈夫だよ」
「照れてないし!」
 こればかりはオレもユウカに同意だ。富紀はいくらか天然が入っている。


  * * * * * * * * * *


「現代美術部、正式に部になりました!」

 富紀の嬉しそうな声に、あまり飾り気のないオレとユウカの拍手。
 現代美術同好会改め、現代美術部は正式に活動を行うことになった。1日で部ができるとは、ずいぶん風通しのいい学校なんだな。日本だったら書類まみれで時間がかかりそうだけど。
「……ん? 富紀? これで部になるってことは、新入生部活歓迎会に出る、って思ってる?」
「思ってる。アニメ……何て言えばいいのかな? マンガの動画? そういうの作ろうかなって」
 部活歓迎会? アニメ?
「つまり富紀は、新入生のアピールのためにアニメを作って見てもらう、って考えてる?」
「灰人の言う通りだよ」
 歓迎会という名前で、実際は部活をアピールする場なんだろう。
「アニメって子供のみるやつでしょ? やってることと、全然違くない?」
 こっちの世界はアニメは昭和くらいの感覚だったはず。ユウカの言うように思うんだろう。
 オレがいた時代の日本なら、明らかに子供が寝ている時間に放送しているアニメもある。そういう、年齢層が高めのターゲットのアニメを作るんだろう。
「ユウカには……どう言えばいいかな。推理小説をアニメにしたら、子供向けにはならないでしょう? そういう感じ」
 富紀の説明にユウカは首を傾げる。日本なら探偵もののアニメならいくつか思い浮かぶけど、こっちだと無いのか?
 まぁ、明らかに首を傾げたくなる理由はあるんだが。
「たぶん、ユウカはこの現代美術をアニメにして発表する、ということ自体を疑問に思ってる」
 素直にうなずくユウカ。BがLしているアニメを流すのか? 15歳の群衆の前で? 公序良俗をここまで否定するのも珍しい。
「こ、こういうのじゃなくて、発表するのは普通のスポーツのシーンとかで、3分くらいの短いのに、声を当てたりして……」
 富紀はかなり真面目に考えているようだ。なるほど、いざやるなら声を当てるとかもあるんだ。
「それなら、結構おもしろそうかも。けど、声を当てるってことは、灰人以外にも男を集めるの?」
「え? 私は灰人とユウカに頼むつもりだけど?」
 それは日本の感覚だ。普通は男の声は男が当てる。
 このテニスのアニメ版は、中学校の設定であるけども、優男系は女性の声優さんが声を当てる。日本では、ということだが。
「ユウカが言うのは、キャラクターが男二人だから、声も男二人なんじゃないか、ってことだと思う」
「あ、そうか。ユウカは声も通るし、低い声を出せば大丈夫。少年の設定だから。むしろ、かっこいいと思う」
 純粋な視線を向けて、ユウカの抵抗を封じ込める富紀。オーラだけで嫌とは言わせない。流石だ。
「念のため。本当に単純に確認だけど、こういう絵じゃないんだよね?」
 ユウカは恐る恐ると現代美術の絵を指す。
「も、もちろん! ちゃんと試合してるところ描くから! 変な誤解させてたらごめんね!?」
 不安が減ったけどゼロではなさそうなユウカ。オレもだけど。
「とにかく、富紀が本気なのはわかった。でも、歓迎会は5月1日だけど間に合うの?」
 今日は4月7日。残り3週間くらい。3分のアニメを1秒10コマで描いても1800コマ。すごい作業量だ。
「結構大変だとおもうけど、間に合わせる! せっかくの部の創立なんだもん!」
 やる気満々の富紀。諦めた風のユウカ。言い出したら止められない、という雰囲気だ。
「つまり、5月1日に向けてアニメを作る。まずは富紀が絵をかいて、その後に声を当てる……で合ってる?」
 オレが聞くと富紀はうなずく。
「その絵を描くって、どのくらいの設備が使えるの?」
 絵を描くための設備自体に興味があるわけではない。しかし、BがLしている絵はCGのようだったから、どのくらいのパソコンが在るのかを知りたい。
「この部室には最低限のコンピュータはあるね」
「富紀の部屋がすごすぎるだけで、この部室は割といいコンピュータがあると思うけど……」
 富紀にユウカがツッコミを入れる。庶民とお嬢様は違う、とでも言っているのか。
 部室の中を見回すと、分厚い液晶ディスプレイとでかい箱。こっちにもパソコンはあるようだ。
「パソコンはあるんだ」

「パソコン、って何?」

 ん? ユウカに聞かれていることがわからない。
「え、えっと……個人用のコンピュータのことでしょ? 方言じゃないかな?」
 富紀が取り繕うように……?
 そうか。こっちだとパソコン、っていう言葉が無いのか。
「そう。コンピュータのこと。ごめん、慣れてなくて」
 浪人をすることにより、家庭内悪口で耐性を付けたため、ちょっとやそっとでは顔色も声色も変わらない。自然に対応しただろう。
 と、思ったが、ユウカがこっちに向ける視線はジト目。
「何か、すごい疎外感を感じる。富紀のテンションの高さは灰人のせいなのか」
 2人が方言で通じ合っているから、って? 合ってるとも間違ってるとも言い難い。とりあえず、すみません。
「しかし、富紀もお年頃なんだねぇ」
 富紀がお年頃? それはそうだろう。こっちでは高校生のはずだ。
「ちょっと、ユウカ!? ちがうから!? そんなんじゃなくて……」
「灰人は平然としてるじゃん? なんともないの?」
 なんともない……というか。
「あえていうなら、お年頃って、方言か何かだったりする?」
 これくらいしか言いようが無いのに、富紀もユウカもあっけにとられたようだ。こっちもよくわからない。
「……がんばれ」
 ユウカが富紀の肩に手を置く。
「だから、そういうんじゃないの!」
 オレのほうこそ疎外感を感じる。
「じゃ、それはおいといて、富紀は元からコンピュータで描くから、特に必要なものもないよね? プロジェクターもマイクもあるし」
 ユウカに、むー、と怒ったようにしていた富紀が、怒るのをあきらめたようだ。
「……ユウカの言う通りだよ」
「もしかして、灰人と私は発声練習とかする?」
「そのほうがいいと思う。最初は、機材を良くするよりは、声を良くするほうが、失敗したときに被害が少ないから」
 いきなりの設備投資はできない、ってことか。
「ってことは、機材の買い出しでデート、なんてことはないか。残念だなぁ。……あ、私の発声練習は一人か富紀と一緒で」
「だから、そういうんじゃないって!」
 何故、富紀がそう言うんだ。拒否されてるのはオレじゃないのか?
「まぁ、富紀の絵は普通のアニメと比べ物にならないから、いい宣伝になるか」
 この点はユウカの言う通りだ。富紀の絵は日本のアニメと比べても負けず劣らずの出来栄えだ。こっちでの普通のアニメ、を知らないけど。入学手続きなんかが忙しくて、テレビでアニメを見る、なんてことはこっちではしなかった。
「……あれ? 灰人はアニメをあまり知らないとか?」
「そうなんだ。あんまり詳しくはない」
 日本のやつならそれなりにわかるけど。
「よし! 現代美術部、タカマで研修! 次の休みに集合! そして私はギリギリキャンセル!」
 ずいぶん楽しそうなキャンセルだ。キャンセル前提の集合とはなんなのか。
「もう、ユウカ!? そんなことしなくても……」
「ん~? いいの~? 新人君にヤマトのアニメの現状を教えないで、このまま作業できるかな~?」
 むー、と今度は困っている富紀。
「それは……わかったけど、ユウカも来てよ。ギリギリキャンセルって、何かあるの?」
「たぶん、両親が高い熱を出す」
 困ったときには親を使え、だったか。
「いじわる言わないでよ……」
「ごめん」
 富紀の可憐さに、数秒で立場を変えるユウカ。気持ちはわからなくもない。
「じゃあ、私と灰人とユウカで、次の土曜日にタカマへ。集合はヤマト駅でいい?」
「私はOK」
「オレも大丈夫だと思う。あとで家族に聞いてみる」
「灰人って、親が厳しいの?」
 おそらく、富紀が思っているように厳しい親ではないはず。
「引っ越してきたばかりで用事があるかわからない、という感じかな」
「引っ越してきたんだ。そして、少女と出会って……毎日を過ごしているとふとした時に意識してしまって……。いいねぇ。若さだねぇ」
 ユウカの言う若さとはなんなのか。
 また富紀が困ったようにしているから、いじわるを言っているんだろう。疎外感。
「……とにかく、土曜日にヤマト駅集合! ユウカはちゃんと来て!」
 なんだか富紀が勢いをつけて言う。
「了解!」
 ユウカの返事は勢いだけはよかった。


  * * * * * * * * * *


 4、タカマガハラ


「灰人? その女の子は誰なの?」
 集合場所であるヤマト駅前で戸惑ったように言う富紀。セリフだけなら浮気を目撃した時のようだ。だが、オレだって戸惑っている。
「灰人の妹のリテスです。富紀さんのことは兄から聞いています。よろしくお願いします」
 リテスは丁寧に挨拶をする。兄のお出かけについてくる妹って大丈夫なのか? とは思うが、設定上8年寝ていた病み上がりなので、言い返せなかった。
「よ、よろしくお願いします」
 リテスに合わせる富紀。愛想笑いといった感じ。
「富紀さんって……かわいいですね。服もオシャレで」
 制服姿でない富紀は、柄こそひかえめだがフリルやレースでふわふわな感じの格好は、低めの背丈も相まってかわいらしい。よく似合っている。
「デートのつもり……だったりしてますか?」
「そ、そういうわけじゃ……」
 富紀を見るリテスの顔は悪そう。こいつめ、ふざけてるな。
「リテス。そういうことは言うんじゃない。別に特別じゃないよ。どっちかというと、兄の外出についてくる妹のほうが変だ」
「だって、心配なんだもん」
 オレが注意するとしゅんとしてしまうリテス。これはこれで困る。
「お兄ちゃんが変な女に騙されているかもしれないと思うと、居てもたっても居られないよ!」
 困って損した。うちの妹は結構変でした。
「でも、富紀さんならいいかなって。急に用事を思い出しちゃいそう」
「リテスも? 部員が1人、急に親が風邪を引いたって来ないんだ」
「えっ!? ユウカ、今日来ないの!?」
 富紀が驚いた、ってことは、ユウカのやつ、オレにだけメールして、富紀にメールしなかったんだな。そそっかしい。
「え~っと、部活でも公認なんですか?」
「公認って何が?」
 オレが効くと目を細めるリテス。一気にかわいそうな生き物を見る雰囲気。
「ごめんなさい、富紀さん。兄はこんなでも頑張っているんです。優しくしてあげてください」
「そ、そんなことないよ。悪いのは急に来ないことになった人だから。えっと……リテスちゃん?」
「はい! そう呼んでください! 私もいつも通りにしまーす、お兄ちゃん!」
 そう言ってオレの腕にひっついてくるリテス。ここ、結構人通りが多いんだが。
「人前でそういうのはあまり良くないと思うんだけど……」
「え~、そんなー。そうだ、富紀さんも一緒にやりましょう!」
「えっ、私?」
 急にふられて驚く富紀。ムリムリと手を振って、体での言語。
「リテス。富紀が困ってるでしょ」
 オレが視線を少し厳しくすると、リテスがオレの腕を離した。
「ごめんなさい。お兄ちゃん、富紀さん」
 毎度こんなことでは困ってしまうが、謝ってるならまあいいか。
「絶対、富紀さんはお兄ちゃんの腕にくっつきたいと思ってるよ」
 耳元でリテスが小さく言った。謝罪は偽りか。


  * * * * * * * * * *


 日も沈みそうな時間。ヤマト駅の前でげんなりしているリテス。
 日本で言うアキバに当たるタカマガハラに行くと、富紀はガチのコンピュータマニアで、説明が止まらない。オレは金銭感覚が無いので、その説明を聞く犠牲者はリテスとなった。
 聞いてるうちにコンピュータの相場はなんとなくわかった。こっちの世界は平成中盤くらいの技術レベルらしい。
 結局、部費に当てる前の立て替えを富紀がして、部活歓迎会用でオレが使うためのコンピュータのパーツはほぼ買うことになった。ケースだけは重いので通販。ディスプレイは元からあるものを流用。
 一方で、アニメの説明は少なめだった。オレだけ男なので、そっち系のアニメのスペースに居づらかったためだ。でも、そういうアニメがどのくらいのクオリティなのかは大体わかった。昭和のアニメのようなちょっと古い感じだった。
「お疲れ様。いっぱい話してごめんね、リテスちゃん」
「いえ、これもお兄ちゃんと富紀さんのためです。富紀さんこそお疲れ様です」
 言葉の勢いからは疲れが見えるリテス。よく頑張った。
「じゃあ、今日はこのまま帰ることにしよう。日も暮れてきたし」
 夕日の影はかなり伸びてきている。富紀の言う通りでいいだろう。
「富紀さんは帰り道が違うんですか?」
「私の家はこっちの通りのほうが近いの」
 富紀が指し示すのは、我が家と90度違う方向。
「お兄ちゃん、富紀さんを送ってって」
「え?」
 ……そうか。このままだと富紀を一人で帰らせることになる。
「富紀、家まで送ろうか?」
「そんなのいいよ、大丈夫。それに送ってもらったらリテスちゃんが一人になっちゃうよ?」
 それもそうなんだよな。
「うちは結構近いから大丈夫です。ね、お兄ちゃん?」
「まぁ……そうかもな」
 駅までは徒歩10分に満たない。近いことは近い。
「……でも、荷物も重いでしょ?」
「それほどでもない」
 富紀が荷物の重さを気にしてくれるが、それほど重いものがあるわけではない。
「お兄ちゃん、荷物半分もってくよ!」
 ……気のせいか、リテスからすごい執念を感じる。半分といいながら全部持っていく勢い。
「リテスは無理しなくていいよ?」
 そう言っても荷物の7割くらいもってかれた。オレの言葉は伝わっているのだろうか。
「富紀さんと二人で話したいこともあるでしょ?」
 リテスが小さい声でオレにだけにささやいた。富紀と話すこと? 日本のこと? いや、リテスは日本のことを知らないから、部活のこと?
「じゃあ、私は先に帰るから、頑張って、お兄ちゃん」
 荷物を両手に持って楽しそうに走っていくリテス。行ってしまった。
「リテスは……どういうつもりなんだろう?」
「……何それ? 灰人はラノベの鈍感な主人公のつもりなの?」
「え……?」
 ラノベの鈍感な……? オレが……?
 つまり……富紀が……? いやいや、そんな馬鹿な。いやでも、実際に転生してるし……。
「ご、ごめん、今のなし。あの……別に……灰人のことはかっこいいとは思うけど……えっと……そうじゃなくて……」
 富紀が照れているかのように言う。どうしよう、顔がほてるのがわかる。会話が続かない。
「と、とにかく、歩こう。ずっとここにいても……帰れないし……リテスちゃんが気を使ってくれたのに……」
「そ、そうしよう」
 気まずさを突破するにはそれが一番な気がする。
 富紀の家に向かうのは初めてだから、見る景色も普段とは違う。あまり来ない商店街が目新しい。
 富紀はこんなオレにも気を使ってくれるいい子だ。しかも、かわいい。オレはどうすればいいんだ?
「ごめんね……私……年上なのに……。彼氏とか本当にいたことなくて……こういうときどうすればいいのかわからなくて……」
「別に富紀は何も悪くないと思う」
 それで? オレが言うのはこれでいいのか? どうすればいい?
 無言の時間が続く。周りの景色が商店街から住宅街に変わる。
「着いたよ」
 思いのほか早く富紀の家についた。オレの家よりも立派な家だ。
 本当にこれだけでいいのか? 今日一日、楽しく過ごしたんだ。何かできることはないのか?
 悩んでいると、富紀が突然ふらついた。
「大丈夫!?」
 思わず富紀の体を支える。
「ごめん、実は私、体が弱くて。もう大丈夫」
 体が弱いのに大丈夫なのか……って、慌てて手を引っ込める。支える時間が長すぎた!?
「こっちこそ、ごめん」
 無言の時間が過ぎる。後悔しないように、勇気を出すんだ。
「あの……今日は、本当に……楽しかった。ありがとう」
 うまく言えない。これ以上、うまく言葉にできない。
「こちらこそ、ありがとう。灰人は気を使って、そう言ってくれてるんだよね」
 気を使う、という類のものじゃない。臆病だったのが少し減っただけだ。

「これからは、もうちょっと素直な私になるようにがんばる。灰人もそんなに難しく考えない、ってことにしよ?」

 素直になる? 難しく……考えない?
「じゃあね。送ってくれてありがと」
 オレは……どう思えばいいんだろう?


  * * * * * * * * * *


 5、新入生部活歓迎会


 富紀はぐったりとしてため息をつく。
 今日は4月20日。4月7日から今日まで、日を追うごとに顔色が悪くなっていく富紀。理由はこの作画と編集か。タカマで買ったコンピュータは動作確認をしたくらいで使っていない。
「できたよ……」
 富紀が力なくコンピュータを操作すると動画が始まる。
 とても中学生に見えない男子達が、レギュラーの座を争って学校のテニスコートで戦う。
 そんな中、一人の一年生(たぶん、そういう設定)が他のレギュラー候補を次々と下す。めでたくその一年生はレギュラーを勝ち取る。
 しかし、部長(という設定と思われる)にラケットを向け、おまえともやりたいんだけど、というようなポーズ。
 少しの間の後、場面は変わり(何故か)高速道路の下にあるストリート感のあるテニスコート。圧倒的な存在の部長に対し、全力を尽くす一年生。そして、敗北のシーン。場面が暗転して、動画が終わる。
「……何これ? なんだか映画を見ているみたい」
 ユウカの言うことはわかる。こっちの世界ではもちろん、日本のアニメにも負けない完成度。効果音とかはすでに付いていたので、臨場感もすごかった。
 オレですらそう思うんだから、元からこっちの世界の住民のユウカにとってはなおさらだろう。
「ありがとう。長い2週間だったよ……」
 遠い目をする富紀。
「これって、5月1日まであと10日くらいあるから、もう少しゆっくりでもよかったんじゃない?」
 富紀の辛そうな様子から、思わず聞いた。
「早くした理由はそのうち言う……というより、そのうち言うことになると思ってる」
 言うことになる?
「じゃあ、台詞だけでいいから試しに声を当ててみて」
 富紀はマイクスタンドを2つ準備する。そして、台詞が書いてあるであろう台本を渡される。紙一枚で本と言う感じではないが。
「いきなり?」
「いきなりだよ。時間無いから」
 ユウカの質問も想定内と言う感じにさばかれる。
「動画を見て、タイミングを合わせてしゃべってみて」
 台詞だけでいい、といわれたのは、テニスのサーブの声とかはやらなくていい、ということだろう。後々にはやるのか。
 しかし、改めて見ても中学生とは思えない見た目とセリフだ。タイミングを合わせて、オレとユウカが声を出す。

 『まだまだ足りないね』『ちょっと相手してくんない』『お前が柱になれ』

 絶対中学生じゃないだろ、こいつら。
「……あのね、灰人、ユウカ。それでいいと思うの……?」
 あれ? 富紀ってこんな声だったっけ? 暗く鋭い声が部室内に響く。
「1回だけやるからよく聞いて」
 富紀はそう言うと、台本を持ってマイクスタンドの前に立つ。
 テニスのサーブやレシーブのうなり声のようなものもきれいにこなす。すごい。日本のアニメみたいで、さっきのセリフも魂が宿ったように聞こえる。

 『まだまだ足りないね』『ちょっと相手してくんない?』『お前が……柱になれ……!』

 一年生のキャラクターの生意気な雰囲気や、部長の堅物さも聞いただけでわかる。
 何より、富紀がすごくかっこよく見える。もうこれでいいんじゃないかな。
「すごいよ、富紀! かっこいい! 今のを使えばいいんじゃない?」
 オレと同じことをユウカは思ったらしい。
「それはダメ!」
 即却下された。
「私じゃ……声が高すぎる……」
 富紀の声は確かに高い。だけども、声の出し方や抑揚とか、技術的にオレやユウカじゃ追い付かない……あ。
「つまり、声が低いオレとユウカを特訓する期間が必要だから早く動画を作ったの?」
「そういうこと」
 声の技術が富紀に追いつけば、印象はだいぶ違うだろう。特に部長はどう見ても成年だし。
「えっと……じゃあ、どうすればいいの?」
 ユウカが富紀に尋ねる。なんだか弱そう。
「今日はそれぞれ自分に足りないと思うところを考えて練習しておいて。悪いけど、今日は流石に辛いから帰って寝るね」
「……お疲れ様」
「……ゆっくり休んでね」
 あまりの富紀の迫力に、声だけで労るしかできなかった。


  * * * * * * * * * *


『はぁっ!』『つぁっ!』『まだまだ足りないね』『ちょっと相手してくんない?』『お前が……柱になれ……!』

「できた……! これなら楽しんでもらえるよ!」
 動画が出来てから10日。部活歓迎会の前日の4月30日。ついに声が当てられたものが完成した。
 人生でボイストレーニングや役作りまでするとはおもわなかったが、その結果それなりに良いものになった。
「本当に、よかった……」
 ユウカがこうまで言うのは、富紀の指導の厳しさ故だろう。基本的に主人公の1年生の部分のセリフが多く、ユウカの負担はオレの数倍だった。
「部活歓迎会のリハーサルだよ! 急いで準備しよう!」
 オレとユウカはげんなりしているが、富紀には逆らえない。最後の力を振り絞るようコンピュータを台車で運ぶ。
 部活歓迎会が行われるのは体育館。バスケットボールのコート2つ分の広さで、新入生が何百人と来るのだろう。
 オレのような、すでに部活に取り込まれている新入生は欠席してもいいらしい。
 リハーサルは基本的に文化系の部活のために行う。体育系は体育館のステージの上でやることがほぼない。せいぜいスポーツの実演くらい。一方の文化系は、プロジェクタなどの小道具のチェックなどをする。
 体育館の設備を見回しているうちに、我らが現代美術部の番となった。
「私達、現代美術部はアニメやマンガなど、現代のアート好きが集まる部です。PR動画を作ったのでご覧ください」
 富紀が言ったのに合わせて、オレは動画の再生をする。
 あれ? コンピュータで見るより、ずいぶんと粗い。プロジェクターがだめなのか?
 体育館内は、少ないながらもいるリハーサルのスタッフのざわめきが起こる。この感じは、粗くてもなお質の高いアニメへの驚きからだろう。
「……このようなアニメ、マンガ好きの人の入部をお待ちしています。ありがとうございました」
 富紀の声は暗くなっていた。リハーサルは次の部へと続けるため、オレとユウカで機材を片付ける。


  * * * * * * * * * *


「……プロジェクターのこと、考えてなかった」
 部室に戻ると富紀が言う。動画の出来はとても良いので、プロジェクターが原因で画質を損なうのはもったいない。
「何か手は無い? プロジェクターをうちの部だけ変えてもらうとか」
 富紀を見ていると、黙っているのは申し訳なく思えた。
「この学校には、さっきのと同じプロジェクターしかないはず」
 あったらもう試している、というところか。富紀ならそのくらいはすぐに考えつきそうだ。
 沈黙が心に重くのしかかる。何か考えないと。今のままでも十分だ、と言うのは間違っている気がする。富紀は真剣なんだ。単なる妥協はだめだ。
「……あのさ、プロジェクタを4つ並べるのはどう? 左上、左下、右上、右下でそれぞれ映すの」
 ユウカの考えはなるほどと思った。単純に画質は4倍になる。だがそれは、数式上での話だ。
「ユウカ。確かにそれは効果があるけどつなぎ目を合わせるのが大変なの」
「そうなの?」
「プロジェクターはレンズで光を調整するから、ぴったり長方形には映せないの」
 富紀はこういうのも詳しいのか。画像処理で詳しい人なら知っている内容だ。オレも日本で少しだけ知っていた。
「でも、それでやるだけやるしかなさそう。現状だと、やらないよりは、って感じだろうし」
「灰人の言う通りかも。ちょっとやってみる」
 富紀はさっそく手を動かす。ずいぶん慣れた手つきだ。この部室はプロジェクターが4つあるのもすごい。富紀のこだわりらしく、動画の比較などに必要らしい。
 数分すると富紀が再生の準備に取り掛かっているようだった。
「もう再生できるの?」
「そうだね」
「めちゃくちゃ早くない?」
 元の動画自体が3分足らずあるから、加工自体に時間がかかりそうな……?
「4重に再生して、それぞれ、左上、左下、右上、右下にしてるだけだから」
「なるほど」
 そうか、その手があったか。富紀は賢いな。ユウカはよくわかってはいなさそうだが。
 しかし、映った動画は富紀の言う通りつなぎ目がいまいち。重なりすぎるとその部分が明るく映って目立つし、離れすぎるとその部分が暗くなって目立つ。しかも、それはかすかにどらやきのように膨らんだ線。どうすれば良くなるのかがわからない。
「やっぱり、こうだよね……」
 残念そうな富紀。
「でもさっきより全然きれいだよ」
 ユウカが取り繕うように言う。確かに全体の印象はさっきとは全然違う。
 それでも納得いかないというように黙る富紀。
「やれるだけやるしかない……ね」
 富紀はそう言ってプロジェクターの映る範囲の調整を始めた。


  * * * * * * * * * *


「明日はこれで妥協するしかないか……」
 富紀がプロジェクターを調整して、つなぎ目の違和感を減らすことはできた。実際は、もっと遠くへ移すため、本番でこの質にできる保証はないらしい。
 この調整の練習をし続けて、最終下校時間の10分前。
「もっと勉強しておけばよかった……」
「プロジェクターのこと?」
「えっと……行列……だったかな? 画像をうまく使うのに役に立つらしいの。数学だよ」
 富紀とユウカが話している、行列というのは日本の数学ⅢCで習う分野だ。大学受験ですごい勉強していたから知っている。
「そんなのあるんだ? まだ、習ってないよね?」
「え? そ、そうだね。3年生かもっと後で習うんだっけ? 結構難しいらしいの」
 ユウカの反応を見る限り、既に習ったわけではなくて、富紀の日本での知識っぽいな。
「その行列ってのを使うと、プロジェクターの絵がきれいになるもんなの?」
 勉強はしたが、どう役に立つのかがわからないので、聞いてみたくなった。
「たぶんだけど、4つのプロジェクターの画像を行列だと思って、きれいに足し合わせる方法がわかったりするんだと思う」
 画像を行列と思う……か。なるほど。
「ほんと、富紀と灰人って仲いいよね~」
 何だ、いきなり。……仲いいかな?
「別にそういうのじゃないよ!」
「ん? 私は仲がいいとしか言ってないけど? そういうのじゃないの? どういうのなの?」
「も、もう帰るもん!」
 そう言うと、富紀は部室を出て行った。ああいう反応を見て、オレはどう受け止めればいいんだろう?
「……がんばれ」
 ユウカはオレにそう言うと、富紀を追って部室を出て行った。


  * * * * * * * * * *


「お帰りなさい! お兄ちゃん!」
 家に帰るとリテスのお出迎え。両親は仕事で寂しいのかもしれない。
「ただいま」
「今日は遅かったね。……もしかして、ついに富紀さんと!?」
「何もないよ」
 富紀のことを人前で考えると、どうにも緊張する。
 そして、ニヤニヤしているリテスが少し憎たらしい。
 いや、それより、今はプロジェクターのことだ。行列は高校数学で習ったが、あれで何とかなるのか?
 制服を着替えてリビングへ行くと、リテスが不満そうにしている。
「どうかした?」
「今日、電気工事の人が来て、テレビの調子が悪くなるけどご了承くださいって。つけてみたら画面がこんななの。見たい番組あったのに」
 レジスタンスがどうのと言っているニュース番組はリテスが見たいものではないだろう。こっちの世界は、元大臣までが批判を表明するような状況なのか。
 それはともかく、画面の一部がノイズのように色が悪くなっている。これって……日本のテレビでも見たことあるような……。
「あれ? お兄ちゃん、テレビ見ないの?」
「ん。ちょっと調べ物があって」
「え~。もしかして、富紀さん関係?」
「まぁ、間違ってはいない」
 オレが答えると、リテスから冷やかしが続くかと思ったが、特に何もなかった。素直に認めたのが意外だったか?
 とにかく、6畳より広い立派な自分の部屋に置くことになった、部費のコンピュータを点ける。
 検索サイトで……テレビと……何で検索すればわかるか?


  * * * * * * * * * *


「灰人もいるじゃん! どういうこと、富紀? 何か発表?」
「ユウカが考えてるのと違う発表!」
「ん~? 私がどういう発表だと考えてるのかな~?」
「それはいいの! 今日は最後のテストのために早く集まったんだから」
 今は8時前くらい。朝のホームルームの30分以上前だ。もうこの2人にどうツッコミを入れればいいのかはわからない。
「昨日、オレがメールしたのは良さそう?」
「たぶんできると思う。……じゃあ、映すね」
 富紀がコンピュータを操作すると、プロジェクターが4つ重なって映し出される。
「……ん? これだと重なってるだけだから、4倍明るくなるだけじゃないの?」
 ユウカの言うことは正しい。全く同じ動画を再生するなら、という条件付きだが。
「え、なにこれ!? すごいきれいに映ってる!?」
 驚くユウカと、ドヤ顔の富紀。
「これは微妙に違う映像を4つ重ねることで、きれいに見えるように映しているの。映像を細かく分けて、4つのプロジェクターで投影を分担してるんだよ」
「すごい! その4つの動画も1日で作ったの?」
「動画は今までと同じ。きれいになるように、プロジェクターで再生する位置を、それぞれでちょっとずらしたの」
「はぁ~、流石、富紀は賢いねぇ」
 IT機器について孫に教わる感じになっている。
「灰人がアイディアをくれたんだ」
 昨日のテレビのノイズを見て、日本のテレビのインターレースのような技術のことを思い出した。インターネットで調べるとこっちの世界にも同じような技術があって、その説明をメールで富紀に送った。富紀が嬉しそうにしていて、本当に良かったと思う。
「灰人にしてはよくやったと思う」
 オレへの称賛の程度が富紀に対してと違うのは、これからもオレが傷つかない程度にしてほしい。


  * * * * * * * * * *


 結果を見れば、現代美術部の与えたインパクトは大きく、部活歓迎会は大成功だった。一方で、テニス部部長の声の人として注目される、なんとも恥ずかしい状況でもある。
 そして、放課後の片付けは、私は一番声を当てて疲れたから帰る、とユウカが笑顔で放棄していった。笑顔での疲れとは?
 ユウカは単にふざけているだけなんだろう。でも、いざ部室で富紀と2人になってしまうと、緊張でどうしたらいいかわからなくなる。片づけに集中するしかない。
 4つ使ったプロジェクターを部室に戻す。コンピュータを部室に戻す。台車は共用の場所に戻す。コンピュータが起動するように配線を直す。思ったよりやることが無い。
「配線まで直してくれたんだ。ありがと」
「いや、どうってことないよ」
 そんな笑顔でお礼を言われると……。心拍数が上がってる気がする。
「緊張してるんでしょ」
 なんでわかるんだ? そんなに顔に出てるか?
「さっきから、少しもこっちを見ないんだもん」
「……ごめん」
 富紀のほうへ視線を持ってくる。やっぱり、かわいいと思う。
「いいよ。私、見た目は良いから。日本の時と違って」
 そう言って窓を見る富紀。なんだか……自虐的な言い方だ。
「本当はアラサーのおばさんなんだよ。緊張しなくてもいいの」
 そんなことを言うならオレだって同じだ。弟が先輩になったクズだ。
 だからといって、それを伝えればいいのか? 何て言えばいい? 何て言ってもらいたい?
「オレは、富紀は素敵な人だと思う。日本のことはきっかけで、それ以上は関係ない。親切にしてくれて本当に嬉しく思ってる」
「何それ」
 富紀はうつむいてしまった。
「何それ……。そんなこと言われたら……嬉しいよ」
 泣いた!? そ、そこまでか!? ど、ど、どうしよう!?
「えっと、オレも……浪人だったからあまり変わ……っ!?」
 ひっつかれた……!? え!? リテスじゃなくて、富紀だよなこの子!?
「ちょ、ちょっと!? 大丈夫、富紀!?」
 ひっつかれた感触は、なんとも言えない……温かさ。

「私は……灰人のこと好きだよ」

 オレを? 富紀が?
 富紀はオレの腕にひっついて……しっかりと上目遣いでこちらを見ている。応えるしかない。

「オレも、富紀のことが好きだ」

「……ありがと。嬉しい」
 花の咲くように、ぱっと笑顔になる。かわいい。
「あの……灰人のしたいこと……してもいいよ」
 え!?
「男の子は……したいんでしょ? キスとか……もっと……」
 急に富紀のひっつく力が抜けて、膝をついたようだった。なんだか、オレに体重を預けているというような感じで……。
「富紀!? 大丈夫!?」
「……んと、大丈夫。いつもの調子の悪いやつ。ごめんね、こんなときに。せっかくの雰囲気だったのに……」
「いや、富紀のことが一番大事だよ。無理しないで」
「ありがと」
「今日は早く帰ろう。休んだほうがいい。家まで送るから」
「本当にありがと、灰人は優しいね」
 この笑顔のためなら、いくらでも優しくなれそうな気がする。
 学校を後にして富紀の家まで道を歩く。この風景はタカマの時と合わせて2回目。前も大して話をしなかったが、今は一言も言葉は無い。しかし、前と違って、バツが悪い感じはしない。不思議だ。
 富紀の家はそれほど遠くなく、体調のほうも落ち着いたようだ。
「送ってくれてありがとう。無事に帰れました」
 えへへ、と笑顔を見せられると、胸が締め付けられるようだ。こんな笑顔ができるくらいに落ち着いたようでよかった。
「じゃあ、オレも帰ろうかな」
「ちょっとまって」
 また富紀がひっついてきて……抱きついてきて……キスされた。

「じゃあ、また明日ね」


  * * * * * * * * * *


 次の日、富紀から調子が戻らないから休むとメールがあった。富紀がいないのは残念だが、ボッチだから部室で過ごす。普段は昼は一人なのに今日は先客がいる。
「こんにちは、へたれの灰人くん」
「何か用ですか」
 ユウカの口撃にひるみそうだが、こらえて平静を装う。へたれで何が悪い!
「富紀が昨日の作業の次で休んだから、灰人のことすごく気にしてた。一応、伝えておこうと思って」
「オレは富紀が無理してなきゃそれでいいよ。わざわざ伝言ありがとな」
 ユウカは基本的には優しいから、気を使ってくれたんだろう。
「それで、どこまで共同作業した? もうできちゃった?」
 ……さっきのオレの気持ちを返せ。
「いやー、そんな顔しないで。これでもおねーさん、結構悩んでるんだよ?」
 また冗談か、と思ったが、真剣かもしれないと思わせる調子だったので、言葉を返せなかった。
「灰人って意外と感じ取るよね。ま、勝手に話しちゃうけど、富紀の体調不良は、去年に私と知り合った時には既になってたんだ」
 ということは、1年以上体を壊しているのか? かなりの重症? 気づいてあげられなかった。
「富紀は灰人の知っている通りで、とてもいい子だった。この1年間ずっと」
 なんというか、裏表のなさそうな感じはわかる。

「それでね、もし『病気を治せるか治せないかがわかる』手段があったとしたら、私はそれを富紀に薦めるべきかな?」

 ……え?
「『病気を治す』わけじゃない。治せることがわかっても、治療が成功する保証はないし、治せないことがわかったら……文字通り治せない」
 病気を調べても、出る結果はうれしい可能性ばかりじゃない、ってことか……。
 確かに悩んでしまう。富紀を大事に思うユウカなら、なおさらだろう。でも……。

「薦めるべきだと思う。富紀は絶対に現実から逃げないと思うから。残された自分の時間を無駄にしたくない、ってきっと言うから」

「……そっか。もう、富紀のこと完璧に信じられるんだね」
「そうかも」
 人生で一番信じている。そう思う。
「わかった。私、ちょっと行ってくる。灰人のところって共働きだよね?」
「そうだけど?」
「夜遅くまでラブラブしてあげて」
 スマホで富紀と話してろ、って言ってるのか? 冷やかしか?


  * * * * * * * * * *


「お帰りなさい、お兄ちゃん」
 毎度のリテスのお出迎え。よく飽きないな。
「ただいま」
「……なんか、今日は元気ないね? どうしたの? もしかして、富紀さんのこと~?」
「そうだよ」
 オレが答えると、ふーん、とリテスはリビングに戻っていった。からかいがいが、無かったか?
 着替えを済ませてリビングに行くと、いつも通りぐでぐで状態のリテス。
「リテス、ちょっと聞いていい?」
「なーに?」
「オレ、記憶が無いから変なこと言ってるかもしれないけど、『病気を治せるか治せないかわかる手段』って、有名なものがあったりする?」
「何それ? 誰が言ってたの?」
「同じ部活の先輩」
「ってことは、富紀さんの調子が悪いの?」
「そうみたい」
「いつ?」
 タカマに行った後送った時と……この前の……。
 やばい。顔が赤くなりそうだ。リテスのそばにいるのはよくない。撤退だ。
「えっと、いつだったかな?」
 急に左腕を何かが通る感触。熱っ!?
 流血!? 足下に……腕!? 痛い!?
「……ちょ!? なっ!?」
 言葉が……出ない。痛い。痛いけど。

「お兄ちゃん。急に動かないで。殺せない」

 痛いけど、怖い。歯が勝手にガチガチ震える。リテスが持つ刀のような刃物から目が離せない。何か銃みたいな音までする。
「銃まで刀で防ぐなんて、化け物かっての……」
 リビングの窓を割って、大柄な男が入ってくる。声の主は一緒に入ってきた、どこかで見たような女……。
 意識が……。出血……すると……こんな……感じ…………。


  * * * * * * * * * *


 6、本当の2つ目の世界


 目が覚めると、病院のベッドのようなものの上にいた。また転生か? ……左腕が義手になってる。今度は生き延びたのか?
 片腕で起き上がるのは結構大変だったが、何とか上半身を起こす。
 部屋は薄暗く、病院のようではあるが、窓が無い。何とも奇妙な感じの部屋だ。
「灰人!?」
「……富紀?」
 富紀はオレを見るなりひっついてきた。
「灰人……よかった……生きてて……本当に……」
 いきなり泣くのは止めてほしい。困る。
 とにかく、状況がよくわからない。確か……富紀は体調不良で学校を休んでいたはずだ。
「富紀は大丈夫? 調子悪いんだよね?」

「……私は、もう大丈夫」

 もう大丈夫?
「そうならよかった」
 思わせぶりなのは気のせいか……?
 今の状況は……富紀が目の前にいるということは、こっちの世界……ヤマトでの人生が続いている、ってこと?
 オレは……急にリテスに襲われた?
「オレの家族は? リテスは?」
 オレが聞くと、口を閉じてしまう富紀。やっぱり、何かあったのか?
「そのことは私が話すから。灰人と富紀は聞いてて」
 ユウカが部屋に入ってきた。いつもの制服でなく、兵隊が着るような服装。どうしたんだ?
「灰人……ハイト・フィール・クロノの父、母、妹は政府の人間なの。妹がいることに気付かなくてごめんなさい」
 突然、何を言っているんだ? 政府の人間?
「政府は転生した人間から知識を得ようとしていた。日本という、シミュレーションされた世界の知識を」
 日本という……シミュレーション? どういうことだ?
「そんなこと……あるわけない。オレは日本で育ったんだ」
「灰人、落ち着いて」
 富紀……?
「富紀は今の話を聞いて、なんとも思わないの?」
 富紀だって日本から転生してきたって……。
「ユウカに、現実を冷静に見なさいって怒られたんだ」
 現実……。
「こっちの世界に来たときに、いきなり高校入学させられた。これってよく考えたら変でしょ?」
 高校入学が変……? 何を言って……。
 ……確かに。確かにそうだ。オレは8年間のブランクがあって目覚めたはずなのに、何の疑いもなく高校入学してしまった。本当に8年眠っていたなら、中身は小学生ということじゃないのか?
 気付かなかった……。本当に……本当に……父さんも母さんもリテスも……オレを騙していたのか?
「それに、日本が本当にある世界でも、シミュレーションされた世界でも、今現在は変わらないでしょ? この考えは変?」
「それは……そうかもしれない」
 今、オレはこっちの世界にいる。今、オレの左腕は義手。
 そうであるなら、ユウカの言うことのほうが……正しいのかもしれない。
 富紀の言う通り、今の状況で日本のことを考えても仕方がない。
「ちょっと、落ち着いた?」
 富紀が優しくオレの右手を握る。柔らかく温かい。
「じゃあ、もう少し話すよ。政府はシミュレーションされた世界から知識を吸収して、経済成長をしようとしているの。これに反発するのが、我々レジスタンス。さっき、リテス・フィール・クロノを取り押さえたのが、リーダーのエルディド・ウォーレン・ブライト。私の父」
 エルディドさんはユウカと一緒にこの部屋に来ていた。軍隊のような服装なのはユウカと同じ。すごくガタイが良く、強そうだ。
「ここヤマトの国以外にもレジスタンスはある。ただ、抗う相手はヤマトの政府のみだけど」
 世界中から反対されてるってこと? 文明が発達するなら、知識を得るのは良いことじゃないのか?
「そのシミュレーションの仕方に問題がある。ヤマトの政府は、人間の脳を計算機に組み込んで使っている」
 人間の脳でシミュレーション……?
「信じられない、って顔だよね? シミュレーションされた日本では、そういうことはしない感覚らしいから無理もない。だけど、ヤマトではやってしまった。わかりやすいのは……富紀の体調不良」
 何で富紀の体調不良?
「富紀は29年間、日本のシミュレーションするリソースとして使われた。肉体は15歳で成長を止めたようだけど。ともかく、その結果通常の3倍の速度で脳の老化が進んだ。今の富紀の脳の年齢は29年の3倍で87歳くらい」
 脳が……87歳? 富紀はえへへ、と引きつった笑い。そんなに落ち着いているのは……もう知っていたんだ。
「だから、私は治らないんだって」
 富紀が申し訳なさそうに言う。富紀は何も悪くないのに。
 でも、治るか治せないか知ることができる、というのはこういうことだったんだ。
「灰人は7歳から20歳まで、シミュレーションのリソースにされていたみたい。レジスタンスの脳の記憶をコピーする技術で測った」
 オレの子供の頃は? 思い出せない。オレは……日本では誰だった?
「灰人の目覚める直前より前の記憶は、忘れた記憶扱いになっていて、思い出せないようになってた」
 ということは、オレは初めから黒野灰人だったのか? オレの今までの人生って……なんだったんだ?
「現状は理解してもらえた?」
「何とか」
 何とか、と答えるのが精一杯だ。
 転生特典なんてとんでもない。実験材料にされていただけ、ってことか。自分の存在の意味がわからなくなる。
「いきなりたくさんしゃべって申し訳ないんだけど、今政府がどうしてるかってことなんだ」
 政府……?
「リテス・フィール・クロノが灰人を殺そうとしたでしょ? たぶん、レジスタンスと灰人がつながるのを嫌った。もう、灰人と富紀は死亡届が出されてる。政府は、灰人と富紀を、そしてレジスタンスを総力でつぶしに来る。灰人と富紀の、脳の記憶のコピー結果を消すために」
 政府が……? オレと富紀を……?
「長い目で見ればレジスタンスは負けない。でも、今回のヤマト国内だけに限って言えば、我々に抗うすべは、ほとんど無い」
 ユウカは、話を一息置く。沈黙している時間に、誰も何もしない。
「ほとんど、ってあえて言うのは……?」
 ユウカの会話についていけていることを示すように、気付いたことを口にしてみた。普通の状態なら、あえてオレに話すような内容ではない。
「そう。かすかな望みがファイという元科学大臣の暗殺。脳をリソースにする計算機の開発者。残酷で、富と権力に物を言わせて何物にも反発させない。言い換えれば、ファイさえいなければ、せいぜい犯罪者として扱われるくらいで済むはず」
 暗殺……。言っていることが本当なら、後で他の国のレジスタンスに助けてもらえる、ということか。
「そして、暗殺できる可能性があるのは、脳をリソースにする計算機が埋め込まれている、灰人と富紀。あなたたちだけなの」
「オレは……そんなすごいことはできないけど……」
「計算機を再起動すれば、できるようになる。リテス・フィール・クロノがやったみたいに、刀で銃弾をはじくようなことも簡単に」
 なんてことだ。
 オレと富紀は、体に特殊な計算機が埋め込まれているから、特撮ヒーロー顔負けの活躍ができる、と。
 そして、オレにわかるその根拠は、富紀の体調不良。いや……。
「それって、リテスも計算機だったってこと?」
「いや、リテス・フィール・クロノは他人を計算機として使っているだけで、直接、計算機として出力する場合の1割以下の能力」
 刀で銃弾をはじくのが1割以下の出力。もう化け物じゃないか。
「計算機として使われて、生きたまま目を覚ましたのは、灰人と富紀以外にはいないはず。灰人と富紀を生かしていた理由はわからないんだけど」
 化け物を生み出した理由……。こっちの世界から見て異世界の、日本の知識を吸収することが目的なんだから……。
「もしかして、異世界転生を知っている、っていう共通点があるからかも」
「異世界転生……?」
「死んでしまった後に記憶が残ったまま異世界に転生する、っていう小説が日本にある。それをよく読んでいたのが共通とか」
 オレが視線を向けると、富紀もうなずく。
「なるほど。目を覚ました時に動揺しない人間を選んだ。それが灰人と富紀だった、ってことか」
 オタクだから特別に転生して、利用されたのか。人の人生を何だと思ってるんだ。……くそ。
「それなら、今、死亡届が出ているのに灰人と富紀が生きているのは、政府の……いや、ファイの想定外。私たちは……レジスタンスは、すべてをあなたたちに託すしかない」


  * * * * * * * * * *


「私達、明日、本当に出発するんだね」
「理不尽で、変な感じ」
 オレと富紀は、明日のファイへの強襲のため、体を休めている。パーソナリティコンピュータは、賢く計算できるだけで、体力自体は高くならないため、十分な休息が必要だとのこと。
「ほんとにそう思う。灰人とユウカと、一昨日まで普通に学校に行っていたのに」
 本当に少し前まで、幸せな家庭で暮らしていって、幸せな人生を歩めるんだと思っていた。
 突然こんなことになって動揺していて、それは富紀も同じで。だから、2人別々の部屋を用意してもらったのだけど、富紀がこっちの部屋に来て、わずかな間だけど一緒に過ごした思い出話でもしよう、ということになった。
「私の両親も、灰人と同じように政府の人間だったみたい。灰人みたいに兄弟はいないけど」
 オレも富紀も、戸籍上は親兄弟がいるのだが、本当は天涯孤独のようだ。
「リテスちゃんは……良くなるといいね」
「そうだね。心配してくれてありがと」
 リテスは強い洗脳状態にあるらしく、ファイへの異常な執着心を解くための治療をしているらしい。まぁ、良くなっても、兄弟ではないオレのことをどう思うのかはわからない。
「少しの間だけど、いろんなことをしたね」
「そうだね」
「ユウカのアフレコ、すごく嫌がってたよね」
「そうだね」
「楽しかったよね」
「そう……だね」
 たった1か月足らずだけど、学校でやったことは、富紀と一緒に過ごしたことは、とても楽しかった。本当に楽しかった。
「灰人」
「どした」
「私、やっぱり灰人のことが好きみたい。それでね……」
 え……? 富紀がひっついてくる。
「今しかないかもしれないから、灰人がしたいことがあったら……してもいいよ」
「そ、そういうのは……」
 そういうのは? 今しかない、っていうのは、本当にそうかもしれない。
 オレだって……富紀が好きだ。後悔……しないのか?
「オレも富紀が好きだ」
 富紀を右手で抱き寄せて、キスした。
「だから、明後日。恋人同士になって、恋人っぽいことをしたい」
 後悔したくない。
 だから、明日を乗り越えるかすかな可能性があるなら、そのために今は十分な休息をとりたい。
 オレをじっと見つめてくる富紀。
「それって……死亡フラグ?」
 クスクスと笑う富紀。
「確かに。言い方が良くないね。どうしよ」
 もし奇跡や神様が在るのなら、明日だけはどうか無事にすごさせてほしい。そう願って止まなかった。


  * * * * * * * * * *


 7、反逆


 7歳の時、ハイト・フィール・クロノは、日本に黒野灰人として送り込まれた。すなわち、日本のほうこそ第2の世界だった。
 20歳の二浪の大学受験で落ちた時、転生トラックという理由で、こちらの世界へ戻ってきた。
 思い出した。日本で暮らしていたのは……暮らしていた記憶を持っているのは、間違いではなかった。
 再び、レジスタンスのベッドで目を覚ました。
 脳を使うコンピュータというやつを起動して、感覚が研ぎ澄まされる。念じるだけで体が高精度に動く。周りが遅く見える。ピストルでもライフルでも、刀で叩き落せそうだ。
「これが私達レジスタンスの最後の力。人間の脳を使うコンピュータだから、パーソナリティコンピュータ。ヤマトでパソコンといえばこれのこと」
「ユウカはオレの転生のことに気づいてたんだ」
 初対面の時に、コンピュータのことをパソコンと口にしてしまった。それでバレたのかもしれない。
「いやいや。もしかして、くらいだったかなー。簡単に疑ってたら、人間不信になっちゃう」
 日本ではパソコンの自作もした。それもシミュレーションだったんだ。自分でシミュレーションの負荷を上げてるみたいで、皮肉だな。
「何をしてもいいからファイを暗殺する。そうしなければ、私たちに未来は無い。感情を無くすことも必要になると思う」
 パーソナリティコンピュータで、そもそも感情はコントロール可能だ。無情にも普段どうりにも簡単にできる。
「ファイの住所は地図で見せるから」
 ユウカに地図を見せてもらうと、すぐにルートが思い浮かぶ。ファイの家の1.2キロくらいまでは車で移動できそうだ。それ以上は襲われた時にユウカ達が危険かもしれない。
 今いるレジスタンスのアジトの入り口は、表面上は広めの一軒家で、病室などほとんどの構造が地下にある。手の込みようからして、レジスタンスが政府に逆らっているというのは、本当なんだろう。
「途中まで送っていくから、下ろしてほしい場所で言って。下ろしてほしいことが簡単に計算できると思うから」
 オレと富紀はうなずいて返事をした。
 渡された装備は銃と刀。どちらもスタンガンの機能付き。余計に殺さなくていいようにとの配慮のようだ。
「じゃあ、お父さんと私で送ってくから、車を出すよ」
 車というのは、一般の乗用車。特別な装甲がされているわけではない。ユウカとユウカのお父さんがいることを考えると、車で送ってもらえるのは途中までだろう。
 ユウカは助手席へ、オレと富紀は後部座席に乗る。
 車は住宅街から、普段の買い物にでも出るように、普通に出発した。
 車内では誰もしゃべらない。少なくともオレと富紀は、あえてしゃべるようなことがない。ユウカも楽しくおしゃべりするような気分ではないだろう。
 外の景色は住宅街からだんだんと人気が無くなっていき、畑や田んぼばかりになり、そして林や森のような人とは無縁なものになっていく。
「この辺で降ろしてください」
 オレが言うと、ユウカのお父さんが車を止める。人気の無い道路で、両脇は薄暗い森林になって、普段なら不気味だと思う雰囲気。
「私があえて言う必要もないんだろうけど……灰人、富紀、がんばって」
 ここも返事はうなずくだけ。声に出すと、余計に期待させてしまいそうだから。
 オレと富紀は車を降りると、ファイの屋敷に向かって道路を歩き出す。残りの距離は1.2キロくらい。体力の温存のため、基本は歩いていくしかない。服装はユウカが着ていたような、動きやすい軍隊っぽいもの。
 富紀と言葉を交わすこともない。大体が予想できてしまうことだから。
 例えば、補正された道路の色の変化から、ファイ本人のほかに使用人などはいないだろうことが予測できる。富があるのにほぼ1人でいるのは、何か後ろめたいことをしていると予測できる。
 赤外線認識などのトラップがいくつが存在していて、その目的は気づいていないふりであることも予測できた。おそらくファイは、この強襲に気づいているだろう。とはいえ、トラップ部分は避けてはおく。
 ファイの屋敷への道を黙々と進む。ひたすらに進む。
 20分ほどでファイの屋敷にたどり着いた。ずいぶんな豪邸で、4LDKを縦横高さともに数倍にしたような大きさ。
「富紀、作戦だけど、とにかく全滅で」
 富紀はうなずいた。
 直接こちらからファイに近づいてもいい。しかし、ただでさえアウェーなこの場所で、不利になりそうな場所に突っ込むのは得策でない。
 屋敷を片っ端から壊していけば、ファイの側が嫌がって向こうから出てきてくれるかもしれない。
 屋敷の中はいかにも洋風な館で、国名のヤマトの名には似合わないクラシックな感じだ。入り口から入ると真ん中に豪華な階段があって2階へとつながる。階段の両脇は1階の部屋へとつながっているのだろう。和風な家だとふすまみたいな仕切りで、実験での万が一の火災がひどくなる、みたいなリスクを避けているに違いない。技術の開発者なのは本当らしい。
 しばらくすると、日本であればSFでしか出てこなさそうな人型ロボットが出てきて、手荒く迎えてくれる。銃や刀で攻撃してくる。ロボットなんだから人間の武器でなくてもいいのに。
 おかげで、総攻撃を避けるのも弾くのも、今のパーソナリティコンピュータを使ったオレと富紀には簡単だ。刀で銃弾をはじくこの感覚は、下敷きをぺこぺこ曲げるのに似た、何とも言い難い作業感だ。出来ればあまりやりたくない。
 ロボットの関節あたりを、装備としてもらった刀で叩いて壊す。パーソナリティコンピュータで、どこを叩けば効率よく壊れるかがわかる。それで、行動も修理も不能にしていく。
 ロボットが使っていた銃は、念のため弾を空にする。その作業で割れる窓。電球や監視カメラも潰しておく。普段ならある種の爽快感があるのかもしれないが、今のオレ達にはただの作業だ。
 全滅させたら、近くの部屋に入り、また全滅。
 とりあえずは、逃げ道を確保しやすい、入り口からすぐの部屋から片づけていく。
「ハイト、こんなことをして、他の人に迷惑をかけてはいかん!」
「お願い、もうやめて!」
 3つ目の部屋に、父さんと母さんがいた。2人とも政府の人間。
 だが……パーソナリティコンピュータは、この2人が本当に親だと訴える。どういうことだ?
「下がって、灰人。私がなんとかする」
 手を汚すな……と? それは富紀だって同じだ。いや、パーソナリティコンピュータの出した結果に……オレは動揺しているのか?
 父さんは刀で富紀に斬りかかる。
 富紀はそれを軽くいなして、父さんの重心をずらす。
 反対の右手では母さんが向けている銃口のほうへ向けて、手にした銃の引き金を引く。その銃弾は、母さんの額に正確に向かう。
 一方で、富紀は自身に向けられた弾丸を避けるように身を低くし、左手の刀で……父さんの首を落とした。
 あまりにもあっけなく片が付いた。父さんも母さんも、他人のパーソナリティコンピュータを使っていたらしく、まるで手ごたえがなかった。

「灰人。ごめんなさい。これしかないの。どんなことをしてもファイを暗殺する。これしかないの」

 富紀がオレに気遣ってか、言ってくれた。
 スタンガンの機能は不要だった。相手の殺意が強すぎる。生かしていたら、こちらが死ぬ。死んでしまう。
 感情を殺して、作業を続ける。ただひたすらに、続ける。
 2桁の部屋は片づけたあたりで、エントランスの2階の部分に男がいた。1階部分にいるオレたちを見下ろすようにしている。

「ずいぶん好き勝手してくれるな。いい加減やめてくれないか。貴重な材料がもったいない」

 目の前の男は……オレに似ている? 少なくともテレビで放送されていた、ファイ元科学大臣とは似ても似つかない。テレビでの顔は特殊メイクか。そして、それらの事実をパーソナリティコンピュータも訴える。
「少し話さないか。日本の計算リソース体トキサイド。クローン実験体ハイト」
 クローン……? つまり、オレはこいつの……クローン。
 さっき親だと思ったのも、こいつの親の……。そう考えないと年齢のつじつまが合わない。
 遺伝子的には実の親、ってことか。すごい趣味の悪いことをしてくれるな。
「私は、科学を人権などというもののためにないがしろにするのは、どうかと思うんだ。君たちが今使っているパーソナリティコンピュータは素晴らしい性能だろう? これを使えばいい。レジスタンスのやつらは何を考えているのやら。君達も著作権だったか、シミュレーション世界の知識を存分に使えて、楽しかったろう? 科学の先にこそ幸福がある。今からでも遅くはない。私と共に、世界を変えないか?」
 何だ、今の会話は? 有名なRPGのくだりの真似でもしたつもりか? 答えは明白だ。
「言いたいことはそれで終わり?」
 間を置かずに、刀をファイに向ける富紀。
 科学の発展のための材料になるつもりはない。何より、レジスタンスの人達を見殺しにはできない。
「そうか。残念だ。何度クローンを作っても、似たような反応をされるゆえ、慣れたものではあるんだが」
 銃声と共に放たれた弾丸は、富紀の手にする刀を貫通した。……貫通した!? どういうことだ!?
 弾丸はそのまま、富紀の胸を貫いた。
 崩れ落ちるように膝をついて、横になってしまう富紀。……くそ!
「この銃は特別製だ。一定時間はほとんどの物質を貫通するような強いエネルギーを持つんだ。プラズマ……というものだったか」
 こちらも弾丸をファイに向けて放つ。弾丸はファイに近づくと、急に止まって地面に落ちる。やはり、これではだめか。
「説明は不要だろうが、今のもプラズマだ。付け足すなら、君のパーソナリティコンピュータはうまく動いていないんだろう? 君と私の遺伝子は同じだから、AI処理で鏡と誤認識するんだ。AIに慣れさせないと、しばらくは私をうまく攻撃できない」
 先に富紀を狙ったのは、そういう理由か。初見で消すのは、邪魔な相手のほうがいいから。オレは役立たずなのか……。
「私のAIは対応済みだから攻撃はできるのだが、流石にパーソナリティコンピュータを直接相手にするのは面倒だ。私のクローンが相手となればなおさらか。困ったものだな」
 逃げ道は無い。パーソナリティコンピュータを使えても、オレの体が強化されるわけじゃない。このまま、1週間経つだけでも脱水症状でやられる。寝なければ体に無理が出る。食べなければ力が出なくなる。
 本当に手が無くて、パーソナリティコンピュータで今から数十秒の自分を生かすので精一杯だ。
「その絶望したような表情。今までに何度も見てきたが、何度見ても良いものだな。よく見せてくれ」
 ここまできて……ここまでやられて……本当に何もできないのか……。
「わざわざシミュレーション世界の言語をこちらと合わせて、異世界転生などというくだらない概念を流行らせた。こちらで高校入学までさせた。面倒極まりなかったが、この瞬間の充実感。何物にも代えがたい」
 ある種の悦楽でも覚えたかのような言い方。感情があれば、身の毛もよだつだろう。
 ファイは銃を構えはするが弾丸を発しない。それだけで、オレには十分脅威だから。ただ、適当に撃ってもパーソナリティコンピュータを使うオレに当たるとは限らないから、むやみやたらには撃ってはこない。
 そして、こっちは銃も刀も通用せず、逃げ道もおそらくない。窓はオレの体が通るような大きさのものは無い。エントランスの入り口は、単純にオートロックか何かでカギがかかっているだろう。そうでなければ、ファイが持久戦に持ち込まない。
 その上に、たまに現れるロボット。さっきまでとは比べ物にならないほど対応しづらい。ファイが持つ銃がこっちに向いた状態で対応するのは、体力の消耗が数倍。下手をすれば数十倍。
 左腕が無いことも大きいハンデだ。武器を2つ同時に使うことはできない。左腕があったときにできた、いくつかの姿勢ができない。
 こんなのが続いたら、あと数時間ほどで、普通に疲労で動けなくなってしまう。
「少し鈍ってきていないか? まだまだ続くぞ。もっといい顔をしてくれないか」
 もう、ここまでなのか……。もう、抗うのは無駄なのか……。
 いや……まさか……?
 心臓を撃たれたはずの富紀が、突然起き上がり、地を蹴り、半分に折れている刀を振るった。
 生きていたのか!? これは……。
 ファイの周囲のプラズマのせいで、刀はさらに半分に折れてしまった。
「貴様、まだ生きていたのか? 確かに心臓を撃ちぬいたはず……」
 富紀の出血量は普通じゃない。でも、動けた理由はわかった。

「心臓が無くても、脳と体が動けるように、体を改造しておいたの」

 改造。つまり、人間を辞めて、ファイを殺すだけの存在に……。そんな……そこまで……。
「素晴らしい! パーソナリティコンピュータの可能性は無限大だ! だが最後の一撃も、意味は無かった……なんだ……これは……?」
 見た目には傷一つ無いのに、ファイは床に膝をつく。
「プラズマが邪魔だから、ニュートリノを大量に飛ばして、あなたの体を焼き切ったの。文字通り、焼いて、切ったの。そう言っても意味はわからないでしょうけど」
 そうか。スタンガンの機能を、ニュートリノの出力機能に応用したんだ。この最後の一撃のために、銃撃を受けた後に隙を待ったんだ。
「なんだと……? ニュートリノ……? そんな……バカ……な……」
 ファイは、富紀の一撃であっけなく倒れた。
 絶望的な状況だったけど……生き延びた……?
 いや、それよりも……!
「富紀!? 大丈夫!?」
 富紀はあの一撃の後、地面に横たわり、動かない。
「ごめんなさい……。大丈夫じゃないの。本当にごめんなさい」
 かすかに聞こえる声。
 感情なら無くしている。パーソナリティコンピュータで無くしているはずだ。なのにどういうわけか、涙が止まらない。
「今からすぐに病院に行けば!」
「だめなの。さっき言ったように、体を改造したから。もうだめなの。ごめんなさい」
 だめなことは、さっきまでの様子を見ていたからわかっていた。わかっているのに聞かずにいられなかった。もしかしたら、タカマでコンピュータを選んだ時のようにオレより考えていてくれると、あるはずのない希望にすがらずにいられなかった。
「そんな……こんなのって……こんなのってないよ!」
「これ……受け取って……」
 小さい……ハードディスク?
「今の私の……思考の……コピーの……AI……だから……もう少し……だけ……一緒……に……」


  * * * * * * * * * *


 8、未来


「行列とかなにこれ? 一体何の役に立つの? 人生に必要ないでしょ?」
「いや、そのおかげで部活歓迎会は成功したんだけど?」
 ファイの暗殺の結果、オレとユウカはそのほう助をしたとして判決を受けた。形としては政府に反逆するという凶悪犯罪であるが、異例の執行猶予付き。
 国内海外問わず、残忍なファイを否定するレジスタンスの支持が強く、情状酌量せずにいられない世論を受けてのことだそうだ。
 しかし、流石に学校は退学になり、レジスタンスの保護の下、アルバイトと大学受験に向けた勉強をしている。大学受験勉強は日本でたくさんしたので、ユウカに教えてばかりだが。
「灰人の妹さんは、いまどうなの?」
「とりあえずは、ファイを妄信しなくなったみたい」
「そっか」
 リテスは父さんと母さんの実の子供。つまり、遺伝子で言えば本当に妹だった。ファイから強い洗脳を受けていて、その治療中らしい。レジスタンスから経過を聞いているだけなのだが。
「今日も時間通りに帰るんだ」
「悪いね」
 帰る先はワンルームのマンション。レジスタンスが丸ごと借りてるらしく、安心できる。ユウカと勉強をしていたのも、このマンションの共用スペースだ。
 自室の中はほとんど物を置いていないが、コンピュータだけは立派だ。前の学校が厚意でオレにくれた。
『今日もお疲れ様、灰人』
「お疲れ」
 ディスプレイは真っ黒。しかし、コンピュータは動作していてオレに声をかけてくれる。
『毎日さぼらないでえらいよ!』
「そうでもないよ。でも、ありがと」
 声の調子は機械音声。言葉だけのAI。なのにやたらと言葉は重い。
『暗くならないでね。灰人には未来があるんだから』
uni

2020年05月03日 22時00分54秒 公開
■この作品の著作権は uni さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:転生特典(主人公補正+知的財産+オタク)
◆作者コメント:
 閲覧ありがとうございます。
 ナンバー2といったら、2つ目の世界、すなわち異世界転生しかないだろうと思い至りました。異世界転生というと、物理法則を無視しがちですが、無視しなくても強力な特典がある……と信じています。
 改めて、この場を用意してくださった運営様に感謝を申し上げます。
(グロテスクに引っかかる可能性のある表現があります。ご注意ください)

2020年05月31日 15時28分15秒
作者レス
2020年05月17日 19時10分11秒
作者レス
2020年05月16日 23時50分52秒
+10点
Re: 2020年05月31日 15時23分54秒
2020年05月16日 23時39分45秒
+10点
Re: 2020年05月31日 15時20分02秒
2020年05月16日 15時07分18秒
+10点
Re: 2020年05月31日 15時16分40秒
2020年05月16日 13時30分38秒
+10点
Re: 2020年05月31日 15時14分01秒
2020年05月16日 12時07分28秒
Re: 2020年05月31日 15時10分50秒
2020年05月15日 23時17分26秒
+20点
Re: 2020年05月30日 12時21分53秒
2020年05月14日 21時02分29秒
+10点
Re: 2020年05月30日 12時15分28秒
2020年05月11日 20時56分36秒
0点
Re: 2020年05月25日 21時54分44秒
2020年05月08日 20時43分42秒
+30点
Re: 2020年05月25日 21時33分34秒
2020年05月08日 12時45分54秒
+10点
Re: 2020年05月25日 21時29分22秒
2020年05月05日 23時46分36秒
+10点
Re: 2020年05月25日 21時20分56秒
合計 11人 120点

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