異世界無双

Rev.01 枚数: 99 枚( 39,516 文字)

<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部

【注意!】この作品には性的な表現が含まれています。ご注意ください。



1.図書室でのこと

 鉄筋コンクリート三階建ての旧校舎は、新校舎が建ってからというものその影が陽の光を遮り、昼の間も薄暗かった。それでも、二階、三階は時間帯によっては陽光の当たることもあったが、一階となるとそういうわけにも行かず、一日を通して校舎内は仄暗い状態が続いた。
 じめじめとして、見るからに陰鬱な感じのする旧校舎一階の長い廊下。その一番奥に図書室はあった。
 建てつけが悪い入り口の引戸は、開けるときに三度引っかかり、その度に一旦少し戻してから勢いをつけて引く必要があった。そのクセ閉めるときは何の抵抗もなくあっさりと閉まるのだから理解に苦しむ。
 全ての窓には遮光カーテンが引かれてはいたが、本が日焼けするのを防ぐためだろうそれがなかったとしてもそびえ建つ新校舎が大きく影を落とし、陽光の一筋すら室内に射すことはなかった。代わりに、青白い蛍光灯の明かりが室内を煌々と照らしていた。
 図書室に入ると、ぎっしりと本が並ぶ書架を背にした貸出カウンターで、女子がひとり本を読んでいた。
 貸出カウンターに鎮座ましましているということは、図書委員なのだろう。
 蛍光灯の光で、その顔がやけに青白く見える。何処か悲しげで、淋しげで、愁いを帯びているように感じるのは、きっとそのせいだ。
 長く伸ばした髪を真ん中から分け、二つに結っておさげにまとめた女子。小学生じみた幼い顔立ちを見るに、恐らくは中学生となって数カ月しか経っていないに違いない。すなわち、僕と同じ一年生だろうと当たりをつける。
 にしてもこの図書委員、どこかで会ったことがあるような気がする。
 何気ない顔をして貸出カウンターの前を通り過ぎて奥の方へと歩みを進めると、僕は書架から本を一冊引き抜いては広げ、ぱらぱらとページを捲っては違うという顔をして元に戻し、その隣りの本を引き抜いては同じことを繰り返しつつ、既視感のある図書委員の女子を書架の間から窺った。
 すると、不意にその子が顔を上げた。
 今まで手元の本に注がれていた視線が、真っ直ぐに僕の方を向く。

「そこの男子」
「は、はい」
「あなた、本好き?」
「ええ、まあ」

 僕は咄嗟に嘘をついた。
 本当は、夏休みに宿題の読書感想文を書くため、与えられた課題図書を読むのにも四苦八苦した類いである。

「本はいいよね。読んでいる間は、現実を忘れさせてくれるもの。嫌なこと全部忘れさせてくれる」

 そんな僕が彼女に答えられるはずもなく、泳ぐ目で答えを探していると、

「どんな本読むの?」

 続けて彼女が聞いた。

「面白い本があるんだけど、読む?」
「はあ」

 今まで本を読んで面白いと思ったことなどついぞなかった僕が、間の抜けた返事をする。すると、図書委員の女子は更に続けた。

「本って言っても、ラノベよ」
「ラノベ?」
「あら、ラノベって知らない?」

 彼女の問いかけに、今度は素直に頷く。

「ライトノベルよ。ほら、アニメとかになってる中高生向けの軽い文章の小説」

 そう言って図書委員の女子は、僕でも知っているアニメのタイトルをいくつか挙げて教えてくれた。
 でも、アニメで観た話なら、わざわざ小説を読まなくても知ってるわけだし、本好きならまだしも、そうでない僕にとっては読むだけ時間の無駄な気がした。そんなことを考えて、丁重にお断りしようとしたときだった。
 貸出カウンターの上に、本の束がドスンと置かれた。

「これなんだけど」

 そこまでされれば仕方がない。
 貸出カウンターまで近づいてのぞき込むと、それは、文庫本より少し大きめのサイズの本だった。
 厚さ2センチほどの本が十数冊。
 黒い表紙には白い活字でタイトルの五文字が並んでいた。

「いせかいむそう?」
「そう。『異世界無双《いせかいむそう》』」

 僕がやっとこ間違えずに読み上げたタイトルを、図書委員の女子が自慢げに繰り返す。

「私も人に薦められて読んだんだけど、一度読み出したら続きが読みたくて仕方がなくなるの。本当に面白いんだから」

 そして、黒目勝ちの目でジッと僕の顔を見つめて付け加えた。

「死ぬほどにね」

 一瞬、背中がゾクリとする。

「死ぬほどとは、穏やかじゃないですね」
「それほど面白いっていう例えよ」

 彼女の妙に真剣な眼差しに耐えきれず僕がおどけると、図書委員の女子はふっと表情をやわらげて笑った。
 あれ? この笑顔、やっぱりどこかで見たような気がする。
 記憶の深い沼からすくい上げようと試みるが、沼は底なしで一向に思い出せない。
 僕がまじまじと見つめるのを、その異世界なんとかに興味ありと勘違いしたのか、彼女は、カウンターに置いた十数冊のうち、一番上の一冊を広げた。

「『異世界無双』は最初に『まえがき』があってね」

 そう言って広げたページを見せると、

「試しに読んでみてよ」

 笑顔で僕に勧めた。
 期待感たっぷりの彼女の視線を邪険にするわけにもいかず、僕は言われるままに開かれたページを読んだ。



 まえがき
 この物語の主人公には、名前がありません。
 あなたの好きに呼び名をつけてください。
 物語の中で、あなたが名づけた主人公は、縦横無尽に異世界を無双します。
 そして、主人公の冒険はこの本を手に取ったあなた自身の物語となるでしょう。



 なるほど、コンピュータRPGと同じ要領と言うわけだ。

「ね? 面白そうでしょ?」
「うん」

 僕は素直に頷いた。
 いまだかつて、こんな『まえがき』のある小説なんて聞いたことなかったし、少なからず興味を魅かれたのは嘘ではなかったのだけれど。

「じゃあこの貸出カードにクラスと名前を書いて。貸出期間は一週間。一週間目が祭日でお休みの場合は、その次の登校日が返却日になるから」

 立て板に水で図書委員殿は貸出要項を説明した。
 どうやら僕は彼女の術中にまんまとはまったらしい。
 そんなわけで、勧め上手の図書委員に渡された貸出カードに『一年三組 綾瀬成海《あやせ なるみ》』と鉛筆で書きつつ、

「脱帽です。僕、本なんか借りるつもり全然なかったのに、いつの間にか君の勧める本借りることになってるんだもん」
「あら、図書室に来る人は、本を借りに来たか、勉強しに来たか、せいぜい家に帰りたくないって人ぐらいよ」

 ちょいとばかり恨み節をこめた僕の発言に、図書委員の女子は即座に切り返した。

「あなたってば、ここに入って来てからというもの、一向に勉強を始めようなんて素振り見せなかったじゃない。とすると、残りはひとつ。本を借りに来たってことになるわ」

 自分で言った更にもうひとつの可能性については、どうなったんでしょうね? 名探偵さん。

「でも、僕、最初から本を借りるつもりなんてなかったし。君ほど本好きってわけじゃないもの」
「あなたって、女の子みたいな可愛い顔して、言うことは意外に辛辣ね」

 男子に「可愛い」っていうのは誉め言葉でもなんでもないって、知っているんだろうか。

「本を借りるつもりがなくても、図書室まで来たってことは、潜在意識では本を借りたいって思ってたのと同義よ。本人が自覚していなくてもね」

 なんか、無茶苦茶言い出した。

「あと、私のこと『君』って呼ばない。あなたよりずっとずっとずーっと先輩なんだから」

 まさか、おさげの童顔女子が僕より年上だなんてことはないと思ったのだけど、どうやら先輩だったらしい。それも、彼女の口上から推察するに二年生でなく三年生で、そうすると僕の二つ年上なわけで。だからと言って三歳違いで今年高一のうちのお姉ちゃんと比べるに、やっぱり子供に見えるのは変わらなかった。
 にしても、同じ中学生なわけだし、「ずっとずっと」なんて言ってたけれど、せいぜい二年先輩なだけなのに。さっきの「死ぬほど」発言といい、何事も大げさに表現するのが彼女の信条なのだろうか。

「じゃあ、なんて呼べばいいんですか?」
「そうね。『三河島《みかわしま》先輩』じゃ他人行儀だし」

 貸出カウンターの図書委員の女子は、どうやら『みかわしま』という名前らしい。でも、既視感があるとは言え、ほとんど初対面だろう僕相手に、他人行儀もないだろうに。

「香織《かおり》先輩……。うーん、『先輩』ってのもガラじゃないのよね。香織《かおり》さん。うん。それがいい。さん付けで呼んでよ」
「わかりましたよ、『香織《かおり》さん』」
「うん、よろしい。えっと……」

 香織さんが満足げに頷いてから今しがた書いたばかりの貸出カードを覗き込むので、僕は香織さんに見えるよう、カードの天地をひっくり返して差し出した。

「綾瀬《あやせ》です。綾瀬成海《あやせ なるみ》」
「一年三組、綾瀬成海……。成海《なるみ》君ね。よろしく」

 僕が差し出したクラスと氏名と本のタイトル『異世界無双 第一巻』と書かれた貸出カードを読み上げて、香織さんはにこりと笑った。
 一瞬、香織さんの笑顔がどこか悲し気に見えた。



 その日、僕は『異世界無双』の第一巻を借りて家に持って帰ると、夕飯を済ませてから自室に籠って読んだ。
 前書きにあった通り、まずは物語の主人公の中学生に呼び名をつける。僕はいつもゲームをするときに使っている『ナルミン』と呼ぶことにした。
 主人公のナルミンは、勉強も普通、運動も普通。
 クラスの人気者でもなければ、嫌われ者でもない、どこにでもいるようなごく普通の中学生だった。
 ある日、主人公の中学生ナルミンはボールを追いかけて車道に飛び出した小さな子を助けようとした。
 そして、登場後わずか二ページ半で、運転手がよそ見をしていたトラックに轢かれて命を落としてしまう。
 主人公が死んでしまえば、そこで物語は終わってしまうところだが、しかし、『異世界無双』はそこからが本当の始まりだった。



 ※ ※ ※ ※ ※



 目が覚めると、僕は雲の上にいるような、ふわふわとしたところにいた。こんな言い方では伝わらないかも知れないけれど、『ふわふわとしたところ』というのが本当にそのまま感じたことで、他に思いつかないのだから仕方がない。
 一体ここはどこだろうと辺りを見回すと、声がした。

「目覚めたのですね」

 耳に優しい声だった。
 優しくて、心地よくて、どこかで聞いたことがあるような女の人の声だった。
 さて、何処で聞いたんだろう? 一生懸命に思い出そうとしてみても、思い出せないところをみると、ただの思い違いなのかも知れない。
 しかし、きょろきょろと周りを見渡してみても、声の主の姿は見当たらなかった。

「誰?」

 姿の見えない相手に向かって聞くと、声が答えた。

「私は『運命を司《つかさど》る者』です」
「神様ってこと?」
「そう思ってもらってもかまいません」

 ということは、女の神様だから、女神様ということか。
 では、女神様が居るこのふわふわとしたところは、天国ってこと? そこまで考えたとき、僕は思い出した。
 ボールを追いかけて小さな子が車道に飛び出したことを。
 丁度そのとき、大型トラックが走って来たことを。
 子供を助けようとして、車道に飛び出したことを。
 その先を懸命に思い出そうとしてみたけれど、僕の記憶は目の前にトラックが迫って来たところで途切れていた。

「僕は死んだんですか?」
「ええ」

 僕の問いに、女神はすまなそうに答えた。

「本来、あなたは死ぬべき運命にありませんでした。ちょっとした手違いだったのです」
「手違いって、そんな」

 神様というのは、間違いを犯さないから神様なんだと思ってた。なのに、僕が死んだのは「ちょっとした手違い」だなんて!

「じゃあ、これから生き返るんですよね?」

 僕の頭を『臨死体験』ってワードがよぎった。
 事故とかにあって、死にそうな目に遭ったとき、川を渡ろうとするのを向こう岸にいる死んだおばあちゃんが追い返して生き返ったとかんなんとか。
 きっとこれも同じ類のヤツだろうと思ったのだけれど。

「いいえ、生き返りません」

 女神の返事はつれなかった。

「あなたの身体はバラバラになっています。生き返ったとしても、バラバラの身体では生に耐えられないのです」

 手違いで死んだのに、それはあまりにも塩対応じゃないかと文句を言おうと思ったけれど、でも、返事には続きがあった。

「元の身体に生き返ることは無理ですが、転生ならば。新しい身体を与え、別の世界に生き返らせることならば出来ます」
「転生……か」

 女神の言葉を反芻する。

「その生き返った僕って、『僕』なんですか?」
「肉体的には違います。ですが、記憶や自我はあなたのものなのですから、転生したあなたは、あなたの言う『僕』に他なりません」

 わかったようなわからないような説明だったけれど、どうやら受け入れるしか他に選択肢はないようだ。
 意を決して、僕はコクリと頷いた。

「わかりました。転生をお願いします」

 答えると、にわかに全身が光り始めた。
 光は徐々に強さを増し、目を開けていられないほどの眩い光につつまれ、視界が真っ白な闇に包まれたとき、また声がした。

「転生した世界で、あなたは怪我も病気もすることなく、健康に健やかに、五体満足で百歳までの天寿を全うします」

 眩い光の向こうで、女神が言った。

「その運命を約束します」

 このとき交わした約束が、ただの中学生だった僕を無敵の超人へと変えることになるとは、僕自身想像だにしなかった。

(ね? 面白いでしょ?)

「うん。面白い。もっと続きが知りたいです」

(でしょ)

「うん」

(本はいいよね)
(読んでいる間は、現実を忘れさせてくれるもの)

「そうですね」

(嫌なこと全部忘れさせてくれる)

「本当に。その通りですよ」

 僕が答えたとき、階下からお母さんの声がした。

「成海ーっ、お姉ちゃん出たから、お風呂続けて入っちゃいなさい!」

 今日借りてきたばかりだというのに、僕は既に半分近く読み終えていた。
 お風呂から上がって寝るまでに読むとして、明日には読み終わりそうだ。続きを借りに行かなきゃ。
 我ながら随分と熱心に読んだものだなと思いつつ栞を本に挟んでおき、替えの下着を用意して扉を開けると、お風呂から自分の部屋に戻るお姉ちゃんと鉢合わせした。
 咄嗟にうつむいて目を伏せる。
 出会いがしらに僕と出くわしたお姉ちゃんは、ちょっとだけ足を止め、チッと舌打ちしてから通り過ぎた。
 そして、すれ違いざまに僕に言った。

「湯舟のお湯、全部抜いておいたから」

 うつむいたまま、僕はお姉ちゃんの言葉を聞いた。

「私が浸かったのと同じお湯にあんたが入るなんて、考えただけでも気持ち悪い」

 顔も上げられず、うつむいて目を伏せたままで。

「気持ち悪いのよ。変態」

 そう言って、お姉ちゃんは奥にある自分の部屋へと消えた。
 お姉ちゃんの言葉は辛辣で心が傷んだけれど、うつむいて聞いている間中、僕はお姉ちゃんの匂いを嗅いだ。
 お姉ちゃんは、湯上りのいい匂いがした。

「お姉ちゃん……」

 ひとり取り残された僕は、暫くの間、うつむいたままその場から動けなかった。
 きっと僕は、お姉ちゃんの言う通り、変態なんだ。



2.名前のこと

 『荊棘《イバラ》の迷宮』はその名が示す通り、鋭い棘が生えた荊棘が生い茂り、見上げる程の高さの壁を作っていた。
 両側を荊棘の壁に挟まれた通路は真っ直ぐに続いたかと思うと不意に曲がり、二手に分かれ、どちらかは行き止まり、どちらかは三方に分かれ、また行き止まったかと思うと、腰を屈めてやっと通れるような抜け道があったりと、まさに『迷宮』と呼ぶに相応しかった。
 そして、一度迷いこんだ来訪者は二度と出ることが叶わず、命を落とすのだ。
 しかし、それも僕には効かない。

「僕は転生したこの世界で怪我も病気もすることなく、健康に健やかに、五体満足で百歳までの天寿を全うする。その運命は神に約束されている」

 僕は天に向かって言った。

「だったら、僕はこの迷宮で迷って死ぬはずがない。もし僕が死んだら、神は約束を破ったことになる!」

 すると、別れ道に来ても瞬時に正しい道が頭に浮かび、行き止まりに来てもすぐに隠された抜け道を見つけることが出来た。
 僕はこの迷宮で道に迷って死ぬ運命にないのだ。
 運命の女神の加護により、僕は難なく最奥部まで辿り着くことが出来たのだった。
 この迷宮の主である牛頭の魔神の元へと。

「いたな、ミノタウロス!」

 身の丈3メートルはあろうかという魔神ミノタウロスの傍に、白いドレスに身を包んだお姫様がいた。
 金色の髪に青い目、抜けるように白い肌の姫君は、まるで絵本の中から抜け出したように美しかった。

「姫! すぐに、助けます!」

 僕が捕らわれの姫君に声を掛けると、しかし、彼女は泣きそうな声で拒んだ。

「いけません! 私が魔神の贄《にえ》になれば王国は救われるのです」

 姫の大きな目から、涙が溢れてぽろぽろと零れる。

「私さえ犠牲になれば、王も、民も、平和に暮らすことが出来るのです!」
「そんなのダメだ! 誰かの犠牲の元に得られた平和なんておかしいよ!」
「でも……」

 零れた涙が、理不尽な運命を甘んじて受け入れる他なかった姫君の本心を物語っていた。

「僕が助けます! 姫様も、王様も、王国の人たちも、みんなひっくるめて!」

 そう叫ぶと、僕はやっと様になった長剣《ロングソード》を構え、魔神ミノタウロスへと突っ込んだ。

「姫を返せーーーーッ!」
「グモオォォォーーーーーッ!!!」

 口からよだれを垂らしながら、ミノタウロスが巨大な斧を振り下ろす。
 このままなら確実にヒットして僕の脳天をかち割るはずの斧は、しかし、なぜか命中する寸前に軌道を変えた。
 まるで何かに弾かれたように。不自然に。

「グモッ!?」

 何が起きたのかわからない表情のミノタウロスを尻目に、それが、女神の加護のお陰であると察した僕は、躊躇しなかった。

「うおおおおおおぉぉぉぉぉーーーーーッ!」

 雄叫びを上げ、体当たりの要領で構えた長剣ごと突っ込む。すると、剣の切っ先が運良くミノタウロスの心臓を貫いた。
 練習では10回に1回ぐらいしか狙ったところに剣を突き刺すことなんて出来なかったのに。これも運命の女神のご加護だろうか。

「グモオォォォーーーーーッ!!!」

 心臓を貫かれた魔神は断末魔の声を上げると、地響きを立ててその場に崩れ落ちた。

(すごいね)

「うん」

(お姫様助けちゃったね)

「助けちゃいました」

(これからどうなるんだろうね)

「そうですね。先が楽しみです」



 ※ ※ ※ ※ ※



「もう随分と読んだのね。成海君」

 青白い蛍光灯の光の下で、僕が『異世界無双』の続きを読んでいると、貸出カウンターから図書委員の三河島香織《みかわしま かおり》さんが声を掛けてきた。

「どこまで読んだの?」
「主人公がミノタウロスを倒して、お姫様を助け出すところです」
「もう一巻の終わりのところじゃない」
「ええ、まあ」
「昨日から読み始めたばかりなのに。夢中だね、成海君」

 僕は少し照れて、はにかんだ笑顔を香織さんに返した。
 放課後の図書室は、昨日と同じく閑散としていて、貸出カウンターに鎮座ましましている香織さんと、僕以外には誰も居なかった。
 こうやって話していると普通なのに、やっぱり悲しげで、淋しげで、愁いを帯びているような印象を受けるのは、きっと青白い蛍光灯のせいに違いない。
 図書室では本来なら私語は厳禁なはずである。
 でも、そんなことは百も承知の図書委員の香織さんが、あえて禁を破って話しかけてきたのは、咎める者が誰も居ない状況だったからなわけで、そうでなかったら僕に声を掛けるなんてことはなかっただろう。

「次の巻、今日借りてく?」

 貸出カードを見せる香織さんに、僕は少しだけ考えてから「借りてきます」と答えた。
 このままのペースで読み進んでも、今読んでいる巻は下校時間までには読み終わらないだろう。かと言って、家で読む分には残りは心もとな過ぎる。
 続きが気になってもんもんとするぐらいなら、荷物になっても次の巻を借りて行った方がいい。
 そう算段した僕は、貸出カードを受け取ると、昨日と同じようにクラスと名前を書き込んで香織さんに渡した。

「それで、成海君は主人公になんて名前つけたの?」

 受け取った貸出カードに貸出日と返却予定日を書き込みながら、香織さんが聞いた。それがあんまり普通で何気なかったので、僕はうっかりと素直に答えてしまった。

「ナルミン」

 すると、香織さんは堪え切れないといった感じで噴き出した。

「成海《なるみ》だから『ナルミン』って、すんごい安易ね!」

 笑いの止まらない香織さんに、ちょっとだけ傷ついた僕は、逆に尋ねた。

「じゃあ、香織さんはなんてつけたんですか」

 僕の逆襲に、香織さんの笑いが止まる。

「香織さんも『異世界無双』読んだんでしょ? 主人公になんてつけたんです!」
「えっとー」

 香織さんの黒目勝ちの瞳が、狙ってもなかなかすくえない金魚すくいのデメキンのように宙を泳ぐ。

「僕だって教えたんだから、教えてくださいよ」
「え? あ。うん」
「自分だけ教えないなんて、ズルイですよ」
「そ、そうよね」

 それからひとつ息を吸ってから、うんとうなづいて香織さんは答えた。

「カオリン」

 僕は二度ぱちぱちっと瞬きして、

「『カオリン』ですか?」

 オウム返しに聞き返した。

「そうよ。カオリンよ。悪い?」
「いえ、悪くないですけど――」
「言わなくたってわかるわよ。香織で『カオリン』だなんて、成海君のこと笑ったクセに、安易だって言いたいんでしょ!」
「いや、まぁ、そうなんですけど」
「やっぱり!」

 顔を真っ赤にして捲し立てる香織さんの言う通りではあるのだけれど、僕はちょっと違う感想を持っていて、

「なんか、僕ら、似てるなぁーって」

 心に思ったことをそのまま口にした。
 すると、今度は香織さんが黒目勝ちの目をぱちぱちと二度瞬きしてから、

「『ナルミン』と『カオリン』だもんね」

 そう言って、くすくす笑った。それがあんまり無邪気で、平和で、楽しかったので、つられて僕も笑った。

「ですよね! 『ナルミン』に『カオリン』なんて、ホント発想が安易で安直でなんの捻りもないですよね!」
「もう言わないでよ! ナルミン!」
「はい、もう言いません! カオリン!」

 僕と香織さんは、二人して大笑いした。
 可笑しくて、可笑しくて、本当に可笑しくて。
 こんなに心から笑ったのは、いつ以来だろうか。



3.朝のこと

 翌日もその翌日もそのまた翌日も、放課後になると僕は旧校舎にある図書室を訪れた。
 建付けの悪い引き戸を開けると、いつも貸出カウンターには図書委員の三河島香織《みかわしま かおり》さんがいて、他には誰もいなかった。
 下校時間になるまで、僕は蛍光灯の青白い光の下で『異世界無双』を読んで過ごした。
 相変わらず図書室には僕と香織さんの二人しかいなかったので、僕らは合間に『異世界無双《いせかいむそう》』の話をした。
 青白い蛍光灯の光の下では、相変わらず香織さんは何処か悲しげで、淋しげで、愁いを帯びた印象だった。
 話をしていると、僕の主人公の『ナルミン』と香織さんの『カオリン』は、微妙に違うように思えた。
 二人とも同じ本を読んでいるんだから、そんなはずはないのだけれど。
 まあ、読む人によって本の感想なんて物は変わるのが当たり前だから、『ナルミン』と『カオリン』の違いもそんなとこなんだろう。
 家に帰ると、僕は『異世界無双』読みたさにごはんもお風呂も急いで済ませた。
 お風呂は決まってお姉ちゃんの後で、お姉ちゃんは自分が入ったあとのお湯を全部抜いてしまうので、僕は後から入るお母さんのために湯船にお湯を入れ直さなければならなかった。
 お湯が溜まる間にシャワーを浴びて身体を温め、汗を流し、髪と身体を洗い終わるころにようやく溜まるのだけれど、湯船に浸かる時間が惜しくて、そそくさと浴室から出てしまうのが常だった。
 それからドライヤーで適当に髪を乾かし、自分の部屋に戻って芯までは温まっていない身体をベッドに潜り込ませると、ようやく続きを読み始めることが出来るのだった。



 ※ ※ ※ ※ ※



 寺院には魔除けの類がつきもので、それは大抵不気味で恐ろしい姿をしている。
 鬼だったり、龍だったり、奇怪な化物だったり。
 僕たちが迷い込んだ朽ち果てた寺院趾にも、御多分に洩れず、屋根に魔除けの石像があった。
 ただ、違ったのはその数だった。
 魔除けは例えば、鬼門の方角に据えられたり、或いは東西南北の四方にそれぞれ祀られたりするものだが、その朽ちた寺院の屋根には有翼の鬼の石像がざっと数えただけで十数体、なんの規則性もなく所狭しと置かれていた。
 交通安全のお守りをフロントガラスにつけ過ぎて、前が見えなくて事故を起こした、なんて笑い話を思い出したけど、どうもそういうわけではないらしい。

「逃げましょう。気づかれる前に」

 小声で姫君が囁いた。

「ガーゴイルの群れです」

 ガーゴイルと言えば、西洋建築に見られる雨どいの出水口で、動物や悪魔の口から雨水が吐き出されるように造られた彫刻をイメージするけれど、この異世界ではそれとは別の物らしい。
 姫に聞いてみるとガーゴイルは魔神の亜種で、遺跡や廃墟などに好んで棲み、普段は石像に擬態して動かないが人間が近づくと覚醒し、集団で襲って食べてしまうとのことだった。

「では、僕たちがうまく気づかれずにこの場から逃げられたとして、そのあとでここに迷い込んだ人はどうなります?」
「それは――」
「気づかれる前に逃げることが出来なかったら、殺されて食べられてしまうんでしょ?」
「――はい」
「なら、僕がすることは一つだ」

 不安げな眼差しの姫を前に、僕はスラリと長剣《ロングソード》を抜いた。

「無茶です! あんな数のガーゴイルを相手にして戦おうだなんて、無茶過ぎます! お止めください!」
「姫様は、隠れていてください」
「お願い! 止めて!」

 引き止める姫に木の影の死角でじっとしているよう言い置き、僕はガーゴイルの群れへと突進した。

「うおおおおおぉぉぉぉぉぉーーーーーッ!」

 注意を僕に引き付けて姫が見つからないよう、雄叫びを上げつつ大上段に長剣を振りかざて突っ込むと、姫から聞いたように、石像にしか見えなかったガーゴイルが一体、また一体と息を吹き返して動き始めた。
 それには構わず、突っ込んだ勢いのまま、一番近くの一体に剣を振り下ろす。肩口から斜めに斬り込んだ長剣が、石像のようなガーゴイルの身体を真っ二つにする。
 自分でも信じられないくらい見事な切れ味に浸る暇もなく、返す刀で別の一体の首を跳ね、更にもう一体の兜を割る。
 姫君を城へと送る道中で、魔獣や魔神との戦闘を繰り返すうち、僕の剣の腕前は確実に上がっていた。
 あっと言う間に三体のガーゴイルを葬ったわけだけれど、先制の利もここまでで、まだ十体以上の残っているガーゴイルは、全て石像の擬態から覚醒し、本来の動きを取り戻していた。
 十数体のガーゴイルが牙を剥いて僕に襲い掛かってきた。
 本当なら、今度は数の利が物を言う番なのだけれど、しかし、そうはならなかった。
 一斉に襲って来たガーゴイルの爪は空を切り、牙は逸れ、僕を傷つけることはおろか、触れることさえも出来なかった。
 僕はこんなところで死ぬ運命にはないのだから。
 この異世界に転生するときに、女神は僕に言った。
 僕はこの世界で百歳まで生き、病気も怪我もすることなく五体満足で天寿を全うするのだと。それが、その運命を約束すると言ってくれた。
 ならば、僕はこんなところで死ぬはずがない。
 ガーゴイルに襲われても、怪我などするはずがないのだ。

「うおおおおおぉぉぉぉぉぉーーーーーッ!」

 再び雄叫びを上げると僕は、ガーゴイルめがけ己が長剣を振り下ろした。



 それからどれぐらいの時間が経っただろう。
 ようやく最後のガーゴイルを倒したとき、隠れていた木の影から姿を現した姫君が、つかつかと近づいてきて、僕の手を取った。

「王陛下に会ってください」

 両手でしっかりと握り、姫君は言った。
 はにかんだ表情ではあったが、真っ直ぐに僕を見つめる青い瞳には強い決意が溢れていた。

「会ってください、私の父に」
「姫――」

 頬を紅潮させた姫の顔を見れば、それが何を意味するのかは、いかにそういうことに疎い僕でもわかった。
 年頃の女の子が自分の父親にあって欲しいと言ったら、交際相手を紹介する以外に考えられない。
 僕が? 元の世界では、何の取り柄もない冴えない中学生だった僕が、こんなに綺麗な女の子と交際???
 ミノタウロスの生贄にさせられるところを助けてからというもの、姫君が好意を持ってくれているのは何となく感じていた。
 姫を王宮へと送り届けるための道中、襲いくる魔獣を倒し、強大な魔神を退け、二人で困難を乗り越える度に、次第にその想いが強くなっていくのも。
 それは、僕にとっても同じだった。
 姫が僕のことを想ってくれるのと同じぐらい、いや、その何十倍も僕は姫のことを好きになっていた。
 しかし、こんな僕を王様は姫の交際相手として認めてくれるだろうか?

(自信がないの?)

「うん」

(異世界でも?)

「異世界?」

(そう。異世界)

「そうだよね。異世界なんだもんね」

(うん。現実じゃない)

「わかったよ。僕、王様に会って、そして…………」



 ※ ※ ※ ※ ※



 翌朝、目が覚めると、僕は本を広げたままベッドで寝ていた。どうやら『異世界無双《いせかいむそう》』を読んでいて寝落ちしてしまったらしい。

「いっけない! 寝過ごした!!!」

 時計を見るといつも起きる時間より三十分も遅かった。
 急いでベッドから飛び起きて着替えを済ませ、カバンを持って階下へと降りると、トイレにも洗面所にも寄らず、キッチンへと直行する。

「お母さん、お弁当ありがとう。持ってくね」
「成海! 顔ぐらい洗いなさい!」
「学校で洗うからいい。電車に乗り遅れちゃうから!」
「ちょっと待ちなさい、成海! もう、しょうがない子ね」

 お母さんの小言を背中で聞きつつ、僕は行ってきますと言って玄関を飛び出した。
 この時間なら、駅までは走れば遅刻しなくて済む電車に乗れる。
 大きく深呼吸してから、僕は駅に向かって走った。
 交差点を渡り、コンビニの前を通り過ぎ、自販機の角を曲がったとき、僕の前に制服姿の女子高生がいた。

「お姉ちゃん」

 前を行くお姉ちゃんの背中に思わず声を掛ける。
 すると、僕の声にお姉ちゃんは嫌そうに振り向いた。

「…………」

 無言でゴキブリでも見るような冷たい視線に僕が萎縮してうつむくと、お姉ちゃんが言った。

「あんた、一本遅い電車に乗りなさいよ」
「それだと、僕、遅刻しちゃう」
「電車を降りてから走れば間に合うでしょ」
「でも――」
「あんたと同じ電車に乗るなんて、絶対にイヤ」
「――――わかったよ。一本遅らせる」

 言い終わるか終わらないうちに、お姉ちゃんは僕に背を向けた。

「痴漢野郎」

 振り向きざまにひと言残して、お姉ちゃんは駅に向かった。
 膝上までしか丈のない制服のスカートが、歩く度にひらひらとひらめいた。
 うつむいたままそれを見送って、ギュッと下唇を噛む。
 僕がまだ小学生だったとき、遊びに来たお姉ちゃんの友達に「家に来て、弟になってよ」って言われたことがあった。僕が返事に困っていると「ダメよ。私の弟なんだから。あげないわよ」ってお姉ちゃんが庇ってくれて、僕はそれが嬉しかった。
 でも、あのときのお姉ちゃんはもういない。

「お姉ちゃん……」

 ポタリとひと雫、涙が落ちた。
 僕は、痴漢なんて――。



 それからゆっくりと駅に向かい、お姉ちゃんに言われた通り乗るはずの電車が行ってしまうのを見送って次の電車に乗った。
 一本遅らせても朝のラッシュは相変わらずで、でも車内には僕以外の中高生の姿は見当たらなかった。気が急いて途中の停車駅での乗客の乗り降りが、いつもよりもたもたしているように感じた。
 電車が降りる駅に着くや、僕は学校へと急いだ。ホームに降りても、やはり中学生の姿は見えなかった。
 人混みをかき分けて改札を抜け、通学路を走る。走りながらちらりと時計を確認すると、始業に間に合うか間に合わないか瀬戸際の時間だった。
 すれ違う人は駅に向かう会社勤めの大人ばかりだっけれど、パン屋さんの角を曲がったところで、前方に数人の中学生が国道を渡る横断歩道で信号待ちしているの見えた。
 あの信号渡れば、学校まではもうすぐだ。
 安堵する気持ちと焦る気持ち半々で足を速める。
 しかし、見る間に信号は青に変わり、信号待ちしていた中学生が渡りきると僕が辿り着く前に赤に変わった。
 急いでいるときというのは、得てしてこういうものだ。しかも、この信号は長いときている。
 国道を挟んだ向こう側で、さっき渡った中学生たちの背中が小さくなっていく。
 もし、信号に引っかからなければ、僕もあの中の一人になって、遅刻することもなかっただろうに。いっそ車の流れが途切れたら信号が赤でも渡ってしまおうかと思ったとき、ふと、信号機の電柱の下に花束が供えてあるのが目に入った。
 まだ供えられたばかりらしく、花束は瑞々しいままだった。

「そうか、今日は水曜日か」

 花束を見て、僕は思い出した。
 毎週水曜日の早朝に、信号機に供えられた花束は新しいものに取り替えられるのだ。
 なんでも、三年ほど前に、この横断歩道で中学生が車に轢かれたのだとか。詳しくは知らないけれど、花束が供えられているところを見るに、轢かれた中学生は亡くなったのだろう。
 事故があったのが水曜日で、以来、毎週水曜日に新しい花束が供えられるようになったとのことらしい。
 亡くなった中学生のご家族は、いったいどんな思いで花束を供えているのだろう。
 事故が起きてから三年も経つというのに、どんな気持ちで毎週新しい花を手向けているのだろう。
 信号機に供えられた真新しい花束をぼんやりと眺めていると、大きなトラックが目の前を走り抜けて行った。
 もし、僕が事故で命を落としたら、お姉ちゃんは花束を供えてくれるのだろうか。



 予鈴の時間はとうに過ぎ、本鈴が鳴り終わるころに、僕はようやく自分の席についた。
 良かった、先生はまだ来ていない。
 もっとも、よくよく考えてみれば担任の町屋《まちや》先生は本鈴が鳴る前に教室に来ることはめったになく、むしろ、遅れて来ることの方が多かったのだから、僕が遅刻せずに済んだのも当然と言うか必然と言うか、まぁそんなところだ。
 きっと今日もあとしばらくは顔を見せないのだろう。
 まだ若い女の先生だから、他の先生方からいろいろと面倒な仕事を押しつけられていると聞いたことがあるけれど、朝、本鈴が鳴ってもなかなか顔を見せないことが多いのはそんなことが関係しているのかも知れない。
 上がった息を整えつつ、いまだ姿を現さない町屋先生の事情を推察しているときだった。

「珍しいね」

 背後から声がした。
 振り向くと、にきびだらけの顔に銀縁メガネをかけた男子がいた。
 クラスメートの根津《ねづ》君だ。

「いつも早いのに、今日は遅刻ぎりぎりだったね。寝坊でもしたの?」
「う、うん。まぁ、そんなとこ」

 僕がまだ荒い息で答えると、根津君は神経質そうに銀縁メガネをクイッと人差し指で上げた。

「明日、うちの親出かけてて夜まで誰もいないんだ」
「そう――なんだ」
「それで、また『勉強会』やるからさ、用意して来てよ」

 根津君からの招待に、荒かった息も吹っ飛んで僕は狼狽した。

「明日って、この間やったばかりなのに」
「いいから、用意して来て」
「クリーニングにだってまだ出していないし」
「構わないよ。それぐらい」
「でも――」
「いいから!」

 周りに聞こえないように抑えた声だったけれど、僕には大声で恫喝されたように聞こえた。

「僕がやるって言ったらやるんだ」

 根津君が人差し指でもう一度銀縁メガネをクイッと押し上げる。

「君は断れないはずだよ」

 銀縁メガネの向こうに、血走った目が見えた。

「あのことがクラスのみんなに知られたら、終わりなんだから」
「…………」

 それは僕にとって反論の余地のない殺文句で、
 だから、

「…………わかったよ、根津君。明日、用意してくる」

 僕は、承諾するしかなかった。
 すると、根津君はまた神経質そうにクイッと銀縁メガネを押し上げた。

「最初から素直に言うこと聞いていればいいんだよ」

 にきびだらけの顔がニヤリと笑う。

「明日の『勉強会』も楽しみにしてるからね。頼むよ、『成海ちゃん』」

 根津君が僕のことをちゃん付けで呼んだ。
 他の誰にも聞かれないように、僕だけに聞こえるように。
 それが嫌で、気持ちが悪くて、僕は背中に怖気が走るのを感じずにはいられなかった。



4.放課後のこと

 王城の奥にある『謁見の間』に通された僕は、予め姫に教えて貰った通り作法に従って片膝をつき、玉座の王に向かって恭しく頭を下げた。

「そなたが姫を救い、ここまで連れ帰った勇者であるか」

 改めて『勇者』と言われると、背中がこそばゆくなるが、それを押しとどめて僕は、「はい」と言って更に頭を低くした。

「魔神から救ってもらった姫の親として、礼を言わねばなるまい」
「礼だなんて――、僕は当然のことをしたまでです」
「当然のことであるか」
「はい!」
「しかし、だ」

 そこで王様が言葉を切った瞬間、周りからガチャガチャと鎧が鳴る音がした。

「一国の王としては、素直に礼を言うわけにもいかぬのだ」

 許しを得る前に面《おもて》を上げるのは不敬とは聞いていたけれど、そんな悠長なことを言っていられる場合じゃない。そう判断した僕は顔を上げた。
 すると、武装した兵士がぐるりと周りを囲み、構えた石弓の狙いを僕につけていた。

「盟約に従い、姫を魔神の生贄に出さねばならぬ。さもなくば、我が王国は魔神に滅ぼされてしまうのだ」
「王様は姫を、自分の娘を見殺しにするんですか!」
「余とて辛いのだ。だが、姫一人の命で我が民全ての命が救われるのならば、一国の王としてどちらを選ぶかは明白であろう」
「そんなの、間違ってる!」
「我が苦しい胸の内をわかってはもらえぬか。では、仕方がない。撃て!」

 王の命令一閃、四方から石弓が発射される。
 狙いすまされて発射された石弓の矢は、しかし、命中する寸前不自然に軌道を外れ、一本も僕を傷つけることは出来なかった。

「馬鹿な! なぜ当たらぬ!?」

 転生したとき、運命の女神は僕に言った。この世界で、僕は怪我も病気もすることなく、健康に健やかに、五体満足で百歳までの天寿を全うすると。
 その運命を約束すると。

「僕を殺すことは出来ない。傷つけることも出来ない。僕はその運命にないんだから!」

 王様と、僕を取り囲んだ兵士たちとに向かい、僕は叫んだ。

「姫様を魔神のもとになんて行かせない!」
「しかし――」

 言葉に自分の思いを込めて。

「魔神の生贄になんて絶対にさせない!」

(こんな風に、嫌なことは嫌って言えたらいいのにね)

「僕もそう思うよ。でも……」

(でも?)

「僕には出来そうもない」

(そんなことないよ)
(きっと出来る)

「僕でも?」

(ええ)

「本当に僕でも出来るのかな」

(出来るよ)
(ちょっとだけ勇気を出せば)



 ※ ※ ※ ※ ※



 その日の放課後、僕は例によって旧校舎の一階の一番奥にある図書室にいた。
 入り口の建てつけが悪くて、毎回開けるのに苦労するのには閉口するけれど、それを差し引いても僕にとっては居心地のいい場所に違いなかった。
 遮光カーテンを締め切った室内を、蛍光灯がいつものように青白く照らしていた。
 貸出カウンターには図書委員の三河島香織《みかわしま かおり》さんがいて、僕と香織さんの二人以外誰もいなかった。
 話すと普通なのに、香織さんは相変わらず愁いを帯びた印象だった。
 いつものように。
 この数日間毎日しているように、青白い光の下で『異世界無双』を読んでいた僕は、ふと視線を感じて顔を上げた。
 見ると、貸出カウンターにいる香織さんと目が合った。
 案の定と言うか元よりこの部屋には、僕と長い髪を二つに結っておさげにした図書委員の二人しかいないわけだから、視線の主は香織さんの他いるわけはなかった。

「何か用ですか?」

 僕が聞くと、香織さんは一度視線を逸らしてから、ちょっとばかりバツが悪そうにして答えた。

「最初会ったときから思ってたんだけど、成海君って目が二重でぱっちりしてて、まつ毛が長くて可愛いなって」

 そんな風に言われることは初めてじゃないけど、その度にうまく調子を合わせてかわしてきたけれど、

「男子にしては髪も長いし、身体つきも華奢だし、女の子みたいだなって」

 このときだけは、何故か癇《かん》に障った。

「ホント、男子にしておくのが勿体ないくらい可愛い――」
「止めてください!」

 このときだけは、自分で自分が抑えられなかった。

「そんなことを言われて喜ぶ男子なんて、いないですよ!」

 気がつくと、僕は叫んでいた。
 けれど、目の前にはしゅんとした表情の香織さんがいて、

「ごめん……」

 申し訳なさそうに謝る香織さんを見て、僕は我に返った。

「ごめんね、成海君。私、成海君の気持ちわかってるはずなのに……。ホントごめん」
「いえ、僕の方こそ急に大きな声を出したりしてすみませんでした」

 我に返り、慌てて香織さんに謝る。
 端から見ると、二人して謝り合っているおかしな図が出来上がったわけだけれど、元より当の二人以外には誰もいないのだから、それを指摘する第三者がいるはずもなかった。
 二人同時にそのことに気がつき、顔を見合わせて苦笑いを交わす。
 しばらくの間それが続いたあと、香織さんは心配そうな表情で聞いた。

「成海君、何かあったの?」
「いえ、何もないです」

 咄嗟に僕は誤魔化した。
 本当のことなんて、言えるはずがなかった。
 本当のことなんて、言えるはずが。
 下校時間を報せる校内放送が遠くに聞こえた。

「僕、もう帰ります」
「成海君」
「さようなら、香織さん」

 急いで読みかけの『異世界無双《いせかいむそう》』をカバンにしまうと、建付けの悪い引き戸を一気に開け、僕は図書室を後にした。
 誰か、僕を助けてよ。



 町屋《まちや》教諭が図書委員の顧問となったのは、彼女の意志ではなかった。
 学生時代から打ち込んでいた書道の腕前を生かし、書道部の顧問となったのまではいいとして、同じ文科系の部活だからという理由で文芸部と、ついでに図書委員の顧問まで引き受けさせられたのは、彼女が教師となってまだ三年目で、この学校で一番若い教師だったからに他ならなかった。
 加えて彼女が生来穏やかで大人しい性格で、しかもすこぶる真面目だったことも災いした。
 文句ひとつ言わず、面倒な図書室の本の管理作業を黙々とこなす町屋教諭に、教頭を始めとする先輩教師たちは、図書委員の顧問としてついでに旧校舎の図書室の管理も任せた。そのうち、どうせやるなら同じだろうと、取り壊しが決まっている旧校舎全体の管理をも押し付けたのだった。
 もっとも、旧校舎の管理と言っても、鍵を預かって保管するのが主な仕事だったが、生真面目な性格の町屋は、それに加えて月に一度は旧校舎にある教室の窓を全て開け放ち、換気をするのを自分に課していた。
 だから、

「さようなら、町屋先生」
「さようなら、綾瀬《あやせ》君。車に気をつけて帰りなさい」
「はい」

 自分が受け持っている一年三組の生徒、綾瀬成海《あやせ なるみ》と挨拶を交わし、その背中が見えなくなるまで見送ってから、それがおかしなことであると気づいたのは、町屋教諭以外では難しかったであろう。
 今しがた、綾瀬が歩いて来た西に延びる渡り廊下。
 この先は旧校舎に続いている。

「あの子、旧校舎で何をしていたのかしら」

 町屋教諭は首を捻った。
 旧校舎にある教室の鍵は全て町屋が保管している。
 そして、
 月に一度、彼女が換気のために窓を開けるとき以外は、全ての扉が施錠され、誰も入れないはずなのだから。



5.勉強会のこと

 王城から馬で半日のところにある平原地帯。そこにある小高い丘の上に僕たち王国軍は陣を敷いた。
 丘の上から東へと続く大平原を眺めると遥か地平線まで見渡せるはずだった。
 しかし、僕らの目に映るのは、魔神とその眷族とから成る軍勢だった。
 その数、およそ一万。
 対して僕ら王国軍は二千にも満たなかった。
 そのうち、騎馬を駆る騎士は五十騎。歩兵が百。傭兵隊が五十。
 ここまでが正規の訓練を受けた兵士で、残りは手製の武器を手にした民兵だった。
 一方、魔神軍はと言えば、巨大な体躯のジャイアント十二体に、人喰いオーガ、醜悪な面構えのオーク、身体は小さいが数が多いゴブリン、空にはガーゴイルが飛んでいた。
 僕ら王国軍と魔神軍との差は一目瞭然。その数に於いても、質に於いても、圧倒的に不利な状況だった。

「勇者殿。本当に行かれるのか?」

 まだ『勇者』と呼ばれることに慣れてはいないけれど、今はそんなことに構っている場合じゃない。
 本当は今すぐ逃げ出したいぐらい怖い。しかし、それを気取られないよう堂々と胸を張り王様に答える。

「僕に任せてください」
「無論、余は勇者殿を信じておる。この戦が終われば娘婿に迎えるほどに惚れ込んだ男なれば。しかし、本当に勇者殿一人で敵軍に突っ込むと申すか」
「はい」

 手が震えるのをギュッと握って堪え、僕は言葉を継いだ。

「僕が突っ込んでも、王様たちはこの場を動かないで、しばらくそのまま見ていてください。奴らが僕に充分に気を取られてから隙を突いて、背後から攻めてください」
「いや、しかし、それでは勇者殿のお命が――」
「大丈夫です! 任せて!」

 普通なら作戦とも言えない無謀な行為だけれど、僕には勝算があった。
 僕はこの世界で百歳まで生きて天寿を全うするのだ。
 それが僕の約束された運命なのだ。
 ならば、どんな無茶をしても僕は死なない。傷つくこともない。
 たとえ単身で万の敵軍のど真ん中に突っ込んだとしても。
 あとは、おぞましい怪物の群れに突っ込むだけの勇気があればいい。

「行ってきます!」

 ありったけの勇気を振り絞り、僕は魔神軍へと突っ込んだ。

(勇気があるよね)

「うん」

(ひとりっきりで立ち向かうなんて、本当に勇気がある)

「こんな勇気が僕にもあればいいのに」

(大丈夫。あるよ)

「ないよ。勇気なんて僕にはないよ」

(あるよ)

「ないよ。だって……」

(それは、この世界だからだよ)
(この世界が間違ってるからだよ)

「この世界が?」

(そう。現実世界が間違ってる)

「現実が――間違ってる」



 ※ ※ ※ ※ ※



 次の日の放課後、このところ毎日通っていた図書室には寄らず、僕は根津君と二人で電車に乗っていた。
 約束通り『勉強会』で使う荷物を入れたスポーツバックを手に、電車で二駅のところにある根津君の自宅へと行くのだ。
 一方的に来るように言われたのを『約束』と言っていいのか甚だ疑問ではあるけれど、そんな理不尽な約束でも、僕にはそれを破る勇気はなかった。
 自宅へと向かう間、根津君は終始上機嫌で、駅のホームで電車が来るのを待つときも、電車の中でドアにもたれているときも、広げた参考書の端から時折僕を眺めては口の中で何かぶつぶつと言っていた。
 広げていたのは数学の参考書だったけど、つぶやいていたのはきっと数学の公式じゃない。
 目的の駅で降りて、こじんまりとした商店街を抜け、住宅街を五分ほど歩いたところにある赤い屋根の一戸建てが根津君の家だった。
 入口の鍵を開け、根津君はただいまも言わずに中に入ると、まだ玄関前に突っ立っている僕に向かって言った。

「入んなよ。母さんは妹と出かけてていないし、ウチに来るの初めてってわけじゃないだろ? 遠慮しなくていいよ」

 根津君の家に入るのを躊躇しているのは、別に遠慮しているわけじゃない。

「入んなよ、成海《なるみ》ちゃん」

 けれど、いつまでも玄関前で立ち往生するわけにも行かず、僕は仕方なく「おじゃまします」と言って中へ入った。
 すると、誰も居ないはずの家の奥から、ぱたぱたとスリッパの音がした。

「どちらさまですか?」

 奥から現れたのは、髪を三つ編みにして赤いフレームのメガネをかけた小学生の女の子だった。

「なんだ、お兄ちゃんか」
「倫子《りんこ》、お前なんでいるんだ?」

 察するに、女の子は根津君の妹らしい。
 礼儀として、初対面の妹さんに「こんにちは」と言って会釈すると、女の子はメガネの奥の目をまんまるにした。

「お母さんは?」

 根津君の問いに、しかし、女の子は答えず、代わりにまんまるにした目で僕を見つめたまま大きな声で言った。

「お母さん! お兄ちゃんがカノジョ連れて来た!」
「バカ! そんなんじゃない!」

 慌てて根津君が否定するが、その間に奥から淵なし眼鏡をかけた大人の女の人が現れた。

「お帰りなさい、たっくん」
「お母さん」

 玄関先にお母さんが出て来ると、それと同時に根津君の妹がその後ろに隠れる。

「お母さん、倫子と出かけたんじゃなかったの?」
「倫ちゃんちょっと具合悪そうだったから、今日は止めにしたのよ」

 根津君が小さく舌打ちしてのが聞こえた。
 そんな短いやり取りを交わした後、しげしげと僕のことを見て根津君のお母さんが聞いた。

「たっくんのお友だち?」
「は、はい」

 どうやら根津君は家では『たっくん』と呼ばれているらしい。『根津達彦《ねづ たつひこ》』で、たっくんか。根津君は僕にそれを知られたのがバツが悪かったのだろう。

「お母さん、その呼び方止めてよ」
「はいはい。わかりましたよ。達彦の母です。いつも達彦がお世話になっています」
「同じクラスの綾瀬成海《あやせ なるみ》です」
「あら、男の子なの?」
「はい」
「ごめんなさい。倫子ったら女の子と間違えちゃって」
「いえ」

 うちの学校の制服は男子がブレザーで女子がセーラー服だ。並べて比べれば男子と女子の違いは一目瞭然なのだけれど、女子の制服がブレザーの学校もある。おまけに冬場は制服の上から丈の長いコートを着ているので、下がズボンなのかスカートなのか分かりづらくはある。まだ小学生の根津君の妹が僕のことを女子と見誤ったとしても、仕方のないことかも知れない。
 もっとも、一番誤解を生むのは小さい頃からよく女の子に間違えられた僕の面《おもて》のせいなのだろうけれど。
 いつもより少し低いトーンで自己紹介したとは言え、変声期がまだで地声が女子と変わらない僕の声でも、お母さんが男子だと気づいてくれたのがせめてもの救いだった。

「倫ちゃん、お兄さんに謝りなさい」
「ゴメンナサイ」

 お母さんの後ろからちょっとだけ顔を出した根津君の妹は、ぎこちない謝罪の言葉を口にしてから、またお母さんの後ろに隠れた。
 僕は笑顔を作って応じたけど、女の子に、それも根津君のカノジョに間違われたわだかまりが消えることはなかった。
 僕はうまく笑えただろうか。

「いいから二人とも奥に行ってて」
「ちょっとぐらいいいじゃない。たっくんがお友達をウチに連れて来たのなんて初めてなんだもの」
「止めてよ、お母さん」
「あんなに受験勉強がんばったのに、第一志望に落ちてすべり止めの第二志望の中学に行くことになって落ち込んでたじゃない。お父さんはこっちの方が近いから通学時間が短くなって自由になる時間が増えるからかえって良かったっだろうなんて呑気なこと言ってたけど」

 根津君はテストではいつも学年でトップクラスの成績を納めているけれど、なるほどもう一つランクが上の中学を目指していたらしい。

「その話はいいから」
「ほら、あの学校変な噂があったじゃない」
「もういいってば」
「何年か前にあそこの生徒さんが交通事故で亡くなったんですって。表向きは事故ってことになってたけど、本当は自殺だったんじゃないかって」
「お母さん」

 その話は僕も聞いたことがある。
 丁度お姉ちゃんが、ウチの中学に通ってたころの話だ。

「遺書は残ってなかったらしいのよ。けど、いじめを苦にしての自殺を学校が隠してるんじゃないかって噂があったの。いじめで生徒さんが自殺しただなんて学校にとっては不祥事だものね」
「もう止めてよ」

 でも、僕が聞いたのは事故で亡くなったってだけで、自殺したなんて話は聞いたことがなかった。

「それがね、実は初めてじゃないらしいのよ。その前にも生徒さんが交通事故で亡くなってるんですって。そのときもいじめが原因で自殺したのかもなんて言われたらしいけど、結局うやむやで終わったらしいの」
「お母さん」

 ましてや、そんなことが何度もあっただなんて、初耳だった。

「そんな学校に大事なたっくんをやって、いじめられやしないかって心配してたのよ。でも、こうやってウチに連れてくるお友達がいてよかったわ」
「お母さんってば」

 何人もの生徒が自殺したかも知れないなんて、いままで聞いたことがなかった。

「可愛いお友達ね。お母さんも最初たっくんがガールフレンドを連れて来たのかと思っちゃったわ。倫ちゃんが間違えるのも無理ないわね」
「いい加減にしてよ!」

 いつまでたっても話を止める気配のないお母さんに、遂に耐えきれなくなって根津君が声を荒らげた。

「あっちに行っててよ!」
「まあ怖い。怖いお兄ちゃんね」

 怒鳴り声に怯えてしがみつく根津君の妹をお母さんがなだめる。

「先に二階に行ってて」

 根津君に促され、僕はもう一度「お邪魔します」と言ってペコリと頭を下げてから、言われた通り階段を二階へと上った。

「お母さん。僕たち二階で勉強するんだから、絶対に上がって来ないでよ」
「じゃあ、甘いお菓子と飲み物を用意するわね」
「それはいいから」

 二階に上る間も、階下ではまだ根津君とお母さんが揉めている声がした。

「お勉強で疲れた脳には糖分が必要よ」
「なら、僕が上に持っていくから、速く用意して」
「はいはい。今用意しますよ。なにかあったかしらね」
「絶対に二階に来ないでよ。倫子もわかってるな」
「うん」

 それも僕が階段を上り切って、根津君の部屋の前まで来たときには、おさまりがついたようだった。
 根津君がペットボトルの飲み物と駅前にあったチェーン店のドーナツを持って現れたのは、僕が根津君の部屋に入ってから五分ほど経ったあとのことだった。

「なんだ、まだ着替えてなかったのか」
「あ、いや、誰か来たら、マズイと思って」
「大丈夫だよ。二階には絶対に来るなって、言っといたから。妹も来ないよ」

 そう言って根津君は銀縁眼鏡をクイッと人差し指で押し上げた。

「あの人、僕が勉強のためって言えば、なんでも言うこと聞いてくれるんだ」

 自分のお母さんのことを根津君が『あの人』って呼ぶのが酷く居心地が悪かった。

「さあ、速く着替えて。『勉強会』を始めようじゃないか、成海ちゃん」

 根津君は二人きりのときだけ、僕のことをちゃん付けで呼んだ。
 苗字でなく、下の名前で『成海ちゃん』と呼んだ。
 そう呼ばれる度に、僕の背中に怖気が走った。
 でも、

「うん」

 僕は逆らえない。

「着替えるから……、恥ずかしいから向こう向いてて」
「オッケー。成海ちゃんのそういうとこ、いいよ。実にいい」

 僕に背を向けて勉強机に向かうと、根津君は分厚い参考書を広げた。

「着替えが終わるまで練習問題でも解いてるよ。これでいいだろ?」

 根津君が本当に練習問題の連立方程式を解いているのかは疑わしいけれど、一応僕のお願い通りにあっちを向いていてくれているので、僕は「うん」と頷いて着替え始めた。
 コートとマフラー、そしてブレザーをハンガーに掛け、続けてセーターを脱いで畳む。シャツを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、下着も脱いでそれらも畳んでまとめると、持ってきたスポーツバックの中身を出して代わりに押し込んだ。
 出したバックの中身から、はき古した女の子用のショーツを探し出し、前後ろを確認して右足、次いで左足と通して、上まで引き上げる。ショーツの生地はよく伸びて、下半身にフィットするのだけれど、お尻のワレメに食い込むところをみると僕には少し小さいのかも知れない。それとも、女子はみんなこんな風にショーツをお尻に食い込ませて穿いているのだろうか。
 次いで、フリルのついたブラジャーを頭から被って胸の辺りまで降ろすと、位置を整えてから肩ひもに腕を通す。
 勿論胸なんて膨らんでないんだけど、ブラジャーをつけてその上からセーラー服を着ると、同級生の女子と見た目にそん色がないぐらいには膨らみが出来た。
 それからプリーツのついたスカートのフックを一番奥で留め、両脚に紺色のハイソックスを穿けば着替えは終わり、中身は男子の偽物の女子中学生が出来上がる。
 お姉ちゃんが中一のときに買って、もうサイズの合わなくなった下着は少しきつくて、お姉ちゃんが去年卒業するまで着ていた、僕と同じ中学のセーラー服は少し大きかった。

「着替え、終わったよ」

 机に向かっている背中に声を掛けると、根津君は180度くるりと椅子を回して振り向いた。

「いいね」

 銀縁眼鏡の奥の目で僕を見る。

「さらさらした髪といい、長いまつ毛にぱっちりした目といい、実にいい」

 下から舐めるように。

「セーラー服がよく似合ってる」

 ナメクジが這うように。

「どこから見ても、中学生女子だ」

 根津君は、右の口角を少し上げて笑った。

「可愛いよ、成海ちゃん」

 それは、『勉強会』を始めるときに根津君がいつも口にする台詞だったけれど、その台詞を聞く度に僕は体じゅうの肌が粟立った。
 そして、次に根津君が言う台詞も決まっていた。

「成海ちゃん、後ろを向いて」

 僕は命じられるままに回れ右をして背中を向ける。
 後ろで、ギシッと椅子がきしむ音がした。根津君が椅子から立ち上がった音だ。
 いよいよ『勉強会』が始まる。
 僕は、すぐ後ろに根津君の気配を感じた。
 目を閉じてうつむき、キュッと唇を噛む。
 微かに衣擦れの音がした。
 慣れないスカートはズボンより頼りなくてただでさえスースーするのに、風通しが五割り増しよくなったのを感じる。
 根津君が後ろからスカートを捲っているのだ。

「下着は白に限る」

 いつもと同じ感想を述べて、しかし、その後にいつもと違う異音がした。

 カシャッ! カシャッ!

「やめて!」

 僕は反射的に叫んだ。

「写真は撮らないって、約束だったじゃない!」
「大丈夫だよ、スカートの中しか撮らないから」
「でも……」
「こんなの見たって、誰だかわかりゃしないって」

 僕と根津君との約束は、また反故にされた。
 人の欲望というものは果てがないらしく、『勉強会』の度に交わした約束は破られて、根津君の行為はエスカレートする。
 見るだけのはずだった約束は最初に破られた。
 スカートの上からだけと言った言葉はすぐに嘘になった。
 ショーツの中は止めてとのお願いは聞いてもらえなかった。
 熱を帯びた根津君の手が、僕のお尻に触れた。

「あッ」

 触られるとき、僕はいつも声を出してしまう。
 あまりにも不快で。
 あまりにもおぞましくて。
 それが一層根津君を悦ばすと知っていながら、僕は我慢することが出来なかった。

「いい声だ、成海ちゃん」

 まるで別の生き物のように、根津君の手がお尻の上を這いずり回る。そのおぞましさを唇を噛んで必死で耐える。
 しかし、根津君の欲望は収まらない。
 ショーツの上をさんざん這いずり回った手が、するりと中に侵入した。

「やッ」

 汗ばんだ指が割れ目をなぞる度に背中に走る怖気を、僕は必至で耐えた。
 これさえ、このときさえしのげば、あとは勝手に果てて終わる。根津君がスカートを汚して『勉強会』は終わるのだ。
 いつもなら、そのはずだった。
 でも、この日は違っていて。

「ねえ、成海ちゃん」

 根津君が、触っているのとは違う方の手で、僕の手首を掴んだ。

「僕のも触ってよ」
「いや、でも、それは……」

 おぞましい要求を一度は拒んだのだけれど、でも。

「君が電車の中でしたこと、ばらされてもいいの?」

 それは殺し文句で、従うしかなくて。

「いかせてよ。成海ちゃん」

 僕は、導かれるままに手を伸ばして、触る他なかった。



 根津君が満足した後、僕はスカートに染みが残らないようティッシュで拭いていた。
 前回の『勉強会』からクリーニングに出していないままのスカートには、いくら拭いても消えない跡が残っていた。
 クリーニングに出したら、この染みは落ちるのだろうか。
 匂いを嗅いでみると、染みのくせに漂白剤と同じ匂いがした。

「ねえ、成海ちゃん。今度ピンク色のリップをプレゼントするよ」

 唐突に根津君が言った。

「そんなの僕は……」

 よりによって、なぜピンクなのか。
 そんな物、僕は要らない。

「きっと似合うと思う」

 断ろうとしたけれど、やっぱり根津君は聞いてくれなくて。

「そしたら、口でしてよ」

 おぞましい要求に僕が答えられないでいると、根津君は人差し指でクイッと銀縁眼鏡を上げた。

「イヤとは言わないよね?」
「でも……」
「僕がこんなになったのも君のせいなんだよ。君が電車の中であんなことをするから」
「…………」

 しばしの沈黙のあと、僕はコクリと頷いた。
 嫌で、情けなくて、泣きたいのに、曖昧な笑顔で頷いた。
 異世界のナルミンは、嫌なことは嫌と言えるのに。
 現実世界の僕は、嫌と言えずに頷くしかなかった。
 きっとこの現実は間違ってるんだ。



6.電車の中でのこと

 王宮の奥にある一室。
 そこに設《しつら》えられた天蓋つきのベッドで、王は荒い息を吐いていた。

「父上!」

 重傷を負い、死の床に伏した父王に、姫がすがりつく。

「姫よ、泣くでない。これも勇者殿を裏切った報い。天運である」

 先の魔神との戦いで、僕は囮となって敵を引きつけ、その隙に背後から王国軍が攻め込む手はずとなっていた。
 そのはずだった。
 しかし、僕が敵軍の真ん中で孤軍奮闘している間、王国軍は動かなかった。
 いつまで経っても全軍突撃の命令は発せられなかった。
 王は最初から僕のことを見殺しにするつもりだったのだ。
 僕さえ居なくなれば、今まで通り生贄として娘を差し出し、魔神を静めることが出来る。強大な魔神軍と戦って多大な犠牲を払わなくとも、王国は平和な日々を取り戻すことが出来るのだ。
 第一、魔神軍に勝利しなければ、今までよりも悲惨な状況となることは想像だに固くなかった。
 愛娘の想い人である僕の命と王国の平和を天秤にかければ、一国を統べる王としては僕を裏切る選択は当然だったのかも知れない。
 しかし、民は、王国軍の大多数を占める民兵たちは違っていた。
 一万の魔神軍にたった一人で立ち向かい、群がるゴブリンを倒し、飛来するガーゴイルを退け、ジャイアントにも怯まない僕の姿を目の当たりにして、ひとりの少年兵が動いた。
 少年兵が振り下ろした棒の先に鎌をくくりつけただけの粗末な武器は、オークの後頭部に突き刺さった。不意を突かれたオークはあっけなく絶命した。
 それが最初だった。
 大多数を占める民兵が続き、金でしか動かないはずの傭兵が動き、最後に名誉を重んじる騎士が参戦した。
 不意を突かれた魔神軍はあっと言う間にその数を半分に減らした。とは言え、魔神軍五千。これに対し王国軍は二千。いまだ倍以上の差がある上に、倒した大多数はゴブリンやオークばかり。怪力のオーガや空を飛ぶ厄介者のガーゴイルはその多くがまだ健在で、十二体いたジャイアントに至っては僕がやっと一体を倒したきりだった。
 戦況は、敵味方入り乱れての乱戦へと突入した。
 乱戦となれば、数と個の力に劣る王国軍が劣勢に回るのは火を見るよりも明らかだった。民兵を中心に王国軍は見る間にその数を減らした。
 その難局を救ったのは、姫君とその父である王に他ならなかった。
 危ないからと侍従たちが止めるのも聞かず、僕を心配して戦場に現れた姫が、劣勢となっても動かない父王を説得したのだ。
 愛娘の訴えに心動かした王は、残ったわずかな手勢を率いて乱戦の中へと身を投じた。
 老いて一線を退いていたとは言え、鬼神のような強さで敵を蹴散らす王。
 最前線で『勇者』と呼ばれる僕と肩を並べて戦い、檄《げき》を飛ばすその姿に、全軍が発奮した。
 劣勢だった王軍は勢いを盛り返し、魔神軍に立ち向かった。
 戦況は一変した。
 統率者の居ない魔神軍に対し、王を中心として結束を固めた王国軍は、徐々にこれを圧倒した。
 そして、七体目のジャイアントが倒れ、残る五体が背中を見せて戦場から逃げ始めたとき、勝敗は決まった。
 敗走する魔神軍に対し、しかし、それを追撃する余力は僕ら王国軍には残っていなかった。
 二千いた王国軍のうち生き残っていたのは、わずか百あまり。王は致命傷を負い、僕も左腕を失っていた。

「勇者殿……」

 死の床から伸ばした手を残った右手で取ると、王は息も絶え絶えに僕に言った。

「そなたを裏切った余が言えた義理ではないが……、最期にひとつ頼みがある」

 僕は弱った王の手をギュッと握り返した。

「恨んでなんかいません。一国の王としては苦渋の決断だったこと、わかっています」
「ゆ、勇者殿……」

 王の目から一筋の涙が零れた。

「姫を……娘を、頼……む」

 それだけ言うと王の手からすうっと力が抜けた。

(虫のいい話だね)

「うん」

(見殺しにしようとしたくせに、なんて虫がいいんだろうね)

「あんなに酷い目に遭ったら、僕には許せそうにないよ」

(現実世界ではね)

「うん」

(じゃあ、異世界なら? 異世界だったらどう?)

「異世界なら……、僕は許せるのかな」



 ※ ※ ※ ※ ※



 根津君の家からの帰り道、僕は駅で電車が来るのを待っていた。その間、ホームのベンチに腰掛けて『異世界無双《いせかいむそう》』の続きを読んでいたのだけれど、どうやら熱中し過ぎていたらしい。声を掛けられるまで僕は目の前に、彼女が居ることに気がつかなかった。

「成海《なるみ》君」

 名前を呼ばれて顔を上げると、ボブカットの前髪を長く伸ばした伏し目がちの見るからに内気そうな女子高生がいた。
 全体的に大人しそうな印象の女子高生。
 僕は彼女を知っていた。
 長く伸ばした前髪を知っていた。
 ピンク色のリップを控えめに引いた唇を知っていた。
 コートの下に隠された柔らかな二つの膨らみを知っていた。
 僕は彼女に会いたくなかった。
 無言で本を閉じ、その場から立ち去ろうとした刹那、女子高生が僕の手を掴んだ。

「待って、成海君」
「離してください、美幸《みゆき》さん」
「お願い。待って」

 僕は大人しそうな女子高生、金町美幸《かなまち みゆき》さんの手を振りほどこうとしたのだけれど、引き止める彼女の手の力は華奢な割に存外に強くて、振りほどくことが出来なかった。

「私、謝りたいの。あの時のこと」
「謝りたい?」
「うん」

 伸ばした前髪ごしに見えた美幸さんの目が涙で潤んでいた。

「お願い」

 そんな悲愴感の籠った目で引き止めても、何を今さら謝るというのだろう。
 そのピンク色の唇で、僕に何を謝罪するというのだろう。
 あの日、電車の中で起きたことが全てを変えてしまった。今さら謝ってもらっても、もう元どおりには戻れないというのに。
 あれは今年の夏休みが明けてまだ間もない、暑い日のことだった。



「お姉ちゃん、速くしてよ! 電車に乗り遅れちゃうよ!」
「ごめん、成海。走って追いかけるから、先に行ってて」
「しょうがないなあ、お姉ちゃんは。そんなんだからモテないんだよ」
「なんか言った?」
「なんでもない! 先に行くね!」

 その頃の僕は、毎朝お姉ちゃんと一緒に家を出て、同じ電車に乗って学校に通っていた。
 時々、お姉ちゃんが寝坊したりとか、髪型がうまく決まらないとかで、僕だけ先に家を出ることはあったけれど、そんなときはお姉ちゃんが走って追いかけて来て、でも、追いついて一緒の電車に乗れるのは半々ぐらいだった。
 その日も、またお姉ちゃんが寝坊して、僕は先にひとりで駅へと向かった。
 朝だというのに晩夏の日差しは肌に刺さるようで、普通に歩いていても背中がじっとりと汗ばむような陽気だった。
 こんな暑い中走ったりしたら、汗だくになるのは間違いない。そんなだから、高校生にもなって彼氏のひとりも出来やしないんだよ、なんてませたことを考えながら、でも、お姉ちゃんが男の人と一緒にいる姿なんて僕には露ほども想像できなかった。
 お姉ちゃんが大好きだった。
 優しくて、可愛くて、おちゃめで、時々意地悪で、僕が好きなアニメを馬鹿にするくせに僕よりのめり込んで観てたり、ひとり静かに宿題をしているとちょっかいを出してきては僕を困らせたり、でも、結局は分からなくて四苦八苦していた難問をちゃんと教えてくれたり。そんなお姉ちゃんが僕は大好きだった。
 なんのかんの言って、僕らは仲の良い姉弟だった。
 この日までは。
 その朝、駅のホームはやけに混んでいた。
 質の悪いスピーカーから流れるアナウンスはよく聞こえなかったけれど、何処かで人身事故があったとかなんとかでダイヤが遅れているらしい。
 少し遅れてホームに着いた電車のドアが開き、いつもより二割増しの乗降客と押し合いへし合いするうち、気がつくと僕の背中は乗ったのとは反対側のドアにへばりついていた。
 人混みで身動き出来ない中、お姉ちゃんこの電車に乗れたかなとか、次にこっちのドアが開くのは何駅だっけなとか考えていると、

「成海君?」

 背中をドアに預けた僕の向かい合わせに立つ女子高生が、小さく僕の名前を呼んだ。

「覚えてない? 私のこと」
「覚えてます。美幸さん」

 お姉ちゃんと同じ高校の制服を着たボブカットの大人しそうな女子高生に、僕は彼女に聞こえるだけの小さな声で答えた。
 お姉ちゃんが中学校に上がった頃、一度家に遊びに来たことがある。
 そのときの印象も大人しそうな人だなって思った。
 まだ小学生だった僕を、カワイイとか、女の子みたいとか言って、両手で抱きしめて離して離してくれなくて、「家に来て、弟になってよ」なんて言われて僕が返事に困っていると、「ダメよ。私の弟なんだから。あげないわよ」ってお姉ちゃんが庇ってくれたのが子供心に嬉しかった。

「覚えててくれたんだ」
「あ、はい」
「嬉しい」

 淡いピンク色の唇で、美幸さんは囁くように言った。
 前に家に来たときは、確か、こんなピンク色じゃなかった。

「晴海《はるみ》ちゃんは?」
「お姉ちゃん、今日、寝坊しちゃって」
「そうなんだ」
「後から追いかけるって言ってたんだけど、コレに乗れたかどうかわかんない」
「晴海ちゃんらしい」

 ピンクの唇で、美幸さんがくすくす笑った。

「成海君、昔は『美幸ちゃん』って呼んでくれたのに、『美幸さん』なのね」
「もう中学生ですから」
「そうね、背も伸びたしね」

 僕はクラスでもそんな高い方じゃないけれど、美幸さんはお姉ちゃんよりも背が低くて、高校生なのに僕と丁度同じところに視線があった。
 こんな近くで女の子と視線を交わすのが気恥ずかしくてうつむくと、夏用の制服の下に窮屈に収めれられた、お姉ちゃんより大きな二つの膨らみが目に入った。
 慌てて視線を戻すと、美幸さんとしっかり目が合った。

「気になる……よね。私の胸」
「いえ、僕は……」
「男子がね、いやらしい目で見るの」
「僕は、そんなんじゃ……」
「成海君も、男の子だもんね」

 ボブカットの伸ばした前髪越しに見える美幸さんの顔は赤くなってて、きっと僕の顔も同じくらいに赤くなっていたと思う。
 そのとき、大きくブレーキ音がして電車が急停車した。
 慣性で進行方向に身体が持って行かれるのを、乗客たちは吊革につかまったり、壁に手をついたり、そう出来ない者は二本の脚で踏ん張ったっりしてしのいだのだけれど、踏ん張りきれずに尻もちをついた人もいた。
 たまたまドアを背にしていた僕は、背中に体重をかけてやり過ごすことが出来たのだけれど、僕と向かい合わせだった美幸さんは身体を支えるつかまるものが無かった。咄嗟に僕に身体を預けて、僕もなんとか美幸さんを支えようと必死で。

『ただいま、先行電車で非常ボタンが押されたため、急停車しました』

 騒めく車内に、アナウンスが流れたのだけれど、高鳴る心臓の音で僕には半分も聞こえなかった。
 僕に身体を預けた美幸さんを支えようとした右手が、美幸さんの左胸の上にあった。
 制服ごしに触れた美幸さんの胸は柔らかくて、その感触が右の手のひらから伝わって、僕の心臓は暴走したポンプみたくドキドキと全身に血液を巡らせた。
 刹那、慌てて手を退けようとしたのだけれど、それよりも速く美幸さんの手が遮った。
 右手の上に添えられた美幸さんが左手が、乙女の膨らみから引っ込めようとするのを阻む。美幸さんは更に体重を掛けて僕に寄りかかってきて、押しつけられた胸に右手の指が沈んだ。
 いけないことをしているという罪悪感に足が竦んで、でも、右手の中の柔らかな感触に抗うことが出来なくて、僕はどうしていいか分からずに俯いていた。
 ピンク色の美幸さんの唇から、小さな吐息が漏れる。
 僕の右手に添えられた左手がじっとりと汗ばんでいた。

『安全確認が取れるまで停車します』

 車内アナウンスが時間を止めた。
 ただ学校に行くための移動時間が、別の物に変わった。
 空調が効いているはずなのに、車内がやけに暑く感じる。
 僕の右手に添えらえていたはずの美幸さんの手が、いつの間にか下に移動していた。
 移動した左手が、ズボンの上から僕の股間に触れた。

「あっ」

 触れられた瞬間、背中を電流が流れて思わず声が漏れる。
 咄嗟に力が入った右手にぐにゃりとした感触がして、柔らかな胸が形を変えた。
 美幸さんがビクリと身を竦める。
 僕は痛いぐらいにカチカチになっていて、それを美幸さんに知られるのが恥ずかしくて、でも、美幸さんの左手はそれを知ろうとズボンの上を行き来して。
 やがて、ズボンのジッパーを探り当てると、左手が恐る恐る引き下ろした。ジッパーが開き、戒めを解かれたパンパンに張った僕が、白い下着を押し上げて顔を出した。
 先の方から出た何かが下着を湿らせるのがわかったけど、それが何だか僕にはわからなかった。
 また力が入って右手の中で柔らかな胸が形を変えると、美幸さんもまたビクリと身を竦めた。
 美幸さんの指がカチカチになった先端に触れた。
 僕は下着が湿っているのが恥ずかして、でも、指先はそれをしっかりと確かめていて、羞恥心と罪悪感に居たたまれなくなったけれど、僕にはそれに抗う術がわからなかった。
 美幸さんの指はそれだけでは飽き足らず、下着の中に入って来てカチカチになった僕を外へと開放した。
 外に出た僕を、美幸さんの柔らかい手が握った。
 僕の口と、美幸さんのピンク色の唇とから、小さな吐息が同時に漏れた。
 美幸さんの左手が僕を握ったままゆっくりと動いて、僕は頭の中が真っ白になって、右手は美幸さんの胸を握りしめて、ほんの数秒で僕は絶頂を迎えた。
 僕の中から弾けた液体は、後から後から溢れ出て、美幸さんの手を汚してスカートにまで飛び散った。
 初めてだった。
 僕が射精したのは、そのときが初めてだった。
 怖くて、気持ちよくて、でもやっぱり怖くて、ガクガクと脚が震えた。
 どうしたらいいかわからなくて美幸さんを見ると、美幸さんはびっくりしたように目を見開いて、その目にみるみるうちに涙が溢れて、大粒の涙がぽろぽろと零れるころには、しゃくりあげて泣いていた。

「どうしたの?」

 美幸さんの隣で向こうを向いて立っていた女の人が、泣き声を聞きつけて振り向いた。

「あなた何やってるの! 離しなさい!」

 女の人が、美幸さんの膨らみに指を沈めた右手の手首を掴んだ。

「痴漢よ! 痴漢!」

 女の人が高々と上げた右手と、しゃくり上げて泣く美幸さんとを、僕は茫然と見ていた。
 ぽろぽろと零れる涙を、美幸さんは僕の精液がついた手で拭っていた。
 その後、電車が動き出して、次の停車駅に着いたとき、僕と美幸さんは女の人に車外へと引っ張り出された。
 女の人は大声で駅員さんを呼び、騒ぎを聞きつけた乗降客が僕らの周りを取り囲んだ。
 その間、美幸さんはずっと泣いていて、僕はと言えば、女の人に右の手首を掴まれてズボンのジッパーも上げられず、開いたままのところが衆目の目に晒されないよう残った方の手で隠すのがやっとだった。
 人混みをかき分けて近づいてくる駅員さんの声が聞こえた。
 でも、それよりも速く来た人がいて、

「成海? それに、美幸ちゃん?」
「お姉ちゃん」

 事故で遅れていたのが幸いしたのか、後から家を出たのに同じ電車に間に合ったお姉ちゃんが、騒ぎを聞きつけてそこにいた。

「痴漢よ。この子が女の子の胸を触っていたのを捕まえたのよ」
「成海が、痴漢?」

 困惑顔のお姉ちゃんに、女の人が更に続けた。

「触ってただけじゃないわ。その子のスカートを見て」

 女の人が顎で指したスカートに、飛び散った精液がついていた。

「この子が女の子のスカートを汚したのよ! いやらしい!」
「本当なの? 成海」
「…………」
「成海!」

 その問いに答えられずにいると、お姉ちゃんは左手で前を隠している僕と、泣きじゃくる美幸さんとを交互に見た。
 見る間にお姉ちゃんの表情が変わった。
 あんな顔のお姉ちゃんは見たことが無かった。
 あんな顔のお姉ちゃんを見たくはなかった。
 僕の前を通り過ぎ、まだ泣きじゃくっている美幸さんの側に駆け寄ると、お姉ちゃんは汚れたスカートをティッシュで拭き始めた。

「美幸ちゃん、大丈夫?」

 慰めながらお姉ちゃんは、飛び散った僕の精液を綺麗にしようと懸命に拭いた。

「お姉ちゃん……」

 僕が声を掛けても、振り向きもせず懸命に。

「お姉ちゃん」

 それでも、もう一度声を掛けると、お姉ちゃんはようやく振り向いて、でも、その顔は優しくて、可愛くて、お茶目な、僕が知っているお姉ちゃんじゃなくて、

「あんたなんか、弟じゃない」

 お姉ちゃんは、僕のお姉ちゃんじゃなくなった。



 その後、駅員さんが来て、僕は駅舎へと連れていかれた。
 駅員さんに電車の中でのことを根掘り葉掘り聞かれたけど、そんなことよりもお姉ちゃんに弟じゃないと言われたことがショックで何も言えなかった。
 程なくお母さんが来て、駅員さんにぺこぺこ頭を下げ、僕もお母さんと一緒に何度も頭を下げて、それでようやく駅から帰されたのはお昼を過ぎたころだった。
 その日は学校を休んで、お母さんに連れられて家に帰った。
 聞いたところによると、お姉ちゃんがなだめてくれたお陰で、美幸《みゆき》さんは警察沙汰にしなかったとのことだった。
 それで僕は警察にも捕まらず、学校にも報らされることはなかった。
 家に帰ってもお母さんは何も言わなかったけれど、その日からどこかよそよそしくなった。
 でも、お母さんはお姉ちゃんに比べればましだった。
 お姉ちゃんは僕のことを汚物でも見るように忌避した。
 僕のことを貶めたり、無視したり、悪しざまに罵ったりした。
 僕はそれが辛かった。
 そしてもうひとつ。
 次の日、学校に行くと、根津君が僕に囁いた。
 クラスのみんなにバラされたくなかったら言うことを聞けと。
 どうやらあの電車に乗り合わせて、一部始終を見ていたらしい。
 僕には、うんと言う以外の選択肢はなかった。
 根津君は僕に家に来て女の子の恰好をするよう強要した。
 僕はお姉ちゃんが中学生のときに着ていた制服や、着古した下着をこっそり持ち出して、根津君の家を訪ねた。
 そうやって僕と根津君の二人だけの『勉強会』が始まったのだった。
 あの日、全ての歯車が狂ってしまった。
 全ての歯車が噛み合わなくなってしまった。
 その原因が、元凶が、あの日、込み合った電車の中での美幸さんとのことが全てだったというのに、今更何を謝るというのだろう。
 僕は冷ややかに美幸さんを眺めた。

「ごめんなさい」

 まず、最初に出たのは、ありきたりな謝罪の言葉だった。

「私、どうかしてたの。その……男の子がどうなってるかとか、男の子に触られたらどうなっちゃうんだろうとか、ずっと前から変なことが頭の中から離れなくて」

 美幸さんのピンク色の唇から、自分勝手な理由が溢れた。

「でも、年上の男の人とか、同い年ぐらいの男の子って怖くて。あの日、電車の中でたまたま出会って、偶然胸を触られて、そのとき成海君なら年下だしカワイイし、大丈夫かなって思って」

 そんな理由で僕は選ばれたというのか。

「身体が熱くなって、もっと触られたらどうなっちゃうんだろうって思って、あと成海君がどうなってるんだろうって思って触ったらすごい硬くなってて、男の子のことがもっと知りたくて、直に触れてみたらわかるかなって、でも……」

 そんな好奇心で僕は弄ばれたというのか。

「その……い、いっぱい出たのにビックリして、そしたら怖くなっちゃって、涙が出て、それで、それで……」

 そんな自分勝手で、僕はこんな目に。

「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」

 呆れた。

「私、本当にどうかしてたのよ」

 僕は、心底呆れた。
 自分勝手な好奇心と、欲望の犠牲となった我が身が憐れで悲しかった。

「許してくれる?」

 美幸さんが、上目遣いで僕を見る。
 そんな風にされたって、あざとく感じるだけで、許せるはずなんてない。
 でも。
 そのとき僕は思った。
 でも、もしここが現実じゃなかったら。
 現実世界じゃなくて、異世界だったら。
 ナルミンだったら。
 異世界に転生したナルミンだったら、きっと許すんだろう。
 裏切られて、もう少しで死ぬような目にあっても、王様を許したように。
 そこまで考えて、僕は思い直した。
 あれは異世界だから出来たんだ。
 本当なら許せるはずない。
 現実世界なら許せるはずなんてない。
 自分を酷い目に遭わせた裏切り者を、許せるはずなんて。
 でも。
 もし許せるとしたら。
 ナルミンがしたように、僕も美幸さんを許したとしたら。
 何かが変わるかも知れない。
 この間違った世界の何かが変わるかも知れない。
 そんな妄想を抱いて、僕は美幸さんに言った。

「いいですよ」

 あり得ない未来を思い描いて、言った。

「美幸さんのこと、許します」

 ひょっとしたら。
 ひょっとしたら、お姉ちゃんと仲のいい姉弟に戻れるかも知れない。
 ひょっとしたら、根津君と普通の友達になれるかも知れない。
 そんなはずないのに。
 美幸さんを許したって、そんなこと起きるはずないのに。
 現実は甘くない。
 この間違った現実世界は、そんなに甘くなんてない。
 それは嫌というほどわかってる。

「ありがとう、成海君」

 美幸さんが言った。

「本当にありがとう」

 僕の手を取り、目を潤ませて、美幸さんが言った。
 ああ、これで美幸さんは救われたんだ。
 僕の良心が思った。
 でも、僕のもうひとつの心は違った。
 僕は救われないのに。
 お姉ちゃんと仲のいい姉弟に戻れることなんてないし、根津君が僕を玩具にするのを止めることもない。
 だのに、美幸さんは救われた。「許す」と言った、たったの一言で。
 僕の手を取って涙ぐむ美幸さんが、羨ましくて、妬ましくて、恨めしかった。
 やっぱり、この世界は間違ってる。

「私、おかしかったの。中一のとき、友達からあんな話を聞いてから」

 間違った美幸さんが言った。

「その友達、お母さんが再婚して、お母さんが家にいなくて再婚相手の男の人と二人になったときに、再婚相手の人が部屋に入って来て、押し倒されて無理やり最後までされちゃったって」

 僕は間違ったそれを聞いていた。

「それから、何度も乱暴されたって。お母さんが居ないときに何度も何度も。でも、そんなことお母さんに言えなくて、その友達、悩んでた」

 冷めた気持ちで。

「私、友達が悩んでたのほっとけなくて、相談にのるよって言って誰にも言わないからって約束して、ようやく聞き出したら私が思ってたのよりずっとずっと深刻な悩みで、私の手には負えなくて、私には刺激が強過ぎて」

 繰り返される言い訳を。

「悩みを解決するよりも、友達が男の人にどんなことされたのか、どんな風にされたのかが気になって、乱暴されたときのことを何度も何度も聞いて、聞くたんびにそのことが頭から離れなくなって、どんどんおかしくなって」

 美幸さんの間違った言い訳を。

「その友達、中一の冬に車に轢かれて亡くなって、遺書とかなかったから事故ってことになってるけど」

 聞いて。

「その前に『こんな現実間違ってる』とかなんとか変なこと言ってて、あの話聞いてたから、自分から死を選んだんだと思う」

 聞いて。

「学校近くの交差点よ。大型トラックに轢かれて即死だったんですって、香織《かおり》ちゃん」

 え?

「毎週お母さんがお花をお供えするんだって。香織ちゃんが亡くなった日に」

 ちょっと待って。

「私、香織ちゃんからあんな話を聞いてから、ずっと頭の中から離れなくて」

 香織ちゃん?

「香織ちゃんが亡くなって何年も経つのに、変なことばっかり考えて」

 香織ちゃんって?

「おかしくなって成海君にあんなことしちゃって、ホントごめんなさい」

 香織ちゃんって……誰?

「覚えてない? 前に一緒にお宅にお邪魔したとき、成海君とも遊んだでしょ?」

 いや、お姉ちゃんが連れてきた友達は美幸さんで、美幸さんの他には……もう、ひとり……いた?

「香織ちゃん、成海君のこと抱っこして離さなくて、カワイイから弟に頂戴って言ったら、晴美ちゃんに断られて」

 それは美幸さんのはずで……いや、美幸さんはお姉ちゃんと笑ってて、僕を抱っこしてたのは……別の……

「髪の毛を真ん中から分けて、二つに結んでおさげにしてた子がいたでしょ?」

 待って待って、香織ちゃんって、それじゃあまるで旧校舎の図書室にいる図書委員の――

「三河島香織《みかわしま かおり》ちゃんよ。思い出した?」



7.交差点でのこと

 女神の声を聞くのは、現実世界で交通事故で死んで、この異世界に転生するとき以来だった。
 久しぶりと言った僕に女神は優しい声で答えた。

「無茶をしましたね」

 魔神軍との戦いで失った左腕のことを言っているのだろう。
 後悔はしていない。
 先の戦いで、王国と姫を守ることが出来たのだから、腕の一本ぐらい安いものだ。
 でも、僕にはひとつ疑問があった。

「僕は、百歳まで生きるんじゃなかったのか? 病気も怪我もせず、五体満足で天寿を全うするんじゃなかったのか?」
「その通りです」
「じゃあ、なんで腕を失った?」

 僕が聞くと、女神の声は言いにくそうに答えた。

「運命が変わりました。あなたが姫を助けたときから」

 どういうことか問いただすと、声は続けた。

「姫は生贄となって死ぬ運命でした。その運命は姫が生まれる前から決まっていました。でも、それをあなたが変えた。死すべき者の運命を変えたことによって、運命の歯車が少しづつ狂ったのです」

 声が更に続ける。

「先の魔神軍と王国軍との戦いが決定的でした。大勢の死すべきでない者の命が失われ、世界の命運は大きく変わったのです。その結果のひとつとして、あなたは片腕を失った」
「では、僕の運命も変わったのか? 百歳まで病気も怪我もせず、五体満足で天寿を全う運命も変わったのか?」
「そうです」

 声が肯定した。

「僕はいつ死ぬんだ?」

 その質問には答えず、声は言った。

「狂った運命の歯車を元に戻さねばなりません」

 決意を込た声で、きっぱりと言い放った。

「この命に代えて」

(そうするしかないの)

「ダメだよ」

(ダメ?)

「そんなのダメだよ」

(でも、そうするしか他に)

「いやだ。僕のせいで犠牲になるなんていやだ!」

(他に方法が)

「いやだよ、香織さん! 行かないで!」

(……ナルミン)

「この世界に……現実に、僕を置いて行かないで」



 ※ ※ ※ ※ ※



 僕は自宅とは反対方向の電車に乗って、学校へと向かった。

「香織《かおり》ちゃん、お母さんの再婚相手に乱暴されたのよ。お母さんが居ないときに何度も何度も」
「乱暴されたことをお母さんに言えなくて、香織ちゃん悩んでた」
「中一のとき香織ちゃん車に轢かれて亡くなって、遺書とかなかったから事故ってことになってるけど、その前に『こんな現実間違ってる』とかなんとか変なこと言ってて、あの話聞いてたから、香織ちゃんは自分から死を選んだんだと思う」

 電車を降りて、学校へと急ぐ間に美幸さんから聞いた話を反芻する。

「学校近くの交差点よ。即死だったんですって。大型トラックに轢かれて」
「毎週お母さんがお花をお供えするんだって。香織ちゃんが亡くなった日に」

 美幸さんから聞いた『香織ちゃん』の特徴は、僕が知っている『香織さん』とそっくりで、

「髪を真ん中で分けてて、二つに結んでおさげにしてて」

 僕は嫌な感じがして、胸がざわついて、怖くて、

「本? 読書するタイプじゃなかったけど、そう言えば亡くなる前によく読んでた」

 香織さんに会いたくて、会って確かめたくて、

「そう、成海《なるみ》君が読んでるみたいなヤツ。黒い表紙の」

 僕は走った。
 学校への道を走って、走って、全力で走って。
 ようやく学校に着いたとき、丁度下校時間を報せるアナウンスが流れた。
 僕は下校する生徒たちとは逆方向に走って、そのまま旧校舎へと向かった。

「綾瀬《あやせ》君、下校時間よ。帰りなさい!」

 途中、担任の町屋《まちや》先生に見つかったけど、僕は無視して走った。

「ちょっと、待ちなさい! 綾瀬君!」

 先生にあとで怒られるかも知れないけれど、関係なかった。
 校内はほとんどの教室で電気が消されていて、旧校舎は元々電気が点いていなくて真っ暗で、でも、僕は電気を点けるのももどかしく、暗い廊下を走って一番奥の図書室を目指した。貸出カウンターにいつも同じ図書委員の女子がいる図書室へと急いだ。
 ようやく目的の場所に到着し、肩で息をしながら図書室の引戸に手を掛ける。
 開かない。
 元々建て付けが悪かったけれど、図書室の引戸はいくら力を込めて引っ張ってもガタガタいうだけで、全く開く様子がなかった。
 図書室の前で僕が悪戦苦闘していると、不意に廊下の電気が点いた。
 見ると、町屋先生が旧校舎の入り口からこっちへ歩いて来るところだった。

「成海君、そこ、開かないわよ」

 僕を追いかけてきたのだろう。
 廊下の電気を点けたのも、町屋先生かも知れない。

「鍵がかかっているから」

 鍵って?

「旧校舎は立ち入り禁止よ。そこだけじゃなくて全部の教室に鍵がかかってるわ」

 なんで今日に限って鍵なんて

「何年も前から閉鎖されている場所に、何の用があるの?」

 何年も前って、じゃあ

「先生、香織さんは?」
「香織さん?」
「香織さんはどこにいるんです?」
「誰?」
「図書委員の香織さんです」
「綾瀬君、聞いて」
「髪を真ん中で分けてて、二つに結んでおさげにして」
「この図書室はずっと前から閉鎖されてるの」
「童顔でとても歳上には見えないんだけど、でもそれを言うと怒って」
「ここには誰もいないのよ」
「香織さんはいつもここの貸出カウンターに座ってて」
「綾瀬君」
「図書委員の三河島香織《みかわしま かおり》さんは――」
「そんな子は図書委員にはいません」

 …………香織さん、どこ?

「先生、図書委員会の顧問だから、委員会の生徒は全員知っているけれど、三河島香織《みかわしま かおり》って子は委員会にはいないわ」
「先生」
「気味の悪いこと言ってないで帰りなさい。もう下校時間は過ぎてるわよ」
「……はい」

 僕は町屋先生に一礼してから、旧校舎を後にした。
 校門を出て、帰る生徒がひとりもいなくなった通学路を駅に向かってとぼとぼと歩き、やがて国道を渡る交差点へと行きつく。
 丁度信号が赤になったばかりで、信号待ちの間、横断歩道の白をぼんやりと眺めていると、国道を渡った向こう側の信号機の下に花束が見えた。
 真新しい花束が、自動車が通る度に風にあおられて揺れていた。
 そうか、今日は水曜日か。
 だから新しい花束が供えられていて――
 そのとき、僕の中で全てが繋がった。

 毎週水曜日に交差点に供えられる花束
 根津君のお母さんが言ってた、数年前、交通事故で亡くなった生徒の噂
 美幸さんから聞いた、『香織ちゃん』の話
 『香織ちゃん』は、お母さんの再婚相手に乱暴されて、それを悩んでて、大型トラックに轢かれて、即死で、こんな現実は間違ってて、髪を真ん中で分けてて、二つに結んでおさげにしてて、前に家に遊びに来たことがあって、僕のことカワイイって言って離してくれなくて、僕と同じ黒い表紙の本を読んでて!

(成海君)

「香織さん」

 国道の反対側に、香織さんの姿が見えた。

(私、もう行くね)

「行くって、どこへ?」

 僕は言わずもがなの質問を投げかけた。
 そんなの聞かなくたってわかっているのに。

(この世界は辛すぎるもの)

 香織さんの言う通りだ。
 この世界は辛すぎる。
 香織さんにとっても
 僕にとっても。

(こんな世界、間違ってる)

 そうだね。
 僕も香織さんも、何も悪いことはしてないのに、
 こんな酷い目に遭うなんて、
 現実世界は間違ってる。

(成海君もそう思うでしょ?)

「うん」

 僕は大きくうなづいた。
 国道を走る大型トラックが、猛スピードで何台も横切って行った。

(だから、行くの)

「行かないで」

(こことは違う別の世界に)

「僕を置いて行かないで!」

(こことは違う異世界に)

「香織さん!」

 心を決め、僕は香織さんに言った。

「僕も連れてって!」

 向こう側にいる香織さんに向かって叫んだ。

「僕も異世界に連れてって!」

 すると、香織さんは微笑んで、僕に手を差し伸べてくれた。

(行こう、成海君)

「はい! 香織さん!」

 この間違った現実世界に決別し、
 異世界へと赴くため、
 手を差し伸べてくれている香織さんに向かって、
 僕は一歩足を踏み出した。
 大型トラックが猛スピードで国道を走っていく。
 交差点の信号は、まだ赤だった。



8.図書室でのこと

 私が旧校舎一階の一番奥にある図書室に来たのは、たまたまだった。
 今日はお母さん出掛けるって言ってたから、今、家に帰ったらお兄ちゃんと二人っきりになる。
 そしたらきっと、お兄ちゃんは『勉強会』を始める。
 私の部屋に入って来て、力づくで、無理やり。
 初めてを奪われたときもそうだった。
 いきなり部屋に入って来て、無理やりベッドに押し倒されて、泣いて頼んでも止めてくれなくて。怖くて、痛くて、情けなくて、でも、「倫子、黙ってろよ」って言われて、怖くて、私、お母さんにも誰にも言えなかった。
 それ以来、家で二人っきりになる度、お兄ちゃんは『勉強会』を始めて、お兄ちゃんが満足するまで何度も何度も無理やりにされて、せめて外に出してって頼んでも聞いてくれなくて。
 そんなことを繰り返せばどうなるかは決まってる。だから、そうならないように、私はお兄ちゃんが望むことをなんでもやった。
 恥ずかしかったけど、嫌だったけど、自分から進んでやった。
 手でもしたし、口でもした。
 スマフォに撮られても、文句も言わなかった。
 お兄ちゃんが怖くて、言う通りにした。言う通りにするしかなかった。
 今日、お母さんは出かけてて居ない。
 お母さんが居ない家に帰ったら、お兄ちゃんはまた『勉強会』を始めるに決まってる。
 いつものように。
 それが嫌で、行くあてもなく校内をぶらついて、いつの間にか私は旧校舎の一番奥にある図書室へと来ていた。
 建てつけの悪い引き戸を苦労して開けると、貸出カウンターにひとりの男子がいて、他には誰もいなかった。
 可愛い男子だった。
 男子のことを可愛いなんて言ったらおかしいかも知れないけど、でも、その男子はまつ毛が長くて目が二重でぱっちりで、さらさらした髪は男子にしては長くて一見するとショートカットが似合う女の子みたいだった。
 この男子みたいに可愛かったらいいのにって思うけど、カワイイねって言われるのは小学校からしてる赤いフレームのメガネぐらい。私自身はちっとも可愛くない。せめて子供っぽい三つ編みを止めて、例えば貸出カウンターの男子みたくショートにすれば可愛くなるかなって思ったけど、きっと私には似合わない。
 いいなぁ、可愛くて。
 貸出カウンターにいるところをみると、図書委員さんなんだろう。
 青白い蛍光灯の光のせいか、何処か悲しげで、淋しげで、愁いを帯びたように見えた。
 けど、この図書委員さん、どっかで見たことある気がする。ずっと前、どっかで会った気がする。どこでだろう?
 本を探すふりをしてちらちら本棚の影からのぞき見してたら、図書委員さんと目があった。
 慌てて本棚の影に隠れて、でも気になって、もう一度のぞくとまだこっちを見てて、また慌てて隠れたら、図書委員さんの方から声を掛けてきた。

「本、好きなの?」
「は、はい」
「本はいいよね。読んでいる間は、現実を忘れさせてくれるから。嫌なことは全部忘れさせてくれる」

 ホントのところを言うと、普段、本なんて全然読まないんだけど、ちょっとばかり見栄を張って答えると、

「面白い本があるんだけど、読む?」

 図書委員さんが、貸出カウンターの上にドスンと本の束を置いた。

「僕も人に勧められて夢中で読んだんだ」

 あんまり興味はなかったんだけど、流れで貸出カウンターまで近づいてのぞき込むと、それは、文庫本より少し大きめのサイズの本だった。
 厚さ2センチほどの本が十数冊。
 こんなにいっぱい読めないよって思ったのが顔に出てたのか、図書委員さんが言った。

「小説って言っても全然難しくないよ。軽い文章で書かれたライトノベルってヤツで、スラスラ読めて、すっごく面白いから」

 そして、黒い表紙に白い活字で並ぶ五文字のタイトルを読み上げた。

「『異世界無双《いせかいむそう》』って本なんだけどね」



 了

へろりん

2019年12月30日 23時45分38秒 公開
■この作品の著作権は へろりん さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
僕は異世界で無双する。
◆作者コメント:
冬企画開催おめでとうございます!
やっと間に合いました。
読んでいただけたら嬉しいです。
よろしくお願いします。

【注意!】この作品には性的な表現が含まれています。ご注意ください。



2020年01月19日 22時24分38秒
作者レス
2020年01月12日 22時25分22秒
+10点
2020年01月12日 22時20分27秒
+40点
2020年01月12日 21時14分38秒
+20点
2020年01月11日 20時10分40秒
+10点
2020年01月10日 21時03分43秒
+20点
2020年01月06日 21時25分24秒
+20点
2020年01月06日 20時51分15秒
+20点
2020年01月06日 15時37分51秒
+10点
2020年01月04日 23時37分22秒
+20点
2020年01月04日 23時06分45秒
+40点
2020年01月03日 16時17分27秒
+20点
2020年01月01日 16時06分18秒
+20点
合計 12人 250点

お名前(必須) 
E-Mail (必須) 
-- メッセージ --

作者レス
評価する
 PASSWORD(必須)   トリップ  

<<一覧に戻る || ページ最上部へ
作品の編集・削除
E-Mail pass