渋谷で人の終わりと始まりを見続ける少女メア

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『特集です。今日は型破りな経営方針によって起業して間もない会社を東証上場にまで導いた、津田光(つだ ひかる)社長を尋ねました』
 数えきれないほどの人は互いに目を合わせることもなく、道路上を縦横無尽に歩いている。都会の喧騒はまるで他人行儀で、さも自分には関係ないという人ばかりだ。足を止めて他人に興味を持つのは、動物園の珍獣を見るような物珍しい目を向ける外国人だけ。その外国人も喧騒そのものを見るばかりで、歩く個人に注目することはない。
 日本で最も人が交わる地、東京は渋谷のスクランブル交差点。今日も今日とて誰とも知れない人が、押しては返す波のように交わりあい、ランプが赤に変わるたび引き潮のように逃げ出していく。
 友人同士でコミュニケーションを取り合うのが精いっぱいで、他人に気を配る余裕すらないという喧騒の中。だからこそそれは自然なことなのか、あるいはそういう性質なのか、現代日本に似つかわしくない姿形のそれは、大画面のビジョンに写されたテレビニュースを、無感動に見やっていた。
「君かい?」
 高級そうなスーツを普段着のように自然に着こなす上品さと、切れ味鋭い刃物のような雰囲気を併せ持った細身の男が、とある「少女」に話しかけた。
 少女は声のしたほうに振り返る。
「そうだ――君が、例の彼女、だね?」
 慎重な声音の男に呼び止められた、「彼女」と形容されたそれは、男の緊張など気にもしないという風で、ごくごく自然に振り返った。「彼女」以外に形容しようとすれば、もはや「異物」としか形容しようのないそれは振り返った。
「格好もさることながら、腕時計を両腕に二本ずつ、首からは大小さまざまな懐中時計を何本も下げ、極めつけはその錫杖の先につけられた時計だ」
 「異物」のそれは、姿かたちは人間の、女性の形をしている。背丈は中学生か高校生ほど。体の線は細いように見えるが、何かの宗教の聖者を思わせるような純白の外套を着ているために、本当のところはどうなのか分からない。面差しは整っていると言っていいだろうが、全く表情を動かさないためにその美貌がかえって不気味である。
 そして彼女の視線は、話しかけられた男のほうを見ているようで、実際は別のところに注目が言っているようだと、彼女に話しかけた男は思った。ラピスラズリもかくやという瑠璃色の瞳をしているのはわかるが、瞼は気だるげに伏せられている。
 「異物」の彼女の姿を形容するうえで欠かせないのが、男が言うように装着された、まるで何かの戒めかあるいは枷のような、身につけられたいくつもの時計の存在だ。更に異様なのが、その時計は全て指し示す時刻が違い、それでいて全ての時計が日本で採用されている標準時間とは全く異なる時刻を指し示す。身に着ける時計の中には逆に回っているものすらある。
 不気味でおぞましい「異物」である少女は、喧騒の渋谷の街で一人立ちすくんでいるのだった。
「私のニュースを見てくれているのかい?」
 男が話の切欠を探すように少女に話しかける。彼女に話しかけていたのは、先ほどのニュースに取り上げられていた津田光その人であった。
「はい」
 そこで初めて、少女は意思を見せた。ただしその声音は、微塵の感情も伺い知れないものだったが。
 男はそれがさも当然のように、あるいは少女の性質を最初から理解していたかのように、その異常性に目を向けることなく会話を返す。
「本題に入る前に、気になることがあるんだが、君はこんなおかしな―――失礼、世間一般からはかけ離れた風体をしているのに、周囲の人から注目を浴びないんだい?」
 彼女の容姿はまさしく「異物」だ。注目を浴びないほうが常識外れだ。男の疑問は当然のものだ。疑問は当然とはいえ、女性に対する物言いとしては失礼千万。ただし指摘された彼女のほうは、全く気に留めてもいないようだった。
「私は実体としては存在しない。例えて言えば蜃気楼のようなもの。蜃気楼は光の屈折によって視認できるようになるが、私は感情によって視認できるようになる」
 「それ」は淡々と、男に投げかけられた質問にだけ義務として課せられたかのように答えた。
「ではなぜ私にだけは君が認識できて、他の人間には君は認識されないんだい?」
「あなたが私を認識できるのは、それだけ私を求める強い感情があるということ。私を強く求めた人間に飲み、私は視認することができる」
 自分のことをまるで他人のように話す「それ」に対して、津田は興奮を抑えられないといったように、口に手を当てて震えながら興奮を口にする。
「――私は常に成功を収めてきた。我武者羅に働き、会社を興し、会社を大きくした」
 津田は自他ともに認める成り上がりだ。どこにでもいるシステムエンジニアだった彼は、自分のプログラマとしての腕と、類まれな上昇志向を武器に、就職した会社で名を上げ、独立して会社を立ち上げ、ついには急成長した企業としてニュースで取り上げられるまでにのし上がった。彼の歩んできた道には苦難こそあったが、取り返せないような失敗はなかった。そんな彼の上昇志向は留まることを知らず、野心を持ち続けている。
「成功の先に、私が歩んだ道の先に何が待っているのか、それが知りたい。知りたいのだよ!」
 津田はそこまで叫んで、はっと気づく。道行く人全員が足を止めて自分のほうを見ているのを。
「君は人間に認識できないとして、君と話している私は関係ないのか?」
「はい」
 焦った津田の疑問に対して、「それ」は淡々と答えた。
「――そうか、まあ、当然か」
 津田は気持ちを落ち着けるように一つ深呼吸をする。
「気持ちを落ち着けるついでに聞いておきたい。君の名前は?」
 そう津田が尋ねると、少女は不思議そうに首を傾げた。
「名前」
「そうだ、名前だ」
「そんなことを聞いてあなたの何になる?」
「興味本位さ――君と同じでね」
 何が同じなのかについては全く気にする風でなく、少女は言葉を探すようにして少し考えた末、口を開く。
「私の名に意味などない。あるのはここに私が存在するということだけ。この世を儚む私が存在するということだけ」
 少女は無表情に続ける。
「それでもあえて私という存在に呼称が必要であるのなら、私はメア。メアと名乗る。必要であるならそう呼んだらいい」
「メア(夢)か。いい名だ」
 津田は世間一般から見れば、相当な美男子といったも過言ではない。そんな彼から名を褒められれば、並の女性ならば表情の一つも変わりそうなものだが、メアと自称した少女は表情人使えることはない。津田もその事実を気にすることはなく、一度優しげに微笑んだあと、雰囲気をガラリと変えた。
「本題だ。君に会うことができた人間は、この世に生を受けたその時か、この世から亡くなるその時を見ることができると聞いた。違うかい?」
「肯定する。私は人の始まりと終わりを見ることができる」
 メアは異常とも言える自分の能力について、まるで生物は呼吸をするものだ、というほど当たり前のように言った。
「そうか、やはりそうか。君をずっと探していたよ。そうか、こんなに近くにいたのだね」
 メアの言葉が真実ならば、強い思いを持った人間しかメアとコンタクトを取ることができないということになる。そしてメアの言う「強い思い」とは、この世に生を受けた時か、あるいはこの世から失くなる時を強く知りたいと思ったモノだけ、ということになる 
「もう一つ、君に聞いてもいいかい?」
「私に答えられることならば」
 津田のしつこい質問にもメアは動じない。
「私はこれでも用心深い性格でね、私以外の人間には視認できないという現実を見せつけられてもなお、君が詐欺か、あるいは宗教のたぐいだという疑いを拭い去ることはできないのだよ」
 無遠慮な物言いにもメアは黙したままだ。
「そういった類のものではないという判断材料として、知りたい。君が人の終わりと始まりを見るのは、君が興味があるからと聞いた。それは間違いないかい? そして、なぜそんなにも人の終わりと始まりに興味を持つんだい?」
「最初の質問から答える。私が人の終わりと始まりについて調べているのは、興味を持っているから。そして二つ目の質問だが―――」
 メアはここで初めて言葉に詰まった。しかしそれは人間に特有の次の言葉を探しているというふうなものではなく、単に自分の意見を相手に伝えるために言葉を探しているというようなものだった。
「―――人間は選択する生き物だ。生物というのは本来本能で行動するものだが、人間は本能では動かず、常に何かを選択して生きている。私が興味があるのは、生を受けたその瞬間と、そこから選択を繰り返した先に何が待っているのか。それが千差万別であるのが興味深い」
「それで?」
「私自身には人間一人が始まってから終わるまでの選択のすべてが見えているが、興味を持って重点的に観測しているのは始まりと終わりだけで、それを見せられるのは能力的な問題でどちらかだけということになる」
 「能力的な問題」と言うところで、津田は他にもメアと同じような存在がいるのかと思ったが、自分に必要なのは目の前にいるこの少女だけだという思いを新たにし、メアに向き直る。
「よくわかった。興味があるという話、私にはよくわかる。自分自身を突き動かすのは、いつだって好奇心だ。君を探して君を見ることができるのも、私の好奇心の現れでもあると言えるだろうね」
 津田はこれまで、自分の歩んだ道の先には何が待っているのかという好奇心だけでのし上がってきたと思っている。仕事への興味、他人への興味、モノへの興味、全ては自分自身の内なる興味が、その先の自分自身にどんな影響をもたらすのか、常に考えながら社長として戦ってきた。その自負があるからこそ、興味を持つのは自分自身のためでもあるし、自分が積極的に動くための原動力だ。
 津田はもう一度深くうなずいた。彼女は詐欺でも宗教の勧誘でもなく、本物なのだと。
「その上でだ。君は恐縮しているようだが、私は全く構わないぞ。なにせ、私が選択した先の栄光がどうなっているかについて知ることができればそれでいいのだから」
 その科白のあと、津田は少し間をおいて、自分の意思をメアに伝えた。
「私は自分の終わりが見たい。君の言うところの選択肢の先に何が待っているのか、それが知りたい。興味がある」
 意思の強さを感じるその言葉に、メアは無表情で返す。
「私は貴方に、貴方の終わりを見せるだけ。それは覆しようのない真実であるし、それが貴方にとって良い結果だろうと悪い結果だろうと私は感知しないし、覆せない。ただ貴方の終わりを見せるだけ」
「もったいぶらなくていい。さっさと私の終わりを見せてくれ」
「それは了承したということ?」
「ああ、そうだ」
 待ちきれないと言ったように、津田がメアの口上を遮るようにして急かす。
 メアも津田の言葉に納得したのか、「わかった」と言って、静かに目を閉じた。津田が横でそわそわする中、メアは精神統一するかのように、しばし目を閉じたままだ。
 ―――その時、
「!」
 ―――カンッ!
 メアの手に持っていた、先端に時計のはまった木製の錫杖が振り下ろされ、杖の先と道路のコンクリートがぶつかる乾いた音が辺り一面に響き渡った。同時に、メアの目が見開かれ、美しい瑠璃色の眼光が顕になったかと思うと、錫杖にはまっていた時計が突如として勢いよく回り始めた。
 ゴウ、と音を立てて風が吹く。津田は、飛ばされそうとまでは思わなかったものの、目の見開かれたメアの姿を見るだけで精一杯だ。メアの髪は風によって逆立ち、この世のものとは思えない不気味さすら感じられる。
 メアと津田以外の全てのもの、渋谷の喧騒も、縦横無尽に歩く人も、塵やゴミの一つでさえも色彩が徐々に薄まっていき、やがて白の世界に染まっていく。
 メアはやはりその場に立ち尽くしたまま、津田は少しだけ面食らったものの、超常現象を目の当たりにしたことと、そして自分が探し求めた現象がついに展開されていることへの興奮が抑えきれないという様子だ。
 しばらくの間二人だけの白い世界が続いたあと、徐々に世界は色をつけていった。津田にとってこの場所がどこなのかはわからないが、取り戻しつつある色と形から判別するに、どうやら幹線道路であるようだった。
 津田が辺りを見渡していると、視界にメアの姿があった。メアのこの世ならざる尋常でない様子は鳴りを潜め、逆だっていた髪はもとに戻り、気だる気な視線と棒立ち具合は彼女を見つけたときに戻っていた。
「ここは……?」
「ここは貴方の終わりの場所。ここがどこなのかはわからないが、とにかく、貴方の生が終わる場所」
「……こんなどこにでもあるところが、私の終わりの場所だというのか……?」 
 確かに津田の言うとおり、辺りを見渡しても何の変哲もない、幹線道路沿いの住宅街といった趣の場所だ。時刻はおそらく夕暮れで、仕事帰りと思しきサラリーマンや、子供を自転車の後ろに乗せた主婦など、日本のどこにでも見られる光景だろう。成功者の末路としてはあまりにも普通すぎる、そんな場所、時間。
 そして気になるのは、もう一つ。
「おい、これから俺が死ぬというのに、なぜ屋外なんだ? 病院でも自宅でもなく、なぜこんな道路沿いなんだ?」
 人が死ぬときというのは、死因が病気や老衰であるならば、たいていは病に臥せっていたり体が動かなくなっていたりして、床に伏せていることが多い。現代社会においてはそうした最期を迎える人がほとんどだ。
 しかしそうでないならば、そしてここが道路沿いであるのならば、想定される選択肢はあまり無い。
「あ」
 放心状態の津田が思わずこぼしたその言葉は、眼前に見えたある人物に向けられたものだった。
 その人物とはすなわち自分。津田光その人であった。視線の先にいる自分はひどく狼狽していて、長い距離を走ってきたのかはぁはぁと荒い息を吐いて、そうかと思うと頭を大きく振りながら耳をふさいでいた。
 次の瞬間、耳をふさいでいた津田は後ろをぎょっとした様子で振り返ると、一目散に駆け出した。振り返ったその先には、葉の落ちた街路樹が一本あるだけだった。駆け出したその先には道路があり、すぐ向こうからはトラックが―――
「おい行くなッ!!」
―――ドンッ!


 津田は白の世界にいて、へなへなと座り込んでいた。メアと出会ったときの余裕はどこへやら、ひどく憔悴しているようだった。
 やがてメアと津田だけだった世界が色を取り戻していく。渋谷の喧騒の中にへたりこんだ津田が一人取り残される。
 正確には、まだそこにメアはいた。しかし、色を取り戻した渋谷の街とは反対に、メアの色彩は徐々に失われていった。
 津田は親を殺されたような声で叫ぶ。
「てめぇッ! どこへ行く!」
「貴方の願いは聞き届けられ、私の役目は果たされた。ただそれだけ。私はそれだけのためにいる」
「ふざけるなッ!!」
 津田が徐々になくなっていくメアに飛びかかり、拳を振り上げた。―――が、 
 メアはすでに津田が飛びかかった場所にはおらず、そことは反対側の、津田の背中側にメアはいた。
「私は蜃気楼のようなもの。私はそこには存在しないし、ここにも存在しない。貴方は私に触れることはできないし、私も貴方に触れることはできない」
 メアは事実だけを淡々と告げる。
「私には貴方がどのようにして最期を迎えるに至ったか見えているが、私にはそれを貴方に見せることはできない。だから、貴方は最期の時を迎えるまでにどのように生きればいいか、好きに考えればいい」
「ふざけるなッ!」
 津田の剣幕に取り巻いていた群衆がさっと引いていくが、津田はそんなことを気にしていない。自分が自分らしく生きられないという結果に、納得できようはずもない。周りに気をやる余裕があるはずもない。
「認めねえ! 絶対に認めねえ!」
「認めようと認めまいと事実は事実。事実を覆すことは不可能」
「うるせえ! お前なんかに俺の人生を決められてたまるかッ!」
 罵詈雑言を浴びせられたメアは、特に気にしている様子でもなく、徐々に色彩を失っていきながら、やはり淡々と事実を述べた。
「私の役目は果たされた。もう貴方と会うことはない。さようなら」
「待てッ!!」
 手を伸ばした津田の指先から、灰が風に飛ばされるようにして、メアは消えていった。渋谷という人間に埋め尽くされた街で、虚空に手を伸ばした津田と、まるでモーゼの十戒のように、津田の周りだけが綺麗に避けられた人垣があった。
 そんな状況でも津田は人目を気にすることはなく、ブツブツと何やら呟きはじめる。
「……トラックに轢かれたのであれば、家から外に出なければいい。会社も売り払う。命には変えられない。金は株でなんとかなる。会社を売り払う以上、今のマンションでは家賃を払えない。引っ越しが必要だ……」
 渋谷の街を憔悴した一人の男が歩いていたが、やがてそれは喧騒に飲まれ、最期には認識できなくなった。


~~~~~~


『続いてのニュースです。今日午後二時ごろ、東京都港区で歩行者の男性にトラックが衝突する事故があり、男性が死亡しました。死亡したのは株式会社スワンプコーポレーション社長の津田光さんで、トラックの運転手によると津田さんは道路に突然走って飛び出してきたということです。警察が津田さんの自宅を捜索したところ、覚せい剤や合成麻薬が見つかっており、覚せい剤のの幻覚症状により道路に飛び出したとみて調べを進めています』

 ここは夜の渋谷。スクランブル交差点。家路を急ぐ人や、これから飲みに行くのであろう若者のグループなど、千差万別な人々が歩く。そんな人々を見守るようにある大型ビジョンには、時の人とまで持て囃された人物の死亡のニュースが映し出されている。少なくない人数の人が足を止めて見やる中、「それ」は何の感動も感じることはないというような表情でポツンと立っていた。
 姿かたちは人間の、女性の形をしている。背丈は中学生か高校生ほど。体の線は細いように見えるが、何かの宗教の聖者を思わせるような純白の外套を着ているために、本当のところはどうなのか分からない。面差しは整っていると言っていいだろうが、全く表情を動かさないためにその美貌がかえって不気味である。
 彼女の姿を形容するうえで欠かせないのが、彼女の体の至るところに装着された、まるで何かの戒めかあるいは枷のような、身につけられたいくつもの時計の存在だ。更に異様なのが、その時計は全て指し示す時刻が違い、それでいて全ての時計が日本で採用されている標準時間とは全く異なる時刻を指し示す。身に着ける時計の中には逆に回っているものすらある。
 そんな不気味な「それ」の、ラピスラズリのような美しい瑠璃色の瞳が、こちらをじっと見つめている一人の男の存在を捉えた。
「あの」
 その男は自信なさげに、申し訳なさそうな声音で少女に話しかけた。
「渋谷にいる時計をたくさんぶら下げた女の子に会えれば、自分の生まれた時か死ぬ時が見られると聞いたんですけど」
「はい、それは私」
 特に抑揚もなく、話すことが義務であるかのように少女は肯定した。
「私にも、私が死ぬところを見せてくれるんですか?」
「はい」
 やはり申し訳なさそうな声音で男が尋ねると、とかく簡素に少女は答えた。少女はなおも続ける。
「私は人間の生に興味があるから、人の始まりと終わりを見続けている。貴方はなぜ、自分の死ぬところを見たいと望む?」
 その言葉は疑問系ではあったが、まるで決まりきった儀式のように、興味という言葉からは程遠い問いかけであった。
 男は少し考えた後、少女と目を合わせることはなく、視線を下げて話し始めた。
「……私、浦和海(うらわ かい)と言うんですけど、浦和空(うらわ そら)って名前、聞き覚えがないですか?」
「あれで見たことがある」
 少女は大型ビジョンを指さしながら答えた。
「空は私の弟で、何をやっても平凡な私に比べて、弟は昔からなんでもできるやつだったんです。勉強はもちろん、私よりもあとに始めたテニスでもすぐに私よりうまくなって、しまいには平凡なサラリーマンの私に比べて、弟は宇宙飛行士にまでなった」
 下を向いていた浦和は少女に目を合わせることはなく、今後弟が行くのであろう空を見上げた。
 浦和空は日本人では○人目となる宇宙飛行士として、連日ワイドショーに登場している時の人だ。現在はアメリカに滞在しており、宇宙で活動するための最終調整をNASAで行っている。アメリカの超有名大学を主席で卒業し、テニスプレイヤーとしても学生競技では知られた存在であったという。いわゆる完璧超人という人物像だが、決して驕ったところはなく、周囲の人間に対しても優しい、人当たりもいい人物であるという。
 まさしく完璧。そんな弟と常に比べてきたという事実を思い返して、兄である浦和海は、大きくため息を吐いた。
「平凡を地で行く私と、宇宙飛行士の弟。同じ親から生まれ、同じように育ったのに、こうも育った結果が違うとね、自分という存在に疑問が浮かぶんですよ」
「人間の言葉で言うと、コンプレックス?」
「あるいはそうなのかもしれません。もっとも、私が弟のことを意識していても、弟は私のことなど忘れかけているでしょうけどね」
 そう言って浦和はぼやく。
「私は、私が死ぬときにどんな価値のある人間になって死ぬのか、それが知りたい。とても知りたいんですよ」
 ここでようやっと浦和は少女の方を見た。浦和は対して注目もしていなかった少女の容姿に目を奪われた。美しい蝶が羽ばたくさまは、この世ならざる不気味さすら感じられるが、少女の有り様はそんな不気味さを内包していた。
 浦和はしばしの硬直の後、やはり自信がなさそうに尋ねた。
「詮無い話でしたね。貴方のお名前を聞いていませんでした。失礼ですみません。お名前はなんと?」
 少女は次の句を告げる前に、少し間をおいたあとで答えた。
「私の名に意味などない。あるのはここに私が存在するということだけ。この世を儚む私が存在するということだけ」
 少女は無表情に続ける。
「それでもあえて私という存在に呼称が必要であるのなら、私はメア。メアと名乗る。必要であるならそう呼んだらいい」
「メアさん、ですか。わかりました」
 浦和は一度うなずくと、決心したようにメアに訊く。
「メアさん、私に私の終わりを見せてください。私が死ぬときにどんな人間になっているか、どんな価値のある人生だったのかを見ておきたい」
「わかった」
 メアは感動もなくそう言うと、ゆっくりと瑠璃色の瞼を閉じて精神を鎮める。そのまましばし、時が流れる。
 メアの沈黙に耐えられなくなり、浦和が話しかけようかどうか迷っていた―――その時、
「!」
 ―――カンッ!
 メアの手に持っていた、先端に時計のはまった木製の錫杖が振り下ろされ、杖の先と道路のコンクリートがぶつかる乾いた音が辺り一面に響き渡った。同時に、メアの目が見開かれ、美しい瑠璃色の眼光が顕になったかと思うと、錫杖にはまっていた時計が突如として勢いよく回り始めた。
 ゴウ、と音を立てて風が吹く。勢いよく浦和を襲った風に対して、彼は反射的に近くにあった手すりに掴まった。それほどまでに凄まじい風だ。メアの髪は風によって逆立ち、この世のものとは思えない不気味さすら感じられる。
 メアと浦和以外の全てのもの、渋谷の喧騒も、縦横無尽に歩く人も、塵やゴミの一つでさえも色彩が徐々に薄まっていき、やがて白の世界に染まっていく。やがて浦和が握っていた手すりも形をなくし、それに寄りかかっていた浦和は支えをなくして、よろけた。
 メアはやはりその場に立ち尽くしたままで、浦和は自分の身に起こったことが理解できず、白い地面に体を丸め、防風に晒される自分を守っていた。
 しばらくの間二人だけの白い世界が続いたあと、徐々に世界は色をつけていった。風は徐々に収まっていったが、浦和にとってこの場所がどこなのかはわからない。風景から察するに、ここはどこかの病院で、誰かが最期の時を迎えようとしているようだった。
「あなた……」
「兄貴……」
 病院の部屋には痩せこけて床に付す、死にかけと言ってもいい老人と、その老人の妻らしき老婆、それに、年老いてはいるが未だに「「かくしゃく」」とした雰囲気を放つ男性の三人がいた。
 ベッドに寝かせられている男性は、何のためかもわからない物々しいコード類が無数に体につけられ、部屋の音といえば、物音はせず、心臓の鼓動を電子音で伝えているくらいだった。
「ベッドで寝ているのが私で、あれは妻で、そして……」
 そんな様子をじっと見つめ、二の句が告げなくなった浦和に対し、メアは急かすように聞いた。
「そして?」
「弟です。間違いありません」
 弟とはすでに何年も会っておらず、眼前の年老いた老人は何年後の弟なのかもわからない。だがしかし、いやだからこそ、それが何十年後の弟の姿なのだと、はっきりと理解した。
 そしてもう一つ、どうしようもない事実に彼は直面していた。
「私は最期でさえも特別ではなく、平凡なのですね」
 何の変哲もない病室、何の変哲もない病状、何の変哲もない死。弟に憧れ、特別を求め続けた男の末路としては、想定された通りの呆気ないものだった。予想はしていたが、現実を直視するのは辛い。
「私も弟のように、特別な存在でありたかった」
 浦和海は自分の行く末を見て、寂しく笑った。
 もう死期が近いのか、年老いた自分の口元からは人工呼吸器が外され、話せるようになってはいるが、未だ心臓の拍動を伝える機械音は弱々しいままだ。
「……わ、わるかったな、こんな不出来な兄で……」
 しわがれた声で年老いた自分が弟に話しかける。年老いて入るが未だに活力に溢れた弟は、その言葉を肯定するのかと思いきや、自嘲した老人の手を強く握りしめ、肩をいからせて叫んだ。
「何言ってんだよ! 兄貴の後ろにいたから今の俺があるんだよ!」
 年老いた弟が取り上げた手は、そのしわがれた手よりもよほど頼りなく、折れかけた枯れ木のようだった。その枯れ木のような手を、年老いた弟は、もぎり取るかのように強く、強く握りしめた。
「兄貴が道を作ってくれたから、今の俺があるんだよ! そりゃあ、忙しくて顔も出せない時期もあったよ。でも、兄貴のことを忘れたことなんて一日たりともなかったよ!」
 まだ活力のある弟は兄に力説するが、それに応えるだけの気力はすでに兄にはない。強く握りしめることのできる手を、痩せこけた手でほんの少し握り返すことしかできない。
「ありがとうな……」
 老いた病床の彼は、弟と妻にしか聞こえないくらい、弱々しい言葉で礼を言った。
「こっちこそ、ありがとう、兄貴」
「ありがとうな……」
 それを黙ってみていることしかできなかった、いや、正確には見ていることしかできない若い浦和海その人も、涙でグズグズになりながら、思わず礼の言葉が吐いて出ていた。
 自分のことは特別な存在などではないと思っていたが、弟にとっては決してそうではなかったということなのだ。
「兄貴、もう駄目なのか?」
 弟の哀しげな言葉に、死にかけの兄は少し表情をほころばせるだけだった。そしてそのまま、力を失っていく。気づかないうちに、一定のリズムを刻んでいた機械音は、音を響かせることをやめていた。
「ありがとな、兄貴。ありがとな……」
 若い浦和海は泣いた。涙で目を真っ赤にし、腕を顔にやって静かに慟哭した。そしてしばらく立った後、やっとの思いで腕を顔からどけると、そこは先程まで居た病室ではなく、最初に錫杖が振るわれた時の白い世界に、二人だけで立っていた。
 やがてメアと浦和だけだった世界が色を取り戻していく。渋谷の喧騒の中に、相変わらず無表情なメアと、目を赤くして必死にもう涙をこぼすまいとこらえる浦和の姿が戻っていた。
「尋ねたい」
 そんな浦和の様子などお構い無しで、メアが浦和に詰め寄る。
「貴方は特別であることが唯一無二の価値観であるとしているが、特別であることにどんな価値があるのか?」
「それ、は……」
「貴方の幸せは貴方のものだ。他人と比較して特別であることに、どんな価値があるというのか?」
「……いえ、価値など無いです」
「そういうことを言ってほしいわけではない。私は質問をしている」
 メアが浦和にあんな光景を見せたのは、やはり単なる興味であるということらしかった。事ここに至っても変わらないメアの意識に、現実に戻ってきたことを実感させられた浦和は、少し苦笑を浮かべながらメアの問いに答えた。
「いえ、私にはわかったんです。私は幸せなんだということに。私にも生きて、死んでいく価値があるんだということに」
「貴方は生きて死んでいくまでの間に価値を求めていた。この死に様に、価値があったということ?」
 メアの再びの問いに、浦和は一つの淀みもなく答えた。
「はい、価値はありました。それもとびきりに平凡で、とびきりに素晴らしいやつがね」
 メアはその答えに満足したのかしていないのか、表情ではうかがい知ることはできないが、それ以上に問いを投げかけることは無駄だと判断したようだった。
 全てが終わったことを告げるように、メアの体が透けていく。最初の願いは「自分が死んでいくときに価値のある人間に慣れているかどうか」だったはずだが、今の浦和にとっては、そんなことはどうでも良くなっていた。
 それに気づかせてくれた少女には、本来なら相応の礼を尽くすべきだが、メア本人の興味があるだけで善意などではないことを思い出し、そのまま黙って見送ることにした。
 するとメアは「最期という」言葉を破って、質問をぶつけてきた。
「もう私とあなたは顔を合わせなくなるが、その前に聞いておきたい」
「なんでしょう?」
「弟のことは好き? 嫌い?」
 メアの質問は精神的なものではあるが、小学生に聞くようなとてもシンプルなものだった。しかし、だからこそ答えるのは難しい。メアは考え込んでいる間にも消えていく。なので浦和は、今時分が思っている気持ちをそのまま言葉にした。
「うーむ、難しい質問ですね。好きでもないし嫌いでもない、複雑な気持ちです」


~~~~~~


『宇宙飛行士の浦和空さんが、今日夕方、アメリカのカリフォルニア州にあるNASAのロケット打ち上げ施設に到着し、取材陣のインタビューに答えました。浦和さんは家族への感謝を第一に語り―――』

「お前か」
 不躾な質問が浴びせられた相手は大型ビジョンのニュースをぼうっと眺めているようだったが、急に話しかけられたにもかかわらず、まるで話しかけられることがわかっていたかのように、特に動揺することもなく声のしたほうを振り返った。振り返った「それ」が認識したのは、くたびれたTシャツに穴の空いたジーパンを履き、コンビニのビニール袋を下げているが、おそらくはつまみと缶ビールが入っているのであろう、そんな禿頭の中年の男。
「はっ、確かにナリはとんでもなく不気味だな。あの世にでも連れて行かれちまいそうだ」
 渋谷という若者が跋扈する街には似合わない、薄汚れた雰囲気を持つ男だった。そんな男が、中学生ほどの少女に「見える」存在に絡んでいるようにしか見えない状況では、警察の一人も飛んできそうなものだが、いっこうにやってくる気配はないし、何なら携帯電話で警察を読んでいる素振りも見えない。
 男が訝しげに顎をさすりながら聞く。
「普通嬢ちゃんみたいな子に俺みたいなのが話しかけていれば通報されそうなものだが、されないってことは、嬢ちゃんの姿は見えてないってことか?」
 「嬢ちゃん」の姿形は確かに中学生化高校生ほど。本来であるなら男が話しかけた時点で通報ものだが、しかし少女の身なりのほうが特殊といえば特殊だ。
 男が「嬢ちゃん」と呼ぶように、姿かたちは人間の、女性の形をしている。背丈は中学生か高校生ほど。体の線は細いように見えるが、何かの宗教の聖者を思わせるような純白の外套を着ているために、本当のところはどうなのか分からない。面差しは整っていると言っていいだろうが、全く表情を動かさないためにその美貌がかえって不気味である。
 彼女の姿を形容するうえで欠かせないのが、彼女の体の至るところに装着された、まるで何かの戒めかあるいは枷のような、身につけられたいくつもの時計の存在だ。更に異様なのが、その時計は全て指し示す時刻が違い、それでいて全ての時計が日本で採用されている標準時間とは全く異なる時刻を指し示す。身に着ける時計の中には逆に回っているものすらある。
 浮浪者のような男が少女に話しかけても通報されないし、妙な格好をしている少女がそこに居ても、群衆から不思議がられることはない。そこから導き出される答えは一つである。
「私は実体としては存在しない。例えて言えば蜃気楼のようなもの。蜃気楼は光の屈折によって視認できるようになるが、私は感情によって視認できるようになる」
 少女は理屈っぽく肯定した。男は黙って話を聞いている。
「あなたが私を認識できるのは、それだけ私を求める強い感情があるということ。私を強く求めた人間に飲み、私を視認することができる」
 少女の矢継ぎ早の言葉に少し男は面食らっていたようだが、少女の瑠璃色の瞳をじっと見つめながら、少しずつ落ち着きを取り戻し、一つため息を吐く。
「噂通りか。半信半疑だったが、ここまで来ると流石に信じざるを得ないな」
 男は都市伝説の類だと思っていたようだったが、周りが少女を不思議がっていない様子からするに、どうやら少女の言葉は真実であると判断したようだった。
「嬢ちゃんってのは呼びにくいな。名前、何ていうんだ?」
 相変わらず不躾な男の質問に、相変わらず無表情な少女が答える。
「私の名に意味などない。あるのはここに私が存在するということだけ。この世を儚む私が存在するということだけ」
 少女は感情を表にせずに続ける。
「それでもあえて私という存在に呼称が必要であるのなら、私はメア。メアと名乗る。必要であるならそう呼んだらいい」
「――メア、か。俺の名前は豊田陽一(とよだよういち)という。まあ、もうすぐ名乗ることに意味はなくなるんだが」
 豊田はビニール袋を下げていない方の手で、頭をボリボリと掻く。
「俺に、俺の死に様を見せてほしい。あんたに会えて望めば、見せてくれるんだろ?」
 噂は聞いてるぜ。と豊田は続けた。
 豊田の聞いた噂はこんなものだった。曰く、首やら腕やらにジャラジャラと時計を下げた女に渋谷で出会うことができたなら、自分の生まれたところか、死ぬところを見ることができると。
 豊田はもう一度その噂を心の中で反芻し、自分の願いについてももう一度考え、
「頼む」
 少女に頭を下げた。
「はい」
 豊田の決心とは裏腹に、メアはそんなことかと言わんばかりに、こともなげに豊田の質問に答えた。
 豊田は拍子抜けしたが、こんな得体のしれない存在がただの人間であるはずがないのだからと思い直し、一般的な尺度で彼女を見ていた自分を嘲った。
 すると、先程から事務的な受け答えと自分のこと以外の、例えば他人とのコミュニケーションであるとか、他人への興味であるとか、そういった自分以外に向けてベクトルを向けてこなかったメアが、突如豊田に詰め寄るようにして聞く。
「私は確かに、あなたにあなたが死ぬところを見せることができる。それは私が興味があるからだ。しかし、貴方はなぜそれを強く望む? なぜそんな自虐的なことを望む?」
 はじめてこちらにベクトルを向けてきたメアに豊田は戸惑ったが、質問の内容にすぐに答えを見つけ、「なんだそんなことか」と、ため息を一つ。
「妻と子供に逃げられ、仕事も失くし、金も仲間も居ない。別に俺だけがこんな不幸なとか、そんなことを言いたいんじゃねえ。疲れちまったんだよ、生きていることにな」
 豊田はもう一度、今度は先程よりも大きくため息を吐いた。
 豊田は小さな商社の社員として毎日あくせく働いていたが、やがて妻とすれ違うようになり、ついには離婚。子供も妻の方についていき、手元には幾ばくかの金と中古で買った古ぼけた軽自動車しか残らなかった。そしてその金も、会社の倒産によって供給源を失い、ついには尽きようとしていた。
 彼は疲れてしまったのだ。この世に執着するものもなし、かといってこれから努力をする元気もない。彼はもう、頑張ることをやめたのだ。
「どこかで飛び降りようと思っているんだ。けど、踏ん切りがつかなくてな」
 かっこ悪いよな、と豊田は下を向いて自嘲する。そんな心の機微をメアは知ってか知らずか、吸い込まれるような瑠璃色の瞳で、ごちる豊田をじっと見つめている。
「自分でもおかしい話だが、こんなになってもまだ飛び降りるのは怖いんだ。決心はついてるってのに、笑っちまう」
 「だから」と豊田は言った。
「だから、お前の手で俺を決心させてほしい。俺がきちんと飛び降りられるのかどうか、安心させてほしいんだ」
 豊田は頭を下げた。
「みっともない願いだが、頼む」
 豊田の願いは、自分がきちんと命を落とせるかということだった。普通の人間ならば、目の前の人物がそんな願いを持っていると知れば、止めるなり誰かの助けを仰ごうなりという行動を取りそうなものだが、メアはさもそれが何でも無いお願いを受託するかのごとく、無感動に
「わかった」
 と言った。その無関心さに、豊田はかえって安心感を覚えた。自分の死に様を教えてくれる人物が、自分の行動を止めるような言動をするようでは、かえって彼女の能力に信用が置けないというものだ。
 メアはそんな豊田の関心を気にせず、ゆっくりと瑠璃色の瞼を閉じて精神を鎮める。そのまましばし、時が流れる。
 メアの沈黙に対し、豊田はじっと待つ。これでもしメアとの時間が幻であったとしても、狐に化かされたか、変なものでも食って夢でも見たのだと思おうとした、―――その時、
「!」
 ―――カンッ!
 メアの手に持っていた、先端に時計のはまった木製の錫杖が振り下ろされ、杖の先と道路のコンクリートがぶつかる乾いた音が辺り一面に響き渡った。同時に、メアの目が見開かれ、美しい瑠璃色の眼光が顕になったかと思うと、錫杖にはまっていた時計が突如として勢いよく回り始めた。
 ゴウ、と音を立てて風が吹く。勢いよく豊田を襲った風に対して、彼は腕を顔の前に置いて風よけを作りはしたが、しかし微動だにせず立っていた。メアの髪はその風によって逆立ち、生きていると不思議なこともあるもんだと、豊田は妙に冷静な精神状態になっていた。
 メアと豊田以外の全てのもの、渋谷の喧騒も、縦横無尽に歩く人も、塵やゴミの一つでさえも色彩が徐々に薄まっていき、やがて白の世界に染まっていく。豊田はいよいよお迎えが来たのかと、気分が妙に高揚していることに気づく。
 しばらくの間二人だけの白い世界が続いたあと、徐々に世界は色をつけていった。風は徐々に収まっていったが、豊田にとってこの場所がどこなのかはわからない。彼からすれば、場所なぞどこでも構わないのだろう。自分の命が自分で仕舞えれば、それでいいのだから。
 豊田は気づくと、断崖絶壁に立っていた。どこのかはわからない。とにかく風が強く吹いていて、崖下には海。ここから飛び降りたらまず助からないだろう。そんな場所。
 しかし豊田は、足の感覚に違和感を覚えた。凹凸の激しい岩に立っているならば、ゴツゴツとしていて安定して立てないはずだ。しかし、自分の足に伝わる感覚はフローリングのそれであるし、まっすぐ直立して立っている。彼はここが実際に飛ばされたわけではないことに気づく。
 そして目の前には、今の姿とあまり変わらない自分が、海を見つめながら立っていた。
 背中越しにしか見えないので、海を見つめる彼の表情をうかがい知ることはできないが、特に気張った様子もなく、自然体のままそこに佇んでいるようだった。
「おい」
 しびれを切らした豊田は、もう一人の自分に声をかける。しかし、相変わらず目の前の自分は海を見つめたままだ。
「私たちはただの観覧者。こちらの姿や声は届かない」
「テレビを見ているのと同じってことか。いろいろ聞いてみたかったんだが」
 メアの解説に豊田は渋い顔をしながら頭を掻いた。
 果たしてここはどこなのだろう。豊田は周りを見渡すが、なにか手がかりになりそうなものはない。半島のように突き出た岩場と、その付け根には森が広がる。森と岩場の境目には自分の唯一の財産である古びた軽自動車があり、それ以外に人工物はない。一人佇む自分以外に人や自動車がないところを見ると、少なくとも観光地ではないようだ。
 自分がここで最期を迎えるとして、自分はここにたどり着くことができるんだろうかという疑問が浮かんだが、しかしなぜだかこの場所に辿り着けそうな自信があった。何も根拠はないし、現時点では検討もついていないが、不思議とこの場所に導かれるような、そんな気がした。
 ずっと彼の背中を見続けていた、その時だった。ゴウッ、と音を立てて風が吹いた。海辺であるから風が強く吹くこと自体は珍しいことではないが、その瞬間、岩場にわずかに生えた雑草が抜けるのではないかと言うほどに揺れ、死にゆく自分を見ていた豊田は少しよろめいて、視線を下げた。
 豊田ははっとした。自分がよろめいたということは、目の前にいる死にゆく自分もよろめいたということだ。急いで下げていた視線をもとに戻すと、もう一人の自分もよろめき、よろめいたあとで踏ん張った足はすでに斜面。あとは崖下に転げ落ちるだけだ。
 あっ、と思ったときには、すでに豊田の眼前からもう一人の自分は消えていて、少ししたあとにボチャン、という儚い音が遠くから聞こえた。
 豊田は音の聞こえた先に駆け寄らなかった。何が起こったのか、そしてどうなったのか、見なくても十分に理解できたからだ。もう一人の自分の背中を見ていたその場にただじっと立っていた。
 自分が先程まで立っていたところを見つめる豊田と、そんな彼を見つめるメア。それ以外の荒涼とした崖、わずかに生えた雑草、押し寄せる波などは、全て色を失っていき、やがて全てが白の世界になっていた。
 風が吹いてから今まで、豊田はずっと口を薄く開いて呆けていたが、そこでやっと表情を取り戻し、柔らかい表情で小さく笑顔を作った。
「どこのだかは分からないが、崖から飛び降りることができていたな」
 二人だけが取り残された白い世界で、豊田は自分を褒めていた。
「なんだ、未来の俺、やるじゃないか」
 そう言うと、白しかなかった世界は徐々に色を取り戻していき、荒涼とした世界からは一変して、喧騒と変化の街、渋谷が取り戻されていく。ちょうどセンター街へと向かう横断歩道が青になったところで、メアと豊田の周りからさっと人波が引いていった。
「ありがとな。恩に着るわ」
 豊田はメアに向き合い、頭を少し下げて礼を言った。財産も何もない豊田にとって、これが精一杯に尽くされた礼だった。
 しばらく頭を下げた後、豊田は踵を返すと、メアのもとから去ろうとする。
「待って」
 その背中に、メアが小さく、それでいてよく通る透き通った声で呼び止めた。
「なんだ?」
「もう貴方に会うこともないから、最期に一つだけ聞きたい」 
 背中を向けたまま、首だけで振り返った豊田は、メアの次の言葉を待っている。
「貴方は、あの終わり方で満足するの?」
 そう問いかけるメアの声音は決して心配をしているというようなものではなく、単に自分の興味から彼の精神状態について知りたいという、単なる好奇心として向けられたもののようだった。
 豊田はそんなメアの疑問に清々しさすら感じた。命の灯火が消えるその瞬間でさえ、彼女にとってはグロテスクなものではなく、顕微鏡で微生物を観察するのと同じ感覚なのだろう。
 その清々しさに自分もあやかろうと、豊田は口元を歪めてニヤリと笑った。
「ああ。俺らしい、命に意味など無い、何も残らない死に様だ」
 「じゃあな、メアとやら」と軽い調子で手を上げた豊田は、そのまま渋谷の喧騒の中に消えていった。


 そんな二人の様子をじっと見つめていた少女が一人。横断歩道の信号が青になっても向こう側に渡ろうとせず、その光景をじっと眺めていた。
 メアは再び一人になった。また大型ビジョンに目を向けようとしたその時、自分の方を見ている少女がいることにメアは気づいた。
「ねえ、あんたでしょ」
 メアに声をかけたのは見た目からして十代後半と思しき少女。髪はショートで逆立てられ、格好は黒のスキニーにレザーのジャンパー、耳はもちろん鼻や唇にまでピアスを開けた、いかにもパンキッシュな少女だ。
「さっきのおっさんはあんたのこと見えてたみたいだけど、それ以外のやつには見えてない。だって見えてたらそんな奇抜な格好で注目を受けないわけがないから」
 少女が視認する「それ」は、姿かたちは人間の、女性の形をしている。背丈は中学生か高校生ほど。体の線は細いように見えるが、何かの宗教の聖者を思わせるような純白の外套を着ているために、本当のところはどうなのか分からない。面差しは整っていると言っていいだろうが、全く表情を動かさないためにその美貌がかえって不気味である。
 彼女の姿を形容するうえで欠かせないのが、パンキッシュな少女が言うように、体の至るところに装着された、まるで何かの戒めかあるいは枷のような、身につけられたいくつもの時計の存在だ。更に異様なのが、その時計は全て指し示す時刻が違い、それでいて全ての時計が日本で採用されている標準時間とは全く異なる時刻を指し示す。身に着ける時計の中には逆に回っているものすらある。
 パンキッシュな格好をした少女は、時計に体を支配されたような彼女の姿を舐めるように眺めると、彼女をにらみつけるようにして尋ねる。
「あのおっさんがメアって言ってたっけ。あってる?」
「私という存在に名前など無いが、便宜上名前が必要であるなら、そう呼ぶといい」
「何それめんどくさ。まあいいや、あたしは松戸翠(まつど みどり)。あんたに会うことができれば、自分の生まれた時か、自分の死ぬ時を見せてくれるって聞いた。違う?」
「はい」
 メアは鉛筆で字が書ける? という質問に対する答えのように、こともなげに答えた。
「貴方は、私に何を求める?」
「あたしは、自分が生まれたところを見たい」
 翠は力強くそう宣言した。メアはその言葉に目を見開き、はじめて意外そうな表情を浮かべた。
「何よ、以外そうな顔をして」
「私に声をかけきた百飛んで二人のうち、自分の死ぬところを見たいと言ったの九十三人。私に声をかけてきたのはあなたで百飛んで三人目で、自分の生まれたところを見たいと言ったのは、貴方で十人目」
「珍しいって言いたいわけ? 自分が死ぬところが見たいなんて、物好きも随分居たものね」
 吐き捨てるように翠は言う。翠にとってこの刹那こそが生きているということであり、自分の行き着いた末のことなど興味がないのだ。 
 先程のメアは翠の選択には以外そうな反応を見せたが、翠の気迫には大した反応もせず、じっと翠の次の言葉を待っている。
「……なんだよ、気味悪ぃな」
 翠はじっと見つめられているという気まずさに我慢できず、文句たらたらといったように話し始める。
「あたしのことを話せってのか」
「貴方が望むなら」
「んなこと言って、聞きたくてたまらないって腹のくせによ」
 「まあいいさ」と言って翠はメアに話し始める。
「あたしがこんなクソみたいな生を歩まされているのは、あたしが生まれて来なけりゃよかった存在だからなんだよ」
 先程は死ぬところを見たがった人を吐き捨てた翠だったが、今度は自分の人生を吐き捨てるように回顧する。
「生まれてすぐに施設に捨てられて、捨て子として見られて、どんだけ惨めな思いをしたか。生まれたくなんてなかったね、こんな人生なら」
 翠は捨て子だ。正確に言うと、生まれて間もないときに児童施設に預けられ、親とはそれっきり、児童施設でずっと育ってきた。思い出したくもないが、捨て子としてイジメはあった。そこまで苛烈なものではなかったが、道を踏み外すには十分だった。高校以降はパンクロックの世界に目覚め、以降はずっと渋谷に居着くような生活をしている。
 渋谷という街はいい街だと翠は心底から思っている。理想的な人生を送る自分とは対局にいる人間から、自分のようなはみ出し者も、全て平等に包んでくれる。渋谷は好きだ。
 しかし、精神の持ちようとなると話は別だ。渋谷という人混みから外れ、一人になると否が上にも今まで歩んできた道のりを思い出す。
「だから、あたしを産んでゴミみたいにすぐ捨てたクソ親を、一度でいいから拝んでやりたいんだ」
 自分を産んですぐに捨てた人間の血は濃いものだと、今までの人間関係を思い起こす。渋谷に仲間はいるが、根本的には孤独だ。それを満たされないと思う自分もいるが、それは生来のものゆえ、諦めてもいる。
「だから」
 翠はメアを見る
「だから、私が生まれたその瞬間を見せてほしい。私の捨てられた瞬間を見せてほしい」
「わかった」
 メアはこともなげに答えたあと、しばし目を閉じて沈黙する。メアの沈黙に対し、翠はいらだたしげに貧乏ゆすりをしながら、しかしその場でしっかりと待つ。詐欺か宗教かというと疑いもないわけではないが、それ以上にメアという存在に好奇心から惹かれているということも大きい。
 沈黙にじれてきた翠がいい加減にメアに話しかけようとした、その時だった。
「!」
 ―――カンッ!
 メアの手に持っていた、先端に時計のはまった木製の錫杖が振り下ろされ、杖の先と道路のコンクリートがぶつかる乾いた音が辺り一面に響き渡った。同時に、メアの目が見開かれ、美しい瑠璃色の眼光が顕になったかと思うと、錫杖にはまっていた時計が突如として勢いよく回り始めた。
 ゴウ、と音を立てて風が吹く。勢いよく翠を襲った風に対して、彼女はよろけながらも、きちんと自分の足で立っている。メアの逆立った髪が綺麗だと、翠は風に晒されながらも思った。
 メアと翠以外の全てのもの、渋谷の喧騒も、縦横無尽に歩く人も、塵やゴミの一つでさえも色彩が徐々に薄まっていき、やがて白の世界に染まっていく。自分の眼前で展開される超常現象に、翠の期待はうなぎのぼりに高まっていく。
 しばらくの間二人だけの白い世界が続いたあと、徐々に世界は色をつけていった。風は徐々に収まっていったが、翠が最初に認識したのは、ここがどこかのホテルであるということだった。ベッドが一つのほかは小さなテーブルとテレビがあるくらい。典型的なビジネスホテルというやつだ。窓の外はすでに暗く、太陽は水平線の下だ。
「で、肝心の母親はどこにいんのよ」
 メアに言葉を向けるが、メアは首を傾げるだけだ。
 騙されたかと翠が思い始めたその瞬間、ユニットバスから女性が一人現れた。その表情はひどく憔悴していたが、とても優しげで、慈しみの心がそのまま顕現されたような面持ちだった。
 そして、翠はあることに気づく。
「この人……」
 今日の朝鏡で見てきた自分の顔と、瓜二つとまではいかないまでも、目鼻立ちが似ている。そして、極め付きには自分の直感が言っている。
「お母さん……」
 人生で初めて出た言葉、人生で初めての邂逅。そして――
「よく生まれてきてくれたね……」
 その腕には、大事そうに抱えられたタオルにくるまれたなにか。そこにはおそらく――
「私の赤ちゃん……」
 私だった。客観的に見てふにゃふにゃでしわしわのそれが自分であるとはとても思いつかないが、自分の本能が、それは自分だと言っていた。
 憔悴していた母親は赤ちゃんを自分のそばで寝かすと、自分も滾々と眠りについてしまった。
 それまでの衝撃的な光景に何も言うこともできず、何も考えることもできなかったが、母親が寝てしまったことでふと冷静になる。
「ホテルで、しかも一人で産むって、どんだけ……」
 普通の出産というのは、産婦人科で、父親に付き添ってもらって行うものではなかったか。こんなどこともしれないホテルの、それもユニットバスで行うようなものでないことは確かだ。
 そして気づく。この自分の母親が金も縁もないということとともに、中絶という選択肢もある中で、そこまでしてでも産みたかったということだ。
 やがて録画した番組を早送りするように、早回しで時間が過ぎていった。目の前の母親は眠り続けていているだけだったが、暗かった窓の外が徐々に明るくなっていったことからもそれがよく分かる。翠は驚いてメアを見るが、メアは全く表情を変えない。唯一彼女で変化があったのは、彼女がつけている時計が速く回っているだけだった。
 時間の早回しは、寝ていた赤ちゃんが泣き出したところで終わりを告げた。寝ていた母親はその声で目を覚ますと、赤ちゃんをひとしきり抱きしめて身支度を始めた。
 着替えを済ませ、タオルにくるまれた赤ちゃんを持参したボストンバックに入れる。出産さえホテルで行ったこの母親は、これからどこに行くというのだろうと翠が思ったところで、景色は渋谷から飛ばされたときのように、一度白くなった。そしてまた色を取り戻していくが、しかしそこは、翠のよく知っている場所だった。
 無機質なコンクリートづくりの白い壁、自分の最古の記憶もそれだ。以来ずっと、自分はこの壁を見続けてきた。そう、自分の育った施設だった。
 自分が今出入りしているよりは若干新しさを感じさせられる玄関から、件の母親がゆっくりと出てくる。その顔は先程までの優しい顔とは打って変わって、顔を涙でぐしゃぐしゃにして、時折しゃくりあげてもいる。先程まで大事そうにしていた自分の赤ちゃんは居ない様子で、軽くなったボストンバックが大きく揺れている。
 翠は呆然とその様子を見ていた。ただただ母親の様子に胸を打たれるばかりで、自分の主体性を持った感情は死んでしまっている。
 翠が言葉を失っていると、目をこすって涙を拭った母親が、硬いはずのコンクリートに膝をつけた。
「何を……」
 翠が口から思わず言葉をこぼすと、母親は手を地面につけ、頭までもを地面につけた。
「ごめんね、ごめんね、ごめんね……」
 自分と似た目鼻立ちの女性は、養護施設の入り口の前で、頭を何度も地面につけた。
「翠をどうかお願いします、お願いします、お願いします……」
 その土下座は施設に向けられたものか、あるいは何かしらの神様に向けられたものだったか、あるいは翠自身に向けられたものだったのか、あるいはそのどれもなのかもしれない。母親はずっとずっと、頭を地面につけたまま、ずっと言葉を吐き続けていた。
 やがて母親も、見慣れた施設も、全ての色が失われていき、やがて全てが白の世界に戻っていた。
 翠とメアは対峙する。相変わらず何も考えていないような気怠気な表情のメアに対し、翠は涙をこぼしながら、怒っていた。
「あたしにこんなものを見せて、何が言いたいっていうの!?」
「言いたいことはない。私は興味があって調べた事実を見せるだけ。そこから何を感じるのかは貴方の勝手」
「こんな、こんなの嘘だ!」
「貴方が嘘だと思おうが構わないが、これは歴とした事実。事実を曲げることは誰にもできない」
「こんのォッ!」
 翠はメアに殴りかかる。しかし、メアはすでにそこにはいなかった。翠の背中からメアの声がする。
「私は実態としてはこの世に存在しない。だから触れることもできない」
「クッソォ!」
 翠はごちゃごちゃになった頭が整理できず、思わず白の地面を拳で叩いた。自分の拳が痛くなるだけで、そこからは何も生まれることはなかった。
「あたしは、あたしは生まれてきちゃいけなかったんだよ! こんなクソみたいなあたしなんて、あたしなんて……ッ!」
 白の世界で膝を吐いてしまった翠が叫ぶ。
 翠にとって、「クソみたいな人生」こそがアイデンティティであったのだ。自分は生まれも不幸で、だから育ちも不幸で、だからこんな満ち足りない人生を送っている。そんな考えに支配されてきたし、そんな考えに縋らなければ生きてはいられなかった。
 そのアイデンティティが、まさしく根底から覆されようとしていた。自分の親は、少なくとも母親は人を愛せない悪人などではないし、あんなにも自分の身を案じ、謝罪していた。感情はあった。ただ彼女には、それ以外の何もかもがなかったのだ。
 自分はこれまで散々施設に迷惑をかけてきた。門限破りで正座させられることなど日常茶飯事だし、教師が施設を尋ねてくることもたびたびあった。それは自分の血と育ちのせいだと思っていたし、反抗心も仕方のないことだと思ってきた。それが今、根本的なところから覆そうとしていた。
「あたしは、あたしは……」
 すると、立っていられなくなった翠の近くにメアが近寄ってくる。
「生まれてきてはいけない生などないし、生まれてこなければならない生もない。生まれてくれば必ずいつかは死ぬ。誰がどう思おうが、生というのはそういうもの」
 メアは極めて無感情に、しかし翠の怒りに対応するような発言をした。
「っ……お前、慰めてくれるのか」
 翠は今までのメアの言動から考えられない可能性を口にする。
「私は感情を持たない。貴方の言葉に対して、事実を述べただけ」
「んなワケねえじゃん……まあいいか」
 今までくよくよ考えていたことが馬鹿らしくなってしまった翠は、涙を腕で拭うと、メアに本質について問う。
「よくわからねえけど、お前は結局、何が知りたいんだ?」
 普通なら聞かれて戸惑うたぐいの質問だが、メアは予め答えが用意されていたかのように、すらすらと答えた。
「人が生まれて死ぬまでに、人は様々な選択をする。人間は選択する生き物であって、本能では行動しない。その選択の果てに何が待っているのか、その結果を知りたい」
「ふーん。ま、よくわからんけど、それだけあたしの人生に興味があるってことか」
「はい」
「これからもあたしを見てるのか」
「はい」
 二度肯定をしたメアに、翠は「そっか」と軽い調子で答えた。
「あたしなりに、自分についていろいろ考えてみるよ」
 翠はこれまで自分の出自に囚われていた。それは生きていく上でエネルギーになることで、相応に意味のあることだったが、同時に翠自身を縛る鎖でもあった。
 その鎖が、激情に対して慰めようともせず、極めて自分勝手に興味を語るメアによって解されようとしていた。不思議なことだが、変に慰められるよりもよほど清々しさを翠は感じていた。
「また会おうな」
 去り際に、翠は自然とこの言葉が出た。まあ言ってみただけなのだが、メアの答えは予想通り、理屈っぽいものであった。
「それはできない。私に会うことができるのは、自分が生まれた時か死ぬ時が見たいと強く願った者だけ」
 最期まで理屈っぽいメアの言葉を背中に受けながら、翠はどこか清々しい気分でスクランブル交差点から去っていった。


~~~~~~


「ったく、どこに行ったんだっての」
 抱っこ紐に幼い赤子を結んで抱えた一人の女性が、渋谷の街を歩いていた。装飾品の類は結婚指輪らしき指輪と、申し訳程度のピアスだけで、身なりは完全にどこにでもいる母親と言った様子だ。ただしその口調だけは乱暴で、しかしそれが妙に似合っている。
「子供連れてくるだけでも面倒くせえってのによ」
 探し人が一向に見つからないことに一人ぶつぶつ文句を言う女性だったが、しかしその彼女に視線を向けている少女がいることに、女性は気づいていない。
「あー、はいはいわかったわかった。メシか? それともトイレか?」
 姿形ではなく、纏う雰囲気が少しだけ大人びた少女――いや、女性は、授乳室を探して渋谷の喧騒に消えていった。
 その様子を見て、時計をいくつも身につけた白衣の少女は、特に気にした様子もなく、また気怠気な目でスクランブル交差点の大型ビジョンを見つめた。

『次のニュースです。自殺の名所として知られている〇〇岬で長年にわたって声かけ運動を続けていた豊田陽一さんが、昨日遺体で発見されました。豊田さんは○○岬で軽自動車で寝泊まりしながら、自殺をするため訪れた人に声をかけていました。豊田さんの声かけは、自殺を思いとどまるようにというようなものではなく、自分も自殺をしに来たという立場から自然に話をするもので、取材をさせていただいた時には、特に自殺をしないようにと言っているのではなく、ただ会ったので話をしているだけだと淡々と語り―――
すぎ ZZhlHitSdE

2019年12月30日 22時27分29秒 公開
■この作品の著作権は すぎ ZZhlHitSdE さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:私が人の終わりと始まりについて調べているのは、興味を持っているから。
◆作者コメント:運営の皆様お疲れ様です。頑張って書き上げたのでそこだけは評価してください。

2020年01月18日 23時11分34秒
作者レス
2020年01月12日 23時38分22秒
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2020年01月12日 21時06分38秒
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2020年01月12日 01時30分59秒
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2020年01月07日 21時24分03秒
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2020年01月04日 23時36分19秒
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2020年01月04日 18時06分40秒
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2020年01月03日 15時02分42秒
+20点
2020年01月01日 12時06分06秒
+10点
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