アスタルテを負う者

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※グロテスクな表現があります。ご注意下さい。



 彼女と初めて出会った時、僕たちは互いに六歳になったばかりだった。
 その、物置らしい狭い部屋に僕が足を踏み入れた時、彼女は既にそこにいた。両手で膝を抱えるようにしながら、コンクリートがむき出しになった床に座った彼女は、無感動な目で僕と、僕を連れてきた大人の方をみやった。
 その時の彼女は今よりも大分髪が短く、そして痩せていた。ただ、明晰さを宿した瞳だけは今も昔も変わらない。今も見る度に僕の視線が自然と向いてしまう彼女の瞳は、その当時から印象深かったと、僕は、彼女と初めて出会った時を思い返す度に思う。
 僕をその部屋に連れてきた大人は、入り口でいつまでも立っていた僕の背中を軽く小突いた。
 軽い衝撃で、二、三歩進んだ僕の背後で、がちゃん、と鉄製のドアが閉じられる。大人は結局、一言も口をきかずに、僕の前から去った。
 六歳の子供に対しては、随分と乱暴で冷たい対応で、その時の僕が酷く心細い想いをしたことを覚えている。
 ただ、そうなってしまうのもしょうがないと、今の僕は思う。
 その時の大人――それが彼だったのか、彼女だったかも思い出せない――も、様々な体験をして疲れ果てていただろうし、恐らく無数にやらなければならないことを抱えていた。六歳の子供をとりあえずは安全な場所に運ぶのが、あの大人にとっては精一杯のことで、優しい言葉をかけたり、抱きしめたりする余裕は全くなかっただろう。
 ひとつの街が消えた後の混乱というのは、それほどのものなのだ。
 ……物置とおぼしき部屋に二人きりで残された僕と彼女は、しばらくじっと見つめ合っていた。
 狭い、多分四畳くらいの広さしかなかったそこには、豆電球がつかかっているだけだった。
 切れかけの電球が作る光は弱々しく、そんな光の中で見る彼女の顔を、僕は少し不気味に感じながら見ていた。
 先に視線を外したのは僕の方だったと思う。
 彼女に話しかけもせず、彼女から一番遠い部屋の隅に僕は腰かけ、ただ目の前の床をじっと見つめた。
 はいていたズボン越しに、コンクリートの冷たさが僕を苛む。
 同じ部屋にいる彼女の方が気になりながらも、得体の知れない少女と関わり合いになる怖さもあって、僕はつとめて、目の前の無機質な灰色の床を見つめていた。
 床をみながら、その時の僕は、つい数時間前に死んだ家族のことを思い返していた。
 目の前で黒い霧状の化物に包まれ、それきり姿が見えなくなった、両親と三歳になったばかりの弟の姿が、脳裏に浮かぶ。
 生きていないのは間違いがないけれど、ただ恐ろしく実感のないその事実を、戸惑いながら、僕は振り返っていた。
「あなた、名前は」
 部屋に入ってどれくらい経ったときのことだろうか。
 それまで僕と同じく、黙りこくっていた彼女が、不意にそう、声をかけてきた。
 おそらくは、僕と同じように凄惨な体験をしていたにも関わらず、彼女の声ははっきりとしていた。僕が顔を上げると、彼女はぱっちりとした目を、僕にじっと向けていた。
「ハジメ」
 そう僕が答えると、彼女はふうん、と呟いた。
「私はアスミ。明日が美しい、でアスミ」
「何、それ?」
「名前の漢字よ。あなたは?」
「僕は……」
 自分の名前の漢字なんてまだ勉強してなかった僕が言い淀んでいると、アスミはちょっと優越感を覚えたようだった。
「それくらい覚えてなきゃだめでしょ。自分の名前なんだし、書くときどうするのよ」
「ひらがなとカタカナなら書けるよ」
「それじゃあ、皆からバカにされるわよ。なんだこいつ、自分の名前の漢字も書けないのかって」
 そんなアスミの物言いに、少しだけ僕はムっとした気分になる。
「ね、寒くない?」
 今までの話とか、僕の釈然としない気分を飛び越して、アスミはそんなことを言ってきた。
「寒いよ」
 その時の季節は秋で、日の暮れた後の部屋の気温は下がっていくばかりだった。着の身着のままだったので、寒くないわけがなかった。
「ね、隣に行っていい? 二人で寄り添えば、少し温かくなると思うの」
「……女の子とくっ付き合うのは、恥ずかしいよ」
 漢字が分からないよりも、という台詞は、確か言わなかったと思う。
「こんな非常事態に何言ってるの。今凍えたらあっという間に病気になっちゃうわよ」
 そう早口で言うと、アスミは有無を言わさず僕の隣に移動してきた。
 アスミは僕にぴったりと体を寄せてくる。その体温に、僕は少しだけ落ち着かない気分を覚えた。しかし彼女は、それまでとは打って変わって、じっと黙ってしまった。
 傍にアスミが来てくれたおかげで、確かに体は温まったけれど、彼女のその態度の急変は、僕を戸惑わせた。
 そのまま五分くらい経ってから、アスミはようやく、口を開いた。
「あなたの家族は?」
「多分、死んじゃった」
「霧の化物に呑まれて?」
 僕がこくん、とうなずくと、アスミは「私も」と呟くように言った。
 今もそうだけれど、その当時からアスミは僕よりもずっと頭が良かった。
 それゆえ、自分の家族の死を、僕よりも深く実感していたんだろう。
 アスミは、それからしばらくしない内に、泣き始めた。
 こらえようとしたけれど、こらえ切れない。そんな静かで深い、泣きようだった。
 細かく震える彼女の肩を僕は抱きしめる。
「大丈夫だよ」
 何の根拠もない、そんなセリフが口から出てくる。
 幼いながらに、そう言わなければならないことが、僕には分かっていたんだと思う。
「大丈夫、僕がついてる」
 アスミの小さな体を、僕の細腕が懸命に抱きしめる。
 すぐ近くに死と破壊が満ちた世界に、僕たちは二人、寄り添っていた。



 装甲車のハンドルを握る度に、そんな昔のことを思い出す。
 軍用車両の密閉された空間と、助手席に座ったアスミという組み合わせが、あの時と似ていることも、あるんだろう。
 もっとも、あの時のようにとりとめのないことを話したり、お互いの体を抱きしめ合ったりすることはない。僕たちは十七歳になっていた。
 車両に備えられた無線から、司令部からの指示が飛んでくる。
 この先の三叉路で先発の部隊と合流しろ、ということだ。
 僕は了解、と無線に返す。
 所々に亀裂や穴の空いたアスファルトには、夏の日差しが容赦なく降り注いでいる。そんな道路と、廃墟と化した街ばかりが広がる前方を見たまま「調子はどうだい」と僕はアスミに尋ねてみる。
 そんな僕の問いかけに、「まあまあ」とアスミはそっけなく答えるだけだった。運転しているせいでその顔を見ることは出来なかったけれど、おそらくは昔と変わらぬ大きな瞳に、不機嫌な色を浮かべているんだろう。
 作戦前のアスミはいつもこんな調子なので気にはしない。それに、声をかけられることにアスミが悪い気持ちを抱いていないことも分かっていたので、僕はさらに言葉を続けた。
「今日の晩御飯はこの前の配給で出た鶏肉にしよう。急な作戦もあったことだし、もしかしたら追加でごちそうが支給されるかもしれないね。プリンとか……。甘いものなんて全然食べてないから、出て欲しいなぁ」
「ハジメはともかく、アスミって甘いもの食べるの?」
 後部座席から割り込んできたのは、最近になってチームに入ったリンだった。
 僕達よりも二歳上の十九歳。しかし仕草に子供っぽいところが多い女の子だ。彼女の声を聞いて、少しだけアスミが固くなるのを僕は感じる。
 最近になってめっきり無口になったアスミは、おしゃべりなリンを少し苦手に感じているようだった。距離を置かれていることをリンも分かっていて、あえてことあるごとにアスミに話しかけているのだが、今のところその試みは逆効果になっているみたいだった。
「あんまり好きそうなイメージないけど」
「アスミは甘いものは好きだよ。リンはどうだい?」
 アスミの代わりに僕はリンにそう返した。
「死んじゃうほど好き。ホイップクリームが山のようにかかったパフェとか食べたいな……もう十年以上、そんなの食べてないもの」
「山のようなホイップクリームかぁ……」
 リンの言葉を聞いて、そうポツリと呟いたのはリンの隣に座ったコジローだった。
 丸刈りにした頭と、大人びた表情をしたコジローは、二〇代の半ばにも見えたけれど、実際には僕やアスミと同じく、ついこの間十七歳になったばっかりだった。
「どんだけ偉くなったらそんなん食べられるんだろうなぁ」
「そりゃ、防衛軍司令か、市長クラスじゃない?」
「じゃあ一生無理だな」
「大丈夫、いつかそのどっちかの玉の輿に乗る予定だから。そん時は昔のよしみってことでコジローにもスプーン杯くらいは分けてあげるわ」
「じゃあそん時は肉をたんまり頼む。大豆とコオロギはもう飽きた」
「OK、毎日トラックに積んで届けさせるわ」
「リン、お前は本当に幸せそうだよな」
 意地の悪い声を出したのは、チーム最年少の(とはいっても僕らより一つだけ下の十六歳だったが)のユウトだった。
「その頭カチ割ったらお花畑が広がってんのかね?」
「あら、よく分かったわね。ユウトは今後、私の後ろにぴったりついてなきゃダメよ。あたしが死んだ時、頭の中のお花をしっかり見せてあげたいから」
「そうそう、ちゃんとリンお姉ちゃんの後ろに隠れてるんだぞユウトくん」
「けっ、んなもん見たくもいねえ。化け物なんて俺が皆殺しにしてやるからお前らこそ後ろにいろってんだ」
「お、一般人のお前がどうやって殺すんだ?」
「心意気の話だよ! うるせえな!」
 コジローとリンの二人からいじめられ、ユウトは半ば本気で怒りながら二人に言い返した。作戦前にやめておけば良いのに、と僕は思うけど、二人はユウトがかんしゃくを起こすギリギリの際でいじるのを楽しんでいる様子だ。
 僕を含めたこの五人と、人でない一体を加え、僕らは一つのチームを作っている。
 チームといっても、フットサルをやる訳じゃない。僕たちは人類の敵と戦っている。
 子供だけで編成された、いかにも頼りないこの五人組だったが、今現在生き残っている人類にとって、非常に貴重な戦力だった。
 リンたちがわいわいとやっている最中も、そいつはじっと黙って窓の外を眺めていた。
 この装甲車には運転席と、その後ろのリンやコジロー達が座った席の後ろに、さらにもう一列座席があって、そいつはその三人掛けのシートをまるまる一列占有していた。
 というより、そいつの隣になんて誰も座りたくなかった。
 そいつは、妙齢の女性の姿をしていた。髪と瞳孔、そして身に着けた服に至る全てが黒一色で統一されている。肌も濃い褐色をしていて、そのせいか、瞳の白目の部分だけが妙に目立っている。
 濃い褐色の肌にも関わらず、その容貌は美しい西洋人そのもので、そのちぐはぐな外見的な特徴は、奇妙を通り越して不気味な印象を見るものに与えるだろう。やつらにとっては外見を変えるのも意のままらしいので、その不気味な外見は、そのままこいつの奇怪な内面を反映しているのだと思う。
 こいつは、スキあらばおしゃべりを始めるのが常だが、今は黙って座っていた。主であるアスミに、そうしているように命じられているんだろう。
 黒い女、もしくはアスタルテ、と呼ばれるこいつは、人類を滅亡の淵にまで追い込んだ化物の一匹であり、人類の数少ない反撃手段のつだった。
 この化物を使い、他の化物を殺す。
 それがアスミの仕事で、彼女を守ることが僕たちの仕事だった。

 装甲車をしばらく走らせたところで、司令部から指定された三叉路に着いた。
 三叉路には三〇過ぎと思しき大尉がいて、ハンドルを握ったまま敬礼をすると少しホッとした様子で答礼をしてくれた。
 大尉と、その部下の数十人の兵隊たち、彼らが乗ってきたらしい車両の群れ。それらを避けて装甲車を停め、僕らは車から降りた。
 二時間以上、振動にさらされ続けたお尻が、解放されて歓声を上げる。
 やれやれ、と呟いたり、思いっきり体を伸ばしたりしながら車から降りた仲間達に続いて、アスタルテも降りてくる。快晴の空から降り注ぐ日光に縁どられたその影は、少しだけ歪だ。
 人の形をしたその影からは、細い線のような影が外側へ伸びている。それはアスミに向かい、そのまま彼女の影と合流している。
 アスミとアスタルテ、その存在は分かちがたく結ばれている。
 その事実をあらためて見せ付けられた僕は、そこから視線をはがして、大尉の方へ向かう。
「状況はどうなってますか」
 そう僕が尋ねると、大尉は太い声で要領よく現状を説明してくれた。
 確認されている化物は一体で、僕達が出発する時に知らされた数と変わりない。
 そいつを発見したドローンは撃墜され、現在の位置は分からない。化物は、そいつに飼われているらしい人間、数十人と一緒にいるらしい。
 大尉の率いる部隊がこの三叉路を中心に陣地を作って時間ほど経つが、化物が近付く気配は全くない。
 奴の従えた人間が、自爆ベストを巻いて近付いてくることはあったものの、化物は姿を隠したままだという。
「奴はこちらの特異体と、統制者を待っているんでしょうか」
 僕がそう言うと、大尉は「まず間違いなく、そうだろうな」とため息まじりに応じた。
「わざわざ爆弾巻いた人間をけしかけるなんて悪趣味なマネをしなくても、奴が出てくれば、我々のささやかな陣地なんて一撫でするだけで消せる。それをせずにわざわざ人間を使うのは、こちらが統制者というカードを切るのを誘っている、としか考えられんな」
「どうしましょうか」
 無精ひげをびっしりと生やした大尉は、ちらり、とアスミを見た。
「今、“街”から統制者のチームがもう一つ向かっている。そいつらが来るまで待機、統制者が二チーム揃ったら攻勢をかける。揃う前に敵が来たら迎撃する、そんなところだろう」
「いえ、こちらから仕掛けましょう」
 大尉が言い終えてから、ほとんど間髪入れずにアスミはそう言った。
 普通の軍隊――十年前には地球の至るところにあった軍隊ならば、アスミの今の発言は許されるものじゃなかった。
 軍隊において階級は絶対的なもので、たかだか軍曹でしかないアスミが、はるかに上の階級で、さらには現場指揮官の大尉の案をむげに否定するなんてことは、その場で殴られても文句が言えない行動だった。
 下士官が士官に意見することがない訳ではないけれど、それは今も昔も、助言というオブラートに包んだ方法で行われる。
「その根拠は?」
 しかし、大尉は怒るどころか、不快に感じた様子すら見せず、アスミにそう聞き返した。
 今の軍隊は昔と違う。地上で幅を利かせる化物に相対する力は普通の人間にはなく、それを持つのは化物を従える力を持った、ごく限られた人間だけで、その意見は最大限尊重される。
 僕は、アスミから十メートルほど離れた所に立つアスタルテを見た。
 その、外見だけは美しい女性の姿をした化物に、大尉の部下は好奇の視線を向けていた。それとは対照的に、リンをはじめとしたチームの連中は、最低でも二メートルは距離をあけ、そちらを見ようともしていない。
「奴はもう、私とアスタルテが来たことに気付いてる」
 よどみなく、アスミはそう言った。
「そう時間を置かずに、奴はここに来る。そうなれば、私は一個小隊の人間を守りながら奴と闘わなければならない。そんなことになるより、私と、ハジメ達だけで前進して、奴を殺しに行く方が戦いやすい」
「……奴が君の接近を察知したという根拠は?」
「私がそう感じたからよ」
 不意にアスタルテがそう口を開いた。
 怪しい笑みを口に張り付かせ、酒に焼けたようなハスキーな声で、黒い女は言う。
「あたしと、かよわいあなた達を、犯し、傷つけ、殺したい――そんなあの子の気持ちが、ここに来てからビンビン感じるの」
「黙りなさい」
 アスミがそう言うと、アスタルテの言葉がぴたりと止まる。
「……特異体が勝手に話すこともあるんだな」
「そういう時もあるわ。……それで、良いわよね、さっきみたいな感じで」
 そうアスミに問われると、大尉は黙って肩をすくめて見せた。
 俺には何も言えんよ、と言っているようだった。
 アスミは小さく頷くと「アスタルテ」と呟くように言う。
 アスミが声をかけると、アスタルテの姿が瞬く間に変化を始める。
 黒で固められた体は、足元から影の中へ吸い込まれていった。足、腿、胴、胸、そして頭。それらの体のパーツは悪い冗談のように影の中へするすると吸い込まれ、アスタルテは地面に広がった丸い水たまりのような影になった。
 その影は、一筋の細い影を伝って、アスミの影へと向かう。小柄なアスミの小さな陰に、影となったアスタルテが同化する。大きなアスタルテの影を受け入れたにも関わらず、アスミの影の大きさは変わらなかったが、こころなしかその闇は、深みを増したように見えた。
 それまで、絶世の美女、と評して言いアスタルテに見とれていた兵士たちも、その悪夢のような光景を見て顔を青くするのが分かった。
 経験豊富な大尉も、アスタルテの変化にはさすがに肝を潰したようだった。
 ただすぐに気を取り直すと、「幸運を」と言って敬礼を僕らに向けてくれた。
 大尉と、彼にならって慌てて敬礼をする部下の兵隊たちに答礼をしてから、僕らは打ち合わせを始めることにする。
 地図を見つつ、予想される敵の位置、進むルートを決める。重要なことだったけれど、あまり時間はかけられない。今回の化物の機動力がどの程度かも、いつ陣地にやってくるかも分からないからだ。
 地図を手にした僕を中心に打ち合わせが始まろうとしたその時、「アスミ~」と、リンが間延びした声をかけながら、アスミを後ろから抱きしめた。
 誰よりも硬い表情をしていたアスミは、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「何すんのよリン」
「いやー素直じゃないなーと思って」
「何がよ」
「ああいう時は、あなた達を巻き込みたくないって言うもんよ」
「……本当に、邪魔だと思っただけよ」
 そうぶっきらぼうに言ったアスミに、コジローやユウトもにやつき始めた。
「ホントに素直じゃないねえ、アスミちゃん」
「そうそう、そんな女はモテないぞ」
「お、ユウトくんがそれ言うか」
「俺が言っちゃ悪いかよ!」
「OK、おしゃべりはそれくらいにして、仕事を始めよう」
 チームの皆がはーい、と答えるのを聞きながら、僕は地図に目を走らせた。
 少しだけ顔を赤くしたアスミも、僕の持った地図をのぞき込んでくる。

 今回、僕らは“街”から三十キロも離れた所で仕事をしていた。
 かつてこの場所は大都会が広がっていたが、今はその名残りがあるだけだった。
 今は人の人も住まなくなったその街区には、中身のなくなったコンクリート製の建物が無数に並び、かつて人類が栄華を極めていた時代があったことを、さびしく僕らに伝えていた。
 食べ物屋さんや、服屋、その他僕にはよく分からない店がかつて入っていただろう建物は、その中身は大体がらんどうになり、植物が勝手気ままに生い茂っていた。道端には建物と同じように植物に覆われた、人の白骨がいくつも転がっていた。遺体はほとんどが骨になっていたが、いくつか真新しいものもある。
 粗末な服の上に、プラスチック爆弾が詰まったベストを付けられた人間の死体だった。手に銃を持っていることもあれば、ないものもいる。先ほどの大尉が率いる部隊によって、大方は起爆させる前に撃ち殺されていたが、自ら起爆させたのか、それとも銃弾が妙なところに当たったのか、一人だけ爆発して果てた人がいた。
 男だったのか、女だったのか、若いのか、老いていたのか、バラバラに吹き飛んでしまったその死体から判別することは出来なかった。
 赤い水の詰まった水風船のように血と体を飛び散らせた死体の脇を、僕たちのチームは通り過ぎた。
 チームは先頭にコジロー、その後ろに僕、それにユウト、アスミと続き、最後尾をリンが固める、という隊列で進んでいた。アスミ以外の全員が、カービン銃や軽機関銃で武装している。
 車の中のようなおしゃべりは、今の僕らにはない。既に敵といつ行き合ってもおかしくない状況になっていて、皆の顔には張り詰めた何かが一様に浮かんでいた。
 自爆ベストを身に着けた死体の脇を通る時、先頭のコジローは一際歩みをゆっくりにする。その死体が本当に死んでいるのか、生きて起爆スイッチを押さないか、慎重に見極め、最後には近付き、足で踏んだり、うつぶせになった奴は体をひっくり返したりもする。
 一体一体が強力――人間だけでは対抗不可能な力を持つ化物はそれぞれ、地上に一定の支配領域を持ち、その中には人間が飼われている。化物達の気まぐれで、人間は殺されたり、痛めつけられたり、この撃ち殺された彼らのように、数少ない人類の支配領域への嫌がらせに使われたりする。
 自爆ベストを着けた、十歳くらいと思しき男の子の死体に、コジローが近付く。
「クソが」
 そう呟くコジローの顔は、僕には見えない。
 それまでと同じように、ゆっくりと死体に近付き、生死を確認したコジローは、大丈夫なことを手信号で伝える。その合図を待って、僕らは前進を再開する。
 死んでいる人たち、彼らが抱いていた背景について考える余裕は僕らにはない。意識に上ってくるのは、激しいが、一瞬で過ぎ去る感情だけで、僕らの頭の大方は、作戦のこと、目の前のことで占められていた。
 出発してさほど経たない内に、僕たちは新たな敵に行き合った。
 三人の、自爆ベストを身に付けた人間たちだった。曲がり角から急に走り出てきた彼らの内、最後尾の一人だけが自動小銃を持っていて、そいつは膝撃ちの姿勢をとると、僕らに撃ちかけてきた。他の二人は、僕らに向かって一直線に走り込んでくる。
 建物の列に寄り添うように進んでいた僕らは、彼らが走り出てきた途端、すぐに身を伏せた。
 先頭のコジローは、走ってくるのが敵だと認識すると、短く引き金を絞った。
 ああああ。言葉にならない叫びを上げながら走っていた、先頭のベストを巻いた男がコジローの銃弾を受けて倒れる。
 コジローの射撃が始めると、その後ろに続いていた僕らは、その隙に戦闘態勢をとる。
 身を隠せ、アスミはそのまま待機。ユウトはアスミに付いてろ。
 そう指示を飛ばすと、仲間は素早く、指示通りに動いてくれる。
 建物から道路に向かってせり出した、コンクリートの柱を遮蔽物にして、僕は自動小銃を放つ男に向かって引き金を絞る。男の肩に銃弾が命中し、血しぶきが上がる。
 男は地面に倒れるが、残った片腕でなおも銃を撃ちかけてきた。薬で痛みを誤魔化しているのかもしれない。男の撒き散らす銃弾に援護されて、残った一人の自爆ベストを巻いた敵が突っ込んでくる。
 声を聞く感じ、女の子だった。その顔は泥にまみれ、さらには恐怖で歪んでいるために性別や年恰好を判別することが出来なかった。そいつは最初に走ってきた仲間がコジローに撃たれるのと同時に転んで、頭を抱えてその場に伏せていた。
 そのまましばらく、地面に突っ伏していた彼女だったが、小銃を持った男が発砲しながら何かを叫ぶと、勢いよく立ち上がり、僕らの方へ向かってきた。
 ああああ。
 言葉にならない叫び声を上げながら、突撃してくるその子を、リンは軽機関銃で撃った。放たれた無数の銃弾は女の子の胴体に命中し、彼女の肉体を上半身と下半身に断つ。
 粗末な衣服に包まれた体が、恐怖と涙に歪んだ顔が、地面に落ちるのを僕は見てしまう。
 そして、小銃を撃っていた男も、弾切れを起こした隙に、コジローが狙い撃ち、この遭遇戦は終わった。
 終わった後もしばらく、仲間たちは地面に伏せたまま動かなかった。別動隊や、遠方からの狙撃。そんなものが不意に襲ってくるリスクは消えていなかった。
 しばらく様子を見てから、僕が最初にゆっくりと立ち上がる。周りの路地、遠方の建物、銃を構えたままそうしたものに注意を向けながら立ち上がってから、僕が最初にやったのは、倒れた敵の頭を撃つことだった。
 体を真っ二つにされた子を除く、二人の頭に、銃弾を撃ち込む。万が一生きていて、自爆でもされたら大変なことになるからだ。短く引き金を絞った僕は、視線を感じる。そちらの方を見ると、アスミがじっと僕の方を見ていた。何を思っているか読み取る前に、彼女はすぐに顔をそらしてしまう。
 その様子に戸惑いを覚えつつも、OK、前進しよう、と僕が皆に声をかけようとした時、曲がり角から自爆ベストを巻いた人間が顔を出した。
 僕とほぼ同時にそいつに気付いたコジローが、銃を素早く向ける。僕も彼にならいながら、撃つな、と短く叫んだ。
 少しだけ体を出していたそいつは、僕らに銃を向けられていることに気付くと、すぐに体を曲がり角の向こう側に隠した。そして、白旗のつもりなのか、小汚いハンカチだけをそろそろと角から出すと、小さく振って見せてきた。
 両手を頭の後ろに当てて、出てこい。
 僕がそう言うと、まだ子供と言っていい年頃の人間が出てきた。
 他の連中と同じように、粗末な服の上に、爆薬が詰められた自爆ベストを身に付けたそいつは、泣きながら、撃たないで、降伏する、と叫ぶ。
 両手を頭の後ろに当てながら、僕らへ近づこうとするそいつに、動くな、と言う。
 ベストを外せ、僕がそう言うと、そいつは、出来ない、外せない、と言った。なら、遠くへ行け、と僕は言う。
 顔全体が汚れと、涙にまみれ、恐怖と不安にひきつったそいつの顔が、さらに歪む。
 助けて、声変わりもしていない少年の声が、廃墟となった街路に響いた。
 お願いです、助けて下さい。
 幼い声に、僕は少しだけたじろいでしまう。気を取り直し、良いから、遠くへ行け、とそいつに言いながら、カービン銃をそいつの頭上に向かって何発か撃つ。
 そいつは、銃弾にひるみもせず、助けて下さい、とさらに言った。
 僕は狙いをそいつの足元へ移して、さらに銃撃する。それにはさすがに、たじろいだそいつに、さっさと行け、と僕が叫ぼうとした時、背後で誰かが立ち上がる気配がした。
 アスミだった。立ち上がり、「ハジメ」と僕の名前を呼んだ彼女が、さらに言葉を続けようとした時、大きな叫び声が僕らの耳をつんざいた。
 叫び声のした方に顔を向ける。叫んでいるのは、僕らに助けを求めていた子供で、そいつの体が五メートルほど宙に浮いていた。
 申し訳ございません、申し訳ございません――半ば狂乱した顔でそう言う、そいつの言葉は、僕らではなく、別の誰かに向かって言われているようだった。
 その、別の誰かは、すぐに現れた。
 僕らのいる道の正面をふさぐように建っていた建物――映画館か、何かだったのだろうか――その背後から、一人の男が浮かんで来た。
 二十代半ばと思しい、不自然なくらいに整った顔をした男だった。短い金髪に、黒いジャケットとズボン、ノーネクタイの白のシャツ姿のそいつは、気味の悪い微笑を浮かべていた。何も使わずに宙に浮いた男は、泣き叫ぶ、自爆ベストの子供を見ていた。汚らしい子供の姿と、男の整った服装は、気分が悪くなるくらいに隔絶されていて、子供と、男の関係を何よりも如実に示しているようだった。
 申し訳ございません、戦います、戦います、戦わせて下さい。
 そう叫び続ける子供に、男は微笑を浮かべ、見つめるだけだった。
 不意に、子供の首が折れる。正面を向いていた顔がのけぞり、後頭部が背中にくっつくような姿勢になって、自爆ベストの子供は、唐突に絶命した。バキリ、という嫌な音は僕らにまで聞こえてきて、僕はカービン銃のグリップを無意識の内にぎゅっと握りしめた。
 銃の照準は、金髪の男が現れた時からそちらに向いていたけれど、引き金は引かなかった。
 撃ったところで無駄なのは分かり切っていたし、そして、心のどこかで、撃つことで男の関心を自分に向けたくない、というのがあったのかもしれない。
 男はゆっくりと、視線を僕らにめぐらした。
 僕達のチームを順々に眺めていた男は、不意にぴたりと視線を固定した。
 その先にはアスミがいて、彼女は男の視線を真っ向から見返していた。
 男の顔に、明確な喜悦が刻まれる。背筋が凍るような笑みが浮かべられると、地面から何かが宙に浮かぶ。
 自爆ベストを身に付け、僕らに向かってきた連中の死体だった。宙に浮かぶ肉体からは、血や肉が、ゆっくりと地面にしたたっていく。
 カチ、という音が、四つ分響いた。自爆ベストのスイッチが入れられた音だと、僕は気付いた。
「野郎……!」
 そうコジローが小さく呻き、銃を構える。ベストを狙撃するつもりだったのかもしれないが、彼が引き金を引く前に、自爆ベストの巻かれた四つの死体は、僕らに向かって飛んできていた。
 金髪の男が、子供のような満面の笑みを浮かべているのを僕は見た。
 高性能爆薬を満載した死体が向かってくる、悪夢のような光景が視界に広がる。しかしそれは突然、黒い幕のようなもので覆われる。
 僕達五人を、その黒い、闇をそのまま具現化したようなものは、すっぽりと包んだ。
 それまでの、嫌になるくらいの晴天から、真夜中のような闇の中に放られ、僕は思わず息を呑む。情けないことに、この現象が、あの金髪の男によるものだと、僕は少しだけ思ってしまった。
 闇は、ほんの数秒で晴れ、僕らの目の前に、晴天と廃墟、そして宙に浮かぶ男、という光景が戻ってくる。
 そこには、先ほどまではなかったものがいくつか加わっていた。地面に穿たれたいくつもの爆発の痕、その周りに広がった血と肉……そうしたものが、ちょうど闇の幕が展開されたところを境に、広がっていた。
 僕らを覆い、爆薬の炸裂から守ってくれた闇は、無数の触手となって、しばらく宙でうねうねと蠢いていた。喜びを表現するかのように、そいつらが動いていたのはほんの短い時間のことで、すぐにそれらの触手はまとまり、奇怪な一筋の帯となる。
 帯は一度地面に降り、そのまま僕らの足元を通って、アスミの影に向かい、それと同化する。
 闇――アスタルテの体を、影に収めたまま、アスミはゆっくりと歩き出す。
「皆下がって」
 僕を追い越し、チームの先頭に立ったアスミはそう言う。その目の前には、心底楽しそうに笑った、金髪の男がいた。
 僕達はじりじりと、アスミと、金髪の男から距離を置く。
 これから始まる戦いに、僕達は関わることは出来ない。一体で人類を滅亡させかねない化物と、その体を使役する少女の戦いに、関わることの出来る人間なんて、この地上には一人としていない。
 アスミの影から、闇の触手が再び持ち上がる。金髪男の周りの建物が、勝手に崩れ始める。
 アスミの怒りと、男の喜悦。それに大地が、震えていた。



 僕らの“街”は直径〇キロメートルほどの、地下領域に設けられている。
 人口は約一万人。広さに比べれば大分少ない数だけれど、そうなってしまうのには理由がある。
 現在の地上は化物――人の形をした、凶悪な化物達によって制圧されていて、そいつらから隠れるために、街は生存に必要な設備も全て地下に設けなければならなかった。そのため、領域の広大さの割に、街の生産力は酷く限られていて、養える人口も、せいぜい一万人が限度、という訳だ。
 街に住む人々はたいてい、お腹を空かせて過ごしている。
 農作物は発電力の限られた地下原発が作る電力と熱で細々と作られ、かろうじて必要量が満たせている程度だった。畜産も行われてはいたけれど、それに必要な大量の飼料は満足になく、主要なタンパク源は、育てるのが容易な昆虫と大豆だった。
 こんな生活を強いられる地下都市だったけれど、今の人類にとってはこの地球で化物に隷属せずに生存できる、貴重な場所だった。
 およそ十年前、化物に対して人類の敗色が濃厚になった時点で、世界各地で建設が始まったという地下都市は、僕達の街以外にもいくつかが現在も生き残っているらしい。
 ただ、そうした街と交流する手段も、現在の僕達にはなく、果たしてどれほどの人間が、化物に飼われずに生きているかは分からなかった。
 人類の時代が終わり、化物の時代が始まろうとしている。
 そんな地球に、僕らは生きていた。

 地下への入口にたどり着いたのは、もう日も暮れかけた頃になってからだった。
 地下の街が敵にばれてしまうことは、滅亡に直結するため、入口に至るまでには大きく迂回するルートを取らなければならない。
 到達するまでにも長い時間をかけるけれど、中に入るにはもう少しだけ時間がかかる。
 十台ほどが並んだ僕らの車列の先頭の方で、あの大尉や、彼の部下たちが周囲に敵がいないかを車両にごてごてと取り付けられたセンサーや、双眼鏡で確認しているのが見える。
 僕らの周りには、相変わらず廃墟の街が広がっている。ビルの死骸の向こうへ沈んでいく太陽のオレンジ色の光を見ていた僕は、ふと視線を助手席のアスミに向けた。
 顔にいくつもの絆創膏を付けたアスミも、じっとその夕日を見ていた。
「きれいだね」
 僕がそう言うと、アスミはひねた笑みを浮かべた。
「私は嫌い」
 血だまりみたいだもの。そう続けたアスミに、僕がどう返せばいいか言い淀んでいると「おいハジメ」と、後ろの席からコジローが声をかけてきた。
 彼が指をさす先を見ると、前にいた車両がようやく開いた地下への入口にむかっていた。
 ルームミラーに後ろの車両の兵士が苛立たしげに腕を振っているのを見た僕は、慌ててギアを入れ、車を発進させた。

 化物に傷一つつけられない僕ら兵士が地上に出て何をするかといえば、街に近付く化物を別の場所へ誘導する、オトリになることが多い。
 人類の大部分が死に絶えた現在、地下に潜む僕らに関心すら持たない化物がほとんどだったけれど、中には未だに僕らを探し回る、悪趣味な奴もいた。
 そんな連中の中には、まれに街に近付いてくる奴もいた。
 地下にいる人間を発見する能力を持つ化物は発見されていないものの、あまりにも接近されれば、一万もの人口を抱える街が察知される可能性はないとは言えなかった。
 街への化物の接近が確認されると、僕ら防衛軍は地下トンネルを伝って地上に出る。そして車両で走り回ったり、これみよがしに陣地を作ったり、時には化物に誘導弾を打ったりして、奴らを街から遠ざける。
 そして連中が十分、街から離れてから、アスミ達、統制者が化物を殺す、という訳だ。
 本来なら、化物一体に対して統制者は二人で当たるのが基本とされている。
 ただ、今日はアスミと一緒に待機に入っていたもう一人の統制者が急に体調を崩してしまって、急きょ、アスミが一人で出撃することになったのだ。
 やむを得ないことだったとはいえ、無茶なアスミの作戦は、一緒に参加した兵士たちにも結構な緊張を強いていたらしい。それから解放された兵隊たちが、車の中で浮かれ騒ぐのが、真っ暗なトンエルを走る装甲車の中からでも見えた。
 街へつながるトンネルは、万が一敵の侵入を許した時を想定して、複雑に曲がりくねり、迷路のようになっていた。
 先頭の車が浮かれて道を間違えないか不安だったものの、一時間ほど経つと、僕らは街にたどり着いた。
 トンネルから街への入口には巨大な隔壁があり、その前には車両が十台以上並べられる広場が広がっている。
 それまで車二台分の幅しかなかったトンネルから、この広場に出ると、ようやく解放感と安心感を味わうことができる。
 入口には軍の関係者だけでなく、出撃した兵士の家族が出迎えに来ていた。
 装甲車を停めると、兵士たちの多くは家族のもとへ走っていくけれど、中にはそんな戦友をさびしそうに眺めながら、一人街の方へ歩く人もいた。
 僕が装甲車を停めると、リンやユウト、コジローはほとんど間髪入れずに車の外へ出て、自分達の家族や保護管の方へ向かった。いくら戦場をくぐっても、僕らはまだ、子供だった。
「立てる?」
「大丈夫」
 僕の問いかけにそう答えると、アスミは大儀そうにシートから体を起こした。
 アスタルテは今、彼女の影の中に収まっている。
 アスミはなんとか車外に出たものの、歩くのは大変なようで、僕はアスミを支えた。
 そんな僕らに、一人の長身の女性が歩いてきた。
 かっちりとした制服に少佐の階級章を付けた女性は、兵士たちが行き交う中を、真っすぐに僕らへ向かってきた。階級章に気付いた何人かが、慌てて敬礼してくるのに、軽く答礼しつつ、歩いてきた彼女は、僕とアスミの前に立つと、何も言わずに僕らを抱きしめた。
 僕ら二人を抱きしめるには、その腕は少し小さかったけれど、込められた力は強かった。
「苦しいよサヤマさん」
「うっさい、我慢なさい」
「サヤマ、最近髪洗ってる?」
「張り倒すわよアスミ」
 そう言うサヤマさんの声には、少しだけ涙が混じっているみたいだった。
 十一年前、僕とアスミが家族を根こそぎ失ってから、親代わりを務めてくれたのがサヤマさんだった。軍人として仕事をしながら、身寄りのない子供を世話する保護官として、僕らの面倒を見てくれていた。
 歳は僕らと十歳しか離れていないので、親というよりは、歳の離れたお姉さんと言った方が良いのかもしれない。それでも僕とアスミにとっては、サヤマさんは何者にも代えられない、大切な人だった。
「よく頑張ったわね、調子はどう、アスミ?」
「だるい、疲れた、お腹減った」
「大丈夫そうね。ただ、メディカルチェックは受けておきましょ」
「サヤマさん、アスミはお願いするよ。僕は報告に行ってくるから」
「分かったわ」
 ただドンパチをするだけが兵隊の仕事ではなく、報告や、時には事務もしなければならない。戦闘と、数時間に及ぶ運転で、頭と体は悲鳴を上げていたけれど、僕はため息をつきながら歩き出した。僕は一応、チームのリーダーということになっているので、報告は僕が代表して行わなければならない。
「ハジメ」
 振り返ると、アスミを背負ったサヤマさんが、僕を見ていた。
「無理しないでね」
 あいまいな笑みをサヤマさんに返し、僕は街へ向かって歩き出した。



 僕がアスミとサヤマさんと一緒に住む部屋に戻ったのは、日付が変わるか変わらないかの時間だった。
 僕らの部屋は地下深くにある。人によってはそれこそ猫の額のような粗末なところに住まなければならないが、三人とも軍人で、さらには人類生存の希望であるアスミのいる僕らは、地下の中でもとびきり上等な部屋に住むことが出来ている。
 四LDKの部屋に入ると、リビングではアスミがまだ起きていた。
 テーブルでお茶を飲みながら本を読んでいたアスミは、本から顔は上げなかったものの「おかえり」と僕に言ってくれた。
 ただいま、と彼女に返し僕は彼女の向かいの席に腰かけた。アスミの飲んでいるお茶の、甘く、少しだけツンとした匂いが、鼻に入り込んでくる。
「ハーブティーだけど、飲む?」
「ありがとう、お願いして良いかな」
 ん、と言って、アスミはキッチンに向かう。僕のマグカップを棚から出し、電気ケトルのスイッチを入れるアスミの姿を見ているだけで、眠りの淵に落ちそうになる。
 また帰ってこれた、と、落ちそうになるまぶたに力を込めながら、僕は思った。
「もう寝ちゃえば?」
「いや、ハーブティーを飲むまでは眠れない」
「何それ」
 そんなことを言い合ってさほど経たない内に、アスミがマグに入ったハーブティーを持ってきてくれた。
 熱い、さっぱりとした香りのお茶を飲むと、少しだけ眠気が遠のいてくれた。
「旨いなー」
「いつも飲んでるでしょ」
「今日のは特別に旨い。アスミが淹れてくれたからかな?」
「ハジメ、頭でも打った?」
「僕は完全に正気だよ」
「それが怪しいから言ってんの」
 ったく、と言うアスミは、当たり前のことだけど、昼間に比べてかなりリラックスしていた。
「そういえばサヤマさんは?」
「仕事。今日は夜勤なんだって。ご飯食べたらすぐ行ったよ」
「ちなみにメニューは?」
「鶏と大根煮たやつ……あと、プリンが支給された……ってか、ハジメ、ご飯食べてないの?」
「ビスケットだけは食べた」
「用意しようか?」
「いや、もう今日はいいや」
「体壊さないでよね、もー」
「アスミこそ、メディカルチェックは大丈夫だった?」
「うん」
 アスミはハーブティーの残りを飲み干し「あたしもアスタルテも、絶好調」と呟くように言った。
「ハジメ」
「うん?」
「そっち行って良い?」
「いいよ」
 アスミは立ち上がると、僕の方に近付いてきた。僕は立ち上がり、彼女の体を抱きしめた。アスミはシャワーを浴びた後で、髪からは甘いシャンプーの香りがした。僕よりも頭一つ分だけ低いアスミは、僕の胸に顔をうずめるが、すぐに顔を離して、しかめっ面をした。
「……汗くさ」
「ごめん、シャワーに入る時間もなかったんだ」
「しゃーない」
 アスミはしかめっ面のまま、僕に顔を寄せる。
「あの金髪ヤロー、殺す直前まで笑ってた」
「化物だからね、僕らじゃ理解できない考えを持ってるんだろう」
「あの子、首を折られた子、いたよね」
「うん」
「アスタルテの力を使えば、間違いなく助けられた。でも、私が判断するのが遅かったから、できなかった」
「君のせいじゃないよアスミ。あんな状況で、素早い判断をするのは難しいし、それは僕の仕事だ。落ち度は君じゃなくて、僕にある」
「ハジメにばっかり、辛い想いをさせてる」
「あんなのを影に飼わなきゃならない、君ほどじゃないさ」
「ハジメ、倒れた敵にトドメを刺すとき、何も感じてないように見えた」
 その言葉に僕は返すことが出来なかった。カービン銃の引き金を二回引いた時、僕を見るめるアスミの顔が、脳裏に浮かんだ。
「ごめん……ただ、ハジメがあんな顔をしてるのが、私、辛かった」
「僕は君より、酷い人間なのかもしれないね」
「ねえ、ハジメとサヤマと三人で、遠くへ行かない?」
「それは楽しい旅行になりそうだ」
「旅行じゃなくて、街から出るの」
「……皆は大分、困るだろうね」
「もう皆、知ったことじゃない。もう戦いなんて、したくない。アスタルテも、化物も、人間も、皆死んじゃえば良いんだ」
 アスミの肩をやさしくたたき、僕は「辛かったね、アスミ」と言う。死んじゃえば良い、死んじゃえば良い。そう言いながら、アスミは涙を流していた。

 ベッドに寝かせてからさほど経たない内に、アスミは眠りに落ちた。
 深い眠りに落ちた彼女を見て、ほっとした気分を味わったのも、束の間のことだった。
 アスミを包むシーツの下から、するすると影が、流れ出てきた。それは床で、大きな円を作り、その中から黒い女が、形作られた。
 黒い服に、黒い肌、黒い髪をした美女が、アスミの部屋に出現する。
 世界中の悪意を煮詰めて人の形にすると、こんな風になるのかもしれない。アスタルテはわざとらしいあくびを、僕にして見せた。
「あーようやく寝てくれたわお姫様」
「何の用だ」
「ひどーい、ただハジメくんとお話したいだけだったのにー」
「僕はちっとも話したくないね」
「もっとひどーい。さっきのアスミへの態度と違い過ぎない? 君のせいじゃないよっ、辛かったねっ、とか情熱的に言ってくれちゃってさー、もう聞いてるこっちが恥ずかしかったわよー」
「黙れ」
 睨みつけながらそう言うと、アスタルテはわざとらしく「おおこわーい」と言った。実際問題、こいつには僕のどんな脅しも無駄だ。銃はおろか、戦車砲、ミサイル、果ては核に至る、人類のどんな武器を以ってしても、こいつを含めた化物には傷つ付けることが出来なかった。
 僕がこいつに言葉を――それもこんな攻撃的な言葉をぶつけることは、奇跡に近い。こいつにかかれば、生意気な十七の子供を原子レベル以下にまで分解することも、あくびまじりに出来てしまう。それをこいつがしないのは、アスミという存在がいるからだった。
「四六時中、宿主たるアスミ様に黙れ黙れと命じられ、大好きなおしゃべりが出来るのはこうして姫様が寝静まった後だけ……ほら、ちょっとあたし可哀そうに思えてこない?」
「七十億いた人類が、世界で推定五億人まで減った理由は何だと思う? その原因がおしゃべり好きな売女とその仲間で、そいつに家族や大切な人を根こそぎ奪われた人間が、楽しくおしゃべりしたいと思うか?」
「それは仕方ないと考えてもらうしかないわね」
「仕方ない?」
「そう、仕方がない」
 アスタルテは少しだけため息をつく。
「あたし達と、あなた達人類に、埋めようのない力の差があり、私達が地球に降り立つことになったら、人類が滅んでしまうのはそれは仕方のないことでしょう。かつての大型ほ乳類が、あなた達人類の台頭によって絶滅したのと同じようにね。弱肉強食の自然の摂理に従うのは、生き物には仕方のないこと。あなた達人類はずーっと食べる側だったのが、急に肉になってしまったことで、戸惑っているんだろうけどね」
「そして、お前達はずっと食べる側ってことか」
「そ、なぜか私は、お肉にコキ使われちゃってるけどね」
「肉にさせられて、何も感じないほど、人類はバカじゃないんだよ」
「もーその考えがカターい。えーっと、ゴーダマブッタ、だっけ? 大昔の宗教家さんも言ってるけどさー、そーゆーのを執着って言うんだよ? そーゆーのを捨てて、目の前のことを楽しんでこーよー」
「嫌だ」
「そんなこと言ってると、力貸してあげないゾ☆ 同族にダメージを与えられるのは同族のあたし達だけなのに、そんなこと言って良いのかなー?」
「アスミが命令すれば、お前の意思は関係ないだろ」
「まーそーなんだけどねー。でもやっぱり、あたしにも、感情というのがあるんですよ」
「知ったことじゃない」
「ひどーい。でもおしゃべりには付き合ってくれるハジメくんのこと、お姉さん好きだよ☆」
 そう言われて、僕はこの女の話に結構な時間付き合っていることに、今更ながら気が付いた。疲れていたとはいえ、化物の意に添うことをしたことに、僕が渋い顔をすると、アスタルテが僕の頬をつついてきた。
 死人のような冷たい指だった。肌が一気に粟立つ。アスタルテから飛びのくように距離を取る。そんな僕を、アスタルテが笑う。
「そんなハジメくんに、ごほーび」
「……ご褒美?」
「残念ながらエッチなことじゃないよー。耳よりなこと教えたげる」
 そしてアスタルテは、僕の耳元にそっと顔を寄せる。神経が悲鳴を上げるが、体を動かすことは出来なかった。
「アスミはもうダメよ」
 そんな僕を笑いながら、アスタルテは言った。
「心も体も悲鳴を上げてる。このまま私の宿主を続ければ、早晩命を落とすでしょうね。私の制御に、力を使い過ぎてるんでしょう」
 僕は、アスタルテを見る。アスタルテも僕を見返してくる。ぞっとするような笑みと共に、黒い女は言葉を続けた。
「そしてアスミに続く宿主は、あなたになるわ。私との適合車で、現状あなたが一番能力が高い。それに私も、あなたが宿主なら嬉しいわ」
 からかい甲斐があるもの、とアスタルテは続けた。
「ただ、それには難問があるわ。私の継承には、宿主の意思がどうしても必要になる。あなたが新しい宿主になる、と聞いて、アスミは首を縦に振るかしら。あなたとサヤマと、一緒に街から出るとまで言った彼女が、大人しく私を手放すかしら……いや、そもそも相手が誰であれ、彼女が私を手放すかしら。人類の生存すら疎み始めている彼女なら、私を手放さず、命を落とすことを選ぶかもしれないわね」
 黒い肌から覗くこいつの口は、ぞっとするほどの赤色をしている。
 その中でうごめく舌を見ながら、僕はこいつが本物の化物であることを今更ながら認識していた。
 僕達が苦しみ、悶えるのを、こいつは心底楽しんでいる。たとえ、自分の命がかかっていても、それよりも僕らが苦しみ、それを見て楽しむことが、こいつにとっては何よりも優先されることなのだ。
 もう遅いわ、寝なさい。
 僕をじっくりと眺めてから、アスタルテは消えた。自分の部屋に帰った僕は、なんとか眠ろうとしたけれど、結局朝が来ても、眠りに落ちることは出来なかった。



 ヤツらの発生は、当初、新種の病気だと考えられていたのだそうだ。
 ヤツらは、人間を苗床として地球に発生する。不運にもヤツらの苗床となった人間は、原因不明の高熱、吐き気、せん妄に襲われる。どんな治療も受け付けない、その猛烈な体調不良は、一週間ほどで嘘のように治ってしまう。
 その体調不良から復帰した人間は、もう人間ではなくなっている。
 それまでの記憶・人格は全て失われ、代わって自分の欲望のためならば破壊と殺戮を厭わない、凶悪としか評しようのない精神と、自分を傷つける一切の物理的な干渉を受け付けず、なおかつ周囲には一方的に干渉できるという、映画か、三流小説のような絶対的な力を持った化物が誕生するのだ。
 ヤツらが何者なのか、どうやって人間に寄生し、発生するのかは、ヤツらが初めて確認されてから十三年もの歳月が経った現在でも分かっていないし、実はヤツら自身も分かっていないらしい。
 宇宙からやってきた侵略者、検知不可能な新種のウィルス、はたまた、環境破壊を続ける人類に鉄槌を下すために地球が作り出した使者……様々な、オカルトじみた仮説が出されているが、ヤツらのおかげで人類が滅亡しかけていること以外、確かなことは何も分かっていない。
 十三年もの間に十分の一以下にまで減ってしまった人類が、何とか生き永らえ、地下とはいえ一定の領域を確保しているのは、アスミを含む、統制者と呼ばれる人達のおかげだった。
 ヤツらの苗床となった人達は十中八九、連中に心とからだを明け渡すことになるが、ごくまれに、ヤツらに意識を奪われず、逆にヤツらを支配することが出来る人達がいた。
 そして、人類の攻撃手段のことごとくを受け付けないヤツらも、同族からの攻撃は防ぐことが出来なかった。
 統制者が操る特異体、と呼ばれるヤツらの力によって、人類はかろうじてヤツらに対抗することが出来、わずかながらも、自分達が自治する領域を保持することが出来ていた。
 ただその領域も、遅かれ早かれ、いつか喪失するだろうとは言われていた。
 その事実は、街の指導者や、役人から発せられた訳じゃない。ただ、物心がついた年頃になれば、誰もが気付く、否定しようのない事実だった。
 僕らの街にいる統制者は全部で五人。調べようが今となってはないので、あくまで推計だけれど、全世界で統制者は数百人と言われている。
 対するヤツらの数は、全世界で推計四〇万。くつがえようのない、単純な事実だった。



 もう地上には住めない僕達だけれど、生産活動は以前と同じく、地上の日照時間に合わせて行っている。
 そのため、地下の照明が明るくなる時間、暗くなる時間も、基本的には地上のそれに合わせられている。
 日の出の太陽と同じくらいの光量のLEDで目覚めた僕は、枕もとの時計を見やる。
 古くさい、針で時間を示すタイプの丸い時計は、六時半を指していて、僕はゆっくりと、ベッドから起き上がった。
 そのままキッチンへ行って朝の用意をしていると、サヤマさんが疲れの残った顔で起きてくる。パジャマ姿の彼女は僕におはようと言うと、用意しておいたコーヒーを飲む。
 今日も仕事で遅くなる、ご飯は先に食べといて、あの上司早く死なないかな。
 そんなサヤマさんの話を聞きながら手を動かしてると、朝食はいつの間にか出来上がってしまう。
 それをそそくさと食べると、サヤマさんは部屋に引っ込み、五分ほどでかっちりとした軍服姿になって再び出てくる。
「じゃ、アスミに会ったらよろしく言っといて」
 そう言って家を出ていくサヤマさんを見送ってから、僕は残った自分の朝食を片付ける。普段なら、こんなに朝食に時間をかけることはない。僕もサヤマさんと同じく、街の防衛軍に所属していて、時間通りに出勤するためにいつも朝食をかき込むハメになる。
 ただ、今の僕には時間の余裕が与えられている。リンやコジロー、ユウトにも。ただそれは心穏やかに迎えられる類のものではなかった。
 一週間前、アスミが突然血を吐いた。そのまま病院に入院となり、主戦力を失った僕らのチームは自然休業のような形になったのだ。

 朝食を終えた後、僕はアスミの入院する病院へ見舞いに行った。病院はやはり地下。それもとびきり深い区画にあり、僕らの家からエレベーターと歩きで五分ほどかかる。
 アスミは病室のベッドに起きていた。
 白い病院服を身に着けたアスミは、顔色がまだ悪いようだった。手には点滴のチューブが付けられていたけれど、それでもつい数日前、ICUで呼吸器につなげられた時に比べれば、かなり元気になっている。
 彼女が血を吐いた時、僕らは食事中だった。その週の配給品は豪華なことに豚肉で、僕たちはアスミの好物のシチューを、豚のブロック肉を使って作った。
 アスミが血を吐いたのはそれを一口か二口、食べたところだった。何の前兆もなくアスミは血を吐き、鮮血とシチューの白が混ざって、テーブルに奇怪な模様を描いた。
 僕とサヤマさんの反応は早かった。救急医療の知識と技術は持っていたし、二人とも手足が吹っ飛ばされた戦友を介抱した経験すらあった。彼女への措置は正確で、素早かったと思う。
 救急隊を呼び、アスミがICUに入るまで僕は付き添った。サヤマさんに少し休んだ方が良いと言われ、僕は人で家に戻ることになった。
 家は食事の用意や、アスミの血が残ったままになっていて、僕はそれの片付けを一人でした。
 シチューを流しに捨て、キッチンペーパーにアスミの血を含ませながら、僕はこらえ切れずに泣いてしまった。
 そんなことを思い返してた僕は、奥歯を噛み締め、小さく息を吐く。心を落ち着け、アスミの方へと近付いていく。
 アスタルテは部屋の隅に立っていた。体への負担を避けるために、影の中には収められていない。アスミに命じられているのか、僕が部屋に入っても視線を寄越すことはなく、ただ黙って、何もない空間を見つめているだけだった。
 アスミとアスタルテは分かち難く結ばれている。アスミがいる所には必ずアスタルテがいて、彼女が見て、聞いたことはアスタルテも見て、聞いている。僕がアスミと話したことも全てアスタルテは聴いていて、アスミが眠りに落ちると、それを思い返し、ほくそ笑む。
 自分を含めた人類すべてに悪意を持つ化物が、常にそばにいて、自分の全てを見ている。怖気が走る事実だったが、それを実際に味わう、というのは果たしてどんな体験なんだろうか。
 統制者が心身に受けるダメージは大きく、長く務められて五年ほど、とされている。
 統制者の限界が近付くと、特異体と適性のある人材から、知力、体力に優れた出来るだけ若いものが、新しい統制者として選ばれる。
 アスミが統制者となったのは二年前のことだ。
 統制者に一度選ばれれば、それを拒否することは出来ない。個人の意思を尊重するほどの余裕は、地下で細々と暮らす人類には存在しなかった。
 継承の時、アスミと僕はアスタルテのことは気にしない、と決めた。
 僕らは今まで通りに話をしよう。化物のことは気にせず、僕らは僕らのままでいよう。僕がそう言い、アスミもそれを受け入れてくれた。
 ただ、それは正しい判断だったのか、と今更ながら考える。化物がすぐそばでほくそ笑んでいるけど、そんなものは気にしないでいよう――そんな無茶な僕の願いは、アスミに無理を強いていたのかもしれない。
 二年という、統制者としては比較的短い期間で限界を迎えたのは、僕のせいなのだろうか。
 アスミに血を吐かせたのは、僕なのだろうか。
 病室の真ん中に立って、そんなことを考えてしまった僕の視界に、赤いものが入る。
 はっとして、そちらに目を向ける。
 アスタルテが、笑っていた。耳まで裂かれた口から、赤い口腔を覗かせ、僕の方をしっかりと見て、これ以上愉快なことはない、と言わんばかりに、笑っていた――。
 そんなアスタルテの姿が、不意に歪む。最初に首がありえない方向に折れ、次に顔が、車にひかれたカエルのようにぺしゃんこになる。胸、腕、足、腹、全身の骨がポキポキと音を立てながら折れ、アスタルテの体はゆっくりと崩れていく。崩れた体は、アスタルテの足元の影に収容されていく。
 見るとアスミが、もの凄い形相でアスタルテをにらんでいた。アスタルテの体が、床に黒いしみのように広がった影に収まっても、アスミはまだ、そちらの方をにらんでいた。
「アスミ、もう良い」
「ハジメは黙ってて」
 影の中では、依然としてパキ、ポキと音が鳴っていた。考えられる限りの痛みを感じろ、そうアスミは、アスタルテに命じているのかもしれない。影の中で、アスタルテが笑っているように、僕は思えた。
 影となったアスタルテをにらむ、アスミの鼻から血が一筋流れた。
「アスミ、もうやめろ」
「黙ってって、言ったでしょ」
「ダメだ。それ以上は君の体が壊れる」
「知ったことじゃない」
「アスミ――」
「死んでも良い。こいつが少しでも苦しむんなら」
「ダメだ、アスミ」
「何がダメなのよ!」
 そう叫ぶアスミの体を、僕は抱きしめた。情けないことに、泣きながら。鼻血に汚れた彼女の病院服を、さらに涙で濡らしてしまいながら、僕は言う。
「死んじゃ、ダメだ」
 影の中から、アスタルテの体がゆっくりと再生していく。アスタルテから視線を外したアスミは、僕の手をそっと握っていた。
 ふふふ。
 完全に元の体を取り戻したアスタルテは、僕らを見ながら、笑った。
 ふふふ、ははは。
 徐々に笑い声の大きさを上げるアスタルテの方は見ず、僕はアスミを抱きしめ続けた。

 昨日の夜、アスミは自分が統制者の任を解かれることになったこと、次の統制者に僕が選ばれたことを知ったらしい。
 伝えたのは、特異体と統制者を用いた作戦を統括する責任者の大佐だった。
 ちょうど僕も、昨日の晩にその大佐の訪問を自宅で受け、アスミが聞いたこととそっくり同じことを伝えられていた。
 多分、大佐はアスミのところへ行ってから、僕のところへ来たんだろう。副官と一緒に僕に話をした大佐の顔と首には、隠しようのないアザが付いていた。
「絶対そんなことはしないって言ってやった」
 アスミは昨日のことを、そうしめくくった。
「私はまだやれる」
「どうして、そう思うんだい」
「私がそう思うからよ」
 アスミは僕を見つめる瞳に、少し棘を含ませる。
「アスミ、君はもう限界だよ」
 僕は言い含めるように、彼女に言った。
「このままアスタルテを負い続けたら、死んでしまう。僕は、君に死んでほしくない」
「その内、皆死ぬわ」
 僕は、アスミの目をじっと見つめる。諦め、苛立ち、悲しみ、怒り。それらが煮詰まったものが彼女の目には浮かんでいるように見えた。
「あなたがアスタルテを継いだところで、人類に勝ち目なんてない。……連中がその気になれば、こんな街なんて時間で跡形もなくなるわ。何もかも、無駄なの。あなたがアスタルテを継ぎ、苦しみぬいたところで、何もならないのよ。なのに、私はあなたに、こんなもの、負わせたくない」
「勝ち目がないとしても、良いんだ」
 僕はアスミの目を真っ直ぐ見返しながら、そう言った。
「たとえ、僕らがいずれ死に絶えたとしても、僕はそれまでの間、君や、皆を守りたい。少しでも長く、皆が笑っていられるために、僕はアスタルテを継ぎたいんだ」
 そう僕が言うと、アスミは僕の頬を思いっきり張った。
 頬にじんとした痛みを感じても、僕が彼女に何をされたのか、すぐには理解できなかった。
 戸惑う僕の前で、アスミは泣きじゃくる。両手に顔をうずめ、ただ泣く彼女を見ながら、僕は立ち尽くすことしか出来なかった。
 ただ泣き続ける彼女は、それ以上何も、言うことはなかった。



 アスタルテを負うことを、僕は望んですらいた。
 家族を失ったあの日から、僕はアスミという存在を支えにして、生きていた。
 家族、兄弟、恋人。アスミは僕にとってその全てでありる、大切な人だった。そんなアスミが背負ったアスタルテという化物を、彼女が負った苦しみを減らしたいと、僕は、彼女が統制者となった時から望んでいた。
 しかし、それは彼女が望むことなのか。
 化物の気まぐれでいつ滅ぶか分からない人類のために、僕を苦しめたくないと彼女は言った。そんなことをするのなら、アスタルテごと自分が死ぬとすら、彼女は言った。
 たとえそうなったとしても、僕はアスタルテを負う。僕はそれがエゴでしかないと、彼女に言ってしばらく経ってから気が付いた。
 要するに、僕は、僕が苦しみたくないために、アスミを救いたかった。僕がアスタルテを負うことで、アスミがさらに苦しむことになっても、僕はアスタルテを負いたかったのだ。そこには、アスミにばかり重荷を背負わせたことへの、罪悪感が過分に含まれていた。
 あの時、彼女が僕を殴り、泣いたのは、そんな僕のエゴが招いたことだったのかもしれない。

 あのことがあって週間ほど経って、アスミは退院し、家に戻ってきた。
 帰ってきてから、彼女は僕とも、サヤマさんとも話そうとせず、ずっと部屋にこもっていた。
 彼女にどう声をかけて良いか分からず、僕はただ、憔悴していきながらも毎日仕事へ向かうサヤマさんを見送り、何の気配も発しないアスミの部屋のドアを見つめることしか出来なかった。

「もう俺らも、本当に終わりかもしれないな」
 汗を拭きながら、コジローはそう言った。
 僕らは街の、防衛軍練兵場で、ランニングを終えたところだった。
 本当は家を離れたくなかったけれど、軍はそれを許してくれず、仕方なく訓練をすることになった。そこで、僕と同じように駆り出されたコジローと、一緒に今まで走っていたのだ。気の乗らないまま始めたランニングだったけれど、気分転換には少しなってくれた。
 コジローのその言葉は、薄れかけていた現実を、僕の前に再び突きつけた。
「数少ない統制者の人が継承を拒否。これで任務中に他の統制者が一人でも殺られれば、あとはドミノ倒しだろうな」
「……そうなるだろうね」
 水を口に含みながら、僕はコジローに応じる。
 アスミの退院と共に、アスミから僕へのアスタルテの継承が進められることになっていた。
 前に彼女が僕へ言った通りに、アスミはそれを拒否した。
 それどころか、僕以外の誰にも、アスタルテを継がせない、と言った。
 こんな継承は無意味なこと、私は死ぬまでアスタルテで戦う。そんなアスミの話を聞いた上層部は狂乱状態に陥り、アスミを薬で廃人にさせ、無理矢理継がせることまで検討したそうだ。
 そのアスタルテの暴走をまねきかねないプランは、サヤマさんの必死の働きかけもあって、なんとか取りやめになり、まずはアスミの精神状態が落ち着くのを待つことになった。
 ただ、時間をかけたところで、アスミの意思は揺らぎようはない。
 ここままいけば、僕はアスミを失うことになる。
 僕はクソ野郎だな、と思った。
 気付かないままアスミを追い込み、彼女の気持ちに気付いた今となっては何も出来ない。
 本当に、クソ野郎だった。
「ようよう、何か思い詰めてる様子だなハジメ」
「……別に」
「その顔は、今の事態は僕が招いたことですって考えてる顔だな」
 図星を突いてきたコジローに、何も言えないでいると、コジローは水を一口飲んでから言葉を続けた。
「そう考えこむことはねえよ。そもそもこうなった原因は、イカれた化物が地上に出て、それでも無理矢理、人類を生かそうとしているせいだ。アスミがああならなかったとしても、いずれ誰か――何代か先の統制者が、同じような考えに至ってもおかしくない。化物を飼うこと、それを仲間に押し付けること、そんなことするくらいならいっそのこと……ってな。だから、お前やアスミは悪くねえ」
「……コジローは良い奴だね」
「気付くのが遅いぞ」
 そしてもう一口水を飲んでから「もっとも、俺も全面的に良い奴という訳じゃない」とコジローは続けた。
 水の入ったボトルを置くと、コジローは僕の首に腕を回し、僕の顔を自分の顔に近付けてきた。
「人類滅亡の前に、悪いことをしてみねえか?」
「悪いこと?」
「そう、悪いこと」
 そう言って笑ったコジローの顔には、いつもの大人びたものではなく、酷く幼い、悪ガキみたいな表情が浮かんでいた。



 アスミの部屋のドアに立つと、僕は一つ、深呼吸をした。
 サヤマさんはもう仕事に出かけていて、家の中は僕とアスミだけだ。アスミが病院から戻ってはや一週間、彼女に声をかけるのは久しぶりのことだった。
 これから僕は、アスミをコジローが言っていた“悪いこと”に誘う。
 悪いこと、と何でもないようにコジローは言っていたけど、これから彼が進めようとしているのは、この地下都市では“恐ろしく”悪いことになる。
 これをした場合、僕も、このことに参加する連中は皆、酷い罰を受けることになる。
 それでも知ったことか、と今の僕は思っていた。
「アスミ、話がある」
 当然、応答はない。予想はしていたことなので「ごめん、急ぐから」と言って、僕はドアノブを回した。
 ほとんど換気されていなかった部屋は、よどんだ空気でいっぱいになっていた。普段なら整頓されている部屋は、床一面にゴミが転がり、控えめに言っても酷いことになっていた。
 アスミはベッドの上で、シーツにくるまった状態で僕をにらんできた。
 傍らには、彫像のように動かないアスタルテがいる。
「勝手に入らないで」
 無感動な彼女の声は、それゆえに威圧感があった。
「ごめん、でも急ぐんだ」
 僕はそう言うと、彼女の前に地上に出る時によく使う野戦服を出した。デジタル迷彩柄のその服を見たアスミは、ひどく寂しい顔で笑った。
「とうとう、最後の作戦に行くのかしら?」
「違う、違う」
 僕はアスミのベッドに手をつき、彼女の目を真正面から覗き込んだ。うろたえた様子の彼女に、僕はこう言った。
「海を見に行きたくないか、アスミ」

 作戦で使う車両は複数の倉庫で管理されている。
 その内の一つの入口の前の顔認証システムに、僕の顔を差し出す。認証システムが個人を特定すると、街の中枢システムに照会をかけることになる。中枢システムが僕に付与された作戦、その他諸々の情報から、通しても問題ない、と判断したらしく、金属製のドアが小さな音と共に開かれる。
 倉庫には装甲車、装輪戦車、装甲兵員輸送車……といったあらゆる種類の車両がずらりと並んでいた。
 最近は作戦もないので、整備兵の連中は姿が見えず、いるのは脇の詰め所に立つ警備兵が一人だけだった。
 僕はリンとユウト、そしてコジローと一緒に、そちらの方へ向かう。
 あくびを噛み殺しながらタブレット端末でゲームでもしていたらしいその兵隊は、僕らに気付くと怪訝そうな顔をして声をかけてきた。
「あれ、お前ら何をしに来たんだ?」
 人口一万人の街の軍隊では、大抵皆、顔なじみだった。
「偵察任務に駆り出されることになって」
「でもお前ら、統制者の嬢ちゃんが体調崩したんで干されてるんじゃないのか」
「そうなんですけど、人手が足りないとかで……司令部から命令は出てるので確認してみて下さい」
「どれどれ……」
 警備兵は手に持った端末を操作して、情報を確認しようとする。
 僕が目配せをすると、コジローとリンは素早く動いた。
 警備兵の腕を素早く掴んだコジローは、それを引っ張りつつ、その腹に膝蹴りを放った。うげ、と呻きながら体勢を崩した兵隊の首筋に、リンがスタンガンを当てると、その兵隊はぴくりとも動かなくなった。
 兵隊が持っていた端末は地面に落ちかけたけれど、その前にユウトがしっかりとキャッチしていた。気絶した兵隊の脇にタブレットを置いたユウトの顔は、可哀そうなくらい青ざめていた。
「傷害、公共物の無断使用、命令無視……内乱罪にも問われないか、これ」
「ああ、あとユウトは情報改ざんにお問われるわねー」
「はは、最低でも銃殺だな」
「お前らがやれっつったんだろうが!」
「大丈夫、死ぬのは多分、皆一緒」
「全然大丈夫じゃねえぞコジロー! 最悪だ! クソ!」
 ちょっとだけ泣きながら、リンとコジローにいじられるユウトを見て、僕は思わず、笑ってしまう。
 ここ最近でついぞしたことのない、心からの笑いだった。
 笑う僕を、ユウトはうらめしげに見てきた。
「ハジメ、楽しそうだな」
「いや……ごめん、でも本当に楽しくてさ」
「へっ、こんなに危ない橋が楽しいとか、お前もかなりヤバい頭してたんだな」
「そうかもしれない」
「でもホント」
 詰所の中に入り、リンがそこに据え付けてある端末を操作しながら言う。
「こんなに楽しいことって、今まであったかな?」
「そらあるはずねえだろ。今まで人類生存のためとかで、散々やりたいこと我慢させられてきたんだからよ」
「そうね」
 コジローに応じながら、リンが端末を操作すると、僕らが入った後、自動的に閉まっていたドアが再び開いた。
「少しくらい、好きなことしても良い、かな?」
 ドアが開くと、そこから戸惑い顔をしたアスミと、アスタルテが入ってきた。

「連中、気付いた様子はないか、ユウト?」
「俺達のダミーの位置情報、気絶させた兵隊共のダミーのバイタル情報はまだ生きてる。この車の方も、データ上にはまだ車庫に収まってることになってるから問題はないな」
「いやーお前がパソコン得意で助かったぜ」
「こんな時に使うためのスキルじゃないけどな! ……でも妙だな」
「妙って?」
「上手くいきすぎてる感じがするんだよ。俺は天才だから、成功して当然っちゃ当然なんだけど、それでも……な」
 後ろの座席でユウトがそう言うのを聞いていた僕の脳裏に、サヤマさんの顔が浮かんだ。
 サヤマさんは防衛軍の本部で、情報管理の仕事をしている。もしかしたら今回の件を、密かに後押ししているんじゃないか、と少し考えてしまう。
 ただ、高望みが過ぎる、と考えた僕は、その考えをすぐに頭から振り払った。
「考えすぎだろ。ユウトは天才。それで大成功。それでいいべ」
「……本当にそう思ってんのか」
「ホントだ。なあリン?」
「うん、お姉さん、ユウトのこと、見直したわ。ごほうびあげちゃう」
「う、うわ、やめろ!」
 いつものように、運転席のすぐ後ろの席に陣取った三人は、いつも以上にはしゃいでいた。
 暗闇に包まれたトンネルを、乗り馴れた装甲車を走らせる僕も、多分テンションが高くなっているんだろう。後ろの様子を見てにやついたり、ハンドルの上に乗せた指でリズムを取ったりしていた。
 車の中の人間で、浮付いていないのはアスミくらいだろう。戸惑い顔の彼女は、後ろの三人に、彼女にしては珍しく気後れした様子で声をかけた。
「あの、これからどうするの?」
「あれ、ハジメから聞いてなかったか?」
 どこから調達したのか、野戦服の胸ポケットからサングラスを取り出したコジローは、それをかけて、ニッと笑った。
「海行くんだよ」
「いや……でも危険でしょ、それにあんな無茶ばっかりして……」
 そう、ここに来るまでの道中は、無茶ばかり、というか無茶しかなかった。先ほどの車の強奪に至る前にも、まず車の調達や、地下都市内の重要区画を通るために、偽の作戦計画を作り、街の中枢システムをだました。さらにはアスミを連れ出す前に、僕らの家を監視していた情報部の人員を、リン達は制圧している。街に帰った後、僕らがどうなるかは考えない方が良いだろう。
「海って、どこの海に?」
「地名までは分からんが、とにかく地下入口の近くに良い感じの海岸があるらしい。忘れ去られた、トンネルとゲートだから、街の連中が気付くにも時間かかるだろうし、色々と都合が良い」
「でも万一、化物に見つかったら……」
「ここ五年くらいの偵察データを見たがよ、その海岸周囲三十キロは、化物が立ち入った形跡はねえ」
「ていうか、どうしていきなり海になんて行こうと……」
「お前は行きたくねえのか、海?」
 コジローと話していたアスミは、そこで一度、言葉を切った。
 再び口を開いた彼女の顔と声には猜疑心が浮かんでいるようだった。
「私がこんな風になったから、行こうと思ったの? 死ぬ前に、悔いを残させないように? それとも――」
「きっかけになったのは間違いないけど、あんたが統制者の務めをハジメに継ぐようにけしかけるつもりはないわよ」
 アスミの言葉を断つように言ったのは、リンだった。三人がけの席の真ん中に座ったリンは、苛立ちを過分に含んだ目で、助手席のアスミをにらんだ。これまた珍しく、アスミがたじろぐのが、気配で分かる。
「アスミ、あんた自意識がよっと強いよ? 確かに統制者だったりで大変なのは分かるけど、別に苦しいのはあんただけじゃないんだからね」
「そんなこと……」
「ううん、分かってない。あたしや、街に住む人は皆そう。やりたくもない軍人にさせられたり、死ぬまで戦いに駆り出されたり、少ない食べ物でコキ使われたり……人類生存のためとかいって、皆辛い生活をずっと続けてる。……そんなイライラがつのってた時に、あんたを廃人にしてまで統制者をハジメに継がせよう、なんて上が考えてるって聞いて、アタシ、キレちゃった。もう我慢の限界、思いっきり好きなことしてやろうって思っただけなの。だからアンタのためとか、そういうんじゃなくて、アタシ達皆が、そうしたかったの」
「そーゆーことだアスミ」
 車内灯に照らされる中、サングラス姿のコジローは、にっと笑った。
「俺らは俺らでやりたくてやったんだ。リンが思いつき、俺が段取りを考えて、ユウトを巻き込み、ハジメはそれに乗っかった」
「おいやっぱり巻き込まれてるだけじゃないか俺」
「ここまで来て聞くのもヤボかもしれないけどよ」
「おい」
「アスミ、お前はどうだ?」
 コジローの問いかけに、アスミは顔を赤くした。多分、リンやコジローの言葉に戸惑いながらも、彼女はとても、嬉しかったんだと思う。
「……海、見たい」
 顔を伏せ、呟くように、アスミはそう言った。

 僕が最後に海に行ったのはいつのことだったろう。少なくても十一年以上前、その後の色々な記憶に埋もれてしまい、コジローの計画を聞いた時も、海の姿を思い出すことは出来なかった。しかし、実際の海を見てみると、記憶は一気に蘇ってきた。
 軒を連ねた海小屋や、駐車場に並ぶ車、海岸にひしめいていた人々……そうしたものはもう無くなっていたけど、目の前に広がる巨大な水面は、間違いなく、海だった。
 白い砂浜には、目をこらせば白骨が転がっている。それでも海を見た僕らは、無意識の内に、叫んでいた。
 ユウトに至っては、誰よりも早く車から降りると、海へ向かって駆け出していた。
 うおおお、と叫びながら、訓練でも見たことがないスピードで走るユウトの背中に、僕は言った。
「なんだかんだでノリノリじゃないか!」
「うるせー! もうヤケだ! うおおお!」
 波打ち際に達したユウトは、そこで立ち止まり、息を思いっきり吸い込むと、水平線に向かって叫ぶ。
「ヤッホーーーーー!」
「それ山だろ!」
 と、ユウトに突っ込みながら、コジローも続く。器用に、走りながら服を脱いでくコジローを半ば呆れて見ながら、僕もそれに続こうとしたところで、アスミがまだ体調が万全でないのを思い出した。
 彼女に手を貸そうと、後ろを振り向いた僕だったけれど、アスミは既に車から降りていた。アスタルテはアスミに命じられてか、車の中で黙って、無表情に待機していたが、ふと僕と目が合う。
 僕を見る目には、どこか好奇が浮かんでいるようにも感じられた。
 僕はアスタルテに思いっきり笑ってやる。
 苦しむばかりが人間じゃない、よく見てろよ。そんなことを思いながら。そんな僕に、アスタルテがどんなことを感じたかは分からない。ヤツの顔をよく見る前に、リンが声をかけてきたからだ。
「ねーねーハジメ」
 と言うリンの方を見た僕は、思わず体をのけぞらした。そんな僕の反応を見て、リンはニシシ、といたずらっぽく笑った。
「よし、大成功」
「リン、その格好は――」
「ありあわせで作った割に、出来は良いでしょ?」
 いわゆる、ビキニ、というものに身を包んだリンは、くるりと回って見せた。
 資源の限られた、ついでに水浴びなんて文化もない街で、ビキニなんてものが売っているはずはなく、彼女の言う通り、それはお手製なんだろう。
 リンのことだから、おそらくわざとだろうが、そのビキニに使われている布はかなり小さかった。
 豊かなボディラインを持つリンが身に着けたその小さなビキニは、目を思わず逸らしたくなりつつも、つい目が引き寄せられてしまうような、不思議な引力を持っていた。
「ハジメって結構むっつりだよね」
「いや、君の格好が悪いと思う」
「あ、そんなことよりさ、アスミ説得してよー。あたしが用意した水着、着てくれないの」
 リンのすぐ後ろにいたアスミは、僕が目を向けるとため息をついた。
「結構作るのに時間かかったんだからなーもー」
「……リン、あんたの労力は認めるけどね」
 そう言ってアスミは、持っていた水着を持ち上げた。
 その水着(?)を形容すると、布でアルファベットのVの字を作っただけ、となるだろうか。多分、Vの二つの先端を肩にかけて、下の端で局部を隠す形になるんだろう。
「これはない」
「スリングショット、って言って、れっきとした水着なんだけどな。ハジメも見たいっしょ? アスミのスリングショット姿」
 アスミと、Vの字水着を少し見比べてから、僕はぽつりとつぶやいた。
「ちょっと」
「はあ!?」
 それを聞くと、アスミの顔が一瞬で耳まで赤くなった。うう、と呻きつつ、少し固まっていたアスミは、気を取り直したと見るや、右手を素早く動かし、腰に差した拳銃を抜き放つ。
「ちょ、ちょ、ちょー! アスミ、ハジメもあたしも冗談でやってんだからね?」
「冗談でも、許されないことがある」
「ああ、安全装置解除しちゃダメだって」
 僕はアスミをじっと見詰めた。
「いや、冗談じゃないんだけど」
「……殺す」
「わー! ハジメー!」

 こうして始まった僕らの“悪いこと”だったけれど、終わるまではあっという間だった。
 ギラギラとした日差しを僕らに注いでいた太陽は、今は水平線に没しようとしていた。砂浜に腰かけた僕とアスミは、それを、ぼんやりと眺めていた。
 他の三人といえば、僕らの脇でぶっ倒れていた。
 コジローがどこかから調達してきた、黄色くて飲むと頭がふんわりしてくる炭酸水を、しこたま飲んだからだった。
 アスミを除いた皆が飲んでいたけれど、僕は三人より耐性があったようで、潰れることはなかった。ただ、体は熱く、眠気が頭をとかしかけていた。
 穏やかな気分で、僕はアスミと夕日を眺めていた。
「化物は?」
「アスタルテは感知してない」
「そっか……」
 アスミはじろり、と僕をにらんでくる。その視線と、リンが用意した水着(あのスリングショットではなく、別の、布の面積が広い、スクールとかいうものだった。……ただ、これはこれでどうしてか目のやり場に困ったけど)の上に、野戦服をはおっただけの姿に、僕は思わず、目を逸らした。
「化物に殺されることを覚悟して来たんだと思ってたけど」
「もちろん、そうさ。……でも、やっぱり、皆は死なせたくない」
 そう言うと、アスミは眠る三人の方をちらりと見た。
 際どい水着を着たままのリンが大の字で寝て、その足が腹に乗っかったユウトが苦しそうな顔をしている。うつぶせで、尻を高く上げたよく分からない姿勢で固まったコジローは、幸せそうな寝息を立てている。
「仲間、だもんね」
「うん」
 これまで、僕とアスミのチームには、何人もの兵隊が入れ替わり、立ち替わり入ってきた。
 僕らの役割は、アスミを、敵の化物以外の脅威――多くは、化物の従える人間たちから、守ることにある。統制者として特異体の力を使えば、そんなものは脅威にならなかったけれど、統制者への負担となり、その寿命を縮めると考えられていた。
 時として、化物と統制者の戦いに巻き込まれる僕らの死勝率は非常に高い。
 そしてチームに配属されるのは決まって、将来の統制者候補と目される、同年代の子供ばかりだ。
 皆を死なせたくないと、いつも思っている。でも今は、いつも以上にそう思っていた。
「皆とまた、ここに来たい」
 そう僕が言うと、アスミも小さく、頷いた。
「アスミ、僕はとても身勝手な男だ」
「うん、知ってる」
 ため息をつきながら、アスミはあきれた声で言った。
「人の気持ちを知らないで、自分の気持ちを通そうとするよね」
「うん、今まで気付かなかったけど、僕はかなりわがままだ。だから言うんだけど」
 僕は一つ、息を吸った。
「アスタルテを継がせてほしい」
 アスミはすぐには答えなかった。耳に、波の押し寄せる音が入ってくる。アスミは僕をじっと見つめ、そして笑った。
「わがままを自覚したんなら、それを直そうとするのが普通なんじゃないの?」
「多分、これは性分なんだ。直しようがない」
「身勝手ね」
 アスミは、そろえた膝にアゴを乗せる。
「私のためってこと? やっぱり」
「もちろんそうだけど、それだけじゃない」
「どういうこと?」
「今日ここに来て思ったんだ」
 足やお尻についた砂を払いながら、立ち上がる。アルコールの回った頭はバランスを崩しそうになるけれど、何とか踏みとどまる。
「僕は地上を取り戻したい」
 アスミが隣で息を呑むのが分かる。
「僕らは地下に押し込められて、細りながら生きていくべきじゃない。僕は、地上へ戻るために、戦いたい」
「……本当に、そんなこと出来ると思ってるの」
「かなり苦しいことなのは分かってる。でも僕は、そうしたいんだ」
「ハジメ、どうかしちゃったの? そんなバカなこと考えるなんて」
「間違いなく、バカになってるんだと思う。でも、そう思わなきゃ、僕達はずっとこのままだ。いつ地下原子炉が停まるか、いつ化物が街を見付けるのかおびえ、大切な人が苦しむ姿を見続ける……そんな世界を、僕は終わりにしたい」
「だめ、無茶だよそんなこと」
「でも僕は、そうしたい。これは、僕が望んでいることだ」
 アスミは顔を両手で覆ってしまった。
「もう知らない」
 くぐもった声で、アスミはそう言った。
「……勝手にバカやって、死んじゃえば良いんだ」
 アスミの傍らに腰かけ、僕は彼女の手を取る。涙の浮かんだ目を向けてくる彼女の唇に、自分の唇を重ねた。
「クソ野郎」
 そうアスミが呟くのを感じながら、僕はそのまま、彼女とのキスを続けた。
「私が生きてる間に、またここに来させてね」
 唇を離すと、アスミはそう、僕に言ってきた。
「約束する。リン、コジロー、ユウトも一緒だ」
「ちゃんとハジメもいなきゃダメだからね」
「もちろんだ」
 そして僕は、再び彼女の唇を奪う。目を閉じた僕の耳を、潮騒が打つ。
 いつまでもこうしていたい、と僕は思ってしまった。

 一足先に、僕は車に戻って、帰りの支度を始める。もういい加減に戻らなければいけないだろうし、あいつと話しておきたかったからだ。
「面白いわ、ハジメ」
 車の傍らに立ったアスタルテは、開口一番にそう言った。
「どこがだ?」
「誤解してるかもだけど、わたしは人間のもだえ苦しむ姿だけが好きって訳じゃないんだよ。私には理解しがたい、人間性っていうもの。それをあなた達が見せてくれるのが好きなの。で、ハジメくん。君の抱いてるその気持ちは、私が今まで見てきた人間のどれよりも、傲慢で、無謀で、面白いわ」
 アスタルテはにんまりと笑い、僕に手を伸ばしてきた。
「あなたのその傲慢の果てに、何があるのか、見せてもらうわ。私は喜んで、あなたの下僕となりましょう」
 僕がその、死人のような冷たい手を握ると、アスタルテはこれ以上愉快なことはない、と言わんばかりの顔で笑った。



 僕らが街に戻った後に待っていたのは、無表情に銃を向ける兵士たちだった。
 化物を街に招きかねない、身勝手な行動に対するものとしては、当然の反応だったろう。
 無言の銃口に最初に身を乗り出したのはアスミで、彼女はこう、兵士たちに言った。
 私たちを罪に問わないで欲しい。その代わりに、私はハジメにアスタルテを継承する、と。

 おとがめなし、とはいかなかったけれど、僕らへの処罰は犯したものに比べれば、ほとんど無罪放免、と言って良いものだった。
 そして僕は、アスミからアスタルテを継いだ。
 アスミの戦いが終わり、僕の戦いが始まる。この話はこれで、お終いになる。

 当然この後も、僕らの戦いは続いたけれど、それはまた、別の話になる。
 アスミとリンはずっと友達でいたし、僕とコジローは今も良い友達で、嫌がるユウトを混ぜて、月に一度は飲みに行く。ちなみに最近は、サヤマさんも混ざることが多い。
 そうして僕らは、時に苦しみ、笑い、戦っていった。
 亡びかけた人類の生き残りである僕らに、それは定められたことだった。
 僕達は五人でまた、あの海へ行くことになったけれど、その時のことは、また別の機会に話すことにしよう。
赤城

2019年12月30日 21時30分18秒 公開
■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:人類の時代が終わり、化物の時代が始まろうとする。そんな地球に、僕らは生きていた。
◆作者コメント:グロテスクな表現がありますので、ご注意下さい。
ディストピア的なSF? ファンタジー? となります。書けば書くほど、小説というのは難しいと感じながら書きました。ご感想頂けると嬉しいです。

2020年01月13日 21時41分00秒
作者レス
2020年01月12日 23時58分07秒
+20点
Re: 2020年01月26日 20時11分58秒
2020年01月12日 21時47分48秒
+30点
Re: 2020年01月26日 20時11分28秒
2020年01月12日 21時14分59秒
+30点
Re: 2020年01月26日 20時10分19秒
2020年01月11日 16時36分04秒
+10点
Re: 2020年01月26日 20時09分29秒
2020年01月08日 20時26分25秒
+20点
Re: 2020年01月26日 20時08分53秒
2020年01月07日 20時24分18秒
+20点
Re: 2020年01月26日 20時07分42秒
2020年01月05日 02時53分23秒
+10点
Re: 2020年01月26日 20時05分39秒
2020年01月04日 03時04分52秒
+20点
Re: 2020年01月26日 20時04分48秒
2020年01月03日 18時20分05秒
+20点
Re: 2020年01月13日 21時42分44秒
2020年01月01日 20時51分26秒
+10点
Re: 2020年01月13日 21時42分05秒
合計 10人 190点

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