尾割と羽締

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 極限まで張り詰めた布帯が、きちきちと不快な音を立てていた。
 薄暗い部屋の中は、脱ぎ捨てられた衣服やごみが散乱し、饐えた臭いが漂っていた。室温は外気と大差なく凍える程で、閉め切られた部屋の空気はひどく淀んでいる。
 集合住宅の一室である。夕食どきの一家団欒の時間であり、隣接した部屋からはテレビや話し声などの生活音が漏れ聞こえてくる。壁一枚隔てた向こう側には、楽し気で幸福な空間が確かに存在していて、こちら側の異質な空気とは一線を画していた。
 部屋の中央には女が一人、うずくまるような態勢で、歯を食いしばり荒く息をしていた。きちきとと音を立てる帯の両端はその女の諸手に握られている。力一杯引き絞っていることが、その表情と帯の立てる音から窺い知れる。
 女の真下には幼子が仰向けに横たわっている。帯は幼子の首にぐるりと一周回されていて。張り詰めた帯は幼子の首を圧し折らんばかりに絞めつけていた。
「お前さえ、お前さえ生まれなければ。私の人生を返せ」
 女の食いしばった歯から、怨嗟の言葉が漏れる。女は幼子の顔を血走った眼でねめつけながら、渾身の力を込めて帯を引き続けている。
 女は、両手足を弱弱しくばたつかせて抵抗する。そして、潰れた喉を一生懸命震わせて、一言、
「マ……マ……ご」
 ごめんなさい。
 幼子はそう言おうとしたが、それが言葉になる前に。
 幼子は絶命した。

 そして。その日から数日が経過した、清々しく晴れ渡った冬の早朝。
 二度と目覚めないはずの幼子の意識は、ふきのとうが雪の間からひょっこりと顔を出すように、不意に覚醒した。
 雀たちが電線や屋根の上でけたたましく鳴き交わしている。澄み切った空気と柔らかな陽光に浸りながら、”それ”はぼんやりと思考した。
 あれえ。ボクはどうしてここにいるんだっけ。
 ”それ”は、自身の記憶がぷっつりと途切れていることに戸惑いを覚えていた。何故この場所にいるのか、全く身の覚えがないのだ。そこで”それ”は、覚えている限りの最近の記憶を思い起こすことにした。
 昨日の夜、ママの言いつけを守れなくて、すっごい怒られたことは覚えてるんだよな。ママの顔がすっごく怖くて、必死で謝ったとこまでは覚えているんだけど。
 それ以降の記憶がすっぽりと抜け落ちている。どれだけ考えても思い起こせないので、納得のいく理由をひねり出すことにした。
 きっと、怒ったママにうちを放り出されて、そのまま朝まで眠ってしまったんだな。
 だいぶ無理のある現状理解であったが、”それ”は一応は納得して、一安心した矢先。
 そこで初めて、”それ”は自身の体に起こった異変に気がついた。
 自身の体が全く動かないのである。それどころか、自身が今横たわっているのか、直立しているのかすら判然としない。地面のアスファルトの感触は感じている。目を動かすことすら出来ないが、周りはよく見えている。たまの外出時に通ったこともある、自宅の近所の道路上である。まるで地面にへばりついてでもいるかのように、目線の高さが著しく低い。早朝という時間帯から人通りも車通りも全くなかった。音もちゃんと聞こえている。雀たちが囀っている声も聞こえるし、遠くで自動車が通る音も聞こえる。道路を吹き抜ける風を受けて、そよそよと体が揺すられているのを感じる。形はどうあれ、身体が存在するのはわかった。
 おかしなことはまだあった。目覚める直前まで常に感じていた、体の痛みや空腹感といった不快な感覚がきれいさっぱり消えているのである。
「あれえ。ボクはいったい、どうしてしまったんだろう」
 声に出して言ってみたつもりだったが、その声は空気を振動させることはなく、音にならなかった。
「ぉおおぉおぉおおお!」
 突如、至近から絶叫というべき感嘆の声が聞こえて、”それ”は大層驚いた。体が動いていたなら、間違いなく跳びあがっていたことだろう。
「よくぞ、よくぞ目覚めてくれた! いや、あんな凄惨な最期を迎えたのだ、目覚めないはずがない、目覚めるに違いないと、そう確信しておったのだ!だが、一抹の不安はあって、ここ数日気が気でなかったぞ! ほんに、よう目覚めてくれた!今日はめでたい日だ、めでたい、めでたい」
 抜け駆けして正月を迎えたかのように、めでたい、めでたいと連呼している。歓喜に震えた声が、どこからともなく聞こえてくる。
 ”それ”は周囲を見渡したが、路上には人っ子一人猫の子一匹いない。身を隠す場所などどこにもない。声がどこから聞こえてくるのか、皆目見当がつかなかった。
「だ、誰? どこにいるの?」
 一抹の猜疑と恐れを含んだ質問を受けて、素性も居所もわからぬ何ものかは、上ずった声を努めて鎮めた調子で返答する。
「おお、すまぬ。浮かれてしまっておったわ。我が輩は尾割(オワリ)と申すものじゃ」
「オワリ、さん?」
 変てこな名前だ。何者かはふぉっふぉと楽し気に笑いながら返す。
「敬称なぞ不要じゃ。気軽にオワリと呼んでくれて構わぬわ」
 気さくな声に、不安や恐怖感が少し氷解する。お互いの声は、現実に音は出ていないが、言っていることは不思議と互いに伝わっていた。
「オワリは、どこにいるの?」
「どこにでも。我が輩は、現世に肉体を持たぬ、意識だけの存在じゃ。であるから、物質的には存在せぬが、どこにでも”いる”ことができるのじゃ」
「うん?」
 オワリの難解な説明に、”それ”は疑問符を呈する。
「解らぬか、まあ無理もない。分かりやすく言えば、我が輩は透明で触ることもできぬが、常にお主の傍にいる、と思えばよいわ」
「わあ、オワリは透明人間なんだ!」
「まあ、我が輩は人間でもないのじゃがな。その認識で概ね不都合はない」
「んー? 人間じゃないなら、何なの?」
「ふむ。一般的で理解のしやすい言葉で表すなら、――妖怪、じゃな」
「妖怪! 本当にいるんだ」
「もちろん。我が輩は特に、妖怪を生み出し、妖怪を育て上げる妖怪なのじゃ。尾割(オワリ)という名も、それを表している」
「どういうこと?」
 妖怪を生み育てるとはどういうことなのだろうか。理解しがたかった。
「尾割(オワリ)とは、尾――つまり尻尾を割るもの、という意味じゃ。猫又や九尾の狐の例が有名じゃが、動物は尻尾が二股かそれ以上に分かれることで霊威を示すようになり、妖怪と成るのじゃ。尻尾を割って、妖怪と成るのを手伝うのが我が輩の存在意義であり、存在価値なのじゃ」
 ”それ”の理解は全く追いついていないが、オワリは気づかずに続ける。
「我が輩と類似する役目を持つ妖怪に、オサキという奴も居るぞ。オサキは尾裂(オサキ)――つまり尾を割くものという意味じゃから、我が輩と同じ役目であることがわかるじゃろう。オサキはまた御先(オサキ)と書かれるが、この場合、後に出て来る強大な霊の露払い――先駆けとしての意味を持つ。オサキが先んじて出現し、強大な霊の出現に相応しい場を設けるわけじゃな。これも見方を変えれば、オサキが強大な霊――妖怪を生み出した、と捉えることも可能であろうな」
 オワリは興が乗ったように、”それ”の反応を気にせずに語り続ける。
「また御先はミサキと呼ばれることもある。意味はオサキと同じじゃが、ミサキは特に、霊威の顕現に際して生贄等の犠牲を要求する残虐な性質を示すことがある。その性質が妖怪として結実したものが、かの有名な七人ミサキじゃな。七人ミサキに取り殺された人間は、七人ミサキの一員となり、成仏して救われるためには別の人間を取り殺さねばならない。これが繰り返され連鎖して、七人ミサキの怪異は永劫続くこととなる。一度始まったら、永遠に止めることが出来ない、死の連鎖じゃ。これこそ妖怪の本願というべき在り方じゃと我が輩は思っておる。中国にも同様の怪異があって、これは縊鬼(イツキ)と呼ばれ、縊死者の霊が――聞いておるかの?」
「ふぇ?」
 ハジマリは早々にオワリの演説から興味を失くしており、青空を猛スピードで横断していくちぎれ雲を眺めていた。
「……まあ、理解せずとも何の問題もないわ。我が輩のことを少しは知っておいてもらいたかったのじゃがな」
 オワリは少ししょげた声を出す。何だか悪いことをした気になる。
「で、そのオワリがどうしてボクの所へ? というか、ボクいったいどうなっちゃったの? 体が全然動かないんだ」
「何じゃ、自分の体がどうなったのか、気付いておらんのか。無理もないことじゃがな」
 気遣わし気な声色でオワリが言う。
「お主がどうなったかを言葉で伝えても、理解は難しいじゃろうて、実際に見たほうが早い。ほれ、そこの交差道路に、鏡が設置されておるじゃろう。そこにお主の姿が映っとる、見てみなされ」
 交差点にはカーブミラーが設置されていて、道路上のあたりを写していた。”それ”は見上げて覗き込んでみた。
 道路が映っているのが見えたが、人影はない。白く細長い布が道路に打ち捨てられているだけだ。
「ボ、ボクも透明人間になっちゃったの!?」
 早合点して叫んだ言葉に、オワリは落ち着き払った調子で答える。
「違うわ。ちゃんと映っとるじゃろうに。道路の上に、ほれ、何かあるじゃろう」
 もう一度よく見るが、道路の上には白い帯しかない。風に煽られてパタパタとたなびいている。”それ”の体も同じように揺れ動いているのを感じ、はたと気がついた。
「え!? ボク、帯になっちゃったの!?」
「よう気づいた。そうじゃ、その通りじゃ」
 オワリは満足げな声で肯定した。”それ”はさらに混乱する。
「何で!? 何でボク、帯になってるの?」
「魂が乗り移ったのじゃな。絶命する寸前にお主の身に極めて近く触れあっていた帯に、な。お主のように、幼くして亡くなったり、悲惨な殺され方をした時には往々にして起こりうることじゃ。魂がこの世に縛り付けられてしまい、通常の流れでの成仏が出来なくなってしまっておる」
 オワリの言葉に、”それ”は唖然とする。
「そ、それってつまり……ボク、もう死んじゃってるの?」
「おお、そこまで記憶が失われているとは。なんと不憫なことじゃ。いや、絶命時の体験を記憶していることの方が、むしろ残酷なことといえるかもしれぬ。だから、これはこれで良かったのじゃ」
 オワリは悲しみに満ちた声を出す。だが”それ”は自分が死んでしまっているという実感が湧いていない。自分の意識が確かに存在し、世界を認識しているのだ。
「お主の人としての生は終わり、妖怪として始まろうとしておる。幕引きは悲しいものであるが、同時にそれは妖怪としての門出でもある。それは極めて喜ばしいことじゃ。我が輩はお主の誕生を心より祝福しよう」
 オワリは厳粛で悲壮な声音で告げる。”それ”はゆっくりと自身に起きた現実を理解する。
「ああ、ボクは、人間じゃなくなって、妖怪になったんだね」
「正確に言えば、妖怪の卵、じゃな。ただの意識を持った帯では、妖怪とは呼べんでの。妖怪としての活動をこなし、皆に認められて初めて、お主は妖怪と成るのじゃ」
「妖怪としての活動?」
「妖怪らしく振る舞えばよいのじゃ」
「妖怪らしく? ……いたずらしたり、驚かせたり?」
「その通りじゃ。うんとたくさん、人を驚かせて、またいたずらをして、我が輩たちの存在を世に知らしめてやるのじゃ!」
 嬉しそうな声音で肯定する。何だか楽しそうだ、と”それ”は思った。
「さて、お主のことは何と呼べばよいかな? いつまでも”お主”と呼ぶのもおかしいじゃろう」
 ”それ”は自分の名前を思い出そうとして、思い出せないことに気づいた。
「どうしよう、ボク、自分の名前がわかんない。いぬのおまわりさんが困っちゃう!」
「自分の名前すら忘れてしまったか。まあ、生き方が大きく変わっているのじゃから、人としての名前など用をなさぬじゃろうし、かえって良かった。どれ、我が輩が相応しい名前をつけてやろう。お主の妖怪としての生の幕開けに相応しい、立派な名前を考えてやるぞ。名前というのは妖怪の核というべき重大なモノであるからな、慎重につけるぞ」
 そしてうんうん唸ったり呟いたりするオワリの声が幾秒か続いた。そしてついに、
「……よし決まったぞ。お主の名前は、――羽締(ハジマリ)じゃ!」
「ハジマリ?」
 不思議な名前に聞き返す。
「羽とは古き言葉で布帛――布や織物を意味する言葉じゃ。羽――布で締めるモノという意味で、帯の体を持つお主にぴったりの名前じゃろう。また、お主の死にざまを表すものであると同時に、お主の妖怪としての性質をも表――」
「うん、ちょっとかっこいいかも。ボク、ハジマリが良い」
 長くなりそうだったので無理やり話を遮った。
「気に入ってもらえて良かった。良い名前じゃろう」
「うん!」
 幼子の魂が宿った帯――ハジマリは元気よく答えた。
「さあ、我が輩たち――オワリとハジマリの、記念すべき初舞台を華麗に登壇しようではないか!」
「あれ、でもボク、動けないよ? オワリも、物に触ったり出来ないんだよね? どうやっていたずらするの?」
「よい質問だ。我が輩の力をもってすれば容易なことじゃ。我が輩は、起こり得る、起こっても不自然ではない、あらゆる自然現象を引き起こすことが出来るのじゃ」
「んー?」
「例えば、この道を強風が吹き抜けて、道端に落ちていた帯を巻き上げて吹き飛ばすのは、起こり得るし、起こっても不自然ではないじゃろう?」
「うん、そうだね」
「心の準備はついたな? ではいくぞ!」
「え? ……て、うわぁ!」
 突如、一陣の強風が道路を吹き抜けて、道端に落ちていた帯――ハジマリを空中高く巻き上げた。
 ハジマリの体は、瞬く間に屋根より高く吹き上げられて、冬の清涼な空気に揉まれながら空中を滑空した。
「うわ、うわ! ボク、飛んでる!」
 ハジマリの帯の体は、ばさばさとはためいて空を踊り、それに驚いた雀たちを飛び立たせた。
「ふぉふぉふぉ、すごいじゃろう。褒めてくれて構わんぞ」
「すごい、すごい!」
 パノラマの景色も、空中をかける空気の感触も、ハジマリにとって新鮮な体験で、オワリの声も耳に入らなかった。

 ハジマリは空中遊泳を存分に楽しんだのち、公園の生垣に引っかかって止まった。
「さて到着じゃ。ハジマリ、大丈夫か?」
「うー、何だかまだふわふわしてるー」
「はしゃぎすぎただけだろう。じきに治るわ」
「でも、すごく楽しかった! オワリ、またやって」
「いつでもやってやろう。今は落ち着きなされ」
 まだ感覚が狂っておりふわふわしているような浮遊感が続いている。オワリは興奮冷めやらぬハジマリが落ち着くまで待ってくれていた。
 強風にぱたぱたと体を揺すられながら、日が昇っていくのを眺める。
 太陽が働いて地面をじんわりと暖めだした頃。近くに住む子供たちが親に連れられてハジマリのいる公園にやってきた。今日は一段と風が強いため、皆防寒着を厚く着こんでいる。
 親たちは寒風に身を切られまいと、コートの襟を寄せて縮こまっている。子供たちはまさにどこ吹く風と、意に介さずに友達と無邪気に走り回る。
 幼児たちを公園で遊ばせ、親同士は井戸端会議に興じている。
 オワリとハジマリは、子供たちが楽しく遊んでいるのを眺めている。
「ハジマリも、一緒に遊びたいか?」
「ううん。大丈夫。これまでも、たまに公園に遊びに来ても、端っこで眺めてるだけだったし。ママ、靴や服を汚すとすっごく怒るから、いつも汚さないように端っこにいて、皆と遊ばなかったんだ。……だから、ボクは見てるだけでいい」
「ほう」
 楽しそうな声ではしゃいで転げまわる子供たち。服が汚れることなど、誰も気にしていない。ハジマリはただじっとその様子を眺めていた。
「本当に見てるだけでいいのかのう?」
 ハジマリの心の内を見透かしたかのように、いたずらっぽい声音でオワリは聞く。
「ほ、ほんとだよ。別に、あの子たちみたいに遊びまわりたいなんて思ってない……」
「子供は素直なのが一番であろう。それは妖怪も人間も変わらぬわい」
「で、でも、ほんとに、ボク……」
「ふむ。少し荒療治が必要かのう? ――それ!」
 突如強風が吹いて、ハジマリは生垣から振り落とされてフワフワと舞う。そして、溶けた霜でぬかるんだ砂場へと――。
「わあ、ダメ!」
 ハジマリは必死で避けようとしたが、抵抗空しく、体は泥をはね上げながら着地する。体に泥水がじわじわとしみこんでいくのを感じ、ハジマリは恐怖に駆られた。
「オ、オワリ。ご、ごめんなさい。ボク、汚しちゃった。わ、わざとじゃないよ、怒らないで」
 パニックになって必死に謝罪するハジマリを、オワリは優しくなだめた。
「何を怒ることがあるのじゃ?」
「お、怒らないの?」
 おずおずと、機嫌を窺うハジマリに、オワリは重ねて優しい口調で告げた。
「キレイな妖怪など、見たことも聞いたこともないわ。妖怪なぞ、基本泥だらけで垢まみれの小汚い姿をしておるわ。どんどん汚してもらって構わぬ」
「垢まみれでばっちいのは嫌だけど……。どんどん汚してもいいの? 本当に怒ったりしない?」
「無論じゃ。それに、これくらいじゃあまだまだ汚れたらんくらいじゃ。それ!」
「うわー!」
 もう一度風が吹き、ハジマリはぬかるんだ砂場の上を泥と土を跳ね飛ばしながら転げる。
「はははは! 泥んこだー!」
 ハジマリは泥まみれになって笑った。
 公園内の一角では、人の耳には聞こえない楽し気な笑い声が響いていた。

「何じゃ、あの男の子は。他の子から物や遊具を横取りしておる。横暴な振る舞いじゃのう」
 オワリは公園内の一人の男の子に気を留めたらしく、いぶかし気な声を発した。ハジマリもその子を見る。
「あの子、ボク覚えてる。いっつもそうやって、人のものをとったり、邪魔したりするんだ」
「それは悪ガキじゃのう。歯向かったりはせぬのか?」
「あの子、乱暴だし力も強いしで、誰も逆らえないんだ。僕だって一度も……」
「人を怖がらせるはずの妖怪が、逆に人を怖がっていては成り立たぬぞ。立ち向かおうという気概はないのか?」
「む、無理だよ。だって、今のボクの声はあの子に聞こえないんでしょう? それに、こんな体だし」
「できるかどうかは今は関係ないであるぞ。重要なのは、お主がどうしたいか、じゃ」
 優しい威厳に満ちた声でオワリは尋ねる。
「やられっぱなしでいいのか? ずっとあの子に怯え続けるのか?」
 その問いかけを受けて、ハジマリは考える。今までずっとあの子にびくびく怖がっていたけど。今のボクはあの頃とはきっと違うのだ。姿がここまで変わったんだ、意識だって変われるはずだ。今立ち向かえなかったら、きっと一生戦えない。
「ボクは……ボクは、あの子が許せない! こらしめてやりたい!」
「よう言った、ハジマリ。それでこそ我が輩が見込んだだけのことはある。そもそも、悪い子を怖がらせたりこらしめたり、というのは 妖怪の存在理由の一つじゃからな。率先してやりたがらぬようでは妖怪たりえぬわ」
「でも、どうやってこらしめるの?」
「とっておきの大技を披露してやろう。そうやすやすと出せるものではない。今日のように、風が強くて日差しがあって、さらに地形などの条件も加わって生まれた上昇気流により――」
「必殺技だ!」
 オワリの声を遮って、ハジマリは輝くような声で叫んだ。
「……まあ小難しい話はおいてくとしよう。――それ!」
 にわかに公園内の一点に空気の渦が生まれ、遊んでいた子供たちが騒ぎ出した。
「わあ、つむじ風だ!」
「え、このつむじ風、オワリが作ったの?」
 ハジマリの問いに、オワリは自慢げに答える。
「起こり得る事象を起こせる、と言ったじゃろう? さすがにここまでの大技はおいそれとは出来ぬがな。それより――」
 いたずらっぽい色を含ませて、オワリは言葉を繋ぐ。
「さあ、このつむじ風に乗って、あの男の子を懲らしめようぞ」
「行くぞハジマリ、上手く風に乗れよ!」
 つむじ風は砂場に落ちていた汚れた帯――ハジマリを巻き込んだ。
「うわー、目が回る!」
 ハジマリの周囲の世界がぐるぐると回転している。
「ふぉふぉふぉ、回す目など持ち合わせておらぬだろう?」
「でも、回ってるー」
「落ち着いてようく周りを見よ、体が回っていることなど関係ないわ」
 ハジマリはオワリの言うことを信じ、意識して心を落ち着けてみると、体は回転していながらも視界は見たい方向に定まった。
「うん、ちゃんと見えるようになったよ」
「よし。それでは作戦開始じゃ!」
「うん。オワリ、あの子をこらしめるのを手伝って!」
 ハジマリは乱暴な男の子に狙いを定める。
「無論じゃ。行くぞ!」
 ハジマリを巻き込んでいるつむじ風は、砂や小石を巻き上げながら、男の子のいる方へ滑るように移動する。
「わあ、こっちに来た!」
 男の子は上ずった声を上げながら、つむじ風から距離を置こうとする。
「オワリ、あの子逃げちゃうよ! 追っかけないと」
「任せておけ」
 つむじ風は巧みに方向転換し、男の子を追尾する。
「うわーん、何でこっちについてくるのー?」
 半泣きになりながら逃げまわる男の子に、つむじ風は執拗に追いすがる。
「あははは、逃げられると思うなー」
 ハジマリは夢中になって逃げる男の子を追い回す。
 しまいに男の子は転倒し、本格的に泣き出して母親に助けを求めた。いつもの威張り散らした様子からは考えられない情けない姿である。
「や、やった!」
 ハジマリは快哉を叫ぶ。
「見事じゃハジマリ! 初陣にしては上出来すぎるぐらいじゃ」 
 つむじ風はかき消えて、ハジマリはぱさりと地面に落ちた。
「へへへ、いたずらして喜ばれるなんて夢みたい」
 興奮冷めやらぬ様子でハジマリは答える。
「見事な雄姿であったぞハジマリよ。これなら七人ミサキや縊鬼に並ぶ立派な妖怪になれるに違いない」
「ボク、立派な妖怪になれたかな?」
「まだまだ足りんぞ。もっともっといたずらしてもらわねば。頼むぞハジマリ!」
「うん!」
 そしてオワリとハジマリは日が暮れるまで飛び回って、方々でいたずらを仕掛けた。
 日が暮れる頃には、真っ白だったハジマリの体は、土や汚れが染みこんで、すっかり茶色くなっていた。

 冬季の夕暮れの時間は短い。日が沈めばすぐに辺りは真っ暗になる。
 街路樹の並ぶこの道には、暗闇に追い立てられるようにまばらな人影が家路を急いでいた。
 その街路樹の下の草むらの陰に、帯――ハジマリが身を潜めていた。茶色くなった体は、電燈の光が届かないこの場所では絶好の隠密性能を発揮していた。
 街路樹から歩道を挟んで反対側には、立派な松の木が石塀の上からせり出している。頭上を覆うように伸びる松の枝が、隣家の窓から漏れる光を遮ってしまい、このあたりは一段と暗い。
「次の目標が来たぞ、ハジマリ」
 どこからともなく聞こえてくるオワリの声を受けて、ハジマリは道の先に注意を向ける。
 一人の人影が、こちらに向かって歩いてきている。流行に乗った服を着て、片手にペットボトルを持っているその姿は、ハジマリにとって見覚えのあるものであった。
「あの人知ってる。うちと同じ建物に住んでる人だ。気取った感じで、あんまり好きじゃなかったなあ」
「ほう? どういう奴なのじゃ」
「毎日ペットボトルのお水を買って帰るんだ。きっと、冷蔵庫の中はペットボトルのお水でいっぱいだよ」
「水など蛇口をひねればいくらでも出て来るじゃろう? どうしてわざわざ買って来るのじゃ?」
「水道のお水はまずくて飲めないって言ってた。前に水道のお水を飲んだら、お腹を壊しただけじゃなくて、肌も荒れて高熱に三日三晩うなされたんだって」
「あやつの部屋の水道からは劇薬でも流れ出ておるのか?」
 自分の体のつくりが、他の人とは違って繊細だとか、健康志向だとかいうことを周囲に示したいのだろう。健康志向であるのではなく、健康志向であることを見せつけているだけのようで。いつもペットボトルをこれ見よがしに持ち歩いているのも、そう思わせるのに拍車をかけている。
「いたずらを仕掛ける相手として申し分ないということじゃな」
「うん、一泡吹かせてやりたい」
「うむ。十分引き付けてから、仕掛けるぞ。準備は良いな、ハジマリ」
「うん、いつでも」
「よし。……今じゃハジマリ!」
 その人影が大きな松の木の樹下に来たタイミングで、オワリの叫びとともに突風が吹き抜ける。
「それっ」
 ハジマリは突風に乗って草むらの陰から飛び出し、そのままの勢いで人影の両足に体当たりし、帯の体を絡みつかせた。
「うわあ」
 突如両足の自由が奪われたその人は、バランスを失って盛大に転倒する。持っていたペットボトルは手を離れて、中身をぶちまけて一面に大きな水たまりを作った。
「成功!」
 ガッツポーズをしそうな調子でハジマリは叫ぶ。
 転倒したその人は、足に布が絡まっていることに気づき、忌々しそうにむしり取って宙に放った。
「おお?」
 宙に放られたハジマリは、頭上にせり出していた松の木の枝に引っかかって、大きなわっかを作って垂れ下がった。
 そしてその人は、ほとんど空になったペットボトルを拾って歩き去っていった。
「お見事じゃハジマリ。ここまでようやってくれた」
「こんな楽しいこと、いくらでもできるよ」
「次で最後じゃ。きっと次でお主は立派な妖怪と成り、我が輩もお主も永遠に語り継がれることになろう」
 次もよろしく頼むぞ、とオワリは念を押す。
「へへへ、任せといてよ」
 次はどんないたずらをするのか、ハジマリはワクワクしていた。
「楽しいか?」
 そんな気持ちを読み取ったか、オワリは優しげな声で聞く。
「今まではこんなことなかったから」
「覚えておるのか?」
「なんとなく。じぶんの名前も思い出せないけど、どうやって過ごしてきたかは覚えてるよ」
「ママの邪魔にならないよう、部屋の隅っこでいつもじっとして、息をするのもびくびくしてた。ママの機嫌を損ねると叩かれたりご飯を抜かれたり」
「ひどい生活を送ってきたようじゃな」
 憐みを含ませた声音でオワリは言う。
「でもそれは、ボクが悪い子だったからだよ。ママの言いつけを守れない、悪い子だから」
「ハジマリはまったく悪い子ではないよ。人の気持ちを思いやれる、立派な子だ。これまで接してきたからわかるぞ」
「でも、ママはボクのこと、いつも悪い子だって叱ってた」
「お前の母上がひどい人であったのだよ、ハジマリ」
「そんなことない! ママは優しいんだ。 ……ママ、どうしてるかな。会いたいよ」
「ひどい目にあっていたというのにか?」
「うん。ママに謝りたい。ママをひどく怒らせちゃったあの日、たぶんきちんとごめんなさいが言えてない。ちゃんとごめんなさいを言わなきゃ」
 オワリは言葉に詰まったのか、沈黙する。ハジマリは悲壮な言葉で終わりに縋る。
「ねえ、ママに会わせてよ。会いたいよ」
 涙は出ない。ハジマリは大気を震わせない声だけで泣いていた。オワリは苦々し気な声音で、
「必ず会わせてやろう。もうすぐじゃ。じゃから、今はゆっくりお休み。今日は様々なことがあったのじゃ、体は疲れずとも心はくたくたじゃろう」
「うん……ありがとう、オワリ」
 日が暮れてから、暴風のように吹き荒れていた風は鎮まったが、代わりに気温は急激に低下していった。澄んだ空には星々が瞬いている。静謐というべき時間が過ぎて行く。大気中の水分が凍りついていく音も聞こえる気がした。
「ねえ、オワリ。そこにいる?」
 ハジマリは静かすぎる空間に不安に駆られ、たまらず声を出す。見えなくて触れない存在というのはとても心もとない在り方なのだとハジマリは悟る。オワリはいつもと変わらぬ調子で答える。
「なんじゃハジマリ」
「ねえ、何か話をしてよ」
「うむ。では、我が輩たち妖怪のことを語ろうぞ」
「我が輩たち妖怪は、人から忘れられたときに消えるのじゃ。誰も妖怪を語らなくなったときに、妖怪は死ぬのじゃ。一昔前までは、人間に解らない不思議がこの世に満ちていたから、その不思議の説明として妖怪は利用され、語られてきた。この世のあらゆる場所に妖怪はいたのじゃ」
「だが、近代化が進んでいく中、不思議は駆逐されていき、さらに妖怪を利用した不思議の解釈も非近代的として排斥されてしまった。その結果、妖怪はもう御伽話のなかにぐらいしかいなくなってしまった」
「消えちゃうの?」
「まだじゃ。数は極めて少ないが、まだ妖怪の牙城は残されている。そのうちの一つが、七人ミサキや縊鬼などの、人死にの不思議じゃ。生死の神秘は今の科学では説明できないからな。いつの時代の人間も、死ぬことを恐れている。今の人間たちに通用する妖怪は、死をもたらす妖怪じゃ。それしか恐怖を与えられるものはないといえよう」
「我が輩は切望しておる。誰の記憶にも残る、永遠に語り継がれ、誰もが恐怖で震え上がる、究極の妖怪を」
「ハジマリ、お主は我が輩の希望なのじゃ。我が輩はお主を必要とする」
「ボクもオワリとずっといたいよ。オワリ、ずっとそばにいて……」
「もちろんじゃ、ハジマリ。我が輩はずっとそばにいるとも」
 夜はオワリとハジマリを包み込んで、ゆっくりと更けていく。 

 それから長い時間が経過して、東の空が白み始めた頃。
「起きろ、ハジマリ」
「ん? どうしたのオワリ」
オワリの呼び声にハジマリは拡散していた意識を取り戻す。
「お主の母上が来たぞ」
 樹上から見下ろすと、派手な恰好をした女が歩いてきていた。酩酊しているらしく、足取りが少しおぼつかない。
「ママだ! ねえ、ママの前に連れてってよ! こんな姿になっても、声が届かなくても、きっとママは気づいてくれる!」
「少し待て、ハジマリ」
 母親の元へ急ごうとするハジマリを、オワリは制する。オワリの意図が読めず、ハジマリは暫時戸惑う。
 その女性は、携帯電話で誰かと話している様子だった。話し声がハジマリたちの元まで聞こえてくる。
「――本当にせいせいした。今となっては、何で早く殺っちゃわなかったのかと。あいつのせいでどれだけ無駄にしたんだろ」
 その女性は愉快そうに電話の向こうの相手と話している。
「私が殺したなんてこと、誰も疑ってないよ。実の子を殺す親なんていないって、皆思いこんでいるから。『私の不注意で、ちょっと目を離した隙に……』って、涙ぐんでみせればおしまいよ。皆ころっと騙されるんだから」
「マ、ママ。何を言って……」
 母親の言うことが信じられず、ハジマリは呟き声を漏らす。勿論その声は彼女に届くことはない。
「誰もが私を悲劇のヒロイン扱いしてくれるのは、とっても気分がいいわ。あいつも死んでからやっと私の役に立ってくれたかしら?」
「そんな……。ママが私を殺したの?」
「そうじゃ。むごいことじゃな」
 オワリは重苦しい声で告げる。
「う、嘘だ。ママがボクにそんなことするわけない」
「嘘ではない。他でもない母上自身がそう言っておるじゃろう。真実から逃避してはならぬ」
 毅然としたオワリの言葉に、ハジマリはたじろぐ。
「その証拠に、こやつは実の子を亡くしたばかりだというのに、明け方近くまで遊び歩いておる。育児から解放された喜びで、ここ数日間毎日遊び歩いているのじゃろう」
「まさか……。ああ!」
 ハジマリは思い出した。母親の怒り狂った表情を。引き絞られた帯からもたらされた窒息の苦しみを。
「そうだ。ボクは、ママに帯で首を絞められて、死んでしまったんだ」
 そう、他でもないこの帯で。
「思い出したか。そうじゃ。お主は母上に帯で絞殺され――そしてお主の魂は、凶器となった帯に宿ったのじゃ」
「そんな、ひどいよ。どうして、ママ……?」
 ハジマリは絶望にさいなまれ、うわ言のように呟く。
「ほんにむごいことじゃ。こんなことをした非道な輩は――」
 母親は通話を終えて、こちらに近づいてくる。オワリとハジマリ――帯に姿を変えた我が子が松の枝に引っかかって目の前にいるのを知らず。
「――死をもって償うべきじゃ。そうじゃろう?」
「え?」
 女は凍りついた地面に足を取られ、バランスを崩す。そして輪を作って垂れ下がっていた帯が首にかかり――
 ――彼女の首を息も血流も止まるほどに圧迫した。
「ぐっ!?」
 女は突如訪れた苦しみにうめき声をあげ、パニックに陥って手を虚空に泳がせる。彼女の足元一面は滑らかに凍りついていて、つるつると滑って踏ん張りが利かない。
「え? オワリ、何をしてるの、やめて!」
 ハジマリの帯の体は、女の重みに引き攣れてきちきちと不快な音を立てた。女は声を上げることもできず、無言でもがき続けている。
「この女を殺すのじゃ、ハジマリよ」
 厳粛なオワリの言葉に、ハジマリは強く当惑する。優しくて気さくなオワリから出たとは思えない言葉だったからである。
「すべてはこの瞬間のためだったのじゃよ。公園で遊びまわらせて、帯の体を泥まみれにしたのは、暗闇の中で帯の視認性を悪くして気づかれにくくするためじゃ。直前のいたずらも、地面一面に水をばらまかせて地面を凍りつかせるためじゃ。それらの仕掛け全てが、首吊りによってこの女を殺すためなのじゃ」
 女の両足は地面の上を滑り、両手は虚空を掴み続ける。
「こんな時間帯じゃ、誰も助けには来ぬ。この女も助かる術を見出すことはない。帯によって吊り下げられていることに気づけば、如何様にも逃れられるのじゃがな。この真っ暗闇で、かつ踏ん張りの利かぬ氷の上、さらに酩酊しているとあっては、それに気づかぬことも”起こり得る”じゃろう。”起こり得る”ことならば、起こすことが出来る。それが我が輩の力じゃ」
 オワリは女を見下すかのように、吐き捨てるような言葉を投げる。
「数分間もの間苦しみぬいたうえで、絶命するじゃろうな。いくら地面が凍りついているとはいえ、足は乗っておるのじゃ、首を絞めつける力は幾分か弱まるじゃろう。じゃが、死ぬには十分な力はかかっておる。この苦しみぬいた死にざまを見れば、誰もが恐れおののくじゃろう。それに――」
 オワリは唄うように続ける。
「――こやつを縊り殺す帯は、こやつが我が子を縊り殺した帯と同じなのじゃ。ここに縊死が連鎖することになる。これは七人ミサキや縊鬼と全く同じ、崇高なる死の連鎖じゃ。この帯は次にこの女の魂を宿し、女の魂は成仏せんがために他の誰かを縊り殺すことだろう。永遠に続き、永遠に語り継がれることになろう、恐るべき死の連鎖じゃ。きっと、人類が絶滅するその時まで、語り継がれることだろう。これはその幕開けに過ぎない。――そう、これこそが、『オワリ』の『ハジマリ』じゃ!」
 必死にもがいていた手足が止まり、だらりと脱力して垂れ下がる。母親の命が失われていく感覚が帯の体に伝わってきて、ハジマリは悲痛な叫びをあげる。
「駄目だよ! オワリ、ママを助けて!」
「どうして助けるのじゃ? こいつはお前を縊り殺したのじゃぞ。 自分勝手な都合でな。死んで当然だろう。それに、お主が成仏するためには、誰かを縊り殺さねばならぬ。それ以外お主が救われる術はない。そうしなければ一生この世を彷徨うことになるぞ」
「それでも。それでも、ボクはママを信じてる。ママはボクのたったひとりのママなんだ、死んじゃいやだ!」
 いやだ、いやだ、いやだ! ハジマリは強く拒絶する。動かない体に全身全霊を込め、気力を振り絞って必死で抵抗する。
「うわああああぁぁ!」
 その瞬間、ハジマリの帯の体は重みに耐えかねて引きちぎれ、女を苦しみから解放する。女は地面に倒れ伏し、激しくせき込む。
「……ゲホッゲホッ」
「うああぁぁぁあ……」
 体を引きちぎられたハジマリは、これまでに味わったことのない激痛に襲われる。もんどりうって転げまわりたかったが、体は全く動かせないのでただ痛みに晒されることしかできなかった。
「ま、まさか……。自分の身を引きちぎってまで、母を助けたか」
 オワリは驚きを隠せない声音で呟く。ハジマリを襲っていた激痛は、時間が経つごとに徐々に引いていった。
「うぅ……。あ、ママ、大丈夫!?」
 ハジマリは痛みをこらえながらも母親の心配をする。
 激しくせき込んでいた女も回復し、状況認識を始めた。そして首に巻き付いていた物の正体に気づく。
「な、なによ、これ……帯?」
 いぶかし気に帯を検めていた女は、何かに気づいたようにはっと息を飲む。
「もしかして、これ――あの時の……。まさか、ちゃんと捨てたはず……」
 女は顔を青ざめる。女の表情がみるみる恐怖に染まっていく。
「ハジマリよ。こやつなどのために身を投げうち、救いの道をも閉ざすとは。こやつの心根は変わらぬぞ。これからも自分勝手に振る舞い、他者を蔑ろにするであろう」
 オワリは失意に満ちた声でハジマリを責める。ハジマリは確信をもって終わりの発言を否定する。
「そんなことないよ。きっと、思い直してくれる」
「何を根拠に」
「わかるよ。だってボクのママだもん。だよね、ママ?」
 もちろん女にはハジマリの声は届いていない。ハジマリもそれを知りつつ話し掛けている。
 ちぎれた帯を握りしめる女の手がかすかに震えているのを、ハジマリは帯の体を通して感じていた。
「……き、気味が悪い!こんなもの……!」
 女は帯を放り出そうと手を振りかぶる。
「ハジマリ! やはり……」
「大丈夫だよ、オワリ」
 オワリの焦り声に、ハジマリは落ち着いて返す。
 女は手を振りかぶった体勢でしばし固まっていたが、握られた帯は放り出されることはなかった。
「もしかして、あの子が……」
 女は逆に帯を胸に抱き寄せた。
「ああ、ごめんなさい。私、あの子になんてことをしてしまったんでしょう。自分の身で体験して、やっと本当に理解したわ」
 そして女は、涙を流しながら帯に許しを請うた。
「あなたを殺してしまったあの日。私の人生は、もう一度始まるんだと思いこんでいた。だけど、実際は大間違いだった。何をしても、心にぽっかり穴が開いているようで。その穴を埋めるために遊びまわってみたりしたが、空しくなるだけで。この気持ちは一生続くんだ。一生空しいままで。私は、かけがえのない大切なものを、自らの手で失くしてしまった」
 女は慟哭する。寒空の下、明け方近くの路上で、女のむせび声だけが響いていた。
「私は、他人の命を終わらせただけじゃなく。私の人生そのものも、その時に、自らの手で終わらせてしまったんだ……!」
「終わってなんかいない。また、やり直せるよ」
 ハジマリは優しく告げる。
「つ、伝わるわけがない。お主の声は母上には届かないのじゃ。無駄なのじゃ」
 オワリは焦燥の滲んだ声を出す。
「伝わるよ。絶対」
 ハジマリは確信して言う。
「うん、そうね」
 女は軽くうなづいて、涙を拭う。
「ま、まさか。そんなはずは……」
 ハジマリは困惑した声を出す。
「私、自首するわ。こんなことで許してもらえるとは思えないけど、少しでも罪を償わせて」
 女は地面に座りこんで、さめざめと泣いている。ハジマリは彼女に抱きしめられながら、ただ黙って慰めていた。 
「……さて、これからどうするのじゃ、ハジマリよ。誰かを縊り殺さねば、お主は一生帯の体に囚われたまま、現世を彷徨うことになる。我が輩だって、妖怪消滅の流れに逆らえず、消えてしまうことじゃろう。ハジマリ、我が輩たちはもう終わりだ」
「うーん、よく解らないけど、きっと大丈夫だよ」
 ハジマリはあっけらかんと言う。
 その時、朝日が昇って辺りを明るく照らしだした。夜明けを迎えた世界は、比肩するものもないほど美しかった。

 そして数年後――。
 新雪のように真っ白で清潔な病室のベッドの上で。
 生まれたばかりの赤ん坊が、母親の腕に抱かれてすやすやと眠っていた。
 窓から差し込む日差しも新たな生命の誕生を祝福していた。
「いやあ、すっごい大きな産声でしたね。今は嘘みたいに静かに眠ってますけど」
 くたびれた様子の助産婦が、ベッドの傍に置いてあった椅子に大儀そうに腰かける。看護婦は皆、年末の坊さんのように業務中せわしなく動き回るものかと思っていたが、この女性に限ってはそうではないらしい。
「間違いなく両耳の鼓膜が破けてる。今私、完全に無音状態」
 両耳をさすりながら言う助産婦に、ベッドの上の女性は疑わしげな様子で聞く。
「さすがに大げさすぎじゃない?」
「いや、ほんとほんと」
「耳、聞こえてるじゃない……」
 ベッドの上の女性は呆れた声を出した。出産という一大事を終えた直後だ、激しい突っ込みを入れる気力は残っていないようだ。
「すごい元気な赤ん坊ですけど、何か秘訣でもあるんですか? お腹にいる間中、ビリーさんのブートキャンプ動画を聴かせ続けてたとか?」
「どんな英才教育なのよそれ……」
 だいぶぶっ飛んだ考え方をする助産婦である。
「きっと、この帯のおかげなの。この帯が、この子を守ってくれた」
 ベッド脇の机の上に置かれた帯に目をやりながら、女性は答えた。
「ああ、岩田帯ですね。安産を願って、戌の日に締めるって言う。でもこの帯、すっごい汚れて傷んでますねぇ」
 言う通り、帯は泥で汚れて茶色く変色しているうえ、補修を繰り返した痕跡もあった。
「もしかして、この帯を身に着けてアマゾンの奥地でも探検しました?」
「するわけないでしょう……」
「駄目ですよ? 身重の体で、世界の果てまで行ってきちゃったりしたら」
「まさかとは思うけど、あの娘ならやりかねないわね」
「で、この帯、本当に何なんです? ラグビー日本代表が試合の時に着けてたやつとか? それなら丈夫な子が生まれてもおかしくなさそうですね」
 この助産婦はどこまでもふざけるらしい。ベッド上の女性は呆れた調子で答える。
「……この帯は、誓いなんです。一度は失敗して、残酷にも終わらせてしまったけれど、今度こそくじけずに育てるんです。もう一度、初めからやり直すの。終わらせてしまったあの子のためにも」
 悲壮な覚悟をにじませて宣言する女性に、助産婦はおどけて答える。
「あまり気負わないほうがいいですよぅ? スタートから全力疾走したら、途中で倒れて動けなくなりますから。駅伝で毎年 そういう人見ますから、知ってるんです」
「私も身をもって知ってるけど、駅伝にたとえないでくれる……?」
「適度に力を抜いて、休まないと。辛かったら誰かに助けてもらうんです。周りの助けなしに出来ることじゃないですからね?」
「ええ。肝に銘じておくわ」
「それより、この霊妙なる帯を、他の妊婦さんに貸してあげてもいいですか?」
「え?」
「出産に不安を覚えている妊婦さんは多いんですよ。この霊験あらたかな帯を貸してあげれば、少しは不安も晴れるでしょうし。『産声で分娩室の窓ガラスを割るほど元気な赤ん坊が生まれる』ってうたい文句で」
「初っ端からだいぶ盛りまくったうたい文句ですね……。普通こういうのは、噂が広まるにつれて尾ひれがついて、大げさになっていくものだと思うのだけど」
「こういうのは言ったもん勝ちですからね。で、貸してくれます?」
「ええ、もちろんいいわ。誰かの助けになるのなら」
「よし来た! じゃあ、さっそくその妊婦さんに伝えてきますね。『生まれてすぐに病院中の窓ガラスを割って回るほど元気な子供が生まれる』岩田帯があるって」
「ちょっと、それじゃ不良になっちゃうみたいじゃない!」
 その助産婦は俊敏な動きで病室を出て行った。仕事ではないときだけは目まぐるしく行動するらしい。
 病室内は、竜巻が通り過ぎた後のように、静けさが戻った。
 だが実は、耳に聞こえない嘆声が、今もずっとうるさく騒いでいた。
「うおおお、生まれた、生まれたぞ。元気な子だ。やった、やったぞ」
 オワリは感激を抑えきれない様子で叫び続ける。
「うん、ボクたちも頑張ったからね」
 ハジマリもしみじみとした調子で言う。
「いやはや、新しい命の誕生が、これほどまでに感動をもたらすとは。まったく知らなんだ。このような奇跡に関われたこと、誇らしく思うぞ」
 オワリはまだ興奮を抑えきれないでいる。そう、そうじゃと上ずった声を上げる。
「羽締(ハジマリ)という妖怪は、今後も帯として妊婦と胎児の命を守り続けるのじゃ! 羽締(ハジマリ)は、命を終わらせ続けるのではなく、逆に命を”始まらせ”続けることになるじゃろう! 七人ミサキや縊鬼のような、死の連鎖ではない。ハジマリは、誕生の連鎖じゃ!」
 オワリは自分の言ったことに自分で発奮したらしく、高々と言葉を続ける。 
「これは新しい時代の妖怪じゃ! ああ、間違いなく、永遠に語り継がれる妖怪となるじゃろう!」
「これで、オワリももう大丈夫かな? 消えちゃったりしないよね?」
 ハジマリが優しく問いかける。
「ああ、人間が我が輩たちを忘れることはないじゃろう。もう我が輩が消える心配はない。お主のおかげじゃ」
「よかった。頑張った甲斐があったね」
 ハジマリは深い感慨を込めて言う。
「そして、お主も救われることができたのう。我が輩では考えもつかなかった方法じゃったが」
「へへへ、上手くいったね」
 ハジマリは得意げに笑う。
「何しろ前例のないことじゃからな。七人ミサキや縊鬼は、誰かの命を奪うことで、代わりに成仏してあの世に行く。では逆に、『誰かの誕生を助けた』ら、どうなるのか? 上手くいったから良いものの、こんな大博打賭ける奴はおらぬぞ」
「そんな褒めないでよ」
「褒めておらんわ、馬鹿者。危うく一生現世を彷徨うところじゃったのだぞ」
「まあ、それもいいかなって。オワリと一緒なら」
「それより、そろそろ頃合いじゃろう。これからは我が輩の声は聞こえなくなるだろうが、我が輩はずっとお主の傍におるぞ。寂しく思うことはないぞ」
「うん、じゃあ、言葉を交わすのはこれが最後かな。でもボクはずっと、オワリのこと覚えてるからね」
「我が輩のことは気にするな。それより、今度こそ幸福な人生を送るがよい」
「言われなくても。じゃあ、さよなら」
 ハジマリの意識だけが帯から浮き上がり、離れて行くのを感じる。そして、フワフワと空中を漂って、女性の腕の中で眠る赤子の中に入り込んだ。
 暖かい温度が触れているのを感じる。心地良い、幸福感を伴う優しい温度が。小さな指を懸命に動かして、肌を触れ合わせる。
 重たい瞼を持ち上げて、目の前の顔を見返す。
 またよろしくね、ママ。
マナ

2019年12月30日 10時40分36秒 公開
■この作品の著作権は マナ さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:尾割と羽締の妖怪譚のはじまりはじまり――
◆作者コメント:幼子が主人公どころか、非生物な上に自力で動くことができない主人公という、あまりに無謀なな題材でした。身体感覚に基づく慣用表現、感情表現のほとんどが禁じられてしまい、さながら縛りプレイのようでした。……帯だけにね!

2020年01月18日 18時33分44秒
作者レス
2020年01月12日 23時47分21秒
+20点
2020年01月12日 21時22分28秒
+10点
2020年01月12日 14時11分11秒
+10点
2020年01月10日 19時12分56秒
+30点
2020年01月08日 21時58分25秒
+10点
2020年01月05日 10時48分14秒
+20点
2020年01月03日 23時01分12秒
+10点
2020年01月02日 06時34分39秒
+20点
2020年01月01日 15時29分01秒
+20点
合計 9人 150点

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