見えない涙は熱い

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 他のところがどうかは知らないけれど、私がよくお邪魔している高校には色々と逸話が多い。
 戦時中に陸軍の人体実験場があったとか、深夜に校庭で幽霊がラインダンスしていただとか、人気のない廊下で女の泣く声が聞こえてきた、だとか。そんな話が通っている生徒の話題に上る頻度は結構多いと思う。
 そんな話が多いのは、学校の東側に建つ旧校舎のせいだと思う。もともと三棟あった内、二棟が新校舎の建設のために取り壊される中、かろうじて生き残った旧校舎は昼間でも不気味な雰囲気をかもし出している。
 度重なる補強と、風雨による劣化で薄汚れた外観をした旧校舎の周りには高い建物がなく、四階建ての汚らしい校舎が周囲を見下ろす形になっている。そんな旧校舎の風情は威圧感たっぷりで、私には下手なRPGに出てくる魔王城のようにも見えた。
 そんな旧校舎の中でも、音楽室や美術室が入る二階や、文科系の部室が入る三、四階はまだ明るい空気が漂っている。
 しかし、一階は完全に“出そう”な雰囲気が漂ってしまっている。校舎と外部をへだてる壁と、敷地の中に植えられた樹木のせいで、日中でもほとんど日が当たらない一階には人体模型や生物標本の並ぶ理科室や、訳の分からない物が詰まった用途不明の物置が並んでいる。そんな旧校舎一階の廊下に立つと、自分が学校ではなく、それとよく似た異世界に立っている、なんて素敵な妄想が自然と浮かんでくるくらいだ。
 雰囲気だけでなく、実際に、そこを舞台にした怪談話もあるせいで、用がなければ生徒もほとんど立ち寄らない旧校舎の一階だったが、私は放課後ともなればよく通っていた。
 旧校舎の一階には図書準備室と言って、古くなって閲覧する人がいなくなったり、破損して読めなくなったりした本を保管する部屋があり、私のお目当てはそこだった。そこには私好みの古い小説が山のようにあり、さらには人通りもほとんどないので、読書には打ってつけの場所だったからだ。
 その日も私がいつものように図書準備室へ行くと、驚いたことに先客がいた。
 この高校の制服である、紺色のブレザーを身に着けたその女子は、窓際に置かれた腰くらいの高さの本棚の上に立っていた。カーテンレールにはその女子が巻き付けたであろうヒモがくくり付けられ、床に向かって垂れたその先端はより合わされ、輪になっていた。
 その女子生徒が輪の中に頭を入れようとしたちょうどその瞬間に私は入っていったのだが、彼女はすぐ私に気付いた。
 私の方も、そんな彼女の反応と、首つりをするその瞬間という光景に圧倒され、図書準備室の入り口で立ち尽くしてしまった。
 首つり用のヒモを握ったままの彼女としばし見つめ合うが、頭の中は大パニックを起こしていた。
 彼女の方も同じようにパニックになっているのか、目は丸く見開かれ、顔はみるみる内に赤くなっていった。
 やっぱりこれは止めるべきなのだろうか。様々な感情・思考が行き交う頭の中で、ふと私は思った。
 ただ、ここ最近、普通の人とまともに話してこなかった私が、自殺を思い立つまでに思い詰めた彼女を止めることが出来るのだろうか。
「こ、こんにちはー」
 精一杯の愛想笑いと共に口にしたその言葉は、情けないくらいにかすれていた。
「いやーまさかこんな所に先客がいるなんてびっくりしちゃったよ。え、えっと……どうしたのそれ、洗濯物干しの練習?」
 我ながら何を言ってるのか分からない私の言葉に、返してきた彼女の声は硬く、端的だった。
「死のうとしているんです」
 つい先ほどまで驚きに見開かれていた目に、今度は明確な敵意を宿し、彼女は言葉を続けた。
「だから出て行って下さい」
「いやいやいや、それは出来ないでしょ常識的に考えて」
 そう言いながら私が歩み寄ると、彼女は私から遠ざかるようにわずかに身を引いた。
「とりあえず下りて、少し話――」
「良いから放っておいて!」
 淡々としていた先ほどまでの口調とは打って変わった強い口調で、彼女は私にそう言い放った。
 そんな彼女の言葉に少しムッとしてしまった私は、怒りのトーンは抑えつつ、彼女に言い返した。
「……あんたがどうしてそんなことしようと思い立ったか知らないけどさあ、あなたが死んだらどうなるか分かってるの? ここで死んだら、学校中は大騒ぎになるし、あんたの親だって大変な思いをするし、悲しむ。なのに放っておくなんてことは私には出来ないわ」
「うるさい! 私がどんな思いだか知りもしないのに偉そうなこと言わないで!」
「知らないわよ! 私は周りの迷惑のこと言ってんの!」
 結局、怒りに任せるままそう言ってしまってから、私は彼女とにらみ合う。今や、大きめの瞳に憎しみを込め、彼女は私を見ていた。そんな彼女に負けじと、私も両目の傾斜を強めて彼女を見た。
 そのままにらみ合って、どれくらいの時間が経った頃だろうか。
 最初に視線を外したのは彼女の方だった。
 不意に大粒の涙を浮かべると、顔を俯かせ、泣き始めた。それまでヒモをしっかりと掴んでいた手で顔をおおい、彼女は泣きじゃくった。窓の外から淡い光が差し込む中で、泣く彼女の姿は酷く儚く、私の目に映った。
 一つため息をついてから、私は彼女の方へ歩いて行った。図書準備室は狭いスペースに本棚やテーブルが並んでいたが、私はさほど苦もなく彼女の近くへ行くことが出来た。
 私の手が彼女の靴下に触れると、彼女はびくん、と体をふるわせた。
「ああ……びっくりさせちゃってごめんね」
「いえ……」
 鼻を大きくすすりながらそう言う彼女に「下りてきて、ちょっと話さない?」と提案すると、今度は素直に応じてくれた。
 彼女と一緒に本棚をすり抜け、部屋の真ん中辺りに置かれたテーブルにたどり着くと、そこに設えられたパイプ椅子に私達は並んで腰かけた。
 鼻をすすり、目を真っ赤にした彼女の脇で、私はしばらく黙ってパイプ椅子に腰かけていた。
 彼女が落ち着くのを待ってから、私はおもむろに、彼女に話しかけた。
「私、ジンノ・サヤカ。あなたは?」
 藤井ミク、と彼女は小さく答えてくれた。
「どうしてあんなことをしようと思ったの?」
 私の問いかけに、藤井ミクはすぐには答えてくれなかった。無視されたかな、と私が不安を感じ始めた頃になって彼女はゆっくりと話し始めた。
 彼女は昔から、人付き合いが苦手だったのだそうだ。それでも数は少ないながらも趣味の合う友人はいて、中学校くらいまではそれなりに楽しく過ごせていたらしい。それが変わったのはこの高校に入学してからだった。親しい友達が別の学校に入学してしまい、もとから人見知りだった彼女はなかなか友達を作れないでいた。クラスの中で一人でいたところを、女子のクラスメイトにからかわれるようになり、それがいつしかいじめに発展してしまったらしい。
 言葉でのからかいや、物を隠されるいじめ、そして暴力。耐えきれなくなった彼女は意を決して担任に相談もしたのだが、問題になることを恐れた担任は話を聞くだけで何の対応もしてくれなかった。そして親は共働きで、心配をかけることが出来ず、さらには、彼女が担任に相談したことがいじめグループにばれ、いじめ自体もエスカレートした。もうどうにもしようがなくなった彼女は、この図書準備室にロープを持って足を踏み入れた、のだそうだ。
 実際の彼女の話はここまでまとまっておらず、しょっちゅう時系列が混乱したり、脇道にそれたりして、私はその度に質問をしたり、話を戻したりしなければならなかった。
 そのせいか、話を聞き終わった時には私は思わずため息をつきそうになった。
 それを何とかこらえてから、私は彼女の方を向いた。
 目の前のテーブルをじっと見つめた彼女に、私はゆっくりと話しかけた。
「藤井さんの感じている苦しみはよく分かったし、死にたくなる気持ちもよく分かる。でも、自殺はやめておいた方が良いと思う。死んでしまうともう何も出来なくなるし、死んだ後に後悔しても、生き返ることは出来ないんだからさ。まずは一度、家に帰って、ゆっくりと考えてみたらどうかな?」
 ……これは決して上辺の言葉ではなく、本心から言ったことだったのだが、彼女には伝わってくれなかった。
「勝手なこと、言わないで下さいよ」
 ぐずりながら、藤井ミクはそう言った。
「もう私はどうしようもないんです。ジンノさんみたいに、頭が良くて、楽しそうに生きている人には分からないでしょうけど、私みたいなバカは一生、今みたいに除け者のまま生きなきゃならないんです。そんな私の気持ちも分からないのに、分かったようなことを言って……死んだら後悔する、なんて言わないで下さい」
「まあ確かに、完全にあなたの気持ちを理解することは出来ないけど、今の話で藤井さんの気持ちは本当によく分かったよ。それに少なくとも、死んだ後のことはこれでもかってくらいよく分かるし」
 言ってしまってから、しまったと思ったが、もう遅かった。
「何を言って――」
 そこまで言いかけたところで気付いたのか、藤井ミクはゆっくりと私の顔を見てきた。
 今その顔には、驚きでも、怒りでもなく、明らかな恐怖が浮かんでいた。
 パイプ椅子から立ち上がり、私から遠ざかるためか、窓際の本棚まで移動する。
 分かりやすい怖がり方をされて、少なからずショックを受ける私に、藤井ミクがつばを飲み込む音が聞こえてきたような気がした。
「ジンノさん……どうして私服でこの学校に入れたんですか?」
「それは……守衛のおじさんに本読みたいですって言ったら何故か通してくれちゃうんだよね」
「ここに入ってくる時、扉を開ける音がしなかったのは?」
「ここの扉、建て付けが物凄く良いんだよね」
「……さっき私の足に触った時、手が物凄く冷たかったんですけど」
「いやー私、凄い冷え性でさーしかも最近どこもクーラーガンガンじゃない? だからどーしても手が冷たくなっちゃってさーあはははー」
 梅雨寒の日が続いてる中で、私の台詞はあまりにも説得力に欠けていたようだった。何とか笑ってごまかそうとしてみたものの、藤井ミクの目は恐怖に引きつったままだった。私は諦めて、正直に話すことにした。
「……ごめん、嘘ついちゃって。実は私、藤井さんが今考えている通り、アレなんだよね」
 そう私が話すと、藤井ミクは恐怖とおかしさが入り混じった奇妙な笑みを顔に浮かべた。
「いや……嘘ですよね? そんなの、本当にいる訳ないですし」
 私は少し悩んだが、ここは彼女に本当のところを見せた方が良いと思った。
 自分の目の前のテーブルに手を置き、それを押す。
 普通なら、テーブルが触れたところの皮フが白くなるところだろうが、私の手はテーブルを霞のようにすり抜ける。
 今度はテーブルをすり抜けさせて、手を上げると、私はなるだけ穏やかに笑って藤井ミクの方を見た。
「……この通り、なんだよね。これで私が死んだ後のことをよく知っているのは分かってくれたと思」
 と私が言いかけたところで、藤井ミクがばたん、と床に倒れた。
 天井を向けた状態で固まったその顔は、真っ青になっていた。



 私が死んだのは去年の秋のことになる。
 死んだら何もかも無くなる、と考えていた私だったが、自分が死んだと思った次の瞬間には、今のような幽霊の体を手に入れてしまっていた。
 こうなって半年以上経っている訳だが、未だにこの体には謎が多い。まず、私の脳みそは体ともども火葬場で煙となっているにも関わらず、秋から最近にかけてのことはよく覚えているし、他の幽霊仲間との話も問題なく出来てしまっている。物事の記憶や言葉の理解と表出というものは脳みそがなければ出来ないはずなのだが、この幽霊の体というやつはそんな科学的な常識を当たり前のように無視してしまっている。
 科学的な常識を無視しているところは他にもあって、まずこの体、基本的にどんなものでも通り抜けてしまうことが出来る。鉄にコンクリート、木材、その他諸々の物質も通り抜けてしまうので、その気になれば色々と好き勝手が出来てしまう。
 タダで映画を一日観たり、欲望の抜けきっていない男の子の幽霊だと女湯の覗きをしたりする子もいるらしい。
 その上、頑張れば幽霊の側から一方的に物質に干渉することが可能で、生前、恨みのあった人の前でポルターガイストを起こして嫌がらせをしたという知り合いもいる。
 こう言うと幽霊の体が結構都合の良いものに聞こえてしまうかもしれないが、この体、不便だったり、困ったりすることも多い。
 その一つが、生きている人間に見えたり、見えなかったりすることだ。
 私達の姿は基本的に生きている人間には見えない。ただ、今回の藤井ミクのように私達の姿がばっちり見えてしまう人間も中にはいて、見える人と見えない人がどう別れるのかその基準は全く分らない。知り合いの考え事の好きな幽霊によれば、神様の気まぐれ、なんじゃないか、とのことだ。



「どしたの? サヤカちゃん?」
 気絶した藤井ミクの脇でたたずんでいると、幽霊仲間のハセガワさんが天井から顔だけ出して声をかけてきた。
 ハセガワさんは幽霊になって五年のベテラン(?)で、私が幽霊になった当初から色々なことを教えてくれている。生前は学校の先生をやっていて、この高校の図書準備室のことを私に教えてくれたのもハセガワさんだった。
 床に下り立ったハセガワさんはかけていた丸眼鏡をかけ直しながら、私の横で床にぶっ倒れている藤井ミクを見やる。
「あーこの娘、君の姿が見えたのかい?」
「うん、そーなのよ」
「にしても何で気絶してるんだい? まさか自分の正体を伝えでもしたのかい?」
「ちょっとそれには事情があるのよ」
 私はこれまでの経過をかいつまんでハセガワさんに説明した。
 ちょっと長めの私の話を聞き終わったハセガワさんは、ふうむ、とため息をついた。
「なかなか大変な目に遭ったもんだね」
「でしょ?」
「でも、どうしてここにいるんだい?」
「どうしてって……気を失ってるこの子を放ってはおけないじゃない?」
「いや、放ったままでも構わないんじゃないかなと思って」
「……生きている人間には結構冷たいのねハセガワさん」
「いや、そういう訳じゃないよ。それがお互いのためだと思うんだよ」
 ハセガワさんは慌ててかぶりを振った。
「幽霊と話をするなんて体験をした後なら、別に目覚めた後にフォローしなくても、もうこの娘は死のうなんて気を起こさないと思うよ? むしろ、起きた時に幽霊がまだいたらさらにややこしい話になっちゃうかもしれないし」
 それに、とハセガワさんは話を続ける。
「幽霊が生きている人間と関わりを持ち続けるのは、よくないことだと思う」
「そうだよねぇ……」
 そう呟きながら、私は倒れたままの藤井ミクの顔を見る。
 寝顔に恐怖や緊張は見て取れるものの、ヒモを手に立っていた時の張り詰めた様子は感じられなかった。このまま目が覚めたとしても、顔を青くしてこの場から立ち去ってくれるのかもしれない。
 しかし私は、この子をこのまま放って去りたくはなかった。彼女の元を何も言わずに去ってしまうのは、やはり無責任なことに感じられたからだ。……もっとも理由は他にもあったが。
 ハセガワさんにそう言うと、彼はふうむ、とまたため息をついた。
「サヤカちゃんがそうしたいなら良いけどね、ただあんまり生きている人間と関わると成仏できなくなっちゃうかもよ?」
「良いよ別に成仏出来なくても。この体だと映画も見放題だし」
「またそんなこと言って……」
 そんなことをハセガワさんと話していると、藤井ミクが、ううん、と呻き声を上げ始めた。
 気絶から目覚める時って、本当に漫画や映画通りなんだな、と私が妙な感慨を覚えていると、ハセガワさんは体を宙に浮かせた。
「君とこの子がどうなるか気になるけど、僕がいると余計にややこしくなりそうだからね」
 あとでどうなったかだけ教えてよ、とだけ言い置いて、ハセガワさんは天井の向こう側へ消えていった。
 さて、とちょっとだけ気合を入れ直してから私は彼女から一歩分だけ離れた。
 少しでも威圧感を与えないように、床に寝た彼女と出来るだけ視線の高さが同じになるように、正座で座る。リノリウムの床にむきだしの膝をつける形になるが、幽霊なので痛みとか冷たさは感じない。
 ゆっくりとまぶたを開けた彼女は上半身だけ床から起こすと、まぶたをこすった。ぼんやりとした顔の彼女と正座をした私の目が合う。
「あ、起きた? おはよー」
 出来るだけ明るい声を出した方が怖がられないかも、と考えたが、あまり効果はないようだった。
 ひっ、と小さく叫んだ彼女は恐怖に引きつった目で私を見ながら、リノリウムの床をいざって私から距離を置く。立ち上がって逃げてもおかしくない様子だったが、もしかしたら腰が抜けていたのかもしれない。
 やれやれ、と村上春樹風に嘆いてから、私は彼女に話しかける。
「あの、驚かせてごめんね。私は確かに、アレなんだけど、別にあなたにとりついてやろうとかそういうことは考えていないから、あんまり怖がらなくても大丈夫だよ。……それでね、話だけ聞いて欲しいんだ」
 藤井ミクは頷いてはくれなかったものの、私から離れようとはもうしなかった。そんな彼女の様子に少しだけホッとしながら、話を続けた。
「確かにあなたは、とても辛い思いをしてきたんだと思う。もうどうにもしようがなくなって、死ぬことを選ぶんだ、っていうなら私に止めるつもりはないわ。ただ、死ぬのを選ぶのは本当に最後の選択肢にしておきなさい。……今のあなたと私は何故か関わることが出来るけど、死んだら生きている人とは関わることは出来なくなっちゃうし、死んでから生き返ることも絶対に出来ない。……だから死ぬのは、もう本当に何も出来ない、という時にしなさい」
「……どうすれば良いんでしょうか」
 顔はまだ恐怖で強張ってはいたものの、藤井ミクは私にそう尋ねてきた。ちょっとだけ彼女に微笑んでから、私は答えた。
「まずは両親に相談してみたら? 忙しいお父さんお母さんに相談するのは気が引けるかもしれないけど……死んで迷惑をかけるよりは間違いなく良いよ。それに、大人だったら私達が考え付かない対処の方法を知ってるかもしれないからね」
 私の話を聞いた藤井ミクは、小さく頷いてから、視線を床にさまよわせた。
 自分がいじめられていること、死を考える程に悩んでいること、それを両親に伝えることを迷っているように、私には見えた。
 私は笑いながら彼女の肩に手をのせようとして――やっぱりそうはせずに、彼女へ話しかけた。
「大丈夫、何とかなるよ。もしかしたら大変な思いをするかもしれないけど、死ぬよりはマシだよ。現役の幽霊が言うんだから間違いないっしょ」
 そこで初めて藤井ミクは私に笑い返してくれた。そんな彼女を元気づけようと、にっと笑ってから私は床から立ち上がった。
「もし、藤井さんがそのつもりになったら、だけど、私は放課後は大体ここで本を読んでるから、グチりたくなったら遠慮なく来てね。解決は出来ないと思うけど、話を聞くことは出来ると思うから」
「あの……ありがとうございました」
「良いの良いの、気にしないで」
 そう藤井ミクに言ってから、私は体を宙に浮かせた。
「またね」
 信じられないものを見る目で私を見る藤井ミクを残して、私は夕日に染まった校舎の外へ出た。



 旧校舎を出た後の私は、ふらふらと夕方の街をさまよっていた。
 幽霊というものは食欲や睡眠欲といった諸々の欲望、痛みだとか触った感じとかの感覚が基本的にはない。感覚についてはもし必要な場面に出くわした時にだけ感じられるようになる、という軽くチートな仕様になっているが……まあ、何が言いたいのかといえば、そういう余分な欲・感覚から解放されているせいか、幽霊の気分が波立つことはほとんどない。
 私を含めた大多数の幽霊は、何が起ころうとお気楽に笑っている、というのがデフォルトなのだが、今日の私は何だかおかしかった。
 心が浮ついているような、落ち込んでいるような、何とも落ち着かない気分だったのだ。
 自分の実家に行ってみよう、と思い立ったのも、そんな気分だったせいかもしれない。
 神野、という表札のその家の前に立つのは、思ってみればかなり久しぶりのことだった。
 少なくとも、二・三か月は入っていなかったと思う。色々なことがあって、この家の敷居をまたぐのはどうしても気が引けてしまう。
 車庫に二台あるはずの車は両方ともなかったので、両親はまだ仕事に行っているらしい。
 玄関を通り抜けて、靴を確認してみると、弟は帰ってきているらしかった。
 少しだけ迷ったものの、私は家の二階にある弟の部屋へ行ってみることにした。
 弟のサトルも帰ってきたばかりだったらしく、彼はちょうど着ていたワイシャツを脱いでいるところだった。弟がTシャツとトランクス姿になるところを見たことに、少し罪悪感を覚えながら、私は彼の部屋の中を見回す。
 私服が脱ぎ散らかしてある以外は、部屋は綺麗に整理されていた。
 部活で使うものか、隅にはテニスのラケットも置いてある。
 私の二コ下になるサトルは今年高校に入学したのだが、今見た範囲では何かトラブルを抱えているとか、そういうのはなさそうだった。
 もの凄くラフな格好のまま、勉強机に置いたノートパソコンに向かう弟の前に顔を突き出す。姉には負けるものの、それなりに整った弟の顔に、かげりのようなものは見えなかった。
「サトル、元気?」
 そう声をかけてみるが、やはりサトルには聞こえない。
 目の前で姉が手を振ったりしているにも関わらず、サトルは黙ってマウスを操作するだけだった。
「藤井ミクに見えたんだから、もしかしたらと思ったんだけどねぇ……」
 何かの拍子で、今まで私の姿が見えなかった家族にも見えるようになったのでは、と少しだけ期待したのだが、そう都合よくは行ってくれないようだった。
 神様という奴は結構意地が悪い。
 カチカチと戦争物のゲームを始めたサトルは置いておいて、私は隣の自分の部屋に行ってみる。
 前に来た時と同じように、私の部屋は隅々まで掃除が行き届いていた。
 私が死んだ時に住んでいた家と、その後に引っ越した現在の家では間取りが異なるので完全に同じではなかったが、それでも出来るだけ、私の生きていた時に使っていた部屋に近づけようとしているのが私には分った。
 この前来た時には、冬用のふとんカバーと毛布がかけてあったベッドには、今は夏用のふとんとタオルケットがかけてあった。不覚にも、それを交換しているママの姿を思い浮かべてしまった私は、逃げるように階下へ降りた。
 一階はリビング、キッチン、そして奥まった所に和室がある。
 私の遺影はそこに飾ってあって、死んで半年以上経つにも関わらず、新鮮そうなフルーツとかがお供えされていた。
 久しぶりに、自分の遺影をじっくりと眺めてみる。多分、家族旅行の時の写真を加工したものだろうけど、実物の方が何割分か綺麗だと思う。
 こんな写真を前に、家族・親族がお葬式の時にお焼香をしていたのを思い出して、妙な気分に浸っていると、和室のふすまがガラガラ、と建て付けの悪い音を立てて開いた。
 見るとサトルが、牛乳の入ったコップを二つ持って入ってきたところだった。
 ゲームの休憩らしく、格好は先程と同じくTシャツとトランクスのままだった。
 私の遺影の前に牛乳を置くと、サトルはあぐらをかいてもう一つの牛乳をちびりちびりと飲み始めた。
「……嫌味か」
 生前の私は牛乳が大嫌いで、においをかぐだけで気分が悪くなったくらいだ。今もそのねっとりとした白い液体を見ているだけで、失ったはずの吐き気がこみ上げてくるような気がする。
 無言のまま、牛乳を遺影の前で飲む弟にため息をつきながら、私はどう頑張っても届かない言葉をかけた。
「……でもま、牛乳でもお供えしてくれてありがとうね」
 サトルはやはり、聞こえていないようだった。
 牛乳を飲み終わった後も、サトルはそのまま私の遺影の前に座ったままだった。
「ねえサトル」
 夕日も沈みかけ、闇が一層濃くなった部屋の中で、私はさらに声をかけた。
「こんなお姉ちゃんでも、いなくなってさびしい?」
 サトルは答えないまま、ただ私の遺影を見つめていた。
 彼がどんな顔をして私の写真を見ているのか、確かめるのが怖くて、私はそのまま、神野の家を出た。



 藤井ミクが私の前に再び現れたのは、あれから一月程経った時のことだった。
 あの日からほとんど毎日、私はあの図書準備室に通って彼女を待っていた。いつまで経っても彼女が来ないので少し心配になり、他の生徒の話を盗み聞きしてみようと思ったこともあったが、仮に彼女が死んでしまっていたとしたら、そのことを知るかもしれないことが怖くて、結局それも出来ず仕舞いだった。
 正直、図書準備室のテーブルに佇む彼女の姿を見た時には、少なからずホッとした。
 彼女の方はといえば、天井から図書準備室に降り立った私を最初、目を丸くして見ていた。
 ただ次の瞬間にはぎこちないながらも私に向かって微笑んできてくれた。
「あら、もう怖がらないんだ」
 そう私が聞くと、藤井ミクは困った顔のまま笑った。
「ごめんなさい、まだ少し怖いです」
「そお? だったらもっと分かりやすく怖がってくれないと幽霊のやりがいが無いんだけどなー」
 私が空中に浮きながらそう言うと、藤井ミクは心底おかしそうに笑った。
 そんな彼女の様子を見て、私は自然と口元がほころぶのを感じた。
「その後、どう?」
「……まだどうなるか分からないんですけど、一つ区切りはついたんで、サヤカさんにお礼を言おうと思って」
 あの一月前の出来事のあと、ミクは両親に自分のいじめのことを話したのだそうだ。
 両親はとても驚いたものの、ミクのことをとても心配してくれた。そして街の教育委員会に、ミクのいじめのこと、担任が対応をとらないことを訴えてくれた。
 その後はいじめっ子が教師から事情聴取を受けたり、そのことでミクに対するありもしないウワサ話が流れたりはしたものの、いじめはあったものと認定され、今後どうするかを両親と決めるまで学校を休むことになったのだそうだ。
「でも、サヤカさんのおかげで、ここまでになることが出来ました」
 ありがとうございます、と頭を下げる彼女を見ると、少しだけくすぐったい感じを覚える。
「私のおかげな訳ないでしょ。死なないことを選んだのはあなた自身だし、親にいじめのことを話すことを決めたのもあなた。状況が良くなったのは全部、ミクちゃんが頑張ったからだよ」
「でもあの日、サヤカさんに言ってもらわなかったら私……」
「私はただ本を読みに来て、ミクちゃんを驚かせただけだよ。そんなほめられるようなことはしてないって」
 幽霊でも顔が赤くなるんだな、と思いながら、ミクにそれがバレてしまうのが恥ずかしくて、私は彼女から顔をそらす。
「でも、何にせよ良かったよ。あなたが死ぬことを選ばなくて」
 私がそう言うと、背後で藤井ミクが涙をすする音が聞こえた。
「……あんた結構泣き虫なんだね」
「……すいません」
「全く」
 ため息をつきながら、私は彼女に近づいてその目元をぬぐってあげる。私の指の冷たさに、藤井ミクがびっくりするのを見て、思わず笑ってしまう。
「これからも大変だろうけど、頑張るんだよ」
「ありがとう、サヤカさん」
「うん。じゃ、私は行くわ」
 藤井ミクに微笑んでから、私は宙に浮き、図書準備室を後にする。
 彼女も穏やかに笑うのを見て、胸の中に温かいものが満るのを感じながら空に消えて行こうとした次の瞬間
「あの」
 ためらいがちに、藤井ミクがそう声をかけてきた。
「……また、会いに来ても良いですか?」
「え」



 私としては、彼女とのお付き合いはこれで終了、という風に考えていた。
 彼女の問題はまだ解決しきっていないものの、最悪の段階は脱したし、それに私は幽霊で、彼女は生きている人間だ。ハセガワさんも言っていたことだけれど、死んだ人間と生きた人間は深く関わるべきではない。
 互いの立ち位置には海よりも深い溝があって、もしかしたら気付かない内に生者を死者の世界に引きずることもありえるからだ。
 しかし、私と藤井ミクとの関わりは、ずるずると続いてしまった。
 あの後私が図書準備室に行くと、ほぼ毎日、藤井ミクがいた。
 そして一緒に本を読んだり、他愛のないことをしゃべったりして過ごすのだが、藤井ミクはとても楽しそうに笑うのだ。
 多分、だけれど、彼女は幽霊の私を友達として見ているらしかった。
 高校に友人がいなかった中、彼女に自殺を思い止まるきっかけを与えた私に、親しみを感じてくれているのだろうと思う。
 ただこれは、健全な関係とは言えない。生者は生者と、死者は死者を、友人とするべきなのだ。

「でも彼女ときっちり関係を切ることも出来ず、今も関わりを続けちゃってる訳だね?」
「……その通りです」
 草木も眠る丑三つ時、私の話を聞いてくれていたハセガワさんは、私の話をそう容赦なく総括した。
 私達がいるのは、あの高校からさほど離れていないところにある墓地で、そこにはハセガワさんのお墓もある。
 長谷川家代々之墓、と書かれた自分の墓石の上に座ったハセガワさんと、その前で正座しながらうなだれる私達の周りには、たくさんの幽霊がいた。墓地、という所は死んだ後でも不気味に感じられるところだけれど、他の幽霊にとってはリラックスできる場所らしい。墓地のそこかしこにたむろする幽霊達は、しゃべったり、踊ったり、酒盛り(?)したりと、結構にぎやかに過ごしていた。
「まあ、一時は自殺まで思いつめた女の子を放っておくことが出来ない気持ちは分かるよ」
 そう言いつつ、ハセガワさんは墓前に供えられたタバコの箱と、百円ライターを手にとった。
「それに年上が多い幽霊社会で、中々話題の合う同年代の幽霊仲間がいない中、ようやく若い話し相手が見つかって、ちょっと嬉しいサヤカちゃんの気持ちもよく分かる」
 そう私をなじりつつ、ハセガワさんはタバコを一本とりだしてそれをくわえると、火をつけてふかし始めた。
 幽霊には実体としての口や肺はないのだが、五年もオバケをやってると、こんな芸当も出来るようになるらしい。
 言うまでもないことだが、幽霊がニコチンやアルコールの影響を受けることはないので、ハセガワさんのこの行為は、ただ生前のクセを引きずっているというだけのことだ。
 ちなみに、ハセガワさんの死因は肺がんだ。
「ただ、どこかで彼女との関わりは断つべきだと僕は思うよ」
「うん」
「サヤカちゃんは――」
 そう言いかけたところで、ハセガワさんはタバコを一口含み、紫煙を吐き出してから、「ごめん、なんでもない」と続けた。
 ハセガワさんが言いかけたことは何となく分かる。
 私の場合、事情が事情だからだ。



 ハセガワさんに忠告は受けたし、私自身もよろしくないとは考えているのだけど、ミクとの奇妙なお友達付き合いはやっぱりずるずると続いてしまっていた。
 いじめを苦にして自殺を選んでしまい、人付き合いが苦手だと話していたミクだったけれど、打ちとけてみると結構明るいところがあり、最近では冗談をたくさん言うようにもなっていた。

 ちゃらららーという音と共に、私の持つスマホが白い光で満たされる。
 光の消えた後、スマホに表示されたのはゴツゴツした黒い銃をたずさえたイケメソだった。銃と同じ黒い服を身につけた、細身のそのアニキャラ風のイケメンは、いらずらっぽい笑顔を浮かべて、ようやく出会えたね、これから一緒に戦おう的なことを言った。画面の右上にはSSRとかいう文字が虹色の輝きを放ちながら誇らしげに表示されている。
「ほあー! HK416タンキター!」
 私がそう言うと、それまで離れたところで本を読んでいたミクは目にも止まらない速さで本を置くと、図書準備室に雑然と並んだパイプ椅子を蹴飛ばしながら私の隣に移動してくる。
 スマホの画面を見た彼女は「ほあー!」と私と同じように叫んだ。
 ミクのスマホを借りてやっていたのは、最近流行っているという、銃を擬人化したキャラとたわむれるというゲームだった。
 無料でもプレイ出来るのだが、課金をすればより強力かつそそるイラストのイケメソが手に入ったり、イケメソとの絆が深まるアイテムをもらえるという、ホスト遊びに近いとも言えなくもないゲームだった。
 そんなものにお金をかけるのは馬鹿らしい、と生前、そして最近まで考えていた私だったが、ミクに勧められるままやり始めた結果が先程の有様だった。
 今、課金ガチャで引き当てたのは現在行われているゲームの期間限定イベントで引き当てられるという超レアキャラだった。
 ミクと二人で、そのキャラの性能を見たり、キャラをつついて出てくるセリフを楽しんでみる。
「ほー強気なタチキャラかと思ったら、つついてると結構甘い声も出すじゃない」
「お手入れとかカスタムしてかないと、どんなキャラなのか分からないけど、これは中々良さそうだねー」
「色々はかどっちゃいますな」
「おやおや何がですかサヤカさん」
 そう言っておほほと二人で上品に笑い合う。
「ああ……とかやってる内にまたバッテリー上がってきちゃった」
「今日は充電器持ってきてるから大丈夫だよ」
「ごめんねー幽霊の手って冷たいからバッテリーすぐに上がっちゃうみたいでね」
 良いの、良いの、と言いつつ、ミクはスマホを予備バッテリーにつないだ。電気が消耗するのが悪いので、私はスマホから離れて本を読むことにした。
 学校は夏休みに入っていた。
 イジメの発覚の後、結局ミクはこの学校に残ることを決めて、今は遅れた授業の内容を取り戻すための補講を受けに来ている。補講は午前中には終わってしまうので、午後はこうして、私と図書準備室で遊んで過ごしているのだ。
 来学期からはクラスを替えることになったらしい。いじめっ子達はミクに謝罪し、今後は学校でもいじめが起こらないよう注意していくことになったそうだ。ただ、新しいクラスでは彼女に対して悪い印象や勝手なイメージを持った生徒がいるかもしれないし、いじめっ子のグループがまた嫌がらせをしてこないとも限らない。
 そんな不安をミク自身も持っているはずなのだが、彼女はそういう話を全くしない。
 いじめの対応の経過といった、事務的なことは積極的に話すのだが、こと、自分の心情や感情となると全然話してくれないのだ。
 私の前で、彼女は笑った顔しか見せてくれない。私を友達として思っているからこそ、強がって笑っているのだろうけど、彼女のそんな所が私は心配だった。
「サヤカー」
 麦畑で子供をつかまえたいと考える変な少年のことを書いた小説を読んでいると、テーブルの向かい側で頬杖をつきながらミクが私のことを呼んだ。
「どっか遊びに行きたいな」
「行ってくれば良いじゃない」
「サヤカと出かけたいんだよ」
「……何アホなこと言ってんの」
 私はため息をつきながら本を閉じた。
「幽霊とどう楽しくお出かけするのよ? 私の姿はあなた以外には見えないんだから、一緒にカフェでおしゃべりなんかしようものなら救急車呼ばれちゃうよ」
「それでもお出かけしたいのよ」
「私がイヤよ」
「じゃあどこなら良い?」
「人気のない山とか、そういうところかな」
「そういう体使うような所は行きたくないな」
「じゃあ諦めなさい。大人しくここでおしゃべりするしかないわよ」
 そう言って私が本に戻った後も、ミクは何事かを考えていたようだった。手を顎に当てながら立ち上がると、彼女は書棚の方へ消えていった。
 ミクは子供だな、と考えながら、そのまま小説を読み続けていると、十分もしない内にミクが嬉しそうな顔をして書棚から戻ってきた。
 古びた雑誌を手に私の横に立ったミクは、そのオカルト系雑誌のあるページを私の前に開いて見せた。
 幽体離脱特集、とその本には書いてあった。

 まず、出来るだけリラックスした姿勢で横になる。
 首と膝の下にクッションを入れると楽な体勢が取りやすい。姿勢を見つけたら、ゆっくりと目を閉じ、深呼吸を鼻で三回する。深呼吸の後は自然な呼吸を繰り返し、それに意識を集中する。その中で、雑念が浮かんでくるだろうが、それを消し去ろうとはせず、ゆっくりと呼吸へ意識を戻すようにする。呼吸のことしか意識に昇らなくなったら、続いて全身に意識を向ける。全身へ意識を行き渡らせ、イメージを頭の中で作り上げたら、イメージの中の体をゆっくり動かしていく――。
 図書準備室の床に寝て、幽体離脱を試みるミクを、私はげんなりとした気分を味わいながら見ていた。
 最初はお固い真面目な子だと思っていたミクだが、その認識は少々改めた方が良さそうだった。
 話を聞いてるかんじ、彼女にとって私は久しぶりに出来た友達らしい。そんな友達と遊びに行きたい、という気持ちは分からないでもないけれど、だからといって突然幽体離脱をはじめるのは、行動力がありすぎやしないだろうか。
 幽体離脱なんて変なことの影響で、ミクの体に異常が出ないだろうかとヤキモキしながら、私は彼女を見守る。
 最初、ミクの様子は単純に眠っているだけに見えた。体は意識を集中しているせいで微動だにしなかったものの、胸は呼吸の度に上下を繰り返し、床のホコリを吸い込んだのか、時折クシャミもしていた。
 そんな様子が五分くらい続いたものの、ミクの体から霊魂なんてものが出てくる気配は欠片もなかった。
 ミクの体に異常が出ないことに安心し、その内飽きて起きるだろう、と考えた私は彼女は放って本を読むことにした。
 そのまま十分程経ってもミクは起きてこなかった。いつまで経ってもミクが起きないことに気付いた私が彼女の方を見てみると、先ほどとミクの様子はガラリと変わっていた。
 先ほどは大きく上下していた胸が今はほとんど上下しておらず、パッと見ただけでは呼吸しているかどうか分からなかった。慌てて近づいて確認してみると、鼻からは間違いなく息が出ていたのだが、それは普通では考えられないほど細く、長い呼吸だった。心なしか、全身の力が抜けて、体がぺったりと床に貼り付いているようにも見えた。
 彼女の整った部類に入るであろう顔からも力が抜けていて、どこか仮面のような平坦な印象を私は受けた。
 去年の秋の私の葬式で見た、棺の中の私の顔に、今のミクの顔はそっくりなような気がした。
「ミク」
 そう声をかけながら彼女の肩を掴むと、いつもと異なる感触が帰ってきた。肉体の持つ弾力ではなく、柔らかいけれど冷たい、固めのゼリーのような感触だった。
 よく見ると、ミクの肉体からもう一つの体が浮き上がっていた。
 目を閉じたまま眠る肉体の方とは異なり、そのもう一つの体の方は目をぱちくりさせて私を見ていた。
「……マジか」
 オカルト雑誌、恐るべきだ。
 どうやら本当に幽体離脱を果たしちゃったらしいミクは、信じられない顔で幽体の自分の手足、そして抜け出してきた自分の体を見た。その顔が喜びに満ちたと思った次の瞬間には私に向かって抱きついてきた。
 ミクの勢いが強くて、私はこらえきれずに床に倒れてしまう。何でも通り抜けられる幽霊だが、同じ幽霊相手だとそうはいかない。
「これで出かけられるね!」
 私に馬乗りになったまま、そう言うミクに、私は降参、という意味を込めて苦笑いを返した。

 早速、街へ出かけようというミクを制して、私は彼女に宙を浮く方法を教えてあげることにした。
 幽体で買い物に出かけたところで、ウィンドウショッピングだけになってしまうし、映画をタダ見するのにも宙は浮かべた方が良い。それに、今の時間帯だったらアレも拝むことが出来るだろうからだ。
 簡単に終わるだろうと思っていた宙を浮くレッスンだったが、予想外に時間がかかった。
 二本の足で歩くことに慣れたミクにとって、宙を浮く感覚をとらえるのは中々難しいことだったらしい。
 そんなこんなでミクが床から天井まで浮かべるようになるまで、一時間くらいはかかったと思う。
「……やった」
 そう言って天井にぺったりと貼り付いたミクの顔は疲れきっていた。幽霊は疲れも感じないはずなんだけどな、と考えながら、私は彼女の頭をぽんぽんとなでてあげる。
「はい、よく頑張りました。でもここからが本番だよ。今度はもっと浮いて、天井を抜けてみようか」
「う、うん」
 ミクはそう言って、おっかなびっくりな様子で天井を抜けていく。彼女に続いて私も体を浮かせる。天井の中の構造材を通り抜け、一階から二階、二階から三階へと移動していく。
 天井を通り抜けるということが初めてのミクは抜ける度に「おー」とか「はー」とか言っていたが、四階に差し掛かったところで「うわおう」と妙なことを口走った。
「どしたの?」と言いつつ、私が四階に入ると「うわおう」と口走ってしまった。
 どこかの文化部の部室、キャンバスが並んでるあたり、美術部なのだろうが、そこには男女が一人づついた。
 二人は、隔てるものはお互いの服だけ、というくらいに密着し合っていて、情熱的な視線を交わしあっていた。
「……行こ、サヤカ」
「ああ、待って待って」
 幽霊二人に見られているとも知らず、体をくねらせ、顔を徐々に近づけていく、ふらちな生徒を視界の端にとどめつつ、私は部屋の隅に立てかけてあったキャンバスを一つ倒した。
 ぱたん、という音が部屋に響くと、二人の生徒は弾かれたようにそちらの方を見た。
 なんだキャンバスが倒れただけか、と安心した彼等の前で、さらに二つ、三つのキャンバスを倒してやる。
 目の前で風もないのにキャンバスが倒れたことに、凍りついた二人の前で、今度は白紙に怨霊っぽい筆跡で〝エロガキめ〟と書いてやると、二人はぎゃーとか叫びながら部屋を出て行った。
「ほっほっほ、不純異性交遊をするとこうなるんだよ」
 満足を覚えつつそう言った私に向けられる、ミクの視線は結構冷たかった。
「……旧校舎で怪談話が多い原因ってさあ」
「あー早く行かないとー」
 私が先立って宙に浮くと「……全くもう」とか言いながらミクも続いてきた。
 旧校舎の屋上を抜けた先に待っていたのは、夏の夕日に染まった街の風景だった。
 今日は天気も晴れだったおかげで、夕日の光も鮮烈だった。建物、道路、木々、そうしたものに夕日のオレンジ色が加えられるのは美しい光景だった。
 もっとも、それは美しいとしてもミクにとって見慣れた光景だっただろう。ただ、今、彼女が眺めているのは校舎の屋上よりもさらに高い、空からだった。
 私も幽霊になって初めて空から街を眺めたときには、その光景の素晴らしさに圧倒されたものだった。単に見る角度や距離の異なるだけで、見慣れているはずの景色の美しさは、びっくりするほど増してしまうのだ。
「わあ」
 私から続いて屋上から出てきたミクを見ると、彼女はぱっちりとした瞳をさらに丸く見開いて、眼下に広がる光景を眺めていた。
 口を開けてただぼんやりと、街と、夕日を眺める、彼女の反応が嬉しくて、私は彼女の手を握った。
「上はもっとすごいよ」
 そう言って、私は彼女を引っ張り上げるように、さらに上空へと浮かんだ。
 高度は見る見る間に上がって行き、巨大だった旧校舎も、どんどん小さくなっていった。地面から離れていくせいか、ミクは体にぎゅっと力を込めるが、そんな彼女の様子を見て、私は思わず笑ってしまう。
「大丈夫、落ないよ」
 そう私が言っても、ミクは目を閉じて、私の手にしがみついたまま、それ以上浮かぼうとしなかった。ほらほら、と私がいくら促しても、ミクは頑としてそれ以上浮かぼうとしなかった。
 もう少し高度が高い方が景色は良いのだが、ミクがこんな状態ならば仕方がない。
「ほら、目を開けてみ」
「いや、超怖い」
「大丈夫、大丈夫。前と上だけ見て、下は見なくて大丈夫だから、ね?」
 そう私が声をかけても、中々ミクは目を開こうとはしなかった。しかし、しばらく経って、彼女が恐る恐る目を開けると、その口から「わあ……」と感じ入った様子の声がもれ出た。
 彼女の前には夕日に染まった入道雲が屹立していた。
 地上から眺める時よりも、空で間近に見る入道雲は、その巨大な体の中に大きな力を内包していることを強く感じさせた。目の前に浮かぶ私達を、その気になれば一息で飲み込めてしまいそうな雲のオバケは美しくもあり、恐ろしくもあった。
 入道雲から視線を転じ、西の空に目を移せば、地上で見るよりも鮮やかな光を放つ太陽がそこにはあった。
「綺麗……」
 オレンジよりも真紅に近い夕日を眺めながら、ミクはそう呟いた。



 夕焼け空をひとしきり眺めた後、私は行きつけの映画館へミクを連れて行った。映画のタダ見をして、それで今日は解散と考えていたのだけれど、学校に帰りつくと、そこでは幽霊たちが盆踊り大会をしていた。
 盆踊り、と銘打ってはいたが、実際はDJ役の幽霊のボイスパーカッション(ラジカセや音楽プレイヤーを使うことは出来たけれど、それが生きている人間に聞かれると大変面倒なことになる)に合わせて、皆が好き勝手に躍るというものだった。
 こちらではタンゴを踊っているかと思えば、向こうではコサックダンス、という風に、雑多で騒がしいばかりだったが、ただ間違いなく楽しかった。
 私の知り合いの霊に誘われるまま、その騒ぎの中に飛び込んだ私とミクは、周りにもみくちゃにされながら踊って笑いまくった。生きていた時も含めて、これまでで私は一番笑ったんじゃないだろうか。
 そこを抜け出して、図書準備室に戻ったのは十時過ぎくらいのことだった。
 壁にかけてある時計を見て、ようやく今何時か気付いたミクは、げ、と呟いた。
「やばい、親にラインも入れてないのに」
「ああ早く戻らないと不味いね」
「人ごとだと思って気楽に構えないでよ……てか、これどうやって体に戻るんだろ」
「あの雑誌には書いてなかったの?」
「書いてなかったのよ……取りあえず頭突っ込めば良いのかな」
 闇の中に静かに横たわるミクの体は、一見すると本物の死体のようだった。しかし私が近付いてみた感じ、息は細いながら確かにあって、胸の下では心臓がとくん、とくんとリズムを刻んでいた。
 ミクの体に触れながら、私は少しだけよこしまなことを考えてしまう。
 ミクが体に戻る前に、この体に入ったらどうなるのだろうか。ミクの体を得て、私が生き返ることになるのだろうか。今は言葉を交わすことも出来ない、サトルや、パパ、ママとまた会うことが出来るのだろうか。
 ただ、そう考えただけで、実際にはミクが体に戻るのを眺めていただけだった。
 ミクが幽体を肉体にふれさせると、幽体はゆっくりと肉体へ吸い込まれていった。
 幽体が消えてしばらくすると、ミクの肉体はゆっくりと眼を開けた。
 ぼんやりとした顔のまま、起き上がったミクは夢でも見ているような顔で周りを見回した。
 次に手を曲げ伸ばしして、おもむろに床を触った。床の感触を確かめるように、そこが通り抜けられないことを惜しむように。
「どんな感じよ?」
「うーん……体って、重いんだなって感じ」
「ふーん」
「幽霊の体って、不思議で、面白かったなあ」
 そのミクの言葉には答えず「それより親から連絡は?」と言う。スカートのポケットからスマホを取り出したミクはロックを解除すると「げ」とまた呟いた。
「着信二十件、ライン十件……」
「早く返信した方が良いよ。多分、あんなことがあった後だからかなり心配してるだろうし、もしかしたら警察に届けてるかもしれないし」
「それ分かってるなら踊ってる時に言ってよもー」
 そう言いつつ、ミクはラインへの返信を作り始めた。
 しかし、それほど経たない内に、ミクは指を止めてしまう。
「どしたの? 返信終わってないじゃない」
「いや……なんか疲れちゃった」
「良いから早く片付けた方が良いよ」
「それは分かってるんだけどね……」
 そしてミクは黙って暗闇を眺めていた。
「どうしたの」
 声をかけたがられているように見えるミクにそう言うと、彼女は「怒らないで聞いて欲しいんだけど」と前置きしてから話し始めた。
「なんだか、生きるのやっぱり嫌になってきちゃった」
 不意に平手打ちをされたような、そんな感じだった。
「ミク」
 驚きと、そしてどうしてか怒りがわずかに含まれた声が、口から出てくる。
「……ごめん、それでもやっぱり、疲れてきちゃったんだ」
「どうして?」
「色々、不安なんだ。今はなんとかなってるけど、これからまた同じようなトラブルに遭った時にどうなるのか分からないじゃない。私みたいな、人と交わるのが苦手で、おバカな女は、何かの拍子でまたイジめられるかもしれない。そうなった時にどうすれば良いのか、上手く乗り越えられるのか、怖いんだ」
 そんな苦しみや恐怖を味わうくらいなら、死んでお気楽な幽霊になった方が良い、ということだろうか。
 ミクの言葉に、私が返した言葉は自分でも驚くくらいに、悪意に満ちていた。
「ぜいたくな悩みだね」
 私の言葉が思いがけないものだったらしく、ミクは驚きに満ちた瞳を私に向けてきた。私のことだから、慰めの言葉をくれると思っていたのだろうか。小動物を思わせる哀れな瞳を見ながら、どうしてか、憎々しさが強まるのを私は感じていた。
「ミクが辛いのは分かる。でもさ、私がいくら生き返りたいか分かってる? 死んでから、お別れを言いたい人にも言えず、謝りたい人にも謝れず、ただ見ていることしか出来ないのが、どれだけ辛いか苦しいか、分からないでしょ? ミクの体がここに横たわってる時、この体に入れたらどれだけ良いだろう、って思ったわよ。弟やパパ、ママ、友達にようやく話せるって思ったわよ。だけどしなかった。これはあんたが生きていくための体だから。なのにあんたは――」
 言葉をつむぐごとに、自分の中で怒りがより増していくのを私は感じた。自分の感情のたかぶり様に、自分でも驚きながら、言いすぎだとも思いながら、それでも私は言葉をミクにぶつけた。
 私の話を聞いていたミクの瞳から、一つ涙がこぼれた。
「ごめんなさい、私そんなつもりで言ったんじゃないの」
 消え入りそうになりながら、ミクは確かにそう言った。
「本当にごめんなさい」
 ミクの涙にひるみながら、私は彼女から眼をそらした。
「知らない」
 ミクを見ることも、この場にこれ以上いることも限界だった私は、そう言い捨てて、図書準備室を出た。
「サヤカ……」
 そう言うミクは無視して、私は旧校舎の窓を抜けた。



 私は深い闇に包まれた街をさまよった。
 頭の中は色んな感情でぐちゃぐちゃになていた。
 思考も感情も滅裂になっていた私は、自分でも気づかない内にハセガワさんのお墓へ向かっていた。
 私がお墓に着いた時、ハセガワさんはぼんやりと墓石の上であぐらをかいていた。
「どうしたんだいサヤカちゃん」
 私を見てそう言ったハセガワさんの手には、例のごとくタバコがあったものの、火は点けられておらず、これから吸うという感じでもなかった。
「ハセガワさんこそ、今日はタバコはいいの?」
「ああ……今日はそんな気分じゃないんだ。それより、どうしたんだい?」
 そう微笑みながら言ったハセガワさんに、私は違和感を覚えた。ハセガワさんの顔には普段以上の穏やかさがあるように思えたのだった。
 つき物が落ちたような、と言うべきだろうか。そんなハセガワさんに居心地の悪さを感じながら、私は今日のミクとのことを話した。
 我ながら、まとまりの欠いた話をし終えると、ハセガワさんは墓に供えられたタバコの箱を取って、その中に持っていたタバコを仕舞った。そうしてから、ゆっくりとした口調で話し始める。
「サヤカちゃん、僕、近い内に成仏すると思うんだ」
 何の前置きもなしにそう言われて「え?」と思わずつぶやいた。
 私の話を聞いてどうしてそういう話をするのか、成仏するということはハセガワさんともう話せなくなってしまうということか。戸惑う私に、ハセガワさんは申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「ごめん、突然こんなこと言って、困らせちゃったみたいだね」
「え、いや……うんまあそうだけど、どうして成仏するって分かったの」
 そんな私の質問に、ハセガワさんはちょっとだけ恥ずかしそうに鼻の頭をかいた。
「今日、娘の結婚式だったんだ」
 ハセガワさんには今年で二十五歳になる娘さんがいたらしい。その娘さんの結婚式にこっそり行ってみたところ、本来ハセガワさんが座るはずだった新婦の親の席には、ハセガワさんの写真がちゃんとあったそうだ。
 ひいき目もあるかもしれないが、とても良い式だった、とハセガワさんは言った。
 新婦と新郎の友人やお世話になった人がたくさん来てくれて、とても温かい雰囲気の中で営まれた式だった。最後に、娘さんがハセガワさんへのメッセージを読んで、式に出席した人皆が泣いてくれて、ハセガワさん自身も泣いた。幽霊も泣くなんて初めて知ったよ、そうハセガワさんは言った。
「新郎は色白でひょろひょろした頼りない奴だったけど、娘のことは心底愛してるみたいだった。そんなこと思うと、力が抜けちゃってね……多分これが、成仏する感覚なんだと思う」
「良かったわね」
 そういう私の口調には棘が混じっていた。
 身勝手な考えだけれど、私が苦しい思いをしているのに、ハセガワさんだけが思い残すこともなく成仏するのが許せなかったんだと思う。
 そもそも成仏するというのは何なのだろう。死後に与えられたのが今の姿ならば、そこから成仏するとは一体どうなるのか。思考も感情も何もかも、全て消えるということなのか。そんなことを考えて、私は少し怖くなった。
「サヤカちゃんが大変な思いをしているのに、僕だけ楽になっちゃって、ごめんね」
「成仏するってどんな感じなの」
「分からない。おそらく、今の僕が綺麗に無くなるんだと思う。それこそ泡みたいに。でも、苦痛や不安は全くない。むしろとても穏やかで、楽な気分なんだ」
 だから、怖がらなくても大丈夫だよ、と私の心を見透かしたようなことをハセガワさんは言った。
「そして、今になって分かったことがあるのだけど、やはり僕達は僕達自身が作ったんだと思う」
「……どういう意味?」
「神か仏か、そんな存在が気まぐれで、僕やサヤカちゃんに幽霊の体を与えた訳ではないんだ。僕達は心残りがあって、幽霊という形でこの世に残った」
「でも、だったら――」
 どうして私は家族に姿が見えないのだろう。ハセガワさんは穏やかな、しかし確信に満ちた口調で続けた。
「会いたいと思う人に、僕達の姿が見えないのは、僕達の心残りがそうすることでは消えないからだと思う。僕は娘と妻を遺して死んだことに引け目があったし、娘の行く末が心残りだったから、彼女達に姿も見えなければ言葉も届かなかったんだと思う。おそらく、サヤカちゃんの心残りというものも、家族や友達と言葉を交わして解決するものではないと思う」
 ハセガワさんの言葉を聞いていると、私の混乱はより深まっていくようだった。
 というよりも認めたくなかったのかもしれない。私の姿が、ミクにだけ見えていたこと、家族に私の姿が見えなかったこと、その意味することを明確にするのが、ただ私は怖かった。
「サヤカちゃん、君は友達と、そのままで良いのかい」
 そう言って見つめてくるハセガワさんから逃げるように、私は目をそらした。



 ちょっと考える、とハセガワさんに言って、私は彼の墓を後にした。
「さようなら」
 別れ際にそう言ってきたハセガワさんを残して、私は夜の街を朝日が昇るまでさまよった。
 さまよいながら頭に浮かんで来たのは、断片的な思考とイメージばかりで、自分がこれからどうするべきか、示してくれるような考えは少しも浮かばなかった。
 ただ、いつもよりふわふわした感触を覚えながら、とある商店街を歩いていた時、太陽が私の目を刺した。
 夏の強烈な朝日に、思わず目をしばたたかせる。その時ふと、私はハセガワさんの墓へ行こうと思い立った。
 ハセガワさんのお墓には、誰もいなかった。お墓から離れて、街中、そしてあの学校の図書準備室にも行ってみたが、ハセガワさんの姿はどこにもなかった。
 どうしてか、敗北感のようなものを感じながら、私はハセガワさんの墓へと戻った。
 その墓石に、かつてハセガワさんがそうしていたようにあぐらをかき、墓地の全体を見回してみる。
 その時になって気付いたが、ついこの間に比べて、墓地にたむろする幽霊の数が驚くほど減っていた。
 墓地のそこかしこでたむろしていたはずの幽霊達が今では数える程になってしまっていた。
 ちょうど近くを、顔見知りのおばあさん幽霊が通りかかったので話を聞いてみると、お盆を過ぎると幽霊の多くが成仏してしまうのだそうだ。
 またさみしくなっちゃったねえ、と目を細めるおばあさんと私は少しおしゃべりをする。
 お孫さんが一人いて、その子の行く末が心配なんだと、おばあさんは話していた。



 私は何日間か、図書準備室へ行くことを止めた。
 ハセガワさんがいなくなったこと、ハセガワさんが最後に言い残してくれたことの整理がつかなかったからだ。
 いなくなってから初めて気付いたのだが、私はハセガワさんに頼りきりだった。
 自分の中で整理のつかないこと、疑問に思ったことを、私はハセガワさんに話すことで解消していた。
 そんな私の一方的な話に、皮肉は言っていたものの、付き合ってくれたハセガワさんの存在は、思っていた以上に私の中で大きかった。
 その喪失感と、ハセガワさんに頼らずに、自分の中に鎮座するこの問題をどうにかしなければならないという考えに、私は押しつぶされるような思いを抱いていた。
 ミクと、どう向き合うべきか。
 私自身も彼女の言葉で傷付けられたとはいえ、私の方も、彼女を間違いなく傷つけた。そして、彼女は私に謝ったというのに、私の方は彼女を傷つけたままだった。
 あんなことがあっても、私は彼女のことを友達だと間違いなく思っていた。
 感情に任せて、辛い想いをしている彼女を傷つけてしまったことを謝りたかった。
 何を、どう話すにしろ、やはりミクと会おう。二日ほど、ハセガワさんの墓の上で悩んだあと、私はそう決めた。



 こっそりと、図書準備室に顔を出すと、ミクはそこで本を読んでいた。
 私がついこの間まで読んでいたその本を、ミクは眺めている、という感じだった。その顔はこの前見たときよりもやつれ、目には重い疲労が浮かんでいた。
 気もそぞろにただ文面を流し読んでいる様子のミクに、あらためて申し訳なさを感じながら、私はその向かい側の席に腰かけた。
 ミクは私に気付いた様子もなかった。どう声をかけようか迷っていると、不意に顔を上げたミクと目が合う。
「それ、結構面白いでしょ」
 そう私が言うと、ミクの目に見る見るうちに涙がたまっていった。
 本から手を離し、ミクは両手で顔を覆う。
「……泣かないでよ」
「もう、会えないかと思ってた」
 手のひらに遮られ、くぐもった声でそう言ったミクに、私は「ごめんなさい」と言った。
「ミクに酷いこと、言っちゃった。辛い想いをしてるのに、さらに傷つけるようなこと言って、本当にごめんなさい」
「サヤカは謝る必要なんてないよ。私の方が、全然サヤカのこと考えずに、あんなことを言って……ごめんなさい」
「……そんなこと、ないよ」
 目の前で泣き続けるミクに、私は自然と微笑が浮かんでくるのを感じた。
 そして、本当に自然と、思いもよらなかったセリフが口をついて出た。
「ねえ、ミク」
 先ほどと違う、私の口調に何かを感じたのか、ミクが泣きはらした顔を上げる。
「私が死んだ理由、今まで話してこなかったよね」
 やはり止めよう。頭の片隅でそんな声がするが、言葉を止めることはもう出来なかった。
「私、自殺したんだ」

 自分で言うのも何だけれど、幼稚園生の頃からずっと、私はクラスの中心にいた。勉強もそこそこ出来て、話も得意。性格もまあ明るい方だったので、自然と周りには人が集まってくれた。明るくて面白い女友達に、調子の良い男子に囲まれて、思い返してみると、私は良い気になっていたんだと思う。
 世界が私を中心に回っている、そんな錯覚すら抱いていたのかもしれない。
 高校二年生の時、同じクラスになった子で、一人もの凄く地味な子がいた。
 厚い眼鏡をかけて、髪はボサボサ。常に猫背で、話しかけるとそんなに難しい話でもないのに甲高い声で聴きとれないくらいの早口でまくしたてる、もの凄く不器用な子だった。
 今までいたクラスにも、そういう子は必ず一人はいた。その時の私は、今までそうだったように、その子をからかうことにした。
 クラスの中で孤立――というか自ら一人でいることを選んでいた彼女を無理矢理私のグループとつるむように促し、一緒に遊ぶと言って色々なからかいをした。
 彼女のボサボサの髪の中に、折り紙が何個入るのか試したり、大人のおもちゃ屋さんでやらしいアイテムを買ってこさせたり、なんてこともした。
 彼女をいじめているとか、彼女の気持ちを踏みにじっているという感覚は、全くなかった。
 むしろ、おどおどしている彼女に楽しい思いをさせている、くらいに考えていたかもしれない。実際、私やグループの子がからかうと、彼女はにや、と引きつった笑みを浮かべていた。
 彼女が校舎から身を投げる前に、前兆のようなものは感じなかった。
 いつものように彼女をいじった後の昼休み、彼女の姿が見えないと思っていたら、教師達が騒ぎ始めていた。
 幸い、彼女は命を落とすことはなかったものの、両足を骨折する大ケガを負った。
 投身自殺を試みた原因を聞かれた彼女は、私達からいじめられていたと話し、学校はひっくり返したような大騒ぎになった。
 他の生徒や私達への聞き取りで、いじめがあったことが認定されると、私を始めとしたグループの皆に処分がされ、彼女は転校することになった。事件はマスコミにも知れ、私の実名が公表されることはなかったものの、記者たちはひどくしつこく付きまとった。
 あの地味な彼女には、最初、苛立ちや憤りを感じていた。私が構ってあげたのに、余計なことをしやがって、そんな風に考えていたと思う。
 私に下されていた停学の処分が明けたら、友達とそのことを思いっきりしゃべろうと思っていた。
 しかし、再び通い始めた学校に、私の居場所はなくなっていた。
 皆をけしかけてクラスメイトをいじめたクソ女、学校をマスコミ沙汰に巻き込んだ張本人。私はクラスの人気者から、そんな存在になっていた。今まで友達だと思っていた子からは避けられ、教師からも冷たい目を向けられるようになり、見ず知らずの生徒からは嫌がらせを受けるようになった。
 その影響は家族にも及び、弟は学校でいじめられるようになり、両親も近所の人や、どこかから話を聞きつけた野次馬に、誹謗中傷を受けるようになった。
 最後には、もともと住んでいた家にいられなくなった私達一家は、別のところに引っ越すことになった。
 パパやママ、そして弟のサトルも決して口にはしなかったけど、そうなったのは全て、私のせいだった。若干、人より話したりするのが得意だっただけで、調子に乗った私が、あの子を傷つけなければ、家族や友人、そして私のいじめた彼女が傷つくことはなかった。
 私があんなことをしたから、私に人を思いやる心がなかったから、こんなことになってしまった。
 全て私のせいで、私が消えてしまえば全て丸く収まるんじゃないか。
 そうして私は、引っ越しのための段ボール箱の詰まった自室で首をくくった。

 話している間、ミクの顔を見るのが怖くて、私はずっと本棚の方を見ていた。
「でも私が死んだところで、何も変わらなかった。パパとママを一層悲しませることになったし、弟にも余計なことを考えさせたし、葬式に来てくれた友達の顔を見ると、あの子達にもやるせない想いをさせたみたいだし。……結局、私は自分が楽になりたかったんだと思う。罪を背負いながら生きる辛さ、そういうものから、逃げたかったんだと思う」
 そこまで話したところで、ようやく私はミクの方を見ることが出来た。
 彼女の目から涙は消え、ただ私をじっと見ていた。戸惑いが濃く浮かんだその顔に、どこか私を気遣うような様子が見えたのは、私の希望的な観測だろうか。
「私があなたの前に姿を見せることが出来たのは、罪滅ぼしというところもあったんだと思う。誰かを助けることで、自分の罪を減らしたい。だからあなたの前に姿が見せられた……多分そうだったんだろうけど、今は違う」
 一つ息を吸ってから、私は言葉を続けた。
「罪滅ぼしとか、そんなものは関係なく、私はあなたに生きていてほしい。私みたいに、色んなことを思い残して、さまよう幽霊になってほしくない。辛いこと、苦しいことがあっても、あなたには生きていて欲しいの。友達として、そう思うの」
 そう私が言い終えると、ミクは困ったように視線を泳がせた。
 色々な情報を一気に詰め込まれて、戸惑っているのかもしれない。私が彼女をいじめた人間と同じ側に立っていたと知って、ショックを受けているのかもしれない。
「うんと……えっと……」
 そんなことを呟きながら本棚を見たり、天井を見たりしていたミクの目から、不意に、涙がこぼれた。
「ミク――」
「違うの、これ違うの」
 そう言ってごしごしとミクは目をこする。
「悲しいとか、辛いとかじゃなくて、嬉しかったの。サヤカが私のことをそんなに想ってくれたのが、私をこんなに想ってくれる友達がいるのが、嬉しかったんだ」
 そう言って、ミクはボロボロと泣き続ける。
「待って」
 そんなミクの言葉が信じられなくて、思わず私はそう言ってしまう。
「私、クラスメイトをいじめるようなしょうもない奴だよ? 自分から死んどいてそれを悔やんでさまよってるような、情けない幽霊だよ。そんな奴に、そう言われて、嬉しいの?」
 そんな私の言葉に、涙で顔をぬらしたまま、ミクは少しだけ恥ずかしそうに笑う。
「ミク、あんた趣味悪いよ」
「でも、サヤカは良い人だよ。面白いし、優しいし。昔、色々あったとしても、それは間違いないよ」
「……本当に、趣味が悪い」
 そう言いながら、私は体を震わせて泣いた。おえつをもらしながら、情けなく涙を流しながら。
 ミクにそう言ってもらえたのが、たまらなく嬉しかったのだ。
 私の涙は床に落ちることもなく、空中を落ちる途中で消えてしまう。現実世界から一度は消えた幽霊の涙は、霞よりもおぼろなものだった。
 本来、現実にはないその涙は、どうしようもなく熱かった。

「今日はこれで失礼するわ」
「久しぶりに会ったんだから、しゃべろうよ」
 そう言うミクの額に、私はチョップをかます。
「あんだけ泣いた後に何話せばいいのよ」
 それでもなお、何か言いたげなミクに構わず、私は彼女に背を向ける。
「また明日ね」
「うん……それはそうと、あんたちゃんと生身の友達も作りなさいよ」
「どういう意味?」
「別に今すぐ成仏する訳じゃないけどさ、いずれ私もこの世から消える……さっきミクと話してて、何だか心のつっかえが取れた気がするしね。私がいなくても大丈夫なように、ちゃんと生きてる友達も作りなさいってことよ」
「だったら私、ずっと頼りないままで良いもん」
「……あんたね」
 これがのび太なら、ドラえもんのために強くなる、とか言うところなのにな、と私は思わずこめかみを押さえた。
「まだまだサヤカとお話したいんだから、本当に消えちゃダメだからね」
「はいはい分かりました。分かりましたから、今日は帰ります」
 図書準備室の窓から私が外へ出る時も、「ちゃんとまた来るんだからね」と言うミクを残し、私は外へ出た。
 真夏の太陽は容赦なく降り注いでくる。
 その強烈な光さえも、今の私には心地よく感じられた。
 私が傷つけてしまった彼女、家族、そして友達に姿を見せて、心から謝ることが、今なら出来る気がした。
赤城

2019年08月11日 21時23分21秒 公開
■この作品の著作権は 赤城 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆テーマ:
・太陽:○
・恐怖:○
・音楽:○
・はじめての夏:○
◆キャッチコピー:
アレになって初めての夏。私に奇妙な友達が出来た。
◆作者コメント:
間に合った…。
今回は今までと違った書き方で作った作品ですので、上手くいってくれなかったらどうしよう、と心配になりながらの投稿です。
運営様、いつも企画ありがとうございます。

2019年09月01日 19時12分34秒
作者レス
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合計 7人 120点

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