氷柱花

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序.

 勿論「そこに山があるから」なんて、使い古された台詞を聞きたかったわけではなかった。
 普段の梅屋敷《うめやしき》先輩なら、そんなふうに答えてはぐらかすことも充分に考えられたわけだが、しかし、いかに寡黙な先輩でもここに至ってまで本音を隠すこともなかろうという思惑が逸見《いつみ》にはあった。
 先輩が、いかな思いで『北壁』に挑んだのかを聞きたかった。
 聞いておきたかった。
 今まで誰も制覇したことのないこの北東ルートへ、学生のころから寡黙で沈着冷静が信条の梅屋敷が、無理を押してまでもなぜに挑んだのかを、逸見はこの土壇場で確認したかったのだ。

「あの写真ですか?」

 言い淀む先輩に逸見が水を向けると、案の定、梅屋敷は「ああ」と頷いた。
 前人未踏の『北壁』北東ルートに挑み、あともう少しというところで悪天候に阻まれて、登頂を断念したスイスの登山隊《パーティー》が撮った写真。
 今にして思えば、現時点で北東ルートの最も高い場所から撮ったその写真を目にしたときから、梅屋敷先輩は今回の登頂計画を積極的に推し進めた。無謀とも強引とも思えるほどに。
 眼下に広がる森と湖、その向こうに田園風景とその中を走る登山列車が小さく見える。確かにその写真は絵画的で美しくはあったが、それだけが梅屋敷先輩をして『北壁』へと駆り立てたとは、学生時代から二十年来の付き合いで梅屋敷のことをよく知る逸見には到底思えなかった。

「ここまで来て隠すことないじゃないですか」

 逸見達のパーティーは今まで順調に北東ルートを進んで来たのだが、ここに来て猛烈な吹雪に見舞われてしまった。テントを一歩でも出れば、そこは視界ゼロの真っ白な世界。頂上まで目と鼻の先というところまで来て、もう三日も足止めを喰らっている。
 残りの物資を考えると、明日天候が回復しなければ、引き返すしかない。
 いや、それ以上に長引けば無事に下山出来るかも危うい。
 奇しくも、あの写真を撮ったスイスの登山隊が引き返したのと同じ場所だった。

「それだけじゃないんでしょ?」

 逸見が再び水を向けると、ようやく梅屋敷先輩は話し始めた。

「逸見君、僕はね、ずっとあの風景を探していたんだよ。山を始めたのもいつかあの写真の風景の場所に行くためなんだ」
「ずっと――ですか?」
「ああ、ずっとだ」

 梅屋敷は、逸見の顔を見てゆっくりと頷いた。

「子供のときから、ずっとね」

 そして、にわかには信じ難い話を逸見に語り始めた。



一.

 僕の両親は共働きで、朝は早いし帰りもいつも遅かった。それで、小さい頃に面倒を見てくれたのは、十歳違いの姉、透子《とおこ》お姉ちゃんだった。
 物心ついたときには、僕の側にはいつもお姉ちゃんがいた。僕の手をいつも透子お姉ちゃんが握ってくれていた。
 夕方まで遊んで、遊び疲れて家に帰ると、「お帰り」と言って笑顔で出迎えてくれるのはお姉ちゃんだった。それからお姉ちゃんが用意してくれた夕飯を二人で食べた。
 寝るのも、起きるのも、お風呂に入るのも、いつもお姉ちゃんと一緒だった。
 そんなわけで、幼かった僕は母よりも透子お姉ちゃんのことを慕っていた。

 僕が小学校二年生のある冬の日のことだった。
 その日の朝、出がけにお姉ちゃんが言った。

「博人《ひろと》、お姉ちゃん今日帰るの遅くなるから。おとなしく家で待ってるのよ」
「えー、算数の宿題お姉ちゃんに見てもらおうと思ったのに」
「晩ごはん食べたら見てあげるから」
「はーい」

 言い聞かせる透子お姉ちゃんに、僕はおざなりに返事をした。

「学校から帰ったら手を洗って、おやつを食べて、遊びに行くのは宿題を済ませてからだからね」
「算数の宿題見てくれるんじゃないの?」
「自分でやって、わからないところがあったら見てあげる」
「ちぇーっ」
「ほら、そんな顔しないの。遊びに行ったら暗くなる前に家に帰るのよ」
「子供扱いしないでよ。もう二年生だもん、そんなのわかってるってば」
「まだ二年生でしょ。まだまだ子供なんだから。ちゃんとお姉ちゃんの言うこと聞きなさい」
「なんだよ、お姉ちゃんだって、まだ子供の――」

 僕の抗議の声は、しかし、お姉ちゃんにぎゅっと抱きしめられて止まってしまった。

「博人になんかあったら……、お姉ちゃんどうにかなっちゃうよ」

 一年生のとき、クラスの子が交通事故にあって病院に担ぎ込まれたことがあった。
 それがなんの間違いか、僕が事故にあったことになって透子お姉ちゃんに連絡が行ってしまった。間違った連絡を受けて駆け付けたお姉ちゃんの取り乱しようと言ったらなかった。
 僕が無事だと知るや、お姉ちゃんは僕のことを抱きしめて、人目も憚らず声を上げて泣いた。
 そのとき、僕は透子お姉ちゃんには二度と心配はかけまいと思ったのだった。

「お姉ちゃん――」

 抱きしめる透子お姉ちゃんは柔らかくて、温かくて、いい匂いがして、いつまでも抱きしめていて欲しかったけど、でも、照れくさくて。

「わかったよ、お姉ちゃん。学校に遅れちゃうよ!」
「ごめん、ごめん。博人になんかあったらなんて、そんなことあるはずないよね」
「そうだよ、お姉ちゃん心配性なんだよ」
「わかったから、博人。いってらっしゃい。車に気をつけるのよ!」
「うん! いってきまーす!」

 今、思うと、お姉ちゃんは僕を家でひとりにするのが余程に心配だったんだろう。当時高校生だった透子お姉ちゃんは、部活動にも入らず、学校帰りに友達と寄り道することもせず、まっすぐに家に帰っていた。
 僕のために。
 幼かった僕は、それが当たり前だと思っていた。
 僕にとって、それが当たり前で普通のことだった。
 でも、それが当たり前でなくなっていた。
 この数日というものお姉ちゃんが帰って来るのが遅くなっていたのだ。
 冬になって日が短くなっていたとは言え、とっぷりと日が暮れて真っ暗になってから帰って来る日が続いた。その度に透子お姉ちゃんは「ごめんごめん。晩御飯すぐに作るから」と言って台所に引っ込むのだった。
 僕はそれが不満だった。
 お姉ちゃんの帰りが遅くて、夕飯が待ちきれなかったわけじゃない。
 勿論、それもあったけど、それだけが理由じゃない。
 帰りが遅くなってからというもの、お姉ちゃんは日に日に女らしくなっていった。日に日に綺麗になっていった。
 幼い僕には、透子お姉ちゃんのその変化が受け入れられなかった。
 お姉ちゃんが遠くに行ってしまうようで怖かった。
 それが恋する乙女の変化であると思い知ったのは、その日の夜のことだった。



二.

 その日の帰り道をちょっと遠回りしたのは、透子お姉ちゃんの帰りが遅くなることに拗ねていたからかも知れない。
 僕は商店街が続く道から一本裏道へと入って行った。
 たった一本道を違えただけなのに、そこは見知らぬ世界だった。
 いつものコンビニもコーヒーショップもドーナツ屋さんもそこには無く、知らない果物屋さんや雑貨屋さんや喫茶店があった。
 どれもテレビのコマーシャルでは見たことのないお店が、シャッターの下りた店舗を挟んで、ぽつぽつとまばらに並んでいた。
 その中の一軒の店の前で、僕は立ち止まった。
 その店のショーウィンドウには、花が飾られていた。
 美しく咲いた赤紫色の朝顔の花だった。
 季節は晩秋をとうに過ぎ、冬になっていた。それに、時刻もお昼をとうに過ぎている。だというのに、朝顔の花は今が盛りとでも言いたげに誇らしげに咲いていた。
 勿論、真夏の早朝に花をつける朝顔がこんな時期に咲くなんてあり得ない。そんなことは、一年生のときに学校の授業で習ったことだ。僕だって知っていた。
 その朝顔は、氷の中で咲いていた。
 分厚くて、しかし、透明な氷の中で、赤紫色の花を大きく開いていた。
 生き生きと、美しく、誇らしげに。
 僕にはそれが衝撃的だった。
 一年生のときに育てた朝顔は、昼前にはもうしおれていた。
 それなのに、ショーウィンドウの中に飾られた氷の中の朝顔は、たった今花開いたように見えた。
 美しかった。
 氷の中の朝顔は、美しかった。
 怖いくらいに。
 いったいなんのお店だろうと古ぼけた看板を見ると、字がかすれて殆んど読めず、それでもわずかに『氷』の文字が見て取れた。
 どうやら氷を売っているお店らしい。
 氷なんか売っても買う人がいるんだろうかなんて思いつつ、僕はお店のショーウィンドウに目を戻した。
 美しい氷漬けの朝顔へと。
 僕がショーウィンドウの朝顔に見惚れていると、

「その『氷柱花』が気に入ったのか?」

 後ろから声がした。
 振り向くと、高校の制服を着たお兄さんがいた。
 男の人をこんな風に言うのは変だと思ったけど、でも、そのお兄さんを見たときの僕の第一印象は、『綺麗な人』だった。
 細面の顔、すっと伸びた鼻筋、幾分薄めの形のよい唇。
 凛々しい眉へかかる程に伸ばした前髪も似合っていて、しかし、その真っ黒な瞳だけが恐ろしかった。
 お兄さんの瞳は、まるで、地獄へと続く穴《アビス》みたいに底が知れなかった。

「『氷柱花』って……なんですか?」

 僕は恐る恐るお兄さんに聞いてみた。

「君が見ているその氷漬けの花が『氷柱花』さ」

 お兄さんはにこりともせず、底の知れない真っ黒な瞳で僕を見つめた。
 その瞳が怖くて膝が震えたけれど、それよりも『氷柱花』についての興味が勝った。

「なんで夏の朝にしか咲かない朝顔がしおれてないの?」
「君は何も知らないんだな」

 お兄さんは、その美しい顔になんの感情も表さず僕を見つめた。
 僕はお兄さんが怖くてその場から逃げだしたかったけれど、足がすくんだせいか、或いは他の理由があったのか、その場から動けないでいた。

「しおれないうちに凍らせて、氷の中に閉じ込めるからさ」
「氷に閉じ込めるとしおれないの?」
「そうとも」
「いつまで?」

 すると、お兄さんの瞳が揺らいだ。

「永遠にだよ」

 底の知れない真っ黒の瞳が、愉しそうに揺らいだのだ。

「君は、シベリアの氷河の中で氷漬けのマンモスが見つかったのを知っているかい?」

 僕はその話を知らなかったので、正直に知らないと答えた。すると、お兄さんは瞳の奥から僕の全てを見透かすかのように見つめて教えてくれた。

「シベリアの氷河の中で、凍ったマンモスの死体が見つかった。何万年も前に死んだというのに、その死体は腐りもせず、死んだそのときのままの姿だった」
「何万年も前に死んだのに?」
「そうとも」

 お兄さんの真っ黒な瞳が愉しそうに揺らいだ。

「この朝顔も同じだ。氷の中に閉じ込められている限り、咲き続けるんだ。この美しい姿のままで、永遠に」

 お兄さんの瞳はゾッとするぐらい気味が悪かったけど、僕はもう一度聞いてみた。

「この花はいつから咲いているの?」

 すると、また、お兄さんの真っ黒な瞳の奥が揺らいだ。

「ずっと前からさ。君が生まれるよりもずっと」
「そんな前から?」
「そう。そんな前から」

 無表情なのに、お兄さんが愉しそうなのが、瞳の奥が揺らいだだけでわかった。

「この朝顔は、永遠に美しいままなんだ。ずっと、永遠に」
「永遠に――」
「素敵だろう?」
「う、うん」

 僕はひとつお兄さんに頷くと、またショーウィンドウの中へと目を移した。
 冷たい氷の中で咲く青紫色の花は美しかった。
 時の経つのも忘れて、僕は時の止まった朝顔に見入った。



三.

 気がつくと、夕暮れ時を過ぎて辺りは暗くなっていた。
 あのお兄さんはいつの間にかいなくなっていた。
 暗くなる前に家にいるように言われていたのに、学校から一旦家にも帰らず、おやつも食べず、宿題もせずに、朝顔の氷柱花に見入ってしまっていた。
 氷柱花に魅入られてしまっていた。
 まだまだショーウィンドウにへばりついて眺めていたかったけれど、そんなことをしていられる時間じゃない。透子お姉ちゃんが帰って来るまでに家に居なきゃ、大目玉を喰らう。
 僕は後ろ髪引かれる思いを残しつつ、そのうちまたここに来ようと誓って急いで家路についた。
 商店街を抜け、住宅街を我が家へと向かう。
 薄暗い街灯が照らす道は、いつも歩く昼間の道とは別物で、暗がりに何かが潜んでいるような気がした。
 それでも僕は懸命に家路を急いだ。
 それは、僕に勇気があったからではなく、ただただ、透子お姉ちゃんに心配をかけたくないという思いからだけだった。
 もし、お姉ちゃんが帰ったとき家に僕が居なかったら、お姉ちゃんはまた泣くかも知れない。
 僕は二度と透子お姉ちゃんを泣かせたくなかった。
 暗くなった道を、街灯が薄暗く照らしていた。
 透子お姉ちゃんよりも早く帰りたかった僕は、いつも学校から帰るときの道ではなく、近道をすることにした。
 それは、公園を突っ切る道だった。
 街灯がまばらで、いつも通る道よりも薄暗かったけれど、そんなのは関係なかった。
 公園の中に入り、薄暗い道を早足で進んでいると、暗がりの中に人影があった。

「お姉ちゃん?」

 見間違いじゃない。
 見間違えるはずがない。
 公園の中の仄かな街灯の灯りに照らし出された人影は、紛れもなく透子お姉ちゃんで。
 そして――
 お姉ちゃんは、一人じゃなかった。

「あの人は、さっきの――」

 透子お姉ちゃんは、『綺麗な人』と一緒にいた。
 さっき、氷柱花のことを教えてくれた綺麗なお兄さんと一緒に。
 なぜ、あのお兄さんが透子お姉ちゃんと一緒にいるんだろ?
 こんなところで、二人は何をしているんだろ?
 二人は知り合いなの?
 なぜ、なぜ、なぜ――
 様々な疑問が僕の頭ぐるぐると駆け巡り、視線は二人に釘付けになったまま、僕はその場から動けなくなった。
 そして、ふと、あることに思い当たった。
 この頃お姉ちゃんの帰りが遅くなるのは、ひょっとして、あのお兄さんのせいではないだろうか。
 あの綺麗なお兄さんとこうやって逢っているから、遅くなっているのではないだろうか。
 そう思うと、居たたまれなかった。
 居たたまれず、居ても立ってもいられず、勇気を振り絞って声を掛けようとしたとき、お兄さんが僕の方を見た。
 底の知れない真っ黒な瞳で、僕のことを。
 それで、僕は足が竦んで動けなくなった。
 お兄さんの瞳が、愉しそうに揺らいだ。
 それからお兄さんは、透子お姉ちゃんを抱き寄せた。
 まるで僕に見せつけるようにして。

「お姉ちゃん――」

 お姉ちゃんの顔は、熱に浮かされたように上気していた。
 薄ピンク色の唇は半開きで、潤んだ瞳はうっとりとお兄さんのことを見つめていた。
 それは今まで僕が見たことのない表情で、僕の知らないお姉ちゃんだった。
 お兄さんの手が透子お姉ちゃんの顎を持って自分の方へと向けさせる。
 綺麗なお兄さんの顔と、知らない表情のお姉ちゃんの顔が少しづつ近づいていく。
 そして、
 形のいいお兄さんの唇と、透子お姉ちゃんの唇が重なった。
 恍惚とした表情で唇に吸いつき、貪るように舌を絡めるお姉ちゃんは、女の顔をしていた。女の顔をして、淫靡でいやらしく、そして、美しかった。
 僕はその場から逃げた。
 お姉ちゃんじゃないお姉ちゃんを目の当たりにして、僕はその場から逃げ出した。
 走って、走って、走って、家に着くまで走り続けた。
 ばくばくと心臓が高鳴るのは、走りつめたからばかりではなかった。
 玄関でへたり込んで肩で息をしていると、下着の中であそこがピンとなって痛かった。
 それは、おしっこを我慢しているときとちょっと似ているけど、全然違う感覚だった。
 僕は、生まれて初めて自分が性的に興奮していることを知った。



四.

 家に帰ってから暫くすると、透子お姉ちゃんも帰って来た。

「遅くなってごめんね、博人。お腹空いたでしょ? すぐごはんにするから」

 お姉ちゃんは制服の上にエプロンをしていつもと同じように台所に立つと、数分も経たないうちに、スーパーで買った出来合いの総菜を温めただけの夕飯を食卓に並べた。

「今日は博人の好きなハンバーグにしたのよ。美味しいわよー」
「わーい!」

 僕は努めて明るく子供らしくはしゃいで、出来合いのハンバーグをほおばった。
 レンジでチンしたハンバーグは美味しかったけど、美味しくなかった。
 夕食を済ませたあと、僕はお姉ちゃんと二人でお風呂に入った。
 お姉ちゃんにシャンプーをしてもらい、身体も全部洗ってもらってから、僕はお返しにお姉ちゃんの背中を洗った。それが僕の仕事だった。
 透子お姉ちゃんの背中は、白くて細くてすべすべしていた。
 僕はスポンジにいっぱい石鹸をつけてあわあわにして、お姉ちゃんの背中を洗った。
 お姉ちゃんの柔らかな背中を傷つけないように、強すぎず、弱すぎず、丁度いい力加減で洗うのはコツがいる。毎日お姉ちゃんの背中を流している僕にしか出来ない技だった。

「あー、気持ちいい。博人は背中を流すのが上手ね。将来きっといいお婿さんになるわよ」

 お風呂で背中を流すのの上手下手がいいお婿さんの条件になるのかはわからなかったが、背中を洗ってあげるといつも、透子お姉ちゃんはそう言って僕のことを褒めそやした。
 身体を洗い終わると、僕とお姉ちゃんは二人で湯舟に浸かった。

「博人、ちゃーんと肩まで浸かってあったまるのよ」

 僕は「うん」と返事して、言われた通りに肩までお湯に浸かった。
 すると、

「なんか元気ないわね、博人」

 お姉ちゃんが聞いた。

「学校でなんかあった?」
「なんもない」
「友達と喧嘩でもした?」
「してない」
「ひょっとして、博人のくまさんのハンカチ、間違ってお姉ちゃんが使っちゃったの怒ってる?」
「違うけど、もう間違わないでよね」

 透子お姉ちゃんが、僕のお気にいりのハンカチを黙ってきどき使っているのは知っていた。その度に、お姉ちゃんは、間違ったと言い訳するけど、本当かどうかは怪しい。
 それで僕は、くまさんのハンカチにマジックで大きく自分の名前を書いておいた。これで間違ったなんて言い逃れは二度と出来ないだろう。
 けれど、僕の元気がないように見えるのなら、そんなことが理由じゃない。
 お姉ちゃんは何もわかっていない。
 僕のことを何も。

「透子お姉ちゃん」
「なに?」

 僕はお姉ちゃんに聞いてみた。

「好きな人いるの?」
「博人のことが大好きよ」
「そういうんじゃなくって!」
「どういうの?」
「その……す、好きな男の人……とか」

 いざとなると急に恥ずかしくなって口籠って、それでもなんとか聞いてみる。すると、透子お姉ちゃんはうふふと意味深に笑って、

「さーて、どうでしょう?」

 なんて、はぐらかした。

「いるかも知れないし、いないかも知れないよ」

 本当はいるくせに。ちゃんと知ってるんだから。あの綺麗なお兄さんのことが好きなくせに!
 そうやって透子お姉ちゃんに、はぐらかされて誤魔化されたことが、悔しくて、悲しくて、腹が立って、

「お姉ちゃん、ちゅーしたことある?」

 僕は余計なことを聞いた。
 するとお姉ちゃんは一瞬きょとんとして、それから頬を赤らめると、僕のおでこを人差し指でこずいた。

「なーに生意気言ってるの、このおませさん!」

 そう言ったお姉ちゃんの赤くなった顔が、公園で見た上気したお姉ちゃんの顔に重なった。
 薄暗がりの中で、お兄さんの唇を貪るように求める、透子お姉ちゃんの女の顔。
 淫靡で、いやらしくて、そして、美しい女の顔に。
 そこで僕は、僕の意志とは関係なく、あそこがピンとなるのを感じた。
 だから、

「博人、そろそろ出るわよ」

 お姉ちゃんにそう言われても、あそこがピンと勃っているのを透子お姉ちゃんに知られるのが嫌で恥ずかしくて、湯船から出るに出られなかった。

「お姉ちゃん。僕、あと百数えてから出るよ」
「あら、珍しいわね。そんなにお風呂好きだったっけ?」
「今日はもうちょっと入っていたい気分なの!」
「はいはい。じゃあ、お姉ちゃんは先に出てるから。あんまり浸かり過ぎてのぼせないようにね」
「そんなのわかってるよ! 百数えたら出るから!」
「はいはい」

 そう言うと透子お姉ちゃんは湯船から上がって、浴室と扉一枚隔てた脱衣所へと出て行った。
 僕は湯舟で必至になって数を数えて、あそこが鎮まるのを待った。
 ふと、あの綺麗な顔をしたお兄さんの顔が浮かんだ。
 地獄へと続く深い深い穴《アビス》のような真っ黒なお兄さんの瞳が、愉しそうに揺らいだ。
 途端に僕は不安になって、脱衣所のお姉ちゃんに声を掛けた。

「お姉ちゃん」
「なぁに、博人」
「どこにも行かないで」
「え?」

 曇りガラスのはまった浴室の扉に向かって、僕は叫んでいた。

「お願いだから、僕をおいてどこかに行ったりしないで!」
「おかしな子ね」

 悲痛な僕の訴えを、お姉ちゃんは曇りガラス越しに優しく否定した。

「博人をおいて、お姉ちゃんがどっかに行ったりするわけないじゃない」
「……うん」
「お姉ちゃんはどこにも行かないわよ」

 その言葉に、僕はほっと胸をなでおろした。
 湯船の中でピンとなっていたあそこも、ようやく収まって元通りになった。
 けれども――、
 どこにも行かないと言ったのに、お姉ちゃんのその言葉は嘘になった。
 翌日、今日も遅くなると言って出掛けたお姉ちゃんは、いくら待っても帰って来なかった。
 そして、その日から透子お姉ちゃんは二度と帰って来なかった。
 たったひとり、僕を残して。



五.

 透子お姉ちゃんが帰って来なくなってから一カ月というもの、お父さんもお母さんも方々に手を回してお姉ちゃんのことを探して回った。
 居なくなった翌日には警察にも届けたけど、あの日、学校を出てからお姉ちゃんがどこに行ったのか、ようとして知れなかった。
 お姉ちゃんはもう帰って来ないのかも知れない。その頃にはもう、お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんのことを半分諦めかけていた。
 でも、僕には確信があった。
 あのお兄さんだ。
 公園でお姉ちゃんと口づけしていた綺麗なお兄さんが、透子お姉ちゃんが居なくなったことに、関係しているに違いないんだ。
 何の根拠も証拠もあったわけではないけれど、僕は漠然と確信していた。
 小学校の帰り道、その日僕はあれ以来、初めて商店街の裏通りへと足を向けた。
 公園の暗がりで、透子お姉ちゃんが綺麗なお兄さんと口づけを交わしていたのを目撃したあの日以来、初めて。
 それが、なぜだったのかはわからない。
 その日まで、なぜ行かなかったのか。
 その日に、なぜ行ったのか。
 僕には皆目わからなかった。
 ただ、その日は、いつも通る商店街から一本外れた裏道へと足を向けたのだ。
 そこには、前に来た時と同じように、知らない果物屋さんや雑貨屋さんや喫茶店がシャッターの下りた店舗を挟んで、ぽつぽつとまばらに並んでいた。
 そして、あのお店があった。
 ショーウィンドウに朝顔の氷柱花が飾られたあのお店が。
 氷漬けの朝顔は、前と同じように瑞々しく、生き生きとして美しかった。
 怖いくらいに。
 僕は前にもそうしたように、氷柱花の朝顔に見惚れた。
 すると、

「その『氷柱花』が気に入ったのか?」

 前と同じように、後ろから声がした。
 僕が振り向くと、果たしてそこには高校の制服を着た、あの綺麗なお兄さんがいた。
 お兄さんは、まるで、地獄へと続く穴《アビス》のように底が知れない瞳で僕のことを見つめた。
 得体の知れない恐ろしさを感じて、僕は無言でうんと頷いていた。

「美しいだろ? その朝顔は美しいままなんだ。永遠に」

 真っ黒なお兄さんの瞳が愉しそうに揺らいだ。

「ねえ、君。永遠に美しいままだなんて、素敵だと思わないかい?」

 男の人なのに、お兄さんは目が離せないくらい綺麗で、でも、背筋がゾッとするぐらい怖くて、言葉を発するのが困難だったけど、

「お兄さん」

 僕は勇気を振り絞ってお兄さんに聞いた。

「お姉ちゃんはどこ?」

 すると、僕を見つめるお兄さんの瞳が、また愉しそうに揺らいだ。

「美しい朝顔は、しおれてはいけない。永遠に」

 お兄さんのことが怖かったけど、僕はもう一度聞いた。

「透子お姉ちゃんはどこ! 知ってるんでしょ!」

 食ってかかる僕を、お兄さんは無表情で見ていた。
 僕を見る真っ黒な瞳だけが、愉しそうに揺らいでいた。
 そのとき、ねずみ色の作業着を着たおじさんが背中からお兄さんにどんとぶつかった。
 余程に強くぶつかったのか、お兄さんはその場にくずおれるようにして倒れ込んだ。
 見ると、お兄さんの背中から、赤い血がどくどくと零れていた。お兄さんの血は瞬く間に地面に広がり、辺りを真っ赤に染めた。
 お兄さんにぶつかった作業服のおじさんの手には、血に染まった包丁が握られていた。
 僕のお父さんと同じか少し上くらいのおじさんだった。
 おじさんは、肩で息をしつつ、地面に転がって血を流すお兄さんを見下ろした。

「お前が! お前が娘を!」

 お兄さんに向かって、おじさんは涙ながらに叫んだ。

「娘を返せ! 娘を――俺の娘を!!!」

 そのときはわからなかったけれど、あとで僕はおじさんの言葉の意味を知ることになる。
 美しい朝顔は、一輪だけではなかったのだ。



六.

 それから後のことは、よく覚えていない。
 パトカーやら救急車やらのサイレンの音が聞こえて、お巡りさんが何人も来て、気がつくと僕は病院にいた。
 暫く病院に通って、眼鏡をかけたお医者さんと、お話をしたり、変な模様を見せられたり、絵を描かされたりしたけれど、特に問題ないからもう来なくてもいいよと言われた。
 刺されたお兄さんが死んだことは、病院に通っているときに、看護師さんから聞いた。
 お兄さんを刺したねずみ色の作業着を着たおじさんには高校生の娘さんがいて、透子お姉ちゃんと同じように、ある日突然姿を消してしまったという話だった。
 娘さんが居なくなる前に、あのお兄さんと一緒にいるのを見た人がいて、それで娘さんの手がかりを得るために、おじさんは何度もお兄さんに会ったんだけど、その度にお兄さんに邪件にされたらしい。
 いつしか、おじさんは、あのお兄さんが娘さんを隠したに違いないと思い込み、思い余ってお兄さんを刺してしまったのだ。
 ひょっとしたら僕自身も、おじさんと同じことをしていたかも知れない。
 それ程に、あのお兄さんは怪しかった。
 怪し過ぎた。
 でも、一時の激情に任せて殺してしまうなんて、なんて馬鹿なことをしてくれたんだろうと思う。
 唯一、透子お姉ちゃんの行方を知っているかも知れなかった、あのお兄さんを死なせてしまうなんて、八方ふさがりだった。
 そうしているうちに、お姉ちゃんが帰らぬまま年が明けた。
 透子お姉ちゃんのいない、僕とお父さんとお母さんだけの三人のお正月は淋しかった。
 冬休みが終わり三学期が始まって数日たったある日、僕は学校で熱を出した。
 お昼ごろまで保健室で寝ていたのだけれど、一向に熱が下がらないので、僕は早退することにした。
 家に誰かがいれば迎えに来てもらったのかも知れないけど、お父さんもお母さんも仕事だったし、透子お姉ちゃんもいないので、僕は一人で家に帰った。
 熱でぼうっとした頭で商店街をふらふらと歩いて帰るはずが、気がつくと僕は一本裏の道を歩いていた。
 知らない果物屋さんや雑貨屋さんや喫茶店がシャッターの下りた店舗を挟んで、ぽつぽつとまばらに並んでいる道を僕はふらふらと歩いた。
 そして、あの古ぼけた看板に『氷』という文字だけが微かに見えるあの店のところまで来たときだった。
 朝顔の氷柱花があるショーウィンドウの前に、見覚えのある人が立っていた。
 細面の顔に、すっと伸びた鼻筋。
 幾分薄めの形のよい唇。
 凛々しい眉へかかる程に伸ばした前髪が素敵に似合っている。
 高校の制服を身に纏ったその人は、真っ黒な瞳でショーウィンドウの中の氷柱花を見つめていた。
 そんなはずはないのだけれど、包丁で刺されて死んだと聞いたのだけれど、紛れもなくそれはあの綺麗なお兄さんだった。
 咄嗟に僕はお兄さんから見えないように物陰に隠れた。
 隠れてお兄さんの様子を窺った。
 熱で頭がぼうっとしていたせいか、僕は死んだはずのお兄さんがそこにいることを不思議に思わなかった。目の前でお兄さんが刺されて倒れたのを見たというのに。
 暫くの間、お兄さんはショーウィンドウの中の氷柱花を眺めた後、ゆっくりと歩き出した。
 僕は電柱の影や自動販売機の後ろに隠れながら、お兄さんの後をつけた。もっとも、歩いている間お兄さんは一度も振り返らなかったので、そんなことをしなくてもお兄さんに見つかることはなかったのかも知れない。そもそも、お兄さんにしてみれば僕のことなんか眼中になかったのかも知れない。
 本当のところはわからないけれど、僕は見つからずにお兄さんの後をつけて行くことができた。
 商店街を抜けて暫く行くと、左右に延びる高いブロック塀に突き当たった。只でさえ高くて僕なんかじゃ到底登れそうにないのに、ブロック塀の上には有刺鉄線があって大人でも乗り越えられないようになっていた。
 お兄さんは右に曲がってブロック塀に沿って歩いて行った。僕も距離を置いてお兄さんの後をついて左手にブロック塀を見ながら歩いて行った。
 そうやって暫く行くと、ブロック塀にトタン板が立てかけてあるところに出くわした。立てかけてあるトタン板をどけると、そこだけブロック塀が崩れていた。
 お兄さんは崩れたところからブロック塀の向こうへと入って行き、立てかけてあったトタン板を中から元通りに戻した。
 僕は少し時間を置いてから、トタン板のところへと近づいて行った。
 トタン板はただ立てかけてあるだけで、ブロック塀との間には子供なら通れるぐらいの隙間があった。
 ただ立てかけてあるだけとは言え、大きなトタン板をどかせるのは僕みたいな子供には難しかっただろう。トタン板を倒して大きな音を立てたら、流石に気がつかれてしまうに違いなかった。
 僕は背負っていたランドセルを降ろし、ブロック塀とトタン板の隙間へと身体を滑り込ませて、崩れたところから中へと入って行った。
 そこは、人気のない朽ちた廃工場だった。



七.

 ブロック塀の崩れたところを通り抜け、僕は辺りを見回した。
 朽ちた廃工場は、外壁に貼られたトタン板の塗料があちこちはげ落ちて錆が出ていた。窓ガラスも半分ぐらい割れていて、中には枠しか残っていない窓もあった。
 既に工場の建屋に入ったのだろう、お兄さんの姿は見えなかった。
 熱のせいか、軽いめまいがした。
 けれど僕は、そのときどうしてもお兄さんのあとをつけなければない気がした。
 お兄さんのあとをつければ、透子お姉ちゃんに辿り着ける気がしてならなかった。
 それも、熱のせいだったのかも知れない。
 すっかりガラスが割れ落ちて無くなった窓から、僕は恐る恐る廃工場の中を窺った。
 工場の中は学校の体育館ぐらい広かった。
 僕から見て奥の隅に何かの工作機械とスチール製の書類棚がひとつあるだけで、あとはがらんとした空間が広がっていた。
 明り取りの窓があるのか、単に天井が破れているのかは、僕が覗いている位置からは見えなかったけれど、だだっぴろい部屋の真ん中に陽が射しこんで、まるでスポットライトでも当たっているみたいにそこだけ明るかった。逆に他のところは薄暗く、真ん中だけが明るいせいで余計に見えづらかった。
 窓から目を凝らして見ると、お兄さんは奥の書類棚のところにいた。薄暗がりの中で、お兄さんが書類棚から何かを取り出すのが見えた。
 踵を返してお兄さんは部屋の真ん中へと向かい、丁度薄暗がりからスポットライトのように明るいところまで来て立ち止まった。天井から降り注ぐ光の中で、お兄さんの手に栄養ドリンクのビンような小さなビンが握られているのが見えた。
 お兄さんは小さなビンの栓を抜いて、中身を一気に飲み干した。
 いつも無表情なお兄さんの顔が苦痛を堪えるように歪んだ。
 それからお兄さんは、意味の分からない不思議な言葉を叫んだ。

「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 それは、僕の知らない外国の言葉だったのかも知れない。もしくは、最初から意味のないただの音律だったのかも知れない。
 そのどちらかなのか、或いはどちらでもないのかわからないけれど、そのときの僕は、ただただ怖かった。恐ろしかった。
 しかし、恐怖の異様はまだ終わってはいなかった。いや、むしろこれからが本番だった。
 お兄さんは制服の胸ポケットから呼子のような笛を取り出し、大きく息を吸って思いきりそれを吹いた。
 僕は咄嗟に耳を塞いだ。
 どんなに大きな音が鳴るだろうと思ったのに、笛は鳴らなかった。何も聞こえなかった。
 ただ、空気が震えた。
 空気が震え、廃工場の壁が、窓が、建屋全体がビリビリと震えた。
 僕は全身の肌が粟立つのを感じた。
 来る! 何かが来る! 得体の知れない何かが!
 理由はわからないが、直観的にそう感じた。
 次の瞬間――、
 お兄さんはスポットライトの中から消えていた。
 目を逸らしたわけじゃない。
 瞬きして見失ったわけじゃない。
 僕が見ている目の前で、そこから消えたのだ。
 心臓がばくばく鳴った。
 背筋を冷たい汗が流れたのは、熱があったせいじゃない。目の前で起きた超常現象が怖かったのだ。
 僕は逃げ出したかったけれど、なんとかその場に留まった。
 だって、あのお兄さんが普通じゃないってことは、最初に見たときから感じていたことじゃないか!
 ここで諦めてしまったら、二度と透子お姉ちゃんに会えない気がした。
 意を決し、邪魔なランドセルをその場に置いて、僕は窓から廃工場の中へと入って行った。
 だだっ広い部屋の中に入って最初に、お兄さんが消えた真ん中の明るいところまで行ってみる。そこに立って見上げると、高い天井にぽっかりと穴が空いていた。
 天井の穴から陽の光が射しこんでいて、そこだけ明るかったのだ。
 次に、奥の書類棚が置かれたところへ行ってみようとしたとき、つま先に何かが当たった。見ると、それはお兄さんが吹いたのと同じような笛だった。
 但し、笛はヒビが入っていて、役に立つのか分からなかった。
 僕は、ヒビの入った笛をズボンの右ポケットに入れて、部屋の奥へと進んで行った。
 薄暗い中、工作機械を横目に見つつ、更に奥にある書類棚の前まで歩みを進める。ようやく辿り着いたところで、僕は棚の扉を開けた。
 スチール製の書類棚の中は暗くてよく見えないものの、書類の束やファイルが詰まっているわけでなく、がらんとしていることだけはわかった。
 お兄さんはこの書棚から小さなビンを取り出していた。だとしたら、まだ中に同じものがあるかも知れない。
 僕は熱に浮かされた頭でそう考えると、勇気を出して書類棚の中に手を突っ込んで探った。果たして、僕の予想通り、書類棚の奥に小さなビンが三本あるのが手探りでわかった。
 僕はそのうちの一本を奥から取り出して、それも右ポケットの中にねじ込んだ。
 それから僕は、薄暗い中を足元に気をつけつつ、部屋の真ん中の明るいところへと立ち戻った。
 先ほどの小さなビンをポケットから取り出し、穴の空いた天井を通して射す陽の光の中でよく見てみる。ビンにラベルは無く、コルクで栓がしてあった。
 ビンのコルク栓を抜こうとしてみたけれど、熱っぽい手は汗をかいて滑り、お兄さんのように簡単には抜けなかった。
 僕はズボンの左ポケットからお気に入りのハンカチを取り出し、ビンに巻いて滑り止めにした。
 そうやって何度目かの挑戦のあと、ようやくコルクの栓が開いた。
 ビンの口に鼻を近づけて嗅いでみると、蜂蜜のような甘い匂いに混じってアルコール特有の刺激が鼻孔をついた。
 強い刺激に僕は顔をしかめた。
 そう言えば、お兄さんもビンの中身を飲み干したときに表情を歪めていた。ひょっとしたらお兄さんも、お酒の類は苦手なのかも知れないと漠然と思った。
 それから僕は、熱で半ばぼうっとした頭で、これからすべきことを復習した。
 お兄さんはビンの中身を飲み干し、呪文を唱えた。そのあと、笛を吹くと、何かが来て、お兄さんは消えた。
 何が来たのかはわからない。
 何が起きたのかもわからない。
 でも、あの超常現象が、透子お姉ちゃんが居なくなったことに関係している気がしてならなかった。
 ひょっとしたらお姉ちゃんも、何かが来て同じように消えたのかも知れない。
 熱で火照った背中に、冷たい汗がつーっと流れた。
 全身に感じる寒気を抑え、僕は意を決して小さなビンの中身を一気に飲み干した。
 甘い味が強いアルコールの刺激と共に口いっぱいに広がり、僕の喉を焼く。
 強い刺激にむせ込みそうになるのを堪え、僕はさっき聞いたばかりでうろ覚えの呪文を叫んだ。

「いあ! いあ! はすたあ! はすたあ くふあやく ぶるぐとむ ぶぐとらぐるん ぶるぐとむ あい! あい! はすたあ!」

 それから、ヒビの入った笛を思いっきり吹いた。
 壊れた笛は鳴らなかった。
 しかし、音が鳴らない代わりに空気が震えた。
 廃工場の壁が震え、窓が震え、建屋全体がビリビリと震えた。
 全身の肌が粟立ち、再び、得体の知れない何かが来たのを感じ、そして――
 僕は高い山の頂に立っていた。
 足下には雪が積もり、眼下には見知らぬ景色が広がっていた。
 それは、美しく絵画的な景色だった。
 近くに森があって湖があって、その向こうには田園風景が広がっていた。遠くに登山列車が走っているのが見えた。
 僕は息苦しさを感じ、外気に触れた肌が痛いほどに寒かった。
 見ると、雪の上にまだ新しい足跡が点々と続いていた。
 僕よりもずっと大きい大人の足跡だった
 恐らく、あのお兄さんに違いない。
 お兄さんの着けたと思われる足跡は、大きな岩の裂け目の中へと続いていた。
 僕は、お兄さんの足跡を追って、岩の裂け目へと入って行った。
 狭い入口を身体を屈めてくぐり、暫くの間そのままの姿勢で急な下り坂を奥へ奥へ、下へ下へと進んでいく。すると、左右上下から迫っていた岩壁が急に広くなって、裂け目が洞窟へと変貌した。
 更に下へと続く洞窟は、呆れるぐらいの広さがあった。
 今になって思えば、灯りもなく真っ暗な洞窟の中で、なぜこんなにも目が見えているのだろうと思うところだが、そのときの熱に浮かされた僕の頭ではそんな疑問が浮かぶ余地はなかった。
 そして、真っ暗闇で見えないはずの洞窟の中で、僕はこの世の物とは思えない美しい物を見た。
 それは、大人三人が両手を広げてようやく届くぐらいに大きな氷の柱だった。
 こんなに大きいのに、氷の柱は飽くまでも透明で、ガラスかクリスタルのように澄んでいて、氷漬けにした美しい中身がよく見えた。
 勿論、氷に閉じ込められた中身は、朝顔の花ではない。
 あのうらびれた商店街で見た朝顔の氷柱花も美しいとは思ったが、今、目の前にある氷の柱の美しさと言ったらその比ではなかった。
 その特大の『氷柱花』の中に閉じ込められた花とは、

「お姉ちゃん――」

 澄んだ氷の中に、行方知れずになった透子お姉ちゃんがいた。

「透子お姉ちゃん!」

 僕は思わずお姉ちゃんを呼んだ。しかし、氷の中の透子お姉ちゃんから返事があるはずはなかった。
 氷漬けになったお姉ちゃんは、一糸纏わぬ裸体だった。
 見ると、同じような氷の柱が周りに何本もあって、その中にやはり同じように裸の女の人が氷漬けになっていた。
 皆、透子お姉ちゃんと同じ年頃の少女だった。

「お姉ちゃん! 透子お姉ちゃん!」

 僕はお姉ちゃんが閉じ込められた氷の柱を叩いた。
 氷の柱は冷たくて硬くて、小学生の僕が叩いたぐらいではビクともしなかったけど、僕は叩かずにはいられなかった。

「お姉ちゃん! お姉ちゃん!」

 叩いて、叩いて、叩いて。
 そして――、

「困るなぁ、僕の芸術品をそんなに叩いちゃ」

 声のした方に振り替えると、あの綺麗なお兄さんが、僕のことを見下ろしていた。
 真っ黒な底の知れない穴《アビス》のような瞳で。



終.

「気がつくと、僕は自宅のベッドにいた。学校で熱を出して早退して、ひとりで家に帰った僕は、そのまま自分のベッドに潜り込んで眠ってしまってたんだ」
「じゃあ、あの廃工場での不思議な体験は、熱に浮かされて見た夢だったんですか?」

 今まで黙って聞き役に徹していた逸見が勢い込んで聞くと、梅屋敷先輩は「さあ、どうだろうね」と学生時代から逸見がよく知るところの先輩らしい曖昧な答えを返した。
 結局のところ、梅屋敷先輩は夢で見た風景を、『北壁』で撮られた写真の景色に重ねて強硬に登山計画を推し進めたのだろうか?
 頭の中で逸見がぐるぐると考えを巡らしていると、

「逸見君」

 梅屋敷が言った。

「僕はね、あの日、お気に入りのハンカチをなくしたんだよ」
「それが、どうかしたんですか?」
「ほら、君、おととい食事を作るのに雪を溶かしたとき、雪の下からハンカチを見つけたじゃないか」
「ありましたね」

 それはクマの絵柄のついたハンカチだった。
 例えば、生命の危機に瀕して、荷物を軽くするために持ち物を捨てて行くのは仕方がないことだろう。しかし、不要となったからと言って、その場に捨てていくのはマナー違反だ。
 なのに、この『北壁』のような一流の登山家しか登ることの許されない過酷な山でさえ、ゴミが打ち捨てられているのが実情なのだ。
 それにしても、子供が少女が持つようなクマのハンカチをむさくるしい山男が所持していたとは考えたくはないのだが。

「あのハンカチがどうしました?」
「あれ、僕のなんだ」
「え?」

 逸見が聞き返すと、梅屋敷先輩は答えた。

「あのハンカチ、僕が小学生のときになくしたお気に入りのハンカチなんだ」

 その言葉に逸見は、不要となった廃棄物を入れた袋の中を探り、件のハンカチを取り出した。
 クマのキャラクターが描かれたハンカチには、年月が経って掠れてはいたが、子供が書いたとおぼしき、マジックで書かれたひらがなが読めた。


 うめやしき ひろと


 紛れもない、梅屋敷先輩の名前だった。
 逸見は更に混乱した。
 すると、

「逸見君、僕はね」

 そこへ梅屋敷が続けた。

「今まで、何人かの女性と付き合って、いざそういう関係になるってところで、ダメなんだけど」

 突然のカミングアウトに困惑顔の逸見を尻目に、更に続ける。

「夢で見た、氷漬けのお姉ちゃんを思い出すときだけ、勃起するんだ」

 そこで、梅屋敷は大きく息を吐き出した。

「もう一度、透子お姉ちゃんに会いたいんだ」

 心の奥に秘めた思いを吐露した梅屋敷に逸見は聞いた。

「それが、『北壁』を目指した理由ですか?」
「悪いか?」

 即答した梅屋敷先輩に、逸見は困惑した。
 二人の間に、しばしの沈黙が流れた。
 その沈黙を破り、先に口を開いたのは梅屋敷だった。

「風、弱まってないか?」

 言われ見れば、外の風の音が幾分弱まっているような気がした。

「この分なら、明日には頂上にアタック出来そうだな」

 梅屋敷の言葉に、しかし、逸見は首を横に振った。

「いえ、天候が回復したら、下山しましょう」
「いや、でも、逸見君。頂上は目と鼻の先――」
「物資が足りません」

 逸見の言葉に、梅屋敷は視線を落としてひと言「そうだな」と答えた。



 次の日の朝、梅屋敷が言った通り、天候は回復した。
 しかし、梅屋敷は装備一式を持ってテントから居なくなっていた。
 功名心に駆られた梅屋敷が、充分な物資も持たず、無謀にも単独で頂上に向かったのだろう。皆がそう思った。
 しかし、後輩の逸見だけが、梅屋敷が功名心に駆られて無謀な単独登頂を強行したのではないということを知っていた。
 逸見宛に送られた最後の無線連絡で、梅屋敷先輩はひと言こう言った。

「透子お姉ちゃん」



 了
へろりん

2018年12月30日 23時57分16秒 公開
■この作品の著作権は へろりん さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆テーマ:冬の怪談
◆キャッチコピー:
美しい朝顔は、一輪だけではなかったのだ。
◆作者コメント:
半分あきらめていました。
なんとか間に合わせました。
なので、いろいろダメかも知れません。
よろしくお願いします。

2019年01月22日 11時32分57秒
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2019年01月14日 19時08分03秒
作者レス
2019年01月13日 23時37分59秒
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2019年01月13日 23時15分41秒
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2019年01月13日 23時08分27秒
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2019年01月13日 18時17分26秒
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2019年01月08日 21時34分20秒
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2019年01月04日 23時02分07秒
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2019年01月02日 17時39分34秒
+10点
2019年01月01日 21時54分11秒
+20点
2018年12月31日 06時36分33秒
+30点
合計 12人 210点

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