愛縛 |
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断ち切ったはずの依存が禁断症状となって私を襲った。 男を失い暗闇の底に横たわっていた孤独な塊は、身体中を鎖で縛られる錯覚に陥った。金縛りだ。 掛け布団が水を吸ったように重い。末端の感覚が無い。耳と脳の境界で虫の翅が擦れる音がする。まぶたは開いているはずなのに網膜が光を捕らえない。 抜けない癖に操られて右側を向いて寝ていることだけ、辛うじて認識できた。 霊感は無いためか奇怪な出来事は起こらなかった。 幾秒かの後に解放された私は、普段とは逆の肩を下にして深く布団に潜った。空っぽの隣を見たくなかった。 脳裏に蘇る男の顔は、つい半月前まで同棲していた相手だ。 芸能人やアイドルにこそ及ばないが、写真を見せた大概の人間からは羨望の言葉を投げつけられる程度には整った顔立ちをしていた。彼もそれを理解していた。口には出さないが自身に満ちた態度がそう語っていた。 高校時代から俳優になることを夢見ている。そんな戯言が口癖だった。事あるごとに同じ言葉を繰り返すことで自己暗示をしているようにも思えた。 人間が本当に好きなものに触れたときの輝きを纏って継ぎ接ぎの演劇論を語る彼を目にして、ずっと空っぽの女はいとも簡単に恋に落ちた。大学三回生の夏、友人に付き添った居酒屋での出来事だった。 寝返り数分後の私に再び不自由が訪れる。今度は全身が針山で圧し潰されるような鋭い痛みも伴って。 身体は眠りに落ちているのに脳だけが覚醒する。金縛りの原因は神経系の異常だと聞いた。混乱をきたした脳は辻褄合わせの世界を暗闇に映しあげる。 伸し掛かる夜に浮かぶのが幽霊の姿だったらどんなに楽なことか。冷えたままの思考の片隅でこれは夢だと呟くだけで済むのだから。私の四肢を鎖で縛り上げる影があの男の顔をしているからたちが悪い。 鎖は幾重にも巻きつけられて千切れない。鬱血した指先が痛覚と冷たさを訴えていた。凍り付いた血は循環を止め、心臓の放つ単調な脈動は血管の空洞に虚しく響く。 金縛りは終わらない。 男に出会う前の私は実に空虚な時間を送ってきた。誰かに必要とされたことなど一度たりとも無かった。 だから「愛してる」と囁かれたとき、「俺にはお前が必要なんだ」と演技じみた口調で唱えられたとき、愚かな女はその心臓に生きる意味を植え付けられた。その男を愛しその男に愛されることが至高なのだという生暖かい洗脳を、ただ一片の躊躇も無しに受け入れた。それを望んでいた。 交際を始めて多くを知った。 小劇場の狭さ。物好きな観客の存在。顔だけでは通用しない俳優の世界の厳しさ。 夢を追うことに執着して現実を歩む術を持たない男がいること。周りの人間は思い通りに操れると思っている男がいること。それが恋した相手ならば安々と手を差し伸べ、素直に従ってしまう女がいること。 私がそんな女だったこと。 私が就職した年の春に男は大学を中退した。六年間も居座った身分に未練はまるで無いようだった。学問よりも芝居に夢中な人だからと全だと言わんばかりに、女は彼が自らの家に住むことを快く許した。 役者としての男の収入は皆無と表して差し支えない額だった。私が支えてやらなければ男は野垂れ死ぬという確信があった。私の給料の半分以上が、私の時間のほぼすべてが彼のために費やされた。 知人たちからは卑劣な搾取だと非難された。別れるべきだと諭されることは茶飯事だった。女は大袈裟だと笑って聞き流した。 無邪気に夢を追う男の姿を眺めていたかったのだ。色彩鮮やかに輝く誰かのために私がいる。存在意義の快感に酔いしれたかった。誰からも求められた経験の無い灰色の人生を送っていた女にとっては、男に添い従えることが十分すぎる見返りだった。 息苦しさはあったがそれが堪らなく心地良かった。 鼓膜の奥側から骨を噛み砕く音が聞こえる。循環が滞っているせいだ。脳内に巣食い血液を啜っていた虫が痺れを切らし、腹いせに頭蓋や三半規管を食い散らかしているに違いない。 こめかみに鈍痛。奪われる平衡感覚。 眩暈と嘔吐感。 孤独と浮遊感。 「愛してる」 不意に男の影が囁く。それは捻じ切れんばかりに心臓を縛り上げる呪いの言葉だ。毒が塗りたくられた鎖だ。胸の奥を麻薬的な快楽で締めつける。皮膚を突いていた痛みも忽ちに甘い刺激に変わる。 男は幾度となく、数え上げることも叶わぬほどに同じ言葉を呟いていた。その度に強く求められているのだと錯覚していた。 大きな劇の起用審査から帰る度に男の瞳は曇っていった。無知で無謀な夢を語る頻度も徐々に減っていった。輝きの終息が近いことに女は気付いていた。口にはしなかった。 やがて男の自棄酒の量に比例して私の身体には青痣が増えていった。 被虐嗜好があったわけではない。けれども、たとえ暴力衝動の捌け口であっても彼に求められているという事実は悦びだった。自己弁護の愛の呪文を唱えてくれるだけで、どんな痛みにも耐えられる気がした。 束縛の毒に侵されていることには気付かなかった。あるいはそんな振りをしていた。 挫折に捻じ曲げられた彼の愛を受容できるのは私しかいない。巻き付いた鎖を引き擦る心臓が私を納得させた。 欲しかったのは謝罪じゃない。責任転嫁の言い逃れじゃない。酒癖の悪さを悔やむ反省でも、二度と目の前に現れないからという誓約でも、だから俺を忘れてほしいという懇願でもない。 劇団の後輩と唇を重ねていた男。楽屋の廊下で目撃した女。 ただの稽古だと、浮気ではないと、私を愛していると、あの日に聞きたかったのは過去に何度も連ねたような嘘だけだ。存在意義を妄信するしかない空っぽな女を繋ぐための鎖だけだ。 罪悪感を抱えきれず役者であり続けることを諦めた男は寝室から姿を消した。演技を信じ続けていたかった女は歪んだ束縛の鎖を解かれ、その身ひとつで自由の霞の中に放り出された。 愚かな男だ。破れきった夢を追う生き方しか知らない彼が私のいない時間を生きる方法など無いはずなのに。すぐに戻ってくるだろう。 傲慢で自惚れ高い女は忘却していた。無色な世界。誰からも必要とされぬ孤独な世界。光彩を放たなくなった相手からも離れられずにいた理由。 束縛と暴力から切り離された二週間、私の意味はあの苦痛の中にのみあったのだと悟った。真に依存していたのはお前の方だと悪魔が嗤う。 「愛してるよ」 雑音の中に溶け込む幻聴が鼓膜をくすぐり脳で反射を繰り返す。 満たされる。 妄想に彩られた幼稚な嘘だったと知った今でもなお私は繋がれたがっている。気管支を圧迫しながら好都合な幻を見せる、金縛りによく似た呪いの鎖に。 追憶の果てに。きっと今宵の金縛りも決して偶然ではない。心臓は束縛を欲している。蝕まれる快楽に取り憑かれている。これは私が望む未来が寝室の闇に投影された必然の結果でしかない。 そう認めた直後に私に跨っていた質量が消滅した。痛みも消え呼吸もできることに恐怖を覚えてしまう。 凍結したままの血が指先を冷やしている。代わって血管を循環するのは心臓に巻き付く鎖から染み出た毒液。身体はさらなる浸食を願う。 枕元の電話を手に取った。親しみ深くも酷く懐かしい番号に発信する。 二番目でも三番目でも本当に私を必要としていなくても構わない。 私には彼が必要だ。神経毒塗れの鎖が必要だ。偽りの言葉が、耐え難い苦痛が必要だ。 無邪気に夢見た役者として演じてくれるだけでいい。「愛してる」と囁いてくれるならば、私は私の持てるすべてを捧げよう。 私の自由を奪うのは、私の存在に意味を与えるのは、愛という呪われた名を持つ鎖。 自由などいらない。真実などいらない。 凍てつく四肢を。蝕まれた血管を。空虚な心臓を。私のすべてを縛り上げてほしい。カナしき鎖で縛り上げてほしい。それが至高の幸福だ。 「もしもし」 さようなら、忌まわしき自由よ。私は愛に縛られて生きていく。 いつかその鎖で首を括ることになろうとも。 |
蛍:mch 2018年08月12日 22時16分07秒 公開 ■この作品の著作権は 蛍:mch さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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