語りたがる哲学的少女と逆転クオリア

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「ちょっと買い物に行ってきたので買ってきた。少年、飲むか?」
「いいんですか? ありがとうございます」
 そう言って円先輩は、スーパーの袋の中をがさごそと漁り、俺に冷えた缶ジュースを手渡してきた。クーラーも無く頼りは扇風機くらいでとても暑いこの部屋ではとてもありがたい。手渡されたその缶を見て、俺の好きなスポーツドリンクを覚えていてくれたことが少し嬉しい。思えばずいぶん長い間彼女と共に過ごしたものだと思う。
 高校二年の俺と同じ学校に通う三年生の井上円先輩について、この学校で知らない人はいないと思う。ただし、その知名度はマイナスの意味合いが強い。まさしく大和撫子と言った趣の艶やかな長い黒髪の頭頂部に、和モダン的な真紅の大きなリボンを付けるその姿は、学校では否が応でも目立つ。切れ長で好戦的な目元と長い睫、グロスを塗っているのではないかと思われるほど艶やかな唇。背丈はモデル並みの高身長で、わき腹はしゅっと締まり、日本人離れしたすらりと長い足は芸術的ですらある。
 女性としてあまりに魅力的なその姿は、当人の尊大な態度とあいまって他を寄せ付けず、よく言えば孤高の、悪く言えば集団から浮いている。学業成績は学年トップクラスで、運動も並以上くればそれは尚更だ。人間として完成されすぎている。
 ではなぜ、勉強も並、運動も並、容姿も並――だと思いたい――なこの俺、辻哲郎と円先輩が一緒にいるのか。それは俺が一年のときに入る部活動で悩んでいた部活勧誘会でのこと、一人で熱く、いや暑苦しく哲学の素晴らしさを語る円先輩が、その暑苦しさから誰にも相手にされず、一人立ちすくむ姿を見て、その場で入部届けを出してしまったのだ。そうしてこの哲学研究会門を叩くことになった。
 それ以降、俺は円先輩から哲学に対して教えを受ける生徒として、部室塔の一角にある狭い部室で講義を受けることになり、今日も何かしらの哲学的な問いを俺に向けてくるのだと思う。
 円先輩は持ってきたスーパーの袋の中から、先輩がお気に入りの桃の風味のする清涼飲料水を出し、缶のプルタブを開けた。缶の口に付けた唇はもちろん、水分が体内に入っていくたびに喉がとくん、とくんと動いている様子が何とも艶かしい。俺は思わず凝視してしまった。
「何だジロジロと。何かついているのか?」
「いえ、別にそういうわけでは」
「ふむ、そうか……」
 円先輩は一瞬残念そうな表情を見せるが、それを気にした風でもなくすぐに部屋に備え付けの小さな黒板に向き合う。それは講義が始まる合図でもある。そう思った矢先、円先輩は俺に挑戦的な目を向けてきた。
「今日は、愛について議論しようじゃないか」
「愛、ですか」
 愛。あらゆる事象を哲学で規定しようとする円先輩にとって、それはあまりに縁の遠いワードに思えた。
「私は愛に満ち溢れているが、少年はどうだ?」
「ええ……?」
「何だその『お前は愛なんて言葉を語るほど人を愛していないだろう』というような目は」
「先輩よく分かりますね」
「そういうところだぞ」
 まあ先輩が会いに満ち溢れている人間かどうかは知らないが、俺は愛という言葉からは程遠い世界で生きているのは確かだろう。この哲学研究会に入ったきっかけは円先輩を見つけたからだが、それ以外の場面では、今までも、そして今も、感情に対して淡白なほうであると思う。教室でも何とはなしに生きていければそれで世はこともなし、というタイプだ。決して情熱的に愛をささやくタイプじゃない。
 そんな俺に対して愛について講義しようと言うのだから、時間の無駄ではないかと個人的には思うが、しかし何故俺に対してそんな講義を先輩がするのかといえば、それは彼女が話したいからだ。それ以上でもそれ以外でもない。
「まあ、愛というのは少し大げさかもしれないが、取り扱うのは心だ。心の哲学とも言う」
「心の哲学」
「そうだ」
 円先輩は一度頷くと、黒板に文字を書き始めた。もう講義が始まるらしい。
「その中でも今日は、逆転クオリアについて解説しようと思う」
「逆転クオリア、ですか」
「そうだ」
 半数しかできない俺に、円先輩はそれでいいとでも言うように、ふふんと鼻を鳴らした。
「クオリアって以前やりましたよね」
「ああ、そうだな。もちろん覚えているな少年?」
「ええと……すんません覚えてないです」
「何だ君は。仕方の無いやつだな」
 円先輩はダメ生徒の俺にため息をつくが、その実円先輩は喋りたがりの教えたがりなので、内心ではとてもうれしく思っているのを俺は知っている。というかクオリアの説明だってだいたい覚えてるし。
 現に円先輩の目許は若干下がり、口角も上がり気味だ。腕組みしている手は早くその先を言いたくてうずうずしているように、人差し指と中指がぴくぴく動いているし、何よりさっきから俺のほうをじっと見たまま動かない。
 俺の予想通り、続きを話したくてたまらなかったらしい先輩が、堰を切ったように話し始める。
「クオリアについてはまあ簡単でいいだろう。ここにコップがあるが、これについて少年、どんなことを考える?」
「どんなって……」
 円先輩から手渡されたコップは、クーラーが無いこの部屋で夏場を乗り切るための備品の一つとして置かれている、ごくごく普通のコップだ。
「普通のコップですよ」
「ではその普通のコップとはどんなものだ?」
「いえ、ですから、透明のガラス製で、使い込まれて少し曇ってますけど、飲み口は丸くて、底に行くに従って尻すぼみになっているような、ごくごく普通のものですよ」
「そうだ、それこそがクオリアだ」
「……え?」
 俺が素っ頓狂な返事を返すと、俺の手の中にあったコップを円先輩が取り上げる。円先輩の鋭利でひんやりとした手が俺の手と触れて、一瞬気持ちが浮つく。
「少年は言ったな。飲み口は丸く、底に行くにしたがって尻すぼみ、ガラス製で透明だが少し曇っている。そうした個々の質感、すなわちクオリアの集合体によってコップという物がはじめて知覚できる、という考え方だ。まあ、これは茂木健一郎の受け売りだが」
 つまり、俺が「このコップはこういうものだ」とクオリアとして感じない限りは、そのコップがどういうものなのかよく分からないから、認識することができない、ということか。
 円先輩は俺の表情を見て理解したことを悟ったのか、至極得意そうにしている。
「違うアプローチとしては、フランスの哲学者ブレンターノは、全ての心的現象はその対象に向けて興味を持つこと、『志向性』によって生まれると説いた」
「志向性……?」
「俗っぽい言い方になるが、『愛』とは何者かを愛することだ。『欲求』とは何者かを欲することだ。少年は私に対して抱いていることだから分かりやすいな?」
 ――――しばし沈黙が流れた。確かに容姿端麗で聡明な円先輩を『愛』することや、『欲求』をぶつける妄想をしたことが無いわけではないが、それにしても唐突だろう。円先輩はこういうことに興味が無いように見えて、俺をからかうためにこういった言い回しをする。
 一瞬ドキッとはするが、それからは対応ももう慣れたもので、深呼吸も兼ねたため息をついて、自分のざわついた心を落ち着かせる。
「もう、からかわないでくださいよ」
「あ、あれ? わ、私に興味ない?」
「まあ、それなりなら……」
「それなりか……」
 円先輩が腕組みをやめて、ちょっとしょんぼりしてる。かわいい。それなりどころか、先輩にはかなり興味があるのだけれど、このかわいい顔が見たくてつい意地悪をしてしまう。
 円先輩は対外的なイメージと違う自分の様子に気がついたのか、わざとらしく軽くせきをして、話を強引に戻した。この人の尊大な態度はキャラ作りだと分かっているので、それも納得だ。
「よ、要するに自分の内面は対象への興味によって生まれる、という考え方だな。かのサルトルも『志向性と意識は区別できない』として、クオリアと志向性を同一視したしな」
「よく分かりました」
「う、うむ」
 よく分からないやり取りだったが、場に流れた気まずい雰囲気を流すためにも、ここは円先輩の挙動不審な言動も、志向性を遮断することによって見て見ぬフリをした。遮断できてないけど。
「まあつまるところ、人間の持つ全ての意識のことをクオリアと呼ぶのだ、という理解でかまわないだろう。もちろん完全な定義ではないがね」
 円先輩は調子を取り戻したのか、もう一度腕を組みなおした。俺への強い意識が言葉を語らずとも分かる。
「そこでだ、これを見て欲しい」
 そう言って円先輩は、先ほど缶ジュースを出した袋の中からトマトを取り出した。円先輩は「ふむ」と呟くと、トマトを舐めるように眺め回し、手持ち無沙汰であるように虚空へ二度三度放って見せ、そのあとそれを机に無造作に置いた。
「では少年、先ほどコップにしたように、このトマトについて思ったことを述べてくれたまえ」
「はぁ……」
 と言われても、先ほどのコップのときと同じように、見たまま、当たり前のことを言うだけだ。こういう前段階であったことをふまえて俺に質問をしてくる場合、円先輩は俺の回答に何かを期待しているというよりは、これから回答する俺の言葉を基にして、自分の論を展開していく、ということが多い。であるからこそ、俺は別段何かを考えることは無く、ただ目の前のトマトを見たままに言葉にすればいいだけのことだ。俺も円先輩がしたように、舐めるようにトマトを眺める。
「大きさは手のひらにぴったり乗るくらい。楕円形で傷は無く、いかにもみずみずしそうで、色は真っ赤「それだ」
 突然、円先輩が俺の科白に割り込んでくる。
「このトマトを君は赤いと言ったね? でも実は君が視覚としてとらえている色彩だけの話で、他の人、たとえば私は君が思うところの青色がトマトの色だと思っていたとしたら、どうする?」
 俺は回答に困った。意味が分からないからだ。トマトは赤いのではないか? 青色のトマト? 色覚異常ということか?
 円先輩は慌てふためく俺の表情を見て、予想通りの反応で満足しているらしく、とても意地悪い笑みを浮かべている。
「君はトマトの色は『赤い』と言ったし、空の色は『青い』だろう? でも、君が色覚異常だと思っている私もトマトの色は『赤い』と言うだろう。そして私は、海の色を『青い』と言う。そうに決まっている」
「……よくわかりません」
「何故かと言えば、君は幼少の頃よりトマトやリンゴ、イチゴの色は『赤』だと教わって来た筈だし、空や海、それから……ああ、このソーダ味のアイスキャンディーなんかも『青』と教わってきただろう?」
 そう言って、円先輩はすっかり忘れていたのか、安くてうまい坊主頭の少年がパッケージのアイスキャンディーを取り出し、「ちょっと溶けかかってる……」と言いながら袋を開けて、おもむろに食べ始めた。そのしょんぼり具合がちょっとかわいそうでかわいい。
「んぐ、んぐ……まあそれはともかくとしてだ、君から色覚異常だと思われている私もトマトの色は『赤』だと教わってきたし、空の色は『青』だと教わってきたのだよ。この意味が分かるかい?」
「…………俺がトマトを見て感じた色と、円先輩がトマトを見て感じた色がたとえ視覚的には違ったとしても、言葉ではどちらも『赤い』と表現することになる、と?」
「ご明察だ。……んぐ、んぐ」
 円先輩がアイスキャンディーを食べながら、俺の回答に対して大きく頷く。これを整理すると、トマトを見て俺と円先輩が『赤い』と言っても、俺と円先輩の感じている色は別の色であるにもかかわらず、そこにコミュニケーションは成立してしまうということだ。なぜかというと、それぞれ違う色のことを指しているにもかかわらず、どちらも「これは赤という色だ」と教えられてきたからである。つまり、自分が「赤」だと思っている色でも、実は他人は違う色のことを「赤」と呼んでいるのかもしれない、という可能性を指摘したことになる。
 そこで俺にある疑問が生じる。そのことを敏感に悟ったのか、アイスキャンディーを食べ終えた円先輩が俺に「言ってみろ」とばかりに軽く一度頷いた。
「……たとえば、モノクロの写真でも、ある程度色の濃い薄いってわかりますよね? それと同じように、ある程度コミュニケーションを取っていれば、自分の感じている色と他人の感じている色の違いって分かりそうなものじゃないですかね?」
「ふむ、いい指摘だ」
 円先輩は尊大な態度で頷いたが、口元に青い汁が少し付着しているので、全然賢そうに見えない。むしろかわいい。そんな俺の視線に気づかず、円先輩は講釈を始める。
「結論から言ってしまえば、この話は主に機能主義を批判する際によく使われる思考実験であって、現実的には有り得ないと言ってもいいだろう」
 機能主義、これは俺も覚えていた。たとえば「痛み」を感じている人間の脳の「機能」を再現しさえすれば、脳を構成する物質がバネやネジ、歯車やシリコンチューブを用いた機械であっても、それを「痛み」だと認識することができる、という考え方のことだ。壁に腕を打ちつけて顔をしかめる原因になる心的状態こそが「痛み」であり、その心的状態は感覚として普遍的に機能するものである、という立場だ。
 円先輩はそんなことを思い出していた俺の表情を見て、覚えていたのを褒めるべきか、自分が説明できなくて悔しさを表明すべきか、とても困ったような表情をしていた。
「……ふむ、しっかり覚えていたようだな」
 前者にしたらしい。
「機能主義というのは、唯物論、物理主義ともいうが、これはすなわち、人間の心の奥底には物質があって、それによって感情が規定されているという考え方だが、これとシンパシーが高い。この考え方に寄れば、人間の意識は全て物理法則に則ったものとされる。物理法則に則ると言うことは、人間の意識によって物理法則が変化することは有り得ないのだから、人間の意識ですらも物理法則に全て従うということになるな」
「物理法則が変化しない、というと例えば?」
「例えばそうだな……外でサッカー部がサッカーをしているが、サッカーボールを蹴ったら、通常はまっすぐに進んでいくだろう? 私は物理学は専門外なので正確にはわからないが、この世の全ては計算式で表現ができると言うくらいだし、人間の意識もまたさもありなん、ということだろう」
 ボールが無回転であったり、わざとボールに回転をかけていた場合はまっすぐボールが進むとは限らないが、そうしたイレギュラーな事態でさえも数式として表現ができてしまうのが物理学だということだろう。
 そこまで俺が理解したところで、話したがりで話してばかりの円先輩の口が真一文字に閉じられたまま、しばしの間沈黙が流れる。そして円先輩は立て付けが悪くなって開けづらくなった窓から空を見やり、呟くように言った。
「ふむ、ではなぜ、人の意識は存在するのだろうな」
「……どういうことです?」
 俺が聞き返すと、円先輩はまた続きを話したくてたまらないと言うような、挑戦的な笑みを作った。
「逆転クオリアとはまた別の思考実験に、哲学的ゾンビというものがある。オーストラリアの哲学者、チャーマーズによる思考実験だ」
「ゾンビと言うと、死者が復活するあれですか?」
「いや、それではない。ここでいうゾンビと言うのは、外面的には普通の人間と全く同じように振舞うが、内面的な意識、すなわちクオリアを全く持たない。痛みも悲しみも感じず、ただ機械的に『痛い』と認識したから『痛い』と発言して、機械的に『悲しい』と認識したから泣いていたりする人がいるかもしれない、というものでな」
「それはまたなんというか……」
「ちょっと怖い実験だな。たとえば私がその哲学的ゾンビだとして、私にトマトを見せても『これは赤いです』と言うだろう。だがそれは、私の脳の中で機械的に『この色は赤』だと判断しただけで、クオリアとしてトマトを見ているわけではない、ということになる」
 何と言うか、想像しただけでおぞましい実験だ。普通の人間と全く同じように振舞われたら、クオリアを持っているのか持っていないのか、傍目には全く気づかない。俺が普段授業を受けている教室の中に一人ゾンビが混じっていたとしても、全く気づくことは無いだろう。そこでふと、俺はあることに気づいた。
 同時に、円先輩が気づいたか、と言いたげな様子で俺にウインクをしてくる。いちいち様になっていてとても魅力的だ。
「ここで大切なのは、クオリアなんか無くても、日常生活を送る上で全く問題が無い、というところだな。物理主義を是とするならば、全ての主観的体験が脳という物理的な機械の前では無意味なものであり、自分だけが関わった体験、というものは全くの無駄で、それがなくとも機械的に粛々とゾンビは社会で生活していくだろうよ」
 そこまで言って、円先輩は言葉を切った。そのあとに続いたのは、ひどく冷淡な声音だった。
「ということは、だ。感情や意識に左右されるクオリアは自分にしか必要の無いものではあるが、クオリアが無かったとしても淡々と自分は動作するということは、むしろクオリアというのは不必要な存在なのではないか、という結論に至る。ある日自分の内面が死んでしまっても、脳は機械的に食べて、学んで、友達をおしゃべりをして……今までと変わらない生活がおくれるということになる」
「それって……」
「そうだ。この思考実験から導き出されるのは、私たちの意識は脳にとっては不必要な機能で、むしろそれらを持たない哲学的ゾンビの方が自然な存在である、となる」
 今こうして自分の意思で会話をしているということですらも、もしかしたら脳の機能として思考の結果行っているだけで、全てが機械的な動作であると仮定すれば、そのようなゾンビが跋扈する世界、ゾンビワールドがあったとしても、普通の人間と同じように振舞うのが哲学的ゾンビなのだから、それは全く現実世界とそん色ないことになる。
 思考の坩堝にはまる。俺の存在とは一体なんだ? 俺の意識というのは全く無駄で必要の無いものだったのか? 少しの間沈黙していた円先輩だったが、

「ただ」
 少しの間。
「ただ、逆転クオリアのときも話したが、哲学的ゾンビはいないという証明が不可能なだけで、現実問題として社会に存在しないと考えられるな?」
 他人がどのようなクオリアを持っているかは、主観的な範囲からは観測することはできないが、科学的見地と社会通念上、そのような存在はいないということは想定できる。すなわち、この実験は単なる思考実験であるわけで、現実味の無いことだと一笑に付すことは簡単だ。簡単なだけに、余計に本当にそのような可能性を排除していいのかという堂々巡りに晒される。
 これは後で円先輩から言われたことだが、哲学と言うのは憶測に基づいて考えを深めていく学問なので、思考の渦に巻き込まれやすく、得てして考えが堂々巡りになりやすいということだった。それを円先輩は教え導いてくれようとしていたわけなのだが、この後の展開は予想できていなかった。後でモゴモゴしていたのを無理やり聞いたところによると、「魔が差した」ということらしい。
 円先輩は一つ頷いた後、握っていたアイスキャンディーの棒を俺に向けてくる。
「哲学的ゾンビがいないことの証明は難しいが、主観的に自分が哲学的ゾンビではないことを説明するのは案外簡単なのだよ」
 そしてその棒をゴミ箱にシュート。見事に入った。
「例えばだ、君の容姿や正確が女性にウケがよろしくないものだったとする」
「分かってましたけど、そこまで言わなくても……」
「だから例えばの話だ!」
 例えばの話だと分かっていても、面と向かって言われるとさすがにショックだ。
 円先輩はそんな俺を仕方の無いやつだとばかりににらみ付けると、落ち着きが無い様子で手をそわそわ動かし、もう一度俺をにらみつけた。今度は少し耳が赤いような……?
「だが、これも例えばだが……例えばだぞ、例えばだからな!」
「はぁ」
 円先輩はこちらまで唾が飛んでくるのではないかとばかりに強い口調で何度も同じ言葉を連呼してきたので、俺は意味が分からず反射的にため息じみた応答した。
「例えば…………普遍的な価値観として女性にウケが悪いとでも私が君に心底惚れ込んでいたとしたら、それも主観的な体験によって決定付けられたクオリア、ということになるな?」
 普遍的な価値観とは全く違うものを、自分の主観的な体験から好きになる、ということは、そこにこれまでの経験からくる自分の意識から、お、俺のことが、魅力的だと? そういうこと?
「誰もいなかった部室に毎回顔を出してくれて、私の長台詞にも飽きずにずっと聞いてくれて、適度に反応を返してくれる。この主観的な経験によって私が、か、仮にだ、心底惚れ込んでいるとしたら、私はもはや哲学的ゾンビではないとはっきり証明できるな? そ、そうだろう?」
「は、はあ……」
「お前も別に哲学に興味があって哲学研究会に入ったわけじゃないだろう?!」
「ま、まあ今はそこそこ興味はありますし円先輩の話も面白いですが、最初は円先輩がきっかけですね……」
「う、うむ! だからこそ私は君が必要なのだよ!」
 今すごいことを口走ったと自分でも思うし、円先輩もそう思っているであろう焦りに焦りまくった表情をしているが、円先輩が寄せてくる顔の圧力でどうでもよくなってしまった。
 しかし、面と向かって自分のことを必要だと言ってくれるのは、承認欲求のそれほど無い俺でも嬉しい。先ほど自分の存在意義について自問自答していたのだからなおさらだ。
 しかし、円先輩の顔が自分の顔の目の前にあるという状況もこれはこれで拙い。何が拙いって、いや、わかるだろう? 円先輩もそれを自覚したのか、すっと身を引いて、俺に背を向けた。
「た、例えばだからな! このような状況の主観的体験からはこういう志向性が想定されるという、単なるたとえ話だからな!」
 ギリギリ聞き取れるか聞き取れないかくらいの早口でまくし立てる円先輩の横顔は真っ赤で、耳どころか首まで真っ赤だ。頭に血が上っているというのは、まさにこういう状態のことを言うのだろう。こんな状況になっても冷静な俺がいたことに驚くが、それは目の前にいる先輩に全く余裕が無いせいだろう。
「と、とにかく、哲学的ゾンビは機能主義の批判として用いられる思考実験だということだ!! わ、わかったな!!」
「はぁ」
「今日の活動は終了ッ!!」
 何が分かったのかよく分からないが、円先輩は俺を残したまま扉を叩きつけるように閉めると、そのままズカズカと歩いていってしまった。
 いや、ええ……? 先輩が、そういうことだよなあ……?
 帰り支度をそそくさとしながらも、俺の顔や耳にも朱が差していることが自分でも分かったのが恥ずかしかった。


△ ▽ △


 今日も今日とて、俺と先輩は部室棟の一角にある哲学研究会の部室におり、そこで俺はいつものように語りたがる円先輩から講義を受ける。
 あの衝撃的な日から少しばかりの時間がたったが、お互いに自分の意思――先輩はたぶん気恥ずかしさから、主観的体験から導き出される志向性と言葉を濁していたが――を確認しあったが、しかしだからといって関係性が急に変わることは無かった。むしろ、俺はそれでいいと思うし、そのほうが円先輩にとってもいいだろうと、あの慌てふためきっぷりを見て勝手に思っていた。他人のクオリアは覗けないので、本当のところは分からないが。
 先輩は俺に背を向けると、黒板になにやら文字を書き、そしてまた向き直った。今日の講義の議題を書いたらしい。
「さて、今日は『コウモリであるとはどういうことか?』という思考実験をしたいと思う。以前に……あー、逆転クオリアの話をしたのを覚えているな?」
「ええと……すんません覚えてないです」
「何だ君は。仕方の無いやつだな」
 あの日あの時俺がそう答えたときのように、円先輩はダメ生徒に対してため息をつくが、しかし今回も例によってまた、先輩は語りたいのか、腕組みしている指が、トントンと二の腕を叩いているなど、妙にせわしない。それは説明をしたがっているというサインだ。
 しかしいつもやられっぱなしなのも癪なので、少し意地悪をしてみることにした。
「ミイラがミイラ取りになるの典型ですね。ああ、そういえばゾンビの話もしましたっけねえ」
 哲学的ゾンビが御伽噺のミイラとは全く性質を異にすることは覚えていたが、ここはあえて先輩に語らせて、いい気分になってもらうことにした。
「ミイラ取りの話におけるミイラは、御伽噺におけるミイラではないっ。この話におけるミイラとは単なる防腐剤のことで、死体に塗ると腐らなくなるという薬だ。これを取りにいった人が砂漠で迷って自分がミイラになってしまったという逸話からなんだぞ」
「はぁ」
「そもそもが、ゾンビについてもそのような御伽噺のゾンビではないとあれほど――
「覚えてますよ。俺はあの日を忘れませんから」
「なっ……!」
 あの日ほど取り乱した円先輩をお目にかかることはついぞ無かったので、忘れろと言うのが無理だ。少し考えればそのことにも気づきそうなものだが、語りたがりな円先輩はそのことに意識が向いていなかったらしい。俺の言葉で円先輩もあの日の自分の醜態を思い出したのか、見る見るうちに顔が真っ赤になり、首元まで血が上った。
「先輩、かわいいです」
「……! ……!」
 狼狽して声も出ない先輩はかわいいが、本当にそう思ったのだから仕方ない。
 深呼吸をして呼吸を整えた円先輩は、やがて俺のほうを本気でにらみつけてきた。その顔にはかなりの怒気がこめられていたが、醜態の後であるのと、目元に浮かんだ涙が庇護欲を誘い、全く恐くなかった。
「……少年」
「すいません、つい」
「だいたい、少年はあの頃からいじわるだった。私がこの気持ちに整理がつかないのをいいことに、弄んでいただろう」
「そりゃあ当時から俺は好きでしたけど、だって先輩のクオリアは俺には知覚できませんから、先輩がどういう志向性を持っているのかも俺にはわからなかったんですよ」
「うるさい!」
 かつて一方的にいいようにされる側だった俺と彼女の関係だが、それはあの日から少しずつ変わり始めた。立場が完全に逆転した、とまでは行かないが、徐々に俺もやり返せるようになってきている。
 先ほどの罵倒も、何事にも理屈を求める円先輩らしくないものだったが、俺はそれがとてもかわいいと思った。


おわり
すぎ eNccZfQ0kA

2018年04月29日 22時42分46秒 公開
■この作品の著作権は すぎ eNccZfQ0kA さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:哲学が少し分かった気になる、かもしれない
◆作者コメント
運営の皆様、開催していただきありがとうございます。私は哲学が専門ではありませんので、付け焼刃の勉強しかしておりませんが、お楽しみいただければ幸いです。お題の使い方も反則気味ですし、作品自体の出来にも満足できず最後まで投稿を悩んだのですが、枯れ木も山の賑わいいうことで、何卒ご容赦を。

2018年05月12日 23時23分23秒
+10点
2018年05月12日 20時21分10秒
+10点
2018年05月12日 00時42分45秒
+10点
2018年05月10日 20時59分13秒
+10点
2018年05月09日 02時22分28秒
0点
Re: 2018年05月27日 22時30分30秒
2018年05月08日 03時21分20秒
Re: 2018年05月27日 22時19分48秒
2018年05月06日 20時25分43秒
+30点
Re: 2018年05月27日 22時11分58秒
2018年05月06日 12時08分20秒
Re: 2018年05月27日 22時10分57秒
2018年05月05日 18時49分23秒
+10点
Re: 2018年05月27日 22時06分33秒
2018年05月05日 10時24分30秒
+10点
Re: 2018年05月27日 18時32分56秒
2018年05月05日 07時11分03秒
+10点
Re: 2018年05月27日 18時25分18秒
2018年05月01日 23時00分51秒
+10点
Re: 2018年05月27日 18時18分24秒
2018年05月01日 14時58分42秒
+10点
Re: 2018年05月27日 18時14分08秒
2018年04月30日 12時12分36秒
+10点
Re: 2018年05月27日 18時10分55秒
合計 14人 130点

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