八重桜が咲く頃に

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春 ソメイヨシノが散る頃


「先輩のことが好きです!」
 桜舞う入学式に、愛の告白が響き渡る。
「えっ……?」
 入学式の受付。名札をつけてくれていた女子の先輩に俺は愛の告白をした。
「深川玲奈(ふかがわれな)先輩、俺と付き合ってください!」
 俺の顔は紅潮している。自覚はある。、それまで相手を直視していた瞳も耐えられずに下を向く。
 ガチの告白だ……
 そんな囁きすらはっきり聞こえるほどの沈黙。その場にいた全員が茶化すことすらできずに成り行きを見守っている。。
「あ……えと……」
 彼女は突然の出来事に戸惑い、そして……
「……ごめんなさい」
 深々と一礼した。その瞬間、俺の目の前は暗転した。
 けど……ここであきらめるわけにはいかない!
「今、彼氏とかいるんですかっ!?」
「ううん、いないけど……」
「だったら!」
 なおも食い下がる俺に、彼女ははっきりとこう告げた。
「そもそも、私、君のこと知らないし」
「……っ!?」
「入学式で初めて会った先輩に告白するなんてチャラい男はあんまり好きじゃない」
「っ!?」
「さ、他の子にも名札つけてあげなきゃいけないから、君は早く体育館へ。加藤一貴(かとうかずき)君」
 彼女は名札を見て俺の名を呼び、背中を押して体育館へと促す。
 止まっていた時がようやく動き出した。
 ソメイヨシノと同時に俺の恋も散ったのだった。


 私、深川玲奈は入学式が始まったのを見届けてから、受付の場を離れ、部室へと向かった。入学式が始まってしまえば、私たち三年生は出番がない。自分たちの教室に戻り、式が終わるのをおとなしく待つのみ。さっきの告白事件の現場に居合わせた者たちからの冷やかしを受けたくなかった私は、教室へは戻らずに部室に行くことを選んだ。そしたらそこには既に先約がいた。友人の美彩(みさ)だ。色とりどりのキャンバスに彩られた美術部の部室で、彼女は中庭に咲くソメイヨシノを描いている。
「おっ。モテモテ女子が来た」
「なんでもう知ってるのよ……」
 私はため息交じりに美彩の隣の椅子に座る。
「実は惜しいことしたと思ってるとか」
「そんなわけないでしょ。初対面でいきなり告白なんて非常識だよ」
「またまた。なんていう名前の子だったの?」
「加藤一貴君、だったかな……」
「しっかり覚えてんじゃん」
「もうっ!」
 私は茶化す美彩から顔を背ける。一つに結んだポニーテールが私の頬を軽く打った。
「あはは。ごめんごめん。でもしばらく大変そうだね」
 正直なところ、私は彼の顔も覚えていない。突然告白されて緊張して、相手の顔もろくに見れなかったのだ。だいたい、まずはお友達から始めるべきもので、いきなりそんなこと言われてもこっちの準備ってものがね……
「あたしは体育館の中にいて雑用してたけど、結構噂になってたよ。告白した勇者と即答で振った魔王がいるって」
「あううぅぅっ……」
 明日から針のむしろの生活が始まるのか……神様私は何か悪いことをしましたか?
 そこからしばらく美彩が走らせる鉛筆の音だけが部屋の中を支配する。
「傷は、浅いと思うよ」
 美彩が沈黙を破った。あたしの心を見透かすかのような独り言。
「そう、だといいな……」
 私は最善の答えができていたかな? はっきり断る方が優しさだと思って、しんどかったけど嫌われるのを覚悟で言い切った。
「はっきり、断ったんだ。知らない人とは付き合えない、って」
「それだけ?」
 鉛筆を走らせる手を止めず、美彩はキャンバスから顔を動かさずに続きを促す。
 ……敵わないなぁ。
「私のことを早く忘れられるように、チャラい男は嫌い、って伝えた」
「まあ、そうね。私も嫌い。いいんじゃない? いい対応だと思うわよ」
 別に美彩に認めてもらう必要はないんだけど……でもそう言われると安心する。
「ありがと」
 私は美彩が描いている校庭の桜に目を向ける。
 春一番に桜の花びらが踊っていた。


 俺は教室の窓際の座席で机に突っ伏しへこみきっていた。
 気を使って声をかけてこないクラスメイトたちが固唾を飲んでこちらを見ているのがわかる。
 その気遣い視線が余計に痛いんだよ。
 ……カズ君、またね。
 昔の言葉が、心の中で響く。
 ……一目惚れじゃないんだよ。ずっと、ずっと前から好きだった。
 玲奈姉。俺の事忘れてた……
 俺は、その事実がショックで、めり込んでいた。失恋よりもそっちの方が辛い。
 いつしか目を閉じ、俺はウトウトしてしまっていた。
 浮上しない俺の頬を春の風が優しく撫でた。風に乗り、一枚の花びらが頬に付く。
「……ん……」
 俺は一つ伸びをして頬の花びらを手に取る。
 寝ちゃってたのか……気づけば教室には誰もいない。
 ……帰ろ。
 俺は荷物をまとめて教室を出る。頬に付いた桜の花びらを手で持て余しながら、俺はなんとなく校庭の桜並木によってみることにした。
 まさに満開。入学式まで待ってくれていたかのように見事に咲き誇っているソメイヨシノ。
 一陣の風が頬を撫でる。と同時に桜の花びらが空を舞う。
 空を見上げれば薄いピンクと青空。日本に生まれてよかったと思える瞬間。
 校庭の桜吹雪の中、俺は一本の樹の前で立ち止まる。その樹だけ、まだ花をつけていない。満開の桜の中、異質な黒さを感じた。
「この樹だけまだ咲いてない……」
「まだ時期じゃないからだよ」
 独り言への返答に俺は驚き、横を見る。ちょうど俺が来たルートからは死角になる位置に、二人の女性がいた。
 その一人は……
「その子一本だけ、八重桜なんだ。今は咲いてないけど、ソメイヨシノが新緑を身に着けるころ、鮮やかなピンクがすごくきれいで目立つよ」
 おそらく先輩だろう。スケッチブックを片手にデッサンしている女性が説明してくれる。けど、俺の目も耳も、その情報を捉えていない。隣にいる先輩から目が離せない。
「玲奈、姉……」
 俺の呟きを桜吹雪が玲奈姉に届けてくれたようだった。
「加藤一貴君、だっけ……? 君にそんな風に呼ばれる筋合いは……」
「玲奈姉、俺だよ、カズキだよっ! 昔、近くに住んでたカズキだよっ!」
 怪訝そうに眉を寄せる玲奈姉に対して俺は被せる様に話しかける。それを聞いて玲奈姉はさらに眉をひそめる。
「近くに住んでた、カズキ、君……?」
「あーもうっ! 一緒にお医者さんごっこしたり、プールで溺れかかった俺を助けてくれたり、ブロック塀から飛び降りて足首捻挫したりした、平野一貴だよっ!」
「……!? カズ君!?」
 ようやく気づいたように玲奈姉は驚き、口元を手で覆う。そして再び俺をよく見た。
「やっと、気づいてくれたんだね……そうだよ、あのカズキだよ」
「言われてみれば確かに面影があるけど、苗字が違うのは……あ……そっか……」
 そこまで口にして玲奈姉も気づいたようだ。ようやくすべてが伝わったようで、俺は少し安堵した。
「君が、玲奈に一目惚れして告白した勇者?」
 玲奈の隣にいた先輩が俺に尋ねる。
「一目惚れじゃないです! ずっと前から、俺は玲奈姉のことが好きで、玲奈姉がいるからこの学校に来たんです」
「……ストーカー?」
「ちがっ……! 父親の伝手で聞いたんです!」
 そこで一貴は一旦言葉を切り、玲奈の正面に立つ。
「探して、想いを伝えるつもりでした。でも、入学式で突然再会して、運命だと思って告白したんです。でも、玲奈姉は俺の事を覚えてなかった……」
「違うよ、カズ君のことは覚えてる。でも、それは昔の話で、小学校の4年生だっけ? 転校したのって。私の中でカズ君は子供のままで止まってて、しかも苗字が変わってたから気づけなかったんだよ……」
 申し訳なさそうに玲奈姉は言葉を紡ぐ。
 再会した玲奈姉は予想よりも綺麗になってた。大きな瞳に映る自分が緊張しているのがわかる。
 諦められない。何年もずっと、育ててきた想い。俺は再び玲奈姉を正面に見据える。
「ずっと、玲奈姉のことが好きでした。付き合ってください」
 ストレートな愛の言葉。
 玲奈姉は赤面し、隣の先輩に助けを求めたけど、ヒューと冷やかすのみだった。
 玲奈姉は戸惑いながら必死に何かを考えてる。そして答えを出した。
「えと、チャラいって言ったことは訂正するね。ずっと私のことを想ってくれていたことはすごく嬉しい」
「だったら……」
 俺の心に喜びが広がっていく。
「でも、私の中でカズ君は小学校四年生のまま。今のカズ君を知らないから、私はカズ君の事好きとは言えないよ」
「……っ!」
 もっともな言葉。でも、舞い上がっていた俺はそんなことにすら気づけていない。でも、だったら……
「だったら……だったら、今の俺を知ってください!」
 俺は決死の覚悟でそう告げる。
「何も知らないで断られるのは正直納得がいかないです。子供のころの俺とは違うところを見てください。惚れさせてみせます!」
 俺は必死にそう懇願した。玲奈姉はそんな俺を見て、迷い、悩み、そして……
「はぁ……わかったわ」
 そう呟いた。
「……っ!?」
「今のカズ君を見せて。それを見た上で、告白の答えをさせてもらう、っていうことでいい?」
「もちろん!」
 満面の笑みで俺は答える。
「期日はこの樹、八重桜が満開になった頃ね」
「がんばりますっ!」
「がんばりなよ、少年」
 それまでずっと成り行きを見守っていた先輩が応援してくれる。
「玲奈の部活仲間の美彩よ。よろしくね」
「よろしくお願いします、美彩先輩」
「こっち来たら? 積もる話もあるでしょう?」
 一礼した俺に対して美彩先輩は自分たちの側に座るよう勧めてくれる。
「玲奈姉、何部なんですか?」
 その後、たわいのない会話を少しだけ楽しんで作業の邪魔になせないように退散した。
 何気ない、幸せがそこには確かに存在していた。


 私は自室のベッドの中で、昼間の出来事を懐古していた。
 あのカズ君があんなに大きくなってたなんて……
 親戚のおばさんの様なことを思いながら、私は昔のアルバムをめくる。子供会の遠足でプールに行った時の写真、キャンプで飯盒炊爨している時の写真、お祭りの時の写真。
 こうして見返してみて、今気づいた。カズ君、いつも私の隣にいる。このころから私のことが……
 そんなことを思うと自然とこちらも赤面してしまう。
 と同時に、私の胸に後悔も訪れる。長い間気持ちに気づけなかった鈍感さ、今日もカズ君だと気づけなかった鈍さ。
 私はまた、知らないうちに人を傷つけていた。
 アルバムの中で、最後にカズ君が写っている写真に目が留まる。それまでの写真はいつも楽しそうに笑っていたのに、この写真だけは、涙をこらえているのがわかる。
 両親の離婚という状況でお父さん側に引き取られ、引っ越していくときの写真。ただ泣いている彼の頭を撫でてあげることしかできなかった自分の弱さが思い出される。
 その悔しさが私の胸を圧迫する。
 ……もう誰も傷つけたくないよ……
 私は喜びと後悔という相反する感情を抱いたまま、眠りについた。


 俺は自分の部屋の中でスマホを触りながら昼間の出来事を思い出していた。
 入学初日に玲奈姉を見つけられるなんて思ってなかった。いきなり変な告白しちゃって断られたけど、全部気づいてもらえて、チャンスがもらえた。
 俺はその事実に思わず笑みがこぼれる。
 スマホの画面に俺のにやけた笑みが反射しているが、気にしない。気持ち悪くなんかない。きっと。
 スマホのゲームにけりをつけ、ぺいっと放り投げてから、俺は天井のクロスを見つめた。
 上手くいったら、先輩とどんなデートをしようかな……どんなことを話そうかな……プロポーズの言葉は……
 俺の思想は宇宙を超えて飛躍していく。なのに……
 ……あれ……?
 どうしても、玲奈姉との幸せな未来が思い描けない。どこへ行く? どこでもいい。 何を話す? 何でもいい。
 ただ傍にいてほしいのかな。俺って奴は謙虚だな。
 勝手にそう結論付け、俺は机に向かう。
 今の俺の魅力を知ってもらうために、何ができるか、考えてみた。
 部活を決めるまでには時間があるから、美術部にはなるべく顔を出して、でもかっこいいところも見せたいから中学時代頑張ってたバレーも見てもらえるように……おっ、球技大会バレーじゃん。よし、ここで張り切っていいとこ見せて、それから……
 簡単な計画を立て、俺は未来の返事を楽しみに眠りについた。

「玲奈姉は何を描いてるの?」
 俺、美彩先輩、玲奈姉しかいない美術部の部室。俺はたまに顔を出しては談笑していた。
「こないだの桜並木よ。ピンクの枝の隙間から見えた青空を描いてみたくてね」
「俺の中で玲奈姉が美術に興味ある、っていう記憶がないんだけど、いつから美術始めたの?」
「高校入ってから、だよ。美彩に誘われてね」
 玲奈姉は受け答えしつつも、一度も俺の方を見ようとはしない。それだけ絵に集中していた。仕方なく俺は美彩先輩に同じ質問をする。
「美彩先輩はどうして美術を?」
「絵が好きだったから」
 身も蓋もない回答に一同思わず笑ってしまう。3人しかいない部室の雰囲気が少し和らいだ。
「カズ君は何部に入るの?」
「今のところバレー部かな。中学からやってたから」
「へぇ。ポジションは?」
「リベロってわかりますか? 守備専門なんですけど……」
「わかんない」
「んじゃ今度の球技大会見に来てください。バレー頑張ってるとこ見て欲しいっす」
 どさくさに紛れて俺は玲奈姉にアピールしてみる。
「えー……どーしよっかな……」
「行ってあげたら? 今の彼を見たいんでしょ?」
 横から美彩先輩が助け舟を出してくれる。
「んー……わかった。じゃあ見に行くよ」
「ほんとっ!? っしゃ、じゃあ本気出す」
 やる気スイッチオン。本気で優勝目指す。今決めた。
「じゃあ玲奈姉。また来るね。邪魔してごめん」
「ありがと。またね」
 日課となっている美術部訪問を終え、俺はバレー部が活動している体育館へと向かっていった。

 そんな感じで2週間が過ぎたころ、球技大会がやってきた。
 幾つかある入口の一つに玲奈姉を見つけ、俺は大きく手を振る。玲奈姉は恥ずかしいのか、手を振り返してはくれなかった。
「おい、あれが噂の魔王か?」
「魔王じゃなくて女神だろ?」
「あほなこと言ってんじゃねーよ。普通の先輩だよ」
 クラスメイトとあほな会話をしつつ、俺たちは気合を入れた。
 試合開始。俺はリベロとしてボールを床に落とさないよう、コート内を奔走していた。クラスメイトのために拾い、繋いでいく。
 セットも終盤、勝負どころ。
 ……っ!
 床とボールの隙間に手を滑らせるつもりが床に手を思いっきり突いてしまう。
 ボールは上がったものの、俺は手を抑えて立ち上がる。スパイクで相手コートにボールを叩きつけたクラスメイトが俺に近づいてくれる。
「大丈夫か一貴っ!?」
「大丈夫。ただの突き指だから、心配すんな」
「保健室行ってテーピングしてもらって来いよ」
 クラスメイトが心配してくれる。でも……いやだ。負けたくない。
「負けたくない。だから俺が……」
「ケガ人のお前がいる方が負ける率が高くなると思うぞ」
 そう言い切られてしまった。そうかもしれない、けど……
「信じろって」
「……わかった。負けてたら承知しないからな」
 渋々、俺は体育館を出て保健室へと向かう。保険の先生にテーピングしてもらっていたら、ドアをノックする音が聞こえた。
「どうぞ」
 声に応じて入ってきたのは、玲奈姉だった。
 かっこわりぃ……
 合わせる顔がなく、俺は思わず下を向いた。
「玲奈姉……」
「はい、これ。水分補給しなよ」
 玲奈姉は購買で買ってきたであろうスポーツドリンクを差し出してくれる。
「あ、ありがと……」
 俺は受け取り、ほとんどを飲み干した。少し時間をおいて玲奈姉は話し始めた。
「さっき、ケガしてもゲームを続けようとしてたよね。どうしてそこまで頑張るの? ケガしちゃったんだからしょうがない、とは思わなかったの?」
「思わないよ。負けたくないから」
「どうして負けたくないの?」
「どうしてって……」
 俺は答えに窮してしまう。負けたくてスポーツをやる人なんていない。そんな当たり前のことを聞かれるとは思ってもいなかった。
「あなたが勝つ、ということは、相手は負ける、ということよね。他の人を傷つけてまで勝ちたいの?」
「玲奈姉、それは違うよ。確かに勝ちたいけど、勝つためだけにスポーツはするんじゃない。仲間との絆とか、全力で取り組んだ汗とか、かけがえの無いものがそこにはあるんだ。だから、お互いが全力を出した上での結果であれば、傷ついたりはしない。悔しさが残るだけだよ」
「それを傷というんじゃないの?」
「うまく言えないけど……悔しさと傷は違うと思う」
 玲奈姉は真面目な顔をしていた。なんだろう? 理解できないものを理解しようと必死になっているような……そんな気がする。
「……そう、かもしれないね。ゲームに戻るの?」
「仲間と約束したからね。それに玲奈姉にもいいとこ見せないと」
「カズ君が勝ちたい理由の一番は何?」
 まっすぐに、玲奈姉は俺の瞳を見てそう尋ねた。
 理由の一番……俺は少し考え、こう答えた。
「一番なら……一緒に練習してきた仲間のため、だよ」
「ならよし。頑張ってね。私も見てるから」
 そう言い残して玲奈姉は保健室を出ていく。
 気合十分になった俺は、その後大活躍をし、俺たちのクラスは学年で優勝したのだった。
 そして、あっという間に校庭の八重桜は満開になった。


 私はカズ君とメールでやり取りし、明日の放課後に八重桜の木の下で返事をすることを約束した。
 私は椅子の背にもたれかかりながら天を仰ぐ。
 大きくなったカズ君は、外見は普通だけど、とても優しくなっていた。昔は比較的わがままを言うタイプの方だったと思うけど、今では周りに合わせて動くようになっている。何が彼を変えたんだろう?
 ケガをした球技大会でも、そのあと誰にも心配させないように気丈に振る舞って結局優勝しちゃうし。確かにバレーをしている時の彼は、正直かっこよかった。
 じゃあ、私は彼と付き合える? 彼のことを好きになれる?
 ……こう考えてしまう時点で、私はカズ君に惚れてはいない、ということなのだろう。恋愛感情なんて抱こうと思って抱けるものではないのだから。
 仲間のために、負けたくない。
 それは、仲間から嫌われることが怖いから、じゃないのかな。
 三週間、彼と話していて、私には気づいたことがある。
 私は彼を支えられると思う。お互いに理解して、慰め合うことはできる。でも、それしかできない。傷を舐め合って終わり。何も解決する方向へと向かうことはできない。そんな気がする。
 一緒にいるのは嫌じゃないし、むしろ楽しい。けど、それは同じだから、なんだと思う。シンパシーは恋愛じゃない。
 だから……私は断ろうと思っている。
 傷は浅い方がいい。そう、思っていた。


 俺はベッドの中でスマホの電源を落とした。
 いよいよ明日、返事を聞ける。
 やれることはやった。球技大会でもいいところを見せれたし、毎日美術部の部室に通ってトークを楽しんだ。最近はお互いに楽しく話をすることができていたと思う。
 でも、もし、断られたら……
 そう考えただけで俺の身がすくむ。気持ちを返されることが怖い。
 俺はかぶりを振って逆のことを考える。
 告白の返事がOKだったら、最初のデートはどこに行こう……? 映画、遊園地、動物園、水族館……定番のデートスポットを頭の中を巡る。
 でも、そこに、玲奈姉の姿はなかった。
 ……? あれ? まただ。どうして玲奈姉とのことがシミュレートできないんだろう……?
 好きな人との幸せな未来が描けない。
 再び俺は挑戦してみる。今度はもっと強く、玲奈姉と一緒に同じ部屋で暮らしているところをイメージして……
 その瞬間、瞳から涙があふれた。そして体が小刻みに震えだす。
 ……なん、だ、これ……?
 涙でにじむ世界が暗転し、一つの幻を俺に見せた。
『さよなら、一貴……』
 母さん……!?
『いやだぁぁぁぁっ!!』
 耳に響く悲痛な自分の叫び。あまりの辛さに目と耳を塞ぎ……再び開けた時には、そこに子供の自分がいた。両親の離婚によって家族が引き裂かれたころの自分が。
『それでもお前は大切な人を作るのか?』
 そう問いかけられ、そして……気づいた時には元に戻っていた。自分の部屋白い天井がやけにまぶしく感じる。
 ……今のは、何だ……?
 震えも、涙も止まらない。言い知れぬ恐怖に体が支配されている。
 なんだ、これ……? どうして好きな人との幸せな未来を想像しただけでこんなことになるんだ……?
 一旦落ち着こう……
 俺はティッシュで涙を拭き、鼻をかんでベッドに横たわる。
 それでも、しばらく揺さぶられた感情は収まらず、涙も震えも止まらなかった。
 ようやく落ち着いたのはゆうに一時間が経ってから。
 おそらくあの幻は、子供の自分が心の奥底深くに沈めた辛い記憶。じゃあなぜ今このタイミングでパンドラの箱は開いたんだ? 
 答えは、すぐに出た。
 玲奈姉との幸せな未来を思い描いたから。
 玲奈姉の返事がOKだったら……そう考えるだけで涙と震えが再発する。告白を断られることを想像する以上の恐怖が俺の身に望んでいる。
 何が怖い? どうして怖い?
 母さんの顔が、子供の自分の声が、頭を支配する。
 既に失ってしまったもの。
 ……そっか……失うことが怖いんだ……
 まだ玲奈姉は大切な人になったわけじゃない。けどもし、彼女になって、やがて奥さんになって……
 そんな未来を蝕むように恐怖が俺を襲ってくる。
 ……こんなの、どうしろっていうんだよ……
 俺は絶望的な気持ちで瞼を閉じた。朝になればすべて悪い夢だったと思えることを願って……

 ソメイヨシノが新緑に染まった頃、八重桜は満開だった。
「桜餅が食べたくなる色合いだよね……」
「玲奈姉、花より団子かよ」
 授業が終わり、ある程度人がはけた後の放課後。玲奈姉と俺は八重桜の下にいた。お互いに落ち着かない様子で八重桜を見上げる。
「玲奈姉。返事を聞く前に、一つ話をしてもいい?」
「何?」
 意を決して、俺は話を切り出す。
「返事を聞く前でも後でも、この話をするのは卑怯だと思う。でも、玲奈姉にこれを踏まえた上で、判断してほしいから、きちんと話しておきたいんだ」
「真面目な話なんだね。ちょっと座ろうか」
 初めて出会った日、スケッチをしていたベンチに二人で座る。
「実は、昨日、人生で初めて、フラッシュバックを経験したんだ」
「フラッシュバック?」
「母親と別れた瞬間を突然思い出して……子供のころの自分が目の前にいて、こう言われたよ『それでもお前は大切な人を作るのか?』って。それ以来、玲奈姉との未来を思い描こうとすると……」
 俺は玲奈姉の前に自分の腕を伸ばす。その腕ははっきりと震えていた。
「こうなるんだ。今も、よくわからない恐怖感に襲われてる」
「断られることが嫌なんじゃなくて?」
「……違うんだよ……」
 うつむいて、絞り出すように俺は答える。
 正直、悔しい。俺自身は何も悪いことをしていない。なのに、こんなにも怖い。好きな人のそばにいることが。
 玲奈姉はそんな俺の様子を見て、なぜだか納得したような表情をしていた。
「そっか……カズ君、同情と恋愛は違うものだ、ってわかってるよね?」
「ああ。わかってる」
「頑張ったらもらえる景品でもない、ってこともわかってるよね?」
 俺は玲奈姉の問いに小さく頷く。
「私ね、三週間、真剣にあなたを見た。バレーやってるカズ君はかっこよかったよ。友達をたくさん作って信頼されているところなんか、昔と違って周りを見てた。優しくなったよね。私の知らない間にカズ君も成長してて、正直驚いたよ」
 俺は顔を上げ、玲奈姉のことを見つめていた。語られる言葉を一言も聞き漏らすまいとして。
「カズ君、恐怖心の原因、気づいてる?」
「……なんとなく」
「たぶんカズ君の場合は、大切な人がいなくなること、じゃない?」
 ……っ!?
 俺は本気で驚いた。
「ど、どうして……」
「それでも、私を大切な存在だと思える?」
 核心を突く質問。俺は二の句が継げない。俺が返答に困っている間に、玲奈は話を続ける。
「私にもね、トラウマがあるんだ。昔いろいろあってね、私は、人を傷つけることが怖い。だから八方美人なんて言われる時もあるけど、すべての人に優しくしたいと思ってる」
 玲奈姉は何かを思い出し、辛そうな表情を浮かべる。
「だから、カズ君の不安は理解できるよ。だから私はカズ君を支えてあげられると思う。でも、救ってあげることはできない」
 二人の間に八重桜が一房落ちてくる。それを手で拾いながら、玲奈姉ははっきりと言い切った。
「だから……ごめんなさい。あなたとお付き合いすることはできません」
 胸を貫く返答。
「カズ君が穴に落ちたとしたら、私も同じ穴に落ちて、二人とも上がってこれない気がするの。穴の底で二人で傷を舐め合っていたら、お互い一人でできるはずの事すらできなくなってしまう、それは、お互いのためにならない」
 ショックは大きい。けど、玲奈姉の言葉が心にすんなり入ってくる。言っていることが理解できてしまう。
「そっか……」
「ごめんね? 大丈夫?」
 心配してくれたのだろう、玲奈姉は俺の瞳を見つめる。
「大丈夫だよ。むしろちょっと、ホッとしてる自分もいるんだ」
 嘘ではない。安堵している自分もいる。けどそれ以上に、玲奈姉の負担を減らしたい。
 他人を傷つける事が怖いのなら、今まさに玲奈姉はその怖さを乗り越えて話してくれているはずだから。
「ホント?」
「本当。はっきり言うの、しんどかったろ。玲奈姉、ありがとう、はっきり言ってくれて」
 俺は小さく頭を下げる。
「ううん、応えられなくてごめんね」
 発せられた言葉に、俺はすぐには返答できなかった。というか、もうこの場に居たくなかった。
「……ありがとう、玲奈姉。じゃあ俺、そろそろ行くね」
「こっちこそ、ありがとう。じゃあね、カズ君」
 俺はベンチを立ち、歩き始める。玲奈姉も俺とは逆の方向へ歩き出す。
 泣くのは家に帰ってから。
 そう決めて、俺は空を見上げた。悲しい青空は、俺の代わりに泣いてくれそうにはなかった。


夏 ヒマワリが咲く頃


「あちぃ……」
 夏の全国バレーボール大会に向けて練習真っただ中。とはいえ毎日の様な猛暑日に体育館は蒸し風呂状態。だれか死者がそのうち出るんじゃないだろうか。
 Tシャツの胸元をパタパタしつつ俺はスポーツドリンクをかっ込んだ。
 結局俺は、あの春の事件の後、バレーボール部に入部した。モヤモヤを晴らすには体を動かすのが一番。現にコートにいる間だけはバレー以外のことは忘れられてる。
『……いやだぁぁぁ!!』
 ……油断した。突然響く自分の声。もちろん俺の心の中だけだ。平静を装いつつ、俺はスポーツドリンクに口をつける。
 あのフラッシュバック以来、子供のころの自分の声が、映像が、時折頭をよぎる。さすがに何か月もたてば最初の時みたいに壊れたりはしない。けど、あまり気持ちのいいものでもない。
 失ってしまったものは、二度と手に入らない。
 そうわかっているからこそ、恐怖心が体を縛る。
 一度目をつむり、心を落ち着ける。深呼吸し、大丈夫と自分に言い聞かせる。
 再び目を開けた時には普段通りの自分に戻っていた。
 ……体動かそう。
 俺はボールをもって体育館の壁に向かって一人で練習を始めた。

 少し早めに部活が終わり、着替えて体育館を出る。その時に、三階の美術室を見上げることが日課になってしまった。
 玲奈姉は必死に平静を装っていた。でも、わかってしまった。何かが壊れている。玲奈姉も、傷ついてる。最初、振っといてなんでそっちが傷ついてんだよ、と思っていたけど……今はあまり考えないようにしている。考え出すと、自分の過去もセットで思い出してしまうから。
「一貴、はらへった。アイスおごって」
「アイスじゃ腹膨れないだろ……」
 部活の仲間がだる絡みしてくる。
「調子はどうだ?」
「ボチボチだな。夏の大会に向けて、調子は上がってきてる」
「なあ、先輩たちとはひょっとして最後の大会なのかな?」
 何気なく湧いた疑問。
「いや、たぶん冬の大会まで一緒だと思うぞ」
「そうなんだ。いい結果にしようぜ」
「ああ」
 夕日が沈み、少しずつ影が長くなっていく。バレーに打ち込んでいるうちは、もやもやしたものはすべて忘れられていた。

「え?」
 俺は自分の耳を疑った。
「何言ってんだ? 当たり前だろ。俺たちにとっては次の夏の大会が最後だぞ」
「受験生だしな」
「早くバトンを渡した方が、新チームへの移行もすんなりいくだろ」
「そう、なんですね……」
 三年生の先輩たちは全員、夏の大会で部活を引退するらしい。
 負けたら、そこで終わり……
 当たり前の事実が俺の心の中にずしっと重くのしかかる。
 負けたら、先輩たちとの時間が終わる……
 この日から、俺はそれまで以上に身を入れて練習に励んだ。少しでも先輩たちとの時間が長く続くように。
 何かに取り付かれたように俺は練習に没頭していく。
 夏の大会まであと数日に迫った頃、全体の練習が終わってからも、俺は一人体育館で練習を続けていた。
「お疲れ様」
 気づいたらなぜだか美彩先輩が来ていた。右手にはスポーツドリンクを持っている。
「はい、差し入れ」
「……ありがとうございます」
 俺はドリンクを受け取って、体育館の壁にもたれかかる。
「頑張ってるみたいだね」
「ええ、まあ、先輩たちと大会に出られるのは最後ですから」
 もらったスポーツドリンクを飲み、俺は尋ねる。
「あの、美彩先輩はどうしてここに?」
「特に意味はないよ。私も部活帰り。まだ体育館の明かりついてたから何やってるのかなーと思って」
「そうですか……」
 こんな遅い時間まで絵を描いてたなんて……好きなものに取り組んでると時間を忘れるってことなのか。
「ねえ、一つ聞いていい?」
 唐突にそう切り出す美彩先輩。
「なんですか?」
「今、楽しい?」
 美彩先輩は俺にそう問いかけた。
 楽しい? いや。
「楽しい楽しくないは関係ないですよ。辛くても、最善は尽くさないと」
「……そう。じゃあ邪魔しないようにあたしは帰るね」
「差し入れ、ありがとうです」
「頑張ってね」
 優しい励まし。俺は手を挙げるだけでそれに応え、再び練習に打ち込む。
 楽しい?
 正直、楽しくはなかった。


「暑い……」
「はい、玲奈暑いって言ったー。あそこの貯金箱に100円入れてきてねー」
「うぐっ……ねえ、美彩、美術室にもエアコン入れようよー」
「私にそんな権限はないよ」
 夏休みの一日。私たちも自分の作品と向き合っていた。
 高3の夏休み。もちろん大学受験に向けて勉強もしているが、週に一日くらいはこうして創作活動をしている。後輩のために何かを残していきたいという気持ちと、自分のやりたいことをするために。
 私は再びキャンパスと向かい合う。校庭の桜並木のデッサン画。まだ色を付けていない。
 ここをこうして、もう少し明暗をつけて……
 作品の中に没頭していく。
 あっという間に時間は流れていき、下校時刻となった。
「じゃあ先輩方、お疲れさまでした」
 後輩たちはは一礼して私たちとは違う方向へと向かっていく。
 夕日の中にクマゼミの声が溶ける。
「勉強順調?」
「ボチボチ、かな。玲奈は?」
「あたしもボチボチってところね。お互い学生生活最後の夏休み、後悔しないように頑張って、さらに楽しもうね」
「どこか遊びに行く?」
 私たちはそんな他愛のないお喋りをしながら家路についた。

「先輩方、明日はお暇ですか?」
 週一回の部活のあと、後輩の亜由子ちゃんが私たちに向けてそう切り出した。
「私は家で勉強するつもりだったけど……玲奈は?」
「私もそんな大きな予定はないけど、何かあるの?」
 私たちの予定をキラキラした瞳で聞いていた後輩は、こほんと咳払いをしてこう切り出した。
「明日はうちの高校の男子バレー部の県大会準々決勝なんです。というわけで、先輩方も明日応援に行きませんか?」
「私パス」
 美彩は即答でそう答える。あれ? スポーツは結構好きなはずなのに、即答なんて珍しい。
「玲奈先輩は?」
 問われて私は迷う。バレーということは一貴君がいる。私が行くことはかえってマイナスになるんじゃあ……
「私もパスかなぁ……」
「行ってあげたら?」
 自分は断ったくせに、美彩がそう私に勧めてくる。さすがにおかしい。
「何かあるの?」
 ただならぬ様子に私は思わず聞いてしまった。
「別に深い意味はないけど……あなたが行くと力を出す人がいるでしょ?」
「本気で言ってる?」
 私は一貴君の告白を断った。それは美彩にも伝えた。その上で言っているのだとしたら、さすがに怒る。
「……ごめん、でも、玲奈は行くべきだと思う。これは本気」
 真顔だった。誘ってくれた亜由子ちゃが少し気圧されるほどの。
 私は迷い、そして思案する。
 行く方が傷つく人が少ないのか、行かない方が傷つく人が少ないのか。
「……わかった。じゃあ私行くわ。ただし、美彩も行くなら」
「いいわ。行く」
 即答だった。まるでそう言うだろうことを見越していたかのよう……ってやられた。そのための布石か。最初のパスは。
「何時にどこにする?」
 そのあと、私たちは待ち合わせ場所を決めて、別れた。

 体育館に着き、ウォーミングアップに出てきた一貴君の顔を見た瞬間に、私にはすべてわかった。わかってしまった。
 一貴君の異常に。
 彼は恐怖感に支配されている。
「ああ……なるほど、ね……」
「え? 玲奈先輩?」
 思わず呟いた私に怪訝そうに尋ねる亜由子ちゃん。私はそれを無視して美彩に尋ねる。
「あれを見せたかったの?」
「というか、玲奈なら何とか出来るんじゃないかと思って」
「無理よ。私には何もできない」
 今も恐怖心を抱えている私じゃ、その恐怖心の拭い去り方なんて教えてあげられない。自分が知りたいくらいだ。
「とりあえず、試合を楽しみましょ。折角来たんだし」
 美彩にそう諭される。渋々、試合を見ていくことにした。
 そして、そのことを後悔した。
 一貴君のプレーは……痛い。一年生でコートにいるということは、実力をそれなりに認められたからだろう。確かにリベロとしてよく拾っている。
 でも、決して楽しそうじゃない。終始何かに怯えているようにしか見えない。
 準々決勝ということもあり、観客席にもそれなりに人がおり、ゲームが進むにつれて熱気を帯びていく。半面、一貴君の様子はどんどん悪化していく。
 そしてとうとう、サーブレシーブを一貴君はミスする。たった一度のミスをきっかけに、それは起こった。
 次のサーブ、一貴君は自分の方向に向かってきているのに、レシーブするどころか、微動だにせず、胸に直撃を受けてしまう。
「うぐっ……」
 たまらず蹲る一貴君。顧問の先生も慌ててタイムアウトを取る。
「きゃっ!」
 隣で聞こえる亜由子ちゃんの叫び。
 もう、見てられなかった。
 私は一貴君の様子を見に行くふりをして、体育館を出た。
 一貴君を支配している恐怖心の正体。それは、ゲームに負けることからくる恐れ。ゲームに負けることによって何かを失う、と思っているのだろう。だから普段以上の力があの状態でも発揮できていた。
 けど、大事なゲームで自分がしてしまった小さなミス。
 それによって何かを失う恐怖心に全身を支配されてしまったのだろう。
 手に取るように彼に何が起こったかがわかる。わかってしまう。まるで過去の自分。いや、今の自分とも大差ないか。
 私は結局、何も変わってないのかもしれない……
 私なら、この後どうするだろうか……
 少しだけ思案して立ち止まる。
 そして振り返った。そびえ立つ体育館。
 私なら……
 違ってほしいという願いを持ちつつ、私は唯一の入り口付近に戻っていった。


 ミスしたミスしたミスしたミスした……
 たった一度のレシーブミス。失敗が俺の心を責め苛む。
 思考が落ち着く前に、再びサーブが飛んできた。スローモーションのように近づいてくるボール。それに対して俺は何もできず、ボールは俺の胸を直撃した。
 2度続けてのミス。たまらず監督はタイムアウトを取る。
「加藤、大丈夫か?」
 ミスしたミスしたミスした……
 どうしよう、これが原因で試合に負けて先輩たちが引退したらこれまでの先輩との時間が終わってしまう。ミスしちゃいけないのにミスした……
「加藤!」
 どうして拾えなかった? もっと落ち着いて対処していたら拾えてたはずだ。どうしてもっと練習しなかった……? このままじゃ試合に負けて先輩たちはいなくなってしまう……
 バンッ!
 俺の目の前で、監督が大きく柏手を打った。
「聞こえてるか? 加藤」
「あ、はい……」
「落ち着くまで交代な。少し休め」
「え? でも……」
 食い下がろうとする俺の肩に、キャプテンが優しく手を置く。
「ミスを気にするな。ここにいる誰だってミスをしてる。一人だけで責任を負う必要はない。チームみんなのミスだ。自分を追い込むな」
 優しく、そう諭してくれる。だがそれでも、ミスをしたという事実は俺の心に暗い影を落としている。
「気持ちを切り替えろ。まだお前の力は必要だ」
 タイムアウトの時間が終わり、みんなはコートに戻っていく。監督は交代を告げ、俺はコートに戻ることなく、先輩たちのゲームをコートの外から見ていた。
 勢いに乗った相手チームが少しずつ差を広げてリードしていく。
 自分のミスのせいでチームが負ける……
 俺はその現実に耐えられず、体育館から外に出た。
 空は青かった。俺の心とは対照的に。
 現実から逃げ出したくて、走りだそうとした俺の前に、一人の女性が立ち塞がった。
「どこへ行くの?」
 そこにいたのは、玲奈姉だった。

「玲奈、姉……」
「逃げるの?」
 その言葉には、責めるニュアンスも、呆れや失望といった消極的な感情は一切含まれていない。ただ事実を確認しているだけ。
「ち、ちが……」
「違うんだ。そっか。私は昔逃げ出したからさ。てっきり一貴君もそうかも、と思ってたんだけど……余計な心配だったね」
 俺は玲奈姉に顔を向けていられず、踵を返した。
「玲奈姉、どうしてここに?」
「後輩がね、一緒に見ようって誘ってくれたんだ。頑張ってたね」
「でも、俺……」
 俺はそこで言い淀む。そんな俺に対して、玲奈はこう尋ねた。
「カズ君が勝ちたい理由の一番は何?」
 春の球技大会の時と同じ質問。
 俺は少し思案し、こう答えた。
「一番なら……一緒に練習してきた仲間のため……」
「違うよ」
 あの時と同じ答えをした俺に対して、玲奈姉は言葉を遮った。
 意味が分からず、俺は玲奈姉の方に向き直る。玲奈姉は優しく微笑んでいた。
「違う……?」
「今の一貴君は、仲間のためにって言ってるけど、本当は自分が傷つくのを怖がってるだけに見える」
「そんなこと、ない……」
「じゃあ、今考えて。このまま体育館から逃げるのと、どんなにミスしても部活の仲間と同じ時間を過ごすこと、どっちが失うものが多い?」
 問われて俺は考える。理性的に考えれば、逃げた方が失うものが多いことはすぐに分かった。
 もう二度と、部活には戻れないだろうし、ゲームを見ていた人たちからの評価も下がるだろう。何より、同じ時間を過ごしてきた仲間たちから白い目で見られるかもしれない。
「逃げる方が失うものは多い」
「でも、あなたは逃げようとした」
 玲奈姉の優しい眼差し。それは俺の嘘を見抜いていた。
「失うことへの怖さから、あなたは自分の心を守ろうとしたのよ。その結果、よりたくさんのものを失おうとしてる」
 玲奈姉の言うとおりだった。俺は二の句が継げない。
「あなたの仲間は、数度のミスであなたを見限ってしまうような人たち?」
「それは違うよ」
 監督は落ち着け、と言った。キャプテンはお前の力が必要だと言ってくれた。
「じゃあ、あなたが今すべきことは?」
 俺は答えない。沈黙の中、クマゼミの鳴き声だけが響いている。
 俺は答えないまま、玲奈姉に背を向けた。
「玲奈姉。ありがと。一つ頼みがあるんだけど」
「なに?」
「ゲーム、最後まで見てってくれ」
 玲奈姉に背を向けたまま、俺はそう告げる。答えを聞く前に俺はコートへと戻っていく。
 もう一度、仲間たちと闘うために。

「すみません、今戻りました」
 俺はコートサイドへと戻っていく。
 相変わらずリードされてはいるものの、まだゲームは終わっていないし、逆転ができない点差ではない。
 監督は俺の様子を確認する。
「うまく切り替えられたようだな」
「ええ、まあ……このままじゃ後悔しか残らないですから」
「久しぶりに笑ったな」
「え……?」
 監督はすぐにメンバー交代を告げる。
「挽回してこい」
 監督は背中をたたいて送り出してくれた。
「お、帰ってきたな」
「胸に直撃でハートブレイクしたんじゃないかって話題になってたけどどうなんだ?」
「頼むぞ」
 コートのみんなも、優しく俺を受け止めてくれる。
 みんなのためにできることをしたい。
 心からそう思えた。
「っしゃこーい!!」
 その後、俺は全力でゲームに没頭できた。


「惜しかったね、あと少しだったのに……」
 私は美彩とバレーの試合について話しながら帰路についていた。
「タイムアウトの後、何があったんだろうね。急にプレーが変わったけど……」
「さあ?」
 あの後、一貴君は見事に立ち直った。ミスを取り戻すようにミラクルプレーを何度もしてた。
 私は昔、他の人にアドバイスされても、それを無視して逃げた。逃げずに、立ち向かい、仲間を信じた一貴君もすごいと思う。彼ならきっと、失うことの恐怖もいつか克服できるだろう。
 私とは違って。
 過去の自分が選ばなかった選択肢の結果を見せてもらえた。それが嬉しい。と同時に、間違った選択をしたことへの後悔が自分の心を蝕む。
「帰り、どっかでご飯食べてく?」
 少しずつ秋の気配が感じられるようになってきた今日この頃、一人でいたくなくて、私は美彩と夏休みを満喫してから家に戻った。


秋 コスモスが咲く頃


 文化祭に向けて、美術部でもそれぞれが個人で作品を仕上げると同時に、部員みんなで一つの共作に取り組んでいた。
 共作のテーマは学校。校庭の中でみんなで好きな場所を選んでバランスを取りつつ描いていた。
「ねえ、玲奈。あのさ……」
 美彩と二人で同じキャンバスに鉛筆でデッサンしていたら、少し真面目なトーンで話を切り出した。
「ん? どしたの?」
「この絵仕上げたら、あたししばらく学校来ない」
「えっ!?」
 私は思わず持っていた鉛筆を落とし、隣にいる美彩を見た。
「画家をしてる叔父がね、冬になる前に富士山を描きたいらしくて、山梨の方へ長期滞在の旅行に行くんだけど、一緒に来ないか、と言われたんだ。だからちょっと行ってくる」
「なぁんだ。旅行でしばらくいないってだけじゃん。脅かさないでよ」
 私は少しホッとして落とした鉛筆を拾う。
「ううん、納得いく絵が描けるまでそこにいるつもり。あたしも、叔父さんも」
「えっ?」
「高校は卒業しとけって言われてるから、出席日数の絡みで卒業間近には間違いなく帰ってくるけど……」
「テストは?」
「うん、先生に聞いてみたけど、近々の中間受けたら、あとは三学期の年度末を受ければ何とか卒業できるみたい。もちろんそれなりの結果出さないとだけどね」
「本気、なんだね」
 正直、私は驚いた。何か副業のような形で絵を続けるんじゃなくて、絵を描くことだけを仕事にしていく生き方。私には選べない。
「プロから学べるチャンスだからね。親もいいって言ってくれたし」
「そっか……頑張ってきてね。写真、送ってね」
「ありがと」
 美彩がいなくなる……応援しなくちゃいけないのに、心のこもってない頑張れしか出てこない。励ましてあげたいのに、力づける言葉が出てこない。
 それどころか、私の中に別の考えが浮かんでくる。
 私が、何かしたんじゃないだろうか……?
 鉛筆の走る音だけが部室を占拠する。
 沈黙に耐えかねたのは、私だった。
「ねえ。もしかしてさ、私、何かした?」
「何かって?」
「その、知らない間に美彩の嫌なことを私がしてて、それを苦にしてここからいなくなることにしたとか……」
「違うわよ。あたしはあたしの道を歩み始めただけ。玲奈は関係ない」
「ホントに?」
「ホントに」
 美彩はキャンパスと向かい合いながら優しい声でそう答えた。
「何でもかんでも自分が悪いんじゃないか、って考えるの、よくないよ」
「頭ではわかってるんだけどね……」
「ネガティブ」
「自覚ありです……」
 二の句が継げない。私たちはまた沈黙のまま、キャンパスに向かう。
 けど……私の手は止まってしまっていた。
 大切な親友が、いなくなる。
 もちろん卒業したら会う機会は減るだろうと思ってたし、いつまでも同じだなんて思っていたわけではない。
 それでも、予想よりも早い別れに、私の感情が追い付かない。
 改めて思う。普通の日々が何よりの幸せだと。
「美彩、私、先に帰るね」
「……わかった。気を付けてね」
 これ以上部室にいても描ける気がしなかった。絵には、私の感情が出てしまうから。
「あれ? 先輩、もう帰るんですか?」
 廊下でばったり亜由子ちゃんと出会ってしまった。
「今日は筆が進まないから、ちょっと休むよ」
「そうですか……先輩に話したいことがあったんですけど、また今度にしますね」
「ごめん、そうしてくれる?」
「じゃあ先輩、お気をつけて」
 彼女はそう言うと、私とすれ違って部室へと向かっていく。
 何の話だったんだろ?
 ほんのちょっとの引っ掛かりを感じながらも、あたしは家路についた。

 私は自宅のベッドの上で、アルバムを見ていた。高校生活の思い出。そばには必ず美彩がいた。
 本当に私が何かしたんじゃないのだろうか……?
 美彩本人が否定したこと。理性ではそれについて考えるのは愚かなことだとわかっている。それでも、感情は止められない。
 私は、少し迷って中学時代のアルバムを手に取った。
 何年も開けられなかったパンドラの箱。
 でも、中学時代と同じ失敗をするわけにはいかない。
 神様、どうか過去と向き合う勇気を私に下さい。
 意を決して、適当にアルバムを開く。そこに入っていた写真は、修学旅行だった。ぴくりとも笑っていない私の隣で、朗らかに笑っている少女。
「亜美……」
 久しぶりに呼ぶ名前。思わず呟いた、ただそれだけなのに、私の目には涙が浮かんでくる。
 私は知っている。その朗らかな笑顔が、少しずつ変化していくことを。
 中学時代、私はいじめられていた。理由なんて覚えていない。なんでそうなったかなんて原因はわからない。ただ、靴を隠されたりとか、教科書に嫌がらせをされたりとか、そんなことよりも無視されるのが一番辛かった。
 そんな私に、ずっと変わらず優しく接してくれていたのが亜美だった。あの頃、亜美がいなかったら、私は自ら命を絶っていたかもしれない。どれだけ感謝しても感謝しきれない。
 嬉しい気持ちが、私を盲目にさせた。
 気づけなかった。私と接触している故に、いじめの対象が亜美にも広がっていたことに。
 私がそれに気づいたのは、卒業式の日だった。私はあの光景を忘れない。校庭から見上げた三階の音楽室から舞った紙吹雪。
 帰り道、道端に落ちていたその破片。細井亜美、と書かれたかけら。彼女はからっぽの筒のまま、最後の最後まで、私に隠し通した。
 そして亜美は、いなくなった。合格した高校には顔を出さず、転校したと風の噂で聞いた。
 中学卒業から高校入学までの期間、私は自分を責め続けた。知らないうちに、他人を傷つけていた。最後まで彼女に気を遣わせた。どうして気づけなかった? どうして浮かれた? どうして友を守れなかった?
 ずっと、ベッドで泣いていた。人と関わることが怖くなった。いじめが、じゃない。自分が責められるのはまだいい。それより、自分が他の人を傷つけることが怖い。
 こうして私は、周囲の顔色を伺いながら生きていくようになった。
 私は携帯電話を手に取る。この三年間で、何度亜美と連絡を取ろうとしただろう。亜美の連絡先は知っている。けど、一度も連絡を取ったことはない。ある程度事情を知っている美彩には連絡を取るよう何度も強く勧められている。けど、どの面を下げて連絡を取れるというのか。私が原因なのに。
 また、友が私の元から離れようとしている。本当に私が原因じゃないのか?
 写真の亜美は、ただ微笑むだけ。その笑顔を壊したのは自分。
 答えの出ない問いが、私の眠りを妨げ続けた。

 翌日から、私は美彩との距離を置くようになった。なるべく自然にすれ違うように。これ以上、美彩を傷つけないように。
 私は人が少ないお昼休みに部室に行き、共作を描き、人がいる放課後は自分の作品に没頭するようにした。
 春から何作か書いているけど、納得いく出来にならない、。校庭の桜並木。どうしても、ソメイヨシノを描こうとすると、八重桜の何もない黒が邪魔をする。でも両方同時には咲いている絵は描けない。それは虚偽だから。
 筆を走らせている間だけは、美彩のことも気にしないでいられる。
 気づけば、私一人だけ美術室に残っていた。
 もうこんな時間。そろそろ帰らなきゃ……
 片づけて帰ろうとしたところに、亜由子ちゃんがやってきた。
「先輩、ちょっといいですか?」
「どうしたの? 亜由子ちゃん」
「この間、美彩先輩に聞いたらそういうことは直接本人に聞きなさい、って言われちゃったので、直接本人に聞きに来ました」
「はあ……」
 素直というかなんというか……
「あの、一貴君と玲奈先輩はどういう関係なんですか?」
 問われて私は考える。亜由子ちゃんが傷つかない答えを。
「……子供のころを知っている、ご近所さん。それ以上でも、それ以下でもないよ」
「じゃあ、私が一貴君に告白したとしても、玲奈先輩は何とも思わないですね?」
 それまでより少しだけ語気を強めて彼女はそう問いかける。
 一貴君と亜由子ちゃんが付き合う……その様子を少しだけ想像する。なんだか少し心がむずかゆい気がする。でもそれは、嫉妬ではなく、弟に彼女ができた時のような感覚なのだろう。
 私には、嫉妬する権利がない。
「……うん。上手くいくといいね」
 私は微笑んで彼女を励ましたつもりだった。
 しかしそれは、失敗だった。彼女は明らかに落ち込み、うっすらと涙まで浮かべている。
「……先輩、私がなぜ美術部に入ったかわかります?」
「……ごめん、わかんない」
「好きな人が好きな人を好きになりたかったんです」
 今にも涙がこぼれ落ちそうな瞳で彼女はまっすぐに私を見た。
 好きな人が好きな人を好きになりたかった、それはつまり……
「一貴君が玲奈先輩に入学式で告白してた、って聞いて……あたしは玲奈先輩のことを知りたいと思いました。あたしは……玲奈先輩のことをちゃんと好きになれました。先輩なら、許せると思いました。なのに、その先輩があたしを励ますんですか……!?」
 私は答えられない。気づかなかった。亜由子ちゃんからしてみれば、今のは好かれている女の余裕ぶった態度だ。
「それは……残酷な優しさです!」
 彼女の瞳から、純粋な感情が雫となって流れ落ちる。
「あたしは……この気持ちを終わらせるために、文化祭の後、一貴君に告白します。前に進むために」
 涙を拭こうともせず、彼女は決意を私にぶつけてきた。
「……言いたかったことはそれだけです。失礼します」
 彼女は踵を返し、帰っていく。それを私は、ただ見ているだけしかできなかった。


 文化祭で俺たちのクラスは貸衣装屋と写真屋を合わせたようなことをすることになった。貸衣装を着て、記念の一枚を撮影し、その場でプリントして渡すというお手軽サービス。
 自分のローテが終わり、どこを見に行こうかと悩んでいた時、
「あ、あの、美術部に一緒に行きませんか?」
 美術部の隣りのクラスの女子が誘ってくれた。正直断ろうかとも思ったが、美術部なので、玲奈姉の絵が気になってしまった。
 俺は玲奈姉に会ったらどんな顔をしようかなんて思いつつ、彼女についていくことにする。
 美術部の部室の入り口を開け、俺は驚いた。
 黒板と同じサイズのキャンパス。
 そこに描かれていたのは、校庭だった。グラウンドでスポーツをしている人、帰宅途中の人、立ち止まって喋っている人……何気ない日常がそこには描かれていた。
 普段いつも見ている光景。だからこそ、それをここまで表現できることがすごい。
「美術部員みんなの大作なんです」
 彼女は自慢げにそう話す。
 確かに大作だった。
 校舎、桜並木、グラウンド、プール……いつもの景色がそこにある。細かなところまでよく見ていくと、確かに少しずつタッチが違うように感じられる。書いた人の個性が少しずつ表れているものの、全体のバランスを損なうほどじゃない。
 絵には詳しくないけど、長い時間をかけて丁寧に描かれたものだということは伝わってきた。
 絵の下にはタイトルパネルが設置されている。
 なるほどなぁ……
 思わず感心した。
『幸せ』
 と書かれたそのタイトルに。卒業してから、本当の意味でこの絵の価値がわかるのかもしれない。
「いい絵だと思いませんか?」
「ああ」
 俺は素直に同意した。
 それから俺はほかの作品にも目を止めていく。玲奈姉の作品は桜並木だった。一本だけ黒い樹があるから、校庭の桜並木だということがわかる。
「玲奈先輩の絵、あたし好き。でも、先輩自身はこの絵でも納得してないみたいです」
「そうなんだ。綺麗だと思うけどなぁ……」
「あたしもそう思います。そしてこれが、あたしの作品です」
 そこに描かれていたのは……
「俺?」
「……」
 彼女は答えない。
 バレーボールの絵。しかもアタッカーが宙を舞っている様子ではなく、地面すれすれを横っ飛びでレシーブしている絵。
 ユニフォーム、顔立ち、体型、目に映るものを統合すると、俺という結論にしかならない。
 いや、絵の方がかなり美化されているか。
「いや、俺こんなにかっこよくないよ」
「そんなことないです。私の目には一貴君はこう写ってます」
「お世辞はいいよ……」
 それでも、やはり嬉しい。
「あの……それで、その……」
「何?」
 伏し目がちに躊躇い、それでも彼女は意を決したのか、顔をあげて、俺の瞳をまっすぐに見詰めてきた。
「……好き……です……あなた彼女にしてくれませんか……?」
 ……え?
 スキ……?
「あ……えと、ちょっと待ってく……」
『いやだあぁぁぁぁっ!!』
 こんな時に……!?
 フラッシュバック。子供のころの声が聞こえる。思考が蝕まれていく。。
 俺今、告白されてる?
 もし告白を断ったら、彼女はいなくなる?
 もし告白をokしたら……彼女は大切な存在になるかもしれない。けど、いつかはいなくなる。
 思考と共に震えや恐怖心がやってくる。
「一貴君?」
 様子の変化に気づいたのだろう、彼女が心配そうに声をかけてくれる。
「……大丈夫」
 全然大丈夫じゃない声で俺はそう答える。
 すー……はー……
 一度大きく深呼吸して、心を落ち着ける。
 こんな状態で誰かのことを好きになれるのか? また、玲奈姉の時みたいになるんじゃないのか? まさに今、心が揺さぶられているように。
 半年経って、多少慣れはあるものの、動揺は隠しきれない。
「……ごめん、今まで気づかなくて……」
 顔を真っ赤に染めたまま、彼女は答えを待っている。その仕草はとてもいじらしいけど……この状態で思わせぶりな態度をとることは、彼女に対して失礼だ。
「気持ちは嬉しいけど、俺は、応えることができない」
 彼女はこちらを向こうとはせず、小さく頷いた。
「……うん、わかってました。他に好きな人がいる、ですよね」
 予想外の答えに俺の方が立ち止まってしまう。
 ほかに好きな人がいる? 俺に?
「いや、そうじゃなくて……今の俺は、誰の想いにも応えられないんだ」
「……どういうことですか?」
 ここで彼女は再び俺の方を見る。
「……怖いんだよ。自分にとって大切な人がいなくなることが」
 俺は右手を顔の前に持ってくる。案の定、震えていた。
「最近、昔のトラウマが発症したんだ。何かを失うということが極端に怖いんだ」
「……一貴君の過去に何があったかは知らない。話したくなければ話さなくていい。でもひとつだけ伝えさせて」
 優しく彼女は俺の手を握る。
「あたしはいなくならないよ」
 その温もりが、俺をさらに動揺させる。
 いっそ甘えたくなってしまう。けどそれは、自分の心を守るためだけの短慮な行動。
「……ごめん、今の俺じゃ君を幸せにできないよ」
「あたしにとってはあなたがいるだけで幸せです」
 日常が描かれたキャンパスの前で、何気ない毎日こそが幸せだと、彼女ははっきり言い切った。それに関しては俺も同意する。
 だからこそ、それが壊れるのが怖い。
 でも、変わらないものなんかない。人の気持ちも、目に見えるものも。変わってないように見えるのだとしたら、誰かが変わらないように力を傾け続けてくれたからにすぎない。
 手に入れた幸せが、指の隙間からこぼれ落ちていくのなんか耐えられない。だったらいっそ、最初からない方がいい。
「……ごめん」
 俺は彼女の手を優しく剥がす。
「そっか……振られるのは覚悟してたけど、まさかこういう形になるなんてなぁ……」
「きっともっといい男と出会えるよ」
「今告白して振った女にほかの男の話する? 無神経ですよね」
「……違いない」
 俺って奴は……
「ねえ、最後に一度だけハグしてくれませんか? あなたを忘れられるように思い出だけちょうだ……」
 言葉の途中で、俺は彼女を抱きしめる。
「……ごめん」
「……さっきからごめんばっかり」
 時間にしてほんの一瞬だと思うが、俺にとってはとても長く感じられた。
 彼女の方から、手を放し、離れていく。
「なんか……ありがとね」
「いや……ごめん」
「もう謝らないで。謝られると、あたしがみじめになる」
 彼女の瞳から涙が零れた。
 俺にはその雫をふき取るすべがわからない。
「じゃあ、あたしは席を外してもらってた部員を呼んでくるから」
 無理して笑う彼女は、そう言い残して、美術室を出ていった。
 残された俺は、もう一度彼女の作品を見る。
 キャンパスの中で、俺はかっこよくレシーブしていた。
 現実の俺は、自分を好いてくれた女の子を傷つけ、ただ佇んでいる木偶の棒と化していた。
 ……ごめん……って謝るのは相手をみじめにするだけか……
 俺は体を動かし、美術室を出ようとする。しかし大きなキャンパスが俺の心を捉えて離さない。
 何気ない日常こそが幸せ。
「いい絵でしょ?」
 ぼーっと見ていた俺に声をかけたのは、玲奈姉だった。


 文化祭前日、私は作品の仕上げに入る。
 共作はすでに完成し、黒板の前に展示されている。
 学校での日常を描いた『幸せ』というタイトルの作品。
 私にはわかる。友達と何気なく話し、退屈な授業を受け、体を動かす。普通の日々がかけがえのないものだと。
 私は自分の作品と向き合う。どうしても納得がいかない。薄紅色のソメイヨシノに混ざる黒。八重桜。
 いっそ咲かせてしまおうか……
 でもそうしても納得いくような絵にはならない気がした。
 私は結局、納得いかないまま、その絵を仕上げ、展示することにした。

 文化祭当日、自分のクラスの仕事が終わり、美術部の店番ローテに私は向かった。
 誰か来てるかな……
 期待を胸に、私は部室を除く。半開きのドアから見えたのは、抱き合う亜由子ちゃんと、一貴君だった。
 あ……!
 私は見てはいけないものを見てしまったかのように、慌てて姿を隠す。
 そっか……告白する、って言ってたもんなぁ……
 ちくり、と胸が痛む。
 ……ってなんで? 私がなんで胸を痛めるの?
 ……人様のいちゃつきを見て動揺してるだけだよね……
 私は自分にそう言い聞かせる。
 そしてそっとその場を離れることにした。
 それにしても、一貴君はちゃんと失う怖さと向き合って、大切な人を作れるようになったんだ……
 彼は変われた。なら、私も変われるはず。
 成長、しなきゃな……
 私はぶらぶらと他のクラスを見て回ってから、部室に戻った。
 残っていたのは一貴君だけで、亜由子ちゃんはいなかった。
 一貴君は共作の大作に見入っている。
「いい絵でしょ?」
 私はそう、彼に声をかけた。
「玲奈姉……」
 一貴君は驚いたように私の方を見る。
「何気ない日常こそが幸せなんだ、って美術部のみんなと話あって内容とタイトルを決めたの。大満足の出来よ」
「俺もそう思うよ」
 声に覇気がない気がする。何かおかしい。
「どうしたの?」
 思わず私はそう尋ねていた。
「……大丈夫。玲奈姉には関係ないから」
「……そう……ねえ、一つ聞いてもいい?」
「何?」
 私は確認こそしたものの、少し躊躇った。それでも、聞きたい。
「もう、怖くないの?」
 直接の質問。答えにくいだろうことはわかってる。でも、聞きたい。告白をOKするというのはそういうことだから。
「怖いよ」
 彼ははっきりとそう答えた。
「実は今も、一瞬フラッシュバックした。なんでこんな時に……って自分でも思う」
「だったら……」
「けど、怖いからって全てから逃げ続けてたら失うものの方が多い、って教えてくれたのは誰だっけ?」
 いたずらっぽく笑って彼はそう語りかけてくれる。
「……強いね」
「弱いから、強がってるだけだよ」
「……ううん、そうじゃない。自分が弱いことをわかってるから、強くあろうとしてるんだよ」
 本心からそう思う。私が持っていなかった強さ。
「……ありがと。なあ、玲奈姉」
「何?」
「玲奈姉に何があっても、力になるから。遠慮なく頼ってくれよな。俺は、玲奈姉の味方だから」
「そういうセリフは彼女に言いなさい」
 真面目な言葉を受け流す私。どういうつもりなんだろ。今まさに彼女と結ばれた瞬間だというのに。
「……俺、何言ってんだろ……もう行くね」
 少しだけ辛そうな顔をして、彼は部室を出ていった。
 俺は、玲奈姉の味方だから。
 いつまでもその言葉が心に響いていた。


冬 サザンカが咲く頃


 冬の大会も終わり、そこそこの成績を収めた我がバレー部は、今日は休暇ということで部活を切り上げて早く家に帰ることとなった。
 告白を断ったあの日、どうして俺は玲奈姉にあんなことを言ったんだろう?
 いまだ失うことは怖い。フラッシュバックが起こった直後でもあったのに……
「よ、少年、久しぶり」
 俺の帰り道、声をかけてきたのは、美彩先輩だった。
「美彩先輩。きょう出発じゃなかったでしたっけ?」
「明日だな。旅立つ前に、少年と会って話がしたくて、待ち伏せしたよ」
「俺に? ですか?」
 何の用だというのだろう?
「亜由子を振ったそうだね?」
 ……いきなりの飾らない言葉。
 同じ美術部だ。彼女を振ったということは伝わるだろうとは思っていたけど……
「……結果的にはそうなりますね」
「君も、心に傷があるのかい?」
「彼女は何も言ってなかったですか?」
「何も。私の勘だよ。惹かれあう二人には、何かしら共通点があるものだからね」
 もったいつけたような言い方。それに俺は反応してしまう。
「先輩には関係のないことです。失礼します」
「……私は、玲奈のことを大切な友達だと思ってる。玲奈の弱さを知ってる。だから、君を試させてほしい」
 試す? 俺を?
「意味が分からないです」
「難しい話じゃない。今、イメージしてくれないか。隣に亜由子がいるところを」
「なんでそんなこと……」
「四の五の言わない」
 渋々、俺は隣に彼女がいるとイメージする。
 イメージしても何も変わらなかった。
「ふむ……何も変わらないな……」
「気が済みましたか? それじゃ……」
「今度は隣に玲奈がいるところを想像してくれ」
「いい加減にしてください、先輩。俺は先輩のおもちゃじゃないんです」
「まあまあ、卒業生へのプレゼントだと思って」
「ったく……」
 やらないと帰してもらえそうにないので、俺は玲奈姉が隣りにいるところをイメージする。
 子供のころ、優しくしてくれた玲奈姉。入学式で見つけた時は本当に驚いて、嬉しくて……告白した時も俺を傷つけないように、優しくしてくれた。夏にはバレーの大会で励ましてくれて……
 隣に玲奈姉がいて、微笑んでくれてる。
 そうイメージした瞬間だった。
「……あれ……?」
 俺の頬を涙が伝っている。
「……やっぱりね……ありがと。辛いことさせて悪かったわね、ごめんなさい」
 美彩先輩はそう言うと、俺にハンカチを渡してくれた。
「……先輩、やっぱりって……」
「駄目よ。教えてあげない。その涙の意味は自分で気づかないと」
 俺は先輩のハンカチで涙を拭きながら耳を傾ける。
「あたしはね、あなたと亜由子がくっつくのが全員のために一番いいことだと思ってた。でも、現実は上手くいかないもんね……」
 美彩先輩はどこか遠くを見ながらそう呟く。
「さっきも言ったけど、あたしにとって玲奈は大切な友達なの。だから、あたしはあなたたちの味方よ。悪いようにはしないわ。あなたは、あなたの心の答えをまずは出しなさい」
「俺の、答え……」
 先輩は何のことを言っているのだろう。玲奈姉のこと? 過去のこと?
 もう、答えは出てる。
「先輩、俺……」
「答えはもう出てる、なんて思わないで。中途半端な気持ちはお互いを傷つけるだけよ」
 心を見透かしたかのような言葉に、俺は押し黙ってしまう。
「じっくり考えなさい。時は、もうそれほど残されてはいないわよ」
「……わかりました」
「じゃね。あ、あたしに会ったことは玲奈には内緒にしといて」
 そう言い残して、美彩先輩は手をひらひらさせながら去っていった。
 俺の、心の答え……中途半端なのか……?
 残された時は少なくなっている。
 その言葉が俺の頭をぐるぐると回っていた。


 文化祭が終わって数日後。今日は美彩の出発の日。
 私は随分迷って、駅までの見送りに行くことにした。もしかしたら、美彩と会えるのは最後かもしれない。
 私が駅に着いたのと、美彩がタクシーから大きなスーツケースをもって降りるのは同時だった。
「来ちゃった」
「嬉しいよ。ありがと」
「手伝おうか?」
「大丈夫。向こう行ったら一人でしないとだし」
 そう言って一緒に来たお母さんにも美彩は手伝わせなかった。
 駅のホームまで行き、電車の時間を確認する。まだあと10分程度、一緒に過ごせそうだ。
「お母さん、ちょっとだけ荷物番頼んでいい?」
 美彩の願いをお母さんは優しく受け入れた。美彩は私を誰もいない談話室の中へと連れていく。
「来てくれてありがとね」
 ベンチに座った開口一番、美彩は感謝を伝えてくれた。
 でも、感謝を伝えたいのは私の方だ。
「こっちこそ、今までありがと。おかげで高校生活、とっても楽しかったよ」
 二人で目線を合わせて微笑み合う。それから、私は気になっていたことを聞いてみることにした。
「ねえ、美彩。もし、私が何かしたんだったら、ごめんね。今後のためにも、何が嫌だったか教えてくれないかな?」
 私は勇気を出してこう聞いてみた。
 聞くのが怖くないと言えば、嘘になる。けど、前に進まなきゃいけない。
「そうだなぁ……まず、ネガティブな思考が嫌。あと、失言癖に、自信のなさ、自分だけが可哀想って考える自己憐憫なところとか、八方美人なところもかな。発言や行動で傷ついたことは確かにあるし、嫌いなところはあるよ」
 飾らない、率直な言葉。ただ事実を伝えているだけ。私を責める意図ではなく、何かを思い出すような仕方で美彩は話し続ける。
「亜美ちゃんとやらには連絡した?」
「まだ……」
「だと思った。その実行力のなさも好きじゃないかな」
 言い過ぎたと思ったのだろうか。彼女は私の頬に手を置く。それで初めて気づいた。自分が泣いていることに。
「どうしてあたしが亜美ちゃんに電話する様に言ってるかわかる?」
「……和解するため、じゃないの?」
「喧嘩してたの? 違うでしょ。あんたは、自分を責めてほしがってる。結局電話できてないみたいだから、今あたしが責めてあげた。もちろん事実だけど、嫌いなとこもあるけど、それ以上に……」
 美彩は少し言葉を止め、私の目を見て、こう言ってくれた。
「好きよ。あなたは大切な友達。急な別れになって、驚かせてごめんね」
「美彩……」
 頬にあててくれている美彩の手を、私の涙が伝っていく。
「亜美ちゃんが、どうしてあなたに何も言わなかったのか、わかる?」
「私に気を遣っていたから……」
「どうしてあなたに気を遣うの?」
 どうして……って……そんなこと考えもしなかった。
 私は答えられなかった。
「亜美ちゃんは、たぶんあなたを心配させたくなかったのよ。だって、亜美ちゃんからしてみれば、自分がいじめられることになっても一緒にいることを選ぶくらい大切な友達だったはずだから。友達を傷つけたくなくて、ずっと隠していたんじゃないかなぁ……もしかしたら亜美ちゃんも、急にいなくなった自分を友達とは思ってもらえてないかも、と思って連絡してこないのかもよ?」
 亜美は……ずっと怒ってると思ってた。私に愛想を尽かしたんだと思ってた。
 亜美が私を友達だと思ってるから、何も言わなかったの……?
「ま、あくまでも可能性の話だけどね。怒ってたり、嫌ってたりする可能性もある。彼女が傷ついてるのは事実だと思うから。けどね、玲奈。これだけは伝えさせて」
 美彩は私の頬から手を放し、私の涙で濡れたその手を私の手に重ねてくれる。
「クラスメイト、友達、恋人、いろんな人づきあいがあるけど、傷つかない関係なんてない。むしろ、傷つけあって、それでも接触し続けた結果、磨かれて美しい関係になると私は思ってる。それにね……傷は、治るよ。時間がかかるかもしれない、誰かの助けが必要かもしれない。それでも、きっと治る。だから、他人を傷つけることを恐れないで。優しい玲奈も好きだけど、少しわがままなくらいがあなたの場合はちょうどいいと思うよ」
「美彩……」
 私のためを思って言ってくれているのがわかる。それがすごく嬉しい。
 それから美彩は、私を優しく抱きしめてくれた。
「……がんばれ」
「ありがと……美彩……」
 どれぐらい、抱き合っていたのだろう……触れ合った部分から、お互いもっと深い部分で分かり合えた気がした。
「私が応援して送り出してあげなきゃいけないのに……ごめんね」
「ま、あたしたちらしくていいんじゃない?」
「そう?」
「さってと、そろそろ電車きそうだからいこっか」
 美彩がそう言った瞬間、駅に放送が入る。思わず笑ってしまった。
「向こう着いたら連絡してね」
「もちろん。写真も送るよ。上手く伝えられないかもだけど」
 私たちは別れを惜しみながらホームへと出ていく。
 やがて電車がやってきて……美彩は大きなスーツケースと共に中に乗り込んだ。
「また春にね」
「玲奈、あの絵、ちゃんと納得いくように仕上げなさいよ」
「美彩が帰って来る時までには仕上げとくよ」
「じゃあ、行ってきます」
 お母さんと私に投げかけられた言葉。その言葉が届くと同時に、プシューと音が鳴り、ドアが閉まる。ゆっくりと電車は動き出した。
「元気でね~!!」
 私は、電車が見えなくなるまで手を振り続けた。
 寂しいけれど、繋がりは切れていない。
 私の心に少しだけ、雲間から光が射していた。

 その日の晩、無事に向こうに着いたという美彩からのメールを受け取り、私は少しホッとした。
 ベッドの上で、携帯片手に私は考える。
 ずっと、逃げ続けてた。亜美に嫌われたことを事実として突きつけられるのが怖くて。私のせいで他人が傷ついたのを認めたくなくて、私は深川玲奈という別の人格の様なものを身に纏った。
 もう、終わりにしよう。このままじゃ足踏みだけしていて何も変わらない。足踏みしたって靴底は減る。だったら、前に進む方がいい。
 私は、勇気を振り絞って亜美の携帯にコールする。
 心臓がバクバクしてる。出てほしくないような、出てほしいような……永遠にも似た時間が過ぎる。
 結局、亜美が出ることはなく、電話は留守番電話になってしまった。さすがに何かメッセージを残す力はなく、私は力なく電話を切った。
 ……仕方ない、よね……
 私は安堵と残念の二つの感情を抱えながら、携帯を枕元に置く。
 その時だった。
 私の携帯が震えだす。
 着信は、亜美からだった。
 ……かかってきた!?
 私は一つ深呼吸をする。
 落ち着いて。大丈夫だから。
 私は通話ボタンを押す。
「もしもし、亜美……?」
「玲奈……久しぶり……びっくりしたよ」
「久しぶりだね。声、変わってない」
 懐かしい声が、私にとってはたまらなく嬉しい。
「突然どうしたの?」
「あの、あのね、亜美、今、元気?」
 婉曲な物言いしかできない自分が情けない。
「元気だよ」
「そっか、ならいいんだけど……」
 私は声のトーンを落とす。本当に言わなきゃいけないことはこんな事じゃないのに……
「またいじめられてるの?」
「違うよっ。高校はとっても楽しい。今日、友達とお別れしちゃったけどさ……」
「そっか……なら良かった……のかな?」
 ちょっと困った声を出す亜美。昔と変わらないその声が、私の素直さを引き出してくれた。
 勇気を出そう。
「亜美……あたしのせいで、ごめんね」
「何が?」
「卒業証書のかけらを拾ったんだ。私、ずっと知らなくて……」
「ストップ。玲奈、もしかして知ってるの?」
「その、亜美も、いじめられてたってことなら……」
「……そっか……知られちゃったか……ああ、それでさっきの元気? に繋がるのか」
 亜美は頭の回転が速い。短い言葉しかないのに、私の思考と感情をくみ取ってくれる。昔から居心地のいい存在。
「もしかして、玲奈、自分を責めてる?」
 亜美の問いかけに、私は答えない。答えられない。けど、すでに私はその事実を伝えてしまっている。
「玲奈のせいじゃないでしょ? いじめてたあいつらのせいだよ」
 真っ当な回答。確かにそうなんだけど、でも……
「でも、私と関わらなかったら……」
「玲奈、怒るよ。私は、私の意思で友達を選んだ。弱い者を見つけて虐げる奴らより、虐げられても優しく温和だった子を友達にしたかったんだ。私の意思と感情を否定しないで」
 驚いた。美彩の言うとおりだった。
 私は驚きですぐに言葉が出せなかった。
「まあ、逃げ出した私が言ってもあんま説得力ないけどさ……」
「今の高校は楽しい?」
「少なくともいじめはないからね。なんであいつらと同じ高校選んじゃたんだろ……おかげで転校して、夢も見つけられたけど」
「夢?」
「医者になるよ。助けたい奴がいる。だから今、医学部に入学するために必死に勉強してるんだ」
 亜美が医者!?
「嘘っ!? あの男勝りで勝気な亜美が医者!?」
「言ってくれるね。もう手が届く学力なんだよ」
「人って……変わるもんなんだね……」
 私はしみじみと呟いてしまった。
「まあ、ね。特に惚れた男のためなら」
「あ、さっきの助けたい奴って……」
「そんなこと言ったっけ?」
「言った」
 すっとぼける亜美に対して私は追及する。なんだか懐かしいな。このやりとり。
「今度さ、直接会って話聞かせてよ。センター試験終わったあたりでさ」
「会ってくれるの?」
 思ってもいなかった亜美からの提案。
「もちろん。楽しみにしてる」
「亜美……ありがとう……」
「どういたしまして……でいいのかな。じゃあ勉強中だから……」
「ありがと、またね」
 私は通話を切った。そのまま力なくベッドの上に大の字になる。
 私のせいで、亜美まで傷つけたと思ってた。もちろんそれも事実ではあるけど、亜美は前に向かって歩き出してる。
 傷は、治るよ。
 美彩の言葉が、頭の中で木霊する。
 私もがんばる。
 とりあえず、亜美に電話したことを美彩に報告しよう。
 少しずつ、私を捉えていた檻が壊れていくのを感じていた。


春 ソメイヨシノが咲く頃


 俺の、答え……
 美彩先輩に問われたことが頭から離れない。
 勉強も手に着かず、机に突っ伏して考えてしまう。
 なぜ、俺はあの時泣いたのだろう?
 玲奈姉が傍にいると思っただけで涙が零れた。
 わからない。
 振り出しに、戻ってみるか……
 すべての発端は、俺が玲奈姉に抱いていた淡い恋心。告白して、俺を見つめてもらっている期間にフラッシュバックが発生した。
 告白を受け入れられる方が、断られるよりも怖かった。
 ……今は?
 もしもう一度告白するとしたら……
 考えただけで震える。けどそれは、普通のことだ。問題はその先。
 玲奈姉との幸せな未来を思い描く。
 隣で微笑んでる玲奈姉。手をつないでデートに行く。遊園地、水族館、映画……
 やはり涙が滲んでくる。けどそれは、強い動揺を伴ってではない。じゃあなんだ?
 あなたとお付き合いすることはできません。
 玲奈姉の言葉が蘇る。
 ……そっか、振られてたんだ、俺。
 失われた選択肢。その事実が、悲しみを生じさせていたということなのか……?
 でも、じゃあ、失うことへの怖さはどうなった……?
 俺の中に答えはあるはずなんだ……
 俺は一つ伸びをして、ベッドへと移動する。
 ……待てよ……
 俺は強くイメージする。
 告白してくれた彼女が、転校するところを。
 笑顔で手を振っている自分をきちんとイメージできた。
 今度は卒業していく玲奈姉をイメージしてみる。
 もう二度と会えない。手を振って校庭の桜並木を歩いていく玲奈姉。俺は……
 この瞬間、今更ながらに強く自覚した。
 そっか……俺、まだ、玲奈姉のことが好きなんだ……
 震えてるし、泣いてもいる。それは、玲奈姉が俺にとってはまだ特別で、大切な存在だから。
 大切だから傍にいてほしい。大切だから失いたくない。願望と恐怖。相反する感情。
 結論を出すことから逃げ出したくなる。考えるには心の強さがいる。
 けど、それが俺の答えなんだ。
 何も得なければ、何も失わない。
 最初から何も望まなければ……
 ……違う。そうじゃない。
 勝ちたいのは何のため?
 球技大会の時の玲奈姉の問い。勝ちを望まないで試合に臨む選手はいない。
 良い結果を望むのは自然なこと。来年どうせ負けるからと今年全力を出さないのは愚かなこと。
 失うことを恐れて、願いをかなえようとしないのも、間違ってる。
 じゃあ、俺はどうしたい?
 玲奈姉に傍にいてほしい。これが嘘偽りない本心。
 じゃあ俺は、玲奈姉とのことで最善を尽くしただろうか?
 自分のせいだったり、告白の仕方がまずかったりで、俺はたぶん振られたことに納得がいってないんだ。
 じゃあもう一度告白する?
 一度振った相手からもう一度告白されたら、玲奈姉は苦しいだけじゃないだろうか……まして玲奈姉は人を傷つけることを怖がってる。
 残された時は少なくなっている。確かにそうだろう。学校で玲奈姉に会える機会はあと数回だろうから。
 失うかもしれない。けど、傍にいてほしいのなら、動かなければいけない。
 もう俺は、何もできないで泣き叫ぶだけの子供じゃない。
 失いたくないなら、最善を尽くして守ればいい。
 強く自覚した恋心は、俺に少しの勇気を与えてくれたいた。


 センター試験も終わり、大学受験に向けて本格的に準備を始める前に、私は部室へと顔を出した。
 書きかけの絵。何度描いても納得いかない校庭の桜並木。
 私はもう一度構図から練り直す。
 八重桜の黒が、ソメイヨシノの邪魔をする。
 何度も調和させようとしたけど、一度も上手く言ったためしがない。
「あ、玲奈先輩。お久しぶりです」
「亜由子ちゃん。お久。一貴君とは順調?」
「ええ、まあ……」
 二人は上手くやっているらしい。
「次はどこにデートに行くの?」
「秘密です。それより先輩、美彩先輩ってそろそろ帰ってくるんですか?」
「ああ、うん、そうね。あと一週間くらいかな……」
「そうですか……わかりました。部室に顔出してください、って伝えてもらえます?」
「わかった」
 私は忘れないうちに美彩にメールを送る。
「山梨はどうだったんでしょうね……」
「すごく勉強になったみたいよ。それに……こんな景色の元で創作できるなんて最高だよね」
 私は美彩から届いた写真の一枚を亜由子ちゃんに見せる。
「わ、すごい綺麗」
「でしょ?」
 その写真には、富士山のふもと、一面に広がる草原が写されていた。
「私も負けてられないけど、さすがに受験があるからね……今日からしばらく絵はお休みかな」
 構図くらいは、と思っていたが、上手くいきそうにないので、私は適当なところで切り上げて片づけ始めた。
「そう、ですか……」
「私たちが卒業した後の美術部をよろしくね」
 私はそう言って亜由子ちゃんの肩を叩き、部室を出ていこうとする。
「待ってください」
「……どしたの?」
 切羽詰まったような顔で、亜由子ちゃんは私を呼び止めた。
 どうしたんだろ?
 すると次の瞬間、亜由子ちゃんは私に深々と頭を下げた。
「ごめんなさいっ!!」
 ……え?
「なに? どしたの? 私、何か謝られるようなことされた?」
「あたし……ずっと先輩に嘘ついてました」
「嘘?」
「あたしと一貴君は、付き合っていません」
 ……えええっ!?
「そうなの!?」
 文化祭の日、抱き合ってる二人を見た私はてっきりカップルになったものだとばかり思っていた。
「先輩が私たちが抱き合ってるところを見て誤解してるってわかってたのに……否定しなかったんです。本当はあの日、あたしは振られたんです」
「……そっか……」
 こんな時、なんて言葉をかけたらいいのかわからない。
「一貴君はまだ誰も幸せにできないって……俺よりいい男見つけろって……」
 ……!?
 亜由子ちゃんの言葉を聞いて、私は悟った。彼もまだ、抜け出せずにいることを。
 一貴君は変われたとばかり思ってた。だから私も頑張ろうって思えて、前に進めた。けど……
「先輩は、春に一貴君に何が起きたかご存じなんですよね?」
「……ええ。知ってるわ」
「だから、一貴君を支えることができていたんですよね?」
「それは……どうかな……私はタイミングよく彼の背中を押しただけよ」
「……お願いします、一貴君をこれからも支えてあげてください」
 亜由子ちゃんは誠実に、私の目を見てそう嘆願した。
 私は亜由子ちゃんのこういうところが好きだ。
 誠実さには、誠実さをもって応えたい。
「亜由子ちゃん……ごめん、その願いは受け入れられない」
 私は、はっきりとそう告げた。
「……どうして、ですか……?」
「私にもね、トラウマがあるの。私は、他人を傷つけることが極端に怖い。昔、自分の大切な人を知らずに傷つけてたことがあってね、その人は突然私の前から姿を消した。私と一貴君は、ある意味同じ。シンパシーは感じられるし、理解もできる。けど、救ってあげることはできない」
 春に一貴君に伝えたのと同じ内容。考えは今も変わっていない。
「……そういう、ことですか……美彩先輩の言ってたことがやっとわかりました」
「なんて?」
「あの二人は磁石のNとNだから、引っ付かないよ、って」
 美彩らしい例えだ。
「そういうことになるのかな」
「でも、じゃあ、どうして夏のバレーの大会の時に一貴君にもう一度ゲームに戻らせたいと思ったんですか?」
「あの時は……彼が恐怖心と闘ってるのがわかったからね。私は昔逃げちゃった。でも、彼には逃げてほしくなかったから、かな」
「先輩、それは私が聞きたい質問の答えじゃないです」
 違った?
「どういうこと?」
「どうして、逃げてほしくなかったんですか? なぜ、ゲームに戻ってほしかったんですか?」
 問われているのは理由。
「それは……その方がしんどいと経験から知ってたから」
「あの時には先輩は一貴君を助けてあげたいと思った、ということですよね」
「……そうね」
 それは間違いない。そうじゃなければ、私は彼を見捨てて帰っていただろう。逃げる方がしんどいことを知っていたから、そのしんどさを味わってほしくなくて、私は彼を留めた。
「誰かのために何かをしたい、っていう気持ちを何て呼ぶか知ってます?」
 私は答えられない。考えたまま、沈黙が場を支配する。
 亜由子ちゃんは、悔しそうに、辛そうに、その一言を紡ぎだした。
「愛、ですよ」
「……!? それは違……」
「先輩はさっき、救ってあげることはできない、そう言いましたよね? 出来る出来ないは恋愛には関係ないです。それは理性。心は、したいかしたくないか、ですよ」
 亜由子ちゃんの言葉が、私の心の箱のカギとなって、奥にしまっていた感情を呼び覚ます。
「したいか、したくないか……」
「もう一度お願いします。一貴君を支えてあげてください」
 今度は頭を下げるのではなく、亜由子ちゃんは私の手を握って、目を見て、そう願う。
「……少し考えさせて……」
 私は、気づいてしまった本心に素直になれずそう答えた。

 心の動揺はあったものの、大学試験は無事に終わり、なんとか志望校に合格できた。
 もう授業はない高校に私は顔を出し、顧問の先生に話をして、部室でずっと絵を描いていた。
「やっと、気づいたんだ」
 一、ニ年生は授業中。集中していた私に声をかけたのは……美彩だった。
「久しぶりだね。玲奈。元気だった?」
「まあね。美彩こそ元気そうでよかったよ」
 久しぶりの再会だというのに、私は美彩の方を見ようとすらせず、ずっとキャンパスに向かっていた。
 美彩も私の筆が走る先を見ている。
「あたしは、納得いく絵が描けた。けど、あなたはどうかな、と思って気にしてたんだけど……その分だと大丈夫そうね」
「在学中に間に合うかどうかだけどね」
 私は小さく笑って少しリラックスする。
 そして、彼女に問い尋ねた。
「いつから、気づいてたの?」
「何に?」
「私の本心に」
「春、八重桜が散った頃から」
「教えてくれてもいいのに」
「素直に言葉で伝えて認めた?」
「無理」
「でしょ?」
 今、私が描いている構図、それは、八重桜だけが咲いている。ソメイヨシノは若葉をつけた黄緑色。ピンクの花びらは絨毯として歩道を彩っている。
 私が書きたかったのは、桜並木じゃなかった。咲き誇る八重桜だったんだ。
「気づいてなければ、今日はヒントを残して帰ろうと思ってたんだけど……その絵が意味してることも、わかってるのよね?」
「うん、わかってるつもり」
「なら、よし。描き終わったらまた遊ぼう」
 それだけを残して、美彩は帰っていく。
「ありがと、美彩」
 聞こえたかどうかはわからない。ただ、ずっと待っててくれたことへの感謝は伝えたかった。

 私はベッドの中で、ずっと考えていた。
 美彩との別れ、亜美との邂逅、亜由子ちゃんの言葉……
 傷は、治るよ。
 私の意思と感情を無視しないで。
 誰かのために何かをしたい、っていう気持ちを何て呼ぶか知ってます?
 いろんな人の助けを経て、ようやく気づいた。
 私は、人を傷つけることを恐れて、自分の感情を押し殺し続けてきたんだ。本当にしたいこと、本当に大切なもの、本当に話したいこと、それら全部を私は否定し続けてきた。
 亜由子ちゃんに言われたとおり、夏のあの日、私は無視して帰ることもできた。けど、彼のためにあの場に残った。
 彼のために。それが私の本心。
 最初その感情は、弟への親愛の情の様なものだと思ってた。亜由子ちゃんが告白する、って宣言しに来た時ですら、そう思ってた。
 蓋が開いてしまった感情の箱は、もう元には戻らない。
 いつの間にか、私は、一貴君のことが好きになってた。
 自分の心と正面から向き合い、それでも他人のために力を傾けられる一貴君のことが好き。
 彼のことを傷つけるのが怖い。でもそれは、彼のことを大切に思っている証。
 ゴミ箱のティッシュに傷がついても、何とも思わない。けど、大切な宝物に傷が付いたらショックなのと同じように、私にとって一貴君はいつの間にか大切なものになっていたんだ。
 でも、じゃあ、恋人同士になりたい?
 すぐには答えが出なかった。
 まして私は一貴君の告白を一度断っている。その相手にこちらから告白するのは失礼じゃないだろうか?
 だから、私はあの作品を仕上げる。もし、あの作品に込めた私の気持ちに気づいてくれたなら……
 淡い期待を胸に、私は眠りについた。


 まだまだ肌寒い三月初旬、卒業式が執り行われようとしていた。
 仰げば尊し、蛍の光、送辞、答辞。つつがなく進行していく。
 俺はずっと考えていた。失うことになるかもしれない。それでも傍にいてほしい大切な存在のことを。長い来賓の挨拶も終わり、卒業生たちは退場していく。この後は教室で最後の歓談を楽しんだ後、校庭で在校生との最後の別れ。
 俺は校庭では玲奈姉を探していたが、見つけられなかった。代わりに美彩先輩や美術部の面々を見つけた。
「美彩先輩、玲奈先輩は?」
「さあ? あなたなら見つけられるんじゃない?」
 校庭は人で溢れている。この中から目当ての人を一人探すのは難しい。
「玲奈先輩は一人で?」
「知らないわ。でもここにはいない」
 俺は玲奈姉が行きそうな場所を考える。
 もしかしたら……俺は思いついた場所に走る。
 校庭の桜並木。今はまだ蕾のままの木々たち。
 その中に、玲奈姉は佇んでいた。
「玲奈、姉……」
「カズ君……どうしたの? そんなに慌てて」
「ちゃんと言いたかったからさ」
 俺は呼吸を整える。そして用意してきた白バラ一輪を玲奈姉に差し出した。
「卒業おめでとう、玲奈姉」
「……ありがとう。カズ君。嬉しいよ」
 玲奈姉は差し出されたバラを快く受け取ってくれる。
「一年、濃かったなぁ……」
「俺も、今年一年はいろんなことがあったよ」
「告白して振られたり?」
「振った本人がそれ言う?」
「そーでした」
 くすっと玲奈姉は笑う。つられて俺も笑っていた。
「カズ君、ありがとう。あなたのおかげで、私は前に進むことができた」
「俺は何も……」
「ううん、あなたが前に進む姿が、私に勇気をくれた。感謝してる。あなたに出会えてよかった」
 優しく微笑みながら、玲奈姉はそう気持ちを伝えた。
「こっちこそ、ありがとう、玲奈姉。玲奈姉が励ましてくれなかったら、と思うと、どれだけ感謝してもしきれない。ありがとう」
 俺も心からの感謝を伝える。。
 どちらからとも、何も切り出せない中、優しい春一番が二人の間をそよいでいった。
「何かが終われば、何かが始まる。大学じゃ何があるんだろうなぁ……」
「楽しみ?」
「今は不安の方が大きいかな。でも、やりたいことだから」
「今更だけど、玲奈姉、どこに行くの?」
「児童心理学の単位が取りたくてね。そっち系の大学よ」
「へぇ……そうだったんだ」
「絵本作家になりたいんだ。誰のことも傷つけない。人を癒す物語を子供たちに伝えたくて」
 風に舞う髪を抑えながら、玲奈姉は自分の夢を語る。
「そっか……なれるといいね」
「そこは普通絶対なれるよ、って励ますところじゃないの?」
 からかうように言う玲奈姉。なんだか本当は別のことを話したいような……そんな雰囲気を醸し出している気がする。でも結局、続きが語られることはなかった。
「絶対なれるよ」
「もう遅い」
 俺は当たり障りない言葉を紡ぐ。
 想いを伝えたい。けど、それは玲奈姉にとっては負担になるんじゃないだろうか?
 そんな感情が自分を支配する。
「さて、美彩たちが待ってる。この後美術部の皆でファミレスで送別会なんだ」
「そうなんだ……楽しんできてね」
 玲奈姉は小さく手を振り、桜並木から校庭の皆のところへと向かっていく。
 その後ろ姿を、俺は見守ることしかできなかった。
 結局、何も言えなかった。
 告白しようと思っていたのに……怖かった。
 断られるのが、じゃない。失うことが、でもない。
 もし玲奈姉が俺のことを嫌っていたら、玲奈姉は同じ相手をもう一度振ることになる。それは玲奈姉にとってとても辛いことのはず。
 そう考えたら、何も言えなくなってしまった。
 一年前、この桜並木が咲いていた時は、勢いだけで告白できたのに……
 今はまだ黒い蕾の木々たちを見上げてそう思う。
 無性に、咲き誇る桜が見たくなった。とはいっても早咲きの桜がどこにあるかなんて俺は知らない。
 あそこなら……
 ふと思い立って、俺は美術室へと向かった。さっき玲奈姉は美術部員でファミレスに行くって言っていたから誰もいないはず。そしてあそこには、玲奈姉が描いていた桜並木がある。
 俺は美術部の部室のドアを開け、絶句した。
 中央に置かれた一枚のキャンパス。
 その前に置かれている椅子は、ついさっきまでここで誰かが絵を描いていたような雰囲気を醸し出している。キャンパスを見て、すぐに誰の作品か分かった。
 玲奈姉……
 今まで玲奈姉が描いていた桜並木ではない。
 八重桜だけが色の濃い花を咲かせている。地面を彩るピンクの絨毯、緑のカーテンに包まれたソメイヨシノを淡いオレンジの光が優しく照らしている。
 素人目にもわかる。これまでの絵とは何かが違う。
 描きたいものが描けたのかな……
 色彩に、迫力に、穏やかさに、俺は一瞬にして絵の世界観に吸い込まれていく。
 そして一つの小さな違和感に気づく。
『幸絵』というタイトル。
 ソメイヨシノの影。
 濃いピンクの桜と青空。
 地面に広がるピンクの花びら。
 ……もしかして……!?
 それが、玲奈姉の気持ちだとしたら……
 砂時計の砂は、すべて落ちてしまっていた。


晩春 八重桜が咲く頃に


 4月29日、国民の祝日。大学も高校もお休み。
 私は薄く化粧をし、パステルカラーの春めいたワンピースに身を包んで家を出た。目指すは通いなれた高校。
 三年間通った同じ道も、在学中とは何かが違う。同じ景色でも違う感情。
 懐かしみながら校庭に入っていくと、そこは私が最後に書いた絵そのもののようだった。ソメイヨシノの花びらが地面をピンクに彩り、さわやかな風に舞い踊っている。上を見れば新緑と青空が眩しい。
 その中でも濃い目のピンクの花房をつけている八重桜は圧巻だった。
「綺麗……」
 八重桜に誘われるように私は近くのベンチに座る。
 一年前、私はここでカズ君を振った。二人の間に落ちた八重桜一房を今でも覚えてる。
 だから、ここから始めたい。
 一縷の希望を信じ、私は空を見上げていた。
 気づいてくれただろうか。気づかなかっただろうか。気づいたとして、来てくれるだろうか……
 緊張と不安が私を支配する。心臓の鼓動がはっきりと自覚できる。
 卒業式のあの日、想いを伝えてもよかったのかもしれない。でも、やっぱり怖かった。
 二度も告白を断った女から今更告白されても、それはカズ君にとって負担になるだけじゃないだろうか。
 そんな風に考えてしまったんだ。
 彼を傷つけるかも知れない。それは、とても怖い。
 けど、傍にいてほしい。
 もし気づいていてくれたら……自分が傷ついてもいいから、想いを伝えたい。
 心臓の鼓動が全身を支配する。私はずっと八重桜を見上げていた。
 どれぐらいそうしていただろう? 思っていたよりも早く、足音が聞こえた。
 まさか……!?
 私は驚いてそちらを見る。そこには、私の待ち人が立っていた。
「八重桜見てると桜餅食べたくなるよね?」
 驚きと緊張で、私は何を言ったらいいかわからず、よくわからないことを口走ってしまった。
「そう言うと思ったから買ってきてるよ、桜餅」
 私の考えを見透かしていた彼は、私の隣に座り、桜餅を手渡してくれる。
「気が利くね、カズ君。ありがと」
 私は一口かじる。口の中にしょっぱさと甘さが広がっていく。
「おいしい。いいお店のだね」
「ちょうど来る途中に美味しそうな和菓子屋さんがあったからさ」
 お互い話すべきことがあるのに、口を開けない。
 心地よい風が二人の間を通り抜けていく。
 八重桜に勇気をもらい、話し始めてたのは私だった。
「最後の作品、見てくれた?」
「もちろん、いい絵だった。まさに今日を描いているみたいだった」
「未来予想図?」
「それは歌」
 お互い言葉を紡ぎながら距離感を図っていく。
「過去と未来を繋げたかった。あの絵の中に小さな影が二つあったのに気づいた?」
「ああ、気づいた。だから、今日ここに来たんだ」
「そっか……」
 私は話し出す。緊張で上手く話せないかもしれない。けど、伝えたい。応えてほしい。
「一年前、幼馴染の男の子と再会したの。その子はバレーを一生懸命やっててね、自分の心の弱い部分とも戦うことのできる強い人になってた。私はそばで見てて、その人からすごい力を一杯もらった。自分も変わらなきゃって思った。でも、私はその子のことを傷つけた。想いを告白してくれたのに、断ったんだ」
「玲奈姉……」
 私はカズ君の顔は見れず、八重桜を見上げる。
「それ以来、何度桜並木を描いても、納得いかなくなった。自分に嘘を吐いたわけじゃない。自分でも気づいていない部分で、心が叫んでた。あの日のことを、ずっと後悔してた」
 私はここで彼を見上げる。
「最後の作品のタイトル、読めた?」
 私は描き終えた後、タイトルは書き記したものの、誰にも読み方を教えなかった。
「……ごめん、読めなかった。幸せな絵、って書いて……」
「『こうかい』って読むんだ。こじつけだけどね」
 自虐的に小さく笑う。
「去年、後悔したことを、今年は幸せにしたい。虫のいい話だっていうのはわかってる。もしかしたらカズ君を傷つけるかも知れないとも思ってる。それでも、伝えさせて」
 私に勇気を。
 そう八重桜に願い、私はカズ君を見据えた。彼の瞳に緊張している自分が写っている。
「あなたが、好き」
 春の温かな風が彼の耳に言葉を届けてくれる。
 少しだけ照れたような表情をして、彼は八重桜を見上げた。
「……玲奈姉」
「何?」
 彼は私の方をまっすぐに見据えた。私は緊張しながら彼の言葉の続きを待つ。
「俺も、あの日を後悔してた。自分の弱さを自覚して、混乱してた。でも、ある人が気づかせてくれたんだ」
 彼はそこで言葉を区切り、もう一度八重桜を見上げた。
「自分の弱さから逃げる方が失うものが多いって。だから、俺は弱さを受け止めることができた。逃げずに戦うことができた」
「カズ君……」
「あの日、玲奈姉は俺のことを救えない、と言った。けど俺は救われた。今度は俺が、玲奈姉の力になりたい」
 もう一度、カズ君は私と目を合わせる。
「今、ここでもう一度告白したら、今度は違う返事をくれますか?」
「……はい」
 自分でも顔が赤いのがわかる。
 恥ずかしすぎて私は顔を横にそむけた。
「その、今から言っておくけど、私、その、彼氏っていうのができるの初めてだから、知らないうちに傷つけちゃったらごめんね」
「大丈夫。俺の方こそ、努力するから、簡単に見限らないでほしい」
「……うん」
 私の返事を待って、彼は優しく私を抱きとめてくれた。
 優しい風がピンクの花びらを舞い上げる。
 八重桜が咲く頃に、私たちは確かに思い描いた幸せな絵を手に入れていた。
ひながたはずみ

2018年04月28日 00時59分24秒 公開
■この作品の著作権は ひながたはずみ さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
 「ごめんなさい」から始まる逆転青春ラブストーリー

◆作者コメント:

 作者注記:この作品は、甘いです。糖分が苦手な方はスルーしてください。

 書き終えて、読み終えて、作者史上極甘だということに気づきました。苦手な方は背筋がぞわぞわすると思いますのでご注意あれ。

 いろいろ書きたいこともありますが、ここで書くのは野暮ってものですな。作品から何か一つでも感じ取ってくださればそれで作者は満足です。

 企画開催お疲れ様です。この機会を与えてくださった運営の皆さんに感謝です♪ 

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2018年04月30日 20時38分51秒
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合計 14人 200点

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