水葬クインビー

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「次は四分にするぞ」と言ってみた。
 雨谷砂璃(あまやさり)の顔色はみるみる内に青くなり、何でも言うことを聞くからそれだけはやめて欲しいと懇願する。そこで私は授業中に教師に指名され黒板の前でチョークを食べることを約束させ、笑いが取れなかった場合もやはり四分間トイレの中に顔を浸けることを通告して、席に着かせた。
 この脅し文句の効果は覿面だ。トイレの中に顔を浸ける遊びを始めた時、ナチがストップウォッチを持ち出したのが始まりだった。最初は一分だった息止めの時間は一分半、二分と伸びて行き、今では三分間、砂璃は水中に顔を浸けていられる。と言ってもそれには大きな苦痛と恐怖を伴うようで、今ではストップウォッチを取り出すだけで泣きじゃくるのだけれど。
 砂璃が味わっている苦痛がどれほどのものなのか、風呂場で一人試してみたことがある。三十秒を過ぎる頃には鼻先がちりちりと痺れはじめ、胸の奥に大きな岩を次々と押し込まれるような息苦しさを感じたかと思ったら、一分を数える前に気が付けば浴槽から顔を上げている。何度か試したが二分を超えられたことは一度もない。三分を耐えている砂璃のことが信じがたく思われた。
 数学教師が黒板に問題を記すと、砂璃はおずおずと手を挙げて指名を乞うた。教室でもまず自己主張しないと言って良い彼女のその行為に教師はまずは困惑するが、意を汲んで彼女を黒板の前に立たせる。
 教師の方を見て、クラスメイト達の方を見て、砂璃は最後に私を一瞥する。さりげなく、『やれよ』という表情で顎をしゃくってやると、砂璃は泣きそうな顔をして手にしたチョークを齧り始めた。
 騒然とする教室。
 ボロボロと涙を流す砂璃から教師がチョークを取り上げた。困惑する教師の表情をびくびくとした様子で伺ってから、媚びるような視線をこちらに向ける砂璃を、私は世界で一番つまらない命を見るかのように眺めていた。

 ○

 私達のしている行為を示す言葉に、『いじめ』だなんて間抜けな響きのものがあるけれど、しかしその幼稚な三文字は実際の行為とはとても釣り合うものではなかった。
 最初は陰口とか落書きとか上履きにカッターナイフを仕込むとか、そういう可愛らしい内容の悪戯が主だった。だがそれも次第にエスカレートして、衣類を奪って校舎の真ん中に放置したり、バケツ一杯の泥水を飲むように要求したり、虫をたくさん捕まえて来させて全部食べるように言ったり、トイレの中に顔を突っ込んで息止めの新記録に挑戦させたりと、一年前の自分が見たら腰を抜かすような仕打ちを施すようになった。
 私達のしていることを他のクラスの友達に話すといつも身を退いて怯えた顔をされる。『自殺とかしたらどうするの?』とかいう誰に対する心配だか分からない台詞も、あながち笑いごとじゃ済まないと考えるようになっている。
 でもそこまでの状況になったのは、全部砂璃が碌な抵抗をしないからだ。
 砂璃は物静かで無害でいてもいなくても変わらないような女だった。勉強や運動の能力もほとんどクラスの一番下で友達といるところを見たことがなく、登校して一度席についたらそのまま一言も発さず身じろぎ一つせず下校まで過ごしきるような、取るに足らない存在だった。ただその綺麗な顔だけが、その透き通った肌や大きな瞳や通った鼻筋や桜色の唇が人の神経を逆なでするだけの、あまりにもつまらない女に過ぎなかったのだ。
 今のクラスになって数週間がたつ頃、どんな奴なのか気になってちょっとばかし声をかけて見たことがあった。
 放っておけばクラスの目立たないグループにでも自然と吸収されたかもしれないが、本質を見極めておいてからでも遅くはないと考えた。何せ私は私の所属するグループの人員に不満を覚えていた。ダサい奴と一緒にいたらこっちの面子まで潰れるので見栄えがする者同士集まるのだが、そうしてできた面子の内、ユリカは対等な口効いてくるしナチは訳分からんし、イエスマンのミホは扱いやすいが顔やファッションが私の思う水準に達していない。
 その点砂璃ならひとまず顔は綺麗だし、従順でトロそうな分便利に使えるかもしれないということで、面接してやる気になったのだ。
 だが結果は燦々たるものだった。砂璃のような協調性も積極性も微塵も持ち合わせていない人間からすると、私達のような人間は『怖い人』のように映るらしかった。ずっと伏し目がちで人の顔を碌に身もしない上、何を言っても怯えと媚びの滲んだ態度で、私をやり過ごす為だけの受け答えに終始していた。
『なんかさぁあしらわれてるみたいに感じるんだよねあんたの態度って。こっちは気を使って声かけてやってんのにさ。そんなんだから友達いないんだよ』
 私が言うと、砂璃は曖昧な微笑みを浮かべて目を伏せた。
『なんか言ったらどうなの? ちょっとキツいこと言うけど暗いよあんたって。このままじゃ一年間ずっとそんな感じで『ぼっち』のままじゃん? イジメられるよ?』
 砂璃は曖昧な微笑みを浮かべて目を伏せながら言った。『いいから』
『あ? なに? 心配して言ってやってるってのが分かんない?』
『いいから』
『余計なお世話って訳? こっちの気持ちとかはお構いなしなの?』
『ごめん』
『何に謝ったの?』
『いいから』
 この『いいから』に私は大いに苛立たされる。
『何あんた? 話してるだけでイラつくんだけど。友達いないとまともな話し方とか分かんないのかな? それか、ちょっと面がまともだからって調子乗ってる?』
 砂璃は唇を噛みながら恨みがましい目をこちらに向けないように下を向き続けていた。身を固くして私のことをやり過ごそうと言う魂胆だった。私の腹の中にわだかまった苛立ちを消し去るには、こいつのこの浅ましい魂胆をどうにか破壊してやる必要があると、私は理解した。
 前々からこいつの顔は気に食わなかった。何もできない劣等生の癖私より綺麗な顔を持っているこいつが気に入らなかった。自らの傘下に取り込めば少しは溜飲も下がるかと思ったが、こいつにその気がないのならこちらにも考えがある。
 あれをやろうと思った。一年の時にセンパイから見せてもらったあの遊び。クラスの気に入らない奴をトイレに連れて行って顔を便器の中に突っ込むのだ。長くそれを続けていると便器の水を飲みこんで溺れ、顔を上げさせた時に口からゲホゲホ糞尿の混ざった水を吐き出すのだ。そうすればこの綺麗な顔だって全部台無しだ。
 想定外だったのはその遊びが思いの他楽しすぎてやめられなくなったということと、便器の水と鼻水と涎でグチャグチャになった砂璃の顔の出来栄えが、それでも私より綺麗に見えたということだ。

 ○

「国語の杉浦がウザいんだよ」とナチが言った。
「分かる」とミホが追従する。「ウザいよね」
 『分かる』と言ってから相手の言ったことを繰り返すのはミホの得意技だ。何を言っても同じ返しをするので、一日に何回その反応を返させることができるかをユリカと競ったことがある。私の13回はユリカの31回に敗れ去ったが、『分かる分かる超分かる』を三回分にカウントするユリカがずるいだけなので特に悔しくはない。
「なんかあいつ市役所みたいな顔してない?」と訳の分からないことを言うナチ。
「え? ……ああ、分かる」と引き攣った顔でミホ。
「市役所ってダサいよねあたし死んでも住みたくないわ」
「わ、分かるー」
「なんか雰囲気とかが市役所の建物に似てるよね。野暮ったい感じとか堅苦しい感じとか。なんかアイツ市役所の中に住んでそう」
「う、うん。分かるなー」
「あーあ気分悪いなあ。誰かの乳首でも爆発しないかな」
 意味不明なことを言いながらナチは両腕を伸ばして伸びをする。限界に近い程脱色した金髪がさらさらと揺れる。この髪を国語の杉浦に注意されてご機嫌斜めなのだ。
 ナチは面が良いし、誰に何を言われてもこの金髪を染め直そうとしない強情さがある。言動は宇宙人そのものだが序列関係は理解していて、私の言うことにはぼんやり付いてくる。
 ミホは顔はイマイチだったが、従順なイエスマンで扱いやすい。一段下の立場から色んなことに良く気付き的確に太鼓を持つので、面子の中にいると全体がまとまりやすくなる。
「ねえ順子(じゅんこ)」ユリカが私に問うた。「こないだの中間テストどうだった?」
 私は答える。「あんま、良くない」
「でも学年一位なんでしょう?」
「順位はね」
 ユリカは小学校の時からの連れでずっと同じ塾に通っている。見栄えが良くてそれなりに遊ぶのに要領良く勉強して成績優秀。アタマの回転が速く物事に良く気付くので私にとっては話しやすいし、多分、一番の親友と言って良い存在だろう。
「塾のテスト範囲と学校のテスト範囲がかけ離れてる時あるじゃない? あれって困るよね。こっちは学校の成績だって見られてるのに、公立の奴は学校のとろい授業ペースなんて気にするなーとか言って来る訳でしょ?」と私。
「こっちはそんなことないかな。順子ちゃんは上級クラスだから特別なんだよ。実際、学校では一位になれているのだから、今のところ問題はないということでしょう? もちろん、それは順子ちゃんが偉いからなんだけどさ」
 『すごい』とか『アタマ良い』じゃなくて、『偉い』という言葉を使うから、ユリカは好きだ。
「私立の連中が塾で見下してくる。別に塾での成績はそんな変わんないのにさ」
「そういう風潮ってあるよね。でも私立の人達も大変だよ。私立の人が塾で下級のクラスに落ちて来ると、都落ちだーとか言って、皆でイジメるんだもの」
「順子ちゃんってアタマ良くてすごいよねー」ミホが太鼓をたたいているつもりで空気の読めない発言をする。「もう尊敬っていうかー。敵わないなー」
 そりゃあんたとは違うよ。「ありがとう。でも、そんな大したもんじゃないんだよ」
「そんなことないよー」
「ねえちょっと。気付いたんだけどさ」やり取りを静観していたナチがいきなり口を挟んでくる。「なんか、雨一杯降る時期ってない?」
「は?」ユリカは面食らっている。「梅雨ってこと?」
「ツユ? あ、そうそう。今がそうなのかな?」
「まだ五月だよ。どうしたの、急に?」
 雨が一滴落ちて、私の手の甲にかかる。
「あ……」
「蛇が泣いてんの」ナチは空を見上げた。「友達が欲しくて泣いてる。でも泣けば泣く程濡れたくない人が家に帰るから、余計に友達がいなくなんの。バカみたいだよね」
 ユリカが「訳分かんなーい」とへらへら笑う。「そうだよねー」とミホが追従する。ナチはぼんやりと空を眺めている。
「それって龍のこと?」
 私が言う。ナチは丸くした目をこちらに向けると、「まあね」と言って少し嬉しそうに笑う。
 ユリカとミホが首を傾げた。

 ○

 学校近くの高級住宅街の中にひときわ目立つ白色の建物がある。他の建物よりも明らかに立派で豪奢なその家が、私達一家の住所だった。
「ただいま」
 リビングの両親にそう声をかける。母親は「おかえり」と返してくれたが、父親は机に広げた書類に目をやりながらこちらを一瞥するだけで何も言わない。こんな小さなことがやけに胸に冷たく響いた。
「中間テストの結果が返って来たの」
「学校の?」と母。「一応、見せてみて」
 私が結果表を出すと母親は顔をしかめた。
「この英語の点数はなに?」
 予想していたことだがそれでも鼻白んでしまう。学校のテストで九割を下回る点数を取れば母親はいつも嫌味を言って来るのだ。
「答案を見せた時は何も言われなかったんだけれど」
「こっちも忙しいんだからいちいち見てられないわよ」
「塾に行かせて家庭教師付けて、教育熱心な割に娘の成績の管理はずさんだね」
「生意気を言えるような点数かしら、これ?」
「学年一位ではあるんだから問題ないでしょう。学校のテストにしちゃ難しかったの」
「学校のテストを難しいだなんて、たるんでる証拠ではないの?」
「塾の授業進捗とかけ離れているから、どうしたって学校のテストが疎かになることはあるの。その中で一位は維持しているのだから、要領良くやっていると褒めて欲しいくらい」
「もう少しマシな口答えを……」
「掃きだめの中で安心するのは簡単なことだ」父親が資料から顔を上げないまま口にした。「だが朱に交われば赤という言葉がある。低レベルな環境で勝者となったことに満足しているなら、それは公立中学に通うことがおまえに悪影響を与えていると言わざるを得ない」
 私は鼻白む。「塾でだって、私は上位クラスを維持している」
「最低限のノルマだが、それを果たしていることは褒めてやっても良い。低レベルな学校のテストにどうしたって身が入らないことも理解はできる。だが順子、今回の英語の点数が九割を下回ったのは、明らかにおまえの怠慢だ」
「どうして?」
「単語の学習が不十分だ。文法の理解は十分なのに、スペルミスが多い」
 父は私の答案を見ていたらしい。筋金入りの教育熱心なのだ、父は。
「それは塾で覚えることが多くて……」
「つまり能力不足だ。努力不足なんだ。それについては反省しなさい。この点数なら公立でも上回って来る生徒はいるだろう。公立の生徒に負けたんだ。おまえは恥をかいたんだよ、順子」
「はい……」私はついに黙り込む。この家で父にだけは絶対に敵わない。
「こんなことになるのなら、もっと厳しく勉強させて、無理にでも私立に合格させるべきだった」と母。「ごめんなさいねお父さん」
「過ぎたことだ。それに、人生でほんの数年間、落ちぶれる時期というのはある。順子にとっては今がそうなんだ。成功はいつでもできるが、挫折を経験できる数は限られている。今は臥薪嘗胆の日々だ。高校から姉さんと同じ高等部に通えばそれで良い」
 父はそう言って顔を上げ、鋭い視線で私を見やる。
「辛うじてでも学年一位なら、首の皮一枚繋がっているしな」
 私はぞっとしてその場で固まる。
「部屋で勉強してきなさい」
 言われた通りに自室に戻ろうとすると、途中、姉とすれ違う。
 一つ年上の姉はメガネを持ち上げながら言う。「大変ね」
「何が?」
「たった一回の中学受験に失敗したことで、三年間嫌味を言われ続けなければならないなんて」
「姉さんのそれこそ嫌味ったらしいのだけれど」
「皮肉を言ったつもりはないわ。妹に同情しただけ。同じ親を持つ姉妹として分かり合える部分はあるはずよ」
「傷でも舐め合おうって? 私は誰かと違って友達もおらず他に取り柄もなく勉強ばかりしていた訳じゃないし、心が弱い訳でもない」
「父さんに叱られたくらいで私に八つ当たりするガキの心が強いとは思えないのだけれど」
「あんたみたいなガリ勉と仲良くしてバカになるのが嫌なだけ」
「落ちこぼれは自分の努力不足を棚に上げて人をガリ勉と呼ばわる」
「これでも同じ家に住んでるんだからあんたが机に齧り付いてることくらい知ってる。遊ぶ友達がいないことも、学校でメガネザルと呼ばれてバカにされていることも。そんだけやっていつも赤点ギリギリ低空飛行で母さんに怒鳴り散らされていることも知ってるよ。高等部に上がれるかどうか危ういんだってね」
「あんただって私立に受かってたら似たような状況だった。精々バカ共と仲良くして落ちぶれれば良い」
「私は落ちぶれないし、自分のコンプレックスで知りもしない他人をバカ呼ばわりするあたり、あんたのがバカな証拠じゃない?」
「やめなさい」父親が割って入って来る。「順子、姉さんを挑発するんじゃない。それに乗っかる良子も良くはない」
「ごめんなさい、父さん」姉はそう言って澄まし顔でその場を立ち去る。
「順子は姉さんと仲良くするべきだ。競争心を持つのは良いことだが、姉さんはおまえより勉強ができるのだし、辛酸を舐めて教えを乞うくらいの気概を持ちなさい」
「勉強は自分でできるよ、父さん。それにあの人の教え方が上手だとは私には思えない」
「ならせめて塾の生徒達と友達になることだ。いつもつるんでいる学校の生徒達は、あまり良い噂を聞かない子もいる。ユリカちゃんだったかな? 彼女とは小学校の頃からの友達だから良いとして、あの子、あの背の低い綺麗な子」
「砂璃?」
「そうだ。砂璃ちゃんだ。あの子は筋金入りの劣等生だと聞いている。父親はおらず、母親はビルの清掃員。引きこもりの妹がいるそうだ。近い将来の人生の落伍者だな」
「なんでそこまで詳しく知ってるの?」
「母さんから聞いた」
「そんなことまで親に知られたくないんだけれど」
「母さんはヘリコプターペアレントなんだ。あまり酷いようなら父さんからも言っておく。ただ、友達は選びなさい。付き合い方も」
「砂璃は別に友達とかじゃない」
「分かっているよ」父さんは私の頭に手をやる。「あまりやりすぎると良くない。父さんの会社でも何人かそれで退職している。やられるような社交性のないものが悪いのだが、する者が咎めを受けない訳ではない。特に、公立の学校のような空間では」
 何を『分かっている』のか理解して、私は目を丸くして歩き去る父親の背中を眺めていた。

 ○

 風呂場で湯船に浸かっていると思い出すことがある。私立の受検に落ちた時の記憶だ。
 両親は共に教育熱心な人だったが、感情的で口うるさい母親と比べれば理詰めで必要なことだけを口出しする父親の方が、私は好きだった。ひたすら机に齧り付いていることを要求する母と比べれば、父は結果さえ必要なだけ出していれば何も言わずにいてくれる。優しい言葉をかける時も母親のように白々しくないし、誰もが知っている大学を出て誰もが知っている企業で働き、そこでも出世頭の父は格好良かった。
 けれどもそんな父は私の髪の気を掴み、お湯を張った浴槽に私の顔を深く沈めた。
『苦しい? ああそうだ。苦しませようとしているんだ』父はそう言って、水を吐き出す私に容赦しなかった。『失敗や挫折は誰にでもあるが、それには常に強い痛みを伴う。恥ずかしくみじめで、周囲の期待を裏切りバカにされ、嘲笑われる』
 あの時の私は一体どのくらいお湯の中に顔を浸けていたのか。思い出せない。苦しかったが危険を感じる程ではなかったし、折檻とは言え娘にやることなので手加減はあったはずだ。だから一分は超えていないはずだと思うが、それでもあの時の息苦しさは全身に染み付いて一生涯忘れられそうにない。
『『私だってがんばった』? どこがだ? 一日三十分のテレビゲームの時間を何度破った? 友達と遊びたいからと何回塾を休んだんだ?』
 行って父は私の顔を湯船からあげる。
『確かにおまえは何でも良くできる子だった。姉さんよりもおまえの方が親戚に見せても受けが良い。おまえは綺麗だし受け答えも利発で友達も多い。だから姉さんのようには勉強ばかりさせずに色んな長所を探ってみた。マラソンで一位になったし雑誌のモデルになったし囲碁の大会で優勝だってした。だが肝心の勉強で落ちぶれたんじゃ意味がない』
 私の顔が再び湯船に突っ込まれる。
『これは父さんの油断だ。判断ミスだ。甘かったよ。だが他でもないおまえの挫折でもある。おまえが本当に父さんの子なのなら、いくら他にやることがあったからと言ってあの程度の私立受かって見せられたはずだ。それができなかったのはおまえ自身の失敗で挫折なんだよ』
 私が顔を上げると飲み込んだお湯をゲホゲホ吐き出す。
『噛みしめろ。噛みしめろ。おまえは失敗をした。おまえは挫折をしたんだ。今のおまえはみじめで恥ずかしい、父さんの期待を裏切ったクズの順子なんだよ。クズは相応の報いを受ける。それを今、噛みしめるんだ。それがおまえの為なんだ』
 父があんな風に私に暴力を振るったのは一度きりだ。それが終わると何事もなかったかのように元通りの穏やかで論理的な父親に戻った。
 それでもあのような強力で残酷な暴力が父親の中にあることを私は知った。それはいつだって私に向けられうるのだということも。
 私は父に対する認識を変えた。父から与えられる愛情や庇護は決して無償のものではないのだと。この世界の中で何かを得ようとするのならば、それは自ら勝ち取って見せるしかないのだと。
 戦い続けるのだ。そして勝ち続けなければならない。でなければ人はみじめに踏みつぶされ嘲笑われ殺されるのだ。勉強も仕事も人間関係も全てがそうなのだ。逆を言えば、自分の身を自分で守れないようなクズは、何をされても仕方がないということだ。

 ○

「七十九、雨谷砂璃はいつもウジウジとしている」砂璃はぐちゃぐちゃに泣いた顔をいじましくこすりながら口にする。「八十、雨谷砂里は嫌なことからすぐ逃げる。八十一、雨谷砂里は何度言われても爪を噛む。八十二、八十二……八十二……」
「早くしろよクズ」言いながら私は砂璃の肩を蹴飛ばした。「あんたの悪いところなんて千個でも一万個でもあるでしょ? たった百個で我慢してやるってんだから、それくらいもっとすらすら言えないもんなの?」
 昼休み、砂璃をトイレに連れて行った私達はあらかじめ考えておいたとてもおもしろい遊びを実行した。砂璃に自分の悪い点を正座させたまま百個言わせると言うものだ。言いよどんだり同じことを二回言ったりすると蹴飛ばしたりモップで殴ったりすることは事前に通告してある他、十分以内に言い終えなかった場合三分間トイレに顔を浸けることになっている。
「あとなんふーん?」ナチが言いながらユリカの手元を覗き込む。
「一分半くらい」ユリカがストップウォッチを握りながら言う。「あと一分二十六、五、四……」
「あ、雨谷砂璃は、雨谷砂璃は……、う、うぐ、うぅうう……」くぐもった泣き声をあげるばかりでそれ以上何も言えない砂璃。
「リタイアする?」私は両腕を組む。「急がないと時間切れだよ? 十分も時間あげたのに失敗したってんならちょっとやそっとじゃ済まさないよ。昼休みは後十五分くらいあるから、三分を四セットくらいできるかもね」
「ひ……ひぃ」砂璃は顔面を蒼白にして全身をガタガタと震わせる。「雨谷砂璃は……雨谷砂璃は……」
「番号!」私はモップを砂璃の顔面にぐいぐいと強く押し付ける。
「あ、あうっ。は、八十二!」
「番号忘れたこと先謝りなさいよ!」
「ご、ごめんんさい、ごめんなさい……」
「で? 八十二番目のあんたの短所は何なの?」
「八十二、雨谷砂璃は、悪いことをしても謝りません。八十三、雨谷砂璃は……」
「全身が臭いとか家が貧乏とか視線がムカつくとか色々あると思うけど」ミホが恐る恐るという口調で言う。
「そんな助け舟出さなくて良いよミホ」私は言う。「ユリカ、あとどんくらい?」
「あと二十秒、十九、十八……。早くしなよ」ユリカはストップウォッチを持ったまま砂璃にせかす。
「八十四、雨谷砂璃は……すぐに諦める」砂璃は顔を青くしながらおどおどと焦った様子で言った。「八十五、雨谷砂璃はいつも死ぬことばかりを考えている。八十六、雨谷砂璃は自分を棚に上げて他人のことを憎んでばかりいる。八十七、雨谷砂璃は妹にいつもバカにされている」
「こいつ妹いるの?」とナチ。「バカにされるのも無理はないけど」
「こいつに似てムカ付く奴なんじゃない?」とミホ。
「ち、違う……」砂璃は震えた声で言った。「璃砂(りさ)ちゃんは私と違って……優しくて良い子で」
 私は砂璃の頭を蹴飛ばした。「今はゲームの途中でしょう? んな余計な口効いてる暇あったらちゃんと自分の悪いところ考えなよ? そうやってなんだって真面目にやんないからあんたはゴミクズなんでしょうが?」
「ご、ごめんね、ごめんね」鼻血を垂らしながら懇願するように言う砂璃。
「リサってんのあんたの妹? ひきこもりだって聞いてるけど。そんでもあんた以下ってことはないんでしょうけどさ、クズの妹なんだからクズに決まってるでしょ?」
 私が言うと、砂璃はばちんと両目に力を入れて、それから強い憎悪を秘めた視線でこちらを睨んで来た。
「あ? 何その目?」
「り、璃砂ちゃんは……璃砂ちゃんは良い子だもん」
「……仮にそうだとして、あんたの妹が私達に蔑まれるのはあんたがクズだからじゃない? 姉のあんたが短所塗れのカスだから、妹のそいつまでバカにされてる訳じゃん? 妹に土下座して謝った方が良いよ、オネーチャン?」
 そう言って凄んで見せると砂璃は途端にすくみ上って、タイルに視線をやって情けない声で言った。「ご、ごめんなさい……」
 ここでマジで謝るからこいつは間抜けなんだ。笑えるのを通り越してイラついてくる。
「ほんっと笑えるよねあんたって。何がどうなったらこんな欠点だらけの粗大ゴミができるのか興味ある」
 砂璃が小さな頭を上げる。小さな顔。大きな目。あどけなくも人形のように綺麗に整ったその顔。癪に障るその顔。顔。
 これだけ綺麗に産んでもらってどうしてこんなみじめな生き方ができる? 私が自分より綺麗な面だと認めたのは後にも先にもあんただけだよ? 口に出したりはしないけどさ。
 受験で失敗したのはしゃあないよ。父さんの言う通り、努力不足だったんだからさ。けれどもこんなすらすら自分の欠点並べ立てられる癖、その中の一つも変えようとせず、クズの自分をクズのまま放置しているこの生涯のクズが、私より綺麗な顔を持っているのは受け入れがたい理不尽で罪悪だ。
「よっぽど腐った遺伝子をもらったんだね親からね。それでどんだけダメな奴に育てられるか挑戦したんだろうね。そうでもなくちゃこれほどのダメ人間にはならないよ。かわいそーに」
 私は肩を竦めて、砂璃の頭を踏みつける。
「カエルの子はカエルって奴でしょ実際。ビル清掃の派遣で生きてんだってねあんたの母親、底辺じゃん。あの妖怪が住んでそうなボロアパートで家族三人団子になって暮らしてるんだ? 良く住めるねあんな汚いところ。ストレスでアタマおかしくなってんだよあんた。だからそんだけムカつく言動できるんじゃん?」
 目に涙を溜めて顔を赤くしながら、砂璃は憎たらしそうな視線を向ける。
「私の父さんはテシガワラ商社の人事部長だし、専業主婦の母さんだってかなり有名な大学を出てる。そのお陰なのかな、私は勉強も運動も良くできて色んなコンクールで入賞だってしてる。だからあんたみたいなゴミクズのこと足蹴にできる訳だ。大人になってもそれは変わらないだろうね。ううん、もっと酷くなる。世の中は競争社会なんだから。あんたみたいなクズはとことんまで落ちぶれて、私のような優れた人間に踏みにじられ続けるって訳だ」
 砂璃はこちらを睨み続けている。実のところ、わたしは困惑していた。何をされたって諂うように謝ることで容赦してもらおうとする砂璃が、こうまであからさまに怒りを向けて来るのは初めてだった。そりゃあみじめったらしく憎たらし気な顔になることはあるが、そういう時こいつはいつも視線をそらしているというのに。
「別に良い家に生まれたからってだけで私が優れた人間に育ってる訳じゃないよ? あんたがウチに産まれても一家の恥さらしで虐待でもされてるんだろうしさ。そういう意味ではあんた、クズ一家に生まれて正解かもね」
「あたしのママは誰のことも虐待なんかしない。世界一の家族だよ。何も知らないのにバカにしないで」
 私は目の前が真っ赤になるような感覚を覚え、沸き立つ血流に支配され何も分からなくなった。
 気が付けばあちこち蹴られて顔を腫らした砂璃がトイレの隅っこで蹲っていた。劣等感を認めるみたいに顔ばかりを蹴り飛ばしている自分に苛立つし、こんなにボロボロになって尚綺麗な砂璃の顔には本当に反吐が出そうだった。
「もう時間切れだよね。ゲームは失敗。失敗には報いがある」私は肩を竦める。「今回は特別ムカ付く気分だから、そうだね。四分に挑戦してみようか」
 砂璃は絶望したような顔をする。「……や、やめて。死んじゃう、から、そんなの……」
「嫌? 嫌なら良いよもう一回チャンスあげる。ただね、今回はあんたじゃなくてあんたの母親の欠点を百個あげてもらう」
 私が言うと、砂璃は目を丸くして硬直し、それから首を横に振った。
「いや」
「あ? 四分トイレに顔浸けたいの?」
 砂璃はびくびくと震えて目を反らす。「……ダメ」
「ダメって何が?」
「好きにやってよ!」砂璃はこちらを睨みつけて吠えた。「ママの悪口なんて言えないよ! もう殺して! 好きにして!」
 そう言ってボロボロと涙を流す。
 私は信じられないでいる。
 どうしてこいつはこんな境遇に産まれてこんなにまで言われて自分の母親を憎まないんだろう。なんで母親への忠義を守る為如きに、あれほど嫌がっていた溺死ゲームを自ら受け入れることができるのだろう。水泳部の奴らにだって四分潜れる奴はそうはいないだろうに。三分潜ってるこいつにはそれがどれほど苦しくて危険で無茶なのか分かっているだろうに。
「なんかカワイソー」ナチがそう言ってけらけら笑う。「でもウチのお母さんもさー、ウザいけど良いお母さんだよ。なんというかすごい強い。山より強い。ウチってお兄ちゃんと弟がいるんだけど絶対適わない」
「ちょっと何が言いたいのよナチ。空気読んでよ」
「マジでやる?」とユリカ。「こないだ三分やった時こいつ気が遠くなってたじゃん? 長いことぼーっと天井見てたしさ。四分はヤバいんじゃない? 死んじゃうかも」
「殺せってんだから殺せばいいじゃん? ナチ、あんた、こいつの頭押さえつける係りね」
「あれたまに便所の水かかるんだけど。その役はミホが良いと思います順子大佐」とナチ。
「誰でもいいから!」私は苛立つ。
「じゃあミホで」ナチは言いながらミホの肩を掴み、私の前に突き出す。「健闘を祈るよミホ二等兵」
「え、あ、えっと……」助けを求めるような眼で、ミホは私とユリカの顔を交互に見る。
「ミホじゃ途中でこいつが暴れたら離しちゃうでしょ。ナチじゃないならユリカやって」
「……四分でしょ? 勘弁して順子」ユリカは下を向いて絞り出すように言う。
 は? なにこいつらいつもやってんじゃんその役。便所の水袖にかかるとか今更でしょ? いや私はやらないけどさ汚いのやだし?
 でも今こいつらに凄んで無理矢理やらせるのは得策じゃないような気がする。やろうと思えば簡単だけれど、力で押さえつけるだけが権威じゃないのだ。
「びびってんの? じゃあいいや今回は私が直々にやってあげる。今日は特別、私こいつにムカつくしね」
 言いながら、私は砂璃の髪の毛を掴んで便所の前に立たせる。じっと便器の中を見詰める砂璃の顔色は、何か後ろ向きな決意らしきものが滲んでいた。
 私は勢いよく砂璃の顔を便器の中へ浸け込んだ。ユリカが今更のようにストップウォッチを取り出して四分を設定する。
 今では一分や二分では暴れない。だが二分半を超える頃、砂璃は便器を叩き始めた。だがタップをすれば助けてやったのは二分から三分に記録を伸ばしていた頃の話だ。こいつも分かってるんだろうけど、でも溺死しそうになって暴れるのは人間の本能だ。
 暴れまくる砂璃の頭を両手で抑え込む。この華奢な全身のどこにそんな力があるのだろうという、そんな暴れっぷりだ。ビチャビチャと飛び散る便所の水が私の袖を汚したが、そんなもの気にならないくらい私は砂璃への殺意に支配されていた。
 気に入らなかった。こんなどうしようもないクズに自らを産んだ母親を、みじめな境遇とろくでもない遺伝子を与えた母親を、どうしてこいつは憎まずにいられるのか。忠義を尽くそうと思えるのか。
 それほどこいつの母親は優しいのか。全身のどこを探しても何一つ長所がなく、自らの短所を八十七個もあげられるようなこのくだらないウジムシは、それでも母親に愛されていると言うのか?
 何かがおかしいと思った。どうしようもなく不公平だと思った。どちらが勝者で敗者なのか分からせてやらなければならなかった。
「三分三十秒」ユリカが泣き叫ぶように言う。「ねえ順子もういいじゃないっ!」
 砂璃は暴れ続けている。私は何があっても勘弁してやるつもりはないのに、それを分かっていて砂璃は暴れ続けている。そりゃそうだ。生命というものは無意味と分かっていてそれでも足掻き続けるようにできている。打ち上げられた魚であったり鳥に啄まれた虫けらだったりがそうではないか。
「四分!」ユリカが叫ぶ。「四分! ねえ、もう四分たった!」
 まだ勘弁しない。砂璃の全身から少しずつ抜け始めている力が完全に霧散しきるその寸前まで、絶対に勘弁してやらない。
「ちょっと順子! 順子……?」
 四分十秒、十五秒……二十秒。もうほとんど暴れもしなくなっている。
「死ぬよ! そいつ死ぬよ! ねえ、順子!」
 うるせぇな。「今顔あげるよ」
 私が両手を離しても、砂璃は便器から顔を上げなかった。私が髪を掴んで床に放り投げてやる。砂璃はその場で仰向けに寝転んだ。
 両目の焦点が全然合っていない。いつもなら狂ったみたいに咳き込んで水を吐き出すのに、今じゃその力も残っていないみたいに口を半開きにして泡を垂れ流しにしている。両手足の先がぶるぶる震えているし顔色も明らかに正常じゃない。
「なんだ生きてるじゃん」私は肩を竦める。「じゃ、一分休んでもう四分いこうか」
「やめて順子! バカじゃないの?」ユリカが珍しく声を荒げる。
「舐めた口効かないでよ、ユリカ」
「ちゃんと措置した方が良いんじゃない?」とこちらは珍しく冷静の口調でナチ。「心臓ちゃんと動いてるかとか真面目に確認した方が良いと思う」
「水も吐けないの? つか呼吸してる?」私は砂璃の頭を持ち上げる。「おら、吐け。吐き出せ、水」
 背中を何度か叩いてやると、けほけほ水を吐き出し始める。頭から手を離すとその場で胎児みたいに転がって、もがくようにしながら咳をする。自分で水を吐き始めたならユリカが騒ぐほどの大事態じゃない、と思う。
「もう順子……あんたやり過ぎよ」ユリカは顔を青くしている。「障害とか残るよ、それかマジで殺す羽目になるかも」
「大丈夫だって。死んだりしないよこんなんで。大袈裟なんだよ。気を失ってすらいないでしょ実際。このくらいのビビる方がおかしいんだって」私は言う。
 溺死寸前の砂璃の襟首をつかんで立たせる。力なく咳をしているが、瞳を覗き込んでみるに、意識はしっかりしてきているはずだ。
「ほら、立てるでしょ、砂璃」
 言いながら砂璃を前に押し出してやると、よろよろとしながらもその場で立った。
「なんで……なんであたしなの……?」嘆くように口にする砂璃。
「なんとなく」私は欺瞞した。
「そんな……」
「あんたの尊厳とか生命とかね、オモチャなの私の。あんたは生きるか死ぬか決死の覚悟で息止めてゲボゲボ言ってるんだろうけど、そういうの全部こっちからすりゃ単なる暇つぶしなの。でもそれってクズなあんたが全部悪いのよ? 弱い人間は、何をされても文句言う権利ってないの」
「あははっ。やっぱすごいわ順子。魔王だわー」ナチは笑う。「一緒にいておもしろい」
「たまに怖いけどね」ユリカが溜息を吐く。「もう、今日は溺死ゲームはやめとこう」
「ああそうね」これ以上衰弱したらマジでヤバい。「教室戻ろう。なんか、ちょっとすっきりした」

 ○

 家庭教師は土日にやって来て午前中はそれで潰れる。塾は二つ掛け持ちで日曜以外は毎日。今日は家から遠い方。私は溜息を吐きながら街を歩いていた。
 勉強は嫌いじゃないがそれでも塾に行く時は憂鬱だ。無間地獄のように続く学習と競争の日々。この苦しみから最後に開放されたのはいつだったか。随分と記憶をさかのぼり、私は小学生の頃の長期休暇に優しい祖母の家に遊びに行ったことを思い出した。
 静かな田舎の綺麗な家だった。祖母は私達が何をしでかしても怒らなかったしどんなわがままも聞いてくれた。昼間は緑の中で姉と遊んで、夜は祖母に連れられて縁日の屋台を回った。勉強の成績なんか何も聞かずに分け隔てなく優しい祖母を、私は大好きだったけれど、もうずいぶんと会っていない。
 そんなことを思い出しながら勉強道具の入ったカバンを握りしめ、塾に行く為に駅を歩いていると、ベンチに見知った人影を見付けた。
 髪が長くて背の低いそのシルエットは遠目には日本人形のように見える。目が大きくて肌が白いからだ。その長い髪をハサミで切り刻んでやろうかと思う時はちょくちょくあるが、ただでさえ顔を蹴りまくってしまったのに、あまり証拠の残るようなことを派手にやるのは躊躇していた。
「ねえ。砂璃?」
 脅かしてやるつもりで私が声をかけると、ベンチに腰掛けたその少女は気だるげに視線を向けた。
 砂璃にしては強気な視線だった。人を舐めたような感じのする、眉根に皺の寄った表情だった。
「だぁれあんた?」女は言った。
「は?」私は睨みかえす。「あんた、砂璃でしょ?」
「はあん。砂璃の知り合い?」少女は肩を竦める。「ふうん。へえ」
 私は苛立って少女ににじり寄る。「何その態度?」
「なんか悪い?」少女は言って立ち上がり、私の顔を至近距離で見上げる。シミ一つキズ一つデキモノ一つない、きめ細やかで白い肌。「あたしの勝手じゃない?」
 私は訝しむ。こないだトイレで蹴り飛ばした砂璃の顔の痣はまだ消えていなかった。今日の昼休みに顔にマーカーで落書きをした時も、腫れたところをいじくってやると痛そうに身をよじっていた。でもそれが綺麗さっぱりなくなっている。
「性格悪そうな顔してるねあんた」少女は言って私を睨み付ける。「ブスだしさ。ねえあんた砂璃のなんなの?」
「誰だおまえ?」
 睨み返すと少女はあからさまに怯えて視線を泳がせる。口ほどにもない。弱い犬程良く吠える。
「ブスはあんたじゃん? くだらないこと言ってると泣かすよ? どこのどいつ? つかその顔なに? ねえ、もしかしなくてもあんたって砂璃の妹?」
「そうだけど?」少女は肩を震わせながらそれでも虚勢を張るようにして言う。「璃砂ってんの。漢字は砂璃の反対ね。あたしが砂璃の反対なんじゃなくて、砂璃があたしの反対なんだけど」
 こいつが『リサ』で姉が『サリ』ね。こんだけ似た顔して背格好一緒なら双子だろう。つまり同学年生。私が知らなかったということは、噂も立たない程徹底した不登校児なんだろう。
「あんた砂璃のクラスメイトかなんか?」璃砂は問う。
「そうだけど?」私は答える。
「ふうん。へぇえ」璃砂はそう言って肩を竦めて見せる。
 生意気な態度。しかしそれはあからさますぎる程に虚勢だ。何せ額に汗が浮かんでいて、隠し切れない怯えで視線は揺らいでいた。
 連想したのはテレビでよく見る『引きこもり特集』だ。世間に出れない臆病者の癖に他人にはやたら横柄で生意気。それは弱い自分を認めない為の虚勢であって、ちょっと強く出れば簡単にボロクソにできる。やらなかったのはこんな駅前で人目を集めてまで言い争いたくなかっただけだ。
「ねえ、砂璃って家でどんななの?」私は興味を持って聞く。
「ママの奴隷って感じ?」璃砂は私の方を見る。「何命令されても文句言わずにやってる。ごはんも三人分作ってるし洗濯だってやらされてる。下手くそだけど」
「あんたはやらないの?」
「やらないよ? あたしママのこと嫌いじゃないけど、偉そうだから言うことなんか聞いてやんない。だから家事とかはだいたいお姉ちゃんがやってる」
「姉貴はあんたに文句とか言わないの?」
「たまにおどおどしながら言って来るけど、言い返したら黙る。テキトウに持ち上げといたらニコニコ働くし、本人はそれで良いみたい」
「なんか可哀そうな奴だね」
「可哀そうな奴なんだよ」
 璃砂はだらだらとこちらを見もせずに喋り続ける。
「ウチのママってアホだからパチンコで借金してんだけどさ。アイツ中学出たら自分も働いて一緒に借金返すんだって。そんな義務ないよっつったんだけどさ、ママのこと好きだからとかふざけたこと言ってる。高校行けないのはまああいつのアタマとかウチの経済状態とか考えりゃしゃーないけど、それにしたってなんでああまでママの言いなりなんだか。バカじゃないのって思うよ、本当」
「きっと言いなりにしかなれないんだと思うよ、バカだから」私は正直な感想を言う。
「だよね」璃砂は唇を尖らせて下を向く。「本当……バカだよ」
 その言い方が単なる嘲りではないような気がして、私は問うた。
「あんた、姉貴のことは好き?」
 璃砂は少しの間沈黙すると、投げやりな口調を装うようにして言った。「好きだけど?」
 この皮肉を言いたがる引きこもりが、照れを隠してもそれは肯定するのか。
「なんであんた引きこもってんの?」
 尋ねると璃砂は即答する。「腐ってるから、この世界」
 如何にも引きこもりらしいその高慢な答えが、私の胸にやけにすとんと落ちた。
「こっちの話はしたよね」璃砂はそこで唐突にそんなことを切り出した。「そっちの話聞かせて? 学校での砂璃ってどんななの?」
「あ?」私は眉に皺を寄せる。「なぁに? 聞きたいの?」
「最近砂璃の様子おかしいから」璃砂は言う。「いじめられてんのかなって。小学校の頃もしょっちゅうあったからさ。学校なんて行くことないよって言うんだけど、『あたしまで引きこもったら多分ママの気が狂うよ』とか、こっちにとっては嫌味でしかないこと言って来んの」
「まあ、いじめられるような性格はしてるよね」
「本人に問い詰めても煮え切らないの。ねえだから教えて。何が起きてるか知っておきたいの」
「璃砂ちゃーん。ぶどうジュース買って来たよー」私の背後から間抜けた声が響いた。聞き覚えのある声だった。「璃砂ちゃんの好きなやつー。スーパー行って来たよー自販機になくって…………あ、あ、あ」
 振り向くと砂璃がいた。顔に大きな痣を作ってそれにシップを張っている。私が蹴り飛ばした時の奴だ。妹が私と話しているのに気が付くと、顔を青白くしてぶるぶる震えた。
「璃砂ちゃんは……」砂璃は懇願するようにこちらを見る。「璃砂ちゃんは……関係ないから」
「あ?」私は肩を竦めて砂璃を見る。「別になんもしてないし。決めつけんのやめてくれる?」
「え、あ……そうなの?」砂璃は私に向けて引き攣ったような笑みを向けてから、心配げに璃砂を見る。見つめ合う二つの顔は見れば見る程瓜二つだ。眩暈がするほどよく似ている。
「早合点だよお姉ちゃん」璃砂は呆れた顔で口にする。「ねえお姉ちゃん……もしかしてこいつにいじめられてんの?」
「え……その」砂璃は震えたまま何も言えないでいる。
 璃砂はしばらく砂璃の表情を見詰めた後、何事か察したように溜息を吐く。そして姉からペットボトルを引っ手繰ると、ふらふらと揺らしながらバカにした声で言った。
「ねえお姉ちゃん。確かにあたしこれ買って来てっつったけどさ、何もスーパーまでは行くことなかったじゃん?」
「自販機になくて……」砂璃は妹と私の顔色を交互に伺う。
「いや売店あるでしょ駅の中に。そこで買って来いって命令なんだけど。待ちくたびれたんだけど。三十分以上かかってるんだけど」
「ご、ごめん……」
「汗水たらしてさぁ。走って行って来たの? ご苦労様だよ」言って、璃砂は砂璃にペットボトルを渡す。「お礼にこれあげる。もうたいして冷えてないけど」
「あ、ありがとう」砂璃は釈然としなさそうな様子でそれでも表情は笑顔にしながらペットボトルを抱える。「え、えへへ……。あ、そのあの……もう行こう」
 言って妹の手を握ってその場を去っていく。
 私は溜息を吐く。一挙一動がおどおどしてムカつく奴だ。私じゃなくてもイジメてるよねあれ。
 妹には使い走りにされて母親にも言いなりで、多分あいつ、死ぬまで他人からはああいう扱いしか受けられないだろう。母親の借金の為に中卒でビルでも磨いて下手すりゃ身体売らされて、ズタボロの雑巾みたいになって、自分じゃ何も手に入れないままろくでもない男に良いようにされて、母親が送ってるみたいなみじめな人生を自分でも送る訳だ。まあ、底辺って奴? 自分の境遇を憎んだりしないもんなんだろうか。
 けれど砂璃はこうも言っていた。『世界一の家族だよ。何も知らないのにバカにしないで』
 私は砂璃のことが分からなくなったが、そんなことはすぐにどうでも良くなった。

 ○

 その日はたまたま父が家で休んでいて、母は料理をしていて姉は部屋で勉強をしていた。父と二人になった私は、父と会話がしたくて前から聞きたかったことを聞いてみた。
「ねぇ父さん。人って、何分くらい水中で息を止めていられるものなの?」
 機嫌が良いらしい父はすべらかに応える。「ギネス記録は二十二分だったと記憶している」
「すごっ」
「専門のトレーニングを積んだマジシャンだ。命知らずそのものだ。とても参考にはならない」
「私、二分にも届かない。一分三十秒とか、四十秒とか」
「危ないから風呂場で試すのはやめなさい。ただ、中学生の女の子でそれだけ耐えられるなら、順子は十分に忍耐力のある方だと思うがな」
「忍耐力? 肺の機能や体力ではなくて?」
「肉体的なことを言うなら、限界はもっと先だ。二十二分という例は驚異的にしてもな。ちなみに、海上保安庁のいわゆる海猿が訓練として行う息止めは二分半だそうだ。得意な者はもっと長く潜れるようだがな」
「そんな程度なの?」
 十分すごい数字だが、二十二分というのと比較するとどうしてもしょぼく見える。それに、屈強な海の戦士の及第点が二分半なのだとすれば、あの矮躯で四分を耐えた砂璃はどうなるのか。
「実際にやってみればそれがどれだけ過酷か分かるだろう。素人には難しい。危険でもある」
「学校の友達に四分半止めた子がいる」私はついそんなことを漏らす。
「水泳部の男子か? それにしても、すごいな」
「ううん。こないだ話題に出た雨谷砂璃ちゃん」
「眉唾だな。本人の自己申告じゃないのか」
「ううん。砂璃が目の前でやってくれた」
 父は鋭い視線を投げかける。「危ない遊びには関わらないようにしなさい。公立にはとんでもなく愚かな者がいるはずだが、一緒にいて殺人犯の一味にされては困る」
 『とんでもなく愚か』と言われた私はむっとして言い返す。「でも、加減分かってやってるんじゃないの?」
「順子、おまえには期待しているんだよ」父は優しい顔をしたが、目は笑っていない。「おまえは父さん似だ。物事の本質を見極めて、人や場を冷酷に支配できる。その意思や行動力もある。つまらないことで火傷をして欲しくない」
「……分かった」こう答えないと父の目は笑ってくれない。
「順子は利巧な父さんの子だ」父は穏やかにそう言い、そして唐突に話題を変えた。「ところで、暴力と権力の違いについて、順子はどう思う?」
「……? それぞれ別の言葉だと思うけれど」
「それは違いない。ここは父さんの質問の意図を考えてみて欲しい」
 良く分からなかった。分からないなりに、それぞれについて答えて見る。「暴力は相手に危害を加えることで、権力は何もするまでもなく相手が言うことを聞くこと」
「その二つは結びついていると思わないか?」
「権力者は暴力を振るうことで相手に言うことを聞かせている、とか?」
「近いが少し違う。何かをやらせる時に相手にいちいち暴力を振るわねばならないような者は、権力者とは言えない」
 私は少し考えてから言う。「本当の権力者に支配されている人間は、権力者に暴力を振るわれるのを恐れるあまり、何もせずとも言うことを聞く。そして権力者に諂う」
「そのとおり。つまり権力とは、暴力を振るわれるかもしれないという予感を相手に感じさせる力のことを言う」
 父は私に向き直り、何か大切なことを教えるような気配で言った。
「実際に暴力が振るわれる時、その権力はむしろ弱まっている」
 
 ○

 その日の朝、私達は砂璃の上履きに土を詰め込んで雑草を植え付け、『地球全人類が幸せでありますように』と描かれたプラカードを吊るした上で本人の机の上に置いてやった。
 脱力するような悪戯だけれど、思いついたのは私じゃない。カラフルなマーカーを使って嬉々としてプラカードを作ったナチが主導した。雑草はミホに抜いて来させた。
「どこで抜いたのその雑草」とユリカ。
「中庭の花壇」とミホ。
「雑草じゃないよ。ちゃんと名前があるんだ」とプラカードの位置を調節しながらナチ。
「ヒメコバンソウってんでしょ。とは言え草は草じゃん。どんな有象無象にも名前くらい付いてるけれど、いちいち覚えてらんないよ」
 私が言うと、ナチは嬉々として言う。「そうそうヒメコちゃん。可愛い名前してるよねぇ」
「すごい順子ちゃん物知りー」ミホがいらぬ太鼓を叩く。
「たまたまだよ。良く見かけるから覚えただけ」
 正確には父に教わったのだ。小学生の頃、一緒に歩いている時に道端で見掛けたそれについて、父は私に授業をしてくれた。掃除の時間になると毎回引っこ抜かされるその草にもちゃんとした名前があることに、その時の私は感心していた。
 あの頃の父と今の父とで、特に何が変わった訳でもない。ただ風呂場に顔を沈められるという経験をしただけだ。だがそれによって、父を慕い、愛されたい気持ちは以前よりむしろ増したような気がする。
 それはもしかしたら、この取り巻き三人が私にすり寄るのと本質的には同じことなのかもしれない。人間というのは本能的に、立ち向かうことも逃げることもできない相手には、すり寄るようにできているものだ。敵わない相手には媚び諂い、隷属することで愛情を求めるという生存欲求に基づいた本能があるのだ。私は父の恐ろしさを知ってしまったあまり、身を守る為に父の愛情を求めているのかもしれない。
 裸足の砂璃が登校して来てびくびくと教室の私達の方に目をやる。机の上の上履きを見せてやると、砂璃はショックを受けるというよりは納得するような顔をして下を向く。
「おもしろいでしょこれ?」と私。
「え、あ……う、うん」砂璃はそう言って、強要された訳でもないのに媚びるように笑い始める。「あ、あはは……」
 いじめられてる奴ってこういう時は案外へらへら笑うんだ。虚勢を張って心を守っているのか、はたまた憎たらし気な顔をしてこちらの不況を買うのが怖くてそうせざるを得ないのか。本人に聞いても答えられないだろう。何せそれは多分、本能的な反射なのだ。
 暴力と権力の結びつき方について父は話していた。こいつは私からの暴力に怯え、怯えるあまり、私の権威に支配されている。
 だがその反射は、母親には生意気に振る舞いながら父親の寵愛は欲しがっている私と、本質的には同じなのではないか? 
 そう思うとなんだか苛立って、私は上履きの土を砂璃の頭からぶっかけた。
「ちょっと順子ちゃん。やめてよ」ナチが頬を膨らませている。「地球全人類が幸せにならなくていいの?」
 訳分かんないので無視する。砂璃はそれでもしばらく媚びるように笑っていたが、さらに上履きで何度か頭を叩くとへらへらしながら涙を流し始めた。

 ○

 土塗れで机で泣いている砂璃を見ても担任教師は何も言わない。どうせこいつは自分がされていることを解決する為に大人を巻き込むような知恵も気概もないのだし、そのことは教師だって見抜いているだろう。放っておけばテキトウに一年間耐え抜くだろうと思われているに違いない。
 大っぴらにやっている現場を抑えられれば流石に注意は受けるだろうが、ちょっと頭に土を被ってるくらいのことで騒ぐ程この担任教師は愚かではない。砂璃が黙していじめられている分には学級運営は上手く行っているのだ。知らんぷりを決め込める。
 教師にも生徒にも砂璃の味方はいない。だがそれは他でもない砂璃自身がそうしていることなのだ。自分を守ってくれるような友達を作るでもなく、大人に自らの窮状を訴えるでもなく、私の持つ権威と暴力に怯えるあまり助かろうともしないまま、自らの意思でいじめられ続けてしまっている。私の砂璃いじめの一番の協力者は他でもない砂璃自身なのだ。
 低レベルな勉強と憂さ晴らしの為の砂璃いじめを終えて放課後になる。
 いったん家に帰り、母親の作った食事を済ませてから塾へ向かっていると、背後から人が走って来る足音がした。
 人気のない裏路地である。ビルとビルの境目で湿ったコンクリートの臭いがして、空気のひんやりとしたところだ。近道を考えるのが好きな私はこういう変なところを良く通る。そしてそんなところを走り回るような人間が危険な奴でない保証はない。
 私が警戒してその場を振り向くと、大きな包丁を持った少女が長い髪を振り乱してこちらに突っ込んできていた。
「うぁああああっ!」
 破れかぶれな表情ででかい声を出しながら、やけくそみたいにナイフを突き出してくる。ビルの境目の小さなスペースでどうにか私は身をよじる。包丁は私の服に切れ目を入れて皮膚を浅く切り裂いたが、少女の腕力や力の入れ方が大したことなかったのでたいした傷にはなっていない。
 痕が残ると嫌だなあとか思いながら私は即座に体勢を整える。そして飛び散った血を見てあからさまにびびっているそいつの間抜け面に、情け容赦ないグーをねじ込んだ。
「ぎゃ、ぎゃっ」
 吹っ飛ばされて壁に背中をぶつけたそいつは鼻白んだ顔でこちらを見た。璃砂だ。砂璃と違って顔のどこにも傷がないし、そもそも砂璃に包丁で私に切りかかるような度胸があるはずもない。私の怖さを知らない璃砂だからこそ、こんな無謀な特攻ができたのだ。
 だがその璃砂の闘志も今の一撃でほとんど霧散しかかっているようだ。包丁を握り直してふうふう息を吐きだしてこちらを睨む璃砂の隙だらけの腹部に、私は自分のつま先をねじ込んだ。
 あっけなく崩れ落ちる璃砂の包丁を持った右手を踏みにじる。苦しそうに呻きながらそれでも包丁を離そうとしない璃砂の爪に、踵を突き立ててメリメリと力を籠める。ペキペキと親指の爪が砕ける音が響いた。
「いっ。あうぅうっ」
 ようやく手放した包丁を私は拾い上げる。新品の刺身包丁。私の服を切り裂いた包丁。私の腹に嫌な傷跡を残したその包丁。
「あんた、私のこと本気で殺すつもりだったでしょ?」
 言いながら、私は璃砂の指先を踏みにじる。脂汗を垂らしながら歯を食いしばる璃砂。
「残念だったねぇ」私は人差し指、中指、薬指と順番に爪を砕いて踏みにじり、璃砂の苦悶の表情を拝みながら言った。「でもさああんたも身の程知らずだよ。無理に決まってんじゃんバカじゃない? 刃物持とうが不意打ちだろうが、殺す気だろうが狂気だろうが。埋まるか? そんな程度で。あんたと私の力の差がさぁあ?」
 左手を地面に着いて必死で逃げ出そうとする璃砂の腹を思いっきり蹴飛ばしてやる。肺の空気を吐き出して蹲る璃砂の腹を、さらに一回二回三回と蹴りつける。
 本気の苦痛を与えるなら腹だ。痛いだけでなく気持ち悪くて息ができなくなるのだ。しばらく蹴り続けていると、璃砂はもうどんなに蹴っても同じ重さの置物のような反応しか寄越さなくなる。
「オネーチャン守りたかった? 吐いたんだあいつ私にいじめられてるってこと。それで私を殺しに来たと? 泣かせるねぇ」
 あのみじめな雨谷砂璃にも一応味方はいた訳だ。それも自分の人生を投げ打って私を殺しにかかるような、そんな健気な味方がさ。
「でもクズは何やってもダメだよねぇ。人生賭けて頑張ったのに無駄だったざぁんねん」私は心底バカにしながらそう言って璃砂の手を踏みつけた。「まあでも一矢報いたんじゃない? 私が言うのも難だけどさ。この先一生、お腹の傷を見る度に私はあんたのそのムカつく顔を思い出すんだもん。水着着る度思い出すんだ。忌々しい気持ちになるんだ。あんたみたいなクズの為に! 私は一生! 一生! クソがっ! クソがっ! クソがぁあああっ!」
 言いながら爪の砕けた指を踏みにじる。ずきずきと痛む腹部の傷、滲む生暖かい血液。上着もシャツももう二度と着れやしない。両親になんて言い訳するのか。この格好でどうやって塾に行くのか。
 そうだ塾だ。私はふと思い出してスマホを取り出す。もう今から行っても遅刻する時間になっている。私は溜息を吐く。まあ良いどの道塾なんてもう行く気がない。思う存分こいつに報復してやらないと気が済まない。
 私は塾に電話して体調不良で休む旨を伝える。それからラインのアプリを起動すると、ユリカナチミホの三人を呼び出した。

 ○

 ユリカと二人で私は璃砂を学校のプールまで連行する。さらにはミホを使ってホームセンターでロープを買って来させ、ナチを使って校舎から椅子を一つ調達させる。
「その傷、大丈夫なの?」ユリカは心配げに私のお腹を覗き込む。「ミホにホムセン行かせるんならついでに救急用品買って来させようよ。ううん、ミホじゃ不安だ。わたしガーゼとか包帯とか買って来るからさ、そこで安静にしてて」
「なぁに? 本気で心配してんのユリカ。やめてよ」私はけらけら笑う。腹の傷はずきずきと痛んだが、怒りと嗜虐によって分泌される脳内物質のお陰でそんなものたいして苦しくもなかった。「こっちの璃砂ちゃんの方が死にかけじゃん? 心配してあげたら」
 璃砂は金網にもたれながら青白い顔をしていた。まさかこんな結果になるとは思わなかったのだろう。自分がこれからどんな目に合うのか想像もつかず、怯えを孕んだ視線でこちらをちらちらと見やりながら、歯を食いしばってボロボロに砕けた自分の爪を見詰めていた。
「なんかこいつ、ボロボロね?」とユリカ。
「爪踏み砕いて腹蹴りまわしてやった」と私。「つーかさあんたなんで私を殺しに来たの? オネーチャンにけしかけられた?」
「……関係ないよ」璃砂は振り絞るようにして言う。「あたしが勝手にやったんだ」
「マジでこいつ砂璃の妹? 砂璃じゃなくて?」ユリカはそう言って璃砂を覗き込む。「そっくりだね? 双子か何か?」
「うん」璃砂は頷く。「そっくりだっていつも言われる。でも本当は違うんだ。あたしは砂璃みたいに良い子じゃない。だからせめて、砂璃の為にあたしが戦おうって……」
 ユリカは何か感じ入るものがあるかのように璃砂を見詰めていた。こんなことを言って同情でも買おうってのが璃砂の魂胆か? くだらない。
「ねえユリカ見てよー」私は小学校の頃からの親友の肩を叩いてお腹の傷を見せる。「これ痕残るでしょー。蚯蚓腫れなるよ。手術で消せるかもしれないけどさー、しばらく水着とか着れないじゃん。ホンット最悪だよねー。私、こいつ許すつもりないんだよねー」
「…………もう十分蹴りまわしたんじゃない?」
「あ? そんな程度で許す?」
「だからってこんな遊び……危険だってば」
「見ず知らずのこいつと、親友の私と、いったいどっちを取るっていうのさ」
 そう言うとユリカは下を向いて溜息を吐いた。『今の何?』と反射的に問おうとしたところで、ミホとナチがそれぞれロープと椅子を持って戻って来た。
 私は二人に命じて璃砂を椅子に座ったまま縛り付けさせ、背もたれの左右のパイプにそれぞれ一か所ずつ結び付けたロープを束ねて一本の紐にさせた。長さは全部で二メートル程。完全に降参した璃砂は大人しくしていた。
「バス釣り?」とナチ。
「なによバス釣りって」とユリカ。
「いや、いい例えだよ」私は言いながら束ねた紐を持ち、もう片方の手で璃砂を縛り付けた椅子を持ち上げ、プールの淵に置いた。
「ちょっといったい何するの?」とこちらを睨みながら璃砂。「こんなんされたらマジで死ぬんだけど」
「私のこと殺そうとしといて良く言うよ」私は言いながら璃砂に凄んで見せる。「世間知らずで生意気で無謀で……そんなあんたにさ、現実を教えといてやるんだよ。弱い奴は刃向かっちゃダメだってね。でないと地獄見る羽目になるんだよ」
「こっちに正義があったはず」璃砂は虚勢を張る。
「正義? なにそれ? そんなくだらないものが本当に力を持ってる場所なんて世界中どこにもない。幻想なんだよ」
 言って、私は璃砂を勢い良くプールに蹴り込んだ。
 水しぶきがあがって取り巻き三人がきゃあきゃあ言ってその場を逃げ出す。私は水しぶきを全身に浴びて良い気分だった。プール開きはまだ先で塩素の臭いよりはドブ臭さの方が強かったが、そんなものはほとんど気にならない。
 椅子に縛り付けてプールに蹴り込んで、水中で何分か溺死の恐怖を味わわせてから引き上げるという遊び。危険すぎると反対の声も出たけれど、私は強引に決行した。
「遊びっつか、もうほとんどゴーモン?」ナチが身を退いて言った。「つか順子ちゃん水浸しになってるよ? いいの?」
「もうこの服着れないし気にしないよ」
「スニーカーは?」
「ああ。そうね」私は気付いて靴を脱ぎ、靴下を脱ぐ。靴は父からプレゼントされたものだし、靴下が濡れると流石に不快な気分になる。
 ミホのスマホのストップウォッチで一分を測らせる。そこからユリカとナチと三人がかりで紐を引き、璃砂をプールから釣り上げた。
 椅子ごと横倒しにされてゲホゲホ水を吐き出す璃砂を見下ろす。顔全体は青白く、全身がガタガタ震えていて、本気の死の恐怖にあえいできたということが見て取れた。
「どうよ、今の気分は?」
 璃砂は怯えと懇願の混ざった顔で、それでも語気にはなけなしの虚勢を込めて言った。「あたしが死んだら道連れだよ? あんた」
「この程度で死にゃしないっての。あんたの姉貴は四分半トイレの水の中で息止めてられるんだしね。あんたもそんくらいがんばれるよ。今回一分だったから、次は二分ね。それ終わったら三分って感じでちょっとずつ増やしていくから。どこで許されるかはあんたの態度次第ね」
 言いながら、私は璃砂の頭を踏みつける。
「ひとまず謝んなさいよあんた。クズの分際で、私のお腹切りつけたことさ」
 謝ると思った。いくらこいつでも死にもの狂いで謝って来ると思った。
 何せこれは真実死の恐怖を伴う体験なのだ。ナチの言う通り遊びというより拷問に近い。水中でいくら息が苦しかろうとも全身は椅子に縛り付けられていてもがくこともできない。いつ外に上がれるのかはこちらの気分次第。その恐怖と苦痛は想像するに余りある。
 水は怖い。私は身に染みて知っている。父に後頭部を抑え込まれて喘いだ家の風呂場の中を思い出す。もうあんなのはごめんなのだ。あれを味わわない為だったら私は父の言うことを何でも聞くし、父の求めに何でも応えその為にはどんな努力だって厭わない。父に諂い、父を愛し、父の望む通りに生きて死ぬ。いくら頭を垂れたってかまわない。
 けれども璃砂はこういってのけたのだ。「誰が謝るか、クズ」
「あ?」私は眉を顰めて璃砂の顔を覗き込む。「誰がクズって?」
「あんただよ」
「どこが? クズってのはあんたら姉妹のことでしょ? 何もできない欠陥だらけのダメ人間の癖して、そのダメさを全部放っておいて平気な顔してる。一つとしてどうにかしようともしない。それでいて他人には恨みがましい目ぇして僻んでばっかいる。そりゃあバカにされるし軽んじられるに決まってるよ。本当に救いようがない。私、クズって嫌い。大嫌い」
「……あんたよりはマシだ」璃砂は漏らすように言った。「あたしがどんなにクズだとしても、それでもあんたより絶対にマシだ」
 あたしは虚を突かれた心地がした。璃砂の言葉に虚勢や欺瞞がなかったからだ。
「……どこがマシって? この私のどこにあんたより劣る点があるっていうの?」
「どんなクズでも、人をいたぶって喜んでるような奴より上等だ」
 心底からの嫌悪と蔑みを乗せた、確信に満ちたそんな言葉だった。
「はあ?」
 強い者が弱い者を踏みにじるのなんて当たり前のことだろう? どうして『嗜虐心』とか『サディズム』なんて言葉や概念があると思ってる? どうしていじめなんて文化が存在していると思ってる? 暴力は? 差別は? 戦争は? なんであるんだ?
 そんな世界を生き抜くために、私がどれだけして来たと思っている? どれだけ頑張って、歯を食いしばって、死に物狂いでやって来たと思っている? それだけやって碌に褒められもせず、姉から蔑まれ母から嫌味を言われ父には溺れさせられた。でもそれは全部私が弱いからだ。私が悪いんだ。私立に落ちたから。
 軽んじられいたぶられ、愛されない。クズはそんな扱いを受けて当然なんだ。
 クズは許されない。
 私はクズを許せない。
「バカじゃない? あんた。まあ良いよどっちが上で下かなんてすぐ分かるから」私は肩を竦める。「精々泣きながら認めるんだね。私は世界一のクズですって、土下座しながらね」
 言って、私は倒れた璃砂を椅子ごと抱き起すと、力いっぱいプールに蹴り込んだ。
 水しぶきが上がる。逃げ回る三人組。
「ちょっと、息吸わさなくて大丈夫なの?」と冷や汗をかきながらユリカ。
「知るか」私は肩を竦める。
「何分やる気?」
「五分ってとこ?」
「五分って……」ユリカは信じられないとばかりの顔をする。「冗談でしょ?」
「姉貴は四分半いったんだし大丈夫でしょ? 死にゃしないって。こんくらいしてやんなきゃ身の程分かんないんだよこういうクズはさ」
「何言ってんの?」ユリカは生意気な口調で言った。「ねえ、今すぐ引き上げようよ! そもそも危険なんだよこんな遊び! わたしは反対したっ」
「は? 何? 何言ってんのユリカ? 私、こいつにお腹切られたんだよ? 殺されかけたんだ。見てみる私のお腹の傷? 一生残るよ。今もズキズキ傷んでるんだ。親友がそんなにされてユリカは怒ってくれないの?」
 私がそう言って睨み付けると、ユリカは鼻白んだ様子で下を向く。
「はい一分経過ー」ナチはこんな時でもマイペースにスマホのストップウォッチを読み上げる。
「さっき私のケガを心配してくれたのは嘘だったの? 私、本当にちょっと嬉しかったのに? なんでこんなクズの肩を持つの?」
「……ねえ順子冷静になってよ。こんなの見付かったらヤバいんだって何回も言ってるのに、どうして聞いてくれないのさ?」苛立つ私に、ユリカが堪えきれない怒りを滲ませるようにそう言い返す。
「は? そうそう見付かりゃしないって。このプール校舎から大分離れてるし周りから見れないようになってるでしょ? 見回りだってこないよ」
「万一があるでしょ? わたし、あんたに巻き込まれるのやなんだけど?」
 私は目の前が真っ赤になって、ユリカの胸倉を掴んでプールのフェンスに押し当てた。
 ガシャンと激しい音がする。ミホの息をのむ声。ユリカが信じられないものを見たかのような呆然とした表情で目をまん丸にしていた。
「はい二分」私達がユリカを睨んでいると、ナチがそう言ってスマホから顔をあげる。「ちょっと二人とも何やってんの」
「うるさい!」私は叫んだ。「前々から思ってたけど、あんた、ちょっと私に意見しすぎじゃない? ウザいんだけど」
「順子……なんでわたしにそんなこと言うの? 昔はそんなこと言わなかった」
「あんたが生意気言うからじゃん」
「中学入ってからおかしい。受験落ちたの、まだ気にしてる?」
 私はユリカの頬をひっぱたく。激しい音がおそらくはプールの外にまで響き渡る。
 ユリカはユリカの中の何かが壊れたことを想わせる虚ろな表情で、私の方をじっと見詰めて頬に手をやっていた。
 そりゃあねユリカ。たくさんいる取り巻きの中でもあんたは特別だったさ。幼馴染だし、同じ塾でずっと一緒に勉強して苦楽を共にして来たしさ。中学受験だって一緒にがんばって一緒に落ちて一緒に泣いて、挫折の日々の中であんたは私の慰みだったよ。
 それなのに。
 それなのにそれなのに。
「なんであんたがそんなこと言ってくんの? 分かってるじゃんそんなのはあんたが一番。つうかユリカは気にしてないの? 公立で五番とか十番の成績で満足して勉強できる面して偉そうに、なんでその程度の奴が私の親友面して対等な口効いてくんの? こっちはしょうがないからあんたで妥協してやってるんだって分かんない? もう黙れって感じなんだけど」
「ひ……酷い」ユリカは涙を流しながら俯いた。
「はい三分」ナチが言いながら髪の毛をいじっている。「三分だよ、順子ちゃん」
「ヤバいってもう!」ミホが泣き叫ぶように言う。「二人とも妙な喧嘩してないでさ、早くそいつ引き上げないと殺しちゃうって!」
「『妙な喧嘩?』」私はユリカを離してミホに凄む。「妙な喧嘩に見える? 私達のしてるのが?」
「え、ええと……」それだけでミホは完全に怯んで下を向く。
「あんたって太鼓持ちの雑魚の癖に空気も読めないんだよね。そういうところ嫌いだわ正直。なんであんたなんか仲間に入れたんだろ?」
「そんなこと言ってる場合じゃないって……」
「だーかーらーっ! 何があろうとも! 私は! 例えこのクズが溺死したとしても! 五分経つまで引き上げてやるつもりは……」
 その時、ざぶんと大きく水が跳ねるような音がした。
 振り向くとナチの姿がなかった。私が呆然としていると水中でバシャバシャ水の跳ねる音がして、椅子に括り付けられた璃砂を抱えたままのナチが顔を出す。四人組の中で一番明るいナチの金髪は、ずぶ濡れになってもいつもと変わらぬきらきらとした輝きを放っていた。
「ほらユリカ、ミホ。これ受け取って」言いながら、璃砂の縛り付けられた椅子を持ち上げる。はっとした様子でユリカとミホがそちらに駆け寄り、三人がかりで璃砂を陸にあげた。
 目を閉じて首を横倒しにした璃砂の顔色は真っ青で、口から泡の雫を垂れ流したきり身じろぎ一つしなかった。あっけにとられる他の三人の前で、プールから這い出たナチはすぐさま璃砂の胸に手をやる。そして叫ぶ。
「急いで紐解いて! 早く!」
 ユリカとミホが焦った様子で璃砂の身体に群がった。ナチと三人がかりで紐をほどき、璃砂の身体が開放される。ナチはすぐに璃砂を仰向けに転がして胸に両手を押し当てた。
 必死の形相で璃砂の胸に押し当てた両手にリズム良く力を加えている。心臓マッサージだ。ユリカとミホはパニック寸前で顔を青くしているが、きびきびと動くナチに希望を見出すことで正気を保っているようだ。
 そんな中、私は呆然として固まっていた。
 こんなに強く胸を押されて身じろぎしない璃砂は明らかに気を失っているし、咳をして水を吐く様子もなければ呼吸をしているようにも見えない。心臓に手を当てた璃砂がああも必死な様子で処置を行っているということは、つまり今璃砂は心肺停止状態にあるのだ。
 ようやくそのことに気が付いた私は、ぞっとして手足を震え上がらせた。私の様子に気付いたナチは、蔑むような視線をこちらに向けてから再び心臓マッサージに戻った。
「……ゲホっ」
 璃砂が水を吐いた。
「ゲホっ、ゲホ、ゲホゴホ」
 璃砂はその場を転がってうつ伏せになり、プールの床に手をやって咳を吐き続ける。生きていたのか。私はほっとして璃砂を見詰め、そして自分が恐ろしいことをしていたことに気が付いた。
 ナチが飛び込んだ時点ではまだ想定の五分には程遠かった。だがそれで心臓の動きが停まっていたのだ。息を飲み込む。ナチの行動がなかったら、璃砂はもちろん、この場にいた全員がヤバかったのではないのか?
 間違いなくナチはこの場にいる全員を救う行動を取った。この場にいる私以外全員が望む行動を取ったのだ。そして一人だけ仲間外れの私は周囲にあれだけ悪意を振りまいていた。
 状況のまずさに気が付く。言い繕うよりもとっととこの場を治めてしまった方が良いと判断して、私は胸を張ってナチと璃砂の間に入った。
「どったの女王様?」ナチが言いながら頬に張り付いたヘドロを拭う。「ウチなんか今ドロドロだしとっとと帰りたいんだけど」
 人が死にかけておいてこいつもたいがい肝が据わってる。私がいなきゃこいつがクラスで威張ってたんじゃないだろうか。
 悄然とする場で、私は支配者として幕を下ろしにかかる。
「今日はもう解散」私はそう言って肩を竦め、璃砂を見下ろす。「命拾いしたねぇクズ。これに懲りたらもう二度と家から出るんじゃないよ。それじゃあ……」
 その時璃砂の右手が私のむき出しの足に伸び、左脚小指と薬指を掴んだ。
 汚すのが嫌で靴も靴下も脱いでいたのを思い出す。何の真似だと思う間もなく、パンという乾いた音と共に凄まじい激痛が私の足元を貫いた。
「ぎゃあああっ!」
 私はその場を転がってあまりの痛みにのたうち回る。璃砂はぼんやりとした表情で立ち上がり、私の方を見下ろしていた。
 折られた。足の指を、二本。
 足を切り飛ばしたくなるくらいに激しい痛みだ。その痛みから逃れる方法を考えて、助けを求める相手を探して、そんなものはどこにも見付からないということに気が付いた。
「あーあー」ナチの気だるげな声が聞こえて来る。「誰か救急車呼んでやってよ。流石にちょっと、不憫だわ」

 〇

 あれからすぐに救急車と教師がやって来てちょっとした騒ぎになって、私は病院に運ばれて手当を受けた。
 私は足にギプスを巻かれて病院のベッドで寝転んでいた。鎮痛剤を点滴されていても、折られた足の指は痛み続けた。取り巻きの前であんなクズに一矢報いられ、無様に転げまわった恥辱が頭の中から消えてくれなかった。
「プールに忍び込んで同級生をリンチするだなんて、内向書に傷が付くようなことはしないように言っておいたはずよ」
 見舞いに来た母が厭味ったらしくそう言った。背後では、どこか落ちぶれた私を嘲笑うかのような表情で姉が立っている。
「父さんは?」私は母の言葉を無視して言った。
「仕事が忙しいのよ」
「お情けで高等部に上げてもらう為に必死で勉強しなきゃいけない姉さんは来ているのに?」
「公立の掃き溜めで粋がって弱い者いじめしてたあんたに釘を刺しに来たのよ」姉はそう言って肩を竦める。「ちょっとくらいの愚行ならまだしも、こんな派手な騒ぎを起こされたら、こっちの評定にまで影響するんだから。落伍者はせめて大人しくしていて」
「おかしな被害妄想やめてくれる? あんたが進学に失敗したら、それは全部あんた自身の責任だからね」
 事後処理は粛々と進んでいるらしい。私が璃砂に施した私刑が表ざたになることはなかった。シングルマザーで負債者の璃砂の母親は、私への治療費や慰謝料を背景に交渉すれば、簡単に沈黙を守ったようだ。
「なるだけ早く復帰するのよ。勉強の道具は持って来ておいたから、病院でもちゃんと勉強すること」と母。
 私は笑う。「こんな時まで勉強?」
「どんな時でも学生は勉強よ。母さんだってそうやって来たんだから。それに、今回のはあんたの自業自得でしょう?」
 誰にも同情されないことなんて分かっていた。「はいはい」
 そう言って本当に勉強道具を置いて帰る母親を見送る。すると姉が一瞬だけこちらを振り返って、視線を合わせずに言った。「足は大丈夫なの?」
 私はできるだけつっけんどんに答える。「別に」

 〇

 松葉杖のトレーニングを受けた私は数日で学校に復帰する。
 鎮痛剤を服用すれば痛みはほとんど気にならなかった。松葉杖での移動は時間こそかかるが慣れれば大した問題ではない。何よりも璃砂から受けた苦痛を百倍にして砂璃に返してやろうと言う魂胆が私にはあった。
 娘が殺されかけても簡単に引き下がるような母親を共有する姉を、璃砂はそれなりに愛しているらしい。その砂璃をいたぶられれば璃砂は怒りを感じるはずだ。尊厳を踏みにじり、ひたすら痛めつけ、徹底的に恐怖させてやらねばならなかった。
 その為にはまずは取り巻き三人を改めて従えることだ。そう思いながら教室に向かっていた私に、向こうからナチが歩いて来た。
「ひさしぶり、ナチ」私は声をかける。「こないだはヤバかったね。私このとおり、折れた足の指治ってないのよ。このうっ憤は砂璃で晴らそうと思ってるんだけど、当然協力してくれるよね」
 ナチは私の松葉杖を蹴り飛ばすと、バランスを崩す私の脚をひっかけ、その場で転ばせる。
 指の折れた左足は辛うじて庇ったものの、全身を打ち付けて私はその場で悶絶した。松葉杖の転がる音。身体を苦の時に曲げて痛がる私を、ナチが嘲るような表情で見下ろしていた。
「ダッサ」とナチ。
「何のつもり?」と私。怒りよりも困惑の方が大きかった。
「ん? 嫌な奴が学校来たから転ばしてやろって思ってさ」ナチは飄々と言う。「実はウチ、あんたのことって偉そうで嫌いだったんだよね。ずっと休んでてくれたら良かったのにさ。どうせなら足の指五本全部折ってもらえば良かったのにね。そしたら二十年くらい休んでくれたかも?」
「二十年って何? いつも思うけどあんたってアタマ使って喋ってる? バカじゃない?」
「なんであんた如きと話すのにいちいちアタマなんて使うと思うの? バカじゃない?」ナチはそう言って私の髪の気を掴む。「という訳で、ちょっと顔貸してよ、順子チャン」
 ナチの背後にユリカとミホがやって来る。ユリカは眉を顰めて哀れむような表情で私を見ていて、ミホは痛快だと言わんばかりの表情でナチの方に阿るような視線を向けていた。
「ちょっとユリカこれどういうこと?」私は吠えた。「なんで親友の私がこんな目に合ってるのに助けないの?」
「ごめんねぇ順子」ユリカは溜息を吐いた。「察してるとは思うんだけれど、ようするにね、あんたはクーデターに成功されちゃったって状況なのよ。言い出したのはナチだよ。足にギプス巻いて松葉杖ないと歩けないんだったら絶好のチャンスだって。ボロクソにリンチして恥ずかしい写真一杯撮って逆らえなくしてやろうって。ミホは元々順子よりナチの方と付き合い長いからすぐにそっちに付いたし、わたしも色々考えたんだけど……」
「ユリカ、あんただけは本当の友達だと思っていた」
「友達と思うからこそだよ。わたしは努力家の順子を好きだし尊敬だってしていた。けれども順子、あんたはちょっと傲慢すぎる。付いて行けないよ。人を一人殺しかけといて、あんな大火傷をしておいて、省みるところがまったくない。一回ちゃんと痛い目を見て置くのがあんたの為って訳」
「ごちゃごちゃ言ってるけど、私のこと目の上のタンコブだと思ってただけでしょう?」
「そういう風に思うのなら、それは順子が私のことを対等に思ってなかった証拠じゃない」
「つまり、アタシ達三人とも、順子のことが本当は嫌いだったってことね」ミホがそう言ってナチの方を見る。相変わらず物事の本質を微塵も理解せずに喋る奴だが、それでもこいつの言葉はその場の誰かにとって都合が良いのだ。
「そういうこと。じゃあ、いつものトイレに行こうね、順子チャン。今度はあんたが便器の中で息止めるの。立場逆転だね。良い気味」
 ナチはそう言って私の髪を掴み上げ、顎をしゃくってユリカとナチに私の両脇を固めさせた。今ではナチが支配者なのだ。私はクーデターを起こされ、成功され、都落ちした罪人なのだ。
 最初から全部仕組まれていたのだ。ラインしても電話しても態度が余所余所しいと思っていた。私の所為で人が一人死にかけたのだから思うところもあるだろうと言う程度に思っていたが、まさかこんなことになっているなんて。
 運ばれるようにトイレまで連れていかれる最中、目の前を横切ろうとした影があった。
 砂璃だ。
 私を見て反射的に怯えた表情を作ったそいつは、私達の様子を見てなんとなく状況を察したらしい。その場に踏みとどまり、私の方をじっと見詰めた。
「どうしたの?」ナチが言った。
 砂璃は絞り出すような声でこう言った。
「璃砂ちゃんのこと、あたし、許さないから」
 私に怯えたままのその声。ひょっとしたらこいつは、私がこんな状況でなくてもこの台詞だけは私にぶつけるつもりだったのかもしれない。姉としての怒りと矜持。それがいったい何になるのかは知らないが。
「だから?」私は言った。「失せろよつまんない奴。こっちはあんたみたいなどうでも良いのにかずらってる状況じゃないんだってば」
「いやいやそうでもないかもしれないよ」ナチがそう言ってにやりと笑う。「ねえ砂璃。こいつに復讐とかしたくない? 今から授業フケてこいつのことリンチするんだけど、参加させてあげよっか?」
 言うと、砂璃は一瞬だけ眉を大きく動かしたが、すぐに首を横に振るった。「あたしはいい」
「は? もったいなくね? 言っとくけどこれウチの単なる気まぐれだからね。そう何度もチャンスあると思わないでよ」
「あたしはいい。けど、お願い聞いてください。誰かスマホ持ってたら、貸して欲しいの」
「……? パズドラでもしたいの?」
「違うよっ」砂璃は意を決した風に言った。「璃砂ちゃん呼ばせて。復讐させてもらえるなら、あの子にやらせてあげたいの」

 〇

 部外者を学校に呼んで良いのかという素っ頓狂な疑問を口にしたナチに、いやいや璃砂も生徒だからとユリカが返す。中学校って何日か来なかったら退学になって最終学歴が小卒になるってお母さんが言ってたんだ、だから自分は毎日嫌々学校に来ているんだ、などと頑なに主張するナチの前に、制服を着た璃砂が現れたのは一時間目の授業も半ばに差し掛かる時間帯だった。
「あ、璃砂ちゃん」
 以前まで自分が毎日いじめられていたトイレに妹がやって来て、砂璃は心なし緊張した様子だった。
「ちゃお、璃砂チャン」そう言って手を挙げたのはナチだった。「命の恩人でっす」
「お礼は言わないよ」璃砂はそう返す。
「あっそ。でもあん時はあんた根性あったよ。あんたのお陰だよクーデター成功したの。こいつ腕っぷしも結構あるからさ、松葉杖じゃなかったらやりにくかっただろうし。それに、あんたみたいな引きこもりに足の指圧し折られてるこいつ見てさ、ウチらもこんな奴の下に付いてることないって思えたんだ」
 そう言ってナチはトイレのタイルの上に転がされて靴の跡塗れになっている私を指でさす。状況を確認した璃砂は嘲るでもなくすぐに視線を逸らしてから、姉の方を見てこう言った。
「殺しちゃいな、こいつ」
「あたしはしないよ」砂璃は答える。「でも璃砂ちゃん、この人に殺されかけたんでしょう? 割れた爪だって痛そうで可哀想だし、お腹は痣塗れだし……。だからあたし、この人に復讐させてもらえることになったんだけど、その権利璃砂ちゃんに譲るよ」
「お姉ちゃんの方がよっぽどつらい目にあって来たんだから、お姉ちゃんがやるべきだ」
「ううん。あたしはやらない」砂璃は強い意思を感じさせる表情で首を横に振る。「あたしは復讐とか別に良い。でも、璃砂ちゃんならきっとやりたがるだろうと思ったから、呼んだ」
「同じことじゃん」私は反吐が出そうな心地になって言う。「復讐くらい自分でできないの? ひっどい欺瞞。自分の手ぇ汚したくないから妹に任せんの? 本当あんた自分じゃ何にもできない卑怯者だよね。妹が大けがしたのも死にかけたのも、弱いあんたが全部悪いんじゃん。本当、私、あんたみたいなクズって嫌い」
 私がまくしたてると砂璃は怯えた様子で身じろぎするが、すぐに首を振って私を睨み直した。嘲りも愉悦も勝利もその瞳には伺えず、ただ真っ黒な憎しみだけが私を見下ろしていた。
 その時、私の足元に鋭い痛みが走った。悲鳴を上げてそちらを見ると、璃砂が憤った表情で私のギプスを踏みつけていた。
「ぎゃ、ぎゃあっ!」私は叫ぶ。「何すんの?」
「何ってこうしてやったら痛いかなって」璃砂は言いながら私の足のギプスを繰り返し繰り返し踏みつける。
「い、痛い、痛い痛い痛いっ」私は懇願するように叫ぶ。「それはやめてっ! ヤバいから、マジでっ。治るのが遅れるから……っ!」
「お姉ちゃんがそんな風に泣いた時、あんたは一度でも容赦してやった?」
 璃砂は言いながら私の足を踏みつけ踏みにじる。折れた指を強く圧迫されて私は引きちぎれそうになる。脚を切り飛ばしてでも楽になりたいと感じさせられるそんな激痛だ。
 ここまでやるか? 私は痛みに悶えながら思った。ボロクソにされて写真や動画を撮られるにしても、再起と報復の為にせめて毅然としていようと思っていたのだが、ここまでのことをされるとは聞いていない。バカじゃないか、こいつは? こんなことをしたら痛いに決まっているのにっ!
「お姉ちゃんがどんな子なのかはあたしが良く知ってる。色々言いたいことはあるけど良い子だよ、あたしは好きだ。あんたみたいな奴にバカにされるのは許せない」
「分かったから。もうバカになんてしないからっ!」私は恥も外聞も捨てて泣き叫ぶ。「痛いんだってばっ! 本当に痛いっ! 死んじゃう、死んじゃうからっ! もうやめてっ! 何でもする、何でもするからっ! もう二度とあんたのネーチャンいじめないからっ!」
 助けて欲しかった。誰でも良いから助けて欲しかった。頭の中で私を助けてくれる人の顔を思い浮かべようとして、父のことを思い出そうとして、上手くいかなかった。
 内臓を潰された芋虫みたいにじたばたともだえ苦しんでいても、璃砂を止めてくれる者は一人もいない。それだけ璃砂に迫力があったのか、それともこれだけ苦しんでいても誰も助けてくれない程、私は世界中の誰もかもに忌まれているのか。
 璃砂は息が切れるまで私のギプスを蹴り飛ばしていたぶった後、姉の方を見てこう言った。
「ねえお姉ちゃん。あんた、こいつに便器の中に顔突っ込まされて、溺れさせられたんだって。何度も何度も」
「え、う、うん」砂璃は言う。
「最大で何分やられた?」
「よ、四分半」
「じゃあ倍だ。十分だ」言って、璃砂は私の髪の気を持って便器まで引っ張っていく。「もうさ、あたし、こいつのこと殺すつもりで来たし。だから、誰がなんと言おうと、絶対に、十分だ」
 砂璃は頷いた。ユリカは何も言わなかった。ミホは動画を撮影する手を止めずにナチの顔色を窺い、ナチはけらけら笑いながら「やっちゃえやっちゃえ」と笑っているだけだった。
「十分はヤバい」私は言う。「死ぬっ、それは死ぬっ」
「お姉ちゃんもね、死ぬところだったんだよ」璃砂は私の瞳をじっと覗き込む。真っ黒な憎悪と本気の殺意の渦巻いたその瞳は、私を震え上がらせた。「何回自殺を仄めかされたか。首を吊ろうとするのを何度止めたか。遺書を見付けて泣きながら慰めたことも、切り傷だらけの手首を見せられたことも、全部全部あんたの所為じゃない? どうして自分が殺されずに済むなんて思えるのか、あたしは本気で分からない」
「思わないじゃないっ!」私は吠える。「私は今日まで頑張って来たっ! 自分の為に、父さんの為に、一生懸命死にもの狂いでやって来たんだっ! あんたらクズと私は違うっ! だから、だからこんな目に合うなんて思わないじゃないっ!」
 いじめなんてのは弱い奴がやられることだろ? 食い物にされると分かっていて弱い自分を弱いまま放置している愚かな卑怯者がされることだろ? 私は絶対にそんな奴にならないように、血を吐くような努力を続けて来たんじゃないか!
「理不尽だっ! 不条理だっ! どうして私がこんな目にあう? 軽んじられたくなくて、笑われたくなくて、負けたくなくて愛されたくてずっとずっと頑張って来たのにっ! なのにどうしてあんたらみたいなクズに私がいじめられるの? この世は弱肉強食じゃなかったの? 私は……私は……弱くないのに……っ! なんで? なんで私が負けるのよ……っ!」
「弱さに報いがあるのだとしても」璃砂は言う。「傲慢にも報いはあるべきだ。そう思わない?」
 悄然とした場で、誰も璃砂のその言葉を否定しなかった。
「行くよ」
 私の顔面が勢いよく便器の水の中に押し込まれる。水の跳ねる音。
 ナチとミホのはやし立てるような声が聞こえて来る。ユリカがくすくすと笑っている。親友のユリカ。私の言うことを何でも聞いてくれたナチとミホ。いつも砂璃の顔を突っ込んでいた便器。汚い水。糞尿の混ざった水。
 恥辱や不快感を覚える以上に全身が震えあがるような恐怖を私は感じている。私は私以外の人間の手で呼吸を奪われているのだ。そしてそれはいつまで続くとも知れないのだ。私が砂璃に施したように。
 かつて父に同じことをされたことを否応なく私は思い出す。あれは報いだった。自らの怠慢と能力不足によって中学受験に失敗したその報いだった。私が今まで大きな挫折をしたのはあの一回だけ。もうあんな思いはあれっきりにしようと思ったのに。強くあろうと思ったのに。なのに。
 嫌だ。こんな目にあうのは嫌だ。私は全身に力を入れてトイレから這い出そうと暴れる。璃砂の右手は爪がボロボロに割れているから碌に力が入らない。実質片腕だけだ。本気で暴れれば一人で抑え込むことはできないはず。
「お姉ちゃん!」声がする。「手伝って!」
 戸惑うようにして、私の後頭部に新しい手が添えられた。璃砂の手と同じ形、同じ大きさ。それは力一杯全身の体重をかけるようにして私の顔を便器の中に抑え込もうとする。
 私は肺に残っていた最後の空気を吐き出す。水を飲みこんで本気で暴れるが、二人分の力に阻まれて私は水の中から這い出せない。
 意識が朦朧とする。暴れる程に全身の力が霧散していく。
 こんな目に合うはずはなかった。私はこの世界の在り方を誰よりも深く知り抜いていたはずだ。それに基づいて蓄えた力で、いつだって気高くその場を支配して来たはずなのに。
 それなのに。気が付けば、砂璃と立場が逆転してしまっている。
 気が狂うような息苦しさが脳天を駆け上がり、頂上に達してかき消えた。酩酊のような感覚と共に私は自分の居場所も分からなくなり、全身の力が抜けて行った。
 意識が暗転する。

 〇

 私はぼんやりと天井を見詰めている。
 黒板の前で授業する教師の言葉に耳を澄ませても、小さな話一つ私の頭に入らない。集中が続かないのだ。
 ノートに文字を書こうとしても指が震えて上手くいかない。ペンを持つことはできても綺麗な文字を書けなくなっていて、円を描くのも一苦労なのだ。
 授業が終わり礼の時間になっても私は立ち上がることができなかった。何が起きているのか分からないまま、気が付けば周りが立っていた。よろよろと立ち上がる頃には周りの皆は着席を終えていて、一人だけ立った私をくすくすと嘲笑する声が取り囲んだ。
 それを見ても、教師は何も言わなかった。
 休み時間。遠くから飛んでくる紙の塊を浴びて私はそちらに視線をやる。ナチだ。
「順子チャン、大丈夫? 生きてる?」そう言ってナチは私に冷笑的な視線を向ける。「髪の毛ぼっさぼさ。碌に手入れもしてないね。歯ぁ磨いてる? 風呂入ってる? なんか臭いよ」
「…………」私は何も言い返さず沈黙している。
「こんなことにまでなって、最初はさ、気まずかったけど。慣れたら良い気味なくらいに思うもんだね。砂璃もきっと、そう思ってるよ」そう言ってナチは肩を竦めた。「まあその砂璃は今日学校来てないけどね。いやでも助かったよ。あんたがそんな風になった責任、あの姉妹が自分から背負ってくれそうな雲行きだし。まあウチらは直接手ぇ下した訳じゃないし、途中からはヤバいと思って口では止めてたから、当たり前っちゃ当たり前だけど」
 トイレから顔を上げた私は完全な心肺停止状態にあり、ユリカの必死の蘇生措置も実らないまま、ナチが呼んできた教師がAEDによる電気ショックを施してようやく意識を取り戻した。
 長い時間脳に酸素が行かなかった弊害は集中困難と手足の震えという形で現れた。テストでは以前のような点数は取れなくなり自分の名前を書くのもやっと。最早普通の学校に通うのは不可能と判断されていて、その内どこかの障碍者施設にでも入ることになるらしい。
 今日まで積み重ねて来た全てを私は失った。あの姉妹によって失わされた。私がクズと蔑み、軽んじ、虐げ続けた者たちによって。
 惨めさと後悔で日々枕を涙で濡らした。母親は嘆き悲しみ泣き叫び、姉は前より少し優しくなった。父は世界一つまらない命を見るかのような目でこちらを見下ろしてから、『母さんに任せる』と呟くように言ってそれっきり視線一つくれはしなかった。
 一日の授業が終わり、私は一人で帰路に着く。
 よろよろと校門をくぐろうとすると、背の低い少女がこちらに気付いて声をかけて来た。
「順子さん」
 砂璃だった。制服を着て大きな鞄を持った砂璃は、ぴょこぴょこと間抜けな足取りでこちらに向かい、屈託のない瞳で私を見詰めた。
「あたし、転校するの。聞いてる?」
「そうなの? なんで?」
「なんでって……ママがね、もうあんな学校にいられないでしょって。璃砂ちゃんも一緒だよ。次の学校ではちゃんと通学するってママに約束してた」
「ふうん……。で、何しに来たの」
「荷物取りに来たの。璃砂ちゃんの教材とかも、学校に置きっぱなしだし……それと」砂璃はそう言って、俯いて私の足のつま先を見詰め、それから淡い微笑みを浮かべて視線を合わせる。「あなたに謝りに来た」
 謝る? 何を?
「ほらあたし、璃砂ちゃんと一緒に順子さんの顔をトイレに突っ込んで、その、障害とか残しちゃったじゃない? それはちゃんと一生賭けて償うし、だから……だから、あなたとはきっと、これからも長い付き合いになるね」
 十三歳のこいつらを刑事的に罰する法律はないが、何の責任も取らずに済むわけではない。実際何日か警察等に身柄を預けられていたようではあるし、道義的な意味での禊はこれから続いていくのだろう。
 でもそれはお互いさまだ。私は一生涯こいつに施したことを省みては、全身を焼かれるような後悔に悶え苦しむことになる。私は永遠に砂璃の泣き顔を思い出しては、自らの愚かしさで失ったものを悔い続けるより他にないのだ。
 砂璃は私に償うという。こいつが償うならきっと璃砂も償うのだ。二人の母親も。裁判をすれば三人にそれを強制することは容易だし、両親がいくら私に失望していると言えども、私が願えばそれを叶える為に戦ってはくれるだろう
 だけれど。
「いいよ、そんなのは」
 答える私に、砂璃はぱちくりと目を瞬かせた。
「どうして?」
「あんたは私にやり返しただけだよ。そんなの誰だって分かってる。他でもない私が一番分かってる。この先あんたを憎むことがないとは言えないけれども、でも、最後の最後私は納得すると思う。あんたを許すと思う。自分が招いたこの結果を、受け入れられると思う。私は……強いから」
 私達は壺の中で殺しあわされる毒虫だった。私は共食いを繰り返したっぷり太ったハラワタを抉り取られて、ようやく壺の外に這い出ようとしている。記憶と痛みから逃れられる訳ではないけれど、共食いの日々はもう終わりにしたかった。
「そっか」砂璃は頷き、微笑む。「敵わないな」
「何が?」
「あたし、順子さんのこと、怖かったし憎かったけど、でも同じくらい憧れてた。あたしにできないこと何でもできて、友達がたくさんいて堂々としていて強くて立派で、すごいなって。憧れてたんだ。あたしが順子さんだったらきっとあたしにもっと優しくしてあげるのにって、ずっとそんなことばっかり……」
 私は一つ息を吐いて、言った。
「最後に勝ったのはあなただよ。それってどうしてだと思う?」
「決まってるよ」
 私の問いに、砂璃はすべらかに答えて見せた。
「あたしは良い子にしてたから。ママのいうこと良く聞いて妹にもちゃんと優しくして来たから。悪いことはやらないで、やってしまったことは償って。人より秀でたものがなくても、人に優しく、人に正直に、人を許して、ちゃんと良い子にしてさえいれば、あたしはきっと幸せになれるんだ。病気で亡くなる少し前、パパがあたしと璃砂ちゃんにそう言ったんだよ」
 そう言って、砂璃は屈託なく微笑んで見せる。
 砂璃は自分の言葉に何の疑いも抱いていなかった。砂璃は父の言う通りに清らかに生きれば幸福でいられると心から信じ抜いていた。そんな幼い綺麗ごと一つ胸に抱いて、それが為に砂璃は何も考えず、何も変わらず、戦わず、私からの虐げに耐え続けていたのだ。そしてきっと砂璃は、この先ずっとそんな風に生き続けるのだ。今とまったく同じ、少し小突けば粉々に砕け散るような儚さのまま、一生涯。
 そんな砂璃の未来を想像すると、私はほんの少しだけ。
 溜飲が下がるような、そんな気持ちもした。

 〇

 家族会議の結果、私は祖母の家から養護学校に通うことに決まる。
「覚えてるでしょう? お婆ちゃん、順子、好きだったものね」私に少し優しくなった姉はそう言って私に微笑んだ。「きっと良くしてくれる。大丈夫、静かに過ごせるよ」
 私に声をかける姉の表情は、大昔仲が良かった頃とよく似ていて、それでいて粘つくような哀れみが滲んでいた。私は姉に微笑み返し、「うん、姉さん」と明るく答える。
 父と母は向かい合いながら沈黙していた。私が今の状態になってしばらく夫婦喧嘩の期間があって、今は少しずつ落ち着いて来ている。父の方から声をかけて来ることはあまりないけれど、それでも私のこれからについて考えてくれているらしい。
 窓を見詰める。空はまだ少し明るかったが、遠くの方に小さな夕焼けを見付ける。
 私は「外の空気を吸ってくる」と言って家を出た。
 見上げた空は澄んでいて、もくもくと広がる雲は分厚く優しい灰色をしている。太陽は雲の向こう側にいてゆっくりと一日を終わらせているけれど、今しばらくだけ私に散歩の時間を残してくれていた。
 小学校の頃の通学路を少し歩く。遊歩道に咲くシバザクラの花を見ていると、私は幼い日々を思い出す。
 テストで百点をとってはしゃぐあたしに、家族の皆は頭を撫でてくれた。もっと勉強が上手になるよと塾に行くことを勧められ、覚えて来たことを語るといつだって優しく褒めてくれた。
 私は祖母の家に行く。今の家族としばらくの間お別れをして、祖母のお世話になりながら近所の養護学校に通うのだ。祖母の住む田舎は静かで緑の香りのするところだ。小さくて綺麗な家に住む祖母は、私の成績なんか聞かずにいつも優しくしてくれていた。
「もう、いいんだ」私はそう言って空を見上げる。「もう、いいんだ。もう、勉強なんかしなくていいんだ。誰とも争わなくていい、戦わなくていいんだ」
 そう口にすると、しばらく感じていなかった深い安堵感が私を包む。長い溜息を吐いてお腹の中の暗い力を吐き切ると、すっきりした気持ちで前を向く。これからのことを思いながら震える拳を握りしめると、私は再び歩き始めた。
 正面から風が吹いて、私の頬を撫でつける。
 優しい匂いがした。
粘膜王女三世

2018年04月27日 00時00分14秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:もしもこの世が地獄なら、私は前世でいったいどんな罪を犯したのだろう?

◆作者コメント:

 ※ネタバレあり

 一番乗りしてやるぜ。
 二番目以降に投稿した奴ら、這いつくばれ。

 様々な人達に対して礼を逸した描写があちこちにありますが、これらはすべて作中のキャラクターの性格の悪さを表現するためのものであり、作者自身の思想とは異なります。ご了承ください。

 こういうタイプの主人公には前々から挑戦してみたかったのですが、とても楽しかったです。
 書き上げてみて思うのは、順子ちゃんが脳に障害負ってからの話をしっかり描きたかったなということです。祖母の家や養護学校で出会った人たちとのふれあいの中で考えを新たにし、自らの傲慢さに気付いて砂璃と和解し、前を向くまでをじっくりと。
 それを差し引いてもやりたいことはそれなりにできたと思います。どのような結果になるかは今はまだ分かりませんが、この作品を書けたこととても満足しています。
 感想よろしくお願いします。

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作者レス
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合計 16人 350点

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