龍の石籠

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 贄子《ニエコ》の導師に選ばれた、と私が聞いた時、まず感じたのは戸惑いだった。
 占星術師の使者、を名乗る男から通達を受けた時、私は地方学校の教師として働き始めて、たかだか数年しか経っていなかった。仕事には誠実に向き合ってきたつもりだし、それなりに上手くいっている感触はあったものの、国の命運を背負う存在である贄子の導師に自分が値するとは、どうしても思えなかった。学識を深め、教師としての職に数十年と奉仕し続けた者がなると思っていた導師に、自分が選ばれたということは、晴天に霹靂と稲妻を同時に受けたような衝撃を私に与えたのだった。
 栄誉を得たことに対する喜びが無かった、と言えば嘘になるが、感じていた困惑と、重圧に比べれば、それはあまりにも些少だった。
 しかし私ごときが何を感じようと、選ばれてしまった以上、導師の職務を辞退することは許されない。
 家に突然やってきた使者に、謹んでお受けします、と掠れた声で答えた後は、慌ただしく準備を進めるしかなかった。旅支度を済ませ、私は使者の乗ってきた馬車に乗り、王都へと向かった。
 息苦しい馬車の中で、一晩中揺らされ続けた後、私はようやく王都に辿りついた。
 王都に足を踏み入れるのは、教師としての教育を受けて以来、およそ三年ぶりのことだった。
 王都には国内の他の街ではまず見られない、天を衝くような高い建物が並んでいる。王族が住んだり執務を行ったりする居城や、国を支える官僚機構が収まった官舎は、いずれも一様に精密な円錐形をしている。石造りのその建物群はちょっとした小山程度の大きさは優にあり、その間を通る道を進んでいると、無数の巨人達に見下ろされているような気分になる。
 こうした建築技術をはじめとして、この国は様々な技術で世界の最先端を行っている。たとえ他国の首都であっても、これほどの建物を築き上げることは、まず不可能だ。
 十八歳からの四年間、毎日のように見上げ、そうする度に畏怖と誇りを感じていたはずの建物郡だったが、今の私には全く違う感慨を覚えさせた。
 あの建物達は、実は私に対して何か邪な考えを持っていて、そのせいで私はここに連れてこられてしまったのだ。導師などという身に余る大役を押し付けられて――
 導師という役目への不安と緊張、そして寝不足に苛まれていた私には、そんな妄想じみた考えすら容易に浮かんできてしまっていた。
 不快な物思いに囚われつつ、建物達を見ている内に、建物群の中でも最も巨大なもの――王城へ辿りついた。入口で馬車を下りた私は、銃剣付きの小銃を下げた衛兵に導かれるまま、その中へ足を踏み入れた。
 王城の中の一室――それまでおとぎ話の中で空想するしかなかったような豪奢な部屋に通された私は、これもまたいかにも高価そうな服に身を包んだ小間使いに、それまでの旅路を労われ、食事を振舞われた。
 朝食なので軽いものではあったけれど、食材一つ一つが私が日頃口にしているものとは異なり、選び抜かれたものであることを感じさせる食事だった。そんな食事の豪勢さと、依然として感じていた緊張のせいで、一口一口喉をつかえさせながら食事をなんとか食べ終えると、小間使い――親切そうで可愛らしい女性だった――は「ベッドで少し休まれたら如何ですか?」と言ってきた。
「導師様は午後から大変お忙しくなりますし、大分お疲れのようですので」
 彼女の言うとおり、夜通しの旅と緊張とで私は疲れきっていた。彼女の親切そうな物腰と穏やかな顔で緊張も多少緩んだのか、そう提案された瞬間、全身に鉛のような重さを私は覚えた。
「ありがとう、そうさせてもらいます」
 そう言って私がまっさらなシーツが敷かれたベッドに横になると、小間使いの彼女はにっこりと微笑んでみせてから部屋へ出て行った。
 その後、数時間ほど泥のように眠ってからは、「大変お忙しい」という表現が生易しく感じられるほど、慌ただしい時間が待っていた。
 起きて軽い昼食を済ませた後は、王宮付きの学者達から導師の仕事に関する講義を受けることになった。あらためて言われるまでもなく、この国に住む人間ならば、一般教養として当然知っている内容だった。
 この国を守る龍、数十年に一度、それに捧げられなければならない贄子、贄子を育てる、男女一人ずつの導師――夜通しの強行軍で疲労した頭で聞くにはあまりにも単調な内容で、居眠りでもしたいところだったが、相手は王宮付きの学者で、そんなことは出来なかった。
 あくびを必死に噛み殺しながら、一時間にも及ぶその講義を聞いた後は、官僚達との接見が待っていた。
 お仕着せの、ジャラジャラとした装飾が着いた服を身につけた私の前に、次々と見るからに権力者、といった風情の人間達が次々と会いに来た。
 贄子の導師は天から指名される、言うなれば国を救う英雄のようなもので、その権威は非常に高い。つい昨晩までは一介の地方教師でしかなかった自分が、この国の権力者達から、歯の浮くような台詞を次々とかけられるのは、非常な緊張を私に強いた。
 そんな接見が数時間続いたかと思えば、次は導師としての衣装の着付けだ、明日の王との接見の予行演習だ、天に捧げる歌の練習だ、と次から次へと導師としての仕事は襲ってきた。
 そんな全ての予定が終わったのは濃い闇の漂う深夜のことで、食事も取らずにそれらに当たっていた私は、文字通り立っているのがやっとの状態になっていた。
 自室に戻ってとにかく眠ろうと思っていたところ、今閉じたばかりのドアがノックされた。
 どうぞ、と私がうんざりした気分で答えると、ドアがゆっくりと開かれ、外から二人の男が入ってきた。一人は壮年の学者風、もう一人は髭と髪が真っ白になった老人だった。
 誰ですか、と私が尋ねる前に二人の男は深々と頭を下げ、老人の方がしわがれた声を紡いだ。
「夜分に失礼致します。私はカリノ、王宮付きの占星術師でございます」
 半ばぞんざいになりかけていた居住まいを、私は思わずただした。
 天を見、未来を占い、そして龍を識る存在である占星術師は、この国の中では高い地位を与えられている。その中でも頂点とも言える王宮付き占星術師は、王に次ぐ地位を持っているとも言えた。
 カリノ、という名前の王宮付き占星術師の歳の頃は、六十か七十くだろうか。顔は皺くちゃで、髪と髭は真っ白く、声も大分しわがれてはいたが、頭髪は整い、丸眼鏡の下の瞳は穏やかな一方で、知性を感じさせる光を持っていた。その佇まいは積んできた学識と、地位に見合う威厳を自然と感じさせた。
 その高い地位にも関わらず、カリノの私に対する言葉は、とても丁寧なものだった。
「昨晩は大変な失礼を致しまして、申し訳ございませんでした。何分、天啓を得た後の事は急がねばなりませんでした故、どうぞお許し下さい」
「いえ、そのようなことは……私はマキト。導師としては至らないところが多いかと思いますが、何卒、ご教授頂ければと思います」
 そうガチガチに緊張しながら私が挨拶を返すと、カリノはにっこりと笑った。
 つられて私が笑みを返すと、カリノは部屋の隅に置いてあった丸椅子に目をやり、「申し訳ございませんが、座ってもよろしいでしょうか? この歳になりますと立っているのも大分辛くなってきまして……」と申し訳なさそうに言ってきた。
 占星術師の丁寧過ぎる物言いに半ばうろたえながら、私がどうぞ、と言うとカリノは弟子らしい男の助けを借りながら、丸椅子にゆっくりと腰かけた。
 腰かけたカリノは、ふぅ、と一つ息をついてから、私の方をじっと見てきた。
「導師として選ばれて、さぞや戸惑いを感じてらっしゃるでしょうな」
「え、ええ……私のような若輩者が、何故導師に選ばれたのか分かりませんが、天より召命された以上、全身全霊で職務を全うするつもりです」
 私がそう言うと、カリノは目を閉じ、私の言葉を脳内で反芻するかのように何度か頷いた。
「贄子様の導師は古来より、老若に関わらず召命されて参りました。天から召命された以上、あなた様には導師としての素質は備わられていると思います。どうぞ気負うことなく、職務に当たられますよう……そして」
 老齢の占星術師は、哀れみや、慈しみ、悲しみ、そうしたものが入り混じった目を私に向けてきた。占星術師の瞳に浮かんだ思いがけない感情に、私は思わずたじろぐが、カリノは静かに声を続けた。
「そしてどうか、何があっても贄子様を慈しむ心を忘れないで下さいませ。もう一人の導師様と共に、贄子様を導いてくだされ」
 意味はよく分からなかったが、重く湿った響きを持ったカリノの言葉に私はただ深く頷くことしか出来なかった。
 カリノが弟子と共に部屋を出て行き、私はようやく、一人になることが出来た。
 しかし、カリノが残した謎の言葉に神経が高ぶってしまったのか、シーツにくるまっても眠りはなかなか訪れてくれなかった。
 何があっても贄子を慈しむ心を忘れない、カリノはそう言ったが、あらためて言われるまでもなく、贄子を慈しみ、育てるのは導師としては当然の義務だ。にも関わらず、カリノがあらためて繰り返したのは、そうすることが出来なかった導師が多かった、ということなのかもしれない。
 国の命運を背負う導師に召命されたからには、その仕事をやり遂げるのが当然、と今までは思ってきたが、あらためて導師の仕事を考えてみると、確かに最後までし通すには、難しい仕事かもしれないと思えないでもなかった。
 導師の仕事はその知識と人格を持って、贄子を慈しみ、育て上げることだ。
 しかし、愛情を持って育てた贄子は、最終的には龍に食われることになる。
 愛情を注いだ相手を龍に食わせることは、正常な精神で出来ることではないのかもしれなかった。



 私達はその石壁の前にひざまずき、贄子の到着を待っていた。
 石壁は高さが三メートルほどもあり、これから私達導師が、贄子と一年間過ごすことになる清め場をぐるりと囲んでいる。文献によれば数百年ほど前から存在するという清め場の石壁は、風雨によって表面が削れ、一面に蔦が絡まってはいたものの、その齢相応の重厚さと、威容を備えて、私や、儀式に集った王族や衛兵達を見下ろしていた。
 王城での導師としての儀式――国王との接見や、導師としての召命の儀式、もう一人の導師との顔合わせ等々を終え、私は贄子との対面を待っていた。
 後ろに居並ぶ王族や衛兵、この国の権力者たちに背を向けて、石壁の最前列に膝立ちになった私の横には、もう一人の導師である女性が、私と同じ姿勢を取っていた。
 私と同い年くらいの彼女の名前はアスミ、と言う。召命を受ける前には、王都の学院で自然科学の講師をしていたらしい。
 名前と以前の仕事だけは知っていたが、彼女に関してはほとんど何も知らない、と言っていい。導師の儀礼で何度か挨拶を交わしたりしたものの、会ったのはその時くらいで、彼女とは世話話ひとつ出来ていない。
 簡単な素性は王城の小間使いが仕入れてきてくれた噂話で知っているとはいえ、ほとんど何も知らない(それも異性である)相手と、これから一年、子供を育てる、というのは考えるだけで汗が出てくるようだった。
 贄子が清め場に入る日を、天が知ってか知らずか、今日の天気は嫌になるほどの青空だった。
 そんな清々しい天気の下、一人陰鬱な物思いに沈んでいた私はふと、こんなことも考える。
 今まで贄子を育てることに失敗した導師はいないが、もし仮に私達が失敗した場合、この国は龍に滅ぼされてしまうのだろうか。
 そんな私の不安に答える者はだれもおらず、一人悶々と考えに浸っている内に、どこからともなく典楽の響きが聞こえてきた。
 太鼓や管楽器が厳かな響きを持ったその音楽は、徐々にこちらに近づいてきているようだった。
 儀式上、そちらの方に顔を向ける訳にはいかなかったが、それは贄子を連れた行列の響かせているものだった。
 国中の子供から、導師と同じく天から召命を受ける贄子は、音楽と祝宴と共に送り出される。
 それまでは何の変哲もない子供だったろう贄子が、故郷の村を出る時、王城での召命式を終えてこの清め場に連れてこられる時、そのいずれにおいてもこの国の人々は、盛大な音楽と宴を催す。
 自分達のために命を龍へ差し出す子供への、罪悪感を紛らわすかのように。
 典楽の音は私達の方へ徐々に近づき、それに伴って典楽の音色だけでなく、行列を進む者達の足音、衣擦れの音、身につけた飾りの響かせる金属音も聞こえてくるようになってきた。
 典楽の中の太鼓が、一度、一際大きな音を立てた。それを汐に典楽は止み、それまで膝立ちの姿勢で待っていた私とアスミもまた、両手のひらと額を地面に擦り付ける、最敬礼の姿勢を取った。
 背後で多数の人間の衣擦れの音から、後ろに居並ぶ王族達も私達と同じような姿勢を取ったのが分かる。
 無数の人間の動く音が、それほどの間を経ずに鳴り止むと、清め場の周囲を人々の沈黙が包んだ。
 風にそよぐ草の音、石壁と風が立てるひゅうという冷たい音、鳥や虫達のさえずり、そうした物以外の一切の音が消えた中、不意にしゃん、という静かな音が響いた。
 その静かな音は、一定のリズムで何度も響く。しゃん、しゃん、という音は、先ほどの典楽と同様に徐々に私の方へ近づいてきて、そしてちょうど地面にひれ伏す私の横の辺りに来たところで、唐突に止まった。
 ひれ伏したまま、横目でそちらの方を見る。
 小さな足が、私とアスミのちょうど間のところにあった。その足にはいくつもの金属の輪がはめられていて、それが先ほどまでの音を奏でていたらしい。
 贄子の足だった。
 贄子は二人の導師の間で一度立ち止まり、扉に向かって一礼すると、そちらの方へ向かって数歩進む。贄子が歩き始めると同時に、導師の二人は立ち上がり、贄子のために扉を開ける、というのが、清め場への入場の際に定められた儀式だ。
 しゃん、しゃん、と贄子の足に付けられた輪が再び音を響かせると、私とアスミは最敬礼の姿勢から立ち上がった。立った私の目に、重厚な石壁とその中に設けられた、人二人が悠々と通れる両開きの扉、そしてそれに向かって足を進める贄子の姿が目に入ってきた。
 贄子は、本当に小さな子供だった。
 身長は私の半分ほどもないように見える。白い儀式用の服に包まれた体は幾重にも巻かれた布の上からでも分かるほど細く、私がかつて教えていた、地方の貧村に住む子供達を思い起こさせた。
 贄子の儚さすら感じさせる佇まいに目を奪われていた私は、立つと直ぐに動き出したアスミに一拍遅れてしまった。
 慌てて贄子の前に回り、その古びた取っ手に手を伸ばす。アスミとは反対側の扉の取っ手を私が握るのを見て取ると、彼女はぐい、と腕に力を込めた。その動きに合わせて私も扉を開くと、自然と顔は贄子の方を向くことになる。
 贄子は、十になるかならないかくらいの歳頃だった。髪は黒く、肌もよく日焼けしていて、やはり地方の農村の出自らしい。体つきから女の子と分かる彼女は、丸みを帯びた頬と、ぱっちりとした瞳を緊張にこわばらせ、私とアスミの方は見ることなく、開かれた扉の先に広がる光景をじっと見つめていた。
 儀式の本来の流れでは、贄子は扉を通って清め場の中に入ることになっているのだが、贄子はなかなか中に入ろうとしなかった。
 清め場に入ったが最後、贄子は外の世界に出ることはない。一年後、龍に食われるその時まで、この石壁で囲われた密室の中で生きていくしかないのだ。死ぬことを恐れてしまってはいけないので、龍に食べられてしまうとは贄子には知らされない。これから清め場に入るのは龍に嫁入りするためだと教えられているが、贄子に選ばれてしまったら、もう家族や友人とは会えない、ことは伝えられているはずだ。
 自分が仮に、この子と同じ立場だったらどうするだろうか、とふと思う。
 もう友達とも親とも会えず、石造りの壁の中に幽閉されてしまうのだと知らされたら、なんとかして逃げ出したい、と思うのではないだろうか。
 そんなことを思っていると、それまで扉の向こう側をじっと見つめていた贄子が背後を振り向いた。本当に逃げる気になってしまったのか、と私は思わず身を固くしたが、彼女は後ろの方を見たまま、何もせず、ただじっと立つだけだった。
 自分に向かって頭を下げている人々はほとんど見ずに、彼女はもっぱら自分の前に広がる空や、草原を見ているようだった。
 もしかしたら、その空や草原の向こうにあるであろう自分の故郷の方を見ていたのかもしれない。白い衣服を着た少女と、その前で頭を下げる無数の人々、広大な草原と澄んだ青空が広がる光景は、一枚の絵のようになって私の目に映った。彼女を待ち構える運命を考えれば、胸を締め付けられるような気持ちにさせられるその光景に、不意に一つの異物が加わった。
 それの出現に最初に気付いたのは、贄子の少女だった。
「あ」
 それまで空や草原を見渡していた彼女だったが、そう呟くと、空のある一点を注目し始めた。
 彼女の視線の向いている先に目を向けてみると、澄んだ青空に一つの黒い点が浮かんでいた。
 みるみる内に大きくなったそれは、遠くから見ても巨大と分かる翼、そして太い尾を持っているようだった。
「龍……」
 そう呻くように言ったのは、隣に立つアスミだった。
 いつしかその巨大な羽音も耳に届くようになり、私達だけでなく、地面に伏していた人々も龍の接近に気付き始めた。
 贄子が清め場に入る儀式では、龍が来ることは定められていない。想定外の事態に、人々は慌てふためき、贄子が清め場に入るまでは解いてはならないとされている最敬礼も忘れて、空を見上げ、何事かを口々に喚いていた。
 そんな人間達の動揺を歯牙にもかけず、龍は私達の頭上を飛び去っていく。
 初めて間近に見る龍は、予想以上に大きかった。
 翼を一杯に広げた状態で、すぐ上空を通過した龍は、清め場の前に居並んだ、およそ百人にも及ぶ人々をすっぽりと覆うくらいの大きさがあった。頭はその巨大な体に対してそれほど大きくなかったが、それを支える首は長く、太く、その根元の胴体もまた、どっしりとたくましかった。龍の体を大きくさせているのは何よりもその翼で、コウモリのそれのような翼は、龍の胴体と首を合わせた倍ほどの大きさを持っていた。
 その巨体で私達を圧倒した龍は、一度数十メートル程の高さを上昇し、右に大きく方向を変え、そのまま清め場の上空を旋回していった。体と比すれば小さな頭に、さらに小さく穿たれた瞳は白目の部分が見当たらず、その視線がどこを向いているかは分からなかったが、おそらく贄子を見ていたのだと思う。
 龍は清め場の上空を三回旋回した後、方向を変えた。
 突然の龍の出現に大人達が驚き怯える中、贄子の少女は龍の方をただじっと見つめていた。
 方向を変えた龍はそのまま真っ直ぐに飛んでいき、大きな羽音を残して雲の間に消えた。その後を見送るように、龍のいた空間をしばらく見つめた後、彼女はくるりと体の向きを変えて、清め場の中へ入っていった。
 私とアスミは、彼女の背中を追って慌てて中へ入る。儀礼の作法に則り、出来るだけ静かに扉を締めようとすると、龍の出現による混乱からようやく立ち直った典楽隊が、贄子を壮行するための音楽を今更ながら奏で始める。
 その統制の欠いた演奏を聞きながら、私は重い扉をゆっくりと閉じたのだった。

 重い扉を閉めた私は、思わず大きくため息をついた。外の様々な儀式と規則から解放された安心感からだった。本当に大変なのはこれからのはずだったが、今の私には、王制の権力者達から逃れられたことへの喜びが、何よりも大きかった。ふと横を見ると、アスミも同じようなほっとした顔をしていて、私達はお互いの顔を見合って、同時に苦笑いを浮かべた。
 扉から離れた私は、あらためてこれから自分達が住むことになる清め場の中を見てみる。
 清め場は、石壁によってほぼ正円に近い形に仕切られた、草原と林だった。その敷地は広大で、以前外縁を歩いてみた時には一周するのに一時間近くかかった。三人の人間が住むには広すぎるように感じるが、一方でその広さのおかげか、閉鎖された空間にも関わらず閉塞感や圧迫感は感じられなかった。
 唯一の入口は、先ほど私達が通ってきた両開きの扉、ただ一つだけで、その扉から清め場の中心に向かって、一本の道が伸びていた。その道の先、清め場の中心にはこれから私達が生活することになる家が立っていた。
 家もまた、三人の人間が生活するには少し大きいようだった。
 石で組まれた平屋の家は、一昔前の作りをしていて、田舎なら十人程度の家族が住んでちょうど良いような代物だ。もっとも、遊び盛りの子供の贄子には、このくらいの大きさがなければしょうがないのかもしれない。
 贄子に選ばれた少女は、その家に向かう道の半ばに立って、家や、清め場の中の草原と林を見回していた。
 私はアスミの先に立って、その小さな背中に向かって歩き出した。
 私が歩き出すと、その気配に気付いたのか、贄子はくるりとこちらを振り向いてきた。
 まんまるい目には初対面の見知らぬ男への警戒心のようなものが満ちているように見える。
 私は、なんとか自分が怖く見えないように、ゆっくりと彼女へ近づいた。
 彼女からあと数歩、というところで私は足を止め、地面に膝をついて彼女へ礼をした。
「お初にお目にかかります、贄子様。私はマキト、天よりあなた様の導師を務めるよう召命されました。これより、贄子様のお世話と教育をさせて頂きますので、どうかよろしくお願いいたします」
 そう、丁寧に言う私を、贄子はただまん丸い目で見るだけだった。初対面でちょっとからかい過ぎたか、と思った私は、彼女に向かってにんまりと笑って見せた。
「――というのは冗談だ」
 私はひざまずいた姿勢から立ち上がり、膝についた土をぱんぱんとぞんざいに払った。
 急に態度を変えた私に驚いた様子の彼女の視線まで頭を下げると、私は彼女に尋ねてみた。
「君、名前は?」
「…………」
「驚かせて悪かったよ。どういう巡り合わせか分からないけど、これから一緒にやっていくことになったからには、私は君と仲良くなりたいと思ってる。まずは、名前を教えてくれないかな?」
「……ヒメノ」
「これからよろしく、ヒメノ。私はマキトと呼んでくれ。くれぐれも導師様、なんて呼ばないでくれよ。君が贄子様、贄子様って呼ばれてうんざりしたのと同じくらい、私も導師様って呼ばれ続けてうんざりしてるんだ」
 そこで初めて、ヒメノは少しだけ笑った。
「抜けがけはずるいですよ、マキト」
 私とヒメノのやり取りを後ろから見ていたらしいアスミが、恨めしそうに言いながら近づいてきた。
「はじめまして、ヒメノ。私はアスミ。マキトと一緒に選ばれた導師よ。私もあなたとは仲良くなりたいと思っているから、よろしくね」
 そう言ってアスミはヒメノと握手をすると、その頭をわしゃわしゃと撫で回した。
 ヒメノは恥ずかしそうに笑いながら、アスミになされるがままにしている。
 その年頃の子供らしい表情に、思わず笑みがこぼれるのを感じながら、私は頭の片隅でこんなことを思った。
 こんな可愛い子供も、一年後には龍に食べられてしまうのだ、と。

 贄子の清めを行う間、清め場の中には導師と贄子以外の人間は入ってはいけないことになっている。先ほど私達が扉を閉めた後、門の前には兵士が常に立ち、侵入者が立ち入らないよう警護を行うことになるし、私達の生活に必要な食糧ものは、石壁の一部に設えられた滑車を使い、外から中へと送られることになっている。
 そうした手間をかけるのは、清め場を世俗の影響が排除された環境にするためで、その中で贄子は導師達によって養育されることになる。
 清めの期間を除けば、清め場は占星術師らによって管理されており、私達が家に入ったとき、その中はきれいに掃き清められていた。しかしこれからは家の中の管理も、贄子と導師達でやっていかなければならない。
 家はやはり三人には大きすぎるように感じられた。玄関を通るとすぐに居間に至る作りで、居間はちょっとした宴が設けられるほど、大きかった。その奥には台所や浴室が設えられ、その横には三人分の個室も設けられていた。後で見てみて分ったが、その個室も、通常のそれよりも倍ほどの大きさがあり、かつての贄子や導師は皆かなり大柄だったのだろうか、と私はふざけ半分に考えたものだった。
 家の中に入ると、ヒメノはまずその家の大きさに歓声を上げた。彼女のもとの家とは大違いだったのだろう。そんな家に住んでもいい、とされたことは、彼女をつかの間はしゃがせたようで、ヒメノは、居間や、広い浴室、そして個室を見て回り、その度に楽しそうにころころと笑うのだった。
 初対面の私達にも早速打ち解けてくれたらしい様子の彼女に、内心ホッと息をつきながら、私は居間の片隅に積まれた衣類や、食糧、日常生活に必要な道具類に目をやった。
 定期的に補充はされるものの、最初に運ばれた生活必需品の量は国の命運を担う儀式を行っているだけあって、膨大な量があった。
 何はともあれ、その整理からまずは取り掛からなければならず、ヒメノと遊ぶのをアスミに頼んで、私は部屋の隅に鎮座する物資の山に向かった。
 物資の中からまず取り出したのは、服だった。今、私が着ている導師用の臙脂の服は生地が厚くて重く、作りもきついため、礼服一般がそうであるように普段着にはまず使えない。
 綿で作られた服を引っ張りだしていると、衣類の中から見慣れないものを見つけた。
 女性用の下着だった。
 顔が思わず火照るのを感じながら、私はそれが纏められた小箱を脇にのけ、山と積まれた道具、用具、食糧を見やる。台所用具、衣類、とそれぞれ種類によってまとめられていたおかげで、分別をする必要はなかったが、それを運ぶのは結構な力仕事で、地方の一教師には、かなり大変な仕事になった。
 なんとか荷物の分別を終えた頃には、天高く登っていたはずの太陽は地平に沈みかけ、私のひ弱な体は汗みずくになっていた。
 家の傍には生活用水のための井戸が掘られており、中には冷たく、清らかな水がたたえられていた。そこで私が体を拭き、水を飲んでいると、同じく汗みずくになったアスミがやってきた。
 導師用の服でずっとヒメノの遊びに付き合っていたらしいアスミは、私以上に疲れているように見えた。汗で額に貼り付いた前髪をかきあげながら、アスミは爽やかに笑う。
「荷物の整理、ありがとうございました」
「いえ……アスミも大変でしたね」
「いやぁ、そこそこに……でも楽しかったですよ。ヒメノ、思いっきり飛んだり跳ねたりして……私もこんなに体を動かしたのは久しぶりです」
 そう言いながら、アスミはつるべで汲み上げた水で顔をばしゃばしゃと洗った。
「そういえば、ヒメノは?」
「遊び疲れてお昼寝してますよ。あんまり寝ると夜眠れなくなっちゃうんでそろそろ起こそうと思うんですけど……」
 顔についた水をアスミはごしごしと豪快に布で拭く。
 その時初めて、私はアスミの顔を正面からまともに見た。油気の少ない、さらさらとした黒髪を頭の後ろで結わえた彼女は、日頃から太陽の元に出ているのか、よく日焼けしていた。ヒメノとの遊びを終えた後の彼女の目には、きらきらとした活力が満ちているようで、常に人の良さそうな笑みを浮かべた口元と共に、彼女の明るい性格を表しているようだった。
「そろそろ夜になってきますし、お夕飯の用意でも始めます?」
「そうですね、ちょうどお腹もすいてきたし」
 彼女の顔に思わず見とれてしまったのを悟られないように、私は顔を逸らしながらそう言った。
「ああ、それと……勝手に、あなたの個室を選んで、衣類とかを運んでおきました。もし着替えたかったら、行ってみてください」
「ありがとう。そうさせてもらいます」
 そうアスミにお礼を言われながら、私は夕飯の用意に取り掛かりに台所へと向かった。
 玄関から居間に入ると、そこに置かれた絨毯の上で丸くなったヒメノがまず目に入ってきた。
 上質な獣の皮で作られた絨毯に、ヒメノはまるで猫のような姿勢で眠り込んでいた。すうすう、と寝息を立てる彼女を起こさないように、私はその横を忍び足で通り過ぎた。

 夕食は簡単なもので済ませた。というより済まさざるを得なかった。
 今日の朝、清め場に入る儀式が始まってから――というよりその前、導師として王都に連れてこさせられてきてから、疲れが溜まり続けていて、何か料理を作るような気力は残っていなかったからだ(もっとも、仮に元気だったとしても、まともな料理は作れないのだが)。
 食糧の中からハムやソーセージといった冷肉を引っ張り出して脂で焼き、トマトといった野菜を適当に切り、パンを皿に並べただけの夕食を食卓に並べていると、匂いと調理の音に誘われるように、ヒメノが絨毯からむっくりと体を起こした。
 午睡から醒めたヒメノは、私がおはよう、と軽く冗談めかして声をかけると、まだ眠そうな顔で小さく頷いた。
 ヒメノを卓につかせると、着替えを終えたアスミがやってきて、三人での初めての夕食がささやかに始まった。
 簡単な食事にも関わらず、二人ともよく食べた。
 私達三人とも、ここ最近は王都で豪奢なものを食べていたはずなのだが、王城などのきらびやかな部屋で出される食事は非常な緊張を皆に強いていて、私をはじめとして、食事は、まともに喉を通らなかった。
 何はともあれ、そうしたものから解放されたことへの喜びと、それまで押さえ込まれていた食欲は、(私も含めて)大きく、それなりの量を用意したにも関わらず、私が作った簡単な食事はあっという間にほとんど無くなってしまった。
 おいしい、おいしい、と言いながら食べ続けたヒメノは、食後のお茶を飲むと、昼寝をしたにも関わらず、またもばったりと寝入ってしまった。歯磨きをさせるために起こすべきか大分悩んだものの、その寝顔の穏やかさに結局は負け、私は眠り込んだ彼女を抱えてベッドに運んだ。
 ヒメノの部屋から居間へ戻ると、アスミが居間の暖炉の前で、果実酒を飲んでいた。
 私に気がつくと、瓶を掲げて見せたが、私はその仕草に、苦笑いを浮かべながら首を横に振った。
「飲めないの?」
「臭いを嗅ぐだけで赤くなるんだよ」
「この機会に強くなってみたらどう? 一人でお酒飲んでも楽しくないし」
「いずれね……今日は勘弁してくれ」
 そう言いながら、私は新しいお茶をカップに入れた。
 アスミは至極残念、という顔で果実酒を一口含む。
「ぶっちゃけ、導師に選ばれた、って聞いた時どうだった?」
 酒の入った杯を持ちながら、ほおずえをついたアスミは、火を見ながら、そう声をかけてきた。
 私は思わず苦笑いが口元に浮かべながら、大仰に首を振ってみた。
「滅茶苦茶戸惑った」
「だよね? マキトは何歳?」
「二十五、もう少しで六になる」
「うわあ、あたしより年上だ。あたしなんて二十三だよ? こんな小娘が贄子の導師やるなんてどういうこと、って思ったわよ正直」
「もっと歳取った爺と婆さんが、孫でも見るように育てると思ってたよな?」
「それそれ。これじゃあ、新婚さんの子育てよね」
「そうなんだよ。もし贄子の清めが失敗したら、どうなんのかな?」
「そりゃあ、龍が国を火の海にするんじゃない?」
 そう言って、頬に赤みが差したアスミはけらけら、と笑う。私も彼女につられてキツめの冗談に思わず笑ってしまう。
「こんなこと王都の連中に聞かれたら導師の権限剥奪されちゃうかなー」
「導師は天から任命されそうだから、それはないんじゃない?」
「いやーでも出来ることなら導師なんて今からでも辞めたいな、私は」
「まあ確かに、重い務めではあるけどね」
「重たいってだけじゃなくてさ」
 そこでアスミは酒の入ったコップを置いた。
「今日遊んでて分かったんだけど、ヒメノって物凄く良い子なのよ。元気で、明るいんだけど、ちゃんと私のことも気づかってくれてさ……多分、贄子になる前は面倒見がいい、お姉ちゃんだったんでしょうね。そんな子を私達は龍に食べさせるために育てるのよ」
 王都に着いた晩に、カリノに言われた言葉が脳裏に浮んだ。
 贄子を慈しむ心を忘れないで欲しい。
 占星術師がわざわざそう告げたということは、そう出来なかった導師が多いということだとその時は思った。それも無理のないことだ、ともその時の私は思った。なぜなら、導師として私が行わなければならないことは、まさに今、アスミが言っていることだったからだ。
「そうしなきゃ、龍が国を守ってくれなくなるのは私だって分かってるけど、さ。それでも、あんな良い子を龍が美味しく食べられるように育てる導師って、あんまりにも酷い奴だと思わない? あの子を、家畜みたいに育てるってことでしょ」
「それでも、必要なことだろ」
 アスミの言葉を断ち切るように、私は言った。思った以上に強い口調に、私自身が戸惑い、アスミも少し驚いた顔で私の方を見てきた。
 アスミの言葉を遮るため、というよりは、自分の中で湧いてきた疑念と、罪悪感のようなものを押さえ込むためだったのかもしれない。アスミを不快にさせるだけ、とは思いつつも、疲れた頭は自制心を働かせず、浮かんできた言葉をそのまま口に出していった。
「交通の要衝にある上に、高い技術を持っているこの国を狙う国は多い。その侵略を抑止するためには、この国の軍隊だけじゃなく、強力な龍の力がどうしても必要なんだ。龍に守ってもらうためには贄子が必要で、その育成に導師が必要なのは、どうしようもないことなんだ。いくら残酷なことでも、私たちはやるしかないんだ」
 言い終えると私は、アスミから視線を外し、暖炉の火へ目を移した。
 理屈で人の気持ちを押さえつけてしまったことに、言ってしまってから罪悪感を感じる。
「……ごめん、理屈ばっかり言っちゃって」
「別に、良いよ。マキトの言っている通りだし……私こそごめんなさい。まだ導師としての役目が始まったばっかりなのに、泣き言みたいなこと言っちゃって」
 それから少しだけ、私達は無言で暖炉の火を眺めていた。
 しばらくパチ、パチという木の燃える音を聞いた後、アスミは一つ息をつくと、残っていた酒を一息で飲み干し、酒の瓶をもとあった棚に仕舞った。
「もう寝るわ。明日もあるし」
「ああ、片付けはしておくよ。お休み、アスミ」
「ありがとう、マキト。今日は悪いけどお言葉に甘えることにするわ」
 ベッドにもぐり込んでくるようなことはしないでね、と告げてから、彼女は自分の部屋に去ってしまった。
 彼女の背中を見送ってから、私は彼女達が食べ終えた皿や食器を片付け始めた。どれもこれも綺麗に食べられた皿の中に、ひと切れだけ、ハムが残っていた。脂で焼かれ、綺麗な焦げ目のついたそのハムが、この時の私にはどうしようもなくおぞましいもののように感じられてしまった。



 翌朝、私が起きたときには、太陽は既に天高く上がってしまっていた。
 今までの疲れと、慣れない力仕事に体が音をあげてしまったらしく、目が覚めたときにも肩や腰に痛みと、のしかかるような疲れが感じられた。
 私が自分の部屋から出たときには、アスミとヒメノは既に起きていて、二人して朝食を食べていた。
 昨晩は不愉快な思いをさせてしまったアスミだが、彼女は気にしているようなそぶりは見せず、私の顔を見るといたずらっぽく笑う。
「おや、寝ボスケさんがようやく起きてきましたよ」
 アスミの言葉に、目玉焼きをつついていたヒメノは、あはは、と笑った。
「寝ぼすけ、寝ぼすけ」
「はいはい、ごめんなさい。二人してあんまりいじめないで下さい」
 私がおどけた仕草でそう言うと、アスミはヒメノと目を見合わせた。
「まあ、昨日は私達のために頑張ってくれてたみたいだし、これくらいで勘弁してやりましょうかね、ヒメノさん?」
「そうしましょうかねー、アスミさん」
 そう言って女性二人は一緒にくすくすと笑った。
 私のいない間に、かなりの仲良しになってしまったらしい様子の二人に、それとない安心とちょっとした阻害感を感じながら椅子に座り、アスミが淹れてくれたお茶を飲む。
 アスミが作った、という目玉焼きとサラダの朝食をもそもそと口に運んでいる間に、アスミとヒメノは先に食事を終え、食べ終えた食器の後片付けを始めていた。
 二人並んで楽しそうにしゃべりながら皿洗いをする姿は、まるで歳の離れた姉妹か、親子のように見えなくもなかった。
 そんな二人を見ながら、導師としての役割をあらためて考える。
 導師の役目は、贄子を龍の供物として育て上げることにある。
 贄子も導師と同じく、天の召命によって選ばれた者だ。天――この国を古来より見守ってきた強大な存在――が、どのようにして子供を選ぶのかは分からないが、贄子として選ばれるのは、明朗快活で心身共に健康、そして機知に富んだ十歳未満の者、とされている。その子供を一年の間、清め場で育てるのが、導師の役割だ。
 龍に捧げる贄子は単に心身が健康なだけでなく、高い教養と高潔な精神を身につけていなければならない。
 人々の愛と英知のこもった贄子を食して初めて、龍はこの国を守る意思と力を得る、とされている。この国が育んできた道徳と知識を、全国の教育者・知識人を代表して注ぐのが、男女一人づつ選ばれる導師の役目なのだ。
 導師も天からの召命を受けた者が任命される。王宮付きの占星術師がその召命を受けるのだが、こうして清め場に入った今でも、あのカリノという占星術師が、天からの召命を間違って受け取ったのではないか、という疑念を拭いきれなかった。
 国を代表するには、私達は知識も経験も全く足りていないからだ。
 もっとも、愛情を注ぐ、という点では、今のアスミとヒメノを見ている限り、問題は無いように見える。
 会ってたった一日しか経っていないにも関わらず、二人は血が繋がっている、と言われればそのまま信じてしまえそうなほどに、仲良くなっていた。
 私もなんとかヒメノと仲良くしたいとは思うのだが、こうも二人の仲が良いと、その中に割って入るのは気がはばかられた。
 そこで私は、贄子の責務の一つである高い教養を身につけること――要は勉強を通して、彼女と関わり始めることにした。

 贄子が身につけるべきなのは、健康な心身と高い教養、そして高潔な精神だ。
 健康な心身は規則正しい生活から、高潔な精神は日々の心がけの中から育まれる。高い教養を育むのは、当然勉強だ。
 勉強といえば、ヒメノくらいの歳頃の子供にとっては苦痛以外の何者でもないことが多い。そんなことを通して彼女と仲良くしようと思うのは無謀なのかもしれないが、私の今までの仕事は、そういうことだった。
 教育を通して子供の人生に関わるのが、教師なのだ。
 食事と皿洗いを終え、次は何をするの、と聞いてきたヒメノに、私は勉強、と告げた。
 言われたヒメノは、思ったとおり、それまで楽しくてしょうがない、と言わんばかりの顔を曇らせた。
「あとじゃダメ?」
「勉強するには今の時間が一番向いてるんだ」
 ヒメノは渋々、といった様子で頷く。つい先日まで勤めていた学校でも、何十回と見てきた顔に、私は思わず笑ってしまう。
「ヒメノは勉強は苦手かな?」
「苦手じゃないけど、あんまりしたくない」
「それはどうして?」
「楽しくないもん」
「そうか、しかし教養を身につけるのは贄子の責務の一つだから、どうしてもやらなければならないことなんだよ」
「うぅー」
「それにね、ヒメノ、本当は勉強って楽しいものなんだよ」
「うそだあ」
 疑わしげな口調でそう言うヒメノに、私は「本当だよ」と胸を張る。
「算数とか、かけ算とか、面白くない」
「それは、算数を生活の中で活かせることを知らないからじゃないかな?」
「活かす?」
「そう、例えば、ヒメノがこれからお手伝いでパンを作ろうとする。おいしいパンを作るには何グラムの塩と砂糖が必要で、それを人数分作るにはいくつあればいいのか――算数はそんなことを考えるのに活かせる。自分の生活を勉強で豊かに出来ると思えれば楽しくなるし、他にも、知ることや考えること自体が楽しくなることもある」
「お勉強やっても楽しくないよ」
「いいや、だまされたと思ってまずは私の話を聞いてごらん。ヒメノは、お話は好きかな?」
「好き」
「よおし、じゃあ……これからとあるお姫様のお話をしてみよう。ちょうど今のヒメノくらいの歳の頃、そのお姫様は――」
 私は女傑として知られた、この国の古代の女王、その幼少期の話を始めた。
 最初は、戸惑っている様子だったヒメノだったが、話が進むにつれて、その顔に好奇心の花が咲いていくのが手に取るように分った。終わる頃には身を乗り出すようにして話に聞き入っていて、からくも姫様が窮地を脱したところで私が締めくくると「その後は? お姫様はどうなったの?」とせがんできた。
「それはまた今度。お話は一気に聞いちゃうと楽しみがなくなってしまうからね」
 彼女は少しだけ不満そうな顔をしたものの、次の瞬間には目をきらきらさせて私を見てきた。本当に、表情がよく変わる子だと、私は思った。
「マキトは、お話が上手なんだね」
「実はね、ヒメノ。今のは私が作った話じゃないんだ」
 へえ、とヒメノは思わず、といった様子で呟いた。
「今のは全部、歴史で実際に起こった話なんだ。お姫様は数百年前に実際にこの国にいた人だし、家臣の一人がお姫様を亡きものにしようとした、というのも本当のことなんだ。私はそのことを、君に話しただけなんだよ。で、ヒメノ、今の話は面白かった?」
 ヒメノは、うんうん、と何度も頷いた。そんな仕草に満足しながら、私は話を続けた。
「ヒメノが知らないことで、面白いことはたくさんあるんだ。今私が話した歴史だってそうだし、他の勉強の中にも、知って楽しいことはいくらだってある。辺りに咲いている草花のこと、この大地の成り立ちとか、そういうものだね。その上、知識というのは知れば知るほど面白くなってくる。だからこれから私や、アスミと一緒に、たくさん勉強して、面白いことをたくさん知っていこうじゃないか」
 ヒメノは私の言ったことにしばらく、んーと唸りながら考え込む。
 本当に面白いことばかりなのだろうか、そう思案しているように見えたヒメノだったが、うん、と一つ頷いて意を決すると、「分った!」と元気よく私に宣言した。
「よおし、じゃあ早速勉強を始めよう。私は少し本を探さなきゃならないから、ヒメノはちょっとここで待っててくれ」
 私がそう言うと、ヒメノは居間のテーブルの席に勢いよく座った。
「早くね!」
 椅子の上で足をぶらぶらさせながらそう言ってくるヒメノを居間に残して、私は本を取りに自室へ向かった。部屋の前には先ほどまでのやり取りを見ていたらしいアスミが立っていて、関心した様子で私を見てきた。
「さすがね」
「そうかい?」
「子供の好奇心を引き出すのが、ホント上手だと思ったわ」
「子供相手に勉強教えてたら、嫌にでも身につくよ。勉強に自分から興味を持ってくれる子は少なかったからね」
「でも、勉強することが楽しい、と自分も思えてなかったら、あんなに説得力がある言い方は出来ないと思うわ」
「まあ、それもなくはないかな」
 確かに、私は勉強が好きだった。
 子供の頃に学校の教師から強制される勉強はヒメノと同じように好きではなかったが、学者をしていた父の書斎にある本を読むのは、昔から大好きだった。知識が自分の頭に染み込んでいく感覚、それまで分からなかったことを理解していく感覚は、私にとって快いもので、暇を見つけては父の部屋で本を貪り読んでいたものだった。
 こうも楽しい、知識を得ることを、学校の教師はどうしてああも退屈な、苦痛極まりないものに出来るのだろう。学ぶことの楽しさを、あの教師達に代わって伝えたい――そう思ったのが教師を目指そうとした最初のきっかけだったと思う。
「アスミも勉強が嫌いなわけないだろ? その気持ちを分かりやすく伝えれば良いだけの話さ」
「まあ、嫌いだったら王都の学院で研究者なんてやってないけど……そんな言うほど簡単なことでもないでしょ?」
「そうかなぁ」
 アスミはうらやましいわ、と呟きながら肩を軽くすくめてみせる。
「何にしても、ヒメノを勉強に連れ出してくれてありがとう。とりあえず午前中の勉強は任せるわ」
「そうするよ」
「私は……家事でも頑張ってみるわ」
「ありがとう」
 そう言ってアスミと分かれた私は、本を取ってヒメノのもとへさっさと戻った。
 ヒメノは目を輝かせ、私の到着を待っていた。
 教師としての仕事は、子供に知識を与えるだけでは不十分だ、と私は考えている。本当に必要なのは、子供に知識を得る楽しさと方法を教えることだ。いつまでも教師は子供の傍にいる訳ではない。教師がいなければ知識を得ないような人を育てたところで、その人は人の世を歩いていくことが出来るだろうか。
 ヒメノに勉強へのモチベーションを作るきっかけは出来た、と思う。本当に大変なのはそれからで、ヒメノにどういう風に知識を得るのか、を身につけさせていかなければならない。
 本を彼女に読ませ、身振り手振りを交えながら、私なりの教育をしていると、ふと気付く。
 あまりにも当然のことで、何故今まで忘れていたのか不思議なくらいのことだ。むしろそれを忘れていた自分の馬鹿さに、呆れるくらいだった。
 人の世を歩いていくための力をつけるのが、教育の意味だ。しかし彼女は、もう人の世を歩むことはない。この、林と草原から成る広大な密室の中の、私とアスミとの関係性が、彼女の人生の終着点なのだ。
「マキト」
 ページをめくる手が止まっていると、ヒメノが心配そうに声をかけてきた。なんでもない、と言って話を進めようとするが、ヒメノはかぶりを振ってみせた。
「なんか、臭う」
 そう言われてみると、今まで嗅いだことのない臭いが鼻をついていることに気がついた。
 果実の発酵したものを煮詰め、それに魚を加えたような――そんななんとも言えない臭いが、私とヒメノのいる居間に充満していた。
 臭いのもとはすぐに分った。
 居間の隣の台所では、アスミが鍋に向かっていた。その前には火にかけられた鍋が置かれ、その中でぐつぐつと煮立っているものが、このおぞましい臭いを発しているようだった。
「アスミ……」
 鼻をつまみながら台所に接近し、私はそう声をかける。顔の下半分を布巾で覆ったアスミは、涙の浮かんだ目で私を見てきた。
「……ごめん」
「何が、どうなってるんだ」
「お昼ご飯、作ろうとしたんだけど……」
「……料理オンチなんだな」
「目玉焼きは出来るんだけど」
「……何に、挑戦したんだ?」
「野菜スープ」
 野菜スープが何故こんな甘く生臭い臭いを放つようになるのか、大きな謎だった。
「頑張ったけど、こうなっちゃった」
 彼女の肩をぽん、と叩いてから、私は鍋を火から外した。
 家の外に穴を堀り、その中に魔女の薬のような鍋の中身を捨てて、土で埋め戻した後、アスミは申し訳なさそうに声をかけてきた。
「……本当にごめん。ヒメノの勉強は代わるから、お昼の準備マキトがやってくれない……?」
「正直言うと、私も料理は出来ない」
「でも昨日の晩は用意出来てたじゃない」
「あれなら出来る。ただ、あれしか出来ない。これからずっとあんなのばっかりになるけど、それで良いのか?」
 言ってから、アスミと私は二人で天を仰いだ。天は導師の選定に家事の能力は考慮してくれないものらしい。
 これから一年、ハムと野菜の盛り合わせで過ごすのかと、青空の元で絶望する私達のそばに、おっかなびっくり、という様子で、ヒメノが近づいてきた。
「私――」
 困り顔の大人にどう声をかけていいものか、そんな風にためらっている様子のヒメノはおずおずと、言葉を続けた。
「料理、出来るよ」

 それから一時間ほど後、私達の目の前にはご馳走が並んでいた。
 湯気の立つ野菜と肉のシチュー、絶妙な焼き加減に整えられた干し魚、蒸したイモ……思わず生唾を飲み込んだ私達に、ヒメノは得意そうに笑ってみせた。
「召し上がれ!」
 私はスプーンをとって、野菜スープを一口すすってみた。
 これほど上手い料理があったのか、と思う。
 一年を単調な献立で我慢しなければならないかもしれない、という絶望を味わった直後の反動――ということを差し引いても、ヒメノの料理は、どれもこれも素晴らしい味だった。
 横に座るアスミも驚いた顔で、スープをすすり、魚をつついている。
「どお?」
 話すことも忘れて食事をする私達に、ヒメノはにこにこ笑いながらそう言う。
「もの凄く美味しい」
「うん、王都の料理人でもここまでの味は出せなかったわ」
 にひひ、と笑ったヒメノは、とても嬉しそうだった。
「ヒメノはこんな美味しい料理を誰から習ったの?」
「お父さんとお母さん」
「ご両親は、お百姓さんじゃないのか?」
「畑もやってたけど、宿屋さんもやってるの。だから二人とも料理すっごく上手だった。私はみんなの中で一番おねえちゃんだから、お父さんお母さんが忙しい時は代わりにお料理してたんだ」
 ヒメノの話にふんふん、と頷きながら私とアスミは手を動かすのを止めなかった。大の大人がみっともない、と思わないでもなかったが、それほどに、ヒメノの料理はおいしかった。
「アスミは、お料理下手なんだね?」
 アスミの持っていたスプーンが、ヒメノの一言でぴたり、と止まった。
「……お恥ずかしながら」
「あたしが教えてあげようか?」
 スプーンを皿の端に置くと、アスミはヒメノの席に近づいて、その手を両手でそっと包んだ。
「是非ともお願いします」
「うむ、よきにはからえ」
 あまり意味は分かっていないだろうが、ヒメノは鷹揚に頷きながらそう言った。
「ヒメノ、出来れば私にも教えてくれないかな?」
「うむ、男なのによい心がけじゃ」
 贄子を導く者を、この国では導師と呼ぶ。
 贄子に教えを乞う導師は、史上初めてなんじゃないか、とヒメノの上機嫌な顔を見ながら私は思ったのだった。



 アスミと私の料理音痴や生活のリズム等などに関して多少の混乱はあったものの、私達の生活は上手く回っていきそうだった。
 家事は分担性にして、食事に関しては朝の用意は私かアスミが行い、昼と夜はヒメノが私とアスミに教えながら進め、私達が料理を覚えてきたら順番性にしていくことになった。家事に関しては、ヒメノは家の手伝いで鍛え抜かれた万能選手で、食事に洗濯、掃除、全てにおいて高い技量を発揮した。もっとも、洗濯や掃除に関しては、私とアスミでもなんとかこなせるので、完全にヒメノ頼りにはならずに済みそうだった。
 こうした家事を行っていくのも大事だが、私達の生活は当然のことながら、ヒメノの清めの儀式――心身を鍛え、学識を深めることを中心に回る。
 朝食を済ませた後は勉強の時間が待っている。社会科学系――歴史や国語、簡単な哲学といった科目は私が担当し、数学・理科、といった自然科学の科目は主にアスミが担当することになった。
 ヒメノを教えることに自信がなさそうな様子も見せたアスミだったが、その教え方は素晴らしいものだった。
 数学や理科、といえば実生活との繋がりがあまり感じられず、興味を無くす子供が多いのだが、アスミはそれぞれの科目で説かれる論理が、日常生活のどのような現象に関わるのかを分かりやすくヒメノに説いていた。実際に料理をヒメノに教えてもらいながら、鍋の中の水が沸騰するのは熱を加えられたことで水の形質が変化しているせいだ、変化した水は湯気となって私達の鼻に届いたり、空気の中に拡散していったりしている、熱を加えられているのは水だけでなく、中の野菜や肉も同様で、その形質が変化していくから柔らかくなったり、美味しくなったりするのだ、と、いったことを話していた。
 その語り口は、傍で聞いている私にも、あらためて化学の本を開き直してみよう、と自然と思わせるような見事なもので、事実、ヒメノも、アスミの言葉を食い入るように聞き入っていた。
 導師に選ばれる前は王都の学院の講師をしていたという彼女だったが、その子供に教える姿は堂に入ったものだった。
「仕事とは別に、子供相手の学習塾で教えてたのよ」
 その理由を尋ねたとき、アスミは少しだけ恥ずかしそうにそう言った。
「学ぶのも楽しいけど、やっぱり教えるのも楽しいよね」

 勉強の時間は午前中三時間、午後一時間、と決めていた。昼食の後の短い午睡に勉強をした後、私達は畑仕事か、清め場の中の散策をすることになっている。
 食糧や日用品は、必要なものを書いた紙を外に送れば、その都度必要なものが補充されるので、不足が生じることはなく、その意味では畑をわざわざ耕す必要はないし、導師の役割に定められている訳でもない。畑を耕すことにしたのは、ヒメノが望んだからだった。
 根っからの田舎少女であるヒメノは、体を動かしていないと落ち着かないらしく、私達の影響で多少勉強が好きになったとはいえ、座りっぱなしの時間が続くといつの間にかそわそわし始めてしまう。何がしたい、と私達が尋ねると彼女は「お芋が作りたい」と少しだけ恥ずかしそうに言ったのだった。
 陽の光のもとで体を動かすことも大切なことなので、私達は家の脇にささやかな畑を作ることになった。
 雑草を抜いたり、古株を掘り起こしたり、土をならしたり、といった仕事は、運動不足な元地方教師と、女性と子供、の三人にはなかなか大変なものだった。しかしそんな大変さを差し引いても、野菜作りは楽しいものだった。
 土に触れたのは、私にとってはほとんど初めての経験だったが、ただそれだけで、何か心が満ち足りる感覚がその作業の中にはあった。湿った土の中から覗く石や枯葉、虫達が覗くのが見える度に不思議な面白さを感じてしまい、気づけばヒメノ以上に私は畑仕事に熱中していた。
 最初、小さなものだった畑は、日を経るごとにその面積を拡大していき、アスミがこれ以上は手に負えなくなる、と冷静な意見を出してくれなければ、確実に勉強の時間を圧迫するほどになっていただろう。
 そんな畑仕事に疲れたり、少し気分を変えたくなった時、私達は清め場の中を皆で散策した。
 清め場は草原と林から成るが、大体その割合は三対七くらいで、中のほとんどは木々によって占められている。
 清め場自体が寒冷な高地にあるせいで、樹木はそれほど高くなく、密度も比較的薄いが、林は豊かな自然を湛えている。清め場の壁によって仕切られているため、林、と私は呼んだが、重厚な石壁がなければ、それは立派な森だった。
 一歩足を踏み入れれば、林の中は思った以上に豊かな姿を見せてくれる。林の中央には湧水によって出来た、小さな池があり、そこを中心にちょっとした生態系が形作られていた。
 ネズミや、野うさぎといった小動物はたくさん住んでいて、林の中に実をつける木々がそうした動物達の餌になっていた。木ノ実を目当てにするのは地に住んでいる者だけでなく、壁を越えて小鳥達もやってきていた。
 林を歩きながら、私達はそんな動物達の姿を見たり、道端に落ちている木ノ実を拾ったりした。林はその日の天気や季節に応じて様々な姿を見せてくれたので、私達は飽くことなく、この散策を楽しむことが出来た。
 清らかな石壁の中の環境と、豊かな食物、そして若い導師達によるささやかな教育によって、ヒメノは短い間にも、心身共に成長していっているようだった。
 痩せ気味だった体には、程よくふっくらとしてきて、肌の色艶もよくなった。身長も育ち盛りであることも手伝ってか、少しづつ、伸びてきているようだった。
 幸せな生活だった。
 毎日見るもの、体験することが新鮮で、何よりもヒメノが成長していく様を見るのはとても幸せなことだった。
 そして、私は恐ろしく愚かだった。
 何故なら、私はそんな日々が〝ずっと〟続くような錯覚を覚えていた。遠くない将来に終わりを迎えるはずの日々をそう感じていたのは、現実を直視することを避ける、無意識の作用があったのだと思うが、無意識の内、ということを加味しても、間違いなく私は愚かで罪深かった。
 私の錯覚が壊れ、現実に直面することになったのは、ある日のヒメノの一言からだった。



 清め場の中での生活がもう半年にもなろうとしていたある日のこと、私の午後の授業が終わり、教科書となっている本を閉じるた後に、ヒメノは珍しく「ちょっと質問」と話してきた。
 普段なら本を閉じた後には畑か外に直行することが多いのだが、その日の彼女は少し思いつめた顔で、椅子に座ったまま、私を見つめてきた。
「なんだい、ヒメノ?」
 そう私が答えると、彼女はこんなことを言ってきた。
「あたしはこれから、どうなるの?」
 すぐに応じることが、私には出来なかった。
 贄子の将来について、贄子自身には、龍の嫁として一生を捧げることになる、と伝えられることになっている。
 大人達が贄子を欺くために作り上げた嘘を繰り返すことが、私はすぐには出来なかった。
「龍のお嫁さんになるんだよね? 勉強したり、美味しいもの食べたりするのもそのためなんだよね?」
「ああ、そうだよ」
 何を今更言ってるんだ、という風の口調で話すつもりだったが、口から出た言葉は僅かなこわばりを残したものになってしまった。
 私の動揺を彼女が察したかどうかは分からない。
 ヒメノは目を伏せ、口をすぼませた。彼女が考え事をする時のくせで、しばらくその顔のまま黙り込んでいたヒメノは、不意に再び、口を開いた。
「龍のお嫁さんになった後も、マキト達には会える?」
 体の芯に熱い何かを急に差し込まれたような感覚に、私は襲われた。
 その正体が何なのか、理解する間もなく、私の頭は義務感からか、導師としての答えを彼女に言った。
「残念だけど、それは出来ない。君は龍のお嫁さんになったら、そのままずっと龍と一緒に過ごさなければならないんだ。他の人と、会うことは出来ないんだ」
「やだ」
 ヒメノは、顔を急にしかめた。
「そんなんなら、龍のお嫁さんなんかならない」
「ヒメノ、だけどね」
「お嫁さんになるのやめるようにしてよ、マキト」
「……それも、私には出来ない。お嫁さんになるのを決めるのは、私でも、王様ですらなく、天だから」
「とにかくやだ、お嫁さんになんかならない」
「ヒメノ――」
「ならない。ならない。ならない」
 ヒメノはそう言いながら首をぶんぶん横に振った。私がなんとかなだめようとすると、彼女は急に立ち上がり、そのまま家の玄関に向かって歩き出してしまった。私は慌ててその後を追い、その肩に手を伸ばす。
 肩に置いた私の手を叩いて振り払うと、ヒメノは外へ駆け出していった。
 手のひらにじん、と痛みを感じるほどの強さで叩かれたことに驚く私を置いて、ヒメノの小さな背中は林の中へと消えて行った。
「どうしたの?」
 部屋の掃除をしていたアスミが、何事か、という顔で駆け寄ってきた。
 整理のつかないまま、先ほどのヒメノとのやり取りを話すと、アスミは顔をこわばらせ、着ていたエプロンを脱いだ。
「とにかく、追いましょう」
 言うが早いか、ヒメノの消えていった方に向かって駆け出していくアスミを追って、私も林へ向かって走りだした。
 ヒメノはすぐに見つかった。
 いくら広いとはいえ、清め場の中の多くは木が屹立しており、行ける場所は限られている。
 ヒメノは、散策でよく行く、林の真ん中にある池のほとりで見つけた。枯れ木が一本だけ飛び出しているだけの池の中心を見ながら、草の上に腰を下ろした彼女は、私とアスミが呼びかけても、応じようとしなかった。
 かといって逃げ出そうともしない彼女の隣に、アスミは静かに腰かけた。
 私はアスミと同じようにヒメノに寄り添うことが出来なかった。
 私は静かに話をする二人を見ることしか出来なかった。
「どうしたの、ヒメノ」
 話しかけるアスミに、ヒメノは目を向けようとせず、ただ池の方を見ていた。
「マキトから話は聞いたよ。龍のお嫁さんになるのがヤダ、って言ってたそうね」
 やはり無言のヒメノから、アスミは背後に立つ私の方へ視線を転じた。
 彼女は私を恨みがましい瞳で見ていた。一方でその目には、私への非難だけではなく、苦痛に悲鳴を上げる、彼女の内面もにじみだしているようだった。
 私を少しだけ見たあと、彼女はヒメノと同じように、池の中心の枯れ木の方に視線を転じた。
「龍のお嫁さんになったら、確かに私達に実際に会うことは出来なくなる。でも、龍っていうのは何でも出来る存在で、体は龍の巣にいても、魂だけを飛ばして、人に会いに行くことも出来るんだって。お嫁さんになっても、そうやって私達と会うことは出来るし、遊ぶことだって出来る。だから、何も怖いことはないんだよ」
 優しい口調で、アスミは嘘を口ずさんだ。
 贄子が将来を悲観しないようにするため、歴代の導師達、占星術師達が固めてきた嘘を、アスミは優しくヒメノに語りかけていた。
 あと半年もすれば肉を裂かれ、骨を砕かれ、龍の胃の中へ消える運命を辿る小さなヒメノに、アスミは静かに、声をかけていた。
「……わからないよ」
 無言でアスミの話を聞いていたヒメノは、アスミが話を切るとすぐに口を開いた。
「実際に贄子がどうなるかは、贄子にしか分からないもん。贄子はお嫁さんに行ったら、もう戻ってこないんだから、その後どうなるか、誰も分からないもん。それに、どうして龍は、今まで何人も贄子をお嫁さんにもらったのに、またお嫁さんを欲しがるの?」
「龍は寂しがり屋だから、一人でも多く傍にいる人が欲しいの。だから――」
「アスミとマキトと、会えなくなるかもしれないのは、いや」
 それまで、導師としての話を続けていたアスミは、ふっと話を止めた。
 話を続けるために、彼女は口を何度か開きかけたが、その口から意味のある言葉が出ることはなかった。
 それでもなんとか彼女はヒメノに話そうとする。言葉にならない言葉は苦しそうな息づかいに代わり、それはいつしか嗚咽に代わった。
 瞳から流れる涙を、押しとどめるように手で顔を覆うが、涙は次から次へとこぼれ落ちていく。
「アスミ? どうしたの? 大丈夫?」
 急に泣き出したアスミに、ヒメノは心配そうに声をかける。
 なんでもない、そうアスミは言おうとしているのだろうが、その声は嗚咽にかき消され、苦しげな呻きにしかならなかった。
 池のほとりで、アスミは泣き崩れた。その体にそっと手を添えるヒメノを、私はただ、見ていることしか出来なかった。

 家に戻るとアスミは、そのまま部屋にこもってしまった。
 夕食の用意が出来たことをドア越しに伝えても、アスミの部屋から返事が返ってくることはなく、私とヒメノは、この家に来て初めて、二人だけの夕食をすることになった。
 午後のあのときから、ヒメノはほとんど口をきかなかった。
 ヒメノにしてはとても珍しいことだったが、それは自分の将来への懸念よりも、アスミへの心配によるものが大きいようだった。夕食の用意をしている時や、食事を食べている時にも、ヒメノは何度もアスミの部屋をちらちらと見やっていた。
 二人での食事を終えて、ごちそうさまをした後にも、ヒメノはやはり、アスミの部屋を心配そうに見やった。
「アスミは、どうしたの?」
「アスミも、ヒメノとお別れしなきゃならいんだ、って考えたら悲しくなっちゃったんだよ」
「あたし、変なことアスミに言ってないよね?」
「そんなことないよ。ヒメノは心配しなくて大丈夫だから、先に休んでいなさい」
 私は後片付けをさっさと済ませて、私はヒメノを自分の部屋に行かせた。
 いつもは寝るまで本を読んでやるのだが、今日は気分を落ち着ける香草のお茶を飲ませると、さっさとベッドに入らせた。
 眠れない、とぶうたれていたヒメノだったが、ほんの十分ほどで安らかな寝息をたて始めた。
 それを確認してから、私はアスミの部屋の扉を再び叩いてみた。
 それでも返事はない。私と話がしたくない、という以前にもう寝ているのかもしれない、と思いつつ、私はそれでもドアに向かって声をかけてみた。
「アスミ、今日は悪かった。君には辛いことをヒメノに言わせてしまった。そのことを謝りたかったんだ。これからヒメノとどう関わるかは、また話し合おう」
 アスミに言いたいことは、他にいくらでもあって、一息に内心を全て吐き出したい気持ちにも襲われたが、それをこらえ、私はそれだけ言うと彼女の部屋の前から離れた。
 しかし、私が背を向けたのを見計らったように、アスミの部屋のドアがかちゃり、と音を立てた。
 振り向くと、ドアが少しだけ開かれ、中から憔悴したアスミの顔が覗いていた。
 頭を抱えていたのか、それともベッドの中で悶えていたのか、髪は酷く乱れていて、その赤く腫れた目には涙の跡がはっきりと残っていた。
「入って」
 短く言ったアスミは、そのまま部屋の中へ姿を消す。どうすれば良いのか分からないまま、私は彼女の言葉に従い、部屋の中へ足を踏み入れた。
 彼女の部屋に入ったのは、これが初めてだった。この半年の生活の中で、お互いに気の置けない仲になってはいたが、下手に親密になって導師の仕事に支障が出る心配もあって、お互いに部屋には立ち入らないようにしていた。
 初めて入る彼女の部屋は、女性らしく、きちんと整頓されていた。窓際の机に置かれた一本のロウソクに照らされた室内には衣類が入れられているだろうタンスと、ぎっしりと本の詰まった本棚、そしてベッドがあるだけだった。それらの中で、ベッドとその周囲だけは、酷い有様になっていて、シーツはぐしゃぐしゃになり、丸められた毛布は床に転がっていた。
 シーツの乱れたベッドにアスミは腰掛けた。
 彼女は腰かけたまま、何も言おうとしなかった。投げやりな視線を私に投げる彼女は、私が何か言うのを待っているようだった。泣きはらし、気の立っている彼女に声をかけるのはひどく辛いことだったが、それも仕方のないことだ。
 私はそれだけ酷いことを彼女にしてしまったのだから。
 ヒメノが自分の運命に疑問を抱くのは時間の問題だった。その時のために、あの嘘は用意されていたのだが、それを面と向かって彼女に言うのは、半年もの間、彼女と過ごし、彼女を好きになった私達にとって、恐ろしく辛いことになっていた。
 彼女の運命について嘘をつくというのは、導師としては仕方のないことなのかもしれない。しかし、それは彼女に対する裏切りになってしまう。
 私は池のほとりに佇むヒメノの姿を見たとき、どうしてもそうする勇気が持てなかった。
 自分の導師としての責務よりも、彼女を裏切りたくない、という感情を優先してしまったのだった。彼女を裏切るという、辛い役目をアスミへ押しのけることで、私は自分の感情を守ったのだ。
「すまない」
 口から出たのは、情けないほどにかすれた、そんな声だった。
「アスミに、辛いことを言わせてしまった。あの時、本当だったら、私が言うべきだった。だけど、私には、その勇気がなかった。すまない」
 大の大人が言うには、酷く言葉足らずの謝罪を、アスミは私を睨んだまま聞いていた。
「別に、私はあなたがヒメノに嘘を言わなかったことを、怒ってるんじゃないわ」
 そう言いつつ、怒りが押し込められた言葉を、私はただ、聞くことしか出来ない。
「でも間違いなく怒ってる。あなたに対しても怒ってるし、自分自身に対しても怒ってる。そしてこの国にも、あの悪趣味な龍にも怒ってる」
「それはどういう――」
「あなたは、ヒメノの言葉を聞いて何も感じなかったわけ? どれだけ鈍感なの? 馬鹿なの? だからあなたは平然としていられるの?」
 普段の思慮深く、優しい彼女が言うとは思えない罵詈雑言に、私は何も言うことが出来なかった。
 彼女の言うとおり、私が馬鹿で愚かなせいもあるだろう。心揺さぶられることに直面したとき、私は戸惑い、何も言えず、何も行動出来ないことが多い。
 私はアスミの罵倒を聞きながら、今日の昼、池のほとりでヒメノがアスミに言った言葉を思い返していた。
    アスミとマキトと、会えなくなるかもしれないのは、いや
「導師なら、ヒメノにあんな嘘を言うのは当然のことよね、だから私は言ってやったわよ。彼女のことを裏切ると分かっていながら、それでも導師としての職務ってやつを優先してやったわよ。私には――彼女との関係を大切にすることが出来なかった。あんな頭が良くて、思いやりがあって、可愛い女の子に――自分が龍に食べられるのに、それすらも知らされない可哀想な女の子に、嘘をつくような酷い私によ、あの子、なんて言ったと思う?
 私達と会えなくなるかもしれないのは、いや、だって。
 こんな私に、私達に、あの子はそう言ったのよ――」
 彼女の長い告解の、最後の方はほとんど言葉になっていなかった。
 いつの間にか嗚咽を漏らすことだけしか出来なくなっていた彼女を見下ろしながら、私も泣いた。涙がただ、とめどなく目から流れ、床に落ちていく。
 アスミの体を抱きしめたい、と思う自分がいる一方、自分にその資格はないと思う自分もいて、私は一人、泣き続けた。
 こんな酷いことをさせる天、って何よ。死ねば良いのよ。龍なんて死ねば良いのよ。国なんて滅ぼされちゃえばいいのよ。
 そんなことを言いながら、彼女はベッドの上で泣き続けた。

 気付いたときには私は、アスミをベッドに寝かしつけていた。
 いつの間に私が彼女に寄り添い、そうしていたのかは、何故か自分でも分からない。夢うつつの中、気づけば私は彼女の体の上に毛布をかけ、その手を握っていた。
 アスミは私の手をはねのけることなく、されるがままにしていたようだった。
 夜はとっぷりと更け、ロウソクは燃え尽き、代わって部屋の窓から差し込んだ月明かりが部屋を照らしていた。
 月明かりの描き出す、アスミの横顔には涙の跡がくっきりと見えた。
 悲しみの出尽くした彼女の顔はどこか穏やかにも見え、その様は少し、羨ましかった。
 すうすう、という寝息をしばらく聞いたあと、私は彼女の手からそっと自分の手を抜いた。
 枕元から立ち上がったところで、急に目から涙がこみ上げてくる。
 自分がいかに残酷なことをしているのか、今の私ははっきりと理解していた。導師というものがいかに浅ましいものなのか、子供を龍に捧げてまで生き延びようとするこの王国がなんと汚らしいものなのか。
 立ち尽くした私の頭には、そんなことばかりが浮かんできた。そんな不穏な考えを追い出すために、何度か頭を振ると、私はアスミの部屋から出た。
 ドアをそっと閉じ、水でも飲もうと居間へ足を向けた私は、いつも食事をするそこのテーブルにヒメノの姿を見つけた。
 天窓から差し込む月光のもと、ヒメノは私の方をじっと見ていた。
 その視線に射抜かれたように、私は全く身動きが取れなくなった。
 そんな私を見る彼女の目には、戸惑い、ただそれだけが浮かんでいた。
「マキト」
 怒りも、恨みもなく、ただ私を彼女は見ていた。
「私、龍に食べられちゃうの?」



 酒に逃げるのは、生まれて初めてだった。
 自分の部屋に戻った私の手には、いつもはアスミが飲んでいる果実酒が握られていて、私はそれを一息にあおった。
 次に気がついた時には、太陽は中天にまで昇った後だった。
 ひっきりなしに鐘が鳴っているような頭を抱え、部屋の外へ出ると、ヒメノとアスミが、居間で勉強をしていた。
 そんな二人の姿を信じられない気分で見ていると、私に気付いたアスミがぎこちなく、おはよう、と言ってきた。
 アスミにつられてヒメノも私の方を見てくる。ヒメノは今ひとつ掴めない表情で、おはよう、と言うと、すぐに本を読むのに戻った。
 何かを食べる気にも、二人の勉強に立ち入る気にもなれず、私は部屋に戻った。
 ベッドに腰かけると、二人を見ていて忘れていた頭痛が、再び襲ってきた。
 気分も酷く悪かった。毛布にくるまってじっとしてみたけれど、気分と頭痛は少しも落ち着かず、寝れば寝るほど不快な考えが脳裏をよぎった。
 自然と、私の手は半分ほど中身の残った果実酒の瓶へと伸びた。
 今度は一息であおるようなことはせず、ちびり、ちびり、と舐めるようにして飲む。甘く、舌先がしびれるような酒を味わう内に、感じていた頭痛と、落ち込んでいた気分が、ほんの少しだけ和らぐような気がした。
 そのまま私は、酒を舐めながら一日を過ごした。
 カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、私はただ、全てから逃げるために酔いを求めた。ドアの外からは、アスミが何度か声をかけてきたが、私はその度に、気分が悪いから今日はそっとしておいてくれ、と言うだけだった。
 部屋が夕焼けに染まり、次いで闇に包まれてもなお、私は部屋から出ず、酒を飲み続けた。
 ぼんやりとした霧に包まれたような頭で、私はふと、どうしてヒメノは今日も勉強をしているのだろう、と思った。
 昨晩、ヒメノを居間のテーブルで見つけたあと、私は彼女の疑問に全て答えた。ヒメノが今後どうなるのか、私達は何故ここでこんな生活を送っているのか。それらの事実を話している間、導師の責務は脳裏をよぎりもしなかった。ただ彼女に全てを伝えなければならない、その気持ちに突き動かされるまま、私は全てを話した。
 全てを聞いた彼女は、ただ私を見上げるだけだった。
 突然開示された事実を、どう感じたら良いのか分からない。私を見つめる無垢な瞳は、そう告げていた。
 たとえ最初は戸惑っても、聡い彼女ならそれほど間を置かずに、私の告げた事実の持つ残酷さに気付くと思っていた。そして泣きはらし、全てを呪うのだろう、と。
 彼女への罪悪感と、彼女との関係が終わってしまったことの苦痛から逃げるために、私は飲めない酒に逃げる真似までした。
 しかし彼女は今日もまた同じ生活を続けていて、そのことは私を酷く混乱させた。
 疑問を消化しようにも、酒に溶かされた頭でまともにものを考えることは出来ず、物思いはいつしか、私を眠りへと誘った。
 深い眠りについた私を覚醒させたのは、鼻腔をくすぐる柔らかい匂いだった。
 目に貼り付いたような瞼をなんとか開けると、ヒメノがスープの入った皿を持って立っていた。
「おはよう」
 不満そうな顔でそう言って、ヒメノは皿を机に置いた。
「お酒飲み過ぎちゃダメだよ」
 それだけ言うとヒメノはさっさと私の部屋を出て行った。
 またしても酷い混乱に見舞われながら、私はベッドから久しぶりに体を起こした。頭は動かす度に痛みが走るような状態で、アルコールを口にしたい、という猛烈な欲求に駆られたが、なんとか我慢する。
 目の前にはヒメノが持ってきたスープが湯気を立てていて、湯気と一緒に胃をくすぐるような匂いがした。
 途端に猛烈な空腹を覚え、私はそのスープにスプーンを立てた。
 肉と野菜を塩と脂だけで味付けたシンプルなスープをほとんど一息で平らげた後、私は勇気を振り絞って部屋のドアを開けた。
 アスミはどうやら外に行っているらしく、家の中にいたのはヒメノと私だけだった。
 ヒメノは居間のテーブルにいて、静かに本を読んでいた。私が起きだしたことに気付くと、ヒメノはちら、とだけこちらに目を向け、そしてすぐに本に戻した。
 情けないことをしてしまった、という負い目に苛まれた足を引きずって、私は彼女の方へ向かった。
「ヒメノ、その、済まなかった」
「勉強」
「え?」
 ヒメノは反応の鈍さを咎めるような目で私を見てくると、両手で持った本でとんとん、とテーブルを叩いた。
「勉強の時間でしょ? 教えてよ」
 そうヒメノに言われても、私はすぐに反応出来なかった。酒で鈍りきった頭は、現状の認識が全然出来ずに混乱を深めるばかりで、ヒメノが顔を思いっきりしかめたのを見てから、慌てて彼女の向かいの席につくことが出来た。
「ちょっと、本を見せてもらえるかな」
 ヒメノの持っていた本を見て、前回の授業でどこまで教えたか、私は必死に、記憶をたぐるのだった。

 畑仕事をしていたらしいアスミからは、一発張り手をもらっただけで済んだ。
 それを喰らった後もしつこく謝ろうとする私にうんざりした様子のアスミは、私が酒に逃げてからのヒメノの様子を話し始めた。
 あの晩の翌朝、ヒメノはアスミに、全てを知らされたことを話したという。驚くアスミに、ヒメノは、今はどう考えたら良いのか分からないけど、今のこの生活は続けたい、だからアスミにはいつも通りして欲しい、そう、ぽつぽつと話したそうだ。
「あの子が頑張ってるのに、あなたは――」
 そう涙混じりに話す彼女に、私はやはり謝るしかなかった。
 私達の生活は、しばらくの間、以前と同じように送られていった。
 ただ、徐々に変化していくことは避けられなかった。勉強の時間を終えた後、ヒメノは一人で過ごすことが多くなった。私達には何も言わず、一人家の外へ出かけていき、庭か、林の中の池で、土を掘り返したり、石を投げたり、ぼんやりと物思いに沈んだりして、夕暮れまで過ごすことが増えた。勉強の時間だけは私達と話してくれたが、それ以外の時間、彼女は私達との関わることを避けるようになっていた。
 なんとかして、私達は彼女と話そうとした。贄子として育てるために彼女と一緒に過ごし始めのは事実だが、それとは別に、彼女は私達にとって大切な存在になった。それを彼女に理解してくれ、というのはおこがましいことなのだろう。それでも、私とアスミは、口数の少なくなる一方のヒメノと関わることを続けた。
 しかし、ヒメノは口数が少なくなるだけでなく、些細なことで怒るようになった。
 理由なく、突然私達に向かって物や、本を投げつけたり、後ろから私達を蹴りつけたりするようになったのだ。
 そんなヒメノの行動の変化を、私は辛いながらも、受け止めることが出来た。
 それだけ強い衝撃をヒメノの心は受けたのだから、そんな行動に移ってしまうこともしょうがない、そう私が認めることが出来た一方、アスミはヒメノのそんな行動の変化に、敏感に反応してしまった。
 ヒメノがそれまで考えられなかった行動を取る度に、アスミは泣き、悲しみに暮れるようになった。それでもヒメノの前では気丈に振舞ってはいたが、ヒメノが寝静まると、一人部屋で泣き崩れるようになった。
 自分達が罪を犯し、今もまた、罪を犯し続けていることが耐え切れない。そう言いながら、彼女は毎晩のように泣きじゃくった。
 私とアスミは話し合い、残っていた酒を全て捨てることにした。二人とも、ともすれば酒に逃げてしまいそうになったし、酒で事態は解決しないからだ。
 そう決めはしたものの、アスミにとって、酒なしでヒメノの変化を受け止めるのは、大変なことのようだった。
 私達が初めて口づけをしたのも、この頃だった。
 その頃には私は彼女の部屋に毎晩のように出入りするようになっていた。ヒメノの行動の変化と、それを招いてしまった自分達の行動に嘆く彼女の傍にいて、話しを聞くためだった。
 しかしアスミは、ただそうするだけでなんとかなる状態では無くなっていた。ある夜、私は彼女に求められるままキスを交わし、その体を抱きしめた。
 ただ決して、一線は越えなかったし、越えてはならなかった。壁の中の日々で、ヒメノと同じく、アスミもまた、私にとって重要な存在になっていて、体の関係となってしまったら、ヒメノよりも何よりも、アスミを優先してしまいそうな予感があったからだ。
 私たちは夜毎、キスをし、罪悪感から身を守るために抱きしめ合った。温かい彼女の体と、甘い匂いに、ともすれば何もかも忘れて欲望に身を任せそうになる自分を押さえながら、私はアスミと夜を過ごした。

 いつしか、勉強の時間はなくなっていた。
 食事を一緒にすることもなくなり、ヒメノは日がな一日、外で過ごすようになっていた。私はなんとか前の生活に戻ろうと、食事の度に、勉強の時間になる度に声をかけたが、彼女はことごとく、私を無視した。
 それでも私は彼女に声をかけ続けた。
 贄子を育てる、というもともとの目的は頭にも浮かばず、ただ、ヒメノという一人の聡く、小さな少女とまた声を交わしたい、私の頭にあったのはそれだけだった。

 ある朝、目が覚めると、ヒメノの姿がどこにも見えなくなっていた。
 その頃、朝一番に起きるのは私で、そのすぐ後にヒメノ、最後にアスミの順に起きだすのだが、その朝、私が起きてからいつまで経っても、ヒメノは居間に出てこなかった。
 不思議に思って部屋を覗いてみると、ヒメノの姿はそこにもなく、いつも彼女が履いている靴も消えていた。
 慌てて私は外に出て、ヒメノの姿を探した。外に出ても壁の中にいる限り、大きな危険はないことは分かってはいたが、それでも朝早くに一人で出て行くというのはただならない感じがした。
 朝もやの漂う、肌を指してくるような外気を受けながら、私はヒメノの姿を探した。季節は初冬に差し掛かったばかりだったが、例年より冷え込みが厳しいこともあって、清め場に漂うもやは濃く、視界は悪かった。
 このもやの中、林にでも行っていたら探すのは難しい――という予想とは裏腹に、ヒメノはすぐに見つかった。
 家の前を通る一本の道、清め場の入口に向かうその道の半ばに、ヒメノはぽつん、と立っていた。
 寝巻きの上にローブを羽織っただけの彼女は、朝焼けが空と清め場を染める中、みじろぎ一つせずに壁の方を向いた。彼女と世界を隔てる重厚な石壁、それを彼女がどんな面持ちで見ているかは、私からは見えない。
 ヒメノを見つけられた安堵で、思わずほっと息をついた私は、その背中におもむろに近づいていく。
 私に気付いた彼女に「おはよう」と声をかけてみる。彼女はこちらに向けていた顔を、すぐにぷい、と壁の方に向け直した。
「姿が見えなかったから心配したよ。寒いだろ?」
 私の声かけに、彼女は顔を横に振って答えた。ヒメノがジェスチャーだけとはいえ、久しぶりに私の言葉に答えてくれたことに軽い驚きを覚えながら、私は着ていた上着を脱ぎ、彼女の小さな肩にかけた。首を横に振りながらも、彼女の肩は小さく震えていた。
「風邪ひくよ、早く家に戻ろう」
「マキト」
 久しぶりに聞く彼女の声は、以前よりも少し大人びているように聞こえた。
「何だい?」
 そう彼女に応えるには、少し間が必要だった。久しぶりに彼女が話しかけてきたことに驚いていたこともあったが、彼女のその声に、予感を感じたからだ。
 これから彼女の言うことで、私達のこれからが決まってきてしまう。取り返しのつかない方向に、物事が進んで行ってしまう。そんな重みを持った予感が、私の腹の辺りで生まれた。
「私、龍に食べられてもいいや」
 私を真っ直ぐ見てくるヒメノはそう言った。
「色々考えた。龍に食べられるのは嫌だけど、私が食べられなきゃ私のお父さんお母さんとか、弟とか――マキトやアスミ、国の皆が困るんでしょ? だから、龍に食べてもらえるように、あたし、頑張るよ。だからまた、勉強教えて」
「ダメだ」
 私はすぐにそう答えた。少し驚いた様子のヒメノの肩を、私は両手で掴む。
 導師や、龍なぞ、知ったことではない、と思った。
「君は、龍に食べられちゃいけない。私や、この国の大人達は、君に嘘をついてこの壁の中に君を押し込んで、龍に食べさせるために育てたんだ。何も分かっていなかった君を生贄にするつもりの人達なんかのために、死んじゃいけない。龍なんて存在に頼って生き延びようとする、この国のために死んじゃいけない。君はこんなところで人生を終えて良いはずがないんだ」
 そうまくし立てた私を、面食らった顔で見ていたヒメノは「でもね、今では全部分かってるよ」と、戸惑いがちに口を開いた。
「分かっているから、龍に食べられるしかない、って思ったんだ」
「何故――」
「そうしないと、皆が困るんでしょ」
 私は自分がヒメノの前で小さな子供になったような錯覚を覚えた。慌て、おののく私を悟すヒメノは、私なんかよりもよっぽど思慮深く、大人のように思えた。
「龍に食べられるのは嫌だけど、皆が困るのも嫌なの」
「君は、本当にそれで良いのか?」
 ヒメノは困ったような笑みを浮かべ、しばらく考え込むように口をすぼめた。少しの時間の後、彼女ははっきりと、こう言った。
「仕方ない、よね」



 私達の生活は、こうして以前のリズムを取り戻していった。
 ヒメノは以前と同じように私達と話し、笑うようになり、食事や勉強、畑仕事といった日課も同じように過ごすことになった。
 あの朝からの彼女の様子は、龍に食べられてしまうことを知った贄子とは思えないほど、活発で、快活だった。壁の外にいる、何も知らない子供達と同じようにはしゃぎ、笑う彼女は、残された日々を精一杯生きていく、と決めたのだと私は思った。
 ヒメノは、自分の決意をアスミにも伝えた。
 アスミはヒメノに何も聞くことはせず、ただ大粒の涙を流して、分った、とだけ言った。
 それからの私達は、悲しみを表に出すようなことはしなかった。二人で示し合わせた訳ではなく、二人とも自然に、そうするようになったのだ。
 ヒメノ自身が決めたことを、私達が嘆くべきではない――その理解に私と同じくアスミが至ってくれたのは、嬉しいことだった。
 日々は穏やかに過ぎていった。年が明け、冬が深まり、雪が積もり、それから春の伊吹が感じられ始めた頃
 ヒメノが、龍に捧げられる日がやってきた。

 贄子が龍に捧げられるのも、清め場の中だ。
 林の中央にある池、私達が幾度となく散策に言ったそこに、龍は降り立ち、岸に佇む贄子を飲み込むことになっている。
 その準備は二日前の晩から始められる。二日前の夕食は、何を食べてもいいことになっていて、私達はその数日前にヒメノが食べたい、という食べ物を片っ端から紙に書き、壁の外へ送った。
 食物は壁の上部に取り付けられた滑車を経て、こちら側に送られるのだが、物資の運搬係の苦痛の顔が目に浮かぶような量の食べ物が、その日の朝方こちらに届いた。
 種々の肉に、菓子類、甘い炭酸飲料――それらを使って、私達が腕を奮って作り上げた食事は、宮廷料理すら霞むほどに、美味しかった。
 そうして宴会の翌日は、贄子は食事をせず、水か湯だけで過ごすしかない。導師には特にそうした制限はなかったが、私達もヒメノと同じく、水と湯だけで過ごした。
 そしてさらにその翌朝、日の出と共に龍は池に降り立つことになっている。それまでは寝ていても構わないのだが、私達は三人で、ゆっくり話しをすることにした。
 この一年間、一緒に過ごした居間で、私達は最後の時を過ごす。居間で話すのは、もっぱらヒメノだった。最後の時間を惜しむように、ヒメノは話し、笑った。私達もそんな彼女との会話を楽しんだ。白湯を片手に過ごしたその時間は、ほんの一瞬にしか感じられなかった。
 そして、時間が来た。
 ヒメノはそれまでしていた、私達に内緒で世話をしていたという野ウサギの家族の話を唐突に止めると、「そろそろ?」と言ってきた。
 窓の外を見てみると、陽はまだ上がっていなかったが、空の色は漆黒から濃い群青に変わっており、徐々にそのときが近づいていることを告げていた。
「そうだね」
 私とアスミはそうヒメノに応じたものの、そこから行動に移すことがなかなか出来なかった。無言で佇む私達は「準備しないと……」とヒメノが言うまで、何も出来なかった。
 ヒメノの言葉を聞いた私は、部屋の片隅に置かれた瓶に視線を移した。深緑色の色がついたそのガラスの瓶は、一見してただの葡萄酒か何かが入っているように見える。しかしその中には、一口飲めば深い眠りにつく薬が入っていて、ヒメノはこれを飲み、痛みも感じる間もない眠りについた状態で、龍に食べられることになっている。
 アスミがそれを取ろうと、椅子から立ち上がる。私は慌てて、それを制して立ち上がり、瓶を取った。
「マキト――」
 そう言うアスミを後ろに、私は瓶を持って、ヒメノの前に立った。
 瓶の栓を握る手は震えていた。これを杯に満たし、贄子に飲ませるのは導師の役目だが、本当にそれで良いのか、と私は今更なことを考える。
 今からでもヒメノを連れて逃げるべきなんじゃないか。そう考える私をヒメノは優しく呼んだ。
「マキト」
 その声に導かれるように、私は栓を抜いた。中に入っていた赤紫色のワインに似た液体が、ヒメノが差し出したコップに満ちていく。
 コップに満たされた液体の臭いを嗅ぎ、ヒメノは思いっきりしかめ面をした。
「不味そう、苦そう」
「砂糖でも、入れてみる?」
「ううん、大丈夫」
 そしてヒメノは両手で包み込むように薬の入ったコップを持つと、私とアスミの顔を順々に見た。
「ヒメノ、やっぱりダメだよ」
 堪えきれなくなったアスミは、そうヒメノに言う。しかしヒメノは、それに答えようとせず、ただ静かな目を彼女に向けるだけだった。
「アスミ、マキト、ありがとう」
 彼女はそう言ってから、ふう、と小さく息をついた。
「ああ、でも」
 ため息に似たつぶやきが、私とアスミが聞いたヒメノの最後の言葉になった。
「やっぱり、死にたくないかも」
 そう言ってから、ヒメノは薬を飲み干した。一息に薬を含んだヒメノは杯をテーブルの上に置くと、そのまましばらくは、椅子の上で座った姿勢を保っていた。しかしそれもさほどはもたず、彼女は不意に目を閉じると、目の前の机に突っ伏して、眠りに落ちた。
 その姿を私はただ見ていた。アスミの嗚咽を聞きながら、私は深い眠りに落ちたヒメノをじっと見ていた。

 力の抜けたヒメノの体を運び、私とアスミは林の中の池に向かった。
 空の色は大分明るくなってはいたものの、木々の繁る林の中を歩くのは、なかなか大変なことだった。やっとのことで池のほとりに辿りついた時には、東の空は鮮烈な橙色に輝いていた。
 壁に遮られて分からなかったが、既に陽は登ってしまったのかもしれない。
 そんなことを思っていると、巨大な羽音が、耳に届いてきた。
 ほどなくして、壁の向こう側の空から巨大な影が現れる。飛ばされると思うほどに強い風を巻き起こしながら、巨大な龍は池に降り立った。
 その巨体に関わらず、龍は降り立った際には池に小さな波紋だけを起こしただけだった。龍が持つという不思議な力によるものだろうか。
 あらためて見る龍はその身に宿した人智を超える力を自然と感じさせる威容を持っていた。その体に比して小さな頭部と、その目は、眠るヒメノに向けられていた。
 ヒメノの体は池のほとりに寝かされていて、私達はそこから数歩下がったところで龍を見つめていた。
 長大な翼を折りたたみ、しばらくの間、じっとヒメノの方を見ていた龍だったが、不意にその首をもたげると、顔を彼女の方に向けて近づけていった。
「龍よ!」
 私がそう叫んでも、龍は動きを止めようとしなかった。
「国を守るために生贄を欲するのは分かります! ですがこの子はなんの罪もない、まだ何も知らない子供です! そんな命を取ることにあなたは罪を感じないのか!? 生贄がどうしても必要だと言うのなら、この子の代わりに私を食すことは出来ないのか!?」
 私の言葉を歯牙にもかけず龍は鼻先をヒメノに近づけた。
 私は、懐に手を伸ばした。あの子をやはり食べさせてはいけない。国や人々がいくら大事であろうとも、ヒメノが犠牲になる理由にはならない――懐に隠し持っていた包丁を私は握った。
 銃弾を易々と弾く龍の肌に効果はないだろうが、いくら人智を超えているとはいえ、龍も生物だ。その粘膜――ヒメノに向かって開かれている口腔の中は軟らかいはずだし、そこに刃を突き立てれば、興がそがれた龍はヒメノを置いて飛び去るかもしれない。
 私は龍に向かって飛びかかろうとした。
 しかしその抵抗は、アスミに抱きしめられて止められた。
「離せ!」
 無理やりその腕をほどこうとするが、アスミは細腕に似合わない力で私の体を締め、離さなかった。
「離せ!」
「ダメ、死んじゃうよ!」
「構わない、ヒメノが死ぬんだぞ!」
「あの子の決意を無駄にするの!?」
「それでも、それでも……!」
 私達がそうする間に、龍はヒメノの体に牙を立てた。
 パキリ、と骨が砕かれる乾いた音がする。
 龍はヒメノを、お腹の辺りで咥え、首を上げた。宙に浮いたヒメノの白い手と足が、だらりと下がり、腹からは鮮血が流れ落ちた。龍は天に向かって首を真っ直ぐに伸ばすと、ヒメノの体をその口の中に完全に入れた。
 パキ、とヒメノの骨が砕ける音が聞こえてきた。パキパキと音が繰り返される中、私の体から力が抜け、私はアスミと一緒に地面に力なく座りこんだ。
 音が止むのに、さほど時間はかからなかった。小さなヒメノの体を飲み込んだ龍は、天に向かって大きく鳴く。
 歓喜とは程遠い、どこか物悲しいその咆哮を空に響かせた後、龍は巨大な羽音を響かせながら空へ飛び立っていった。
 夜が明け、青に染まった空を、龍は飛んでいった。



 龍が飛び去った後、私達はその場を動くことが出来なかった。太陽が高く上がった後も、私は龍の消えた空の方を向き、アスミは私の体に手を回したまま、泣くだけだった。
 どれほど時間が経った頃だろう。何者かが近付いてくることに、私は気付いた。
 草や木々の枝を踏みしめる足音の方に目を向けると、白髪の老人が一人、私達の方へ近づいてきていた。
 王宮付きの占星術師のカリノだった。伴の者も連れずに清め場の中へ入り込んだらしいカリノは、私達を見て取ると、その目に明らかな哀れみを浮かべた。
 黙って私達のもとに歩いてきたカリノは、ひざまずき、最敬礼の姿勢を私達に向かって取った。
「お勤め、ご苦労でございました」
 私は、その言葉に何も反応することが出来なかった。
 ただぼんやりと、龍の姿の消えた池を眺め、いつの間にか眠ってしまったアスミの頭に手を置く。
 私はしばらくそのままにしていた。頭は何も考えられず、深い虚脱だけがあった。
 ただ、自分がかけがえのないものを永遠に失ってしまったこと、それだけは分った。
「どうしてこんなことをさせるんです?」
 どうしようもない喪失を理解した私は、そうカリノに声をかけた。
「どうしてこんな、残酷なことをするんです?」
「龍が力を得るには、あなたが今感じている、その深い喪失、悲しみが必要だからです」
 カリノは落ち着いた、優しい口調で、私の問いかけに答える。
「龍は贄子の血肉を喰らった後、ここから遠く離れた深山の中でそれまでの体を脱ぎ、新しい体に生まれ変わります。本来、生物は命を新しい命へと繋ぎますが、龍はそれをいたしません。その代わりに旧い体を捨てます。新しい体となった龍が、この国を――この国に住む人々を守る意思を持つためには、贄子が心から導師を愛し、慕わなくてはなりません。そのために清め場があり、贄子と導師の生活があるのです。贄子が導師を愛するようになれば、当然、導師も贄子を愛することになります。それ故、贄子を失った時の導師の苦しみは、どうしても伴わなければならないことなのです」
「他に方法は、ないんですか」
「ございません」
 そう答えてから、カリノはしばらく、無言で私の傍に佇んでいた。私の脳裏を満たす虚脱、それに寄り添っているようだった。その気配に、私は彼もまた、導師を務めたことがあるのかもしれない、と思った。
 私への共感のようなものがカリノの言葉に感じられたからだった
「世界を保つためには、残酷なことも必要なのです。それをなくせる程、私達には英知がない」
 そう語ったきり、カリノはそれ以上、清め場については何も話さなかった。
 体を冷やします、早く外へおいで下さい、それだけ言って彼は私達から離れていった。
 外へおいで下さい、と言った意味が私はしばらくの間、理解出来なかった。
 それが清め場の外へ出る、ということだとようやく理解した時、私はもうここから出ることはないのだと思った。
 体は外へ出るのだろう。しかし私の中の大切な一部は、この石壁の中で永遠に失われてしまったのだから。ヒメノが龍に食われたその瞬間、私の中のそれも龍にかじり取られてしまったのだ。
 龍が人から大切なものを奪う、この石の籠の中に、私の心は延々とさまよい続けるのだろう。
赤城 QmKadKVz7w

2018年01月02日 20時13分45秒 公開
■この作品の著作権は 赤城 QmKadKVz7w さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:龍へ捧げられる、少女の命と私の心
◆作者コメント:
これ、密室って言えんの?
と言われそうですが、読んでやって頂けると嬉しいです。

2018年01月28日 21時04分13秒
作者レス
2018年01月27日 23時26分06秒
+20点
Re: 2018年02月18日 14時58分22秒
2018年01月20日 22時03分38秒
+20点
Re: 2018年02月18日 12時43分57秒
2018年01月20日 22時02分40秒
+30点
Re: 2018年02月17日 12時30分55秒
2018年01月18日 22時28分58秒
+40点
Re: 2018年02月17日 12時19分53秒
2018年01月18日 00時10分48秒
+10点
Re: 2018年02月17日 12時10分46秒
2018年01月14日 19時54分40秒
+30点
Re: 2018年02月13日 21時00分23秒
2018年01月14日 10時38分04秒
0点
Re: 2018年02月12日 21時16分03秒
2018年01月13日 22時35分15秒
+30点
Re: 2018年02月12日 21時03分34秒
2018年01月11日 22時42分56秒
+10点
Re: 2018年02月12日 20時56分53秒
2018年01月10日 18時48分58秒
+30点
Re: 2018年02月12日 20時43分54秒
2018年01月06日 18時15分18秒
+30点
Re: 2018年02月12日 20時29分09秒
2018年01月06日 16時54分11秒
+10点
Re: 2018年01月28日 21時53分15秒
2018年01月05日 11時18分03秒
+20点
Re: 2018年01月28日 21時24分58秒
合計 13人 280点

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