大橋

Rev.03 枚数: 13 枚( 5,119 文字)

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 太陽が西の空を、橙色に染める頃合いの事である。一人の背広を着た男が、大橋の下で、雨が上がるのを待っていた。
 大河の跡に架かる巨大な大橋だが、車の一台も通る気配もない。ただ、煤けた円柱にキリギリスが一匹とまっている。大橋が街の主要部を繋いでいる以上は、少なからず車通りがありそうなものである。それが、耳を衝くのは白んだ雲が、ひび割れたコンクリートに残す足音だけであった。
 何故かというと、ここ数年の不景気は国の状況を一変させた。市内の荒れようはひどいもので、騙し、盗み、殺すといった出来事が日常的に発生していた。市内がその始末であるから、自治機能といったものはもはや名前だけのもので、車の燃料も高級品となっては、走る車の姿を見る機会もめっきり減ってしまった。
 その代わりに大橋の下には、どこからか浮浪者がたくさん集って来た。薄暗い影の下にゴミのような住まいとおぼしきバラックが軒を連ねる。男は湿ったコンクリート段差に、色褪せた紺のスラックスの腰を据えて、目にかかった前髪を気にしながら、ぼんやり、雨が降るのを眺めていた。
 男は雨が上がるのを待っていた。しかし、例え雨が止んだとしても、男には行く当てがなかった。普段なら、勿論、会社へと帰るべきはずである。ところが数日前、その会社から解雇を告げられていた。不景気の波は寄せるばかりで引く気配もなく、男が長年勤めていた会社から居場所を失ったのも、その小さな余波に他ならない。だから「男が雨が上がるのを待っていた」というよりも「雨に閉ざされた男が、行き所がなくて、途方にくれていた」という方が適当である。その上、今日のスモッグでぼやけた空模様も少なくとも、この廃退した時代を生きる男のSentimentalismeに影響した。午後も半ば辺りから降り出した雨は、いまだに上がる気配がない。そこで、男は、何にしても差し当たり明日の暮らしをどうにかしようとして――いわばどうにもならない事を、どうにかしようとして、とりとめのない考えをたどりながら、さっきから大橋に降り注ぐ雨の音を茫然と聞いていたのである。
 雨は、大橋をつつんで、遠くから、ザーっという音を集めて来る。夕闇は次第に空を低くして、見上げると、斜めに突き出した大橋の支柱の先に、すっかり重たく薄暗くなった雲を支えている。
 どうにもならない事を、どうにかするためには、手段を選んでいる場合ではない。選んでいれば、眼下に広がる河川敷のバラックの一員となるか、冷たいアスファルトの上で行き倒れるばかりである。選ばないとすれば――男の考えは、何度も同じ思考を堂々巡りしたあげくに、やっと一つの結論に至った。しかしこの「すれば」は、いつまでたっても、結局「すれば」であった。男は、手段を選ばないという事を肯定しながらも、この「すれば」の片をつけるために、当然、その後に訪れる「犯罪に手を染める他に仕方がない」という結論を、積極的に肯定するだけの、勇気が出ずにいたのである。
 男は、大きなくしゃみをして、それから、重い腰を上げた。日が傾き、じっとりと寒さが寄せて来る。風は大橋と地面の間を、夕闇と共に遠慮なく、吹き抜ける。煤けた円柱にとまっていたキリギリスも、もうどこかへ行ってしまった。
 男は、寒さに身を縮めながら、色落ちした背広の肩を高くして大橋のまわりを見回した。雨風にさらされることのない、一晩楽に寝られそうな所があれば、そこでとにかく、夜を明かそうと思ったからである。すると、幸い大橋の下の河川敷へ下りる、錆びた階段が眼についた。とうに水の枯れた河川敷なら、人がいたとしても、どうせ浮浪者ばかりである。男はそこで、腰に下げた護身用の拳銃を握り締めながら、革靴を履いた足を階段へ踏み出した。
 それから、何分かの後である。河川敷へ降り立った、一人の男が、猫のように身を縮めて、息を殺しながら、バラックの様子を窺っていた。トタンで出来た簡素な建屋に、ぼんやりと光が反射し、男の右の頬を濡らしている。虚ろな瞳に重なるように、前髪が表情を覆い隠す。男は、始めから、この橋の下にいる者は、浮浪者ばかりだと高を括っていた。それが、河川敷に降りてみると、誰かが白熱灯を灯している。少なくとも、今の時勢に浮浪者の持ちえる物ではない。この雨の夜に、この大橋の下で、文明の炎を灯しているからには、どうせただ者ではない。
 男は、蛇のように足音をぬすんで、やっと光のたもとまでたどり着いた。そうして体を出来るだけ、平らにしながら、顎を出来るだけ前へ出して、恐る恐る、バラック群の中を覗いて見た。
 見ると、バラック群の中には、話に聞いた通り、幾人もの浮浪者が、無造作に横たわっているが、光の及ぶ範囲が、思ったより狭いので、数はいくつとも分からない。ただ、おぼろげに、見てとれるのは、その中に正気を保っている人間と、そうではない人間がいるという事である。目の焦点が合わず、うわごとを呟き続け、時に体を痙攣させる姿は、かつて、まともな人間だったという事実さえ疑われるほど、土を捏ねて作った人形のように、口を開けたり手を伸ばしたりして、ごろごろと土の上に転がっていた。
 男は、それらの浮浪者の腐乱した臭気に思わず、鼻を覆った。しかし、その手は、次の瞬間には、もう鼻を覆う事を忘れていた。ある強い感情が、ほとんどことごとくこの男の嗅覚を奪ってしまったからだ。
 男の眼は、その時、はじめてそのバラックの中で、浮浪者に話しかけるモノの姿を見た。灰色のローブを纏った、背の低い、痩せた、髪の抜け落ちた禿鷲のような影である。その禿鷲は、右の手に電球を灯したトーチを持って、その浮浪者の顔を覗きこむように眺めていた。縮れた髭で顔を覆われた浮浪者だが、見た所まだ正気を保っている内の浮浪者に思えた。
 男は、六部の恐怖と四部の好奇心とに動かされて、今に息をするさえ忘れていた。すると禿鷲は、トーチを地面に立てると、それから、今まで眺めていた浮浪者に何粒かのカプセル手渡した。浮浪者の男は恍惚な表情を見せると、惜しげに薄汚れた服をたくし上げ、肌を露出させた。ローブをぶるりと震わし、禿鷲は骨ばった黒い腕を浮浪者の腹に沈みこませた。しばらくの後、蠢く腹からゆっくりと腕を引き抜き、取り出したるは、どくどくと脈打つ赤黒い肉塊であった。浮浪者の皮膚が何の傷もなく、元に戻っているのを、事もなし気に見やった禿鷲は、傍らに置いていた緑色の粘液が詰まった容器に、丁寧にその肉塊を入れた。
 男のその光景を眺めている内に、恐怖が少しずつ消えて行った。それと同時に、この禿鷲に対する激しい憎悪が、少しずつ動いて来た。――いや、この禿鷲に対するといっては、語弊があるかも知れない。むしろ、あらゆる悪に対する反感が、一分毎に強さを増して来たのである。この時、誰かこの男に、さっき橋の下で今しがた考えていた、飢え死にするか罪人になるかという問題を、改めて持ち出したら、恐らく男は、何の未練もなく、餓死を選んだ事であろう。それほど、この男の悪を憎む心は、レジスタンスが行った焦土作戦のように、勢いよく燃え上がり出していたのである。
 男には、勿論、何故禿鷲が浮浪者の臓器を抜くのかわからなかった。従って、合理的には、それを善悪のいずれに片づけてよいか知らなかった。しかし男にとっては、この雨の夜に、この大橋の下で、浮浪者の臓器を取り出すという事が、それだけで既に許すべからざる悪であった。勿論、男は、さっきまで自分が、罪人になる気でいた事などは、とうに忘れていたのである。
 そこで、男は、両足に力を入れて、いきなり、暗がりから飛び上がった。護身用の拳銃を構えながら、大股で禿鷲の前へ歩みよった。禿鷲が驚いたのは言うまでもない。
 禿鷲は、一目男を見ると、まるで蹴り上げられたゴム毬のように飛び上がった。
「待て、どこへ行く」
 男は、禿鷲がつまづきながら、慌てふためいて逃げようとする行く手を塞いで、こう罵った。それでも男を押しのけて逃げようとする。男はまた、それを行かすまいとして、押し戻す。二人はバラック群の中で、しばらく、無言のまま、掴み合った。しかし勝敗は、始めから分かっている。男はとうとう。禿鷲の腕を掴んで、無理にそこへねじ倒した。丁度、鶏の脚のような、骨と皮ばかりの腕である。
「何をしていた。言え。言わなければ、ただでは済まんぞ」
 男は、禿鷲をつき放すと、いきなり、鈍い黒光りを放つする銃口をその眼の前へ突きつけた。けれども、禿鷲は黙っている。両手をわなわな震わせて、肩で息を切りながら、眼を、目玉が目蓋の外へ出そうになるほど、見開いて、聾唖のように頑なに黙っている。これを見ると、男は初めて明白にこの禿鷲の生死が、すべからく、自分の意思に支配されているという事を意識した。そうしてこの意識は、今まで激しく燃えていた憎悪の心を、いつの間にか冷ましてしまった。後に残ったのは、ただ。ある仕事をして、それが円満に成就した時の、安らかな得意と満足とがあるばかりである。そこで、男は、禿鷲を見下しながら、少し声をやわらげてこう言った。
「俺は、警邏庁の役人などではない。今し方この大橋の下を通りがかったただの市民だ。だからお前を捕まえて、どうしようという事はない。ただ、こんな日も暮れた雨の日にこの橋の下で何をしていたか、それを俺に話しさえすればいいのだ」
 すると、禿鷲は、見開いていた眼を、一層大きくして、じっとその男の顔を見守った、目蓋の赤くなった、肉食鳥のような、鋭い眼で見たのである。それから、皺で、ほとんど、鼻と一つになった唇を、何か物でも噛んでいるように動かした。細い喉で、尖った喉仏の動いているのが見える。その時、その喉から、カラスの鳴くような声が、喘ぎながら、男の耳へ伝わって来た。
「コノ臓器ヲ抜イテナ、コノ臓器ヲ抜イテナ、人間ニ売ロウト思ウタノダ」
 男は、禿鷲の答えが存外、平凡なのに失望した。そうして失望すると同時に、また前の憎悪が、冷やかな侮蔑とともに、心の中へ入って来た。すると、その気配が、先方へも通じたのであろう。禿鷲は、片手に、まだ浮浪者の体から奪った、どこの部位かも分からぬ臓器の入った容器を持ったまま、蚊の鳴くような声で、口ごもりながら、こんな事を言った。
「ナルホドナ、生キテイル人間ノ臓器ヲ抜クトイウ事ハ、確カニ悪イ事カモ知レン。ダガ、ココニイル浮浪者ドモニハ、皆、相応ノ対価ヲ与エテオル。今シ方、臓器ヲ抜イタ男ナドハ、自ラ、薬ガ欲シイ言ウテ体ヲ差シダシタノダ。ドノミチ長クナイ命ニ快楽ヲ、富メル者ニ臓器ヲ。誰モガ行キ方ナド選ンデハオレンノダ」
 禿鷲は、大体こんな意味の事を言った。
 男は、銃をホルスターに収めて、そのグリップを握りながら、冷然として、この話を聞いていた。だが、その眼の端に、禿鷲が大事そうに、懐を庇う仕草をしたのを見逃しはしなかった。それでも、右の手では、眼にかかる前髪を気にしながら聞いているのである。しかし、これを聞き続けているうちに、男の心には、ある勇気が生まれて来た。それは、さっき橋の下で、この男には欠けていた勇気である。そうしてまたさっきこの河川敷に下りて、この禿鷲を捕えた時の勇気とは、全く、反対の方向に動こうとする勇気である。男は、餓死するか罪人になるかに、迷わなかったばかりではない。この時のこの男の心持ちから言えば、餓死などということは、ほとんど、考えもしないほど、意識の外に追い出されていた。
「きっと、そうか」
 禿鷲の話が終わると。男はあざけるような声で念を押した。そうして、一足前へ踏み出すと、不意に右手を前髪から離して、禿鷲のローブを掴みながら、噛みつくようにこう言った。
「では、俺がお前の身ぐるみを剥ごうとも恨むなよ。俺もそうしなければ餓死する立場なのだ」
 男は、すばやく、禿鷲の懐をまさぐると、金目の物を片っ端から奪い取った。それから、足にしがみつこうとする禿鷲を、手荒く地面へ蹴り倒した。男は剥ぎ取った金品を脇に抱えて、またたく間に錆びた階段を駆け上がった。
 しばらく、死んだように倒れていた禿鷲が、バラック群の中から体を起こしたのはそれから間もなくの事である。禿鷲は呟くような、呻くような声を上げながら、まだ点いている白熱灯の光を頼りに、階段の登り口まで、這って行った。そうして、そこから階段が続く大橋のたもとを見上げた。空には巨大な羅生大橋によって分断された、ただ、ひたすら深い黒の夜があるばかりである。
 男の行方は、誰も知らない。
庭木 Pmgg0ErGHQ

2017年08月13日 19時20分49秒 公開
■この作品の著作権は 庭木 Pmgg0ErGHQ さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
 現代に甦る、文学史に残る傑作!
◆作者コメント:
 ラ研にはつい最近出入りするようになったばかりですが、厚かましくも参加させて頂きたいと思います。
 ゲートというテーマに頭を悩ませていましたが、「門」という事であれば、文学においてはコレしかないな、と閃いた所存です。
 という訳で芥川龍之介氏の羅生門の現代版を目指してみました。原作ありきなら簡単と高を括っていましたが、とんでもない間違いで、文豪の偉大さ改めて実感するとともに、自身の未熟さを痛感しました笑
 拙い作品ですが、この作品が羅生門のより深い理解へと繋がる「ゲート」になればと願っております。
 最後に、当企画の開催運営にあたりましては、大変なご苦労のことお察しいたします。この場を借りまして感謝申し上げます。

2017年08月27日 22時48分23秒
2017年08月26日 22時10分04秒
0点
2017年08月26日 06時57分44秒
0点
2017年08月25日 13時57分33秒
2017年08月24日 19時37分51秒
0点
2017年08月22日 14時39分32秒
+20点
2017年08月19日 20時01分50秒
+20点
2017年08月15日 19時03分22秒
-30点
2017年08月15日 17時41分54秒
+10点
2017年08月15日 16時34分22秒
+20点
2017年08月14日 20時49分18秒
0点
合計 11人 40点

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