海助の卵

Rev.02 枚数: 16 枚( 6,317 文字)

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※性描写はありませんが、女性の裸体の描写があります。


 美たるものがまだ世に衰えの兆しを見せぬ頃、己の美的感覚に一方ならぬ信頼を置く男がいた。日盛りに燃える太陽や夜半に冴え渡る月も風雅の内に数えないし、潺湲たる深山川、藹然たる霧雨、蛙の和声彼方の松籟、明々に色めいた佳景、柳は緑花は紅にさえ理解を示さず、静閑たりし様子のみそれとなく愛すばかりの、無口な男である。その愛というのも、無音に沈みつつ微かに耳を擽る虫のすだきやら清流の瀬音やらを偲ぶ心ではない。ただ人一倍喧噪を倦み何やらの阻害や干渉を受けず安穏の生活を送りたいという工合だから、近隣の者たちも皆気味悪がって彼と話はしなかった。このように孤独な輩のため彼の名を知るものは少なく江戸の十方を当たろうとも一人とて知らぬどころか、当人でさえ既に忘れ去っているものではないかと実しやかに囁かれた。一応名がないというのは酷く不便なので、後述の性質のために彼は「海助」と呼ばれた。そんな心無く見える海助にも一つだけ、雅を感じ入り妙味に打たれ、その麗しきこと甚だしい有様に心惹かれてしまうものがあった。鶏卵である。
 鶏卵の雅とは一聞して滑稽であるが、英哲たる読者諸賢ならば少し沈思なされるだけで解せるやもしれない。海助に曰わく「ひっそりと薄くらい真夜中の卵こそ正しく美の極地である。白く滑らかな佇まいから闇夜に眩い珠玉の如し仄白さ、少女の掌に等しい丸み、暗闇にもあきらかな光沢は何事にも変え難き美しさである」。なるほどよくよく考えてみれば彼の言っていることも然りであるが、正統の美を認めず卵一つに狂恋するのは瘋癲の沙汰である。彼がある日チンリンチンリンと風鈴を鳴らしつ街中を歩く二八蕎麦の屋台に駆け寄って、正気とは思えぬ目の色で十六文を叩きつけたそうである。夜の町並みに照り映える屋根から吊り下げた灯籠を、白く燃える卵と見紛うたとか、有る事無い事が噂されているが、一体何を見つけて彼が駆け寄ったかは海助しかあずかり知らぬことである。真実は酒をたらふく呑んで泥酔した彼が、本当に灯籠を卵だと勘違いして血相を変えたということらしいが、しかし、何と熱心な卵好きであろう。海助という名も、卵を意味する「かひ」という言葉から来ている。
 こういう性格だから、日頃の食に於いてもたいそうな卵好きであると察せられるが、実情は案外そうでもなかったようで、二、三日に一度、生卵をずるりと喉奥へ流すだけであった。これはまだ養鶏の類が出来始めたばかりであるから、一つ小さいのを買い求めるにも蕎麦より高いという事情もあろう。いや折角買った卵を食べてしまうのは勿体無いから、日当たりの良いところに置いて、暇さえあれば陽に燦爛とする卵の美しい輪郭を味わっていて、口にするのはいつも悪くなってしまった卵なのだという者もあった。しかし、この何気ない習慣においても町人らの推察は尽く外れた。慥かに鶏卵は二十文前後という高値であったし、勿体無いという心がないわけでも無いであろうが、卵に美を見出す独特の美感故、一日ほどの観察の末に俗世に流通する卵の醜悪な外観に堪えざる怒りを感じたからこそ食い荒らしたのである。元々海助はそこそこ有名な風来坊の絵師で、例え風流に興味はなくとも俗人より遥かに目の鋭い男であったから、多少の乱れさえ許せざる心があったのであろう。卵の球形を学術的に見るため和算の蘊奥をいざ極めんと、学者を志したことさえあった。流浪の際に武家へ立ち寄って算術や素読の指南を行いながら日銭を稼ぐ生活もあったが、今では長屋に居を定めている。
 彼の狂乱、いや、狂卵工合は甚だしいもので、女の姿容の好みでさえも、いちいち卵に左右された。むろん彼は常常「卵の美と麗女の肌の美は酷似している」と言うほどには、互いの華麗を良いものとして考えていたのだが、しかし卵を表すのに女を、女を表すのに卵をと、どうにも複雑で割り切れない関係を築いており、彼はよく女を卵と見紛うことがあった。と言っても、聡明な海介であったから女性に対しても卵同様の鋭さが働き、いくら見てくれが卵らしくても、やはり完璧とは言い難い、と半ば失望しながら思うのが常であった。卵においても、また女性においても、彼は些かの満足さえ得られなかったのである。

 ある盛夏の晩に、彼が恰度今住んでいる長屋の前を通りかかった折、夜半に水打ちを行う黒い影がほの見えた。江戸の夜は明かりの乏しく物騒であるため海助は警戒して影を避けようとした。しかし、との曇る暗雲が爽風に開かれ渓流の如し淀みない月光が長屋の街を噛んだ時、その明るさに彫られて女の姿が浮き上がった。つるりと瓜実に近い、線のふくよかを頤に至るまで丸く流して、肌は水垢離取りそうな白さに、恰もそぼ濡れた卵のような白磁の美を持ってそこに屹立していた。就中麗しかったのが、蹲の潺湲たる潦に清められたと思われるほどの白い掌から、細く精緻な指が綻びる花が如く伸びているのである。卵とは異なりながらも、それは完璧なる卵にさえ見られない、まさしく美の極致であった。海助の卵に、或いは卵に類する美しさを愛した鋭感は、実に機敏に女の美を捉え、彼女が水打ちを終えて長屋に戻る僅かな間にも、彼女のあきらかなる麗しさを、限りない丸みを、彼の宿願である完璧な卵にも等しい珠玉の美しさを、しっかりと目の内に収めたのである。彼が人伝に長屋へ越したのは、それから二ヶ月後の話であった。
 彼が一体何を願って長屋に越したかは知らぬ。女を襲ってしまおうという了見でもなければ、彼女と交際をしようという腹づもりでもない。ただ女の近くに住み、時折見かける彼女の姿に恍惚としては、自らが食す卵の貧相な美に失望するのみで、何ら彼女への影響を及ぼそうという気ではなかった。かといって彼に彼女との関わりを持たんとする意志がないわけでもなく、事あるごとに会話を試みては、思わず相も変わらぬ美の輝きに目を奪われてしまいその機をのがしてしまうのであった。しかし、卵の白肌も炙られんばかりの日差しが注ぐある夏の時分、とうとう機会が巡ってきたのである。
 それは彼が絵描きであることを仄聞した女が彼の長屋を来訪したことが始まりであった。建付けの悪い格子の木戸を叩くと、恰も卵が割れるかのように快活な音が部屋の中まで冴えて響き、海介はその音を一瞬にして女の来訪であるを察し、喧しいくらいの足音を立てて勢い良く戸を開けた。盛んな日光に霞まれて、その縁、その線、皆一様に白く極まっているが、体の中心へ至るにつれて蛞蝓のように白さが瑞々しく変じていく色合いの美しさは、海助が恍惚を超えて驚嘆をさえ覚えるほどであった。
「海助さん、ですか?」
 その声は、ビードロを打つように高く快い音であった。
「どうしたんだい。こんな長屋の小便臭い部屋に」
「あら、私もその長屋に住んでいるんですよう。お願いあるんです」
「はあ」
「私に絵を教えてくださいませんか」
「絵、ですか」
「私は随分と飽き性でね、織物だの三味線だのを嗜んでおりますが、無聊でしてさ。そこで、今度は絵をやってみようという心になったのですよ」
「そりゃあいけねえ。絵は飽きる飽きないでやっちゃあならねえよ」
「お願いします、後生だから。海助さんは、嘸徳の高い絵師とお見受けします、そんなお方に絵の極意を学びたいのです」
「そんなもん、自分でやったらどうだい」
「習わぬ経は読めぬと言いますでしょ、ほら。お願いしますよ」
 女は唇に衣紋の袖をすっと合わせ眼を細めながら乞うてみせた。満更でもないどころか、喜んで指導にあたりたいのであるが、海助は時間を欲していた。何せ彼女との接点を持てたばかりか、教習にかこつけて二人きりになることが出来るのだから願ったり叶ったりであるが、一度でも彼女に何かをしようものなら二度と相見える機会がなくなるため、時間を掛けて備え「唯一」を心より愉しみたかったのである。
「――仕様がねえ、俺も江戸っ児だ。生娘にそう何度も懇願されちゃあ、黙ってられねえ。ただ、今とは言わず……そうだな、明後日にでもしてくれい。俺にも色々と準備がある。お前、名をなんと」
「私ですか? 千佳と」
 千佳、と心の中で反芻をした。

 明後日までに整えねばならない支度は、海助が如何にして千佳をに卵の美を施すかであった。その佇まい、褄捌き、いずれも口舌に表せざる凄味があったが、しかし完璧へ至るものではなかった。いや、完璧ではあったが、しかし彼の尖い感性は彼女の美に更なる余地を見出し、手を加えてやることでいっそう美しい美に昇華させられると考えたのである。その余地とは、彼が卵の美を求め歩いた中で獲得したありとあらゆる技術のすべてを、彼女の体に仕掛けてやることで花開くのである。海助は千佳の去った後にすぐさま小さな棚からいくつかの道具と、かつて眼に愉しむ心づもりに購入した緋縮緬の美しい和服を取り出した。それから、花魁が持っているような化粧道具も取り出した。出来ることならば何を加えんとも美しい白肌には白粉など塗抹したくはないが、いざ必要となっても手元になければ実に腹立たしかろうと思い、すぐに持ち行けるよう枕の傍へ丁寧に整えた。それから、場所も必要であった。彼が舞台として誂えたのは、徒歩に十五分程の小さな林の中に建てられた掘っ立て小屋である。ここは以前彼の友人が使っていた小屋で、古びては居たもののまだ頑丈であった。彼は絵を描こうと思った時、ここに立ち寄って刳り貫いた穴から木立の緑を眺めては、それを紙へと塗抹した。別段佳景を愉しむ訳ではなく、ただ無心に絵を書いているばかりでありもう使ってはいなかったが、千佳が来るにあたって利用しない手はなかった。小屋の中には小さな粗雑な机、障子を貼った手製の衝立があった。
 すべての準備を整えた海助は当日、千佳のところまでわざわざ赴き小屋まで誘った。少少訝っては居たものの、小屋で描いた絵を二、三見せると渋々納得した様子でついていこうという意思を見せた。彼が見せた二枚の絵はまだ彼が卵の美に目覚めない頃の絵で、「松林」「女人林」という題であった。
 小屋は長らく使われていないためやはり古びていたが、千佳は枯淡を感じるのだとたいそう喜んで、机に紙を広げた。喜々として絵を描こうとする千佳の後ろで気のない笑いを零しながら、彼は懐に忍ばせた麻睡剤の壜を素早く取り出した――

 暮れ六つ時の鐘が遠雷のように駆けると、暮れなずむ空の残照が障子へ金色の輪を震わせた。外は微かに雨が振っているようで、こつこつと叩かれる林の音が聞こえている。彼は手始めに女の服を剥いで、裸体のその美しさに惚惚とした。豊満な線は胸部に至って堆く盛り上がり、腹肉は慎ましく絞られながらも、そこから伸びる細い足は冷たい肉のように瑞々しく、珠玉のように丸まった踵が曲線を指へ向かって流している。このような女の美に自ら手を加えられる至福を海助は噛み締めながら、予め小屋に潜ませていた緋縮緬の和服を取り出し、体の下へと敷いていった。それを終えると海助は刷毛を白肌に辷らせ、僅かな色斑へ白粉を塗り込んでいった。彼女の体に白さを遍満させるための試みであり、顔には見えずとも体には浮き上がる僅かな白さの揺らぎさえ、海助には許せざる思いであった。刷毛目は鮮やかに彼女の色艶を際立たせ、その肉体へ更なる白さを織り込んで行った。彼女の丸みを水際立たせるために、両肩、臀部、掌、踵は殊更に気を使って化粧を行った。女性の肉体へ化粧を施した経験のない海助は白粉を落とし、塗り、落とし、塗り、幾度となく繰り返し、ようやく彼が納得の行く白さになったのは、すっかり夜も深まり、圓圓たりし月が端部へ霞の雲を侍らせる頃であった。淡い月光が彼女の体を流れ行き、首筋を、胸部を、臍を、太腿を、足の五指を、清冽な水の如くこんこんと流れ、恰も熱した白米のように内側から熱を帯び瑞々しい肌を透かしてうっすら白く光るようであった。次に彼がするべきは和服を着せることであった。羅陵とも言われる薄衣の、しかしシボの滑らかな真紅の縮緬を、抜き衣紋にして彼女に着せ、裳裾から襟元までの燃え上がらんばかりに彩られた彼女の美を堪能しようという魂胆である。再び麻睡剤を致死量にならぬよう憂慮いながら仕込むと、だらしなく寝込んだ彼女の肉体をなんとか持ち上げて衝立に支え、縮緬の清きが崩れぬよう、彼女の化粧が落ちぬよう、額から万斛の汗を垂らしつつ、細心を払って着せていった。彼女の潔白な肉叢の中で唯一濡鴉であった御髪を崩さぬようという海助なりの配慮である。また抜き衣紋にすることで襟足のみならず首筋までもが道行く人に明らかになり、彼女を見る人があの凄いほどの艶やかな項を眺められないのは不幸であろうという、彼の優しさでもあった。
 服を着付けて、次に御髪を整えた。銀杏、丸髷、高島田、何れにしても見事に映えそうであるが、下手に派手な御髪を選ぶのは過ちである、ここは添えるかの如く穏やかなようにと銀杏返しに結ってやった。生憎髪結いの心得はなかったが、梳き櫛を引き、根かけを掛けて、簪を差し込む一指が、銘銘に魂を宿りそれが豊かな髪の流れに沿って溢れていくかのようであった。それはギリシアの神話に出て来るかのアラクネーが流麗な布帛を織るが如し妙技であり、彼が彼女の美しさをいっそう磨き上げるたび、内奥に蟠っていた執念、生気、注ぎ込まれ、差し込まれ、抜かれていくようであった。
 御髪まで整えると、既に外は白白明けで、夏の潤みを孕んだ薫風が、遥かな町並みのざわめきを抱いて、松林の合間を足軽く走っていった。障子に射された盛んな日に焼かれて、波間のように眩きながら朧な線が閃いた。最後に仕上げねばならぬのが、面への化粧であった。真っ直ぐな鼻梁、あきらかな明眸、鏡面の如くきらびやかな額、非の付け所のない凄艶であったが、しかし海助は自らの手腕へ絶対の自信を抱き、最後の手を加えることで、何物にも変え難き、何卵にも変え難き、壮絶の美を得られるという確信があった。彼は再び刷毛を手にすると、ただでさえ卵の如く滑らかに美しい肌へ光らんばかりの白を塗り込んでいった。千佳の肌は、瞼に、笑窪に、頤に、雪面の銀白を備えていった。折から日が差し込み、彼女の肌へ淡い新しさをはりつけた。
 化粧を終えた彼は後退し彼女の寝姿を眺めた。胸部が蠢動しはんびらきになった唇は細やかに震え、死生の狭間に揺れ動いているかのようであった。純白の肌が日に燦爛とし埃の霞が薄らぎそめる小屋の天井をほのかに捉えたが、しかし生きているか疑われるほどの美に、海助は妙な気持ちを抱いていた。彼女の美は完全無欠と言うべきであり、その点において海助が拵えた装飾は大変効果的であったが、それは彼が求めている「卵」の美とは縁遠いものであった。薄氷のように張り詰めた肌に白粉が溶け込み、そこへ汗が滲むことで常人には判らぬ微かな色斑が浮き上がり、荘重な衣服を着込んだことにより薄絹の抜き衣紋にほの見えていた丸みが失われていたのである。もはやそこに眠っていたのは単なる美しい女であり、心より欲した卵の素朴の美とはいい難い代物であった。
 迷惑を掛けてすまなかった、もう好きにしてくれたまえと言った意の書留を残すと、彼は松林の中へ躍り出て薄荷を帯びたような空気を勢い付けて吸い込み頭を垂れた。街を目当てにだらだら歩きの頭上に激しく燃える白陽は、恰度彼が求めていた完璧な卵のように美しい円に、空へ燦然と輝いていた。
赤とんぼ 8Gc34bqeWQ

2017年04月30日 22時10分11秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:卵は美、美は卵
◆作者コメント:横書きにこうした文章は大変読みづらいかと思われますが、短いので何卒よろしくお願いいたします

2017年05月13日 19時27分59秒
+20点
2017年05月12日 22時28分06秒
+20点
2017年05月12日 22時20分04秒
-20点
2017年05月12日 04時33分56秒
+20点
2017年05月09日 13時53分20秒
+20点
2017年05月05日 17時11分29秒
+10点
2017年05月01日 23時42分35秒
2017年05月01日 23時41分31秒
-10点
合計 8人 60点

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