竜の卵はかえるのか

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●邂逅は毒虫に追われて
 季節は春。
 雪はとけ、新緑は茂り、動物たちも冬眠から目覚めて、林の中では少年が絶叫した。
「うだァァァァァァァア!?」
 先日十六になったばかりの少年アシュロはただ逃げる。
 ただただひたすら逃げに徹する。
「ギヂ、ギヂヂヂヂヂヂ!」
 だが耳をつんざく怪音を発しつつ、背後の襲撃者は彼の背後に肉薄した。
 恐怖に負けて振り向けば、そこに見えてしまったのは、自分よりも数倍大きな赤黒い色の百足だった。
 ちょっと近道しようとしたら、こんなものに遭遇してしまったのだ。
 ギチギチと鳴る鋭い牙を見た瞬間、恐怖が心の中に爆ぜた。
「た、助けてくれェェェェェェ!」
「あいよぉ~」
 絶叫すると、何と返事があった。
「……ひ、は、は……、へ……?」
 息も絶え絶えに逃げ続け、やっと意識に入ってきた声に、アシュロも思わず声を出す。
 足を止めると、背後からズズンと重たいものが倒れる音が聞こえてきた。
 恐る恐る振り向くと、地面に横たわる百足が見える。
 牙を鳴らしていたその頭部に、ゴツイ鉄槍が突き立っていた。
「いよぉ、災難だったねぇ少年」
 固まっている彼に、上から声がかけられる。
 灰色の外套を着た男がふわりと着地した。その軽やかさに、アシュロはまた驚いた。
「『肝喰百足』に襲われるたぁ運がないねぇ」
「キモ、クイ……?」
「小魔とはいえ、立派な禍ツ身さぁ。熊っくらいなら喰っちまうぜぇ」
 言って、男は鉄槍を引き抜いて纏っている外套でその穂先を大雑把に拭った。
 禍ツ身とはいわゆる化生、魔物を指す名称だ。
「はぁ……。いや、それより、あんたは……?」
 説明されても理解が追い付かず、アシュロは背の高い男を見上げた。
 灰色の髪を伸びっぱなしにさせた、がっしりとした体格の、熊のような男だった。
 そのくせ威圧感が薄いのは、その顔に浮かぶやけに馴れ馴れしい笑みのせいか。
「ガダン」
「え?」
「俺の名前さぁ。で、お前さんは?」
「アシュロ……」
 前置きもなしに名乗るガダンに、アシュロは戸惑いつつも名を告げた。
「アシュロかぃ、ちぃと道に迷っちまってよぉ、尋ねてぇんだがいいかねぇ?」
「道? 大町ならここから少し行けば街道に出るけど……」
「違うよぉ、タツカ村ってところに用があってなぁ」
「タツカ村ァ?」
 ガダンが言ったその地名に、アシュロはすっとんきょうな声を出した。
「そこ、俺の村なんだけど……」
「そりゃあちょうどいい。道案内頼んでいいかねぇ? 依頼があってなぁ」
「依頼って……、あんた、一体何者だよ」
 タツカ村はどこにでもあるような小さな寒村だ。
 そこに用事がある者なんて滅多にいるはずもなく、アシュロは訝しんでガダンに尋ねた。
「俺かい? 俺はガダン。こっちが相棒のユニさぁ」
「クァ」
 ガダンがまた名乗ると、そこに真っ白な鴉が飛んできてガダンの肩に留まった。
「ガダンなのは知ってるよ! 俺が聞きたいのはそうじゃなくって……!」
「悪ィ悪ィ、ま、俺ァアレさぁ」
 からかわれたと思って顔を赤くして怒る少年に、ガダンはクツクツ笑って鉄槍を肩に担いだ。
「ただの、ほどき屋さぁ」


●竜神信仰の村
「いやぁ~、楽しみだねぇ」
 村へと続く道を歩きながら、ガダンが呑気に呟いた。
「何がだよ。うちの村に何があるってんだ?」
 隣を往くアシュロが眉根を寄せて年上の男の方を見る。
 すると、ガダンは鼻歌交じりに少年を見返して、
「あるんだろぉ? 立派な竜社(タツノオヤシロ)がよぉ」
「あるけど。……竜社なんかに用があるのか?」
 竜社とは、この辺り一帯に広がっている竜神信仰のために建てられた社である。
 竜は禍ツ身を沈める天の遣いともされる、数多の伝承に登場する偉大なる獣の名であった。
「俺っちね、竜神様に興味があるんだよねぇ」
「……誰だよ、あんたみたいな変なほどき屋に依頼したの」
 ほどき屋とは報酬次第で荒事を解決する、いわゆる何でも屋のことだ。
 中にはヤクザまがいのほどき屋もいるらしいが、ガダンは付き合いやすいタチではあるようだが。
「依頼主かい? リィエって名前だがねぇ」
 だからこそ、なのか。ガダンは依頼主の名前をあっさりと教えてくれた。
「リィエ……!?」
 ただ、その名前はアシュロにとって驚愕に値するものではあったが。
「……なぁ、オッサン。リィエのヤツからどんな依頼受けたんだ?」
「あ~ん?」
 しばしの沈黙ののちに、アシュロがガダンに尋ねた。
「リィエは、俺の妹みたいなモンだ。だからいいだろ、教えてくれよ」
「だァ~めだね」
 だがガダンはニヒヒと笑って、肩をすくめて首を振る。
「なんでだよ!」
「守秘義務ってモンがあンだよぉ」
 食ってかかるアシュロへ、軽く一口だけ返し、そしてさっさと道を歩き始める。
「……ンだよ、それ」
 ほどき屋の後ろに続くように歩き、アシュロは低い声でうめいた。
 その声には、露骨なまでに不満の色がにじんでいた。
「むくれなさんなってぇ。で、村はまだかぃ?」
「もうすぐ着くよ……」
 さらにしばらく歩いたところでガダンに聞かれ、アシュロは唇を尖らせたまま不貞腐れ声でそれだけ返す。
 陽もそろそろ暮れてきた。そんな時になって、ようやくタツカ村が見えてきた。
「おお、アシュロ。遅かったじゃないか。何かあったのかね……?」
 村の入り口まで来ると、提灯を片手に持った壮年の男性が立っていた。
「ああ、すんません、キセドさん。外で、ちょっと……」
 キセドはタツカ村の代表を務めている男性である。
 今日、アシュロが村の外に出ていたのも、彼から任された近くの町への用事があったからだ。
「ふむ……? おや、あんたさんは?」
 キセドはガダンに気づき、提灯を彼に向けた。
「俺ァガダンってモンさァ。ほどき屋さぁ」
「ほどき屋だって……? ほどき屋なんかが、ウチの村に何の用事があるんだね」
 アシュロと同じくキセドもまた驚き、そして警戒する。
 きっとそれは、ほどき屋という名に対するありふれた反応だった。
「……リィエのやつが依頼したんだってよ」
 憮然とした様子でアシュロが言うと、そこにさらなる闖入者がやってきた。
 火を灯した提灯を片手に、パタパタと背の低い少女がその場へと姿を現す。
「リィエ!」
 アシュロが呼んだ少女の名は、まさにガダンの依頼人その人の名であった。
「リィエ? おぉ~、おまえさんが竜社の宮司さんかぃ」
「はい、そうです。竜宮司のリィエといいます。あの、あなたがほどき屋のガダンさん、ですか?」
 リィエは小柄な少女だった。身を包んでいるのは宮司衣装という、社の者であることを示す衣服だ。
 提灯に照らされたその顔からは、まだ子供と呼んでも差し支えないあどけなさを見て取れる。
 だが同時に強い意志を示すかのような太めの眉と、真っ直ぐな瞳の光が印象的だった。
「おい、リィエ。おまえいつほどき屋なんて呼んだんだよ」
「いつって、この間、だけど?」
「そんなの俺は聞いてねぇぞ、オイ!」
「だって、話してないもの」
「お前なぁ……!」
 もはや喧嘩腰になりつつあるアシュロに、リィエもリィエで退くことなく言い返す。
「ちょっといいかい、リィエちゃん。ほどき屋については私も聞きたいんだが」
 だが、そこにキセドが割り込むと、リィエは一気に勢いを失った。
「キセドさん。あの、この人は――」
 地面が揺れたのは、そのときだった。
「う、ォ!」
「またか……!」
 地震はほんの数秒ほどだった。しかし、村の方からも村人たちが騒ぎ出す気配が伝わってくる。
「リィエ、大丈夫だったか?」
 アシュロはリィエを支えるようにしてその肩を掴んでいたが、彼女は顔色を蒼白にして呟いた。
「行かなくちゃ……」
「おい、リィエ!」
「明日説明するから! ……ガダンさん、ついてきてください!」
 アシュロの制止も聞かず、彼女はそのまま走り出してしまった。
 それまで口出しをしていなかったガダンも、「あいよぉ」と彼女に続いて駆けて行った。
「……聞いてねぇぞ、俺ァよ」
 遠ざかる背中へと漏らした少年の声には、険しいものが混じっていた。


●ガダンへの依頼
 竜社へと続く道は、なだらかな坂道になっていた。
「すみません、いきなり」
「いいってことよぉ。よそ者なんて信用できねぇだろうしねぇ」
 申し訳なさげに謝るリィエに、ガダンがケラケラと笑う。
「クァ」
 と、ユニも一声鳴いて、リィエが彼の肩に留まる白鴉に気づいた。
「あら……、その子、もしかして『式魔』ですか?」
「お、分かるのかぃ?」
「クァ」
 ユニが鳴いて、一度だけ翼を開いた。
「しかし、竜宮司にしちゃあ若いねぇ、おまえさん。巫女じゃなくて宮司ってのも驚きだぁ」
「ええ。その、本当は巫女だったんですけど、ちょっと前に宮司になったばっかりで」
「先代は?」
「……父が先代だったんですけど、病で」
「おっと、そりゃ悪いこと聞いちまったねぇ」
 頭を下げるガダンへ、リィエはゆるりと首を振って、少しばかりの苦笑をその口元に浮かべた。
「いえ、天命だったんだと思います。それと、母も私が産まれたときに……」
「おまえさんが継ぐしかなかった、と」
「ええ」
 話しているうちに坂道を登り切ると、小高い丘の上に建つ竜社がガダンの目にも見えてきた。
 まだ完全に日が暮れる前、それなりの大きさを持った薄影に覆われた竜社が彼の前に姿を現す。
 見るからに古びた木造の社だった。
 境内へ入ると、本殿前で左右に一つずつ置かれている翼を広げた雄々しい竜の像が目に入った。
「こりゃあ、随分年季の入った飛竜像だなぁ」
「……分かるんですか?」
 意外そうに大きな瞳をぱちくりさせている彼女へ、ガダンは「まぁなぁ」とうなずいて右側の飛竜像を観察する。
「第三王朝期ってところかい? すげぇなァ、軽く五百年は越えてそうだぁ」
「随分、お詳しいんですね」
「応よ。竜神様にゃちぃと興味があってなぁ」
 飛竜とは、竜神の言葉を大地に伝える役割を持つといわれる小竜だ。
 しかし、名が知られているわけではない。この像も竜神信仰が特に篤い地方でしか見られないものだ。
「俺っちがほどき屋になったのも、竜神様の遺跡とか見たいからなんだよなぁ」
「そう、だったんですか……。面白い人ですね、ガダンさん」
「そうかぃ? ありがとさんよぉ。んじゃ、そろそろ詳しい依頼内容、聞いとこうかぁ」
「――そう、ですね」
 本殿の門前。いきなり話を変えられて、しかしリィエは驚くこともなく表情を引き締めた。
 彼女が錠前を外して取っ手を引くと、古木が軋む音がして、扉がゆっくり開いていく。
「どうぞ」
 その向こう側からガダンを出迎えたのは、壁に並ぶ提灯の明かりだった。
 照らされた内部の奥に、丁寧に手入れされていることが一見して分かる金属製の立派な祭壇が見て取れる。
 祭壇の上にはやけに大きな物体が鎮座していた。
「あれが、タツカの竜社でお祀りしている御神体です」
 告げるリィエの声にも、どこか誇らしげなものが混じっているように聞こえる。
「この、どデケェ卵が、御神体かぃ……?」
 そう。それは巨大な卵だった。
 大きい。実に大きい。台座の上に安置されているその卵はガダンよりも大きいだろう。
 質感は重々しく、しかし表面はなめらかで、鈍い銀色のそこに提灯の明かりが照り返していた。
 さしものガダンも、御神体たるこの卵を前にしては仰天せざるを得なかった。
「竜神様の卵である、と伝えられています。六百年以上前から祀られています」
「六百年、かぃ……」
 それが事実ならば、ここはガダンがこれまで巡ってきた竜社の中でも最古ということになる。
「……ガダンさんへのご依頼は、この御神体に関わるものです」
「ほぉ?」
 竜神の卵に釘付けになっていたガダンの目が、その一言に反応してリィエの方を向いた。
「さっき、村の前で地震がありましたね」
「ああ、あったねぇ」
「あの地震はここ一か月ほど起きるようになったものでして」
「前は、なかったと?」
「はい。……それと」
 と、リィエがそこで言葉を繋ぎつつ、歩みを進めて祭壇の裏側に回った。
「こちらに、どうぞ」
「応よ」
 手招きされて、ガダンもまた祭壇の裏へ赴いた。そしてリィエが指さす方を見てみると、
「……ありゃあ、ヒビ、かい?」
「はい。最初に地震が起きた日に入りました」
 御神体の卵に、一筋の亀裂が入っているのが見えた。
 それは、表からは分からない位置にあった。小さくなく、浅くもなさそうな亀裂だった。
「村の連中はぁ?」
「知ってます。それで……」
 何となくだが、ガダンは彼女が言おうとしていることが分かる気がした。
「地震が、この卵のせいじゃないか、ってぇ?」
「はい。御神体が孵ろうとしていて、そのせいで地震が起きてるんじゃないか、って」
「ほぉ~。怖がりさんなこって」
「村では、竜神の卵かどうか、不安視する声も出てきていて……」
「卵にヒビが入ったのは?」
「今回が初めて、みたいです。社の記録を調べても、前例はありませんでした」
「そうかぃ。ならまぁ、怖くもなっちまうかねぇ」
 閉鎖された社会である村は、とかく変化を忌み嫌う。
 それはよそ者に対する村人たちの態度にも出るし、こうした前例のない事態でも現れ出てしまうものだ。
「で、御卵様が孵る前にブッ壊そう、みたいな話が出てるから守ってくれ、っと?」
「え、あ、はい! ……よく、分かりましたね」
「おおよそ想像はつくさぁ」
「そうですか。……でも、それだけじゃありません」
「ん~?」
 リィエが卵を見上げる。触りはしないが、そっと軽く手を差し伸べて、
「もし、この卵が孵ったとき、産まれたものが何かよくないものだったら、それを退治してほしいんです」
「……いいのかぃ?」
「はい。御神体は大事ですけど、今を生きてる皆さんのことも大事ですから」
 そう言い切るリィエの顔に憂いはなかった。彼女は心底からの言葉として、それを言っている。
 ガダンはそんな彼女に、小さな意地悪をすることにした。
「だったら、この御卵様よぉ、今壊しちまえばいいんじゃねぇかぃ? 不安なら、それが最善だろぉ」
「それは……、ダメです」
 一瞬迷うようなそぶりを見せつつ、だがリィエはすぐにかぶりを振って拒んだ。
「どうしてさぁ?」
「だって、この子は孵りたがっているから」
 それはガダンも予想していなかった答えだった。
「六百年、私の一族はこの卵を見守ってきました。だからこの卵が孵るなら、それを見届けないといけない気がするんです」
「ククッ、そうさなぁ。そりゃあ、そうだわなぁ」
 リィエから当然のように返された、育ての母としての言葉。
 ガダンはこみあげてくる笑いを抑えつつ、彼女と同じように卵を見上げた。
「だったら仕方がねぇよなぁ。卵がもうすぐ孵るなら、それまで誰かが守ってやらねぇとなぁ」
「はい。どうか、よろしくお願いします」
「応よ。……クック、面白い仕事になりそうだぁ。なぁ、ユニ?」
「クァ」
 楽しげに笑うガダンに応じるように、肩に留まった白鴉が一声鳴いた。


●アシュロの憂鬱
 翌日のことだった。
 早朝、ガダンが扉を開けて本殿に入ると、そこにはすでに一人の少年の姿があった。
「……よぉ」
 扉の軋みに気づき、振り向いたアシュロが頭も下げずに短く挨拶をする。
「お、早いねぇ、少年。朝のお参りかぃ?」
「おう……」
 ガダンが気さくに話しかけるも、しかし、アシュロの返答はやや重苦しい。
 肩をすくめつつ、ガダンは歩みを進めて少年の脇に立った。
 彼は、御神体の卵を無言で見上げていた。
「竜神様の卵、らしいねぇ」
「ああ」
 背後にかかるガダンの言葉を聞き、アシュロはうなずく。その声は、やはり低いままだった。
 そしてしばし、数秒にもならない静寂があって、
「その卵、嫌いかぃ?」
 ガダンが不意に、二度目の問いを投げてきた。
「……あんまり」
 アシュロはそれを驚かずに聞いて、そして抑揚のない声で短く返す。
「そりゃまた、何でかねぇ?」
「アンタにゃ関係ねぇだろうが……」
「宮司のお嬢ちゃんは、この卵に大層執心してるようじゃねぇか、なぁ、少年」
「……チッ」
 ぐいぐいと突っ込んでくるほどき屋に、アシュロは答えあぐねて舌を打つ。
 声こそ聞こえないが、後ろでガダンが笑っているのを気配で感じた。
 見透かされているような心持ちになってしまい、少年は肩越しにほどき屋を睨みつけようとする。
 だがそこに見えたのは、少しも笑っていないガダンの顔だった。
「俺が、信用できねぇかぁ?」
 そう言われても、アシュロは沈黙しか返せない。
 ガダンは鉄槍は持っていないものの、しかしぎゅっと拳を握るとそれだけで晒した腕に力こぶができていた。
「これでも、そこそこの腕前たぁ自負してるんだがねぇ」
 その声に、アシュロは素人ながらみなぎる自信のようなものを感じた。
「……違ェよ」
「お?」
「強いのは知ってる。けど、そうじゃねぇんだよ」
 彼に救われた自分である。ガダンの強さなど、言われるまでもないことだった。
 違うのだ。少年が声を、態度までをも固くしている理由は、ほどき屋にあるわけではない。
「なら、何が気に食わないってんだい、少年よぉ」
 ガダンがそれを聞いてくるのも、当然のことだろう。
 しばし、卵を見上げたままそこで間を空けて、やがて彼は意を決して口を開いた。
「あいつが――」
「あン?」
「……何でもねぇよ」
 だが、彼はそこで語るのをやめた。赤の他人に話すようなことではないと思ったからだ。
 しかしガダンは、そんな彼を的確にえぐってくる。
「そうか。お前さん、自分じゃないのが気に食わねぇんだなぁ?」
 アシュロの身が竦む。悪寒にも近い感覚が、彼の身を走り抜けた。
「なっ、違……!?」
 違う、と、断言できずに言葉は止まって、そんな少年を、ガダンは微笑ましげに見ていた。
 アシュロが羞恥に頬を紅潮させる。ぶん殴ろうか、と、彼は拳を握りかけた。
 しかし間一髪。そこに竜社の宮司が姿を現す。
「あれ、アシュロ、もう来てたの?」
「あー! おまえ、リィエ! オッサンのこと、何で俺に話さねぇで話進めたんだよ!」
 リィエの登場に、アシュロの表情は一変し、彼は早速昨日の件を蒸し返した。
「な、何よ、こんな朝から……。挨拶もなしに」
「はいはい、おはようさん! はい挨拶した! じゃ、全部聞かせてもらうからな!」
 勢い任せで声を張り上げるアシュロに、リィエは若干気おされつつ、声を詰まらせた。
「分かったわよぉ……。それより、朝ごはんの用意、できてるんだけど……」
「ゴチになりまーす!」
「ホント、現金なんだから……。あ、ガダンさんの分も、ありますからね」
 ガダンが、呆れ顔のリィエを見ていると、気づいた彼女はそう言って笑いかけた。
「お、いいのかねぇ、二人っきりのところに水差しちまって」
「オッサンの食事は後で――」
「あ、じゃあアシュロは後にしますから」
「お前なぁ!?」
「何よぉ」
 互いに顔を見合わせて、少年と少女は睨み合っている。
 それこそ、いつもの朝の光景だ。アシュロがずっと繰り返してきた、彼女との日常だった。
「クックック、見てて飽きねぇなぁ」
「笑ってんじゃねぇぞ、オッサン!」
 そんなやり取りを交わしつつ、三人は本殿裏の屋敷へ。そこが、リィエの住居だ。
 一人で住むには少々広めの居間で、今だけは三人で朝食をとる。
 炊いた白米に、山菜の味噌汁とぬか漬け。
 塩を振って焼いた川魚の軽く焦げた匂いが、アシュロの空きっ腹を直撃した。
「ほぉ~、こりゃ美味いねぇ。リィエちゃん、いい嫁さんになるぜぇ」
「そんなことないですよ、もぅ……」
 笑いながら言うガダンに、リィエはほんのり頬染めて、何だかまんざらでもない様子。
 アシュロは仏頂面で焼き魚を頭からかじって骨諸共噛み砕いた。美味いと思うが、味があまり分からない。
 気に食わない。どうにもこうにも気に食わない。
 ガダンには昨日助けてもらった身だが、それはそれとして、気に食わないのだ。
「んな怖い顔するなよぉ、少年」
「うるせぇよ」
「アシュロ……」
 取り付く島もないアシュロの態度に、さすがにリィエも不安げな面差しになる。
 だが、そこでガダンの肩に留まっていたユニが、いきなりアシュロの方へと羽ばたいてきた。
「お、わっ、何だよ!?」
 仰天して身を固くする彼の肩にユニは留まって、すると――
《うちの人が、ごめんなさいね》
 聞いたことのない女の声が聞こえてきた。
「え、何だァ!?」
 驚きの余り立ち上がり、露骨に狼狽する彼の耳に、その女の声はさらに続けて聞こえてきた。
《驚かせてしまったかしら? でも安心してくださいね。危害を加えるとかではないですから》
 落ち着き払った深みのある女の声。それは、すぐ間近から聞こえてくる。
「……も、もしかして?」
 アシュロの首がぎこちなく動いて、その視線が肩に留まる白鴉に固定された。
《そう、その子が私。私はユニ。秘術士です》
「ひ、じゅつ……?」
 秘術士。大町の方で幾度か聞いたことがある言葉だった。
 秘術とかいう不思議な術を使う人間で、猫や犬、鳥などの動物を操ることもできるという。
《この子は『式魔』といって、私が操っている鴉なんですよ》
「何で、また……?」
《私、ちょっと身体のことで事情がありまして、外に出られないんです。だから、この子に目と耳の代わりをしてもらってるんですよ》
「……そっか。大変だな」
 話を聞けば、納得はできた。大きな病か何かなのだろう。
 まだ若干の驚きを心に残しつつも、ユニの現状に同情を寄せるくらいの落ち着きは取り戻せた。
 だが気持ちが落ち着けば、新たな疑問が生じる。
「何で、今そんなこと言うんだ?」
《今じゃないとダメかなって思ったんです。あの人、イタズラ好きなところあるから》
 ユニが『あの人』と呼ぶのは、ガダンのことだろう。
「あんた、一体……」
《私ですか? 私は、ガダンの妻です》
「はァ~!?」
 予想だにしていない答えが返ってきて、のどの奥から迸る素っ頓狂な叫び声。
「もぉ、アシュロ! ご飯食べてからにして!」
 さすがに我慢しきれなくなったようで、リィエに叱り飛ばされてしまった。
《クスクス》
「笑ってんじゃねぇよォ!」
 助けを求めるような、彼の悲鳴。それに構わずガダンは味噌汁を啜っている。
「何なんだよ、一体よー!」
《ごめんなさいね、ただ》
「ただ、何だよ!」
《ガダンがリィエさんを取るようなことはないから、安心してほしいって伝えたかっただけです》
「~~~~~ッ!」
 それは、声にならない絶叫だった。
「食事中は静かにしなさい!」
 リィエに再び叱られて、だが当然それどころではなく、アシュロの平和な朝は過ぎていき――
「もうさー、夫婦そろって……、ホント何なの……」
 屋敷の縁側でぐったりしていた。
「おー、うちの嫁がすまんなぁ、少年」
「槍の素振りしながら片手間に謝ってんじゃねぇ!」
 裏庭にて、ガダンがヒュンヒュンと器用に鉄槍を躍らせている。その動きには一切の淀みがなかった。
 それどころか、洗練された動きは舞のようですらあり、これがただの練習だとは思えない見事さがあった。
「器用だな、オイ……」
「ちょいと練習すりゃ誰だってこんくらいはできるせぇ?」
「ホントか――」
 アシュロが言いかける。しかし、言い終えることはできなかった。
「お、っと……!」
 地震が起きたからだ。
「チッ、でけぇなぁ」
 近くの柱を掴むアシュロと、槍を地面に突き立てて舌を打つガダン。
 揺れは確実に昨夜のものより大きく、アシュロの胸中に大きな不安が生じた。
 そこに、悲鳴が聞こえてきたのだ。本殿の方からだった。
「……リィエ!」
「今度はなんだぁ?」
 男二人が慌てて本殿へと向かう。
 駆けつけた二人の目に飛び込んできたのは、零れた供え物の隣で尻もちをついているリィエの姿だった。
「リィエ、大丈夫か!」
「ご、御神体が……」
 駆け寄るアシュロも見えない様子で、彼女は祭壇を見つめていた。
 その視線を追うように、彼もまた祭壇を見る。すると――
「ひびが……」
 すると、御神体の卵に入っている亀裂が見えてしまった。
 大きくなったヒビが、卵の表側にまで広がってしまっている。
「何なんだよ、チクショウ……」
 胸に湧いた不安の波に、アシュロは毒づくことくらいしかできなかった。


●暗鬼
「さて、どっから調べたもんかねぇ……」
 昼間。先刻の地震より数時間が経過していた。
 リィエとアシュロを竜社に残し、ガダンは村へと向かおうとしているところだ。
《村の人、何か知っているでしょうか》
「さてなぁ……。知ってても話してくれるかどうかなぁ」
 経験上、こういった村の民は外部の者には辛辣だ。
 何か知っているとしても、それを素直に話してくれる可能性は低い。
「やっべぇ匂いすんだよなぁ。今回の一件よぉ」
《あなたのそういう勘、当たりますものね……》
 肩に留まる『式魔』を介し、妻の声が耳に響く。意識せず、ガダンは小さく苦笑を漏らした。
「やんなっちまうねぇ、全くさぁ……」
 彼はそう呟いて足を止め、
「そう思わねぇかい、村の皆さんもよぉ?」
 近くの茂みへと、目線を送った。
「……な、何で分かったんだ」
 かすれた声と共に、そこから男が一人、姿を現す。
 それに続いてさらに一人、二人、三人、四人。合計五人の男がガダンの視線の先にいた。
「素人さんのやり方なんてなぁ、早々うまくはいかねぇさぁ」
「だから言ったじゃないかね、無理だと……」
 観念したようにそう言ったのは、五人の中の最年長とおぼしき初老の男性。
 昨日見た覚えがある、キセド、という男だったか。
「おまえさんが、村の長かぃ?」
「ああ、私なんかがおこがましいとは思うが、村の代表を務めさせてもらっているよ」
「で、その長さんも含めた連中が、俺なんかに何の御用があるってぇ?」
 単刀直入。ガダンは、彼らが隠れていた理由など特に聞くこともなく、まずそれを尋ねた。
「チッ、ほどき屋風情が。だったら、言わせてもらうけどな」
 露骨に悪態をつきながら、キセドの隣にいた中年の男が一歩前に出てくる。
「金は払ってやる。竜社の卵をブッ壊してこい」
「お断りさぁ」
「何だと……?」
 肩をすくめるガダンの答えは気に障ったか、男は眉を跳ね上げさらに歩み寄ってきた。
 そして男が手を伸ばし、ガダンの胸ぐらを掴む――、その前に、鉄槍の穂先が男の鼻先に突きつけられていた。
「やめとけってぇ」
「な……!」
 鼻の先端をつつく尖った感触に、男は何も言えなくなった。
「言っとくがよぉ、おまえさんらを仕留めるのに、一分はかからんぜぇ?」
「そ、そんなことして許されると……」
「どうとでもならぁ」
 ケロリと言い切るガダンの物言いに、キセド含めた五人全員がその顔を青ざめさせた。
 突っかかってきた男がその場にへたり込んで、ガダンの目はキセドへと向く。
「……私らだって、怖いんだよ」
 無言の圧力に表情を固めながらも、キセドはうめくように言った。
「御卵様はずっとこの村の守り神だったんだ。それが割れそうになって、しかもこんな地震だ……」
「そうだ、御卵様だって中に何が入ってるか分かりゃしねぇ!」
「バケモノだ、きっとバケモノが産まれるんだ!」
 キセドの言葉を皮切りに、村人たちは口々に不安を訴えた。
 彼らは彼らなりにあの御神体の卵への信仰を持っているようではあった。だが今はそれが悪い方向に向いている。
 不安は疑心となって、それが仄暗いものへと通じてしまっているのだろう。
「――それに、あの黒いのだぁ」
「……んん?」
 訴えの中に、聞き捨てならないものがあった。ガダンが反応する。
「な、なんだよ……」
「今、なんつったぁ?」
 見られて臆したか、後ずさりするその村人に、ガダンは目を細めて再度言うように促した。
「だから、朝の地震の後に、黒い煙みてぇのがよ……」
「その黒い煙、どこで見た」
「ひ……! あ、あっちだ!」
 真顔でズイと迫ってくるガダンに震え、男が指さしたのは竜社がある丘のさらに向こう側。
「は、畑を見に行ったら、その途中で見たんだよ……。その、丘の斜面から黒い煙みてぇのが……」
《――ガダン、これは》
「応よ、ユニ。行くぜぇ」
 言うが早いか、ガダンはその場で男が指した方に向き直り、走った。
「おまえさんらは村にいろよぉ!」
 そう言い残し、鍛えぬいた脚力で駆ける彼の姿はすぐに村人たちから見えなくなった。
 ことの成り行きについていけず、残された男たちがポカンとしていると、キセドがおずおずと口を開く。
「村に戻ろう。危ないことは、専門家に任せておくべきだ」
「そうは、言うけどよぉ……」
 村人たちが顔を見合わせる。
 キセドの言うことももっともではあろうが、しかし、一度根付いた不安と、そこからにじみ出るように湧く恐怖は拭い難い。
 そして恐れに苛まれた心は、やがて暗さの中に鬼を生じさせてしまう。
「……なぁ」
 ガダンに突っかかった村人が言い始めたのが、最初だった。
「今だったらあのほどき屋、竜社にはいないよな……?」
「……おい、何を考えているんだね」
「村から人を呼んでこようぜ。あいつが帰ってくる前に、御卵様を壊しちまうんだよ」
 その提案に、場の空気は明らかに張りつめた。そして背中を押すように、地面が揺れた。
「ひっ!?」
 飛び上がらんばかりに驚いて、キセドもそこに座り込んだ。
 揺れが大きい。そして長い。
 五人は立っていることもできず、その場にうずくまって揺れが収まるのを待った。
「こ、これで分かっただろうが!」
 揺れがおさまったあとで、卵の破壊を提案した中年男が、唾を飛ばして声を張り上げる。
「御卵様だよ、御卵様さえ壊しちまえばいいんだよ。孵る前に殺しちまえばいいんだって!」
「あ、ああ……」
「そうだな。村を守らないと、な……」
 きっと、彼らに反論の余地はあった。提案を拒むこともできただろう。
 しかし恐怖を与える現象があって、その原因かもしれないものがあるのならば、強くは出られなかった。
 この怖さから逃れたい一心で、提案した男も、それ以外の者も、御卵様に責任を押し付けた。
「……キセドさん」
 他四人の視線を身に受けて、キセドはしばし黙して俯いた。
 しかし数秒、彼は顔を上げると、低く重く、うなずいたのだった。
「分かった。すぐに人を集めてくれ」
 彼もまた、見えざる恐怖に囚われて心に鬼を生じさせたうちの一人であった。


●彼の決断
 その頃、竜社本殿ではリィエとアシュロが真っ向からぶつかっていた。
「おら、逃げるぞ。準備しろって!」
「逃げるなんてイヤよ!」
 二人が口論している理由は、無論、先刻の地震だった。
 これまでにない激しい揺れに本殿の飾りもいくつか落ちて、降ってきたほこりが床を汚していた。
「ここにいたら危ないっての。おまえだってわかってんだろ!」
「分かってる。でも、ダメ。私がここを離れるのは、ダメ」
「……卵、か?」
「うん」
 いっとき口論は止まって、二人は同時に御神体の卵を見る。
 先ほどの地震の際、さらに広がったヒビはもはや全体に到っていた。いつ割れてもおかしくないように見える。
「何が産まれるかも分からねぇんだぞ……」
 アシュロが抱える不安は、その言葉にこそ集約される。彼は、リィエの肩が震えていることにも気づいていた。
「何かあってからじゃ、遅いんだぜ?」
 気の強いところはあっても、リィエは所詮村娘だ。今だって明らかに怖がっている。顔色を見れば瞭然だ。
 だが、それでも――
「ごめん」
「……ッ、なんでだよ」
 返ってきたその一言に、アシュロはキツく顔をしかめた。
「危ないのを分かってるクセだろうが!」
「でも、この子を置いていけない……」
「あのなぁ、いくら大事な御神体だからって――」
「違うよ、家族だから放っておけないんだよ!」
 振り仰いだリィエの目に光る涙。アシュロは、絶句する。
「家族、って……」
 彼は卵を見上げた。大きな卵だ。石のようにしか見えない卵だ。これが、彼女の家族?
「おかしいって、自分でも分かってる。でもこの子は生きてる。私、感じるの……」
 立ち上がって、そっと、リィエの指がヒビの入った卵に触れた。
「この子、産まれたがってる。孵りたがってるの……。だから私、離れられない……」
「……馬鹿、野郎!」
 喉の奥から声をいっぱいに振り絞って、彼はリィエを叱った。
「それでおまえ、死んだらどうするんだよ!」
「…………」
 言葉を重ねても、リィエは動こうとはしなかった。
 彼女は言葉で動かない。それを分かっているからこそ、アシュロは余計に怒るのだ。
 二人の間で言葉が失せる。そこに落ちる奇妙な静寂。
「だったら、壊すしかないじゃないかね」
 それを破る第三者の声は、あらぬ方から聞こえてきた。
「キセドさん……?」
 外へと向けて開け放たれた本殿の扉。その向こう側に、キセドと村人たちの姿があった。
 村人たちは各々、その手に鍬やら木槌やら武器になりそうなものを携えている。
 剣呑な空気を感じ取り、アシュロがリィエの前に立った。
「お参りに来た、っつぅ雰囲気じゃねぇな」
「ああ。そうだね」
 キセドが見せる顔つきはいかにも険しいものだった。
 追い詰められた焦燥の色を、彼だけではなく後に続く村の男たち全員が浮かべているのだ。
「じゃあ、何をしに?」
「御卵様を壊しに、だよ」
 彼が抱いていた予感はまさに的中した。自分の後ろで、リィエが息を呑むのが気配で伝わってくる。
「そんな、どうして……」
「どうしてもこうしてもねぇだろ!」
 いきり立った村の男の一人が、手にした木の棒で竜社の扉を引っぱたいた。
 バン、という乾いた衝撃音が本殿内部に響き渡る。
「どういうことだよ、キセドさん」
「こういうことだよ、アシュロ。リィエも。……そこを、どいてくれないかね?」
「お、お断りします……」
 身を竦ませながらもリィエが拒むと、村人たちの方から露骨な殺気が流れてきた。
「御卵様はこの村の守り神だぞ? それを壊したら……」
「その御卵様が全ての元凶かもしれないんだぞ、アシュロ!」
「……チッ」
 アシュロ自身、それは抱えている疑念でもあった。そしてそこを突かれてしまえば、言葉に窮してしまう。
 だから、代わりに反論したのは、リィエだった。
「勝手なことを言わないでください!」
「リィエ、しかしだね……」
「なんてばちあたりなことを……! この卵は、ずっとずっと、村を守ってきてくれたのに!」
「だったら村を守るために壊してもいいだろうが!」
 だが飛んできた罵声が、リィエの心を直撃した。
「な……」
 驚き、目を瞠る。彼女に怒鳴った村人は、呼吸を荒げてさらに汚い言葉を叩きつけてきた。
「その卵が本当に竜神の卵かどうかなんてわからねぇだろうが! 禍ツ身の卵だったら、どうすんだよ!」
「そんな……!」
 それはリィエにとって、裏切りにも等しい言葉であった。だが村人が抱える恐怖を端的に示す言葉でもあった。
「皆、怖いんだ。分かってくれないかね、リィエ」
 キセドが諭すように言ってくる。しかしそれとて、もはや暴力を背景にした脅しでしかなかった。
「分かるわけねぇだろ、そんなの」
 拒んだのは、しかし彼女ではなくアシュロだった。
 村人たちは全ての責任を卵に押し付けることで恐怖から逃れようとしている。
 アシュロ自身、それが分からないわけではない。
 だが、納得するかどうかは別である。
 さらに一歩前に出て、彼は大きく両手を広げて己を壁とした。
「リィエ」
「え……?」
「おまえ、どうせここから離れる気、ないんだろ」
「……うん。私は――」
「クソが、だったらよぉ……!」
 彼女の答えを全て聞く前にアシュロは大きく舌を打ち、震える足に握った拳を叩きつけた。
「あのオッサンが戻るまで、俺が守ってやるしかねぇだろうが!」
 少年は、村人たちへと啖呵を切った。それが、彼の決断だった。


●凶報を告げるために
 悪い予感が的中した時、怒りよりも先に感じるのは、
「やっぱりなぁ……」
 という、ある種の諦観だった。
《どう、します?》
「どうしますもこうしますもなぁ~」
 妻に問われ、ガダンは独特の抜けた調子でそう返し、手の中にある槍を旋回させる。
 たった今、彼の身は宙に躍っていた。
「――まずはこっちを凌ぐかねぇ」
「ギヂギヂギヂギヂギヂギヂ!」
 眼下に響く、耳障りな金属音にも似た濁声。
 アシュロを襲っていたものよりもさらに大きな、漆黒の百足がそこにいた。
 大百足は長い体躯をうねらせて、落ちてくるアシュロを喰らおうとアギトを大きく開く。
「弱いとこ晒してくれてぇ、ご苦労さん、っとぉ!」
 体勢の維持もままならない空中で、だがガダンは思い切り身を捻って槍を投げ放った。
 空を重く裂いて、槍は大百足のアギトに命中。その頭部を派手に砕いた。
 力を失った百足の巨体が、大きな音を立てて地面に落ちた。
「……ふぃ~」
 地に降りて、身を濡らすのは大量の汗。額のそれを服の袖で拭い、彼はそちらに目を向け直す。
 竜社がある丘の真下に彼はいた。切り立った崖になっていて死角になっている場所だ。
 村からも死角になっていて、今まで『ソレ』は見つからなかったのだろう。
 彼が見つめる先にあるのは、ちょっとした大きさを持った洞穴だ。
 闇がわだかまり中が見えないその穴の入り口から、朦々と立ち上がっている黒い煙のような『ソレ』。
《地震もこれのせいだったんですね……》
 己の『式魔』の視界を介して、ユニが固い声で言う。
 地震はここに来る間にも起きていた。間隔が、明らかに狭まっている。
《不味い、ですね》
「ああ、『孵りかけて』やがるなぁ……」
 見上げる崖の上には竜社。そこにいるであろうリィエやアシュロも、このままでは危うかった。
 一刻も早く戻る必要がある。だが――
 地面に、これまでと違った手応えの揺れが起きる。
「チィッ!」
 ガダンが後ろに飛び退くと、直前までいた場所の土が盛り上がり、爆ぜてそこから何かが現れる。
「ギヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂヂ!」
 たった今倒した大百足。それと全く同じものの、別の個体。
「禍ツ身、中魔・『鋼切百足(カナキリムカデ)』!」
 本来であればこんな人里が近い場所に、しかも複数存在するような禍ツ身ではない。
《――やはり、眷属》
「足止めのつもり、ってかぁ?」
 ガダンが槍を大百足に向けようとしたとき、また、
「…………ッ!」
《この揺れ、大きい……! まさか……!?》
 地は震えた。しかもそれは、これまでにない大きさの揺れだった。
 ガダンとユニ、両者の間を駆け抜ける最悪の予感。
 えてしてそういったものは、当たってしまうものだ。が――
「ユニ、行けぇ!」
《はい! あなたもどうか、ご武運を!》
 ガダンは妻の『式魔』を空へと放つと、苦み走った笑みを浮かべて大百足へと振り返った。
 悪い予感が当たったとき、大体の場合感じるのは諦観だ。
 しかし、それが的中しようとも決して諦めてはならない場合も、当然のことだがあるのだ。
 今がそのとき。
 槍を腰だめに構えると、ガダンはアギトを鳴らしている百足に向かって小さく毒づいた。
「おまえさんらにやる餌なんぞ、どこにもありゃあしねぇんだよぉ」


●災厄、ここに孵りて
 竜社全体が揺さぶられる中、ミシリ、と、音がする。
 それは竜社自体が軋む音――ではなかった。
「卵が……!」
 御神体の卵に入るヒビがまた大きくなっていた。
 それを目の当たりにして、この激震よりもさらに強い衝撃が、村人を襲った。
「潰せ! 卵を壊せェェェ!」
 狂ったような声を出し、誰かが誰かに命じると、村人たちが凶器をかかげて竜社に踏み込んでくる。
 だが祭壇にしがみついて、リィエは自らを壁にしようとした。卵を庇おうとした。
「卵一つに怯えやがって! おまえら、自分が情けなくねぇのかよ!」
 彼女を守ろうとして、アシュロが必死に訴えた。
「皆、卵を破壊するんだ、それで丸く収まる!」
「「「おおおおおおおお!」」」
 キセドはしかし、無情だった。
 彼の号令に、村の男たちがいよいよ竜社の中に突っ込んできた。
「アシュロ、もういいよ……、逃げて」
「うるせぇよ、そのままそこにいろ。俺が、守るからよ!」
 六百年以上もこの村を見守ってきた竜社が、半ば狂気に駆られた村人たちに踏み荒らされていく。
 そこにあるのは恐怖に歪み、我を忘れた人々の狂獣の如き様相だった。
 村人たちが、卵のある祭壇に達しようとしたそのとき、白鴉が飛び込んできた。
「クァァ――――ッ!」
 白鴉の鳴き声が竜社本殿を満たす。
「「ひぅっ」」
 村人たちが、その声に意識を叩かれ身を竦ませた。
「ユ、ユニ……?」
《大丈夫、ちょっと、秘術でおどかしただけですから》
 アシュロの肩に留まると、ユニ本人の声が聞こえてくる。
 あれだけ殺気立っていた村人たちが、鴉の一声で完全に固まってしまっていた。
《それよりもお二人とも、すぐにこの場から逃げてください》
「逃げろ? 何で? 村の連中だったら、あんたが今……」
《村の人々がどう、という話ではありません。もう本当に時間がないんです。早く逃げないと、孵ってしまう!》
 ユニの声に、余裕らしい余裕が一切感じられなかった。
 その切迫した物言いに、アシュロは素人ながら今がどれだけの危機なのかを肌で感じた。
 しかし意識に引っかかる、孵ってしまうという、彼女の言葉。
 彼は振り返って、割れかけている大きな卵を見やる。
「この卵……、ヤバイもん、なのか……?」
 もしそうなら、と、息を呑む。今も卵を守るとしているリィエに、今さらそんな残酷なことが告げられるか。
《――違います!》
 しかしユニはそれを否定した。
《私が言っているのは、御神体ではなく――》
 では、一体、何が。ユニの言葉が、アシュロには理解しきれない。
 口を開こうとして、ドクン、と。そこに伝わってきた気色悪い感触が、彼の動きを止めた。
 髄から悪寒が走り抜ける。ユニの悲鳴が耳にこだました。
《駄目、間に合わない。……孵る!》
 そして変化が起きた。
 バキバキと砕ける音が竜社本殿に響き渡り、建物がその土台からねじれた。
 下から弾けるように割れる床、露わになった地面に亀裂が生じて、そこからついに姿を現す。
『ギリリリリリリリリリリリリリリリリィィィィィィィィィィィィィィィッッ!』
 耳をつんざく鳴き声に、アシュロは両手で耳を押さえ縮こまった。
 土煙が視界を覆う。
 そして何も見えなくなる中、肌で感じる破壊の感触。
 竜社本殿に入りきらぬ巨体の『それ』が、本殿を中から破壊して勢いよく外へと躍り出た。
「な、なぁ! なんだよこれぇぇぇぇぇ!?」
 悲鳴は、やっと体が動くようになった村人のものだった。
 土煙が晴れて、アシュロがゆっくりまぶたを開く。
 空中に広がる土煙と、その向こうに霞む空が見えた。そして、空を割くようにして現れる巨大な長い影。
「……禍ツ身の、百足?」
 昨日、林で遭遇した巨大な百足。
 見た目だけでいえば、それによく似ていた。
 ただ、色が違う。
 昨日遭遇したものは血のような赤黒い体色をしていたが、こちらは白い。どこまでも白い。
 光沢を持ったその白色は、白銀色なのだろう。けれども綺麗とは思えない。
 見る者の生理的嫌悪を掻き立てる、毒々しい白銀色だった。
 そして、大きさが違う。
 大きい。ただひたすらに大きい。身の幅はそれこそ巨木の幹より太く、足一本にしても人一人を超える大きさ。
 地から伸びて空にうねるその身の丈は、もはやアシュロの視界に収まりきらない。
 山を一巻きできるといわれても納得できてしまうような、遠近感すら狂わせるありえない大きさだ。
《禍ツ身、天魔・『山喰鬼百足(ヤマクイオニムカデ)』……》
「てん、ま……?」
《禍ツ身の中で最上位、『天魔の鬼』の号を冠する最悪の禍ツ身です》
「て、天魔の鬼ィ!?」
 アシュロが驚くのも無理はない。
 それは御伽噺に語られる、天変地異を引き起こす巨大な怪異の名であるからだ。
「何でそんなのがいるんだ!?」
 アシュロの声は、自分でもわかるくらいに震えていた。
《……おそらく、この丘が卵だったんです》
「丘、が……?」
《ここはきっと、気脈を流れる大地の気が溜まりやすい場所。そこに潜り込んだ禍ツ身が、長い時間をかけて成長したのだと思います。その証拠に、禍ツ身に穢されて黒く染まった大地の気が、漏れ出ていました》
 その説明の半分も、アシュロには理解できなかった。
 ただ、目の前に現れたものがどうしようもない絶望的な存在である。ということだけは重ねて理解させられた。
「こんなの、どうすりゃいいんだよ!」
《……すみません。分かりません》
 虚ろにもらした呟きに、しかし返ってくる答えは無情なものだった。
《私もあの人も、天魔の鬼に出くわしたことなんてないんです……!》
 ユニの声は、とにかく悲壮だった。
 彼女自身も途方に暮れている。それがよくわかる声の調子。
 それ以上何も言えず、アシュロはきつく歯噛みした。
《逃げてください。今なら、まだ――》
「……逃げねぇ」
 促すユニに、しかし、アシュロは己の決断を翻すことはしなかった。
《そんな、どうして……!》
「決まってるだろ、そんなの」
 言い切り、そして彼は祭壇にしがみついたままのリィエの方を見ようとして、
「ば、化物……、化物ォォォォォオ!?」
「逃げろ、死ぬぞ、死んじまうぞ!」
「終わりだ、俺たちの村ァ、もう終わりだ! ヒィアアア!」
 叫び、嘆き、逃げだしていく村人たちの声が彼の耳朶を打つ。
 本能が逃げるべきだと告げていた。恐怖に、心が磨り潰されそうだった。
 村が終わる。故郷がなくなる。ともすれば己の命すら危ういこのときに、それでも彼はこの場を動かない。
「守るって、決めたんだよ」
 震える足を手で叩きながら、少年は決然と天魔の鬼を睨みつけた。
 そして決死の覚悟の中、一抹の冷静さを取り戻した彼は、ふとそこに新たな疑問を感じる。
「……どうして、動かねぇ?」
 卵であるこの丘から孵化し、その姿を白日の下に晒した白銀の鬼百足は、だが村人を襲うようなことはなかった。
 長大なその身を空に巡らせながらも、鬼百足は逃げまどう村人を完全に無視しているのだ。
 疑問を深める中、鬼百足のまなざしがこちらを向いた気がした。
「――まさか」
 走る戦慄。弾ける閃き。アシュロの視線が卵を見た。
「こっちを狙ってやがるのか!」
 彼が叫んだその時、御神体の卵にまた一つ、亀裂が入った。


●彼や彼女に出来ること
『ギリリリリリリルリリリリルリリリッ!』
 鬼百足の咆哮に、リィエは生きた心地がしなかった。
《逃げてください、お願いです。リィエさん!》
 ユニの言い分は分かるつもりだ。
 鬼百足はどういうわけか、御神体の卵に執心しているようだ。
 それが祭壇の上にある今ならば、もしかしたら逃げ切れるかもしれない。生きて脱出できるかもしれない。
「でも……」
 見上げる卵はもうヒビだらけで、孵りかけているように見えるのだ。
 今まさに産まれようとしている子を犠牲にする。そんな判断、できるはずがなかった。
《リィエさん、本当に死ぬんですよ!》
「…………ッ」
 ユニの言葉が心を叩きつけてくる。少女の身は恐怖に打ち震えた。
「――逃げるな」
 だがアシュロがそう言った。リィエの肩を、強く掴んで。
「おまえは、見届けるんだろ?」
「アシュロ、でも……」
《アシュロさん、今は自分の身を……!》
 と、ユニが反論しようとしたそのときに、リィエとアシュロは聞き覚えのある声に呼ばれた。
「お~~~~い! 君たち、何をしてるんだい、早く逃げないか!」
「キセドさん!?」
 血相を変えてその場にやってきたのは、鍬を手にしたキセドだった。
「さぁ、逃げるんだ。早くしないと本当に危ないぞ!」
「キセドさん、あんた、どうして……?」
「君たちが残っているからに決まっているじゃないか。何を言ってるんだ!」
 心外だと言わんばかりの反応だった。
「でも、さっき……」
「あんなものは御卵様が地震の原因だと思っていたからだ! 私はね、ただ、村を守りたいだけなんだよ!」
「あ……」
 言われて、リィエはハッとする。そして思い返す、ここにやってきた村人たちの必死さ。
 それは恐怖に根差したものだったろう。しかし同じくらい、村を守ろうという気持ちの表れだったのではないか。
 そこに気づいて、リィエは俯いた。傍らにアシュロの視線を感じながら。
「ありがとうございます、キセドさん」
 顔を上げて、リィエはキセドに礼を述べた。
「お礼なんていい。だから早く、ここから――」
「私、残ります」
 その言葉にキセドは動きを止めた。
「……何だって?」
「本当に、ごめんなさい。ユニさんも、ごめんなさい」
「どうしてだい、何で、そんな!」
「私はこの竜社の宮司です。だからここに残らなきゃいけないんです」
 理解できず声を荒げるキセドに、申し訳なさげに眉を下げて、リィエはヒビだらけの卵を見つめた。
「私、この子の誕生を、見届けてあげなきゃいけないんです」
「っつーワケだ。キセドさんは逃げろ。な?」
「アシュロ……」
 リィエは自分の隣に立った彼を見る。そこに覗く横顔は、こんなにも精悍だったろうか。
「アシュロ、君は……」
「俺も残るさ」
 こともなげに言って、彼はリィエの肩を抱く。
「リィエ。おまえが動かないなら、俺も動かないからな。いいな?」
「あ……、うん……」
 その言葉に、うなずかされてしまう。リィエは自分の頬が朱に染まっていることに気づいていなかった。
「君たちは二人して何を言ってるんだい!?」
「いいから、逃げろって。他の連中はもう逃げたんだろ? まだ間に合うからさ」
 声を裏返すキセドを軽くあしらうようにアシュロは手をひらひらさせた。
 だがキセドは顔を青ざめさせながらも、叫んだ。
「子供二人を残して逃げろだって? 私はね、そんな情けない大人になったつもりはないんだよ!」
「…………」
「……マジか」
 これもまたリィエには予想外の言葉で、アシュロにとってもそうであったらしく、彼は驚きに呆けていた。
「いやいやいやいや、おまえさんらぁ、みんなしてかっこいいぜぇ?」
 と、そこに新たな声。リィエにとっては、朗報とも呼べる声である。
「ガダンさん!」
「悪ィね、遅れちまったよぉ」
 全身を毒々しい色の汁に染めたガダンが、槍を携えてそこにいた。
「しかし、天魔の鬼たぁ最悪の最悪の、さらにもひとつ最悪だなこりゃあ」
 甲高く鳴く鬼百足を眺めつつ、危機感のない声で彼は言う。
「何とかなるのかよ、オッサン」
「無理言うなよぉ、あんなもん、ほどき屋が百人千人いてやっとどうにかなるかもっつぅ相手だぜぇ?」
「クソッ、期待させやがって!」
「ハッハッハ、無駄な期待だねぇそりゃあ」
「腹立つわ、このほどき屋!」
 怒りに顔を赤くして地団駄を踏むアシュロ。それも恐怖を紛らわせるためのものでしかなく、
「――どうすれば、いいですか?」
 リィエは自分が分からないことを、ガダンに尋ねる。
「呼びかけてやんなよぉ」
 返ってくる、たった一日なのに聞きなれた、間延び調子のほどき屋の声。
「子供ってのはよぉ、親がいるから子供なんだぜぇ? だからよ、育てのでも何でも、おまえさんが親なら呼びかけてやんなよぉ。元気に産まれてきてね、ってさぁ」
 それだけだった。とても簡単な、そして、心から頼りになる言葉だった。
「なぁに、呼びかけるくらいの時間は稼いでやるさぁ。そういう依頼だもんなぁ。だからよ?」
 最後に一度だけ、ほどき屋は肩越しにリィエの方を見た。
「そっちは頼むぜぇ、少年。それに、村長殿よぉ!」
 そして愛用の鉄槍を強く握って、ほどき屋ガダンが飛び出していく。
『ギルルルルリリリリリリリリリリィィィィィィィィィィィィィ!』
「応よ、おまえさんの眷属を潰したのぁ、俺だぁ。恨みがあるなら、かかってこいやぁ!」
 巨大な白銀色の身を駆け上がり、ガダンが鬼百足相手に一歩も引くことなく槍を振るった。
「全く、全く、何でこんなことになるんだ。全く、本当に信じられない……」
 キセドがブツブツとぼやいているが、それでも彼はこの場にいてくれる。自分たちを守ろうとしてくれている。
「……アシュロ」
 リィエは、隣に立つ幼馴染の名を呼んだ。すると彼は言葉ではなく、手を握ることで返してくれた。
 大きな手だった。頼りになる、男の手だった。
 そこにいる全員に支えられ、背を押されて、リィエは祭壇の上の卵を見る。
 伸ばした手の指先が今にも孵りそうな卵に触れた。
 そして彼女はその顔に精一杯の笑顔を浮かべ、大きな卵に語り掛けた。
「お願い――」


●六百年の眠りの果てに
 眠れるものは己を包む殻の外で何が起きているかも知っていた。
 そして卵に触れて呼びかけてくる声を、しっかりとその耳で聞いていた。
「お願い――」
 さぁ、母となる少女。君は何を願うのか。
「頼むぜ……」
 さぁ、これから父になろうとしている少年よ、君はこの身に何を頼もうというのか。
 この苦難からの救いを求めるならば叶えよう。
 そこに眠るものには、それだけの力があり、そして、それをするだけの恩も感じていた。
 六百年のもの長きに渡って神と崇められ、祀られ、護られてきたもの。
 だから、その恩を返す。そのことに躊躇いはなかった。
 ただ、それをすれば二人を親と認めることはできない。
 これから産まれようとする己に頼るならば、二人はこの身で庇護すべき存在であるということになってしまう。
 親ではないということになってしまう。
 だが叶えよう。
 ゆえ、少女よ、少年よ、君たちは何を願い、何を頼むのか。その答えを聞かせて欲しい。
 そう思って待ち続けると、やがて、二人の声がはっきりと届いた。
「どうか、元気に――」
「――生まれてこいよな!」
 それは、これから産まれてくる命を慈しむ、両親の声だった。
 嗚呼――、それが君たちの願いならば、それが、君たちがこの身に頼むことならば……!
 母よ、父よ、無尽の感謝を捧げると共に、その願いを叶えよう。
 我は竜神。
 この地の守り神にして、人に護られてこそ生まれ出ずるものなれば――


●孵化
 まるでそれは世界を祝う光だった。
 卵が割れて、そこから溢れる白い光。だが優しい、温かい光だ。
「これ――!」
 リィエが割れた卵の向こうを見ようとする。そこに、ずっと見守り続けてきたものがあるような気がして。
『ギルルルルルリリリリリリリリリリリィィィィィィィィィィ!』
 しかし光に気づいた鬼百足が、ガダンを無視して竜社に襲い掛かろうとする。
「クソッ、こっちを見やしねぇ!」
 全力で槍を突き上げるガダンだが、白銀の甲殻は鉄槍の一突きをものともしていない。
 天魔の鬼が頭上より迫って、開けたアギトで噛みつきにかかった。
「ひぃ!」
 あられもない悲鳴を絞り出すキセド。
 アシュロも、咄嗟にリィエを抱きしめ、庇おうとする。
『――大丈夫』
 そのとき、場にいる皆の耳にその声は届いた。
 幼い子供の声だった。そして、どこか超然とした存在感を感じさせる声だった。
 ふわりとした感触が、リィエとアシュロの頬を撫でて過ぎていく。
「あ……」
「おまえ……!」
 強くなる白光の中に、二人だけが確かに見た。
 割れた卵の中から金色の翼を広げて飛び立つ、子犬くらいの大きさしかない、それを。
 リィエが求めるように影に向かって手を伸ばそうとする。
 だがアシュロが彼女を抱きしめ、その場に押し留めた。
 光を放つ金色が、天魔の鬼へと飛んで行って、さらに強い白光が場を完全に満たしていく。
『ギィィィィエァァァァァァ――――…………』
 まばゆさに目を閉じた彼女たちが聞いたのは、天魔の鬼が最期に迸らせた断末魔の声。
 そうして全ての音は消えて、静寂の中、リィエがゆっくり目を開ける。
「……いない」
 荒らしつくされた竜社と、祭壇の上に散った卵の殻があった。それ以外は、何もなかった。
 目を丸くしたまま、キセドがその場にへたり込んだ。
「化物が消えた……? ゆ、夢でも見ていたのか。私は……」
「そんなわけねぇだろぉ~」
 戻ってきたガダンがキセドの肩を強く叩いた。そして、アシュロたちに視線を投げる。
「ああ」
 アシュロは深くうなずいて、彼もまたリィエを見て、
「夢なんかじゃ、ないよな」
「……うん」
 リィエは、自分の手の中にあるものを見た。
 それは卵だった。
 御神体とは比べるべくもない、手の中におさまる程度の小さな卵だった。
 けれど確かな命のぬくもりを感じて、リィエはそっと自分の頬に卵を触れさせた。
 あの子の誕生は、夢なんかじゃない。
 頬に感じるあたたかさが、何よりも雄弁にそれを彼女に教えてくれていた。


●日々、人々は殻を破って
「竜神って、ホントにいたのなぁ~」
 大町への道中のことであった。
 タツカ村での一件ののち、彼は大町への帰路についていた。
 大立ち回りの翌日だけあって体の節々が痛かったが、それよりも彼にとって残念でならなかったのは――
「竜神様、見れんかったなぁ~……」
《あの場合は仕方がなかったとはいえ、残念でしたね》
 妻が優しく慰めてくれるものの、しょげかえったガダンの肩は落ちたままなかなか元に戻らなかった。
《もぉ、子供なんですから……》
「んなこと言ったってよぉ~」
 本気で残念がっている夫の気を紛らわせようと、ユニは話の方向を少しばかり変えることにした。
《それよりも、あの子たち、大丈夫でしょうか……?》
「あぁ、そりゃまぁ、案ずるまでもねぇと思うけどなぁ」
《そうですか? 大事にしていた竜社が壊れてしまって、大変だと思いますけど》
「けど、村の方でも再建することになってんだろ、キセドのオヤジも言ってたしなぁ」
 壊れた竜社の再建は、タツカ村の民総出で行うことになっていた。
 一度は対立したリィエやアシュロと村の民だが、全ては天魔の鬼の仕業、ということで一応の決着は見ていた。
「あの村長はしっかりしてるから、まぁ、平気だろうぜぇ」
《そうだといいんですけど》
 しかし、ユニは心配げである。ガダンはそれを一笑に付して、
「祀る竜神がいなくなったわけでもねぇし、どうにかなるってぇ」
《ええ、そうですね》
 竜神が残した新たな卵。それは村の信仰の象徴として、今後も崇められていくだろう。
 あの卵は、人が竜神を信じ、竜神が人を信じたことの証であるから。
「ま、リィエにしても、アシュロがいればどうにかなるだろ」
《あら。あの子のこと、少年とは呼ばなくなったんですね》
「ああ」
 言われて小さく返し、ガダンはケラケラと笑った。
「そりゃな。あいつはもう子供じゃねぇしなぁ」
《ええ、そうですね》
 リィエの手の中に卵が残された理由を、なんとなくだがガダンは理解していた。
 竜神はきっと、あの二人を親と認めたのだろう。
 だったら、もうリィエもアシュロも子供ではない。
 竜神が誕生した時に、あの二人もまた、子供の殻を破ったのだ。
 そう、人とは、命とは、そうやって育っていくものだから。
《早く、帰ってきてくださいね、ガダン》
「分かってる、って。土産もちゃんと買って帰るよぉ」
《もぉ、分かってないですね。あなたの顔が、私にもこの子にも一番のお土産なんですよ、お父さん》
「はいはい、っとぉ。じゃ、すぐ帰るから、俺が帰るまで産気づくんじゃねぇぞぉ」
《それはこの子に聞いてくださいな》
 言って笑って、ユニは自室で大きくなったお腹をさすった。
「んじゃ、いとしい我が家へ帰りますかねぇ~、っとぉ」
 そうして青い空の下、ガダンは道を歩き始める。
 まだ見ぬ我が子の産まれてくる姿を、その脳裏に思い描きながら。
6496

2017年04月28日 00時32分13秒 公開
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■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:卵はかえる。人をかえる
◆作者コメント:それなりに時間をかけた作品となりました。
読んでいただき、感想までいただけたら望外です。
よろしくお願いします。

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