三人怪談

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一、七狐山

 詳しい場所は伏せてお話ししましょう。
 とあるところに、ナナコ山というお山があります。かろうじて「山」と呼んでもらえているような、本当に小さな山です。
 山の名前は、今はカタカナ表記ですが、昔は「七つの狐」と書いたようで、その名の通り狐が多く住む山です。今でもね。
 狐というのは古くから、化かすとか騙すとか、そういう悪い話が付き纏っているでしょう? だから、縁起が悪いとその字が使われなかったのでしょうね。
 ところでその七狐山ですが、実は個人の所有地なんです。……いえいえキタさん。だから、本当に小さな山なんですよ。田舎では、個人で山を所有していることなんてザラにあるんです。
 まぁともかく、その七狐山の持ち主の一族というのが、ちょっと変わっているんです。名前は……やっぱりこれも伏せましょうね。
 どう変わっているかというとね、そのお家は女系の家なんです。女系というのは、母から娘に血統が繋がるということですが、その家には、そもそも男の子が生まれないんです。えぇ、早逝するとかでもなく、初めから。生まれるのは女の子ばかりの家系なんですって。
 ……同性ばかり生まれるというのは、そんなに珍しい話ではないかしら? たしかオイさんも男の子ばかり三兄弟でしたっけ? 
 ……フフッ、ごめんなさい。話が逸れてしまいました。戻しましょうね。
 そのお家、仮に、ナナコ家としましょうか。
 ナナコ家は、七狐山の麓に住んでいます。辿れば明治時代から続くお家だとか。でも、そんなに堅苦しい家ではなく、ごく普通の家なんです。さっき言った、女の子しか生まれないということを除けばね。
 男性がいない家の不便ってなんでしょうね。力仕事の困りごと、地域社会で暮らす上での発言力の弱さ、戦争の時代には兵役や普請に男手を出せない肩身の狭さもあったでしょう。女ばかりの家だと侮って、悪巧みを企む不届者もいたはずです。なにより収入の面で、男女で格差があった時代が長かったのですから、苦労は多かったはずです。
 ナナコの家の女性たちは、数の力と知恵でその困難を乗り切ってきました。男児が生まれないものの多産の家系ではあったようで、人手はありました。手先が器用で多才な者が多く、職の乏しい時代でも内職には事欠きませんでした。知識を得ることに貪欲で、学問にも商売にも積極的に取り組み、家の内でも外でも精力的に働きました。
 その結果、資産と呼べるものが少しずつ増えていきました。戦争が終わり世の中が落ち着いてくると同時に、貧しかったナナコ家は徐々に安定し、地域の名家に……とはなりませんでしたが、貧しさゆえに侮蔑の目を向けられることはなくなったそうです。
 ですが、世の中は世知辛いものですね。家が豊かになると、まるで振り出しに戻るように、今度は「女ばかりの家」であることでアレコレ言われるようになりました。
 曰く、あれは狐憑きの家だ。
 曰く、あの家に入った男は精気を吸い取られるのだ、と。
 ご存知の通り、いくら女系の家とはいえ、本当に女ばかりでは家は存続できません。他所から婿養子を迎えています。
 でもその婿たちの多くは、外で活躍することはほとんどありませんでした。元来が大人しい性格の人で、妻が家長であるのを幸いと表に出ることがなかった人、婿入りして早々に病を得てしまった人、稼ぎ頭が自分ではないのをいいことに趣味の世界に没頭した人……。理由はそれぞれながら、外部の知らない人から見れば、それは「妻が夫の精力を吸い取った」あるいは「あの家の女は夫を蔑ろにしている」という見方になっても仕方がなかったかもしれませんね。
 そんなナナコ家の人々ですが、彼女らは周囲のどんな陰口も、気にはしませんでした。
 それは、陰口の半分は僻みからきていることを知っていたから、というのもあるでしょう。または、悪く言う人と同じくらいの数の人が、自分たちに親愛の情を抱いてくれていることも、わかっていたからでしょう。学校、病院、役所関係。ナナコ家の女性の多くが、地域に根を張り様々な形で活躍していましたし、信用を得ていました。時代遅れの誹謗中傷なんて、彼女たちの矜持にかすり傷をつけることすらできはしなかったのです。
 またあるいは……。
 ……たとえば、キタさん。子犬に「やーい、ニンゲン」なんて揶揄われたら、どうしますか? いえいえ、話は続いていますよ。当たり前のことを揶揄されたって、「だから?」ってなりません? オイさんはいかがです? 「この野球部め」なーんて言われても、相手の意図がどうであれ、それだけじゃ腹なんか立たないでしょう。
 ナナコ家の人々もね、同じなんですよ。
「狐憑きの家」なんて、苗字を呼ばれたのと同じようなものです。彼女らにとってはね。
 つまりは、そういうことなんですよ。


ーーー△▼△▼ーーー


「……えーと、それでおしまい?」
「ていうかそれ、怖い話なのか?」

 僕たちのツッコミを、ユタカは微笑みで受け流した。

「おしまいです。人じゃないモノが、当たり前に隣にいるかもしれないという話は、怖い話ではないですか?」
「それはそうかもしれないけど」
「今の話は、前半のサクセスストーリーが強すぎんだよ」
「やだ、サクセスストーリーだなんて。そんなつもりはないですよ」

 ユタカは今度こそ声を上げて笑った。
 僕とオイちゃんは黙って目配せする。今のって、ユタカの実家の話? ぽいけど、なんか怖いから黙っとこーぜ。
 ユタカの背後に目を凝らすと、時々稲穂色のふさふさとしたものがみえる。彼女が笑うと楽しそうに揺れる。
 そのことについては、僕はオイちゃんと目でも語り合わない。多分、二人とも見えてはいるけれど。

 僕たち三人は、府内大学人間福祉学コースの三年生。髪型がオタクっぽいとよく言われる僕ことキタ、若白髪の老け顔なのになぜかイケメンのオイちゃん、そしてミステリアスな紅一点のユタカ。このコースは一クラスしかないから、僕たちは入学したときからずっと机を並べて学んできた。
 そして今年、見事同じゼミに入った。授業が難解で教授に癖があることで有名な平塚ゼミ。昨年は敬遠されてか入ゼミ希望者ゼロだったので、僕たちは本当に三人きりのゼミ生だ。
 そんな僕たちが今、なにをしているかというと。
 話は数十分前にさかのぼる。

~~~~~~~

 <大変申し訳ない、急用ができ今日のゼミは自習とします。
  各自研究室内で課題をこなすように>

 金曜日の午後一はゼミの時間だ。しかし既定の時間に平塚教授の研究室に行くと、入口に貼り紙がしてあった。
 
「自習? 課題ってなんだろ?」
「ていうか、中に勝手に入っていいのか? 不用心すぎるだろ」
「でも、室内でするようにとの指示ですからねぇ。とりあえず入ってみましょうよ」

 僕たちは慎重にゼミ室の扉を開く。室内はいつもと変わらない。部屋の両側に天井まで届く本棚と、窓際の教授のデスク、そこに雑然と並んだり積まれたりしている本と書類の山。中央のテーブルだけは、いつも不思議なほどものがなくて片付いている。
 そのテーブルに今日は、僕たち三人分と思われる茶菓子が用意されていた。水滴をいっぱい付けた水差しと人数分のグラス、そして小皿に鎮座する羊羹。
 
「あら、嬉しい。これ、獅子屋の羊羹ですよ。お高いやつ」
「……これ誰が用意したんだ? 今しがた出したっぽいけど」
「助手の人じゃない? いるよね、この研究室」

 見たことないけど、と僕は付け加えながら、さっそく水差しを傾けた。夏休み前なのだ、ここに来るまでとにかく暑かった。
 水差しからは琥珀色の麦茶が惜しげもなく流れ、涼やかな氷の音に僕は早くも汗が引く思いだった。

「おい、お茶よりまず課題だろ」
「まずお茶だよ。オイちゃん暑くないの? 一息つかなきゃ干からびるよ」
「まじめですねぇ、オイさんは」

 ユタカは早くもグラスに口を付けている。満足そうに一息ついて、嬉しそうに羊羹に手を伸ばした。

「ほらオイさん、キタさんも。美味しいですよ、羊羹。頂きましょうよ、教授のご厚意なんだから」
「よくわからん教授のよくわからん菓子なんか、よく食う気になるよな」
「やめなよオイちゃん。平塚先生どこで聞いてるかわかんないよ」
「さもありなんと思わせるところがまた怖いよな、あの教授」

 ぶつぶつ言いながら、結局オイちゃんも羊羹を口にした。高いというだけあって、確かに上品な味がする。
 しばらく無言で咀嚼していると、ふいに室内が薄暗くなった。電気が消えたわけではない。もともと薄曇りだった空を、分厚い雲が覆ったのだ。あっという間もなく、大粒の雨が窓ガラスをたたき始めた。遠くで雷が低くうなる音まで聞こえてくる。夏の突然の大雨に驚いてか、外からは悲鳴と共に逃げ惑う学生の気配がした。
 なんとなく言葉もなく三人で窓の外を見つめていたが、やがてぽつりとユタカがこぼした。

「怖い話でもしますか」
「え、やだよ」
「キタさん、怖いんですか? 夏といえば怪談じゃないですか。雨も降ってきて雰囲気もぴったり」
「おい、やめろよユタカ」
「あら、オイさんも怖い?」
「バッカ、ちげーよ。課題すんだろ?」
「でも、それらしいものありませんよ」
「じゃあ、もう帰ろうよ。羊羹食べたし」
「食い逃げはいけませんよ。いいじゃないですか、話しているうちに教授が帰ってきて、きちんと課題を提示されるかもしれませんし」
「それはそうかもな」

 見た目よりもずっと真面目なオイちゃんは、指定された課題をこなさずに帰ることにどうしても抵抗があるらしい。渋い顔はしながらもユタカに懐柔されてしまった。

「僕はやだよ」
「大丈夫大丈夫。あんまり怖くない話にしますから」

 そうして、なし崩し的に怪談披露の会が始まってしまったのだった。

~~~~~~~

「ね、キタさん。そんなに怖い話ではなかったでしょう? さぁ、次はオイさんの番ですよ」
「俺? ていうか、まだ続けるのか?」
「雨は止んでいませんし、教授も戻られてませんからね」

 さぁさぁ、と妙に楽しそうなユタカに促され、オイちゃんは思案顔だ。
 僕はげんなりする。なんでいつの間に乗り気になってるんだ。確かにさっきのユタカの話は全然といっていいほど怖くはなかったけど、それでも僕は怖い話は嫌いなんだよ。だって、話していると寄ってくるだろ?
 僕は非難がましい視線をオイちゃんに送るが、彼はまったく気づいていないようだ。それでも諦めずに念を送る気持ちで見つめ続けていると、彼の首元でゾロリとなにかが蠢いた、気がした。
 僕は慌てて視線を逸らす。

「オイさん、話すこと決まりました?」
「まぁな。怖くても怖くなくても、文句言うなよ」
「怖くない話にしてよー……」

 僕の精いっぱいの歎願は届いたのかどうか。
 オイちゃんは記憶を探るように斜め上を見ながら、話し始めた。


二、水底を歩く

 俺、子どもの頃に行方不明になったことがあるんだよな。神隠しとかいって、ちょっと騒がれたんだ、その当時。
 そのときの話な。
 俺はずっと野球をやってるんだけど、所属するチームには毎年の恒例行事として、夏山登山があったんだ。
 登山っつても、大した山じゃない。それこそさっきユタカが話したみたいな、田舎の小さな山だよ。標高も八百メートルくらいかな。子どもの足で登ってその日のうちに下山するんだから。早朝集合、午前中いっぱいかけて登って、頂上で弁当食って、そのまま下山して、その日はふもとにある公民館で合宿、カレー作るってのが、毎年の恒例だった。
 あれは小学五年生のときだった。
 その年の夏は雨が全然降らなくてな。毎日とにかく暑かった。川の水量が減って、あちこちのため池なんかも干上がってな。稲が育つのに水が必要な時期だから、田んぼやってるうちのじいちゃんなんかは困ってたな。
 でも俺たちはそんなにちっとも気にせず、登山合宿を楽しみにしてたんだ。
 毎年の恒例行事だから俺なんかにはおなじみのことなんだけど、山の途中の休憩場所で、監督が土地にまつわる怖い話をするんだよ。
 そのうちの一つに、山の中腹のとある池の話があった。オミツ池っていう小さな池だ。
 その昔、オミツって若い娘が、夫と姑の虐めに耐えかねて身を投げたっていう、どこにでもありそうな話。
 身を投げた当時はその池からも稲や野菜の水を引いてたらしいけど、その事件以降、そこから水を引いた田んぼも畑も、病気が蔓延して数年使い物にならなくなったらしい。人々はオミツの祟りと恐れて池のほとりに塚を作ったんだけど、状況は変わらなかった。それで、池から水を引くこと諦めたんだと。
 オミツ池は登山道からは見ることはできなかった。だから俺も名前と話は知ってたけど、池の詳しい場所なんか知らなかったし、なんなら怪談話自体が監督の作り話じゃねーかななんて思ってた。あまりにもよくある話に思えたからな。
 高学年だった俺は、初めて合宿に参加する一年生のお守り係でもあった。そのうちの一人にとんでもなく落ち着きのない奴がいてな。目を離すとすぐ道を外れてどっか行っちまうんだよ。寄り道ばっかするもんだからすっかり集団から遅れちまって、俺たちは二人で道を急いでた。そんな状況なのにそいつは、「カブトムシいるかな」なんて言いながらまた道を逸れるんだ。いい加減しろって怒りながらそのあとをついていったときだった。
 木立の間にきらりとなにかが反射した。思わず目を向けると、見たこともない池があったんだ。ついさっき光ったのが不思議なほど、緑色のよどんだ汚い池だった。雨が降らなくて他の池は枯れかけてるっていうのに、その池は満々と水を湛えていた。池のふちには草に隠れるように石の塔みたいなのがあって、それでピンと来たんだ。これが監督がさっき話していたオミツ池なんだ、ホントにあったんだ、ってな。
 でも、思ったのはそれだけだ。なんせ、チビを捕まえて皆に合流しないといけないからな。
 そのあとは、特になにもなかった。予定通り例年通り行事は進んで、公民館で俺はみんなと雑魚寝してたんだ。
 で、変な夢を見た。
 初めて見る場所に俺が立ってるんだ。最初はそれがどこかまったくわからなかったんだけど、時期に水の中にいるんだってことがわかった。すぐ目の前を大きな鯉が泳いでったり、見上げたら足をパタパタ動かしている水鳥の足が見えたからな。
 あぁ、これは夢なんだって、すぐに思ったよ。だって全然苦しくないし、水中でもはっきり周りが見えたからな。水底から上っていく泡の列や、上から差し込む金色の帯みてーな太陽の光は、すごくきれいだったのを今でもはっきりと覚えてる。
 水の中の世界はとにかく見飽きなかった。池の底を歩き回るのも楽しかった。普通に歩けるんだけど、ちょっとだけフワフワしててさ。どこまでも行ける気がして、ウロウロウロウロしていた。
 そんなとき、急に一人の女が現れたんだ。綺麗な顔だったけど、とにかく怒った顔をしてた。すぐにピンときたよ、こいつがオミツなんだ、ってな。
 俺、言ったんだよ。『なんで怒ってんの』って。それは夢だと思ったから、怖いものなしだったんだな。
 女は口をへの字に曲げたまま答えなかった。だから言ったんだ、『ブスに見えるぞ、オミツ』ってな。……お前ら、そんな引くなよ。夢だと思ってたんだって。
 で、女は怒った。怒髪天を突くって言葉あるだろ、あれってほんとなんだぜ。本気で怒ったらほんとに髪が逆立つんだ。
 女は『その名で呼ぶな』って言うんだよ。嫌いな名前だから呼ぶなって。目は鬼灯みたいに真っ赤だし、口からは牙が見えてるし、なんかウネウネ体は伸び始めるし。夢だと思ってても怖かったな。
 ただ謝っただけじゃ許してくれそうもないし、じゃあ俺が新しい名前つけるてやるって、苦し紛れにそう言ったんだ。そしたら女は、なんだかきょとんとした顔になってな。急におとなしくなったんだ。俺はしめたと思って畳みかけた。『世界で一番綺麗な名前を付けてやるから、許してほしい』って。
 そしたら女は、もう一つ条件があると言った。もうここは飽き飽きしたから、俺についてくるって言うんだ。祟り殺す気なのかと思えば、そうじゃない、気に入ったからついていくだけだって言う。
 ならいいやって、俺はそれを承知した。……いや、そんな顔すんなよ。小学生だぞ、そんなに色々考えるかよ。
 女と俺は指切りをした。で、小指が離れた瞬間、目が覚めた。
 もう夕方だった。しかも俺はなぜか公民館じゃなくて、登山の途中で見たオミツ池の塚の横に寝てた。
 わけわかんねーってしばらくぼーっとしてたら、遠くで俺を呼ぶ声がして、とりあえず返事をしたんだ。そしたら、大人が次々と現れてさ。そのときが一番びっくりしたよ。
 結局俺、三日間行方不明になってたんだ。最後に目撃されたのが合宿所で雑魚寝してた部屋。朝になったら姿がなくて、大騒ぎになってたらしい。三日間どこでなにをしてたのかって、当然質問攻めだったけど、こっちとしては夢だと思ってた記憶しかないもんだから、それ以外話のしようがない。親からも監督コーチからも、怒られるわ泣かれるわ。しまいにはカウンセリングに通うだの、お祓いに行ってみるかだのの大騒ぎで大変だったよ。
 まぁ、当の俺にケガや後遺症みたいなものがなかったことと、色々警察が調べてたけどなにも出てこなかったってことで、だんだん騒動は沈静化していった。今となっちゃ、「あんたって神隠しにあったことあるよね」なんて、すっかり思い出話みたいになってるよ。
 でもあれ以来、野球部の登山合宿はなくなったんだ。代わりに、監督の知り合いの寺で座禅合宿になったんだってよ。監督、年の割にはずいぶん早くハゲちまってさ、申し訳ないことしたなって思うよ。
 そうそう、俺が見つかったあと、オミツ池はすっかり干上がっちまったらしい。俺はその山自体に入ることを禁止されたから、実際には見てねぇけど。それからはどんなに雨が降っても元の池に戻ることはなかったんだってさ。
 
 
ーーー△▼△▼ーーー


「おしまい。どうだ、怖くはなかっただろ」

 オイちゃんはなぜか満足げにそう締めくくったが、こちらはそうはいかない。

「ちょっと待ってよ。そのオミツさんはどうなったのさ? オイちゃんについてきたの?」
「私は、オイさんが新しくつけたというお名前が気になります。どんなお名前にしたんですか?」
「そのへんはもういいだろ」
「よくないよ!」
「気になりますよ!」

 僕とユタカの猛抗議を受けて、オイちゃんはなんともきまりの悪い表情になった。どうにか誤魔化せないかと悩んでいるようだったが、僕らの湿度の高い視線に負けたように、ぼそぼそと口を動かした。

「…………」
「え?」
「……だよ」
「なんですって?」
「だから、ユリ、だよ!」

 怒鳴るように言ったオイちゃんは、首まで赤くなっていた。僕とユタカは「へー」とか「ほー」とか言いながら、彼のそんな珍しい姿を堪能した。

「綺麗な名前、で『ユリ』ですか」
「『立てば芍薬座れば牡丹……』というやつかしら」
「小学生男子にしては、なかなかいい名前なんじゃない?」
「あーもう、お前らうっせーぞ!」

 オイちゃんが怒鳴るのに合わせて、彼の首の周りで太いマフラーのようなものがぞろりと動いた。僕とユタカは目配せをする。そろそろやめておこうか。そうですね、怒らせたら本当に怖いことになりそう。
 ユタカの背後の尻尾と同じように、オイちゃんの首にも目を凝らせば巻きついているなにかがみえる。蛇のように身をくねらせるそれの先端には、恐ろしくも絶世の美女の顔が付いている。
 その彼女の美しい名前を、僕は今日知ってしまった。
 
~~~~~~~

 雨は威力を弱めたものの、いまだ止む気配はない。

「さぁ、最後はキタさんですよ」

 楽しそうに言い出しっぺのユタカが言えば、

「トリだからなー、期待してるぞ」

 とニヤついた顔でオイちゃんが囃す。
 僕はといえばうんざりとした顔を隠しもせず、「このタイミングで平塚先生が帰ってきてくれたらどんなにいいか」と期待するが、その願いはとても叶いそうもない。大きなため息が出た。
 怖い話か。そんなもの、いくらでもあるさ。
 ときに揶揄されることもある僕の髪形、それは前髪を伸ばし左眼だけを覆うという、いわゆる鬼太郎ヘアだ。夏は暑いし、正直うっとうしい。でも、しなければならない切実な理由があった。
 僕の左眼はほとんど視力がない。しかし、この世ならざるモノの姿だけは、なぜか克明に映してしまう。
 僕は寺生まれでもなければ、山で修業をした経験もない。本来であれば知ることすらなかった闇や黄昏に棲む隣人たちは、僕の左眼の前に次々と現れては、その奇々怪々とした姿で僕のことを怖がらせた。
 しかしそれらは、左眼を隠しさえすれば、まるで帳を引いたかのように見えなくなるのだった。
 それが、僕がこんな髪形をしている理由だ。


三、左眼の話

 十八歳の冬、彼は命に関わる大きな事故にあった。
 いつものように原付で登校していたら、脇見運転の車に追突されたのだ。
 ガス! という衝撃の後、気がつくと眼下を彼が原付に乗って走っていた。
 彼は信号機の高さにプカプカと浮かび、そんな彼を見下ろしているのだった。
 彼の後ろを走る車が、スピードはそのままにだんだん左に寄り始める。
「おい、危ないぞ!」そう叫んだ瞬間、眼下の彼はオモチャのようにポーンと飛び上がり、彼がいる信号機の高さまでやって来た。
 どこかポカンとした顔の彼と、彼は目があった。
 そこから先の記憶はない。
 気がついたとき、泣きはらしたように真っ赤な目の母が、彼の目の前でなにやら口をパクパクさせていた。
 母の表情より、彼はその口パクパクが有名な腹話術師の「あれ こえが おくれて きこえてくるよ」に見えて面白かった。

「かーさん、腹話術でも習い始めたの?」

 そう言おうとしたが、唇どころか体全体がなぜかピクリとも動かない。
 母は相変わらず目の前で口をパクパクさせている。これはおかしい、と彼は焦った。腹話術ではなく、彼の耳が音を拾っていないのだ。
 そのときだった。

「おい、危ないぞ!」

 頭の上から、彼の声が降ってきた。
 その途端、世界に音が戻ってきた。
 泣きながら名前を呼ぶ母の声、部屋の外から聞こえるバタバタという足音、白い服を着た女の人が母を押しのけるように彼の顔を覗き込んだ。
 遅れて聞こえてのは、自分の声だったなぁ。
 彼はぼんやりとそう思った。
 今になっても死にかけた実感はない。が、当時病院に運ばれた彼を見て、母は「これはもうダメだ」と咄嗟に思ったというから、ひどい有様だったのだとは思う。
 体中あちこちを骨折し、折れた骨が内臓を傷つけ、体の外も中も血まみれだった。ヘルメットに守られた頭部だけが、不自然なほど無傷だったという。
 九死に一生を得た彼は、その後医者も驚くスピードで回復した。「若いっていいねぇ」と言う主治医の顔が、心なしか引きつっていたのを覚えている。
 ところが、怪我の回復と反比例するように、彼の左目の視力はどんどん落ちていった。
 まるで夕日が沈むように、日に日に視界が暗くなっていく。外傷はなにもなかったから、頭を打った際にどうした拍子か視神経を傷つけてしまったのだろう、と医者は言った。
 結局、彼の左目は明るいか暗いか、それをようやく判断できるだけになってしまった。
 彼の回復を喜んでくれていた周りの人たちは皆一様に落胆したが、中でも特に取り乱したのは、事故の加害者だった。
 彼は脇見運転の車にはね飛ばされたのだが、その運転手は父と同年代の男性だった。男性は事故の現行犯としてその場で逮捕されていたのだが、彼の左目のことを知ると、「私の角膜を移植してください」と彼の入院している病院に何通も手紙を書き、医者を困らせていた。
 失明の原因は角膜ではないので、当然移植は無意味だ。彼の両親は、加害者が懺悔の気持ちから自殺でも企てるのではと、いらぬ心配までさせられて憤慨していた。
 このように周りが大騒ぎする中、当の彼は自分でも不思議なほど冷静だった。
 現実として捉えられなかっただけかもしれないが、片目をほぼ失明したことへの絶望はほとんど感じなかった。回復の見込みがないことを主治医に重々しく告げられたときは、思わず「伊達政宗と一緒じゃん」と口にしてしまったくらいだ。
 しかし。
 入院中、リハビリ中それらに必死になりすぎて気づかなかったのだが、あの事故で彼の体質は大きく変わってしまったようだ。
 彼の目は、右目は生きている者の世界を、左目はそれ以外の世界を見るように、どうやら勝手に役割分担をしたらしかった。
 右目は綺麗な桜並木を見ている隣で、左目は桜の木に吊るされた人影や並木道を進む巨石を映していたりする。
 朝起きると、目の前に大きな魚がいる。
 部屋の隅に黒いモヤがかたまっている。
 台所の排水口から灰色の小さなヤモリが何匹も出てきて、出てきた端から消えていく。
 外に出れば、石ころが明らかに自らの意思で転がってきて、すれ違いざまに僕を睨む。
 頭上の看板から、女がぶら下がっている。
 行く先々で見かける、服を着た狐の三人組。
 木に絡まる大蛇。道路の真ん中の血だまり。頭が二つある猫のような生き物。空を飛ぶ鯉のぼり。水溜りからこちらを手招きするいくつもの白い手。
 大学のすべての窓に、赤い手形が付いていたこともあった。
 前に座る学生の後頭部に、鋭い歯のついた口が覗いている。
 親しげにお喋りをする女学生たちの足元に付き従う小鬼。
 顔が見えないほどの蝿の群れにまとわりつかれて、平然と笑っている学生。
 教室に入ってきた教授の背中には、ぴったりくっついた小さな黒い影が見えた。
 おそらくあの事故の時、宙に浮かび上がった彼は完全には元の体に戻れず、今も彼の頭上を漂っているのだろう。浮かんでいる彼の見ている世界を、地上の彼が左目で受信している、といえばわかりやすいだろうか。
 見え始めた当初は、とにかく怖くて仕方がなかった。
 家の中にいても見えるが、外にはもっといる。そう思って、家から出られなくなってしまった時期もあった。
 今は、左眼を隠しさえすればいいという対処法を学んだおかげで、なんとか日常生活を送ることができている。幸いなことに、友人にも恵まれたと思う。
 しかしそれでも、ふとした風のいたずらに前髪が吹き飛ばされ、その瞬間にビルから毎夜飛び降りている中年男性の落下姿なんかを見てしまった日には、次の日まで立ち直れない。
 彼はこの左眼のせいで、夜中トイレを怖がっていた子どもの頃と同じレベルに戻ってしまった。


ーーー△▼△▼ーーー


「え?」
「終わりですか?」

 オイちゃんとユタカはあっけにとられたような顔をしていたが、僕は重々しくうなずくにとどめた。僕としてはこれ以上話すつもりはない。話していて、これ以上寄ってこられたら困る。
 僕には、忍び寄ろうとする黒い靄を威嚇してくれる蛇の彼女も、床から伸びてくる干からびた手を追い払う黄金色の尻尾も持ってはいないのだ。
 
「言ったでしょ。僕は怖い話は苦手なんだから、大した話はできないよ。さ、これで話はおしまい」

 強引に締めくくり窓の外を見ると、雨はすっかり上がり日が差し始めていた。街路樹の歯がつやつやと輝くのが目に嬉しかった。
 
「そろそろ次の授業の時間ですね。平塚先生、結局帰ってこられませんでしたね」
「怪談話して羊羹食っただけだったな」
「結局課題ってなんだったんだろね」

 僕たちは話しながら研究室をあとにし……ようとして、その扉の貼り紙が変わっているのに気が付いた。
 
<課題:今日の内容を各自レポート用紙一枚以内でまとめること>

「え……」
「あの話を?」
「いったい、どうやって……」

 途方に暮れる僕たちの前で、研究室の鍵が音を立てて閉まったのだった。
凧カイト

2026年08月23日 23時54分34秒 公開
■この作品の著作権は 凧カイト さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:めくるめく奇怪な物語へ、ご案内いたします。
◆作者コメント:企画の開催おめでとうございます。拙作に発表の場を頂き、感謝の念に絶えません。
お題は、怪談、ということで「冷」です。「熱」の方も入れたかったのですが、書くことにとにかく必死で…‥
ギリギリもいいところですが、なんとか形になった? ので恥はかき捨てとばかりにエイっと投稿いたします。
厳しい意見お待ち申し上げます。

2026年09月05日 23時58分24秒
+20点
Re: 2026年09月09日 23時32分13秒
2026年09月05日 23時54分52秒
+20点
Re: 2026年09月09日 23時31分33秒
2026年09月04日 23時45分22秒
+30点
Re: 2026年09月09日 23時30分53秒
2026年08月31日 22時06分29秒
+20点
Re: 2026年09月09日 23時29分29秒
2026年08月30日 19時13分52秒
+20点
Re: 2026年09月09日 23時27分31秒
合計 5人 110点

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