悪魔と竜殺しの娘

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 女学生のマレは今日の自分のことを幸運だと思っていた。片翼を失った竜の子供を発見し、それを仕留めることが出来たからだった。
 村を出て荒野を歩き山脈の麓へと突き当たったところ、反り立つ崖の傍にそいつはいたのだ。子供とは言え竜であるからには巨体の持ち主で、血を流し蹲った状態で、百六十センチ足らずのマレと変わらない高さがあった。全身を覆う黒い鱗は逆立っていて、岩のように鋭く漆のような光沢があった。マレの三倍はありそうな大きなアタマには、ルビーのような色合いの鋭い三白眼が力なく開かれていて、荒い息を吐きながらマレの方を冷たく睨みつけていた。
 その竜の子には翼が一枚しかなかった。マレから見て右側の翼が消え失せていて、赤い血を垂れ流す無残な傷跡があった。何者かによって蚊トンボのように千切り取られたようにしか見えず、それによってその竜は酷く衰弱していた。
 十七歳にして魔導士資格を持つマレは、得意とする氷の槍の魔法で竜の雛を串刺しにした。あっけなく絶命した竜の雛をロープを括り付け、物の重量を操る魔法でどうにか運べる程に軽くした後、ギルドのある街まで引き摺って運んだ。
 モンスターの遺骸は武器や防具の素材に使われる。竜の子は信じられない程高値で売れた。竜と言ってもそれは亜龍で、しかも子供だったが、美しく堅い鱗を持つニーズホッグの遺骸は高い価値を持つ。金貨と銀貨をたっぷりと詰め込んだ麻袋はマレの細腕が痺れる程で、マレは口元に裂けるような笑みを浮かべながらそれを抱きしめ、贅沢を味わう為に街へ繰り出した。
 杖とローブを新調し、高価な砂糖菓子を買い食いした挙句、マレが向かったのは酒場だった。
 マレは炭酸水を飲んでいた。村の料理屋では売っていない飲み物であり、マレにとってそれは十分な冒険となった。酒は飲まない。アビエニア法では十八歳未満の飲酒が禁止されている。同級生の中には日常的に飲酒を行い、そのことを自慢げに吹聴する者もいたが、そんな愚劣な連中のことをマレはほとんど憎悪していた。
 「豪華なお食事ですね」
 声を掛けられた。
 成人して間もない年恰好の色の白い女性である。細面で瞳の大きな目をしていて、アビエニアには珍しく髪も瞳も黒かった。形の良い高い鼻と薄いが膨らみのある桃色の唇をしていて、信じられない程整った顔をしている。
 目を引くのは、マレ達とは異なる形をした耳だった。マレ達の耳は大部分が髪の毛から露出するほど長く尖っているが、女性の耳は丸い形をしていてどちらかというまでもなく縦長だった。
 妖精か? それとも、亜人の類か? まさか、魔族なんてことはないだろうが
 「学生の方ですか? どうやってそんなものを頼めるお金を稼いだんです?」
 女性はマレの座るテーブル席を見下ろして言った。マレは炭酸水の他に新鮮な鶏肉に野菜を詰めた料理と、焼き立てのパンにスープも注文していた。マレが普段食べている干し肉と乾パンと比べると、それらは舌が蕩けそうな程の美味であり贅沢だった。
 「りゅ、りゅ、竜の子を。竜の子を見つけて。と、討伐して……」
 マレは下卑たような笑い声を発しながらどうにかそう説明した。
 「そのニーズホッグの幼体は、片方の翼を毟り取られていたんじゃないですか?」
 マレは目を見開いて女性を見上げる。女性は花の咲くような笑みを浮かべる。どんな年代の少女よりも愛らしく、それでいて大人の女性らしい瀟洒さも兼ね備えた笑みだった。
 「え。あの。あ、ど、どうしてそれを」
 「わたし、有栖川と言います。有栖川涼子」
 女性はマレの質問を無視して言った。聞いたことのない名前だった。単に初対面というだけでなく、名前の構造がマレにとって異質だった。異国の名前であることは間違いなさそうで、名の他に姓があるということは貴族なのかもしれず、しかしアリスガワとリョーコのどちらがファーストネームなのかも分からない。
 マレに姓はない。マレがマレの名前のすべてだ。母親の名前はメイで、父親の名前はダダだった。
 「向かいに座っても良いですか?」
 そう言った有栖川に、マレは頷くしかなかった。さっき討伐した竜について何か知っていそうだというのもあったが、元々マレは自己主張が苦手だった。どんなに煩わしい軽薄な男が馴れ馴れしくマレの横に座り肩を抱いて来ても、おそらく抵抗することは叶わないだろう。
 「あの。どど、どうして竜の翼のこと」
 「街を出た先の山脈の麓の洞窟に、成体のニーズホッグが住んでいるのはご存知ですか?」
 マレの座るテーブル席の向かいに腰かけた有栖川はマレの質問を無視した。
 「しし、知ってます、けど……」
 「優しい竜なんですってね。悪い竜族なら、周囲の街や村の人たちへ生贄を求めることもあるじゃないですか? でもそのニーズホッグは、家畜の死体や野菜の収穫の一部を捧げておけば満足してくれるどころか、他の魔物から人間を守ってくれているそうじゃないですか。この間アトカス村がトロールに襲われた時にも、すぐに表れて追い払ってくれたって」
 「はは、はあ」
 「ご存じありませんか?」
 「しし、知ってます。わ、私、アトカス村、です」
 「そうなのですか?」
 「そそ、そうです」
 「そうですよね。あなたはアトカス村のマレさんですもの。村に一つしかない学校でも一番の才媛にして、その歳で魔導士資格を持つ高位の魔女なんですってね」
 マレは愕然として有栖川を見詰める。有栖川は透き通るような笑顔を浮かべるだけだ。
 何故、この女はマレのことを知っているのか? 確かにマレはそれなりに有名かもしれない。しかし有名なのはアトカス村に十七歳で魔導士資格を所得したマレという女学生がいる、という事実だけで、そのマレがどんな顔をしているのかを知っているのは村の住人だけのはずなのに。
 「ですがマレさん。本当に大丈夫なんですか?」
 「だ、大丈夫って……な、なにが?」
 「あなたが討伐した竜の子は、アトカス村を護った洞窟に住むニーズホッグの子供かもしれない、ということです。そんなことをして、怒りを買いませんかね?」
 なんだそんなことか? マレは卑屈な笑みを浮かべながら、首を横に振って有栖川の懸念を否定した。
 「だだ、だって……どの村の誰が殺したかなんて、りゅ、竜に分かるはずがないし。売りに行く時も……女学生のままだと買い叩かれるから……男の人に化けておいたし。そ、それ、それに。それに」
 「それに?」
 「私、何も悪くな、なくって。だだだって。……アビエニアにあらゆる魔物の討伐を禁止する法律はありませんから」
 有栖川は唇を尖らせて、小首を傾げる仕草を見せた後、吸い込まれるような優しい笑みをマレに浮かべた。そして子供のようにあどけない声でこう言った。
 「マレさんって、魔法を使いますよね?」
 「は、はは、はあ」
 アビエニアの住人なら、得意不得意はあれ、皆がそうだ。
 「火炎や冷気を放つことが出来ますよね? でもそれって変だと思いませんか? どうして何もないところから、杖を振って呪文を口にするだけでそんなものを発生させることが出来るのでしょう?」
 「そ、それはだって……精霊の力が、マナの力が……」
 「学校ではそう習うのでしょうね? でもね、本当にそれだけですべて説明できるとお思いですか? 見かけ状の性別を変えられるのはどうして? 感じられる物の重さを変えられるのは? 風を操り岩を砕き生き物を眠らせることが出来るのはどうして? 魔法という単一のアプローチで、精霊の力などという曖昧な説明で、どうやってそれらのことが成り立っているのか? 考えたことはありますか?」
 「そそ、それは……。それはだって。そういうものだから、としか……」
 「そうなんです。原理を説明できないというだけで、それがそうあるのは確かなのだと、そうとしか言えないことはたくさんあります。でもね、……こんな風に考えたことはありませんか?」
 「な、何ですか……?」
 「魔法は嘘で、この世界は偽物で、そこで生きているあなた達も作り物なのだと」
 訳が分からない。
 いや、この女の言っていることが分からないのではないのだ。同じようなことを、マレも考えていたことはある。不可思議で憂鬱なこの世界に対する疑問と不信。おそらくそれは、魔法なんてものが存在しない世界なんてものがあったとして、同じように発生し得る発想だ。だがだとしてもそれは、振り払いようもなく存在する現実の実感に打ちのめされて、消えていく考えなのではないか?
 分からないのは、いきなり現れて向かいに腰かけ、そんなことを口にするこの女が、いったい何のつもりなのかということだ。
 「この世界は何者かによって歪められ導かれ、作られています。あるべき形に収まるように。そこに誘導する為に、わたしのような者が現れることもあります。いいえ、それは本当は、あなた達一人一人がそうなのでしょう」
 「何を言って……」
 「これからこの世界は意図された通りに導かれ、あなたは定められた運命に従います。……マレさん。少し目を閉じていただけませんか?」
 「なな、なんで?」
 「三秒、いや一秒で構いません。さあ、どうぞ」
 そう言って右手を差し出される。
 訳も分からず、流されるままにマレは目を閉じた。
 一秒が経ち、二秒が経った。有栖川は何も言ってこない。やがて五秒程が経過した際にマレは自分の意思で目を開けることを思いつく。
 意を決してマレは目を開けた。
 マレの座るテーブル席の向かいはもぬけの空で、先ほどまで腰かけていたはずの有栖川の姿は、跡形もなく消え失せていた。

 〇

 マレはアトカス村に住む十七歳の女学生である。
 背丈は高くも低くもない。着せ痩せする体格の為一目には痩身に見えるが、何せ良く食べるので特に尻や胸にはそれなりに肉が付いている。髪の毛と瞳は栗色で、大きな瞳は猫のように丸々とした形をしていて、小さな顔もまたどちらかというと丸っこい形をしている。量の多い前髪が重たく瞳を覆っていることと、いつもどこか猫背っぽい姿勢をしていることに目を瞑れば、良く見ればまあまあ綺麗な容姿の持ち主ではある、という認識を持つ知人もそれなり程度には存在している。
 成績は極めて優秀。特に魔術には卓越して秀でている。卒業に必要な魔術免許が六種類であるとされている中で、十八種類もの魔術免許を取得している。首都イニーツィオでも同等以上の魔法使いは魔法省の神官や魔法軍の将校に数百人程度と言ったところで、アトカス村のマレは近隣の村や街には少しは名の通った存在だった。
 もっとも、一目置かれているのは成績と魔法の力量だけであり、吃音気味の喋り口調や気弱で陰気な物腰は、特に若者社会においては侮りの対象になるものだった。いくら魔法が達者と言え、魔物ならともかく人間相手に火炎や冷気を浴びせる訳にも行かず、粗暴な同級生に絡まれると卑屈な笑みを浮かべてやり過ごすしかないのが常だった。
 「どうしたのマレ。新しい杖じゃん。カッチョ良いー!」
 そう言ってマレに絡むのは、学校の同級生であるハルだった。切れ長の目をした女学生であり髪は金色、瞳は青色。背は稀より拳一つ高い。獣のようにいつも感情を露わにし、仲間と群れ、知性を感じない声でいつも何か吠えている。マレはこの女のことが心底から嫌いだった。
 ハルはその背後に数人の仲間を連れていた。マレに言わせればそれは取り巻きだった。声が大きく主張の強いハルは教室でも中心的な存在で、その権威に引かれて常に数人の手下を従えている。
 「ちょっと見せろよ。貸せってばっ」
 無邪気な表情でハルは無遠慮な手をマレに差し出した。貸せと言われて手を出されれば反射的に渡しそうになるのがマレだが、しかしこれは手に入れたばかりの高価なものであり、マレは克己心をかき集めてそれに逆らった。
 「……い、いや。それは、ちょっと……」
 「はあ?」
 剣呑な表情でハルは低い声を出した。マレは思わず竦み上がる。
 「なんで貸せないんだ?」
 「だって……」
 「だってじゃ分からない。何? あたしを信頼してないのか?」
 「貸せないから……」
 「見るだけだよ。生意気いうなよ。それとも舐めてるのか? 見るだけで何もしないって言ってるのに意地悪するなよ」
 言い終える前に、ハルはマレから杖をもぎ取っていた。
 「……すごい杖だな」
 それはそうだろう。何せ赤雪の杖だ。金貨二枚と銀貨九枚かかった高級品で、青魔法の五種免許を所持していなければ使いこなせない。ハルのような凡愚には生涯縁のない代物だ。
 木製の深い茶色の杖の先端には燃えるように赤い宝石が取り付けられていて、半透明のその内部には、雪の結晶を組み合わせたような紋様が組み込まれている。持つ者の青魔法の威力を大きく引き出す機能を持っている。
 「おい。見ろよ」
 ハルが仲間に呼びかけると背後の取り巻き達が杖に殺到した。そして批評でもするような声で囁き始めた。
 ……なにこれ地面からアタマまであるじゃん? 長すぎじゃね? ……恰好良いと思ってんじゃない? すぐ折れるよこんなの。……恰好付けるんならさぁ、もうちょっと装飾にお金かけるとかさぁ。……ああダメだめ。マレに杖の装飾なんて。覚えてる? 七年生の時なんかさぁ、寒雷の杖にびっしり稲妻模様付けて来てさぁ。……ああ覚えてる覚えてる! 低学年の男子かっちゅうの!
 「か、かえ、してっ」
 マレはいたたまれなくなり手を差し出した。ハルとその取り巻き達は白い目で冷酷にマレをみやった。
 「もう少し見せろよ」
 「い、いや。返して、欲しくて」
 「……おまえさぁ。別にこっちは、本当にただ見せて欲しいから借りてるだけなんだぞ? せっかくこんな良い杖を新調したんだから見てやろうってな。それをそんな取り上げられたみたいにベソかきやがって。それじゃあかえって返す気が無くなるって分からない?」
 「だって……それ、私の……」
 「返して欲しけりゃ取り返してみろよ。ほらほら」
 手を伸ばすマレに、ハルは杖を仲間に向けて放り投げた。目で合図された仲間は杖を持って小走りでマレから距離を取る。思わず杖を持つ仲間の方に走り寄ったマレだったが、そいつはにやにやと笑いながらハルの方へと杖を投げ渡した。
 今度はハルの方へと走り寄るマレだったが、するとハルは仲間の方へと杖を投げ渡す。マレは悄然として立ち尽くした。低学年の時に教室の男子に良くされたのと同じ意地悪だ。成人まであと二年もないというのに、どうしてこんな目に合わされなければならないのか。
 「おまえが悪いんだろ? いやこっちが悪いけど、おまえだってバカだよ。そんなべそかいたガキみたいにうろちょろ追いかけるからからかいたくなるんだ。普通に杖を見せてくれればあたしはそれで良かったんだ。それを……」
 へらへらと意地悪を口にする口調のハルから、背後から歩み寄って杖を取り上げた者がいた。
 「なんだよ? 誰だよ。取るなよ」
 そう言って睨みつけるハルだったが、そこに立っていた者を見て居住まいをただした。
 成人した女性が立っていた。流れるように長い白い髪と宝石のような赤い目。上品で大人びた顔立ちで落ち着いた表情を浮かべている。背丈はハルと同じくらいで、メリハリの効いたスタイルを持っていた。大人であることは間違いないが、アビエニアの住人は二十代のある時期から外見がほとんど変わらなくなるので、年齢は分からない。
 ハルとマレの担任教師であるロワだった。マレには劣るが十六の魔術免許を持つ大魔術師で、特に白魔法に関しては希少な四種免許を所持している。
 「幼稚なことをするのね」
 表情を消したロワにはある種の威厳が備わっている。
 「あー先生。これは違うんだ。いや、違わないんだけどさ。ただ本気でイジメてる訳じゃない。そういうことをあたしはしないだろ? ただちょっと新しい杖を見てやろうと思ってさ。こいつも自慢したいだろうと思ったんだ。そしたらまあ弾みが起きたっていうか、ちょっとからかってやるくらいのことはあるだろ? だから……」
 「街中でそんなことをして、みっともないわ。見ている人達がどう思うかしら? 恥ずかしいと思わないの?」
 「分かったよ。悪かったよ。きちんと返す。返しますよ」
 ハルは投げやりな口調でマレに杖を押し付けて、「行こうぜ」と仲間に呼びかけてそこから去って行った。
 ロワは困ったような表情でマレに笑いかけた。マレもまた卑屈な笑みを返す。もっときちんと叱って欲しかったが、助かったのだから何でも良かった。
 「杖を新しくしたの?」
 「は、はい」
 「良い杖ね。あなたに相応しいわ。でも赤雪の杖なんて簡単には買えないでしょう? 村の外で魔物を狩った?」
 「そ、そう、です……」
 アトカス村は荒野の中にあり、魔物の侵入を許さぬ為高い石垣に囲われている。石垣には全体を魔物除けの魔法に掛けられており、中の安全は保障されていた。村や街と言われる物は皆そうなっている。一度外に出れば数多の魔物が跋扈する危険地帯だが、そこに繰り出して魔物を狩り、素材を入手することは誰もがやっていることだ。
 「……村の慣習でも、十五歳を過ぎたなら魔物と戦うのは自己責任になってるけどね。かと言ってこんな杖を買えるくらいに打ち込むのは、いくらあなたでも危険じゃないかしら?」
 「ご、ごめんなさい」
 「ああ違うの。叱っているんじゃないわ。魔物と戦うことで経験値を得て、魔力を高めているのは知っているからね。ただね、あなたはいつも一人でそれをやっているんでしょう?」
 「は、はあ」
 「出来るだけ何人かで行った方が良いわ。ギルドも四人パーティを推奨している。孤独は集中の友というし、あなたはいつも一人で頑張っていてとても優秀。けれどもね、死んでしまったら元も子もない。一緒に狩りに行ける友達を作るべき。分かるかしら?」
 「は、はい」
 「……ごめんなさい。厳しいことを言っているわね。誰にだって得意不得意はあるもの。けれどもね、あなたのことを思えば言わなくちゃいけないことでもあるの。だって、魔物は危険で、そして汚らわしいのだから。可能なら、大切な生徒を一人も近付けたくはない」
 ロワは過去に姉を魔物によって奪われている。共に遠くまで狩りに出かけた際、魔物の集団に襲われ攫われたのだ。姉を置いて逃げるしかなかったロワは、数日経って、魔物社会の奴隷市場で鎖の付いた姉を見かけたという知らせを受け取った。魔物の国グランベリニアに属す奴隷市場は、魔法軍のスパイにより度々視察が行われるものの、奴隷となったアビエニア人を助け出すことまでは叶わない。
 ロワの姉は今も魔物社会で奴隷としておぞましい扱いを受けている。そのことに心を痛めない日はロワにはないだろう。
 「それじゃあマレさん。また新学期に」
 「は、はい。さ、さようなら。先生」
 「さようなら」
 担任教師を見送ったマレは、杖と金貨銀貨の入った麻袋を持って自宅へと向かった。

 〇

 帰宅したマレは両親に杖とローブを自慢した後、残った金貨と銀貨をへそくりとして自室にしまい込み、夕食を断ってから机に着いた。
 やることはもちろん魔法の勉強だ。マレは毎日帰宅すれば日付が変わるまでの学業を欠かさなかった。それはマレにとって世界に対する戦いと言っても良かった。自分を嘲り軽んじないがしろにする周囲のすべてに対する呪詛を吐き散らし、マレに敵対する世界のすべてを這いつくばらせるその日を夢見て、日々の努力を積み重ねていた。
 ……ハルの奴。毎日……懲りずに……程度の低い嫌がらせを。私がその気になったら……いつでも消し炭に……。たった十五個しか免許持ってない……魔術師階級を卒業したばかりの凡愚の癖に。成績二位の才媛って……私とどれだけ差があると思って……。取り巻きの連中も……あの程度の奴に群がって粋がって。……この村から一生出られない雑魚の癖に。
 私はあいつらとは違う。
 ……ロワ先生も。なんだよ友達を作れって。いらない……同級生の奴らなんていても邪魔なだけ。姉を魔物に奪われた? 弱かっただけだろうがよ。そいつもロワも。私より遥かに劣る癖に教師面して……私がすごすぎるだけだから仕方ないけど……。でも大魔術師ならどうしてこんなしょぼい村にくすぶって……。どうせ無能だから村を出られないんだろ。
 私はあいつらとは違う。
 マレは机に齧りついてペンを走らせる。魔力は座学でも向上する。精霊の性質や使役方法への理解は実戦だけでは学べないからだ。無論実戦で得る経験値も重要だが、しかし魔法は使えば使う程マジックポイントを消耗する。授業におけるも模擬戦や村の外での実戦でそれが枯渇した後は、座学によってさらなるEXPを蓄積することが所持する魔法の免許を増やす近道だった。
 やがて部屋の時計が深夜零時を示す。マレは明かりを消した。机に覆い被さるようにして全身全霊で勉強に耽るマレは、この時間が来るといつも疲弊しきっている。ベッドに倒れ込んで目を閉じると、眠りはすぐに訪れる。
 やがて朝が来る。
 ある種の人たちにとって、それがどれほど望ましいことでなかったとしても、時間は流れ朝日は昇る。それがどれほど忌まわしき運命を運ぶものだったとしても。
 マレの日常を一変させる、村が滅びへと向かう、運命の朝が訪れるのだ。

 〇

 「起きなさい。マレ」
 母親の声がした。今は夏季休暇中でどんなに惰眠を貪っていても問題はないはずだった。両親に対してだけは横着な口の利き方をするマレが「うるさいな」と不機嫌に起き上がり、枕元の時計がまだ午前六時を過ぎたばかりであることに気付いて文句を口にした。
 「おかーさん何っ? まだこんな時間じゃんっ!」
 「良いから起きて来なさい。大変なことになって、村の役所の人が来ているの」
 「なんだよ、もうっ」
 早起きは煩わしかったが、横着な口を訊いても母親に逆らえる訳ではなかった。役人が来ているというのも気になった。マレは身支度を済ませると両親のいる居間の方へと姿を現した。
 居間には両親の他、数人の役人を従えて、村長の息子であるシンが立っていた。背の高い偉丈夫で、痩身の多いアビエニア人としては珍しく、筋骨隆々の体格をしている。しかし粗野な感じはせず、むしろ上品な顔立ちをしていて、その立ち振る舞いは洗練されている。
 「マレさんですね。今日は、君にお願いがあって来たんだ」
 「は。はあ。あの、なな、何が」
 「東の洞窟の竜がお怒りになっている」
 マレの全身に緊張が走った。東の洞窟の竜と言えば、昨日マレが仕留めた竜の雛と同じニーズホッグだ。両者には血縁関係があるかもしれず、そのことで竜の怒りを買うことをマレは昨日、有栖川憩なる謎の女に警告されていた。
 「昨日の夜のことだ。役人の内の何人かが、供物である獣の肉と村で取れた野菜を竜の住む洞窟へと運んだ。いつもなら鷹揚にそれを受け取る竜だが、その日は供物を拒み、差し出した役人たちを八つ裂きにした」
 マレは息を飲み込んだ。冷たい汗が額から滲むのを感じている。
 「ただ一人だけ、殺されずに済んだ役人がいた。村へのメッセンジャーとして残されたのだろう。竜は彼に言った。雛がアトカス村の魔法使いに殺された。その落とし前を付ける必要がある。雛を殺した魔法使いを見つけ出し、自分に差し出せと。さもなくばアトカス村を滅ぼすと」
 自分が殺した竜の子が、洞窟の竜の雛だったとみて間違いなさそうだった。マレは強い緊張と恐怖を覚える。
 「そそ、それで……どうして私が」
 「詳しくは役場で話す。来てくれるね?」
 「行きなさい。マレ」
 両親は声を揃えて前に言った。この男に逆らえる大人はこの村に存在しない。
 村長のジムは病床に伏せっている為、シンは事実上村人たちを取りまとめる存在だ。年嵩とは言えない彼が村人達からリーダーとして認められている理由は、やはり彼が村一番の魔法使いであることだろう。マレを凌ぐ十九個の魔術免許を取得した魔導士資格保持者で、かつては首都イニーツィオで高級将校を務め、体調を崩した父の面倒を見る為に帰郷したという経歴を持っている。
 マレは言う通りにするしかなかった。シンは「先に行く」と部下の役人たちに告げ、マレの肩に手をやって口元で詠唱を開始した。
 「……四種四類第三十八章」
 シンが使用する魔法の種別・類別・項目名を申請し終えるなり、気が付けばマレはシンと共に村の役場の前に立っていた。
 シンはマレも使えない高難易度の瞬間移動魔法の達人だった。それを用いて、シンは徒歩で小一時間かかる役場まで一瞬で移動してのけたのだ。
 「さあ。行こう」
 シンに促され、マレは役場へと足を進めた。
 マレはシンと共に役場の会議室に通された。会議室の中央には八人は据われる立派な机が二つ設えており、優れた職人が作ったのが肌触りも滑らかそうで高級な気配がした。無数にある椅子の内埋まっているのは二つだけで、それぞれ同級生のハルと担任教師のロワが腰かけていた。
 「待ちくたびれたよシンさん」
 ハルがシンに対して無礼な口を効いた。ロワが𠮟りつけることを予想したが、意外にも彼女はハルの不平を支持する様子で小さく頷くことさえした。
 「なあシンさん。どうしてあたし達が集められたんだ? この中に犯人がいるってか?」
 「そんなことはない。街のギルドに問い合わせたところ、ニーズホッグの雛を売りに来た者はいたが、そいつは男の魔法使いだったということらしい。君達は魔女だから犯人の候補から外れる」
 マレは昨日の自分が変身魔法を使って男に扮して竜の雛を売却したことに感謝した。あくまでも女学生の姿で舐められ素材を買い叩かれない為にしたことだったが、そのおかげで首の皮一枚繋がることが出来た。
 「じゃあシンがやったということじゃないの? この村に犯人がいるのだとすれば」
 ロワはシンに敬語も敬称すら使わなかった。学生のハルが無礼な口を効くのはまだ未熟さ故で流されることも考えられるが、仮にも教職であるロワのその振る舞いにマレは違和感を持った。しかしシンは気分を害した様子もなく、むしろ他の誰と話すのより気安くロワに応じる。
 「おいおい僕がやったってのか?」
 「あなたくらいでしょう? この村にニーズホッグを倒せる男は」
 「売りに来たのは一人だったらしい。いくら僕でも、雛とは言え亜竜を単騎撃破は難しいんじゃないかな?」
 「きっと仲間がいたのだわ。それで、代表してあなたが売りに行った」
 「残念。ギルドによれば売りに来たのは小男でしかも冴えない容姿の持ち主だったらしい。この僕が小男にも、冴えない容姿の持ち主にも見えるかい?」
 「変身魔法を使っていたらどうなの?」
 「それを言い出したら、そもそも誰が犯人でもおかしくないことになる。不毛だよ」
 そう言われて黙ってしまったロワに、シンは小さく肩を竦める。ロワも本気で追及していたのではないようで、特に悔しがる様子もない。
 マレは二人が恋人同士であるという噂を思い出していた。親し気に腕を組みあって歩く様子を見かけたと同級生が騒いでいたのだ。それが事実かどうかはともかく、二人が気安い口を効き合う程度には砕けた間柄であることは間違いなさそうだった。
 「それで。どうやって犯人を捜すの? それに、どうしてわたし達が呼び出されたの?」
 ロワは問う。
 「そもそも、どうして竜は犯人をアトカス村の住人に限定しているのかしら? あの洞窟はここよりもむしろクラーマーレ村や、ギルドのあるランキュニエ街の方が近いわ。その小男というのも、ここじゃない別のどこかの住人なんじゃないの?」
 「ところが竜は犯人を我々アトカス村の住人だと確信しているんだ」
 「だからその根拠は?」
 「分からない。ただ間違いないとだけ言っている」
 「なら犯人を捜したってどうにもならないでしょう? 村に犯人がいる保証がないのだから」
 「その通りだ。そして竜は犯人を捜す為の期間を一日しかくれなかった。冴えない容姿の小男という情報だけで、たったの一日で誰が雛を殺したのか特定するのは不可能だし、そもそも、村に犯人がいる保証もない」
 「ならどうするの?」
 「こちらから打って出る。竜と対話を試みるんだ。話し合いで済むのが一番良いが、場合によっては、我々の力を示し、村を滅ぼすなど不可能であることを知らしめなければならないこともあるだろう。命懸けの戦いも覚悟して、今からこの四人で洞窟へ向かう」
 会議室に緊張が走った。
 「その為に皆を集めたんだ。ロワ、君は村の大人たちの中ではこの僕に次いで腕が立つ。魔導士のマレさんは言わずもがな、ハルさんだって村の学校ではナンバー2の優秀な大魔術師だ。この四人でパーティを組むのが、村の最高戦力だと言える」
 それはそうだ。ギルドが推奨する四人パーティを村で組む際、魔導士資格を得る条件である十八の免許を所持するマレが、そこに選ばれない理由はどこにもない。シンは言わずもがなで、マレを除けば村一番の魔女であるロワを選考するのも妥当なところだろう。
 強いて疑問点をあげるならやはり学生のハルだろう。しかし学校を卒業した優秀な魔法使いは皆村の外へと出て行ってしまう為、村に残された魔法使いはほとんどが魔術師階級にも満たない。四番手を選ぶ際、学生とは言え十五個の免許を持ち、ギリギリで大魔術師の資格を持ったハルが抜擢されるのも、甚だ不本意ながら辛うじて納得できなくはない。
 「生徒を危険に晒すの? マレさんもハルさんもまだ子供でしかないのよ?」
 ロワは剣呑な表情を浮かべた。シンは沈痛な表情で首を横に振る。
 「同じことだ。放っておけば村は竜によって滅ぼされてしまうのだから、打って出ようが出るまいが、マレさんもハルさんも今現在命の危険があることに違いはない。彼女達の安全確保の為にも先んじて動く必要があるんだ。分かってくれ」
 「村人全員で逃げるのは?」
 「それも無理だ。逃げる為には魔物のいる荒野を渡らなければならない。村にはより幼い子供も老人もいる。魔力の乏しい者も。他の村や街に保護を求めるにしても移動中必ず死者が出るだろう。そもそも他の村や街が、竜に狙われている僕たちの全員を受け入れてくれるとも思えない」
 「我々には竜と戦う道しか残されていない訳ね」
 「少し違う。まずは対話を試みることだ。相手の考えを良く聞いて、穏便に済ませられる道をどうにか探る。戦闘を行うのはあくまでも最後の手段だ」
 「分かったわ。納得する。それで、いつ出発するの?」
 「今からだ」
 有無を言わさぬ口調で言って、シンはハルとマレの二人を見回した。
 話を聞いていたハルは決意に満ちた表情で力強く頷き、マレもまた遅れて焦りつつ首を何度も縦に動かした。

 〇

 竜のいる洞窟はアトカス村を東に半日歩いた先の山脈の麓にある。道中は魔物も出現する為、ロワはハルとマレに繰り返し「油断しないでね」と注意を促した。
 村の外の荒野はマレにとっては馴染みの場所だ。村から洞窟までの荒野は所詮スライムやスケルトンなどの雑魚モンスターしか出現しないが、魔法の練習のマトにはちょうど良い。モンスターを倒して入手できる素材を売却すれば少々の小遣い稼ぎにもなり、夏季休暇のほとんどの時間をマレはこの荒野を彷徨い魔物と戦って過ごしていた。
 「なあ。マレ」
 ハルがいつものようにマレに絡んで来た。マレは思わずロワの方に視線をやった。ロワは村の外で緊張感に欠ける振る舞いをすることを嫌う。ハルが私語を交わす為に自分に声を掛けて来たのなら、一緒に小言を言われるのはごめんだった。
 「な、なぁに?」
 「おまえのその杖とローブさ。高かったろ」
 「う、うん」
 「どうやって手に入れたんだ?」
 「どど、どうやってって……」
 「いや分かるよ? 分かるんだよ疑ってもしょうがないってことは。ちょっとくらいの貯金なら、いくらでもモンスターを狩ることが出来るおまえなら簡単に作れる。おまえは一人で狩りに行くから分け前だって減らない。他の奴の四倍の効率で小銭が稼げる。魔法以外に興味がないおまえはどうせ、雑貨屋で小物も買わないし衣装屋で服も買わない。せこせこ貯め込んだ金でちょっと高い装備買うくらい、難しいことじゃあないんだろ。それは分かるよ? 分かるんだけどさ……なあ、本当に竜の雛を狩った訳じゃあないんだよな?」
 胡乱そうな視線にマレは思わず目を反らした。いつものイチャモンとは異なりハルの疑問は正鵠を射ていた。雛を売った金で手に入れた赤雪の杖を握り絞め、ハルの追及に身を固くする。
 「洞窟の竜はいつも村を護ってくださっている。竜はこのあたりの魔物たちにも一目置かれているから、奴が存在するだけで、竜に月一の供物を捧げているこの村の安全性はかなり向上している。こうした非常事態にあたしら学生を動員しなきゃいけないような村にとって、これがどれほど重要なことなのか。村の大人は皆それが分かっている」
 ハルは視線を鋭くしながら続ける。
 「この村で雛とは言え竜を狩ることが出来るとしたら、ここにいる四人くらいだろう。でも、シンさんもロワ先生も、竜の雛を狩るのが村にとってどれだけ迷惑になるかを考えられるから、そんなことをするはずがない。でもさ、おまえは違うんじゃねぇか? バカだもんなおまえ。例えば目の前で雛が決定的な隙を見せたりしていいたら、ラッキーだと思って何も考えずに攻撃しそうだ。そして必ずギルドに持って行って小遣いに変える。人の迷惑も考えず、ただアビエニア法で狩りは禁止されていないから、とか横柄なことを心の中で言いながらな」
 時に言いがかりでマレに絡むハルだったが、今回に限っては完全に図星だった。協調性に欠け自分一人のことしか考えないマレの性質を、村の幼馴染であるハルには見抜かれている。村の子供は皆同じように考えているから、その実力に反してマレは同級生達から孤立しているのだ。
 「ち、違う、違うよ」
 「ああそうさ。おまえはそう言う。そう言うしかないんだ。例え犯人だろうとそうでなかろうとな。だから、追及したってしょうがないことは分かっているんだ。分かっているんだけどな」
 やがて洞窟へと辿り着いた。途中何度か交戦した魔物は物の数ではなかったが、それでもマレは生きた心地がしなかった。ハルからの追及は途中で収まっていたが、しかしプレッシャーは常に感じていたし、何よりこれから大人の竜と相対するのだという緊張が、マレの全身を常に取り巻いていた。
 「……二種五類第十一章」
 白魔法に精通するロワが項目名を申請すると、ロワの杖を中心に洞窟内が照らされた。それでもやや薄暗い洞窟内を飛び出して来る蝙蝠型や蛇型の魔物を退けながら進むと、やがて洞窟の深部の大きく開けた場所にたどり着いた。
 マレ達は竜に相対した。
 ロワが照らす洞窟の最奥に蹲る黒竜は、マレが倒した雛とは比較にならない程巨大だった。身の丈はマレの自宅の建物より一回り大きく、四肢を地面に付けた状態での高さは三メートル程、アタマの先から尻尾の先までの長さは六メートルや七メートルはあるだろう。漆を塗った岩を連ねたような鱗は雛の物よりも鋭さを増し、一つ一つが刃物のようにぞっとする程冷ややかに輝いている。
 竜はこちらに気付いて首をもたげた。首から先だけでマレの前身と変わらないくらいのサイズがあった。逆立つ鱗をまとった獅子のような顔は見ているだけで膝が震えそうな迫力があった。
 「アトカス村か?」
 驚くべきことにその竜はマレ達の言葉を操った。声は低く洞窟全体に響くかのように大きかったが、得体の知れない不気味さの中に威厳のようなものも備わっていた。
 パーティのリーダーであるシンが一歩前に出た。
 「アトカス村のシンと申します。今日は、あなたに話し合いを申し入れに来ました」
 「犯人は見つかったのか?」
 「いいえ。見付かっておりません」
 「探しているのか?」
 「今はまだ、探しておりません」
 竜は翼を広げてはためかせると、それによって得た推進力を用いてシンに向かって襲い掛かって来る。開けた場所とは言え十数メートルの幅しかない洞窟でそれを回避するのは至難の技だったが、緑魔法の達人であるシンは瞬間移動の魔法で竜の背後へと降り立つことで、それを回避した。
 「一人を残して貴様らを殺す。残った者は、犯人を見つけ出すまで来るなと伝えよ」
 振り向いた竜はルビー色の瞳を血走らせシンを睨んだ。
 「話を聞いていただきたい」
 竜は尻尾を振り回してシンを叩きのめそうと画策した。驚くべきことにシンはそれを魔法を使うことすらなく身のこなしのみで回避してのける。そして反撃に杖を振りかざし呪文を唱えた。
 「五種四類第二章」
 高速でうごめく風の渦が竜の全身を包んだ。洞窟内に発生した竜巻のようなそれは竜の全身を宙へと持ち上げ、自由を奪う。そこから脱出しようと翼をはためかせてもがく竜だが、力強い竜巻は竜を捕えて離さない。五種の魔法は一部の達人のみが扱える奥義とも言える大魔法であり、それは強大な竜をも渦の中に閉じ込めてのける威力があった。
 苦しむ竜は空中で咆哮をあげて口から火炎を放った。その火炎はマレの知っている通常の炎とは異なり見たことのないどす黒い色をしていて、火炎にも関わらず薄暗い洞窟内を微かも照らすことがなかった。漆黒の炎は竜巻の中で振り回される竜の口から洞窟内にやみくもにまき散らされ、その一筋が大技を撃ってクールタイムに陥ったシンの元へも到達した。
 ロワがシンの前に立ちはだかり呪文を詠唱した。
 「四種五類第四章!」
 半透明の膜のようなものがロワとシンを包み込み込む。あらゆる攻撃を跳ね返す高位の結界魔法。ロワの得意とする四類の白魔法が竜の放つ黒い火炎を遮断して二人の身を護った。
 しかし同時に竜もまたシンの竜巻魔法から脱出を果たしていた。竜巻に振り回され最後には壁に叩きつけられ、いくらかのダメージは受けてはいるがまだ動ける様子だ。竜は微かに鈍くなった動きで洞窟内を飛び、近くにある巨大な岩へと飛び乗った。
 四人パーティと竜の間で、しばし睨み合いの沈黙の時が流れた。
 「……どうして犯人がアトカス村にいると思われるのですか?」
 シンが尋ねた。今度は竜は問答無用で襲い掛かることはなかった。
 「そのように教えてくださった者がいる」
 「誰なのですか?」
 「我らがもっとも信頼する方だ」
 「その者はどういう根拠でアトカス村にあなたの雛を殺した者がいるとおっしゃるのですか?」
 「根拠など必要ない。その方の言うことならすべてが真実だ。少なくとも、我らはそう考えるしかない。犯人を見つけ出し差し出さぬ限り貴様らを根絶やしにするしかない」
 「我々には、村にその犯人がいるとはとうてい思えない」
 「調べよ。見付かるはずだ」
 「しかし」
 「調べる理由はどこにもないわね」
 ロワが口を挟んだ。
 「良いかしら? あなたは魔物よ。それも、村の役人を何人も殺したのなら、わたし達にとっては悪い魔物。あなたの言うことに従う道理はない。違うかしら?」
 竜は咆哮をあげた。鼓膜が裂け全身が震えるような巨大な音響だった。それは憎悪の響きを持ってまっすぐにロワへと向けられている。大きな瞳に怒りを血走らせ竜はロワに怒声を浴びせた。
 「貴様らは我が雛を殺した! その罪は償われなければならない!」
 「アビエニアに魔物を殺すのを禁じる法律はないわ。もちろんあなたの怒りにそんなものは関係ないけれど、だったらわたし達があなたに大切な同胞を差し出す道理もない。あなたがあなたの雛を大切に思っているように、わたし達はわたし達の大切な同胞を必ず守るわ。その為にここに来たんだもの」
 「犯人を差し出せば村は滅ぼさぬという、我が忠告を聞けないというのか?」
 「聞けないわね。あなたは魔物。それも多くの役人を殺し村を滅ぼそうとする邪悪な魔物。村を滅ぼすのをやめるのなら放っておいてあげる。そうでないのなら、今ここでわたし達はあなたと敵対するわ」
 マレは滝のような冷や汗をかいていた。シンもまたぽかんと口を開けてロワを見詰めている。下手に出ながらどうにか竜の怒りを鎮めるという道もあったのに、ロワの物言いは常軌を逸していた。
 「……どういうつもりだ、ロワ」
 シンがたまりかねた様子でロワに耳打ちした。
 「どういうつもりも何も。こいつを倒しに来たんでしょう?」
 「まずは話し合いからだと言っただろう?」
 「通じるものですか。相手は野蛮な怪物よ。今もこうしてわたし達に襲い掛かって来たのが良い証拠じゃない。そんな奴と何を話し合うというの? アトカス村に犯人がいるという根拠もまるで脆弱だし、駆除してしまった方が遥かに手っ取り早い」
 「勝てる保証はどこにもないだろう?」
 「あなたの魔法は通用したし、相手の攻撃はわたしが防御出来た。竜族と言ってもニーズホッグは単なる亜竜。始祖たる真龍とは異なり、その遺伝子を微かに持つだけのまがい物に過ぎない。この四人ならばきっと勝てるわ」
 「最早対話の余地はないということか!」
 竜は吠え声を発した。ロワは冷笑を口元に浮かべて涼し気にそれに応じる。
 「対話ですって? 問答無用で役人を殺し、わたし達に襲い掛かって来たのはあなたの方でしょう?」
 そう言ったロワの隣でシンか肩を竦めた。それは穏便な話し合いが終わったという合図だった。シンはロワに目配せをし、相手が小さく頷くのを待ってから、杖を振って竜に向けて先制攻撃を放った。
 「四種四類第二十二章!」
 風の刃が杖の先から無数に生成され、竜の全身に襲い掛かった。岩のような固い鱗が少なからずそれを弾き飛ばしたが、いくつかは皮膚へと食い込み出血をもたらした。
 「貴様ぁああ!」
 竜が吠え声をあげて再び火炎を放って来たが、ロワが先ほどの結界魔法を展開してそれを防御する。半透明の光の防壁に遮断され、黒い火炎は弾けるような轟音を放ち続けた。
 「ハルさんは竜に攻撃を! マレさんは次の竜の攻撃に備えて!」
 シンが振り向いて学生の二人に指示を発した。竜の迫力に飲まれていたハルははっとした様子で杖を振り竜に攻撃魔法を放った。
 「……三種三類第九章!」
 杖から火炎が放射され竜の肉体へと迫った。赤魔法たる三類はハルの得意分野だが、それでも所詮ハルの魔法だからか大したダメージを与えなかった。竜は浴びせられる炎に構う様子を見せず、背中の翼をはためかせハル達の方へと突進し、固く大きな爪を振りかざして来た。
 結界魔法に精通するロワは、大技を使ったばかりでクールタイムに陥っている。同じ類別の魔法を繰り返し使用することは出来ないのだ。シンは身を躱す為の瞬間移動魔法の達人であるが、仲間を護る魔法は不得手としている。ハルは言うに及ばずだ。ここはマレが何とかしなければならないだろう。
 「五種二類第四章」
 二類はマレの得意とする青魔法だ。それも大得意の氷魔法であり、買ったばかりの赤雪の杖により強化されたそれは、瞬く間に巨大な氷壁を四人の魔法使いの前に出現させた。洞窟をくっきり両断するかのように立ちはだかる分厚い氷壁は、突っ込んでくる竜の爪をいともたやすく弾き飛ばした。
 それだけではなかった。五種魔法であるマレの魔法は相手の攻撃を遮断するのみならず、触れた者すべてを凍り付かせその身動きを封じてのける。氷壁に触れた竜の爪はその先端から瞬く間に冷却され、霜が張り付いたような状態になる。それはその手、腕、肩とじわじわと広がっていく。
 「五種四類第十八章!」
 追撃の魔法の項目名をシンが叫んだ。四類は風や大気・空間と言ったものを司る緑魔法で、五種はその極地にあたる。場の空気を操って電撃を発生させたシンの魔法は、落雷音と共に竜の全身を貫いた。
 洞窟内を稲光が駆け巡る。マレの視界が真っ白に染まる。
 翼をはためかせ空中に留まっていた竜の全身は、激しい音を立てて地面へと墜落した。 
 砂ぼこりが起こる。四人は固唾を飲んで竜の出方を伺っていた。しかし砂ぼこりが晴れても竜が立ち上がることはなく、岩に覆われた地面の中で横たわった。竜は力なく震えながら微かに首を動かし、恐れをなした表情で魔法使い達にこう告げた。
 「……降参だ」
 マレの全身からどっと力が抜けた。

 〇

 「トドメを刺しましょう」
 ロワが言った。
 当然の判断に思われたがシンはすぐには首肯しなかった。一度牙を剥いて来たとは言え、それでも竜はこれまで村を護って来た存在でもあった。慎重な性格のシンとしては勝負が決した今焦ってとどめを刺すことは抵抗があるのだろう。
 「……待って欲しい」
 竜が息も絶え絶えに言った。命乞いの戯言が始まるのかとマレは白けた気分になった。さっさと殺されてしまえば間違いなくマレは安全になるのだから、一刻も早く死んで欲しいと感じた。
 「これまでの関係性を主張しても無駄よ。あなたが雛を殺されたことを理由にわたし達の仲間を殺したように、わたし達にもあなたを殺す理由はあるんだから」
 ロワが冷酷に告げる。竜が苦し気に答える。
 「それは理解している」
 「ならばどんな命乞いを見せてくれるのかしら?」
 最早ロワは竜のことを嘲笑っている。マレ達生徒には厳しくも優しいロワだったが、魔物を相手には苛烈な態度を見せることをマレは知った。ロワが姉を魔物に攫われ奴隷にされた過去を持つこととも、それは無関係ではないだろう。
 蹲る竜は力なく背中の翼を大きく広げた。広げられた翼は一枚一枚がマレの視界を覆いつくすかのように大きかった。被膜で出来たそれは薄い淡い灰色で、どす黒い血管のようなものが各所に浮き出している。
 竜は近くに突き出した尖った岩の一つに、その翼の一枚を力強く叩きつけた。
 激しい音がして飛び散った鮮血が一滴マレの頬に付着した。叩きつけられた竜の翼が突き出した尖った岩によって貫かれていた。
 「……これでもう我は飛べぬ。先ほど見せたように、羽ばたきで得る推進力で、相手に突っ込んで戦うことも出来ない」
 岩は竜の翼の中央に大きな穴を穿っていた。被膜の翼から滲み出る血液が岩を黒く汚している。
 「これでは、我が貴様らの村を襲おうとしても到底不可能だ。地を這って貴様らの村にたどり着けたとしても、まともに戦うことなど出来るはずもない。違うか?」
 「確かに、そこまで損傷したら、いくらあなたの回復力でも元に戻らないわね。生涯、あなたは空を飛ぶことが出来なくなった。脅威は半減したと言えるわね」
 ロワが言った。
 「念のため、もう片方の翼も同じようにしてもらえるかしら?」
 「良いだろう」
 竜は言われた通り、残るもう一枚の翼も近くにある鋭い岩に叩きつけた。もう片方と同様に岩は竜の翼を貫いて迸らせる。
 「これで満足か?」
 「まだ怖いわね」
 「これ以上、我に何を失わせようというのか?」
 「両目よ。視界がなくなれば今度こそ戦うことが出来ないもの」
 「……我にこの世界の光を失えというのか?」
 「そうよ。わたし達が完全に安心できなければダメ。命乞いをするのだから、少しは本気になったらどうなの?」
 「……良いだろう」
 竜は固く鋭い爪を立てて自分の両目に近付けた。竜の指先は震えており、眉間に皺の寄った竜の表情は悲痛にも見えた。
 「お……おい。何もそこまで」
 ハルが焦ったような声を発した。それを聞いた竜は微かな希望を滲ませながらロワの方を一瞥したが、ロワは何も言わずに嗜虐的ですらある表情で竜を見詰めるだけだった。
 「くっ……」
 ゆっくりと近付いていく竜の爪が眼球に触れる。震える指先が微かに眼球に食い込んでいく。竜は苦しみ葛藤する様子を見せていたが、やがて意を決した様子で力強く爪を目に突き立てた。
 かなり嫌な音がした。
 潰れた目から血とも粘液ともつかないものが垂れ落ちる。失われた視界への嘆きに竜は尾を振り回し、洞窟の壁を穿って激しい音を立てた。
 「人間どもがぁああっ!」
 竜の放つ憎悪の叫びにハルは戦慄した表情を浮かべている。シンは沈痛そうに口元に手をやっている。ロワだけが口元に嘲りのような笑みを浮かべていた。
 「これで余計にトドメが刺しやすくなったわね。殺しましょう」
 ロワが冷酷に言った。
 「おい先生! 正気かよ!」
 ハルが食って掛かった。
 「こいつここまでしたんだぞ? 自分がもう村を襲えないって証明した。そうまでして命乞いをしてる奴にトドメまで刺すなんて尋常じゃないぞ」
 「翼も目も永久に失われているという保証はない。殺せる時に殺しておくべきよ。自分から傷付いてくれるならありがたくそうして貰うけど、命を救うかというとそうではないいわね」
 「穴の開いた翼や瞑れた目が回復するなんてことはないんだろう?」
 「いくら竜でもね。でも、何か魔法を使えば話は変わるかもしれない」
 「これほどの傷を回復できる魔法なんてこの世にあるのか?」
 そんなはずはない。第五類に分類されるいわゆる白魔法においても、回復技はあくまでも傷の治療を早めるだけのもので、その生物が持つ回復力を上回る魔法はこの世に存在していない。千切れた腕、瞑れた目、失われた命、そう言ったものはたとえ第五種の魔法であっても取り戻すことは叶わない。
 「魔物の使う魔法とわたし達の使う魔法は別物よ? 何か方法があってもおかしくはない」
 「だからって……こいつはこれまで村を護ってくれていたんだろう? そうでなければ村が滅びていたかもしれないタイミングはいくらでもあったって、先生が授業で言っていたんじゃないか?」
 「言ったわ。そうやって村を護るのに魔物の力を借り続けるべきではないと、あなた達にはそう教えたわ。その為にわたしは村を出て行かずに教師として留まっているのだから」
 「……でも実際にこいつは村を護って」
 「実際にというならこの魔物は最早村を護れないわ。護れないし護らない。だったら殺して遺骸をギルドに売って、村の自衛団を強化する費用に充てるのが合理的よね。傷んでいた装備をすべて新調して、さんざん議題にあがっていた詰め所の増築をしてもいくらか余るわ」
 「……こんな血も涙もない奴にあたしはものを教わっていたのかよ」
 憎悪すら感じさせる視線でハルはロワを睨む。ロワは悲し気な表情で生徒を一瞥するだけで、そこに向き合うこともせずにシンの方に視線をやった。
 「わたしの魔法じゃ竜の硬い鱗は貫けない。あなたにやって欲しいわ」
 シンは口元に手を当てて竜の方をじっと見つめている。嬲り者にされた竜は最早気力を失ったかのように洞窟で蹲っているだけだった。
 「……頼む。命だけは助けてくれ」
 哀れな声だった。情けないとさえ思った。
 シンは動かない。ただ眉間に皺を寄せて考え込むようにじっと竜を見詰めている。じれったいと思ったマレが杖を持ち直して一歩踏み出し、ロワの表情を伺った。
 ロワがそんなマレに気付いた。師がほんの少しでも頷いたらマレはその意のままになろうと考えていた。後でハルやシンが何を言ってもロワが庇ってくれるはずだった。ロワは未だ迷っているシンを一瞥した後に、生徒に向けて力強く首を縦に振ろうとする気配を見せた。
 「……竜は置いて村へ帰ろう」
 シンが呟くような声で言った。
 マレは正気を疑って目を見開いた。ハルは表情を明るくしてシンの手を取った。
 「甘いわよ」
 ロワは不満げな鋭い声をシンにぶつけた。
 「……この竜が村を襲えないのは事実だろう。放っておいても問題はない」
 「殺した竜を売れば村の財政の足しにもなるわ」
 「人道に背く」
 「相手は邪悪な魔物よ?」
 「確かにこの竜は我々に牙を剥いたが、これまで村を護り続けていたことは事実だ。それに、村を襲おうとしたのにも一部の理がある。我が子を殺されたら誰だって怒り狂うだろう。君だって家族を奪われた経験があるから分かるはず」
 「一緒にしないでっ!」
 ロワは声を荒げたが、すぐに近くに生徒がいることを思い出したのか、すぐに頭を冷やす為か首を振る。しばしの沈黙の後、微笑みを浮かべてシンに向き直った。
 「……あなたは昔からそういう人よね。良いわ。リーダーはあなたなのだからわたしはそれに従うわ」
 「ありがとう。……帰ろう」
 シンはそう言い残して先頭に立って引き返し始めた。ハルが力強い足取りで、ロワが落ち着いた様子でそれぞれその後ろに続いた。
 マレは後ろを振り返り蹲る竜を見詰めた。
 両目から血の涙を流し、破損した翼を力なく横たえているその竜が、今にも後ろからマレに襲い掛かって来るような錯覚を覚える。
 ……勝手にトドメを刺してしまおうか? 多少叱られたところで、身の破滅とまではいかないだろう。だったら。
 「どうしたの? 早く付いてきなさい」
 ロワに声を掛けられた。マレははっとして竜に背を向け、「はい」と蚊の鳴くような声を発してそこに続いた。

 〇

 「結局。誰が雛を殺したのかは分からず仕舞か」
 ハルが緊張感のない声で言った。
 「解明する必要はないだろう。竜は無力化したんだから過ぎたことだよ」
 シンもまた呑気な口調で言った。大仕事を終えた後の倦怠感が滲んでいる。
 「でもさぁ。これだけ迷惑かけておいて、その犯人にお咎めなしっていうのもさぁ」
 「アビエニア法だと魔物を狩ることを封じる法律はないんだ。分かったとしても罰することは出来ない。死者が出た以上、白い目で見られはするだろうがね」
 「殺された役人の身内のモンは、雛を殺した犯人を憎むだろうな」
 やがて洞窟の出口に差し掛かる。既に日は沈みかかっていて、真っ赤な夕焼けのかかった荒野の地平線を背に、指先程に小さくいくつかの村や街が見えていた。
 「お疲れ様です」
 声がかかった。
 洞窟を出た途端のことだった。マレは思わず声のした方を振り向いた。洞窟の傍に有栖川涼子がマレを待っていたかのように佇んでいた。
 「竜を殺さなかったのですね?」
 「どど、どうしてそれを……」
 「竜って、とても不思議な生き物ですよね」
 有栖川はマレの質問を無視した。
 「とても大きいし、強いですよね? あらゆる世界のあらゆる科学に当てはめても、あんな巨体をあんな翼で宙に浮かせることも、口から火炎を生じさせることも出来ません。いったいどうしてあんなおかしな生き物が存在出来るのか、考えたことはありませんか?」
 知ったことではない。だいたいおかしく見えるだけなら、解明されていないすべてのことがおかしく見えるだろう。月はどうして空から落ちて来ないのかだとか、雨はどうして降るのかだとか、そうしたことと同じではないか? 何故、竜の存在だけを疑問視しなければならないのか?
 「答えは一つ。この世界が狂っているからです。幼稚な何者かによって狂った状態で生み出されたからです。幼稚な想像力を前にしては、狂った世界は狂った運命を導き狂った物語を紡ぐことしか出来ません。わたしの役割はその狂言回し。それも低質で錆び塗れで壊れかけの、チープな機械仕掛けのね?」
 有栖川はマレに顔を近付けてその笑みをより深くする。無邪気な笑みだ。何の冷ややかさも嘲りもないあどけない笑みだが、どうしてかマレは氷を飲み干したような怖気を腹の底から感じていた。
 「あなたの運命は決まっています。ええ。すべてが始まったその時から。逃れることは出来ません。わたしが逃さない」
 真っ白い手が伸びてマレの頬を撫でる。
 美しい黒い瞳がマレを覗き込む。それが恐ろしくてたまらなく感じられ、マレは一瞬だけ目を反らした。
 その一瞬で、有栖川はいつの間にかマレの前から消えた。
 「……どうしたんだマレさん。そんなところでじっとして」
 マレの少し前で歩みを止めていた三人の中から、シンが心配したように声を掛けた。
 「あ……えと。今、ここに、人が」
 「誰もいないよ」
 「今さっきまで……」
 「いなかったよ。……何かに化かされたのか?」
 シンは悩まし気な表情で口元に手をやる。
 「良いからもう行こうや。くたびれたよ。あーあー。こっからまた何時間も歩くのか。夜中になるな」
 ハルがうんざりしたような声で言った。

 〇

 ハルの言う通りに、帰りの道のりは長かった。
 日の暮れた道を魔法の明かりを頼りに進む。変化のない荒野の景色を進むのは拷問まがいの無聊であり、たまに現れる低レベルの魔物を退ける戦いも、緊張感が失われおよそルーチンワーク的な作業にならざるを得なかった。
 「……シンさんの魔法で村まで一っ飛びする訳にはいかないのかよ?」
 ハルが愚痴を垂れた。シンが苦笑交じりに答える。
 「距離が遠すぎる。無理だね」
 「ある程度まで近付いてからワープするとか?」
 「出来るけど連れていけるのは一人くらいだ。連れて行った後戻って来ることも出来ない。分かりやすい目印があるならともかく、こんな荒野ではね」
 長い道のりだったがやがては村に帰り着くことが出来た。役場でシンが顛末を語るとマレもまた証言を求められた。村の人間の多くが役場に集い、マレ達四人パーティから竜との闘いの顛末を聞きたがった。それは凱旋した勇者を称えるかのような熱量であり、ハルなどは鼻を高くして得意げに自身の戦いを脚色して語っていたし、冷静なロワもまたどこか満更でもない様子だった。
 「あ、あの。それで私……氷の壁の魔法で。……竜の攻撃をこう、防いで、逆に凍らせて……」
 マレもまた得意になっていたのは否めないだろう。流石は魔導士のマレちゃんだと褒められ称えられ持ち上げられ、口元を持ち上げて鼻の下を伸ばし、下卑た笑いで自身の活躍を語るのは、正直に言って幸せだった。
 そんなマレのことを白い目で見ているのは、それぞれの親に引っ付いて役場までやって来た村の子供たちだった。同級生の何人かがハルの元に殺到し、ハルのことは持ち上げながら、マレの方を見て陰口をたたいていた。
 ……ねぇあいつ。やにあがってない? ……言えてる。鼻の下膨らまして気持ち悪い。でも実際のところどうなのあいつ。役に立ったの? ……知らない。トロいから足引っ張りそうだけど、でも魔力は高いんだよね。……それだけの奴だけどね。まあでもそれだけが自慢なんだから。こんな時くらい褒めて貰っておいたら? ……言えてる。マレのくせに生意気だけど、まあ役に立ったんだし。良いんじゃない? ちょっとくらい調子に乗らしてやってもさ。……笑い方気持ち悪いけどね。みっともない引き笑いでさ。
 宴のような時間が終わってマレは自宅へと帰り着く。日が暮れてからもう長い。夜は長いようで短く、眠りさえしなければいくらでも時間があると錯覚していたのは幼い頃のことで、時計が示す時は翌日の朝まで多くの時間は残されていないことを示している。
 マレはその日の夜学を諦めてベッドに倒れ込んだ。どんな理由があれ勉強せずに眠ることがマレには口惜しかった。マレにとって学問と魔法の練習は自身を軽んじ虐げにする世界との戦いそのもので、それは竜を倒し村の英雄となり称えられた今も変わらない。習慣付いた自学自習は歯磨きのようなもので、それをせずに一日を終えるのは寝心地が悪かった。
 ……少しは私の力を思い知ったか。凡人共めが。こんな時だけ持ち上げて都合の良い。……学校の奴らも、誰のお陰で命が助かったと思ってるんだ。……そんなことも分からずに私のことを軽んじて。陰口ばかり。……まあ良いさ、再来年になったらどうせ私は村にいない。……そうなった時に思い知れ。バカどもが。
 私はあいつらとは違う。
 眠りはすぐにやって来てマレは深く眠った。竜を事実上無力化したことで、雛を殺したのは自分だというプレッシャーからも少なからず解放されていた。

 〇

 翌日。時刻は午前六時十五分。天気は曇り。雨に警戒。気温湿度共に高く蒸し暑い気候。
 遅くまで惰眠を貪るつもりはなかった。しかしこんな朝早くに叩き起こされるつもりもなかった。
 母親の怒声によって目を覚ましたマレは、両親にだけ発揮される横柄な口調を用いて不満を訴えた。
 「どうしたのおかーさん。まだこんな時間じゃん! 昨日わたし頑張ったよね? 眠いんだけど!」
 「倒したはずの竜が村に来たのよ!」
 思わず杖とローブだけを身に着けて家を飛び出したマレが見たのは、昨日倒したはずの竜が空を飛ぶ姿だった。
 背後の日光を滲ませて灰色に光る分厚い雲を従えて、黒い竜の姿が空を舞っていた。あれほど損傷したはずの被膜の翼は完全に元通りになっており、大きな二対の紅い眼球は血走った憎しみを称えていた。
 「マレを出せ! 我が雛を殺害したアトカス村のマレを出せ!」
 竜は咆哮と共に口から黒い炎を吐き出した。火炎は人や家を焼くことさえなかったが、村の石垣や木々を燃やして人々を恐怖に陥れた。木々や石垣が燃える度、消火の魔法をかけるべく衛兵達が駆け寄っている。
 「……マレ。あなた何をしたの?」
 母親が声を震わせる。マレは涙を流しそうだった。どうして倒したはずの竜がいるのか? どうして破壊したはずの二対の翼で空を飛び、潰したはずの二つの目でマレ達を見下ろして、こうして村を襲っているのか?
 「竜よ! どうして空を飛んでいる? 昨日負った手傷はどうした?」
 竜に向けて呼びかける声がした。いつの間にかマレの家の近くに立っていたシンが、空に向けて声を張り上げていた。
 それに気づいた竜は翼をはためかせながら静かにシンの前に降り立った。マレは遠巻きにそれを見ていた。竜はマレの方を一瞥したが襲い掛かって来ることはなかった。『アトカス村のマレ』がここにいる自分であることを、竜はまだ知らないらしかった。
 「無慈悲な貴様らが我に負わせた傷なら、完治したとも」
 竜は言った。翼を大きく広げ、目を見開いて自身の万全さを誇示して見せる。
 シンは歯噛みしながら問いかける。
 「どうやって回復した? あんな傷を回復させる魔法は、どんな高位の魔法使いにも不可能なはずだ」
 「貴様の言う通り、人間の魔法では不可能だ」
 「なら誰に治療してもらった?」
 「我らのもっとも崇拝する、我らを支配する種族のお方だ。貴様ら魔法使いを凌ぐ魔力を誇るのは、魔物の中でもその種族だけだ」
 「……魔族だな? 悪魔の一族か」
 魔族やデーモン、悪魔などと呼ばれるグランベリニアの支配者が存在することはマレも知っている。その長たる地獄の王者は俗に魔王とも呼称され、アビエニア最大の敵とされていた。
 授業でロワから聞いたことによれば、魔族に特定の姿はないということらしい。異形の怪物の姿を取ることもあれば、美しい女性となって現れることもある。言い伝えによれば、魔界の皇族となる前の悪魔は、人間社会のあちこちに紛れていたらしい。そしてその本質はただの悪戯好きで、理由なき悪意により人間社会に様々な布石を打ち、大小さまざまな混乱を齎していたという。
 「何故そんな者がこんな辺境に訪れる?」
 シンが竜に尋ねた。
 「それは知らぬ。何かお考えがあってのことだろう」
 「言い伝えによれば、古の時代の悪魔は人間社会に紛れ込み、気に入った者に取り付いては、その運命を狂わせて遊んでいたというが……」
 「古の時代の話はどうでも良い。今現在、悪魔族は魔物の王としてグランベリニアに君臨し、人里には滅多に姿を現さない。しかし慈悲深きその悪魔は我が前に現れ我を救ってくださった。そして教わった。雛を殺したのはアトカス村のマレだとな。それを我の前に出せ。出さねば村を滅ぼす」
 「……出せば村は助けてくれるのか?」
 「考えてやっても良い。昨日の狼藉は、貴様らにとって我に対する抵抗でもあると理解する。傷が癒えた今となっては、そこに執着するつもりはない。……が、雛を殺したことは別だ」
 「分かった。マレを連れて来る。だが時間が欲しい」
 「多くは待てない」
 「分かった。早くする。だからそれまでの間は村を襲うのはやめて欲しい。万が一死人が出たら、我々も話し合いでは済まなくなる。あなたは一度我々に敗れていることを忘れないで欲しい」
 「少しなら待ってやる。だが昨日のように我を倒せると思ったら大間違いだ。高く空を飛び、口から火炎を吐く我を相手に、貴様らの魔法は昨日のようには届かない。あの時は狭い洞窟の中での戦いだったから貴様らが勝利したが、今度はそうはいかないことを心得よ」
 シンは険しい表情でマレの方に歩み寄ると、その手を取って言った。
 「……これから役場に向かう。来てくれるね?」
 マレは震えながら頷いて見せるしかなかった。

 〇

 「……四種四類第三十八章」
 シンが詠唱するとマレ達は役場の前に降り立った。
 何も言わないシンの後ろを、視線を俯かせてマレは付いて歩いた。役場の人間たちの冷酷な視線が突き刺さり、マレはその身を縮こませて消え入りそうになった。
 会議室に通される。数人の役人の他、ロワとハルの二人が先に来てマレを待っていた。険しい表情のロワの隣で、ハルが眉間に深く皺を刻み込んで立ち上がり、マレへと歩み寄ると鋭い平手を放った。
 頬を殴られたマレは思わずその場で尻もちを着いた。ひりひりとした痛みと共に、屈辱と無力感が全身に広がっていく。マレは思わず恨みがましい目でハルを睨んだが、ハルはその数倍の憎悪を込めてマレを睨み返し、その胸倉を掴んでその場から釣り上げた。
 「……本当におまえが犯人なのか?」
 今更それを隠そうとしても仕方がなかった。マレは目に涙を浮かべて首を縦に振る。
 再度の衝撃。胸倉を掴まれた状態でまたしても頬を引っ叩かれた。屈辱と痛みと恐怖とでマレはボロボロと涙を流す。そんなマレに容赦をすることなくハルは声を荒げた。
 「どうして雛を殺したんだ? 言え!」
 「……つ、翼が一枚欠けた雛を見付けたから……。ちゃちゃ、チャンスかなって……。別に……魔物を殺すのは、何も悪くないし。だから……」
 「ふざけるな! だからおまえはバカなんだよ! 良くも黙っていやがったな。おまえの所為で何人死んだと思っている?」
 「やめなさい」
 ロワが制止した。
 「冷静に話し合うべきだわ。感情的に責め立てたって何にもならない。分かるでしょ?」
 「話し合うことなんてあるのか? 一刻も早くこいつを差し出して、竜の怒りを鎮めるんだ」
 怒り狂うハルをロワは冷静な視線で射竦めた。
 「果たしてそれが本当に正しいのかしら?」
 「なんだと?」
 ハルは胸倉を掴んでいたマレを床へと放り投げた。胸の苦しみから解放されてマレは数回咳をした。ハルは怒りの矛先をロワへと変えてそこに詰め寄った。
 「本当に正気かよ先公。こいつを差し出す以外に何があるんだ?」
 「一度は倒した竜なのよね? また同じことをすれば良い!」
 「次また勝てる保証ないだろ! 寝ぼけてんのか!」
 ハルは力強く机を拳で叩いた。
 「あんな空高く飛ばれたら、届く魔法は限られている。有効だと言い切れるのはシンさんの緑魔法くらいで、マレの魔法は射程はともかく狙いが下手糞だから怪しいもんだ。あたしや先生に至っては、きっと何発撃っても届かない」
 「二人も魔法を当てられる者がいるのなら十分よ。それに竜の方だって遠くからブレスを撃っているだけじゃあ、わたし達を倒すことなんて出来やしない。わたしの結界とマレさんの氷壁があれば向こうの攻撃は凌げるし、そうすれば向こうも降りて来ざるを得ないはず」
 「それでも昨日よりはよほど苦しい戦いになるのは明らかだろ? 向こうは好きな時に空中に逃げられるんだ! それにいくら勝算があったってこんな勝負はするべきじゃない。昨日は犯人が分からなかったから戦うしか村を護る方法がなかったが、今は違う。マレを差し出せば確実に村は救われる。これ以上竜を怒らせたら、後からマレを差し出したってもう遅いんだ!」
 議論を交わすロワとハルを、シンが傍で口元に手を当てて見守っている。思慮深く静観しているようにも見えれば、ただ迷っているだけのようにも見えた。
 「シン。あなたはどう思う?」
 「僕かい? 僕……僕は……そうだな。……考えている」
 そう言って慎重な表情を見せるシン。思えばこの男は昨日竜にトドメを刺すかを決める時にも、ロワとハルの議論に最後まで口を挟まなかった。最終的にはリーダーとして決断は下したが、積極的に議論に加わろうとはしなかった。
 「……あなたはそうよね。優柔不断だかなんなんだか」
 ロワが呆れを隠すこともせずに言った。
 「……最終的には、パーティの、村のリーダーとしてきちんと決断する。今は君達の意見を聞かせて欲しいんだ」
 「良いわよ。わたし達はそれに従う。だからしっかり議論しましょう。マレさんを竜に差し出すか、それをせずに竜と戦うか」
 マレは身構えた。これから行われるのはマレの運命を賭けた弾劾裁判だ。裁判官はシンで、ロワは弁護人になってくれるだろうが、ハルは検察のような立場でマレを追求する。
 胃がしくしくと痛み出し、足元が崩れて天井が落ちて来そうな恐怖を覚えた。マレは唇を固く結び、肩を震わせて自らの利益だけを祈った。
 「だから! 議論も何もないだろうっつってんだよ!」
 ハルは激高して机を蹴り飛ばした。八人掛けの大きなテーブルは倒れることさえなかったが、脚のいくつかが宙に浮いて大きな音と共に歪んだ形で床に戻った。ハルは大きく息をあげながら、血走った表情でロワへと吠えた。
 「今起きている事態を引き起こしたのはどこのどいつだ? マレが軽率にも竜の雛を殺したからだろうが? そうなる可能性は十分に考えられたのに、身勝手な小遣い欲しさに殺した竜を雛に売ったんだ。その所為で数名の役人が命を散らして今だって村が襲われている! マレは責任を取らなければならないんだよ」
 激高するハルの言葉をロワは冷静な表情で受け止めて、感情的な生徒を諭すような落ち着いた口調で反駁した。
 「マレさんは役人を殺した訳でも、村を襲うよう竜を操った訳でもないわ。すべて竜が自分でしたことよ。マレさんには何の責任はない。責任を取らせるとしたら、マレさんではなくて竜の方よ」
 「確かに実際に村を襲っているのは竜だろうが、原因を作ったのはマレだろうが」
 「雛を殺さなければ竜は怒らなかった。それは確かよ。でもね、アビエニア法に魔物を殺すことを禁じる法律はない。少なくとも、わたし達にマレさんを罰することは出来ないんじゃないかしら? 竜の方を何とかするのが我々の立場としては正しいわ」
 「正気か? 法律に触れなければ何をしても良いってか? それが教師の言葉だっていうのかよ? 村を護ってくれた竜の雛を殺しても、それによって村が壊滅の危機に陥っても、法律に触れていないならそれで良いって、過失はないって本気で思うのか?」
 「マレさんに軽率な点があったのだとしても、竜の怒りを鎮める為の生贄にすることまでは正当化できない。彼女は魔物を狩っただけよ。スライムやゴブリンを殺して小銭を稼ぐのと変わらない。雛を殺したと竜にバレて怒りを買ったのは、ただ運が悪かった。それだけのことよ」
 「不運か? そりゃあバレない可能性もあったけど、村に危険が及ぶ可能性があると分かってそれをしたなら未必の故意だ」
 「だとしても助けられる方法があるのなら追及すべき。分かってる? さっきからあなたは何年も学び舎を共にして来た仲間に死ねと言っているのよ?」
 「……好きで言ってる訳じゃないに決まってるだろ」
 ハルは苦虫を噛んだような表情でマレを見詰めた。
 「何もそいつに死んで欲しい訳じゃない。同じ歳の幼馴染だから、小さい頃はそれなりに一緒に遊んだ仲だ。マレが内にこもって魔法の勉強にのめり込むようになってから距離が出来たが、友達じゃないと思ったことは一度もない。自分勝手だし幼いしバカだけど、努力家で真面目で大した奴だと思っている。あたしなんかじゃ逆立ちしたって叶わないって、内心じゃずっと認めてるんだ」
 マレは信じがたい気持ちでハルの表情を見詰めた。ハルは沈痛な顔でマレの方を見つめ返して来る。こいつからマレを認めるようなことを聞いたのは初めてだった。
 しかしハルは首を横に振ってこう続ける。
 「だがあたしの仲間はそいつ一人じゃない。尊敬できる相手も死んで欲しくない相手もそいつ一人じゃない。勝てるか分からない戦いに村の皆を巻き込めない。そいつを犠牲にして確実に村を救えるのならそっちを取る方が良い。原因がそいつにあるのなら猶更だ」
 「全体の安全の為に一人を犠牲にするというのね」
 「仕方ないだろう! そいつ一人にかける慈しみがあるのなら、それをもっと他の何の罪もない大勢に向けるべきじゃないのか? 大勢の子供を預かる教師という身分なら、もっと全体のことを考えやがれ!」
 「全体のことを考えることと、他の大勢の為に一人を犠牲にするのは、正反対のことよ。わたしはわたしの生徒のことを誰一人として諦めない。汚らわしい野蛮な魔物一匹殺せば皆助かるのなら、何としてもそれを打ち倒すだけよ」
 「倒せる保証がないって話をしているんじゃないか。一回勝てたからって次また同じことが出来るとは限らないし、増してや今度の戦いは前よりもこちらに不利な条件だ。あたしだってマレを含めた全員を救えるならそれが一番良いと思うけど、他の全員を危険に晒す可能性があるのなら、そいつ一人に責任を取らせるべきだ」
 「……ここでマレさんを差し出して、果たして問題は本当に解決するのかしら?」
 尋ねられ、ハルは目を見開いた表情でロワを見詰めた。それはおそらくハルの思考にはない切り口からの指摘だった。
 「わたし達は昨日竜を殺し損ねた。命乞いに応じて脅威を残してしまった。その所為で村は窮地に陥っている。今マレさんを差し出せば確かに一時凌ぎにはなるでしょうね? けれどもそれで本当に安心できるのかしら?」
 「……出来るだろ。あの竜は雛を殺されたから怒り狂っているのであって、そうなる前はむしろ村を護ってくれる存在だった」
 「魔物は野蛮な生き物よ? 雛を一匹殺されたからと言って村全体を滅ぼそうとするくらいにね。わたし達人間のことなんて何とも思っていない邪悪な怪物。マレさんを差し出すことで今の怒りを抑えられたとして、また何か些細なきっかけで村に牙を剥かないとは限らない。だったら今の内にその脅威を排除することに何の問題があるのかしら?」
 ハルは拳を握り締めてわなわなと震えている。そして血走った目でロワを睨んだ。
 「……自分の子供を殺されて怒るのが野蛮で邪悪なのか? あの竜は対話も出来て心があるんだぞ? 誠意を見せ償いをすれば、供物を捧げる代わりに村を護ってくれていた、元の関係に戻れるはずだ」
 「そんな風に甘く考えて見逃した結果が今日の有様なんじゃないかしら? 事実あの竜は、命を救われておいて恩も感じず逆恨みをして村を滅ぼそうとするような、邪悪な魔物だったじゃない? 邪悪な竜を滅ぼすのには、必ずマレさんの力が必要になる。それをみすみす差し出すなんて間違っているわ」
 そう言ったロワの瞳には暗い憎悪が滲んでいる。マレの目にはそれは敵愾心と言うより差別心にも見えた。姉を魔物達に攫われ奴隷にされた過去のあるロワには、魔物というだけで深く嫌悪し、排除し抹殺せねば気が済まないある種の条件反射が備わっているのだ。
 「先生が魔物を憎んでいることは知っているけど、流石にそれは目が曇っているとしか思わないぞ? 相手が魔物だろうが何だろうが、今回のことは、そもそもこちらに非があるだろう?」
 「マレさんに非があるとして、それは村を危険に晒したという意味での村に対する過失であって、魔物である竜に対しての過失を我々が問うのは間違っているわ。アビエニアには、魔物を狩ることを禁じる法律はどこにもないのよ?」
 「そうやって性懲りもなく、堂々巡りに法律を持ち出しやがって。アビエニア法っていうのはあたし達にとっての法律であって、雛を殺された竜にとっちゃあそんなものは何の関係もないんだぞ?」
 「それがどうしたの? 村の役人を何人も殺されて、村を滅ぼすと脅されて、そんな邪悪な竜の事情や感情を、どうしてわたし達が配慮しなくちゃならないのかしら?」
 「どっちが先に過失を犯したのかって話だよ! 最初に手を出したのはどっちかってことなんだ! この話はな!」
 「ここまで拗れたらどちらが先かとか関係ない。今回の件で、あの竜がどれほど野蛮で邪悪で厄介かは分かったはずよ。マレさんを失えば村が竜に対抗する力は大きく減ぜられる。マレさんが村にいてくれる今の内に、竜を討伐してしまうべきだわ」
 「勝てるかどうか分からないって何度言ったら分かるんだ!」
 「確かに、昨日勝てたからと言って次また勝てる保証はないし、洞窟と違って竜が空を自由に使える以上昨日より大幅に不利な戦いとなるのも間違いはない。しかし、邪悪で強大な魔物と戦う以上、ある程度のリスクは許容しなければならない。それが例え、村全体を巻き込むようなリスクだとしてもね。リスクと言うなら、あの竜を放っておく方がリスクなのだから。そうでしょう?」
 喋り終えてロワはシンの方へと顔を向けた。言いたいことは言い切ったとばかりの満足した態度だった。
 ハルもまた、忸怩たる表情を見せつつも、それ以上何も言うことはなさそうだった。議論に疲れたのかもしれない。声の大きさと押し出しの強さだけが取り柄だと思っていたが、大人であり教師であるロワを相手にこれほどのディベートを演じて見せたあたり、アタマの回転も思いの他悪くないのかもしれない。
 二人の視線を受けて、シンは口元に手を当てたまま沈黙し続けている。それぞれの主張を吟味するように悩まし気な表情を浮かべている。
 沈黙は数分にも及んだが誰も口を挟まなかった。運命を決せられる立場にあるマレとしてはたまらなかった。そのあまりのプレッシャーに、しくしくと傷み続けていた胃がとうとう吐き気を齎し始めた頃、苦渋をはらんだ声で厳かにシンが口を開いた。
 「……竜と戦うのはやめよう」
 マレは絶望した。
 「マレさんを竜に差し出すしかないようだ。本当にすまない」

 〇

 自分の主張が通ったハルだったが喜んだ表情は見せなかった。俯いて唇を噛みしめて、いたたまれなさそうな表情でマレの方を一瞥してから顔を俯けた。
 ロワは沈痛な表情を浮かべつつも、シンに対して反論をすることはなかった。悲し気な表情でマレを一瞥したが、そこには過失を犯した生徒を罰する厳かな覚悟も備わっていた。
 シンが言ったことにハルもロワも従う。パーティはリーダーの言うことを尊重するし、村全体もまたシンの言うことに背くことはない。シンが決意をした以上、この場所に、この村に、この世界にマレの味方はいないということを意味している。
 ……つらい苦しい。でも仕方ない。
 ……皆が敵だなんて、そんなことは私にとって元々だ!
 議論の成り行きを見守りながら、マレは心の中に一つの覚悟を育んでいた。真っ黒に熟成されたその覚悟は、絶望の淵で追い詰められたマレを強く突き動かした。
 マレは元々世界に一人だ。生まれた時からそうだった! 一人でこの世界と戦う為に私は力を磨いていた。それはすべて今この瞬間の為なんじゃないか? 
 「……マレさん。本当に申し訳ないけれど……」
 歩み寄るシンの靴が鳴らすのは死の足音だ。窮鼠と化したマレは破れかぶれな心境の中で、真っ黒な覚悟を爆発させシンに向けて杖を突き出した。そしてあらかじめ唱えていた呪文の最後の一説を口にし終え、魔法を放つ。
 「三種二類第十五章!」
 氷で出来た杭が幾重にも形成されシンの全身を襲った。威力のそう高くない三種魔法だが速射性に優れたマレの得意技の一つだった。
 大型の魔物には大したダメージは見込めないが人間相手には十分な威力を発揮する。不意打ちでなければシンも魔法を使って攻撃を躱しただろうが、しかし的確に隙を突いたマレの一撃に対処するのは容易ではない。
 たちまち、シンの全身は氷の杭に貫かれて穴だらけになった。血まみれになってその場で崩れ落ちるシン。会議室に立っていた数人の衛兵達は咄嗟にマレに杖を向けようとしたが、マレは決死の覚悟で彼らを睨みつけることで動きを封じた。
 ……力の差は分かっているだろう。屑共め。
 そんな意思を込めた視線に衛兵達は恐れを成した。実際、こいつらが束になってかかったとしてもマレには適わなかっただろう。厄介なのはやはりロワとハルだが、ロワはシンに駆け寄って涙ぐみながら回復魔法を唱えるのに必死であり、ハルは目を見開いて膝を震わせながら茫然としている。
 普段は偉そうに自分に突っかかって来る癖に、この非常時には何の役にも立たないのがハルというでくの坊らしい。もっとも襲い掛かって来ないのは正解だ。マレは立ち尽くすハルに軽蔑の視線を送った後、役場から飛び出して走り去っていった。
 「……早くっ。早く村の外に……」
 こうなってしまった以上村を捨てて逃げ出すよりどうしようもない。シンを手に掛けた以上犯罪者として生きることになるが死ぬよりはマシだ。
 汗だくで走り続けるマレの頬に大きな雨粒が落ちていた。役場に来た時から雲行きが怪しかったが、とうとう雨が降り出したらしい。それも視界もおぼつかないような大雨だ。力強く打ち付ける雨は土だらけの村の地面にぬかるみを作り、マレのローブを濡らしてずっしりと重く感じさせた。黒に近い灰色の空の中で、待たされ続けている黒竜が苛立ったような咆哮をあげながら、大雨を浴びながら飛び続けていた。
 ……あれも随分長い時間を待てるものだ。
 本来はもっとちゃんと対話が通じる、温厚な存在だったのだろう。マレが雛を殺さなければ、村とは良い関係が続いていたに違いない。
 マレはずぶぬれの状態で自宅へと飛び込むと、ローブから落ちる水滴で廊下をびしょ濡れにしながら自室に向かった。そして押し入れの中からへそくりにしていた麻袋を引っ手繰る。
 「どうしたのマレ? シンさん達とはどうなったの?」
 声を掛けて来る母親にマレは罪悪感を覚えながら無視を決め込んだ。自分のことで精いっぱいで、彼女らを連れて逃げることや彼女らの為に留まることをマレには思い付けなかった。危ないから逃げろと一言言い残すことすらできないままで、マレは自宅を飛び出して行った。
 マレは息を切らしながら村の出口へと向かった。ぬかるみに足を取られて何度も転びそうになった。途中で何度か膝に手を付いて蹲ってしまうこともあった。打ち付ける雨にも体力を奪われてマレは倒れ込んでしまいそうだった。
 やがて出口が見えて来る。出口には衛兵達も詰めているがマレにはどうとでもなる相手だった。事実ここに来るまで何度も衛兵とはすれ違ったがマレに手を出せる気骨のある者はいなかった。アビエニアにおいて、この世界において、力のある者が力を振るうと決めた時、力のない者は道を開ける以外の選択肢はどこにもない。
 最初のゴールにたどり着いたことで、マレは安堵の溜息を吐いた。村から出られる。先立つ金もある。何よりマレには鍛えた魔力がある。犯罪者として生きることになるのは憂鬱だがやっていけないことはない。
 この門をくぐればマレはこの村の住人でなくなることになる。囚われた村とくだらない村人達から解放され、自由な旅が始まることに、マレの頬には卑屈な笑みすら浮かびそうだった。
 その時だった。
 「おいマレ。止まれ。こっちを向け」
 村で一番嫌いだった同級生の声が背後から響いた。

 〇

 憂鬱な気分だった。最後の最後までこの女はマレを不快にさせ続けるのだ。そのことを思うとマレは忌まわしさを感じると共に、どこか納得めいた気持ちも覚えた。
 振り向いた。雨に濡れたハルが憤怒の形相でマレを見詰めて立っている。一本一本が細い金髪は雨粒で顔に張り付いていて、アビエニアの魔法使いには特有の尖った横長の耳が大きく露出していた。
 「何? 邪魔するの?」
 マレは滑らかに言った。
 「逃がす訳ないだろうが」
 「勝てると思う訳?」
 いつもこの女と話す時酷くなる吃音がなくなっていた。生まれた時から付き合っている吃音症は精神状態によってその程度を大きく左右させる。村から出る覚悟を決めたマレの今の心境は、ハルを恐れないばかりかどこか冷酷な気分ですらあった。
 「おまえを許さない」
 ハルは杖を抜いて迫って来た。雨音の中でぬかるみを踏みしめる音が一歩ずつマレに近付いて来る。マレもまた杖を抜いてそれを迎え撃つ構えを見せた。
 「何を許さないっていうの? 私の何が許されないっていうの? あのままじゃ私、竜への生贄にされるところだったんだよ? 何をしたって誰を殺したって、逃げ出すに決まってるじゃない」
 「そもそもこんなことになったのは誰の所為だ」
 「知らないよそんなの。気に入らないなら私のことを止めてみなよ。その為にここに来たんでしょう?」
 「……死にやがれ!」
 杖を突きだしてハルは呪文を詠唱した。
 「四種三類第十六章!」
 マレもまた杖を突きだして呪文を詠唱した。
 「五種二類第四章!」
 ハルの放つ渾身の火炎魔法は降り続く雨を蒸発させながらマレに迫った。その爆炎はマレの視界を埋め尽くす程で、人体など触れた瞬間に溶かしつくす灼熱を誇っていた。熱気はマレの視界を陽炎で歪め、直接触れていなくとも頬に感じる熱気は痛い程だった。
 火炎魔法をハルの一番の得意だった。昔からだ。第四種の赤魔法を使用できるのは村全体でもハル一人だった。シンもロワもそしてマレもその領域には至っていなかった。
 しかしその炎がマレの体に届くことはなかった。
 マレの正面の空気がカミソリのような冷気に覆われた。その冷気は水でも空気でも灼熱の炎さえ完全停止させる絶対零度を誇っている。世界そのものを凍らせるかのようにして出現した巨大な氷壁は、マレの正面に立ちはだかってハルの放つ火炎を瞬く間に遮断してのけた。
 一番の得意技が身を護る為の氷の壁というのは、マレの内向的で臆病な気質をそのまま反映していた。しかしマレはその防御魔法に絶対の信頼を寄せている。太陽がまっすぐ自分の体に落ちて来たとしても、これを用いれば火傷一つ負うことがないと自負する程だ。
 熱い炎は冷ややかな氷壁に阻まれ凍り付いて砕けた。
 渾身の一撃をあえなく防がれたハルは悔しさを露わにした表情で立ち尽くした。マレは冷酷な気持ちで再度杖を振ると、シンを殺したのと同じ氷の杭をハルに向けて放った。
 あっけなく、ハルは杭に全身を貫かれて穴だらけになった。流血しながら尻もちを着いたハルは、憎悪に滾る表情でマレを睨み続けていた。
 「勝てる訳ないって分かってたでしょう? だったら最初っから来なきゃ良かったじゃん。そうすればおまえだって死ななくて済んだのに」
 マレの疑問は本心からのものだったが、同時に相容れない相手への冷笑も滲んでいた。血まみれで顔を青白くしていくハルを見下ろして、マレの口からは十数年の付き合いで蓄積された相手への嫌悪が自然と吐き出されていった。
 「っていうかこれは今日までのツケだよね。その気になれば私はいつだってこんな風におまえを殺せた。そんなことも分からないでおまえはずっと私に突っかかって来たんだ。今そのツケを払ったんだよ。無能。凡人。身の程知らず! ざまあみろ。私はおまえとは違う! ざまあみろざまあみろ!」
 マレは哄笑した。雨音の中でマレの高い声が響き渡る。気分が高揚してしょうがなかった。それは同族を手に掛けることへの精神的な動揺が齎す躁状態の表れでもなかった。
 「……そうやって。内心で他人をバカにして来たんだろ。おまえは」
 今際で、ハルはマレを睨む視線を緩めずに熱い怒りを滲ませた声で言った。
 「そうやって他人を何とも思っていないから、平気で他人に迷惑を掛けられる。自分勝手な小遣い稼ぎで雛を殺して、庇ってくれたロワ先生のことも育ててくれた両親のことも置き去りにして、自分一人で無責任に村を逃げようなんて思えるんだ。私はおまえを軽蔑するよ」
 「軽蔑しようが何だろうが、死ぬのはおまえで生き残るのはこの私だよ。自分勝手だろうが無責任だろうが、力があるから私は逃げられる。無力なおまえは死ぬ。死ぬんだよ! アハハハハハッ」
 ハルの熱い怒りの言葉に、マレは冷ややかな嘲笑で応じてのけた。今なら相手が誰だとしても、どこまででも冷酷になれるような心地がした。
 「そんな考えだからおまえはずっと一人だったんだ。クソ野郎め。地獄に落ちろ」
 「一人で死ぬのはおまえだよ。バカ女! ばかばかばかっ!」
 マレの嘲りは留まるところを知らない。
 「いじめっ子! 一生私の前からいなくなれっ。このまま死ね無能! 雑魚雑魚雑魚! 凡人! 私はおまえとは違う! 私はおまえとは違う!」
 ハルは最早何も言わなくなっていた。その場で首を項垂れて濡れた地面に向けて俯いている。やがてその全身からあふれ出る血と共に最後の力が失われ、人形のように力なくぬかるみの中へと倒れ込んだ。
 「ざまあみろばかっ! 一人で死ね! 村で死ねっ! こんな辺鄙な村で何にも出来ないままで一人で死ね! 無能! 凡人! 私はおまえとは違う! 私はおまえとは違う! 私はおまえとは違う! ……あははははははっ。あは。あはははははははっ!」
 マレの哄笑が鳴りやむことはなかった。

 〇

 喉が枯れる程笑い続けてから、マレは幼馴染の死体から背を向けて村の出口へ向かった。
 荒野へと出る。大雨の中を疲弊した体を引き摺るようにして、ぬかるみに満ちた不毛の地を進む。普段ならこんな雨の日に村の外に出ることはなかった。体中がずぶ濡れになっているにも関わらず外は蒸し暑く、激しい喉の渇きと共に頭痛と眩暈も微かに感じた。
 やがて耐え難い程くたびれたマレは近くにあった岩に座り込み休憩を取った。金の入った麻袋と共に持ち出しておいた水筒の中身を魔法で満たす。喉を鳴らして水を飲むと少し気持ちも落ち着いて、自分がこれから捨て去ることになる村に視線をやった。
 村はもう小さくなり始めていて中の喧伺えない。そう言えば村の頭上を飛び回っていた竜の姿もなくなっている。辛抱が効かなくなって村へと降り立ち、今頃は役場にでも行っているのかもしれない。
 ……どうしてこんなことになったのだろう?
 ……私はどのくらい悪かったんだろう?
 雛を殺したのは自分だったが、それはアビエニア法で許された行いだった。魔物の世界は弱肉強食で、竜とは言え雛が殺されることは相手が魔法使いでなくてもありふれたことで、それがアトカス村のマレの仕業だと竜にバレる確率は限りなく低いはずだった。竜はそれを他者から、魔界の支配者たる悪魔族の一人から教わったとシンに言ったが……。
 ……そもそも、どうしてマレは翼の捥げた竜の雛に出会ったのか?
 瀕死状態でもなければ、雛とは言え竜の単騎撃破はマレにとっても危険を伴う。雛が万全の状態ならばマレとて手を出そうとはしなかったはずだ。そして竜の雛は蚊トンボのように翼を根本からもぎ取られていた。事故や病気であんな状態にならないことを考えると、何者かによって翼を引きちぎられたことを意味している。だが狩りが目的なら、そこまで弱らせておいてトドメを刺さないなどということが果たしてあるのか?
 誰がいったいそんなことをした?
 霧雨の中で一体の人型がぼんやりと浮かび上がり、マレの前に姿を現した。
 有栖川涼子が雨の中で微笑みを浮かべている。この大雨だというのにその体は何一つとして濡れていなかった。服は新品のようで髪は滑らかな状態を保っていて肌には水滴一つない。その異様さにマレは瞠目した。やはりこいつは普通じゃないと感じた。
 「村を捨てて逃げて来たのですね」
 愛らしくも瀟洒な笑みだった。大人の女性としての上品な笑みでありながら、どんな年代の少女よりも愛らしくもある。
 「しぶといですね。頑張りますね。可愛らしいですね。わたしはあなたのような人がとっても好きです。頑張り屋さんで正直屋さんで、浅ましくて愚かだけれど、自守る為だけにはいくらでも一生懸命になれる人。もう大好きです。食べちゃいたくなるくらい」
 有栖川はマレの濡れた頬に手をやった。真っ白で滑らかなそれは支配の手でありマレは怖気を振るった。
 「ふつうはもっと別の人が選ばれるんですよ? もっと勇敢だったり優しかったり、人並に愚かで自分本位でも、最後の一線だけは超えないような人の方が、あなたのような立場には選ばれやすいんですよ。何せ愛されなければ務まりませんから。応援され共感されなければいけませんから。ただの逆張りじゃないとしたらある種の挑発か、悪ふざけの類だと思うんですけど……世の中には信じられない程愚かな神様がいるのだわ。何せ、わたしのような者を世界に存在させるくらいだから筋金入りです」
 「……お、おま。おまえ。おま、おまえが……」
 「わたしがどうかしましたか? ええ。言いたいことはたくさんあると思いますよ? 結構、ジタバタ動きましたからね。ええ。三回も。でも良かったわ。どうやら決着がついたみたい」
 「何を言って……」
 「来ます」
 翼をはためかせる音がしてマレは思わず振り返った。村の方から竜が雨雲を切り裂くようにしてマレの方へと飛んで来ていた。
 竜がマレの元へと到着するのには瞬きする程の時間も必要としなかった。それは矢のようにマレに向かって飛んで来る。
 竜は有栖川に気が付いていないようだった。それどころかまるで有栖川が物質的にも存在していないかのように振舞った。有栖川の肉体をすり抜けるようにして竜はマレの眼前へと到着した。竜が現れた恐怖よりもそのことの方がマレを動揺させた。
 ……竜は有栖川が見えていない? 触れられない? と、いうよりも、ひょっとして有栖川は私にだけ見えている存在なのか?
 「……貴様がアトカス村のマレか」
 マレは震えあがった。竜にではない。こいつはただの道化だ。恐ろしいのは、マレを地獄へと誘う無慈悲で絶対的な力を振るう何者かの方だ。
 「村の役場で聞いた。村から逃げて行く娘がそうだとな。貴様で間違いないだろう」
 シンは言っていた。言い伝えによれば、古の時代、悪魔は人間社会に紛れ込み気に入った相手に取り入っては、その運命を狂わせ破滅へと陥らせて遊んでいたと。
 授業でロワは言っていた。今でこそ魔界の支配者となった悪魔だが、その本質はただの悪戯好きで、人間社会に大小の混乱をもたらして愉悦に耽る、理由なき悪意そのものであると。
 だがあいつは……私を陥れたあいつは……本当にそれだけで説明が付くような存在なのか? ふざけた名前をしてふざけたことを言って……わたしはいったい何に目を付けられたのだ? 何によってこんな運命に誘われたのだ?
 「釈明はあるか?」
 マレは首を横に振った。もう何を言ってもどうにもならなかった。
 「……贖ってもらうぞ」
 竜はその爪を横薙ぎに振るいマレの体を引き裂いた。腰のあたりで真っ二つになったマレの体の内、上半身が竜の傍へと仰向けに転がる。失われていく視覚と聴覚が、下半身が遠くのぬかるみに落ちていくのを見聞きしていた。
 満足した様子もなく、竜はマレの体を見下ろしていた。そしてしばしの間、鈍色の空を見詰めながら雨に打たれた。頭に降り注ぐ水滴が竜の瞼を伝ってぬかるみへと落ちていく。そうやって静かな時間が幾ばくか流れた後、静かに翼を広げて竜はその場を飛び去って行った。
 死にゆくマレだけがその場に残される。
 荒野の真ん中でゴミのように朽ちていく自分をマレは感じている。
 ……あいつらと何も違わなかったんだ。マレは感じている。どれだけ努力してもどれほどの力を身に着けても、無能な凡人とバカにしていた村人達と何も変わらなかったのだ。世界には世界そのものを両手に抱えて如何様にも弄ぶことの出来る存在がいて、その世界の中でどれほどの力を持とうとどう振舞おうと、何も変わらないのだということをマレは痛感する。声を張り上げてそのことを世界に知らせ、慟哭したくてたまらなかったが、 死にゆくマレにその力は残されていなかった。
 竜が去った視界に有栖川が戻って来て、一切の水滴を帯びないままマレのすぐ傍に座り込み、頬に手をやる。
 「ああ。悲しいですね。可哀そうですね。頑張りましたね。情けないですね」
 呟きを漏らしながら、有栖川はボロボロと涙を流して両手でそれを拭っている。
 「とってもとっても可愛らしい人だったのに。これで終わりだなんてもったいないわ。ええ。十分に楽しんだけれど、とってもとっても素敵だったけど、それでもこれで終わりだなんて。もったいなくて涙が出て来そう。それでも……ええ。仕方がないわ」
 有栖川はどこからともなく爬虫類の被膜で出来たような一枚の翼を取り出した。それは竜の雛からもぎ取ったであろう翼であり、血が止まり雨に濡れたそれは作り物のようだった。
 「さようならマレさん。わたしはあなたが大好きだったわ」
 捥ぎ取られた竜の雛の翼を、有栖川はマレの胸元へとそっと手向けた。それは友の亡骸に一輪の花を添えるかのような優しい仕草だった。
 マレの命が失われていく。考える力が失われていく。有栖川はそんなマレを涙を流しながらじっと見つめ続けている。やがてその視界が閉ざされてその命が完全に消え去ると、ゆっくりと音もなく立ち上がり、悪魔はどこへともなく消え去って行った。
 雨音だけが残される。物語は終わる。
粘膜王女三世

2026年08月22日 01時27分28秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:私はあいつらとは違う。
◆作者コメント:ちいかわの映画見て来ました。面白かったです。

 それとは何一つ関係のない話なのですが、何かに影響されて筆を取るというのは僕にとってしょっちゅうあることで、しかしそれがここまで露骨なのは、珍しいことではある気がします。

 感想よろしくお願いします。

2026年09月05日 23時17分16秒
+10点
Re: 2026年09月26日 23時13分24秒
2026年09月05日 19時01分36秒
+30点
Re: 2026年09月26日 23時07分57秒
2026年09月01日 21時11分45秒
+30点
Re: 2026年09月26日 22時56分34秒
2026年08月26日 20時33分17秒
+40点
Re: 2026年09月10日 21時51分28秒
合計 4人 110点

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