| 魔女はいない |
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| 祖父の家の鍵を渡すと、町の音がひとつ遠くなった。 駅までの道をまっすぐ歩けなかった。 不動産屋の白い封筒を鞄に入れたまま、町の外れのバス停まで来た。指にはまだ空き家の匂いが残っていた。乾いた畳、古い油、流しの下の湿気。どれも手を洗えば落ちるはずなのに、爪のあいだに小さく詰まっていた。 待合所のベンチに座り、祖父の台所から持ち出した缶を開けた。昔は飴が入っていたはずの缶。蓋の縁は錆び、振ると底で二つだけ鳴った。片方を包み紙ごと取り出す。紙は湿気を吸って、端が指に貼りつく。 口に入れると、硬かった。ぶどうなのかハッカなのか、ただ砂糖が古くなっただけなのかもわからない。舌の上に小さな石がある。そうしているうちに、味のないことも気にならなくなった。 鞄の中で携帯が一度震えた。鳴る前にやめたような、短い震え。取り出さなかった。普段ならどこかで鳴っているはずの通知音や、空調の低い唸りや、人の話し声が、このバス停にはなかった。飴が歯に当たる乾いた音だけが、やけに近く聞こえる。 次のバスまで一時間以上あった。 向かいには山が見える。杉の列が稜線を作り、その奥に、もう少し濃い緑が沈んでいた。子供のころ、あの山に入った。小屋があって、女の人がいた。帰ってから祖父に話したら、祖父は玄関の上がり框に座って、泥だらけの靴紐をほどきながら言った。 魔女だな。 驚きもせず、嘘扱いもしなかった。その言い方だけが残っている。 祖父の押し入れから古い地図が出てきた。山の中ほどに赤い丸があり、横に祖父の字で、立入禁止、と書かれている。地図は不動産屋に渡さなかった。渡さなくていいものは、だいたい捨てればよかった。それでも捨てず、折ってリュックの底に入れた。 行くつもりではなかった、と言えるほど強く逆らったわけでもない。 飴を噛まずに口の端へ寄せて、立ち上がった。 山の入口までは歩いて二十分ほど。 途中の坂で少し息が上がった。もう若くない、と人に言うほどではない。けれど靴の中で足の指が汗ばむたび、その言葉は頭のすみを通っていった。 ガードレールの一部が曲がり、子供ならくぐれる、大人なら体を横にすれば通れる隙間になっていた。他にも入れる場所はいくらでもあるのに、昔からここだけが入口だった。理由はたぶん、初めて祖父に連れられて来たときに、ここから入ったからだ。 森の土は濡れていた。靴底が沈むたび、腐葉土の匂いが立つ。道らしい道はなくなっていたが、足は勝手に斜面を選んだ。枝を避け、下草の薄いところを踏み、倒木のある場所で少しだけ左に回る。思い出しているというより、先に体が動いた。 三十分ほどで小屋が見えた。 記憶より小さかった。壁板は数枚落ち、屋根は半分ほど苔に沈んでいる。窓だった穴には蔓が入り、床下から若い木が一本伸びていた。荒らされたようではなかった。人の手が離れたあと、長い時間をかけて、山が少しずつ取り返しているだけだ。 だから、裏手で声がしたとき、先に来たのは恐怖ではなかった。 「あ、誰か来た」 明るい声だった。回り込むと、草の上に首があった。 女の子の首だった。黒い髪が草の上に広がっている。顔立ちは高校生くらいに見えた。記憶の中の彼女と同じ顔で、変わっていない。ただ、首から下がなかった。 切られたようには見えなかった。首の下端は滑らかに閉じていて、最初からそういう形のものが、たまたま草の上に置かれているようだった。 彼女は目を開け、こちらを見た。しばらく眺めてから、顔を少し明るくした。 「夏の子だ。久しぶり」 返事が出なかった。異様なのは、首だけの人間が草にあることのはずだった。けれど先に体が遅れたのは、その声の近さのほうだった。長く会っていない知り合いに、思っていたより普通に呼びかけられたときの、足元の合わなさ。 「……覚えてるんですか」 「覚えてるよ。火のそばでパン食べた。硬いやつ。ずっと泣いてた」 「泣いてましたか」 「泣いてた。声は出てなかったけど」 そう言われると、否定できなかった。子供のころの自分が、どう泣いたかまでは覚えていない。火の色と、濡れた靴下と、誰かの手の温度だけが残っていた。 「今日は泣いてないんだね」 彼女は真面目な顔で言った。 「迷ってませんから」 「そっか」 少し間があった。 「じゃあ、来たんだ」 「……どうでしょう」 「いるじゃん、ここに」 彼女は首だけで器用にあたりを見回し、小屋の前の切り株へ目を向けた。 「座りなよ。そこのほう、日が当たる」 言われて近づいた。隣に座ってから、彼女を草の中に置いたままなのが気になった。持ち上げてもいいかと聞く前に、彼女は「あ、運んでくれる?」と軽く言った。 首を持ち上げた。 思ったより軽い。けれど、重さはあった。手のひらに顎の丸みが乗り、指の上へ髪が流れる。髪は見た目より多く、水を吸った布みたいに手首へ沈んだ。 温かかった。 切り株の上に置くのは落ちそうで、地面に直接置くのもためらわれた。リュックを下ろし、その上にタオルを敷いて、彼女をそっと置いた。 「丁寧だね。地面でいいのに」 「地面は」 「毎日地面だよ」 森の中は静かだった。静かと言っても音がないわけではない。枝が擦れる音、虫の羽音、遠くの沢の細い水音。彼女は、何があったのかも、なぜ来たのかも聞かなかった。昔からそうだった。ただそこにいて、こちらが座れば一緒に火を見て、黙れば黙った。 彼女に会いに来たのではなかった。 少なくとも朝の時点では、空っぽの小屋を見て帰るつもりだった。祖父の家には古い皿や衣類や領収書が、ありすぎるほど残っていた。けれど祖父はいなかった。 山でも同じことを確かめるつもりだった。小屋があり、沢があり、切り株があり、そこに魔女はいない。そういう順番になるはずだった。 「おじいちゃんは」 「五年前に亡くなりました」 「ああ」 彼女は草のほうを見た。 「山菜、置いてってくれたことある。入口の石の上。何回か」 「あなたにですか」 「うん。会わなかったけど。見えてたよ」 「怖かったんだと思います」 「わたしが?」 「山が」 彼女はしばらく考えてから、短くうなずいた。 「それでも置きに来たんだね」 リュックの脇から飴の缶を取り出した。もう一粒残っている。手のひらに出したところで、彼女が見ていることに気づいた。 「食べますか」 「うん」 あまりに自然に言うので、迷っているほうがおかしい。包み紙を剥がし、できるだけ指が唇に触れないようにして、飴を彼女の口へ入れた。 彼女は舌でころりと転がした。 「甘い」 「まだ味しますか」 「するよ。古いけど、甘い」 自分の口にある飴は、いつのまにか小さくなっていた。舌で探すと、薄く、砂糖の味がした。さっきまでなかったのか、気づいていなかったのかはわからなかった。 日が傾きはじめた。 携帯電話は圏外だった。最終のバスまでには戻れそうにない。小屋を覗くと、床板は何枚か腐って穴が空いていた。寝られないことはないかもしれないが、寝たまま下へ落ちても不思議ではなかった。 「小屋は無理そうですね」 「もうだいぶ山だね。半分くらい」 「外で火を焚きます」 「できる?」 彼女の声には、からかいも心配もなかった。ただ聞いた。 「たぶん」 祖父の道具箱から持ってきた折りたたみナイフがあった。持って帰ってどうするつもりだったのか、自分でもわからない。ポケットから出すと、彼女が近くで見たいと言った。柄を目の前へ持っていく。 「いいナイフ。研いでないけど」 「わかりますか」 「手があったころ、だいたいこういうのばっかり見てたから」 「手は、いつから」 「けっこう前。足、腰、お腹、腕。腕がいちばん困ったかな」 「痛くは」 「ないよ。朝起きると、減ってる。あれ、って」 彼女は軽く言った。軽すぎて、こちらの指だけがナイフの柄を強く握った。 「枝を拾ってきます」 「いってらっしゃい」 少し離れた。彼女が見えなくなるところまで行って、やっと息を吐いた。斜面の上には乾いた枝が少なかった。昨日か一昨日に雨が降ったのだろう。手ごろな太さのものを選んで折り、脇に抱えた。 そのまま下れば、町に戻れなくはなかった。暗くなる前に急げば、どこかの道へ出られるかもしれない。 湿った枝が腕の中で重かった。火の匂いはまだしない。それでも、戻る方角だけがわかった。 小屋の前に戻ると、彼女はすぐこちらを見た。 「おかえり」 その声を聞いてから、立ち去るという手もあったことに気づいた。 枝を割り、細いものを組み、祖父の家から持ってきたライターで火をつけた。最初は青く小さかった火が、枯れ葉を舐め、やがて橙色に膨らんだ。煙が目にしみる。手の甲に熱が来た。 「上手」 「普通です」 「子供のときは、マッチ擦れなかった。棒だけ折ってた」 「そんなに下手でしたか」 「うん。でも真剣だったよ」 火を見る彼女の顔は、記憶の中より幼かった。昔はもっと大人に見えた。泣いている子供の前で、困らない人に見えた。 最初の日のことは、順番がめちゃくちゃだった。斜面を滑って膝を擦りむいた。知らない鳥の声がした。暗くなる前に帰らなければと考えて、考えるほど道がわからなくなった。泣き声を我慢しているうちに、息が喉で詰まり、声が出なくなった。そのとき、木のあいだから彼女が出てきた。今より背が高かったはずだ。少なくとも、こちらからはそう見えた。手を差し出され、その手を取った。掌は乾いて、指の付け根に硬いところがあった。火の前に座らされ、硬いパンをちぎって渡された。 火だけ見ててね。 そう言われた。森が怖くなくなったわけではない。ただ、怖いものの置き場所が、火の外側へ少しずれた。 その夏、学校が休みの日には山へ入った。ガードレールの隙間をくぐり、小屋の前で火を起こした。マッチの擦り方、枝の削り方、ナイフを閉じる前に刃を拭くことを、彼女に教わった。 「前は、もっと落ち着いていた気がします」 彼女は少し目を丸くした。 「わたし?」 「はい」 「背伸びしてたんだと思う。泣いてる子の前で、こっちまで頼りなかったら困るし」 そう言って笑った。笑い方は軽いのに、火のそばで長く置かれていた石みたいな、妙な温度があった。 リュックの底に桃の缶詰があった。祖父の台所に残っていたものだ。缶切りはなかったので、ナイフの先でこじ開けた。金属がめくれ、甘い匂いが立つ。 「食べられますか」 「あんまり。でも桃は好き」 スプーンは一本だけあった。シロップを少し掬い、彼女の口元へ運んだ。彼女は静かに啜り、目を細めた。 「おいしい」 二口目を運ぶと、今度は小さく首を振った。 「もういい。味、わかった」 残りを食べた。甘かった。口の奥が少し痛むほど、はっきり甘かった。煙の匂いと混ざって、昔の夜が近づいた。 「水、汲んできます」 「沢、覚えてる? 左に下りて、倒れた木を越える」 「覚えてます」 沢の水は冷たかった。コッヘルをすすぎ、手首まで水に浸けた。皮膚が縮む。顔を洗うと、目の奥が少し痛んだ。 もう少し下れば町へ出られる。火のある場所へ戻るには、登らなければならない。 戻った。 彼女は火の向こうでこちらを見た。 「よかった」 「何がですか」 彼女は答えず、曖昧に笑って、火へ目を戻した。 夜になると、草の露が増えた。彼女の髪の先に、枯れ葉や草の種が絡んでいる。首を動かすたび、黒い束が少し遅れて地面を擦った。 「ねえ」 「はい」 「髪、ひどい?」 「少し」 「櫛ない?」 リュックの中を探ると、べっ甲に似せた安物の櫛が出てきた。リュックの中を探ると、べっ甲に似せた安物の櫛が出てきた。祖父の洗面台の引き出しに残っていたもので、歯の一本が欠けていた。捨てるつもりで手に取り、そのまま入れていたものだった。 「あります」 「人がいるときくらい、ほどいておきたいんだよね」 片手で首の後ろを支え、片手で毛先から櫛を入れた。髪は冷たいところと温かいところがあった。火に近い側はぬるく、地面に触れていたところは夜露を吸っている。歯が引っかかるたび、手首に重さが移った。 「痛いですか」 「痛くない。久しぶりで、変な感じ」 「自分ではできませんからね」 「腕がないとね。思ったよりいろいろできない」 「名前は」 ふと聞いてみた。 彼女は火を見たままだった。 「忘れた」 「忘れるものですか」 「呼ばれないと、そうなるよ」 櫛が髪を通った。火が小さく爆ぜ、湿った枝の中の水が鳴った。 「でも、魔女はいないよ」 彼女は穏やかに言った。 「少なくとも、みんなが思ってるようなものは」 「体は、戻らないんですか」 聞いてから、聞き方の悪さが舌に残った。彼女は怒らなかった。 「戻すやり方は知らない」 「探したことは」 「手があったころは、少し。葉っぱを煎じたり、石を並べたり、火に名前をつけたり。だいたい楽しかっただけ」 彼女は火を見ていた。 「何かを直せるなら、この小屋も先に直してるよ」 屋根の穴から、薄い星が一つ見えた。 「困りますか」 「何が」 「消えていくこと」 彼女は首を少し傾けた。髪が草を擦った。 「困る日はある。腕がないと髪がほどけないし、足がないと沢まで行けない。でも、山のものってみんなそうじゃない? 葉っぱも落ちるし、木も倒れる。小屋も、あなたのおじいちゃんも」 そこで彼女は言葉を止めた。 「ごめん」 「いえ」 火の芯が赤くなっていた。枝を足した。 それきり、しばらく話さなかった。 夜が深くなったころ、藪の奥で何かが動いた。草を踏む音が、火の外側をゆっくり回る。低い鼻息、湿った土を掘るような音。 「来た」 彼女の声が低くなった。 暗がりに二つの光が浮いた。猪だった。黒い肩の線が、藪の下で少しだけ動いた。 「火のついた枝を持って。投げないで、まず見せて」 言われるまま、燃えさしを取った。熱が手の甲を撫でる。目が一度消え、少し右に現れた。 「回ってる。左へ来る」 火を掲げた。口の中が煙でざらつく。心臓の音が乱れた。耳ではなく喉で鳴った。 「声出して」 腹の底から叫んだ。何を言ったのかはわからない。声が木々に当たり、戻ってきた。叫び終えると息が短く切れた。立ち上がった膝に、久しぶりに力が入っている。指の腹が、熱い枝のざらつきをひとつずつ覚えていた。 猪が止まる。燃える枝を振ると、火の粉が散った。橙色の粒が夜へばらけ、その一つ一つがすぐ暗くなった。 猪は少しずつ退いた。藪の向こうで枝が折れ、それから音が消えた。 座り込むと、手が震えていた。指の間に枝の熱が残っている。火が近すぎて、頬が熱かった。火から遠い背中は冷えていた。 「上手」 彼女は言った。 少し遅れて、 「昔のわたしより上手かも」 「あなたも追い払ってたんですか」 「うん。火がいちばんきく。腕がなくなってからは声。あと歌」 「歌ですか」 「変な歌。自分で作った。獣はたぶん嫌がってた」 「歌ってください」 彼女は少しだけ黙った。火の向こうの顔が、遠くのものを探すようになった。 「少しだけね」 歌は言葉にならなかった。節だけだった。最初の音は風に消え、二つ目から細く残った。上手ではなかった。それでも火のまわりの空気が丸くなった。子供のころ、その歌を聞きながら眠ったのだと、まぶたの裏が先に思い出した。 「変でしょう」 「覚えがあります」 「そっか」 彼女はしばらく火を見ていた。 枝を足しながら、長い夜を過ごした。話は細かく、切れ切れだった。小屋は昔、自分で建てたわけではなく、誰かの炭焼き小屋を直したこと。ようかんを一度だけ食べたことがあり、味より包み紙のつるりとした感触を覚えていること。 「下は今、何があるの」 「何が、というと」 「食べるもの。季節の」 「筍かもしれません。あと、桜はもう終わったと思います」 「筍。焼いたやつ、食べたい」 「持ってきます」 彼女はすぐには返事をしなかった。火から目だけをこちらへ移した。 「今度?」 「はい」 「桃も」 「桃缶なら」 「ようかんも」 「わかりました」 「約束?」 「約束します」 彼女は笑った。その一瞬だけ、火から目が離れた。けれど、すぐに顔は火へ戻った。 「さっき沢に行ったとき」 「はい」 「帰るのかと思った」 こちらを見ずに言った。 「そんなふうでしたか」 「うん」 火の粉がひとつ上がり、消えた。 彼女はそれを見ていた。 「今日は、ちゃんと来た日だね」 返す言葉は出なかった。枝を一本足した。 火がその枝をしばらく拒み、やがて端から赤くした。 「前は上から落ちてきた。道を外れて、泣きながら。今日は足音が小屋の前を通ったとき、こっちに来るってわかった」 「足音で」 「わかるよ。誰も来ない時間のほうが長いから」 眠りかけては起きた。壁板にもたれ、まぶたが落ちる。火が低くなると目が覚める。彼女は眠っていなかった。目を開けて、火を見ていた。 「寝ないんですか」 「寝ると、朝がすぐ来る気がする」 その声は軽かったが、軽いまま遠かった。 空が少しずつ白くなった。 先に変わったのは、彼女の声だった。距離は同じなのに、声だけが少し向こうから来るような感じ。火の煙が薄くなり、鳥が一羽鳴いた。枝の赤い芯は灰の下でじっとしていた。さっきまであれほど鳴っていた虫の声も、ひとつずつ白い空気に沈んでいった。 彼女は火を見ていた。 「誰も来ない時間のほうが長いから」 夜にも同じ言葉を聞いた。同じ言葉なのに、火の赤と朝の白のあいだで、少しずれていた。 「朝日、見たい」 彼女は言った。 「尾根の、木が切れてるところ?」 「覚えてるの」 「たぶん」 「連れてって」 首を持ち上げた。 夕方より軽かった。重さがなくなったのではない。重さが、こちらの手に届く前にほどけていくようだった。髪だけがまだ腕へかかり、濡れた束が肘の内側に溜まった。 「軽くなってます」 「朝はちょっと弱い」 「急ぎます」 「転ばないでね」 獣道を登った。空が明るくなり、根や石が見えた。子供のころは彼女に手を引かれていた。今は自分が彼女を運んでいる。右へ曲がるところで迷うと、彼女が小さく「そっち」と言った。 尾根に出ると、東の空が赤かった。雲の薄いところから光が差し、山の稜線だけが黒く残っている。夜の火と同じ色なのに、ずっと遠かった。 「きれい」 彼女は言った。 「何回見ても、これはいい」 風が吹いた。髪が持ち上がり、腕から少し離れた。重さはもうほとんどなかった。 「髪、絡んでる?」 前髪に草の種が一つついていた。指で取った。髪の冷たさが指先に残る。その一本だけで、まだそこにいると思えた。 「大丈夫です」 「ならいい」 草の上にそっと降ろした。朝露が髪についた。夕方のようには沈まなかった。軽すぎて、風のほうが勝っていた。 「今度、ようかん」 「持ってきます」 「桃も」 「はい」 「筍は、焼けたら」 「焼けたら」 彼女は目を細めた。 「来るなら、迷わないで」 「迷いません」 その返事がどこまで届いたのか、わからなかった。 風が吹いた。 手に残っていた温度が抜けた。 落ちたのではなかった。草の上で、するりとほどけた。目に見えない水が土へ染みるみたいに。 草の上に黒い髪だけがあった。さっき取った草の種が、指先の皺に挟まっている。屈んで髪に触れると、朝露の冷たさだけだった。 鳥が鳴いた。空が明るくなった。黒い髪は光を受けると、ところどころ赤く透けた。それから、髪もほどけた。細い束が輪郭をなくし、草のあいだに混ざった。最後に残ったのは、草の種と、濡れた葉だけだった。 しばらく腕を曲げたままでいた。 何も抱えていない腕は、形だけが残っていた。ほどこうとしても、どうしていいかわからなかった。 山を降りた。 小屋の前を通った。焚き火は白い灰になっていた。壁板は木にもたれたまま立っている。彼女を置いたタオルには、髪の水分でできた細い濡れ跡があった。灰の近くへ指を寄せると、まだわずかに熱があった。夜があったことを、目より先に皮膚が信じた。 麓へ出て、バス停に座った。 ポケットに、飴の包み紙が残っていた。もう中身はなかった。舌の上には、さっき食べた桃の甘さがまだ少しあった。 バスが来た。乗った。窓から山が遠ざかった。杉の列が同じ緑ではなく、一本ずつ違う色をしていた。窓に映る手は、まだ何かを支える形をしていた。 アパートに戻る前に、スーパーへ寄った。桃の缶詰を二つ買った。ようかんを買った。筍は水煮しかなかったので、迷って買わなかった。レジ袋の中で缶が重く鳴った。 帰り道のコンビニで、使い捨てのスプーンを二本取った。一本を戻しかけて、戻さなかった。 部屋に戻ると、冷蔵庫へ桃缶を入れた。ようかんは流しの横に置いて、スプーンを二本、その隣へ並べた。片方だけ少し斜めになった。直そうとして、手を止めた。 次の休みに行こうと思った。 日曜日の朝、リュックに桃缶を二つ入れた。ようかんを入れた。スプーンを二本入れた。櫛も入れた。 山の入口は同じ形で空いていた。ガードレールの曲がった隙間を通ると、杉の匂いがした。獣道の土は乾いていて、足は迷わなかった。 小屋の裏に回った。 草だけがあった。 小屋の前には、焚き火の跡が薄く残っていた。灰は雨で流れ、黒い輪だけが土に沈んでいた。タオルの濡れ跡はもうなくなって、切り株には小さな蟻が歩いていた。 尾根まで登った。 東の空は朝の色を失って、明るいだけだった。草は伸び、露はまだ残っている。あの朝に髪が広がった場所を探したが、正確にはわからなかった。どこも同じように濡れて、どこも同じように光っていた。 腰を下ろした。 桃缶を開けた。甘い匂いが立った。スプーンを二本出した。一本を手に持ち、一本を右側の草の上に置いた。草が少し沈んだだけだった。 桃を掬った。 右へ差し出しかけて、手が止まった。スプーンの先からシロップが落ち、草の葉についた。葉が重みで少し傾き、すぐ戻った。 自分で食べた。 甘かった。 ようかんを開けた。黒い菓子を半分だけ切った。歯に少しくっつく。包み紙の内側が、光を受けてぬるく光った。 残りの半分を包み直し、右側の草に置いた。櫛を出した。使う髪はなかった。欠けた歯を親指でなぞると、夜の髪の引っかかりが指に戻った。温度はなかった。重さもなかった。 魔女はいない。 風が吹いて、缶の縁に触れたスプーンが、小さく鳴った。 |
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柊さかな 2026年05月03日 23時59分49秒 公開 ■この作品の著作権は 柊さかな さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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| Re: | 2026年05月23日 20時38分50秒 | |||
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| Re: | 2026年05月23日 20時33分50秒 | |||
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| Re: | 2026年05月23日 20時29分31秒 | |||
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| Re: | 2026年05月23日 20時23分46秒 | |||
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| Re: | 2026年05月23日 20時14分31秒 | |||
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| Re: | 2026年05月23日 20時10分54秒 | |||
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| Re: | 2026年05月23日 19時59分00秒 | |||
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