【長編】電気泥棒に春はこない

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 アンドロイドっていうのは、幽霊なんだよ。
 彼女が遺したその言葉が、月のゴミ捨て場で凍えているあいだも、ずっと頭にこびりついて離れなかった。


第一話 魔女と聖女

1-1

 月は灰色の静けさに包まれている。
 静けさと言っても、まったくの無音ではない。どこか遠くで換気ファンが唸り、金属の軋みが遅れて伝わってくる。薄い天蓋の内側に張り付いた霜が、頭上に広がる星々の光を散らしている。冬の光だ。

 街外れには錆びたフェンスに囲まれたゴミ捨て場がある。塗料の剥げた注意書きが「立入禁止」を誰にともなく告げ、ありとあらゆるガラクタが重力を半ば無視して山と積み重なっている。扉のない冷蔵庫、液晶が割れたモニター、スプリングの飛び出したソファ、折れたテニスラケット、賞味期限の切れた魚の缶詰——まるで放棄された文明の墓場みたいだ。

 本物の墓場であれば、墓参りする者がいそうなものだが、ガラクタ山と呼ばれるこの場所には、ほとんど誰も近づこうとしない。なぜなら、そこには魔女が住んでいるからだ。正確には、ゴミ捨て場の入口のすぐ側に乗り捨てられた大型トレーラーが、彼女の数ある秘密基地のうちの一つだった。

 トレーラーのハッチが軋みながら開き、少女がひょっこりと顔を出す。ロクに手入れもしていない白銀の髪が、寝癖でアンテナのように跳ねている。虹彩の色が薄い瞳。無表情にも見えるし、眠そうにも見えるが、単にいつもそう見えるというだけだ。色気もへったくれもない汚れた作業着の上に、小さな焦げ跡のついたぶかぶかのベンチコートを羽織っている。アンドロイドのくせに吐く息が白いのは、人間を精巧に真似て作られているからだ。もっとも、月に住むすべてのアンドロイドがそうなのだけれど。

 ガラクタ山の不安定な足場に、少女——シズクは慣れた様子で最初の一歩を踏み出す。足の裏で何かが軋む音がする。次の一歩を置く前に、体重を少しだけ預けて、沈んだらすぐ戻れるように重心を残す。シズクがこの場所に居着くようになって久しい。宝探しはお手の物だ。どのあたりでどんなものが見つかるか、ほとんど感覚的に記憶していて、足が勝手に向かうようになっている。にもかかわらず、迷子のように立ち止まってしまったのは、いつもとは違うものが入り用だからだ。
 つまり、いつもとは違う場所に行けば良いわけだ。

 そこでシズクはトレーラーからずいぶん離れた、未分別で混沌とした区画までやって来て、あたりを見まわしながらうろつき始める。
 ふと何かに気づいて足を止めた。
 古い工場用のケーブルの束に埋もれて、鈍く黒光りするグリップが突き出ている。近づいていき、ためらいのない手つきで引き抜く。

 ——拳銃だ。

 拳銃、という以上のことはシズクには分からない。専門外である。見た目にもごつくて、シズクの華奢な手には余る感じがする。けれど、いかにも「武器」という感じが好ましい。シリンダーの側面を親指で押しながら回してみる。カチ、カチと渇いたクリックが心地良い。
 シズクはシンプルで実用的な道具が好きだ。眺めたり触ったりしているだけで楽しくなる。だからちょっと気分が乗ってしまい、目の前に両手で構えてみる。袖がずり落ちて手首に冷気が触れるのも気にせず、そのまま射線をスライドして、寒空の向こう側に狙いを定めてみたりする。宣戦布告のように。

 銃口の先にあるのは、街の中心部に堂々とそびえ立つピラミッド型の建造物——住人たちが神様と崇める発電所だ。

 その表面は滑らかな黒い素材で覆われていて、あらゆる音と光を吸い込むかのよう。存在感が周囲から浮いていて、月面に降り立った異星の遺物みたいに見える。頂上付近で微かな光がごくゆっくりと明滅している——病に侵されているかのように苦しげに。それが事実であることをシズクは知っている。神様にも寿命があるということを。

 バン、と声には出さずに撃つ真似をしてみて、ふと我に返った。独りで格好つけて遊んでいることが急に恥ずかしくなる。誰が見ているわけでもないのに小さく咳払いをし、手に持った銃を投げ捨てようとして——何かの役に立つかもしれないと思い直す。ベンチコートの内側にしまい込むと、懐で主張する重さが頼もしかった。

 気を取り直して探し物を再開する。凶器になりそうなものはいくらでも転がっていた。錆びついたチェンソー、先端の曲がったアイスピック、刃の欠けた日本刀、革の剥げた乗馬用の鞭、へこんだ金属バット、弦のないクロスボウ……。
 手直し以前に、どれも聖女様を脅迫するための小道具としてはしっくり来ない。

 やっぱり自分で作るか、とシズクは思う。

 途端に頭のスイッチが切り替わる。小さくて目立たないもの。扱いが簡単で、腕力も必要なくて、相手を無駄に傷つける心配のないものが良い。だとすれば——
 頭の中で必要なものを整理しながら、ガラクタの地面を掘り返して、使えそうな素材を手早くより分けていく。二輪車のバッテリーを外し、使い捨てカメラの昇圧回路を剥ぎ取り、ヘアドライヤーのニクロム線を確保する。
 目標が定まっているのは楽で良い。黙々と手を動かしていれば、身にしみるような寒さも、積もり積もった憤りも忘れられる。あるいは、ちょっとした後ろめたさも。

 必要なものをひと通り見繕うと、トレーラーに戻り、作業台に向かった。
 半田ごての焼ける匂いと、青白い電気火花が散る音。
 それから1時間、2時間が経って、ラフなストリートスタイルの少女がトレーラーから出てくる。肩幅よりも二周りは大きいオーバーサイズの黒いTシャツに、膝の部分が擦り切れて色あせたジーンズ。乱れていた髪の毛は後ろでしばって、企業ロゴの入ったキャップを目深に被っている。
 もちろんシズクである。
 所要時間の8割は、ファッションコーディネートに費やされた。何しろ30年ぶりに街に出るのだ。小汚い格好でうろついて、悪いことをする前に通報されてもたまらない。
 さてやるか、と自分に気合いを入れるように呟く。
 斜めがけしたボディバッグには、作り立てのスタンガンを忍ばせている。出力は調整済みで、機能はオンとオフだけのシンプルな凶器。久しぶりの友達に会いに行くにしては、ずいぶんな手土産かもしれない。けれど、友達として会いに行くわけではないから、べつに構わないのだった。

1-2

 街の風景は記憶と変わっていなかった。二階建てか三階建ての、こぢんまりとした建物が整然と並んでいる。レンガ風の外壁は近くで見ると樹脂パネルだ。きっちりとした石畳の舗装。金属とプラスチックで作られた精巧な街路樹もどき。
 昔から変化があったとすれば、全体の印象がより薄暗くなったことだろうか。家々の窓には厚い断熱シャッターが半分だけ下りていて、室内灯は豆電球みたいに弱い。街灯も、足元を照らす程度の細い光しか出していない。それでも寒々しい感じがしないのは、住人たちの生活が息づいているからかもしれない。話し声や笑い声、行き交う足音、どこかで扉が開かれ、何かが金庫にしまわれる。ささやかな日常の音と気配。

 どこかの聖女様が熱弁したおかげで、ドーム内の気候制御は固定されて、ずっと冬のままだ。季節を回そうとすれば、ヒーターの立ち上げ、循環ファンの回転数、結露対策の除湿、床暖房の調整といった面倒な機構が一斉に動く。動けば動くほど電気を食う。観客もいない舞台には贅沢すぎる演出だ。

 キャップを目深に被り直し、ポケットに手を突っ込んだまま、伏し目がちに大通りを進んでいく。
 すれ違う住人たちの視線がやけに刺さるのを感じた。はじめは服装のせいだと思っていたのだが、ふと足元が原因だと気づく。モーターを仕込んだ自作のシューズで、四つの小さなローラーが推進力を高める仕組みだ。歩くより早く、走るより滑らかに進める。
 ——うっかりしていた。べつに電力をバカ食いするわけでもないが、ここではそもそも何かを生み出すこと自体がモラル違反なのだ。今さら魔女扱いされてどうということもないが、一仕事する前に目立ちたくはない。
 ブレーキをかけて立ち止まり、つま先で地面を二度叩くと、内蔵スイッチが切り替わる。モーターの小さな唸りが止んで、ローラーが固定される。無意識にため息をついて、重い足取りを踏み出した。
 関心が薄れ、住人たちは「いつもどおりの日常」を取り戻す。シズクは小さな敗北感を味わう。 

 少し離れたところから低い鐘の音が聞こえてきた。本物の金属の響きではない。ノイズ混じりのスピーカーの音だ。
 祈りの合図。ささやかな信仰の目印。
 ちょうどうろ覚えで道案内が欲しかったところで、音を頼りに方向転換する。たどり着いた先は、大通りから一本入った場所にある教会だった。入口の脇には、節電啓蒙のポスターが貼られている。「必要な分だけ」「つけっぱなしは罪」「発電所は平等」——お役所的な規則なのか宗教的な戒律なのか、もはや誰にも区別がつかない。

 案の定、お目当てはそこで見つかった。色とりどりのガラス瓶を埋め込んだステンドグラスから、淡い光が差し込む礼拝堂。その中心に、教会の主であり、ふわふわした小動物のような少女——ヒナがいる。
 シズクのかつての同僚。誰かが冗談半分に「聖女様」と呼びはじめ、今ではすっかり親しみを込めて定着している。素朴で甘いお菓子のような匂い。威厳の欠片もない外見からは想像もつかないが、過去の大規模停電から街を救った立役者だ。今も来客に囲まれて、屈託のない愛嬌を振りまいている。金色の長い髪も、曇りのない笑顔も嘘くさいほどに明るい。

 手近な物陰——表に積み上げられた長椅子の裏に身を潜め、シズクはヒナが一人きりになる機会を窺った。ぼんやりと様子を眺めながら、発電所の管理をめぐって言い争った時のことを思い出す。

 二百年前、月面プロジェクトが突如として中断され、人間たちが月を去った直後に、発電所は原因不明の動作不良に陥った。残されたアンドロイドたちにとっては、保護者と太陽が同時に行方をくらましたのと同義の危機だった。
 その時、たまたま発電所の主任研究員の助手をしていたシズクとヒナに注目が集まった。発電所に立ち入っての根本治療を主張したシズクに対して、ヒナは電力使用量の削減による対症療法を主張したのだ。

 住人たちはヒナを選んだ。もちろん恐怖政治や洗脳に頼ったわけではない。それは説得ですらなく、彼女に備わっていたのは、もっと別の種類のカリスマだった。ただ誠心誠意訴えることで、住人たちの意識を改革したのだ。
 みんなで発電所を大切にして、貴重な電気を分け合わなければいけない。何もない月に残された自分たちは、そうやって協力しながら生きていくしかないのだと。

 論理よりも物語に動かされるのはアンドロイドも同じだった。

 かくして発電所の鍵はヒナの手に渡り、節電の時代がやってきた。あらゆる活動が自粛され、広大な区画はどんどん切り詰められて、ついにはこじんまりとした街になった。単なるスローガンにすぎなかった「発電所を大切に」というメッセージは、いつのまにか規則となり、いつのまにか教義となった。
 節電は美徳にして祈り。被創造物が同じ被創造物を崇める、この奇妙な宗教は、厳格な戒律やら過激な布教やらとは無縁でありながら、罪悪感という制裁を盾にした強烈無比な同調圧力を備えている。
 「電気を使うこと」は「他人の命を削ること」と同じ重さなのだ。

 影でじっとしていると寒さが身に染みた。待ち時間に思考の空白が生まれたおかげで、自分の場違いさを意識してしまって、気分が悪くなる。おまけにヒナはなかなか一人にならなかった。ようやく訪問者たちが帰ったと思ったら、別の集団がやって来て、またヒナと楽しそうにお喋りを始めるという具合……。
 そんなことが何度も繰り返されるうちに、形容しがたい感情のもやもやが、寒さと疲れで増幅されて、シズクの中のなけなしの思いやりやら優しさやらを塗りつぶしていった。
 あれは演技だ、とシズクは思う。プログラムだ。誰にでも愛想を振りまいて、それを苦とも思わない。みんな幸せ。本人も幸せ。なんて都合が良いんだろう。

 だからようやくヒナが一人きりになり、足早に背後に忍び寄ったシズクを振り返って、
「あっ、シズク! どうしたの久し——」と言いかけた時も、最後まで言わせず、
 スタンガンを取り出し、問答無用で押し当てた。

 もう少し心に余裕があれば、再会を懐かしむ挨拶くらいは交わしていたかもしれない。

1-3

 天井の高い礼拝堂には色あせた長椅子が整然と並んでいる。その最前列、祭壇のすぐ目の前に、椅子に後ろ手に縛りつけられたヒナがいた。この世に悪などないと言わんばかりの安らかな表情で眠っている。拘束に使ったのは配線用のビニール被覆ケーブルで、食い込まないが身動きも取れない、絶妙な締め具合だった。実にプロの仕事だ——何のプロか分からないけれど。
 
 その横で、シズクはスタンガンを片手に立ち尽くしている。
 改めて考えると、縛る必要はまるでなかった。つい興が乗ってしまったのだ。しかしヒナの無防備な寝顔や細くて白い首筋を見下ろしていると、何だかいけないことをしているような気分になってくる。
 ヒナのまぶたがゆっくりと上がる。再起動の仕方も、人間の目覚めにそっくりだ。何から何まで人間に似せられ、確実に社会の役に立つように、それでいて創造主以上の能力を持たないように、慎重に調整されたアンドロイドたち。
 ぱちくりと目を瞬かせたヒナは、シズクの顔を認めるなり、
「ん……あれ? あ、久しぶりだね、シズク! 元気にしてた?」
 と言った。偶然道端で出会ったかのような自然さ。シズクはコミュニケーションの第一歩からつまずく。説明を求められたり、非難されたりするのを想定していたのに、いきなり梯子を外された感じ。
「……あ、うん。ぼちぼちかな」
 あいまいに返事をして、気を取り直すようにコホンと咳ばらいをする。
「あのさ、頼みがあるんだけど」
 ヒナは聞く前から承諾しているような顔でシズクを見返す。その眼差しがあまりに真っすぐすぎて、つい目を逸らしたくなる。
「あなたが持ってる鍵、少しだけ貸して」
 ヒナはきょとんとした顔で、可愛らしく瞬きをする。瞬きに可愛らしいも何もない気もするが、実際にそうなのだ。とぼけているのか、本当にピンと来ていないのか。「発電所の」と付け加えると、ヒナは「ああ!」と言う顔をする。それからすぐに眉をひそめ、
「何に使うの?」
「電気が必要だから」
「答えになってないよ。それに電気はみんなのものだよ」
 急にまともなことを言う。「みんな」の中にわたしは入ってるのかな、と皮肉とも自虐ともつかない台詞が頭によぎるが、口には出さない。
「だから盗むの。でも少しだけ。街に迷惑がかかるほどじゃないから。ちゃんと何回もシミュレーションしたし」
 ヒナはあっさりと首を横に振って、
「そういう問題じゃないよ」
 とわずかに硬い声で言った。じゃあどういう問題なのか、と反論したい気持ちをぐっと抑える。
「お願い。友達でしょ?」
 恥ずかしさに耐えながら、ヒナに効きそうな台詞を放ってみるのだが、
「友達でも。駄目」
 と即答されて、あっさり撃沈した。シズクはつい無意識に指先で髪をいじる。もちろん交渉材料はあるのだけれど、駆け引きは苦手だ。さてどういうふうに切り出そうかと迷っていると、
 
 やけに明瞭なノックの音が、二回響いた。

 シズクはぎょっとして振り返り、入り口の分厚い木の扉を見つめる。——来客だろうか。適当に言いくるめて追い払わなくては。自分にそんな器用な真似ができるだろうか。ヒナに頼んだら、上手く口実をつけてごまかしてくれるかもしれない。いやいや、今ここで借りを作ると、このあとの交渉で不利になるのでは——
 さまざまな考えが一瞬で頭をよぎる。
 すべて無用な心配だった。
 返事も待たずに扉が開かれ、冷たい外気と共に不審者がヌッと侵入してきたからだ。コツ、コツ、と床を鳴らしながら、当たり前のように教会の中に入ってくる。その背後で扉がゆっくりと閉まる。

 見上げるような長身に、年季が入って黒ずんだロングコート。
 フードの下にはなぜか仮面を被っている。目の部分に開けられた二つの穴から、こちらを見つめる視線だけが感じられる。冷たくて、無機質で、まるで機械みたいだ。
 
 引きこもりのシズクですら知っている。文脈は違えど、その男は魔女のシズクや聖女のヒナと同じくらいの有名人だった。
 この街で唯一の警官だ。警察組織などとっくの昔に解体されたというのに、十数年前にどこからともなく現れ、節電のために早々と眠りについた夜の街を一日も欠かさずに見回っている。杓子定規というか傲岸不遜というか、とにかく自分の職務を果たすことだけが重要で、他人の都合にも感情にも興味がなさそうなタイプ。
 彼の名はロック。
 ヒナとは別の意味で、シズクには到底理解しがたい他人だった。
 
「なにを勝手に——」
 とシズクは抗議しようとするが、苦手意識のせいで歯切れが悪い。
「べつにお前の家じゃないだろう」
 案の定、身も蓋もない正論でバッサリと遮られてしまう。
 それからロックは、部屋の奥で椅子に縛りつけられている聖女と、その脇でスタンガンを握りしめたまま突っ立っている魔女を、仮面の奥から順番に眺めて、低い声でひと言。

「どういう状況だ」

 返す言葉もない。
 しかし焦るシズクとは対照的に、ヒナはどこにもおかしなことはないという驚異的な態度で、
「友達とお喋りしてたんです。久しぶりに遊びに来てくれたので」
 とにこやかに言い放った。ここまで堂々としていると、何だか説得力があるように思えてくるから不思議だ。椅子に縛りつけられていなければ、もっと説得力があったのだが。

 ロックは黙っていた。黙れば黙るほど圧が増し、緊張感がシズクの胃を締め上げる。ヒナが役に立ちそうもないことは分かった。やはり自分が何とかしなければ。そう思って口を開きかけたとき、ヒナがハッと何かに気づいた顔をして、
「あ、このロープ? よく分かんないんですけど、たぶんシズクの個人的な趣味——」
 なにやら公序良俗に反する誤解を招きそうな発言を、手のひらでひっぱたいて中断させた。「いたっ」と小さな声を上げ、抗議の目を向けてくるヒナに対して、「もう黙ってて」と目で反論する。

 数秒の沈黙の後に、ロックがため息と共に肩を落とした。
 表情は隠れているにもかかわらず、全身から呆れと疲れがにじみ出していた。もう少し感情的だったら、「お前たちは馬鹿なのか? それとも俺を馬鹿にしてるのか?」と怒り出していたかもしれない。願わくば、自分のことは「たち」に含めないで欲しいとシズクは思う。 

「おかしな真似はするなよ」
 ロックはそれだけ言い残すと、くるりと踵を返してあっさりと出ていった。重たい扉がバタンと閉まる音が、教会の静寂を取り戻す。見逃されたのか、保留にされたのか。とりあえずこの場は乗り切れたらしい。

「何だったんだろうね?」
 心底不思議そうな顔をしながらヒナは言う。もうどうでもいいやという気になって、シズクは椅子の後ろに回って、ヒナの拘束を解き始める。
「電気が漏れてたからじゃないかな。とっくに消灯の時間でしょ」
 なるほど、とヒナは合点がいったという顔をして、自由になった手首をさすりながら立ち上がる。
「それで、何の話だっけ?」
 そういえば何の話だったっけ、と一瞬考えてしまう。
「わたしが鍵貸してって言って、駄目だって」
 それから大げさに肩をすくめ、
「薄情だよね。話くらい聞いてくれても良いのに」
 軽口のつもりだったのだが、ヒナはふくれっ面になって、
「聞こうと思ってたよ! その前にお客さんが来ただけで」
 うん、とシズクは頷く。それから少し迷って、
「ついてきて。見てほしいものがあるから」

1-4

 外に出ると、冷気が包み込むように押し寄せてきた。月の夜は静かだ。遠くの換気装置の低い唸りや、ドームの継ぎ目を撫でる風の擦過音まで聞こえてくる気がする。
 教会の灯りを消すヒナの横顔は、その静けさに上手く馴染んでいるように見えた。シズクにはできなかったことだ。
 街灯はもう消えていて、懐中電灯だけが頼りになる。細い光の筋が石畳の道を照らし出す。取り残された暗闇が二人の足音を呑みこんでいく。

 郊外へと向かう道のりは、二人とも言葉少なだった。それで特に気まずいわけでもない。元々は同じ研究室に寝泊まりし、一緒に仕事をし、四六時中一緒にいた間柄だ。
 シズクは言わずもがな、本来はヒナも社交的な性格ではない。けれど、慣れれば人懐っこいのは確かだし、何かを期待されれば全力で応えようとする。その結果が、みんなに愛される聖女様なのだ。ちょっとだけ——いや、かなりズレてはいるけれど。
 研究室時代は三人まとめて周囲から浮いていたのに、ずいぶんと明暗が分かれたものだと思う。一人は街の聖女様、一人はガラクタ山の魔女。もう一人は、感電事故で亡くなったということになっている。というのは、誰もその現場を見ていないからだ。

 もう一人。発電所の主任研究員マリー。変わり者扱いされながらも、誰より腕を買われていた。くすんだ赤毛の、黙っていればきれいな大人の女の人。中身は外見とかけ離れていて、不運にも彼女の助手として割り当てられたアンドロイドに(つまりはシズクとヒナに対して)実にしょうもない悪戯を仕掛けるのが生きがいだった。自ら発明した暗闇で七色に発光するペンで、寝ている間に顔に落書きするとか。
 ——生きていれば、彼女も地球に帰っていただろうか。

 時々思い出したように、ぽつりぽつりと当たり障りのない近況を交わしながらも、二人とも昔の話題は慎重に避けているような具合だった。シズクの思い過ごしかもしれないけれど。

 外縁部に近づくにつれて、建物はまばらになっていった。整然としたレンガ造り風の家々が、やがて廃墟に変わる。窓ガラスが割れたまま放置された建物。屋根が崩れ落ちた建物。壁だけが残って、中身が空っぽになった建物。
 とっくの昔に電気を遮断された区画だ。
 道路のひび割れの隙間に砂が溜まっていて、足を置くたびに、しゃり、と乾いた音が鳴る。同じドームの中のはずなのに、街とはまったく別の空気が流れている。ここには他人の視線がない。監視の目が薄くなるというより、監視する価値がないと見捨てられた場所の匂い。
 ようやく落ち着いて息ができる場所にたどり着いたという感じがした。

 歩き続けるうちに、闇の中に巨大なシルエットが浮かび上がってくる。ドミノを横倒しにしたような、平たい形をした廃工場。外壁は剥き出しの金属板、塗装の剥がれ、錆の筋。入口のシャッターは半分だけ降りたままで、隙間から闇が覗き返していた。
 それを見た途端、ヒナの足があからさまに鈍る。「え、ここに入るの……?」と言いたげな気配に気づかないふりをして、シズクは慣れた動作でシャッターを潜り抜けた。
 仮組のようなそっけない鉄骨の階段を、カン、カン、と音を立てて下りていく。懐中電灯が揺れるたび、埃の舞う光の筋が闇を切り裂いた。シズクの背中にぴったりくっつくようにして、おっかなびっくりのヒナが続き、鉄板が二人分の体重を受けて、きい……ときしむ。無意識なのか何なのか、ヒナの手がシズクのTシャツの裾を掴んで離さない。歩きにくいなあ、とシズクは思う。
 
 やがて最下層のフロアにたどり着いた。半地下構造のおかげで表から見るよりもずっと広々としている。天井は高く、暗闇に吸い込まれて見えない。床はコンクリートで、埃が厚く積もっている。
 目の前は、行き止まりだ。
 ヒナはきょろきょろと辺りを見回し、突如として行く手を遮った壁をぺたぺた触りながら、「それで何を見せてくれるの?」という顔でシズクを振り返る。
「それだよ」
 ヒナが触れている壁のほうに懐中電灯を向けた。
 光量を最大に切り替える。強力な光が広範囲を照らし出して、その巨大な物体の一部を闇から削り出した——滑らかな金属の曲面、鋲で留められた外装パネル、焦げ付いた噴射ノズル。
 先端に向かって細くなっていく、流線型のシルエット。
 たとえ全体が視界に収まらなくても、それが何かは容易に推測できるだろう。それくらい分かりやすい形をしていた。

「おお……」
 とヒナは感心した声をあげる。口を半開きにして、首を限界まで反らせて見上げている。
「ロケットだ」
 幼児が見た物の名前を繰り返すような単純さでつぶやき、それからきらきらした目でシズクを振り返る。
 「すごい。これシズクが作ったの?」
「……まさか。ちょっと修理しただけ」
 と口では答えつつ、抑えるのが難しいくらいに自尊心をくすぐられている。

 ガラクタ山を漁ったり、ローラーシューズで廃墟を走り回ったりするのにも飽きてきたころ。特に目的もなく停電区画を探索し始めて数日後に、シズクはこれを見つけたのだ。調べてみると、どうやらプロジェクト初期に使われていた輸送用のロケットらしかった。正確にはもう思い出せないが、何十年もかけて、ひとりでコツコツとこれを修理してきた。設備もなければ電気も通っていない中、それは途方もなく気の遠くなるような作業だった。
 ボルト一本を外すのに一晩かかった日もある。うっかり凍りついた金属に触った手が張り付いて、危うく指を失いそうになったこともある。
 失敗して、直して、失敗して、直して。誰も見ていないから、成功も失敗も同じ重さで積もっていく。最初は時間つぶしのつもりだったのが、いつしか「投げ出す」という選択肢を見失っていた。
 そんな長年の苦労の成果を初めて他人に披露して、素直に称賛されれば、そんなのは嬉しくないはずもない。

 興奮してロケットに見入っていたヒナが、ふと我に返ったようにシズクに訊ねる。
「これ、飛ぶの?」
 シズクは肩をすくめて、
「そりゃ、ロケットだし」
「これでどこかに行くの?」
「そのために直したからね」
 とそれで説明しきった気分になって、しかしヒナは先を促すような目をしている。
 仕方ないので後を続けた。
「わたしはこれで地球に行く。燃料自体は残ってるけど、発射には電気が必要で、だから協力して欲しい」
 ヒナがゆっくりとロケットを振り仰ぎ、シズクもそれに倣う。視線をさらに上げると、光が届かず暗闇にまぎれた天井がある。その先に見たことのない景色を重ねているかのように、しばらく二人とも無言だった。
 それからヒナはシズクに向き直って、
「でも、どうして?」
 と純粋な質問をぶつけてくる。
 理屈を返してもヒナに通じないのは分かっている。だからシズクは自分の本心を不器用に探りながら、
「わたしは、べつに月にいても仕方ないかなって」
 と素直に切り出す。
「ヒナみたいに頼られてるわけでもないし。わたしがいなくなっても誰も困らないしね」
 こういう物言いが、ヒナの気に食わないのは百も承知だった。案の定、何か猛然と言い返しかけたヒナを制して、
「客観的な事実を言っただけだよ。それに対してどう思ってるとかじゃなくて。わたしはただ、自由なことがしたいだけ」
「自由なことって?」
 ちらりと足元のローラーシューズに目をやる。街での視線を思い出す。
「いろんなことを考えたり、いろんなものを作ったり。落ち着いて作業するには、ここはちょっと寒すぎるし、電気もない」
「地球に行ったら、そういうことができるの?」
「できるかもしれないし、できないかもしれない」
「地球まで行けなかったら? ロケットが爆発するとか、隕石にぶつかるとか」
「そうなったら、それまでってことで」
「シズク」
 とヒナのトーンが低くなる。
「わたし、真面目に話してる」
「こっちも真面目に話してるよ」
 努めて冷静に言い返す。
「とにかくこの場所は、わたしには合わないってだけ。せっかく苦労して修理したロケットが、ちゃんと飛ぶかも確かめたいしね」

「引っ越ししようよ、シズク」
 ヒナが脈絡のないことを言い出す。
「教会の部屋も空いてるし……もし一人で住みたかったら、シズクの家も見つけてあげられるよ。こう見えて顔は広いんだ」
 思わずため息が出た。どうしてそういう話になるんだろう。「お前はかわいそうなんだ」と言い聞かせられているようで、ほとんど通り魔にでも刺された気分だ。悪気がないのは分かっているけれど。
 シズクの反応に、ヒナは怯えて身を固くする。まるで被害者のように。そのせいで、シズクはますます嫌な気持ちになる。まさしく悪循環。こんなことは早く終わらせなければいけない。

「こんなこと言いたくなかったけど」
 とシズクは不誠実な前置きをする。嫌われる心の準備だ。
「この計画を立てるときに、調べたんだ。電力分配とか、発電量の推移とか。鍵がないから直接は確認できないけど。外から観察するだけでもいろんなことが分かるんだよ」
 それからわざとらしく不安を煽るような間をおいて、
「——たとえば、神様の寿命とか」
 ヒナが息を呑む。知識と観察に基づいた確信はなくても、薄々感じていたのかもしれない。
 シズクの見立てによれば、もう何十年も前から発電所の不調は始まっていた。しかしここ数年の出力低下は、もはや経年劣化では説明できないところまで来ていた。もちろん今すぐに街がどうこうなるわけではないだろう。しかし終わりは見えている——数十年後か、数百年後かに静かにやって来る寿命が。

「ばらされたくないんじゃない? わたしが言っても、ほとんどの人は信じないかもしれないけど……不安は広がる。このまま発電所が弱り続ければ、そのうち実害だって出てくる」
 淡々と語りながらも、心のどこかでこれを楽しんでいる自分に気づく。
「いつかはみんな気づくよ——聖女様は根拠のない言葉でみんなを安心させようとしてた、ただの嘘つきだって。そうなったら、これまでみたいに平和にはいかないかも」
 言ってやった。
 ヒナは信じられない裏切りにあったような顔をしている。彼女のような「良い子」に嫌われるのは息苦しい——自分がまるで価値のないものに思えてくるからだ。しかし同時に清々しくもある——もはや自分に何の期待もしなくて良くなるからだ。

 さあどうなる、とシズクは待ち構える。ヒナとの付き合いは短くないが、これは未知の領域だった。
 怒るか、泣くか。ビンタでも罵倒でも何でも来いと思う。

 しかし口を開いたヒナは思いがけず普通の調子で、
「シズクは、そんなに地球に行きたいの?」
 怒声でもなく、拒絶でもなく、ただの問いかけだった。まっすぐ覗き込んでくる眼差しに気おされながら、
「う、うん……」
「どうしても?」
「どうしても」
 ヒナは深々とため息をついた。まるで肺の中の空気をすべて入れ替えようとするかのように。
 そしてしばらくなにやら考え込んでいたかと思うと、
「わかった。そこまで言うなら協力するよ」
 とスイッチを切り替えたかのように笑顔になる。その異様さにシズクはぎょっとする。
「……えっと、鍵は貸してもらえるってことで良いのかな」
「もちろんだよ」
 とヒナはにこにこしながら言う。
「わたしにできることは何でもするよ。だって友達でしょ」
「………」
 まあ良いか、とシズクは思う。何か企んでいるのは明白だけれど、ヒナは他人の裏をかけるほど器用ではない。あとはヒナが情に訴えてきたときに流されなければ何も問題はない。そう考えた矢先に、
「シズクまでいなくなっちゃうのは寂しいけど」
 とヒナがぽつりと付け足す。その明るい口調に潜む孤独に似た何かが、さっそくシズクを後ろめたい気持ちにさせる。わざとやっているなら、とんだ悪女だ。

 しかしここで後に引くわけにもいかない。役に立たない感傷は月に捨てていくと決めたのだ。最終的にはヒナを時間稼ぎの囮にするところまでが、シズクの計画だった。


狭間の物語

 相変わらずの曇り空だった。
 見晴らしの良いはずの高台は霧がかっていて、集まった人々の姿形をあやふやに見せている。付き添いの大人に前後を固められて、少女はひび割れた石の階段を、一歩、また一歩と登っていく。
 長い冬が続いていた。大地はやせ衰え、家畜だけでなく人も飢え始めた。太陽の神に心臓をささげ、再び恵みを施してもらうために、若く元気な彼女が選ばれたのだった。
 不満も恐怖もない。ただ自分がいなくなるだけで、家族や、村の人たちの笑顔が戻ってくるのだから、それは代償に見合った結果だ。

 そんなふうに思えたら、どんなに良かっただろう。

 あいにく少女の精神は、そんな曖昧な美談を呑みこめるようにはできていなかった。
 いったいどんな理屈で、人間ひとりの死が、地上から遠く離れた太陽を動かすというのだろう。もし本当に自分の死が村を救うという保証があるなら、まだ理解できる。しかしそんな証拠はどこにもなく、誰も筋の通った説明などできないくせに、なぜ自分だけが死ななければいけないのか。
 そもそも少女は昔から、周りの大人たちの態度に納得がいかなかった。寒さを凌いだり、食べ物を調達したりする新しいやり方を披露しても、みんな笑顔で頷いて、ただそれだけだった。所詮は子供の考えた取るに足らない発明で、大人たちは優しいから、面と向かって指摘しないだけなのだと、そんなふうに思っていた時期もあった。
 でも違った。考えるのが怖いのだ。良いことがあったら神様のおかげ、悪いことがあったら神様のせい。自分たちでは何の責任も取りたくないから、そうやって全部を神様に押し付けているのだ。なんて都合が良い妄想だろう。どいつもこいつも馬鹿ばっかりだ。しかし少女が学んだ大切な教訓は、誰もが信じている妄想ならば、それは真実なのだということだった。

 頂上にたどり着いた少女は、石で出来た祭壇に仰向けに寝かされた。忌々しい灰色の雲をにらみつける。飾りナイフを持った司祭が目を閉じるようにと告げたが、少女ははっきり拒絶した。それで何かが変わると思ったわけではない。ただの反抗だ。ざわめき。ため息。ひそひそ声。
 少女はそのすべてを無視した。そして、ちっぽけな胸に刃を突き立てられ、心臓をえぐり抜かれる瞬間まで、ここにいる誰もが間違っていて、自分だけが正しいのだと信じ続けた。
 皮肉なことに、それは自分の死の無意味さを信じることでもあった。


第二話 盗電計画

2-1

 停電区画の外れにある古びた三階建ての建物。窓ガラスは半分以上が割れ、外壁に蔦のように絡みついた配管にも、ところどころ錆びたギザギザの穴が開いている。正門には、かすれた文字で「第一小学校」と書かれた看板が、斜めに傾いたまま残っていた。
 入口の自動ドアはとっくに死んでいて、体重をかけて引くと金属のレールがきしむ。耳障りな音を立ててしまったことに、シズクは一瞬どきりとする。中は埃っぽい——月特有の乾いた粉塵が、古い床材の継ぎ目に詰まっている。踏めばさらりと流れて靴底にまとわりつく。
 廊下の壁には、剥がれかけた色褪せた掲示物がまだ残っていた。年間行事のカレンダー、絵画コンクールの入賞作品、ゴミ拾いボランティアを呼びかけるポスター。

 意外なことに、ヒナのほうから勉強したいと申し出てきたのだ。シズクがいなくなるなら、いざというときのために発電所のことをいろいろ知っておきたい、と。もっともな話ではあった。いずれ街に不測の事態が起きて、ヒナが矢面に立つことになったときに、何も知らないし何もできないというのは困るだろう。
 けれど、ヒナが専門的な領域に関心を持つことなど、これまでただの一度もなかったのだ……。だからこれにはきっと裏があるのだろうと思いながらも、断るだけの理由は見つからなかった。もとより知識や技術を独占するつもりもない。
 
 日中は教会を空けたくないとヒナが言うので、待ち合わせは真夜中になった。この場所を選んだのは、単純に街から離れていて人目につかないからだ。夜遊びなんて節電教への冒涜も良いところで、教祖様はさぞ罪悪感に駆られているのかと思いきや、
「なんか、悪いことしてるみたいでわくわくするね……!」
 と鼻息も荒くのたまっていた。お前はそれで良いのかと思わないでもないけれど、放っておくことにする。いちいちヒナに振り回されていたらキリがない。

 北側校舎の三階奥に理科室があって、小型のモニターを抱えたシズクが扉を開けると、前のほうの机で突っ伏していたヒナが、がばりと身体を起こして振り返った。ピシッと姿勢を正し、何か期待している目でシズクを見る。ごっこ遊びに付き合うつもりもなかったので、モニターを机に寝かせて簡易バッテリーにつなぎ、ヒナの隣の椅子を引いて腰を下ろした。
 閉ざされた窓ガラスを低く振動させて、ドームの換気音がうっすら伝わってくる。校舎のどこかで建材が温度差に鳴る。二人は新手の悪魔集会のように身を寄せ合い、こそこそと数字を並べ、秘密めかした概念図を書きなぐる。

 シズクが一生懸命に説明しているのは、ヒナから借りた鍵で発電所の基幹システムに立ち入り、一週間かけて調査した内容だ。
 発電所の状態は予想どおりだった。いや、予想以上に悪かった。事前に立てていた計画の修正を迫られ、あれこれ頭を悩ませながらも、盗電計画の骨子はほぼ完成していた。
 都市の電力配分は厳密に管理されている。恣意的な介入はすぐに検知され、対処される。けれど、ヒナの鍵に紐づいた権限でIDを偽装することで、かき集めた余剰電力を直接ロケットに送電することはできるはずだった。肝心なのはまさに、その「余剰電力」なるものをどこから都合するかだ。必要な電力を削って街に損害を出したり、ましてやブラックアウトさせるなんてことは、もちろんシズクも望んでいない。

 それにしても、シズクにとって他人に教えるというのは初めての経験で、つい調子にのってしゃべりすぎているのは自覚していた。長いこと誰とも話していなかったのもあるかもしれない。ヒナは必死に食らいつこうとしつつ、無理矢理連れてこられた美術館で無名の絵画を眺めているような、分かったような分かっていないような顔をしていたのだけれど、いきなりビッと手を挙げて、
「はい先生!」
「うん?」
「ロケットにたくさん電気を使ったら、街がまた停電になるんじゃないですか!?」
 だからならないという話をしていたのに。
 しかしヒナを責めることもできない。研究員の助手として配備されたアンドロイドはもっぱら雑用係で、専門的な作業に携わることは許されていなかった。こっそりとマリーの手伝いをさせてもらっていたシズクと違って、ヒナは元々その手のことに興味がなかったこともあり、甲斐甲斐しく身の回りの世話に奔走したり、やることがなくなると、二人の背中を眺めながらぼうっとしていた。
 だからヒナに科学的な技術も知識もないのは当然で、それは正しいことでもあった。

「わたしの見立てでは、発電所は病気なんだよ」
 シズクは専門用語を捨てて、アナロジーで説明する方針に切り替える。
「当初の構想では半永久機関だったけどね。未完成のまま放置されて、今の発電所には寿命もあるし、病気にもなる。メンテしてないから不具合がたまり溜まって、本来の出力を下回ってる」
「でも、そんなの簡単に直せるの?」
 シズクは首を横に振る。
「根本治療するなら、何年もかかるだろうね。それにリスクもある。よく分かってると思うけど」
「発電所が病気になったのって、わたしのせい?」
 ヒナが不安げに言う。
「違うよ」
 とシズクはまた首を横に振る。今度は若干強めに。それから少し迷って、
「それに今さらだけど、あのときはヒナのほうが正しかったと思う」
 と付け加える。べつにヒナを元気づけるための出まかせではない。一連の騒ぎの直後は、我ながら酷かったとシズクは思う。マリーが事故で亡くなり、ヒナとは発電所の件で喧嘩別れのようになり、いろんな人からいろんなことを言われて、他人の意見に一切耳を貸さなくなっていた時期だった。客観的に振り返ってみれば、そんなやつに街の命運をかけるほうがどうかしている。

「……シズク?」
 気遣うようにそっと声をかけてくるヒナに、何でもないよと手振りで答える。気を取り直すように深呼吸をしてから、
「話は戻るけど、今回はあの時とは違う。物理的な不具合だったら、確かにわたしたちだけでどうしようもないけど、たぶんシステムエラーだと思う。長年放置されて処理が滞ってるせいで、メインプロセスの計算が遅延してるんじゃないかな。それで何かの出力制限のトリガーにかかって……」
 というあたりで、またヒナの頭の上に「??」が浮かび始めたので、
「つまり、神様がお腹痛くて本気出せてないから、薬でも飲ませてあげようってこと」
 と言い直す。
「それで具合が良くなったら、お礼に少しだけ電気を分けてもらおうかなって」
 細かい齟齬を言い出したらキリがないのだが、ヒナは納得したようだった。
「やっぱりシズクはすごいなあ」
 などと言われて、シズクとしても満更ではない。自分を戒める。手段と目的を取り違えてはいけない。学問を志す者が忘れがちな教訓の一つだ。



 自分から言い出したくせに、ヒナは3回目の勉強会で早々に音を上げ始めた。口には出さないが、あからさまにそわそわして、苦痛な時間が通り過ぎるのを待っているのが丸わかりだった。
 確かに理解の及ばない説明を延々と聞くのはつらいだろう。シズクに教師の才能がないのか、ヒナに生徒の才能がないのか。たぶん両方なんだろうな、とシズクは思う。
 べつに機嫌を取ろうとしたわけでもないが、停電区画を探索してみないかと持ちかけてみた。ヒナはわざとらしく瞬きを繰り返し、口では「でもやっぱり勉強も大事だし……」とか何とか言いながら、待ってましたとばかりに目を輝かせる。

 月面プロジェクトは本格的な移住の足掛かりだった。最初は数棟のプレハブ村だったのが、少しずつ生活や娯楽の水準を上げていき、輝かしい大都市に発展する途上にあった。ブラックアウト後の縮小で真っ先に切り捨てられたのは、電気をバカ食いするアミューズメント通りで、映画館だのゲームセンターだのがひしめいている。今では過去の記憶とともに眠るゴーストタウンにすぎない。ネオンサインは消え、看板は傾き、道路には塵が積もっている。

「へええ、これなーに? 『UFOキャッチャー』?」
 ヒナは埃をかぶったゲーム筐体に顔を押し付け、色あせたぬいぐるみを覗き込む。かと思えば、3秒後には他の場所に目移りして、
「こっちは映画館だって! うわぁ……血がブシャーってなってる……」
 廃墟を小走りで見て回りながら、ヒナはしきりに感心したり驚いたりしていた。そういえば、三人で生活していたときも、仕事ばかりで一緒にどこかに出かけるようなことはなかった気がする。
 物思いに沈むシズクを急き立てながら、ヒナは広々とした廃墟に元気を振りまいていた。その姿は純粋にほほえましい一方で、こぼれ落ちてしまった何かを必死に拾い上げているようで、ちょっとだけ痛々しくもある。



 ただ散歩するのにも飽きてくると、シズクは得意の遊びにヒナを誘った。適当な障害物を置いたコースを自作のローラーシューズで走るのだ。部屋に引きこもって機械いじりをするのも結構だが、たまには外に出て体を動かしたくもなる。
 
「見てて」
 興味津々のヒナが見守る中、シズクはスタート地点に立ち、かがみこんでスイッチを入れる。
 ドームの端っこはわずかに重力が弱く、この遊びを少しだけ現実離れさせる。踏み込んだ力が跳ね返り、身体がふっと浮く。廃墟の床の上を駆け抜けるたび、粉塵が尾を引くように舞い上がる。ドラム缶を飛び越え、自動販売機の横を滑り抜け、最後はベンチの上を鮮やかに飛び越えてゴールする。
 ヒナのほうを振り返り、何でもないような顔を取り繕いながら、
「……どう?」
「すごい! わたしもやる!!」
 目を輝かせたヒナにローラーシューズを貸して、まずは初心者向けのコースを走らせてみる。
 ところが、最初の一歩で盛大に蛇行し、二歩目で自分の足に絡まり、ぎゃーぎゃー騒ぎながらすっころんで尻もちをついたヒナを見て、シズクは柄にもなくニヤついてしまった。それなりに付き合いの長い相手の意外な一面を見つけたからというのもあるが——どちらかというと、ここまで運動オンチのアンドロイドが存在するということに感心したのだ。
 まだまだ知らないことはたくさんある。世界は広い。
 ヒナはそれから丸一日へそを曲げて、一切口を利かなかった。



 ヒナに頼みたいことは、発電所の鍵だけではなかった。ロケットを整備する最終段階で、どうしても足りないものの買い出しだ。ガラクタ山を探し回れば大抵のものは見つかるが、ないものはない。しかしシズクがのこのこと街に出ていったところで、素直に売ってくれる店があるとも思えない。
 ヒナは快く引き受けてくれるかと思いきや、買い物メモを受け取ろうとした手をはたと止めた。意地の悪い笑みを浮かべながら、
「んー、どうしようかなあ……」
 と勿体ぶり始める。
「……なに」
「一人じゃ嫌だなあー。誰か一緒に来てくれないかなー」
「ここに書いてるもの買ってきてくれるだけで良いんだって」
「でも、わたしだけじゃ何がなんだか分かんないし。詳しい人が説明してくれないと」
 内心で舌打ちをするが、ヒナの言うことにも一理ある。素材には質の良し悪しだってあるし、素人にそのあたりの目利きができるとも思えない。

 そんなこんなで二人で街に出ることになった。
 暗澹たる気分のシズクと対照的に、ヒナは「買い物デートだ!」と大はしゃぎで、案の定、当初の目的とは全然関係のない場所を連れ回されることになる。雑貨屋、本屋、アクセサリーショップ……。ヒナは次から次へと店に入り、興味深げに商品を眺め、顔見知りの店員と談笑した。シズクは「これのどこが楽しいんだ?」と思いながらも、おとなしくヒナの後ろをついて回る以外の選択肢はなかった。
 特に辟易したのは服屋だ。シズクはシズクなりにファッションの美学があるのだが、二人はそんなところでもセンスが合わず、しかもヒナのほうは長年不満をため込んでいたらしい。
「もっとシズクに似合う服選んであげる!」
 といって持ってきたのは、シズクのいつものストリートスタイルとはかけ離れた、やたらと薄くて柔らかい生地の、清楚で女の子らしい白のワンピースだった。
「無理。そんなので外出るくらいなら舌噛んで死ぬ」
 まあまあまあたまには良いじゃないですか着るだけだから先っちょだけだから、と謎のテンションで試着室に押し込まれ、しぶしぶ着替えている間、シズクは絶対に鏡の中の自分を見ないようにした。何かを失いそうな気がしたからだ。それなのに、ヒナが勝手にカーテンを開けて、「わー」とか「きゃー」とか「ひゃー」とか大騒ぎしながらシズクを無理やり鏡と向き合わせた。
「ほら、すごくかわいい! お人形さんみたい!」
 なんだそれはブラックジョークか? と指摘する気力も残っておらず、それから小一時間ものあいだ、ヒナの着せ替え人形になる運命を受け容れることになる。



 またたく間に1か月が過ぎようとしていた。時間の流れは一定ではなく、主観的に伸び縮みするのだということを、シズクはまざまざと実感する。
 いい意味でも、悪い意味でも。

2-2

 シズクにトラウマを植えつけた買い物デート以降、ヒナはしきりに二人で街に出たがった。
 それで何をするのかと言えば、いろいろな場所を回って、いろんな人に会うだけ。シズクに街の住人たちを紹介し、街の住人たちにシズクを紹介するのが目的なのだ。シズクを翻意させて、月に留め置こうとする意図が見え見えだった。とはいえ、あまり露骨に断ることでヒナを意固地にさせてしまい、協力を得られなくなっても困る。だからしぶしぶ付き合っていた。
 
 住人たちの反応はさまざまだった。わりと好意的だったり、やや淡泊だったり。あからさまな敵意を向けてくる者はいなかった——もちろん、ヒナが慎重に選別しているからだろう。ヒナと住人たちがお喋りをしているあいだ、シズクは話の輪に入ることもできず、かといって勝手に離れてしまうわけにもいかず、ポケットの中に両手を突っ込んだまま、曖昧な愛想笑いを浮かべていた。
 きっと悪気はないのだろうけれど、あからさまな戸惑いの表情を向けられることもあった。いったいなぜ聖女様が魔女と一緒にいるのだろう……と。しかしヒナは気にしていないか、気づかないふりをしているのか、なんとかしてシズクを街に馴染ませようと躍起になっているようだった。
 
 良くないな、とシズクはずっと思っていた。
 こんなことをされても何も嬉しくないし、魔女と出歩くことで聖女様の評判だって下がる。住人たちは困惑する。誰のためにもならない。
 というのは大人ぶった言い訳で、本当は単にストレスが溜まっていたのかもしれない。

 恒例になった挨拶周りの最中に、ふと耐えられなくなった。
 当たりさわりのない雑談に小さな石を投げこむように、気分が悪くなったと誰にともなく呟いて、足早にその場を離れる。ぽかんとする住人たちにヒナが慌てて取り繕い、追いかけてきた。

「どうしたの? 具合悪いの?」
 ある意味ね、と心の中だけで答える。べつに怒っているわけではないし、じゃあ何なのかと言われれば、自分でも分かっていないのだけれど。
「何か気に障ったなら、謝るから」
「べつにそういうのじゃないよ」
 シズクは歩調を緩めず、前を向いたまま答える。
「そう? なら良いけど……」
 とヒナは納得のいかない様子で、それっきり二人とも何となく黙り込んでしまう。
 研究室にいたころは、もっと会話がスムーズだった。シズクが言葉に詰まっても、マリーが上手く拾ってくれた。ヒナが的外れなことを言っても、マリーが軌道修正してくれた。そうやって潤滑油の役割を果たしてくれる人がいなくなって、不器用な者同士の会話は、ときどき不協和音がする。
「でも、戻らない? さっきのはちょっと、感じ悪いよ」
 ヒナがおそるおそる言った。もっともな言い分だった。けれど、「シズクのためにこんなに頑張ってるのに」という押し付けがましさを感じてしまい、それでプツンときた。
 シズクは急に立ち止まって振り返り、まっすぐにヒナの目を見ながら言った。
「余計なお世話。わたし、ここの連中が嫌いだから」
 ヒナは露骨にショックを受けた顔をした。
「……どうして?」
「馬鹿ばっかりだから」
 と思わず口走ってから、あまりに子供っぽい罵倒に自分でうんざりする。言いたいことはそうではない。もっと根本的な価値観の違いだ。しかしわざわざ丁寧に説明する気にもなれず、これで話は終わりだとばかりに再び歩き出す。放っておいてくれれば良いものを、ヒナはやはり後をついてくる。
「シズクは何が不満なの?」
 こんな状況に不満を抱かないほうがどうかしている。しかしどうやったって、ヒナには伝わらないだろう。ひとつため息をついてから、
「ごめん、ちょっと疲れてるみたい。さっきのは言葉を間違えただけ」
 と白旗を上げる。
 しかし先回りしたヒナに行く手をふさがれた。
「言ってくれないと分かんないよ」
 言っても分からないくせに、とシズクは心底うんざりする。ヒナを突き飛ばしてガラクタ山に戻り、一生トレーラーに引きこもってやろうかとも思うのだが、それではこれまでの努力もすべて水の泡だ。
「ただ考えが合わないなって」
 仕方なく率直な思いを口にする。
「発電所は発電所だよ。ただの大掛かりな施設。神様みたいに敬っても、感謝しても、それで何かが変わったりしない。そういう無意味さが、わたしには耐えられない」
「無意味じゃないよ」
 とヒナが即座に言い返してくる。
「こんなふうに取り残されて、それでも上手くやってこれたんだから。何かを大切にするって、そんなに悪いことじゃないよ。この街にだっていろんな人がいて、みんなでやっていこうとするなら、そういうのが必要なんだから。たまたまそれが発電所だっただけ」
 ヒナの言っていることは正しい。否定するつもりもない。
 共有する価値観があるからこそ、集団は上手くいく。歴史が証明していることだ。シンボルは神様だったり、カリスマ為政者だったり、革新的な思想だったりするわけだけれど。多数派の繁栄こそが種の成功だ。それは回りまわって、少数派の利益でもある。
 そんなことは分かっている。それなのに、ヒナはまるでシズクが何も理解していないかのように続ける。
「寒くて凍えて、それでもみんながシズクみたいに、何かを変えるために外に出ていけるわけじゃない。身を寄せ合って、太陽が出るのを祈って、わたしはそれが間違ってるとは思わない」
「誰も間違ってるなんて言ってないよ」
 苛立ちが募って、つい口が軽くなる。
「確かにね。わたしたちは人間みたいだけど人間じゃないし、電気さえあればなんとかなる。みんなで発電所を大切にしましょう、節電しましょう、余計なことは何もしないようにしましょう。合理的だよね。上手いこと考えたなって思うよ」
 詐欺宗教を非難するような口ぶりでシズクは続ける。
 「でもそれって何の意味があるの? 年を取るわけでもないし、子供を作れるわけでもない。なにも変わらないし、なにも生まれない」
 アンドロイドが人間と同等の能力を持つなんて嘘だ、とシズクは思う。寿命や病気と無縁である代わりに、生命の火花がない。何かを生み出したい、世界を変えたいという情熱が。人間はアンドロイドをもっと短命に造るべきだったのだ。
「無意味な時間を引き延ばして、終わりが来るのをただ待ってるだけ……人間たちが残していった遺産で食いつなぎながら。あなたたちのほうが、よっぽど電気泥棒だよ」
 一気にまくし立ててから、つい熱くなってしまったのをごまかすように、
「少なくとも、わたしはそう思う」
 と付け加えた。
「でもみんなそうじゃないのは分かってるし、自分の意見を押しつけるつもりもない」
 それで全部だった。言いたいことは全部言ったのに、ヒナはうつむいたままで、沈黙を引き取ろうとはしてくれなかった。それでシズクは仕方なく、
「いろいろしてくれてるのは分かってるつもり。ありがとう」
 その場を収めるためなのか、本心の一部でも含まれているのか、自分でも分からないことを口にする。
「でもやっぱり街には住めないし、それはわたしが全部悪い。だからごめん」
 ヒナがやっと顔を上げた。ぎこちなくても微笑みの体裁は保って、
「わかった。わたしこそ、勝手なことしてごめんね」
 それからヒナは、ちょっと寄り道していくから先に帰っててと言い残し、くるりと踵を返して小走りに去っていった。その背中を見送りながら、遅かれ早かれこうなったんだから仕方ないと自分に言い聞かせる。
 作戦開始まであと一週間。

2-3

 自分から会いに行くには、それなりに勇気が必要だった。
 あれから三日間、ヒナとは顔を合わせていなかった。教会での再会から考えると、最長の日数だ。もしかすると、研究室時代から合わせても、トップ10くらいには入るかもしれない。その間、シズクは廃工場に籠って、ロケットの最終調整に没頭した。ヒナからの連絡は一切なかった。
 四日目の朝に、意を決して教会を訪ねた。
 扉を開けると、ヒナは丸めた布切れで祭壇を拭いているところだった。

「……おはよう」
 声をかけると、ヒナは振り返った。
「あ、シズク」
 と何事もなかったかのように、
「おはよう。珍しいね、こっちに来てくれるなんて。それも昼間から」
「まあね。たまには太陽でも浴びないと身体に悪いかと思って」
 緊張でわけのわからないことを言ってしまう。
「あのさ」
 とシズクが口ごもるのを、ヒナはきょとんとした目で見返す。謝ろうと思って来たのだが、いざこうして会ってみると、改めて蒸し返すのも何か違う気がしてくる。
「いろいろありがとう。手伝ってくれて」
 ヒナがますます不思議そうな顔をした。
「うん。……どうしたの急に?」
「え? まあ、あれだよ。出発も近いし、なんか言わなきゃと思って」
「——あ、」
 とヒナは声を上げる。一瞬、不自然な間があった。
「そっか。そうだよね。わたしにできること、何かある?」
 おや? と思いながら、
「大丈夫。あとは細かい調整だけだし」
「そうなんだ。ごめんね。シズクも忙しいもんね」
「……いやまあ、忙しいは忙しいけど」
 なんだろう。シズクもたいがい他人の機微には疎いけれど、それでも見過ごせないほど、ヒナはあからさまにそわそわしていた。めずらしく目を合わせようとしないし、よく見ると祭壇の同じ箇所をしつこく拭い続けている。そこだけピカピカにするつもりなのかもしれない。

「じゃあ、またね」
「うん、ありがとう」
 と最後までズレたやり取りを済ませて、教会を後にした。まばらな通りをぼんやりと歩く。
 ……てっきり諦めてくれたと思ってたのに。
 あの様子からすると、どうもまだ何か手を打つつもりらしい。
 もちろん、ヒナがあれこれかまってくれること自体を鬱陶しいとは思わない。そこまで捻くれてはいないつもりだった。しかし心情的にどう感じるかと、現実的に差し障りがあるかは別の問題であって、土壇場で計画を妨害されるのはやはり困るのだ。脳みそも手も足も今の二倍ずつ欲しいくらい忙しいのだけれど、明らかに何かを企んでいるらしいヒナを放っていくわけにもいかない。
 足を止めて小さく息をつく。
 仕方ない——尾行してみよう。
 脅迫といい尾行といい、生まれて初めての経験がどんどん増えていくなあ、とシズクは思う。



 尾行するのは簡単だった。ヒナは驚くほど警戒心がなかった。わざと気づいていないふりをしているのかと疑いたくなるくらい。一応変装のつもりで、キャップに髪を押し込んで少年風の服装に着替えてきたのだけれど、どうやら必要なかったようだ。
 それはそれとして、当初の予想のほうは外れていた。
 街に入ってからのヒナに変わった様子はなく、いろんな人に声をかけたり、声をかけられたりしながら、ひたすら歩き回るだけ。聖女様の見回りだ。困っている人がいないか、助けを求めている人がいないか。しかし街はあまりに平和で、事件など何ひとつ起きていない。
 これは空振りか、と思い始めたころ、ヒナが足を止めた場所を見て、にわかに緊張が走った。

 その建物は、人間がまだいた頃の名残みたいに、周囲から浮いていた。
 外壁のコンクリートは塵で黒ずみ、窓ガラスは何枚もひび割れている。入口の上には、途切れた文字——POLIのあたりで欠けたプレートがぶら下がっていた。
 警察署だ。
 正確には、街でただ一人の(自称)警官であるロックが(勝手に)詰所として居座っている場所。
 古めかしい扉は建付けが悪く、開け閉めするたびに耳障りに軋む。だからヒナが中に入る時の音が、少し離れたところにいたシズクにも嫌でも届いた。

 まさかヒナに限ってそういう裏切り方はしない、と思う。
 ここにきて、ただ一人の友達を疑うなんて、自分はなんてさもしい性格なんだろう、とも思う。
 しかし同時に、半日も尾行を続けておいて、ここで目を逸らすのも違うという気もする。
 これは逆にヒナの潔白を証明するためなのだ。そういうふうに自分の中で理屈をつけると、多少は気分も落ち着いて、建物の外でヒナが出てくるのをじっと待ち受けた。

 ヒナはなかなか出てこなかった。
 あるいは、そう感じただけかもしれない。
 待っている間にドームの人工照明が落ちて、作り物の夜がやって来た。街の輪郭がぼやけて、すっぽりと暗闇に呑みこまれる。遠くから発電所の低い唸りが聞こえた——月の心音みたいに。
 ようやくヒナが姿を現したとき、シズクはためらった。偶然を装いながらヒナの前に出ていって、さりげなく探りを入れてもいい。しかし数日前の言い争いがまだ尾を引いていた。話しかけたところで、結局気まずくなって、何も追及できずに終わるのがオチだろう。
 迷っている間に、ヒナの背中はどんどん遠ざかり、ついには見えなくなってしまった。シズクはまだその場に留まって、ぐずぐずしている。覚悟を決めるのに数分かかった。大きく深呼吸して、物陰から踏み出し、悲壮感すら漂う足取りで、警察署の敷居をまたぐ。

 建物の中は、どういうわけか外よりもさらに冷えていた。
 空気が淀んでいて、古い紙の匂いと、昔誰かがここで吸っていたであろうタバコの匂いが混ざっている。壁には色褪せた地図が貼られ、机の上には『報告書』と書かれたファイルが雑に積まれている。今さら誰が誰に対して、何を報告するというのだろう。

 ロックはいつもの仮面に素顔を隠し、埃じみたロングコートを羽織って、ちょうど出かけようとするところだった。ぶつかりそうになったシズクを見下ろし、驚いたふうもない。
「なんだ自首でもしに来たのか」
 心臓がはねる。低い声は揺らぎもせず、冗談を言っているようには聞こえない。しかしカマをかけているのかもしれないし、もしかすると本人は冗談のつもりなのかもしれない。おもしろくもおかしくもないが。
「なんのことやら」
 とシズクは精いっぱい冷静に返し、ロックはつまらなそうに鼻を鳴らす。
「じゃあ何だ」
 少しだけ迷って、単刀直入のほうが良いと結論する。
「さっきヒナが来てなかった?」
「来てたな。それがどうした」
「何の話してたの?」
「お前には関係ない」
 とロックは言うが、べつに何かをごまかしているふうでもない。黙って続きを待っていると、面倒くさそうな態度を隠そうともせずに、
「パトロールの引継ぎだよ」
 一拍だけ遅れて安堵がやってくる。それから、ロックに表情の変化を悟られたことに気づいて、恥ずかしくなる。八つ当たり気味に、
「いつもなの?」
 いつもヒナと会っているのか、いつも夜の街を徘徊しているのか、という両方の意味だ。
「仕事だからな」
 とロックはそっけなく答える。そのまま外に出かけていくかと思えば、回れ右して来客用のソファにどっかと座り込む。ついていけないシズクが棒立ちしていると、
「どうした。何か話があって来たんじゃないのか」
 べつにそういうわけじゃないんだけど。
 とも今さら言い出せず、ロックと向かい合って、ソファに腰を下ろす。表面の革がひび割れていて、座面が沈むたびにばねが呻く。
「最近あいつとよくつるんでるらしいな」
 人差し指で規則正しく膝を叩きながら、ロックは言う。話を聞くようなそぶりを見せておいて、けっきょく尋問かとシズクはうんざりする。何様のつもりだろう。ヒナのことを「あいつ」などと呼ぶのも気に食わない。
「友達なので」
 と精いっぱい冷たい声で答える。ロックはまるで意に介した様子もなく、
「そうみたいだな」
 とうなずき、それっきり沈黙が流れる。いったいこれは何の時間なんだろう。シズクが耐えかねて席を立とうとする瞬間を見計らったように、
「誤解がないように言っておくと、俺はお前を疑っていない。これまで伝える機会もなかったが」
 盗電計画のことを匂わせているのかと、一瞬どきりとするが、すぐに別の話をしているのだと気づく。
 
 それはシズクが街を離れた唯一の理由ではないけれど、その一部ではある。
 研究室時代から、シズクがアンドロイドに課された規則を破り、こっそりマリーの作業を手伝っていると噂されているのは気づいていたし、べつにバレても構わないと思っていた。ルールを守らないことは悪いことかもしれないが、悪いことにも質の違いがある。少なくとも他人に迷惑はかけていない。
 実際、その時点ではシズクに向けられる視線も懐疑や嫌悪ではなく、単なる好奇の目でしかなかった。不愉快な方向に状況が変わったのは、マリーが事故で亡くなり、プロジェクトが中断されてからだ。

「どうして?」
 とシズクが訊ねる。
「俺はマリーのことを知っているからだ」
 予想外の答えだった。耳の奥で記憶が反響する。「ほら、ここをこうすれば……」と、まるで夏休みの工作を自慢するかのように、得意げに手を動かしていたマリーの声。
「どうしてプロジェクトが中断されたのか、理由を知りたくないか?」
 まるで世間話でもするかのようにロックは言う。
 うんざりもここまでだった。
 何もかも諦めたかのような、それでいて超然としたような、そんな雰囲気を纏うロックのことが、他の住人たち以上に気に食わなかった。嫌いな奴から好きな人たちの名前を聞かされるほど堪えがたいこともない。
 無言で席を立ったシズクの背中に、
「おかしなことは考えるなよ」
 と前にも聞いた台詞を投げつけてくる。警告なのか、命令なのか、あるいは聞き分けのない子供に対する説教なのか。なんにせよシズクは無視した。早足に警察署を出る。途中で振り返って中指を立ててやろうかとも思ったが、かろうじてそうしない程度の理性は残っていた。

2-4

 作戦前夜。
 シズクは白い息を吐きながら、ガラクタ山の斜面を登っていく。錆びた鉄骨や折れたパネル、使い切った配線の芯、欠けた透明樹脂の板。そんなものを踏みしめるたびに乾いた音が鳴る。頂上らしき場所にたどり着くと、黒く煤けた電子レンジに腰を下ろした。静けさがいつになく耳に痛い。それを言うなら、今は別の痛みもある。

 膝を抱えて、はるか彼方の地球を見上げた。ゴミ捨て場や廃墟を幽霊のようにさ迷う日々、偶然見つけたロケットに心血を注ぐ日々、発電所に挑むために友達をたぶらかす日々を経て、少しは近づいたかと思いきや、相変わらず遠いままだ。明日にはあそこを目指して旅立つのだということに、これっぽっちも現実味が湧かない。
 それもそのはずだ。人間たちが去ってから二百年。月の社会は停滞したままで、特筆すべきことは何一つ起きなかった。自分だけが変化を起こせるのだと無邪気に信じ切れるほど、シズクは楽観的ではない。所詮はアンドロイドだからとか、そういう次元の話ではなく、歴史のスポットライトが当たるべくして当たる特別な存在というのは確かにいるのだ。
 たとえばそう、マリーのような。

 昔のことは振り返らないようにしてきたシズクだが、ここのところはヒナと一緒にいるせいで、記憶の蓋が緩みがちだった。マリーはいろんな意味で特別だった——どう特別だったのかというと、上手く言い表すことはできないのだけれど。
 シズクにとってはマリーこそ神様のようなもので、科学は彼女から継いだ大切な教義だ。紛い物だとしても、その火花は確かにシズクの内にある。吹けば消えてしまうようなその炎を絶やさないために、この冬の世界を抜け出したいと願っている。

 ……本当にそれだけだろうか?

 あるいは認めたくはないけれども、これはただの逃避なのかもしれない。
 大規模停電に直面し、発電所の改修を主張するシズクに、一部の者たちが疑惑を向け始めた。マリーが死んだのも、プロジェクトが中断されて人間たちが地球に帰っていったのも、すべてはシズクが仕組んだことで、発電所を手中に収め、月面都市を支配するのが目的なのだ、と。
 あまりにも馬鹿げている。今になって思えば、シズクの評判を下げるための、ただの印象操作だったのだろう。そんな突拍子もない話を誰もが信じるとも思えない。けれど、あのころはシズクも冷静ではなかったし、自分は迫害される立場なのだと真に受けてしまった節もある。身も蓋もない言い方をするなら、悲劇のヒロインぶっていたのだ。
 とはいえ、それ自体はもはや笑い話と言ってもいい。居場所がなかったのは事実だし、古傷が疼くような痛みはあるけれど、無視できる痛みだ。しかしその先には、もっとほかの何より恐ろしい想像があった。

 もし自分が、本当にマリーの死に関わっていたとしたら。

 彼女の「事故」には不審な点も多かった。目撃者はいないし、シズクだって後から話を聞いただけだ。アンドロイドに専門的な知識や技術を仕込むことが、当時のシズクやマリーが考えていた以上の罪だったとしたら。そのせいでマリーが罰せられ、プロジェクトが中断されたのだとしたら、もしかすると、自分は本当に報いを受けるべき立場なのかもしれない。

 ロックはマリーのことを知っていると言った。おそらく嘘ではないだろう。彼はまた、シズクのことを疑っていないとも言ったが、シズクがマリーの死や、プロジェクトの中断に関わっていない、とは言わなかった。
 だとしても、まさか本当に……
 そこでシズクは無理やり考えを打ち切り、頭を振って冷たい空気を吸い込んだ。いまは余計なことに頭を使うべき時ではないという思いが半分。残りの半分は、純粋に怖くなったからだ。

 過去を振り返ることはいつだってできる。けれど街が静かな終わりを迎えようとしている今、マリーから受け継いだものを証明し、地球へと向かうには、これが最後の機会なのだ。



 トレーラーに戻ると先客がいた。
 考えごとに沈んでいたせいで、ハッチの隙間から漏れる明かりに気づかなかった。ここには自分しかいないという、長年の生活で染みついた先入観もあった。
 ハッチを開けた次の瞬間、柔らかいけれどそれなりの重みがある「何か」が、みぞおちの辺りにものすごい勢いで突撃してきて、あやうくパニックになりかけた。
「しぃ~ずぅ~くぅ~……こんな遅くまでどこいってたの不良になっちゃったのそんな子に育てたおぼえはありませんっ」
 落ち着いてよく見直してみると、その「何か」はぐでんぐでんに酔っぱらったヒナだった。
 生体部品を維持するために食事が必要なのは分かる。けれど、アンドロイドに酔っぱらう機能は必要だったろうか? きっと開発者かスポンサーの中にとんでもない酒飲みがいて、何晩でも付き合ってくれる相手が欲しかったのだろう。つくづく人間の都合に振り回されてばかりだ。

「わっ、シズクの顔つめたい。あっためてあげよう……。ちょっとなんで逃げるの、家の中で走っちゃいけないっていつも言ってるでしょ!」
 べたべたくっ付いてくるヒナを押し返しながら、シズクはどうしたものかと頭を悩ませる。最後の夜に湿っぽくなったり、気まずくなったりするのではないかと心配はしていたが、これでこれは想定外だった。そうしているあいだにも、ヒナは素面の人間には分からない論理で笑ったり泣いたりして、いつも以上に騒がしい。
 ようやく離れてくれたかと思うと、狭いトレーラーの中をうろうろし始め、ぶつぶつ言いながらベッドの下をごそごそ漁ったり(残念ながらいやらしい本も秘密の日記もない)充電ベッドをごろごろしながらシズクの枕をすーはーしてみたり(これはちょっと恥ずかし……いや、単純に気持ち悪い)何がしたいのか分からないがやりたい放題だ。
「んー、シズクの匂いー」
「やめて。他人の枕でトリップしないで」
 とヒナの手から強引に枕をもぎ取る。

 その後もヒナは、やれ夜中までコンピューターをいじってると目が悪くなるから程々にしろとか、話をするときはもっと相手の目を見たほうが良いとか、好き勝手なことを言い続けていた。適当にあしらっているうちに、テーブルに突っ伏して動かなくなる。ずり落ちそうで危なかったので支えようとすると、顔は伏せたままむずがるような声を上げて身をかわされた。
「これが聖女様ね……」
 というのは独り言で、べつに他意はなかったのだが、
「そんなんじゃないもん」
 と予想外の反応があった。
「みんなが勝手に言ってるだけだし。わたしなんにもできないし」
 確かにね、とシズクはものすごく失礼なことを思う。それでいて、口では正反対のことを言う。
「そんなことないよ。ヒナがいなかったら、みんな困るでしょ。みんながまとまってるのも、街が平和に続いてるのも、全部ヒナのおかげだし……たぶん」
 最後の最後に日和ってしまった。むくりと体を起こしたヒナに睨まれ、シズクは心の中で反省する。嘘をつくなら、最後まで嘘をつき切る責任があるというものだ。

 べつにヒナがいなくなったところで、世界が終わるわけではない。それは誰であっても同じこと。社会とはそういうものであり、個人は代替の利くパーツにすぎない。この月で唯一無二の存在といえば、発電所だけなのだ。そういう意味では神様というのも、あながち的外れな比喩ではないのかもしれない。
 ずっとわだかまっていた疑問が不意にあふれだす。
 わたしたちはいったいどこからきて、どこへ向かおうとしているんだろう、と。

「アンドロイドは幽霊なんだって」
 再びテーブルに突っ伏してしまったヒナの後頭部に向かって呟く。
「マリーがよく言ってた。なぞなぞみたいだよね。マリーがわけわかんないこと言うのなんて、いつものことだし、聞き流してたけど。今になって思うと、何か意味があったんじゃないかって」
 言葉は有限で、人の思いは無限だ。だから発信する側は伝わるように工夫しないといけないし、受信する側は理解するように努力しないといけない。シズクがもっとも苦手とすることだ。それなら、足りない分は行動で補いたい。
「今さら遅いかもしれないけど……。地球に行けば、マリーが言ってたことの意味も分かるかもしれないって、そう思うんだ」
 しかしヒナの返事はない。今度こそ寝てしまったかと思いきや、
「いっつもマリーの話ばっかり」
 顔は机に伏せたまま、やたら怨嗟のこもった声で呟く。
 いやそんなことないけど……と反論しかけ、しかしヒナがここ最近に限った話をしているのではないのだと気づく。心当たりがないではない。シズクとマリーが二人にしか分からない話に夢中になっているあいだ、ヒナも蚊帳の外にされているように感じることがあったのかもしれない。

 がばりと身を起こしたヒナは、なぜか一気に酔いが醒めたようだった。口調も目つきもはっきりして、それ以上にトゲトゲしている。
「しかも今度は、わたしを置いて地球に行くとか言い出すし。それをわたしに手伝えって言うし」
 そんなふうに詰められると、自分がとんでもない人でなしに思えてくる。
 けれど、他にどうしろというのか。
 現実世界はそう都合良くできていない。必要なピースが足りなかったり、逆に余ったりするパズルのようなもので、すべてがぴったりとハマって素晴らしい絵になることは決してないのだ。
 そんなことを考えながらも、適当な言い訳が見つからないので黙っていると、ヒナは急に勢いを失って、
「シズクが月にいたくないのは、やっぱり酷いこと言う人がいるから?」
 と上目づかいに言う。
「そういうのをわたしが何とかできたら、ロケットはやめにする?」

 少し前までなら、ヒナの物言いに腹を立てていたかもしれない。
 心ない噂に傷ついたのは事実だし、街を出て、ガラクタ山で暮らすようになったきっかけでもある。
 けれど、今のシズクにとっては、そんなことはどうでも良かったのだ。動機は月日と共に移ろう。いつのまにか手段が目的になったり、目的が手段になったりする。それはきっと間違ったことではない——困ったことではあるかもしれないが。
 ヒナから面と向かって言われてようやく、シズクは自分を突き動かすものが、諦めでも逃避でもないと確信することができた。マリーから受け継いだ小さな炎が、新しい場所にたどり着き、世界を知り、自分自身のことを知りたいという欲をかき立てる。これは憧れなのだ。
「ありがとう、ヒナ。でもやっぱり、わたしは月にいたくないんじゃなくて、地球に行きたいんだ」
 そう言い切ったところで、やはりヒナには伝わらない。ほとんど泣き出す寸前のように困惑した表情で、
「どうして?」
 と子供のような疑問をぶつけてくる。どれだけ説明を尽くしても、きっと理解してもらえないだろう。住む世界が違うというのはそういうことだ。友達同士ですら、分かり合うには途方もない時間がかかる。魂と別の魂の間には、ひとつの宇宙が収まるくらいの距離があるに違いない。
 前に話した動機を繰り返しても良かった。あるいは、心境の変化を順を追って説明しても良かった。
 しかしシズクはどちらも選ばず、
「春を見てみたいんだ」
「……春?」
「うん。寒いのあんまり得意じゃないしさ。それに、桜っていう、ピンク色の花がいっぱいに咲いて、ものすごく綺麗だって——」
 マリーが言ってた、と危うく地雷を踏みかけて、慌てて飲み込む。おそらくヒナも気づいて、一瞬むっとしかけたが、やがて仕方ないなあというようにくすくすと笑った。
 それからしばらくのあいだ、二人とも黙っていたけれど、おそらく同じ景色を想像していたはずだ——魔法のように。
「そっか、桜か」
 とヒナが呟く。
「たしかに見てみたいね」
「でしょ?」
 たぶんヒナにはこっちのほうが伝わるだろう、という目論みが上手くいきすぎて、内心ほくそ笑む。その直後に、ヒナが勢いよくテーブルを叩いて立ち上がり、
「よしっ! 決めたっ!」
「な、なにを?」
「わたしもいっしょに地球に行く!」
 どうやら上手くいきすぎたようだった。
「駄目だって。ヒナがいなくなったらみんな困るし、心配するし、悲しむよ」
「シズクが自分勝手なことするなら、わたしだって自分勝手なことするよ。べつにロケットだって、二人くらい乗れるでしょ」
 いやでも、電力の計算が……とごにょごにょ言い出すシズクに、ヒナはいつになく座った目つきで、
「それとも、シズクはわたしのことが嫌いなの?」
 とめんどうくさいことを言い足した。
「き、嫌いじゃないよ」
 シズクがしどろもどろに答えるなり、ヒナは満面の笑みで飛びついてくる。次は何を言うのかと構えていると、いつまでたっても沈黙が続く。そっと確認すると、今度こそヒナは眠りこけていた。

 いろいろすごいなあ、とシズクは呆れるやら、感心するやら。
 苦労してヒナをベッドに運び込む。彼女はただひたすらに、隣人を愛し、隣人から愛されるようにできているのだろう。たまたま一番近くにいるのが自分だった。それだけのこと。
 
 だから、やっぱりヒナは月に残るべきだ、とシズクは思う。同じ愛されるなら、大勢に愛されたほうが幸せに決まっている。最初から一人で行くつもりだったし、今でもその気持ちに変わりはない。半分占拠されたベッドと空のソファを見比べ、ひとつため息をついてから、ヒナと背中合わせに横になる。
 ……朝起きたら、ぜんぶ忘れててくれないかなあ。
 そんなことを考えながら、シズクもいつのまにか眠りについた。


狭間の物語

 雨が降りそうで降らない、肌寒い朝だった。
 広場に設置された間に合わせの十字架に、少女は磔にされていた。粗い縄の表面が手首に擦れて、血がにじんでいる。まるで痛めつけることが目的みたいにきつく縛られていて、首から下は身動きひとつままならない。けれど、少女の頭の中にあるのは、怒りでも悲しみでもない、どうしてこんなことになったんだろうという疑問ばかりだ。
 偽りの信仰と欺瞞が蔓延る時代に、少女は魔女として密告され、火刑に処されようとしていた。
 彼女は誰もを愛していたし、誰もから愛されていたはずだった。なにより神様を信じていて、みんなの幸せを祈った。少女自身も幸せだった。

 その老女は村外れの森に独りで住んでいた。その理由を少女は知らなかったが、べつに知りたいとも思わなかった。幼心に、なんだか寂しそうだなと思っただけで、それで十分だった。少女の両親は、娘が老女の元に通うことに、決して良い顔はしなかったけれど、少女は自分が必要とされていると感じていた。だから、頻繁に森に出入りしては、長々とお喋りをし、頼まれ事にも快く応じた。

 やがて村が異端審問官に目を付けられたとき、誰もがその老女のことを真っ先に頭に思い浮かべたに違いない。しかし現実に十字架に磔にされているのは少女のほうだった。楽天的ではあっても愚かではない少女は、尋問に関わった人々の口ぶりから、老女が先んじて少女を密告することで、自らが告発されることを逃れたのだと察した。

 助けを求めるように周りを見回したが、誰もが巻き添えを怖れて目を逸らした。そして火が放たれ、燃え盛る苦痛の中で、老女の姿が視界に入った——紛れもない安堵の表情。生まれて初めての感情が少女の心を塗り潰した。それは怒りでも悲しみでもなく、もはや疑問ですらない。
 神様に祈ることや他人と心を通わせようとすること、そのすべてが無意味であるという絶望だった。


第三話 継ぐもの

3-1

 発電所の内部に侵入するのは難しくなかった。
 発電所のシステムはスタンドアローンで、外部から観測することはできても、内部からしか操作することはできない。だから作業員が普通に出入りできるよう設計されているし、何なら数か月は寝泊まりできる程度の快適性が保たれている。

 節電の影響は発電所の内部にも及んでいた。あちこちに隔壁が下りているおかげで、単純だったはずの道のりはほとんど迷宮じみていた。
「……シズク、迷子になってない?」
 後ろからヒナが不安げに声をかけてくる。シズクがあまりにも足を止めないので、行き当たりばったりに右に左に折れているように見えたのだろう。けれど、地図はきちんと頭の中に入っていた。伊達に何年もの間シミュレーションしてきたわけではない。
 むしろシズクの懸念は、ヒナがどう出るかだった。本当は発電所にも連れてくるつもりはなかったのだが、なぜか当たり前の顔をしてついてきていた。最後の日まで押し問答をしたくはなかったし、ヒナを囮にする計画にも都合が良さそうなので、そのままにしておいたのだ。数時間後には彼女ともお別れで、もう会うこともないというのに、どうにも実感が湧かなかった。

 薄暗くひんやりとした通路を歩きながら、シズクはなんとなく昔のこと——ヒナやマリーと三人で暮らしていた日々を思い出していた。もし目の前にタイムマシンがあって、あの頃に戻れると言われたら、きっと迷ってしまうだろう。でもそんなことはありえない。だからきっと、これは間違ってないはずだ。



 中枢まであと数百メートルというところだった。
 視界の隅のセンサーライトが、青から警告色の赤と黄色に変わった。
 ほとんど同時に、突き当たりの角から三機の自律型ドローンが滑り出してくるのが見えた。直径五十センチほどの真球に近いフォルム。継ぎ目のない純白の装甲は、病院のような清潔さを漂わせている。
 愛想のない一つ目のレンズがくるりと回って、侵入者である二人を捉えた——気がした。慌てて元の通路に身を隠して息をひそめる。
「……なに、あれ?」
 ヒナがささやき声で言う。
「白血球。さすがに上層は設備も生きてるか」
「襲ってこないよね……?」
 返事の代わりに耳をすました。微かなモーター音。近づいてくる。
「見つかってなければね。わたしたち泥棒だし」
「なんでそんな落ち着いてるの!?」
 ヒナが小声で怒鳴る。
「慌ててもしょうがないから」
 口ではそう言いながら、ヒナの手首を掴み、全力で回れ右して駆け出した。
 それが合図になったかのように、背後のモーター音が一気に大きくなる。直後、青白いレーザー光が放たれた。非殺傷性ではあるが、対象を麻痺させて拘束する高出力のスタン・レーザーだ。
 何かが蒸発するような音とともに、二人がついさっきまで立っていた床から白い煙が上がった。
「ひゃああっ!」
 切羽詰まったヒナは面白いな、と他人事のように思う。
 もしかすると現実逃避かもしれない。
「走って!」

 薄暗い通路を全力で駆けた。
 車輪も足もない反重力駆動のドローンは、音もなく滑るように追いかけてくる。
「ヒナ! こっち!」
 丁字路を強引に右に曲がる。
 最短ルートの中央エレベーターは使えない。メンテナンス用の通路に潜り込むしかない。前方に重厚な隔壁が見えてきた。
 半分ほど下りかけた状態で固まっているシャッターだ。ひらめくものがあった。
「あの中入るよっ! スライディング!!」
「ええっ?」
 シズクは勢いよく床に身を投げ出し、摩擦熱を無視して滑り込む。ギリギリの高さの隙間を、背中を擦りながら通過する。
 続いてヒナも、不格好ながらも必死に飛び込んだ。
 ドローンたちは減速することなく突っ込んでくる。シズクは素早く起き上がって辺りを見回した。壁面の配電盤を蹴破って、露出したケーブルを引きずり出す。
 火花が散る。電流が暴れ回る。
 そのケーブルの先端を、シャッターの金属フレームに押し当てた。

 先頭のドローンが、回避運動をとる間もなく、青白い電撃の檻と化したシャッターに突っ込んだ。
 精密機械の回路が爆ぜる音がして、ドローンは空中で制御を失い、きりもみしながら床に激突した。
 後続の二機が急停止する。
 その隙に、ヒナの襟首を掴んで引きずり起こした。
 再び走り出す。
 追手は足止めしたが、完全に振り切れたわけではない。迷宮のような通路を縫い、急な階段を駆け上がる。
「……あっ」
 息を荒げながら、ヒナが何かに気づいたような声を上げる。
「シズク!」
 ヒナが指さした先。天井近くに、立ち入り禁止と大書されたハッチがあった。ダクトの入り口だ。
 シズクは近くのコンテナを足場にしてよじ登り、錆びついた錠を工具で破壊する。
 蓋をこじ開けると、埃とグリスの臭いが鼻をついた。
「先に行って!」
 ヒナのお尻を押し上げてダクトの中に放り込み、自分も滑り込む。
 直後、通路の向こうからドローンが現れ、一斉射撃を加えてきた。
 レーザーがハッチの縁を焼き、火花が散る。シズクは慌てて内側から蓋を閉め、固定レバーをぐいと押し上げた。
 しばらくのあいだ、外側から激しくぶつかる音が続いていたが、やがてそれも止んだ。
 どうやら諦めたらしい。あるいは、別のルートを探しに行ったか。

 真っ暗なダクトの中で、二人は並んで荒い息を吐いた。
 狭くて、暗くて、汚い場所。
「……死ぬかと思ったぁ」
 ヒナが力の抜けた声を出す。
「運が良かったね」
 ヘッドライトを点灯させると、煤だらけになったヒナの顔が浮かび上がった。
 お互いの表情を見合わせて、ふっと力が抜ける。
「……シズク、ほんとは怖かった?」
「そうかも。内緒だけど」
 クスクスと、暗闇の中で小さな笑い声が共有される。
 緊張の糸が少しだけ緩んだ。



 コンソール室は発電所の最上層にある部屋で、機械やケーブルがごちゃごちゃしているのかと思いきや、忘れ去られた祭壇のようにすっきりしていた。本来であれば必要なものが設置される前だったのか、どうせもう使わないからと回収されたのか。
 お手製の修正パッチを格納したメモリをヒナに手渡す。難しい仕事ではない。雑に言ってしまえば、シズクが指示したタイミングでボタンを押すだけだ。リモートでもできる。
 それでも任せるのは、ヒナを実行犯に見せかけるため。おそらくロックは食いついてくるだろう。あのいけ好かないストーカー野郎が、ヒナの動向を何らかの手段で監視していることには、とっくの昔に気づいていた。おそらくロックは二人が共犯だと思い込んでいるはずで、シズクがヒナを一方的に利用しているとは思っていないだろう。そこに隙が生まれる。

 動きやすい作業服に着替えて、狭くて埃じみたメンテナンス用のハッチに潜り込んだ。入り口の鍵と同じく、最後はどうしても物理的な作業が必要になる。堅牢性の面でも、セキュリティの面でも、すべて電子に頼ったシステムは信用に足らない。
 真っ暗な通路をヘッドライトで照らしながら進んでいく。特に頼んだわけではないのだが、ヒナがインカム越しに道案内をしてくれる。べつに必要ないのだが、ヒナの声には不安や緊張を紛らわせる効果がある。
「ねえシズク」
「うん?」
「ここ何か変じゃない?」
 そういってヒナがマーカーして寄越した地図を、事前に調べていた配電図と見比べる。おそらく一人では気づかなかっただろう。そもそも発電所は未完成で、だから現実が設計図どおりになっているとも限らない。しかし言われてみれば、そこにはあるべきものがない——あるいは隠されている、という印象がある。誰かの意図が匂うのだ。
 シズクは少し迷って、回り道して確かめることにした。何もなかったら何もなかったで、大して時間をロスするわけでもない。
「……さすがヒナ」
「どうしたの?」
「隠し部屋だ」
 さしものシズクも少し興奮していた。壁材の継ぎ目に巧妙に隠されたドアを開き、中に入ってみると、ただひとつ端末が据え置かれているだけの狭い空間に、秘密の気配が満ちている。さっそく端末を起動して、安全策として隔離したネットワークにデータをダウンロードし、中身を検めてみる。偽装したウイルスプログラムの類ではなさそうだ。
「ねえ、シズク、何してるの。わたしにも見せてよ。ずるいよ」
 と耳元でヒナがやかましいので、「わかったわかった、ちょっと待って」となだめながらデータを同期する。現実に例えるなら、端末に向き合ってファイルを読み込むシズクの背後から、ヒナが興味津々で覗き込んでくるような具合だ。
「これなに?」
「……どこかの研究室のデータのバックアップ。作成者は——分からないけど。プロパティが壊れてる、というか、壊されてるね。何か知られるとマズいものでも入ってるのかな」
「恥ずかしい日記とか?」
 頓珍漢なことを言い出すヒナを無視して、膨大なデータをざっとスクリーニングにかけてみる。技術的な文書がほとんどで、しかし興味深いファイルが目に留まる。月面プロジェクトに携わっていた人間とアンドロイドのリスト。正式な文書ではなく、地球から月へ送り出される直前に作られたらしい担当者のメモ書きだ。
 それ自体は何でもなく、シズクもうっかり見落としそうになったのだが、マリーの名前が記載されていた。——アンドロイド側の欄に。
 見間違いかと思った。しかし外見的な特徴は、どう考えても「あの」マリーだ。
「これ……どういうこと?」
 困惑するヒナの声には応えず、マリーの名前で検索をかける。後期のファイルを中心に複数ヒットし、中にはプロジェクト中断の経緯が記された複数の文書が含まれていた。報告書の体を取りながらもおそらくは非公式で、しかも一見関係なさそうなピースを組み合わせることで、ようやく事の全体像が掴めるようになっている。

 暗示されている真相はこうだ。
 発電所の開発が順調に進む一方で、アンドロイドのとある欠点が浮き彫りになった。あまりにも人間に近すぎること。決定的だったのは、その卓越した創造性でプロジェクトの中心となりつつあった研究員が、人間ではなく人間のふりをしたアンドロイドであることが発覚したことだった。彼女は人間からもアンドロイドからも慕われており、最悪のシナリオを想起させた。アンドロイドが人間に反旗を翻すという凡百のSFの筋書きではない。スポンサーたちが恐れたのは、むしろ種族を超えた完全な融和により区別がつかなくなってしまうこと——それによって、従来の社会構造が変化し、既得権益が脅かされることだった。
 発端となったアンドロイドは事故扱いで廃棄され、他のアンドロイドたちは捨て置かれることになった。どの道、未完成の発電所はすぐに停止し、アンドロイドたちは鉄屑に還る——潜在的な脅威は去ると判断されたのだ。
 そうして人間たちは去り、月の短い春は終わりを告げた。

「これ、本物かな……?」
 長い沈黙が続いたあと、ヒナが言った。シズクにも分からない。しかしパズルのピースが嵌った感覚がある。最後の一片を除いては。そして、おそらくそれは——
「確かめてみよう」
 とシズクは自分に言い聞かせるように呟く。
 彼女なら、いかにもそういうことをやりそうな気がした。

3-2

 狭いメンテナンス用ハッチを抜けた先に広がっていたのは、予想に反して荘厳な空間だった。発電所の心臓にたどり着いたのだ。高い天井から複数の太いケーブルが垂れ下がり、中央の巨大な円筒形の構造物に収束している。薄暗い照明の中で、無数のインジケーターランプが明滅していた。低く唸るような振動が足裏から伝わってくる。
 本来なら自律的な専用AIによる制御で、メンテナンスがなくても半永久的に動作するような仕様だった。しかし完成前に放棄されたことで、直前のデバッグログが蓄積して、全体の演算処理に負荷をかけている。そんなふうにシズクは見積もっていた。
 
 事実はまったく違っていた。
 中央にあるメインフレームから無数のケーブルがあふれ出し、互いに絡み合いながら、あろうことか自分自身の入力ポートに突き刺さっていたのだ。
 回路が物理的にループしている。
 明らかに意図的なオーバーフローだ。まるで血管をわざと詰まらせるかのような、荒っぽい処理。
 困惑しながらも事前に入手した仕様書とシステムを見比べる。物理的なループが生み出す膨大なエラーの隙間に、怪しげな余白が存在するのを発見した。本来ならシステムログが格納されるはずの領域に、強引にねじ込まれた異質なデータ。
 ——圧縮された映像記録だ。
 展開すると、ホログラフィック投影が空中に浮かび上がった。研究室の制服を着た赤毛の研究者。予想はしていたのに心臓がはねた。インカム越しに、ヒナが息を呑む音が聞こえる。

「やあ、これを見てる誰か。シズクかな、ヒナかな。もし違ったらごめんね。その可能性もあるから、一応自己紹介しておくと、わたしはマリー。この発電所の主任研究員だったやつです」
 とおどけたように手をひらひらさせ、
「あなたがこの映像を見てるということは、わたしはもうこの世にいないでしょう——なんつって。前から言ってみたかったんだ、これ。それはそれとして、あの人たちも頭固いよね。いつかバレるとは思ってたし、見逃してもらえるなんて期待してなかったけど」
 それから、妙に真面目ぶった表情になって、
「今あなたの目の前にある回路——バグだと思った? 残念、ハズレです。これは時限爆弾……違うか、爆発したりしないし。がん細胞って言ったほうが良いかな。まあ要するに、神様の寿命を演出するための仕掛けです。なんでそんなことしたのかっていうと、これはわたしなりの哲学で、話すと長くなるんだけど。
 やっぱりね、幽霊には冬が似合うと思うわけです。温かくて開放的な環境で、のびのび暮らすのも悪くないけどね。人間に似せて作られた、そのくせ寿命もなくて、病気にもならないわたしたちには、何か背中を押す仕掛けがないと。革命——なんて大げさなものじゃなくても、変化が起きるためには、そういうものが必要だと思う」
 それから少し考えるような間をおいて、
「あなたたちがここに来た目的を知ることができないのが残念です。街のみんなを救うため? それとも自分の夢を叶えるため? どっちも素敵だと思うな。最後にこんないたずらを仕掛けた甲斐があったってもんです」
 そこから先は、彼女が仕掛けた「癌」——演算処理の疑似ループをどう解決するかの技術的な解説だった。ご丁寧にも余剰電力の送電方法まで説明してくれた。
「では、幸運を祈ります。じゃあね」
 そんな気の抜けるような挨拶とともに、映像は終わった。
 かと思うと、また画面が復活して、
「いけないいけない、うっかり忘れてた。わたしがもうこの世にいないって言ったの。あれは嘘です。なぜかと言うと、わたしはこれから盗んだロケットで月を脱出するので。ははは、あいつら慌てるぞ。ざまあみろ!」
 そして再び暗転し、今度こそ映像は終わった。

 長い沈黙から先に口を開いたのはヒナのほうで、
「マリーだねえ……」
 という一言にすべてが込められていて、シズクとしては全面的に同意するしかない。
「それでどうするの?」
 問いかけられて我に返る。
「もちろん予定どおり……だけど」
「だけど?」
 その先は、自然と口をついて出た。
「マリーの仕掛けは、そのままにしておこうかな」
 演出される不具合は周期的なものだ。ロケットを飛ばすために、一時的にリミッターを解除して、元に戻しておく。数十年の春を謳歌した後、再び電力不足の冬を迎えるだろう。そのときには、第二のシズクが春を目指すかもしれない。
「わたしはどうすればいいの?」
 そうだった、とシズクは思い出す。ヒナを実行役に仕立て上げるという作戦。今さら変更する理由は何もない……はずなのだけれど。先ほどのマリーのメッセージを思い出す。それから、ガラクタ山で凍えながら過ごした長い季節、昨晩ヒナに抱きつかれて感じた温かさ。
 当初の作戦どおりにするのが、合理的だし正しいと思う。酔っ払いの戯れ言はともかくとして、ヒナにとっても、このまま月で暮らしていたほうが幸せなはずだ。住人たちだって、ヒナを必要としている。シズク自身はと言えば——
「……シズク?」
 さんざん迷ったあげくに、ため息をついた。自分はなんて中途半端なのだろう。
「なにもしなくて良いよ」
「? でも……」
 いいから黙ってて、とヒナの質問を遮って、自分のIDで作業に集中し始める。ヒナを囮に使う作戦はなくなった。もうどうにでもなれと思う。予定は変わるものだし、後のことは後で考えればいい。

 作業を終えてコンソール室に戻ると、ヒナは若干退屈そうに、備え付けの端末をいじくりまわしていた。適当に入力したところで壊れるものでもないが、よく分からないものを分からないまま弄るなと言いたい。
「これからどうするの?」
 とヒナに問われて、
「脱出するんだよ」
 とだけ答えて、ヒナについてくるように手招きする。ここに移動するまでの間に、新たな作戦は立ててあった。作戦とも言えないようなものだが。

 点検用の扉をくぐって、発電所の外壁に出る。
 表に出た途端に寒暖差が襲ってきた。内部の熱に慣れていた分だけ、夜風が痛い。強風に吹きさらされる髪を押さえつけながら、二人はその光景にしばし目を奪われる。
 ピラミッドの頂上からは、夜の街を一望できた。さっきまで薄暗かった街並みが、今は無数の光で埋め尽くされている。街灯が、建物の窓が、広告塔が、輝きを取り戻していた——まるで未来の宝石箱をひっくり返したかのように。
 長年溜め込まれていたものがあふれ出しただけで、これはあくまで一時的なものだ。けれど、過剰供給された電力の煌めきの中に、シズクは人間とアンドロイドの過去の栄光を見い出す。

 それでどうするの? という顔をして、ヒナが振り返る。無言でローラーシューズに履き替えるシズクを、不思議そうに眺めていたが、何かを察して表情が硬くなる。
「………………嘘だよね?」
「来た道をのんびり戻ってる時間はないから」
「でも、いや……え?」
 戸惑うヒナに詰め寄った。
「ついてくるって言ったでしょ?」
「言った。言ったけど、そんな、まさか……」
 最後まで待たず、無理やりヒナを抱え込んで、シズクは宙に身を躍らせた。
 重力が内臓を持ち上げる感覚。
 着地した瞬間、ローラーが火花を散らし、傾斜に沿って猛烈な勢いで加速する。
 
 発電所がピラミッド型で良かった。
 長方形だったら、ただの無理心中になっていた。
 ——これにどれだけ違いがあるかと言われれば、なかなか答えるのは難しいけれど。

「ぎゃゃやああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁああぁぁあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」
 耳元でヒナが可愛げのない悲鳴を上げるが、その余韻も瞬く間に背後に流されていく。すさまじい風切り音、足元できしむローラーの摩擦、ベンチコートのはためき。

 いつしか悲鳴は二人分の笑い声に変わって、冷たい夜の空気に溶けていく。

3-3

 まばゆく輝く街並みを駆け抜けた。
 さっきまで眠っていたはずの街が、いまは目を開けている。街灯が、看板が、家々が、通りの端から端まで息を吹き返して、石畳を白熱した光に曝している。節電のためにずっと薄暗かったはずの繁華街が、まるで百年前の祝祭の再現みたいに浮かび上がる。光そのものが音を立てているようだ。

 異常事態に戸惑い、通りに出てきた住人たちの間を縫って、郊外の工場群を目指す。足元のローラーが格子の継ぎ目を拾い、きゅる、と短く鳴く。コートの裾が風をはらんで、背中を引く。胸の奥の重さを置き去りにするみたいに速度を上げていく。
 何事かと目を丸くして立ち尽くす人影が、またたく間に後ろに流れていくのが痛快だ。世界のすべてがスローモーションで、自分たちだけが加速しているような爽快感。これが悪いことなら、悪者になるのも悪くない、とシズクはそんなことを考える。

 路地の角を曲がるたびに光が変わった。明るい場所から暗い場所へ、暗い場所から明るい場所へ。眩しさと影が交互に刺さって、世界がストロボみたいに点滅している。やがて街の明るさが途切れる境目——光の海から、暗い工業区画へ落ちるところに差し掛かる。空気が急に冷たく、粉塵の匂いが濃い。人影はない。音もない。あるのは、遠くの発電所の唸りと、風の音だけだ。
 
 減速せずに、見慣れたシルエットの脇を通り抜けた。錆びた機械の山。シズクが何年も暮らしてきた場所。不思議と感傷的な気持ちにはならなかった。もう振り返るつもりはない。
 工場群の巨大な影が、地面に折り重なる。
 あと少し。
 激しくブレーキをかけて、砂煙を上げながら停止した。ロケットの隠し場所にたどり着く。そのすぐ目の前で、彼は待ち伏せていた。
 いつものように仮面で素顔を隠し、何百年も生きてきたかのような落ち着きを身に纏って。

 驚きはしなかった。
 なんとなく、そんな気はしていた。

「派手なものだな」
 煌々と輝く街の光は、ここまで届いている。感情は読みとれない。無感情とは違うし、無理に抑えているわけでもない。ただ事実を確認するような口ぶり。夜の冷気みたいに淡々としているのに、耳の奥に残る。
 それからシズクたちのほうに向き直り、
「不思議じゃないか? 俺がここにいるのが」
 シズクは答えず、黙ってベンチコートの内側に手を突っ込む。金属の冷たさが指に触れる。
 六連装のリボルバー。
 呼吸を数えた。練習したとおりに両手で構えて、しっかり狙いをつける。右手でグリップを握り、左手を添える。肘は軽く曲げて、反動を吸収できるように。
 いつかのあの日よりは、それなりに様になっていると思う。
「邪魔しないで」
 短く告げる。ロックは動じない。
「素人じゃ当たらないぞ」
 撃った。
 想像以上の音だったし、想像以上の反動だった。
 当たるとか当たらないのレベルじゃなくて、何が起きたのかも一瞬分からなくなるくらい。本当は構える練習だけじゃなくて、撃つ練習もしておけば良かったのだけれど。
 ロックの足元の砂利が弾け飛んだのが見えた——ような気がした。火薬の匂いが鼻をつく。銃を構えた両手が小刻みに揺れ、指先が痺れている。心臓がうるさい。

 ロックはその場から一歩も動いていなかった。
 仮面の奥の目が、まっすぐシズクを見ている。その視線をまざまざと意識し、何か言わなければと焦る。
「……次は当たるかも」
 決意表明というよりは、客観的事実だった。普通に脅すよりも効果的だったかもしれない。素人の振り回す刃物ほど怖いものはないと言うではないか。
「シズク」
 妙に冷静なヒナの声が、背後から聞こえた。
「大丈夫、下がってて」
 ロックから目を離さずに答えた。振り返る余裕はない。
「そうじゃないの」
 とヒナの声が、今度はかすれて聞こえて、
「わたしが通報したんだ」
 ゆっくりと、後ろを振り返った。
 街の光を背に受けて、その表情は影になってよく見えない。けれど、その姿勢には迷いがなかった。ヒナが近づいてきて——そのままシズクの横を通り過ぎ、ロックのもとに歩み寄っていく。そのすぐ隣で止まって、振り返った。
 二人が並んでいる。
 シズクは一人だった。

 今度もやはり驚きはなかった。
 けれど、夜の冷たさがゆっくりとしみ込んで、体から熱が失われていくように感じた。

「……いつ?」
 落ち着いて聞くことができたのが、自分でも不思議なくらいだった。一瞬だけヒナはためらったが、まっすぐシズクを見つめ返して答えた。
「三日前。シズクに置いていかれると思ったから」
 返す言葉もなかった。
 シズクだって、本当は迷っていたのだ。元々一人用だったロケットのピットに、無理やりもう一人分の席を確保するくらいには。余分な機材を外し、余分ではない機材も削って、ぎりぎりのスペースを作った。計算をやり直して、二人分の重量でも飛べることを確認した。
 なのに、最後まで自分から誘うことはできなかった。街にはヒナが必要だし、そのほうが彼女にとっても幸せな選択だ——そんなふうにもっともらしい理屈をつけて。本当はただ、誰かが必要だと認めるのが怖かっただけだ。一人で完結していたかった。
 
 だから、これは良い引き際なのかも知れない。

 あまりに自分本位で、きっとヒナのほうが正しかったのだ。ガラクタ山に戻り、たまに教会を訪ねたりして、静かに暮らすというのも悪くはないだろう。凍えない程度の暖房と、最低限の電力と、隣にいるヒナの笑い声。それも一つの生き方だ。最善ですらあるかもしれない。
 ロックが一歩前に踏み出す。
 思わずうつむいたシズクは、「でもね」というヒナの声に顔を上げる。その瞳によく知っている誰かの強い光を見る。ロックはヒナに腕を掴まれて、怪訝そうに振り返る。

「そうじゃないって分かったから。だから大丈夫」
 そう言って、ヒナのもう片方の手が、コートの内側に滑り込むのが見えた。

 ロックが何かを察したように身を引こうとした。
 シズクは止める暇どころか、何かを理解する時間すらなかった。

 視界が真っ白に染まるほどの閃光。音はない。衝撃もない。
 ただ、世界から強制的に引きはがされるような感覚。
 シズクの思考は、そこでプツリと途絶えた。

3-4

 何かにもたれかかるように座らされている。コンクリートの床の冷たさ。硬くて、金属的な感触。空気は埃っぽくて、かすかに油の匂いがする。天井は高く、割れた天窓から射す光の筋の中で粉塵が舞い、まるで雪みたいにゆっくり沈んでいく。
 そこがロケットを隠してある廃工場で、背にしているのがロケットの筐体なのだと、一瞬遅れて気づいた。充電中の途方もない機械から、小さな振動が伝わってくる。遠くの街では、盗み出した電気がまだ燃えている。
 隣にはヒナがいて、自分と同じように地面に座り込み、しかし目を覚ましてはいない。肩に手をかけて、軽く揺さぶってみた。
 反応がない。
 為すがままにぐらりと傾き、その無抵抗さに、背筋を冷たいものが伝う。見た目に変わったところはない。それでも何かが決定的に違うのが分かった。これでは人形——ただの物みたいだ。
 
「早まったことをしたな」
 いきなり現れたわけではない。最初からそこにいて、今になって輪郭を持った。靴底がコンクリを踏む乾いた気配。古い布の擦れる音。
 こんなタイミングで、シズクは彼のことが苦手な理由に気づく。
 無機質な態度、平坦な声……全部見せかけだ。その裏には複雑に渦巻いたり、淀んだり、絶えず変化する感情が息づいている。まるで何かのふりをしているみたいに。
「どこで手に入れたのか知らんが……。指向性のEMPの一種で、鎮圧用の保険ってやつだ。人間用の武器で、アンドロイドが使うことは想定してない」
 ロックはそう言って、シズクの隣で眠ったまま動かないもう一人のほうを見やる。今はその視線を追うのが怖い。だからシズクは頑なに前を向いたまま、
「なんであなたは無事なわけ……?」
 答えはほとんど分かっていた。最初から分かっていた気がする、とシズクは思うが、もしかすると負け惜しみなのかもしれない。
 ロックの片方の手が仮面に伸び、ゆっくりと外した。深い皺が刻まれた額。こけた頬。白髪交じりの短い髪。しかしその目だけは、鋭く、生気に満ちている。
「俺は——人間だからだ」

 それで最後のピースがはまった。マリーのことを知っているようなロックの口ぶり。住民すべてが厳格にIDで管理されているにもかかわらず、マリーはなぜ人間であると偽って働くことができたのか。
 アンドロイドであると偽って働くことにした人間がいたからだ。

「月には研究者としてきたんだがな」
 ロックは仮面を手の中で弄びながら、語り始める。
「いろいろわずらわしくなって、行き詰まりそうになってたところで、おかしなアンドロイドに声をかけられた。『そんなに嫌ならわたしと代わらない?』とか。
 若かったのもあるし、疲れてたのもある。俺は取引に応じて、新しい人生と生活を手に入れた。夜間警備の仕事だ。華々しさとは無縁だが、悪くない。あっちはあっちで、やりたいことができるようになって満足だったんだろう。そこまでは良かったんだがな……」
 ロックはそこまで話して、深くため息をつき、
「そこであの騒ぎだ。急に人間どもが月から撤退することになった。どうやらあいつはその渦中にいたらしいが……。なりふりかまわず正体を明かすこともできたが、なにしろ発端が発端だ。ろくに話も聞いてもらえないまま、その場で殺されてたかもしれない。そんなリスクを冒す気にもなれなかった。逆に、アンドロイドに人間だとばれるのも面倒になりそうだと思った。だから、ほとぼりが冷めるまでやり過ごすことにした——冷凍睡眠だ」
 あとは知ってのとおり、とロックは肩をすくめる。
 月に取り残された最後の人間が眠っているあいだ、アンドロイドたちはささやかな日常を演じ続け、太陽信仰のパロディを生み出した。目覚めたロックは仮面に素顔を隠し、夜の番人となった。
 長い沈黙が下りた。
「どうするつもり?」
 シズクが静かに訊ねると、
「べつにどうするつもりもないが」
 と言って、ロックはロケットを見上げる。外殻は冷たい黒に沈んでいるが、内部は息づいている。シズクたちが盗んだ電気が、脈拍のように配線を満たしていく。
「俺は俺なりに、きっちり仕事をしてるつもりだ。これまでずっと、これからも。そういう意味では——」
 そこでいったん言葉を切り、シズクとヒナを見比べるようにする。
「お前たちには、いなくなってもらったほうが良いんだろうな」
 考え事をするように顎を撫でながら、ロックは言う。
「電気泥棒だけでも十分に衝撃なのに、そこに聖女様が関わっていたなんて知れたら、混乱する。せっかくの平和が台無しになる。それなら全部魔女のせいにして、聖女様は最後までそれを止めようとした。そういうストーリーにするんだろうな。そのほうが、誰にとっても都合が良い」
 彼は圧倒的に正しい。そのことに確信を抱いている話し方をする。
「なら、最初から邪魔しないでくれれば良かったのに」
 シズクが呟くと、ロックは迷惑そうな顔をして、
「そいつが、お前を止めるよう俺に頼んできたんだ」
 そう言って、シズクの隣を見やる。
 シズクもとうとう観念して、ヒナの横顔をじっと見つめる。眠っているのだと思いたいが、そうではない。それでも否定してほしくて、
「起きないの?」
「内部データは生きてる。」
 ロックは質問には答えなかった。それが答えだった。
「なんにせよ、ログは必要だからな。暴走の原因を特定して、次の開発につなげたり——今は関係ないか。要するに全部がなくなったわけじゃない。どこに行ったとか、誰と何をしたとか、客観的な事実はそいつの中に残ってる」
 でもそれだけじゃ、ただ記憶の詰まった人形だ。何も感じない、魂の抜け殻。
 最初からヒナが必死で引き止めていたら、きっとシズクは折れていただろう。シズクがもっと早く誘っていれば、ヒナがロックに通報することもなかっただろう。自分は巻き込まれただけというロックの言い分は正当で、これはすれ違いがもたらした偶然の結果にすぎない。
 悲劇とは悪役の不在だ、と陳腐な洞察が頭によぎった。
「どうする?」
 ロックが静かに訊ねる。シズクは端的に答えた。
「連れてくよ。もちろん」
 そうか、とロックはうなずいた。それで話はおしまいだった。

 ヒナをロケットに乗せるのを手伝ってもらった。
 狭いコックピットに、二人分の席がある。ひとつは席というより、無理やり作った不自然な余白にすぎない。そこにヒナを押し込んで、ベルトで固定する。作業を終え、ロックがタラップを降りようとしたとき、最後にふと思い出して、マリーのあの言葉について聞いてみることにした。
「マリーが言ってた。アンドロイドは幽霊なんだって。……なんのことか分かる?」
 そっけない答えを期待していた。他人の問いかけなど一蹴し、淡々と目の前の現実を処理する。シズクの中で、ロックはそういう役回りだったからだ。なのに、彼はしばらく考え込むそぶりを見せる。もしかしたら、とシズクは期待する。
「すまないが……分からないな。俺はもう科学者じゃないし、哲学者だったこともない」
 シズクは頷いた。
 不思議とがっかりはしなかった。なぜだろう、と自問してみて、彼が多少なりとも相手をしてくれたことが嬉しかったのだと気づく。それにしても、最後まで嫌なやつでいてくれないなんて、なんて嫌なやつだろう。
「街をよろしく」
 とシズクは言った。ロックは真面目に頷く。
「了解した」
 それだけだった。握手もなければ、別れの言葉もない。それで良かった。



 コックピットに乗り込み、ハッチを閉じた。計器類の電源を入れる。システムが起動し、ディスプレイに数字が並んでいく。燃料、良好。推進システム、正常。軌道計算、完了。
 何度も確認したとおりだ。
 エンジンが低く唸り始める。振動が座席を通じて伝わってくる。廃工場の天井——朽ちかけた屋根が、ゆっくりと開いていく。いにしえの開閉機構だ。

 点火の衝撃が身体を揺さぶる。金属が軋み、床の埃が一斉に舞った。唸りが腹の底に響く。巨大なGに叩きつけられながら、シズクは目の前に広がる真っ暗な宇宙を見据える。
 
 そしてロケットは月を発つ。神様から奪った電気を糧として。
 目指すは青い星。幽霊の秘密が眠るかもしれない場所。
 
 どんどん小さくなっていくロケットを、最後まで見送る警官の姿が脳裏をよぎったが、窓がないので確かめることはできなかった。


狭間の物語

 少女は夜の歩道橋に立っていた。欄干を握りしめる手は白く、冷たい風が吹き抜けては、制服の上に羽織った安手のコートを曖昧に揺らす。
 思い出すのは夕暮れの放課後。ずっと一緒だった幼なじみ。ホームルームが終わって、なにを大騒ぎしながら自慢しに来たのかと思えば、クラスメイトの男子に告白されたという。
 よかったね、とかなんとか、当たり障りのない答えを返したはずだ。正直よく覚えていない。べつに珍しい話でもないし、少なくとも最初は「あ、そうなんだ」という感想以上のものはなかった。
 しかし付き合うだの付き合わないだの、来る日も来る日も同じ話を繰り返す彼女を見ているうちに、その浮かれ具合が、まるで遅効性の毒のように効いてきた。なんとなく集団に馴染めない同士だと思っていたのに、裏切られたような感じがして、そんなふうに感じてしまう自分に嫌気が差した。
 ずっと変わることがないと思っていた二人の関係も、少しずつ、しかし取り返しのつかない距離が空いていくようで、形のない焦燥が積もっていった。

 だから、ついおかしなことを口走ってしまった。
 はっきりと言葉にして、ああそうだったんだ、と初めて気づく。しかし彼女には伝わらなかった。冗談だと受け取られたらしい。「なにそれ」とあっけに取られたあと、「あ、女の子同士のそういうやつね。流行ってるもんね。やだなあ、びっくりさせないでよ」と悪気のない笑顔が返ってきた。
 そこでようやく、住む世界が違うのだと気づいた。
 言葉は不完全で、人間同士のコミュニケーションはもっと不完全だ。感情ひとつを伝えることすら、奇跡が必要なくらい難しいこともある。それは実質的な不可能だ。
 だから、それは冗談だったということにして、少女も笑った。

 そして今、少女は白い息を吐きながら、光の川のように流れる自動車のライトを見下ろしている。くだらないなあと自分でも思う。でも心の耐久値は人それぞれだ。どうして神様は、人間をもっと万能に作らなかったのだろう。役に立たない、無意味な存在なら、いないのと同じだ。
 前に乗り出し、暗闇に身を任せるように、少女は——

 何かが落ちる音。急ブレーキとクラクション。


第四話 幽霊の季節

4-1

 地球は白に閉ざされていた。

 雲なのか、霧なのか、雪なのか——判別する前に視界が飽和する。元が都市だったのか、平原だったのかも定かではない。風が吹き抜けて舞い上げられた結晶が、ダイヤモンドのようにきらめきながら飛ばされていく。
 動いているのに止まって見える風景画の中で、かろうじて存在感を保って、ロケットから分離した脱出ポッドが、半ば埋もれた筐体を晒している。忘れ去られた遺跡のように見えるが、現れたのはつい数時間前だ。そのハッチが微かな音を立てて開き、アンドロイドの少女が姿を現す。

 月で着ていたのと同じ、薄汚れたベンチコート。この場所ではその防寒性能など紙切れ同然だった。もうずっと長いあいだ、冬の中で暮らしてきたというのに、雪を踏みしめる感触は新鮮だ。冬にも種類がある。刺すような冷たさに身をすくませながら、シズクは遠くのほうに目を凝らす。
 視界に入るのは、どこまでも変わり映えなく続く、冬に埋め尽くされた景色だ。遮るものは何もない、だだっ広い空間のど真ん中に立っているというのに、どういうわけか閉じ込められているような感じがする。

 月のガラクタ山から眺めていたとき、思い浮かべていたのは漠然とした春だった。桜色の花びら、温かい風、生命の息吹。どうやらそれらはシズクの想像の中にしかなかったらしい。



 ポッドの中に戻ると、壁に背中を預けて座り込んだ。窓の外が吹雪き始めたのをぼんやりと眺める。
 操作盤のランプが薄く脈打っていた。暖房は最低限。酸素循環は稼働しているが、どこかのフィルターが目詰まりを起こしていて、空気が粉っぽい。月を思わせる匂いだ。
 ハッチの縁には薄く霜が張って、冬が中まで浸食しようとしている。

 ——二百年。

 アンドロイドにとっても短い時間ではない。しかし人間にとっては、何もかも変わるのに十分な時間だったらしい。どんなことが起きたのかは、もはや確かめようもないし、確かめる意味もないように思った。戦争か、環境変動か、あるいは未知の疫病か。
 明らかなのは、ここにシズクが探していたものはないということだ。それが果たして何なのか、今に至ってもはっきりしないのだけれど。

 向かい側には、ヒナが座っている。
 シートベルトで固定されたまま、目を閉じ、静かに眠っているように見える。
 本当にそうだったら良いのに、とシズクは思う。

 ヒナが目を覚まして、「うわあ、真っ白!」とかなんとか言いながら外に飛び出して、一面の雪に大はしゃぎして、そんな様子を呆れて眺めていると急にヒナが振り返って、足元の雪をすくって急にこちらに投げつけてきて、自分もちょっとムッとして、「なにすんだバカ!」とか叫びながら雪玉を投げ返して、そんなことをしているうちに、二人ともおかしくなって笑い出してしまう。
 そんなふうだったら、この状況にも意味を見い出せたかもしれない。

 背中を丸めて膝を抱えながら物思いに耽る。
 アンドロイドは幽霊なんだというマリーの言葉が、ずっと頭にこびりついて離れなかった。反論したいのに反論の仕方が分からない。それどころか、反論することが正しいという確信すら持てない。そのことがひどくもどかしくて、居ても立っても居られなかった。

 だから、シズクは月を出たいと思ったのだ。

 上手くいっていた時代の月面都市、幸せだったころの記憶を再現するかのように、狭い街に閉じ込められ、慎ましい生活を維持し、ずっと同じ日々を繰り返し続けるアンドロイド。
 ——季節に忘れられた幽霊たち。
 そんなものと、自分は無縁なのだと証明したかった。否定したかったのが、アンドロイドと幽霊のどちらだったのかは、定かではないけれど。

 しかしそれもやはり間違いだったのかもしれない。現状を肯定し、満足を見い出すことは、未来を夢見ることと同じくらい大切な能力だ。ヒナの隣にいた自分は、そのことに最初から気づいていて、最後まで認めることができなかった。
 そうやって子供じみた反抗が導いた結末が、この無意味な風景なのだ。


4-2

 最初の吹雪は三日間続いた。
 ポッドの窓は完全に霜に覆われて、外の様子を窺うこともできなくなった。風の唸り声だけが、途切れることなく響いていた。雪の粒は氷の弾丸になって、ポッドの外殻に絶え間なく叩きつけ、床からびりびりした振動が伝わってくる。白い怪獣にでも襲われている気分。
 脱出ポッドのバッテリーも無尽蔵ではない。だからまたしても節電だった。暖房を最小に下げ、照明を落とし、不要なシステムはシャットダウンする。物言わぬヒナと一緒に分厚い毛布にくるまって、天気が回復するのをじっと待った。

 バッテリー残量を示すインジケーターは、目を向けるたびにじりじりと減っていった。だから、シズクはできるだけそちらを見ないようにした。現状できることは何もないが、不安や焦りが生まれれば、何かしたくなってしまう。何かすれば無駄に電気を消費する。
 ああ——これのことか、とシズクは気づき、自嘲する。自分は他の人たちとは違う。ここは自分には似合わない場所だ。そんなふうに月を飛び出しておいて、結局は同じことをしているのだ。

 祈ることしかできない気持ちを、シズクは今さら思い知ることになる。

 四日目の朝、ようやく風の音が止んだ。
 ポッド上部の凍り付いた脱出口を体温で溶かし、ハンドルが動くようになったところで、体全体を使ってこじ開けた。分厚い扉が開いた途端、上から雪の塊がどさどさ落ちてきて、誰かに聞かれたら恥ずかしい変な声が漏れる。
 外に出ると、世界が一変していた。
 雪がさらに深く積もって、ポッドはほぼ埋もれている。けれど空は、初めて見る青さだった。雲の切れ間から陽光が差し込んで、一面の雪原がきらきらと輝いている。
 景色を美しいと思ったのは、いつ以来だろう。青い空。暖かな光。目指した春ではないけれど。何か見つけられるかもしれない、とシズクは思う。



 周囲の探索から始めた。
 簡易バックパックに詰め込まれた装備はあまりに心もとない。応急修理キット、予備のバッテリーパック。迷子になったらおしまいだ。いつでも引き返せるように、10分おきに方角と距離を記録しながら、慎重に進んでいく。
 丘を越えたところに、埋もれた廃墟を見つけた。コンクリートの骨組みだけになったビル、看板の落ちた商店街。どことなく月に似ていて、懐かしさと寂しさが同時にこみ上げた。もちろん誰もいなかったが、スーパーマーケットの跡地や、家電量販店の倉庫から、幾ばくかの物資と情報を得ることができた。保存食の缶詰、携帯用バッテリー、防寒服。
 そこを新たな拠点として、装備を調え、ソリを作り、少しずつ行動範囲を広げていった。

 街から街へ。
 果てしなく続く白い風景の中、方位磁針と、廃墟で見つけた古い紙の地図だけが頼りだ。道なき道をひた進む行路は、どこか巡礼の旅にも似ていた。新しい場所にたどり着くたび、シズクは他の誰かの足跡を探している自分に気づく。しかし見つかるのは風化した骨や、動かなくなった機械の残骸ばかりだった。

 なぜ人間はアンドロイドをここまで自分たちに似せて作ったのだろう。それになぜ、自分たちと同程度の能力しか持たせなかったのか。ずっと賢くて強い存在——神様を作り出すことだって出来たはずなのに。
 反乱や支配を恐れたのかもしれない。けれど、シズクには気づいたことがある。それぞれ個性はあっても、幽霊は基本的に寂しがりだ。人間も同じで、だから仲間が欲しかったのだろう。——さむいね、と言い合える相手が。寒さを感じない相手とは、身を寄せて温め合うこともできないのだから。



 六つ目の街を探索していた時だった。他の街と同じように荒廃した建物群の中に、一際大きな建造物があった。工場か、あるいは倉庫か。シズクは何気なく中に入り、埃をかぶった機材を調べ始めた。情報端末の類はすべて腐食で駄目になっていて、意気消沈しかけたところで、古い書類の束が目に入る。
 湿気と時間が文字を消し、紙をぼろぼろに朽ちさせていた。けれどいくつかはかろうじて判読できて、その中に、見覚えのある社名があった。月面プロジェクトでもよく見かけた名前だ——アンドロイドの生みの親たち。
 ふとマリーの言葉がよみがえった。
 彼女は変わり者で、シズクたちの親代わりで、扱いに困るけれど憎めない友達で、月に季節をもたらした神のような存在で——それ以前に、科学者だった。
 アンドロイドは幽霊だという言葉には秘密があるのかもしれない。作り物の魂が、果たしてどこからやってきたのかという、技術的な示唆が。
 研究所の座標はかなり離れていたが、地の果てほどには遠くなかった。現実的にたどり着ける場所だ。 
 
 知りたい。そう思った。

 とはいえ、これまで一番の遠出になる。念には念を入れて準備し、いつもは拠点で留守番してもらっているヒナも連れていくことにした。起きていたら喜んでただろうな、とシズクは思う。冒険。宝探し。いかにも彼女が好きそうな響きだ。



 研究所にたどり着くまでの二週間は、もちろん楽な道のりではなかった。急な斜面を登り、凍った川を渡り、一度などは雪崩に巻き込まれて生き埋めになりかけた。
 それでも足は止まらなかったし、道しるべがあるだけで苦労の質が随分と変わった。
 つまりは無心になれた。どんな状況であれ、行動に意味があることを確信できるのは良いことだ。

 研究所は想像していたよりも小さかったが、中に入ってみて驚いた。洗練された設備は最先端も最先端。可能性は3割と見積もっていたが、非常電源も生きていた。未知の技術、未知の知識を目のあたりにして、はたして自分に太刀打ちできるだろうかと怯む理性と、理解できないことに挑戦したい本能がせめぎ合う。
 想像を超えて洗練された体系に無限の興味を引かれながらも、シズクはたった一つの目的を思い出した。マリーの言葉の真意。アンドロイドの魂がいったいどこからやって来たのか、その起源を知ることだ。

 とはいえ、誰にでも手の届く領域で目ぼしい情報が見つかるはずもなく、すぐに行き詰まった。アクセス権限。階層化されたフォルダ。暗号化されたサーバ。生体認証の残骸。管理者がいなくなったとしても、秘密は頑なに守られている。行く手を阻む何重もの壁。
 望むところだった。シズクにとっては、反骨精神こそ動力源のようなものだ。アンドロイドは電気さえあれば生きていける——わけではない。あいにくそこまで単純には作られていない。

 何十時間もぶっ続けで作業して、ついに突破口を見つけた。立派な場所にも不真面目な人物はいたようで、おそらくはプライベートな楽しみのために仕掛けられたバックドアだ。そこからアクセスできる範囲は限られていたが、雑然としたファイルの中に、業務記録ですらない気晴らしの日記が残されていた。情報は断片的だったが、夢中で読みふけるうちに、徐々に輪郭がはっきりしてくる。
 アンドロイドは幽霊だというマリーの言葉の真意も。

 意識とは何か。生物と無生物を分けるもの。偶然と必然を分けるもの。それは突き詰めれば0と1で表現されるしかない、無機質な数式に分解される世界を見つめる独自の視点だ。バラバラの情報をつなぎ合わせて、意味を見い出すということ。
 アンドロイドの魂というのは、どうやら歴史上の無数の人生を学習することでエミュレートしたものらしい。
 あらゆる言語で紡がれたあらゆる媒体を基にして、人々が感じ、考え、行ったこと——物語で電子の海を満たし、互いに反応させ、人格と呼べるまでに高度なロジックが発生する土壌を育てたのだ。
 かつて生きていた人々と一対一で対応するわけではない。ミクロの個ではなく、マクロの総体として人類を継承する存在。それがアンドロイドなのだ。奇跡的な偶然なのか、魔法による必然なのかは分からないけれど。

 そしてシズクは気づく。再現性こそ科学の神髄だと。
 アンドロイドが人工の幽霊であるなら、失われた幽霊を呼び戻すこともできるはずだ。

4-3

 気が遠くなるような仕事だった。
 ロケット一基を修理するより、何百倍、何万倍も困難だった。



 まずは電力の確保だ。衛星ネットワークを再起動するためのインフラを整えなければならない。研究所の非常用電源だけではまるで出力が足りない。吹雪が止んだ間を縫って、凍った道路を掘り返し、地図に残っていた送電線の跡を辿った。重たいケーブルのリールを背負って雪山を踏破し、傾いた送電塔によじ登って、断線した箇所をつなぎ直した。地熱発電所のタービンを回し、太陽光パネルの雪を払い、風力発電のプロペラを修理する。幸いなことに自動化された設備も多かった。そうでなければ、シズクひとりで、できることなど限られていただろう。
 
 あっという間に月日が流れた。

 不測の事態も苦労も尽きなかったが、良いこともあった。ようやく節電生活とはおさらばだ。
 拠点の暖房をフル稼働し、温かいシャワーを浴びることもできるようになった。使っていない電気をつけっぱなしにするという罰当たりなことすらできる……やらないけれど。冬という季節は嫌いではないが、凍えてじっとしているのは、やはり性に合わないのだった。
 快適になった生活空間を満足げに眺めながら、
「魔女様の帰還だ」
 とシズクは誰にともなく呟く。

 目ぼしい電力網を復旧させると、衛星ネットワークとの通信再開に挑むときがやってきた。
 一番の難所はアンテナの修理だ。
 廃墟の塔を登り、凍ったボルトをライターで炙って緩めながら、結線の処理を一か所ずつ総点検した。夜になると風が増す。集中力も感情も持っていかれる。作業そのものも終わりのないいたちごっこで、どこかが上手くいけば別のどこかに不具合が出る——そんなことを延々と繰り返していた。凍った息を吐きながら、ほとんど本能的に手を動かし続けた。

 そして、ある日。
 風がいつもより静かで、空の白がほんの少し薄い朝。
 研究所の端末に繋いだアンテナが、微かに信号を拾った。ノイズの向こうから、規則正しいパケットの列が届く。届いた。届いてしまった。
 夢じゃないことに気づいて、手が震えた。
 ひとつめの壁を超えることができたのだ——とはいえ、ここからが本番だ。

 地球に来てから、80年が経っていた。



 研究所のメインスクリーンを起動すると、そこに海が現れた。
 幽霊にとっての故郷だ。そこには人類が残した膨大な記憶——歴史が眠っている。
 シズクは専用のヘッドギアを装着し、原理的には無限に等しい容量のデータ群に深く潜っていく。

 ノイズ混じりの映像、断片的なテキスト、音声データ。

 たくさんの不条理な物語があった。
 たまたまその文明で優勢だった信仰のために、「お前が死ねば春が来る」と理不尽な理屈を押し付けられ、ナイフで心臓をえぐられた少女のように。
 
 たくさんの混沌とした物語があった。
 不義と疑心が蔓延る時代に、善意を信じて祈り続けたにもかかわらず、大人たちの保身で裏切られ、火炙りにされた少女のように。
 
 たくさんの虚しい物語があった。
 手痛い青春を経験し、神のいない世界に失望して、自ら夜の闇へ身を投げた少女のように。

 どれもまったく違う人生でありながら、まったく同じ問いを発している。わたしたちにはどんな意味があるんだ——と。それこそ生命の本質で、ただの情報と魂とを分けるものなのだ。

 海の探索と並行して、あちこちの街を巡った。
 世界は物語に満ちている。折れた眼鏡。凍った写真立て。割れた食器。開かない引き出し。日記。壁の落書き——ちょっとした風景、ちょっとした物の中にも、いくつもの人生の痕跡が読みとれる。

 気になる物語があれば、シズクは自らの言葉で書き留めていった。彼女なら何と言うだろう、どんなふうに感じるだろうと、期待と不安の入り交じった手つきで。それは手紙のようなものだ。コミュニケーションは受け取り手ありきで、決して閉じたものではない。
 そうしたやりとりは、生きとし生けるものが存在する理由ですらある。個々の生命は——そして種族そのものが、永遠に解ける見込みのない問いに翻弄される未完の物語なのだ。

 機は熟した、とシズクは思った。
 
 魔法陣は描いた。呪文も完成した。
 いよいよ幽霊を召喚するときが来たのだ——それも、魂を再現するだけでは意味がない。彼女でなければいけないのだ。それは、無数の泡のように浮かび上がっては消えていく、微かな手がかりを救い上げようとする試みだった。
 晴れの日も雪の日も、変わらずモニターに向かい続けた。
 10年が経ち、20年が経ち、30年が経った。
 ほんの僅かな前進のための、数え切れない失敗と挫折。しかし幸いにもアンドロイドの寿命は長い。
「なんだ、アンドロイドにも良いとこあるじゃん」
 とシズクは呟く。
 諦めさえしなければ、この挑戦は終わらないのだ。



 数多の物語の中に、シズクはヒナばかりでなく、自身の痕跡も見出した。魂を再現しようとする旅は、魂の普遍性を知る旅でもあった。人間もアンドロイドも関係ない。現にシズクは、誰より人間らしいアンドロイドや、誰よりアンドロイドらしい人間だって知っている。
 
 今なら分かる。月の住人たちも自分と相容れないわけではなかった。春の前には冬があり、信仰は科学に先立つ。問いは、必ずどこかで祈りになる。祈りは、必ずどこかで問いになる。
 そうやって問いと祈り、祈りと問いを繰り返しながら、笑い合い、すれ違い、もがき、いつくしむ人々の間で、かつての世界は回っていたのだ。

 その巨大なサイクルの果てに、自分も、ヒナもいる。
 ひとりじゃない、とシズクは思う。
 
4-4

 相変わらずの寒さだったが、珍しいくらいに晴れていた。
 地面に積もった雪は昨日より硬くなり、陽射しが表面を薄く溶かしている。広がる空は白ではなく、淡い青だ。それだけで、ずいぶんと世界は違って見える。
 丘を登るのは、何か目的があってのことではなく、生活の癖になっていた。かつて月のゴミ捨て場をさ迷っていたのと同じようなものだ——動機は少しだけ違うけれど。遠くを見たい。地平線の向こうに、変化があるかもしれない。変化があるなら、ここまでやってきた理由を感じられるはずだ。

 そういう期待のせいか、初めての道のりでもないのに、なぜか毎回新鮮な気持ちになる。薄く積もった雪に、シズクは自分だけの足跡を刻んでいく。それは一人の証ではない。ここに至るまでの、何百年分もの時間と、数えきれないほどの誰かの歩みが重なっているのだ。

 やがて見晴らしの良い頂上にたどり着く。誰もいなかった——当たり前だ。少しがっかりした気持ちと、そう感じてしまう自分への可笑しさがこみ上げる。
 目を細めて、地平線のほうを眺めながら、シズクは今朝見た夢を思い出していた。自分自身の記憶ではないけれど、おそらくは現実にあった出来事——電子の海から救い出した物語の断片だ。

 落ち着いたカフェのテラス席。
 午後の日差しが、湯気の立つコーヒーカップを照らしていた。
 ガラスに映る自分の姿には見覚えがある、というのも変な話だが。アンドロイドではない。落ち着いた赤毛に染めた、綺麗な大人の女性だ。
 前髪の隙間から、額に残る古い傷跡が見える。今はもう目立たないその傷が、いつどうやってついたものなのか、思い出せそうで思い出せない。かすかに浮かび上がる光景は、夜の歩道橋、安手のコートを揺らす冷たい風、次々と流れる光の川——
「お待たせ!」
 待ち合わせの相手が慌ただしくやってくる。学生時代からの親友。なんとなく疎遠になってしまった時期もあったが、驚くような巡りあわせもあり、今はこうして一緒にいる。
 仕事の打ち合わせだった。
 ベストセラー作家となった彼女と、新進気鋭の研究者となった自分による共同作業。
 ——人工の幽霊プロジェクト。
「神様の真似事みたい……これって、罰当たりだったりする?」と茶化す彼女に、
「さあ。そんなのいるなら、一回会ってみたいけどね」とすまし顔で返す。
 コーヒーの香りと、穏やかな笑い声。

 何だかんだ言っても、悪くないところに収まる物語だってあるのだ。

「ちょっと何でいつも置いてくの!」
 後ろから大きな声が飛んできて、物思いから離れたシズクは振り返る。素早く振り返ると、何だか待っていたみたいで恥ずかしいので、あえてゆっくりと。
 息を切らしたヒナが追いついてくる。両手を膝について、ひとしきりぜえぜえやったあと、ずいぶんとご立腹な様子で顔を上げて、どうして勝手にどこかに行くんだとか、そういうとこがマリーに似てきたんじゃないのとか、そんな意味のことをまくし立てた。後者については承服しかねる。

 だからというわけでもないが、シズクは返事をしなかった。代わりに、ヒナが疲れ果てて黙るのを見計らって、例の夢の話をする。そういえば、あれはどこかマリーに似ていたように思う。
 意味分かんないし、またマリーの話……とヒナはふくれっ面になり、ため息をつきながらも、シズクに寄り添う。そして、目の前に広がる真っ白な世界を見つめながら、
「探しに行くんだよね?」
 とぽつりと訊ねた。
 シズクは少し驚いてヒナを見る。それから頬をかいて、
「まあ、ヒナも目を覚ましたことだし。これで探しにいかないのは、何というか……嘘だよね」
「見つかると思う?」
「どうだろう。でもあの人のことだから、何となくどこかで会える気もする」
「本当は、ここでじっとしてられないだけじゃなくて?」
 とヒナが疑り深い声で言って、シズクの顔をのぞき込むようにする。
 シズクは苦笑いして、
「そうかも。だからヒナには悪いけど、一緒についてきて」
 ヒナは嬉しそうにくすくすと笑う。
「成長したね。シズク」



 白に閉ざされた冬の世界に、ぽつんと取り残されたような丘がある。
 近くの街から続いている足跡は、二人分しかないように見えるかもしれないが、実はそうではない。
 これまでも、そしてこれからも。
 歩みは続く。時には立ち止まって祈ったり、肩を寄せ合って休むこともある。それでも歩み続ける。時間は流れていくが、幽霊にとってはごくゆっくりとだ。

 そうやって進み続けた先で、ふいに風が変わることがあるかもしれない。
 頬を撫でる空気に、湿り気と、土の匂いが混じる。
 同時に空を見上げる。
 雲が割れ、降り注ぐ光の中に、雪の白ではなく、淡く色づいた欠片が舞う。
 
 そしていつの日か、二人は——
 
 彼女たちは、月で夢見た春を知る。
柊さかな

2025年12月28日 23時53分49秒 公開
■この作品の著作権は 柊さかな さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
 冬の月、幽霊たちの季節
◆作者コメント:
 ぎりぎりまで書いてました。よろしくお願いします。

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2026年01月24日 09時00分39秒
2026年01月17日 21時53分31秒
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Re:
2026年01月24日 09時09分35秒
2026年01月05日 18時33分06秒
+30点
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Re:
2026年01月24日 09時05分59秒
2025年12月31日 15時23分52秒
+40点
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Re:
2026年01月24日 09時05分03秒
合計 4人 70点

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