| 砂漠の奏者 (かなでて) |
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| 砂漠の奏者 (かなでて) ◆作者コメント必読 天宝十二載の春、長安から続く果てしない旅路を越え、元二はようやく西州の城門にたどり着いた。 砂の色をした城壁は沈みゆく日差しを受け、赤銅のように鈍く輝いている。吐蕃との国境が近く、商隊や兵の往来が絶えないこの地は、長安とはまるで別世界だった。強い風が砂塵を巻き上げ、遠方では駝鈴の音がかすかに響く。 安西都護府へ赴任する途中、ほんの数日の滞在にすぎない。 そう思っていた元二だったが、城門をくぐった途端、妙に胸騒ぎを覚えた。 ――何かが満ちている。 唐でも胡でもない、言葉にならぬ気配が。 城の中央広場に足を踏み入れたとき、騒音のすべてを押し流すような響きが耳に届いた。 琵琶である。だがその旋律は、長安で聴き慣れた雅楽とも、軍中で奏でられるものとも違う。 空から砂粒が舞い降り、どこか遠くで駱駝が低く唸るように、深い。 乾いた風がそのまま形になったような音色だった。 人集りの中心に、一人の老楽人が座っていた。 白い髭を胸元まで垂らし、瞳は琥珀色。肌は褐色に焼けている。明らかに異国の血を引いていたが、その指先の動きには迷いがなかった。 ――この人は、何者だ。 元二は思わず足を止めた。 曲が終わると、老楽人は静かに目を開き、にこりと笑った。 それは、砂漠の夕陽のように柔らかい笑みだった。 「旅の方。風の音を聴きに来られましたな」 「あなたの音に、引き寄せられました」 元二がそう言うと、老楽人は胸の前で手を合わせた。 「わしは沙比徳(さひとく)。ソグドの血を引き、龜茲で楽を学び、この西州で半生を過ごしてきました。 唐に仕えたこともあれば、胡人の商隊に同行したこともある。 砂漠を渡る者の音、それだけを追い求めております」 「沙比徳……」 名を口にした瞬間、元二は胸の奥に淡い熱が灯るのを感じた。 唐と胡、そのいずれにも寄り切らない存在。 まるでこの西域そのものの象徴のように思えた。 「あなたの音は……何と言うか、境を越えてくる感じがするのです。唐の楽とも、胡の楽とも違う」 「境など、風が吹けば砂のように消えるものですよ、元二殿」 老楽人はそう言うと、目を細めた。 ――なぜ、自分の名を? 驚く元二に、沙比徳は楽しそうに笑った。 「旅装で官人の札を下げておられる。安西へ向かう者なら、役所に名が届いておるのです」 「なるほど」 「だが、あなたは長安の人らしからぬ眼をしている。 境のものを恐れず、ただ身を委ねるような……わしの音に似ておる」 元二は返す言葉を失った。 この老楽人は、人の心を読むように語る。 沙比徳は再び琵琶を抱えた。 「元二殿。よければ、また聴きに来てください。 じきに、この西州で小さな祭りがある。そこが、わしの最後の舞台になるやもしれんでな」 老楽人はどこか悲しげな微笑を浮かべた。 胸の奥に、言葉にできないざわめきが残った。 ◇ ◇ ◇ 役所に顔を出した翌日、元二は持ち前の観察眼で西州の空気を感じ取っていた。 唐の旗が掲げられているものの、街を行き交う多くは胡人で、言葉も衣も混ざり合っている。 だが、それらの彩りの背後に、ひっそりとした緊張が漂っていた。 役所内では、胡楽を排斥しようとする声が高まっている――そんな話を聞いた。 そして、それを主導しているのが「ある武官」だと言う。 名は知られていない。 ただ「唐の威信」「胡の排撃」と声高に叫ぶ、武断派の男らしい。 翌日、その武官本人を目にした。 役所の廊下で、兵士たちを叱責する声が響いていた。 「胡の楽など聞くな! 吐蕃の文化の臭いが染みついておる! どれだけ唐を蝕めば気が済むのだ!」 その目は血走り、怒りが全身から溢れ出している。 元二は思わず眉をひそめた。 「おや、あなたが長安から来たという元二殿ですか」 武官が振り返り、ねっとりとした視線を向けてくる。 「西州では気を付けていただきたい。ここは国境だ。 油断すれば、胡の毒気に当てられる」 元二は深く礼をして立ち去った。 だが背に突き刺さるような視線を、いつまでも感じていた。 この男は……危うい。 胡楽排除を理由に、何をしでかすか分からない。 ◇ ◇ ◇ しばらくして、沙比徳は元二を訪ねて役所近くの茶屋に現れた。 老楽人は少し疲れた顔をしていた。 「祭りは中止になるやもしれん」 「どうしてです?」 「役所の連中が、胡楽を邪教のように扱い始めた。 とりわけ、あの武官がの……」 「やはり、彼が」 「元二殿。わしは長く生きたが、人は“境を越えるもの”を恐れるものじゃ。 風に揺れる布の色だけで、敵味方を決めてしまう」 沙比徳は細い指で茶碗を撫で、遠くを見るように目を細めた。 「若い頃、わしは吐蕃の軍勢の影から逃げ回っておった。 唐の兵も、胡の商人も、誰も信じられぬ頃があった」 そう言う沙比徳の横顔は、風に削られた岩のように深い皺が刻まれていた。 「それでも、音だけは裏切らんかった。 音はどこの国にも属さぬ。人と人をつなぐだけじゃ。 だから、わしは最後の舞台に立ちたいのだ」 元二は迷いなく言った。 「あなたが舞台に立てるよう、私が動きます」 沙比徳の瞳が揺れた。 「元二殿……あなたは不思議な人だ。 唐の官人でありながら、唐の鎧を着ておらぬ」 「私は……まだ、自分が何者なのか分かりません。 だからこそ、境を越えるあなたの音に惹かれるのかもしれない」 老楽人は深く頷いた。 「人は皆、狭間をゆく旅人じゃよ」 ◇ ◇ ◇ その夜、事件が起きた。 沙比徳が、何者かに襲われたという報せが役所に届いた。 元二が駆けつけると、老楽人は祭りの舞台裏の倉庫で倒れており、衣が血に染まっていた。 「沙比徳さん!」 元二が抱き起こすと、沙比徳は息を荒げながら微笑んだ。 「大した傷ではない……わしはまだ、奏でられる」 「誰がやったのです。吐蕃の者ですか?」 「さあの……顔は見られんかった。 だが、祭りを中止しようとする者にとって、わしは邪魔なだけじゃ」 その言葉に元二の背筋が冷えた。 ――まさか、あの武官が? 翌朝、武官は役所で怒号を飛ばしていた。 「ほれ見よ! 胡楽が災いをもたらすのだ! 祭りは即刻、中止とする!」 集まった役人たちが沈黙に包まれる中、元二は声を挙げた。 「沙比徳殿は西州の民に愛されています。彼に罪はない」 「愛されている? 胡の者がか? 笑止!」 武官は鼻で笑い、唾を吐いた。 「西州を危うくするのは敵か味方かも判断できぬ愚か者どもだ」 その目は狂気の色を帯びていた。 ――このままでは、本当に音楽祭は潰される。 元二は拳を握りしめた。 沙比徳の命は、風前の灯火だ。 だが、あの人の最後の願いを、ここで折らせるわけにはいかない。 ――私は……何を守るべきなのだ? 唐か。 安西の任か。 それとも。 胸の奥で、未知の答えが静かに形になりつつあった。 そして、祭り当日の朝が訪れる――。 祭り当日の朝――西州の空は、驚くほど澄み渡っていた。 昨日まで砂塵を巻き上げていた風も止まり、青空がどこまでも続いている。 まるで、何かを待ち構えるように。 役所からは、正式に「音楽祭中止」の布告が出されていた。 広場には兵士が巡回し、舞台には柵が設けられている。 ――だが、それでも人々は集まってきた。 夜明けとともに、胡商の家族が、農民が、旅人が、 まるで風に吹かれる砂のように自然に、広場へ歩み寄ってくる。 彼らは、誰に命じられるでもなく、舞台の周囲に輪を広げていく。 祭りの布告など、最初からなかったかのように。 ◇ ◇ ◇ 沙比徳の家を訪れると、老楽人は薄い布団に身体を横たえていた。 怪我は浅いと言ったものの、その顔色はひどく青ざめている。 元二が近づくと、沙比徳はゆっくりと上体を起こした。 「元二殿……すまぬが、手を貸してくれんか」 「舞台に行くのですか?」 「うむ。わしは、まだ終わっておらん」 その声は弱々しいが、芯だけは折れていない。 元二の胸が熱くなった。 「お支えします。……さあ、行きましょう」 老楽人は震える手で琵琶を抱えた。 それは長年使い込まれ、木肌は艶を失い、弦は細く伸び切っている。 だが、彼にとっては魂そのものだった。 元二は沙比徳を背負い、外へ出た。 乾いた風が頬を撫でる。 「西州の風よ……どうか、今日だけは静かに吹いておくれ」 沙比徳が呟くと、風は不思議と弱まり、埃はまったく舞い上がらない。 まるで天までもが、この日を祝福しているようだった。 ◇ ◇ ◇ 広場へ向かう途中、すでに人々のざわめきが聞こえていた。 舞台の周りはびっしりと埋まり、誰もが舞台を見つめている。 その視線は、期待と祈りが入り混じったものだった。 元二が進むと、民衆の中に道が開いた。 「沙比徳だ……!」 「老楽人が来たぞ!」 「怪我をしているのに……本当に来てくれた!」 人々の声が小さな波のように広がる。 表情は喜びと涙でいっぱいだ。 だが、その群衆をかき分けるように、甲冑の音が近づいてきた。 「そこを通すな!」 武官が怒りを露わにして現れた。 その後ろには、武装した兵士たちが数名控えている。 「祭りは中止だと布告したはずだ。 それなのに、貴様らは反乱でも起こすつもりか!」 群衆はざわめき、兵士たちが威嚇するように槍を構える。 武官は元二を指差した。 「元二、貴様は唐の官人の身でありながら、胡の者に肩入れするとは何事だ!」 「沙比徳殿は胡でも唐でもありません。この西州の民です」 「黙れ! この地を乱す音など不要!」 武官の叫びは、怒りと恐怖に染まっていた。 彼の中には、唐への忠誠心以上に、文化の違いへの怯えがあった。 元二は前に出て、民衆の前に立った。 「皆さん……私に、沙比徳殿を舞台に上げさせてください!」 その声に呼応するように、民衆が一斉に動いた。 一歩、二歩と前に出て、武官らの前に立ちはだかる。 「どかぬか!」 武官が怒り狂って剣を抜こうとする。 「やめなさい!」 元二は叫んだ。 「この人々は武器を持たない。 ただ、音を聴きたいだけだ。 音を求める者に剣を向けるのですか!」 武官の手が止まる。 民衆の中から、老女が震える声で言った。 「沙比徳の音は……毎晩、私の子を眠らせてくれたんだよ」 「唐人も胡人も関係ない。西州の人間なら、誰もが彼の音を知っている」 「あの音がないと……この街は砂ばかりになってしまう」 武官は、言葉を失った。 その隙に、元二は沙比徳を舞台に上げた。 舞台の上には、昨日までの騒動が嘘のような静けさがあった。 「元二殿……背中を降ろしてくれてよい」 老楽人は震える手で立ち上がり、ゆっくりと夜空を見上げた。 「さて……最後の音を、奏でようかの」 ◇ ◇ ◇ 沙比徳が弦に指を置いた瞬間、広場は完全な静寂に包まれた。 第一の音は、低く、深い。 砂漠の底から湧き上がる、遠い遠い響き。 二つ目の音は、高く、澄んでいた。 青空を渡る風が弦をかすめるような。 三つ目の音は、どこか懐かしい。 唐の旋律の影が見え隠れする。 そして、曲はゆっくりと進み始めた。 ――それは、旅の歌だった。 唐の都を出て、西域の道を歩き、風に吹かれ、夜に震えながら、 それでも前へ進む者の歌。 どこの国にも属さず、ただ人の心だけを結びつける歌。 元二は胸が熱くなり、涙が溢れそうになった。 まるで、自分自身の旅そのものを聴いているようだった。 沙比徳の指は震えながらも確かで、 一音一音が西州の空に吸い込まれてゆく。 最高潮に達した瞬間、風がふっと吹いた。 その風が、琵琶の弦を揺らし、音が空へ解き放たれる。 広場にいる誰もが息を呑んだ。 その音は―― 唐でも、胡でも、吐蕃でもない。 ただ「この地に生きる者たち」の音だった。 最後の弦を弾き終えたとき、沙比徳は静かに目を閉じた。 「ありがとう……」 そう呟いた次の瞬間、彼の身体はふっと崩れ落ちた。 「沙比徳さん!」 元二が駆け寄り、抱きとめる。 老楽人は薄く笑い、震える声で囁いた。 「元二殿……知っておいてほしい。 わしは昔……ほんの少しだけ、吐蕃の密偵であったことがある」 元二は絶句した。 広場全体が凍りついたように静まり返る。 「どうして……そんなことを」 「妻と子を……吐蕃に奪われた。 国境の争いに巻き込まれ、生きるために……従うしかなかった」 沙比徳は苦しげに息をつき、続けた。 「だが、わしは誰も売らなかった。 ただ、旅商のふりをして、音を運ぶ役目だけを負った。 唐にも胡にも馴染めず…… わしの帰る場所は、音だけじゃった……」 その目には涙が滲んでいた。 ――最も西州に愛された老楽人が、かつて密偵だった。 その事実は、武官も民衆も、誰にとっても衝撃だった。 だが。 泣き出したのは、最初に子どもだった。 つづいて母親が泣き、 その隣の老人が泣き、 やがて広場のあちこちから嗚咽が漏れ始めた。 「沙比徳は……私たちのために弾いてくれたじゃないか」 「密偵だったから何だ。あの音に嘘があったか?」 「わしらは音に救われた。沙比徳は西州の誇りだ」 武官は何か言おうとして口を開いたが、 言葉は一つも出てこなかった。 元二は、沙比徳の手を握りしめた。 「あなたの音は……この西州そのものです。 誰が何と言おうと、それは変わりません」 「元二殿……ありがとう……」 その言葉を最後に、老楽人の手が静かに力を失った。 琵琶の弦が、一度だけ震えた。 まるで、沙比徳の魂が風に乗って旅立っていくように。 ◇ ◇ ◇ 翌日。 元二は安西へ向かう旅支度を整えた。 沙比徳の家族はいない。 近隣の人々が協力して、小さな葬儀が執り行われた。 そして、沙比徳の遺品となった琵琶が、元二に託された。 「これは……私が持っていていいのでしょうか」 「沙比徳が望んでいたそうです」 商人の男が言った。 「“狭間を歩む者に渡してほしい”と」 元二は静かに頷いた。 旅路へ踏み出すと、風が琵琶の弦をかすかに鳴らした。 ――風よ。 それは、沙比徳が生涯奏で続けた音に、確かによく似ていた。 元二は空を見上げ、深く息を吸った。 唐と胡、その狭間を歩む人々。 争いの中で、境界の揺らぎに怯える者たち。 そして、境界の両側を結ぶ者たち。 沙比徳は、その一人だった。 そして自分もまた、その道を歩く者なのだと気づく。 「……安西で、私は何をすべきなのか」 風が答えるように吹いた。 琵琶の弦がまた小さく鳴る。 その音を胸に刻み、元二は砂漠の道を進んだ。 遠く、地平線の彼方へと伸びる、その果てしない道へ。 その旅はきっと、 沙比徳が残した「狭間の音」の続きを探すものになるだろう。 元二は、歩みを止めなかった。 |
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kanegon 2025年12月28日 23時43分44秒 公開 ■この作品の著作権は kanegon さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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