| 涼夜の霊感少女達 I編 |
Rev.02 枚数: 227 枚( 90,559 文字) |
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| 出られない館 〇 平成十六年十月某日 〇 流されている。 凄まじい水の流れだ。僕は体中あちこち打ち付けてボロボロになっている。体のどこが痛いのか、どうなっているのか自分でも把握しきれない。苦痛の園であるこの体から出て行きたくてたまらない。 ここはどこだろう? 僕はどうして流されているんだろう? 最初の内は、何か水流を流されている理由らしきものも理解していたと思う。腕の中にはその目的らしきものが抱かれていて、それを離すまいと一生懸命に力を込めていて、何にぶつかるとどこに流されようと、その気持ちだけは揺らぐことはなかった。そのはずなのに。 気が付けば僕は腕の中のものを失って、目的を失って、どころか自分自身も失ってしまった。 やがて流され終えたのか、僕は何か瓦礫の山の中に転がっている。そこには僕と同じように流されて来た人達が死んだり死んでなかったりしながら横たわっていて、僕はそうした人達がひしめく中に埋没し、じっとしている。 両足の上と肩の下にそれぞれ、人がいる。身動ぎとか息遣いを感じるのが両足の上の奴で、感じないのが下の奴だ。前者は生きているが後者は多分死んでいる。なら、僕はどうなのだろうか? 分からない。 こうして意識があってものを考えているなら生きていることになりそうだけど、だけれど体を動かせないし動かし方も分からないし、何より自分自身が良く分からない。辛うじて残っているこの思考も少しずつほどけて消えていきそうになっているのが分かる。 僕は既に死んでいて召されようとしているか、或いは死に向かっている真っ最中だ。 思いの他それは穏やかな感覚で、でも死ぬのは怖いはずで、その怖いということが良く分からなくなっている。良く分からないまま死にゆくんだろうという予感があって、それが良いことなのか悪いことなのかも分からないし、分からないまま僕は少しずつ死に向かおうとしていたその時に。 誰かの腕が僕の肩に回された。 「ああっ。やっと見つけたのだわ。愛しい人。世界で一番大切な人」 声がする。 女性の声だ。綺麗な声だと思った。大人の女性の落ち着いた声でありながら、どんな少女よりも無邪気で瑞々しくもある。声は涙に濡れているが歓喜に弾んでもいて、僕はその腕に引きずられながらどうにか目を開けようとする。 「しかもまだ生きています。死にゆく途中ですがそれでも死んではいません。どんな医術でも治せない程損壊してますが、それでも死んではいないのです。ならばわたしならどうとでもできます。早速お家に連れて行きましょう。そして二度と離してはいけないのだわ」 僕は力一杯目を開ける。 女性の顔がある。綺麗な人だ。顔一杯に開かれたような大きな目、小ぶりだが高い鼻、上品だが子供のように無垢でもある透明な笑顔。僕はこの人を知っている。 「帰りましょう」 そう言って女性は僕の身体を地上から浮かせた。 信じがたいことに、僕は女性の目の前で浮遊し始めた。 「わたし達の家に」 女性の足元に大きな暗闇が現れて、僕と女性はそこに飲み込まれるようにして、消える。 向かう先はこの世かあの世か、天国か地獄か、何にしたって碌な場所ではなさそうだ。 〇 次に気が付いた時はベッドの上だった。 広い部屋だった。十畳か十二畳はある。隅に大きな、二人用にしても広いと言えそうなベッドがあって、僕はその上にいた。天井は木で出来ていて不規則な模様が僕を見下ろしている。人の顔や目に見えるものを気が付けば探してしまいそうだった。 僕はベッドを降りる。広々とした部屋だがそれほどものは多くない。家具以外のものは机の上にある新品のメモ帳と筆記用具くらいのものだ。机は椅子の付いた木製のデスクであちこちにいくつか引き出しが備わっている。部屋の中央には二人掛けだろう茶色のソファがあって、向かいには大きなテレビが設置されていた。箪笥もあったが中身は空で、探しては見たが時計もない。 人の住んでいる部屋には見えない。 僕の部屋ではないだろう。僕の部屋だとしても誰かが僕の為にしつらえたばかりで、僕がここで生活していたという事実はなさそうだ。 窓があったので覗いてみる。庭が見えた。かなり広い。その庭の上にもう一つ一軒家が、それもかなり大きな家が建てられそうな程立派な庭だ。中央には池があって鯉が複数泳いでいて、隅には犬小屋のようなものもある。全体は黒い石の壁に覆われていた。 相当な豪邸であるようだ。 だがここはどこだ? いや僕は誰だ? 自分の体を検分する。水流に呑まれてボロボロだった気がするが五体満足だ。痣も擦り傷もない。明らかに成人男性の身体をしていて、というか自己認識として僕は成人男性で、でも具体的な年齢とか名前とか職業とかを思い出せる訳でもない。 僕は記憶喪失に陥っている。 それを自覚した時、ノックもなしに部屋の扉が開かれて、一人の男が入って来た。 「お、これは失礼しました。もう起きられてましたか」 僕はぎょっとした。その男は一目見て分かる程異様だった。いや、顔や体格や服装に異常な点がある訳ではない。ごく普通の、涼し気な顔をした優男と言った風体で、背も僕より少し低いくらいで百八十センチを上回っていそうだ。歳は若く身なりも良くまあ清潔そうに見える容姿だったが、それでもその男は明らかにおかしかった。 その男には『厚み』がないのだ。 「いやぁ実は旦那の衣服を作って来たんすよ。ほら、旦那ってば当分ここで生活されるんでしょう? 体格もそんな違わないんでオイラの服でも良いかと本気で言ったんすが、お嬢様は冗談だと思われたみたいでコロコロ笑われてしまいました。HAHAHA面目ありません、オイラ、自分がこの通りの薄さなの忘れちまってました」 男は紙のように薄く見えた。思わず真横に回ってみると本当にペラかった。紙を人型に切り抜いて人に見えるように絵を描いたものが、そのまま動いているかのようだった。 じっと見ていると紙の向きが変わって表面がこちらを向いた。しかしそれは男がこちらに体を向けたという意味ではなかった。こちらを向いた紙に描かれているのは男の横顔だった。つまり男は立ち位置を変えずに、ただ男が描かれている紙の向きが変わり、別角度から見た男の姿を見せて来たという具合だった。僕は眩暈を感じた。 そんな男がその手に僕の為に作った(作った?)という衣類を乗せているが、その服と言うのも紙に描かれた絵でしかなかった。 「あ、オイラが珍しいんすか? いやぁ初めて見る人は皆そうやってジロジロ見てくるんすよ。いや別に嫌じゃないんですよ? ただそんなに珍しいかなってね」 「あんたは何者なんだ?」 「お? いきなりタメ口すか? お?」 「いや……あの、すんません。何者ですか?」 「いやいや良いんすよ旦那はお嬢様の大切なお客様なんだから好きに喋って貰っても。ただね、オイラはこう見えて結構長く生きてましてね」 「年上なんですか?」 「あ、十五歳っす」 「ガキじゃねぇか」 「HAHAHA見えないでしょう? つまりお嬢様が百金の模造紙を切り抜いて作ったのがちょうど十五年くらい前って訳で。それからというものね、オイラはこの館でお嬢様の身の回りの世話をさせて貰ってるって寸法で。おいら紙なんで水仕事とか火を使った料理とかは命懸けっすよ」 「大変そうだね」 「五回死にました」 「なんで生きてるの?」 「作り直してもらいました。記憶はあるんすけど前の身体との連続性とかどうなってるんすかねHAHAHA」 「哀しい生き物だね……」 「いえいえ良いんすよ。ここの仕事はやっていけるし。休みはなんと完全週休二日。年に二回ボーナスも出るし、福利厚生割だってかなりちゃんとしてるんすよ。職場が家で家賃かからないんでもう貯金しまくり。こないだなんて憧れのマウンテンバイク買ったんすよ。これがね、もう最高! 休みの日とか一日中こいでられますね。一回スピード出し過ぎて向かい風で飛んで行きましたがね! HAHAHA!」 「都市伝説になりそうな光景だな……」 男は手にしていた衣類をドンと割と乱暴な手つきで僕の目の前に置いた。かと思うと紙の中の絵だったそれは途端に三次元の世界に現出する。僕が唖然としてそれを持ち上げ手触りなどを確かめる内、男は背を向けて扉の方に向かい、去り際に一度だけこちらを向いて軽く頭を下げた。 「オイラ、サイトウと申します。ここの使用人です」 「お、おう」 「以後お見知りおきを。お嬢様を呼んで来るんでお待ちください」 サイトウは部屋を去って行った。 僕はとりあえず衣類を箪笥に仕舞ってから、ベッドに腰掛けて天井を仰いだ。 「……ここは伏魔殿か」 僕は不安でいっぱいになった。 〇 やがてこの館の主人であるという女性がやって来た。 それは僕を瓦礫の中から救い出した女性だった。 初めて見た時の印象とたがわず綺麗な人だった。背は高く百七十センチを上回る程ですらりとした体格で、顔立ちも人形のように整っていて、黒目がちで目が本当に大きい。 女性は部屋に入って来るなり、僕の顔を見て握りつぶした花のような顔になって泣きじゃくった。そして僕の胸に飛び込んで来て嗚咽を漏らした。訳が分からないままとりあえず泣かせておいてやり、少しずつ落ち着いて来たのを見計らって僕は尋ねた。 「君は誰だ?」 「忘れてしまったのですか?」 女性は黒飴のような瞳でじっと僕の方を見詰める。その瞳には困惑と、微かな期待のようなものが滲んでいた。 「実はそうなんだ。自分が誰なのかも、良く分からない」 「……そうなのですか!」 女性はむしろ嬉しそうに両手を合わせて頬の隣に持っていくと言う仕草をした。 「教えて欲しい。君は誰なんだ」 「あなたの恋人です」 背後で様子を見守っていたサイトウが「えーっ」と驚きの声をあげた。 「いや今の『えーっ』ってどういう……」 「高校時代からの付き合いなのです。一度心で結ばれてからというもの、ただの一度として離れたことがない無二の恋人です。共に人生を歩み励まし合い苦楽を共にし、今日までずっと肩を並べて来ました」 「そ、そうですか。でも今の『えーっ』ってどういう……」 「もう毎日、いちゃいちゃです。あなたは忘れてしまっていますがあなたは結構えっちです。外にいる時とかでもくっ付いて来て体をあちこち触ってきます。わたしは恥ずかしいのでいつもつい頬を赤らめるのですが、あなたはそれを知りながら服の中に手を伸ばしわたしの肉体を蹂躙します。もう、ぐちょぐちょです」 「ぐちょぐちょですか」 「そうして蜜月の時を送っていたわたし達ですがそれを引き裂く出来事が起こりました。この間の大雨でダムが決壊し、大洪水が起きてあなたはそれに流されたのです。安否が分からずわたしは不安な日々を送り毎日遅くまで泣きました。日が暮れるまであなたの姿を探し街を放浪する日々出した。もう死んでしまったのか絶望しそうになったその時……ああ、やはり絆の力は偉大なのだわ。わたしは瓦礫の中で横たわるあなたを見付けたのです!」 女性はIと名乗った。この館に住むご令嬢で、職業は医者。父の経営する病院で、色んな科を回りながら研究している立場であること。病院は一族経営である為、僕はそこの婿となり病院を継ぐことになる可能性が高いこと、などを語った。 「と、いうことは、俺も医者か」 「いえ、学校の先生です」 「は?」 「学校の先生です。大学受験の時わたし、死ぬほどストーキングして医学部に行くように何度も何度も何度も何度も言ったんですが、あなたは教育学部に入りましたよね? 小学校に勤めてる訳ですが、仕事ぶりを見に学校に忍び込むと良く女子小学生にまとわりつかれています。明らかに男子より女子の方に人気があるの何なんですかねロリコンなんですか? 家を漁った時普通のエロ本に混ざって一冊だけそういう内容の官能小説見つけたし……なんかそういうのすごくいやーっ」 「いや君ちょっとおかしいんじゃ……」 「Nちゃんに手とか出さないでくださいよ? いくら小さい頃の私に似て可愛いと言っても……ねぇ?」 「Nが誰だか知らないけど出さねぇよ。つか教師なら病院は継げないんじゃ……」 「何とかなります」 「いやならんでしょ」 「絶対に、わたしが、何とか、するのーっ!」 Iは床を繰り返し踏みつけ地団駄を踏んだ。 「……俺の名前は?」 「Mです。わたしはM君と呼んでいました」 「そうか。ねぇIさん」 「Iで良いです」 「なあI。俺は洪水に流されて半死半生になっていたんだよな?」 「そうです」 「それを君が助け出した」 「そうです」 「でもどうして君の館で目覚めるんだ? そういう場合、ふつう病院に運び込まれるはずだろう?」 「えっ? あの、それは……」 Iは目を白黒させながらそっぽを向いた。 「どういうこと?」 「あの……えっと。そうだ! ここは病院! 病院なんです!」 「え? そうなの? そうは見えないけど……」 「この館は家の病院と直通の建物になっています。だから実質病院です。それは本当! で、最初は病院側で手当てをしていたのですが意識がなかなか回復せず、ベッドも一杯だし病院じゃなくちゃ出来ない措置がある訳でもありませんので、いったん館の方の客室に移動させたという訳です」 「そうなのか」 「そうなのです。決して今考えた訳じゃありませんよ?」 「それは良く分かった。助けてくれてありがとう。このお礼は必ずする。それじゃあ、いったん俺を家に帰して貰っても良いかな?」 「なんでですか?」 Iはみるみる目に涙を貯めながら、僕の手を取って言った。 「もう少しここでゆっくりなさったら……」 「いや、自分の家に帰れば色々思い出すかもしれないし」 正直言うとこの館は随分と怪しい。サイトウなる化け物染みたぺらぺら男がいるのみならず、このIという女性だって胡乱なものだ。 「あ、あなたの家には帰れません」 「なんで?」 「えと……その……流されました!」 Iは今思い付いたような口調で両手を叩きながら言い放った。 「洪水で流されて跡形もありません。家財も貯金も全部それでおじゃん! だから家に帰ろうにも帰る家はなく、この館を出た途端にホームレスの暮らしを強いられることになります。それは嫌だと思うのでこの館にいてください」 「……誰か君以外の俺の知り合いに会わせてくれないかな?」 「それは出来ません」 「なんで?」 「えと……その……皆死にました!」 Iは今思い付いたような口調で両手を叩きながら言い放った。 「……死んだって、どういうこと?」 「洪水で死にました。それはもう凄まじい大洪水だった為このあたり一帯の人は皆流されて死にました。そこにはMくんの知人友人がことごとく含まれており、Mくんの交友関係を全て把握しているわたしには分かりますが、ただの一人として生存者はおらずMくんは現在わたし一人を頼るしかない状況にあるのです。そうですよねサイトウさん?」 水を向けられたサイトウは、そっぽを向いて口笛を吹きながら、冷や汗を浮かべながらこう言った。 「まあ、うん。はい。そうなんじゃないすか? 知らんけど」 「ほらぁ。サイトウさんも言ってるじゃないですかぁ」 Iは勝ち誇ったような顔をした。 「あのね、Iさん。ちょっといい加減に自分の言ってること考えようか。多分、俺の生徒だったという小学校の女の子たちでもそんなしょうもない嘘は……」 「死ーんーだーのーっ! サイトウさんもそう言ってるのーっ!」 Iはその場で激しく地団駄を踏んだ。 「死んだのじゃない! ちゃんと本当のことを言いなさい!」 「嫌なのーっ。Mくんに帰って欲しくないのーっ!」 「わがまま言うんじゃありませんっ! もう良い! 俺、一人で帰るわ」 「やーっ」 「やーって……君いくつだよ」 「Mくんと一緒の二十五歳なのーっ。行かないでーっ行かないでーっ」 無視して僕は部屋を飛び出した。Iは追いかけて来たが大股でずんずん歩き何を言われても足を止めないし口も利かない。こういう手合いの相手をするのは簡単だ。言っていることややることにいちいち反応しなければ良いのだ。 館は木造で古い建物に感じられ、サイトウがちゃんと仕事をしていないのか掃除もいい加減で、ところどころ蜘蛛の巣が張ってあった。あちこち変色した木の床は一歩進む度軋みをあげ、だだっ広い空間には俺達以外に誰もおらず、廊下に照明はなく日が沈みかけた庭から差し込む明かりだけが頼りで、だとしても信じられない程薄暗かった。 それでも僕は館の出口を見つけ出した。靴も履き替えず庭に飛び出すと、開きっぱなしの門に向けて小走りで進んだ。とにかく外に出てしまって警察にでも駆け込もうと思ったのだ。 しかし妙なことが起きた。 いつまで経っても門に辿り着けないのだ。 僕は確かに足を動かしているし前に進んでいる。少しずつだが門に近付いてもいて、門の外にある道路が目前に広がっている。そこに近付いているのならやがて辿り着くはずで、たどり着けたなら門をくぐって外に出られるはずなのだが、いつまで経ってもそういうことが起こることはなく、残り数十センチ、数センチという距離が無限のように感じられる。 「待ってっ、ま、ま……待ってよMくん。酷いです酷いです」 Iが息を切らして追い付いてきた。僕は思わず足を止めてIの方に向き直った。 「はあ……はあ。良かった。やっと追いついた」 「ねぇI。これ、どうなってるの?」 「ふつうの門ですよ?」 「そんな訳ないだろ! どれだけ歩いてもたどり着けないんだぞ!」 「それがふつうです。門までの距離がどのくらいあったとして、そこに辿り着くにはそこに至るまでの距離の半分まで進む必要がありますよね? で、その半分の距離までたどり着いたら、そっからまた半分の距離まで進む必要があります。これを繰り返して行けばどうなると思いますか?」 「……永遠に門に辿り着かないってか?」 「その通りです」 「……似たような話を聞いたことがある。確か、一個のパンを無限に食えるみたいな話だったな」 「そうですね。パンをまず半分だけ食べて、次にそのまた半分を食べます。その次はそのまた半分。このようにずっと半分こにするのを繰り返していけば、永遠にパンを食べ続けることが出来るという話です」 「だが実際にそんなことは起こらない。俺の歩く歩幅もパンを食う一口の量も、極小の世界をいちいち半分に切り分けられる程、精密じゃない。俺は背がでかいから一歩で一メートル近くざらに進むし、口もでかいから一口でたいていのパンは全部入る。そもそも、端から見て俺の歩幅はいったいどうなってるんだ?」 「すごく細かくなっています。ある程度近付くと、一歩進むごとに歩幅はちょうど半分になりますから。ほんの数ミリは進んでるっぽいですけど、それでもほとんどその場で足踏みしてる感じです」闇 「俺はそんなつもりはないぞ?」 「なくてもそうなんです。そういう認識災害がかかるようになっていますから」 「やっぱり門がおかしいんじゃないか! 催眠だか何だか知らないが、それを解け!」 「わたしにもそれは解けないです」 「本当か?」 「そうなのです。つまりこの館から出られないのはわたしも同じなのです。だから、わたし達はずっとこの館の中で暮らしていくことしか出来ないんですよ。仲良くしましょう。ね?」 そう言ってしなを作るように両手を合わせるI。 「君が出ようとしても、俺と同じようなことが起こるってことだよね?」 「その通りです」 「だったら、一回君もこの門をくぐろうとしてみて」 「良いですよ?」 澄ました顔で言って、Iは門の前まで歩き始めた。 Iは少しずつ開きっぱなしの門に近付いて行く。しかしその歩幅は少しずつ小さくなって、門の目前まで来てほとんど足踏みしているような形になる。 ほら言った通りでしょうと言わんばかりの表情でこちらを見詰めるが、その足踏みはどうにもわざとらしい。ほんの少しずつ近付いて行くというよりも、完全に同じ場所で脚を動かすか、何なら微かにだが下がるような挙動も見せている。 開きっぱなしの門の前でそれを続けるIの背中を、僕は力一杯押してみた。 「きゃ、きゃーっ!」 Iは道路へと飛び出して地面を転がった。そしてべそをかいた表情でこちらを振り向いて、すぐに門の内側に戻って来た。 「何するんですかーっ!」 「君さっきから嘘しか吐かないよね……」 僕は白い目でIを見詰めた。 「押すなんて酷いですよぅ。しかも道路になんて何かあったらどうするんですかいじめっ子なんですか? Mくんだけはそんなことしないと思ってたのに!」 「君今門の外に出られてたよね?」 「出られてましたよ! はい嘘吐いた! 吐きましたとも!」 Iはとうとう開き直った。 「なんで君は出られて僕は出られないの? 君が僕に何かしているんじゃないか?」 「してないですよぅ」 「答えてくれ。君は何者だ? この館はなんだ? 何もかも、明らかに異常だ。俺にいったい何をした? 俺の記憶を奪ったのも君なんじゃないのか?」 「違いますよ」 Iは目に涙を貯めて頬を膨らませた。 「そんなことはしません。他の何をしても、どんな手を使っても、あなたの心を直接操ることだけはしないとわたしは決めているんです。だって、それは意味がないことなんだもの」 「記憶を奪った訳ではないと?」 「そうです。洪水に流されてアタマでも打ったんでしょう。これは本当です」 「それは分かった。信じよう。ならば他の真実も話してくれないか?」 「真実なんて……」 「君は俺と仲良くしたいんだろう? だったら隠し事はなしだ。きちんと事実を全て話して貰って、その上で好意を伝えられたのでなければ、俺の気持ちだって変わりようがないだろう」 濡れた瞳でIは僕をじっと見上げる。頬を震わせて人差し指同士をつつき合わせ、視線を降ろして足元をじっと見つめる。 「俺は君を怪しんではいるが、俺への好意だけは疑っていないよ。誠実な対応をしたいんだ。その為にはまず本当のことを話して貰う必要がある。どんなに酷い真実だとしても、何も話してくれないよりも悪いことはないはずだ。さあ、話してみるんだ」 肩を震わせるIは僕の視線から逃げるように手遊びを続けている。小さな子供を追い込んでいるような気分だった。見た目よりも中身が幼いのだろうかと考えてみるが、しかし医者をやっているという話に嘘は感じなかった。立派な職業だからと言って立派な人とは限らないが、それでも、バカに務まる訳でもあるまい。 悪戯をした理由を詰められている女子児童のように、下を向いて肩をぷるぷる震わせているIだったが、そこに助け舟を出すように声がかかった。 「……あー。あのー、お取込み中のところ申し訳ないんすけどー……」 サイトウだった。向かい合う僕達に歩み寄り、ペラペラの身体を風になびかせている。 「そこで二人ですったもんだしてる内に、ですね? メシの支度がぁ、済んじまったって訳なんすよね? いえいえ、お話を邪魔をしに来た訳じゃぁないんすけどね。とにかく食いながら話すってのはどうなんでしょう? 冷めるとね、なんだってそれは、まずい訳ですから」 Iは震える瞳で僕の方を見詰めた。 僕は頷いておくことにした。 〇 食堂と呼ばれる部屋は広かった。 長いテーブルは十人やそこらは座れそうだった。それが2セット設置されていた。僕とIは向かい合ってサイトウが用意したという食事を口にした。焼いた魚と肉とジャガイモの煮物と漬物とキノコの味噌汁と和え物と飯。 食事中の僕らはそれぞれ自分の世界に入っていた。Iはもそもそ一人で箸を動かしていたし、料理を見るなり腹の虫がなり始めた僕は、何日ぶりかも分からない食事に舌包みだった。夢中だった。美味かった。余程腹が減っていたらしく食べ始めると止まらずに僕は飯を二杯もおかわりした。 「たくさん召し上がるんですね」 Iが食が進んでいない様子で口にした。 「無性に腹が減っている。俺は何日気を失っていたんだ?」 「二日ほど。ただそういう場合、通常はお腹が空かないものなんですけどね」 「正直に話してくれる気にはなったかい?」 「何をですか?」 「この館はいったいなんなんだ?」 「ここはわたしの生まれながらの家で、両親と祖父母と二人の妹と何人かの使用人に囲まれて暮らしていました。しかし祖父母は亡くなり父は気が触れ別館に閉じこもり、母は父と離婚して館を出て行きました。二人の妹の内一人は母の元へと出て行って、もう一人の妹は一緒に暮らしてはいますが、あなたに会いたくないとのことで今もお部屋に引き籠りです」 「何故その妹は俺に会いたがらない?」 「シャイな子なんですよ」 「俺はどうして中に囲われているんだ?」 「わたしの恋人だからです」 「ちゃんと話をして欲しいんだが」 「……わたしにはまだ話す勇気がないんですよ。もちろん、いつかすべてをお話しなければならないとは思っています。あなたの記憶喪失だって、恒久的なものではありませんから」 「話すのが遅れれば遅れる程、君への不信感は増していく」 「もう少しだけ待って」 「良いだろう」 僕が言うとIは微かにほっとした表情で席を立ちあがった。そしてサイトウを呼んで食事の残りを手で指した。 「これは片付けておいてください」 「体調でも悪いんすか?」 「気分がすぐれなくて……。ごめんなさいね。せっかく作っていただいたのに」 「いやぁ良いんすけどね。そんなことは」 サイトウは懐からライターを取り出すと、残りの食事に火をつけた。 紙に火が付いたかのように、食事はチリチリと燃え始めた。僕が唖然としている間に火は料理全体に燃え移った。そのころになると料理は三次元のものではなくなり、料理の描かれた単なる紙になっていて、瞬く間にそれらは全焼しその場から消えた。 跡には灰も残らない。 「おい。今の……」 「今日はもう休みます。おやすみなさいMくん。サイトウさんも」 Iは食堂の外に向かって歩き出し、最後に僕の方を振り向いて言った。 「酷いことをしてしまってごめんなさい。でも、いつか全部話すから」 部屋にはサイトウと二人残された。いや二人と言って良いのか悪いのか分からなかったが、とにかく僕はサイトウの方を見た。サイトウは澄ました顔で僕に言った。 「あんまりお嬢様を悲しませちゃダメっすよ」 「だったら真実を話すべきだ。俺は子供が何をしても最後には許すことにしているが、嘘を嘘のままにしておくことだけはしないことにしている」 「お嬢様はもう子供じゃないっすよ。それにね旦那、旦那とお嬢様がただならぬ仲だったっていうのも、これがてんで嘘っていう訳じゃないんすよ」 このサイトウから何かを聞き出せそうな気がする。と言っても特別な手管は必要なく、僕は食いついた様子をあからさまにサイトウに迫る。 「どういうことだ?」 「旦那がこの館に来るのも初めてじゃないんすよ。俺が作られたばかりの頃のお二人は、本当に仲睦まじいものでしてね。一緒に庭を散歩したり、テレビを見て笑ったり、一緒に妹を可愛がったりね。青春ってのはああいうのを言うんすかね? オイラは実は少しお嬢様に憧れてましたから、羨ましいやら悔しいやらで」 「そうなのか」 「ええ。なんで旦那の飯にはちょいとばかりオイラの想いを込めてあるっす」 「なんだ想いって?」 「そりゃあもう目くそ、鼻くそのオンパレー……ああやめて! 腕を掴んで折らないで! ひぎぃいそんな折り紙みたいにしたって鶴にはならないのぉおお! あぁあああ! いきゃああああああ!」 僕はサイトウの紙のようにペラペラな身体を丁寧に折りたたみ、珍妙なオプジェを作ってやろうとしたが、暴れるので上手く行かなかった。折り紙は得意だったと思うのでかなり芸術的な作品が仕上がったはずなので残念だった。 「二度とするな。良いな?」 「はい」 「で、俺はあの子にどうしてやれば良いんだ?」 「そりゃあ思いに応えてあげれば良いんじゃないすかね? 今の時代、二十五ならまだ生娘なんでしょうけど、それでも縁談の話とか全部断ってる訳っすからね。それでいっつもあんたのことばっかり付け回して……オイラはそりゃあもういじましくていじましくて」 「その物言いだと、やはり俺は、あの子の気持ちに答えてなかったのか?」 「…………」 サイトウは黙り込んだがそれは流石に察しが付く。Iは口では嘘を吐いてはいるが、態度や言動の端々から、実際には僕たちが恋人同士でなかったことは一目瞭然だ。 「どうして俺はあの子の気持ちに答えなかったんだろうな?」 「そう思うんすか?」 「あの子の俺への想いは本物だ。それは分かる。そしてあの子は綺麗だ。それもとびっきり。俺は面食いだし手のかかる女の子は好きな方だし、好かれてること自体は正直、そこまで悪い気はしない」 本心だった。バカっぽくて可愛くてその癖金持ちだなんてかなり良いじゃないか。今は真実を聞き出す為に厳かに接しているが、内心ではころころ変わる表情を見ていると心ときめかされることもある。僕には過ぎた上玉だと言えるだろう。 そんな女に好かれておいて、僕は何故付き合っていないのか。何か理由があったのだろうが……。 「……旦那の言う通り、お嬢様があんたを想ってること自体は真実なんすよ」 サイトウは悲し気な声で言った。 「旦那の為ならお嬢様はきっと火の中水の中、望めばきっとどんなことでもしてくれるんでしょうね。そりゃあもうあんなことやこんなことや、もっとモノスゴイことまで大喜びで……。ああっ。想像したらオイラまたムカついて来たっす! こりゃあ明日の飯はさらなる想いを込めて作らなきゃっすね! もう目くそ鼻くそじゃ済まないっすよ。旦那の飯だけ便所の水で炊いてやりまいたたたたたたっ、やめて! そんなに一杯折れ目付けないでっ。ひぎぃいいっ! いけない形になっちゃうのぉおおお!」 僕はサイトウのペラい体をあちこち折り曲げて芸術的なオブジェを完成させた。下半分は鼻を伸ばした像でその上に両手を挙げた人という形のその像は、記憶を失う前の俺が相当に折り紙に精通していたことを思わせる素晴らしい出来栄えだった。 「……俺も寝るわ」 僕は飯を食い終えて立ち上がった。 「風呂とか入れんの?」 「……ご用意しております。もうお嬢様も出られた頃でしょうからどうぞ。お着換えも浴室前においてありますので、今着ている服は籠の中に放り込んでください」 珍妙なオブジェから元のペラい人型に戻りながらサイトウは言った。 言われた通り僕は風呂に入った。 ヒノキで出来た見事な湯で、水回りの掃除もなされていて不潔ではなかったが、やはり建物自体が古く不気味な印象があった。 風呂から上がるとあてがわれた客室に引き上げて、ベッドに寝転んで泥のように眠った。 〇 目を覚ます。 天井の模様と目が合う。木の模様がくっきりと浮かんだ天井は、あちこち顔があってこちらを覗き込んでいるかのようだ。 かなりしっかりと眠った感覚がある。自然と時計を探す僕だったがこの部屋のどこにもそれは置かれていなかった。思えばこの館にはどこにも時計がない。カレンダーも、使いたくてたまらない電話機もない。平成十六年現在携帯電話の普及率は低くないが、僕は持っていないし、持っていたとしても取り上げられたことだろう。 僕は起き上がるととりあえず小便をする為に部屋を出て、昨日サイトウに案内して貰ったトイレで用を足そうとして、鍵がかかっていることに気付いて立ち止まった。 おそらくIが出てくると思うと何故か少し気まずい気がした。あんな美人でも便所に行くのだという実感が沸かない。それほどIは現実離れした容姿を持っているのだ。ドア一枚隔ててそれが行われていると思うと、下世話な気持ちになる程だ。 ドアが開く。中から出て来たのはサイトウだった。 「お? ようやくお目覚めですか旦那? おはようございます」 「えっ何おまえうんこすんの?」 「しっつれいしますね! そりゃ食うもん食ったら出すもん出すっすよ」 「何食うの? 紙? どんなうんこすんの? それも紙なの?」 「……ここでの旦那の生活の面倒、オイラが全部看てるっての忘れないでくださいね? いい加減にしないとマジで食い物に愛情仕込むっすよ?」 サイトウと軽口を叩きあった後俺は便所に入った。何がとは言わないがちゃんと臭った。あいついったいどんな生態してるんだ? 便所から出て洗面所で顔を洗っていると、背後からサイトウが話しかけて来た。 「朝飯どうしますか?」 「食うよ。食わないでか」 「そっすか。じゃあ温め直すんで食堂来てください」 僕が食堂に行くと、鮭の切り身とだし巻き卵と漬物とほうれん草の浸し物と赤だしの味噌汁が机に並んでいた。途端に腹の虫がきりりと鳴き出して僕は机に着いて飲食を開始した 「本当良く食うっすね」 「愛情は入れてないだろうね」 「ないっすよ。もう珍妙なオプジェにされるのはごめんっす」 「Iがいないようだけど」 「お勤めに行かれました。隣の病院の方の建物へ。旦那が起きるの遅いんすよ」 「ちゃんと働いているんだな。言っちゃなんだが、あの女に医者なんて務まるのか?」 「どうなんすかねー? 昔っからお勉強はすげー出来たんすけど、手足動かして立ち働くのは大の苦手で。料理だの洗濯だのもてんでダメだし、患者の腹さばいたり聴診器を胸に当てたりなんて、ちょっと想像がつかないっすねぇ」 「そうか」 「まあでも大丈夫じゃないっすか? あの病院だって実質あの人のモンみたいになってますから。患者相手にちゃんと仕事出来てるかはともかく、上級医にいじめられてどうのこうの、なんてことにはならないはずなんで」 僕は赤だしの味噌汁を啜った。味の濃さがちょうど良く出汁も効いていて非常に美味だった。だし巻きも美味い。鮭の切り身は脂の甘さが感じられそれほど塩味ではない割に飯が良く進んだ。ほうれん草の浸し物には臭みがまるでなく、しょうゆをかけて口に入れると鰹節の風味が引き立ちいくらでも食べられた。 どう作ってるのか知らんが、サイトウは飯が美味い。この男の唯一の長所だ。 「お嬢様が帰られるまで、どうします旦那?」 「どうって。テキトウに時間潰すしかないだろ。部屋のテレビでも見るか……」 館の中について調べるか。これが良い気がして来た。脱出の足掛かりを掴めるかもしれない。 「館の中うろつくんなら、別館には入らないでください。後出来たらオイラの部屋も二階の角部屋なんで覗いちゃダメっすよ」 「別に興味ないよ」 食事を終えた僕はとりあえず庭に出た。そして出入口の開かれた門の前まで向かった。 何度試しても、門までの距離を縮めることは出来ても外に出ることが出来なかった。本当にゼノンのパラドクスのようなことがここでは起きているらしい。怪奇だ。 向こうから人が歩いてくれば助けを求めるくらいのことは出来るかもしれない。そう思い一時間ほど待っていたが誰もやって来なかった。僕は諦めて館を探索しながら脱出のヒントを探ることにした。 手始めにと思い庭を歩き回っていると、庭の隅から大きな鳴き声が聞こえて来た。 「ワンっ! ワンっ!」 犬だった。見ると高さ二メートルはありそうな巨大な犬小屋が庭には設置されていて、そこから一匹の犬が顔を出してこちらに向かって猛烈な勢いで吠え続けていた。 「ワン! ワンワンワンワン! ワン!」 どこか悲痛な声であり僕はそこに近付いて行った。動物は嫌いじゃない、むしろ好きだった。こんな立派な館でどんな犬が飼われているのか気になった。犬種は何か、どのくらいの大きさか。サイトウはあれで仕事は出来るようだから、きっときちんと世話されているに違いない。 僕は犬小屋の中を見た。 見たことのない犬種だった。 体長は百五十から百六十センチ程で、後ろ足だけを使って器用に立っていた。体毛は頭にしかなくそれが長く胸のあたりまで垂れていた。前身は禿げ上がっているというべきかそもそも気がないというべきか、局部など一部を除いて肌色の肌を完全に晒している。 首には首輪がはめられていて、それが犬小屋の麓から伸びていた。こんなに大きな犬だから相応に犬小屋も大きく、熊や馬でも変えそうな程巨大だった。二つある皿の片方には濁った水が注がれており、もう片方にはドッグフードの茶色い汚れが微かに残っていた。 「ワン! ワンワンワン! ワン!」 犬は泣きじゃくりながら僕に縋りついていて声を発した。体はちゃんと洗われているのか嫌な臭いはしない。僕はその場で犬の頭を撫でまわしながら頬を緩めた。 「人懐っこい犬だな」 犬は絶望したような表情で僕の方をじっと見上げた。かと思うと今度はやけに悲痛な声色で激しく鳴き声をあげる。 「ワンワンワン! クゥン。クゥウウン。キャイン。ワン、ワンワンワン」 助けを求めているような声に聞こえた。そして僕の足元に抱き着いてボロボロと涙をこぼす。僕はそんな犬の頭を撫でまわしながら、何がそんなに悲しいのかと小首を傾げた。 「あんまそいつに構っちゃダメっすよ」 ドッグフードの袋を持ってサイトウが現れた。袋の中身をドバドバと乱暴に皿にぶちまけ、ホースを持って来てもう一つの皿に水を注いだ。 「かえって残酷っすよ」 「何が残酷なんだ?」 「何がっすかねぇ」 立ち去ろうとする僕の足元から、犬は離れることをしなかった。つい微笑ましい気分になる僕だったが、サイトウがそこにやって来て犬の首に腕を回して僕から遠ざけてくれる。 僕は犬を構うのをやめてその場を立ち去った。後ろ髪を引くように犬は鳴き声を上げ続けていた。この短期間で何をこんなに懐かれるのか分からなかったが、可愛い奴だと思った。後で名前を聞いておかなければと思った。 鯉の泳ぐ庭を堪能し、庭に生えている木々を見て回った。どれも丁寧に手入れがされていて見ごたえがあった。きっと鯉の一匹木の一本が凄まじい金額なのだろう。 探索とか無関係に金持ちの家の庭を歩き回るのが楽しくなっていた。僕は次にガレージに狙いを定め小走りに突入した。記憶喪失の僕だが自分が人並に車が好きだったのは認識していた。金持ちの家のガレージに停まっている車種を確認したかった。Iはどんな車に乗るのだろうか。 ガレージに入ると四台の車が目に入った。隅の方には一台のマウンテンバイクが停められていて、なるほどこれがサイトウが貯金をはたいて買ったという愛車であるらしかった。あのペラペラのサイトウがどんなふうに自転車に乗るのか気になった。僕は四台の自動車の内の一台に目を付けて中を覗き込んだ。 中で人影が動いた。 浮浪者のような男が現れた。髪は脂でべとべとでぼろ布のような服をまとっていた。そしてどうやらケガをしているらしく、顔中は血に塗れ窓に押し当てられた手にはケロイドのような火傷痕があった。 「開けろー! 開けろー! 開けろー!」 必死の形相で男は激しく窓を叩き始めた。恐怖に滲んだその表情に僕は頭を殴られたような衝撃を受ける。男は涙を流しながら僕の方を凄まじい形相で見詰めつつ、大きな音を発しながら窓を叩き続けた。 「助けてくれ! 助けてくれ助けてくれ! 出してくれー!」 僕は思わず扉を開けようとしたが扉には鍵がかかっていた。サイトウを呼んで鍵を開けさせることを考えて身を翻すと、目当ての人物が立っていてペラい体をなびかせながらこちらを見詰めていた。 「それ絶対開かないから意味ないっすよ」 「……は? 何を言ってるんだ。助けないとダメだろ」 「だーかーら。開かないんすよ。永遠に開かないんす。その男だって永遠に閉じ込められたままなんすよ。だから構うだけ無駄なんす」 「そんな訳には行かないだろう。第一、お宅の車なんじゃないか?」 「お嬢様は車には乗らないっす。行きたいところどこにでも存在出来る特技があるんで」 サイトウはそう言って隅に停めてあるマウンテンバイクに歩み寄り、うっとりとした表情で眺め頬ずりをした。 「うーんやっぱり最高っすねオイラのマウンテンバイク。仕事の合間にこれを見に来るのだけがオイラの楽しみっす」 そして満足したように立ち上がり、次の仕事に移る為だろう、ガレージから立ち去って行った。 僕は息を飲み込んだ。やはりこの館はおかしい。 他の三台の車も僕は確認することにした。 二台目は一人の男女が後部座席にいて裸で絡み合っていた。二人とも興奮した表情を浮かべており、結合部を見るつもりはないが何をしているのかは一目瞭然だった。僕はその様子をついまじまじと見つめたが、中の彼らが気付いた様子はなく一心不乱に彼らはその行為を続けていた。 三台目は何もなかった。ただの空の車で僕はすぐに目線を切った。 四台目が一番異常だった。全体は血塗れでじっくりと見ないとただ真っ赤であるということしか分からない。しかしじっくりと目を凝らして中を見ると、ばらばらにされた人体がひしめいていることがどうにか見分けられる。窓には切り取られた人間の腕が張り付いていて、運転席には人間の脚が何本も幾重に積み重なっている。後部座席には胴体が折り重なっていて、その数は三つ……いや四つに見えた。 「なんてことだ」 僕は言った。この館では何が起きていてもおかしくはないだろうが、これはあまりにも酷かった。一刻も早くこの館から抜け出してこのことを警察に知らせる必用がある。いや、そもそもこれは現実の、この世の景色なのか。意味のある景色なのか……。 この館には電話はないしとにかく脱出するしかない。ふと思いついて僕はサイトウのマウンテンバイクに駆け寄った。チェーンは車輪に巻かれてこそいたが、中央にあるのは単なるダイアルキーであり僕は歓喜する。これなら時間をかければ開けられる。 単に四桁のダイアルを回すだけでなく、回した上で横の突起のような形のスイッチを押すタイプのようだ。0000から順に一つ一つ試していく。地道に一つずつ回してスイッチを押して、1000まで到達する頃に、恐れていた自体が起きた。 「こらぁ! 勝手にオイラのマウンテンバイクに触るな!」 サイトウだった。僕は舌打ちでもしたい気持ちで立ち上がり、サイトウに媚びた笑顔を作った。 「いやぁごめんねサイトウくん。あんまり格好良いマウンテンバイクだったから、ついね」 「そういう旦那、ダイアルキー回してたでしょう? 盗む気じゃなかったでしょうね」 「この館からも出られないのにどうやって盗むんだ? ちょっと弄って見ただけだよ。いや、乗って見たかったのは認めるけどさ。あんまり格好良いから、ねぇ」 「……まぁ、格好良いのは、そうっすね。旦那がそう思っちゃうのも……うーん、仕方がないんすかねぇ」 繰り返し車体を褒めるとサイトウはあっけなく相好を崩した。主人に似てアホなのだ。機嫌を取れたことを見て取って僕は早速仕掛けた。 「ああそうだ。ね、ちょっとだけ庭を走ってみても良いかな? お願いだよ」 「ダメダメ。旦那の頼みでもそれは無理っすね。すげー値段したんで人に貸すのはまずいんすよ。万一池にでも突っ込まれたり壁に激突されたら大変でしょ?」 「そうか。そうだよな。残念だ」 僕はこれ以上食い下がらずに諦めた素振りを見せた。こいつの許可を取らずともこれに乗る手段はありそうだったからだ。ようはダイヤルを回し続ければ良いのだ。今回は見付かったが次は慎重にやれば簡単に出し抜ける。 「一応言っとくっすけど、ダイヤル回して総当たりで解くのは無理っすよ」 考えを見抜かれて僕は微かに鼻白んだ気分になる。 「……どうして?」 「ダイヤル回してスイッチを押す度に、正解の四桁が別の数値に変わるんす」 「いや、そんな訳ないだろう?」 「それがそんなことあるんすよ。そういう設定にしてあるっすから。万が一の為に」 サイトウは微かに優越感を帯びた表情で言ってから、へらへらと笑いながらガレージを再び去って行った。 「……どういうことだ?」 スイッチを押す度に正解の数値が変わるなら、そもそも持ち主が数値を知らないから開錠することが出来ないだろう。しかしこの奇妙な館ならどんなことがあってもおかしくないが、それでも鍵としての意味がないというのはおかしいはずだ。 一先ずダイヤルを9999まで回してみるか? いや、そんなことをして次また見付かったらうるさい。まだサイトウが近くにいるかもしれないし、言葉の意味を考えてからでもおかしくないはずだ。 そう思い、不気味な車の合間を抜けようとして、僕は気が付く。 車の中の様子が変化していた。 一台目の車に浮浪者のような男の影はなかった。代わりに二人の男が後部座席でもう一人の男を金づちで殴り続けていた。殴られる男の顔は変形し原型をとどめなくなっていて、しかし生きてはいるのか手足をばたつかせて抵抗を続けていた。 「お、おい。何をやっているんだ? やめろ!」 僕は声をかけるが中に声は届いていない様子だった。無為を察した僕は、ふと思いついて他の三台の車の様子も確かめた。 二台目の車は人間地獄だった。無数の裸の人間が狭い車内にひしめいて、小さな居場所を争ってか互いに押しのけ合い、殴り合い、怒鳴り合っていた。絶えず争う彼らの人数は外側からは数え切れなかったが、それでも七人や八人はざらにいた。中年の男が六歳程の少女を押しのけようとして、その指先が目に食い込んで赤い血が流れている。少女は悲鳴をあげながら男に押しのけられ、今度は別の中年の女に伸し掛かる形になり肘打ちを食らっていた。 三代目の車には四つの人骨があった。それぞれの座席に綺麗に並んだ人骨は、まだ肉が剥がれ落ちる途中であり、顔には眼球などが残っているものも残っていないものもあった。剥がれ落ちた肉片が人骨の下に折り重なり、その中には腐りかけの内臓のようなものまであった。 四台目の車の中には一人の二十歳くらいの若者がいて、運転席に腰掛け両腕を頭の後ろで組んでぼんやりとフロントガラスを眺めていた。若い男はこちらに気付いたように微かに視線を向けると、片手を小さくあげて挨拶のような仕草を見せると、すぐにフロントガラスに視線を戻した。 「……なんなんだ。いったい……」 この短期間で車内の様子が変わるだなんて、ただごとではない。 最早科学的な現象としてどうだとか考えるつもりもなかった。多分車内の様子それ自体に理屈のようなものはないんだろう。経緯も理由も何もなく、それは内側から発生する現象なのだ。 でもそれは何のために起こるのだ? 理屈も理由もなかったとしても、意味がないとまでは言えないはずじゃないか? 僕は車内を観察したがこれと言った手がかりはつかめなかった。おそらくだがこれ自体は見たままの情報しかない。深く観察しても軽く見回すだけで済ませても得られるものは変わらない。一目見て分かるもの……それがこの車内の意味だ。 思い付いて、僕はダイヤル錠まで移動してテキトウに回してからスイッチを押す。もちろん錠前は外れず僕はその場を立ち去る。そして再び車内の様子を見て回った。 変化している。 一台目は五人の人間が前側の座席に二人、後ろ側の座席に三人、目を閉じて祈りをささげるかのように両手を絡め合わせている。年齢も性別も様々で服装さえもバラバラだったが、真剣に祈りを捧げるその表情は一致していた。 二台目は一人の男が別の男の腹をナイフで割いていた。裁かれる男は激しく悲鳴をあげたがもう一人の男に躊躇する様子はなかった。 三台目の自動車は無人だった。目を凝らしても誰かが隠れているということはない。 四台目には一人の少年が胸に中年の男女の首を抱えて泣きじゃくっていた。鼻水を垂れ流し顔一杯をくしゃくしゃにして泣いている姿は悲痛そのものだ。首以外男女の肉体らしきものは車内になく、これはどういうことかと考えてみたが、人間の首と呼べるものは三つあるのでとりあえず三と考えることにした。 僕はマウンテンバイクに移動してダイヤルを回す。 『5203』 スイッチを押す。カチャリと音がして、ダイヤルキーから伸びていたチェーンが外れた。 「しめた」 僕は呟いた。ここに来てから、記憶を失ってから、僕が初めて館を出し抜いた瞬間だった。 〇 ダイヤルキーの四桁の番号は、車内に蠢く亡者たちの人数に対応していた。五人、二人、零人、そして三人。最後は頭が三つと言う意味だが、どちらにしろ、これでチャリに乗ることが出来る。。 僕はサイトウのマウンテンバイクに飛び乗ると激しく自転車をこいだ。そして加速しながら庭を爆走し、門の方へと突撃していく。 Iは言っていた。この門は僕の心理に働きかけて外に出られないようにして来るのだと。どれほど歩き続け距離を縮めようと、最後の最後門に辿り着くことだけが出来ない。距離を縮める度僕の歩幅は半減して行き、最後の最後は本の数ミリ、数ミクロしか進むことが出来なくなる。 この門に近付く僕にはある種の催眠術がかかるのだ。ならば、僕の精神など無関係に移動する仕組みに身をゆだねるとどうなるのか? 加速した自転車は僕がペダルをこがずして、門に向けて矢のように直進して行く。これでは門が僕にどのような催眠をかけようがかけるまいが関係がない。 門を抜けられる予感がした。開かれた門を通り外に抜けられる瞬間が、刻一刻と迫って来る。 その時だった。 「待てーっ! チャリ泥棒! ふざけるなー!」 サイトウの声だった。振り返るとサイトウはそのペラい体で全力疾走して僕に向かって来る。ペラい割には結構早い。いや人間のスピードを超えているんじゃないか? こっちだってマウンテンバイクで全力疾走しているのに、ほとんど同じ速度で付いて来ている。 「待ちやがれー! それだけは絶対に誰にも渡さんっ!」 サイトウは紙でできた体を活かしてその場で凧のようにしゅるしゅると舞い上がると、風に乗って空を飛びながら上空から僕に迫った。……一反木綿かよ! 目論見通り、僕は門をくぐることに成功した。一抹の感動はあったがそれ以上に上空から脅威が迫っている。僕はハンドルを切って壁をよけた後、直角に左折して道路を激こぎで爆走し始めた。 「殺してやる! オイラにマウンテンバイクを返せー!」 空を飛びながら迫るサイトウは、僕に追いついて周囲をしゅるしゅると飛び回りながらまとわりついて来た。 「バカ! これじゃ転ぶ!」 「転ばせて止めようとしているに決まっているだろう!」 「分かったチャリは返す! だから僕のことは見逃してくれ! 僕は外に出たいだけなんだ!」 僕が言った。サイトウは躊躇せず僕に絡みついて来た。たちまち両腕に巻き付いたサイトウは僕の両腕を持ち上げ自転車から引っ張り上げようとする。その時だった。 向かいの十字路の右側から一台の自動車が走って来て、僕の乗るマウンテンバイクに迫った。 「うおおお!」 本来ならばブレーキを握るなり方向転換するなりで簡単に回避できただろう。しかし一反木綿のように巻き付いて来るサイトウに両腕を取られていた僕には、そのどちらも不可能なことだった。 たちまち、自動車は車体に激突する。 その場を吹っ飛ばされた僕は、自転車からも絡みついていたサイトウからも投げ出され、コンクリートの地面に体をしたたか打ち付けて、そのまま意識を失った。 〇 喧騒がする。 何か台のようなものに乗せられてどこかに運ばれている。振動が僕の全身を躍らせる。面白い感触だったが全身には激しい痛みがあり、微かに目を開けると周囲には救急隊らしき制服を着た男達が、真剣な表情で僕のことを運んでくれていた。 とりあえず館の外だ。僕は安堵した。 しかし自分がこのまま生きていられるかは分からない。 というか、まずい気がする。全身は激しく痛んでいるし、身体のあちこち妙な方向に折れ曲がっているし、胸から白い骨が付きだしてすさまじい量の血液が漏れ出している。 ここは病院内のようで白い天井の中で規則的に証明が並んでいた。やがて僕は一つの部屋の中に運び込まれ、白衣を着た医者や看護師らしき人達に囲まれる。 その中にIがいた。 「……Mくん?」 Iは思わずと言った様子で目を白黒とさせた。そして泡でも飲みそうな動揺した様子で僕に縋りつきながら激しく喚いた。 「どうしたんですかボロボロじゃないですか! 事故にあったってMくんのことですか? でも何で外で? それよりも……うわぁあどうしようどうしようすごいケガだよ! 早く病院へ! 病院へ運ばないと! そうだ! 救急車! 誰か救急車呼んでくださいっ!」 ここが病院なんだろうがよ! 本当にこいつは医師らしい。それでこいつの勤める病院に運ばれて来たと。あの館と病院が隣接しているなら、そりゃあ一番近くのそこに運ばれて来るはずだよな。 あからさまに動揺して使い物にならなくなったポンコツをあっさりと退け、代わりに冷静な医師たちが僕の身体に妙な管やら点滴やらを差し込んでいく。切迫した状況であり僕は不安を感じる。 助かるのか? いや助からないよな。ものすごく血が流れていて床は血塗れ。医師たちの表情にも不安と言うより諦念のようなものが伺える。すごく、死にそうだ。 僕が絶望しそうになったその時だった。 「あのぅ。ちょっと皆さん、良いですか?」 Iの言葉に近くにいた医師たちが皆顔を上げ、その言葉を待った。 「I先生、何?」 「このままじゃこの人絶対死ぬんですけど」 「だからこうして措置をしているんだろう」 「関係ないです。死神がそこまで来ています。皆さんが何をどうしても絶対に死にますし助かりません」 「……Iちゃんがそういうならそうなんだろうね」 年嵩の意思がため息を吐いて手にしていた器具を置いた。 「だからって何もしない訳には……」 「わたしに任せてくれませんか?」 Iは黒飴のような瞳で部屋の医師達をじっと見つめる。 「わたしをこの人と二人きりにしてください。そしたらわたしがこの人を助けます」 「Iちゃん、それは……」 「わたしならそれが出来ます。分かりますよね?」 「でも皆を出て行かせるなんて」 「邪魔なんです」 「…………」 「これはわたしでも一刻を争う事態です。すいませんが早くしてください。大切な恋人の為です。出て行って」 研修医にはあるまじき居丈高な言い方だったが誰も文句を言わなかった。年嵩の意思が「おい」と周囲に合図をすると、彼を先頭に意思や看護師らしき連中は措置室の外に出て行った。 「……さて」 Iは静かな表情で僕を見下ろしている。 「どうやって館を抜け出したのかは分かりません。アタマの良いMくんだから何か方法を考えたんでしょう。でもね。なんたって記憶を失くしてまでわたしの傍から逃げて行くんですか? 酷いです……本当に酷い……」 Iは目からボロボロと涙を流した。震える拳でぐしぐしと目を拭い、そして決意に満ちた表情でじっと僕を見下ろした。 「でも好きだから助けます。そしてもう一度館の客室で目覚めて貰います。かまいませんね?」 僕は何も言わない。言うことが出来ない。 Iは静かに顔をあげた。そこにある何かをじっと見つめている。そして死神と取引でもするように、落ち着いた声音で何事か呟き始めた。 「がいりしがいりしばらじゅうずふろーいんじゅぶにぐらす。がいりしがいりしぐらごーてぐらごーてがいりしばらじうずじゅぶにぐらす。ばらみじあぐらごーて。がいりしがいりし。じゅぶにぐらず」 どこかで聞いたことのあるような呪文だった。すべてを忘れている僕だが、それを聞いたことがあるという記憶だけは、脳の奥底に焼き付いて離れることがなかった。何か人生の重要な局面で僕はこの声を聞き、それを忘れまいとして今日まで生きて来たのだ。 僕はこの呪文に何を思ったのだろう? この呪文に何を誓ったのだろう? 「がいりしがいりし。じゅぶにぐらす。ぐらごーてばらじゅうずにゃおぐるにゃおぐるがいりし。じゅぶにぐらす」 途端に瞼が重くなる。気が遠くなる。 何かからめとられてはならないものにからめとられるような、でもそれが心地良いような。何もかもを投げ出すような感覚の中で、僕は眠る。 〇 目を覚ます。 木の模様色濃い天井が、僕を出迎えた。 僕は体を起こす。Iの館の例の客室のベッドだ。 思わず身体をまさぐると完全な五体満足であり僕は驚く。あれほど血を流していて骨もあちこち折れていたのに、今となっては跡形もなく擦り傷一つ出来ていない。 生き返ったのだ。僕はそう感じた。 「うぅ……うぅうう。オイラの……オイラのマウンテンバイク……」 目覚めて最初に聞いた声がそれだった。ふと視線を送るとそこにはサイトウが蹲っていて、拗ねたように膝を抱きながらぐしぐしと自分の目を擦っていた。 膝を抱いていると言っても、膝を抱いた状態の絵が描かれた紙がそこにあるだけだったが。普段のこいつという存在は紙というよりアクリルスタンドというのが近い。紙がポーズを取るのではなくポーズを取った状態が描かれた紙が起立しているのだ。 「な、な、泣かないでくださいサイトウさん。自転車ならまたわたしが買ってあげますから」 Iが慰めるような口調でサイトウの隣に座り込み、肩を抱きしめて優しい声を発している。 「うぅ。うぅうう。大丈夫っす。自分でまた買いに行きますから。お気持ちだけで……」 「遠慮しなくて良いんですよ? 高かったんでしょう?」 「いやまだ貯金あるし……。つっても自転車だから車とかと比べたら全然安いし……。十万円くらいしたけど、お給料ちゃんと貰ってるから、買えるし……」 バカみたいなやり取りをするその様子を眺めながら、僕は身を起こして白い目をしていた。 「あっ。起きられましたか」 ようやく気付いた様子でIは僕の方を向いた。そして目を輝かせて抱き着いて来た。 「良かった。心配していたんですよ」 髪の匂いがする。背中に回される腕の感触はすべらかで柔らかで、押し当てられる身体はぬくもりに満ちている。僕は反射的に胸が高鳴るのを感じそうになり、死にかけの状態からおそらくはこの女に助けられたことに感謝しそうになり、そもそもの原因がこいつにこの館に閉じ込められていたことだと思い至り冷静さを取り戻した。 僕を抱きしめるこの両腕は、支配の手だ。 「けっ。人のチャリ壊しといてなぁに鼻の下伸ばしてんだ」 サイトウが舌打ちをした。 「お嬢様に買い直して貰うのは違うけどなぁ? おまえにはちゃんと弁償して貰うぞマウンテンバイク? おおおん? おおおおおおおん?」 「いやおまえの所為だろ。誰が巻き付いた所為で事故に遭ったと思ってんだよ。おまえはチャリだけで済んだけど俺は死にかけたんだぞ?」 「あ? そーもーそーもー、おまえが他人のチャリ盗んで勝手に館を抜け出そうとするからだろー! 当然の報いだろうがこの変態ロリコン教師!」 「黙れ一反木綿。切り刻んで千羽鶴にするぞ?」 「お?」 「あ?」 「やめてくださーい!」 僕達の喧嘩にIが入って来て必死の形相で制止した。 「お二人ともわたしの大切な人なんだから喧嘩されたら困ります。わたし、哀しいです。元はと言えばわたしがMくんをこの館に閉じ込めたのが悪いんです。どうか仲直りしてください。お願いします」 そう言って涙ながらに頭を下げるI。主人に制止されたサイトウがバツの悪そうな顔をして俯いた。そして僕の方を睨んで吐き捨てるように言った。 「おいM! 今回だけ許してやんよぉ!」 そしてずんずんと足音を立てながら部屋を出て行った。 「……良かった」 Iはほっとした様子で胸を撫でおろした。 僕はベッドを這い起きて、改めて自分の身体を撫でまわし、無事を確認した上でIに尋ねた。 「……君が助けてくれたの?」 「……覚えてるんですか?」 「まあね。君が何か呪文のようなものを唱えていたところも……。助けてくれたのは本当にありがとう」 「いいえ。気にしないで」 「ねぇ。君は本当に何者なの?」 「わたしには、霊感があるんです」 Iは微かに得意げな顔をした。 「いや霊感って……」 「信じないんですかぁ? 本当なんですよ? 小さいから他の人に見えないものを見たり、他の人が感じないことを感じたり……」 「それじゃ説明付かないだろって言ってるんだ。死ぬはずだった大けが人を、擦り傷一つなく蘇生するのを、何か特殊な感受性一つで片付けることは出来ないはずだ。君には何か、恐ろしい力が備わっている」 Iには何か特別な力が備わっていて、この館の怪異だってそれが関わっている。 魔法のような呪術のようなそれは、人の生死すら弄び心を自在にし、怪物を生み出し使役する、万能に近いような力のはずだ。僕が囲われているのはそんな存在だ。 「……恐ろしい力だなんて。わたしが持っているのは、本当にただの、ちょっとした霊感に過ぎないんです」 Iは言った。 「ただ、他の人に分からないことが分かれば、他の人に学べないことを学ぶことが出来る。そうして学んだ力を応用すれば、他の人に引き起こせないことを引き起こすことが出来る。それだけのことなんです。それは霊能力とか言える程、たいそうなものではありません。知ってさえいれば、本来誰にでも出来ることですから。わたしに備わっているのはだから、ただの霊感です」 「なら君は魔女ではないし化け物でもないと。そういうことだね」 僕が言うと、Iははっとした表情で僕をまじまじと見つめた。 「……そう思うんですね」 「君の言う通りならね。でも真実なんだろう。君が嘘を吐くなら僕には分かるから。君は変わった技術を持った、ただの人間の女の子だ」 「嬉しい」 Iは赤らめた頬に手を当てた。 「前にもあなたに同じことを言われました。同じことを言って貰えて、嬉しいです」 「……喜ばせる為に言ったんじゃない。つまりね、君が魔女や悪魔なら人間とは異なるルールで動いていても納得できるけど、そうじゃないということを言いたい訳だ。君は人間で、人間が人間を自分の館に閉じ込めるのは罪なんだから、早く解放して貰えないかな?」 Iは小さく舌を出して蠱惑的に微笑んだ。 「それは無理です。だって、わたしはあなたが大好きなんだもの」 僕が言い返そうとすると、それを察したのかIはその場を立ち上がり、部屋を去る。 「ずっと一緒です」 去り際にそんなことを言い残して。 僕はベッドに横になり、窓を見詰める。 あの時は確かにあったはずの門は消え失せ、広い庭のすべてが石垣に覆われていた。 僕は再び囲われることになった。それもおそらくは、以前よりもずっと厳重に。 うんざりだった。 〇 怪奇! クモ男! 〇 「もーいーかーい」 というIの叫びが庭の方から微かに聞こえて来る。倉庫に押し込まれていた積読を整理して中にスペースを作っていた僕は、本気で動かしているその手を止めることなく、声を張り上げて返事をした。 「まーだだよー!」 僕らは広い館でかくれんぼをして遊んでいた。 今日はIの休日だった。研修医というと忙しいイメージがあったが、Iの場合はしょっちゅう病院を休んでいるようで、その度に僕は色々な遊びに付き合わされた。ほとんど丸一日中庭を並んで散歩させられながら四方山話に付き合わされることもあれば、ボードゲームやカードゲームや、今しているかくれんぼのような子供染みた遊びをさせられることもある。そうやって共に遊びはしゃいでいるIの表情は、童心を失っていないというよりも、本当にただの子供のように屈託がない。 倉庫には僕の腰よりも高く無数の本が積み上げられたスペースがある。そこを整理して中に空洞をこしらえた僕は、そこに身を隠し、館中に響きわたるような声で大きく叫んだ。 「もーいーよー!」 庭の方からはしゃいだ声が聞こえて来た。鬼は庭の真ん中の木の前で目を閉じて待機することになっている。そこからなら、館のどこからでも声が聞こえるからだ。 Iの足音が倉庫に迫る。声でだいたいの場所は割れている。だが倉庫は広く下手な平屋程もある。如何にこの館を知り尽くしたIと言えど、僕を見付けることが出来るだろうか。 僕はそれなりのスリルを感じている。こうした子供の遊びを自分が好んでいることを僕は知った。いや、好きなのは子供の遊びをすることではなく、そういう遊びをしたがる相手に付き合い楽しませてやることの方かもしれない。あの子供っぽいIが懸命に倉庫を歩き回り、ドキドキとしながら僕の姿を探していることを思うと、他愛無く微笑ましい気持ちになって来るのだ。 たとえその相手が、僕を監禁している得体の知れない霊感娘だとしても。 「みぃつけた」 あっさりと僕は見つかり積読の中から這い出した。Iは得意げな顔で僕の方を見下ろしている。僕は微笑みながら立ち上がりIに言った。 「手の込んだ場所に隠れたと思ったんだけどな」 「本が広がっていました。本当はもっと狭い範囲に積まれていたはずです。誰かが中に空洞を作ったと一目で分かりました」 「そっか。流石に住人は有利だね。しかも俺は体が大きいから、猶更不利だ」 「クラスで一番じゃなかったことありませんでしたものね。わたしも女の子の中じゃ一番か二番でしたけど」 「そうなのか? ……いや、確かに背は高いね」 「ええ。今も百七十五センチあります。小学生の時とかずっと同じクラスだったから、背の順で男女で並ぶと二人が最後尾で、それで隣同士で、集会の時とか良くお話ししましたよね? わたしはちゃんと黙って先生の話を聞いてなくちゃいけないって言うんですけど、Mくんったらやんちゃ坊主で、ずっと私語ばっかり」 Iは遠い目をしていた。どうやら、僕らは幼馴染であるようだった。 「では次は攻守交替ですね。Mくんがわたしを探すのです。わたしはこの館のことを知り尽くしているので、手ごわいですよ!」 「何とか探してみるさ」 僕らが倉庫から出ようとすると、倉庫の扉が開いて、逆光をまとった薄っぺらい男が現れた。 「ちょおっと待った!」 サイトウだった。直立するペラ紙の中でサイトウは腕を組んで不敵な表情でこちらを見詰めている。こいつの姿はアクリルスタンドに例えるのが一番わかりやすい。こいつのポーズに沿って切り抜かれた紙があって、サイトウが動いたり体勢を変えたりすると紙の形も同時に変化するのだ。 「やーだなぁお嬢様ったらそいつと二人だけで楽しいことしちゃってさ。かくれんぼならこのオイラのことを忘れちゃダメっすよぉー!」 「ええー……サイトウさんも入るんですかぁ?」 Iは唇を尖らせた。不満そうだ。 「あったりまえでしょ! 一人だけ仲間外れは酷いっすよ」 「一緒に遊ぶのは別に良いですけどぉ……サイトウさんかくれんぼは本当に物凄く強いじゃないですかぁ。わたし見つけられませんよぅ」 「そりゃーあお嬢様がオイラをこういう姿に作りましたからね。個性っすよ個性。才能なんです。ね、ね、混ぜてくださいよ。そいつの鼻を明かしてやりたいんす」 そう言ってサイトウは僕の方に指を突き付けるポーズを紙の中で作る。僕は単純に疑問に感じたことを口にした。 「おまえ、ここで雇われている使用人なんだろう?」 「そうだけど何か?」 「今日おまえ休みなの?」 「いや。違うけど」 「仕事中なんだったら仲間外れとか言わずに働けよ。俺嫌なんだけどおまえのペラい身体探さなきゃなんないの」 「HAHAHA良いんだよ別にいつ働いて休むかはオイラが自由に決めて。オイラには上司も同僚もいないから迷惑かける相手もいないしな。テキトウで良いんだよ、テキトウで」 「上司がいないのは分かるけど、雇い主はいるだろうが」 「だからそのお嬢様に伺いを立ててるんだろうが。ネ、ネ、良いでしょう? ちょっとくらい遊んだって」 懇願され、Iは渋々と言った様子で了承した。この二人の関係性は姉弟のようであり兄妹のようでもある。単純な主従というよりは、もう少し対等で砕けた関係が近いようだった。 「ちゃんと百秒数えろよ!」 そう言い残してサイトウは館の方へと走って行った。同じように庭を駆けて行くIを見送ると、僕は木に顔を埋めて数を数え始める。 「いーち、にーい、さーん……」 どうせ『もういーかーい』は言うのだからこの百秒は必要ないようにも思える。しかしそれは欠かせない儀式であり、かくれんぼという遊びを盛り上げる必須の要素であるらしかった。少なくともIはそう言っていた。 「きゅうじゅうきゅう。ひゃーく! もういーかーい!」 僕は声を張り上げる。館の敷地は広いので、声が最も遠くこの庭の真ん中であったとしても、かなり声を大きくしなければ、隠れているものに伝わらない。 「いいですよー」 「もういーよー! 早く探せー!」 正直あの美人のIとなら何をして遊んでいたって気分は良いが、サイトウとか言うペラ紙のバケモンを相手に、仲良くかくれんぼをしなくちゃならないのは癪だ。増してや『鼻を明かしてやる』などと宣言されて、笑っていられる程僕の人格は出来ていない。 僕はサイトウを瞬殺することを決めていた。 「すまん聞こえなかったー! もう一度言ってくれー!」 僕は耳を澄ませて返答を待ち受けた。 「もういーですよー!」 「いいっつってんだよー!」 二人から返事が聞こえる。サイトウが本館の方にいること、おそらくは一階部分であることを僕は声から聞き取ったが、まだ足りない。 「すまーん! サイトウが何言ってんのか聞こえん! もう一度言えー!」 「も! う! い! い! よ! もういいよー!」 それでだいたいの場所が分かって僕は本館の方へと歩き始めた。 声が聞こえたのは一階のリビングに思えた。本館の一階には東から順に浴室・食堂・リビングという順に並んでおり、続けてIの寝室、僕の部屋、空き部屋二つと続いて行く。声は本館一階の中央付近から聞こえていたし、サイトウが主人であるIの部屋を隠れ場所に選ぶことは心理的な抵抗があることや、隠れ場所の多さなどを総合的に加味しても、リビングに隠れている蓋然性は高そうだ。 リビングは広い。全体に赤い絨毯が敷かれていて、それより淡い色のソファが並び、壁には茶色の棚が並んでいて、夜に良く付き合わされるボードゲームやカードゲームの山がある。人生ゲームやら囲碁やら将棋やらだ。小学生の頃よく一緒にこうやって遊んでいたんですよとIは僕との思い出を語っていて、実際に人生ゲームの駒の感触は手になじみがあるような気がした。 「おいサイトウ。ここにいるんだろう」 僕は決め付けるような口調でリビングに語り掛けた。するとどこかから身動ぎをするような気配を感じる。気配と言っても第六感のようなものが働いた訳でなく、ただ僕の声にビビったサイトウが微かにだが音を立ててしまい、無意識化に感じたそれを気配という風に脳が処理しただけのことなのだが。 「この部屋なのは間違いなさそうだなぁ」 僕はさらなるプレッシャーを掛けながら部屋を漁り始めた。奴はペラい体を活かして隠れているからどこへでも隠れられる。棚の裏やらソファの隙間やらをしらみつぶしに探してやらなければならない。 「ぐえ」 絨毯を歩き回る時、僕は足元から微かに声がするのを聞いた。 試しに僕はその場で足踏みを行ってみる。 「うぐ。うえ。ぐ、ぐぐ。いた……」 くぐもった声が絨毯の下から聞こえて来る。僕はほくそ笑んで絨毯を捲ろうとして、ふと悪戯心を起こして、近くにあった一人掛けのソファを持ち上げた。 「この隙間か? それとも裏か?」 僕はソファをサイトウがいるであろう絨毯の上に置いた。 「うぎゃあ」 ソファの裏からくぐもった声が聞こえて来る。 「うーん見付からんなぁ。ここは一度、座ってじっくり考えた方が良いなぁ」 僕はその場でジャンプしてから尻からソファに飛び乗った。 「うぎゃあ」 僕はぐりぐりと尻をソファに押し付けて中に体重を掛けた。 「うぎゃあ」 そのままうーんうーんと唸り続ける。流石にたまりかねて出て来るかと思ったがそんなことはない。ソファの重みに押しつぶされるあまり身動きが取れなくなっているのか、それとも自分がまだ見付かっていないと勘違いして耐えているのか。 どちらにしろ、愉快だった。 「この部屋じゃないみたいだな」 言いながら僕は部屋に置いてある重そうなものを出来るだけ多く持って来て、サイトウを下敷きにしているソファの上に置いた。サイトウのくぐもった悲鳴を聞きながら、僕は愉快な気持ちでリビングを出た。Iを見付けた後にでも、ゆっくり見付けてやることにしよう。 リビングを出て僕は少しだけ途方にくれた。Iがどこに隠れたのか全く見当がつかないのだ。もういいよーの声で大体の場所を索敵するのはかくれんぼの基本的なテクニックだが、サイトウの声を聞き取ることに集中し過ぎてIの声がどこからしたのか分からくなっていた。 とりあえずしらみつぶしに探すことにして、僕は客室の一つの扉を開ける。そして客室のクローゼットの扉を開けた。 そこに見知らぬ少女がいた。それも一人ではない。 セーラー服を着たのが二人だ。筋肉質で背の高いのと、眼鏡を掛けて胸のでかいのと。 「死ねっ!」 少女の内の一人、筋肉質で背の高い方が、両手に持った竹刀で僕に飛び掛かって来た。僕は避けることも出来ずにその竹刀を面に食らいそうになり、思わず顔を庇って突き出した両腕でそれを受け止めた。 骨が折れそうな衝撃が走った。 本気で痛い時は、本気で後に引くダメージを受けた時は、痛みのあまり声を出すことも出来ないのだと知った。竹刀というのは人を痛めつける為にあるのではなく、あくまでも競技の為にあるのであり、木刀や鉄パイプ程の凶悪な威力は出ないはずだったが、その少女の面打ちは強く重く速く、それゆえ僕を悶絶させた。 その場に蹲り動けなくなる僕に、筋肉質の少女は竹刀を突き付けて言った。 「おまえ、この化け物屋敷の住人か?」 首を横に振ることも出来ない。 「ちょっとBちゃん……」 巨乳の少女は筋肉質の少女を制止しようとするが、筋肉質の少女は取り合わない。 「声を出すな。助けを呼ぶな。あたしの言うことを聞いてもらう。まずは質問に答えろ。……おまえは、誰だ?」 少女の声の余韻が響く客室で、回復するまで一分近い時間を要した後、僕はうめくような声を発した。 「……からない」 「あ?」 「分からないんだ」 僕はどうにか身を起こし、尻を床に着けることに成功するが、立つことは出来ない。 「分からない。記憶がない。そしてこの館に閉じ込められている。……本当だ」 顔を上げる。巨乳の少女は怯えた様子で筋肉質の少女の裏に隠れている。こちらを睨み付ける筋肉質の少女の瞳にも、研ぎ澄まされた闘争心と巨乳の少女を守ろうという責任感のその奥に、恐怖のような感情が隠れているのを見て取って、僕は優しい声と表情を発した。 「おそらくだが、君達の敵じゃない。そう思う。……君達は、誰だ?」 二人の少女は警戒を解いた。 〇 「あたしはBってんだ。こっちは友達のA」 筋肉質の少女は言った。 あまり手入れのされていなさそうな長い金髪はあちらこちらに跳ねていて、精悍でどこか狂暴そうなその瞳と相まって、獅子のタテガミのような雰囲気がある。背丈はIと遜色がない程度に高く、手足が筋肉質に引き締まっていて、野生動物のようなしなやかさがあった。 「Aです。あの、Bちゃんがごめんなさい」 巨乳の少女が言った。 中肉中背だが胸が大きく、尻がでかいグラマーな体格。淡い色に染めた髪は肩程までで、艶と光沢のあるそれは普段から良く梳かれていることが伺える。赤い縁の太い眼鏡には洒落っ気があり、身嗜みやオシャレに気を遣う、平成の今時の女学生と言ったところ。 「俺はM。君達の話を聞かせて欲しい。どうやってここに来た?」 「先にそっちの話を聞かせろ」 Bがこちらを睨み、竹刀を突き付けたまま言った。 「あんたが味方だって限らないのに、こっちの話べらべら話せるかよ。申し開きはまずそっちからだ」 Bは警戒心を露わにしていた。表情や態度にはまったく出さないが、内心では怯えているのが見て取れる。対するAは「ちょっとBちゃん……」とBのその態度に苦言を呈するかのようだったが、それは比較すると能天気であるという風にも見て取れる。 率先して矢面に立ち時に竹刀を振って戦いすらするBには、状況に対する責任感と強い警戒心がある。対して、そんなBの影に隠れるAの方は、怯えたり警戒したりする役割を一定数Bに委ねている為、比較的冷静でいられるという訳だ。おそらくAはBをかなり信頼しているのだろう。そしてBはAの為に戦い、守ろうとしているのだ。 腕を竹刀でぶったたかれ悶絶させられ、今尚竹刀で脅され、常に睨まれてはいたが、僕はこの二人組に好感を抱いていた。女子高生くらいの子供であるというのを差し引いても、悪い子達ではないような気がしたのだ。 「……良いだろう。まずは俺の話をさせてもらう。俺は……」 僕は記憶が戻ってからの経緯を出来るだけ詳しく、包み隠さず正直に話した。関係構築にあたってこの初対面での情報交換はとても重要だ。こちらが警戒する分向こうも警戒する。一度信頼すると決めたらそれを示す為に限りなく正直でなければならない。相手にこちらが本当のことを言っているかどうかを判断する術はないが、しかし嘘や隠し事をすれば必ずそれは話し方や態度で伝わるものなのだ。 そして二人は聡明だった。話し終えた僕を見てAは「嘘を吐いているようには見えないけど」と恐る恐るBに言った。 「そうだな。いや、分かんねぇけど」 「分からないなりに、いったんはこの人を信頼するしかないんじゃない?」 「それはどうなんだ。所詮は初対面の、しかも記憶喪失のおっさんだろう?」 「お兄さんだ」 僕は訂正した。Bはそれを無視してAに言った。 「記憶喪失だって話も本当かどうか分かんねぇ」 「そんな荒唐無稽な話を嘘で言うかな?」 「そう思わせる為に言ってるのかもしれねぇじゃねぇか」 「考えすぎ。つうかもしそうならこのオジサンがバカすぎる」 「俺は二十五歳だ」 僕は改めて訂正した。Aはそれを無視してBに言った。 「というかそもそもなんだけど。この人を信頼しないなら、私達はいったいどうすれば良いんだって話にならない?」 「どういうことだ?」 「まず第一に私達はこの人に既に見付かっちゃってるんでしょう? この人を信頼しないで、敵だと思って接するんだとしたら、この人を縛り上げてどこかに隠しておくとかしなきゃいけなくなるよ? 敵に見付かったんだとすれば、私達はその敵をどうにかするか、この館から逃げるかのどっちかなんだから」 「逃げるのはありえないし逃げ方も分からん。でもこいつをどうにかするんなら、できる」 「竹刀で叩き殺す訳?」 「ふん縛ってこのクローゼットに隠して置けば良い」 「いつか見付かるよ。それに私達この館のこと何も知らないし、自由に動くことも出来ない訳じゃん? Cちゃんを見つけ出そうと思ったら、館を自由に動けるこの人を味方に付けないとどうにもならなくない?」 「住人が寝静まる夜中になるまで待って、それから館を捜索しようっつったのはおまえだろうが」 議論する二人の言葉はざっくばらんであり、顔や体の位置も近かった。相当に仲が良く付き合いも長そうに見える。何より腹を割って話し合う二人の言葉には何の屈託も感じられず、僕はこの二人が単なる迷える子羊であることへの確信を強めていた。 「改めて、俺は君達の味方だ。信頼して貰って構わない。何か協力できることがあるなら協力するし、君達のことをIに話したりもしない。ちゃんと匿う」 「どうしてそんなことが言える? こっちはまだ自分のこと何も話してないんだぞ?」 僕の言葉にBは睨み顔を返した。 「君達はどう見ても、どこにでもいる一般的なただのギャルだ。少なくとも、この館に住まう怪異の類とは異なっている」 「ギャルじゃねぇし。……ねぇよな?」 BはAに視線を向けた。 「……定義によるね。若い女の子をひとくくりにそう呼ぶ人もいるし、ちょっとでも髪とか化粧とか派手ならそう呼ぶ人もいる。何も、ガングロメイクですんげーミニスカで、ケータイにストラップジャラジャラ付けてなきゃギャルって訳でもない」 「百歩譲っておまえがギャルだとしても、あたしはちげぇぞ。品行方正な剣道少女だ」 「私は別にどっちもでも良いし、品行方正であることも剣道少女であることも、ギャルであることと両立しない訳じゃないと思う。ただ、あんたは今はもう、剣道少女ではあっても品行方正ではなくなってるんじゃないかなあ」 「そんな無力なピチピチギャルでしかない君達のことを、俺は怪しんで警戒したり、敵視したりするつもりはない。自分と同じ、この館に迷い込んだ子羊であると認識する。それは君達の態度を見ていても明らかだ。情報が欲しいのはこちらも同じだが、話したくないことがあるのなら無理に話す必要はない。その場合、そっとこのクローゼットを閉じて俺は立ち去ろう」 僕は言った。Bは変わらず胡乱そうな表情で僕の方を睨んでいるが、Aの方はそれで警戒心を解いたらしい。微かに怯えの滲んだ声色で、しかし自分達の目的を話してくれた。 「信頼するよ。私達、この館に友達を探しに来たの」 Bは何も言わずに話し始めたAを、腕を組んで見守っている。僕を信頼することに決めたAに納得している訳ではなさそうだったが、こちらに向けて構えていた竹刀は組まれた腕の右手に握ってくれていた。 「Cちゃんって友人が私達にはいるんだけれど、ある日を境に彼女が学校に来なくなって。ずっと心配してたんだけど、ある日、そのCが私の夢枕に立って……」 そのCという彼女らの友人には、何か不思議な力があるらしい。 Cは自らのその力を単に『霊感がある』と説明していたようだ。実際には単なる第六感にとどまらず、怪異を相手に何か呪力のような技を発揮することもあるそうで、その意味ではIと同種の存在でもあるようだった。 そしてそのCが行方不明になった。行方不明になって数日後、CはAの夢枕に現れた。 「『囚われている』『だから助けて欲しい』っつって。私は飛び起きてこのBちゃんの家に行って、こいつを連れてCちゃんのことを探した訳。そしたらまたCの声が聞こえて来て、それに誘われるままこの館の庭に入ったら……出られなくなっちゃってさ」 「Cというその友人が、この館の中からSOSを発した訳か」 「そうだと思う。前にも同じようなことがあった。Cちゃんは私のピンチをいつも助けてくれるけど、自分がピンチになったら、夢枕に立って私を呼んで、助けを求めてくれる。……私はCちゃんを連れて、絶対に二人でこの館を出るんだ」 「二人でってなんだよ。三人だろ」 Bが顔を顰めて突っ込みを入れた。 「……この館から出られないのは君達も同じ?」 僕は改めてそれを確認した。 「その通りです。……閉じ込められているのはオジサンの方で、私達は巻き込まれただけかもしれないけどね」 「だとしたら本当にすまない。そして僕は二十五歳だ」 「いやそれは良いんです。私達だって、Cちゃんを見つけ出すまでここを出る気はまったくない」 「そのCという友人を一緒に探せば良いんだな? と同時に、この館から出る方法も考える」 「その通り。ただ、Cちゃんは本当に不思議な力を持っているから、そのIと言う人が私達をこの館に閉じ込めているんだとしても、対抗できるとは思うんだけどね」 「…………改めて疑問なんだが。レーカンとかレーノーリョクとか、そういうのってマジでこの世に実在するんだな」 Bは腕を組んだまま胡乱そうな声で言った。 「そうだよ。今更信じたの?」 「この館から出られないのは、単にあたし達が出口を見失ったからじゃないんだな?」 「そうだよ。ありえないでしょあんな大きな門があった場所が単なる壁になってるなんて。それに見たでしょ? あのペラペラの人の姿とか、他にも色々」 「信じらんねぇってか信じたくねぇ」 「それは俺もだし、無理に信じることはないと思う」 僕は言った。 「信じるとか信じないとかは保留で良い。何も分からないし信じられないのは、何も今僕らが直面している問題に限った話じゃない。何も分からないし信じられない状態のまま、目の前で起きていることをただ直視して、どう対処するかだけを考えよう。とどのつまり、Cという友人をとにかく探して、とにかく館を脱出するんだ」 Bは腕を組んだまま僕の話を聞いていて、微かに頷いてから頬を捻じ曲げてこう言った。 「そうだな。良いこと言うじゃねぇか、オッサン」 「俺は二十五歳だ」 孤独に館からの脱出を図っていた僕に、女学生が二人、仲間に加わった。 〇 その日の食卓もIと一緒だった。 向かい合わせの席でIははしゃいだように喋りながら、サイトウの用意した食事を摂っている。僕もポークソテーや貝の味噌汁やハルサメサラダに舌包みを打ちながら、ビールを注文しては「んなもんねぇよ」とサイトウに突き放されていた。 「食事が良いのが、おまえの取柄の一つなのに。冷えたビールないなら台無しじゃねぇか」 「おまえの給仕係じゃあねぇっつうんだよ。お嬢様はぁ、お酒は飲まれないの!」 「あっそ。じゃあ今日は良いから明日から用意しとけよ」 「ああ? 誰がおまえなんかの為に用意するか」 「お? 俺はお嬢様の大切な客人なんだぞ分かってんのか?」 「あ?」 「お?」 「やめてください」 Iは焦った様子でおどおどと取り成した。 「ビールならわたしが必ず用意しておきますから。好きなメーカーを仰ってください。仕事の帰りに買ってきます」 「良いですよお嬢様。お嬢様が行くくらいなら、オイラが作ります」 このサイトウともすっかり打ち解けていた。良くじゃれ合うようなケンカをするが、深刻な状態に陥ることはなく、嫌味の応酬も数語で終わる。向こうがどう思っているかは分からなかったが、僕はこのペラい使用人をそれほど悪く思っていなかった。 「今日は楽しかったですね」 Iはニコニコと微笑んで言った。 「昔は良くこの館にも遊びに来てくれたんですよ? それで、今日みたいにかくれんぼをしたり、ゲームをやったり」 「卓上ゲーム好きだよね。テレビに繋ぐ方のゲームはないの?」 「あれはわたし、良く分からなくて。反射神経を使うのがダメで。Nちゃんは毎日遊んでるんですけどね。一緒にやっても足を引っ張るだけで最近ではそれもしてくれなくなりました。新しいのが出る度いつもせがんで来るんです。こないだなんて、テレビのコマーシャルを見て、今夜中にどうしても遊びたいなんて言い出して、サイトウさんがひとっ走り行くことになって」 「Nちゃんってのは妹さんだっけか。甘やかしすぎなんじゃないの?」 「Cちゃん……大きい方の妹には、たまにそう言われましたね」 Cと聞いて僕はピンと来た。AとBの二人の女学生が言っていた名前だ。 「Cちゃんという妹もいるんだね」 「はい。とってもお利巧で手のかからない子だったんですが……最近ちょっと仲たがいしましてね。館を出て母の方の家に行っちゃったんです」 「そのCさんは今もお母さんの家の方に?」 「実は最近、ちょっと強引に連れ戻しました。あんまり聞き訳がなかったので」 僕は固唾を呑み込んだ。 「Nちゃんのことまでお母さんの方に連れて行こうとしたんです。わたしはそんなCちゃんのことを追い掛けて、Nちゃん諸共この館に連れ戻しました。Nちゃんはまだ小さいので判断力がないということで、Mくんと同じくらいの待遇で別館に住まわせてますけど、Cちゃんの方はお仕置きも兼ねて地下牢に閉じ込めています」 「……地下牢か。穏やかじゃないな」 「しょうがないんです。しょうがないんですよ。あの子は肝心なことでは何一つ言うことを聞きませんから。普段生意気だけど必要なことはちゃんと聞いてくれるNちゃんとは正反対。そういう子が一番困るんですよね。反抗期なら優しく受け止めてあげられますが、表面上はちゃんとお利巧な妹なんだから、始末に負えませんよね」 「その地下牢というのは、いったいどこにあるんだ?」 「別館の方です。地下室というからにはもちろん地下です」 「別館ってどんなところなんだ?」 「気になります?」 「今のところ、俺の行動範囲はこの館の中だけだから。一人の時は暇にもなるし、行ってないところがあるのは、単純に気になる」 「渡り廊下で病院と繋がってる古い建物です」 Iは壁の一方を指さした。確かに、そちらにはこの本館よりやや小ぶりな建物がもう一つある。と言ってもそちらも三階建てで十分すぎる程大きかったが。 「今度案内します。ただ、絶対に一人では行かないで下さい」 二人の妹を幽閉している建物についてIは僕にそう忠告した。二人の妹を幽閉しているのだからそれは立ち入られたくないだろうと僕は漠然と思い、それ以上の意味を考えることはなかった。 「おいサイトウ」 「なんだよ」 「まだ飯残ってる?」 「すぐ作れるよ。このただ飯食らいの大食らいが」 「もう一食分、いや俺は大食らいだから二食分こさえて、タッパーかなんかに詰めてくれ」 「なんでそんなことさせるんですか?」 Iは小首を傾げた。 「夜食だよ。Iはすぐ寝るけど俺は宵っ張りなんだ。で、遅くまで起きてると腹が減るし暇だから、夜食を食うのが楽しみなんだ」 「そうですか。……あの、隠れて動物を飼っている、とかではなくて?」 妙な勘の良さを発揮するIに、僕は何食わぬ様子で微笑んで見せる。 「ないない。だいたい、館から出られないのに、どうやって動物を見付けて来るっていうんだ?」 サイトウは言う通りにしてくれた。キッチンの方に引っ込むと、ものの三分や五分で戻って来て、エビチャーハンと揚げギョーザにからあげというメニューが山盛りに詰まったタッパーを持って来た。 「夕飯とは違うメニューだな」 「同じのが続くと嫌なんじゃねぇのか?」 「気が利くじゃん」 「オイラだってなぁ、仕事には妥協したくねぇーんだ。例え相手がおまえだとしてもなぁあ。キッチンの鍋に中華スープも用意しておいたから、火をかけて温めて食いやがれ。ビールは今から作って来るから、寝酒がしたけりゃ冷蔵庫から出して好きにしろってんだアホンダラ」 家事や料理は本当に好きでプライドもあるのだろうサイトウに礼を言って、タッパーを持って僕は部屋に引っ込んだ。 風呂に入れとサイトウに言われたので風呂に入り、リビングでテレビを見ながら眠くなるまでIの相手をして、十時前に彼女が眠る為に寝室に行くのを見届けた後、僕はサイトウに声を掛ける。 「おまえいつ寝てるの?」 「お嬢様が寝た後だよ。そしてお嬢様が起きる前に目を覚ますんだ。使用人として当然の心掛けだな」 サイトウはそう言って鼻を高くした。 「どうなんおまえ。その生活」 「別に? けっこう良いよ土日は自由にさせて貰えるし。金曜に土日の分も飯作っとく必要あるし、月曜は貯まった洗濯物と格闘だけどな。平日だってずっと仕事してなきゃダメな訳じゃないし、今日みたいに途中で遊んだり、ちょっと出かけるくらいのことは出来るんだ。仕事が回ってさえいればの話だけど、まあそこは慣れてるから余裕でこなせるもんな。病院で勤務してるお嬢様の方が、余程忙しく働いてるんじゃないのかな?」 「そのお嬢様はもう寝たぞ」 「だから何?」 「いやおまえは寝ないのかなって。それとも、俺が起きてる間は起きて世話してくれんのか?」 「寝るに決まってるだろうが! 誰がおまえの為なんかに!」 そう言ってサイトウはペラい体を翻してリビングを出ていく。二階にある自室に向かう為だろう。 僕はリビングでしばらくテレビを見て過ごした。そして十一時を回った頃、館の主人と使用人の部屋をそれぞれ回り、扉から明かりが漏れていないことを確認した後、二人の女学生が隠れている客室のクローゼットへ向かった。 両手にはサイトウが作った飯の入ったタッパーが握られている。客室の扉を開けると、クローゼットの中からすったもんだの声が聞こえて来た。 「だから! どうせニオイは漏れないとか、そういう問題じゃないんだってば! 品性だよ品性! 分かってんの?」 「漏らしてパンツ濡らす方が余程品性に悪いっつってんだよ! だいたい今は緊急事態だろうが! クローゼットの隅をちょっと濡らして来るくらいがなんだってんだよ!」 「何が悲しくてあんたの股から出たモノでアンモニア臭くなったクローゼットで過ごさなきゃいけないんだよ!」 「んなもんは漏らしたって同じことだろ!」 「漏らすな! こっそりトイレ行って来いっつってんの!」 「そういうことしたらバレるんだって何回言わせるんだよ!」 「じゃあ我慢しろ!」 「もう限界だ! 漏れる!」 「漏らすな!」 僕はクローゼットを開けて、気まずそうな顔でこちらを見上げる二人の女学生に、優しい表情で廊下の方を指さした。 「もう他の奴寝たから行ってくれば?」 Bはミサイルのような勢いでクローゼットから飛び出して、足音を激しく立てながら廊下を走って行った。 「こら! 足音建てて走るなバレるじゃん!」 Aは館中に響き渡るような声で叫び、自分も尿意を感じていたのだろう、Bを追い掛けて行った。……こいつらほっといたいつ見付かるか分からんな。 二人が戻って来て僕はタッパーに入ったエビチャーハンを差し出した。飲み物も箸も出す。箸でチャーハンというのも変だと文句を言いつつも、二人の食い盛りは猛然とチャーハンを食べ始めた。空腹だったのだろうしサイトウの飯は美味い。競い合うようにチャーハンギョーザから揚げを貪り終え、最後に温めて来た中華スープをそれぞれ一気飲みした二人に、僕は声を掛ける。 「友達を探しに行こう」 AとBは顔を見合わせた。 「Cという子がどこにいるのか聞き出して来た。別館の地下室だ。……助け出して、一緒にここを脱出しよう」 〇 別館に踏み入ると足元の床が軋む音を立てた。 古いのは本館も同じだったが、この別館は輪をかけて酷かった。床は変色していない場所の方が少ない程で、足元は一歩歩く事に軋むどころか深く沈み込むかのようだ。ビー玉でも転がしてやれば、重石を置いた方へと転がることだろう。照明は冷たい色をしていて明滅を繰り返していて、窓から覗く夜の闇は深く濃く、庭の様子は僅かも見えなくなっている。 「まるでお化け屋敷だな」 Bが言った。 「まるでじゃない。ここは伏魔殿なんだ。何が出て来てもおかしくないから、油断をするな」 僕は言った。Bは肩に担いだ竹刀を握り直し、Aはその背後に回り不安げにあたりを見回した。 長い廊下を三人で歩く。別館は入り組んでいた。何度も分かれ道に遭遇し、その度にあてもなくさ迷いながら、地下室へと続く階段を探していた。気か付けば同じ場所に何度も戻ってきたり、自分がいる場所が分からなくなったりする瞬間もある。 しかし何かの呪いによってそうなっている訳ではなさそうで、その内ぼんやりと全貌が浮かび上がって来る。階段自体は二か所程発見していたがいずれも二階へと続いているのみで、どうやら地下へと続く階段は別にあるらしかった。 それを探して部屋を一つ一つ見回っている内に、僕らは廊下に蹲る一人の老人を発見した。 六十や七十ではないだろう。かなりの高齢だ。そして全裸だった。前身は痩せこけていて、弛んだ皮があちこち垂れ下がり、浮かび上がった骨の周囲で深く暗い皺を刻んでいる。それでいて腹部は大きく膨らんでしまっていて、全体は茶黒い色をして日に焼けているというよりは薄汚れていた。それが全裸で四つん這いで蹲っているのだ。 老人は廊下を曲がった先にいる。僕達は角に身を隠しながら、老人について議論を交わした。 「……何だアレ? 気色悪いな」 Bがあけすけな口調で言った。 「お年寄りのことをそんな風に言わないの」 Aが言い返す。 「年寄だからキショいと言ってるんじゃない。男が裸で蹲ってるからそう言ってる」 「きっとボケてるんだよ。認知症だよ。それで別館に閉じ込められてるとかそんなんじゃない? 変なこと言わない方が良いよ絶対。聞こえたら面倒かもしれないよ?」 Aの言葉を無視してBは躊躇のない足取りで角から出て、その年寄りの方へと歩み寄った。 「あ、こら。何をするの?」 「……年寄が蹲ってるのに放っておけない。声かけて本来の寝床に返してやらなきゃ。それに、服も着せてやらなきゃ、年寄りが風邪引くのはまずいだろうが」 「この館の人間に見付かるのはまずいでしょ!」 「ボケてるっつったのはおまえだろ? 大丈夫だろ。それに親切にしてやったら、Cのいる地下室の場所を教えてくれるかもしれないだろ?」 「……俺らも行こう」 少し迷ったが僕はAにそう言った。あの老人が何者にせよ、ここで分断するのは良くないと思ったのだ。それにBの言うことにも理はあった。あれが何者だとしても、Bが真実善意で接しているのなら、悪いようにはならないかもしれない。 「おう爺さん。大丈夫か?」 老人は顔をあげない。 「裸でそんなとこいちゃ身体壊すぞ? あんたこの別館に住んでんのか? 一緒に部屋帰るぞ。服も着ないとな。歩けるのなら肩を貸すから」 「……ね」 「は? 何言ってんの?」 「去ね」 老人は顔をあげた。 想像した以上に老けた顔だった。皺と肝斑に埋もれた顔は、どこが目で鼻なのかすぐには判別出来ない程だった。弛んだ皮と皺の塊の中に、小さな両目と鼻と口が埋もれている。髪は辛うじて残ってはいたが、それらは手入れもされずに伸ばされ、落ち武者のように垂れ下がっている。近付いてみると分かったが、全体から酷い悪臭もした。 「去ね」 「いねって……帰れってことか? 悪いけどあたしらはこの別館に友達を探しに来たんだ。Cって言って、あたしらと同じくらいの歳の髪が長い子なんだけど……あんたなんか知らねぇ?」 「去ね」 「だからなんでだよ? 訳を教えてくれねぇと、はいそうですかって帰ることは出来ないっつの。あんたの方こそ部屋に帰れよ。風邪引くぞ?」 「去ね」 「去なねぇよ。まずはちゃんと話をしてくれよ。じいさん気は確かか? ボケてようがボケてまいが、まずあんたを部屋に帰すぞ。そんな這い蹲ってないで、今から肩を貸してやるから」 「去ねぇえええええ!」 館中に響き渡るような絶叫だった。老人がそれを発したことが信じられなくなるような、アタマが破裂しそうになる大音響。 それを放ちながら老人は四つん這いのまま、手足を激しく動かしてBの方へと走り寄って来た。そう、走ったのだ。そうとしか形容できない猛スピードでありBは思わず身を翻すのが精いっぱいだった。 Bに突進を躱された老人はその場で旋回して再びBの方へと突っ込んでいく。 「去ねぇええええええ!」 カサカサとすばしこく走り回る老人はまるで四本足の蜘蛛のようだった。 「避けろB! そしてこっちへ来い」 呆然とするBに僕は指示を放った。そしてAの肩を抱いて老人から距離を取らせる。Bは素晴らしい運動神経を発揮して突っ込んで来る老人をその場でジャンプして飛び越えると、僕らのいる方へ向かって走り寄って来た。 「去ねぇえええええええええええ!」 老人は手足をシャカシャカと動かしながら、四つん這いで突っ込んで来る。蜘蛛男だ。僕らは何が何だか分からないまま逃げ去るしかない。 老人に追い回されるまま僕らは別館の外へと出た。扉の外までは老人も追っては来ず、僕らは庭に蹲って息を整えることが出来た。 「なんだよあいつ……」 Bは呆然として立ち尽くしている。一番怖い思いをして一番運動しただろうに、息を切らした様子はない。 「いや知らないよ……。ぜぇ……ぜぇ……。迂闊に話しかけるんじゃないよあんな奴に」 Aは膝に手をやりながら息も絶え絶えに言った。 「膝に手を着くな。闘志が逃げる」 「うっさいなぁ。昔通ってた道場の師範みたいなことを抜かすんじゃないよ」 「あたしは今も通ってる。練習中も美しく逞しい姿でいるように心がければ、おのずと精神がそこに追いついて、技術的にも強くなる……とか何とか。よう分からん」 「よう分からんなら別に良いじゃん」 「分からんなりに、師範の言うことは聞くもんだ。どうしても受け入れがたいことなら別だけど、膝に手を着かない如きこと簡単に出来る」 「年寄は良く分からないこと言うよね。あたしあの師範嫌いだった。膝に手ぇ着こうが着くまいが、同じだけ素振りしてたら基本同じだけ強くなるんだから。次の練習の効率あげる為にも、休む時は休む姿勢で休ませて欲しいよ」 「二人は一緒に剣道やってたの?」 僕が尋ねると、Aは「まあね」と膝から手を上げながら言った。 「こいつは今もやってるけど。Bちゃんは中学女子剣道の全国優勝者なんだよ」 Bは「まあなー」とまんざらでもなさそうに肩に担いだ竹刀を握り直した。やけに度胸も体力もある少女だと思っていたが、なるほどそんな実績があったのか。 「それは頼もしいね。……で、これからどうしようか?」 「それはオジサンが考えてよ大人なんだから」 「俺は二十五歳だ」 「二十五歳なら考えてよ」 「あの爺さんの協力を得るのは無理だと言うことが分かった。なら、迂回しながら進むしか」 「あの爺さんってお化けなの?」 「分からない。ただ、恐ろしく邪魔なのは確かだろう」 「別に『去ね』っつわれても無視してりゃ良いんじゃねぇの?」 Bが言った。確かに、それは一度検討すべき考えかも知れない。 「意味不明だけど、ようするにあの爺さんは単なる高齢者に過ぎない訳だ。だったら別に四つん這いで突っ込んで来られても、困りはしないんじゃないかと思うんだよな。『おまえが去ね』っつっときゃ良いんじゃねぇの?」 「そう思うのならなんでさっき逃げたのよ?」 Aが白い目をBに向ける。 「そのオッサンが逃げろっつうからだろ」 「俺は二十五歳だ」 「こんなところでクダ巻いてないでもう一回館に突っ込もうぜ。案ずるより産むがやすし、きよし、たかしってな」 そう言って僕らの意見も求めることなく一人で別館へと戻って行くB。 「どう思う?」 Aは顔色を伺うように僕の方を見た。 「やすし、きよし、たかし、あつし、の方が良いと思う。もう一つくらい畳みかけても良いんじゃないかな?」 「あつしがあってもなくても零点だからジョークとしては」 「これ以上ここで作戦会議をしてもラチが開かないのは同意する。ただ、あの老人への対応については、もっとコンセンサスを取っておいた方が良いかもしれない」 「コンセンサスって何?」 「合意とか共有とか」 「オジサンは難しい言葉知ってんね」 「俺は二十五歳だ」 「もうしつこいよそれ」 「しつこいのはそっちだろう。自分が二十五歳になった時、オバサン呼ばわりされて良いのか? 人生は君が思うよりずっと長いし、歳は誰だって取るんだからな」 ムキになる僕を無視してAはBの後ろに続いて別館へと戻って行った。コンセンサスはどうしたんだと僕は言いたくなったが、Bは自分の考えで行動するしAは僕のようなオジサンより友人のBを頼りにしているようなので、僕の発言力はどうやらないに等しいようだ。 それでも大枠でBの方針(当たって砕けろ)に反意はない為、僕もまた彼女らの後に続いた。 〇 「あの爺さんがいた廊下の先に、階段があるような気がするんだよな」 先頭のBは言った。確かに、あの廊下の先は探索出来ていない数少ない場所の一つだ。 「もう一度あそこに行ってみようぜ。今度はいなくなってるかもしれない」 そんなことはなかった。老人は元居た廊下の先に元通りに蹲っている。身動ぎもしないのでその年老いた容姿から一見すると死んでいるかのようにも見えたが、しわがれた両手足を床に着け四つん這いの姿勢を保っていることだけがそれを否定していた。 「あれじゃ先に進めない」 Aは忌まわし気に言った。 「と言うかあの爺さんが階段を守ってるんじゃねぇのかな? だとしたら門番みたいなもんだよな」 「どうするのBちゃん?」 「さあ」 「さあって……」 「誰かが引き付けている間に別の誰かが奥へ進むとか? あたしおとり役やるからおまえら二人先に行ってくれよ」 「いや。分断は良くない」 僕はそこで口を挟んだ。 「それでCさんを救い出せたとしても、おとり役が行方不明になれば何の意味もない」 「じゃあどうするんだよ?」 Bは肩を竦めた。 「あの老人が門番のような役割を果たしているのは間違いないと思う。つまり、彼はどうにかして突破しなければならないということだ。一度僕に彼と話をさせて欲しい」 「協力は得られないっつったのはオッサンだろ?」 「ああそうとも俺はオッサンだ。だがオッサンなら君達小娘よりもあの爺さんに歳も近い。大人同士腹を割って話をすれば妥協点が見えて来るかも知れない」 そう言って僕は老人の前に出た。 老人はしわくちゃの顔を上げて行った。 「去ね」 「何故俺達を追い返そうとするのか、その理由を教えていただけませんか?」 「去ね」 「我々はここに浚われた少女を助けに来ています。あなたが邪悪な存在でないなら、協力するか、せめて帰らせようとする理由を仰ってください」 「去ね」 「まずはあなたのことを教えてください。何者なんですか? どうして裸なんです? ここに蹲っている意味は?」 「去ね」 「困っていることはありませんか? して欲しいことは? どうすれば我々を先に進ませてくださいますか? あなたもここに囚われているのなら、我々は協力することが出来ます。共にこの伏魔殿から脱出を……」 「おまえらにはどうすることも出来ん」 僕は目を見開いた。 初めて聞いた「去ね」以外の言葉だった。それを引き出したことは確かな進展だった。僕は思わず畳みかける。 「それはどうして?」 「おまえらには月を地上へ降ろせるか? 太陽を二つにすることは? 海を干上がらせたり、鳥のように空を飛んだりすることは出来るか?」 「出来ない」 「同じだ。誰にだって出来ないことはある。諦めて立ち去るしか出来ないことはある」 「何のために月を降ろすんだ? 何のために日を二つにするんだ? 本当にそれはしなければならないことなのか? 海の底にあるものを手にするのに、何も干上がらせる必要まではない。雲の上に行くのに自分の翼で羽ばたく必用もない。出来ないことと出来ることを受け入れて最善を考えるのが人の英知だ」 「去ね。それがおまえらの最善だ」 「牢の中の少女を見捨てて、館からも出られずにいることが?」 「そうだ」 「それを強要しようというなら、あなたはただの邪悪な存在で、我々の敵だ」 「去ね」 「帰らない。そこをどけ」 「去ねぇええええええ!」 老人は激しく手足を動かしながら僕の方へと突っ込んできた。 「逃げるぞ!」 僕は二人の少女に呼び掛けて、身を翻して廊下を走り始めた。 「結局何も進展しねぇじゃねぇか!」 Bは喚くように言った。 「でも会話は成立してたよ? それは進歩じゃない?」 Aは走りながら声を発した。 「交渉決裂してんじゃねぇか!」 「そうだけど」 「もうあいつ敵なんだろう?」 「Cちゃんを見捨てろって言ってるからね。味方な訳ないよ」 「ならもう遠慮することはねぇな!」 Bはその場で身を翻して竹刀を構える。そして脚や腰の位置までも整えて、老人のことを待ち構える姿勢を取った。 そのただ住まいに隙も無駄もなく剣客のような凄みを感じた。中学時代全国優勝したという実績が紛い物でないことを一目に示す研ぎ澄まされた構えであり迫力があった。この構えから放たれる一撃で、Bは並み居るライバルをことごとく打倒して来たのだろう。 しかしだとしても、これからやろうとしていることをBにやらせる訳にはいかないのだ。 「おいBやめろ!」 僕はその場で立ち止まってBの方に歩み寄り、首根っこを掴もうとして、払いのけられる。 「良いから任せてくれ。あたしは負けない」 「勝つとか負けるとかじゃない!」 「うるせぇ! 黙って見てろ!」 ビリビリと鼓膜に響く声だった。「去ねぇえええ!」と叫びながら蜘蛛のように広げた手足で走り寄って来る老人に、Bは磨き抜かれた足裁きで飛び掛かり竹刀を振り下ろした。 「メェエエン!」 竹刀が蜘蛛男の顔面を捉えた。老人の柔らかな骨が砕けた音がして、竹刀が顔面の深くまでめり込んでいく。 老人はあっけなくその場を吹っ飛ばされた。見るからに軽い体重は竹刀の一撃に耐えられず宙を舞い、背中を床に打ち付けながら着地した。 「勝った!」 Aが興奮したように叫んだ。 その時だった。 老人が元々いた場所に、真っ黒な穴がぽかりと開いているのが見えた。 ほんの微かな光すらない、一目見て異常な穴だった。どんなに深く暗い穴でも、底が見えないだけならともかく、蛍光に照らされているのなら側面がどうなっているかくらいは見えはするだろう。しかしその穴は覗いてもただただ暗闇が広がっているだけで、あらゆる光を拒絶するか、或いは飲み込み続けてでもいるかのようだった。 「去ね」 老人は言った。背中を床に着けた状態から、身を起こしてカサカサと穴の方へと走り寄って行く。 「去ねぇえええええ!」 床の穴が動いた。暗闇は先ほどまで老人が走っていたのと同じくらいのスピードで、面打ちを放ったBの元へと到来する。 Bはその場から離れようとするが、間に合わない。 足のつま先が僅かに穴に降れた。穴はブラックホールか何かのようにBの肉体を捉え、引き込んでいく。悲鳴をあげながらみるみる吸い込まれて行くBの手を、老人のかさついた手が掴んだ。 「Bちゃん!」 Aが叫んで穴に駆け寄った。「去ね!」とそんなAを叱責する老人自身、手を繋いだBに引っ張られるようにしてその腕を暗闇の中に飲み込まれてしまう。 「去ねぇええええ! ああああああぁ!」 唐突に穴が閉じた。円形の闇は渦を巻くようにして面積を減じ、ぷつんと音を立てるようにしてその場から消え失せる。そして閉じられた闇の中に食いちぎられるようにして、老人の腕が飲み込まれて消えた。 老人は腕を抑えて蹲る。 夥しい量の血が流れ、床を真っ赤に染める。 Aが悲鳴をあげる。僕もまた呆然とする。Bがいなくなった。老人はそれを助けようとして腕を失った。何が何だか分からない。老人は敵ではなかったのか? 蹲り泣きじゃくっているAの背後に、暗闇の穴が再び顕現するのが見えた。 「去ねぇえええええ!」 老人はAに突進して穴から突き飛ばした。そして穴を塞ぐようにしてその上に覆いかぶさる。そして片腕を失ったまま先ほどまでと同じ姿勢を取り、移動する穴を塞ぎ続ける為だろう、三本になった手足でカサカサと走り始めた。 「去ねぇえええええああああああ!」 血液を撒き散らしながら金切り声をあげる老人。僕はAの手を取り、老人から、老人が身を挺して隠している暗闇の穴から逃げる為に走り始めた。 「ちょっとどこへ行くの!」 Aが泣き叫んだ。 「逃げるんだ! あんな穴に飲み込まれたらどうなるか」 「Bちゃんはどうするんだよ!」 「今は考えるな!」 「離して! 今すぐBちゃんを助けに行く!」 僕は無視してAの腕を引きながら廊下を走り抜け、別館の外へと逃げ延びた。 〇 四つん這いになった蜘蛛男はあの暗い穴を腹の下に覆い隠していた。 あの穴に誰も落ちることがないよう、塞いでくれていたのだ。 老人は善意の存在だった。今の僕達にはそれが分かる。何せ彼は穴を塞いでいたのみならず、穴へと吸い込まれたBのことを助けようとした。助けようと差し込んだ腕を、閉じられた穴にもぎ取られ失ったのだ。そうなる可能性に気付いていただろうにそれでも老人はBに手を差し伸べた。そして片腕を失い鮮血を撒き散らしながらも、それ以上の被害を出さない為に再び穴の上に覆いかぶさった。 「……じゃあなんであの蜘蛛男は私達を追い掛けて来たの?」 空き部屋のクローゼットの中で、打ちひしがれた様子でAは膝を抱え込んでいた。 「追い掛けて来たのはあの老人じゃない。床に空いた穴が俺達を追い掛けて来ていたんだ。老人は常に穴を塞いでいなければならないから、穴が動くと老人も同じように動かなければならない。それが、俺達にはまるで老人が追いかけてきているかのように見えていたんだ」 「あいつ良い奴なの?」 「そういうことになる」 「それなのにBちゃんはそいつを引っ叩いちゃって、その所為で闇に呑まれたんだ」 「……そうとも言える」 「バカじゃん」 Aは自分の膝に顔を押し付けるようにして泣き始めた。全身からはあらゆる力が失われており、最早立ち上がるだけの気力もなさそうだ。 無理もないことだ。僕は思う。これくらいの年頃の子供は友達同士の結びつきが強い。AとBの二人には傍目に見て分かる程強い絆を感じたし、特にAはBを相当信頼し、どこかでは寄りかかっていた。それが仇となり今のAは完全に塞ぎ込んでしまっていた。 「あいつバカなんだよ昔っから。考えずに突っ走るから碌な結果にならないんだ。勘弁してよ。振り回されるだけならいくらでもしてくれて構わないけど、あんな訳の分からない穴の中に落ちることないじゃん」 「……彼女は彼女なりに最善を尽くしたんだ。それに、それが功を奏する場合だってあったんだろう。あの向こう見ずなのは彼女の長所でもあったんじゃないか?」 「だからっていなくなったらダメに決まってんじゃん!」 吠え叫びAは慟哭の声をあげた。声が枯れる程泣いて泣き叫んで、最後には息を荒くしながら蹲った。深い悲しみはどれほど激しく泣いても発散されることはなく、少女の華奢な体は絶望の淵に沈みこんでいた。 掛ける言葉もなく僕はAの傍に座り込んだ。彼女にはケアが必要で、いつどんなことをAが言い出したとしても、しっかりとカウンセリングしてあげなければならなかった。その為に誰かが傍にいるべきだった。しかしAがそれ以上言葉を発することはなく、ただクローゼットの中に横たわり続け、気が付けば気絶したように目を閉じて意識をうしなっていた。 僕はその場を立ち上がり自室へと向かった。 明日サイトウが起こしに来た時のことを考えると部屋にいるべきだった。僕は自室のベッドに寝転んで木製の天井を見詰めた。いつも見ている木の模様が普段以上に気味が悪く思える。Bを穴の底に失った瞬間を繰り返し思い浮かべ、この館で自分の置かれた状況について何度も反芻している内に、ヘドロの中に沈み込むような眠りが僕にも訪れた。 〇 翌朝。 サイトウが起こしに来たので重い体を引きずってベッドから這い出した。いつものように軽い嫌味を飛ばして来るサイトウの相手をする気にもなれないまま、憂鬱な気分のままIの待つ朝食の席に着いた。 「……今朝は具合が悪そうですね」 Iが心配したように言った。 「少し具合が悪くてね」 「診察しましょうか?」 「これから出勤なんだろう?」 「Mくんの体調の方が優先ですよ。それに、病院なんてどれだけ遅刻したってどうでも良いのです」 「気持ちだけで十分だよ。ありがとう」 「そうですか……」 Iは小さく頷くと、食器を置いてから吐き気を感じているかのように口元に手をやった。 「……かくいうわたしも、今朝は少し身体がおかしいんですよね」 「そうなのか?」 「ええ。寝ている間に何か変なものを飲み込んじゃったみたいな感じなんです」 「ネズミや虫が口に這入り込む程には、サイトウはこの館の掃除をサボってはいないと思うけれど」 「そんなものは出ませんし飲みません。それよりもっと大きな……しかも中でものすごく暴れているような……うぅっ」 Iは口元に手をやったままそっぽを向くと、食堂の床に向けて喉から嘔吐のような声を発した。 「うぅうう……うおえぇええええ!」 信じられない程大きなものをIは吐き出した。 それは実寸大の少女の姿をしていた。最初あまり手入れされていない金髪をまとった端正な頭が口から出たかと思ったら、服をまとった肩が現れ、竹刀を握った両腕が現れ次に胴体、腰、脚という順にIの喉奥からまろび出していく。 どう考えてもそんな大きなものがIの身体の中に入っている訳がなかったし、Iの喉や口を通過するはずがなかった。しかし少女はIの身体から吐き出して床に転がった。 「……なんだ、これ」 吐き出された少女はBだった。呆然とした様子でIの方を、そして僕の方をじっと見つめている。胃の中から出て来た訳でない証拠に胃液や消化中の食べ物など、つまり吐しゃ物に塗れてはいなかったが、代わりに唾液らしき透明な汁が体の各所に付着していた。 「ようやく暗闇から出て来られたかと思ったら……。どういうことだ? なんか身体が唾臭ぇぞ?」 「臭いとか言わないでくださいよぅ」 Iが微かに唇を尖らせた。 「ちゃんと毎日三回歯を磨いているんですよ? 歯医者さんにも良く通っていて、口内環境はとても良いと褒められるんです。だからわたしのお口を通過したからって、そんなには臭くないはずですよ」 「知ったことじゃない。おまえは誰だ」 「この館の主人で、Iと申します」 Iは穏やかな笑みと共に頭を下げた。 「あなたはどちら様ですか? わたしの体内から出て来たということは、館のどこかで穴に落ちたんですよね?」 Bは一瞬だけ僕の方に視線をやったかと思ったら、腕を組んで沈黙した。 「あれは侵入者を捕える罠なのです。あれに捕まったということは、館に侵入して来たことを示しています。でもどうやって? 内側から誰かが招かない限り館には入れないはずです。もちろんわたしは招いていません。NちゃんかCちゃん、あなたはどちらのお客様ですか?」 Bは何も答えない。黙秘を貫くつもりのようだ。自分の身を守る為というよりも、僕のことを気遣っているのだろう。或いはクローゼットに隠れているAを守る為か。 「おいこらぁ侵入者! お嬢様の質問にこったえやがれい!」 サイトウが息巻いてBの方に掴み掛った。 「おっまえが黙っているつもりでもなぁ! こっちはどうとでもおまえを白状させられるんだぞぅ! 痛い思いをしたくなかったらなぁ、とっとと聞かれたことに答えろってんだぁ!」 三流の悪役のような調子でBに凄むサイトウ。Bはと言えば、サイトウのペラペラの肉体に絶句して目を丸くしてはいるが、しかし口を開くことはなくだんまりを決め込んでいる。 「お嬢様。ご安心ください。オイラがどんな手を使ってでも、この女から全部白状させてみせます」 サイトウはぐへへへへと雑魚キャラのような笑い声を発しながら、ペラペラの紙で出来た腕でBに殴りかかった。しかしそのパンチをBは座ったまま最低限度の動きで回避し、手にしていた竹刀でサイトウの胴体の中央を突いた。 「ぐああああ!」 強烈な突きは簡単にサイトウのペラい身体に空洞を穿った。Bは竹刀を引くと繰り返しサイトウに穴を開けていく。サイトウは悲鳴をあげながら一反木綿のようになってしゅるしゅるとBから逃げまどい、天井近くの壁に張り付いてガタガタ震え始めた。 「さ、サイトウさんサイトウさん。大丈夫ですか?」 Iがおろおろとした様子でサイトウに声を掛けた。 「こ、この女デキますぜ、お嬢様」 「あ、あとでセロテープで修理をしてあげます」 「ありがとうございます。しかし、その女はいったいどうします? 簡単に口を割りそうじゃないですぜ」 「ううーん……確かに今のを考えなかったとしても、ものすごく口が堅そうな女の子なんですよねぇ。もちろんその気になれば色々方法はある訳ですが、こうして捕まえた訳ですしそれほど緊急を要するとは思えません。とりあえず今のところは地下牢にでも放り込んで、話は後で、勤務が終わってからでもじっくりと聞かせて貰うことにしましょうか」 「放り込めると思うか?」 Bは立ち上がり、堂々とした足取りで食堂を出ようとする。 「どこに行くんですか?」 「こんな館からはさっさとおさらばだ!」 Bは速足から全力疾走に切り替えて食堂の出口へと向かう。 「させませんよ。やんはるざなもろいやじゅぶにぐらすやんやむ。ざなとりあえひねぼるごうぞやんやむ。ふぐずにむらごるそどむじゅぶやんやむざなとりあやんやむじゅぶにぐらす」 呪文を唱えるとIの手のひらに一体の小さな人形が出現する。それは手のひらに乗るようなサイズにデフォルメされたBそのもので、手のひらを歩くBの人形の脚をIは掴んだ。 それだけでIはその場で脚を取られたように立ち止まった。IはBの人形を持ち上げて自分の胸元まで引き寄せる。するとBはその場で宙を浮いてIの近くまで糸で引かれたように飛んで来て、膝に頭をぶつけてから床に転げ落ちた。 「おっと。これは失礼。痛かったらごめんなさいね」 Bは口をぱくぱくしながらIの方を見詰めている。あれほど気丈だったBだが人知を超えた力に翻弄され顔を青くしていた。 「……おまえ。なんなんだ? 魔女か? 悪魔か?」 「人間ですよ? Mくんはそう言ってくれました。他人にはない知覚を持っていて、それに伴って他人にはない技術を体得していますが、それでもベースはただの人間です」 「ただの人間のつもりなら、こんな力で人の自由を奪う真似をするな」 「それはごめんなさい。でもね、この館はわたしの心と身体そのものなんです。そんなところに勝手に踏み入ったあなたの方にも、やはり落ち度はあるとは思いませんか?」 Iが人形の身体を握り締めると、Bもまた全身を万力で締め付けられたかのように、全身を抱きしめながらその場で悶え苦しみ始めた。 Bは沈黙を守っている。歯を食いしばって握りつぶされる握力に耐えている。 「どうやったってあなたはこの館から出られません。ですが、それはあなたの絶望を意味しないんですよ。だってわたしはとっても優しいから。とってもとっても優しいのだから。あなたが素直になってわたしに協力してわたしを好きになってわたしの言うことを聞いてくれるなら、あなたは苦しまないし楽しくなれるしいっぱいいっぱい可愛がってあげます。素敵なお部屋に住まわせて毎日髪を梳かして豪華な家具に囲まれて友達だって用意してあげます。捕まって不貞腐れた気持ちになるのは分かりますし別に怒ったりしないんですけど、でもやろうと思えばいつだって握り潰して火にくべて捨てられるってことは、どうか忘れないでくださいね」 そこまで言い終えると、Iは情けを掛けたというより握力が切れた様子で、Bの人形を握る手を開いた。 Bは口をぱくぱくと開閉しながら床に尻餅を着いて項垂れていた。体を震わせることはしないまでも、混乱した様子でIに恐れを成している。如何な剣道全国王者と言えども、奇妙な呪術を使いこの世ならざる現象を巻き起こすIの前では、手も足も出ないと言った様子だった。 「あなたにはこれをあげましょう」 そういうとIの手のひらを食い破るようにして、細い針金の塊のようなものが出現した。それは破れたIの皮膚からにじみ出る血液を纏いながら、黒い針金で出来たような手足を動かしてIの手のひらを這い回っている。中央には一対の大きな眼球のある虫の顔のような機関があり、そこから長い手足が生えている様は気味の悪い魔界の虫のようだった。 「ずきずき虫と言います。あなたが余計なことをしたらあなたの体内でこの子が暴れます。この子が暴れるととても痛いのです。だからこの子に逆らうことは出来ません。何でも白状させられますしどんな言うことでも聞かせられます。良いですね?」 IはBに向けてずきずき虫を指で弾いた。ずきずき虫はBの体内に入り込もうと皮膚に食らいついたが、Bはそれを素早く摘まみ上げて、握りつぶした。 「ああっ。なんてことを!」 Iは目に涙を浮かべて拳を握り締めた。 「大切なペットなのにぃいいい……酷いです! 酷いです! 酷いですぅう!」 言いながらIは手にしたBの人形を繰り返し握り締めた。Bはその度に悲鳴をあげ悶絶し、その場でのた打ち回った。 「……おいI。そろそろやめろ」 僕はIに制止を呼び掛けた。Iは目を赤くしながら僕の方を見詰め、幼い子供のような声で訴えかけた。 「でも……でもだってこの子、この子が……。この子がわたしのずきずき虫を……」 「ペットなんだろうがあんなものに噛み付かれたら抵抗して当然だ。それにそうやって何度も人形を使っていたぶるのも目に余る」 「だってぇ。だってぇ……」 「見たところ君はこの子よりも遥かに強いんだろう? 弱い者いじめをするような奴を、僕が好きになることはない」 「うぅううう……」 Iは不平を堪えるようにうめき声を発すると、爪を噛みながら立ち上がり人形を持ってサイトウを呼びよせた。 サイトウは主人の呼び声に答えてしゅるしゅると降り立った。IはBの人形をサイトウに手渡すと、興味を失くしたかのように人形からもB自身からも視線を切った。 「人形はあなたに預けます。この女の子は地下牢に閉じ込めておきましょう」 「分かりましたお嬢様」 「それが終わったら出勤の前に体の修理をしてあげますからね。後は……」 Iは生身のBに歩み寄って、手にしている竹刀を取り上げた。 「あ……」 無抵抗にBは大切な竹刀を手放してしまった。単純な腕力で細身のIがBに勝てるとは思えないので、繰り返し痛めつけられたBがそれだけ力を失っていたということだろう。 「これはわたしの趣味じゃないですね」 「……待て。それをどうするんだ?」 僕は鋭い目でIの方を見詰めた。 「……捨てたりしませんよ。物置に放り込んでおくだけです」 「僕に預けて欲しい」 「それはどうして?」 「別に。庭を散歩する予定があるから、ついでに物置に片付けるだけだよ」 「……そうですか。ではお願いします」 僕はIから竹刀を受け取った。Bは呆然としたままそれを見送り、そのまま為されるがまま、サイトウに引っ張られて食堂の外へと連れ出されて行った。 〇 やがてIが出勤し、僕は館へと取り残された。 最初にやることは決まっていた。サイトウの隙を突いてクローゼットに足を運び、竹刀を見せながらBの生存をAに伝える。、Aは一瞬だけ表情を明るくし胸を深く深く撫でおろしたが、しかし状況はそれほど好転していないことも確かであり、すぐに沈痛な様子に戻った。 「……Bちゃんまで閉じ込められて、私はいったいどうすれば良いの?」 「俺がいる」 「オジサン頼りにならないんだもん」 「俺は二十五歳だ。とは言え、君よりも十年近くは長く生きている。必ず何とかして見せるから」 そう言い残して僕はBとCの救出のヒントを求めて館の捜索を始めた。サイトウは訝しむようにすれ違う度に僕を詰問したが、そもそも僕がこの館から脱出を図っているのは知れたことであり、今更本気で咎めるような真似はサイトウもして来なかった。 僕は庭を出て考え事をしながら池の周りを歩いた。大きな池があり自然も豊かで、囚われてさえいなければ風情あるとても良い庭だったろう。囚われているのが自分一人なら、どうとでもなると考えられる程度には僕は楽天的な性質だ。しかし、罪のない少女が二人迷い込み、一人は拷問を受け地下牢に閉じ込められもう一人はそのことを憂えてクローゼットで泣いていると思うと、とても能天気な気分にはなれなかった。 そんな時だった。 庭の隅の犬小屋から、飼われている犬が飛び出して来て僕の方へと駆け出して来た。 犬は身長百五十から百六十センチメートル、体毛は頭にのみ生えていて後ろ足のみで歩行していた。毛の生えていない全身は薄橙色で、犬だから当たり前だが服を纏っていなかった。犬に対する知識のない僕でもそれがメスであることは一目でわかる。何故ならおっぱいが大きく陰茎が備わっていないからだ。顔立ちだって完全にメスのそれだ。 いつもの犬の姿だった。僕を見る度激しく吠え掛かり、泣きそうな目でしがみ付いて来る。何故そんな悲痛な様子なのかは良く分からなかったが、見ていると無性に悲しい気持ちになって来る。そんな犬だ。 そしてその犬は首から鎖を外されていた。サイトウが庭を散歩させた後で締め忘れでもしたのだろうか? 「ワン! ワンワンワンワン! キャイン!」 犬は前足で僕の腕を掴むと、自分の住まう犬小屋まで引っ張った。いたいけな犬が僕を引っ張るのを振り払う程僕は動物愛護の精神に乏しい訳ではなくされるがままだった。 犬小屋はでかかった。高さだけで二メートルあり内部も人間が簡単に、それも何人も寝そべることが出来そうなほど広かった。そしてその奥に何か銀色に輝くものが転がっていた。 「キャイン。クウゥウン。クウウウン……」 犬は前足で輝くものを拾い上げ、僕に渡した。 それは何本かの鍵が付いた鍵束だった。 『地下牢』と書かれたプレートの付けられたその鍵に僕は目を見張る。 これは絶対に必要なものだった。地下室に辿り着けたとしても、鍵がなければ囚われている者を救い出すことは出来ない。 犬小屋の中で肩を震わせている僕に、背後から声を掛けたものがいた。 「なあ。オイラさっき鍵一束失くしたんだけど、おまえなんか知らねぇ?」 サイトウだった。体に空いた穴はセロテープで修復されている。僕は手に入れた鍵束を懐に隠してから答えた。 「いや、知らんな。どこの鍵だ?」 「地下牢だよ。さっき竹刀の女の子を地下牢に入れた後、事務室に鍵を返そうとしてなくなってるのに気づいたんだ」 「そりゃどっかに落としたんだろうな」 「だと思う。ただ鍵をポケットに持ったまま犬の散歩とかしたもんだから、落とした可能性のある場所がかなり広くて、庭とか全部探さなきゃいけなくて、困ってるんだ」 「なら僕も協力してやるよ。庭を探せば良いんだな?」 「ああ頼む。言っとくけど、地下牢の鍵なんか手に入れても、何一つ脱出の助けにはならんからな。そもそもおまえ、別館の地下室には絶対辿り付けねぇし」 「絶対とは限らないだろう」 「いや絶対だ。別にオイラおまえのこと好きじゃないけど死んでほしい訳じゃないから教えとくけど、別館の地下室の階段の前にはお嬢様の仕掛けたトラップがあって、近付くと闇に飲み込まれてお嬢様の中に転送されるようになってるから」 「お嬢様の中ってどこだよ?」 「人間の心にある暗闇の中だよ」 そう言い残してサイトウは去って行った。 「……ありがとうな」 残された僕は鍵束をくれた犬の頭を優しく撫でた。犬は初めて見せる笑顔を浮かべて僕の胸の中にじゃれついて来た。 地下牢の鍵を手に入れた。これは進展と言って良いはずだった。僕はAの心を少しでも明るくする為に、鍵束を見せてやろうと空き部屋のクローゼットへ足を運んだ。 僕はAのいる客室の扉を開けた。 僕は絶句した。 十歳くらいの女の子が、部屋の真ん中に立ち尽くしていた。 人形のような綺麗な女の子だった。そしてIによく似ていた。特に目が大きく黒目がちなのはそっくりだった。しかし似ているのは大きさと形だけで、宝石のように無邪気に輝いているIの瞳とは対照的に、女の子の瞳は黒飴のように光沢がなく感情を読み取らせない。鼻や口などのパーツも整っており、肌もIに似て真っ白だった。 僕はIに妹がいたという話を思い出していた。一人は地下牢に幽閉され一人は館のどこかで過ごしている。そしてどういう訳か僕には会いたがらない。これがその妹なのか? 問題はこの部屋のクローゼットの中にAがいるということだ。女の子はそれを見たのか? 見ていないのか? とにかく対話をして探りを入れなければと思い、とっかかりになりそうなことを口にしようとしたその時だった。 「M先生」 女の子が言った。 先生? 僕の職業は教師だとIは言っていた。しかも小学校に勤務していると。 「君は誰だ?」 「Nです」 「Nちゃんというんだね。すまない、信じられないかもしれないが、僕は今記憶を失っているんだ」 「はあ」 「君は僕の生徒なのかい?」 「はい」 「君はIの妹かな?」 「そうです」 「この部屋には何をしに来たのかな?」 「先生に会いに」 「僕に?」 「はい。……C姉さまが色々教えてくださいました」 Nは黒飴のような瞳で僕の方をじっと見上げる。背丈は百四十センチもないくらいなので、アタマ二つ分ほどの違いがある。僕は威圧感を与えないように身を屈め視線を合わせた。 「時間はもうそれほどないようです。今夜、先生と共に地下室へ行きます」 「……待ってくれ。話が良く分からない」 「あなたの話をしたら信用出来るとC姉さまは仰いました。必要なのは地下牢の鍵と、階段を守っている穴をどうするかということです。そしてその二つの問題については先生に全て解決させるべきだとC姉さまは仰います」 「順を追って話したい。君は味方なのか?」 「はい」 「信じるよ。それで、僕は鍵と穴をどうにかすれば良いのか?」 「はい」 「僕でなければならないのか?」 「はい」 「それは何故だ?」 「わたしがコソコソと嗅ぎまわればI姉さまに見付かってしまうからです。先生なら上手くやってくれるはずです」 「鍵ならもうある」 僕は懐から鍵束を取り出してNに見せた。 「後は穴をどうするかどうかだな。……大丈夫、必ず僕が何か考えて……」 「穴ならわたしがどうにかする」 クローゼットが開いて、中からAが顔を出した。 「……A。君は……」 「このNという子とはもう話したよ。と言っても何言ってるのか良く分からなかったけど、味方だってことは伝わって来た」 「なら何故クローゼットを閉めて隠れていたんだ?」 「部屋の扉が開いて入って来るのがMさんとは限らないじゃん。だから一応隠れていたの。でもオジサンだって分かったから、開けた」 「そうか。それで、穴をどうにかするというのは?」 「私がおとりになる」 Aは決意を感じさせる表情で言った。 「あの穴はそんなに早くないし、一度に一人しか飲み込めないくらいの大きさしかない。だから誰かがおとりになって引き付ければ、他の何人かは地下室に辿り着けるはず」 「……君は捕まるぞ?」 「そうならないようにする。でもそうなっても構わない。Bちゃんだって自分がおとりになると言っていた。私はBちゃんを助けたい。それにCちゃんにだって何か不思議な力があるから、あの子を助け出せればこの館の主人であるIとかいう奴にだって対抗できるはず」 「危険な役割だ。俺がやろう。いくらなんでも、子供を犠牲にする訳には……」 「逆だよ。Mさんが頼りになるからMさんが先に進むの。地下室でCちゃんとBちゃんを助けてそこから首尾良く脱出する為には、私みたいな小娘より二十五歳のオジサンが向かった方が絶対良いはず」 Aは腹をくくった様子だった。それは大切な友達を助ける為に出来ることは全てやり遂げるというしなやかな覚悟だった。いつもBの後ろを歩きBを失って泣きじゃくっていたこの女の子にも、確かな勇気と決意が備わっていることを僕は知った。 「……分かった。でも出来れば捕まらないで欲しい。君が犠牲になっては意味がない。BもCさんという女の子だって、君が囚われたまま脱出することを良しとしないだろう。君が捕まれば脱出までのハードルが大きく一つ増えてしまうと分かって欲しい」 こういう言い方の方がAは納得してくれるだろう。 「分かってる。そもそも、私だって別に自己犠牲はごめんだよ」 「それで良い」 「行くのは今夜です。姉さまとサイトウが寝静まった後、この部屋に集合します」 Nが言った。 「そしてM先生」 「なんだ?」 「頭をこちらに向けてください」 僕は言われるがままNに自分の頭を差し出した。 Nは白く細い腕を僕のアタマに伸ばし、内部へすっと差し込んだ。 僕は絶句していた。頭皮も頭蓋骨もすり抜けてNの腕が僕の頭の中へと沈み込んでいる。Nの腕は僕の頭蓋が蜃気楼か何かのように振る舞っているが、僕のアタマは確かに実在しているし腕を内部へ差し込むことなど出来るはずがない。 「……I姉さまがいじった痕跡はありません」 Nは言った。 「どうやら本当にただの記憶喪失のようです」 「何をやって……」 「元に戻しておきます」 Nは指先を動かして僕の頭の中で何かをやった。 その時だった。 僕の頭の中で何かがかちりと繋がり、そこに激しい電流が流れたような感覚があった。僕の脳裏を様々な記憶が駆け巡り瞬いては消え、今まで失われていたものがどっと押し寄せて、僕の頭の中を蹂躙した。 記憶が戻る時は、蠟燭の火が消えるように、静かにそしてあっけなく、記憶を失っている自分を失うものだと思っていた。しかし実際に起きたのはどこか遠くから巨大なものが流れ込み、全身を飲み込んでいくかのような激しい感覚だった。しかもそれらは微かな漏れもなく僕の頭の中に押し込まれ留まって行くのだ。 何もかもが思い出され僕は冷や汗をかきながらその場に座り込んだ。そして肩を震わせながらNを見上げると、ふっと口元に笑みを浮かべながら僕は立ち上がった。 「……Uとは仲良く出来てるか」 Nは鉄面皮のまま、しかし教師である僕には動揺しているのが丸出しの声で答えた。 「……いいえ」 「そうか。でも大丈夫。先生がいて、おまえが頑張れば、きっと仲直りが出来る」 「先生が助けようとした男の子、助かりました。安全なところに流れ着いたようです」 それを聞いて、僕は目の前が明るくなったような気持ちになった。 「そうか。……良かった。途中で手放してしまったから、どうなったものかと」 僕は胸を撫でおろす。そして様々なことに対する煮え切らない想いを抱えながら天を仰ぎ、歯を食いしばりながら僕は決意した。 ……必ず決着をつける。 この館とも、Iとも、自分自身の過去の全てとも。 〇 霊感少女I 〇 小学生の頃、初めて会った時から、Iは変わった女の子だった。 人に見えないものが見える。何もないはずの場所を指さして、そこに何かがいてこちらを見詰めているという。人が感じられないものを感じる。何でもないはずの場所に怯えて、ここから離れなきゃいけないと泣き喚く。家の地下室に化け物が住んでいると主張して、その化け物から呪術を教わっているのだと得意げに語る。 それ自体は大した問題ではない。 作り話やホラを吹くなんて誰もがやっていることだし、霊感持ちを自称する者もいくらでもいる。いちいち相手をしなければ良いし、時に情けで話を聞いてやるのも、昨日見たテレビや天気の話をするのとそう変わらない。小学生同士のやり取りなんてそもそもが四方山話ばかりなのだ。テキトウに相槌を打ってやると驚くほど綺麗な笑い方をするので、僕としては相手をしてやっても構わない。 I自身は大人しくて気が弱くたいていは一人でボーっとしているような子供で、背が高くてひょろりと痩せていて肌が白くて目が大きく、鼻筋がすっと通っている。顔は綺麗だ。トロい性格に思われていて遊びに誘われることは多くはないが、本当は勉強だって良く出来るし本を良く読む為か色んなことを良く知っている。家は大きな病院だから金持ちで色んなオモチャを持っていて、遊びに行くとお手伝いさんがお菓子やジュースをたくさん出してくれる。 皆もっとIのことを構えば良いのにと思うこともある。Iの家に行ってボードゲームやカードゲームでたくさん遊び、広い庭を散歩して帰った後、僕は自分の母親にそんな話をする。 周りの子はまだ小学生だからIの価値に気が付かないのだ、と母親は言う。 Iちゃんは綺麗な子だしおっとりしてアタマも良い。家だってお金持ちで将来だって有望だろう。大人に近付くにつれ皆そういう子の価値に誰もが勘付くけれど、でも小学生の内は活発で声の大きい子ばかりが目立つし、人気だってそちらに流れてしまう。だからこそMがIちゃんの良さに気付いているのなら、今の内からちゃんと優しく接しておけば、将来Iちゃんがもっと綺麗になった時、回りよりずっと優位でいられるかもしれない。 だが中学に上がっても、特にIが持て囃されるということは起こらなかった。 Iはまるで小学生の時のまま成長した。姿形だけはどんどん綺麗になって行ったのだけれど、相変わらず霊感持ちを自称するのはやめなかった。普段は大人しく教室の隅でぼうとしているが、いざ話し掛ければ、紙を切り抜いて作った人間に言葉を話させる実験をしているとか、本当に効果のある呪いの人形を作っているとか、そんな話ばかりして周りを呆れさせるのだ。 「わたしの話をちゃんと聞いてくれるのはMくんだけです」 Iはそう言って僕に話しかけて来た。 「そんな訳ない、嘘ばかり吐くなって、他の皆はそんなことばかり。誰も話を聞いてくれないし、わたしに嫌な態度を取るんで」 「嘘を吐かれるのは誰だって嫌なもんだ。そして一度嘘だと思われたものを覆すのも難しい。彼らだって悪気がある訳じゃないからね」 「でもMくんは信じてくれます」 「俺だって信じられないような話ばかりだと思っているよ。けれど、君の話は信じられずとも、君自身のことは信じられるように思うんだ」 僕が言うとIは目を丸くしてきょとんと小首を傾げる。 「君が嘘を吐いているなら俺はそれを見抜くと思うよ? 君程無邪気で純粋な人を僕は知らないし。少なくとも、君は君にとっての真実を語っているし、そして嘘を吐いている訳じゃないなら、聞いていて嫌な気持ちにもならないものさ」 「良く分かりません。とどのつまり、Mくんはわたしの言うことを信じているんですか? いないんですか?」 「君のことは信じているけれど、君の話について言うなら保留かな?」 「保留って……」 「不思議な話をする女の子がいる。その子は少なくとも意図して嘘を吐いてはいない。俺が分かるのはそれだけさ。いや、それだって何も確かなことという訳じゃない。ただ、俺が思うのは、今分からないことを今強引に結論を出す必要なんて、どこにもないということだ。そうやって逸った結論を出せば物事を見誤るし、分からないことは分からないことのままで踏み込まず、ただ目の前で君が話していることを真っさらに聞く。そういう態度が今の俺に出来る最善だと思っているだけのことさ」 「なんだか難しいです」 「簡単なことを難しく言ったのさ。ようするに、俺は何にも分かっちゃいないってことさ」 分かる日が割とすぐにやって来る。 クラスの女子の一人が死んだ。ある朝起きるとそいつのアタマがぐしゃりと潰されていて、落ちた石榴のようになったそれはベッドの周囲を赤黒く汚していた。 異常な出来事だった。ハンマーで打ち付けても銃で撃ち抜いてもそんな風にはならない。まるで巨人の腕で握りつぶしたかのようなその状態を、科学的に説明付けることは極めて困難だ。人為的に行われたとすれば、何かとてつもなく大がかりな重機でも用いたということになるが、そんなものが使われた痕跡はどこにもないし、そんなことをする必要はどこにもない。彼女と共に寝起きしている家族は一通り事情を聴取されたようだが、殺人の容疑を掛けようにも方法が分からず不可能犯罪であると言う他ない。 「わたしがやりました」 Iは屈託のない笑顔で報告して来る。 「わたしの靴を隠したり、ノートを破いたりして来る人だったから」 Iはそのことを僕以外にも吹聴したが信じる者はいなかった。嘘だろうけど何となく不気味だと思う者や、不謹慎だと怒る者は数多かったが、Iが呪力を用いてその女子生徒を殺害したのだと本気で考える者はいなかった。ただ自称霊感娘が周囲で起きた怪奇現象に乗じて自身の特異性をアピールしているのだと考えるのに留まった訳だ。女生徒の頭が潰れていたという異常には目を瞑り、ただIについてのみ現実的に考えて現実的な結論を出したのだ。この時点ではまだ。 僕はと言えば、やはり結論を保留した。 Iは嘘を吐いているかもしれないし、妄想に囚われているかもしれないし、はたまた本当に女生徒を殺したのかもしれない。 考えても分からない以上は分からないままで良い。分からないというのも一つの答えなのだ。 続けて一人の女生徒が頭に穴が空いて死亡し、次にまた一人の女生徒が手足をあちこち捻じ曲げられて死亡し、さらに続けてもう一人が水の中でもないのに鼻と口に水が詰まって窒息死したが、僕はあくまでの結論は保留し続けた。 保留したまま、僕は中学を卒業し、Iと同じ高校に入学していた。 その頃になると僕はIと少し疎遠になっていた。既にIはクラスどころか地域のあらゆる大人や子供から恐れられ、遠巻きにされていた。僕もまた自分がクラスメイトを殺したと言い張るIと距離を置くようになっていた。それが妄想にせよ事実にせよ、嫌いだから殺してやったと得意げに語るIの人となりに、疑問を抱くようになったのだ。 Iは僕に親しく接しようと声を掛け続けたが、僕はあまり相手をしなくなった。僕が相手をしなければしない程にIは躍起になって僕に付きまとい、自宅の前で待ち伏せをしたり夜中に電話をかけ続けたりと言った行動にも出るようになったが、僕が彼女の想いに答えることはなかった。 周囲では変わらず人が死に続けていた。風の噂で、Iが妙な呪文を唱えた瞬間に近くを走っていた自動車が突然進路を変えて、Iにちょっかいを掛けていた男子に突っ込んで来たという話も聞いた。Iと折り合いの悪かった担任教師は病に伏せり一年で二度入れ替わっていて、Iより成績の良かったクラスの秀才はある日突如として発狂しコンパスで自分の眼球をめった刺しにして、勉強の出来ない状況へと追いやられた。 学校を休む者が増えた。教室には僕とIの他には数名の生徒が残るのみだった。ある日の放課後僕はIを校庭に呼び出した。 「なんですか?」 Iは喜色満面にそこに現れた。僕に呼び出された、相手にされたという事実そのものを喜んでいる様子だった。僕はそんなIに冷ややかな声で話し掛けた。 「今君の周りで起きているたくさんの死を、止めて見せることは君には出来るか?」 「できます。だって、それはわたしが引き起こしていることなのですから」 「だったら止めて見て欲しい」 「条件があります」 「なんだよ?」 「わたしの恋人になってください」 Iは花が咲くような笑顔を浮かべてそう言った。 僕は静かに首を振った。 「そんな理由で誰かと付き合うことなどできはしない」 「振りでも良いんです。振りでもなんでも、また昔のように仲良く一緒に過ごしていれば、Mくんは絶対にわたしを好きになってくれますから」 「それで死者がいなくなるのなら、自分を犠牲にする価値はあるのかもしれない」 「その通りです。もうそう考えて貰って構いません。だからわたしと」 「でも僕には恋人がいる」 「知ってます」 「裏切ることは出来ない。他の条件を考えてくれ」 「他の条件なんてありません」 Iは小学生の頃と何も変わらない幼い表情で頬を膨らませた。 「どうしてわたしと付き合うのが嫌なんですか? わたしの持つ力はもう理解してくださってますよね? わたしはこれをいくらでもMくんの為に使うことが出来るんですよ? それなのにどうして」 「俺は今の自分に満足している。問題があれば自分で解決出来る。君を利用してまで排除しなければならない相手なんていないし、そんなことを続ければ俺自身が悪霊と化すだけだ」 「ではわたしは悪霊ですか? 悪魔ですか? それとも魔女?」 そう問われ、僕は少し考えてみる。そして首を振った。 「いや、君は人間だ。悪霊ではないし魔女でも悪魔でもない」 「そうなんですか? もうとっくに、自分は人間じゃないものだと」 「いや人間だ。特別な存在でも何でもない。ただの人間だ」 「わたしが藁人形に釘を打ち突ければ人が死ぬんですよ? わたしが呪文を唱えれば人が死ぬんですよ? 死霊を操ることも死神と話すことも怪物を作り出してけしかけることも自由自在。それでもわたしは特別ではないし、魔女でも悪魔でもなくて、ただの人だと」 「そのとおりだ。特別な存在なんていない」 「嬉しい」 Iは頬に手を当てて笑った。 「Mくんは、やっぱりわたしの信じたMくんです。ずっとずっと大好きです」 「人間だから人間と同じルールで生きなければならない。人知を超えた力があるからと、それを用いて人を殺めれば殺人だ。君はそんなことをしてはいけないし、これまでにしたことを裁かれなければならない」 「進んで裁かれたがる悪党はいません。逃れられる内は逃れます。悪いことをしても捕まらないなら悪いことをし続けます。それも人間だとは思いませんか?」 「軽蔑するよ」 僕は背を向けてその場を立ち去ろうとした。 「どこにいくんですか?」 「俺は君の恋人にいなることは出来ない。それで交渉は決裂したんだろう?」 「これから先もたくさんの人が死にますよ? それでも良いんですか?」 「俺は俺に出来る範囲のことで君を止めようとした。上手く行かなかったのは残念だけれど、仕方がないことでもある。俺はもう、君から手を引くよ」 当時の僕は本当にそう考えていた。自分は正義の味方ではないし、世界の平和を守る役割を担っている訳でもない。人並に善意も正義感もあるから自分の出来る範囲のことでIを止めようと試みはしたが、しかし自分の心に嘘を吐くだけならいざ知らず、恋人の心を傷つけてまでIと付き合う振りをするというのは、自分自身の許容量を超えていると思ったのだ。 「待って」 Iは言った。 一度だけ振り向くことにした僕が目にしたのは、どこからともなく取り出したナイフの刃の方を持ち、持ち手を僕の方に向けるIの方だった。 「これでわたしを刺せば、殺人は止まりますよ?」 黒いナイフだった。刃は闇そのものを切り出して作られたかのような漆黒で、見ているだけでぞっとする程禍々しい。 「刺せと言うのか?」 「はい。Mくんになら殺されても構いません。これで刺されればわたしは霞のようにこの世から消えますから殺人罪になることもありませんし、何一つ迷惑をかけずにただわたしが死んで、周囲には平和な日常だけが残ります」 どうしてIがそんなことを言ったのか、僕は今でも良く分からない。 Iは僕を諦めたのか。諦めたから死ぬことにして、死ぬなら僕に殺されようとしたのか。それとも本当は自分のして来たことに罪悪感なんてものを覚えていたのか。それともただの何の意味もない戯れで、自分の用意したシチュエーションに酔っているだけなのか。 そのいずれもが関係しているような気がするし、でもそのすべてをかき集めても、この時のIの心境は説明出来ないように僕は思うのだ。ただその時の僕はIの気持ちが理解できず、また信用も出来ず、だから反射的に思った疑問をただ口にしていた。次のように。 「本気で言っているのか?」 「本気です。Mくんは昔わたしが嘘を吐くなら見抜けると言っていました」 「嘘を吐いているかということと、本気であるかどうかというのは別だ。君は本当に自分が刺されるだなんて思っちゃいないし、刺されて死ぬというのがどういうことかも分かっていない。それにそもそも、君は今まで生きて来て、あらゆることに対して一度でも本気になったことなんてあるのか?」 「M君に対する気持ちだけは、本気です」 Iは真っすぐな目をして言った。 「それに本気でなくただの戯れで言っているのだと思うのならば、それに乗じてわたしを殺せば良いんです。そしたら後からでも本気になりますから」 僕はナイフを受け取らず、首を横に振って答えた。 「さっきも言っただろう。俺は君を止める為に、自分の出来る範囲のことしかしないんだ。例え罪に問われないのだとしても、人殺しになるのなんてごめん被る」 今の僕はかつての僕のこの考えを支持出来ない。その時のIを止められるとしたら僕だったが、それは僕が望んでそうなった訳でもないし、僕に何ら過失があった訳でもない。しかし責任や義務のあるなしに関わらず、僕が何もしないことで誰から責められることがなかったとしても、それでも僕は僕自身の意思でIを止めることに必死になるべきだった。本気でIに向き合うべきだったのだ。 「わたしはM君に対してこんなに本気なのに、Mくんはわたしに対してまるで本気になってくれないんですね?」 Iは目に涙を貯めてナイフを自分の首に当てた。 「こうして命まで差し出しているのに、Mくんはもう、わたしのことなんて何の興味もない」 「ならそれは気を引く為にやっているのか? だとしたら、猶更ごめんだ」 「もういい!」 Iはナイフを消滅させて、泣きながらその場を立ち去って行った。 僕もまたその場から立ち去った。校門の前で待たせていた恋人のRに声を掛け、肩を並べて共に下校をし始めた。 「どうだった?」 「ダメだった」 「そう」 「本当に残念だよ」 「ねぇM。あなたはIさんに殺される人たちを救いたいの? それとも、Iさんのことを救いたいの?」 僕はどきりとしてRの顔を見た。 RはIとは真逆のタイプだった。髪を淡い色に染めて化粧をして活発で声が大きくクラスでも目立つ存在だった。それでいて良く気が付く性格で一緒にいると年齢以上に大人びた面があることが分かって来る。大人しい性格の黒髪の美人で一見するとしとやかに見えるが、関りを持つ程に幼く自分勝手な内面が露呈するIとは対照的だ。 「もちろんそれは両方だと思うよ。だって上手く行けば最終的にそうなったものね。でも、あの恐ろしいIさんと直接対決をしてまで止めようとしたのは、ねぇ、本当はどっちの為なの?」 「本当に考える必要のある疑問なのかな、それは?」 「考えなくちゃいけないってことは、Mくんは少なくとも、Iさんのことなんてどうでも良いとまでは思っていないということじゃないの?」 「何が言いたい?」 「幼馴染なんだよね?」 「そうだけど、でも君とは関係ない」 「本当に?」 「ああ。でも、そうだな。君に言われて気が付いた俺はIのことも助けたかったのかもしれない。Iのことを救いたかったのかもしれない」 「そう……」 Rは目を伏せて、少し肩を落として漏らすように言った。 「もしそのことをIさんに伝えていれば、結果はまた少し変わったかもしれないね」 翌日、Rは学校に来なかった。 行方不明になっているのだという。僕は一日だけ何もしない日を作った。結論を先延ばしにする日を作ったのだ。ひょっこりRが家に帰って来て僕の傍に戻って来ることはありうると思ったのだ。楽観的に、希望的にそう考えていた訳ではなく、全てのことにIが絡んでいるとは限らないという当然のことを考慮しただけのことだった。 だがその翌日、そのまた翌日と日が経つにつれ、僕は異常を感じてIのことを再び呼び出した。 「Rさんには何もしてないですよ」 Iは聞かれてもいないのに、宝石のような黒い瞳でじっと僕を見据えながら言った。 「嘘だ」 「嘘じゃありません」 「君が嘘を吐くなら、僕は見抜ける理由がある。だからこれは嘘だ」 「決め付けは良くないです」 「なあ。頼む。Rのことを返してくれ。君のどんな望みだって叶えて良い。恋人の振りをすうることだってできる。お願いだ」 Iは頬を愉悦の形に捻じ曲げて僕を見据えると、邪悪な微笑みを浮かべたまま、これまでに聞いたことも無いような冷酷な声で言った。 「Rさんが帰って来ることはありません。しかし、死なせないことなら出来ます」 「どうすれば?」 「一つ。あなたは生涯この街から出てはいけません。わたしの目の届くところから離れないで。そうすればいつかわたしにも真実あなたの心を手にするチャンスが巡ってくるかもしれない。そうでなくとも、そうした夢を見続けることは出来る」 「叶えよう」 「一つ。週に一回わたしの家の庭に遊びに来てください。最近、犬を飼い始めたのでその世話を手伝って欲しいのです。一緒に躾をしたり、餌を与えたり、庭を散歩させたりしてください。犬はきっとあなたに懐いてくれると思います」 「叶えよう」 「最後にもう一つ」 Iはそっと僕の肩を掴み、顔をじっと近付けた。 「キスをして」 僕は彼女の望みを叶えた。 〇 平成十六年十月某日 〇 「去ね」 四つん這いの……と言っても四肢の一つは失われているが……蜘蛛男は鋭い視線を上向けて僕達に言った。 彼の立ちふさがる長い廊下の先には地下室に続く階段があるはずだった。僕達三人はそこで蜘蛛男の老人と対峙している。AはBの竹刀をお守りのように体の前で握り締め、Nはいつものぼんやりした無表情で僕の後ろに隠れていた。 「立ち去る訳には行かない」 僕は言った。 「去ね」 「それはその穴に僕らが落ちてしまうからか? どっちにしろこの館はIの腹中、穴に落ちてIに捕まったとしても同じこと。だったら穴を乗り越えて地下室のBとCを救い出し、共に館を脱出するまでだ」 「去ね」 「僕達はリスクを冒さなければならない身分なんだ」 「この先には誰も進ません」 「それはどうして?」 「去ね」 「父さまはあくまで、わたし達を叔父様に会わせたくないのですね」 Nが言った。頷くでもなく、蜘蛛男はNの方をじっと見据えた。 「父さまって……どういうこと?」 Aが言った。Nは何も答えずに、ぼんやりとした様子で老人の方を見詰めている。Aは改めて、より強い口調でNに尋ねた。 「ねぇちょっと。あれってあんたのお父さんなの?」 「……そうです」 億劫そうにNは答えた。 「嘘? だったらあれ、元人間な訳?」 「今も人間です」 「はあ? 化け物にしか見えないんだけど」 「四つん這いで全裸の高齢者というだけで、殊更僕達と違ったところがある訳ではないさ」 僕は言った。そしてそうであるならば、蜘蛛男とは対峙のしようがある。 「あなたには、あなたの足元の穴をある程度抑え込む力があるように見える。でなければ穴の上に四つん這いで這っているあなた自身が穴に飲み込まれてしまうのだから。違いますか?」 「違わない」 老人は答える。 「僕らがそこを通り抜けるまでの間、それを封じ込めておけるほどの力ではない?」 「その通りだ。私の持つ霊力はIやZは愚かCにも劣る。私に出来るのは、穴の探知能力を制限し、余程近付かなければ貴様らを追えないようにしておくこと。そして穴の移動速度を制限すること、この二つだ」 「これから僕達の内の一人が穴のおとりになる。その間に他の二人が地下室に突入する。あなたにはその手助けをしていただきたい」 「去ね」 「何と言われようと僕達はそれをやる。あなたが選ぶのは、僕達を見殺しにするかしないかだ」 「地下室に行ってはならん」 「Nさんがあなたの娘なら、その姉であるCさんもそうなんじゃないか? 何故娘を助けようとする者の侵入を阻む?」 「Zには誰も会わせる訳には行かない」 「Zというのは?」 「気の触れた我が弟だ。幼い頃から人に見えないものを見て、人に感じられないものを感じ取れた。呪術のような力も使った。私もIも奴から呪力を教わった。だがZの持つ力は強大過ぎた。それを恐れた私と我が両親は、Zを地下牢に閉じ込めたのだ」 「その力というのは、IやNが霊感と呼んでいる力か?」 「そうだ。Iが生まれる頃にはZは既に地下牢にいた。しかしIはそんなZを見つけ出しその力に魅入られた。地下室に忍び込むIに、Zは自身の持つ霊術を一つ一つ伝授して行った。Iには才能があった。またIは勉強熱心でアタマも良かった。Iは今尚Zから呪力を学んでいる。その力はZには及ばないがこの館と一族の全てを支配する程だ。だがIを封じ込めようとしても、Zの時のような助力は得られなかった」 「Zを封じ込められたのには、誰かの助力があった?」 「そうだ」 「それは誰の?」 「話せば長くなる。だだ、霊力を持つのは何も我が一族だけではない。なかったというべきか」 「……もう良いよ。話しても無駄だって」 Aは言った。 「とにかく地下に行かなきゃBちゃんもCちゃんも助けられないし、Cちゃんがいなかったら私達もこの館から出られないんでしょう? Zとかいう奴が地下にいて、会うのがまずいんだとしてもさ。こっちはただでさえ命懸けなんだから同じことだよ」 「違いない。僕達はリスクを避けていられるような身分ではないんだ。この館にI以上に厄介な奴がいるんだとしても、脱出の為に対峙しなければならないのなら、対峙するだけだ」 「誰が貴様らの心配をした?」 老人は低い声で言う。 「地下室に降りて良いのはIだけだ。IだけがZに対抗できる。まだしもC程度の呪力があるならともかくとして、無力な貴様らがZの牢の前に現れれば、奴は必ず……」 「行こう、Mさん」 Aは踏み込んだ。 「作戦通り、私がおとりになるから」 「……よし。行け!」 僕の号令と共にAが老人に突っ込んだ。そうと分かって目を凝らすと、老人の足元で真っ黒な穴が出現し、渦を巻きながらAの方へと移動し始めるのが見える。 「去ね」 老人は穴を覆い隠すようにして三本になった手足で走り出す。 「去ねぇええええぁあああああ!」 Aはそんな老人の……老人の足元の穴のおとりになる。 Aはフットワークも良かった。また度胸もあった。機敏に走り回り穴の注意を引き付けると、ギリギリのところで適切な距離を保ちながら、上手く穴を僕達の脇へと誘導して行く。その足裁きは竹刀で老人と戦ったBにも良く似ていた。それは剣道の足裁きなのだ。 「行って!」 「助かる!」 僕はNの腕を引いて穴と老人の隣を擦り抜けた。穴はAと僕らのどちらを追ったものか一瞬だけ逡巡するような気配も見せたが、Aがその足裁きで穴のぎりぎりまで踏み込んだことで、そちらに向かって行った。 「A! 無理はするな!」 「楽勝だっての! つか……わたしも行く!」 Aは穴から十分な距離を取ると、身を翻して自身を追い掛けて来る穴の方へと身体を向けた。そしてあろうことか全力で穴の方へと走り出していく。 十分な助走を伴いつつ、Aは穴と老人の前で思い切り良く跳躍した。 そして老人の背後へと着地する。 「やったっ!」 Aは喜色満面に穴と老人を飛び越え、僕達の方へ走り寄りこちらに合流して来る。 「出来た出来た! Bちゃんと同じことが、私にも出来た!」 Aは興奮した様子だった。 「私、昔はBちゃんに出来たことは何でも出来たんだ! 剣道だって同じくらいの強さだったし、勉強でも何でもBちゃんに負けてなかったんだ! 勝ってもなかったけど、同じくらいではあったんだよ! 今だって全部が全部負けてる訳じゃないんだよ!」 穴と老人から逃れ、地下室へ向かう為に、僕らは廊下を走り続けている。 「本当は自分がおとりになれるかどうかずっと迷ってたんだ! 捕まるかどうじゃない。自分にそんな勇気があるか分からなかった。でもBちゃんがわたしの立場なら絶対に同じことをしたし、Bちゃんを助ける為にそれが出来ないなら、わたしはずっとBちゃんに勝てないままだもんね。勝てないのはしょうがないけど、それでも胸を張れないのは、嫌だもんね」 Aは涙ぐんですらいる。僕には分からない強い感情が、これから助けようとしているBに対して、Aの中ではわだかまっているかのようだった。親友に対する感情として、それは決して悪いものではないのだろうと僕は思う。何故なら、AはBを想うことで、自分でも出来るか分からなかった危険な役割をやり遂げたのだから。 「奴らを突破出来たのは君のお陰だ。感謝するよ」 「うんっ。早くBちゃんを助けに行こう!」 Aの表情は自信に満ち溢れていた。 〇 走り続けている内に、やがて僕らは地下への階段を発見した。 立ち止まった僕とAに、Nが一人息を切らしながら遅れて到着した。小学五年生で手足も短いNに、成人男性と体力のある部類の女子高生の二人に速度を合わせるのは過酷だっただろう。増してやNは運動能力が高い少女ではない。 「大丈夫あんた?」 Aが心配げに聞いた。 「…………」 Nは汗だくの無表情をAの方に向けるだけで何も言わない。しかしその鉄面皮には抗議の意思があることが担任教師であった僕には分かった。そんな速く走られたら困ります、と。 「良く付いて来てくれた。頑張ったな」 「……はあ」 「おまえの姉さんを助ける為だ。もう少し頑張ってくれ」 「はい」 階段は埃めいていた。別館は全体が掃除が行き届いていなかったが、その階段は輪をかけて汚く積み上がった埃にIのものらしき足跡が残されている程だった。僕達は鼻をつまむようにして一歩ずつそこを降りていく。 下まで降りると、錆び臭い鉄の扉が三人の前に現れた。 「開けるぞ」 僕が言って冷たい取っ手を掴んだ。想像した通りに重く軋みをあげるそれを力一杯押し開き、地下牢の部屋へと侵入した。 冷たい照明が降り注ぐ白い部屋だった。 天井が低い。背の高い僕などはジャンプすれば頭が天井に届くのではないかと思える程だ。床も壁も天井も白かったがそこに清潔感はなく、各所に砂埃が積もっていて、小学生のNが箒を持って掃き掃除をすれば、塵取りがすぐに一杯になりそうだ。 細長い廊下のようになっている部屋の壁面に、鉄製の檻が三つ程立ち並んでいる。縦に伸びた鉄製の格子は経年劣化を感じさせる赤錆色だ。扉の開く音を聞いた為か、檻の一つから飛び付くようにしてBが現れ格子にしがみ付いた。 「助けに来てくれたのかー!」 「Bちゃん!」 Aが感動した様子でBのしがみ付く格子に飛びついた。そして格子越しに言葉を交わし互いに涙ぐむ。感動の再会と言ったシーン。 「……姉さま」 Nが淡々とした足取りでその隣の格子に歩み寄った。中には正座で座り込むCがいて、前に現れた僕とNを見て息を吐き出した。 「……来て下さったのですね」 「はい」 僕は懐から犬から貰った地下牢の鍵を取り出すと、Cのいる牢の扉に差し込んだ。軋んだ声を立てつつ扉は開かれ、立ち上がったCが中から出て来た。 「一緒に逃げてくださいますか?」 「はい」 「わたしと共に、母様の家へ?」 「……はい。わたしはC姉さまに付いて行きます」 「Iとは袂を分かつのか。結構なことだ」 僕は半ば真剣に、半ば皮肉っぽい口調でそう言った。Nが微かに怯えを孕んだ表情で僕を見上げる。僕はCの方を真剣な表情で見つめた。 「ひさしぶりだね、Cさん」 「Mさん……」 「何? 会ったことあんのおまえら?」 格子にしがみ付きながら、Bが尋ねた。 「ええ。……姉さまのお友達でしたから。まだNちゃんよりも幼かった頃のわたしは、良くこの人に可愛がってもらったものです」 「君ならば、Nに正しい力の使い方を教えてあげられるのかな?」 僕が尋ねると、Cは硬く頷いて僕を見上げた。 「約束します」 「そうか分かった」 「…………もう二度と人を傷付けるようなことはわたしはしません」 Nは珍しく、饒舌に語り始めた。 「わたしはUさんを深く傷つけ怒らせました。たくさんの人の命を奪ってしまったからです。それは償い切れるものではありませんが、しかし同じことを繰り返すことは決してしません。その為にわたしはI姉さまの元から離れることを決めたのです。C姉さまと共に生きることを決めたのです」 「立派な決意だ。Iの奴から離れ、霊能力に頼らずに小学生としての色んなことを乗り越えられるようにまずなって、既に犯してしまった過ちに対しては、出来ることをじっくり考えよう」 僕は言った。そしてNの頭を強く掴んだ。軽く撫でてやると、Nはほっとしたような息を吐き出してから、不要な力の抜けた返事をした。 「……はい」 「Uと仲直りがしたいなら、先生がその橋渡しをしてやっても良い」 「それは……」 「初めて出来たお友達なんでしょう?」 Cは言った。 「お言葉に甘えれば良いと思います。大丈夫、許されるかは分かりませんが、それでもきっと、友達に戻ってくださいます」 「そうでしょうか」 「あなたの決意が本物ならば。それがUさんに伝われば。大丈夫です」 「……先公と生徒で何か大事な話してるみたいだけどさぁ」 Bが鉄格子をギシギシと鳴らした。 「いい加減あたしのことも助けてくれよぉ。確かにCを助けるのが一番大事なのは分かるけどさぁ、あたしだって結構怖い想いしてたんだぞぉ」 僕はBを牢から出した。BとAは硬く抱き合った後、二人でCのところに向かって、今度は三人で抱き合った。 「助けに来てくださってありがとうございます」 例を言うCに、BとAがそれぞれ笑顔を返す。 「気にすんな」 「当然だよ」 「そして申し訳ありません。大変なことに巻き込んでしまいました。わたしには、お二人の他に頼れる人がいなかったのです」 「友達なんだから頼って当然だ。巻き込んで当然だ。後から気付いたことだけど、あたし自身前におまえに助けて貰ったことがあるらしい。あのじゃんけんオヤジのこと、夢じゃなかったんだろ?」 Bが尋ねると、Cは微かに頷いた。 「おまえにはどうやらマジでレーカンっつか、何か不思議な力みたいなもんがあるらしい。この館に住まうおまえの姉ちゃんはそれを悪用する悪者で、あたしらはそこからおまえを助けにやって来たって訳だ。さっさとズラかろう。おまえにならそれが出来るんだろう」 「ええ。すぐにでも」 僕達は揃って地下室を出ようとした。軋みをあげる扉を開け放ち、そこで、Aがまだ牢の前にいることに気が付いた。 「おいA。どうしたんだ?」 Bが言う。Aは吸い寄せられるようにして、地下室の最も奥にある牢の方へと向かっている。 「おいA! どうしたんだ!」 ふらふらと奥の牢へと向かうAに、Cが追いすがり優しくその手を掴んだ。 「……Cちゃん?」 「危ないところでした」 CはそっとAを牢の方から引き離し、肩を掴んで扉の方へと共に歩き出す。 「ねぇCちゃん。今私、なんかぼーっとして、気が付いたらあっちの方の方へと……」 「大丈夫。大丈夫です。何も起きていません。何も起こらずに済んだのです。あなたは助かりました。そしてごめんなさい。こうもギリギリになってしまったのは、わたしの油断であり責任です」 気持ち速足にAを連れ出してから、Cは地下室の扉をしっかりと閉じた。 「……奥の牢にいたのがZとかいう奴?」 階段を上りながら、Aは言った。 「その通りです。何十年もこの館に閉じ込められている、わたし達の叔父にあたります」 「Cちゃんは、会ったことがあるの?」 「ありません」 「でもそいつが霊感ある人に霊能力を教えているんでしょう?」 「わたしの力はI姉さまから教わったものです。今では袂を分かちましたが、昔は毎日のように手ほどきを受けていたのですよ」 「でも同じ地下室に閉じ込められていたんでしょう?」 「隣の牢に閉じ込められていましたが、話しかけては来ませんでした。と言うより声を発することもあの人は出来なくなっています。身動きを取ることも。対話が出来るのはI姉さまくらいのものでしょうね」 階段を上り終えて別館の外に出る。蜘蛛男は廊下から消えていた。 「出口はどっちだ?」 逸るような声を出すBに、Cは「その前に」と一呼吸置いた。 「犬小屋の方に向かいましょう。助けてあげなければいけません」 「犬小屋? 犬をどうするんだ?」 「連れて帰ります」 「はあ? 何おまえ犬好きなの?」 「犬ではありませんよ。人間です」 Cを除く全員が顔を見合わせた。Nすら目を丸くしてCの方を見上げていた。 「思い込ませられていたのです。人を人ではなく犬であるように。そして犬としての扱いをされ続けていました。わたしもまた術中にあり、最近までそれに気付かなかった。犬だと思って餌をあげたり、アタマを撫でたりしたこともあります」 「どういうことだ?」 僕はCに言った。 「僕はIの奴に毎週あの犬に会いに来るように言われているんだ。実は恋人の命を預かられてしまっていて……もう何年も会っていない。本当に生きているかどうかも分からない。ただ生きていると言われてしまっては、逆らうことも出来ず、言われるがままあの犬に会いに来てIと一緒に世話をさせられる」 「もう何年になりますか?」 「十年近い。高校の時からだからね。お陰で地元の大学を出て地元に就職する羽目になった。いや別にそれは良いんだ。ただIがどうして僕にそんなことをするのか、その意図するところが分からなくて……」 「あなたは何も悪くありません」 「……どういうことだ?」 「あなたは出来る限りのことをしていたと思います。あなたがI姉さまに逆らえば、あなたの恋人が死ぬというのは事実です。だからあなたはRさんを守っていたのです。そしてそれはRさんにも伝わっていました。高校の頃に出会い恋仲になったんですよね? それを守る為に人生を大きく犠牲にし十年近くこの館に通い続けたあなたの愛を、わたしは尊敬します」 訳の分からないことを言うCを先頭に僕達は犬小屋の前に来た。犬小屋にはもちろん犬がいて僕らの方を見上げて、後ろ足で立って走り寄って来た。その背の高さはBよりは低いがAやCとは同じくらいでNよりはかなり高い。成人女性の平均くらいの体格で体毛が頭にしかない裸の犬に、Cは離しかけた。 「ようやくあなたを助けてあげられますね」 犬はきょとんと小首を傾げた。 「今まで良く耐えて来ました。希望を失わずにいられたあなたをわたしは尊敬します。あなたは立派です。これからたくさんの幸せを掴んでください」 犬はみるみると目に涙を貯める。 「確認します。Mさん、あなたはRさんを未だ愛していますか?」 「愛している。だから彼女を守る為に毎週この館に犬の世話をしに来たんだ」 僕は答える。 「そうですか。ではRさん、深呼吸をして」 犬は言われるがままに深呼吸をした。 「では呪いを解きます。まなとにあふれえろこうぞざなりあ。まるかふやんやむじゅぶにぐらす。ぼるごうぞやどにんれやんやむ。あみやくすざなとりあやんやむじゅぶにぐらす!」 僕は気が付いた。 目の前にいるのは犬ではなかった。薄汚れやつれ疲弊した表情を浮かべていたが、それは確かに恋人のRだった。体はやせ細り服を着ることさえ許されず、首には太い首輪が巻かれていていたが、当時より確かに成長し大人になった僕の恋人がそこにいた。 「M!」 Rは僕の胸に飛び込んで来る。僕はそれを抱きしめながら、アタマの奥から走馬灯のように押し寄せる記憶に圧倒されていた。 僕が世話をさせられていたのは犬ではなかった。それは恋人のRだったのだ。僕はIの呪いによってRを犬を勘違いさせられその世話をさせられていた。 Rは確かに僕に助けを求めていた。自分を犬と思い込む僕に怒り狂いすり寄り懇願し助けを求め、目の前で激しく慟哭した。そしてRは諦めず絶望せず、毎週のように訪れる僕を待ちわびては、何度も何度でも僕に助けを求め続けた。 そう。助けを求めていたのだ。僕はそれに気付くことなく、ただ訳も分からず犬の世話をさせられることに辟易するだけだった。 Iがそれを見て笑っていた。苦しみ嘆き泣き喚くRをおもしろがって笑っていた。そうすることで、Iは僕をRに奪われたことへの留飲を下げていたのだ。それはおぞましく邪悪で全存在を賭けて憎むべき許しがたい所業だった。 「あああ! あああああ! うあああああ!」 僕は声をあげた。激しい怒りと嘆きの声だった。Iのことを許せなかった。僕自身のことも許せなかった。これほど残酷な目に彼女を合わせたこの世界の全てを深く憎んだ。 涙が溢れ出していた。Rは僕を抱きしめ続けている。僕が今感じている苦しみなどRが感じた気が狂う程長い地獄の日々と比べれば些末なものだ。全身全霊を賭けてRに償うことを僕は誓っている。僕はRの全身を抱きしめ返した。 「……大丈夫ですか?」 Cが僕の肩を手にやった。 「……大丈夫だ。もう、泣いてる場合じゃない」 僕は言った。そしてRの方を見て頷きあった。 「逃げよう、M」 「もちろんだ。R。今まで待たせてしまって本当にごめん。助けを求める声に答えられなくて本当にごめん。もう大丈夫だから」 「信じてた」 Rは再び僕の胸に顔を埋めた。 「…………なんて酷い奴なんだ。そのIっていうのは」 Bは怒りに震えていた。 「本当だよ。どうしてそんな恐ろしいことが出来るっていうの?」 Aは身を竦ませている。 「……そういう人なのです。自分のことを何か特別な存在だと思い込んでいる。人間の理の外にいて、法や倫理の頭上で悪魔の如く振る舞えると信じている。いいえ、そうとでも思わなければ、自分のして来たことや、自分の持っている力に耐えられないんでしょうね」 「こんなことが出来て、平気でこんなことを実行するなら、それは単なる悪魔だよ」 Aは言った。Cは首を縦に振る。 「そうです。姉さまは悪魔です。そしてわたしやNも、いつでも悪魔になりうるんです。そうならない為にわたしはこの館を出たんです。そうさせないために、Nをこの館から連れ出すんです。……行きましょう」 Cは館を包囲する外壁の一つに手をやった。 「ここは本当は出口になっています。姉さまの得意の呪術でそうではないように思わされているだけで。今からここを解放します。そして全員で、いったんはわたし達の母様のところへ……」 「そうはさせませんよ」 声がした。 僕達は一斉に声のした方に振り向いた。 目の前が真っ赤になった。そこにはIとサイトウがいた。Iは剣呑な表情でこちらを見詰め、僕達を咎めるように眉を潜め苛立ったように爪を噛んでいた。小学生の頃から変わらない、幼い仕草。 「I……貴様ぁああああああ!」 僕は絶叫した。怒りの為だ。Rを何年も酷い目に合わせたIを、僕は今すぐにでも血祭りにあげてしまいたかった。八つ裂きにしてしまいたかった。 Iは臆した様子もなく微かに首を横に振ると、小さく息を吐いて僕らに話し掛けて来た。 「出ていくんですか。CちゃんもNちゃんもMくんも、可愛がっていたワンちゃんも。そうやって皆わたしを裏切るんですね。一人で取り残すんですね。酷いです……酷いです酷いです酷いです」 「他人は自分を映す鏡だ。おまえが受けている扱いの全ては、おまえがそれ以上のことを人々にして来た、その裏返しでしかない」 「わたしは何も悪くないです! ただわたしはMくんのことが好きで……どうしてわかってくれないの!」 Iは血走った目で僕を睨んだ。 「……I姉さま。寝ていたはずでは」 Cは冷静な声で訪ねた。 「犬にかけていた呪いが解かれたのに気付いたので。そんなことが出来るのはCちゃん、あなただけだと思い、急遽ベッドから出て庭に来ました」 「そうですか」 「何度でもあなたはわたしを裏切るんですね」 「わたしを閉じ込めたのも、Rさんに呪いをかけたのもあなたです。それに先にわたしの心を裏切ったのは姉さまでしょう? わたしはI姉さまに、はにかみ屋で不器用だけど勉強家で優しい姉さまのままでいて欲しかった」 「命を取らなかったのは妹だと思っていたからです。閉じ込めておけばいつかあの頃の可愛かったあなたに戻るかもしれないと思っていました。でも、それは間違いだったのだわ。ありのままのわたしを愛さないのなら、わたしの妹はもう死んだのです」 「わたしは生きています。それは姉さまもです。そして生きていれば変わることは出来ます」 「変わらない! わたしはもう魔女で悪魔だ!」 喚くようにしてIは叫んだ。 「でもわたしには力がある! わたしの膝元にいればわたしはあなた達のことをたくさん可愛がってあげられるのに! どうしてそれが分からないの! MくんもCちゃんもNちゃんも、どうしてそんな簡単なことが分からないの? バカなのです! ばかばかばかばか!」 Iは激しく地団駄を踏む。そしてその細長い指先をこちらに突き付ける。 「もう良いです! 全員捕まえてまた館に閉じ込めれば良いのです。そして今度はもっと本気でじっくりと、たくさん良い子にしてあげます! その為にまずは邪魔そうなそこの二人を殺します!」 Iは隣で佇んでいるサイトウの方に視線をやった。 「サイトウさん! お願いします!」 「合点招致!」 サイトウは叫んで、紙で出来た身体で僕達の方へと殴りかかって来た。 〇 今さらこんな紙男をけしかけてどうなるものか、と僕は思った。 Bも同じ考えだったようだ。殴りかかって来るサイトウを冷静な視線で見詰めながら、Bは隣に立つAに向かって「竹刀」とそっけなく告げた。Aは預かっていた竹刀をBに渡す。Bはそれを受け取るなり、突っ込んで来るサイトウに踏み込んで、鋭く胴を一閃した。 竹刀でも達人が振れば紙くらいは両断できる。 紙で出来たサイトウの肉体は中央から真っ二つに分かれ、それぞれがひらりひらりと宙を舞った。風になびきながら背後を舞い落ちるサイトウに、Bは目をくれることもなくIの方を睨み付け、竹刀を突き付ける。 「あたしはおまえを許さない」 「あなたがどう思うかなんてどうでも良いのです」 Iは頭を掻き毟るように抱え込み、悲鳴のような声を発した。 「鬱陶しいのです。そんな棒っきれで粋がって、正義の立役者みたいな顔をして、あなたは本当にわたしの趣味じゃありません。もっと怯えるとか震えるとか、勇気を振り絞る感じで強がりながら立ち向かってくれたら優しく出来るのに、なんであなたはそんなに冷静で真っすぐなんですか?」 「……昔の知り合いにおまえに似たような奴がいたよ。自分に都合の悪いことを全部力づくでどうにか出来ると思ってる奴。しかしおまえを見ていて思う。あいつはまだマシだったってな」 Bは静かな足取りでIに近付いて行く。 「Yの奴は正々堂々とあたしに戦いを挑んで来た。戦いを挑むあたしを正面から迎え撃って来たんだ。それだけの度胸がYにはあった。しかしおまえはなんなんだ? 相手と同じ目線で、同じ土俵で、きちんと戦ったことが一度でもあるのか?」 「ナンセンスです。同じ目線とか同じ土俵とか、正々堂々とか、そんなことに意味があるとは思えません。戦いなんてくだらないのです。自分が少しでも痛い思いをする可能性があることを、わたしはしません」 「戦わないのならどうするんだ? あたしは今すぐにでもおまえに襲いかかるぞ?」 「わたしとあなたとの間では戦いと言うものは成立しません。虫けらを踏み潰したり、ひねり潰したりすることを、戦いと呼ぶようなことはないでしょう?」 「……またあの妙な人形を使うつもりか?」 「いいえ。わたしが自ら手を下す必要でさえないのです」 その時だった。 宙を舞っていたサイトウの切れ端が重なり合い、巨大な両手で押しつぶすようにして一つの紙の塊になる。それらは限界まで圧縮されほんの小さな礫と化すと、唐突に弾かれるようにして元の一枚の平らな紙の状態に戻った。 そこには巨大な鬼の絵が描かれていた。 「……! Bさん、危ない!」 Cが叫ぶ。Bが振り向くと紙の中の鬼は口から真っ赤な火炎を放って来た。 全身を包み込めそうな程大きく激しい炎だった。Bは類稀な反射神経と運動能力でそれを回避する。鬼は巨体に似合わぬ俊敏な動きでそんなBを追い回し、肩に担いでいた金棒で殴りかかる。 紙で出来ているはずの平面上の金棒はしかし、重量を感じさせる轟音を発しながら地面にめり込み、砂埃を立てさせた。 「……なに、あれ?」 Aは目を丸くした。サイトウだった紙に描かれている鬼は身長は三メートル近く、体重は立体に直せば一トンや二トンはありそうな程の巨躯を誇っている。その全身は緑色で筋骨隆々。奇怪な程に大きな眼球が顔の中央から三つも突き出していて、金色の長い髪を生やしていた。 「何って。オイラだよオイラ、サイトウだよ」 大鬼はサイトウの声でそう言って笑った。 「オイラは絵なんだ。だから描けば何にだってなれるし何だって生み出せる。この館でおまえらが食ってた飯とか着てた服とか使ってた家具とか、全部オイラが絵の中で生み出して絵の外の世界に現出させてたものなんだぜ? この炎だって……」 サイトウは鬼の口から真っ赤な炎を吹きあがらせAを襲った。火だるまになる寸前でAはその場を転がるようにしてそれを回避する。 「同じ原理だ。絵の中の炎を外の世界に現出させる。生半可な術じゃないぜ? お嬢様がおつくりになられた最高傑作にして一番の従者であるオイラだからこそ成せる技だ。ただの人間如きにどうにかなるような存在じゃないんだなー、オイラったら」 「あむやくすざなとみあとえにえやんやむろかつちてはおあんみじゅぶさろじゃおにぐらす」 Cが呪文を唱えるとサイトウは足元から炎上し黒焦げになった。紙の焼けるニオイがあたりに充満し噎せ返るような煙が目に染みる。Cは唇を結んで燃えカスになったサイトウを踏み越えてIの方に迫った。 「……わたしが本気になれば、姉さまだってタダで済むとは限りませんよ?」 温厚そうなCに似合わぬ勝気な台詞だった。大鬼のサイトウを呪文一つで燃えカスにしたことにも僕は驚いていた。AとBも同じであり驚愕の表情でCを見詰めていた。Cもまた霊感少女の一人でありIに匹敵し兼ねない強力な呪術を使うことを僕は理解した。 Iはそれを受けて鼻白んだような表情を浮かべつつも、微かに声を震わせて高い声で言った。 「霊感の強さも呪術の技量も、Cちゃんよりわたしの方が、遥かに上回っているはずなのです。あなたに呪術を教えたのも、霊感の使い方を学ばせたのも、すべてわたしじゃないですか」 「その通りです」 「わたしはあなたに自分の知っていることの半分も教えていませんよ?」 「それで十分なはずです。何も本気で呪いあってわたしが勝つと言っている訳ではありません。わたしをもう一度捕えられたとしてもそれまでに一矢報いるくらいのことは出来ると言いたいのです。姉さまはそんなことは好まれないのでは?」 「本気で反抗するのなら、こっちだって手加減できずにうっかり殺してしまうかもしれない。そうなる前に、あなたが降参すれば良いのだわ」 「いいえ。わたしは最後まで戦います。それが嫌なら、姉さまがわたし達を諦めてこの館から見送るのです」 「……Cちゃんはどうしてもわたしをこの館の中に取り残すつもりなんですね」 Iは目に涙を貯めてCを睨んだ。 「この館も、地下に眠る叔父様も、気の触れた父様も。すべてをわたし一人に押し付けにして、Cちゃんは出て行ってしまうのですか? 母様と同じことをするのですか? そんなことは許されません。あなたにはわたしと同じくこの館に残ってこの館を守り抜く義務があるはずなの」 そこでCは歯噛みして視線を横に逸らした。 「ごめんなさい姉さま。傍にい続けるには、あなたはあまりにも行き過ぎているのです」 「確かにわたしは魔女で悪魔です。人ならざる化け物です。でもそれはあなたも同じでしょう? 同じようにすれば良いでしょう? 三人! たった三人同じ力と境遇を持った姉妹なのに!」 「わたしはあなたとは違います。あなたのようにはなりたくない。Nのことだって、あなたのようにはしたくない」 「そんなのはあなたの勝手でしょう! 残った妹のNちゃんや、大切な大切なMくんのことまで、あなたはわたしから奪うのですか?」 「いやI。それは違う。君の言うことは間違っている」 僕は言った。 「僕やNが君の元から離れていくのは、僕やN自身の意思であり、Cさんの所為ではまったくないんだ。強いて誰の所為だというのなら、それはI、君自身の振る舞いが招いたことなんだよ」 Iは深く傷ついた表情でその場でボロボロと涙を流した。そしてかすれたような声で僕を見詰めながら縋るように言った。 「ごめんなさいMくん。許して……」 「許されたいのなら行動で示すべきだ。まずは僕らをこの館から解放することだ」 「それはできません。あなたを失うことにわたしは耐えられない」 「……お願いIさん。あたし達をこの館から出て行かせて欲しい」 Rが優し気な声でIに言った。 「酷い扱いだったけど、この館のこの庭でずっとあなたと過ごして来て、あなたの孤独や寂しさは理解しているつもり。ご両親や妹さん達との関係がどういう風に変わって行ったかも。お母さんに出ていかれてお父さんがあんな風になっちゃって、妹さん達まで傍にいなくなったら、あなたは本当に一人ぼっちになってしまう」 Iは爪を噛みながら、苛立った表情でRを睨んでいる。Rは構わず続ける。 「それはMくんの言う通り、あなたの振る舞いが招いたことでもあるかもしれない。でも、あなたがそんな風になってしまったのは、あなたが不思議な力を使えてしまったから。そうでなければ、あなたは不器用で大人しくてでも努力家で、コツコツと頑張って少しずつ人から認められていくような、そんな真面目で綺麗な女の子だったんでしょうね。今からでもそうなれば良いわ。今のあなたが本当のIさんでないことは、あたしには分かっている。小学生の頃の優しいIさんを取り戻せれば、Mくんだって周りの人だってあなたに対する接し方を変えるはずよ」 「そのMくんはあなたが奪って行くんでしょう!」 Iは絶叫した。 「サイトウさん! 起きて! ふらぼるぞうどろぞとこみゃおにぐすやんやむどぐぞーそにょらみぐあるかざなどりあじゅぶにぐらす!」 サイトウを焼いて出来た灰が突如として宙を舞い、渦を巻き始めた。Iがどこからともなく取り出した巨大な紙を渦に向けて投げつけると、灰はその紙の表面に吸着し、再び鬼の姿を取った。 「ぎゃおおおん! 復活だい!」 大鬼のサイトウは棍棒を振り回してRに迫った。竦み上がるRの前にNが立ちふさがると、口元で素早く呪文を唱えると半透明な結界のようなものを出現させ、その棍棒の一撃を受け止める。金属同士がぶつかるような甲高い音が響いた。 ガラスでもプラスチックでもない、どころか物質ですらおそらくないだろう、半透明の障壁だ。Cを包み込む楕円形のそれはCが詠唱を繰り返すことで維持されサイトウの攻撃を防ぎ続けている。最早事態は能力者同士の超常バトルに陥っている。RもAもNも何も出来ずにそれを見守るしかない。 状況はCに不利のようだった。防戦一方なのだから当たり前だが、それ以上の結界の耐久の方がギリギリのようだ。サイトウが繰り返し棍棒を打ち付ける度徐々にひび割れ、維持するC の額にも汗の玉が浮かんでいる。 「……おまえが加勢することは出来ないのか?」 僕はNに言った。Nは端的に答える。 「無理です」 「僕の記憶を戻して見せた、あの術は大したものだったと思うが」 「あれは一夜漬けです。先生にわたしのことを思い出して貰う為、C姉さまに教わりました」 「一夜漬けだろうと何だろうとテストで点さえ取ってしまえばそれはおまえの実力だ。というか一夜漬けで何とか出来る奴っていうのは、普段の授業や提出物くらいのことは、そこそこ真面目にやっているものなんだよ」 「小学生レベルなら一晩ちゃんと予習すれば漢字の小テストくらい乗り切れる、とUさんは仰っていましたね」 「一晩ちゃんと予習するってことを自主的に出来るような奴は、そもそも普段の授業からちゃんとやってるんだよ。人並にだらしないとこあるけど根は真面目だな。だからテストだって九十点以上は硬いんだ」 「わたしはいつも六十点くらいなんですが」 無気力無関心な性質のNは学校の成績もあまり良くない。無口で無表情なのもその怠惰な性格に端を発している。そうやってやり過ごす習慣が付いてしまっているのだ。Iという姉が好き放題過保護に甘やかし、思うがままにすることで自主性を奪ったことが原因だろう。両親が機能不全状態なのも厳しいところだ。 「どっちにしろ、わたしには無理です」 「分かった。頼ろうとしてすまない。先生は大人だから、自分で何とかするよ」 僕は傍に落ちていたなるべく大きな岩を大鬼のサイトウの目玉に向けて投げつけた。 これでも中学の頃は野球でピッチャーをやっていたのだ。昔取った杵柄で岩はサイトウの眼球に命中する。結構スピードが出ていたのもあってか、サイトウは思わず短い悲鳴をあげて棍棒を振り回す手を止めた。 「いてぇ! なんだ! 何しやがる」 「おまえこそ何してくれてんだ。女の子を棍棒でいじめるなんて最低だぞ?」 「うるせぇ! やりたくてやってんじゃないし、結界さえ壊せば後はテキトウに気絶させて館に連れ戻すんだよ。何せお嬢様の妹様なんだからな!」 応酬を繰り広げる僕とサイトウに、雄たけびをあげながら突っ込んで来た奴がいた。 「うおおおお!」 Bだった。やはり勇気があり頼りになるBは竹刀による強烈な刺突攻撃をサイトウの剥き出しのヘソに浴びせかけた。 「うぎゃあああ! いてぇええ!」 サイトウはその場に寝転んで悶え苦しみ始める。結界を説いたCが汗を垂らしながらサイトウの方を睨み付け、全身全霊を込めているのが分かる詠唱を行った。 「ぼるごおぞやんやむざなとりあろぞやぞとれぞもぐろうどじゃばにれやんやむ。やんぞがべあれやろじばぐらぞばらぞうぞにれつぐなやんぞざなとりあじゅぶにぐらす!」 天から一本の巨大な釘が出現してサイトウを襲った。釘は銀色の金属で出来ていて僕の身長程もあり、ぞっとする程鋭く研ぎ澄まされていた。それはサイトウの額を貫通してそのまま地面へと突き刺さり、杭となってサイトウを貼り付けにした。 「ぎゃああああ!」 サイトウはじたばたと悶え苦しむが脳天を貫いた杭を抜くことが出来ない。Cが再び呪文を唱えると今度はさらに二本三本と続けざま釘が降り注いでサイトウの身体の各所を貫いて、その身動きを完全に封じてしまった。 「そんな杭なんて……」 Iは呪文を唱えようとその場で口を開いた。 「させないよ!」 Aがそこに飛び込んだ。そして手に握り込んでいた砂をIの顔面、開いた口の中に叩き付ける。Iはたちまち大量の砂を飲み込んでしまい、涙を浮かべながら激しく咳込み始めた。 「なっ!」 「呪文唱えられなきゃ変なこと出来ないでしょ? あんた生身は人間なんだから!」 素晴らしい機転だった。それはCの友人として霊感少女の戦いを見続けて来たからこその気付きであり、これしかないという完璧な対処法だった。 「ゲホっ! ゲホっ! ……ぼるご……ゲホっ。じゃぶ、にれ……ゲッホゲッホ!」 大量に飲み込んだ砂を吐き出し終えるまで、Iは呪文を唱え終えることが出来ない。目を真っ赤にして激しく咳をし喘ぐことしか出来ないでいる。 「でかしたA!」 Bが狂喜して竹刀で殴りかかろうとする。Cはそれを軽く右手で制すると、口元で呪文を唱え始めた。 「ぼるごおぞやんやむざなとりあろぞやぞとれぞもぐろうどじゃばにれやんやむ。やんぞがべあれやろじばぐらぞばらぞうぞにれつぐなやんぞざなとりあじゅぶにぐらす」 サイトウを封じたのと同じ呪文だった。天から降り注いだ釘がIの身体に飛来して、胴体を刺し貫いて地面に深く突き刺さる。Iは地面に膝を着いて蹲った姿勢のまま身動きを取れなくなった。 「こ……この……っ!」 やがて砂を吐き切って詠唱を開始するIだったが、身体を貫通した釘が光を放つと途端に唇を結ばされ黙らされてしまう。それはIの呪文を封じる効果を持っているようだった。Iはそれでも無理矢理詠唱をしようと足掻いていたが、やがてそれも諦めたように首を倒し、長い髪を垂らして項垂れた。 僕達の勝利だった。 〇 Iは尻餅を着いた姿勢で両手足をだらりと地面に向けて垂れさせながら、気だるげな表情を僕達の方に向けた。もうどうとでもしてくれと言った無気力な態度だった。 それは自身の敗北を受け入れ自らの処遇について覚悟を決めているともいうことができる。僕はそれを意外に思った。投げやりにも見えるが実のところこの態度は潔い。ヒステリーを起こしたり泣きじゃくったり、意味もなくこちらを罵倒したりして来る方が、僕の良く知るIの振る舞いとしてはしっくりと来る。 「殺してください」 Iは言った。 僕は耳を疑った。 「姉さま……何もそこまで」 Nが言った。Iは静かに首を横に振った。そして落ち着いた様子で目を閉じる。 「皆さんがわたしを憎んでいることは分かります。それだけのことはして来ました。だからさっさとトドメを刺してください。いたぶって喜ぶような悪趣味な人達では、あなた達はないんでしょう?」 「……ふざけるな」 Bが眉間に皺を刻み込んだ。 「殺される程憎まれてる自覚があるなら、何故自分の意思で止められなかったんだ?」 「問答は無用です。無駄ですから」 「答えろ! どうしてそこまで悪事を積み重ねることが出来た! 犬にされたその女の人や、これまでに犠牲にして来たであろう多くの人々の気持ちを考えたことが、おまえにはなかったのか?」 「ないですねぇ。だってわたしが観測できるのはわたし自身の主観だけ。人の気持ちなんて分かりようがないんですから、存在しないのと同じことです。それは誰にとっても同じであって、いつまで経っても同じであって、だからここで情けを掛けられたとしても、わたしの考えや生き方が変わることはないのです。早く殺して」 「……どうするの? Cちゃん」 AがIの妹であるCの方に伺いを立てる。 「このまま解放する訳には行かないよね? だからって殺すなんてできる訳ないし。このまま一生ここで封印しておいたりできないの?」 「……わたしの力で姉さまを封印しておけるのは、十分か二十分が限界と言ったところです」 Cは額に手をやって苦渋の表情を浮かべた。 「わたしにとって、I姉さまは生まれた時から一緒にいる姉妹です。だからこそ分かるのですが……この人は今見逃せば確かに同じような悪事を繰り返すでしょう。かと言って、命を奪うことなどできようもないというのは……」 「警察に突き出すか?」 Bが言った。 「バカ。何言ったって信じて貰える訳ないじゃん」 Aが眉を顰める。 「信じて貰えるまで説明を続ければ良いだろう」 「だから無駄だって。分かってもらえっこないよ」 「こっちには霊能力者が逸れも二人もいるんだぜ? Cと、あとNだったか? Cの妹の。そっちも変な力使えるんだろう?」 「……まあ」 Nは投げやりな口調で言った。 「だったらそいつらの力を警察に見せて説明すりゃ良い。百聞は一見に如かず。実際に霊能力は存在するんだから、それを目の前でやって見せれば、オマワリだってあたしらの話を信じない訳にはいかないさ」 「無理だな」 僕は言った。自分でも険しい表情を浮かべているのが分かる。 「あ? なんでだよ」 「目の前の警官に霊能力の存在を信じさせられたところで、すぐさま逮捕という訳には行かない。人を逮捕したり、裁判にかけて罪に問うたりする為には、そいつがどのようにして犯罪を成したかを科学的に証明する必要がある。しかしIの霊能力は科学を超えている。だから例えテレビカメラの目の前でIが呪力で人を殺し、それが全国中継されたとしても、Iを逮捕する術はこの国の司法に存在しないのさ」 「その通りだよ」 Rが視線を地面に落としながら沈痛な表情で言った。 「この人をきちんと裁く方法は存在しない」 「……そういうことです」 Iは肩を竦めて、投げやりな表情のまま天を仰いだ。 「どっちが早いかですねぇ。あなた達がわたしを殺す覚悟を決めるが早いか。それかわたしがこのチャチな封印を解いてしまうのが早いか。あなた達が早くに腹をくくったのならその覚悟に免じて殺されてあげますが、手をこまねいているようならわたしは何度でもあなた達を狙います」 「……クソったれが」 Bが歯を嚙み締めた。 「改心する気はないのですか?」 Cが静かな声で問いかけた。 「あると言ったら信じて貰えるんですか?」 Iは唇を尖らせ、いつもの甘えた声を発した。 「いいえ。姉さまは変わりません。わたしに姉さまは変えられないのです。これまで何度も何年間もずっと試みてどうにも出来なかったことを、この一瞬でどうにかなるとは思えないです」 「だったら聞くだけ無駄じゃないです?」 「どうしてそんな態度を取るのですか? 時間を稼ぐにしても、反省した振りをした方が有利なのでは?」 「したくないことはしない主義なんですよぅ。それにね、わたしもう疲れました。嫌になりました」 Iは駄々をこねる子供のような声で、甲高い声を夜空に放った。 「もう、なんでこんなにも色んな事が思い通りにならないの? 好きな人は皆わたしを嫌って、鬱陶しい人達にまとわりつかれて。サイトウさんはやられちゃうし呪文は唱えられないし……。何なの? 叔父様の知ってる呪文を全部教われば、わたしは無敵じゃなかったの? 何もかも思い通りになるんじゃなかったの? どうしてこんなにつらいの? 苦しいの? どうにもならないの? ねぇ、……ねぇねぇねぇ! どうして!」 「……それは君が人間だからだよ、I」 僕はそう言って、地面に落ちている大振りの石を拾い上げて、Iの方へ向けて一歩一歩近付いて行った。 周囲は皆息を飲み込んだ。僕がやろうとしていることを察したのだろう。空気がきりりと引き締まり震え、鋭敏になった感覚は夜風が肌を切り裂くように感じられる程だ。僕は腹をくくっていた。そしてIの方を鋭く見据えた。 Iはいつもの幼く無邪気な、それでいて揺るぎない表情でこちらを見詰めている。付き合いが浅い者には胡乱で意志薄弱にも見えるIだが、うんざりする程長い時間をこいつにまとわりつかれて生きていた僕には分かる。実のところこいつの精神性はしなやかで強固だ。そして悪魔のように狡猾でもある。こいつは死を覚悟している訳じゃない。僕らの持つ倫理観や殺人への躊躇を値踏みして、自分は助かるという計算を立てているからこそ、こうもふてぶてしい態度を取れるのだ。 そんな驕りは打ち砕かれなければならない。 「神様じゃない。悪魔じゃない。特別な存在でも何でもない。ただの人間なんだから思い通りに行かないことばかりだ。君はまずそれを理解しなければならなかった。それを理解せず何をしても許されると思っているから、些細な感情の為に多くの人達を犠牲にして平気でいられる。暴虐を働くことで何より自らが破滅して行くことに気付かないでいられる」 「……わたしが人間なんてことありますか? 呪文一つで街を滅ぼせるんですよ?」 Iは微かに目に涙を貯めていた。 「人間さ。街を滅ぼすくらいのこと爆弾でも使えば誰にでもできる。世の中にはたいそうな技術が無数にあって、恐ろしいことを引き起こす手段がいくらでもあって、そのうちの一つが君の持っている霊能力というだけのことだ。そして、悪用を繰り返せば他でもないそいつ自身が窮地に陥る」 間近に迫る僕を、Iは首を大きく上に向けて見詰めた。 「わたしを殺すんですか?」 「そうだ」 「無理です」 「無理じゃない」 「無理です。だってあなたはMくんだから。世界一優しいMくんだから。だからあの時だってわたしを殺せなかった。だから大変なことになった。たくさんの人が死んだしRさんは何年も苦しんだし、今だってわたしを殺せないことで同じことを繰り返させる。Mくんはそういう人なんです。知ってます」 Iは頬が裂けるような笑みを浮かべた。 「だから大好きなんです。本当に本当に大好きなんです。世界で一番大好きです」 「……知ってるよ。君の想いを疑ったことだけは、俺は一度もなかったよ」 僕は石を振り上げた。 「だけれど俺はおまえのことを世界一嫌いだ。死ね」 Iは目を閉じた。 今度こそ覚悟を決めたようにも僕は見えた。自らの死を受け入れたようにも僕は見えた。 そうだ。こいつは阿呆じゃない。そして良心がない訳でもない。ただ自分の持った強大な力に振り回され続けて来ただけのことだ。何もかもを思い通りにしようとするがあまり苦しみ、癇癪を起し満たされず手段を択ばず残酷で子供染みていて、そんな自分自身の醜さに耐えられない。僕を手に入れることに固執して。楽になりたくて。救われたくて。 僕はIの何もかもが分かる。 こいつはもう殺すしかないんだ。 気付くのが遅すぎた。あの時僕がやらなくてはならなかったことを、僕は今こそやり遂げるのだ。 そう思い、僕は振り上げた石をIの頭に向けて振り下ろした。 「やめて!」 「やめろ!」 二つの声が重なった。 背後で紙が引き裂かれるような音がした。 僕の腕がRによって強く引かれ、それによって目測を誤り振り下ろした石がIの頭を空振りする。と、同時に、大鬼だったサイトウの一部が、本体から引きちぎられることによりCの縛めから解き放たれ、元の人型に戻ってIの全身に巻き付いた。 「サイトウさん……」 Iは言った。サイトウは大鬼の巨大な体から紙の一部を引き裂き、そちらに本体を移すことでCの封印から脱出していた。そしてIの身体に巻き付いて、串刺しにされたIをその場から引っ張り上げようとしている。 「お嬢様! 今すぐオイラが助けます! 一緒にここを逃げましょう!」 「ダメです。もう死なせて」 「バカ言ってんじゃぁないっすよ! らしくもない」 「……潮時です。わたしは罪を犯し過ぎました。今こそ裁きを受ける時なのです」 Iはボロボロと目から涙をこぼしていた。 「Mくんに殺されるなら構いません。Mくんはわたしのことを覚えていてくれます。一生涯自分の殺したわたしを想って苦しんでくれます。もうそれで良いのだわ。わたしはそうやって命を持ってMくんの心の一部分を手に入れるんです。それがわたしの精一杯で、それで良かったんです」 「だかららしくもないんですって! そこのMとかいう糞尿野郎が欲しいのなら洗脳でも何でもして身も心も全部手に入れなくてどうするんすか!」 サイトウは高く吠えた。心を込めて。 「欲しいもの全部呪文を唱えて世界中の何もかもから奪い取って、それを全部すぐ飽きてぐちゃぐちゃにして放り捨てて。ちょっとでもムカ付いたら一瞬でそいつを消し炭にして、気まぐれで我が儘でおっかなくて無敵で最強で……それがお嬢様っすよ!」 「違います。そんな大そうなものじゃない。だって、だってわたしはただの……」 「バケモンだろうがぁあああ! まごうことなきバケモンだろうがあああ!」 サイトウは力一杯、巻き取ったIを引っ張り上げることで、Cの突き刺した杭を地面から引き抜こうとする。 「あんたが人間なんてことあるかぁああ! バッカじゃねぇのお? 魔女で悪魔で傍若無人の大魔王で……それがオイラのご主人様なんじゃないのか? バケモンのオイラのご主人様なんじゃないのかあああ? お嬢様がバケモンでいてくれなかったら、こんなペラ紙一枚のオイラはいったい誰に付いて行けば良いっていうんだぁああ? おおおおん!」 杭が地面から抜け、Iの肉体はサイトウに巻き上げられるがまま宙に浮いた。 僕はあっけにとられていた。一反木綿のように宙を舞うサイトウに巻きあげられ空を飛び、Iは目を丸くしてサイトウの顔を見詰めていた。サイトウはひらひらと風に乗って庭を舞いながら、熱を帯びた声で吠え叫び喚く。 「バケモンの何が悪いんだぁああ! 人間なんて虫けらみたいに踏みつぶして何が悪いんだああ! ニコニコ笑いながらエグいことばっかやってるそんなお嬢様がオイラは一番好きなんだ! そこの糞尿野郎が好きなんならそんなのは別に良いよなんだって! でもなぁ、こんなしょうもないペラ紙のオイラをこの世に生み出しちまったからには、せめてオイラが生きている内は、お嬢様はバケモンを貫かなくちゃいけません。それが責任ってもんですぜ!」 「サイトウさん……」 Iはサイトウの身体にしがみ付いた。 「サイトウさん!」 「一緒に逃げますよ! お嬢様の好きなところへ。こんな館じゃなくたって、お嬢様とオイラなら楽しくやって行けますよ」 「はいっ!」 満面の笑みでIは返事をした。 「逃げましょうサイトウさん! 地の果てまで!」 「合点承知!」 どこからともなく強い風が吹いて僕らの髪や服を靡かせた。サイトウはIを包んだ状態でそれに乗り、矢のような速さで僕らの視界から消えていく。月と星に照らされながら瞬く間に小さくなったサイトウは、そのまま夜の暗闇に紛れて薄まり、そして搔き消える。 僕はその場で取り残された。 「……ごめんなさい。M」 Rは僕の肩を叩いた。 「……私、あなたに苦しんで欲しくなかったの。あなたに人を殺して欲しくなかったんだよ」 「良いんだ」 僕はRを抱きしめた。 「良いんだ。謝らないでくれ。……これで、良かったんだ」 僕は天を仰ぐ。サイトウとIの消えて行った夜空を見詰める。 Iに向けて振り下ろした石の感触を思い出す。 Rが止めなければ僕はあれをIに振り下ろしていた。Iを殺していた。その感触は一生涯に渡って僕を蝕み苦しめたはずだった。僕はきっとそれに耐えられなかったはずだった。その意味では確かにRは僕を救ったと言えた。Iの所為で数年間を犬として暮らしたRは、それでも僕の為にIの命を救ったのだ。 「……Mさん」 Cが歩み寄って来る。 「殺さなくて正解です。Mさんが人殺しにまでなる責任はなかったのです。姉のことはわたしが責任を持って何とかします」 「……Cちゃんだけじゃないよ」 Aが歩み寄って来てCの肩に手を置いた。 「私達も手伝うよ。またいつでも助けを呼んで。一緒にあいつを何とかしよう」 「違いない。今度あったら泣きを入れて来るまで叩きのめしてやる。人だって機械だって、悪くなったら叩いて治すのが正解だよ」 Bが軽い口調でそう言った。 「……ありがとう」 Cは勇気を貰ったように微笑んで二人の友人の肩を抱いた。二人はそんなCを明るく迎え入れる。三人の間には確かな信頼関係と友情があった。 僕はふとNの方を見た。友達と抱擁を交わすCをぼんやりとした表情を見詰めている。その無表情には、微かな羨望と嫉妬のような感情が渦巻いているようにも僕には思われた。 「N」 僕が言うとNは振り向いた。 「先生」 「Iはいなくなった。Iから逃れるのにおまえがこの街から離れる必要なくなった」 「……はあ」 「俺は元の学校に戻る。おまえを教えたあの学校だ。おまえはどうする?」 「…………」 「あそこに戻るのは勇気がいることだろう。おまえのしたことを知っている連中がいるからな。逃げることだっておまえには出来る。それを悪いこととは思わない。ただ、もしおまえのしたことを知っているあいつらの中で一からやり直そうと言うんだったら、俺はその覚悟を皆に、Uに、改めて伝えてやることが出来る。また一から頑張るおまえを責任を持って支えてやれる」 「……本当ですか?」 Nは微かに声を震わせた。 「本当だとも。一緒に学校に戻るか」 やり取りに気付いたCがNの方を見た。伺うような視線を上向けるNに、Cはにっこり微笑んで見せる。 姉妹の呼吸か、NはそれでCが許可を出したことが伝わったようだ。Nは僕の方を見て、緩慢で無感動なように見える、しかし実のところおずおずと緊張しているだけの無表情のまま、注意を研ぎ澄ませて初めて察知できる程僅かに弾ませた声でこう言った。 「戻ります。Uさんのところに、また戻りたいです」 「よし! じゃあ、先生と帰ろう」 僕は笑顔でNの肩を叩いた。 〇 館からの出口はCが開いてくれた。その場にいる僕達全員に呪文を唱えると、ただの壁にしか見えていなかった場所に大きな門が現れた。狂喜した僕らはすぐにその門に駆け寄り、そこがふつうに通り抜けられることにまた狂喜した。 「これで家に帰れるのね……」 Rは喜びを噛み締めるように涙を流し、僕の腕に縋りついた。 僕達はそれぞれの家と日常に回帰した。 神隠しにあっていたRが帰って来たことは、地元でちょっとしたニュースになった。 Rの兄や両親は大喜びでRを迎え入れた。Rは家族には事実をそのまま伝え、代わりにマスコミには多くを語らなかった。そして人間としての暮らしが戻って来たことを喜んだ。風呂に入ったりまともなものを口にしたり家族や僕と時間を共にした。ボロボロだったRは元の美しさを取り戻し、気丈に振る舞っていても確かに負っていた大きな心の傷を、少しずつ癒しつつもあるようだった。 僕はそんなRのケアに加わる一方、上司である教頭や校長に嘘話をでっちあげることで元の職場に戻ることに成功していた。ダムの氾濫に巻き込まれ意識を失ったことは真実を話したが、その後のことは覚えておらず、気が付けば道路に寝転んでいたというストーリーにした。 担任していたクラスに臨時で入ってくれていた先輩教師に礼を言い、僕は再び、元のクラスで元の生徒達の先生になった。 その教室にはUがいた。そのUは言った。 「もうM先生は死んだものだと思っていたぞ」 「ところがどっこい、生きている。ひさしぶりだな」 「お、おうひさしぶり。でも先生、意識を失ったまま何日間も記憶がないなんて、本当なのか? Iの奴が何かして、怪奇現象みたいなことに巻き込まれていたとかじゃないのか?」 実のところ、Uは勘の良い子供だった。僕はその勘の良さに免じて刺激の強いところを除いてすべてを話し、最後にNの改心への覚悟を説明した。 「……と、いう訳で、これからはCというIとは反対のまともな姉ちゃんのところで、霊能力を決して悪用することなく過ごす覚悟のようだ。他の誰よりも、俺はまずはおまえに、それを伝えたかった」 「ふーん……」 「で、おまえはそれをどう思うんだ?」 「どう思うって?」 「いや、だからNは反省して改心と更生への道を歩き始めてだな……」 「それはまあ良いことだよな。子供のあたしが言うのも難だけど、あいつだってまだ子供なんだから善い奴にも悪い奴にも、どっちにも転びうるしどっちにも成長し得るんだろうし。良い方向に向かおうとあいつが思ったんだったら、あたしは応援しなくもないぞ」 「そうか」 「ただ、そういうことは先生に言ってもしょうがないことだよな」 Uは言った。僕は頷いた。それはUの言う通りだった。 「Nがこの学校に戻って来るんなら、あたしはちゃんとNがこれからどう生きていくのかを、ちゃんと見ていようと思うぞ。あいつがこれまでやっちゃったことはどうにもならないけど、これからあいつがどうなっていくのかを、あたしはちゃんと近くで見てる」 「ありがとうU」 「いつ戻って来るの? あいつ」 「もうすぐだ。今は引っ越し作業の途中らしい。元の学校に通いたいってNが言ったら、Nのお母さんが一緒にこの近くに越してきてくれることになったんだ。Cって姉ちゃんは元々電車通学だし、通学電車の方向が登りから降りになるだけで距離もそんなに変わらないっていうんで、一緒に引っ越して同じ高校に通うらしいぞ」 「ふーん。なんか上手いこと行きそうなんだな」 ある日Cが僕の家に尋ねて来た。女子高生を家に入れるのも何だし外を歩きながら少し話をした。話題はNのこと、Iのこと、そしてこれからのこと。 「M先生は、霊感や霊能力の関与しない、元の普通の日常に戻ってください。その日常を、きっとわたしが守ります」 女子高生にそんなことを言われてそうですか頼みますと返せるはずもない。 「俺に出来る事なら何でもやるんだがな。君は確かにN以上I以下の霊力があるようだけど、それでもただの女子高生だろう? 少しはオジサンを頼ってくれても良いんだぞ?」 「これはわたし達家族の問題……とは言えないでしょうね。MさんにはI姉さまに対して十分すぎるほどの因縁がありますから」 「その通りだ」 「しかし、Mさんに出来ることが限られていることも確かなのです。Mさんは頼りになる大人ですが、わたしの周りにいる頼りになる大人がMさんだけという訳ではないのです。Mさんよりも余程訳を知っている人も中にはいます。だからこれ以上Mさんに迷惑をかけるつもりはないし、またその必要もないんですよ」 話し方と言い伝え方と言い、態度や立ち振る舞いと言い、高校生とは思えない程大人びた女の子だった。しっかりしているし色んなことを弁えている。支えてくれる友人もいる。この子ならきっと僕がいなくても大丈夫だと思う反面、つまはじきにされるのには忸怩たる思いもあった。 だから僕は言った。 「君が望まずとも、或いは俺が望まずとも、俺はきっと事態に巻き込まれる」 Cは悲し気に目を伏せた。 「そうでしょうか?」 「Iは俺への執着をやめない。いつか必ず僕の前に現れる。それを必ずしも君が停められるとは限らない。きっとまた決着をつけることになる。俺は当事者だ」 「その時が来たら必ず逃げてください。身を守ることだけを考えてください」 「そのことで君が迷惑するのだとしても、俺はその約束は出来ない。本当にごめんね」 Cは顔を上げ、微かに唇を尖らせて僕を見詰めたかと思ったら、すぐに諦めたように微笑んだ。 「妹をよろしくお願いしますね」 僕は力強く頷いた。 やがてNが教室に戻る日が訪れる。 彼女が教室に入る前に、僕は精一杯クラスの皆に説明する。もうNが妙な力で皆を脅かすことはないということ、Nの改心、Nの決意、しかしそれらを聞く教室の子供達は胡乱な表情だ。それはそうだろう。事実としてNは人を殺し人を傷付け洪水を引き起こしたのだし、そんな人間は爪弾きにしていたいのが通常の思考で、また正当な権利でもあるはずだった。 けれども僕はNをこの教室に戻すことにした。 「奴にはここが一番良い」 僕はクラスの皆に言った。 「誰もNを知らないところに通うことだって、Nは出来ただろう。けれども果たしてそれが本当にやり直すことになるのか? 自分の持つ力を、自分のやってしまったことを知っているおまえらの前で、また一から小学生としてやっていくことこそが、反省して新たにやり直すということなんじゃないのか? 先生はそう思った。それが奴に与えられるべき試練だと思う。別におまえらには無理にはNと仲良くしろとは言わない。いじめたりしたら叱るけど、それは別にNに限ったことじゃない。ただ、ただな」 僕は生徒一人一人の目をしっかりと見ながら言った。 「Nのことを見守って欲しいんだ。Nが何を思いどんな気持ちでここにいて、これからNがどうして行くのか、それを皆に見守って欲しい。Nのことは誰かがきっと何とかしてやらなくちゃならない。Nが昔のまま変わらなければNの周りの奴らはもちろんのこと、N自身だって不幸になって行く。先生は変わろうとするNを導いてやりたい。他の誰でもなく、先生がそれを責任を持ってやり遂げたいんだ」 生徒たちは暗い顔をする。僕は子供達に頭を下げた。 「本当にすまない。おまえ達にとってもこれは過酷な試練だ。しかし世の中には本当に色んな奴がいる。Nより余程変わった奴と出会う日が必ず来る。だからNのような奴と同じ教室で過ごすことは、おまえらにとっても良い経験になると、そのことも先生は信じているんだ」 そういうと、僕は廊下に待機させていたNを教室に招いた。 教壇の前に立つNに、クラスメイト達の奇異の視線が突き刺さる。 Nは自ら頭を下げ、言葉少なに、しかし確かに誠実な気持ちを込めてこう言った。 「今までごめんなさい」 Nは顔を上げて、クラスメイト達をじっと見つめる。 「よろしくお願いします」 席に着くまでのNの一挙一動を、クラスメイト達はじっと見詰めている。 クラスの皆にとって、Nにとって、この判断が正しかったのかどうかは俺にも分からない。 だが、良い判断にしていかなければならない責任が、確かに俺には備わっている。 授業が始まる。教室の雰囲気は良くない。誰もが皆緊張してNのことを遠巻きにしている。休み時間が来てもそれは同じで、Nの周りには確かな溝があり距離があり、Nはそれを受け入れて一人、身動ぎせずにじっと座っている。嫌悪や蔑みのささやき声に晒され続けている。 それはある部分ではかつてと同じような態度で振る舞いだったが、その意味するところは異なっていた。開き直りと無関心でそうしていた過去と異なり、今のNはじっとしていることで許されるのを待っている。許される為に、自身が無害であることを示す為に、Nは何があっても何もしないという試練に耐えているのだ。 一日が経ち、二日が経つ。それらは必要な時間だった。さらに数日の時が流れ、ある日の放課後、僕は廊下を歩いている二人の少女とすれ違う。 それはUとNだった。 かつてと同じように二人は肩を並べて下校していた。Uが一方的に話しかけ、Nが返事を返す。しかしUの表情はかつてよりも明るく屈託のない笑みで、NもまたかつてよりUの方に視線を向け、相槌以上のことを話す回数を増やしていた。 二人は会話に夢中で僕とすれ違ったことにも気付かない様子だった。僕はそんな二人を見送った後、清々しい気持ちで窓を見詰めた。 青い空は晴れ渡っている。 白く荘厳な雲はゆっくりと流れ続けている。 白銀の太陽が熱と光を放ち刺すようにして肌を照らしている。 僕は目を細め、しばし立ち止まって、また歩き出した。 運動場からボール遊びをする子供の声が聞こえて来ていた。 |
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競作企画 2025年11月30日 23時57分56秒 公開 ■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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