| 狭間の渡り鳥 |
Rev.01 枚数: 145 枚( 57,610 文字) |
| <<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部 |
| ※作者コメント必読 狭間の渡り鳥 第1話「眠りと醒めの狭間」 この村には、夜になると風が鳴く。 細く、かすかで、泣いているような音だった。山に囲まれた小さな土地は、外とつながる道も少なく、訪れる旅人も稀だ。村人たちはそのほとんどが顔見知りで、互いの家の灯りの色まで知っているほど近い距離で暮らしていた。 そんな村の外れに、ぽつんと診療所がある。 立て付けの悪い扉、古い木材の匂い、時おり薬草を煮出す香りが漂う、半ば物置のような建物だ。村の誰もが、そこにひとつの寝台が置かれているのを知っていた。 三年前から、ずっと変わらぬ姿のまま眠り続ける少女――フィーネの寝台だ。 診療所の裏手には、フィーネの母親が植えた薬草畑がある。夕暮れにはたんぽぽの綿毛が風に舞い、朝には小鳥が枝で歌う。 だが、フィーネはその景色を一度も見ることはなかった。 「……今日も変わらないねぇ」 診療所の医師が、少女の手首から脈を確かめながら呟いた。 医師といってもこの村ではただ一人の治療者で、若くもなく、特別な術に長けているわけでもない。 だが、少女のために毎日欠かさず様子を見に来る優しい人物だった。 フィーネは、眠っているというより、閉じ込められているようだった。 まぶたは薄く、皮膚には血色がない。だが恐ろしいほど静かで穏やかだ。脈は弱く、時おりその存在すら消え入りそうになる。 三年前、突然倒れたその日から、ずっとこのままだった。 「先生……フィーネは、まだ……」 母親の声は涙で濡れていた。 医師は首を横に振ることもできず、ただ、少女の額に濡れタオルを置いた。 「もう長くは……と、言いたくはないけれど。身体は痩せてしまったし、日に日に弱まっている」 「…………」 「奇跡があるとすれば……本人の“意志”だ。目を覚ましたいと思っているなら、まだ望みはあるはずだよ」 母親は唇を噛んだ。 三年前の春の日、少女がふっと意識を失って倒れたときのことを、何度も思い出す。 あの日は、弟の誕生日だった。 林檎のタルトを焼き、みんなで笑っていた――そのはずなのに。 少女の瞳だけが、突然、遠くを見つめるように凍りつき、そのまま倒れ込んだ。 医師も祈祷師も、村に来た旅の魔術師ですら原因を突き止められなかった。 少女はなぜ眠り続けるのか。 何を見続けているのか。 ただ誰もが、「もう明日には……」と恐れていた。 その夜――診療所の窓が、ひらりと開いた。 外は静かな闇だった。 村の灯りは遠く、冬の終わりの細い月が、うっすらと村全体を照らしていた。草が揺れ、かすかな羽音が夜に溶けた。 白い影が、窓から滑り込む。 それは一羽の鳥だった。 雪のように白い羽毛、月光を吸い込んだような淡い光。鳥は音もなく床に降りると、その姿がゆっくりと人の形へ変わっていく。 光が消えたあとに立っていたのは、一人の青年だった。 黒髪は風に揺れ、瞳は金色にきらめいている。だが、どこか遠くから来た旅人のようで、影が薄く、輪郭が揺れているようにも見えた。 青年はフィーネの寝台のそばへ歩み寄ると、まるで旧友に語りかけるような穏やかな声で言った。 「こんばんは。……ずいぶん長く眠っているんだね、君は」 フィーネの睫毛が、微かに震えた。 母親は気づかない。医師も夜の見回りからまだ戻っていない。 だが青年は確かに感じ取っていた。 「――君はまだ夢を見ている。しかも、とても深い夢だ」 その声は、少女の魂に直接触れているようだった。 青年はフィーネの額に指先を置く。その瞬間、診療所の空気がわずかに震え、かすかな花の香りが流れた。 「僕はレイ。“渡り鳥”。狭間を飛び、眠りと現実の境目を歩く者だよ」 彼は自分でも気づかないほど自然に微笑む。 だがその笑みはどこか寂しく、体の奥で何かが薄れていくような痛みを抱えていた。 「目覚めたくても目覚められない子を、外へ戻す。それが僕の役目なんだ」 レイの姿が、ふっと淡くかすれた。 「……少し急がないとね。ここに長くいると、僕のほうが消えてしまう」 冗談のように言ったが、それは冗談ではなかった。 レイは自分の存在が、夢へ入るたび少しずつ薄れていくのを知っている。 フィーネの額から、淡い光が広がった。 「行こう。君の夢の中へ」 ◆ ◆ ◆ 次の瞬間、世界が変わった。 柔らかい風が、レイの髪を撫でる。 足元には、生気をたたえた草原がどこまでも広がっていた。 空は雲ひとつなく、春の光がどこからともなく降り注いでいる。 暖かい。穏やかで、優しい。 “永遠の春”――そんな言葉がレイの頭に浮かんだ。 小川が流れ、小さな家が一軒、草原の真ん中に建っている。 家は新しく、木材はあたたかい色をしていた。 煙突からは細い煙が立ち、台所で誰かが料理をしているような匂いが漂う。 「……これが、フィーネの夢」 レイは息を呑んだ。 ここまで穏やかで、優しくて、どこか懐かしい夢世界は久しぶりだった。 そのとき、小さな影が家から飛び出してきた。 フィーネだ。 現実の寝台で弱り切っていた彼女と違い、ここでは肌に血色があり、瞳は生き生きとしていた。髪は風に揺れ、涙の跡すらない。 だが、彼女の表情には驚きと戸惑いが入り混じっていた。 「……だれ?」 フィーネはゆっくりと後ずさりする。 「あなたは……外の人でしょう? ここは私の夢。外の人は、入れないはずなのに」 声は少し震えているが、恐怖というより“理解できないものへの不安”だった。 レイはゆっくり両手を広げ、危険がないことを示す。 「確かにここは君の夢。でも、僕は“外”から来たわけじゃない。君を起こしに来たんだ」 「起こす……?」 「そう。外の世界で、君の身体はもうかなり弱っている」 フィーネの眉が寂しげに寄った。 「……やっぱり」 ぽつりとこぼれたその言葉は、レイの胸に刺さった。 「外のこと、少しは覚えているんだね」 「覚えているよ。でも……ぼんやりとだけ。ここにいると、外のことはだんだん薄れていくの」 フィーネは胸の前で手を握りしめた。 「外は、寒くて、痛くて、怖いところだった。家族も……いなくなった。だから私は……ここに来たの」 レイは言葉を返そうとしたが、それより早くフィーネが首を振った。 「いや、違う。“来た”んじゃない。気づいたら、ここに“いた”の。あったかくて、お父さんもお母さんも、お兄ちゃんも、みんな笑ってて……」 家の中から笑い声が聞こえる。 フィーネの母親、父親、そして少し年上の兄が、楽しそうに話している声だ。 しかし、それは“現実の彼ら”ではない。 レイはそのことを知りながらも、責めることはできなかった。 「……君は、ここが好きなんだね」 「うん。大好きなの。ここなら、誰もいなくならない。誰も泣かない」 少女の言葉には、三年分の孤独が詰まっていた。 「だから……帰らない。外の世界なんて、もういらない」 レイの胸に、ひやりとした痛みが走る。 それは彼自身も何度も味わった感覚―― “戻る場所を失った者”の痛みだった。 「それでも……フィーネ。外には君を待っている人がいる」 「……本当に?」 「うん。君のお母さんは、今日も泣きながら君の手を握っていた」 フィーネのまつ毛が揺れた。 「……お母さん、泣いてたの?」 「泣いてたよ。“もう一度だけでいい。フィーネの声が聞きたい”って」 フィーネは口を震わせた。だがすぐに、きゅっと唇を閉じてしまう。 「……だめだよ。だって、私が目を覚ましたら――」 そこで言葉が止まる。 レイはその続きを知っていた。 目を覚ましたら、夢の家族は消えてしまう。 それは彼女が心の底で一番恐れていることだ。 「フィーネ。君は……」 レイが言いかけた瞬間、空にぴしり、と亀裂が走った。 硬い何かが割れるような音。青空に白い線が生じ、その線がじわじわと広がる。 フィーネは顔をあげ、震えた声を漏らした。 「……まただ」 「“また”?」 「うん。何度も……壊れるの。夢が、崩れていくの。私、ずっと……」 少女は胸元を押さえ、苦しそうに息をする。 「何度も何度も……この夢を作り直してきたの。壊れるたびに、思い出を削って。忘れて……」 その言葉に、レイの目が深く揺れた。 ――それは、戻れなくなる危険の兆候だ。 夢を修復するために記憶を削れば、現実の自分が薄れていく。 その繰り返しは、魂をすり減らす行為に等しい。 「フィーネ。もう……限界が近い」 レイの声は静かだった。 「このまま夢にしがみついたら、君は本当に戻れなくなる」 フィーネの瞳が揺れる。 「……でも、戻ったら全部……消えちゃう」 「それでも、生きられる」 「でも、私は……」 少女の声は風にかき消され、世界がきしむ音だけが響いていた。 「でも、私は……」 風が言葉をさらい、フィーネの声はそこで途切れた。 レイは少女の肩にそっと手を置く。夢世界の空が、軋むようにひび割れを広げていた。 短い春の気配が、徐々に冷えていく。 草原が灰色に変わり、足元の感触が砂のようにざらつき始める。 「フィーネ。ここはもう、長く持たない」 「……わかってる」 それでも、彼女は家のほうを振り向いた。 煙突からは細い煙が立っている。 家の中からは、聞き慣れた、夢の家族の笑い声が流れてくる。 少年のような兄の声。 優しく包む母の声。 ぶっきらぼうで不器用な父の声。 それらがひとつひとつ、フィーネの胸を刺す。 ――消えてしまう。 そんな恐怖が、その小さな背を震わせていた。 「……ねえ、レイ」 「うん」 「もし、もしもだよ? 私がこのままここにいたら……そのうち、何もかも忘れちゃうの?」 レイは一瞬だけ目を伏せた。 「忘れる。家族の本当の顔も、外の景色も、自分の名前も。全部、ね」 「……そう、なんだ」 フィーネは自分の手を見つめた。 夢の中の手は、温かく、健康で、柔らかい。 現実の自分があれほど冷たく弱々しいことは、きっと思い出せない。 「こわいな……」 「怖いよ」 「レイは……こわくないの?」 レイは小さく息をついた。 それは長い旅の途中、ふと立ち止まってしまう渡り鳥のような、どこか疲れた息だった。 「怖いよ。僕は“渡り鳥”だからね。狭間に入るたび、何か大切なものが、ひとつずつ削れていく」 「……なにが削れていくの?」 「名前。思い出。過ごした時間。……僕が僕であるための何か、かな」 フィーネの目が大きく見開かれた。 「そんなの……そんなの、いやだよ!」 「僕は、選んだんだ。誰かを戻すたびに、少し自分が消えるほうをね」 「なんで? どうしてそんなこと……」 「理由、だったかな……」 レイは言葉を探した。 しかし、探しても探しても――何も出てこなかった。 「……やっぱり、忘れてるや」 自嘲のように苦く笑い、レイは首を振った。 「でも、フィーネ。君はまだ忘れていないだろう?」 少女は視線を落とす。 「……お母さんの声、はっきりは思い出せないのに、ここでは毎日聞こえる。お父さんの背中も……ここでしか見えない。お兄ちゃんと川で遊んだ記憶だって……本当だったのか、もうわからない」 「だからこそ、確かめに戻るんだ。現実に」 フィーネは唇を噛んだ。 「帰りたく……ない」 「帰りたい、とはまだ言えないよね。でも――帰らなきゃ、君の本当の家族は……」 レイが言い終える前に、空の亀裂が急激に広がった。 破片のような光が降り注ぎ、草原の端からぽろぽろと世界が剥がれていく。 フィーネは耳をふさいだ。 「やだ……また壊れてく……!」 レイは少女の肩を抱いた。 「まずは家へ。夢の中心に行こう。そこに、君が“忘れたくないもの”が一番強く残っている」 フィーネは震える足で、レイの手を握った。 「……レイ、離れないで」 「離れないよ」 そう言った瞬間、レイは自分の胸の奥に、不快な空白を感じた。 名乗ったはずの名前が、ぼやけていく。 ――離れない。 本当にそう言えるのか。 自分の存在は、夢の中ではあまりにも脆い。 だが、フィーネは彼の手を信じて頼った。 それだけでレイは胸の痛みに耐えながら、少女を引き寄せる。 「行こう。家に」 ◆ ◆ ◆ 草原を進むにつれて、世界のほころびが大きくなっていった。 花々は色を失い、茎が砂のように崩れていく。 小川は水音をやめ、黒い穴に吸い込まれるように細くなった。 フィーネは、その光景を見ないようにうつむいて歩いた。 「ここ……こんなの、初めて……」 「君の心が揺れているからだよ」 「どういうこと?」 「どちらに行きたいのか。どちらを失いたくないのか。心がふたつに裂けていると、夢の世界は形を保てなくなる」 フィーネは小さく肩を震わせた。 「私……決められないよ……」 「決める必要はない。ただ、“大切なもの”がどこにあるかを、見つけに行くだけだよ」 少女はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。 「……ねえ、レイ」 「うん?」 「私、ここに来たときね……最初は泣いてたんだ」 「泣いてた?」 「うん。真っ白な場所にいて、誰もいなくて、怖くて……でも、遠くに小さな光が見えて……その光が近づいてきたら、お母さんだった」 フィーネの声が震えた。 「そのとき、すごく嬉しかった。抱きしめてくれて、お父さんもお兄ちゃんも来て……私、安心して、そのまま……ここに“いた”の」 「フィーネ。それは、君の願いだよ。心の奥に残っていた、家族の記憶と、孤独を埋めたい願い」 「……願い……」 「夢の家族は、君が作った“幻”だ。でも、それは決して嘘じゃない。君が家族をどれだけ愛してるかが、形になっただけなんだ」 フィーネの目に涙が溜まった。 「愛してる……のかな……私」 「愛してるよ。じゃなければ、こんなに温かな夢は作れない」 少女は黙って歩き続けた。 その横でレイは、遠くに見える家へ目を向ける。 煙突からの煙が揺れている。 玄関前には、木製の桶が置かれ、洗濯物が揺れている。 家の窓には、光が灯っていた。 しかし近づくにつれ、その光が少しずつ“薄膜”のように揺らめいてくる。 気づかれていない影が、そこかしこにある。 ――もう限界が近い。 ◆ ◆ ◆ 家に着いた。 扉を開けた瞬間、温かな匂いが広がった。 「ただいまー!」 フィーネが思わず声を上げる。 その声に振り返ったのは――夢の父親だった。 「お、フィーネ。今日は早かったな」 声は優しく、低く、懐かしい響きを持っていた。 だが、レイの目には、彼の輪郭がところどころ透けて見えた。 母親も兄も、同じだった。 優しい笑顔の奥に、薄い霧のような揺らぎがある。 だがフィーネはそれを見ようとしない。 「お母さん……! お兄ちゃん……!」 母親が抱きしめようと手を広げた瞬間、レイはふっと視界に暗い影が走るのを感じた。 家の壁にひびが入り、人影がわずかに揺れる。 幻想が不安定なのだ。 「……フィーネ」 レイが呼びかけようとしたとき、フィーネは家族のほうへ駆け出した。 母親の胸に飛び込む――その手前で、レイは思わず息を呑んだ。 彼女の母親の腕が、一瞬、透けたのだ。 フィーネの身体が、そのまま母親の体をすり抜けてしまいそうなほどに。 「あ……れ……?」 フィーネの表情が凍りついた。 母親の姿が、かすかに揺らぐ。 「どうした、フィーネ?」 母親の声は優しい。けれど、その声は“どこか遅れて”聞こえる。 幻の世界が、綻びながらも必死に形を保とうとしている。 レイは少女の肩に手を置いた。 「フィーネ。もうわかっているだろう?」 「……わかりたくない……」 フィーネの膝が震えた。 「私は……ただ、一緒にいたかっただけ……」 レイはそっと手を握る。 「一緒にいたかったのは“本物の家族”だ。消えてしまった人たちじゃない」 少女は首を振った。 「だめ……だめだよ……! だって、ここにしかいないの……!」 「それは君の願いが作った姿だ。君が生きれば、外の世界で新しい“会える人”がいる。新しい日々がある」 「そんなの……いらない……!」 その瞬間、家の天井が大きな音を立ててひび割れ、光の破片が降った。 母親の姿が、揺れる炎のように歪む。 ――もう時間がない。 「フィーネ! ここから離れよう!」 「いや……いやだ……!」 「このままじゃ、君が消える!」 「消えていい! だって――ここが幸せなの!」 「でも、それは全部“幻”だよ!」 レイの叫びに、フィーネの瞳が揺れた。 「幻でも……幸せだったんだよ……!」 「幸せ“だった”。でも、続かない」 レイは少女の手を強く握った。 「本当の幸せは、消えない現実の中に作るものだ。ここじゃない」 フィーネは泣きじゃくりながら、母親のほうへ手を伸ばした。 その手は、すり抜けた。 母親の姿が、一瞬だけ、影のように薄く透ける。 「…………あ」 その瞬間――フィーネは、自分の夢と現実の境界を初めて理解した。 夢の家族は、彼女が“会いたい”という願いが生んだ、優しい幻でしかない。 「……なんで……なんで触れないの……?」 少女の声は、世界の崩壊音に呑まれて小さくなった。 レイは優しく抱き寄せた。 「フィーネ。君は、この世界を誰より大切に思ってる。だからこそ、一番辛い選択をしないといけない」 「やだ……やだよ……」 「戻る道は、君の“本当の記憶”の中にしかない」 レイは胸に手を置き、自分の鼓動を感じる。 「君の夢は、君自身の記憶が作っている。その中心に行かないと、戻る道は開かない」 フィーネは嗚咽を洩らしながら、顔を上げた。 「……記憶の……中心……?」 「うん。君が最後に家族と一緒にいた“本当の場所”。そこに、答えがある」 「本当の……場所……」 フィーネは小さく震えた。 「こわい……」 「一緒に行くよ」 レイは手を差し出した。 少女はその手を、恐る恐る握る。 「レイ……おいていかない?」 「置いていかない。たとえ僕がどれだけ薄れても、最後まで一緒に行く」 フィーネはその言葉に縋るように、レイの腕にしがみついた。 崩れていく夢世界を背に、二人は家を出る。 そこから――“フィーネが最初にこの夢に閉じ込められた場所”へ向かって歩きはじめた。 家を出てすぐ、草原の端が大きくひしゃげる音が響いた。 世界が破れた布のようにめくれ、灰色の空洞が広がっていく。 そこではもう、草も風も、光さえも存在しなかった。 「こわい……レイ、あれ、なに……?」 「君の夢が崩れてる。修復する力がもう残っていないんだ」 「……じゃあ……」 「うん。逃げないと、本当に呑まれる」 フィーネは喉の奥で小さな悲鳴を漏らし、レイの腕にしがみついた。 足元の草が、まるで燃えているかのように白く光り、消えていく。 だというのに風は温かく、どこか懐かしい匂いを運んだ。 「……ここ、やっぱり“私の世界”じゃないんだね」 「夢だよ。君の願いが形になった、優しい、でも壊れやすい世界」 「……そうなんだ」 フィーネはうつむき、唇を噛む。 その横でレイは、薄れていく自分の輪郭に気づいていた。 風に溶けるように、腕の端がふっと霞む。 (……また、減ってる) レイは苦笑をひとつだけこぼし、すぐに顔を上げた。 フィーネには気づかせまいと、歩幅を合わせる。 「フィーネ、覚えてる? 君が最初に、この夢で目を覚ました場所を」 「うん……覚えてるよ。白くて、なんにもなくて、すごく寒かった」 少女はぽつりと返した。 歩きながら、ふいに空を見上げる。 「光があって、お母さんがそこから歩いてきたの。私、すごく嬉しかった。……でも、あれも……幻だったの?」 「あれは君の“願い”。心が一番求めていたものだよ」 「じゃあ……私、家族に会いたいって、そんなに思ってたんだ……」 「思ってた。すごく強く。だから夢が、それを形にした」 フィーネは瞬きした。 「……どうしてだろう。私、外の世界の家族を思い出すの、ちょっと怖い」 「怖い?」 「うん。思い出したら……傷つく気がする」 レイは歩みを止めた。 「フィーネ、それは――家族がいなくなった日の記憶を、君がまだ抱えているからだよ」 フィーネの顔が青ざめる。 「……どうして、知ってるの?」 「君の夢のひび割れ方が、そう教えてくれる。明るい記憶の裏には、必ず『なくした記憶』がある。そこを避け続けてきたから……こんなふうに崩れている」 「…………」 少女は口元を押さえ、小さく震える。 「……お母さんが死んだ時のことも……お父さんが倒れた日のことも……お兄ちゃんが旅に出て、そのまま帰らなかったことも……私、全部思い出せないの」 「思い出したくなかったんだよ。だから夢で塗りつぶした」 「塗りつぶして……私、現実のこと何にも覚えてない……」 フィーネは空恐ろしい表情で胸を押さえた。 「……レイ、私、本物の家族の顔……思い出せないんだよ……」 言葉が震えていた。 ――それは、この夢が完成しすぎている証だった。 夢の中の家族の顔が、本物の記憶を上書きしてしまったのだ。 「大丈夫だよ、フィーネ」 レイは優しく言った。 「記憶は消えてない。深いところに眠ってるだけ。夢が崩れれば……戻ってくる」 「……戻ってくる……?」 「君が生きたいって思えばね」 フィーネは喉をつまらせた。 「レイ。ねえ、もし……もしも私が戻ったら……ここは全部、消えちゃうの?」 「消えるよ」 「お母さんも、お父さんも、お兄ちゃんも?」 「うん」 「……“さよなら”ってするの?」 「そうなる」 少女の目から、ぽろぽろ涙が落ちた。 「……こわいよ……やだよ……」 「怖いのは当たり前だよ。大切なものを手放すって、誰だって怖い」 レイは少女の肩を抱いた。 「でもね、フィーネ。ここにいる限り、君の身体は外で生きられなくなる。本当に死んでしまう」 「……死ぬのは……怖い……」 「生きたい、って思って」 「…………」 フィーネは目を閉じた。 長い影を落とすまぶたは、涙で濡れていた。 「……レイ。私の本当の記憶……どこにあるの?」 「あの丘の向こう。君が“最初に倒れた日”の記憶だ」 「倒れた日……」 その言葉を聞いたとたん、冷たい風が少女の頬を撫でた。 夢のはずなのに、レイも同じ寒気を感じる。 (――来る) 夢の中心に隠されている“現実の痛み”が、もうすぐ露わになる。 ◆ ◆ ◆ 丘へ向かう道は、行くほどに世界の綻びが深くなっていく。 丘の斜面は、半分が白く消え落ち、空の亀裂は光の雷のように走り続ける。 草は揺れず、小川は完全に止まっていた。 丘の頂でフィーネは足を止め、息を呑んだ。 「……ここ」 そこには、小さな一本の木が立っていた。 葉には色がなく、輪郭は曖昧に揺れ、今にも風に溶けてしまいそうだった。 木の下には、ぼんやりとした影がひとつしゃがみこんでいた。 ――少女の自分だった。 七歳のフィーネが、膝を抱えて泣いている。 声はない。ただ、肩が震えている。 「あ……あれ……わたし……?」 「うん。君の記憶だよ。夢が守ってきた、本当の“中心”だ」 フィーネは震える声で言った。 「……どうして泣いてるの……?」 「思い出して。あの日、何があった?」 少女は手を伸ばした。 小さな自分の肩に触れようとしたが、指先は影を通り抜けた。 「触れない……」 「これは記憶だから。でも、思い出すことはできる」 フィーネは自分の影を見つめ、目を閉じた。 「……その日、私は……弟の誕生日のタルトを作ってた。お母さんも笑ってて……」 「うん」 「でも……」 フィーネは眉を寄せる。 「音がした。大きな、どんって音。外から……人の叫び声が聞こえて……」 レイは息を飲んだ。 「続けて」 「お父さんが外に出て……私も、追いかけて……」 少女の声が震える。 「そこで――誰かが、お父さんを押し飛ばして、お母さんも……」 レイは静かに少女の背中に手を添えた。 フィーネの体が小さく震える。 「村に来た盗賊団が……家を襲ったの」 その言葉を聞いた瞬間、夢世界が大きく揺れた。 空の亀裂から光が降り注ぎ、丘の半分が白く砕け散る。 記憶が戻るごとに、夢の外皮が剝がれ落ちていく。 「そのとき……お兄ちゃんが私をかばって……」 フィーネの声が消える。 「倒れた。……血が出てて……」 少女の影が泣きながら震える。 フィーネの両手も同じように震えていた。 「助けを呼ばなきゃって思ったけど……足が……動かなくて……」 レイは少女の肩に手を置く。 「フィーネ。もういい。思い出さなくていい」 「でも……レイ……!」 「その先は、君が一番傷ついた記憶だ。思い出すには……痛すぎる」 フィーネは涙をこぼしながら首を振った。 「違う……違うの……!」 そして、震えた声で絞り出すように言った。 「“助けられなかった”って思ってるの……!」 レイの心臓が強く打った。 「私のせいで……死んじゃったって……ずっと、思ってたの……!」 少女の影が掻き消え、代わりに丘全体が白く発光する。 夢世界の核が露出したのだ。 「だから……だから……! 私、ここに来たとき……すごく嬉しかったの……!」 フィーネは泣き崩れそうな声で叫ぶ。 「だって、みんな……笑ってたから……! 生きてて、私を責めなくて……!」 空が裂ける。 世界の崩壊が最終段階に入った。 フィーネは涙を流しながら、崩れゆく夢の空を見上げた。 「……ねえ、レイ。私……現実が怖いの」 「うん」 「怒ってるかもしれない。悲しんでるかもしれない。――私が助けられなかったから」 「そんなこと――」 「あるよ! だって……私……!」 少女の叫びが空気を裂いた瞬間、 レイは腕を伸ばし、フィーネを抱きしめた。 「フィーネ。君の家族は、君を責めたりしないよ」 「……ほんとに……?」 「責めるより、君に“生きてほしい”と思ったはずだよ。家族ってそういうものだよ」 フィーネは震えた。 レイは、小さくかすれた自分の心臓の音を確かめながら言った。 「君が生きたかったら……その想いが、全部の記憶を支えてくれる」 「生きたい……?」 「うん。“生きたい”って願うだけでいい」 フィーネは息を止めたように目を閉じた。 そして、胸の前で固く握りしめていた手を、少しずつほどいていく。 「…………こわい……」 「怖いままでいい。だから僕がいる」 夢世界の空が真っ白に染まり、全てが崩れ始める。 フィーネは涙で濡れたまま、レイの胸に顔を埋めた。 「……レイ……」 「うん」 「私……」 少女は震える声で、ようやく言った。 「――生きたい……」 その瞬間、夢の景色がまぶしい光に包まれ、 崩壊していた家族の影が、最後に一度だけ、優しく微笑んだ。 まるで「行っておいで」と。 世界が白く染まり、すべてが光に溶けていく。 草原も家も、川も、空も―― フィーネが三年間守り続けた、幸せな春の世界が。 「レイ……!」 フィーネの声は震えていた。 崩壊の風が吹き荒れ、彼女の髪が宙に散る。 レイはその手をしっかりと握った。 「大丈夫だよ。まだ終わってない」 「でも……! 全部……消えていくよ……!」 「消えていいんだよ。これは“夢”だから」 「夢でも……わたし……すごく幸せだったのに……!」 フィーネの涙が光に溶けるように散っていく。 レイの胸に、かすかな痛みが走った。 (……きっと僕は、この痛みをいつか忘れる) でも、いまだけは胸に刻んでおきたいと思った。 少女の涙は、間違いなく“生きたい”という意思から生まれたものだ。 光の嵐の中で、フィーネは両手でレイの服をつかんだ。 「レイ……私、外の世界で……ちゃんと生きていけるかな……?」 「生きられるよ」 「怖がらないでいられるかな……?」 「怖がっていいよ。そのために、人は隣にいてくれる」 フィーネは小さく息を呑んだ。 「……戻ったら……お母さん、いる……?」 「いるよ」 「怒ってない……?」 「怒ってなんか、ぜったいにない」 少女の瞳が揺らめいた。 その瞳の奥に、崩れゆく夢の家族――母、父、兄の影が映る。 「……みんな……笑ってる……」 レイも振り返った。 光の中、夢の家族たちは微笑んでいた。 触れられない。 声も出せない。 ただ“願いの姿”として、最後の時を見守っているだけ。 「さよなら言わないと……」 フィーネの声は震えた。 「言っていいよ」 「でも……言ったら、本当に消えちゃう……」 「消えるのは姿だけだよ。想いは、全部残る」 少女の喉が震えた。 「…………ありがとう」 その一言を聞いたかのように、夢の家族は優しく微笑んだまま溶けていった。 風が吹いた。 白い光が舞い上がり、春の匂いが最後にひとつだけ残る。 「フィーネ。行こう」 レイは少女の細い手を握った。 「うん……うん……!」 ◆ ◆ ◆ 世界が裏返るように揺れ、踏みしめていた地面が消えた。 フィーネは思わず悲鳴をあげたが、レイはその手を離さなかった。 眼下には、白い霧の海が広がっている。 夢と現実の境界――狭間の層だ。 「レイ……ここ……寒い……!」 「大丈夫。すぐ抜ける」 レイの足が、光の粒になっていく。 フィーネも気づいた。 「レイ!? 足が……!」 「気にしなくていいよ。夢が閉じるとき、渡り鳥の体はこうなるんだ」 「いやだ! 消えちゃうみたい……!」 「僕は大丈夫。慣れてるから」 フィーネは必死に手を握りしめた。 (……ごめんね。僕はきっと、この子がどんな声で泣いたかも、すぐ忘れてしまう) レイの胸が痛んだ。 それでも笑ってみせる。 「フィーネ、目を閉じて。息を吸って、ゆっくり吐いて」 「こわい……!」 「大丈夫。君が“生きたい”と思った時点で、もう帰り道は開いてる」 少女の指が震え、レイの手を強く掴んだ。 「レイ……!」 「うん」 「レイは……どこに行くの……?」 「次の狭間へ」 「……また会える……?」 レイは一瞬だけ言葉に詰まった。 「……わからない。でも、もし会えなくても――」 そのとき、狭間が大きくうねった。 光の渦が吹き荒れ、フィーネの体が浮き上がる。 「レイ!!」 「フィーネ、手を伸ばして!」 少女は必死に腕を伸ばす。 指先がかすかに触れた。 「レイ……ありがとう……!」 そして――光が少女を包みこみ、現実へと引き戻した。 ◆ ◆ ◆ 静寂が訪れた。 残されたのは、薄暗い狭間の空間で、ひとり漂うレイの姿。 いや、姿と呼べるほどの形はすでに曖昧だった。 「……さて、ここからが僕の仕事の、つづきなんだけど……」 レイは自分の手を見た。 指先が透け、色も輪郭も薄くなっている。 胸の奥に、ざらざらとした痛み。 記憶が剝がれ落ちる前触れだ。 「……名前……」 誰もいない空間で、レイは自分の名を呼ぼうとした。 「レ……イ……」 そこから先の音が出ない。 まるで言葉の続きが、最初から存在しなかったかのように。 「……ああ……ひとつ、落ちたな……」 彼は苦笑した。 (僕は……“レイ”で合ってるよね……?) 思い出せない。 けれど、少女が呼んだ声の響きだけは心に残っていた。 「…………行こう」 レイは薄れゆく足で一歩を踏み出した。 そのたびに光が舞い、体が羽のように軽くなる。 やがて狭間の天井に、小さな穴が開いた。 そこから現実の世界の風が吹き込み、レイの体は白い鳥の姿へ戻っていく。 「……フィーネ。生きて」 誰に聞こえることもない声で呟き、 白い鳥は開いた穴へと飛び立った。 ◆ ◆ ◆ 村の診療所。 外はようやく朝焼けに染まりはじめていた。 フィーネの指が、かすかに動いた。 ついで睫毛が震え、弱々しい息が漏れる。 看病していた母親は、最初それを信じられなかった。 だが次の瞬間、娘のまぶたがゆっくり開く。 「……おか……さん……?」 「フィーネ!!!!」 母は泣き叫ぶように抱きしめた。 診療所中に声が響く。 父親も駆け込み、フィーネの手を何度も撫でた。 「フィーネ……! 本当に……!」 少女はぼんやりと天井を見つめ、涙をこぼした。 「……ここ、現実……?」 「そうよ……! あなた、本当に戻ってきたのよ!」 母親の腕の温かさが、夢のどんな光よりも暖かかった。 「……よかった……」 フィーネの呟きは小さかったが、確かな音だった。 ◆ ◆ ◆ 一方そのころ―― 診療所の屋根の上、朝焼けの風を受けて 一羽の白い鳥が静かに羽を休めていた。 鳥は東の空を見つめる。 その瞳はどこか、寂しげで、でも優しい光を宿している。 (……名前……なんだったっけ) 鳥は思い出そうとした。 「レ……」 そこから先が、どうしても出ない。 「……まあ、いい」 鳥は翼を広げ、風を受けた。 フィーネの声はもう届かない。 彼女が流した涙の温度も、夢で握った手の感触も、すぐに薄れていくだろう。 けれど―― (たしかに、誰かを救った) その事実だけは、心の奥に灯りのように残った。 「次は……どこへ行こうか」 白い鳥は軽やかに空へ舞い上がった。 朝の風の中へ溶けていくように。 フィーネは、その姿を知らないまま、 ただ静かに涙を流していた。 「……ありがとう……白い鳥さん……」 その声が空に届くことはなかったが、 確かに、狭間のどこかで風がやさしく揺れた。 朝の光が診療所の木枠の窓から差し込み、埃が金色に揺れていた。 その柔らかな光の中で、フィーネは三年ぶりに“目覚めた世界”を見つめていた。 母は何度も娘の手を握り、父は泣き笑いの顔で「よかった」「よかった」と繰り返す。 小柄な村医者は驚きのあまり、何度も脈を測りなおしていた。 「こんな……奇跡が……」 医者は呆然と呟いた。 「三年間ほとんど反応がなかったのに……なぜ今……何が……」 フィーネは、ただ微笑んだ。 「……夢を見ていたの。とても、長い夢……」 「夢……?」 母は涙をぬぐいながら、娘の頬に触れる。 「どんな夢だったの?」 「……言えない。言葉にしたら消えちゃいそうで……」 フィーネは少し首を振った。 夢の中の家族の姿は、すでにぼんやりと霞んでいた。 けれど消えたのではなく――胸の奥に深く沈んでいくような、不思議な感覚だった。 (さよならしたんだ……) 痛みはある。 悲しみもまだある。 けれど、不思議と耐えられないほどではなかった。 「お母さん……お父さん……」 フィーネは二人を見上げる。 「ただいま」 その言葉を聞いて、母はまた泣き崩れた。 父も目元を拭いながら娘の肩を抱いた。 「おかえり……! 本当に、よく……がんばったな……!」 その温もりが、夢のどんな幸せよりも強く胸に染みた。 ◆ ◆ ◆ 目覚めて三日後。 フィーネはリハビリのため、診療所の庭を散歩していた。 三年間動かしていなかった足はやはり重く、歩くたびに筋肉が悲鳴をあげる。 「ほら、ゆっくりね」 母に支えられながら、フィーネは一歩一歩、足を前に出す。 「……こんなに歩くのって大変だったんだね」 「身体が細くなってしまったのよ。少しずつ取り戻さないとね」 「うん……がんばる」 フィーネは空を見上げた。 青く、果てしなく広い空だった。 夢の空よりもずっと深く、冷たい。 けれど、胸の奥にひんやりとした気持ちよさを残す。 「……ねえ、お母さん。この上を飛んでた白い鳥、見たことある?」 「白い鳥?」 「うん。夢から覚めた朝にね……大きくて、すっごくきれいで……」 母は微笑んだ。 「この辺りには渡り鳥が来るからね。きっと、その一羽でしょう」 「……そっか。渡り鳥……」 言葉の響きが胸に残る。 ――渡り鳥。 (レ……いや……) そこから先が思い出せない。 けれど、たしかに胸の奥で誰かが微笑んでいる気がした。 「ありがとね……渡り鳥さん……」 フィーネは誰に聞こえるでもなく呟いた。 ◆ ◆ ◆ 夕方。 フィーネはひとりで村の外れまで歩いてみることにした。 両親には「院の周りだけ」と言われていたが、どうしても見たいものがあった。 ――あの丘。 夢の中で、すべてを思い出した場所。 家族の記憶も、痛みも、ありがとうも、全部そこから始まった。 丘の下まで来ると、身体が震えた。 (三年ぶり……なのかな) 時間の感覚は曖昧だが、ここに立つのは久しぶりのはずだ。 膝を押さえ、ゆっくり一段一段登っていく。 「はぁ……っ……」 息はすぐ切れた。 けれど足は止めなかった。 そして――丘の頂へ辿り着いた。 「あ……」 そこには一本の木が立っていた。 夢の中のように白く消えかけた木ではない。 葉は青々と茂り、枝は伸び、夕日に照らされて美しく輝いていた。 「……きれい……」 風が吹き、木の葉がさわさわと鳴る。 その音はどこか懐かしく、優しい。 フィーネは木にそっと触れた。 指先にあたたかい感触が返ってくる。 (あの日……ここで泣いてたのは……夢の中の私) でも―― (ほんとは、現実でも泣いてたのかな) 記憶は完璧には戻っていない。 けれど、それでもいいと思えた。 「……レ、イ……?」 ふと、誰かの名前を呼んだような気がして、少女は首を傾げた。 「……レ……」 違う。 続きが出てこない。 「変なの……」 けれど胸が、少しだけ痛んだ。 その痛みが、なぜか温かい。 「……ありがとう」 フィーネは木の下でつぶやいた。 「たぶん、私を助けてくれたのは……あなたなんだよね……?」 木はさらりと葉を落とした。 それは同意のようにも、ただの風のいたずらのようにも見えた。 ◆ ◆ ◆ 夜。 フィーネが診療所に戻ると、村の外れの空に白い光が走った。 雷ではない。 流れ星とも違う。 まるで鳥が羽ばたいたような軌跡の光。 「あ……」 胸が強く、ぎゅっと締めつけられた。 (知らないはずなのに……) 涙がぽろりとこぼれた。 (――どうして、こんなに嬉しいんだろう) 思い出せない。 夢の中で何があったのか、誰と何を話したのか。 でも確かにいるのだ。 フィーネを夢から連れ出し、 手を引いてくれた誰かが。 「……いってらっしゃい」 小さく呟いた。 「どこへ行くのか知らないけど……また、誰かを……助けるんだよね……」 その声が届くはずはない。 けれど、少女の目には確かに白い光が遠くへ消えていくのが見えた。 ◆ ◆ ◆ 一方そのころ―― 狭間の空を飛ぶ一羽の白い鳥がいた。 風は冷たく、どこまでも透明。 現実と夢の境界を縫うように飛びながら、鳥は自分の胸に手を当てるように翼を動かした。 (……何か、大事なこと……忘れた気がする) 名前だ。 いや、名前だけじゃない。 少女の声、握った手の感触、震えていた肩、流れた涙。 そのひとつひとつが、霧の向こうに遠ざかっていた。 「レ……?」 鳥は小さく声を鳴らした。 けれど、続くはずの音がどうしても出ない。 まるで、誰かに呼ばれた名前の最後の一文字だけが消えてしまったような。 「……まあ、いいか」 鳥は少しだけ楽しそうに翼を広げた。 (思い出せなくても……たしかに、誰かを救った) 胸に灯った温かさだけは、なぜか消えない。 そして、次の“狭間の入口”が、遠くの闇にふわりと光の輪となって揺れていた。 (次はどんな願いが待っているんだろう) 白い鳥は風に身をまかせた。 「……行こう」 その声が狭間に吸い込まれ、光の輪が大きく開く。 白い鳥はその中心へと飛び込んでいった。 眩しい光が軌跡を描き、世界の狭間に再び春の匂いが流れる。 ――そして物語は、もうひとつの狭間へ進んでいく。 第2話「生と死の狭間」 アル=サナ王国の西端、古びた戦場跡。 枯れた草が風に揺れ、かつての激戦を思わせる散乱した鎧や剣が、朽ちかけた土の上に横たわっている。 地平線の向こうでは、朝日がまだ眠そうに空を赤く染めていた。 レイは静かに空から舞い降りた。 白い羽が風を切り、草の香りと鉄の匂いが混ざる大地に着地する。 ――ここに、「歪み」がある。 目に見えぬ亀裂、世界の常識が捻れた場所。 レイはその異常な気配に呼応するように、息を整えながら足を進めた。 すると、視界の端で、二つの光が絡み合うように浮かんでいるのを感じる。 それは、魂――いや、二つの存在が互いに絡まり、離れられずに彷徨っていた。 目を凝らすと、戦場の中央で宙に浮かぶ二つの人影。 彼らはまるで互いの命を天秤にかけるかのように、しがみつき、押し合い、引き合っている。 「……双子か」 レイの口から、無意識に声が漏れた。 名もなき戦士たちの魂が漂う中、二つの光は特別に強く、切なく、そして重い。 ゆっくりと近づくと、その魂の輪郭がはっきりし、幼い頃からの絆と痛みが絡みつくように感じられた。 カイルとナディア――兄と妹。 三年前、この戦場の最終決戦で、互いを庇い合って致命傷を負い、同時に倒れた。 しかし、二人は完全に死ねなかった。生にも戻れず、魂だけが戦場に残されている。 レイは心の中で静かに呟く。 「――生と死の狭間に囚われている」 足元の土が微かに震える。 空間が歪み、戦場の景色が不自然にねじれる。 その中に吸い込まれるように、レイは一歩を踏み出した。 ◆ ◆ ◆ 次の瞬間、世界が変わった。 眼前には、陽光に包まれた広い訓練場が広がっている。 木々は緑に輝き、草は踏まれても揺れるだけの柔らかさを持つ。 子供たちの笑い声、剣を打ち合う金属音、師匠の厳しい声。 ――ここは、双子の「心象世界」。 カイルとナディアは、幼い頃に過ごした騎士団の訓練場にいた。 木剣を手に笑い合い、互いの背中を守りながら遊ぶ姿。 しかし、どこか違和感がある。 カイルの手がわずかに血に染まり、ナディアの足元の草が赤く濡れている。 夢の中に戦場の記憶が入り込んでいるのだ。 レイはそっと彼らに声をかける。 「君たちは、どちらを生かしたい?」 二人は互いを見つめ、同時に叫ぶ。 「妹を……妹だけを生かしたい!」カイル。 「違う! お兄ちゃんを……!」ナディア。 言葉がぶつかり、互いを否定する。 瞬間、景色が揺れ、世界がまたリセットされる。 ◆ ◆ ◆ レイは、双子の記憶の糸をたどり始める。 幼少期、二人は密かに誓っていた。 「片方だけが生き残るなら、いっそ二人とも死んだ方がいい」 戦士としての訓練、初めての戦場、互いの背中を預ける日々。 絆は強く、しかし脆い。 三年前の最終決戦。 カイルはナディアを庇って致命傷を負い、ナディアは瀕死のカイルを庇ってさらに傷を受ける。 その瞬間、互いの魂が絡まり合った。 「俺が死ねば妹は生きる……」 「私が死ねば兄さんは生きる……」 二つの意思が、まったく逆向きに重なり合い、世界はねじれる。 レイは心を込めて語りかける。 「君たちは、相手を生かしたいんじゃない。自分がいなくなっても相手が悲しまないように死のうとしているだけだ」 カイルとナディアは互いに目を伏せる。 胸の奥で、恐怖と孤独が絡み合い、涙が溢れそうになる。 「俺は……妹に先立たれるのが怖かった」カイル。 「私……兄さんを置いて生きていくのが怖かった」ナディア。 その言葉が、絡まった魂の結び目をさらに固くする。 世界は不安定に揺れ、赤い霧が訓練場を包む。 しかしレイは動じない。 静かに二人の間に立ち、手を差し伸べる。 「恐れることはない。生きることは、誰かの代わりに死ぬことじゃない。共に生きることなんだ」 その声が、重く絡まった魂に小さな光を差し込む。 カイルとナディアは互いの手を見つめ、そしてゆっくり握り直す。 小さな希望の光が、赤い霧をわずかに溶かした。 ◆ ◆ ◆ 世界が白く弾け、再びゆっくりと形を取り戻した。 レイは薄暗い森の中に立っていた。 地面には黒い灰が積もり、焼け落ちた木々の残骸が広がっている。 (……また別の“記憶”か) さきほどの訓練場とも、戦場とも違う。 ここは双子の兄妹が「初めて命の危機にさらされた場所」だと、レイは直感した。 遠くから、幼い声が聞こえた。 「兄、さん……こわい……」 「大丈夫だ、ナディア。俺がいる」 レイが目を向けると、まだ九歳ほどのカイルとナディアが、倒れた木の下に隠れて震えていた。 背後では獣の唸り声と、焚き火の音がこだましている。 (心象世界は、記憶だけじゃない……“恐怖”や“後悔”も形を持つ) 森の奥から、のたのたと歩く影が現れた。 大きな牙を持つ黒狼だ。それもただの獣ではなく、記憶が具現化した“影”。 幼いナディアが、兄の腕を強く握りしめる。 「に、兄さん……逃げよう……」 「逃げない。お前を置いていけない」 カイルは震える足で立ち上がり、折れた枝を槍のように構えた。 決して強くはない。 けれど、妹を守るためなら死ぬ覚悟すら見える眼差しだった。 レイは二人に近づくこともできたが、ほんの少しだけ距離を取った。 これは“見届けるべき記憶”だ。 ここでレイが介入しては意味がない。 黒狼が低く唸り、跳びかかる。 「ナディア、伏せろ!」 「きゃっ……!」 子供のカイルは必死に枝を突き出す。 狼の口元にかすっただけだが、その瞬間―― 「ぐっ……あ……!」 狼の爪がカイルの肩を裂いた。 「兄さん!!」 ナディアが叫ぶ。 それでもカイルは倒れず、妹の前に立ち続けた。 「泣くな……ナディア……俺がいるだろ……」 幼い彼の言葉に、レイの胸がわずかに痛む。 (この頃から、ずっと――) カイルは妹のために、 妹は兄のために、 “自分を犠牲にする覚悟”を当たり前のように抱えてきたのだ。 黒狼が二度目の跳躍を見せる――その瞬間、世界が静止した。 風も止まり、木々も止まる。黒狼も半空に止まっている。 レイだけが、動ける。 「……これが君たちの始まりか」 彼は狼の前に歩み、手を伸ばしてそっと触れる。 狼は、ただの“恐怖”だ。 実体ではない。 レイの指先から光が広がると、黒狼はゆっくりと霧になり消えていった。 時が動き出す。 「え……? 兄さん……?」 「ナ、ナディア……?」 カイルもナディアも狼が消えたことに気づいていないようだった。 ただ、互いの顔を確かめるように見つめあっている。 「生きてる……よかった……」 「うん……うん、兄さん……!」 幼い二人が抱き合う姿に、レイは胸の中でそっと呟く。 (その“よかった”が、いつの間にか“生きないでほしい”に変わってしまった) 願いが歪んだのは戦場だけのせいではない。 幼い頃からずっと、この“恐怖”と“依存”が積み重なり、壊れかけるほど強い絆となってしまったのだ。 「……次の記憶へ行こう」 レイが歩き出すと、森が黒い靄に包まれ、景色が歪んだ。 ◆ ◆ ◆ 次に現れたのは、小さな家の中だった。 古い木造の屋根。剣と盾が壁に飾られ、暖炉には古い灰が残っている。 ここは双子の実家――いや、騎士団の寮か。 「兄さん、今日の訓練どうだった?」 「まあまあかな。お前は?」 「私は負けちゃった……」 「気にすんなよ。次は勝てる」 思春期のカイルとナディアがテーブルで向かい合い、パンを分けあって食べている。 (この頃は、まだ普通の兄妹だ) 声には甘さも照れもあり、二人は強くなろうとしていた。 互いに負けたくないという競争心もあった。 しかし―― 「でもね、兄さん」 ナディアの声が僅かに沈む。 「もし、兄さんが死んじゃったら……私どうしたらいいんだろうって、最近考えちゃって」 カイルの手が止まる。 「……そんなこと考えるなよ」 「うん……考えないようにしてるんだけど……」 震える声。 膝の上で握りしめた両手。 カイルは迷った末、ナディアの頭に手を置いた。 「大丈夫だ。俺は、お前より先に死なない」 「兄さん……?」 「お前より先に死ぬなんて、絶対にしない。だから、怖がるな」 優しい誓いだった。 けれど――その誓いが、後の“呪い”となる。 (カイル……) レイは双子が知らない未来を知っている。 この約束が、二人をまた縛り、互いを死へと追い込むきっかけになった。 (“俺が先に死んではいけない” “兄さんより後に死んではいけない”) そんな言葉が、二人を戦場で裂いたのだ。 レイは小さく息を吐き、記憶がまた揺らぎ始めるのを感じた。 「……まだ見せたい記憶があるんだね」 陽だまりの温かさが薄れ、家の壁が砂のように崩れ落ちていく。 次の世界が開く。 ◆ ◆ ◆ そこは、戦場前夜のテントだった。 兵士たちの息遣い、遠くで鳴く夜鳥、焚き火の赤い光。 緊張と静寂が混ざり合った空気が漂っている。 革の防具を締める音がした。 「兄さん……手、震えてる」 「うるさいな……誰だって怖いんだろ」 カイルは無理に笑おうとしている。 ナディアは兄の背中にそっと触れた。 「明日……生き残れるかな」 「生き残るさ。二人で、だ」 「うん……」 沈む沈黙。 鼓動がテントに響くほどの静けさ。 ナディアは震える声で言った。 「ねえ兄さん……もし……」 「もし、何だ」 「もし……どっちかしか助からないとしたら……」 カイルは顔をしかめた。 「そんな話をするなって言ったよな」 「でも……」 「ナディア」 カイルは妹の肩に手を置き、真っ直ぐに言った。 「お前が死ぬくらいなら、俺が死ぬ。絶対に」 ナディアの目に涙が滲む。 「やだ……そんなのやだよ……!」 「俺たちは双子だろ。片方だけ生き残ってどうするんだよ」 「それって……兄さんだけ死んだらいいと思ってるってこと……?」 ナディアの声が震える。 「違う……。お前に死んでほしくないだけだ」 「でも……私だって兄さんに死んでほしくない!」 二人の声が重なる。 「じゃあ……」 「じゃあ……?」 「じゃあ……二人で、生きよう」 その言葉は美しく、正しく、兄妹の純粋な願いだった。 けれど――その純粋さが、後にどれほど重く、痛く、残酷な鎖となってしまうか。 レイはそっと目を伏せた。 (この“誓い”が……君たちを殺した) 戦場で、互いを守ろうとして互いを死へと追い込んだのは―― この夜の言葉。 戦いの火蓋が切られ、記憶の世界が赤い炎に染まっていく。 レイの耳に、戦場の喧騒と叫びが流れ込んできた。 ◆ ◆ ◆ 「兄さんっ!!」 「ナディア、避けろ!!」 双子の叫び声。 地面を叩く血の雨。 戦場の光景が息を呑むほど鮮烈に展開される。 レイは炎の中を歩き、兄妹が倒れた瞬間を見つめる。 巨大な刃。 迫る影。 立ちはだかる兄の背。 ナディアが兄を庇うように飛び込む。 カイルもナディアを庇おうとする。 互いを庇ったせいで、二つの致命傷が同時に刻まれた。 「兄さん……」 「ナディア……」 血の温度が、彼らの願いとともに地面に流れ落ちる。 レイの胸が少し焼けるように痛んだ。 (この瞬間だ……) 魂と魂が絡まり合い、 どちらも死にきれず、 どちらも生に戻れず、 “狭間”へと落ちていった瞬間。 カイルもナディアも泣いていた。 「兄さんが……死んじゃう……」 「ナディアが……死ぬのはいやだ……」 互いの顔に触れながら、震える声が重なる。 「やだよ……兄さんと……生きたかった……」 「ナディア……」 「わたし……怖いよ……ひとりになるの……」 「俺だって……怖い……」 兄が涙を流す。 妹も涙を流す。 その涙が、炎の色の中で宝石のように光った。 レイは一歩踏み出し、二人のそばに膝をついた。 「二人とも……本当の気持ちを、ようやく言えたね」 カイルとナディアがレイを見る。 「君たちはね……本当はずっと……」 レイはそっと手を伸ばした。 「“生きたい”と思ってたんだよ」 その瞬間、戦場の炎がふっと弱まった。 兄と妹が互いの手を握る。 「兄さんと生きたい……」 「ナディアと……生きたい……」 世界が白い光に包まれていく。 双子の魂がほどけ、温かい流れに乗って現実へ戻っていく。 最後にレイは、ほんの少しだけ笑った。 (よかった……) (ちゃんと……“生きたい”って言えた) 白い光がレイの視界を満たした。 ◆ ◆ ◆ 光が消え、レイは再び古戦場の闇の中に立った。 血に染まった土、砕けた鎧、散乱する剣――。 しかしそこには、まだ二つの魂が絡まり合ったまま浮かんでいた。 カイルとナディアは互いに背中を向け、目を閉じたまま戦うような姿勢をとっている。 それぞれが「相手を生かすために自分が消える」という思いに縛られていた。 レイはそっと近づき、囁くように言った。 「君たちは……互いを生かそうとしているんじゃない。互いのために、自分が消えようとしているだけだ」 カイルが顔を上げ、震える声で答える。 「俺は……ナディアに先立たれるのが怖かっただけだ……!」 ナディアも目を開け、声を震わせる。 「私だって……兄さんを置いて生きるのが怖かった……!」 二人の叫びが、戦場の闇に吸い込まれる。 絡まり合った魂が、さらに複雑にねじれた。 瞬間、周囲の風景が崩れ、血の色が濃くなり、赤い霧が立ち込めた。 「世界がまた壊れる……!」ナディアの声が絶望を帯びる。 「耐えろ……! 耐えるんだ……!」カイルも叫ぶ。 しかしレイは彼らを抱きしめることなく、静かに割り込む。 「二人とも、聞いて。生きるってのは、誰かの代わりに死ぬことじゃない。誰かと一緒に生きることなんだ」 レイは胸を叩き、自分の心臓の鼓動を二人に感じさせる。 「僕は、もう自分の過去のほとんどを忘れた。でも、それでも前に進める。誰かが待っていてくれるから」 カイルとナディアが互いの手を握り直す。 その瞬間、彼らの瞳に新しい光が宿る。 「俺……妹と一緒に、生きていきたい」カイルがつぶやく。 「私も……兄さんと一緒に……笑って過ごしたい」ナディアも微笑む。 絡まり合った魂が、ゆっくりほどけていく。 世界の赤い霧が、白い光に変わり、周囲の戦場の景色が薄れていく。 ◆ ◆ ◆ 光の中で、レイは二人の幼い頃の記憶に戻った。 騎士団の訓練場、初めて剣を握った日、笑い合った日々。 記憶は美しく、しかしどこか痛みを帯びている。 カイルがナディアに向かって言う。 「俺、弱い兄でごめんな」 「兄さん……そんなことないよ。私も弱かった」 二人が微笑み合う。 過去の記憶も、未来の恐怖も、すべてが一瞬だけ交わる。 しかし再び戦場の影が現れ、現実の痛みを呼び起こす。 「ここで、本当に生きる決意をするんだ……!」レイが叫ぶ。 カイルとナディアは顔を見合わせ、深く頷く。 「うん……二人で、生きる」 その言葉で、絡まった魂が完全にほどけ、戦場の赤い霧が消えていった。 ◆ ◆ ◆ 現実世界。 朽ちた古戦場に、かすかに風が吹き抜ける。 鎧の隙間から、同時に二つの手が伸びた。 カイルとナディア――三年間、眠り続けていた双子が、ゆっくりと目を開けた。 「……ここは……?」 カイルの瞳が周囲を探す。 ナディアも同じく目をぱちぱちと瞬き、血の色に染まった手を見つめる。 母親の幻影も、戦場の幻も、もうここにはない。 ただ、彼らの体と息が、現実として戻ってきていた。 「お前……生きてたのか……!」カイルがナディアを抱き寄せる。 「兄さんこそ……!」ナディアも涙をこぼし、互いの肩を抱き合った。 そのとき、遠くで白い鳥が舞い上がるのが見えた。 翼を広げ、夜空を滑るように飛ぶ。 レイだ――白い鳥に戻った彼が、静かに二人を見守っている。 レイは自分の胸に手を当てる。 この瞬間、またひとつ、自分の記憶が薄れていく。 (誰かを待つ理由……の一部が消えた……) それでも彼は微笑む。 「よかった……二人とも、自分の人生を選んだね」 カイルとナディアは互いに肩を支えながら、ゆっくり立ち上がる。 背中合わせではなく、横に並んで歩き出す。 それは初めての、自分たちだけの歩みだった。 レイは空へ舞い上がり、白い鳥として風に乗る。 その姿を、双子はただ見上げる。 「ありがとう……白い鳥さん……」 言葉は空へ吸い込まれ、レイには届かない。 しかし確かに、彼の胸に温かく残った。 ◆ ◆ ◆ 古戦場の風が、少しだけ静かになった。 瓦礫の間から草が芽吹き、赤く染まった土が再び黒土に戻り始める。 カイルとナディアは、互いの存在を確かめながら歩く。 戦争の悲劇も、死の恐怖も、二人で分かち合えば、少しずつ軽くなる。 「これからは、二人で生きていこう」 「うん……兄さんと一緒に」 二人の言葉が、夜空に溶ける。 レイは再び白い鳥となり、次の狭間へと羽ばたいていった。 それは、彼自身の記憶をまた少しずつ失う旅でもある。 しかし、誰かの願いを叶えるために―― 彼は今日も、空を翔る。 ◆ ◆ ◆ 夜明け前の古戦場。 凍える風が瓦礫の隙間を抜け、血に染まった土を撫でる。 朽ちかけた鎧の間から伸びた二つの手が、少しずつ動き始めた。 「……っ……あ……」 カイルの声が震える。 目をゆっくりと開けると、灰色の空、砕けた木々、そして自分の隣にいる妹の存在が見えた。 「ナディア……?」 ナディアも目を開け、互いにぎこちなく見つめ合う。 三年ぶりの現実は、温かくも冷たくもある、不思議な感覚だった。 互いの顔を確かめ、自然に駆け寄る。 抱き合った瞬間、緊張で硬直していた体の力がすっと抜けた。 「兄さん……生きてたの……!」 「お前こそ……!」 二人の涙が頬を伝い、三年間の孤独と恐怖を一気に解き放つ。 戦場跡の静寂は、彼らの泣き声で満たされていく。 ◆ ◆ ◆ 遠く、空を舞う白い鳥が見えた。 それはレイ――狭間を渡る者。 彼は羽ばたきながら、地上の双子を静かに見守っている。 (無事でよかった……) レイの胸に、温かさと同時に、少しの痛みが走った。 彼は知っている。今日、また一つ、自分の記憶が消えることを。 名前の一部、 誰かを待つ理由の一部、 もう二度と思い出せない小さな断片。 しかし、それでも、彼は微笑む。 双子が生きる道を選んだことを、確かに目の当たりにしたからだ。 カイルとナディアは互いに肩を支え合いながら立ち上がった。 背中合わせではなく、横に並んで歩き出す。 初めて、自分たちだけの一歩だ。 かつての誓い――「片方が先に死ぬなんて嫌だ」――は、 今日、この場で完全に意味を変えた。 それは相手のためではなく、自分たち自身の人生のための誓いになった。 ◆ ◆ ◆ 戦場を抜け、近くの小川まで歩く。 水面に映る自分たちの顔を、二人はじっと見つめた。 「……兄さん、私……ちゃんと生きていけるかな?」 ナディアの声はまだ震えていた。 しかしその瞳には、決意が宿っている。 「お前なら大丈夫だ。俺も……大丈夫だ」 カイルが肩に力を入れ、妹を励ます。 お互いを見つめるその瞬間、長年の恐怖が少しずつ溶けていくのを感じた。 小川の水に手を浸し、二人は笑い合う。 水の冷たさが、三年の眠りと痛みを洗い流すようだった。 小さな石を投げ、跳ねる水面を見つめる。 子供の頃と同じ遊びだ。 でも、今は生きている現実の中で、初めてできる遊びだ。 「兄さん……また、あの頃みたいに笑えるね」 「うん……笑えるな……!」 二人の声が、戦場跡に柔らかく響く。 ◆ ◆ ◆ 一方、空を飛ぶ白い鳥――レイはそっと羽を休める。 (名前の一部はもう思い出せない……) (でも、二人が笑ってくれたから、それでいい) 胸の奥に小さな空洞ができる感覚。 けれどそれは痛みではなく、静かな満足感だった。 誰かを救うということは、自分を削ることでもある―― それを、レイは今日も感じていた。 遠くで、朝日が地平線を赤く染める。 風が羽を撫で、レイを次の狭間へと誘う。 「さて……次は、どこへ行こうか」 白い鳥は羽ばたき、空高く舞い上がった。 下では、双子がゆっくりと歩き始める。 戦場を後にし、互いの肩を支えながら。 もう、誰かの代わりに生きる必要はない。 自分たちの人生を、自分たちで選んだのだから。 レイの存在は、目には見えないけれど、確かにそこにあった。 その足跡は、二人の未来に小さく光を落としている。 ◆ ◆ ◆ 古戦場を離れた二人は、遠くの村を目指す。 瓦礫の間を抜けるたび、過去の記憶がちらりと胸をかすめる。 だがそれも痛みではなく、柔らかな励ましになった。 「兄さん……行こう」 「うん、行こう。二人で……」 並んで歩く背中に、初めて重さを感じない。 肩を支えるのは安心であり、恐怖ではない。 二人の笑顔が、未来を照らす光となる。 遠く、空を見上げると、白い鳥が小さく舞っていた。 名前の一部を失ったレイは、今日も誰かの願いを叶えるために、狭間を渡り続ける。 けれど、双子が生きる道を選んだことは、確かに心に残った。 それが、彼にとっての一瞬の救いであり、希望の光だった。 カイルとナディアは初めて、自分たちの人生を歩き出す。 互いに支え合い、笑い合い、朝日を浴びながら、未来へと踏み出す。 過去の誓いはもう束縛ではない。 痛みも恐怖も、ただ強い絆の証として胸に残るだけだった。 白い鳥は風を切り、次の狭間へと消えていく。 それを見送る双子は、ゆっくりと深呼吸し、初めて自由を感じた。 ――今日から、二人の人生が始まる。 第3話「時の狭間」 アル=サナの山奥は、地図にも載らない。 人が訪れる道は途切れ、動物すらその先を避ける。 レイは白い鳥の姿のまま、険しい峰々の間を滑るように飛び、やがて霧に包まれた一帯へと降りていった。 ――時間の匂いがする。 鳥の姿でも、彼には分かる。 ここには、世界のどことも違う気配が満ちていた。 木々のざわめきは同じリズムを繰り返し、風の流れすら輪のように巡っている。 一歩進むごとに、既視感が刺す。 まだ見たことのないはずの景色なのに、「知っている」と思わせる何かがある。 やがて、深い森が開け、小さな集落が現れた。 ――ルナヴィア。 忘れられた村。 古い伝承にしか残っていない、はずだった。 だが今、確かにそこにある。 粗末な茅葺き屋根が並び、麦畑が揺れ、子供たちの笑い声が響いていた。 一見して、何の変哲もない穏やかな村。 だがレイは、空に浮かぶ“それ”を見ていた。 村の真上、巨大な時計の針のような影が、ゆっくりと――しかし確実に――逆回転している。 現実ではあり得ない、時の歪み。 レイは人の姿へ変わり、地面に降り立った。 その瞬間から、彼の胸には微かな違和感が湧き続ける。 鳥として空を飛んでいた時の記憶が、少しずつ曖昧になっていく。 いや、そもそも何を探して飛んでいたのか――思い返そうとすると霞がかかった。 「……また、か」 小さく呟き、頭を振った。 任を果たせば、記憶が消える。 それは分かっている。 けれどこの村の空気は、記憶の欠落を加速させるような妙な冷たさがあった。 ◆ ◆ ◆ 村の中心にある井戸端。 そこに、一人の少年が腰を下ろしていた。 まだ十三歳ほど。 泥のついた靴、破れたズボン、色あせた上着。 どこにでもいる村の少年に見えるが、彼の瞳だけは違っていた。 ――疲れ切っている。 世界を諦めたような、しかし抗い続けた痕跡が残る目。 少年は空の歪みをぼんやりと見上げ、ため息をついた。 「今日も……また同じ一日が来るんだ」 その呟きに、レイは歩みを進める。 少年がこちらに気づいた瞬間、目を丸くした。 「えっ……ど、どこから来たの? さっきまで誰もいなかったはず……」 「そう見えて、僕はずっと空から君を見ていたよ」 少年は驚くよりも先に、何かを理解したように表情を曇らせた。 「……あなた、外から来た人?」 「その通り。そしてきっと、君が僕を呼んだんだ」 レイが言うと、少年はぎゅっと拳を握りしめ、俯いた。 「呼んだんじゃない……来てほしくなんてなかった」 「でも、助けが必要だ」 レイが穏やかに言うと、少年はさらに口を噤み、そして苦しげに吐き出した。 「――僕が、みんなを殺してるんだ」 どこか遠くを見るような声だった。 死の事実を何度も見てきた者の、擦り切れた声音。 レイは少年の名を尋ねた。 「君の名前は?」 「ティオ。……ティオ=ルナヴィア」 村の名と同じ姓。 ここで生きた、純粋な村の少年だ。 「ティオ、君は“ループ”に気づいているんだね」 「うん。他の人は誰も気づいてない。みんな、今日が“初めての今日”みたいに笑ってる。でも僕だけは……全部覚えてる」 その瞳の奥の暗さ。 レイは胸が締め付けられる思いだった。 ティオは苦しそうに井戸の縁を握りしめた。 「毎朝、母さんが起こしてくれる。リナが笑いながら飛びついてきて、父さんは変な歌を歌いながら畑に行く。でも……夕方になると、山火事が来て、全部燃えちゃうんだ」 声が震える。 「僕は毎回見るんだよ。母さんが、父さんが、妹のリナが……炎の中で……」 ティオは声を失い、唇を噛んだ。 レイは少年の肩にそっと手を置く。 「どうして君だけが覚えているんだろうね」 「……僕が願ったから」 ティオはゆっくりと語り始めた。 ◆ ◆ ◆ 三年前の、あの日。 夏の終わり、乾いた森に雷が落ち、山火事が起きた。 ティオの家は逃げ遅れた。 家族全員が炎に包まれ―― 「その時、僕……叫んだんだ」 少年の声は、今にも消えそうだった。 「“もう一度、みんなと一緒にいたい”って」 涙ではなく、空虚な笑みが浮かんだ。 「そしたら――次の瞬間、朝になってた。火事の“前日”に戻ってて……父さんも母さんもリナも、生きてて。僕を起こしてくれて……」 ティオは首を振る。 「最初はすごく嬉しかった。ほんとに幸せだった。だって……もう一回、生きられるんだよ? みんなと一緒に」 「でも、夕方になると――」 「うん。だから僕は、火事を止めようとした。川から水を運んで、村の人を集めて、森に行って……」 「でも、結果は変わらなかった」 「必ず死ぬんだ。どんなに頑張っても、絶対に」 ティオの目は、子供のものではなかった。 諦めと疲労が、年齢にそぐわない深さで沈んでいる。 「だから……止めるのをやめた。どうせ逃げられないなら……せめて、朝から夕方までの“幸せな一日”だけ、繰り返していたいって」 レイは静かに頷いた。 「家族と過ごせる時間を、一秒でも伸ばしたかったんだね」 「……うん」 ◆ ◆ ◆ 「今日」も、ティオの家族は笑っていた。 母は綺麗な歌声で朝食を作り、父は冗談を言いながら畑へ向かい、妹のリナは花冠をつくってティオの頭に乗せた。 「お兄ちゃん、今日もあそぼ!」 「うん」 ティオは笑う。 それは、何百回と繰り返した笑顔。 でも、その裏にある苦しみは計り知れなかった。 レイはその様子を静かに見守りながら、一瞬だけ空を見上げる。 時計の針の影は、いつもと変わらず逆回転していた。 その回転は、どこかぎこちなく、今にも止まりそうなほど不自然だ。 ――ループの限界が近い。 レイの胸に、嫌な予感が渦巻く。 それでも彼は、ティオのそばに寄り添うように、ゆっくり歩みを続けた。 夕陽が沈み始めた頃、ティオはレイに問いかけた。 「ねえ……このままでも、いいよね?」 「……」 「明日も、家族は笑ってくれる。僕だけが覚えてれば……誰も、悲しまない」 レイは答えなかった。 ティオの瞳が、怯えと希望の狭間で揺れていた。 その瞬間、村の外れで何かが破れる音が響いた。 ビリ……ッ。 世界の端が紙のように剥がれ、黒い空白が覗いていた。 レイはティオを守るように腕を伸ばした。 「――ティオ。君の“永遠の一日”は、もう持たない」 ティオの顔から血の気が引く。 「……いやだ……いやだよ……!」 少年は震え、レイの袖を掴んだ。 「助けて……でも……助けないで……!」 その言葉は、痛みに満ちていた。 ◆ ◆ ◆ 夕陽が山の端に沈み、村に長い影が落ち始める。 レイは、ティオが怯えながら見つめる方向――世界が裂けた“境界”を見つめた。 紙の裂け目のように、風景の端が薄く捲れ、その下から黒い空白がのぞいている。 音もなく、しかし確実に広がっていた。 「……壊れてる。君の願いが作った世界が」 ティオは首を振る。 「いやだ……もういやだよ……! 明日だって……ちゃんとみんな笑うのに……!」 「笑うよ。――けれど、それは“本物の笑顔”じゃない」 レイの言葉に、ティオは口を噤んだ。 そのとき、村の鐘の音が鳴った。 毎日決まった時間に鳴る、夕餉の合図。 「……行こう。母さんたち、待ってる」 ティオは震える手でレイの袖を離すと、無理に笑ってみせた。 その笑顔はあまりにも痛々しく、レイは胸の奥に重い息を飲み込んだ。 ◆ ◆ ◆ ティオの家は、どこにでもある素朴な家だった。 木で組まれた壁に、手織りの布。 机には母親が焼いたパンとスープの匂いが漂っている。 「ティオ、おかえりなさい。今日は遅かったのね?」 母親が明るく声をかける。 その声音は優しく、温かい。疑いようもなく“家族の声”だ。 「……うん。ただいま、母さん」 「まあ、お客様? ティオ、友達を連れてくるなんて珍しいわねえ」 レイに微笑む母の目には、僅かな歪みが走っていた。 黒い靄が一瞬だけ瞳の奥で揺れたが、すぐに消えた。 ティオが気づくわけもない。 毎日同じ光景を繰り返しているのだから。 父親は大きな手でレイの肩を叩いた。 「息子が世話になったらしいな! おまえ、体格は細いがいい目をしてるじゃないか!」 「……ありがとうございます」 レイは微笑み返しながらも、胸の奥に冷たいものを感じていた。 この父親は――今日で何度死ぬのだろう? この母親は――今日で何度息子を抱きしめるのだろう? 妹のリナが、花冠を手にレイへ駆け寄る。 「お兄ちゃんの友達なら、これ、あげる!」 「ありがとう。……とても綺麗だね」 「えへへ!」 レイが花冠を受け取ると、ティオの目にわずかな影が差した。 それは、嫉妬でも、寂しさでもない。 ――羨望。 家族に触れられる温もりを他人が得てしまうことへの、どうしようもない羨望。 ティオは毎回、家族の笑顔を愛しながらも、それが“終わりのある幸せ”だと知っている。 だからこそ、愛すれば愛するほど苦しいのだ。 ◆ ◆ ◆ 夕餉が進むと、家族は楽しそうに話し始めた。 毎日同じ話題を。 同じ順番で。 同じ笑顔で。 ティオの母が、レイに尋ねる。 「どこから来たんですか? 旅の人?」 「ええ……そういうところです」 「危ない獣が出るから、あまり遅く歩いちゃだめよ?」 「気をつけます」 レイが答えると、母は嬉しそうにうなずいた。 「あなたみたいな優しい子が、息子と友達になってくれて嬉しいわ」 「……」 レイは返事ができなかった。 その言葉が、あまりにも悲しいものに思えた。 ――この家族は、ティオの願いが生み出した幻影だ。 もちろん、幻影だからこそ美しい。 優しくて、温かくて、欠けているものが何ひとつない。 だからティオは離れられない。 夕食の後、父は大きな声で笑いながら言った。 「よし、今日はレイもいるんだ。一緒に焚き火でもしよう!」 ティオの表情が強張る。 焚き火――火。 彼の心が最も怯える時間だ。 「……やめようよ、父さん」 「ん? どうした?」 「なんでもない。……ちょっと疲れただけ」 父は気づかない。 何度も何度も同じ夕焼けを迎えてきたはずなのに、同じ笑顔のまま。 それが一層、残酷だった。 ◆ ◆ ◆ その夜、家族が寝静まったあと、ティオはレイを裏庭へ連れ出した。 月が沈み、薄暗い影が山々を覆っている。 「……ねえ、レイ」 「うん」 「どうして……どうして僕だけが、このことを覚えてるのかな。 どうして母さんも、父さんも、リナも……毎日同じことを繰り返して笑っていられるの?」 ティオの声は震えていた。 「君の願いが強すぎたからだよ。 過去は変えられない。火事は起き、君の家族は亡くなった。 でも、君が“また会いたい”と願ったから、世界がひとつ、壊れた」 「……壊れた?」 「そう。壊れて、“火事の前日”に固定された」 レイは空を見上げた。 巨大な時計の針が、ぎこちなく逆回転し続けている。 「ループは、もう限界だ。君の心が耐えきれなくなってきてる」 「僕の……心?」 「君が、家族を失う痛みに耐えるために作った世界なんだ。 でも、痛みは消えてない。 今日も……明日も……君は同じものを見続けてる」 ティオは小さく嗚咽を漏らした。 「違う……違うんだ……! 僕はただ、家族といたかっただけなのに…… なのに……どうして……!」 レイはそっとティオの肩に手を置く。 「逃げたっていい。苦しいのは当然だ。 でも……このままじゃ、君はいつか壊れてしまう」 ティオはレイを見上げた。 その瞳は、怯えと憎しみと悲しみが渦を巻いていた。 「ねえレイ……どうしたらいいの? このままでもいいって……思っちゃうんだよ。 だって、家族は明日も笑ってくれる。 僕だけが泣きながら“今日”を覚えてれば、それで全部丸く収まるじゃないか……!」 レイはゆっくり首を横に振る。 「――丸くなんて、収まっていない」 その瞬間、村が小さく震えた。 家の窓が、ガラスのようなノイズを発した。 光が乱反射し、景色が少しだけ歪んだ。 「ほら、見えるだろう? 世界が、君の願いの重さで軋んでる」 ティオは震えながら、崩れかけた村の一角を見た。 「やだ……やだよ……! 壊れないでよ……! 僕は……みんなと一緒にいたいだけなのに……!」 「分かってる。 君がどれだけ家族を愛していたか。 家族を失うのが、どれだけ怖かったか」 レイはすぐ横で、彼の涙を見守りながら言葉を続けた。 「でもね、ティオ。 “愛しているからこそ、前に進まなきゃいけない時”があるんだ」 「そんなの……分かってるよ……!」 ティオは叫んだ。 声は裏返り、痛みがにじむ。 「でも、怖いんだ……! このループを壊したら、家族のこと……全部忘れちゃうんだろ……? リナの笑顔も、母さんの歌も、父さんの大きな手も…… 全部、全部……!」 レイは静かにティオの頭を撫でた。 「君は忘れるかもしれない。 でも――その記憶を、僕が代わりに抱えてあげられる」 ティオは息を呑んだ。 「……え?」 「君が失ってしまうなら、僕が受け取ればいい。 大切な思い出は、誰かに託すこともできるんだ」 ティオは涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。 「そんなの……そんなの、ずるいよ……!」 「ずるくても、選ばなきゃならない時がある。 そして選べるのは――君だけだよ」 レイの手の温もりの下で、ティオは嗚咽を漏らし続けた。 その涙は止まることなく、冷えた夜風に消えていく。 遠くで、また世界の端が音を立てて剥がれた。 村は――時間は――もう限界だった。 ◆ ◆ ◆ 翌朝―― ティオは涙で濡れたままの頬を隠すように、うつむきながら家を出た。 空は青く澄み、昨日と全く同じ。 鳥は元気に鳴き、風は優しく穀物畑を撫でていく。 けれど、その完璧な美しさは、もはや“作り物”にしか見えなかった。 レイはティオの隣に歩み寄りながら、静かに息を吐く。 「……今日が、最後の“ループ”になるかもしれない」 「……うん」 ティオはかすかにうなずいた。 夜の間もずっと、世界は軋んでいた。 家の隅では家具が透け、遠くの空にはざらついた黒いノイズが走り続けている。 ――終わりは、確実に近づいていた。 ◆ ◆ ◆ 朝食の席。 母は、昨日と同じ焼きたてのパンを出してくれた。 「ティオ、今日はレイ君にもう少し村を案内したらどう? お天気もいいしね」 「……うん」 「ごめんね、最近ティオったら寂しがり屋で。あなたが来てくれて本当に助かったわ」 母はいつも通りに微笑んでいる。 その笑顔が、今日は少しだけ薄く見えた。 輪郭が揺らぐ。 髪の端が透ける。 ティオは目を見開いた。 「母さん……!」 思わず声が漏れる。 母は何も気づいていないように、優しい手つきでパンを切り分け続けている。 「? どうかしたの?」 「……ううん、なんでもない」 ティオは必死に笑った。 笑わなければ、泣いてしまう。 泣いてしまえば、この世界が本当に“終わってしまう”気がした。 妹のリナが、花冠を抱えて走ってくる。 「ティオ! みてみて! また新しいの作ったの!」 リナはいつものように笑顔だった。 だが、ティオにはその笑顔の裏で“ぺりっ”と音がした気がした。 リナの頬の部分にだけ、薄いノイズが走った。 まるで絵の具の色が一瞬はがれ落ちたかのように。 「リナ……」 「? どうしたのお兄ちゃん」 「なんでも……ないよ。ありがとう。すごく綺麗だ」 ティオは震える手で花冠を受け取る。 その手の中で、花びらが微かに砂のように崩れ落ちた。 ◆ ◆ ◆ 昼。 父が畑に誘ってくれた。 「レイも来い! 男の仕事ってやつを見せてやる!」 「いいんですか?」 「もちろんだ!」 父は大きく笑い、ティオの頭を撫でた。 ――その手もまた、透けていることにティオは気づいた。 「父さん……」 「ん?」 「今日さ……畑、やめにしない?」 「どうしてだ? 楽しいぞ?」 「……僕、もっと父さんと話したいな」 父は目を丸くした。 「おお? ティオがそんなこと言い出すとは……はは! よし、今日は特別に、休みにしちゃうか!」 明るく笑う父。 その笑顔が、ティオには眩しくてたまらなかった。 ――こんなに大好きなのに。 どうして、どうして世界が許してくれないんだ。 ◆ ◆ ◆ 午後。 ティオは母と洗濯をし、リナと野原で遊んだ。 父と一緒に川まで散歩し、レイも一緒に笑った。 すべてが、あまりにも温かい。 あまりにも大切だ。 そのたびに、世界は少しずつ音を立てて壊れていく。 母の髪が風に揺れるたびに、糸のようにほつれた。 父の靴が地面に落ちる影はぼやけて薄くなっていく。 リナの声は、ときおり聞き取れないほどノイズにまみれた。 「ねえ、レイ……」 「……うん?」 「どうして……こんなに、苦しいのかな。 僕は幸せなはずなのに……胸がずっと痛くて……」 「それはね、ティオ」 レイは空に広がる“ひび割れた青”を見上げながら答えた。 「君の心が、“本物の幸せじゃない”って気づいているからだよ」 「……っ」 「この幸せは、いつか必ず崩れる。 終わりのあるものだからこそ、美しいんだ。 でも君は、その終わりを拒んでしまった。 だから世界は苦しんで、こうして壊れ始めている」 ティオは唇を噛んだ。 「……終わりが怖いんだ」 「うん。怖いよね。僕も……同じだった」 レイは自分の胸に手を当てた。 「僕はね、これまでにいくつも願いを叶えて、そのたび記憶を失くしてきた。 失うのは怖かったよ。 大切な人の顔が、声が、名前が、消えていくのが……本当に怖かった」 ティオはレイを見る。 その瞳に“自分と同じ絶望”が映っていた。 「でも、僕はね……忘れても、前に進むことができた。 なぜなら、“誰かが待っている”と信じたからだ」 「誰か……?」 「うん。僕は今、その名前すら覚えていない。 でも……胸の奥のどこかが、ずっと言ってるんだ。 “戻ってこい”って」 ティオは息を飲んだ。 ――家族を失う恐怖。 ――失っても進まなければならない現実。 それをこの青年は、ずっと背負ってきたのか。 「ティオ。 君はずっと、家族の“昨日”にしがみついている。 でもね、家族は君の“明日”を望んでいるはずだよ」 「……どうして、そう言い切れるの……?」 「君の家族は、君を愛していたからだ。 愛する人には、前に進んでほしいと思うものだよ」 ティオは顔を伏せた。 『ティオ、大きくなったら何になりたい?』 ――母の声がよみがえる。 『ティオ、おまえの未来は、きっと素敵だぞ』 ――父の言葉が胸に刺さる。 『リナのお兄ちゃんはね、世界でいちばん優しいんだよ!』 ――妹の笑顔が、涙で滲んだ。 「……うっ、うぁぁ……!」 ティオは叫び、地面に崩れ落ちた。 「いやだ……! 置いていきたくない……! 家族を……置いて……僕だけ……!」 レイはそっと彼に手を伸ばす。 「置いていくんじゃない。 ――受け継ぐんだよ。 家族が笑ってくれた時間を、未来へ運ぶんだ」 「未来なんて……いらない……!」 「未来が怖いのは、君が優しいからだよ。 でもね、優しさは前へ進む力にもなる。 怖さを抱えたままでも、一歩進める」 ティオは涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、レイを睨んだ。 「レイ……僕、どうすればいい……?」 「選ぶんだ」 レイはまっすぐ言った。 「――過去か。 ――未来か」 その時だった。 空が、音を立てて裂けた。 村を包む“時間の膜”が破れ、巨大な黒い歪みが空を覆う。 風景の一部が吸い込まれ、砂のように崩れ落ちていく。 世界の崩壊が、もう止められない速度に達した。 「ティオ! 急がないと……!」 「いやだ……いやだ……! もう少しだけ……家族と……!」 ティオは必死に家の方へ走り出す。 レイも後を追う。 ◆ ◆ ◆ 家の中。 食卓にいた家族が、ゆっくりと振り返る。 「ティオ? どうしたの?」 母は優しい声で言う。 けれど、その姿は半透明で、向こう側の壁が透けて見える。 「母さん……!」 ティオは母に抱きついた。 腕の中の温もりは確かにあった――だが、その温もりは薄く、頼りない。 「ティオ……? 何があったの?」 「ごめん……ごめん……!」 ティオの涙が零れるたび、母の影が揺らぐ。 父が息子の肩に手を置こうとした瞬間、腕が一瞬“砂”のように崩れた。 「父さん……!」 「ティオ、お前……泣くなよ……男だろ……?」 しかしその声は震え、輪郭がぼやける。 リナが駆け寄る。 「お兄ちゃん、こわい夢みたの……?」 「リナ……!」 ティオは妹を抱きしめた。 その小さな身体は軽く、触れれば消えてしまいそうだった。 レイは後ろで静かに見守った。 この瞬間が、ティオにとって“最後”になることを知りながら。 ◆ ◆ ◆ 世界の崩壊が、ついに加速する。 家の壁が剥がれ落ち、外へ続く景色は黒い空白へと変じていく。 音が消え、風が止み、空気が震える。 ティオは泣き叫んだ。 「もう一度だけ……もう一度だけでいい……! 家族と……生きたい……!」 レイは彼の肩をつかみ、強く抱き寄せた。 「ティオ!」 「いやだっ……! まだ……まだここにいたい……!」 「ティオ、聞いて!」 レイは叫ぶように言った。 「家族は“生きていてほしい”と思っているんだ! 君に生きていてほしい! 笑ってほしい! “未来へ進んでほしい”と願っている!」 ティオは震える声で呟く。 「でも……僕が前に進んだら…… 家族のこと……全部……忘れちゃうんだよ……?」 「――忘れてもいい。 僕が、覚えてるから」 ティオの呼吸が止まった。 「君が忘れても……僕が背負う。 家族の笑顔も、声も、名前も、全部。 僕の中で――永遠に生き続ける」 「そんなの……ずるいよ……!」 「うん。ずるいよ。 でも、それで君が生きられるなら――僕は、いくらでもずるくなるよ」 レイはティオの手を握った。 「さあ、ティオ。 選んで。 “昨日”と“明日”――どちらを選ぶ?」 ティオの瞳に、最後の涙が光った。 そして―― 「……僕……」 「……」 「僕は――」 世界が崩れ落ちる寸前。 黒い空白が家を飲み込み、家族の姿が光に溶け始めた。 ティオは喉が裂けるほどの声で叫んだ。 「――お父さん! お母さん! リナ……! ごめんね……ごめん……! 僕、もう――前に進むよ……!」 その瞬間、村全体が光に包まれた。 時間のループが破れ、固定された世界が一気に解き放たれていく。 レイは光の中で目を閉じた。 ティオの家族の声、笑顔、記憶が、彼の胸に流れ込んでくる。 まるで温かい風が心の奥へ吹き込むように。 優しく、切なく、愛おしい記憶が。 レイは静かに呟いた。 「……ありがとう。 確かに受け取ったよ」 光がすべてを飲み込んだ。 ◆ ◆ ◆ ――夜が明けた。 光は驚くほど静かだった。 まるで世界が深い眠りから目覚めたように、白む空がゆっくりと色を取り戻していく。 ルナヴィアの村で、初めて迎える「火事の日の翌日」。 それは、この村にとっても、ティオにとっても、一度も訪れたことのない“未来”だった。 ◆ ◆ ◆ 「……ここは……?」 ティオはゆっくりと目を開いた。 湿った土の匂い。 焦げた木材の残り香。 肌には冷たい朝露がついている。 身体を起こすと、そこは―― 昨日までループしていた村の、まったく違う姿だった。 焼け焦げた家々。 黒く崩れた屋根。 地面には灰が積もり、空気には淡い煙がまだ漂っている。 ――火事の翌日。 ティオ一人だけが、生き残っていた。 「……母さん? 父さん……? リナ……?」 声を出すが、返事はない。 耳に届くのは、風が灰を揺らす音だけ。 足元に転がる小さな布切れが目に入る。 焦げて黒ずんだ、淡い桃色。 「……これ……」 拾い上げると、それは―― 妹リナがいつも髪に結んでいた、小さなリボンだった。 ティオは胸が締めつけられ、呼吸が止まりそうになる。 「り……ナ……」 だが、不思議だった。 このリボンを見ても、胸の奥が“空っぽ”のままだ。 涙が、出ない。 頭の中に浮かぶべき、家族の笑顔が―― どうしても、思い出せなかった。 「……っ……!」 ティオはリボンを握りしめ、地面に崩れ落ちた。 「僕……なんで…… なんで、何も……思い出せないの……?」 喉が痛いほど泣いているのに、胸の奥だけは静かだった。 まるで記憶が、すっぽりと抜け落ちているように。 それが“代償”だと気づくまで、少し時間がかかった。 ◆ ◆ ◆ 灰の雪が舞う村の端―― 一本の大きな木の枝に、白い鳥が留まっていた。 レイだ。 人の姿に戻ると、彼は胸のあたりを押さえる。 そこには、温かい“何か”が、まだふつふつと息づいていた。 ――小さな妹が「お兄ちゃんだいすき!」と笑ったこと。 ――母が優しく背中を流してくれた夕暮れ。 ――父と並んで畑の土を掘り返した午後。 全てが、レイの内側であざやかなまま生きている。 (……ティオの、大切な記憶だ) レイは深く息を吸う。 (忘れちゃいけない。 これは、僕が預かった大切なものだ) しかし――その直後。 「……っ!」 鋭い痛みが頭を走り抜けた。 視界が揺れ、ひざが崩れそうになる。 レイは木にもたれ、息を荒げた。 「また……一つ……」 記憶が、抜け落ちる。 指の隙間から砂がこぼれ落ちるように。 手を伸ばしても掴めないまま消えていく。 今回は――何を失ったのか。 思い出そうとした瞬間、胸の奥に“空洞”が広がる。 (……誰か…… 僕を待っていてくれた気が、するのに……) その“誰か”の顔が、もう思い出せなかった。 しかし、代わりに胸に宿った温かさがかすかに形を持ち始めていた。 ティオの家族の記憶。 ループの中で、ティオが守ろうとした愛情。 それが、レイの空洞を静かに満たしていた。 ◆ ◆ ◆ そんなレイの前に、ゆっくりとティオが歩いてきた。 足取りは重く、目は腫れ、それでもしっかりと前を見ていた。 「……レイ」 「ティオ。 大丈夫?」 「わかんない……大丈夫なのかどうかも、わかんない……」 ティオは胸に手を当てる。 「何も……思い出せないんだ。 昨日まであんなに、母さんの歌も、父さんの笑顔も、リナの声も……全部全部覚えてたのに……」 声は震えたが、涙は出ない。 泣き方すら忘れてしまったように。 「僕、ひどいよね…… 忘れちゃうなんて…… 家族を、愛してたはずなのに……」 「違うよ」 レイはそっとティオの肩に手を置いた。 「忘れたんじゃない。 ――手放したんだよ。 未来へ進むために」 「でも、これじゃ……家族のこと……何も……!」 「僕が覚えてる」 ティオは顔を上げる。 「……え?」 「君の家族のこと、全部。 笑ってた夕暮れも、抱きしめてもらった夜も、川辺で転んだときのことも…… ぜんぶ、僕が覚えてる」 ティオの目が大きくなる。 「だから、君が思い出せなくても…… 心の中で、ちゃんと生きてるよ。 君の家族はね」 「…………」 ティオの唇が震える。 「そんなの……ずるいよ……」 「うん。僕は、ずるいんだよ」 レイは笑った。 どこか寂しげで、どこか誇らしげで。 「でもね、君が一歩踏み出すたびに…… 僕の中で、彼らの笑顔がまた輝くんだ。 君の“明日”が、君の家族の“明日”にもなる」 ティオはうつむき、そして―― ゆっくりと、かすかに、息を吐いた。 「……レイ」 「うん?」 「僕……生きてみるよ。 ちゃんと、明日を歩いてみる」 「……」 「怖いけど…… でも、きっと、それでいいんだよね」 レイは笑って答えた。 「――うん。 それでいいよ、ティオ」 ◆ ◆ ◆ 村では、生き残った数人の大人たちが焼け跡の前で呆然としていた。 全てを失い、言葉すら失っていた。 ティオは深呼吸をし、彼らの方へ歩き出す。 「ティオ……どこへ行くの?」 「みんなのところへ。 僕……やらなきゃいけないことがある」 「やらなきゃいけないこと?」 「うん」 ティオは灰だらけの地面に視線を落とす。 「僕は……家族の分まで、生きるんだ。 そして……この村も、ぜんぶ。 少しずつでも……立て直す」 その小さな背中は震えていた。 けれど、その震えは“恐怖”だけではなかった。 ――決意の震えだった。 「ティオ」 レイが呼ぶと、ティオは振り返る。 「何?」 「きっと……また会えるよ」 ティオは目を細め、かすかに笑った。 「うん……そうだね。 ありがとう、レイ」 その笑顔には悲しみも痛みもあったが、確かに“前を向いていた”。 ◆ ◆ ◆ レイは再び白い鳥の姿になり、空へと舞い上がる。 翼が光を受けてきらめく。 下では、ティオがゆっくりと歩き出していた。 村人のそばへ行き、焦げた地面を一歩一歩踏みしめながら、未来へ向かって。 (……ティオ。 君の家族はきっと誇らしいよ) 風がレイの体を抜ける。 温かい風。 ティオの家族の記憶が、羽ばたくたび胸の奥で光っていた。 その瞬間、またひとつ―― レイの記憶が、そっと音もなく消えた。 名前か。 顔か。 旅に出た理由か。 それすら判別できないまま、砂のように消えていく。 だが、代わりに胸に宿った“温かさ”だけは確かだった。 レイは青空へ声を放つ。 「……大丈夫。 僕は忘れても……君たちは、ここにいる」 風に溶けるように、声は消えた。 やがて彼は羽ばたき、遠い空の端へ向かっていく。 「さあ……次は、どこへ行こうか」 白い鳥の影が、朝の空を越えていった。 その足跡の奥には、 未来へ向けて歩き出したティオの、たった一つの足跡が残っていた。 第4話「世界の狭間」 最初に異変を感じたのは、風の匂いだった。 アル=サナの森に吹く風は、基本的に土と草の匂いがする。 けれどその日、レイが白い鳥の姿で上空を羽ばたいていたとき、風の中には―― アスファルトの焦げた匂い。 排気ガスの重い匂い。 人々が行き交うざわめきの気配まで混ざっていた。 (……境界が、こんなにも近くに) 白い羽を揺らすたびに、地上の風景がちらつく。 アル=サナの青い空の端に、まるで水彩画の上に貼られた別の絵の具がにじみ出るように、ビルの影が見え隠れした。 その場所が“裂け目の森”だった。 ◆ ◆ ◆ 森の上空にたどり着いた瞬間、レイは思わず羽ばたきを止めた。 (……これは……) 下に広がる光景は、自然の森でも、ただの異世界でもなかった。 木々の幹はところどころ透け、そこから東京の雑居ビルが覗き込む。 葉の表面には、スマホの画面を映したような光の粒が走る。 川の水面には、新宿のネオンライトが反射し、看板の文字が波紋と共にゆがんで消えていく。 まるで二つの世界が重なり、混ざり合い、どちらにも引き裂かれる寸前のようだった。 レイは地上へ降りると、足を森の地面に触れた瞬間――別の靴音が重なって聞こえた。 片方は土を踏む音。 もう片方はアスファルトを踏む硬質な音。 重なる世界の接触点。 ここまで境界が薄くなるのを、レイは初めて目にした。 (……これは、もうすぐ“崩壊”だ) そう感じたとき、彼の前方――森の奥に、ひとりの人影が立っていた。 現代日本の服装。 灰色のパーカーにデニム。 スニーカーは泥と血で汚れている。 黒髪を一つに結んだ、二十五歳くらいの女性。 冷えた空気の中、彼女だけがまったく場違いに見えた。 だが――その目は、諦めと疲労を混ぜた強さを湛えていた。 レイが白鳥の姿から人の姿へ変わると、彼女は微かに目を細め、ひどく疲れたような笑みを浮かべた。 「……また新しい“渡り鳥”が来たのね」 レイは瞬きをする。 「僕を知っているの?」 「ええ。この世界を渡ってる鳥のことは、旅の途中で何度も聞いたから。 でも――」 彼女は肩を少し上げ、夜のような苦笑いを浮かべた。 「来るの、遅いよ。本当に、もう時間がないの」 「時間がない……?」 レイがそう問い返すと、彼女は森の奥、歪みの中心を指差した。 ◆ ◆ ◆ そこには、二つの世界の境界が、音を立てて崩れようとしていた。 大地が薄膜のようにゆがみ、森の向こう側には東京の街が半透明に広がる。 逆にビルの隙間からはアル=サナの山脈が覗く。 世界の輪郭が、めくれかけたページのように震えている。 木の根元にはマンホールが重なる。 草の中には駅のホームの白線が浮かび上がる。 そして空には、二つの月が重なり、影のように交互に透けていた。 女性が深く息を吐いた。 「私、御影ミカ。 三年前、交通事故の瞬間……気づいたらこの世界に落ちてきてた。 いわゆる“異世界転移”ってやつね」 「三年前……」 「うん。帰り方を探して、ずっと旅してた。 帰りたいって思い続けてきた。家族にも、友達にも……」 ミカは一瞬、首をかしげるように空を見上げた。 「でも、帰れない理由も増えた。 私には――この世界にも、大切な仲間ができたの」 「仲間……?」 レイが聞き返すと、ミカの目に一瞬だけ柔らかい光が宿った。 「獣人の少女、リル。 魔術師のガルド。 半竜族の剣士、ゼイン……」 彼らの名前を言うとき、ミカの声は少しだけ震えていた。 大切に思っている証だった。 「彼らは私を“姫”なんて呼ぶけど…… 本当は、ただの迷い人よ」 ミカは自嘲するように笑う。 「本当はね、帰れる方法が見つかったの」 そう言うと、レイの心臓が嫌な予感で締めつけられた。 「でもその“帰還の儀式”には致命的な欠陥があった。 ――帰る代わりに、どちらかの世界を一つ、犠牲にしないといけない」 「……!」 「帰れば現実世界は残るけど、アル=サナは消える。 残ればアル=サナは残るけど、現実世界で私を愛してくれた人たち――全部消える」 ミカは額に手を当て、深く深呼吸をした。 「どっちを選んでも、私は“誰かの世界”を殺すことになる。 そんな選択……できるわけ、ないじゃない」 レイは何も言えなかった。 ミカは、静かにレイを見る。 「ねえ、“渡り鳥”のレイ。 あなたは……どうする? あなたはいつも、誰かの願いを叶えているって聞いた。 代償に、自分の記憶を削りながら」 レイは身動きを止める。 「どうしたらいい? 私はどっちの世界も捨てたくない。 でも、このままだと――どっちの世界も先に消える」 彼女は涙をこぼしながら、初めて弱音を吐いた。 「お願い……教えて…… 私は、どうすればいいの……?」 ◆ ◆ ◆ 返す言葉が、すぐには見つからなかった。 境界は破れかけている。 時間も残されていない。 ミカは三年を悩み続けてきた。 たくさんの人たちと歩き、たくさんの別れと出会いを越えてきた。 レイは、ただの旅人だ。 記憶を失いながら願いを叶える、漂う存在にすぎない。 それでも、この問いには―― 嘘をつけなかった。 「ミカ。 君が迷っているのは、正しいことだと思う」 「……?」 「誰も、誰かの世界を犠牲にして幸せにはなれない。 それを“迷える”君は、強いよ」 ミカは目を潤ませ、唇を震わせた。 「でも……解決策がないの。 どちらかの世界を消すか、私がすべてを諦めるか…… 本当に、それしかないの」 「……一つ。 可能性が、あるかもしれない」 レイがそう言うと、ミカは息を呑んだ。 「その可能性は……君が探してきた世界の答えより、もっとひどくて、もっと残酷だ。 僕自身も、全部を失う覚悟が必要になる」 「……レイ?」 森が静まった。 二つの世界の境界が、ゆらりと薄い膜を揺らす。 東京のネオンとアル=サナの月光が重なる。 レイはゆっくりと、ミカの方へ歩いた。 「ミカ。 君が本当に“どちらの世界も救いたい”って願うなら…… そのために必要なものは、たった一つ」 「たった……一つ?」 「君が、願うこと」 ミカは瞬きをする。 レイは微笑む。 「もうすぐ“裂け目”が完全に開く。 そのとき、君の答えを聞かせてほしい」 そう言った瞬間、森の奥で轟音が響いた。 裂け目の中心―― 二つの世界が重なる“核”が、ついに動き始めた。 ◆ ◆ ◆ 地面が揺れた。 空が裂けた。 東京のビルの影が森を切り裂き、逆にアル=サナの樹木が街を突き破る。 二つの世界が混ざり合い、もはや何がどちらのものか区別できない。 境界は限界だった。 ミカが叫ぶ。 「もう……時間が……!」 「行こう。 君の仲間のところへ」 レイは白い鳥へと変わり、その背にミカを乗せる。 裂け目に向かって―― 二人は、世界の狭間へと飛び込んだ。 ◆ ◆ ◆ 白い鳥の背中から見下ろす世界は、すでに“世界”と呼べるものではなかった。 森の木々は東京の電柱とつながり、 道路はアル=サナの街道と重ね合わされ、 空には高速道路の標識が浮かぶ。 どちらの世界も本来の形を保てず、 互いに侵食しあい、ひび割れたステンドグラスのように脆く揺れていた。 (急がないと、本当にどちらかが消える……いや、両方が消えてしまう) レイは羽ばたきをさらに強め、ミカをしっかりと背に乗せながら、裂け目の中心へ飛ぶ。 「ミカ、しっかり掴まって」 「うん……! でも、あなた、大丈夫なの?」 「まだ平気だよ。 僕は境界に近づくほど、力は強くなるから」 ミカはレイの羽をぎゅっと握った。 その手には強張りと、迷いと、焦りが混ざっている。 「……みんな、無事かな」 「君の仲間のところへ向かっているよ」 レイは地上に目を凝らす。 ◆ ◆ ◆ 裂け目の中心―― そこはもう、森でも街でもなかった。 大地は二色のレイヤーのように重なり、 道が重複し、木とビルがめり込み、 そして中央には、巨大な渦のような光の縦穴が存在していた。 その縁で、三つの影が必死に何かを押し戻している。 「……あれは……!」 ミカが叫ぶ。 ――獣人の少女、リル。 ――老魔術師、ガルド。 ――半竜族の剣士、ゼイン。 三人とも、すでに満身創痍だった。 リルは裂け目から噴き出す“灰色の風”を、短剣で切り裂いている。 切り裂いても切り裂いても、その風は無限に生まれ、世界を削り取ろうとしていた。 「おらぁあああ!! 消えろよぉ!!」 リルの叫びは震えていた。それでも、あの小さな体で必死に踏ん張っている。 ガルドは大きな魔法陣を展開し、裂け目を封じようと呪文を唱えている。 だが、魔法陣は次々とノイズのように崩れ、まるで魔力そのものが削られているかのようだった。 「ぬう……! だめだ、押しきれん……!」 そしてゼインは、剣を裂け目へ突き刺し、裂け目の広がりを必死に止めようとしていた。 半竜族特有の青い鱗がところどころ剥がれ、血が滲んでいる。 「くそっ……ミカ……早く来い……!」 三人の声は、世界の悲鳴と混ざってかすかにしか聞こえない。 しかしミカの耳には、はっきりと届いていた。 「……リル……ガルドさん……ゼイン……!」 ミカの胸が震えた。 レイは静かに地面へ降り立つ。 彼が姿を変えると同時に、ミカは走り出した。 「みんなっ!!」 その叫びに、三人がそろって振り返った。 ◆ ◆ ◆ 「ミカーーー!!」 一番に飛びついてきたのはリルだった。 彼女は涙と土にまみれた顔でミカに抱きつき、しがみつく。 「姫! 無事だったんだねぇ……! もう、もう会えないかと思った……!」 「リル……! 本当に、よかった……!」 二人の体が触れた瞬間、ミカの目から大粒の涙がこぼれた。 次に近づいてきたのはガルド。 老魔術師は杖を握ったまま、全身を震わせて笑っている。 「まったく……帰還の儀式を中断したときは、どうなることかと思ったぞい……」 「ごめん、ガルドさん……私……」 「よいよい。おぬしの選択を、わしらが止めることなどできん」 その背後から、ゼインがゆっくり歩み寄ってきた。 大柄な身体。 傷ついた鱗。 鋭く見える目が、今はかすかに揺れている。 「……ミカ」 ただ一言。 それだけに込められた想いは、重かった。 「ゼイン……!」 ミカが再び泣き出しそうになるのを、ゼインは静かに受け止める。 だがその優しさの奥には――深い悲しみと覚悟があった。 「ミカ、お前は……帰るべきなんだ」 ゼインの声は低く、揺れ、震えていた。 「この世界は、お前の本当の場所じゃない。 お前の家族はあっちにいる。 母親も、友達も……全部、お前の人生なんだ」 「……知ってるよ。でも……!」 「俺たちは、そんなお前が帰れるように、命を賭けてきたんだ」 ゼインは、ミカの手をそっと掴んだ。 「だから、もう……悩まなくていい。 帰れ、ミカ。俺たちは、ここで消えても構わない」 「ゼイン――!」 ミカの叫びを遮るように、裂け目の中心がさらに激しく揺れ始めた。 ◆ ◆ ◆ ビルの影が森を裂き、草地に高速道路のアーチがめり込み、 世界の欠片が音を立てて削られていく。 空には、黒い亀裂が走った。 「まずいぞ!」 ガルドが魔法陣を張り直し、叫ぶ。 「このままでは、両方の世界が先に崩れる! 急がねば――!」 「くっ……リル、下がれ!」 ゼインがリルを抱えて跳び退く。 ミカはその光景に震えながら、レイを見る。 「レイ……! どうすればいいの!? もう、誰も傷ついてほしくない……!」 レイは一歩だけ前に出た。 その目には、静かな決意と、深い哀しみが宿っている。 「ミカ。 君の仲間は、君のために自分の世界を犠牲にしようとしている。 けれど……君は、それを望まない」 「望まない……! 私は……!」 「なら、答えは一つしかない」 裂け目から吹き出す灰色の風が、レイの髪と衣を揺らす。 世界そのものが、彼らを選択へ追い込もうとしていた。 「僕が境界を繋ぐ。 二つの世界を“壊さず”に繋ぐ方法は、それしかない」 三人の仲間たちが同時にレイを見る。 リルが叫ぶ。 「何言ってんの!? それ……アンタが無事で済むわけないじゃん!!」 ガルドは眉をひそめる。 「渡り鳥……お主、自分の存在を“代償”にするつもりか?」 レイは静かに頷いた。 「そうだよ。 僕の“存在”のほとんど全部を境界の代わりにする。 そうすれば――二つの世界は混ざらず、壊れず、繋がったまま残せる」 「そんなっ……!」 ミカは膝から崩れ落ちそうになった。 「レイ……あなたは……そんな……!」 「ミカ。君は選べないと言った。 なら――選ばなくていいように、僕が橋になる」 その言葉に、ミカの世界が揺れた。 「でも……あなたがいなくなる……! そんな解決、私――!」 「ミカ」 レイは一歩近づき、優しく微笑んだ。 「大丈夫。 君には“世界を救える強さ”がある」 その瞬間、裂け目の奥から凄まじい光が溢れた。 世界が限界を迎えようとしていた。 「ミカ!! 時間がない!!」 リルが叫ぶ。 「選べっ!!」 ゼインが吠える。 「ミカよ!」 ガルドが杖を突き立てる。 ミカは、涙で滲む視界の中で―― 仲間たちの姿と、レイの背中を同時に見つめた。 そして。 ゆっくりと唇を震わせ、泣き笑いで叫んだ。 「……私……どっちも、選ばない……!」 世界が止まった。 ミカは震える声で続ける。 「どっちも失いたくない。 この世界も……現実の世界も……全部、大切だから……!」 彼女はレイの手を掴んだ。 「私自身が……橋になる!!」 ◆ ◆ ◆ 裂け目が、咆哮した。 次の瞬間、世界が光に飲まれた。 ◆ ◆ ◆ 世界は、光と闇の粒子に分解されていた。 森の木々の輪郭がほどけ、 ビルの躯体が砂のように風へ舞い、 空は黒と白の亀裂に裂け、 二つの世界が互いに引きちぎり合っていた。 その中心に、ミカが立っている。 右手の先はアル=サナの草原につながり、 左手の先は現実世界のアスファルトの道路に繋がり、 彼女の周囲で、二つの世界が同時に震えていた。 「……これが、境界……」 ミカは息を呑む。 足元は二つの世界が重なった“裂け目の床”。 一歩踏み出せばアル=サナへ、 もう一歩踏み出せば東京へ。 そのどちらへも、彼女は進めない。 「ミカっ!!」 リルの叫びが響く。 獣耳を揺らし、全身を震わせながら、ミカのそばへ走り寄る。 だが、境界の輝きに阻まれ、手を伸ばしても届かない。 「来ちゃダメ!」 ミカは叫ぶ。 「リル……そこを超えたら、あなたが消えちゃう!」 「でもっ……! でも、姫が一人でそんな……!」 リルは小さな拳で境界を叩く。 小柄な少女なのに、誰よりも強く世界を憎んでいるような瞳だった。 「姫! 行っちゃヤだよ……!」 「一緒に帰ろ? 一緒に笑お? 一緒に……!」 「……ごめん」 ミカはゆっくり首を横に振った。 「私は、どっちの世界も手放したくないの。 リルのいる世界と……お母さんのいる世界、両方……!」 「そんなの……ずるい……! ずるいよ、姫ぇ……!」 リルの涙が、境界の膜に弾かれ、光の粒になって散った。 ◆ ◆ ◆ ガルドが杖をつきながら進み出た。 裂け目の光で白髪が淡く光っている。 「ミカよ」 彼は声を震わせながら言った。 「おぬしが選んだ道は……あまりにも厳しい。 境界に身を固定すれば、その肉体も魂も、世界の“門”としての性質を持つようになる。 二度と自由には動けん」 「わかってる」 「それでも、選ぶのか?」 「うん。……私が選ばなきゃ、誰かが消える。 だったら、私でいい」 ガルドは目を閉じ、深い息を吐いた。 それは諦めではなく――誇りのための呼吸だった。 「……わしは、誇りに思うぞ。ミカよ」 老魔術師は、震える手で彼女の額に触れようとした。 しかし境界の光に阻まれ、指先は彼女に届かない。 「すまん……最後に、一度だけ触れてやりたかった」 ミカの喉が震えた。 「ガルドさん、ありがとう。 あなたがいなかったら、私は絶対にここまで来られなかった」 「わしの方こそ……おぬしに救われたわい」 ガルドは微笑み、杖を握り直した。 その背は曲がり、弱々しい。 だが、誰よりも強かった。 ◆ ◆ ◆ そして、ゼイン。 彼は一歩も動かなかった。 ただ立ち尽くし、深く深く俯いていた。 「ゼイン……」 ミカが呼ぶ。 しかしゼインは顔を上げようとしない。 「……どうして……」 低く、かすれた声が漏れた。 「どうして、そんな顔して笑える……?」 ミカは息を呑んだ。 「お前は……帰るべきなんだ。 あっちに母親がいるんだろ。 帰れば……また……」 「ゼイン」 ミカはゆっくり言った。 「私は、あなたたちを置いて帰りたくない」 「……っ」 ゼインの拳が震えた。 「俺はずっと……お前を守るために剣を振ってきた。 それだけのために旅をしてきたんだ。 なのに……最後に、お前を救えるのが俺じゃないなんて……」 彼の声が途切れた。 「……悔しい」 ミカは涙をこぼした。 「ゼイン。私はね……あなたの言葉で、ここまで来られたんだよ」 「俺の……?」 「うん。 『お前が幸せなら、それでいい』って言ったよね?」 ゼインの肩がビクリと揺れる。 「私はね…… あなたとリルとガルドさんが笑ってくれる世界も、 お母さんが待ってる世界も…… どちらも“私の幸せ”なんだよ……!」 ゼインは、ゆっくり顔を上げた。 その目は、炎のように赤く潤んでいた。 「……馬鹿だよ、お前は」 「うん、わかってる」 「……でも……」 ゼインは一歩、境界に近づく。 光が彼の胸を焼くが、彼は止まらない。 そして、境界ギリギリに立ち、ミカを見つめた。 「……誇りに思う」 それは、彼がこれまでに口にしたどんな言葉よりも、優しかった。 ◆ ◆ ◆ そのとき――裂け目が、叫びをあげた。 世界が一点に収束し、 巨大な黒の亀裂が空を縦に裂き、 光の渦がミカの足元を飲み込み始める。 「ミカ!!」 「姫!!」 「ミカよっ!!」 三人の叫びが重なる。 ミカの体は、もう動けなかった。 境界の力が、ゆっくりと、しかし確実に彼女を“定着”させ始めていた。 「……ねえ、レイ」 ミカは振り返った。 レイは、裂け目の手前に立っていた。 彼の輪郭はすでに半透明になり、 髪も衣も風に溶けるように薄れ、 まるで光の中に溶けかけている。 「レイ……あなた……」 「大丈夫だよ。ミカが決めたなら、僕は……」 レイは微笑んだが、その表情は悲しみに満ちていた。 「僕は、君の未来を支えるだけだ」 「でも……あなたは……もう……!」 「ううん」 レイはゆっくり首を振る。 「もともと、僕は“誰かの願いのために生まれた”存在なんだ。 君の願いのために消えるのは……本望なんだよ」 ミカは叫んだ。 「本望なんて、言わないでよ……!」 「あなたがいなくなるのは……いや、だよ……!!」 レイの瞳がわずかに揺れる。 「ミカ。 君がここで“橋守”になるなら……僕の役目はなくなる。 だから……」 レイは一歩、裂け目の中心へ踏み出した。 「僕は――君のために、消える」 「レイッ!!」 ミカの叫びが響く。 境界の光はさらに強まり、 ミカの足元は世界に固定され、動けなくなっていく。 レイは、光の渦へゆっくりと身体を預け始めた。 その姿が薄れていく。 腕が。 脚が。 胸が。 まるで、世界に溶けていくように消えていく。 「レイ……やだ……行かないで……!」 「ミカ。 君はもう――“独りじゃない”。 だから……」 レイは振り返り、最後の笑みを浮かべた。 「さよなら」 「いやだ!! レイ!!」 ミカの叫びが裂け目に飲み込まれ、 レイの姿は光の粒となって霧散し始める。 消えてしまう。 消えてしまう。 彼は――この世界から、本当に消えてしまう。 ◆ ◆ ◆ だが、ミカは泣き叫ぶ声を止めなかった。 喉が裂けても構わないとばかりに。 「レイーーー!!! あなたは……あなたは、私の……!!」 言葉が震えた。 涙で、世界が歪んだ。 「あなたは……私の仲間だよ……!! 私を支えてくれた、大事な、大事な……!!」 裂け目の光がミカの体を飲み込み始め、 世界が崩れ、 レイの残された輪郭が薄れきったその瞬間―― ミカが叫んだ。 「あなたが消えていいわけないでしょ!!」 そして―― 「レイ!! 私に力を貸して!! 私一人じゃ、橋なんて作れない!! あなたがいなきゃ、私……世界なんて救えないよ!!」 光が、止まった。 レイの消えかけた瞳が、僅かに揺れた。 「……ミカ……?」 ◆ ◆ ◆ 世界は、静寂に包まれた。 その静けさの中で―― ミカの叫びが、ふたつの世界を貫いた。 ◆ ◆ ◆ 光が止まった。 裂け目の咆哮も、森を裂く轟音も、 アル=サナと現実世界の景色が混ざり合う悲鳴も、 すべてが一瞬で凍りついたように静止した。 ミカの声だけが響いていた。 震えて、泣いて、それでも前へ伸びる声だ。 「レイ……お願い……」 ミカの瞳が揺れていた。 境界の光に照らされ、涙が虹色に輝く。 「私だけじゃ……足りないの……! 世界を繋ぐには、あなたの力が必要なの……!」 崩壊しかけていたレイの輪郭が、少しだけ濃くなる。 彼の瞳の奥に、微かな“疑い”が混ざった。 「……僕に……?」 「うん!!」 「でも……僕は……記憶も、名前も、すべて失いかけて…… もう、誰かを支えるなんて……」 「違う!」 ミカは叫ぶ。 「あなたは、私を支えたよ! ずっと、ずっと支えてくれた!!」 レイの目が大きく揺れる。 「私がここまで来られたのは…… あなたが私の話を聞いてくれたから。 あなたが私を見捨てなかったから。 あなたが……“私を仲間だ”と言ってくれたから……!」 レイは息を呑む。 その言葉は、彼がずっと聞きたかったものだった。 しかし自分の存在が揺らぐ前に、誰にも言ってもらえなかった言葉だ。 ミカはもう涙を拭きもしない。 「だから……消えないでよ……! あなたは、消えていい人なんかじゃないよ!!」 レイは、静かに視線を落とした。 「……本当に、そう思う……?」 「思う!!」 ミカは境界の力で動かなくなりつつある腕を、それでも必死に伸ばした。 「お願い……レイ…… 私に……“力を貸して”……!」 その一言が―― レイの中に最後に残っていた「存在の灯」を揺らした。 ◆ ◆ ◆ レイの身体が、光の中でゆっくりと固まり始めた。 消滅しかけていた輪郭に、暖かい光が満ちていく。 「……ミカ……」 彼はかすれた声で呟き、微笑んだ。 「君の願いなら……僕は応えるよ」 ミカの胸が大きく震えた。 「レイ……!」 「僕は“渡り鳥”だ。 願いのある場所へ飛んでいくために、生まれてきたんだ。 君が願うなら――僕は消えずに、“君の橋”になる」 裂け目が再び揺れた。 だが先ほどとは違う。 崩壊ではない、再構築の揺れだ。 レイはミカに向けて、両手を広げた。 「ミカ。 僕と君の力を、境界に注ぐんだ。 君が“橋守”になるなら…… 僕はその橋を、永遠に支える“影”になる」 「レイ……それって……!」 「消えるのとは違うよ。 “誰かのために残る”ってことだ」 ミカは泣きながら頷く。 「うん……うん!!」 ◆ ◆ ◆ レイとミカは、同時に裂け目へ手を伸ばした。 光が弾け、二つの世界が激しく震えた。 東京のビルが森の木々の間から立ち上がり、 アル=サナの空が現実世界の夜と溶け合い、 風が二つの世界の香りを交互に運んでいく。 世界と世界が接触し、 拒絶し、 そして―― ゆっくりと繋がり始める。 ミカの体は境界の中心に固定され、 レイの姿は光に包まれながらも消えず、 二つの世界を挟む“橋の影”となっていく。 リルは涙を拭いながら叫んだ。 「姫!! がんばれ!!」 ゼインは剣を地に突き、目を閉じる。 「ミカ……信じている……!」 ガルドは魔力を杖に込め、裂け目に補強の術を送る。 「持て……世界よ……!」 そして―― 大地を揺らすほどの“光の爆発”が起きた。 ◆ ◆ ◆ 光が収まり始めたとき。 裂け目の森は、以前とはまるで違っていた。 崩壊の跡は消え、 森の中央に「門」が立っていた。 半分はアル=サナの石と草花でできており、 半分は現実世界の鉄とガラスでできている。 その門の中心―― ミカが立っていた。 彼女は半身をアル=サナ側に、 半身を現実世界側に置き、 まるで“世界そのもの”の一部であるかのように佇んでいた。 両腕は自由ではない。 足も動けない。 しかしその瞳は澄んでいた。 「……成功したんだ……?」 ミカの声は震えながらも、確かだった。 リルが駆け寄る。 「姫ぇ!!」 「リル……!」 ミカの手は動かなかったが、リルは彼女の足元にしがみつき、泣きじゃくった。 ゼインはゆっくり近づき、 ミカの肩に触れぬように距離を取りながら、静かに頭を下げた。 「……ありがとう」 ガルドは門を見上げながら呟く。 「世界は……救われた」 ◆ ◆ ◆ だが、ミカはすぐに気づいた。 レイが――いない。 「……レイ?」 呼びかけた声は、風に溶けて消えた。 「レイ……どこ……?」 そのとき、風が吹いた。 柔らかく、暖かく、どこか懐かしい風。 ミカの髪を揺らし、花を散らし、門の左右を優しく吹き抜ける。 そして、まるで風そのものが語りかけるように、声が届いた。 『君は……もう、独りじゃない』 ミカの胸が熱くなる。 「レイ……?」 『君が選んだ道を、僕は見ているよ。 姿はなくても……僕はここにいる』 風の中に、かすかな光が揺れた。 それはレイの瞳のような、柔らかい白。 ミカはそっと目を閉じた。 「うん……ありがとう。 ……名前、忘れちゃったけど……」 風が優しく彼女の頬を撫でる。 『それで、いいよ』 「ありがとう……白い鳥さん……」 風は静かに、森の奥へ消えていった。 その風が、レイの最後の痕跡だった。 ◆ ◆ ◆ ミカは両方の世界に向けて、穏やかに微笑んだ。 「ただいま…… そして――行ってきます」 二つの世界が、初めて本当に繋がった瞬間だった。 そして、レイが“誰か”のために残した存在が、初めて報われた瞬間でもあった。 彼の姿はどこにもない。 記憶の欠片すら残っていない。 しかし―― 風だけが、そっとミカの髪を揺らし続けていた。 まるで、彼がそばにいるかのように。 第5話「狭間の終点」 ──白い鳥は、もう自分がどこへ向かっているのか分からなかった。 羽ばたけば空気が震え、風が羽根の隙間から抜けていくはずだ。 それさえ、いまの彼には曖昧だった。 翼を動かす感覚が薄い。 身体の重さも、軽さも、曖昧だ。 ただ「飛んでいる」という事実だけが、白い霧の中のようにぼんやりと存在している。 ──名前。 あったはずだ。 どこかで呼ばれた。 けれど、もうその響きをつかめない。 ──使命。 あったはずだ。 誰かと向き合い、誰かの手を握った。 けれど、それが誰だったのか……胸に触れるたび、霧の中へ溶けていく。 ただひとつ、消えずに残ったものがあった。 (……誰かを……待ってる……) それが誰なのかも、なぜ待っているのかも分からない。 でも、胸の奥のごく柔らかい場所に、 細い糸のような痛みがずっと残っていた。 それが、彼をまだ“飛ばせている”唯一の理由だった。 ◆ ある日、鳥は突然、翼の力を失った。 風の流れは安定していた。 上昇気流もある。 天候も悪くない。 ──なのに、身体が重い。 羽ばたこうとしても、翼が霧に溶けるように力を失い、 そして彼は空の真ん中から急速に落ち始めた。 (……あれ……?) 落下という恐怖も、痛みへの本能も、もう薄い。 ただ、遠ざかる空をぼんやりと見上げながら、 白い鳥は狭間のような感覚に溶けていった。 草原が近づく。 地面の衝撃―― しかし、それすら曖昧なまま 彼は静かに落ちた。 そのとき。 「……やっと、見つけた」 柔らかい声が、耳のないはずの鳥の体に染み込んだ。 温かい。 どこかで聞いたことがあるような、穏やかで、懐かしくて……でも思い出せない。 白い羽が揺れる。 鳥だった体が、ゆっくりと人の形になろうとする。 けれど輪郭が定まらず、光の粒が散り、また霧のように崩れる。 かろうじて「人影」として浮かび上がり、 地面に片膝をつく。 「……あなた……たちは……?」 声は掠れ、震えていた。 言葉を発するたびに、存在が乾いていくような感覚だけが残る。 そんなレイの前で、五つの影が静かに並んだ。 ◆ 最初に歩み寄ったのは――フィーネだった。 かつて夢の草原で出会った、柔らかな瞳の少女。 いまはもう十八歳。 少女の面影を残しながらも、凛とした大人の表情をしている。 フィーネは膝をつき、 ほとんど霧のようなレイの頬にそっと触れた。 「……やっぱり、ここに来ると思ってたよ」 フィーネの手のひらの体温に、 レイの輪郭がわずかに濃くなる。 「きみは……」 名前が出てこない。 声にならず、形を失った記憶の断片が胸を締めつける。 フィーネは微笑んだ。 「忘れててもいいよ。 でもね、私は覚えてる。 あなたが……私の“名前”を半分背負ってくれたことを」 レイは息を呑んだ。 (……名前……?) 胸の奥が一瞬だけ熱を帯びる。 けれど、何を思い出そうとしたのかは やはり霧に溶けていく。 ◆ フィーネの後ろに、双子の騎士――カイルとナディアが立っていた。 カイルは以前よりも精悍な顔つきをしていた。 ナディアは長い髪を少し切り、以前より軽やかだ。 「よぉ、レイ」 カイルが短く手を上げる。 「……あなたは……」 「覚えてないのは分かってる」 ナディアが柔らかく微笑む。 「でも、私たちにはあなたが必要だった。 そして今度は――あなたに、私たちが必要なんだよ」 レイは目を伏せる。 (……僕に……? 誰かが……僕を?) そんな思考すら信じられない。 自分はいつも、誰かの願いを叶える側だった。 求められる側だったことなど、一度も―― いや、一度だけ。 誰かが、手を伸ばしてくれた気がする。 だが、その顔は思い出せない。 ◆ カイルたちの隣から、少年が駆け寄ってきた。 ティオ。 かつて焼け跡の村で出会った、痩せた少年。 いまは少年ではなく、青年になっていた。 「レイ……!」 彼の瞳は涙で揺れている。 けれどそれは悲しみの涙ではない。 ずっと再会を願っていた人間の、嬉し涙だ。 「僕ね……ずっと言いたかったことがあるんだ」 ティオは胸からそっと、妹のリボンを取り出した。 布は少し色あせていたが、大切に扱われてきたことが一目で分かる。 「あなたは……僕の家族を“忘れてくれた”。 だから僕は、生きていられた」 「……忘れた?」 レイは震える声で言った。 「僕はそんな……」 「いいんだよ」 ティオは優しく笑った。 「お姉ちゃんのこと、僕一人じゃ抱えきれないから…… あなたが一緒に覚えてくれた。 そのおかげで、僕は……前に進めた」 胸の奥に、痛いほどの温かさが広がる。 (僕……誰かの……家族を……?) 記憶の影が揺れる。 だが、それはまだ形を成さない。 ◆ そして最後に―― 半身が光に染まった存在が歩み出た。 ミカ。 裂け目の森で「橋守」になり、 世界と世界を繋ぐ役目を自ら背負った女性。 彼女の体は相変わらず半分が透明に揺れている。 だが、その瞳だけは強く、温かく光っていた。 「あなたが来てくれなかったら、私はここにいない。 そして……この世界も続かなかった」 ミカはレイに向けて小さく頭を下げた。 「ありがとう、レイ。 でも今度は……あなたを助ける番」 レイは理解できずに首を振る。 「ぼ、僕は……僕なんか…… 誰にも覚えられてなくて…… 誰かを待ってた気がするけど…… もう、なんにも……」 声が途切れ、輪郭が崩れる。 ◆ そのとき五人全員が、同時にレイの前へ進み出た。 フィーネは頬に触れ、 カイルとナディアは肩に手を置き、 ティオは手を握り、 ミカは光の腕で彼の背を支えた。 五つの温かさが重なり、レイの霧のような身体を支えた。 「今度は――」 フィーネが静かに言う。 「私たちがあなたを救う番だよ」 「お前は一人じゃない」 「どれだけ忘れても、ここにいる」 「僕たちは、ずっと覚えてるから」 「あなたを迎えに来たの。 だからもう、どこにも行かないで」 五つの声が重なるたびに、 レイの失われた存在が震え、 かすかに輪郭を取り戻そうとする。 (……僕……) 胸の奥で、鈍い音がした気がした。 何か大事なものが、薄い殻の下で動いた。 (僕は……一人じゃ……ない……?) まるで、忘れていた涙が一気にあふれだしたように、レイの目から光が零れた。 「……ぼく…… ほんとは……」 声が震えた。 「誰かに…… 必要とされたかった……」 その告白は、彼自身が最も認めたくなかった核心だった。 フィーネは微笑む。 「知ってるよ。 だから迎えに来たんだよ、レイ」 五人は手を伸ばし、彼を囲むように立つ。 「さあ、行こう」 ミカの声が境界の光を震わせた。 「あなたを探す旅は、これで終わり。 今度はあなた自身が、自分の願いを見つける旅に出るんだよ」 レイは震える手を、フィーネの差し出した手に重ねた。 その瞬間―― 霧に覆われていた世界が静かに揺れ、 狭間の向こうで光が広がり始めた。 こうして、レイと五人の“逆旅”が始まる。 それは記憶を取り戻す旅ではない。 彼の「本当の願い」を確かめる、最後の旅だった。 ◆ 草原を抜け、五人はレイの前を歩く。 白い鳥だった姿は、まだ人の輪郭を完全に取り戻していない。 声は掠れ、足取りは頼りない。 けれど、周囲の温度、風の匂い、光の具合――すべてが、どこか懐かしかった。 ──最初の目的地は、あの眠りと醒めの草原だった。 かつてレイとフィーネが出会った場所。 薄明かりの中で、二人の夢の欠片が重なり合った場所。 草は春の光に揺れ、風は淡く温かい。 空は覚えているはずの青ではなく、柔らかく白みがかっていた。 「ここ……」 レイは声を絞り出す。 言葉の端々に、記憶の残像が揺れる。 それはあいまいで、形のないものだ。 ただ、胸の奥がじんわりと温かくなる。 「見せたいものがあるの」 フィーネが歩み寄り、手を差し伸べる。 その手に触れた瞬間、レイの視界に、淡い光の欠片が舞い込む。 ──夢のかけら。 霧の中で揺れる、半透明の小さな世界。 見覚えのある建物、道、そして―― 「あなたは、私の名前を半分だけ覚えてくれた」 フィーネの声が、空気に染み渡る。 「でも私は、あなたの名前を全部覚えている」 レイは震えた。 名前……名前があった。 誰かが、自分を呼んでいた。 思い出せないはずの名前が、心の底で微かに響いた。 涙が、押し寄せるように頬を伝った。 ◆ 次の場所は、古戦場だった。 かつて、カイルとナディアが背中合わせで戦った場所。 血と鉄の匂いが残る荒れ地。 いまは狭間の幻想として静まり返っていた。 「あなたが教えてくれたんだよ」 カイルの声が、背後から響く。 「生きるって、誰かの代わりに死ぬことじゃないって」 隣でナディアも頷き、手をレイの肩に置く。 レイは目を閉じる。 戦場の匂いとともに、胸の奥にかすかな痛みが蘇った。 それは恐怖と同時に、希望の欠片でもあった。 (僕……僕は……誰かを……救おうとして……) 記憶はまだぼんやりと霧のようだ。 けれど、温かさと痛みが同時に押し寄せ、 胸の奥の空洞が少しずつ満たされていく。 ◆ さらに次は、焼け跡の村。 ティオが手を引く。 瓦礫の間に咲く小さな花、焦げた木材の匂い、遠くに残る家の影―― すべてが、かつて彼が触れたものと同じ感触を持つ。 「僕は家族を忘れた」 ティオはリボンを胸に抱え、微笑んだ。 「でも、あなたの中に家族が生きている。 だから、僕は笑っていられる」 レイは言葉を失った。 胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。 恐怖と罪悪感が、ほんの一瞬だけ、熱い温度として立ち上がった。 (僕……誰かを……守ろうとして……) 思い出すと同時に、 誰かの命や笑顔を守るために削られた自分の存在が、 胸に重くのしかかる。 そして、それでも温かい―― それは、忘れていた「生きていた証」だった。 ◆ 最後に訪れたのは、裂け目の森。 ミカが両手を広げ、微笑む。 森の奥では、二つの世界を行き来する人々が静かに歩いていた。 光と影、現実世界と異世界が溶け合う場所。 「あなたがくれた“居場所”を、今度は私が返す」 ミカの言葉は、柔らかく、しかし力強かった。 「あなたがいなくても、世界は続くけど…… 私はあなたに居場所をあげたい」 レイは胸の奥に、熱いものを感じた。 それは恐怖ではない。 記憶が消えれば自分も消えるかもしれないという恐怖。 けれど、それを超えて、人々の思いが自分を抱きしめている感覚。 (僕は……僕は、ひとりじゃない……) 輪郭はまだ完全には戻らない。 声も掠れたまま。 しかし、胸の奥の疼きは確かに存在している。 それぞれの狭間で、 レイは温かさと恐怖、希望と罪悪感を同時に抱きしめながら歩いた。 そして、彼の心の奥に、最後の問いが浮かぶ。 (僕は……本当に、戻れるのだろうか……?) 五人の手は、決して離れなかった。 「もう大丈夫だよ、レイ」 フィーネが囁く。 「私たちがついてる」 カイルとナディアが同時に頷く。 ティオはリボンをぎゅっと握りしめる。 ミカは光の腕で彼の背中を支える。 ──狭間の旅路は終わりに近づいていた。 五人の声と温もりが、霧のようなレイの身体に少しずつ輪郭を与え、 胸の奥の空白を埋めていく。 そして、次に彼らが立つ場所は―― どの世界にも属さない、真っ白な空間。 最後の決断が待つ、“狭間の終点”だった。 ◆ 草原を抜け、森を越え、山を渡り――五人はレイを導き、ついに最後の場所にたどり着いた。 そこは、どの世界にも属さない、真っ白な空間。 足を踏み入れた瞬間、視界は無限に続く白。 空気も光も、風も音も、すべてが無機質で、静寂そのものだった。 中央に浮かぶのは、巨大な鏡のような存在。 その表面に映るのは、まだ幼い少年の姿――記憶を失う前の、自分自身の姿だった。 「……ここが、狭間の終点……」 レイはかすかに震える声で呟く。 輪郭はまだ不明瞭で、声は掠れ、息も続かない。 だが、胸の奥の疼きが確かに存在していた。 鏡の中の少年レイは、泣き叫んでいる。 「助けて……! 僕をここから出して……!」 無垢で切実な声が、空間にこだました。 五人は息を呑む。 その瞬間、全員が理解した。 この鏡に映るのは、過去に閉じ込められ、孤独に震えていた「本当の自分」だということを。 「これは……僕の、過去の僕……?」 声に掠れが混じる。 記憶が失われた今、目の前の少年の意味を、レイはまだ完全には理解できない。 ◆ フィーネが一歩前に出た。 手を差し伸べ、鏡に映る少年を指差す。 「必要とされてるよ」 柔らかく、しかし力強く言葉を投げる。 「私たちは、あなたをずっと待ってた。 だから、もう逃げないで」 カイルとナディアも、同時に手を伸ばす。 「俺たちには、お前が必要だ」 「私たちは、お前を見捨てない」 ティオが小さく息を呑みながらリボンを握る。 「僕の家族は、あなたの中に生きてる」 ミカも微笑む。 「あなたが繋いでくれた世界で、みんな生きてる」 五人の手が同時に、レイに向けて伸びる。 それは温かさの象徴であり、かつて自分が抱えた孤独を解く鍵だった。 しかし、レイの胸の奥にはまだ恐怖が残る。 記憶が完全に失われたら、彼は自分の存在すら消えてしまう。 その恐怖と、守られているという温かさが、激しく衝突する。 (僕は……僕は、本当に、戻れるのだろうか……) 思考が渦を巻く。 幼い自分が泣き叫ぶ姿と、周囲の五人の温かさが、胸の奥で交錯する。 ◆ 鏡の中の少年レイが叫ぶ。 「誰かに必要とされたい……ずっと……僕は……寂しかっただけなんだ……!」 その声は、今のレイの心に直接響く。 胸の奥の疼きが、強く、鋭く、存在を揺さぶる。 「誰かに必要とされたくて、ずっと走ってきた……!」 レイは声を震わせながらも、五人の顔を見上げる。 その表情は、まだ恐怖に震えていたが、確かに光を取り戻しつつあった。 フィーネが穏やかに一歩前に出る。 「必要とされてるよ」 その言葉には、確信と優しさがあった。 カイルとナディアが続く。 「俺たちには、お前が必要だ」 「私たちは、お前を見捨てない」 ティオが小さく頷き、リボンを胸に押し当てる。 「僕の家族は、あなたの中に生きてる」 ミカは微笑み、柔らかく言葉をかける。 「あなたが繋いでくれた世界で、みんな生きてる」 五人の手が、同時にレイに差し伸べられる。 「だから、もう逃げないで。ここにいて、私たちと一緒に」 五人の呼びかけが、レイの胸の奥に沈んでいた最後の欠片を揺り動かす。 そして、全員の声が同時に重なる―― 「レイ」 「レイ」 「レイ」 「レイ」 「レイ」 五度、確かに呼ばれたその響きが、心の底に眠っていた名前を呼び覚ます。 光が、レイの体を包み始める。 輪郭が徐々に定まり、声も徐々に戻ってくる。 体全体が、かつての存在を取り戻す感覚に満ちる。 ◆ しかし、記憶はまだ戻らない。 過去の出来事や細かな名前、感覚は曖昧で、触れられそうで触れられない。 だが、それで構わなかった。 (もう、誰も僕を忘れない……) 胸の奥に残っていた孤独が、今、温かさに変わる。 五人が、確かにここにいる。 レイは小さく息をつき、涙をこぼした。 震える声で、初めて自ら笑う。 「……僕、ずっと怖かった。 誰かを救っても、誰も僕を覚えててくれないって思ってた」 フィーネが首を振る。 「違うよ。私たちは、あなたのことを一生忘れない」 ミカも微笑む。 「もう、あなたは“渡り鳥”じゃなくていい。 私たちの世界に、ちゃんと“居場所”があるから」 光が白く強くなる。 五人の手が重なり、そして、レイの輪郭が完全に人の形に戻った瞬間、 六人は新しい世界に立っていた。 そこは、アル=サナと現実世界が優しく重なり合った穏やかな草原だった。 遠くには、ルナヴィアの村の灯り。 裂け目の森の門から、現代の子供たちが笑いながら出てくる。 レイは初めて、自分の足で大地を踏みしめた。 白い翼はもう生えていない。 ただの青年の姿。しかし、それで十分だった。 ティオが駆け寄り、リボンを手渡す。 「これ、お姉ちゃんがくれたやつ。あなたにあげる」 レイはそれを胸に押し当て、温かさを感じる。 フィーネがそっと手を握り、優しく微笑む。 「名前、ちゃんと呼んであげる。――レイ。これから、よろしくね」 レイは涙をこぼしながら、初めて自分から笑った。 「……うん。よろしく」 風が吹き抜ける。 それは、もはや狭間の冷たい風ではなく、 誰かと一緒に生きるための、優しい風だった。 六人は肩を並べて、夕陽に向かって歩き出す。 背中はもう孤独ではなかった。 ──狭間の渡り鳥は、ついに自分の空を見つけたのだった。 ◆ 光が収まり、真っ白な空間は柔らかな草原に変わった。 アル=サナの風景と現実世界の要素が自然に重なり合う、不思議な景色。遠くにはルナヴィアの村の灯りも見える。 裂け目の森から現実世界の子どもたちが笑いながら飛び出してくる。全てが、やわらかく溶け合っていた。 レイはゆっくりと目を開ける。 胸に押し当てられたリボンが温かく感じられた。 白い翼はもう生えていない。普通の青年の姿だ。しかし、それでいい。十分だ。 五人が並んで立っている。フィーネは微笑み、ミカは静かに頷く。ティオは少し照れくさそうにリボンを差し出し、カイルとナディアは互いに視線を交わしながらも優しく微笑んでいる。 空気には、これまでの狭間の冷たさはなく、温かい風が吹き抜ける。 レイは深呼吸した。胸の奥にあった、誰かに必要とされたいという寂しさが、ゆっくりと溶けていくのを感じた。 「……ここが、僕の居場所……」 小さな声で呟く。 周囲の誰もが、微笑みながら頷いた。 フィーネがそっと手を握る。 「そう、ここがあなたの居場所。もう、独りじゃない」 レイは目を細めて微笑み返す。 温もりが胸に広がり、全身が軽くなるような感覚だった。 ◆ 数日が過ぎた。 草原の丘には、小さな石と木でできた家が建っている。 屋根は少し傾き、煙突からは優しい煙が立ち上がる。玄関には大小さまざまな靴が並ぶ。六人分の靴と、もう一足――まだ小さな子ども用の靴。 台所から、にぎやかな声が響く。 「レイ! 今日はお前の番だろ、皿洗い!」 「ちょっと待てカイル、俺はもう三日連続だぞ!」 「兄さん、逃げないでください! ナディアが証人です!」 「ティオまで……!」 笑い声が家中に広がる。 ミカが微笑みながら仲裁に入る。 「もう、お父さんたちったら」 フィーネも子どもを抱き上げ、微笑む。 子どもはまだ三歳で、レイと同じ白い前髪を揺らしながら、 「おとうたん、おさら、おさら!」 と小さな手で皿を運ぼうとする。 レイは軽く抱き上げ、 「危ないって。ほら、ママのところに行こうな」 とフィーネに渡す。その瞬間、フィーネと目が合い、二人ともくすっと笑った。 かつて夢の中でしか交わしたことのなかった、家族の笑顔。 今、確かにここにある。 ◆ 夕餉のテーブルは賑やかだった。 七人がぎゅうぎゅうに座り、大きな鍋を囲む。 スープをすくう手がぶつかり、 「熱い熱い!」 「ゼインさん、また肘が!」 「リル、こぼすなよ!」 互いに笑いながら、誰も席を立たない。 食事が終わり、子どもが眠そうに目をこすり始めた頃、レイはそっと立ち上がる。 丘の上から見える空は、茜色に染まっていた。 風が優しく吹き抜ける。 もう、狭間の冷たさはない。背中を押す風は、未来への力強い支えのようだった。 フィーネが毛布を抱えて近づく。 「……また、空見てた」 「うん。昔は、あそこを飛んでたんだなって、つい」 「もう飛ばなくていいよ。ここにいるだけで、十分だから」 レイは小さく頷き、フィーネの手を握り返す。 風に乗せて、深呼吸する。 胸の奥に、ずっと残っていた最後の空白が、温かいもので満たされていく。 ◆ そのとき、空に一羽の白い鳥が舞い降りてきた。 しかし、それはもうレイではなかった。 ただの渡り鳥。自由に空を飛ぶ、かつての彼の象徴。 鳥は一瞬だけ二人を見下ろす。 まるで「もう大丈夫だね」と告げるように、翼を大きく広げて、遠くの空へ消えていった。 レイは静かに呟いた。 「……ありがとう」 かすかな声で、風に乗って返事が聞こえた気がした。 遠くから、子どもの声が呼ぶ。 「おとうたん、おそいよー!」 レイは振り返り、笑顔を浮かべながら家へ向かう。 家の中には、笑い声と温もりに満ちた家族と仲間たちが待っている。 世界は静かに、確かに、続いていく。 失った記憶の代わりに、ここに「生きている時間」がある。 レイは胸に手を当て、深く息を吸う。 目を閉じ、風を感じる。 背中に力が満ちる。欠けたものはもう、何もない。 そして、開けたドアの向こうから、にぎやかな声と笑い声が溢れてくる。 レイは満面の笑みで答えた。 「ただいま」 その声は、かつて狭間を彷徨った少年の、初めての、本当の「帰る場所」への挨拶だった。 風が吹き抜け、草原が揺れる。 世界は、温かく、確かに、続いていく。 ──おかえり、レイ。 これからずっと、ここが君の空だ。 エピローグ「ただいまの場所」 数年が過ぎた。 草原の丘の上に、小さな家が建っている。 屋根は少し傾き、煙突からは柔らかな煙が立ち上がる。木の扉の前には大小さまざまな靴が並んでいる。六人分の大人の靴と、もう一足――まだ小さな、子ども用の靴。 丘を渡る風は穏やかで、狭間で感じた冷たさはどこにもなかった。 玄関の向こうから、にぎやかな声が響く。 「レイ! 今日はお前の番だろ、皿洗い!」 「ちょっと待てカイル、俺はもう三日連続だぞ!」 「兄さん、逃げないでください! ナディアが証人です!」 「ティオまで……!」 家の中には笑い声があふれ、テーブルの上には食べかけのパンやスープの鍋が並ぶ。 ミカは軽く目を細め、手を動かしながらも仲裁に入る。 「もう、お父さんたちったら」 フィーネも子どもを抱っこし、微笑む。 小さな子どもはまだ三歳。 レイと同じ白い前髪を揺らしながら、 「おとうたん、おさら、おさら!」 と小さな手で皿を運ぼうとする。 レイはそっと抱き上げ、フィーネに渡す。 「危ないって。ほら、ママのところに行こうな」 二人は目を合わせ、くすっと笑った。 この笑顔は、夢の中でしか交わしたことがなかった温もり。 今、確かにここにある。 ◆ 夕暮れ。丘の上から見える空は茜色に染まる。 風は優しく、草原を揺らす。 レイは少しだけ一歩、丘を登り、周囲を見渡す。 遠くにはルナヴィアの村の灯り、裂け目の森の門、そして子どもたちの笑い声が混ざった世界が広がる。 ここはアル=サナの世界でも、現実世界でもある。 そして、六人が一緒にいる場所でもある。 フィーネがそっと肩に毛布を掛ける。 「……また、空見てた」 「うん。昔は、あそこを飛んでたんだなって、つい」 「もう飛ばなくていいよ。ここにいるだけで十分だから」 レイは小さく頷き、手を握り返す。 胸の奥に、長く消えそうで消えなかった空白が、温かく満たされていく。 ◆ 夜が深まる前、六人は庭先に集まった。 木漏れ日の残る草原で、彼らは互いに肩を並べ、深呼吸をする。 「……これで、本当に終わったのかな」 レイは小さく呟く。 フィーネが優しく笑い、手を握り返す。 「終わったわけじゃない。これからも続くの。あなたと私たちの毎日が」 ティオがリボンを握りしめ、少し照れくさそうに笑った。 「僕の家族も、あなたの中で生きてる。だから僕はもう、寂しくない」 ミカは微笑んで頷く。 「あなたがつないでくれた世界で、私たちは生きている。だから、もう一人じゃない」 ゼインとリルも同じく静かに頷き、五人が同時に手を差し伸べる。 レイは涙を抑えきれず、手を握り返す。 空を見上げると、一羽の白い鳥が遠くを舞っていた。 もはやレイではない。ただの渡り鳥。 しかし、その姿は、過去の自分が教えてくれたもの、守ろうとしたものの象徴だった。 鳥は一度だけ、空中で羽を広げ、ゆっくりと消えていく。 「もう、大丈夫だね」と言っているようだった。 ◆ 台所に戻ると、夕餉の支度が終わりかけている。 六人と子どもは、ぎゅうぎゅうになって鍋を囲む。 笑い声が響き、手と手がぶつかる音が交差する。 「熱い熱い!」 「ゼインさん、また肘が!」 「リル、こぼすなよ!」 ぶつかり合う音も、笑い声も、すべてが心地よい音楽のようだった。 レイは鍋のスープをすくい、そっと皆の皿に分ける。 それは、狭間を渡ってきた少年が、初めて自分の手でできる“日常”だった。 ◆ 夜が訪れ、子どもたちは眠りにつく。 レイは外に出て、丘の上に立つ。 空は深い藍色に染まり、星々が瞬いている。 風は柔らかく、胸の奥を静かにくすぐる。 彼は小さく呟く。 「ただいま」 胸の奥に残っていた、最後の孤独と不安は、完全に消えていた。 振り返ると、窓から優しい光が漏れる家。 子どもたちの寝息、笑い声、互いに手を取り合う仲間たち。 世界は静かに、確かに、続いていく。 白い翼はもう必要ない。 ここに、自分の足で立つ場所がある。 ここに、守るべき人たちと日々がある。 ここに、確かに生きている時間がある。 レイは深く息を吸い込み、ゆっくりと家へ歩みを進める。 小さな手が彼の手を握り、にぎやかな声が迎えてくれる。 「おとうたん、おそいよー!」 その声に、かつて狭間で孤独に彷徨った少年の心が、満たされる。 そして初めて、本当に、自分の「帰る場所」に戻ったことを実感する。 ──おかえり、レイ。 ──ここが、君の空だ。 風が優しく吹き抜け、草原の草を揺らす。 世界は静かに、しかし確実に続いていく。 失ったものも、過去の痛みも、すべてが今の温かさに溶け込む。 そして、これからも、この場所で、彼らは生きていくのだ。 |
|
kanegon 2025年12月28日 23時41分10秒 公開 ■この作品の著作権は kanegon さんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
|
作者レス | |||
|---|---|---|---|---|
|
||||
|
-10点 | |||
|---|---|---|---|---|
| 合計 | 2人 | -10点 |
| 作品の編集・削除 |