涼夜の霊感少女達 N編

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 トビオリさん

 〇

 ニュース番組なんかにおける「体を強く打って死亡」という表現は、遺体が原型を留めていない状態を指すらしい。
 高所から落下しただとか、トラックに跳ね飛ばされただとか。
 隣の県のとある小学校の近辺で、そうした状態の子供の遺体が発見されていると、連日報道が行われている。しかも不可解なことに、そうして見付かる子供の遺体の周辺に、転落死できるほど高い建物はなく、車に跳ね飛ばされたような形跡もないそうなのだ。
 アタマのおかしな殺人鬼が、金槌か何かで子供をぺしゃんこに叩きのばしているのか?
 遺体の状況だけで言えば、それはまさに高所落下による遺体という他ないそうなのだ。
 血塗れになった子供の遺体が、地面にぺしゃんこに広がって張り付いている。骨は粉々、内臓もぐしゃぐしゃ、しかし近くに高い建物はない。
 誰かがヘリコプターか何かで空から落としたとでも考えなければ、到底説明のつかない話ではあった。
 恐ろしい話だ。不思議な話でもある。けれど、小学五年生のあたしにとって、県境を越えた遠くで起きているその話題は、どこまで行っても他人事だった。それよりも、あたしが強く関心を寄せるのは、あたしにとってより身近な、客観的にはささやかないくつかの問題だった。
 例えば、前から親にねだり続けている、来週発売のゲームを買って貰えるかどうかとか。
 昨日の帰りしなに誤って割ってしまった窓ガラスのことが、バレてしまわないかどうかとか。
 先週クラスにやって来た転校生が、ただの一言も、誰とも口を利こうとしないことだとか。

 〇

 平成十六年九月某日。

 〇

 その転校生、仮に『N』としておこう。
 転校初日、教師によって紹介されたNは、誰の目から見ても綺麗な子供だった。けれどもそれでいて、或いはその美しさが故に、どこか異様な雰囲気も併せ持っていた。
 小学五年生としては背はあんまり高くなくて、どちらかというと幼いタイプの顔立ちだったけれど、小ぶりな高い鼻や薄さの割には柔らかく膨らんだ薄桃色の唇は、作り物めいて整っていた。髪の毛は肩に届かないくらいのボブカットで、漆のように暗い色をしている。信じられない程真っ白な肌と相まって、日本人形のような気配を醸し出している。
 何よりも特徴的なのはその瞳だった。見たことない程大きくて黒目がちな、宝石のように綺麗な瞳だ。しかしその目はなんというか、漫画でいうハイライトのない瞳の表現のように、どこかしら空虚で、あらゆる感情を人から読み取らせないものだった。
 あるいはNは本当に、何の感情も持ち合わせていないのかもしれない。そう思わされることも度々ある。いや、本当に何も感じないのでは生きていけるはずもないから、あたし達が持つような子供らしい感情を持たないだけで、何か彼女にだけ通用する感性が備わっているということなのかもしれない。
 転校初日、物珍しさから机の周りに集まって来る子供達の質問攻めに、Nはただの一言も返さずにただ虚空を見詰め続けた。そしておもむろに、ふらりと席を立ちあがったかと思ったら、教室の外へと出て行ってしまった。
 それっきり、Nは休み時間が来る度に教室の外に出るようになった。転校初日という友達を作る上で最も大切な一日を、そんな風に過ごすということは、多分Nは友達なんて一人も欲しくないんだろう。
 人嫌いの変わり者。
 ただNはそれだけではない。
 一度だけ……あたしはNに声をかけたことがあった。
 ある日の行間休み、図書室で時間を潰していたあたしの元に、Nがふらふらと訪ねて来た。訪ねて来たと言ってもそれは、ただ当てもなく校舎をふらつく過程で図書室に来たというだけなのだろう。
 「Nだよね? 何やってんの?」
 若干の期待を込めて、あたしはNにそう尋ねた。
 「Nも一人でいるのが好きだよね? 本は読むの?」
 Nは何も答えなかった。あたしのことを一瞥することすらしない。そもそもあたしに声を掛けられたことなど、セミが鳴いたのと同じくらいどうでも良いことのようだ。Nは忌憚のない足取りで図書室に背を向けようとした。
 「おい。待てよ。無視すんなよ」
 あたしは言う。
 「なんか言えよ。声かけてるだろ?」
 声に怒気を孕ませてみせると、そこでNはようやく、あたしの方を振り返ってこういった。
 「今あなたの座っている、その席。譲った方が良いですよ」
 あたしは何がなんだか分からなかった。『なんか言えよ』とは言ったものの、そんな意味の分からないことを言われる筋合いはなかった。
 「待っている人がいます。窓際で、校庭の景色を見ながら本が読めますから。風が吹いて来るのも、五月の今の季節なら、気持ちが良いですし。きっとそこが良いんでしょう。譲ってあげてください」
 「いや……意味分かんないよ。待ってるって、誰が? 今図書室、あたしとあんたしかいないじゃん」
 「いますよ」
 Nはその黒い宝石のように綺麗な、それだけに生者のものには見えない空虚な視線であたしの隣、窓際の壁の方を見詰めた。
 「あなたには見えないだけです」
 「何で? 何で見えないっていうの?」
 「生きていない人だから」
 そう言って、Nは再びあたしに背を向けた。
 「あたし、霊感があるんです。だから、見えちゃいけない者が見えるんです。今伝えたことを信じるかどうかはあなたの自由ですが……でも、ちゃんと譲った方が良いですよ。そこがお気に入りのようですから」
 そうしてNはあたしの前から消えた。
 そのやり取りを終えて、あたしはどこか安心した気持ちすら覚えていた。あの気味の悪い、何が何だか分からない転校生の姿が、おぼろげにだか掴めたような気がしたからだ。
 霊感少女なら、別にN以外にも何人もいる。無暗とアピールが強すぎない限りは嫌悪の対象となることも少ないが、しかし小学六年生にもなれば、本気で信じている者はそうはいない。
 不思議な力や体質を持つと口にすることで、特別な自分を演出できると考えている、痛い子の類。思えば誰とも口を利かない孤独なポーズも、彼女なりの自己演出の一環なのかもしれない。
 そう決めつけて、Nという少女を分かった気になっていたところで……行間休みの予鈴が鳴り響いた。

 〇

 Nはその後も他人のことを無視し続けた。
 それでは、周りから嫌われないはずもない。ある日の昼休み、クラスでも派手な女子であるOが、取り巻きを従えてこんな話をしていた。
 「Nってさ、帰る時西公園の前通るよね? そこで待ち伏せてさ、公園に引き込んで一回シメとかない? ウザいしさ、あいつ」
 分かる分かる、そうしようそうしようと話す取り巻き達に、Oはしたり顔でこう続けた。
 「やっぱりさ、ああやって他人のことずっと無視してて、それが許されると思ってるんなら、それはやっぱり叩いといた方が良いよ。ああやって鉄仮面みたいに無表情な顔で、ずっと無口で、そういう居直ったみたいな態度はさ、やっぱり自分勝手だと思うから。あいつの為にもなんないしね」
 その時、Nは教室の外にいた。あたしは教室を出て、Nを探して校舎の中を彷徨った。
 Nは校庭の池の前にいた。濁った水の上に浮かぶ蓮の花にじっと視線をやりながら、ただ茫然と立ち尽くしている。その表情からは、やはり何の感情も読み取れない。
 「ねえN。大事な話。無視しないで聞いて」
 最低限度の対応とばかりに、Nは視線だけを緩やかにこちらに向けた。
 「Oとかその取り巻きとかがさ、おまえをリンチしようとしてるみたいなの。西公園の前を通る時、中に引き込むんだって。だからさ……」
 だからどうしようというんだ? あたしは今更ながら、その事実を伝えることがNの窮地を救う訳ではないことに気が付いた。今日のリンチを上手く回避したところで、連中は執念深くNを狙うに違いないのだ。
 「そうですか」
 そのことに気付いているのかいないのか、Nはあたしの忠告に対し、こう返事をした。
 「なら、わたしの家まで一緒に帰ってもらって良いですか?」
 あたしは絶句して目を丸くした。
 「わたし、転校したてで、家までの道を一通りしか知らないんです。西公園前を避ける場合、あなたに案内してもらわなければ、家まで帰れません。お願いします」
 「……今までずっとシカトして来た相手にそのお願いは厚かましすぎない?」
 あたしが思わずそう返すと、Nは「じゃあいいです」とだけ口にして、あたしに背中を向けた。
 そして去り際に。
 「教えてくれて、ありがとうございます」
 と一言、口にした。
 その台詞を聞けたからなのか、そんなことは特に関係なくただの気まぐれなのか。それは、自分でも分からない。
 けれど気が付けばあたしはこう口にしていた。
 「待って。分かったいいよ。一緒に帰ってあげる」
 Nは振り返って小さく頭を下げた。

 〇

 あたしの住む街はまあまあ田舎で、通学路の左右には田んぼとか畑とかがずっと並んでいる。数十センチほどの段差の下にある田畑からは泥や土、植物の匂いが立ち上っていて、日焼けしたコンクリートの匂いと混ざり合って、あたしの鼻孔を穿り回す。
 下校を共にするNは無口だった。そのあまりの無言っぷりに嫌気がさしたあたしは、若干の怒気を孕ませた声でこう質問した。
 「Nってさ、どこから越して来たの?」
 「T県です」
 答えは端的に、最低限度のものが帰って来る。それはあたし達の住む隣の県で、それは今世界中から注目される怪事件の舞台でもあった。
 「なんか、大変なんだってね。何もないところで、ぺしゃんこになった子供の死体が見つかってるって、ニュースで見たよ」
 あたしが言うと、Nはやはり端的に「そうですね」と口にした。
 「見たことあるの?」
 「はい」
 「え? 本当に?」
 「はい」
 「人の死体って、ぺしゃんこになった人の死体って、どんな感じなの?」
 思わず変な質問をしてしまった。Nは表情を何も変えずにこう答えた。
 「汚いです」
 あたしが絶句していると、Nはふと何かに興味を持ったように、視線を道路の端に向けた。
 そこには一匹のカラスが横たわっていた。
 いつもは綺麗に畳まれているはずの黒い羽根が、二枚とも大きく圧し折れ、ひしゃげた状態で広がっている。全身のあちこちから血が滲み、乾いたその様子は、傷ついてからかなりの時間が経過していることが見て取れる。柔らかそうな黒いお腹は、息をするように僅かに上下しているが、息絶えるのも時間の問題というところ。
 車に轢かれたのか、それとも誰かに悪戯されたのか。いずれにせよ哀れな姿をさらすそれに、Nは衒いもなく近付いて、両手を伸ばして抱き上げて見せた。
 「え? ちょっとN、マジなの?」
 あたしは思わず声をかける。
 「なんでそんなことするの? ばい菌付くよ?」
 「まだ息があります」
 Nは答える。
 「持ち帰って手当をすれば、或いは……」
 相変わらずの無表情のNに、あたしは何を言って良いか分からなくなった。多分手当をしても治すのは無理に見えるし、死にかけのカラスを持ち帰ったら家の人に絶対に怒られそうだ。しかしそんなことをどういう風に言えば諭すことができるのかは分からなくて、あたしは途方にくれた。
 その時だった。
 「おいU。自分友達いないからって、そんな転校生とつるんでる訳?」
 Oの声がした。背後には数人の仲間を引き連れ、意地の悪そうな目の端を吊り上げている。
 「つか何それ? カラスの死骸? きったない」
 竦んで立ち止まるあたしに対し、Nはいつも通りの対応をした。こちらを睨み付けるOを無視して、死にかけのカラスを抱いておもむろな足取りで歩きはじめた。
 「おい。無視すんなよ!」
 OはNの襟首を掴む。
 「今日はあんたと話があって待ってたのにさ。見付からないからこっちから探しに来てやった。なんで道を変えたの? もしかしてUの奴に入れ知恵された?」
 立ち止まるNは何も答えない。無表情のままOの方に振り返り、虚ろな声で言った。
 「この子の手当てがあるので、帰らせてください」
 「うるさいよ!」
 OはNの手からカラスを叩き落とした。そして地面に着いたカラスの頭を、スニーカーの裏で思う様踏みつける。
 頭蓋骨の砕ける音がした。皮膚から飛び出した白い骨の破片が、カラスの黒い体毛の中で嫌な感じに映えていた。裂けた皮膚の隙間から、赤黒い血液と共にまろび出る薄桃色のゼラチン質は、頭蓋骨の中に入っていたカラスの脳味噌に見えた。
 本当に死骸になったカラスを無感情に見下ろすNの胸倉を、Oは掴んだ。
 「こんな汚いもんに構ってないでちゃんと話を聞きなよ。こっちはあんたのその態度がずっとアタマに来てるんだ! そうやって人をシカトするのはやめ……」
 「おまじない」
 Nは唐突に言った。
 「は?」
 「わたしが転校して来る前の学校で、流行っていたおまじないがあるんです」
 淡々とした口調で語り始めたNに、Oは鼻白んだような様子を見せる。
 「目を閉じて、どこか高いところに立っている自分を想像するんです。それから『トビオリさん、トビオリさん、いまそちらに参ります』と、口に出して三度唱えます。そしてその場でぴょんと前に向けてジャンプをすると、不思議なことが起こるというものです」
 Nが自分からここまでまとまった台詞を吐くのは初めてだった。胸倉を掴まれても睨まれても、動じる様子を見せず、無表情を崩さず、淡々と語るNの様子には、吸い込まれるような迫力があった。
 「やってみてもらえませんか?」
 黒目がちの大きな瞳にOの全身を映しながら、Nは静かな声で言った。
 「……何それ? なんで私がそんな気持ちの悪いことをしなきゃいけないのよ? 何も起きないに決まってるじゃない、そんなの」
 「何も起きなかったら、あなたの言うことを何でも聞いても良いです」
 「本当に?」
 「ええ。本当に」
 Oは思案するような顔を浮かべつつ、Nの胸倉から手を離した。
 冷静に考えれば、Nの持ち出した取引はOに何のメリットもない。取り巻き達と共にNを囲っているこの状況では、そんな取引に応じずとも、Nに言うことを聞かせる方法はいくらでもある。
 「……分かった」
 それでもOがそれに応じたのは、Nの語る『おまじない』に興味を持ったからだろうか? それとも、どう揺さぶっても何を言っても動じない、人形のように無機質なNの態度に、何か恐れのようなものを抱いていているからだろうか?
 いずれにせよ、Oは目を閉じて、気持ち顔を空の方へと傾けた。そして口に出して、呪いの中核となる呪文を三度唱える。
 「トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります」
 Oはその場で足を屈め、手順通りに前へ飛ぼうとした。その時。
 「ちゃんとやれ!」
 Nが鋭い声を発した。
 今まで聞いたこともないような声量で、胸にずんと来るような低く短い調子の声だった。取り巻き達は怯えた様子ですくみ上り、Oは思わず目を開けてNの方を見る。その視線には恐怖が滲んでいる。仲間と共に捕らえ、どうとでもなぶり者に出来るはずのNを相手に、Oは確かに怯えていた。
 あたりの電線から声を上げてカラスが飛び立ち、風に吹かれた木々が鳴る音が響く。そして静寂が訪れた世界の中心で、Nだけが無表情を保って立ち尽くしていた。
 「な……何よ。ちゃんとやってるじゃない」
 Oが声を震わせる。
 「ちゃんと高いところにいる自分の姿を想像してください。学校の屋上とか、切り立った崖の上とか」
 「あんたね……何も起きなかったら、本当に覚えてなさいよ」
 再び目を閉じて、「屋上、屋上……」と口元で呟いてから、呪文を唱え始めた。
 「トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります……」
 そう言って、Oはその場で一歩飛ぼうと足を折りたたみかけ、そして叫んだ。
 「きゃ、きゃあああっ!」
 周囲で見ているあたし達が、思わず息を飲み込むような、つんざくような悲鳴だった。
 「な、何よこれ! どうなってるの?」
 Oは目を閉じたまま、その場で我が身を抱きしめて喚いた。
 Nはあくまで淡々とした口調で言う。
 「良いから飛んでください」
 「飛べる訳ないじゃない……こんなの!」
 Oはアタマを抱えながら絶叫する。
 「高くて怖くて……それに何なのよ、下にいる奴は!」
 目を閉じたままOは下を覗き込んでいた。そこにはただ砂色の地面があるだけだった。否、目を閉じたOにはその砂色の地面すら見えていないはずだった。瞼に覆われた暗闇の世界で、しかしOはOにだけ見える何かを覗き込み、Oにだけ見える何かに怯えていた。
 「良いから。飛んでください」
 「嫌よ! こんな化け物のいるところに飛べる訳ない! 助けて! あんたなんか知ってるんでしょう?」
 瞼の上を掻き毟りながら、Oは喚き続けている。
 「ねぇ、お願い。目を開けさせて。助けてよ……ねぇ、助けてっ!」
 「助けません。飛んでください。……飛べっ!」
 目を閉じたまま半狂乱になっているOの背後に回り、その背中を勢い良く押した。
 Oは前のめりになってその場に倒れる。
 その時だった。
 正面から砂の上に倒れただけのOの身体は、まるで凄まじい高所から落下したかのように、激しい音と衝撃を響かせた。まるで飛び降り自殺の遺体のように、骨は砕け、皮膚は裂け、噴き出した血液があたりを真っ赤に染める。粉々になった顔面から赤黒い液が激しく溢れ出し、弾けた頭蓋骨から脳漿と共に薄桃色のゼリーのようなものが、数メートル先まで飛び跳ねた。
 幾重もの悲鳴が連なって周囲に響き渡った。その中にはもちろんあたしの声もあった。狂乱の中で、Oを突き飛ばしたNだけが静かな様子で立ち尽くしていた。
 Nはぐちゃぐちゃになって倒れ込むOをじっと見据えると、表情にも所作にも表れないが確かに満足した様子で視線を外した。そして地面にこびり付いているカラスの亡骸を、両腕を真っ赤にするのを厭わずに持ち上げた。
 それを抱いて衒いない足取りでその場を去っていく。自分が引き起こした惨劇に、最早興味を失ったかのように。
 悲鳴から現実に意識を回帰させたあたしは、そんなNを追いかけて肩を掴んだ。
 「ちょっと待ておまえ! 何をやったんだよ!」
 Nは最低限度の対応とばかりに、視線だけをこちらに向けて言った。
 「腹が立ったんです」
 「おまえ、Oを殺したんだよな?」
 「はい」
 あっさりと認めるNに、あたしはむしろ力が抜けてその場で蹲りそうになる。
 「そこまでやることなかっただろ……」
 「腹が立ったんです」
 「さっきの何だよ。いったいどうやったんだよ」
 「ですからおまじないです。そういうのに詳しいんです。あんまり人に教えちゃいけないって、教えてくれる姉さまに言われてるんですけどね。前の学校でも、広めちゃった所為で何人も死なせて、それで転校することになってしまいました。バレたら叱られるかもしれません」
 ニュース番組なんかである「体を強く打って死亡」という表現は、遺体が原型を留めていない状態を指すらしい。
 高所から落下して、全身がぐしゃぐしゃになったような、そんな状態を指すらしい。
 県境を三つ超えた先にあるT県の、とある小学校の近辺で、そうした状態の子供の遺体が発見される事件が相次いでいる。そして不可解なことに、そうして見付かる子供達の周辺に、転落死できるほど高い建物はないそうなのだ。
 この世ならざる何かの力が働いたような、そんなおかしな話の真相を、あたしは今目の当たりにしたのだ。
 慄くあたしを置き去りに、Nはカラスを抱いて歩き続ける。そして一本の大きな木の陰に狙いを定めると、真っ赤に濡れた手に土を張りつけながら、膝を折ってその場で穴を掘り始めた。
 あたしは尋ねる。
 「何やってんの?」
 Nは答える。
 「この子を土に埋めてあげるんです」
 それからNはあたしの方を振り向いて……それは『最低限の対応』ではなく、きちんと身体ごとこちらを振り向いて……そして微弱ながら、本当に霧のように幽かながら感情のようなものを纏わせた声で、あたしに言った。
 「手伝ってくれませんか?」
 その黒々とした大きな瞳に、吸い込まれるようにあたしは近付き、隣に座った。
 そして、Nと一緒になって、両手を土色に染めて穴を掘り始める。
 あたしは自分が魔に魅入られたとは思っていない。
 考えなしの好奇心で、奇妙なものに近付いた訳でもない。
 Nのしたことをあたしは決して支持しない。Oは最低な奴だけど、だからと言って、その無知と無思慮に付け込んで罠に嵌め、殺してしまって良い訳がない。
 だとしても……Oに思い付きのように踏み躙られ、助かるかもしれなかった命を散らした無辜のカラスを、土に埋めて供養することは、間違ったことではないはずなのだ。
 それが正しいことなのならば、別に手伝っても構わない。
 それにしても。
 「なあN。おまえ要領悪いだろ? 横に広げ過ぎだしさ。指でそんなに穿ったって疲れるだけだろ? 石とか使って削るように掘って、溜まってく土は後からどけろよ」
 「はあ」
 そう言った一瞬、鉄面皮のNがほんの一瞬だけ唇を尖らせたように見えたのを、あたしは絶対に忘れない。忘れてやるものかと思った。

 〇

 後日談。
 泣き喚く少女達に囲われたOの死骸は、間もなく大人達にも見付かって通報が成された。
 既に命がなかったことは言うまでもない。転落死できる程の高所が近くにないにも関わらず、明らかに高所から落ちたとしか思えないその死体は、不可解そのものだ。その死因が隣の県で起きている怪事件と一致していることに、警察官達はすぐに気付いた。
 だがそこまでだ。その事件を引き起こした忌まわしい呪文のことなど、大人達が信じるはずもない。事件を見守っていた少女達がどれほど強く訴えようとそれは同じで、集団的な自己催眠現象の類と解釈されるに留まった。流行のまじないを信じてしまい、級友の不審死をそれに結び付ける、哀れな子供達。
 子供達がその呪文の効果を大人達に示すには、大勢の見ている前で、己の命を犠牲に実証するしかない。しかしそんなことはできるはずもない。子供の言い分をそのまま信じたごく少数の大人にとっても、それは全く同じことなのだ。
 よって怪事件は怪事件のまま、未解決のまま据え置かれ、大人達は的外れな調査を今も続けている。
 その事件を引き起こしたNはというと、無口無表情を変わらずに貫いたまま、休み時間の度に校舎を徘徊する日々を送っていた。
 「なあおまえさ。教室に居たくないのはあたしにも分かるけど、そんな毎日ふらふらしてないで、ここで本でも読んでろよ」
 ある日。徘徊の途中で図書室にやって来たNに、あたしは本から顔をあげてそう言った。
 「おまえ学校中の噂になってるだろ? Oを殺したって。クラスメイトとかはマジだって知ってるから、怯えて声もかけて来ないけどさ。でもクラスや学年が違う奴は嘘だと思ってるから、外歩いてたらちょっかいかけて来るじゃん? あんまうろうろしない方が良いって」
 無視して立ち去って行くNの様子を想像しながら、それでもあたしは言った。しかしNは。
 「そうかもしれません」
 などと言って、わたしの隣にすっと腰かける。
 あたしはそれを意外に思った。こいつが素直に言うことを聞いたこともそうだし、無数にある席の中から、それが当然であるかのようにあたしの隣に座ったことも意外だった。
 だがその意外さを指摘したらこいつは離れて行きそうだ。確かにあたしはこいつの性格の全部をまだ掴めていない。気味の悪い奴でもあるし、変わった奴でもあると思う。でもだとしても、きっとあたしと変わらないくらいには、子供らしく偏屈な子供であることも、きっと間違ってはいない。
 だから今は多分、そのことについては、何も言わない方が良いのだ。
 本を読むでもなくただ茫然と、唇を結んで開けた窓を眺めているこいつに、わたしは声をかける。
 「その席、座っちゃいけないんじゃなかった? その席を気に入ってる霊がいて、譲ってあげなくちゃいけないんでしょ?」
 窓辺の陽だまりの中で、爽やかな春風に無表情のまま髪を靡かせているNは、あたしの方に視線をやって端的にこう言った。
 「だって、ここが一番気持ちが良いんですもん」
 表情や声音を変えずとも、その言い分は偏屈で意固地な子供そのものだ。
 霊から気に入りの席を奪う胆力に恐ろしいものを感じながらも、あたしはそんなNの様子に他愛もないものも感じ取っていた。

 〇

 ずきずき虫とぐるぐる様

 〇

 ロウコクロリディウムという寄生虫の話を聞いたことがある。
 そいつは鳥の糞を媒介にカタツムリに寄生する。で、寄生されたカタツムリはそいつに行動を操られ、普段行かないような目立ちやすい高所まで移動させられる。そいつの次の寄生先となる鳥の目に付きやすい場所へ。移動させられたカタツムリはそいつ諸共鳥に食べられる。そしてそいつは鳥の体内に産み付けた卵を糞と共に排出させ、卵は糞を食べたカタツムリに寄生して、また鳥に食べさせる……。
 カタツムリはどのようにしてそいつに操られるのだろうか?
 何も、脳を乗っ取ったり、マインドコントロールを行ったりしている訳ではない。
 そいつに寄生されたカタツムリの触覚は、何倍にも腫れ上がり、毒々しいほどの黄緑に変色する。それは単に炎症を起こしているというのではなく、その触覚にそいつが入り込んでもいる。そしてそいつはカタツムリが自分の意に沿う行動を取るように、触覚の中で暴れまわり、その痛みでカタツムリを操作するのだ。
 そいつはカタツムリが自分の意に沿わない行動を取ると、触覚の中で激しい痛みを齎してそれを制止する。カタツムリは自分の中で起きている痛みの原因が分からないまま、痛い思いをさせられずに済む行動を取り続けるしか出来なくなる。
 痛みはそいつが行きたがっている高所に向かっている時だけマシになる。
 カタツムリは本当はそこに行きたくない。高く目立ちやすい場所に行けば格好の獲物になるからだ。
 それでもそこに行ってしまう。触覚を襲う激しい痛みに耐えることはカタツムリには出来ない。いやカタツムリでなくても誰にも出来ないだろう。誰だってどんな生き物だって、痛みを避け、痛みに従って生きているのだ。
 だからカタツムリは自ら死地へと向かう。
 食べられることよりも死ぬことよりも、痛いことだけがカタツムリには嫌なのだ。

 〇

 平成十六年九月某日。

 〇

 水を含んだモップはずっしりとして重たい。
 それを何となく床に押し付け、擦るとか磨くとか、綺麗にするとかを考える訳でもなく、惰性のようにただただ前後に操作する。
 あたしは自分で割った花瓶の掃除を行っていた。ガラスの破片はM先生が始末してくれたが、濡れた床の掃除をするように求められたのだ。
 木の床はモップで塗り伸ばされた水で黒ずんだ色を発している。これが綺麗になっていると言えるのか言えないのか、良く分からなかったがとりあえずあたしは腕を止めた。それなりの回数の前後運動をこなしたことだし、何よりあたしの腕は疲れていた。
 「先生。終わりました」
 見守るでもなく、教室の先生用の机で書類仕事らしきことをしていたM先生に、あたしは告げた。M先生はゆらりと立ち上がって微かに前傾した姿勢であたしの傍まで来ると、けだるげな視線で掃除をしたことになっている床を一瞥し、特に褒めるような調子も込めず淡々と言った。
 「綺麗になっているな。ご苦労さん」
 「はいそうですか。じゃ、もう帰って良い?」
 「その前に訊きたいことが……あの。どうして花瓶を割ったりしたんだ?」
 「え……あたしまだ怒られるの?」
 別に怒られたという程怒られた訳じゃないのだが。というかそれほど怒る人でもないのだが。ただ、片付けるからそこにいろと言われ、破片を拾い集める先生の傍で待機させられるのには緊張感があった。最後に残った水滴を掃除しろとモップを渡された時は、罰を受けるという感触があった。あたしはそれらに十分なストレスを感じたし、それが先生の叱責なのだと理解していた。そしてそれ以上の沙汰があることにあたしは身構えた。
 「ああ違う違う。怒ってない怒ってない」
 M先生は微かに顔を顰めて、何ならそっぽも向いた。子供を怯えさせないようにする時に、愛想の良い表情を浮かべるのが得意でない代わり、M先生はいつもそっぽを向く。
 「でも訳は訊いておきたいからさ。怒らないから言ってみて」
 「別に訳なんてないぞ? 単なる不注意なんだって」
 「本当か?」
 「ほ、本当だよ。最初もそう言ったじゃんか。だからあたしに片付けさせたんだろ?」
 「……そうか。じゃ、片付けご苦労様」
 優しい顔をする訳でもなくM先生はそう言ってあたしを許してくれた。
 M先生は若い男の先生だ。ひょろりと痩せていて背が高い。大人の男の人だから高いというだけでなく、職員室のどの先生と比べても頭の先っちょが上の位置にある。目鼻立ちは整っているが髪の毛の手入れはぞんざいで、いつも寝ぐせがついていて、目付きが少し悪くて猫背気味で、退廃的で気だるげな雰囲気があった。昼休みや放課後の時間には学校の敷地の外の道路で、いつも煙草を吸っている。
 「じゃあ先生、さようなら」
 「いや待ってくれ」
 「え? まだ何かあるの?」
 「Nのことなんだが」
 あたしは再び身構えた。
 「おまえさえ良ければ、あいつについて話してくれ。特にそう、Oが死んだ時のことを、出来る限り詳しく」
 少しうんざりした。
 それは警察やマスコミの人に何度も聞かれたことだった。親にも話した。学校の人間から聞かれたことだってある。校長室で、カウンセリングの先生と校長先生が並んでいる前で、不自然なほど優しい態度で話を促して来るのに、あたしは見たまま体験したままを語ったのだ。
 その度に胡乱そうな目を向けられる。実際にOはぺしゃんこで死んでいるのにも関わらず。無論大人達は表面上尊重するような態度を取ってくれはするが、内心ではきっと、子供の集団妄想とかそういうもっともらしい理屈をいつも考えている。どんなに異常な現象であっても、この世で起きたことなのならば、今は解明されていないだけ何かしらカガクテキ説明が付けられるという、その一線だけは心の中で常に守っているのだ。
 だからあたし達の話をありのまま飲み込んでくれる大人はいない。Oの死の原因は、おそらく永遠に不明のままだ。
 それが分かっているから、あたしはもう何も話したくない。
 「校長先生にも一度話したぞ? M先生にもまた話すのか?」
 「そうして欲しい。頼む」
 「どうして? 学校からの聞き取りは終わってるんだろ?」
 「その通りだ。だからこれは俺の個人的なお願いなんだ」
 「なんでまたそんな」
 「死んだOは俺の生徒だろ」
 あたしは話す気になった。
 Oが仲間と共にNをシメにかかったこと。それを回避するために本来とは別のルートで帰路についていたけれど、あっさりと追い付かれてしまったこと。
 そこから色々あって、最後にNがOを背後から突き飛ばし、転んだOがぺしゃんこになって死んだところまで話し終えると、M先生は視線を天井に飛ばしながら頷いた。
 「ありがとう。参考になったよ」
 「他の奴にも訊いたのか?」
 「訊いたよ。関わった人間には全員同じことを訊いている。どこまで一致しているかを知りたかったんだ」
 「別に一致しているからって本当だとは限らないだろ? 話を合わせてるかもしれないし、誰かの妄想を全員で共有しているかもしれないって、大人達は皆思ってるはずだぞ」
 「違う。おまえ達の話はまったく一致していないんだ。だから信用できる」
 あたしは目を丸くした。
 「なんでだよ。一致していないから信用できるとか意味分かんないぞ。だいたい一致していない訳がないだろ。だってそれは本当にあった出来事なんだから」
 「いや、出来事の内容については一致しているんだが」
 「はあ? 意味が分からないぞ?」
 「一致した一つの出来事を共有した人間同士であっても、見るところや感じることや、覚えていることが異なっているのが普通だ。作者が提示した視点を追うしかない作り話と違って、現実の出来事は関わった人数と同じだけの視点があるからな。だから起きた出来事の内容としては一致していても、その語る内容には不一致があるのが当たり前なんだ。その方が信用出来る」
 「それは……」
 そうかもしれない。
 「もしおまえ達の言っていることが嘘や作り話や妄想だとすれば、もっと全員が同じことを話したことだろう。口裏でも合わせたかのようにな。しかし実際にはそうじゃなかった。おまえ達は同じ出来事をてんでバラバラに証言している。だからこそ、それが事実であることを俺は確信出来るんだよ」
 「…………」
 「NはOに妙なまじないをさせた。Oは怖がり初めた。そんなOをNは背中から押した。その結果Oはぺしゃんこになって死亡した。こういったことは本当に起きたんだ」
 「なあ先生。本当にNに普通じゃない力があるのか?」
 「ないと考える方が不自然だろうな。そして、NはOを殺した」
 M先生はあっさりとそう言ってのけた。
 「言っておくが、それを感じている大人は俺一人だけじゃないはずだぞ? おまえ達の言うことを信じている大人だってたくさんいる。ただそれを大っぴらに口に出す訳には行かないだけなんだ。小学生の女の子に何か霊能力のようなものがあって、それを用いて同級生を殺しただなんてこと、警察も教師もマスコミも、口に出したそいつの立場がなくなってしまう。それは分かってやって欲しいんだ」
 「でも先生は今大っぴらに口にしたぞ?」
 「それはおまえの前でだけだ。今のところはな。なあU、その後はNとどうしてる?」
 「休み時間は図書室で会う」
 「話とかは?」
 「するんだけど、あいつ不愛想で。……ああでも、前に勧めた本は読んでくれたよ」
 「そうか。……話してくれてありがとう。それじゃあ気を付けて帰れよ」
 M先生は静かにその場を立ち去って行った。
 Nと付き合うことについて、良いとか悪いとかは言わなかった。

 〇

 「Vの所為で先生に怒られた」
 翌日の行間休み、図書室で顔を合わせるなりあたしはNに言った。
 ただの愚痴だった。それを言える相手はあたしにはNだけだった。しかしそのNは最低限度の対応とばかりに微かに視線をこちらに向けるだけで、特に何も答えることなく再び窓の方へと視線を戻した。
 「何とか言えよ」
 「はあ」
 「というか聞いてくれよ。昨日の帰りしな、あたしが教室の後ろのロッカーに向かう時、Vの奴がいきなり背中から突き飛ばして来やがったんだ。突き飛ばされたあたしはロッカーの上に置いてある花瓶に肩をぶつけてさ」
 「はあ」
 「花瓶が倒れて床に落ちて、ガラスが割れちゃったんだ! Vの奴は『しらねー』とか言いながら、走って教室出てってさ。どうにか隠蔽できないかとガラスを集めてたら、そこに先生がやって来て、あたしが怒られたんだよ! ムカつくだろ! Vが悪いだろ!」
 吐き出し切ったあたしは息を吐いてNの隣に座った。うんともすんとも言ってくれないが、とりあえず相槌は(「はあ」と力なくだが)打ってくれるNに愚痴をこぼしたことで、微かに溜飲を下げたつもりになった。
 Nが何も言わないのであたしは取って来た本を開いた。しばらく無言の時間が続いて、鉄面皮のまま窓を見詰めていたNがふと口を開いた。
 「言わなかったんですか?」
 「は?」 
 Nは何も言わずに窓を見詰めていた。
 無言の時間が流れる。五秒。十秒。あたしはたまりかねてNに尋ねた。
 「言わなかったって何をだよ」
 「今の話です」
 「Vに突き飛ばされた所為だって? 言わないよそんなの。チクったらチクったってまた標的にされるだろ?」
 Vは教室で一番やんちゃな、一番体の大きな、一番威張っている一番腹の立つ男子だった。
 勉強も運動も一番出来るが、良くクラスの弱い奴からものを取り上げたり、突き飛ばしたり足を掛けたりしていじめるという、しょうもない奴だ。
 その加害性は主に同じ男子グループの中で発揮され、最も標的になっているある男子などは、酷いとトイレで裸にされるようなこともあるらしい。女子であるあたしのことはそれほど興味がなさそうだったが、時には気が向いたように突発的な意地悪を仕掛けて来ることもある。
 そこにはきっと理由なんてない。ただそこにいたから、背中を押したくなったから、そういう理由であたしは突き飛ばされ花瓶を割る羽目になり、その場に現れたM先生に虚偽の申告をして怒られることになったのだ。
 「M先生なら、後からあたしに何も言って来れないくらいに、ちゃんとしっかり怒ってくれたりしたのかな? でもあの人なんか頼りないっていうか、覇気がないところもあるじゃん? 信用しきれない以上、こっちも我慢して飲み込むしかなかったんだよ」
 「そうですか」
 再び沈黙が訪れた。
 三分が経ち、五分が経つ。あたしは本を読んでいたがNはひたすら窓を眺めていた。こいつは本を読みに来ているのではなく時間つぶしにただいるだけなのだ。
 時間つぶしに来ているのはあたしも同じだ。本だってそれほど好きじゃない。休み時間の喧騒の中を一人で過ごす、あのいたたまれなさを味わうのが嫌だからここに来て、ここに来るからには本を読んでいるだけなのだ。
 でもこいつはどうなんだろう?
 こいつだったら教室で一人でいたって何も感じないんじゃないか? 
 だったらなんでここにいるんだ?
 こう見えてあたしと同じだったりするのか?
 まさかな。碌に字を追うこともせず考えていたあたしの目の前に、Nがおもむろに一本の瓶を置いた。
 一匹の虫が入っていた。
 「ひ……っ」
 あたしは思わず息を飲み込み、身震いをした。
 見たことのない虫だった。いや虫かどうかも正直良く分からないが、しかし虫以外の他の何にも当てはまらないような姿をしている。それは大きく赤ん坊の拳くらいのサイズがある。そして脚が多かった。左右合わせて十数本ありそうな黒い針金のような長い脚は節が一つあって、.鋭角に折れ曲がって瓶の底を捉えていた。密集する脚の中央の胴体は小さく、しかしアタマは大きく、中でも突き出した二つの目玉はとりわけ巨大だった。小さなビー玉くらいのサイズはあって、血走った白目と赤茶けた黒目は、人間の眼球をそのサイズに縮小したようにしか見えなかった。
 カサカサと脚を動かしながら瓶の中をはい回る虫は気色悪かった。この図書室のどの図鑑にも載っていない虫だとあたしは思った。
 「何それ?」
 「ずきずき虫です。姉さまはそう呼んでいます」
 「なんだそれ? というかおまえ、それ、どこから出した?」
 瓶は大きくあたしと同じ制服のポケットに入るサイズとは思えない。そしてNは服のポケットの他に何かを入れておけるようなものを身に着けていない。
 「Vと言う人に腹が立つのなら、これをくっ付けておきますよ」
 「くっつけるって……」
 「ずきずき虫はぐるぐる様の家来なんです。くっつけた人をぐるぐる様に連れて行くんです」
 「おまえ、何言ってんだ?」 
 Nはそれ以上何も言わず、瓶の蓋を開けて『ずきずき虫』を中から出した。
 あたしがあっという間もなくずきずき虫は図書室の床へと降り立った。そしてその何本あるか分からない脚をせわしなく動かしながら、図書室のどこかへと消え去り、見えなくなった。
 何も言えないでいるあたしに、Nもまた何も言わず、ぼんやりと窓を眺める作業に戻った。

 〇

 翌日、Vは腕を大きく腫らした状態で登校した。
 見たことも無いほど巨大な炎症だった。V本人の拳と同等かそれ以上の大きさがある。傍目にもぶよぶよとして見えるそれは内部に相当な化膿を伴っているようで、Vは顔を顰めながら炎症に手を触れ、いじくっていた。
 「すげぇ熱い」
 「あんま触らない方が良いぞ」
 あたしは思わずそう声を掛けた。普段なら話すような相手ではないし、増して心配してやるような相手でもないが、昨日の図書室での出来事が気になったのだ。
 「うるせぇよ。ほっとけよ」
 「どんな感じなんだ? 痛いのか?」
 「普段は痛くない。中に何かいるような感じがするだけだ。でも時々、気が狂う程痛くなる」
 「中に何かいる……?」
 「針金の塊が暴れるみたいに痛むんだ。ズキズキして……うぅ!」
 Vは絶叫をあげた。それは教室中にとどろいた。Vは普段強がったように眉間に皺を寄せている顔をくしゃくしゃにして、泣き叫びながら椅子から転げ落ちた。両足をばたつかせ、ぼろぼろと涙を流しながら、痛みに悶え狂っている。
 「お……おい! 大丈夫なのか?」
 Vは何も答えない。しかしやがて痛みは治まったのか、息も絶え絶えの様子でゆらゆらと立ち上がる。
 「ほ、保健室行くか? それか先生呼んで来た方が良いよな?」
 「そ、そうだな……うぅ!」
 再び炎症を手で押さえて悶え苦しむV。あたしは教室を飛び出して職員室に向かう。
 「M先生! 来て!」
 M先生は何も言わずに立ち上がった。そして駆け足であたしの方に近付いて来る。
 あたしがどう説明したものかを逡巡して立ち止まっていると、M先生は言う。
 「なんだか知らないがとりあえず向かおう。急いだ方が良いんだろう?」
 「う、うん」
 この先生のこういうところは、少し好きだ。
 結局何も説明出来ないまま、先生を連れて来たわたしを待ち受けていたのは、放心状態で座り込んでいるVだった。
 「苦しんでいるんだったな? 今は大丈夫なのか?」
 「……何でもないよ」
 振り絞ったような声を出して、Vは視線をM先生から逸らした。
 「そんなはずないだろ? あんなに苦しんで……」
 「何でもねぇよ!」
 Vは恐怖に塗れた表情で吠え、立ち上がった。
 「もうほっとけよ! さっきのだって、多分おまえの所為だよ!」
 「は……? いや、あたしの所為って、どういうことだ?」
 「うるせぇよ。何もすんなよ。邪魔なんだよ!」
 あたしは意味が分からなかった。そしてVの剣幕に鼻白んで何も言えなくなっていた。一方で、M先生は考え込むように口元に手を当てながらVの方を観察し、腕に出来た大きな炎症に気が付いて指をさした。
 「その腕、どうしたんだ。偉く腫れてるな」
 「……腫れてねぇよ」
 「いや腫れている。それが痛くて苦しんでいたんだな?」
 「ち、違うよ」
 「どうして否定する?」
 「それは……」
 Vはその場で蹲って悲鳴をあげ始めた。ばたつかせた脚が近くにある机を蹴り飛ばし、傍にいた女子生徒に短い悲鳴をあげさせた。しかしVの絶叫はそんなものは容易く掻き消す程であり、あたしは心配や恐怖以上にその金切り声が齎す頭痛を感じていた。どうすれば人間がこんな声を出せるのか? そう思わせるような悪夢のような叫びだった。
 やがて痛みは治まったらしくVは腕を押さえながら涙目で立ち上がった。
 「もう放っておいて……先生」
 M先生は鋭い視線でVの炎症を見詰めつつ、口元に手を当てて考え込んでいた。その様子に動揺は見られない。先生らしい威厳も迫力もないが、いつだって冷静な人ではあった。
 「おいN。おまえ、何か知っているんだろう?」
 先生はその矛先をNに向けた。Nはまるで無関心な態度で席に着いて窓の方を眺めていた。こいつは何があってもどんな状況でもぼんやり窓を見ている。授業中はノートだって取らないし教科書だって出していない。きっとテストは酷いもんだろう。それをほったらかしにしているM先生だったが、今回ばかりはNの方に剣呑な表情で駆け寄って低い声で訪ねた。
 「説明してみろ。Vには何が起きている?」
 「…………」
 Nは黙り込んで何も言わない。M先生は珍しく生徒を睨むような表情になり、凄みのある声でNに尋ねた。
 「あんなに苦しんでいるんだぞ? 知っているのなら知っていると言え」
 Nは何も言わない。
 「お、おいN。先生が訊いてるんだぞ? 説明したらどうなんだ?」
 あたしはたまりかねてNに言った。
 「ナントカ虫とかいうのをVに付けたんだろう? その話を先生にすれば良いだろう」
 「ナントカ虫? なんだそれは」
 先生はあたしの方を見た。普段見ないような精悍な表情をしていたので、あたしは思わず鼻白んだ。
 「わ……分かんないよあたしは何も」
 「Nなら知っているのか?」
 「だと思う」
 「ずきずき虫です」
 Nは静かな声で言った。
 M先生はNの方を向いて、先程までより穏やかな声で訪ねた。
 「なんだそれは?」
 「ぐるぐる様の家来です。ずきずき虫は、憑いた人間をぐるぐる様のところに連れて行きます」
 「連れて行かれた奴はどうなるんだ?」
 「ぐるぐる様のものになります」
 「ぐるぐる様のものになるとどうなるんだ?」
 「…………」
 「どうやったら助けてやれる?」
 Nは話すことをやめたようだった。沈黙して何も言わないNに、M先生は諦めた様子で相手をするのをやめた。
 M先生は座り込むVを優しく助け起こした。
 「医者へ行こう」
 「やめろ!」
 Vは叫び声をあげてM先生を振り払った。
 「俺に何もしないでくれ! おまえらが俺を苦しめているんだよ!」
 走って教室を抜け出すVを、M先生は額に汗して見送った。

 〇

 M先生はVのことをVの保護者に連絡した後、他の先生に連絡して授業をその人に任せた後、自分はVのことを追って学校を飛び出して行った。
 いつもと違う先生の授業を受けながら、あたし達はどうしてもNのことが気になっていた。Oに何かをした、Oに何かをして殺したNが、今度はVに牙を向けただろうことは、誰しもに想像できることだった。
 行間休み、図書室のいつもの席で、あたしはNを問い詰めた。
 「おいN。おまえいったいVに何をしたんだよ?」
 Nは静かな声で答えた。
 「言った通りです」
 それで説明を終えたとばかりにNは窓の方へと視線を戻した。
 それっきり何を話しかけても突いても押してもNは何も言わなくなった。暖簾に腕押し糠に釘、あたしは苛立ちを感じつつ休み時間いっぱいを使ってNを問い詰めて、どうにもならないと分かって苛立ち交じりに捨て台詞を放った。
 「もういい!」
 そう言ってNの元から立ち去る時に、Nはあたしの背中に向けて一言、口にした。
 「あなたの為だったのに」
 あたしは振り向いた。
 Nは微かに唇を尖らせた表情を浮かべていた。ほんの小さな表情の変化だったがあたしにはそれを読み取ることが出来た。拗ねている。膨れている。へそを曲げている。
 「知るか!」
 あたしは叫んで図書室を出た。

 〇

 結局、M先生はVをどうにか見つけ出し、強引に病院へ連れて行ったそうだった。
 放課後のホームルームであたしはそれを知った。そのことについて、帰り際にコメントを求めたあたしに、Nはこう答えていた。
 「余計なお世話だったなら申し訳ありません」
 「……ちゃんと止めなかったあたしも悪いぞ。今からVの奴を助けてやれないのか」
 「一度憑いてしまったものは、わたしにはどうにも」
 あたしはNと共に帰路に付いていた。行きはともかく帰りは共にすることがあたし達の習慣になっていたのだ。特にそうするよう言葉を交わした訳ではなかったが、お互いに何か居残りの用事がある時以外、あたし達は何となく放課後にお互いの姿を探し何となく隣あって学校を出る。傍目に見ればあたし達は友達だったし、こんな奴でも一緒に帰る相手が出来て、あたしは嬉しいというより安堵していた。
 こいつの方が何を考えているのかは分からない。
 ずきずき虫の話をするとNは黙り込んでしまうので、あたしは別の話をした。昨日見たテレビやプレイしたゲームや読んだ漫画の話をすると、Nは「はあ」とか「そうですか」とか気のない相槌を打った。話を聞いていない訳ではないようで、ごくたまにだがちゃんとしたレスポンスが返って来ることがある。こんな風に。
 「その漫画があなたの家にあるんですね?」
 「ああそうだぞ。お小遣いで中古をちょっとずつ集めてるんだ。来月のお小遣いであと三冊買ったら連載に追いつくんだぞ」
 「今から読みに行って良いですか?」
 「は……? あ、ああ。別に良いぞ。汚すなよ」
 Nは頷くでもなく視線を正面に向けた。意外な展開にあたしは戸惑いつつも、自分が口にした漫画のレビューがNの琴線に触れたことが少し得意だった。同時に、こいつにも人が内容を語る漫画に興味を持ち自分でも読んでみたいと思うような、普通の感性があることに驚きと納得も感じていた。こいつは妙な霊感のようなものを持ってはいるが、間違いなくあたしと同じ歳の子供でもあるのだ。
 その時だった。
 向かいから一人の女性が歩いて来た。年齢は不肖と言う他なかったがとてつもなく綺麗な人ではあった。間違いなく大人の女の人の『綺麗』ではありつつも、どんな年齢の少女より愛らしくもある。
 背が高くすらりとしていた。大人の男の人と並んでも遜色ないだろう。瓜実のような面長の顔形をしていて、黒目がちの目が大きく、睫毛がくっきりとして長い。鼻翼の狭い鼻はつんと高く尖がっていて、肌の色は白く薄い唇は血のように赤かった。そしていつもどんな時でもそうしているだろうと予感させるような、自然体で柔らかな笑みを浮かべている。
 あたしは思わずNの方を見た。年齢は違うが良く似ていた。特に目が似ていた。Nのように生気も感情もない目と違って、輝きのある優し気な瞳をしているが、しかし黒目がちで大きいという点は共通していた。
 「I姉さま」
 Nが言った。Iと呼ばれた女性は答える。
 「帰るところですか」
 「ええ。姉さまは?」
 「Nちゃんのことを見に来ました。お友達が出来たのは本当だったんですね。わたし、安心しました。いえいえ、疑っていた訳じゃないんですよ? でもね、実際にこうやって隣り合って一緒に帰っているのを目にすると……ふふっ、嬉しくなっちゃいます。とっても可愛い光景だわ。この世界はこの光景を生み出す為に存在していたと思ってしまうくらい。ああ、時間を止めてずっとそのままにしておきたいくらい」
 Nの姉か? あたしは深く納得した。人形のようなNの姉ならこのくらい綺麗な人じゃないと釣り合わないだろう。そのIはNの十倍くらいは饒舌にそう語ると、じっとわたしの目を覗き込んでほほ笑んだ。
 「あなたもそう思わないかしら? つらいつらい学校が終わってお友達と二人で家に帰る時間が一番幸せですよね? それにね、あなたは知らないと思うけれど、この先のあなたの人生はとっても不幸なものになるんですよ? いえいえ、あなたが悪いからそうなる訳じゃないし、あなただけがそうなる訳じゃないんです。ただね、あなたに限らず人は大人になるに連れてどんどんどんどん不幸になって行くものだから。大切な友情とか、大好きだった色々なものを失って、代わりにガラクタのようなものをたくさん押し付けられるの。そうなるくらいならこの世界ごと時間を止めて、今この幸せな状態のままずっとそこにいたいと思いませんか? わたしだったらそうしてあげることが出来るんです。どうですか?」
 そう言って本気で尋ねているような澄んだ目を向けられる。あたしは何も答えることが出来ずに、ただ逃げるように助けを求めるようにNの方を向いた。
 「え、Nの姉ちゃん、ちょっと変わってるな」
 「まあ」
 Nはぼんやりとした口調で言った。
 「でも、あれがわたし達のふつうなのかも知れません。ふつうの人から見てもふつうだった方のC姉さまは、家から出て行ってしまいましたし」
 「姉ちゃんが二人いるのか?」
 「ええ、まあ」
 「あの子の話はしないで!」
 Iは激しく地団駄を踏んだ。そして目に大粒の涙を浮かべつつ顔に手を当てると、わあわあ泣きじゃくりながら金切り声を発した。
 「裏切り者のことなんてどうでも良いじゃないですか! 思い出させないで! わたしにはNちゃん、あなたが傍にいてくれればそれで良いのよ」
 そう言ってIはNのことを強く抱きしめて、肩を震わせ始めた。
 「その代わりあなたは何があってもわたしの元から離れないでね! わたし一人だけをあの地獄に置いてけぼりにしたら許しませんよ! ああっ、ああっ、ごめんなさい脅すようなことを言って! でもね分かってっ、それだけわたしはあなたのことが大好きなの。あなたを失うとわたしはどうにかなってしまうんです。分かっていただけますか?」
 「はい」
 Nは恐ろしくそっけない声でそれだけ答えると、そっとIの腕の中から抜け出して言った。
 「もう行きます」
 Iは取り残された様子でその場で蹲り、親指を唇に押し当てながら、寂し気な顔でNを見送った。
 「……姉ちゃんなんだろ? 一緒に帰っても良かったんじゃないか?」
 「これからあなたの家に行くのでは」
 そうだった。
 「お友達のお家に行くのですか!」
 Iが立ち上がってあたしの背中を追い掛けて来た。
 「そ、そうだぞ? 約束があるんだ」
 「わたしも一緒に行って良いですか? Nちゃんが友達と遊んでいるところを見たいんです」
 「い……いやそれは」
 「嫌です」
 Nはそっけなく言った。あたしは頷いた。あたしも嫌だった。
 「え……でもNちゃん。わたし……」
 「絶対に、嫌です」
 『絶対に』の部分に感情の温度を感じた。こいつは多分シャイなんだろうし姉ちゃんが友達の家に付いて来るなんて死んでも嫌なはずだ。Iはとうとう目に涙を貯めながら、しかしそれ以上食い下がりはせずにただ突っ立ってあたし達のことを見送っていた。
 「姉ちゃん、何をしている人なんだ? つかいくつ?」
 「二十五歳です」
 「かなり大きい、ってか大人だな。仕事とかは?」
 「医者です」
 ああ見えて立派な人らしい。詳しくは知らないが、二十五歳というなら病院のあちこちを回って勉強している状態のはずだ。そんな忙しい人が妹の様子を見る為に通学路を遡って来るなんて、余程Nのことが好きなんだろうとあたしは思った。
 あたしはふと思い出してNに問いかけた。
 「なあN。あのずきずき虫のことなんだけど」
 「はあ」
 「あれって姉ちゃんから貰ったって言ってたよな?」
 「はい」
 「その姉ちゃんがあの人で良いんだよな?」
 「そうです」
 「だったら、Vに憑いたずきずき虫のこと、あの姉ちゃんにどうにかして貰うことって出来ないのか?」
 Nの姉ちゃんというなら、Nよりもそういうことに詳しいのかもしれない。Nはその場で脚を止め、微かに眉を動かしつつあたしの顔を見詰めている。これが嫌がっている顔だと分かる程度にはあたしはNと交友を積みつつある。とにかく姉ちゃんの話題から離れたいようだ。まあちょっと恥ずかしいもんな、あの姉ちゃん……。
 「ずきずき虫の話ですか!」
 友達の姉ちゃんじゃなかったら不審者と思うような敏捷な動きで、Iはあたしの前に回り込んで来た。興奮した、はしゃいだ様子だった。しかしその動きは敏捷過ぎた為かIは脚をもつらせて転んだ。
 「いったぁっ」
 膝を擦りむいてIは涙目を浮かべた。痛いよう痛いよう、と言いながら立ち上がったIは、照れ笑いをあたしの方に向けてこちらの愛想笑いを引き出した。そして得意げな表情で尋ねて来た。
 「ずきずき虫の話ですか?」
 「う、うん。そうだぞ」
 「わたし、ずきずき虫が大好きなんです」
 「そ、そうなのか」
 「ええ。だからこのとおり、たくさん飼っているの」
 Iがそう言った、その時だった。
 Iの細く白く細い腕の各所がボコボコと盛り上がり始めた。それらはVの腕に出来ていた大きな炎症によく似ていた。
 絶句するあたしの前でIはニコニコと得意げな笑みを浮かべ続ける。炎症の先っちょを食い破るようにして、ずきずき虫の黒く鋭い足が姿を現した。数十匹にもなるそれらはIの体液で血塗れになりながらIの身体から這い出す。Iはたちまち血塗れになるが、Iの笑みに限りは見えない。
 あたしは悲鳴をあげることも出来ずに固まっていた。血塗れのIは大量のずきずき虫を体の上に従えながらあたしの方に近付いて来た。あたしが後退ろうとするとIはあたしの手を掴んだ。逃げられなくなったあたしにIは無邪気な笑顔で問うて来た。
 「ずきずき虫のことなら、何でも訊いてください」
 本物の化け物がいた。助けを求めるようにNの方を見るが、Nはどうでも良さそうな顔でぼーっとしていた。こいつは放っておくといつだってぼーっとしている。それが澄ました顔に見えるだけの整った面に生まれてさぞ得をしているだろう。おまえの正体がただのシャイなぼんやりさんであることを、あたしだけは見抜いているんだぞ……。
 そのNの姉はニコニコとしてあたしの方を見詰めている。全身は血塗れで服も真っ赤に染まっている。見れば皮膚だけでなく服まで『ずきずき虫』は食い破ったらしく、随所に服の裏側の白い肌や下着が露出していた。おでこからも『ずきずき虫』は這い出したので、その白く綺麗な顔も真っ赤になっている。たぶんこちらに敵意はないが、それでもあたしは蛇に睨まれたカエルのようになった。
 「さあ。話して」
 口を割るしかない。いや、隠していた訳じゃないのだが。とにかく、この人には逆らえない。あたしはそう感じた。
 「いや実はな。さっきNの奴が……」
 あたしは事のいきさつを説明した。あたしがVのことをNに愚痴った所為で、NがVの腕に『ずきずき虫』を仕掛けてしまったこと。あたしにそんなつもりはなかったのでどうにか助けてやりたいが、Nにはどうすることも出来ないらしく困ってしまっていること。
 「そうなんですか」
 Iはふんふんと頷いてから、小首を傾げて問いかけた。
 「でもなんでそのVとかいういじめっ子を、わざわざ助けようと思うんですか?」
 「は? いやだって」
 「どうでも良いじゃないですか」
 「そんなこと……」
 「花瓶割ったのUさんだけどUさんじゃないですよね? そのVとかいう人が背中を押して来たからそうなったんですよね? 酷いです。ええ。とっても腹が立つわ。わたしだったら許せませんし、でもきっとUさんと同じように告げ口する勇気も持てないでしょう。がんじがらめで哀しくて、悔しくてきっと泣いちゃうわ。そんなUちゃんの気持ちを思えば、そのVとかいう蛆虫にも劣る鳥の糞は、ずきずき虫で苦しんでからぐるぐる様のところへ行けば良いのだわ。そう思ったからNちゃんもVにずきずき虫を仕掛けたんですよね?」
 「はい」
 Nは短く答えてそこらのアリの巣に視線を落とした。早くあたしの家に行って漫画を読みたいと思っていそうだった。
 「で、でも、いくらなんだってあんなに苦しむことまではないと思うぞ? そりゃあやられた時はぶっ殺してやりたいくらいの気持ちになったけど、でもそれは本気じゃないし、本当に死なせちゃったらそれは絶対悪いだろ? なあNの姉ちゃん、Vの奴を助けてくれよ」
 「……でもそれだとぐるぐる様がお怒りになるんですよね」
 Iは目を伏せて言った。Nはとうとう座り込んで木の枝でアリの巣をほじくり始めていた。
 「しかしUさんはなんて優しい子なんでしょう。こんなに素晴らしい子がNちゃんのお友達だなんて、わたしは涙が出そうだわ」
 「そんなオーバーな……」
 「優しいUさん。素敵なUさん。そこまで仰るならUさんの言う通りにしてあげましょう」
 「本当か?」
 あたしは目を丸くした。
 「ええ。そのVと言う人を助けることは出来ます。ぐるぐる様がお怒りにならない方法は、たった一つだけですが」
 「そ、それで良いぞ。どんな方法かは知らないけど、あたしはそれで」
 「ああ。ああ。なんて健気なUさん。優しいUさん。とっても痛い思いをするのでしょうね。それに、ぐるぐる様は円環を司る怪異ですので、そこにとらわれた苦しみは未来永劫に渡って続きます。いいえ、それは正確ではないのです。永劫な未来などない。しかし、ある時からある時までを無限に繰り返すことなら出来るのだわ」
 「いけません」
 Nは言った。
 あたしの視線がNの方に向いた。
 その拍子にIは消えた。何の前兆も余韻もなくただ消え失せた。煙だってもうちょっと気の利いた消え方をするだろう。そもそもそこにいたのかどうかすら怪しい程だ。
 Nはあたしの方をじっと見詰めている。
 そして口を開いた。
 「漫画、今度で良いです」
 「は?」
 Nはそっとあたしに背を向けて立ち去って行った。

 〇

 家に帰る。
 まずはこないだ買ってもらったゲームで遊ぶ。
 母親が帰って来て、夕食作りの手伝いに駆り出される。宿題を理由に辞退を申し出るが、許されない。
 食後はその宿題をほったらかしたままテレビを見る。バラエティ番組に腹を抱えてバカみたいに笑う。
 風呂に入れと言われて入る。
 入浴後、宿題をする気にならず部屋で漫画を読む。
 就寝時間が近付いて来る。もうそろそろ宿題を始めないとまずい。というか既に若干オーバーすることが確定している。かと言って宿題をほったらかして学校に行ったらM先生に叱られる。あたしは焦り、ようやく机に着いた。
 算数のプリントはまだ楽だが、漢字の書き取りが面倒くさい。別に何の教科でも問題を解くのはそれほど苦にならないが、手を動かして文字を書くのがしんどいしつまんないんだ。算数や理科や社会のワークなんかはまだ書くところが少ないけれど、漢字の書き取りはプリント一杯のマスを複雑な漢字で埋めなければならないのが憂鬱に尽きる。
 半分に達さないあたりで嫌になって、勉強机の棚に置いてある児童文学を読み返し始めたところで、あたしはそのことに気付いた。
 腕が腫れている。
 手首の下あたりだ。思わず手で触れると驚くほどに熱を帯びていてあたしは火傷しそうになる。
 あたしは炎症の痛みでもがき苦しんでいたVのことを思い出す。
 恐る恐る力を込めてみる。何か固く細く鋭いものが入っている。それはまさに針金の束のような感触で、強く押すと微かに蠢いて痛みを齎す。
 あたしは冷や汗をかいた。 
 「……U! まだ起きてるの?」
 部屋の扉から明かりが漏れているのに気付いて母親が扉の外から文句を言って来た。入るわよー、と断ってから扉が開かれ、宿題のプリントを机に広げつつ手にはハリーポッター持ってるあたしに、オカンムリと言った表情を浮かべる。
 「まだ宿題をやっているの? もう寝る時間でしょう? そうならないように早めに済ませておきなさいって、いつも言ってるじゃない!」
 そりゃお小言貰うわな。いつもならテキトウにやり過ごして本を置いて宿題をやっつけるところだが、あたしは母親に縋るような目線を向けながら自分の腕を指示した。
 「ねぇお母さん。ちょっと腕に大きな腫れもうぎゃああっ!」
 あたしは腫物から激しい痛みを感じて椅子から転げ落ちた。そして両足をばたつかせてのた打ち回る。
 腫物の中でずきずき虫が暴れまわっている。針金のような脚の先端が肉のあちこちに突き刺さり、鋭い節が食い込んで気が狂いそうな痛みを齎す。たちまち腫物の中に血液が充満して行くが、どういう訳か皮膚が裂けるようなことは起こらない。
 「どうしたの?」
 母親は心配そうな顔をする。
 「だからこの腫物……っ」
 あたしが言うと痛みはより一層鋭くなる。母親に助けを求めようとするが声にならない。ずきずき虫はあたしのことを体内からさんざんいたぶった後、あたしが悲鳴以外の言葉を発するのをやめると静かになった。
 「……はあ、……はあ」
 どうやらこいつはあたしが助けを求めると腫物の中で暴れるようだった。母親があたしのところに駆け寄って優しく抱き起し、額に汗をしながら尋ねて来た。 
 「この腫物が痛むのね?」
 あたしが首を縦に振ろうとすると腫物の中でずきずき虫が暴れ始めた。
 「病院行く?」
 あたしは少し考えて首を横に振った。ずきずき虫は満足したように暴れることをせず静かにしていてくれた。
 「本当に大丈夫なの?」
 「大丈夫だよ」
 「ちょっと患部を見せてくれないかしら?」
 「良いよ。もう……放っていて」
 母親が言ったことへの答え方をしくじるとずきずき虫が暴れるのは分かっている。だったらもう何も言われない方がマシだ。
 「どっか行けよ」
 あたしはそう言って自分のベッドの布団の中に潜り込んだ。
 「U……本当に大丈夫なの?」
 「どっか行けったら!」
 こう言うように導かれていることは分かったがそうするよりもどうしようもなかった。あたしはベッドの中に潜り込んだまま、全身を震わせて汗だくになりながら、朝日を待った。
 明日になったら学校に行ける。学校に行けばNに会うことが出来る。あいつなら何か知っているはずだし何とかしてくれるかもしれない。
 やがてあたしは疲れ果てて眠り、朝が訪れる。平素を装いながら家族と朝の時間を過ごし、学校を休んで病院に行くよう勧める母親に首を横に振り、わたしは学校に行った。 
 教室に着くとVがいて、青白い顔に微かな安堵を乗せた表情で、自分の腕を友人に指示していた。
 「腫物、引いたんだぜ。昨日変なお姉さんがやって来て腫物に触って変な呪文みたいなも唱えたら、急にでかい虫みたいなのが出て来てさ……。いったい何だったんだろうな」
 「おいV!」
 あたしはVの肩に手をやった。
 「な、なんだよ」
 Vは面食らっていた。普段は威張り散らしているような奴だったが、それ以上にあたしの剣幕が凄まじかったのだろう。
 「おまえ、Nの姉ちゃんに会ったか?」
 「は? 知らねぇよNの姉ちゃんとか」
 「背の高い綺麗な人だよ。Nと同じような大きな目をした……」
 「ああー……確かに、昨日そんな感じの人に腫物を治して貰ったよ。あれ、Nの姉ちゃんなのか?」
 「他に何か言ってたか?」
 「『この虫を引き受けて下さるという方が現れました』だとさ」
 あたしは絶句して顔を青くする。
 「Nはどこに?」
 「知らねぇよ」
 あたしは何も言わずにVから離れて廊下を走り出した。図書室にNがいるかと思ったのだ。
 途中で大人の人にぶつかった。というより、その大人はあたしが走り込んで来る場所に先回りして、あえてぶつかるように仕向けて来た。ぶつかるようにというか、受け止められるようにというのが正しいかもしれない。
 M先生の胸に飛び込んだあたしはその場で脚を止めた。子供のタックルなどで動じた様子のないM先生は、真剣な表情であたしの肩を掴んで尋ねて来た。 
 「どうした?」
 廊下を走ったことに対する謝罪を口にする前に、あたしは思わずこう口にしていた。
 「たすけて……」
 その瞬間あたしの腕に激しい痛みが走って思わずその場で座り込んだ。これまでにないほどズキズキ虫はあたしの腕の中で暴れ続けた。こんなに痛む腕ならもう切り離してくれた方がマシだと思うような地獄のような疼痛だった。
 「……病院に連れて行こう」
 「いいっ! いいからっ! やめろ!」
 あたしは思わず叫んだ。
 「そんなことしたらこいつ余計に暴れるから! やめてくれ!」
 この虫のことを他者に伝えたり助けを求めるのはダメだ。だからあたしはこういうしかない。M先生は何かを察した様子でただあたしを立ち上がらせると、一言だけ言い残してその場を立ち去った。
 「……Nの奴を探して問い詰める。それまでの間頑張ってくれ」
 あたしは思わず頷いた。あたしが今一番して欲しいことがそれだった。
 その日の寿命もM先生は教壇に立たなかった。代わりの先生が授業をしている間、あたしはただ自分の腕の出来物が痛みだすことに怯えていた。
 Nは学校に来なかった。M先生に連れて来られることもない。あたしはNに対する呪詛のような言葉を頭の中で喚き散らしていたが、しかしNにあるのはあくまでも責任の一端であり、あたしのこの苦痛に関して言うならば元凶は他にいるような気がした。
 Iの整った顔を思い出す。
 全身に『ずきずき虫』を飼っていたあの化け物のことを思い浮かべる。
 あいつは『Vを助ける方法は一つしかない』と口にした。『ぐるぐる様を怒らせない方法は一つしかない』と話した。その方法というのはずきずき虫をあたしに移すことなんじゃないか?
 多分そうだ。きっとそうだ。でもだったら何故そうなることをIは言ってくれなかったんだ? こんなことだと知っていたら、あたしだって……。
 放課後が訪れる。とりあえず自宅に戻ろうとするあたしの腕の中で、ずきずき虫が激しく暴れ始める。
 「うううぅう……。こ、今度は何だよ……」
 あたしがその場で蹲っているとやがて痛みは治まってくれる。立ち上がって再び自宅へ向かうとまた痛み出す。どうやら家に行くのがまずいらしいことが分かる。
 あたしは家とは反対方向に歩き始める。
 それで正解らしかった。痛みは治まりあたしはつかの間ほっとするが、しばらく歩くとずきずき虫はまた暴れ始める。その度あたしは進路を変える。
 ずきずき虫はあたしをどこかへと導こうとしているようだった。そこに向かう道のりは痛みが教えてくれる。ようはずきずき虫が行きたい方に行っている時だけ痛みが治まり、そうでない方向に向かうと痛くされる。
 あたしはどこに連れて行かれるんだ?
 『ぐるぐる様』とかいう奴のところか?
 あたしは恐怖したが逃げだすことが出来なかった。得体の知れない化け物のところに連れて行かれるのだとしても、この激しい痛みから逃れられるのならそうしてしまう。
 痛いのには誰も逆らえないんだな。あたしは思った。だから相手に言うことを聞かせるのに暴力を振るう人がいるんだろう。そしてそれに支配される人がいるんだろう。でもそれってただの殴ったり蹴ったりの暴力だけじゃないぞ? 酷いことを言われたり何かを取り上げられたりむごい扱いを受けるのも痛みのはずだ。そういう痛みで誰かが誰かを逆らえなくするのは頻繁に行われることだ。
 痛みって神様なんだ。
 神様だから、誰も痛みに逆らえないんだ。
 途方もない時間を歩き続けた。数時間が経ったか数日が経ったか。それ以上かもしれない。五年や十年が経ったと言われても驚かないかもしれない。その間お腹が空くこともなければ眠たくなることもない。最早自分がどこに向かっているのかも分からない。知らない道に来て久しいし、そもそもこんな場所が現実にあるのかどうかも怪しい。
 そこは森の中だった。何時間も何日もずっとずっと左右に木々のある細い道を歩き続けている。あちこちに木が生い茂っているのに足元には踏み折る枝もなく、噎せ返るような土と自然のにおいがしているのに生き物の気配はまったくない。昼か夜かも分からなかったが暗いことは確かで、空には星も太陽もない。視界には限りなく続く森の木々が無限に広がっていた。
 あたしはどこに向かっているんだろうか?
 真っすぐただ歩いていれば良いというのではなく、あたしはしばしばずきずき虫によって進路を変えさせられていた。同じところをただぐるぐると回っているだけのようにしか思えなかった。このまま永久にこの森の中をぐるぐるとさ迷い続けるのかと思った。自分のいるこの場所こそがぐるぐる様の内側であることをあたしは悟り始めた。
 月日が経ったように感じた。いや実際には月日なんて高尚なものはこの世界のどこにもなかった。無限に続く時間だけがあった。同じことがただ延々と、永遠に続いて行くだけのことに時間なんてものが必要かどうかは曖昧だったが、しかしあたしの肌と心は気が狂う程の時間を明瞭に感じ続けていた。
 やがてあたしは森の中をさ迷っていない時のことを忘れ去る。
 自分のことも忘れ去る。
 ぐるぐる様の中でぐるぐると森を歩き続ける以外のことを、あたしは何も思い出せず、分からなくなっていった。

 〇

 気が付けばNがいた。
 木々の隙間からそれは突然現れた。腕の中で暴れるずきずき虫の導きに従って森を歩き続けるあたしの前に、Nは静かに立ちはだかった。
 「……N」
 あたしは思わず声を出した。その瞬間、あたしは忘れ去っていた色々なことを思い出した。自分自身のことを思い出した。この森に来る前の世界のことを思い出した。それは遠い記憶ではなくほんのついさっきまでそこで過ごしていたように感じられた。それと同時にこの森の中で永劫の時をさ迷っていたことにも疑いを持てず、背反する二つの記憶にあたしはアタマが割れそうだった。
 立ち止まったことに気付いたようにずきずき虫は気付いたように微かに手足を震わせたが、どういう訳かあたしに痛みを与えることはなく腫れものの中でじっとしていた。
 「何しに来たの?」
 「助けに来ました」
 「助かるの?」
 「はい。I姉さまにお願いして方法を訊いて来ました」
 Nはあたしの出来物に手をかざして、口元で何やら呟き始めた。
 「やんやむやんやむろじばらそぼるごおそ。さなとりあまやとりあぼるごおぞ。ばらじらぞざなとりあじゅぶにぐらす」
 ずきずき虫の脚があたしの腕の腫物から突き出て来た。
 血と膿がその切れ目から溢れ出してしたたり落ちる。木の根に落ちたそれらは湿った音を立てる。切れ目は広がって追い立てられるようにずきずき虫があたしの腕から這い出すが、Nはその脚を掴んで持ち上げてあたしの前に示した。
 「それをどうするの?」
 「こうします」
 Nはずきずき虫のことを握りつぶした。
 悲鳴が聞こえた気がした。それは人間が放つ叫び声と酷似していたあたしは身震いした。Nの手の中からずきずき虫の残骸が零れ落ちる。全身が針金で出来たその全身に血は通っておらず、ただ一対の大きな眼球からは透明な汁のようなものが溢れ出していた。
 「……そ、そんなことをして……」
 「ぐるぐる様の怒りについては、I姉さまが何とかしてくださるとのことです」
 「何とかって……」
 「姉さまがそう仰ったなら問題ありません。さあ」
 Nは身を翻してから、あたしの方を振り向いて言った。
 「帰りましょう。もう大丈夫です」
 あたしはNに続いて森を歩き始めた。
 ほんの十数秒で道は開けた。木々が途端にまばらになったかと思ったら、眩い太陽が現れてあたしの視界を照らした。思わず目を細め、改めて前を見るとそこは近所の空き地だった。
 あたしは思わず振り向いた。たった十数本の木々で構成される小さな林がそこにあった。この林は放置され生えっぱなしの木々と無数の雑草と、不法投棄された数々の家電類からなる小汚い場所で、秘密基地作りの子供も寄り付かないようなどうしようもない場所だった。持ち主が認知症で、売りに出されることもなくずっと放置されているのだと、親のどちらかが漏らしていたのを聞いたことがある。
 「あなたはこの小さな林をさ迷っていたのです」
 Nが信じられないことを言った。
 「嘘だろ?」
 「事実です」
 「あんなほんの十何本かしかない林の中で? あんな長い間?」
 「そうです」
 「いやおかしいだろ。空き地の林があんなに真っ暗なはずがないし、虫けら一匹いなかったんだぞ? だいたい、出口だって木の隙間のどこからでも見えるはずじゃないかよ?」
 「そういうのは全部、あなたが気付いていないだけで、すべてあるようにあったはずです」
 「嘘だぁ?」
 「事実です」
 Nは淡々と言った。
 「何も感じず考えず、ただ同じことを繰り返している人間にとって、あるものがなくなることはしばしば起こりうることです。決まりきったことを決まりきった通りに繰り返す時、繰り返すのに必要でないものは、目に入ることがなくなるんです」
 Nにしては長い台詞だった。そしてその長台詞の訳を説明するかのように、Nはそっと言い添えた。
 「……と、I姉さまはそう仰っていました」
 「なぁN。ぐるぐる様ってなんなんだ?」
 「怪異です」
 「おばけみたいなもんか?」
 「そうです」
 「この林の中に、それはいるのか?」
 「特定のどこかにいる訳ではありません。繰り返しという概念は、世界中のどこにでも存在していますから」
 「あのままおまえに助けられなかったら、あたしはいったいどうなってたんだ?」
 「この林の中を」
 Nは空き地の林をそっと見詰める。
 大して入り組んでもいない小さな林は、外側からでも向こう側が簡単に見通せたが、それでもVの姿はどこにも見当たらなかった。
 「ぐるぐると回り続けていたはずです。おそらくは永久に、或いはほんの短い時間だけを」
 Nは空き地を歩き去って行った。あたしは何となくその後を追った。
 そして道路に出てぼんやりとNは立ち尽くして、やがてあたしの方を見て言った。
 「あなたの家はどこですか?」
 「……なんでそんなことを聞くんだ?」
 「それは」
 Nは能面のような顔のまま言う。
 「漫画を読みに行くんです」

 〇

 家に来たNは漫画を読む以外のことをまるっきり何もしなかった。
 あたしが声を掛けても生返事しかすることをせず、あたしがレビューを話した漫画を一巻から順に読み続けていた。遊びに来てこうされると、家主にとっては半ば邪魔臭いだけなんだよなと思いながら、あたしは隣でテレビゲームで遊び続けた。
 母親が帰って来ると、Nは無言で立ち上がった。残る数冊を借りて帰って良いかを無表情で打診するNに、あたしは投げやりにそれを了承した。助けて貰った恩もある……というにはそもそもの元凶がこいつが放った『ずきずき虫』だがまあ一応……ということもあった。
 Nは目があったあたしの母親に挨拶することもせずに家を立ち去った。分かってはいたが、無礼な奴だ。
 「お茶の一つくらい、出してあげたんでしょうね」
 母親が言う。
 「あいつにそんな気遣いは無用だよ」
 「こら。何を言っているの。お友達は大切にしないと」
 「お母さんはあいつがどんな奴か知らないんだよ」
 「まったくもう」
 腕の腫物の様子を聞かれたので、平気と答えて腕を見せる。母親は安心した様子だったが、どうしてそんなことになったのかと首を傾げていた。
 一応は病み上がりということになるだろうに、あたしはまたも夕飯づくりを手伝わされた。宿題を理由に辞退しようとしたがこれも不発だった。そして夕食後その宿題を放置してアニメを見てストーリーに心を躍らせ、風呂に入って風呂から上がり、宿題をほったらかしたまま自宅のベッドで横たわり天井を見詰めた。
 あたしはNのことを考えた。 
 Nのしたこと、Nに助けられたことを考えた。
 Nはあたしをいじめて来たVを懲らしめる為にずきずき虫を放った。だがそれは懲らしめるという次元を超えて、あの暗い森の中で永劫の時をさ迷わせるという、死よりも尚恐ろしい目に合わせようとしたのだ。
 それは悪いことだ。それは確かだ。
 でもNはあたしを助けた。それも確かだ。
 良いこともするし悪いこともする。それが子供だ。ただあいつは変な力を持っているから、どちらを成すにしても、普通の子供には成せないようなことを成してしまう。その所為で人が死んだり、いなくなったり、悲鳴をあげてのた打ち回ったりしてしまう。
 Nは危険な奴だ。
 あいつから離れなければならないのだろうか、と思う。
 離れたくないな、とも思う。
 煮え切らないのはあたしに今他の友達がいないからで、一人ぼっちの学校生活に耐えきれないことが分かっているからで、あいつがどんな化け物でも悪魔でも、傍に誰もいないよりはマシだとそう思うからだ。
 悶々と考え込んでいるあたしを、お母さんが呼ぶ。
 呼ばれて受話器を渡されると、M先生の声がする。
 あたしの為にNを探していてくれたのだという。あたしの様子を伺う為に電話を掛けたのだと言う。そう言えばすっかり忘れていた。あたしは先生に平気だと伝える。Nが助けてくれたと説明する。そして力になろうとしてくれたお礼と、ほったらかしにしたお詫びを伝える。
 電話を切る前に、先生は「今日は宿題を忘れるなよ」と一言添えた。
 あたしは受話器を終えて、自室へ戻る。
 そして勉強机に着いて、ランドセルから、漢字のプリントを取り出して目の前に広げた。

 〇

 落ちたら奈落

 〇

 平成十六年十月某日

 〇

 足元はマグマだった。
 或いは、鮫が泳いでいる海だった。
 別にマグマでなくても鮫が泳ぐ海でなくても良かった。三万メートルの崖と言うことにしても良いし単に奈落と言うことにしても良い。
 いずれにしても、あたし達は今白線の上から落ちると死ぬという設定の元、デンジャラスな気分を味わいつつ帰路に着いていた。
 「このブロックの上も、地上判定だからな! マンホールの蓋とか側溝の上の金網とかもセーフだぞ。とにかく、ふつうの地面じゃなきゃ良いんだ」
 「……はあ」
 Nは気のない返事をしながらも、歩道と車道を区切る縁石と呼ばれるブロックの上に飛び乗った。そしてたどたどしい足取りで、左右に両腕を伸ばしながら、奈落に落ちないように歩いていた。
 「落ちたら死ぬんだぞ? 慎重に歩けよ?」
 あたしはマンホールの蓋から近くの白線に飛び移った。そしてそろりそろりと歩き始める。
 はしゃいだ気分だった。Nとは友人と呼んで良い関係を築いていたが、こういう子供らしい遊びをするのは初めてだった。誰かと遊ぶと言うこと自体あたしにとって久しぶりだった。Nが付き合ってくれたことも嬉しかった。無口無表情を気取るNだが、こういう子供っぽい遊びに悪戯に冷笑的になる訳でないことも知った。それどころか。
 「今少し足がはみ出しませんでしたか?」
 なんてあたしに指摘して来る程度には、遊びに本気になってくれている。
 「多少はみ出すのは良いだろ。足のほとんどは地上にある訳なんだし」
 「どのくらい地上に足が触れていたらセーフなんですか?」
 「そのあたりは最初は曖昧なもんなんだよ。臨機応変にちょっとずつルールが固まって行くんだ。だからそうだな、半分以上外に出たらアウトってことにしないか?」
 「構いませんが」
 Nは白線に飛び乗ってそろそろと歩き始めた。あたしはその後ろを続いた。ところどころ、ルールを順守する限り進めない場所に出くわしたが、その度にルールを微調整したり近くの小石を投げてその上に乗ったりなど工夫して、あたし達は通学路を下り続けた。
 「二人で手を繋いでいる間は、どっちかが地上にいたらセーフってことにしよう。でなきゃ進めないところが多すぎるからな」
 「そうですか」
 難所を突破するにあたってあたしがルールを追加した、その時だった。
 向かい側から背の高い女性が姿を現した。
 Iだった。Nの姉ちゃんだ。あたしは思わずその場で足がすくんで固まってしまう。そんなあたしの様子に気付くこともなく、Iは笑顔で走り寄って来てはしゃいだ声で言った。
 「まあ。とても可愛らしい遊びをしているんですね。楽しそうでとっても羨ましいわ。下はマグマなんですか? それとも奈落なのかしら?」
 「奈落です。姉さま」
 Nが無表情のまま言った。
 「楽しいですか?」
 「まあ」
 「わたしも参加して良いかしら?」
 「嫌です」
 ハッキリとそう言われIは傷ついた顔をした。
 「ええでも。最近わたし、Nちゃんと一緒に遊んでないし……」
 「嫌です」
 「そんな……」
 二十五歳のIは小学五年生の妹に遊びを断れて、べそをかいて顔をくしゃくしゃにした。
 「悲しいわ。昔はあんなに遊びをせがんでくれていたのに。もうお姉ちゃんと一緒に遊ぶような歳じゃないんですね。ええ、良いのよ。わたしはNちゃんの成長が嬉しいわ。けれどね、同時に寂しくもあるんです。Nちゃんはそうやって歳の近い遊び相手を見付けられているけれど、一人取り残されたわたしはいったいどうすれば良いのかしら? そうやって誰も彼もがあたしの傍からいなくなっていくんだわ。うぅうう……つらい、つらいです」
 「……入れてやれよ、N」
 気が付けばあたしはそんなことを言っていた。
 「でも」
 「なんか不憫になって来るよ」
 Iは魔女のような恐ろしい人だったがあたしはそう思った。この人があたしを『ぐるぐる様』のところに閉じ込めたことは忘れてやった。忘れてやるのは結果助かったからでも助かったことにこの人の力添えが関係しているからでもない。干支一回り以上年下の妹に遊びを断られてべそをかいているこの人が、情けなく哀れだったというのが一番の理由だ。
 この人の振る舞いには何かそういう力がある。実態がどれほど恐ろしくても、相対すればそれを忘れさせ、ただのアホっぽくてちょっと恥ずかしいお姉さんに感じさせてしまうのだ。
 「良いのです。良いのですUさん。あなたは本当に優しい人ですね」
 Iは涙に濡れた声でそう言って、懐から取り出したハンカチで鼻を拭った。
 「あたしはお二人のことを遠くから見守ることにします。ですがそうですね、その遊び、落ちたら死んでしまうというのが、ただの設定では面白くないのではないですか?」
 「へ? ま……まあ。いくらマグマだなんだって言ってても、現実に返って白けそうになる時は、たまにあるよな」
 「それではスリルがありませんね」
 Iは指先をそっと地面に触れさせた。
 仰々しいことは何も起こらなかった。ただちょんと黒いコンクリートに触れて、そのまま何事もなかったかのように手を離した。
 「……はい。これで大丈夫です」
 Iは微笑んであたしから背を向けた。
 「お二人で存分に楽しんでください。では、わたしは失礼しますね」
 静かな足取りでIは立ち去って行った。

 〇

 「変わった人だよな。Nの姉ちゃん」
 あたしは白線から白線に乗り移りながら言った。
 「姉ちゃんが二人いるんだってな? あたし兄弟いないんだけど、どんなもんなんだ? 自分以外に家に子供がいるのって。いやあの姉ちゃんはもう大人みたいだけど、間にもう一人いるんだろう?」
 「C姉さまは家を出ました」
 Nは答える。
 「そうなんだ。その人もじゃあ成人してるのか?」
 「いいえ。まだ高校生です」
 「そうなのか? じゃあなんで家を出たりするんだ?」
 「C姉さまはI姉さまと考え方が異なるんです。衝突が起きる度I姉さまが謝るのですが、あの人は謝るだけで振る舞いを変えるようなことがありません。それでC姉さまはいつの間にか消えてしまっていました」
 Nにしては長い台詞だった。しかも普段より言葉に感情が籠っているように思えた。それも哀しみとか苛立とか、悔いのや嘆きやらのような、さまざまな感情もがないまぜになって滲み出ているかのようだった。
 「そっちの姉ちゃんは今どこに住んでるんだ?」
 「どこにも。そんなことより」
 Nはあたしの方を振り向いて言った。
 「くれぐれも気を付けてください。落ちたら奈落ですから」
 「は……? まあ、そうだな。うん、気を付けるよ」
 「死んでしまいます。そうなったらどうにも助けようがありません」
 妙に真剣な顔で言ったNは、以前よりも慎重な足取りで白線を進んだ。あたしはそれを遊びに熱中しているものと捉えて、何となくその後ろを歩いていた。
 あたしは人より鈍いのだと思う。
 でもNだってちゃんと説明してくれれば良かったのだ。
 でもNはそれが苦手だった。人の気持ちを慮らないし確認もしないから、自分の口にしたNのNなりの言葉で全て完結させてしまうのだ。そしてあたしもまたそんなNの真意について真剣に取り合おうとしなかった。あたし達はそれぞれに幼くそれぞれに愚かだった。
 無言になったNの後ろを、何となくルールを守りながら付いて歩いていた時だった。
 「あ! Uじゃん。ひさしぶりー」
 声を掛けて来たのはクラスメイトのEだった。クラスメイトなのにひさしぶりも何もなさそうだったが、しかしそれはあたしの心にしっくりと来た。
 「おおE。ひさしぶりだぞ」
 Eは一昨年、三年生だった時クラスで一番仲の良い生徒だった。
 良く互いの家に遊びに行ったし、一度などお泊りまでしたことがある。どちらかの親に連れられて水族館や遊園地に出掛けたり、学校でもいつも一緒にいて楽しくつるんでいた。
 しかしここ数か月あたしはまともに口を利いていなかった。険悪になった訳じゃない。あたしとしては複雑な感情を抱えつつも未だに好きな相手だ。Eの方がどう考えているのかは分からないが、こうして声を掛けて来てくれたことをあたしは嬉しく思った。
 「話すの久しぶりだね。U」
 「まあな。あの雨男の兄ちゃんは元気にしてるか?」
 「あんな奴の話はしないでよ」
 「ご、ごめん」
 「最近話しかけなくてごめんね。でもUったら、Nの奴といつも仲良いんだもん。こうして一緒に帰ってるしさぁ」
 「あたしだって他に友達くらい作るぞ」
 Eとちゃんとした友達だったのは三年生の一年間だけだ。
 去年クラスが分かれたあたし達の関係は、自然消滅のような形で疎遠になり、一緒に変えることも互いの家を行き来することもなくなり、廊下であっても挨拶を交わすことも少なくなった。
 Eの方には新しいクラスで新しい仲間が出来たのだ。それも複数。グループの一員になり、しかもその中でそこそこ中心に近い地位にいたようだ。一方あたしはEがいなくなったクラスで不遇を囲い、教室で話したり遊んだり出来る相手もおらず図書室通いの習慣が出来た。
 やがて五年生に上がりクラス変えでEと同じになったあたしは、交友関係の復活を微かに期待したがEがそれに応えることはなかった。Eはあたしより前のクラスで出来た数人の仲間と一緒にいる方が楽しいようだった。それとなく仲間に入れてくれるよう打診したこともあるのだが、何度か気を持たせるようなことを言うだけで結局ははぐらかされたり煙に巻かれたりで、ここ数か月に至ってはまともに口も効いていない。
 「あははそうだよね。実はさU、あたし今のグループでちょっと、失敗しちゃって」
 「失敗?」
 「いやまあ急に用事が出来て遊びの約束フケちゃって。急に親戚が遊びに来たんだからしょうがないじゃんって言うんだけどさ、聞き入れて貰えないんだよ。酷いと思わない?」
 「それはそうだよな」
 「連絡くらい出来ただろとか言われるけど、知らないし。ねぇU、しばらくで良いからさ、また昔みたいに仲良くしてよ」
 あたしは心に花が咲いたような心地になった。Eとその友人たちの揉め事がどういったものなのか、どっちがどのくらい悪いのかは、あたしにはどうにも図り兼ねる。Eのことだから自分に都合の良いことだけを話しているような気もするけれど、それを差し引いたとしてもEだけが除け者のようになっている現状には疑問も感じる。
 だがそんなことは正直どうでも良かった。
 「良いぞ良いぞ。というか、しばらくとか言わず、寄りを戻したって良いんだぞ?」
 「ありがとー。でさ、二人とも、今何してるの?」
 「白線の上歩いて家帰るゲームだよ。昔良くやったよな? おまえも入るか?」
 「入る入るー、わたしも入れて……」
 「いけません!」
 Nが強い口調で言った。
 静かな通学路にNの口調がしみいるようだった。Nは無表情のままだったが低い声には凄みがあった。思わず鼻白むEだったが、すぐに眉を顰めてNの前に歩み寄ると、白線の上に立って言い返した。
 「わたしの勝手でしょう? 入るから」
 「そ、そうだぞN。なんで仲間外れにするんだ? 入れてやれよ」
 あたしは仲裁するように言った。
 「別にEと仲良くするからっておまえをハブるとかないからさ。一緒に遊ぼうよ。なあ」
 Nはあたしの方を振り返ると、沈黙したままじっとこちらの顔を見詰めた。
 何も言わないまま、NはEの方を向き直ると、静かな声で言った。
 「では進んでください。ただし、慎重に」
 「その前にあんた落とすよ」
 EはNの肩を強く押した。
 Nはバランスを崩して白線から落ちそうになった。よろめきながらどうにかどうにか白線に戻ろうとするNに、Eは容赦なく追撃を浴びせかけた。
 「えーい! えい! えーい!」
 声を発しながらNの肩を付くE。その表情にはいじめっ子のような愉悦が滲んでいたあたしはぞっとした。別にこの遊びで相手を白線から落とそうとするのはありがちではあったが、しかしEの態度や表情はNに対する害意に満ちていてあたしは目を見開いた。
 「お、おいE。やめろよ」
 「こうやって落とし合うのもこのゲームでしょ。ほら、死ねっ! 死ねぇ!」
 「……やめてください」
 Nは静かな表情のまま言った。
 「死んでしまいます」
 「本当に死ぬ訳ないじゃん」
 「死にます。本当に死ぬんです。奈落に落ちるんです。そうなったらわたしもおしまいです。やめてください」
 「何訳の分かんないこと言ってんの? バカじゃない?」
 EはNの肩を両手で強く押した。
 Nはよろめいて後ろにいるあたしの方に背中をぶつけた。
 あたしはそれを何とか受け止めた。Nの右足は白線から完全に出ていて左足の半分だけが白線にとどまっていた。Nは両足を緩慢な動作で白線に戻しながらあたしの方を振り返った。
 「半分残ってたらセーフなんですよね?」
 あたしは頷いた。NはEの方を向き直る。
 「落とすのはやめてください。それに、そこにずっと立たれていたら邪魔です」
 「悔しかったらわたしを落として見なよ」
 「それはしたくありません」
 「でもわたしここどかないよ?」
 「そうですか」
 Nはこともなげに言った。そしてNはおもむろにあたしの手を取って、言った。
 「しっかりそこに立っていてください」
 NはEの身体に体当たりをした。
 それは強い勢いであり小柄なNでもかなりの威力があった。あたしは思わずNに引っ張られて白線から落ちそうになった。しかしどうにか踏みとどまることに成功して、Nは白線へと戻って来た。
 Eは白線の外に押し出された。
 目を怒らせたEは何か言う前に、黒いコンクリートの上で何かに気付いたように絶句した。
 「なにこれ?」
 Eは地面を見詰めていた。
 それは何の変哲もないただのコンクリートのはずだった。しかしEはそこに地獄でも見たかのように顔を青くした。そしてNの方を血走った目で見詰め、次にあたしに縋るような視線を向けて、最後に振るえた声で言った。
 「たすけて」
 Eは奈落の底に飲み込まれた。
 黒いコンクリートの中に吸い込まれるようにしてEは消滅して行った。あたしは何も分からずにただそれを見送った。赤いランドセルもそこについていたお守りもキーホルダーも、黒と青の制服も、全てが地面に飲み込まれ、そこは最初から何もなかったかのようだった。
 静寂が訪れた。あたしは街に服埃っぽい風を感じた。それはいつも吹いている風だったが、あたしはそこにぞっとする程の冷徹な無関心を感じた。あたしは今衝撃を受けている。しかしこの風はそんなこととは無関係に吹いている。立ち尽くすあたしを無視したままで空気を運んでいるのだ。
 Nは落ちていくEを見送った後、無表情にあたしの方を振り向いた。
 「行きましょう」
 あたしは呆然としている。
 「行きましょう。ただし、慎重に……」
 「おまえ何やってんだよ!」
 あたしは吠えた。
 「なんでだ? なんでEを突き飛ばしたんだ? Eはどこに行ったんだ?」
 「地獄です」 
 「そんなのゲームの話だろ!」
 「そうですね」
 「そうですねじゃないだろ! おまえ突き飛ばしたEが死ぬの分かってただろ!」
 「分かってました」
 あたしは目の前が真っ赤になるのを感じた。
 「おかしいだろ? おまえ、知ってて突き飛ばしたんだろ? いやそれともおまえがそういう風にしたのか? 落ちた奴が本当に死ぬように、おまえがしたんじゃないのか?」
 「違います。これは姉さまが……」
 「Eとは友達だったんだぞ! 疎遠だったけど……でもまた友達に戻れるかもしれなかったんだぞ? おまえみたいな訳の分からないのと違ってちゃんとしたまともな……」
 そこまで言って、あたしは自分の口にしたことに動揺して黙り込んだ。
 Nは表情を変えていない。
 Nは何も言おうとしない。
 Nが何を思い何を感じたか、あたしには分からない。
 でも怒りは収まらなかった。感情のままに悪罵を吐くのを堪えられなかった。
 「おまえなんかもう知るか! 一緒にいたらあたしも殺されるんだ! そこをどけ!」
 あたしはNを押しのけるようにして白線に足を置いたまま進んだ。よろめいたNの脚がそれでも片方だけ白線の上に乗ったままなのをあたしは確認した。
 そのままずんずん進んでいくあたしに、Nは背後から声を掛けた。
 「家に帰ればまじないは解けます。しかし気を付けてください。それまでに万が一のことがあれば……」
 「うるさい! 分かってるよ!」
 あたしは吠えた。吠えつつも、しっかりと足元を見ながら、冷や汗をかきながら一歩一歩慎重に歩き続けた。
 これまでの道程に命がかかっていたことに、あたしはようやく気が付いたのだ。

 〇

 翌日。
 Nは学校に来なかった。
 あたしは一人図書室で本を持っていた。本を持っているだけで碌に文字は読んでいなかった。それはNと一緒にいる時もだいたいそうで、多くの時間をNに声をかけNに相手をしてもらいながら過ごしていることに違いなかった。しかしその日はたった一人、ただ茫然と、何もせず同じようなことを繰り返し考えていた。
 Nが学校に来なかったことにあたしは煮え切れないものを感じていた。
 と言っても、Nが来たところで何をどうするか決めていた訳でもない。無視するのか改めて悪罵を吐くのかそれとも謝って仲直りでもするのか。あたしは態度を決めかねていた。
 Eが死んだのがN一人の所為な訳でないことは、今なら分かる。
 きっとIが何かしたんだろう。あのおかしなNの姉ちゃん。何を齎すか分からないNの姉ちゃん。バカそうに見えてきっと本当にバカだがそれでも魔女のような力を確かに持っているNの姉ちゃん。恐ろしいNの姉ちゃん。
 ただの遊びの設定に過ぎなかった地獄を、Iが本当に出現させたのだ。
 Nは繰り返しあたしに注意を喚起していた。Eのことだって遊びに入れないように強く拒んでいた。きっと遊びに加わらなければ設定はEに適応されなかっただろう。最初NはEのことを救おうとしていたのだ。巻き込むまいとしていたのだ。
 だとしても。
 最後の最後NがEを突き飛ばして奈落へ落したのは確かなことだった。それは自分を突き落とそうとするEに対する自衛ということも出来たが、しかし他に方法がなかったかと言われるとそんなことはない。無口で口下手のNだが喋れない訳じゃないし、事実あたしの前では時にはまとまった量の会話に応じてもくれる。Nがちゃんと説明し説得する意思を持ち、あたしがそれを援護すれば、Eを突き飛ばさずともN自身が奈落へ落ちることは防げたのではないか。
 それをせず突き飛ばして死なせたのはNの怠慢ではないか?
 Nは何を思っていたのか。あたしはあいつを問い詰めたかったしあいつの言い分を聞きたかった。あいつの主張を全て引き出してあいつのことを理解した上で、あいつの落ち度を認めさせたかった。そうやってあたしはあたしの留飲を下げさせたかったのだ。
 「ようするにおまえは、Nとちゃんと喧嘩がしたかったんだろうな」
 放課後の教室の窓辺で、M先生はあたしと同じ街の景色を見ながらそう結んだ。
 「なのに肝心の奴が学校に来なかったもんだから、振り下ろすつもりだった矛の落しどころが分からなくて、それで困ってるんだろう」
 「先生はどう思うんだ? どっちが悪いとか」
 「Nの落ち度についてはUの思う通りで良いんじゃないか? おまえ自身の落ち度についても、まあだいたい、おまえの考えているとおりで、そんなもんだろう」
 「あたし、自分の落ち度については何も言っていないぞ?」
 「そうだな。言ってはいない。なら、先生から言うのもやめておくか」
 「なんだ気持ち悪いぞ? そんな言うんなら言ってみてくれよ」
 「言いたいことがあるんだったら、その場で突き離して置いてけぼりにしたりせず、その場で冷静に話し合うべきだった。そうしておけば、おまえが後悔しているおまえの言葉についても、その場で弁明出来たかもしれない。取り残されて一人で帰られたんじゃ、Nの方だって、今おまえが感じているのと同じ煮え切れなさを感じていただろう」
 「……そうだなあたしも冷静じゃなかったぞ。でもあの状況で冷静になるなんて無理なんじゃないか?」
 「その通りだ。それに、別にNだって冷静だった訳じゃない。あいつは鉄面皮だから落ち着いているように端から見えるが、実際はかなり感情的だ」
 「感情的になってEを突き飛ばしたのか?」
 「そういう一面もある。しかし、Nだって命懸けでしたことでもある」
 「あいつはもっとちゃんと、色んなことを口で説明するべきなんだよ!」
 「そうだな。そこがあいつの一番の問題点だ。そのことがEを殺しえた訳だ。世間ではEは行方不明ということになっているが、実際には彼女はもう二度と戻っては来られないだろうな」
 「先生。あたし、すごく哀しいぞ」
 「とてもつらかっただろう。良く相談してくれた」
 「Nが何かしたら、これからも人が死んで行くのか?」
 「そうなる可能性は高いだろう」
 「Nはじゃあ悪い奴なのか?」
 「俺から見ても、Nはそれほど屈折した子供じゃない。素直で不器用で年相応に愚かで……そのあたりのことは他の奴とまるで変わらりゃしない。子供だから善いこともして悪いこともして、それがふつうだ」
 「でも先生」
 「ああ。あいつは妙な力を持ってしまっている。それを使うことに慣れてもしまっている。だから同じやらかすにしても、あいつの場合は他の子供より甚大な被害が出る。そこは改めさせなければならない。正しい扱い方を学ばせなければならないし、それが出来る人間の傍にいなくちゃならない。その意味では……もしかすると今Nの傍にいるのは……」
 M先生は鋭い視線をあたしの方に向けた。
 「なあU。おまえ、Nの姉ちゃんとやらに会ったんだよな?」
 「あ、ああ。そうだけど」
 「名前は分かるか?」
 「Iだってよ」
 そう言ったあたしに向けられるM先生の視線が嫌に精悍になった。あたしは思わず息を飲んだ。普段やさぐれたようになっている瞳が、これまで見たことのないような真剣さであたしの方に向けられている。大人の本気の表情にあたしは思わずたじろいだ。どんなやんちゃな生徒を叱る時だって、この人はこんな目をしない。
 その時だった。
 下校時間を告げるチャイムが鳴り響いた。この音が鳴ったら部活動など一部の理由のある場合を除いて生徒は下校しなければならない。こんな時間までM先生はあたしの相談に乗ってくれていたのだ。
 「……もう良い時間だな」
 「ああそうだな。先生、話聞いてくれてありがとな」
 「良いんだ。それが先生の仕事だ。ただ最後に」
 M先生は気だるげな表情を取り戻して、優し気な声で言った。
 「おまえはNと喧嘩をしたいのかもしれない。しかし、Nの方が同じ考えとは限らないことは、ちゃんと考えておいた方が良いと思う」
 「そうなのか?」
 「ああ。喧嘩してぶつかりあって、それで分かり合いたいという奴もいれば、そうでない奴もいる。そもそも喧嘩したって、分かり合った気になっているのは片方だけで、もう片方はただただ怒られて抑圧されるだけということはあちがちだ。そしてNは恐らく抑圧される方のタイプなんだ」
 「それはまあ、ちょっと分かるぞ」
 「穏やかに話し合う方が良いと言う奴もいるし、話し合わずなあなあにしときたいという奴もいる。そこはそれぞれだ。とにかく大切なのは感情的になり過ぎないことだ」
 「分かったぞ。先生。あの」
 「あいつだって俺の生徒だよ。そして変わった奴だ。変わった奴にこそ友達が必要なんだ。おそらくだが、あいつはおまえにだけは危害は加えない。Nのことを、どうかよろしく頼む」
 そう言ったM先生に別れを告げて、あたしは一人、下駄箱に向かった。
 Nのいない帰り道は、ひさしぶりだった。

 〇

 夕暮れの街を一人で歩く。
 途中ドブ川の前に立ち止まり、濁った流れをぼんやりと眺める。
 ニオイが鼻に突いたので、無視して再び歩き始める。
 ぬるい風が吹く。少し雨の香りがする。
 空を見上げる。分厚い曇に覆われている。早めに帰った方が良いかもしれない。
 転がっている松ぼっくりを軽く蹴り付けると、それは大人の人の茶色いブーツの前に転がった。
 「こんにちは」
 Iが瀟洒に微笑んで軽く頭を下げて来た。
 あたしは震え上がった。最早この人が魔女であることに何の疑いも持っていない。いや魔女と言う形容が当てはまるのかどうかも分からない。Nは霊感少女を自称していたから、この人は霊能力者ということになるのだろうか? それかただの悪魔か、ただの化け物か。
 「な、なんだよ」
 「少しUさんと話をしたくて……」
 「お、おまえと話すことなんてないぞ?」
 「どうしてそんなに嫌うのですか?」
 「どうしてって……。なんでEが死んだと思って……」
 「Nちゃんに意地悪をしたという人ですか? だったら、そんな人は死んで当たり前です。そうは思いませんか?」
 Iはこともなげにそう言った。
 「だって、そのEという人が先にNちゃんを突き飛ばして殺そうとしたんでしょう? 酷いですよね? 腹が立ちますよね? そんな人は奈落に落ちて殺されるのが相応しいんです。Uさんにはそれを分かっていただきたいんです。Nちゃんは決して悪気があった訳ではないの。そうじゃないですか?」
 「お、おまえが妙なことをしたからだろう? 白線の外は奈落だなんて、ただの設定だったものをおまえが何かして……」
 「本当にごめんなさい」
 Iは深く頭を下げた。
 「その方がスリルがあると思ったの。ああ、わたしはいつも余計なことをしてしまうのだわ」
 あたしは涙を貯めてIに吠えた。この人にならいくらでも感情的になって良い気がした。
 「うるさいよ! 何がスリルだよ! 人が一人死んでんだよ! おまえだけは本当におかしいと思うぞ? 化け物じゃないか。体中に変な虫飼ってるし……キモいんだよ、怖いんだよ、意味が分かんないんだよ!」
 「そこまで言わないで……」
 Iもまた目に涙を貯めている。ただそれは単にあたしに言われた悪口に哀しみ、傷ついているという、安直な程に純粋でバカみたいで子供みたいな涙だった。
 「酷いわ、哀しいわ。こんな子供にまでわたしは嫌われてしまうんですね。ああ、どうして何もかもこんなに意地悪なんでしょう」
 「黙れよ! Eを返せよ! 友達だったんだよ! たぶんもう二度とちゃんとした友達には戻れなかっただろうけど、それでも一度は友達だったんだよ。好きだったんだよ。返せよ……返してくれよおお!」
 そう言って腕をぐるぐる回しながらあたしはIに飛び込んで言った。それは襲い掛かるというより縋るというような、おかしな感情に基づいていた。Iは恐ろしい魔女だったし、何がどう逆噴射してその矛先があたしに向かうかも分からなかったが、それでもあたしは駄々をこねる子供のような気持ちでIに接していた。
 気が付けばIに対する警戒心が薄れている。
 Iの持つ特殊な力がそうさせるのではなく、Iの持つ人格や振る舞いがあたしにそうさせる。
 そしてIはあたしの駄々を受け止める。胸を叩くあたしの拳を全て受け入れて、肩を掴んで抱き寄せ、柔らかい胸に顔を埋めさせる。
 大人の若い女の人の良い香りがする。くらくらとするかのようだ。
 あたしは妙な安心感に包まれる。母親の胸に縋っているような心地なのに、普段親に感じるような畏怖の念がある訳でもなく、ひたすら甘やかされることが出来る都合の良い何かにひたすら埋没するかのようだ。
 Iはあたしの期待に応えた。
 「ではEさんのことは返してあげましょう」
 あたしは顔をあげた。
 Iの綺麗な笑みがあった。
 何の陰りもない笑みに思えた。企みも嘲りも媚びもそこには感じられない。ただ生まれた時からその表情を浮かべ続けているかのように、柔らかく美しくIは微笑んでいる。
 「本当か?」
 「本当ですよ」
 「あんたでもそんなことが本当に出来るのか?」
 「できます。あなたに対して、わたしにできないことはありません」
 「本当か?」
 「本当ですよ。そうですね、では」
 Iはその場でしゃがみこんで、その場に落ちている松ぼっくりを拾い上げた。それはあたしがIに向けて蹴り付けた松ぼっくりだった。
 「これをEさんにしましょう」
 あたしは面食らった。意味が分からない。
 「しかもこれは決してUさんを裏切らないEさんです。ずっとUさんの親友で、Uさんだけの親友で、Uさんにだけ優しくしてくれるEさんです。それはこの松ぼっくりが壊れるまであなたの傍にいます。素敵でしょう?」
 「何を言ってるんだ?」
 「おかしなことは何もありません」
 Iは指先を松ぼっくりに軽く触れさせた。
 「はい」
 Iは言った。
 それでその松ぼっくりはEになった。
 あたしはIの手からEを受け取った。Eは三年生だった頃のEに戻っていた。いやそれ以上だった。そのEはあたしにだけ優しくあたしにだけ都合が良いあたしだけのものだった。あたしは狂喜してEを抱きしめる。松ぼっくりのイガイガとした感触があってあたしは心から愛しい気持ちになる。
 「こ、こんなもの本当に貰って良いのか?」
 あたしは恐る恐る尋ねた。あたしはこのEが大好きだしこのEなしではいられない。こんな素晴らしいものを貰えるIにあたしは心が惹かれるようだった。この人の言うことなら何でも聞けそうな気がした。
 「ええ。良いですよ。でもその代わり、お願いがあるんです」
 「何でも言って良いぞ! なんでも言うことを聞くぞ!」
 「簡単なことです。Nちゃんと仲直りをしてください」
 「そんな簡単なことで良いのか?」
 「ええ。かまいません」
 Iはたおやかに微笑んだ。
 あたしはますます嬉しくなってEを抱きしめる力を強めた。Eは松ぼっくりなので力を強めすぎると砕けてしまうので、あたしは気を付けた。腕にEが食い込む感触が心地良い。
 このEは一生涯に渡ってあたしの傍にいてくれる。あたしの友達でいてくれる。
 あたしは幸せだった。嬉しくてたまらなかった。
 「……もう良いですよ」
 Iが言うと、曲がり角からNが現れた。相変わらずの無表情だったが足取りは少しぎこちなかった。Nはあたしの前に立つと、いつもよりも鈍い口調で、少したどたどしくこう言った。
 「あの、Uさん。昨日は」
 「良いんだよ! 全部許す! それよりあたしの方こそごめんな! 酷いことを言っちゃったな。Nは変じゃないしおかしくないし、あたしの大切な友達だぞ!」
 Nは無表情のままかすかに安堵した。そのように見えた。
 「これで大丈夫ですか?」
 「ええ。I姉さま。あの……」
 「良いのです。Nちゃんの役に立てて良かった。うふふっ、それがわたしの幸せなのだわ」
 Iはあたし達の方に背を向けた。
 「二人でいつまでも仲良くしてください。それは本当に幸せで大切なことなんです」
 瀟洒な足取りで立ち去って行くIのことが、あたしには初めて、年上の素敵なお姉さんに見えた。

 〇

 雨男

 〇

 Eの兄は雨男だ。
 それはEが言っていたことであり雨男とされる兄本人の自己申告でもある。Eの家に遊びに行くとΣという男が家にいて、だいたい自室に引き籠ってパソコンでゲームをしている。Σは太った汗かきの青年でEの兄で、くすんだ細い目と分厚い唇をしていて、不健康に白い肌は何もしていなくてもどこかしっとりとしている。
 彼が家から出ていることをあたしは目にしたことがない。Eの反対を無視して何度か外出に誘ったがΣは首を縦に振らない。Σは引き籠りなのだ。年齢は分からないがどうあれ学校なり仕事なりに出掛けるのが通常のはずで、本人も時に言えに引き籠ってなくてはならないことへの悲哀を漏らすが、それでも彼が岩戸から出ることはない。
 雨が降るからだ。
 そんなものはただの戯言で、ある種の言い訳の類だとあたしは判断していた。だって雨男なんてそんな非科学的なことがあるはずもない。それにもし雨男なんてものが本当にいるとして、ちょっとやそっとの外出くらい構わずやれば良いんじゃないか? 雨が降ることが分かっているなら少なくとも本人は予め傘を持っていられるし、親や妹を怒鳴り付けてマンガやゲームを買いに行かせるくらいなら、近所の店くらいそうやって自分で行けば良いじゃないか。
 なのにΣはそうしない。
 「雨が降るって結構大変なことだろうが。外出の予定が狂う人がいるかもしれないし、水たまりに滑って転んだら、年寄りくらいは簡単に死ぬ。そりゃ実際には雨なんて年に何十回も降るし、天の恵みとか言って良い面や必要な面もたくさんあるだろうけど。でもそれは自然に起こるから良い面も悪い面も皆が受け入れているだけで、ぼくという一個人がそれを引き起こして悪いことが起きたら、全部ぼくの責任になっちまうだろうが」
 外に出たくないからそう言っているだけじゃないか? と思う。
 でもそういう欺瞞や逃避も含めてあたしはΣが好きだった。好きというか共感していた。だってそりゃあ人は安全な家から出たくないに決まってる。一日中ゲームで遊んで食事もオモチャも全部外から持って来させて一人で部屋に引き籠っていたいに決まってる。そういうことを全部実現しているΣが羨ましかったし、尊ぶべき理想の在り方のようにあたしには思えたのだ。
 家では暴君のΣだがあたしには優しくて、ゲームをしているところを見せてくれたり、読まなくなった漫画を別けてくれたり、部屋にため込んでいるポテトチップスを食べさせてくれたりした。Σはぶっきらぼうだがまとわりつくあたしを振り払えないらしく、一度こっちのペースに巻き込んでしまえばあたしの望むように相手をしてくれた。何度かなどEがいないことを知りながらΣに会いにEの家を訪ねるようなことさえあった程だ。
 「もうまる一年以上会ってないけどな。あの兄ちゃん、今頃どうしてるんだろう」
 図書室であたしはNにその話をした。何故そんな話をしたのかというと窓から見る青空が澄み渡っているからで、そこから雨が降って次の体育の授業が中止になることを願っているからだ。
 運動会の時期が迫っていた。
 あたしは運動会のダンスという奴が本当に嫌いだった。日々の練習に強いストレスを感じていた。なんたって皆の前で晒し者みたいに扱われ幼稚な芸をさせられなければならないんだ? 子供が頑張っていて微笑ましいとか可愛らしいとか、そういう目線がそもそも侮辱的でこちらの尊厳を踏みにじっているのだ。
 「なあ。雨男って本当にいるのか?」
 Nは最低限度の対応とばかりに視線だけをあたしに傾けると、最低限度の唇の動きで最低限度のことを言った。
 「さあ」
 「おまえならそういうことは分かるんじゃないか?」
 「分からないです」
 「霊感持ちの癖に?」
 Nは何も答えない。だがそういう超常的なことの全てをこいつが知っている訳じゃないのは当然と言えば当然だ。視覚があるからってすべての景色を見たことがある訳じゃないし、聴覚があるからってすべての音を聴いたことがある訳じゃない。霊感があるからって全部の怪異を知っている訳じゃないのだ。
 「Nの姉ちゃんなら知ってるのか?」
 「知っていると思います」
 「姉ちゃんに頼んで雨男を連れて来て貰えないのか?」
 「頼めばしてくれると思います」
 「やって貰えよー。マジでしんどいんだよ最近の体育ー。体育の先生厳しくてちょっと間違ったらすぐつるし上げて来るじゃんかよー」
 流行の歌謡に合わせた振り付けを、大勢の前で演じさせられるだけで恥ずかしくてたまらないのに、その所作にはかなりの精密性を求められる。その上『表情を付けて笑顔で!』なんてことまで要求される。やりたくもないことをやらされるのは子供にとって苦痛そのもので、しかも今年の十月は残暑著しい。終わるといつも汗まみれだ。つらい時間だった。
 「なあN。おまえだってしょっちゅう注意されてるだろ? つかおまえ全然表情付けないもんな。一度なんてわざわざみんなの前に呼び出されてまで笑顔の練習させられたし。クラスで一番怒られてるの、ひょっとしたらおまえなんじゃないか? 何とかしろよー」
 「何とかしたいです」
 Nは言った。
 あたしは思わず顔を上げた。
 「でもI姉さまのことは、あまり頼ってはならないと、C姉さまから言われているのです。前に仲を取り持って貰ったばかりですし……どうしましょうか」
 「おいN」
 「その雨男と言う人が気になりますね」
 Nがそう言った次の瞬間、昼休みの予冷が鳴り響く。
 教室に帰り、体育の準備をしなくてはならなかった。

 〇

 その日の体育も散々だった。
 あたしは二回、Nは四回名指しで注意された。Nのダンスはぎくしゃくしきった完全なロボット・ダンスで、しかもテンポが他の生徒より一つ二つ遅れていて、俯瞰で見ているとその姿は一人だけ完全に浮いている。
 それでもそのことを恥じるような表情で懸命に追い付こうと努力しているなら、指導する方にも手心が入るというものだろう。しかしNは完全な無表情でどれだけ周りから動作が遅れようが、気にした様子がなくスローな振り付けを披露し続けるので、体育教師は激怒してNを皆の前に呼び出して叱り、彼女がいくら笑い者になってもフォローすることをしない。
 可哀そうだ。悲惨だ。残酷だ。
 まあNの方に問題がない訳じゃない。傍目には分からないだろうが友人のあたしには、Nがものすごく拗ねてものすごく舐めた態度でダンスに興じているのが良く分かる。動きがロボなのも表情を付けないのもテンポが遅れるのも、わざとやってる訳ではない一方、積極的に治そうともしていない。腹の中にあるのは、皆の前で自分に恥をかかせる体育教師に対する憎しみと、いよいよとなったら呪いのアイテムでどうにかしてやろうという魂胆だけだ。
 まずい予感がする。
 汗をかいた帰り道、あたしは体操着のまま、Nは体操着に制服を羽織った格好で、それぞれ帰路についていた。
 あたしはNのメンタルをケアするつもりで声を掛けた。
 「あの先生キツいよな。あんな言わなくても良いのにな」
 Nは何も答えない。答えないのはそれを当然だと思っているからで、当然のことにいちいち同意を示したりしないからだ。あたしは続けざまに言った。
 「本当に雨男を引っ張り出したいくらいだよな。体育全部雨で流れれば良いんだよ。なあN、本格的におまえの姉ちゃんにお願い出来ないのか? あの人だったら雨を降らせるくらい別に何でも……」
 「その雨男というのは」
 Nは言った。
 「Eさんの家に住んでいるんですよね?」
 「え? まあそうだけど。本物かどうかは知らないよ? つか多分嘘だと思うし。ただのヒッキーっていうか……」
 「Eさんの家ってどこですか?」
 「そこ右行って信号曲がって真っすぐ行ってコンビニのとこ曲がって駅の近くのマンションの三階」
 「案内してください」
 覚えられる訳もなくNはそう言った。Eの家に行くことについてあたしは少し逡巡したが、よくよく考えると問題があるはずもなくあたしは了承した。
 Eの家に辿り着く。チャイムを鳴らすと専業主婦の母親がやって来て、あたしを歓迎してくれた。
 「ひさしぶりね、Uちゃん。そっちの子は?」
 「こんにちはおばさん。こっちは友達のN」
 紹介されたNは無表情のまま完全停止していた。知らない大人の前で、いつも通りの無表情を貫くことでやり過ごせると思っているのだ。その魂胆を半ば尊重した母親は、あたし達をEの部屋に通すことを申し出てくれた。
 「今日はΣくんと会いに来たんだぞ」
 「Σ? あ、ああ……確かあなた、仲が良かったわよね」
 逡巡するような表情を浮かべつつも、おばさんは最後にはあたしをΣに会わせてくれた。
 おばさんに声をかけられたΣは何事か怒声らしきものを発したが、あたしが来たことを知らされたからだろう、穏やかな声で二、三言やり取りをした後部屋から顔を出した。
 「入れよ」
 Σは相変わらずの面相で、ぶよぶよと太った頬と細く淀んだ目と分厚い唇を持つ肥満体だった。よれよれのスウェットを着用したその姿は、無論お世辞にも格好良いとは言えなかったが、あたしにはそれがドラえもんやキテレツ大百科のような、愛らしさと安心感を持つ姿に感じられるのだ。
 Σの部屋は相変わらず散らかっていて、足元にはスナック菓子の空袋やくしゃくしゃの漫画本が散乱していた。その奥にあるほんの微かにエントロピーの低いスペースにパソコンデスクが置いてあり、部屋の主たるΣが鎮座していた。
 「ひさしぶりだなΣくん。元気してた?」
 「Eがどうして消えたか、おまえ何か知ってんの?」
 こちらの質問に答える前にΣは言った。バカな質問だったのであたしは軽く笑い飛ばした。
 「やだなΣくん。Eなら別に消えたりしてないぞ?」
 「あ? おまえ何言ってんの?」
 「Eならここにいるだろ」
 あたしはランドセルから松ぼっくりのEを取り出した。
 「……何、それ?」
 「だからEだよ」
 「その松ぼっくりが?」
 「うん。まあ、これはこの家のEじゃなくてあたしのEだから、Σくんの妹のEとはちょっと違うかもしれないけどな」
 「バカじゃねぇの?」
 Σは切って捨てるようにそう言って、傍にあったスナック菓子の袋を一つこちらに見せて来た。
 「食う?」
 この部屋には無数にスナック菓子の袋が落ちていて、傍目にはどれがゴミでどれが中身のある奴なのか分からない。しかしΣは完全にそれを把握しているようで、部屋のどこにいても腕を伸ばすだけで中身の入った袋を手に取ることが出来た。
 「食べる食べる! コーラも!」
 「コンソメ」
 Nがそこで口を挟んだ。しかも珍しく強硬な声で以下のように主張した。
 「コンソメが良いです。コンソメじゃなきゃダメです」
 「お。コンソメか」
 Σは初めてやって来たNにもそれがコンソメ味を要求したことにも動じず、手にしていたうすしおをどこかに捨ててコンソメパンチの袋を取り出して投げて来た。そして部屋に常設されている小型冷蔵庫からコーラのボトルを取り出して、床を蹴散らして微かにスペースを設けて、自ら腰を付けた。
 「座れよ」
 あたし達はパーティ開けしたポテトチップスの大袋を食べ始めた。あたしはここでNが意外と食い意地が張っていることを知った。でかい手と口でボリバリポテトチップスを食べるΣにも、追い付くようなペースで猛烈にポテチを口に運んでいる。飢餓に陥っている子供みたいだ。
 そんな二人に取り残されまいとすると会話より飲食が中心になる。あたしは負けじとポテチに食らいつき、コーラを飲みゲップをし、それを見たΣが三倍の音量ででかいゲップを返して来たのに大笑いした。
 「ポテチだけ食べてれば生きていける」
 油まみれの手をスウェットで拭きながらΣは言った。
 「栄養偏るぞ。だからデブなんだよ」
 「食うのってダルいじゃん。嫌いなものとかあるし。むしろ食えるものの方が少ないし、朝昼晩とか食う時間を指定されるのも嫌だ。でもポテチならとりあえず食ってられるし、腹も膨れるし、いつでも食えるから、これで良いんだ」
 「あたしはカレーライスとポテトサラダでそれがしたい」
 「部屋にいっつもカレーの鍋と炊飯ジャー、置いとくのか?」
 「そうだぞ?」
 Σは微かに考えるようなそぶりを見せると、げへげへと独特な笑い声を発して、言った。
 「良いな、それ」
 ゲームでもするか、という話になりあたし達はコントローラーを握った。Σの部屋にはプレステ2が置いてあり数々のゲームソフトが揃っていた。勇者Σが探検する異世界にあたしとNは格闘家と魔法使いとして連れ添った。その世界を何年も冒険し続けているΣは敵の動きを知り尽くしていて、鮮やかにモンスターを切り倒すのであたし達は隅っこの方でうろうろしているだけで良かった。
 「なんで今日来たの?」
 Σは言った。楽しそうだった。
 「Σくんにお願いがあるんだよ」
 「なにそれ?」
 「明日の三時間目体育なんだけどさ。雨で中止になって欲しいんだよ。Σくん雨男だろ? 外出ててくんない?」
 Σは眉間に皺を寄せてあたしの方を見詰め、微かに低くした声で言った。
 「ダメだ」
 「なんで? 良いじゃんかよ? 雨降るだけで別にΣくんに損がある訳じゃないだろ?」
 損がないだけで得もなさそうだったが。でもΣはどうせ暇なはずだし、このくらいのお願い聞いてくれてもバチは当たらないはずだ。
 「言ってんだろ? 雨降ったら人に迷惑かかる」
 「かからないって」
 「体育の授業潰れるっていうのがそもそも迷惑だ。学校の予定が狂う」
 「雨なんていつでも降るんだし、別に良いじゃん」
 「お天道様が決めることなら公平だし別に良いけど、ぼくが降らせたらそうもいかない。天気とか雨とかそういうの、皆に影響することなのに、自分の都合だけで変えようとするのはダメだ」
 言い切るΣにあたしは何も言えなくなる。なんだよこんな時だけ大人みたいな正論みたいなこと言うなよ、自分はただの引き籠りの癖に。なんてことはあたしは言わないし言えなかった。
 まあでも別に良い。どうせΣが雨男だってのも嘘なんだ。この家を出たくないからそう言ってるだけで、Σはただのだらしないダメな大人だ。あたしは別に嫌いじゃないし、今日だって久々に一緒に遊べて楽しかったけど、雨を降らせてくれないことに殊更落胆なんてしない。
 「いいえ」
 Nがそこで口を挟んだ。
 「やはりあなたには、雨を降らせて貰います」
 「は? おまえ何勝手なこと言ってんの?」
 Σは声音に剣呑さを滲ませる。親やEに怒鳴る時のΣを思い出してあたしは少し不安を感じる。
 「なんでぼくがおまえの言うことを聞くの?」
 「そ、そうだぞN。そもそも、Σくんには本当には雨を降らせる力なんてないぞ?」
 「それは外に出してみないと分かりません」
 Nは口を大きく開け、真っ赤な舌を出した。
 蛇のように細くて長い舌だった。Nはそれを軽くくねらせると、舌の真ん中が突如として隆起して、大きな腫物のようなものが出現した。それはNの口一杯に広がるような腫物で、一本の黒い針金がそこを突き破って飛び出して来た。
 ずきずき虫だ。
 ずきずき虫はNの口内に大量の出血を伴わせながら腫物を這い出した。Nは口の中にたまった血液を大きく喉を鳴らして飲み干すと、綺麗になった口を開けてずきずき虫だけをつまみ出してΣに向けた。
 「……なにそれ?」
 Σは怖気を振るったように言った。
 「姉さまに勧められてまた貰ったんです。飼うのは大変だしあまり気は進みませんが、飽きたらひねりつぶして構わないとも言っていたので」
 NはΣに向けてずきずき虫を指ではじいた。Nの拳程あるずきずき虫は、弾かれてというより自ら飛び移るかのようにΣの身体に張り付いて、スウェットの上をはい回ると袖口から服の中へと侵入した。
 「うわっ。……な、何を……」
 Σは思わずスウェットを脱いだずきずき虫を捜したが、最早それはどこにも見付からなかった。あたしは肩を震わせながらNの方を見たが、Nはおもむろに立ち上がって部屋の出口へ向かう。ただ去り際に。
 「ポテチ、おいしかったです」
 と一言言い残した。
 あたしは思わずNを追い掛けた。挨拶もなく家を出て行くNの肩を掴むと、咎めるような声であたしは言った。
 「どうするつもりだよN」
 「あの雨男を試してみるだけです」
 「どうやって?」
 「ずきずき虫であの雨男を外に出させます」
 「そんなことしたらΣくんがぐるぐる様のところに行っちゃうだろ!」
 「行きません。あのずきずき虫はわたしが飼っているので、ぐるぐる様よりわたしの言うことを聞きます。姉さまがそのようにしてくれました。あの雨男は少しの間外から家に帰れなくなるだけです」
 「なんでそんなことするんだよ……」
 「体育が嫌なんです」
 「だからって……」
 「大丈夫。運動会の練習は予行練習を入れても後三回、本番を入れてもあと四回です。それが終わったら、ずきずき虫はまたわたしが引き受けますから」
 そう言って静かにあたしを見詰めるN。
 あたしは首を横に振るって言った。
 「ダメだぞ。Σくんは何も悪くないのにあんな虫で操ったりしたら……」
 「もう決めました」
 Nは黙ってあたしに背を向けた。
 あたしは何も言えなかった。

 〇

 翌朝の天気は快晴だった。
 朝の会でM先生が運動会が近付いていること、皆が積極的に練習を頑張っていて立派であること、先生も本番を楽しみにしていることを、用意したことそのままのようなあまり感情の籠らない声で言った。
 一時間目。国語の授業で当てられたNはこれ以上ないほどの棒読みを披露し、失笑を買う。空はまだ晴れ渡っていた。
 二時間目。理科の授業の実験中、Nはまるで作業に参加せず自分の席で呆然と窓を見詰めている。空は曇り始めていた。
 行間休み。とうとう雨が降り始める。天気予報では降水確率0パーセントを謡っていたはずなのにと、三時間目は首を傾げる体育教師による保険の授業が行われる。
 四時間目。雨は降りやまない。
 雨足は強まり始める。大粒の雨が窓ガラスを揺らす音はまるで小石が当たるかのようだ。中庭や運動場は全体を水たまりで覆われ、一階のベランダを見に行った男子が足のくるぶしまで水に浸かったとはしゃいでいた。
 職員会議で授業を中止にして生徒を下校させるべきだと決まる。決まるが、その判断は遅かったと言える。皆を体育館に集めようとした時には既に学校全体が洪水に見舞われていて、校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下は半ば水に沈んでおり移動が不可になっていた。
 とうとう一階の玄関口が水に沈んだ。廊下まで浸水するのは時間の問題ということで、一階に教室を持つ生徒達は各自ロッカーの中の教科書類を持って二階へと避難する。あたし達五年生は全員三階で授業を受けていたので、そのまま教室に待機して異常気象を見守っていた。
 「なあN。これっておまえの所為なのか?」
 あたしはNに声をかけた。
 「……雨男の力が、思いのほか強すぎました」
 Nは視線を逸らして言った。あたしは机を叩くように手を突いて言う。
 「それはおまえの所為ってことだろ!」
 「……はあ」
 Nはふてくされたように唇を尖らせる。どうにもこいつは、こういう奴なのだ。
 「……まあ良いよ体育の授業潰そうとしてたのはあたしも一緒だし。ずきずき虫のことはあたしも反対したけど、もっときちんと止めるべきだったよ」
 「……そうですか」
 「今Σくんはどうしてるんだ?」
 「外にいます」
 「外のどこだよ。分かるのか?」
 「Σさんというよりずきずき虫のいる場所を感知できます。この近くにあるアパートの二階の外廊下にいるようです。ずきずき虫にはあくまで家に帰ったり帰ろうとするΣさんを懲らしめるようにのみ命令してあるので、外にいる限りΣさんは自由に行動出来ます。自らが降らせた雨で危険を感じたΣさんは、安全なそこに避難したのでしょうね」
 「家に帰らせろよ!」
 「その為にはずきずき虫を取り除く必要があります」
 「取り除けよ!」
 「傍まで行かないと無理です。ずきずき虫の遠隔操作はI姉さまにしか出来ないことです」
 「じゃあ今からそこに行こう。Σくんを助けて、一緒にΣくんに謝るんだ」
 そう言ってNを連れて教室を抜け出そうとする。
 そこにM先生が駆け寄って来て、あたし達を遮った。
 「先生……これは」
 「ああ分かってる。話は聞いていた。この雨を終わらせる為に行くんだろう?」
 「そ、そうなんだ。だから、その、行かせて欲しいぞ」
 「Nが行かないとどうしようもないんだろう? 行かせるさ」
 M先生は厳かに頷いた。
 「ただし、……先生も一緒に行く。どう考えても、大人が付き添った方が良い」
 「そっか。じゃあ……」
 「良ければUも一緒に来て欲しい。いざとなった時、Nに一番話が通じるのはおまえだからな」
 「わ、分かったぞ」
 あたし達はM先生に連れられて校舎の外に出た。

 〇

 全身をびしょびしょにしたあたし達はどうにか駐車場に辿り着き、M先生の車に乗り込んだ。
 「この洪水の中、ちゃんと走るかはダメ元だな」
 言いつつM先生は自動車を発進させる。しかし流石は日本車には底力があった。足元の水たまりをかき分けるようにして回転する車輪は、泳いでいるのと変わらないような音を発しながら前進し始める。じゃぶじゃぶとした感触が中にいるあたし達にまで伝わって来た。
 「……こんなことになるとまでは思わなかったんだろう」
 M先生は言った。Nは何も言わない。ただ窓をじっと見詰めながら無表情を保っているが、あたしにはそれが拗ねているのだと分かる。
 「おまえは故意の悪意でこんなことをするような奴じゃない。それは先生である俺には分かる。大方、体育のダンスが嫌だったとかそのくらいの理由なんだろう。テルテル坊主を逆さまに吊るすくらいの真似は、誰だってやることだ」
 ハンドルを握るM先生は穏やかに諭すような表情だ。
 「だがN、おまえには他の人とは異なる力がある。おまえ自身に大した悪意はなくとも、些細な気持ちでも、実際にはこれだけの事態が起きてしまうんだ。そんな力を無暗に使ってはいけない。いや、そもそもどんな理由があろうとも、使うべきではないんだろう」
 Nは何も言わない。ただ唇を結んでむっつりと押し黙っている。
 「Oは死んだ。Eだって死んだ。この洪水だって多くの人を傷つけるかもしれない。おまえはそろそろ懲りなくちゃいけない。自分の力を自覚しなくちゃいけない。それがどれほどの事態を引き起こすのか、無暗に使うのがどれだけ危険なことなのか……」
 「Eは死んでないぞ」
 妙なことを言うM先生に、あたしはあっけらかんとした声で言った。
 「……どういうことだ?」
 「どういうことも何も、これを見てくれよ」
 あたしは懐から松ぼっくりのEを取り出した。
 「この通り、Eは生きているんだよ。ずっとあたしの傍にいてあたしに優しくしてくれるんだ。だからEは死んでないんだぞ。死んだなんて言っちゃダメだぞ」
 「……これもおまえの仕業か」
 ミラー越しに、M先生はNのことをじっと見つめた。
 「……I姉さまがやってくれました」
 「Iか。あの女の仕業か」
 「知っているんですか?」
 「幼馴染だ。おまえの話もしてくれたし、何なら家に行った時、赤ん坊の女の子を抱いたことがある。思えばあれがおまえだったんだろうな」
 「そうですか」
 「奴とはまだ一緒に住んでいるのか」
 「ええ」
 「あいつの言うことは聞くな」
 M先生はそこで初めて声を低くして、表情を剣呑にした。
 しかしNはそれにたじろぐこともなく、静かな声でこう言った。
 「……獅子が身動ぎをした拍子に、地を這う虫が潰れて死んだとします。これは獅子が悪いのですか?」
 M先生は視線を鋭くするだけで何も答えない。
 「I姉さまが仰っていたことです。わたし達はただ自分の出来るささやかなことをするだけです。巻き込まれて誰か死んだとしても、そこには何の悪意もありません。ただ獅子の身体が大きすぎ、虫達がちっぽけだっただけ。だから、何も気にすることはないのだと」
 「おまえは獅子ではないし、死にゆく人達は虫ではない」
 答えたM先生の声には鋭い怒気が滲んでいた。
 「人間なんだ。おまえらは。人間なんだよ。何様のつもりだ? 俺達と同じように考え同じように話し、同じように生きている。自惚れるな。ちょっとばかり人ならざる力を持ったからと言って、おまえらは怪物や魔女ではないし、増して人より高尚な存在だったりもしない」
 M先生が本気で怒っているのを初めて見た。あたしは思わず怖くなって竦み上がった。強い精神力で抑え付けられてはいるが、声と共に滲みだすような感情は煮詰まった憎悪で、幼いあたしは大人の人の本気のそれに耐えることが出来ない。
 「それを理解していないことはおまえの悪意だ。反省しろ」
 「…………」
 「返事をしろ!」
 「…………はい」
 Nはそれ以上居直った態度はとらなかった。先生もまたそれ以上の追及をしなかった。そのことであたしは友達が叱られ終えるのを見送った時の、あの奇妙な安心感と同情心を得ることが出来た。そしてほのかに、Nに対する友情のようなものが胸の奥から沸き立った。
 落ち込むよなぁ。窓を眺めて悄然としているNにあたしは思った。普段優しい先生に怒られると余計になんだよな。自分が悪いって分かってても不貞腐れた気持ちになるよな。そんな言わなくて良いのにとか、自分一人が悪い訳じゃないだとか、もっと話を聞いてくれても良いのにとか、色々考えちゃうよな。
 でもベースにあるのはどこまで行っても自分がやらかしたって事実な訳で、それをどうやっても取り消せないから、悔しいんだよな。
 でもそれっておまえだけにあることじゃないぞ。あたしらは子供だからしょっちゅう間違いを起こすし、いや大人だってたぶんそれは同じようなもんなんだろう。怒られたって人生そこでおしまいになる訳じゃないんだから、また一緒にどうにかやっていこうじゃん。体育のダンスはウザいけど、愚痴なら思いっきりこぼし合えるんだから。
 やがてΣのいるアパートに辿り着いた。先生は駐車場の隅に車を止めると、ドアを開けた時に降り込んで来る雨に顔を顰めた。そして靴も靴下も脱がないまま足を地面につけると、それがどのくらいの水位なのかを確認して、あたし達の方を振り向いた。
 「一人ずつ負ぶって運ぶ。まずはUから、俺の背中にしがみ付け」
 ずぶぬれのM先生の背中はひんやりとしていたが、あたしの太ももを掴む腕の力には安心感があった。何があっても先生はあたしを離すことがないのだろうと確信できた。あたしは一階の外廊下に下ろされると、同じようにして運ばれてくるNを待ち受けた。
 「この二階にΣとやらがいるんだな?」
 「……そうです」
 「分かった。じゃあ、すぐに向かおう」
 あたし達は階段を上った。一階と二階どちらの外廊下にも、階段にも雨が降り込んでいて足元はおぼつかなかった。嵐とは異なり風はあまりないのでそれほど降り込まないように思われるが、そもそも雨粒が大きく量が多いのだ。
 Σはそこにいた。
 外廊下の柵に両腕を預けて洪水を見守っている。腕にはずきずき虫が寄生した者特有の巨大な腫物が出来ていて、Σはしきりにそれを撫でていた。表情は伺えないがやはり雨粒に塗れていて、微かに目が赤くなっているのが見て取れた。
 「Σくん」
 Σは振り向いた。
 「ご……ごめんな。あたしの所為なんだ。あたしが雨男がいるなんて話をNにしたから」
 Σはじっとあたしを見詰めている。
 「そ、それに……あたしも体育を潰そうとしてたのは同じなんだ。Σくんならそれが出来るって……。ご、ごめんな。全部Σくんの言う通りだったよ。自分の都合で雨を降らせたりして、それで街がどうなるか考えなかったからこうなったんだ」
 あたしは大きく頭を下げる。
 「本当にごめん。今からNが腕の腫物を取り除くからさ。家に帰ろう。M先生が、送ってくれるはずだから」
 「もう良いよ」
 Σは言った。
 「おまえは悪くないよ。そこの……Nだっけ? なんかけったいな力を持ってるんだろうけど、そいつだって別に、悪くない」
 「どういうこと?」
 「だってぼくは、この街を雨に沈めてやるつもりなんだから」
 やけっぱちのように、Σは笑った。退廃的な笑みだった。
 「そんな……どうして」
 「雨男ってしんどいんだよ。毎日家に引き籠ってなくちゃならないし、こうやってガキのしょうもないワガママに利用される。生きていたってしょうがないだろ? だから、この街ごと水に沈んで、一緒に死んでやるよ」
 雨音が続いている。街はあちこち水浸しだった。あたし達のいるところも水浸しだった。あたし達自身もぐっしょり塗れている。そして、洪水に沈む世界の真ん中であるはずのその場所で、雨の王であるΣが狂ったような哄笑をあげる。
 「この近くに大きなダムがあるのは知ってるか? あれが氾濫を起こすのももうすぐだろう。そうなったら今度こそこの街は沈む。そしてぼくは街と共に沈むんだよ!」
 「……N。早くその青年を救い出せ」
 M先生が言った。
 「しかし……」
 「しかしじゃない。この青年は正常な精神状態じゃない。おまえが仕掛けたナントカ虫の所為だろう」
 「ずきずき虫に、精神を狂わせる作用はありません」
 「あるんだ。そんなおかしな虫に犯されて、望まずして街を水の中に沈めさせられたら、誰だってこのくらいおかしくなるんだ。今まで抑え込んでいた鬱屈が溢れ出すものなんだ。今もっとも必要なのはこの青年の心のケアだ。その為にまずはその虫を引っ張り出すんだ!」
 あたしにはそれが正しいことなのか良く分からなかった。いや正しいんだろう。今はとにかくΣに優しく接してやらなければならない。彼は何も悪くないのだから。ずきずき虫に指令を発して無理矢理家に帰らせることもNには出来たが、M先生がずきずき虫を良く知らないし、知っていたとしてもM先生はそれを間違ったやり方だと言うだろう。
 だがそれはある意味では甘い考えなのではないか? だって今は街の全ての人達の命がかかっている。どんなやり方を使ってでも、何ならΣを殺してでも、この雨を終わらせることを優先しなければならなかったんじゃないか?
 M先生は優しい人だ。性善説的にものを考えてもいると思う。だからすべての元凶がNにあると知りながら、Nのことを見守り叱責し説諭する以外のことをしなかった。本気でNの被害者を出さないようにする為なら、もっと他のやり方があるはずなのに。
 「……やんやむやんやむろじばらそぼるごおそ。さなとりあまやとりあぼるごおぞ。ばらじらぞざなとりあじゅぶにぐらす」
 Nが口元で何事か囁くと、Σの腕の中からずきずき虫が這い出した。
 Σはそれを手でつかんだ。
 「あ……」
 あたしは思わず声を漏らした。拳の中に足の内の数本、および中央の一対の巨大な眼球のある胴体を握り込まれて、ずきずき虫はそこから逃げ出そうと暴れている。
 「こんなものがぼくをこれまで痛めつけていたのか」
 Σはずきずき虫の胴体を握りつぶした。
 ずきずき虫の体液は人の血のように赤かった。それは降り込んで来る雨粒で簡単に洗い流された。ずきずき虫の身体は水びたしの外廊下の上に落ち、あたし達の足元を流されてどこかへと消えた。
 「これでぼくは自由だ。ぼくはぼくの意思でこの街を沈める」
 「やめるんだ!」
 M先生が吠えた。
 「君は今まで良く頑張って来た。一人で家に閉じこもっているのはさぞつらかっただろう。君の頑張りに誰も気づいてあげられなくて本当にすまない。必ず君の忍耐に報いるように俺がする。だから今だけは一緒に君の家に帰って欲しいんだ」
 「黙れ先公! 今更遅いんだよ!」
 「本当にすまない。しかし君が今鎮めようとしているのはこれまで君が守って来た世界だ。君が水の底に沈めまいと孤独な闘いの中で守って来た世界なんだ。それをこんな風にして本当に良いのか? 何よりも君の忍耐が報われないんじゃないのか?」
 「今更だよ! もう遅い……遅いんだよ……っ」
 Σはからからの声で笑い、天を仰ぎ見た。真っ黒な雲は絶えず雨粒を降り注がせていて、ほとんど何も見えない程だ。
 その時だった。
 何か大量の水が流れて来るような大きな音がした。津波の音を聞けば多分ほとんど同じように感じただろう。
 ダムが氾濫したのだ。思わずアパートの柵ににじり寄ると遠くから大量の水の塊が押し寄せて来るのが見える。それは流れるという言葉ではとうてい形容出来ないような迫りくる水の壁で、あんなものに飲み込まれれば一たまりもないに違いなかった。
 「……これは氾濫じゃないぞ。決壊だ」
 M先生は震える声で言った。
 「ダムの壁が壊れたんだ。もうすぐにここまで来る。……いったい何人死ぬっていうんだ?」
 その時、雨音と迫る水の音に混ざって微かに人の声のようなものがした。見るとアパートの駐車場で一人の少年がM先生の車によじ登った状態で泣き叫んでいた。
 「助けて! ……助けてぇえええ!」
 雨に降られてどこかからこのアパートを目指して避難して来たんだろう。しかしあまりの水量に前に進むことが出来なくなり、自動車の上にどうにかよじ登った。しかしその程度の高さでは迫りくる水の壁に耐えられるはずもなく、少年は絶対絶命だ。
 「……助けて来る」
 M先生は二階の外廊下の柵を乗り越えながら言った。
 「無茶だよ!」
 あたしは言ったがM先生は聞かなかった。柵を乗り越えたM先生は洪水の中に音を立てて着水する。今は先生の膝くらいまでしか水はなかったが、音を立てて迫りくる水の壁が到達すれば、先生はたちまち流されて死ぬだろう。
 「戻れよ先生! もうダメだよ! 間に合わないよ!」
 M先生は何も言わずに、泳ぐようにして少年のいる自動車までにじり寄り、よじ登った。。そして少年に手を伸ばし、抱き寄せる。
 少年を抱き上げたまま、先生は洪水の中を進み始めた。その時だった。
 「……来ます」
 Nが言った。
 水の壁が押し寄せてあたし達の視界をどす黒い色に染め上げた。土砂を乗せたダムの水は濁った禍々しい色をしていた。あたしが悲鳴をあげる間もなくM先生と少年はその中に沈んで見えなくなり、やがてあたし達の視界から消えた。
 「きゃははははっ! ははっ! ははははははっ!」
 Σは来るったように笑った。
 「やはり間に合わなかった! もうダメだ! 皆死ぬ! 大勢死ぬ! きゃはははははっ。ははっ! ははははははっ!」
 「おいN! おまえどうしてくれるんだよ!」
 あたしはNの方を血走った目で見た。
 「先生が流されて消えちゃったじゃないか! おまえの所為だぞ!」
 「しかし……」
 Nは無表情のままそれだけ言った。そして何も言わなくなった。言わないのではなく言えないんだろうし、その無表情だって他にどうして良いか分からないから自分の身を守る為にやっていることだった。あたしは初めてNの卑怯さに気付いた。
 「おまえどう責任を取るんだよ! おまえが妙な力を使うから……おまえが妙な力を持ってるからこうなるんだろう? なあ……なあ……何とかしろよぉおお!」
 その時だった。
 水たまりを歩く音がしてあたしは振り返った。
 セーラー服を着た女の子が経っていた。黒い長い髪をして、NやIに負けず劣らずの大きな黒目がちの目を持っていた。鼻筋の良く通った鼻と白い肌を持っていて、清純な女子高生のお見本のように整った顔をした、ものすごく綺麗な女の子だった。
 不思議なことにその女の子は全身がまるで濡れていなかった。清潔そうなセーラー服も、足を覆うスニーカーも、麗しの長い髪も、すべてがピカピカに輝いていた。それは異常なことのはずだったが、驚きや困惑を感じさせないのは、その面貌があたしの知る霊感少女と良く似ていたからだろう。もし彼女が『そう』ならば、水に濡れないくらいのことは驚くに値しないのだから。
 「……C姉さま」
 Cと呼ばれた、あたしにとっては三人目となる霊感少女は、静かな表情でNを見詰めた。
 Nは言った。
 「ごめんなさい」
 「後で一緒にお話をしてくれますか?」
 「はい。でも……」
 「そうですね。今は、この街とその人を救うことが先決です」
 Cは水たまりを歩く音を立てながら、しかしスニーカーを濡らすことはなく、Σに近付く。
 「……良かった。これなら何とかなりそうです」
 「何のつもりだ?」
 Σはやさぐれた目でCのことを睨んだ。
 「あんたに何が出来るんだ?」
 Cは口元で呪文を唱え始めた。
 「じゅぶにぐらす。ざみにとらにゃおぐとらあみやくそらなぞーなざなとりあ。だみにぼるごおぞざみにとらにゃおにぐらず。ざなとりあ。ぶらぞばらにじゃむあみあどりあぼるごおぞまあとみなとらに。じゅぶにぐらす」
 天から光が差し込んだ。
 真っ黒い雲が描き消えるようにして、一筋の青空が現れた。それは水面に垂らした墨のように黒い空に広がり、徐々に徐々に天を、そして世界全体を浄化していくかのようだった。
 青空が広がった。雲が消えた。雨が止んだ。降り注ぐ日差しは眩いほどであたしは思わず目を覆った。Σは思わず跪きながら喉から喘ぐような声を発した。そして晴れ渡って行く空から目を逸らし、Cの面貌を仰ぎ見た。
 「そ……空が、空が……」
 「ええ。もう大丈夫です。呪いは解きました。簡単な呪いだったのです。わたしにも解けるくらいの……。あなたは雨男でなくなりました」
 「おおお……おぉおおお。ああ。……あぁああああ!」
 CはΣを抱きしめた。Cの細く白い腕の中でΣは子供のような声をあげて泣きじゃくった。
 「ごめん。ごめんよ……! ぼくの所為なんだ! ぼくが外になんか出るから……雨男になんかなるから! 街が……街が沈んで……大勢の人が死んでっ。ささ、最後には……最後には、ぼくは、ぼくはそれを望んで……」
 「良いのです。あなたに罪はありません。あなたは立派な人です。今まで助けてあげられなくて、ごめんなさいね」
 わんわん泣きじゃくっているΣを、Cは抱きしめ続けていた。あたしはそれによってΣの魂が救済されているのを感じていた。これまでのΣの忍耐が報われているのを感じていた。
 だがこれは決して良い結果ではなかった。あたしは水溜まりに沈んだ街を見下ろした。空は晴れ渡っていたが世界は今も水浸しで、決壊したダムが齎す水の流れは収まらず街のあちこちを破壊し続けていた。
 最早すべては手遅れだった。
 Nの両手は血で汚れていた。それは悪魔の所業だった。NはΣを引っ張り出し雨男の力で世界を水の底に沈めてしまった。M先生をどこかに沈めてしまった。それは如何にNが子供でも如何にNが改心しようと変えられない、Nに生涯降りかかるNの罪だった。

 〇

 跪いて泣きじゃくるΣとその傍にいてやっているCを見詰めながら、Nはただ一人取り残されたように立ち尽くしていた。
 あたしはそんなNに声を掛けるかどうか迷った。それだけの心の余裕が自分にあるかを自問した。アタマの中では流されて消えて行ったM先生の姿が繰り返し想起されていて、その安否ばかりが気になって、そしてそのことを事実上引き起こしたNのことが憎らしく思えた。一方ではただ一人、何も言わず表情も変えないがおそらくは打ちひしがれているNのことも気になっていた。
 泣き終えたΣはよろよろと立ち上がった。そして柵に両腕を置いて街の様子を眺め始めた。ここを出るにしろ家に帰るにしろこの洪水が収まってくれないことにはどうにもならない。あたしもそれに習おうと柵に近付いた。
 「あの」
 Cが話しかけて来た。
 「な、なんだよ」
 あたしはCを警戒していた。この少女は間違いなくΣを救ってはいたが、NやIと同様の霊感少女で、何かしらこの世ならざる力を用いて異常な現象を引き起こすことが出来た。魔女のような悪魔のような存在であるIのことはもちろんのこと、友人であるはずのNのことさえ、わたしは既に信用出来なくなっていたのだ。だからCのことも恐ろしかった。
 「わたしはNちゃんの姉で、Cと申します。あなたは?」
 「え、Nの友達のUだけど」
 「Uさん、ポケットの中に何か入ってますよね?」
 「は……? そりゃ、鍵とか小銭入れとか色々……」
 「わたしが言いたいのは……そうですね。あなたの一番大切なもののことです」
 「あ、ああ……」
 「見せていただけませんか?」
 わたしはポケットから松ぼっくりのEを取り出してCに見せた。Cは穏やかな所作でわたしからそっとそれを取り上げる。じっくりとそれを顔に近付け、見聞するCの表情は真剣そのものだ。
 「……やはりI姉さまの」
 「C姉さま。それは……」
 Nは言う。Cは小さく首を横に振るって、わたしの目をじっと見つめながらこう言った。
 「Uさん」
 「な、なんだよ」
 「これからわたしはとても酷いことをあなたにします。ですが、どうか気をしっかり持ってください。大丈夫。びっくりするのは最初の方だけで、すぐに正気に戻りますから」
 言い終えると、Cは両手で松ぼっくりのEを持って、それを真ん中から二つにへし折った。
 「や……やめろ!」
 ぱっくり折れた松ぼっくりのEはC外廊下の水たまりの上に落下した。あたしは思わず床に這い蹲ってEを取り上げた。二つに割れたEは最早Eではなくなっていて、あたしは強い衝撃を受けた。
 「な……何をするんだよ!」
 Eを壊されたショックであたしは思わずCを怒鳴り付けた。二度も友達を殺されてあたしは憤怒の中にあった。哀しくて悔しくてあたしはとても冷静ではいられなかったが、ふと自分の手の中にあるのが単なる砕けた松ぼっくりでしかないことに気が付いた。
 Cは悲し気な、優し気でもある表情でじっとこちらを見守っている。
 あたしは気が付いていた。この手にあるものはただの砕けた松ぼっくりで、Eではない。
 いや最初からEではなかったのだ。Eは奈落へ消えた。Nが白線から突き飛ばして殺してしまったのだ。そしてその代わりとしてIがあたしにこれを与えた。この松ぼっくりをあたしにEだと思い込ませた。どんな呪いを使ったのかあたしはそれにかかっていて、ずっとこの松ぼっくりと友達のEだと思い込んで喜んでいたのだ。
 「……お、お、おまえ。おまえ、N……騙してたのかよ」
 「それは……」
 「何とか言ってみろよ」
 「違うんです」
 「何が違うんだよ!」
 あたしはNの方に掴み掛った。
 「おまえがIに頼んだんだろうが! あたしを騙して自分の都合の良いようにしたんだろうが!」
 「そんなことは……いえ」
 Nは顔を伏せた。顔を伏せるということをするNを見たのは初めてだった。
 「……その通りです」
 「何でだよ! Eを殺して悪いことしたと思ったんだったら、なんでちゃんと謝れないんだよ! おまえらにどんな妙な力があるか知らないけどな! 人の心まで自分の好きなようにしようとする奴を、あたしは友達だなんて思わないぞ!」
 Nは表情こそ変えなかったが、あたしの言葉に確かに衝撃を受けたようだった。しかしあたしは何も遠慮することなくNに向かってまくしたてた。
 「この洪水のことだってそうだ! Σくんがどれだけ傷付いたと思ってるんだ! どれだけの人が死んだと思ってるんだ! M先生だって死んだかもしれない。そういうの全部おまえがやったことなんだぞ! 分かっているのか!」
 Nは黙り込む。都合が悪い時はこいつはいつもそうしている。そうやって何もかもをやり過ごせると思っている。どうにもならなくなったとしても、自らに宿る呪力のような力を使えば、解決できるとタカをくくっている。
 「おまえは自分勝手なんだ! 誰がムカつくとか何が嫌とか、そういうことがある度おかしな力で全部自分の都合の良いようにするんだ! それで色んな人が傷ついて色んな人が死んで行って……そんなのただの悪魔じゃないか」
 Nは何も言わない。
 「消えろよ! どっか行っちまえよ! おまえのことなんて嫌いだ。おまえと一緒にいたらあたしの周りの人が不幸になる! あたしの大事な人が消えていく! いなくなれよ。なあ、おまえはいちゃいけない奴なんだよ!」
 「Uさん」
 落ち着いた声がした。
 声量はないがどうしてか胸にずんと響く声だった。Cはそう言ってあたしとNの間に立つと、そっとNの肩を掴んで自分の方に引き寄せた。
 「この子はわたしが連れて行きます」
 「……C姉さま」
 「安心してください。この子の力があなたに危害を及ぼせないようなところまで、あたしがこの子を遠ざけます。今までNをありがとうございました」
 そう言ってCは頭を下げる。
 そしてNと共に背中を向け、わたしの元から去っていく。
 行き場のないはずのアパートの外廊下から、どこへともなく消えていく二人を見送る時、一度だけNがその場でこちらを振り向いた。
 雨粒に濡れたままのその顔が、泣いているように見えたのが、錯覚かどうかは分からない。
 ただ、いつもの無表情ではなかった。それは確かだったと思う。

 〇

 やがて洪水が収まり、あたしは家に帰ることが出来た。
 両親の抱擁を受け、警察がやって来てM先生の安否を含めた見たことを全て説明し、おおよそのことは信じて貰えないまま、彼らは家から帰って行く。
 母親の作った夕飯を食べ、お風呂に入り、物思いに耽りながらベッドで眠る。
 何日かの学級閉鎖を退屈な気分で過ごした後、やがて学校へ行けるようになる。
 あたしは数日ぶりの教室に行く。
 そこにNの席は、既になかった。
競作企画

2025年11月30日 23時55分09秒 公開
■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
◆作者コメント:シリーズとしては二作目です。
 一作目にあたる編を読んでいても読んでいなくても、まあ読めると思います。
 一章、二章に関してはそれぞれ規格のリハーサルに投稿したことがあります。

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