RE:時を紡ぐ少女

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 静まり返った森の奥。
 ぽっかりと空いた陽の当たる空間に、きれいな丸太小屋が建っている。

 そこにはロボットの少女がひとりで暮らしている。彼女の名前はスイ。外見設定は13歳くらいで、長い髪は色素の薄い金色で、元気さと臆病さが同居した目をしている。

 小窓から差し込む朝日と共に、スイはぱちりと目を覚まして、ベッドから降りて気持ちよさそうに伸びをする。きちんとシーツを整えるのも忘れない。質素で品の良い家具たちも、すべてがしっくりとくるように配置されている。
 散らかったものや汚いものを目の当たりにすると、スイは動作回路がうずいて、居ても立ってもいられなくなるのだ。片づけ以外のことなど、何も考えられなくなってしまう。

 そういうわけで、小屋の中はいつだって快適に保たれていた。
 一日の始まりと共に、スイはお手製のホウキを手に取って、夜のあいだに床に積もった埃を払い始める。サッサッサッという軽い感触が、空間だけでなく気持ちまで整えていく。

(うん、今日も最高の朝だ)
 
 気分が乗ってくると、歌詞の分からない、しかしお気に入りのメロディを口ずさむ。

「らー、ららー、らー」

 かわいらしい音色の、不安定な響き。誰かが聞きつけたら、聴覚に異常を来たす毒キノコでも食ったのかと疑うだろう。しかし幸いなことに森には彼女しかいなかったし、誰にだって不得手なことくらいある。

 調子っぱずれの歌以外にも、彼女にはいくつかおかしな癖があった。食事の準備をするときに、食器を二枚用意してしまうというのもそのひとつ。一枚は、もちろん彼女自身の分(ロボットだってご飯くらい食べる)。しかしもう一枚は――

「……誰の分だ、これ?」

 自分でも首をかしげながら、スイは余分な一枚を棚に戻し、その度にもやもやした気持ちになる。
 実を言うと、彼女は昔のことをあまり覚えていないのだった。あまりに年月が経ちすぎて記憶領域が損傷してしまったのかもしれないし、何かの拍子に上書きされてしまったのかもしれない。

(ま、別にいっか)

 持ち前の切り替えの早さで、スイはそう思う。
 ここでの暮らしは快適そのものだ。

 寝て、起きて、掃除をして。
 食べて、少し休んで、お気に入りのメロディを歌って。

 それ以上に何を望むことがあるだろう。

 そう思うのだが――ふと気を抜くと、自分以外に出入りのない戸口を、ずっと横目で気にしていることに気づいたりする。まるで誰かの帰りでも待ってるかのように。

「……変なの」
 そうつぶやいて、スイは肩をすくめる。

 あまり彼女の変わったところばかりあげつらうのも不公平なので、バランスを取るために付け加えておくと、スイには胸を張って自慢できる特技がある。
 それも、二つもある。

 ひとつは、家事や大工仕事を器用に、しかも完璧にこなせること。この丸太小屋も、備えつけられた家具も、すべて彼女が作ったのだ。もちろん修理だって朝飯前だ。自分がどういう種類のロボットなのか、スイ自身にもよく分かっていないのだが、とにかく力仕事も精密作業もお手の物だった。

 そして、もうひとつ――
 彼女には、未来が視えるのだ。

 少なくともスイ自身はそう思っている。予感なんて生易しいものではない。はっきりとした光景を伴って、これから起きることが手に取るようにわかる。多様なセンサー群による情報収集と、気の遠くなるような桁数を処理する高速演算シミュレーションが、100%に限りなく近い精度での予測を可能にするのだ。
 
 こうして視えた未来の光景を、スイは(ほとんど確実な)未来像と呼んでいる。素敵な未来像が視えたときには、そっと記憶領域にしまい込んで、その出来事が起こるのを心待ちにしたりもする。

 未来像には因果関係が明白なものもあれば、直感的には偶然としか思えないようなものもあって、何時間後に雨が降るとか、今年はいつもより早く春が来るとかは前者、群れからはぐれた渡り鳥が小屋の中に迷い込んでくるとか、いつもとは違う道に珍しくておいしい果物が転がっているとかは後者だ。

 つまるところ、わたしは高性能で、とてもかしこいのだ。
 自分の能力について、スイはそんなふうに理解している。ちなみに自画自賛ではない――遠い昔に、そんなふうに誰かが褒めてくれた気がする。それが誰だったのかは、よく思い出せないけれど。

 ある夜、スイは不思議な夢を見た。

 見知らぬ公園で、見知らぬ女の子が遊んでいる。年はたぶんスイと同じくらい――もし相手が人間だったとして。清潔な木のベンチ、鮮やかな黄色に塗られたシーソー、無茶な扱いにも動じないブランコ。女の子は笑っていた。胸の奥がくすぐったくなるような、優しげな声。そして、聞いたことのない笑い声がもうひとり分――スイ自身の笑い声。

 目を覚ました。心臓に相当する動力炉がばくばく音を立てていた。エネルギー液の循環が1.3倍も増幅されて、体温も2度近く上がっていた。
 
(ついにおかしくなったか――)
 最初スイはそんなふうに思って、怖くなった。

 すべてのものには寿命がある。ロボットだって例外ではない。正規のメンテナンスもずっと受けていないし、本当はいつ壊れたって不思議じゃないのだ。きっと自分でも気づかないうちに、本来の機能が失われていき、やがて完全な停止に至るのだろう。

 そっと息を吸って、吐き出す。そのまましばらくじっとしていると、だんだんと鼓動が治まってきて、冷静な思考が戻ってくる。
 しかし先ほど見た夢の温かみは、いつまでも消えることはなかった。

(なんだったんだろう……)

 そしてひらめきが訪れる。

(わたしには、未来が視える)

 そのことを疑ったことはない。今だってそうだ。
 予感なんて生易しいものではない、あまりにも鮮明な光景。ほとんど確実な未来像。

「会いに行こう」

 知らず知らずのうちに声に出していた。自分で自分にびっくりしてしまう。
 何もかもが整った、この快適な森の生活を抜け出して、どこの誰かも分からない女の子を探しに行く……正気か? 彼女の理性は呆れていた。駄目だよ、やめときなって。
 
 それでも、胸に灯った欲求の温度には抗えなかった。

 スイはバックパックに必要なものを詰めていった。予備のオイル、簡易修理キット、掃除用具、そして――古いデータ端末。そう遠くないところに、小さな街があるのは知っていた。歩いて4日か5日くらい。道に迷うかもしれないし、危ない目にだって遭うかもしれないけれど、きっと大丈夫。

 ほかに忘れ物はないだろうかと見回して、はっと思い出す。いつか特別なときに。そう思って大切に取っておいたものがあるのだ。棚に駆け寄る。背伸びしないと届かない、一番高い引き出しに手を伸ばす。あまりかわいいとはいえない謎のキャラクターがプリントされた、秘蔵のクッキー缶。なぜそんなものがここにあるのかは、よくわからないけれど……。
 とにかく、未来の友達に対する贈りものとして、これ以上ふさわしいものはないだろう。ナイスな思いつきににんまりしながら(これは自画自賛だ)、彼女はクッキー缶をバックパックの奥にしまった。

 出発の朝。スイはふと立ち止まって振り返り、少し離れたところから丸太小屋を眺める。そう遠くないうちに、また戻ってくることになるだろう。そのときはきっと、もう一人じゃない。

「よしっ」

 ひとつ気合いを入れて、外の世界に踏み出していく。足取りはいつになく軽い。はやる気持ちを抑えて、落ち着いた歩調を保とうとする。まだまだ道は長いのだから。
 それに焦らなくたって、未来は確かに、彼女を待っていてくれるはずだ。




 初っ端から困難の連続だった。
 スイはロボットだけれど、あくまでロボットの女の子である。道なき道を走破するキャタピラがついているわけでもなければ、目の前に立ちふさがる倒木をなぎ倒すチェーンソーが生えているわけでもない。

(うぇぇ……また蜘蛛の巣……)

 何度目かのトラップをもろに食らって、しかめっ面で顔をぬぐいながら、スイは古いデータ端末の地図が指し示す街の方角に進み続ける。

 視界の隅っこで、何かががさりと音を立てる。

「ぎゃあああああああああああああああああああああああああ――へびっ!!」

 かわいげのない悲鳴を上げながら、スイは器用とも不器用とも形容しがたいバックステップを踏み、そのまま勢い余って尻もちをつく。

 ――木のツタの切れ端だった。
 
 誰に見られているわけでもないのに、ものすごくバツの悪い気持ちになる。なるべくさりげない調子で立ち上がりながら、言い訳のようにもごもごとつぶやく。

「くそぅ、ひと騒がせな……」

 それからしばらく行くと、突如として視界が拓けた。
 現れたのは、見晴らしの良い渓谷と――ボロボロの吊り橋。ものすごく横着な誰かが、その辺に転がっている木切れとロープを使って間に合わせでこさえたような代物。たぶん、いや絶対に、強度なんて計算していない。ましてや、年月を経て風化している今となっては……。

(え、これ渡るの……?)

 スイは恐れおののく。あたりを見回すが、向こう側に行く手段は他にありそうもない。いったん谷間に降りて、川を泳いで渡るのはどうだろう? いや、たぶんそのほうがもっと危ない。

 それとも……引き返そうか?

「だめだ、そんなの」

 ここまでの道のりが無駄足になってしまうし、なにより彼女のプライドが許さない。

 じっくりと吊り橋を観察する。軽く触れて、そっと揺らしてみる。木材やロープの劣化具合、地面の状態、風の向きと強さ、あらゆる変数を考慮に入れて、未来にぐっと意識を集中する。
 
 ――視えた。
 何事もなく無事に向こう側まで渡り切る自分の姿。

 崩落の危険はない。少なくとも、計算上は。
 これで退路は断たれた。

 目を閉じて、大きく息を吐く。

(大丈夫、わたしの未来像に間違いはない)

 意を決して、一歩踏み出す。ロープがきしむ。

(こわくない)

 一歩、また一歩。平然を装う。下は絶対に見ない。高いところが苦手なロボットなんて、かっこ悪いにもほどがある。

(こわくない、こわくない)

 ゆっくりと、慎重に進んでいく。心なしか風が強くなったように感じる。気のせいだ。計測上は変わっていない。しかし――果たして世界は数式だけで動いているのだろうか。

(こわくない、こわくない、こわくない……)

 念仏のように唱え続けて、ようやくあと少しというところまでたどり着いたとき、足元の板がひときわ大きな悲鳴を上げた。

(ひっ――やっぱ無理! こわいこわいこわいこわいこわいこわいこわい!!)

 焦ったのがまずかったのだろう。まるで狙いすましたかのように、全体重の乗ったスイの右足が、腐りかけた板のど真ん中を正確に踏み抜いた。

 重力。

 悲鳴を上げる間すらなかった。無我夢中で目の前にある何かにしがみつき、必死になって体を引き上げた。気づいたときには、地面にへたり込んで、きしみながら揺れる吊り橋を呆然と眺めていた。

「た、助かった……」

 立ち上がろうとして、スイは全身の震えに気づいた。
 しばらくは動けそうもなかった。




 吊り橋での出来事から3日が経っていた。
 歩いて、歩いて、歩き疲れて。泥水のような眠りに落ちて、起きて、また歩いて。ときどき思い出したように歌を歌って、ひたすら歩き続けて。
 
 幸いなことに、あれから大きな事件はなかった。もちろん相変わらず楽な道のりではなかったし、肉体的には容赦なく消耗しているのだけれど(ついでに物資も容赦なく減っている)精神的に動揺するようなことは少なくなった。たくましくなったとも言う。

 だからこそ考えてしまう。
 本当なら、あんな目に遭うはずではなかったのだ。吊り橋が壊れる可能性は、現実的には無視できるくらいに低かった。

(わたしに視えている未来は、どれくらい確かなものなんだろう)

 人間は物思いにふけると足元が疎かになる。ロボットも同じだ。
 滑りやすい苔に足を取られて、スイはちょっとした斜面を芸術的に滑落する羽目になった。視界が目まぐるしく回る。ごろごろと転がり落ちた先で、木の幹にしたたかに背中を打ちつけて、上下逆さまの体勢のまま、ようやく止まった。

「いたた……なんなのもう!」

 文句を言いながら、がばりと身を起こした視線の先に、何かがいた。途端にスイは凍りつき、こわごわと目を見開いて、そいつと見つめ合った。

 狼――いや、野犬だ。どちらでも大して変わりはない。痩せた肢体。ぼさぼさの毛並み。血に飢えたような(とスイは思う)凶悪な目つき。軽く唸り声を上げている。嘘のように白い牙がのぞいている。

(た、食べられる……っ)

 とっさにそう思った。ロボットにどれだけ可食部があるのか知らないが、とにかくそう思ったのだ。理屈ではない。

 どうしよう。死んだふり――は、犬にも有効だろうか? いや、そもそも熊に対しても、やってはいけないのではなかったか。
 
(そうだ、食べもの!)

 きっとお腹が空いているに違いない。ロボットであるスイはしばらく何も口にしなくても活動できるが、生き物はそうはいかない。今持っている食べものといえば、例のクッキーしかないが……ロボットよりは美味しいはずだ。たぶん。

 野犬を刺激しないように、スイはそっとバックパックに手を伸ばし、奥にしまい込んでいた缶を引っ張り出す。野犬は微動だにせず、視線も外さず、彼女の一挙手一投足を監視している。スイはかすかに震える指で、クッキーを一枚取り出して――投げた。

 スイが息を殺して見守る中、野犬は不思議そうに、放物線を描いて着地したクッキーを見つめた。見知らぬ者の意図を探るように、その視線がクッキーとスイを往復する。そして、そっと匂いを嗅いで……食べた!

(やった!)

 クッキーの味がお気に召したのだろうか。とたんに野犬のまとっていた殺気がなくなった(もしかすると、最初から気のせいだったのかもしれないけれど)。驚くほど警戒心のない足取りで、スイのほうに近づいてくる。おかわりが欲しいのかもしれない。近くでよく見ると、なんだかすっとぼけたような表情をしている。意外にも人懐っこそうな雰囲気がある。

(仲良くなれるかもしれない……)

 そう思ったのもつかの間、いきなり野犬が飛びかかってきた。驚いたスイはクッキー缶を取り落とす。野犬は素早くそれをくわえ上げると、そのままの勢いで木立の中に走り去っていく――
 
 かと思えば、少し離れたところで立ち止まり、よく分からない目つきでじっとスイのことを見つめている。

(え、え……?)

 一拍遅れて、我に返ったスイが叫ぶ。

「待て、このクッキー泥棒!!」

 その声が引き金になったのかもしれない。クッキー泥棒は再び走り出し、あっという間に姿を消してしまった。

 悪いことは続くもので、未来の友達への贈り物を奪われて失意のスイを、地獄のような豪雨が襲った。あらゆるセンサーが塞がれて、数メートル先の状況すら分からない。

 ようやく探し当てた小さな洞窟に避難し、びちゃびちゃの水浸しになった服を絞りながら、スイはどん底の気分を味わう。

 何もかも、うまくいかない。
 やはりこの旅に出たのは間違いだったのかもしれない。

 雨はなかなか止まなかった。

 身震いする。体温調節機能が十分に働いていない。そこまで深刻なエラーではないけれど……やっぱり少しだけまずいかもしれない。連鎖的に運動機能が低下して、動けなくなる可能性もある。あるいは、この洞窟が雨の圧で崩落するとか。
 悪い想像は膨らんでいく。もしそうなったら――誰も助けになんて来てくれない。未来を視るまでもなく、それくらいのことは分かる。

(とにかく休もう。きっと気分も良くなるはず)

 絶え間ない雨音を意識しながら、スイはつかの間の休止状態に入る。まどろみにも近い無意識の境界で、誰かの夢を見たような気がする。




 次の日は嘘のように晴れた。
 地面はぐちゃぐちゃの泥沼と化していて、一歩ごとに足を引っこ抜かなければいけなかったけれど、苦労して半日も進むうちに、待望の乾いた道に辿り着くことができた。どうやら局所的な豪雨だったらしい。

 単純なもので、気持ちの良い日差しを浴びながら歩いていると、自然と気分が上向いてくるのを感じた。しばらくすると、得意のメロディまで出始める始末だった。

「らー、らららー、らー」

 ちょっと前まで、じめじめした洞窟の中でうじうじしていたとは思えないほどの上機嫌。そういう切り替えの早さも、彼女の美点のひとつなのかもしれない。

 やがて木々がまばらになり、古い線路に出くわした。
 
(やった!)
 
 もう地図はいらない。線路があるということは、もちろん人の住んでいる場所に通じているわけで、これを辿っていけば……

(長い道のりだった――いや、思い返してみれば、案外楽しかったかも)

 まだ目的地に辿り着いてもいないのに、スイはそんなことを思う。心残りといえば、そう、あのクッキー缶だ。
 
(あの泥棒犬め……つぎ見かけたら、ただじゃおかないからな)

 今さら思い出してぷんすか怒りながら、スイは歩き続ける。器用なことに、同時にこの先に待ち受けている未来像に胸をおどらせてもいる。

 やがてゆるやかな登り坂に差し掛かった。線路はずっと先の方で、丘の向こう側へと消えている。

(あの向こうに、きっと――)

 急に実感が湧いてくる。あの丘の向こうに、まだ行ったことのない街があり、まだ会ったことのない女の子が待っているのだ。そのことをスイは知っている。

(そういえば……最初はなんて声をかけたら良いんだろう? あの子はわたしのこと知らないわけだし)

 一抹の不安。でも大したことじゃない。

 知らず知らずのうちに早足になり、気づいたときには駆け出していた。線路を辿って、坂道をぐんぐんのぼり、ついに丘の頂上にたどり着く。

 その場所からは、眼下に広がる街を一望することができた。


 スイは高性能なロボットだ。
 だから人間よりもずっと遠くのものを見ることができるし、五感以外にも、周囲の状況を感知する方法を七通りも心得ている。

 だから、一瞬で分かった。分かってしまった。

 ――あの街には、誰もいない。




 回れ右して引き返すという選択肢もあったかもしれない。
 けれども、実質そんな選択肢はないに等しかった。

 どんなつもりで丘を下り、空っぽの街に足を踏み入れたのか、スイは思い出すことができない。気づいたときには、灰色の景色の中を亡霊のようにさまよっていた。

 空が暗い。日が沈もうとしていた。

 アスファルトはひび割れて、ところどころから雑草が突き出している。色あせて傾いた看板、あたりに散らばったガラスの破片。打ち捨てられた自販機がうらめしげにうずくまっている。光を失った信号機がふてくされたように傾いている。
 崩れかけた建物の連なりは、あらゆる色彩を吸い込んでしまうかのよう。――耳が痛くなるような静寂。

 どうしてこんなに悲しい気持ちになるのか、自分でも分からない。
 初めて来た場所のはずなのに。未来像が外れたことが、そんなにショックだったのか。

(ちがう……。たぶん、そうじゃない)

 確かめなければ、という思いに駆られる一方で、確かめちゃいけない、と彼女の理性は警告する。
 
 知らないほうが良いこともある。本当は分かっているはずだ。
 その証拠に、動力炉が暴走しかけて、胸が苦しいほどにどくどくと脈打っている。エネルギー液のめぐりが良すぎて、必要以上にセンサーが鋭敏になり、雪崩のように流れ込んでくるデータにめまいと吐き気を催しそうになる。

 それでも、いまさら後戻りはできなかった。

 街の中心にたどり着く。あの公園だ。まだ会ったことのない女の子と、これから会うはずだった場所。しかし――「未来」で視た光景とは似ても似つかない。瓦礫が散乱し、遊具は朽ち果て、まるで何かの墓場のよう。でも、確かに見覚えがある。いや、見覚えがあるどころではない――

(わたしはこの場所に、来たことがある……?)

 思考にノイズが走る。現実がゆがむ。聞こえるはずのない声が聞こえる。

『スイちゃんは、すごいんだね!』

 そのとき、またあの光景が脳裏にひらめく。見覚えのある女の子が遊んでいる。年はたぶんスイと同じくらい――もし相手が人間だったとして。清潔な木のベンチ、鮮やかな黄色に塗られたシーソー、無茶な扱いにも動じないブランコ。女の子は笑っていた。胸の奥がくすぐったくなるような、優しげな声――

 それはこれから確かに起こるはずの、未来の出来事。そう思っていた。でも違う。正体不明の、それでいて明らかな違和感。いつもの未来像じゃない。だってこれは――何かが決定的に間違っている。

 これ以上は駄目だ。考えるな。考えるな。
 
 そう思っているのに、自分でも何がしたいのか分からないまま、致命的な手がかりを求めて記憶領域を探っている。

 恐ろしい答え合わせが始まる。

 ヘッダーが破損している。ノイズまみれの情報の中に、タイムスタンプの痕跡が見つかる。でも――未来像にタイムスタンプなんてない。だってそれは、まだ起こっていない出来事だから。

 もう駄目だ。気づいてしまった。
 
 どうせなら早く済ませてしまったほうがいい。
 未確定な絶望ほど、耐えがたいものはない。

 データを解析し、復元した。
 断片的ではあったが、少なくともタイムスタンプの年は読み取れた。

 97年前。

「わたしは――」

 この場所に来たことがある。この街に住んでいたことがある。あの女の子を知っている。優しげな声。握った手の体温。いつも公園で一緒に遊んでいた。たくさん名前を呼んで、たくさん褒めてくれた。お気に入りの歌を教えてもらった。いつだったか、プレゼントをもらったこともある。あまりかわいいとはいえない謎のキャラクターがプリントされた、クッキー缶。あれは確か――

 思い出せない。あの子の顔も、名前も。いったいどこに行ってしまったんだろう。

 ――わたしはいったい、どこにいるんだろう。


[DBG  18:03:39.972] MEMSCAN: begin scope=/memory/rec/*
[DBG  18:03:39.988] RECOVERY: repairing header file=rec/park-00013.bin  CRC=MISMATCH  attempt=1
[OK   18:03:40.071] RECOVERY: header fixed  ts=-97y  format=v2  src=vision/ambient
[WARN 18:03:40.089] PREDICTOR: causal_violation  reason=timestamp on future buffer
[INFO 18:03:40.113] AUDIT: voiceprint match id=GIRL-******  confidence=0.823
[WARN 18:03:40.154] INTEGRITY: hash drift Δ=3.1e-3  file=rec/park-*.bin
[DBG  18:03:40.197] VISION: overlay mismatch  ref=scene/park  H=1280 W=1920  ΔSSIM=0.41
[NOTE 18:03:40.233] SOMA: phantom tactile echo (hand temp 34.1°C)  origin=memetic


 思考プロセスが暴走する。地獄のようなエラーの奔流が、他のプロセスにまで制御不能をまき散らす。体中のあらゆる箇所に異常な熱が溜まりはじめ、冷却機構がついに根を上げる。


[LOG 18:03:41.002] SENSOR.BUS: latency=648ms (threshold=80ms) TIMEOUT_WARN
[LOG 18:03:41.037] REACTOR: flux=+21.3%/s COOLANT_VALVE=92% STATUS=UNSTABLE
[WARN 18:03:41.114] VISION: frame desync Δt=127ms resync scheduled
[ERR 18:03:41.161] MEM.ECC: uncorrectable error at 0x7F3A:0x19C2 SYNDROME=0x5A
[ERR 18:03:41.199] I/O: lidar-ch0 overrun dropped=256pkts dma=stalled
[ALRT 18:03:41.243] THERMAL: junction=106.9°C LIMIT=105.0°C THROTTLING
[KERN 18:03:41.288] BUG: soft lockup - CPU#0 stuck for 12s! task=predictor@future
[CRIT 18:03:41.331] OOM-KILLER: kill proc predictor@future pid=2413 score=981
[STACK 18:03:41.333] backtrace: 0x4012ae ← 0x7f2a10 ← 0x7f1d3c ← 0x40021b
[CRIT 18:03:41.372] INTEGRITY: hash mismatch /memory/rec/park-00013.bin QUARANTINE
[FAIL 18:03:41.409] BUS: sensor-mux reset failed (attempt=3) errno=ETIMEDOUT
[ALRT 18:03:41.452] WATCHDOG: pre-timeout 1.2s reason=integrity_violation
[ERR 18:03:41.497] PROCESSOR: FP selftest FAILED sha256=badcef… expected=42aa…
[NOIS 18:03:41.539] AUDIO: input saturating peak=0dBFS AGC=locked


 致命的なエラー
 致命的なエラー

 それでも彼女は高性能なロボットだから、非常時に備えた安全装置がちゃんと働くようにできている。
 システムの自己防衛。――強制シャットダウン。


[SYS 18:03:42.001] SAFETY: SAFE_MODE engaged mask=SENSOR|MOTOR|NET
[SAVE 18:03:42.019] SNAPSHOT: writing crashdump /crash/2025-08-24T18-03-42.dmp size=18.2MB
[PMIC 18:03:42.071] POWER: rail MTR → OFF decay=4ms
[PMIC 18:03:42.093] POWER: rail SNS → OFF decay=7ms
[FAN 18:03:42.118] COOLING: PWM=100% → 0% reason=shutdown
[FS 18:03:42.161] JOURNAL: sync… ok
[SYS 18:03:42.204] EMERGENCY_SHUTDOWN: initiating cause=THERMAL+INTEGRITY
[WDG 18:03:42.241] WATCHDOG: armed grace=300ms
[PMIC 18:03:42.289] POWER: rail CPU → STANDBY Vcore=0.48V
[SYS 18:03:42.300] GOODBYE: `sui.core` state persisted


 意識が途切れ、膝から地面に崩れ落ちる。
 最後の瞬間、誰かに見られているような気がした。

 暗転。




 地面の冷たさに目を覚ました。
 あたりはすっかり暗くなっていて、投げやりにばら撒いたような星空が広がっている。

 仰向けになったまま、遥かな星々の声なき声に耳を傾けた。
 
 息をするたびに、冷たい夜気が胸にしみ込んでいく。心の温度まで下がっていくような気がする。でも今は、それがありがたかった。ようやく落ち着いた頭で、スイはごく単純な真実を噛みしめる。
 
 自分が輝かしい未来像だと思い込んでいたものは、どうやら古ぼけた過去の記憶だったらしい。高性能が聞いて呆れる。未来の過去の区別もつかないなんて。

 いまいましいのは、この期に及んで、この街で過ごした日々も、かつての友達の顔も名前も、ほとんど思い出せないことだった。失われたものは戻ってこない。時間は決して巻き戻らない。

 97年。

 きっとあの女の子は、もうどこにもいない。
 たくさん名前を呼んでくれて、たくさん褒めてくれて、お気に入りの歌を教えてくれて、素敵なクッキー缶までプレゼントしてくれた女の子。

 もう会えない。

(わたしに残ってるのは、不確かな未来と、過去の断片だけ……)

 過去をすべて覚えていられるわけじゃない。記憶領域の保存にも限界がある。古いデータは劣化し、そうでなくても何かの拍子に上書きされてしまう。大切な日々、大切な人の思い出ですら。

 そして――未来を自由に選べるわけでもない。どうにもならないことは、どうにもならない。しかもたいていの場合、そのことに気づくのは、とっくに手遅れになったあとなのだ。
 
 身じろぎすると、関節がきしむ音がした。
 まるで世界が壊れる音みたいに聞こえた。

(もうぜんぶ、どうでもいいや)

 やはり旅に出たのは間違いだったのだ。

 だから忠告したのに、と彼女の理性が言った。そうだったね、とスイは思った。
 あの森の生活に満足していれば、こんなことにはならなかったのだ。快適な暮らしを、あたたかな幻想を、守り続けることができた。

 もう戻れない。

(つぎに目を覚ましたら……。いや、もう朝なんて来なければいいのに……)

 そんなあきらめと共に、スイは再び眠りにつく。




 もちろんそんなことはなかった。
 ちっぽけなロボットの都合にお構いなく、何事もなかったかのように太陽は昇り、次の日はやってくる。

 廃墟の公園で目覚めたスイは、思わず声に出してつぶやく。

「最悪の朝だ」

 体を引き起こしただけで、あちこちの関節がぎしぎしと傷んだ。さんざん錯乱して無駄遣いしたせいだろう、バッテリー残量も心許ない。

(これからどうしよう……)

 ため息をつきながら、スイは周囲の様子をぼんやりと眺めた。
 
 朝日に照らし出された廃墟の公園は、昨日よりもなおのことみすぼらしく見えた。割れたタイル、錆びた鉄棒、傾いたすべり台。ブランコは片方の鎖が切れて、地面スレスレのところでぶら下がっている。そこかしこに瓦礫やゴミが散乱している。

 汚い、とスイは思った。

 動作回路のどこかで、カチッとスイッチが入る音がした。

 汚い、と今度は声に出して言った。
 
 ――こんなに汚いのは、許せない。

 そこからは、考えるよりも先に体が動き始めた。

 まずは瓦礫の撤去だ。重い。とてつもなく重い。スイはロボットだけれど、あくまでロボットの女の子である。油圧式ショベルではない。全身のアクチュエーターに過剰な負荷がかかり、主人の無茶ぶりに対して抗議の声を上げる。無視。気合いだ気合、根性見せろ。

 あちこちに散らばったゴミも拾い集める。壊れた時計、サンダルの片方、穴の空いたバケツ、ビニール袋、水鉄砲、手持ち花火の残骸――それから大量の錆びた空き缶。ポイ捨てなんて許せない、とスイは思う。死刑だ死刑。裁判も必要ない。

 ひと通りの瓦礫やゴミを運び出し終えると、それだけで公園は見違えたように広々として見えた。スイは入り口のところに立って、満足げにその様子を眺める。かと思うと、ほとんど休む間もなく、壊れた遊具の修理に取りかかる。

 街のどこかから工具を見繕ってきて、切れたブランコの鎖を繋ぎ直す作業から始めた。ハンマーで錆びたボルトを叩く。トン、カン、トン、カンという音が響く。腕を通じて心地よい振動が全身に伝わる。
 
(そうだ、この感触)

 ハンマーの重み、叩いたときの反動、ボルトが少しずつ緩む手応え。すべてが「今」だ。過去でも未来でもない、この瞬間の感覚。

 すべり台の傾きを直す。ジャッキがないので、棒きれをてこにする。
 
「うおおおおおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……………………!!」

 いまいち迫力に欠ける雄叫びを上げながら、全身全霊をかけて持ち上げる。飛んだり跳ねたりして、さんざん奮闘した挙句、ようやく水平(完全ではないけれど、納得のいく誤差レベル)になる。達成感が胸に広がる。

 レンガの隙間に生えた雑草を抜いていく。一本、また一本。根が深くて、なかなか抜けない。でも、根気よく続ける。土の感触、草の匂い、太陽の温かさ。

 むきになっている? そのとおり。
 やけくそになっている? そうかもしれない。
 でも一心不乱に立ち働くスイの口元には、確かな笑みが浮かんでいる。

 木の枝を組み合わせて作った即席のホウキで、公園の隅から隅まで掃いてきれいにする。サッサッサッという軽い感触が、空間だけでなく気持ちまで整えていく。

 そして、ついに調子っぱずれの歌が復活する。
 相変わらず歌詞は思い出せないけれど。それでもそのメロディは、確かに彼女の中に息づいている。

「らー、ららー、らららー、らー」

 掃除を続ける。隅から隅まで、丁寧に。積年の埃を拭い取り、赤錆をこそげ落とし、ピカピカに磨き上げる。

 まるで、かつてここにあった光景を再現するかのように。いや、違う――再現ではない。これは新しい始まりなのだ。

 たとえ未来に手が届かなくても、過去への手がかりを見失っても。小さな日々の積み重ねこそが、今ここに生きているという実感を与えてくれる。

 仕事がひと段落するころには、ほとんど日が暮れかけていた。

 ブランコに乗って軽く揺られながら、これからどうしようかと考える。

 森の生活に戻るのも悪くないだろう。あそこは安全で、快適で、しかも――予測可能だ。

(……おや?)

 公園の入り口に、なんだか見覚えのある姿。

「あっ! クッキー泥棒!!」

 思わず叫んで立ち上がったスイを、クッキー泥棒は不思議そうに眺める。それから、野生らしからぬ警戒心のなさで距離を詰めてくる。ちっぽけなロボットの少女など取るに足らないと思っているのだろうか。

 しかし、スイのほうだって、野犬ごときにビビっていたかつてのスイではない。即座に身構えて臨戦態勢になる。

「おぉ!? やんのかこらぁ!?」

 声だけは勇ましい。しかし完全に腰が引けている。

 そんな彼女を意にも介さず、野犬はすぐ目の前までやって来る。そこでようやく気づく――野犬の口に、見覚えのある缶がくわえられている。
 
 目をしばたきながら棒立ちするスイの足元に、野犬はクッキー缶を置くと、鼻先でそっと押し出した。一歩下がって、お座りをする。スイの反応をうかがうかのように、じっと見つめる。

 スイは恐る恐る缶を手に取って、開けた。

 中身は減っていない。一枚も食べていない。

 スイは初めて出会ったときの、クッキー泥棒(?)の様子を思い出す。

(もしかして、わたしと遊びたかっただけなのかな……)

 野犬の尻尾が、ゆっくりと左右に揺れている。

 スイは笑い出す。心の底から。

「よしよし、愛いやつめ……今日からわたしの友達にしてやる、光栄に思え!」

 野犬の頭を撫でる。意外と毛が柔らかい。

(この子のこと、なんて呼ぼうか)

「クッキー泥棒――じゃなくて。クッキー……クッキー缶……そうだ、カン!」

 野犬――もといカンは、すっとぼけたような表情でスイを見返す。気に入らなかったのだろうか……いや、そんなはずはない。尻尾も振っていることだし、喜んでいるということにしておく。

 スイはクッキーを二枚取り出す。一枚をカンにあげ、もう一枚を自分で食べる。甘くて、少し湿気ているが、美味しい。泣きたくなるような、なんだか懐かしい味がする。

 ふと、カンが公園の一点を意識していることに気づく。砂場の端、大きな木の下。何もないはずのその場所を、カンはずっと横目で気にしている。その仕草には、スイ自身にも心当たりがあった。
 
 ――まるで誰かの帰りでも待っているかのように。

 きっと、カンにも思い出があるのだろう。この公園で、誰かと遊んだ記憶が。

 それはとうの昔に過ぎ去って、もう二度と手の届かないものかもしれない。
 
 でも、今、ここには新たな関係がある。

 スイは立ち上がる。クッキー缶はバックパックの奥に大切にしまいこむ。まだ何枚か残っている。また誰かと分け合うことができるだろう。

 公園を出る前に、もう一度振り返る。いつか見たのとそっくりな光景。でも少しだけ違う、新しい光景。きれいに直された遊具が、夕日に輝いている。

 そして、一人と一匹は丘を登り始める。

「らー、らららー、らー、らー」

 何かに抗議するように、カンが軽く吠える。さっき食ったクッキーに聴覚に異常を来たすクスリでも入ってたんじゃないか……そういう顔をしている。スイは口をへの字に曲げて、しかしすぐに笑い出す。

 頂上から無人の街を見下ろす。崩れかけた建物、ひび割れたアスファルト、止まった時間。あそこにはかつて、日々の暮らしがあった。大人たちが働き、子供たちが遊び、喧嘩をしたり、歌ったり、そんな繰り返しの毎日。
 
 すべてはどこかに消えてしまった。

 世界は不確かで、記憶は薄れていく。誰かが生きた痕跡も、大切な思い出も、あとかたもなく拭い去られていく。

 それでも。

 そのすべてが無駄だなんて、絶対に思わない。

「さあ、行こうか」

 カンに声をかけて、スイは歩き始める。

 
 寝て、起きて、掃除をして。

 食べて、少し休んで、お気に入りのメロディを歌って。

 歩いて、転んで、立ち上がって、また歩き出して。

 たとえ未来に手が届かなくても、過去への手がかりを見失っても、わたしたちは今を生きている。

 何度だって、わたしたちは時を紡いでいく。
競作企画

2025年08月24日 23時52分07秒 公開
■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
わたしには、未来が視える。
なぜなら高性能で、とてもかしこいからだ。

◆作者コメント:
森の中にひとりで暮らすロボットの少女が、まだ見ぬ友達と出会うために旅に出る話です。
なんとか間に合いました。感想をもらえると嬉しいです。

2025年09月01日 23時36分50秒
*** 点
2025年08月31日 17時31分48秒
*** 点
2025年08月26日 16時11分27秒
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合計 3人 *** 点

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