翼あるいのちに口づけを

Rev.03 枚数: 12 枚( 4,710 文字)

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 西園寺宗一郎は、家が、祖父が、そして父親が何よりも嫌いだった。
 西園寺家。
 古くから続く名家として地元では尊敬を集める存在だったが、その家族仲は冷えきっていた。
 創業者として一定の成功を収めた祖父は、自分のやり方がうまくなぞれない父を常になじった。父は西園寺という家を花開かせるための資質に、残念ながら欠けていた。
 父は時に酒を飲んでは暴れた。その矛先は妻に、そして宗一郎に向かった。宗一郎はまだ幼く、父親が何に苦しんでいるのか理解できていなかった。
 家の名前という重圧に耐えながら、家を花開かせるためにもがき、しかし自分の資質不足ゆえに結果を掴めない。そのことに父は苦しんでいたが、幼い宗一郎にとってはただ恐怖の対象でしかなかった。
 その一方で、宗一郎は才能に恵まれていた。学校の成績は常にトップ。物覚えが非常に良く頭の回転が早かった。彼が十八歳になる頃には、祖父母の期待は父ではなく宗一郎に向けられていた。この子なら西園寺を花開かせられる、その重圧も宗一郎は背負い始めた。
 いつの頃からか、父親は宗一郎のことを「いない」ものと認識していた。同じ空間で生活していても、彼が宗一郎の話題に入ることはおろか、彼と会話も、目を合わせることも、まして酔って暴力をふるうことさえなくなった。宗一郎の母は彼が中学生の頃に家を出て、そのまま戻らなかった。その行方は今も分からない。
 何よりも嫌いだったはずの父の態度に、宗一郎はなぜか憐憫を感じて、その事に苛立った。父は宗一郎が何を呼び掛けても応じず、掴みかかっても抵抗しなかった。何もなかったかのように、去っていく。
 祖父は言った。あんな男のことはもういい、お前の方が大事なんだと。
 それが、宗一郎の限界を爆発させた。彼が二十の時だった。彼は家を飛び出し、六畳のボロアパートに身を寄せた。物件探しには困らなかったが保証人の欄が埋まらない。それが不動産屋で渋られる原因になり、いわくつきの物件しか借りることができなかったのだ。
 彼は金がなかった。西園寺という家に生まれて金を意識したことがなかった。だが金がないからといって、あの冷えきった家から無心するつもりはなかった。
 日雇いの仕事で食いつなぎ、短期のアルバイトに手を出した。持ち前の物覚えの良さで彼は仕事を覚えるのには困らなかった。だが、いつまでこんな暮らしをしなければいけないのかと、彼は焦っていた。

 ある日のことだった。バイト帰りに通りかかった公園で、宗一郎は一人の女性を見かけた。年は自分と同じか少し下といったところ。動物にエサをやらないで、という看板の下で、彼女はパンの欠片をちぎって犬や猫、鳥などに与えていた。
 その姿がどこか印象的に思えて。
 宗一郎は、彼女に話しかけていた。
「おい」
「……はい?」
「動物にエサをやるな、と書いてあるはずだが」
「そうですね」
「なら、なぜこんなことをする?」
「だってこの子達、お腹をすかせてるんですよ。だから集まってくる。糞をしたら私が掃除すれば誰も困らないでしょう?」
 女性の論理に、宗一郎はしばし唸った。
「なぜそこまでしてこの動物の面倒を見たがる? お前とは関わりがないはずだろう?」
「はい、飼い主とかではないですが……でも、関わりがどうとか関係なく、生きてるじゃないですか」
 女性はどこか儚げに笑った。
「私がパンをあげて、それでこの子達が少しでも元気になったら私も嬉しいんです」
「……変わってるな、お前」
「そうですか?」
 女性は一通りパンをあげ終えると、ゆっくりと立ち上がった。
「私、瑞希っていいます。そこのパン屋さんで働いてるので、良かったら一度寄ってください。あ、でもここでパンの欠片をあげてるのは内緒にしてくださいね? お店の人に怒られちゃうので」
 彼女は茶目っ気たっぷりに笑ってみせる。
 それが宗一郎と瑞希の、出会いだった。

 その後、彼が公園を訪れる度、瑞希がパンの欠片を与えている場面に出くわした。他の子供や親も周りで遊んでいたが、特に瑞希の行為をとがめる雰囲気はなかった。むしろ糞も含めて公園を綺麗に整えてくれるので、子供が安全に遊べると喜ばれていた。
 ――だが、同じ時間は長く続かなかった。
 何度目かの宗一郎との逢瀬で、瑞希は公園のベンチに座って子供たちが遊ぶ様子をただ見つめていた。
 彼女の足元には何匹かの動物が集まっていたが、彼女がいつものようにパンの欠片をあげることはなかった。
 宗一郎は何も言わず、瑞希から人一人分離れたベンチに腰を下ろした。そして、彼女の白いバッグからパンの欠片が入った袋が覗いていることに気付いた。
「……今日は、やらないのか」
 宗一郎の問いかけに、瑞希は動物にエサをやらないで、という看板を指さして微笑んでみせた。
「あれを出してる人に怒られちゃいました。お店に迷惑かけたくないですし……なので、しばらくお休みです」
 結果的には宗一郎の忠告が正しかったことになる。しかし、まるで自分の論理が瑞希のささやかな聖域を奪ったような気がして、彼は喜ぶことができなかった。
 瑞希は前を向いたまま、横顔にかかった髪を後ろにゆっくりと手でかき上げる。
「この公園に来るのも今日が最後かもしれません。だから……少し私の話をさせてください」
 瑞希の足元に集まっていた動物たちは、普段と違う彼女の様子を察したのか少しずつ彼女から離れていく。
 そして辺りに瑞希を慕う動物がいなくなった頃、彼女は小さく口を開いた。
「私、親がいないんです」
 突発的先天性の持病を抱えながら児童養護施設で育ったが、幼い頃は病院で過ごす時間も長かったと、彼女は語った。
「そんなに深刻な病気じゃないんですけど、心臓に負担がかかることはあまりできなくて……今の医学だと根本的な完治は難しいみたいで。なので、運動はからきしですが……色々なものを頂いて、なんとかここまで生きてこられました」
 宗一郎は、彼女の儚さを、そして彼女が見ず知らずの動物に愛情深く接する理由を悟った。
 彼女は幼い頃から一人だった。それだけではなく持病とも闘ってきた。おそらく、自らの経験を通じて長い間、命というものに向き合ってきたのだろうと考えた。
「宗一郎さんは、どんな生活をされてるんですか?」
 彼は、自分が西園寺だとは名乗っていなかった。
「ボロアパートに住みながらアルバイト生活だ。ろくなもんじゃない」
「でも、頑張ってるんですね」
「気休めはやめてくれ」
「気休めなんかじゃないです。だって、ちゃんと生活しようとしてるじゃないですか。宗一郎さん、私とは違ってすごく頭いいですし」
「お前だってパン屋で働いてるんだから、同じだろ」
「ううん、私要領よくないから、仕事覚えるの苦手で。パン屋さんの仕事もちゃんとできるようになるまで二年かかっちゃいました。それも、品だしとか陳列とか、ポップ作ったりってだけなのに」
 彼女はパンの欠片が入ったバッグを手に取ると、宗一郎にとんでもない提案をした。
「私、今から宗一郎さんの家に行ってみたいです」
「……馬鹿、年頃の女が気安くそんなことを口にするな」
「駄目、ですか?」
 宗一郎はあのアパートに誰も呼んだことがなかった。何もないし、何より西園寺の跡取りがこんなボロアパートに住んでるなどと、もし誰かに知られたらと思うと恥ずかしくてできなかった。
 しかし、瑞希の頼みを宗一郎はなぜか断りきれなかった。

「わ、コンパクトですね」
「狭いだけだ」
「でも、ちゃんと整頓されてて偉いです」
 瑞希は宗一郎の部屋を興味深そうに眺めた後、ぽんと手を打った。
「そうだ。せっかくなので、一緒に余ったパンを食べませんか?」
「なにがせっかくで、なんだ」
「うちのパン、端っこでも美味しいんですよ。私は焼いてないですけど……」
 渋々、宗一郎は瑞希が手にしたパンを口にする。
「……美味い」
 あの冷えきった家で出てきたどんな高級料理よりも、宗一郎は瑞希のパンを美味いと感じた。宗一郎は瑞希から差し出されるまま次々とパンを食べていた。
「美味しく食べてもらって嬉しいです」
 動物たちに分け与える時と同じ眼差しで瑞希はそれを見守っていた。パンはあっという間に尽きた。
「……ごちそうさま」
「お粗末様でした」
 結局、彼女のペースに乗せられて宗一郎はお腹を満たしていた。
「パンも食べ終わったし、今日はいいだろう。お前も帰って明日に備える必要があるだろうから、もう出るんだ」
 宗一郎は立ち上がり、彼女を見送ろうとする。
「嫌です」
「……おい。どういう意味だそれは」
 瑞希は、何かを滾らせたような目で宗一郎を見つめた。
「宗一郎さんは……何の気もない男性の部屋に、私が上がると思っているんですか」
「……!」
 その言葉がどういう意味なのか、色事に疎い宗一郎でも理解できた。
「私は、あなたの……こ、と……」
 そこで、彼女の様子がおかしいことに宗一郎は気付く。顔は青ざめ、呼吸が乱れ始めていた。
「おい、どうした!」
「……やだな……こんな、とき、に……」
 すぐさま意識を失った彼女を抱き抱えながら、宗一郎は即座に救急へ通報をかけた。

「あはは……持病の発作で、時々こうなっちゃうんです」
 瑞希は病院のベッドで、なんでもないかのように宗一郎へ笑った。
「最近は安定してたんですけど……あれですね、きっと気持ちが昂っちゃったんでしょうね」
 冗談めかして笑う彼女に、宗一郎は言葉が出なかった。
 自分を好いてくれた女性が、目の前で苦しんでいる。それに対して何もできない自らの無力感が、たまらなく悔しかった。西園寺の跡取りなどという肩書きは、ここでは何の意味も持たなかった。
「あまり心配しすぎないでください。少し寝たら治ります。いつものことですから」
 あくまで明るく振る舞おうとする彼女に、宗一郎は歯痒い気持ちでいっぱいになって。
 彼女のために自分が出来ることは何なのか、生まれて初めて必死に考えた。
 そして、宗一郎は一つの大きな決心をする。
「瑞希」
「……嬉しい。初めて名前で呼んでくれましたね」
「瑞希。俺は、会社を作ろうと思う」
 彼の突然の言葉に、瑞希は首をかしげた。
「瑞希の病気の治療法がないなら、作ればいい。俺は製薬会社を興して、その治療法を研究できる環境を作り上げようと思う」
 宗一郎の言葉にしばらく唖然としていた彼女は……微笑んだまま、静かに一筋の涙をこぼして言った。
「宗一郎さん、本気なんですか?」
「ああ、本気だ」
 それが、家の名前を捨てて一からスタートする、彼にとっての新たな目標だった。
「すごく時間がかかりますよ? 一生かけても見つからないかもしれないのに」
「それでも、やるんだ」
 揺るぎない宗一郎の顔を見て、瑞希は彼が本気なのだと理解した。そして重大な一つの事実に気が付く。
「宗一郎さん。それって」
 瑞希は涙を拭いながら、いつものように冗談めかしてみせようとした。
「……プロポーズしてるのと、おんなじです……」
 だが彼女は顔を真っ赤にして――初めて素の表情を晒してしまう。
 瑞希の言葉に、宗一郎も自分の言葉の指すところに気が付くと、気恥ずかしさで瑞希の顔をまともに見られなくなってしまった。

 宗一郎はこの後、瑞希との誓い通り一代で巨大製薬グループを興して西園寺家の成功者となる。
 しかし、彼はあの冷えきった家に戻る気はなかった。郊外に自分の邸宅を造り、そこに瑞希と二人で暮らし始めることを選んだ。
 彼女が心穏やかに過ごせるよう、そこには色とりどりの花々が咲き誇る広大な庭園を設えて。
 誰よりも生命を尊ぶ彼女へ、溢れんばかりの「命」という贈り物を捧げた。


 了
競作企画

2025年07月19日 09時32分03秒 公開
■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:
全てを与えようとした女に、全てを捨てた男は不器用なプロポーズで応えた。
◆作者コメント:
まずは競作企画リハーサルの場をご用意いただいた主催者のミチル様に感謝いたします。
タイトルの元ネタはウィリアム・ブレイクの詩です。

今年のGWくらいまで長らく物書き界隈を離れていた出戻り組です。
実は最近書いた長編の1エピソードほぼそのままです。
リハーサルの賑やかしになりましたら幸いです。

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