出られない館 |
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平成十六年十月某日 〇 流されている。 凄まじい水の流れだ。僕は体中あちこち打ち付けてボロボロになっている。体のどこが痛いのか、どうなっているのか自分でも把握しきれない。苦痛の園であるこの体から出て行きたくてたまらない。 ここはどこだろう? 僕はどうして流されているんだろう? 最初の内は、何か水流を流されている理由らしきものも理解していたと思う。腕の中にはその目的らしきものが抱かれていて、それを離すまいと一生懸命に力を込めていて、何にぶつかるとどこに流されようと、その気持ちだけは揺らぐことはなかった。そのはずなのに。 気が付けば僕は腕の中のものを失って、目的を失って、どころか自分自身も失ってしまった。 やがて流され終えたのか、僕は何か瓦礫の山の中に転がっている。そこには僕と同じように流されて来た人達が死んだり死んでなかったりしながら横たわっていて、僕はそうした人達がひしめく中に埋没し、じっとしている。 両足の上と肩の下にそれぞれ、人がいる。身動ぎとか息遣いを感じるのが両足の上の奴で、感じないのが下の奴だ。前者は生きているが後者は多分死んでいる。なら、僕はどうなのだろうか? 分からない。 こうして意識があってものを考えているなら生きていることになりそうだけど、だけれど体を動かせないし動かし方も分からないし、何より自分自身が良く分からない。辛うじて残っているこの思考も少しずつほどけて消えていきそうになっているのが分かる。 僕は既に死んでいて召されようとしているか、或いは死に向かっている真っ最中だ。 思いの他それは穏やかな感覚で、でも死ぬのは怖いはずで、その怖いということが良く分からなくなっている。良く分からないまま死にゆくんだろうという予感があって、それが良いことなのか悪いことなのかも分からないし、分からないまま僕は少しずつ死に向かおうとしていたその時に。 誰かの腕が僕の肩に回された。 「ああっ。やっと見つけたのだわ。愛しい人。世界で一番大切な人」 声がする。 女性の声だ。綺麗な声だと思った。大人の女性の落ち着いた声でありながら、どんな少女よりも無邪気で瑞々しくもある。声は涙に濡れているが歓喜に弾んでもいて、僕はその腕に引きずられながらどうにか目を開けようとする。 「しかもまだ生きています。死にゆく途中ですがそれでも死んではいません。どんな医術でも治せない程損壊してますが、それでも死んではいないのです。ならばわたしならどうとでもできます。早速お家に連れて行きましょう。そして二度と離してはいけないのだわ」 僕は力一杯目を開ける。 女性の顔がある。綺麗な人だ。顔一杯に開かれたような大きな目、小ぶりだが高い鼻、上品だが子供のように無垢でもある透明な笑顔。僕はこの人を知っている。 「帰りましょう」 そう言って女性は僕の身体を地上から浮かせた。 信じがたいことに、僕は女性の目の前で浮遊し始めた。 「わたし達の家に」 女性の足元に大きな暗闇が現れて、僕と女性はそこに飲み込まれるようにして、消える。 向かう先はこの世かあの世か、天国か地獄か、何にしたって碌な場所ではなさそうだ。 〇 次に気が付いた時はベッドの上だった。 広い部屋だった。十畳か十二畳はある。隅に大きな、二人用にしても広いと言えそうなベッドがあって、僕はその上にいた。天井は木で出来ていて不規則な模様が僕を見下ろしている。人の顔や目に見えるものを気が付けば探してしまいそうだった。 僕はベッドを降りる。広々とした部屋だがそれほどものは多くない。家具以外のものは机の上にある新品のメモ帳と筆記用具くらいのものだ。机は椅子の付いた木製のデスクであちこちにいくつか引き出しが備わっている。部屋の中央には二人掛けだろう茶色のソファがあって、向かいには大きなテレビが設置されていた。箪笥もあったが中身は空で、探しては見たが時計もない。 人の住んでいる部屋には見えない。 僕の部屋ではないだろう。僕の部屋だとしても誰かが僕の為にしつらえたばかりで、僕がここで生活していたという事実はなさそうだ。 窓があったので覗いてみる。庭が見えた。かなり広い。その庭の上にもう一つ一軒家が、それもかなり大きな家が建てられそうな程立派な庭だ。中央には池があって鯉が複数泳いでいて、隅には犬小屋のようなものもある。全体は黒い石の壁に覆われていた。 相当な豪邸であるようだ。 だがここはどこだ? いや僕は誰だ? 自分の体を検分する。水流に呑まれてボロボロだった気がするが五体満足だ。痣も擦り傷もない。明らかに成人男性の身体をしていて、というか自己認識として僕は成人男性で、でも具体的な年齢とか名前とか職業とかを思い出せる訳でもない。 僕は記憶喪失に陥っている。 それを自覚した時、ノックもなしに部屋の扉が開かれて、一人の男が入って来た。 「お、これは失礼しました。もう起きられてましたか」 僕はぎょっとした。その男は一目見て分かる程異様だった。いや、顔や体格や服装に異常な点がある訳ではない。ごく普通の、涼し気な顔をした優男と言った風体で、背も僕より少し低いくらいで百八十センチを上回っていそうだ。歳は若く身なりも良くまあ清潔そうに見える容姿だったが、それでもその男は明らかにおかしかった。 その男には『厚み』がないのだ。 「いやぁ実は旦那の衣服を作って来たんすよ。ほら、旦那ってば当分ここで生活されるんでしょう? 体格もそんな違わないんでオイラの服でも良いかと本気で言ったんすが、お嬢様は冗談だと思われたみたいでコロコロ笑われてしまいました。HAHAHA面目ありません、オイラ、自分がこの通りの薄さなの忘れちまってました」 男は紙のように薄く見えた。思わず真横に回ってみると本当にペラかった。紙を人型に切り抜いて人に見えるように絵を描いたものが、そのまま動いているかのようだった。 じっと見ていると紙の向きが変わって表面がこちらを向いた。しかしそれは男がこちらに体を向けたという意味ではなかった。こちらを向いた紙に描かれているのは男の横顔だった。つまり男は立ち位置を変えずに、ただ男が描かれている紙の向きが変わり、別角度から見た男の姿を見せて来たという具合だった。僕は眩暈を感じた。 そんな男がその手に僕の為に作った(作った?)という衣類を乗せているが、その服と言うのも紙に描かれた絵でしかなかった。 「あ、オイラが珍しいんすか? いやぁ初めて見る人は皆そうやってジロジロ見てくるんすよ。いや別に嫌じゃないんですよ? ただそんなに珍しいかなってね」 「あんたは何者なんだ?」 「お? いきなりタメ口すか? お?」 「いや……あの、すんません。何者ですか?」 「いやいや良いんすよ旦那はお嬢様の大切なお客様なんだから好きに喋って貰っても。ただね、オイラはこう見えて結構長く生きてましてね」 「年上なんですか?」 「あ、十五歳っす」 「ガキじゃねぇか」 「HAHAHA見えないでしょう? つまりお嬢様が百金の模造紙を切り抜いて作ったのがちょうど十五年くらい前って訳で。それからというものね、オイラはこの館でお嬢様の身の回りの世話をさせて貰ってるって寸法で。おいら紙なんで水仕事とか火を使った料理とかは命懸けっすよ」 「大変そうだね」 「五回死にました」 「なんで生きてるの?」 「作り直してもらいました。記憶はあるんすけど前の身体との連続性とかどうなってるんすかねHAHAHA」 「哀しい生き物だね……」 「いえいえ良いんすよ。ここの仕事はやっていけるし。休みはなんと完全週休二日。年に二回ボーナスも出るし、福利厚生割だってかなりちゃんとしてるんすよ。職場が家で家賃かからないんでもう貯金しまくり。こないだなんて憧れのマウンテンバイク買ったんすよ。これがね、もう最高! 休みの日とか一日中こいでられますね。一回スピード出し過ぎて向かい風で飛んで行きましたがね! HAHAHA!」 「都市伝説になりそうな光景だな……」 男は手にしていた衣類をドンと割と乱暴な手つきで僕の目の前に置いた。かと思うと紙の中の絵だったそれは途端に三次元の世界に現出する。僕が唖然としてそれを持ち上げ手触りなどを確かめる内、男は背を向けて扉の方に向かい、去り際に一度だけこちらを向いて軽く頭を下げた。 「オイラ、サイトウと申します。ここの使用人です」 「お、おう」 「以後お見知りおきを。お嬢様を呼んで来るんでお待ちください」 サイトウは部屋を去って行った。 僕はとりあえず衣類を箪笥に仕舞ってから、ベッドに腰掛けて天井を仰いだ。 「……ここは伏魔殿か」 僕は不安でいっぱいになった。 〇 やがてこの館の主人であるという女性がやって来た。 それは僕を瓦礫の中から救い出した女性だった。 初めて見た時の印象とたがわず綺麗な人だった。背は高く百七十センチを上回る程ですらりとした体格で、顔立ちも人形のように整っていて、黒目がちで目が本当に大きい。 女性は部屋に入って来るなり、僕の顔を見て握りつぶした花のような顔になって泣きじゃくった。そして僕の胸に飛び込んで来て嗚咽を漏らした。訳が分からないままとりあえず泣かせておいてやり、少しずつ落ち着いて来たのを見計らって僕は尋ねた。 「君は誰だ?」 「忘れてしまったのですか?」 女性は黒飴のような瞳でじっと僕の方を見詰める。その瞳には困惑と、微かな期待のようなものが滲んでいた。 「実はそうなんだ。自分が誰なのかも、良く分からない」 「……そうなのですか!」 女性はむしろ嬉しそうに両手を合わせて頬の隣に持っていくと言う仕草をした。 「教えて欲しい。君は誰なんだ」 「あなたの恋人です」 背後で様子を見守っていたサイトウが「えーっ」と驚きの声をあげた。 「いや今の『えーっ』ってどういう……」 「高校時代からの付き合いなのです。一度心で結ばれてからというもの、ただの一度として離れたことがない無二の恋人です。共に人生を歩み励まし合い苦楽を共にし、今日までずっと肩を並べて来ました」 「そ、そうですか。でも今の『えーっ』ってどういう……」 「もう毎日、いちゃいちゃです。あなたは忘れてしまっていますがあなたは結構えっちです。外にいる時とかでもくっ付いて来て体をあちこち触ってきます。わたしは恥ずかしいのでいつもつい頬を赤らめるのですが、あなたはそれを知りながら服の中に手を伸ばしわたしの肉体を蹂躙します。もう、ぐちょぐちょです」 「ぐちょぐちょですか」 「そうして蜜月の時を送っていたわたし達ですがそれを引き裂く出来事が起こりました。この間の大雨でダムが決壊し、大洪水が起きてあなたはそれに流されたのです。安否が分からずわたしは不安な日々を送り毎日遅くまで泣きました。日が暮れるまであなたの姿を探し街を放浪する日々出した。もう死んでしまったのか絶望しそうになったその時……ああ、やはり絆の力は偉大なのだわ。わたしは瓦礫の中で横たわるあなたを見付けたのです!」 女性はIと名乗った。この館に住むご令嬢で、職業は医者。父の経営する病院で、色んな科を回りながら研究している立場であること。病院は一族経営である為、僕はそこの婿となり病院を継ぐことになる可能性が高いこと、などを語った。 「と、いうことは、俺も医者か」 「いえ、学校の先生です」 「は?」 「学校の先生です。大学受験の時わたし、死ぬほどストーキングして医学部に行くように何度も何度も何度も何度も言ったんですが、あなたは教育学部に入りましたよね? 小学校に勤めてる訳ですが、仕事ぶりを見に学校に忍び込むと良く女子小学生にまとわりつかれています。明らかに男子より女子の方に人気があるの何なんですかねロリコンなんですか? 家を漁った時普通のエロ本に混ざって一冊だけそういう内容の官能小説見つけたし……なんかそういうのすごくいやーっ」 「いや君ちょっとおかしいんじゃ……」 「Nちゃんに手とか出さないでくださいよ? いくら小さい頃の私に似て可愛いと言っても……ねぇ?」 「Nが誰だか知らないけど出さねぇよ。つか教師なら病院は継げないんじゃ……」 「何とかなります」 「いやならんでしょ」 「絶対に、わたしが、何とか、するのーっ!」 Iは床を繰り返し踏みつけ地団駄を踏んだ。 「……俺の名前は?」 「Mです。わたしはM君と呼んでいました」 「そうか。ねぇIさん」 「Iで良いです」 「なあI。俺は洪水に流されて半死半生になっていたんだよな?」 「そうです」 「それを君が助け出した」 「そうです」 「でもどうして君の館で目覚めるんだ? そういう場合、ふつう病院に運び込まれるはずだろう?」 「えっ? あの、それは……」 Iは目を白黒させながらそっぽを向いた。 「どういうこと?」 「あの……えっと。そうだ! ここは病院! 病院なんです!」 「え? そうなの? そうは見えないけど……」 「この館は家の病院と直通の建物になっています。だから実質病院です。それは本当! で、最初は病院側で手当てをしていたのですが意識がなかなか回復せず、ベッドも一杯だし病院じゃなくちゃ出来ない措置がある訳でもありませんので、いったん館の方の客室に移動させたという訳です」 「そうなのか」 「そうなのです。決して今考えた訳じゃありませんよ?」 「それは良く分かった。助けてくれてありがとう。このお礼は必ずする。それじゃあ、いったん俺を家に帰して貰っても良いかな?」 「なんでですか?」 Iはみるみる目に涙を貯めながら、僕の手を取って言った。 「もう少しここでゆっくりなさったら……」 「いや、自分の家に帰れば色々思い出すかもしれないし」 正直言うとこの館は随分と怪しい。サイトウなる化け物染みたぺらぺら男がいるのみならず、このIという女性だって胡乱なものだ。 「あ、あなたの家には帰れません」 「なんで?」 「えと……その……流されました!」 Iは今思い付いたような口調で両手を叩きながら言い放った。 「洪水で流されて跡形もありません。家財も貯金も全部それでおじゃん! だから家に帰ろうにも帰る家はなく、この館を出た途端にホームレスの暮らしを強いられることになります。それは嫌だと思うのでこの館にいてください」 「……誰か君以外の俺の知り合いに会わせてくれないかな?」 「それは出来ません」 「なんで?」 「えと……その……皆死にました!」 Iは今思い付いたような口調で両手を叩きながら言い放った。 「……死んだって、どういうこと?」 「洪水で死にました。それはもう凄まじい大洪水だった為このあたり一帯の人は皆流されて死にました。そこにはMくんの知人友人がことごとく含まれており、Mくんの交友関係を全て把握しているわたしには分かりますが、ただの一人として生存者はおらずMくんは現在わたし一人を頼るしかない状況にあるのです。そうですよねサイトウさん?」 水を向けられたサイトウは、そっぽを向いて口笛を吹きながら、冷や汗を浮かべながらこう言った。 「まあ、うん。はい。そうなんじゃないすか? 知らんけど」 「ほらぁ。サイトウさんも言ってるじゃないですかぁ」 Iは勝ち誇ったような顔をした。 「あのね、Iさん。ちょっといい加減に自分の言ってること考えようか。多分、俺の生徒だったという小学校の女の子たちでもそんなしょうもない嘘は……」 「死ーんーだーのーっ! サイトウさんもそう言ってるのーっ!」 Iはその場で激しく地団駄を踏んだ。 「死んだのじゃない! ちゃんと本当のことを言いなさい!」 「嫌なのーっ。Mくんに帰って欲しくないのーっ!」 「わがまま言うんじゃありませんっ! もう良い! 俺、一人で帰るわ」 「やーっ」 「やーって……君いくつだよ」 「Mくんと一緒の二十五歳なのーっ。行かないでーっ行かないでーっ」 無視して僕は部屋を飛び出した。Iは追いかけて来たが大股でずんずん歩き何を言われても足を止めないし口も利かない。こういう手合いの相手をするのは簡単だ。言っていることややることにいちいち反応しなければ良いのだ。 館は木造で古い建物に感じられ、サイトウがちゃんと仕事をしていないのか掃除もいい加減で、ところどころ蜘蛛の巣が張ってあった。あちこち変色した木の床は一歩進む度軋みをあげ、だだっ広い空間には俺達以外に誰もおらず、廊下に照明はなく日が沈みかけた庭から差し込む明かりだけが頼りで、だとしても信じられない程薄暗かった。 それでも僕は館の出口を見つけ出した。靴も履き替えず庭に飛び出すと、開きっぱなしの門に向けて小走りで進んだ。とにかく外に出てしまって警察にでも駆け込もうと思ったのだ。 しかし妙なことが起きた。 いつまで経っても門に辿り着けないのだ。 僕は確かに足を動かしているし前に進んでいる。少しずつだが門に近付いてもいて、門の外にある道路が目前に広がっている。そこに近付いているのならやがて辿り着くはずで、たどり着けたなら門をくぐって外に出られるはずなのだが、いつまで経ってもそういうことが起こることはなく、残り数十センチ、数センチという距離が無限のように感じられる。 「待ってっ、ま、ま……待ってよMくん。酷いです酷いです」 Iが息を切らして追い付いてきた。僕は思わず足を止めてIの方に向き直った。 「はあ……はあ。良かった。やっと追いついた」 「ねぇI。これ、どうなってるの?」 「ふつうの門ですよ?」 「そんな訳ないだろ! どれだけ歩いてもたどり着けないんだぞ!」 「それがふつうです。門までの距離がどのくらいあったとして、そこに辿り着くにはそこに至るまでの距離の半分まで進む必要がありますよね? で、その半分の距離までたどり着いたら、そっからまた半分の距離まで進む必要があります。これを繰り返して行けばどうなると思いますか?」 「……永遠に門に辿り着かないってか?」 「その通りです」 「……似たような話を聞いたことがある。確か、一個のパンを無限に食えるみたいな話だったな」 「そうですね。パンをまず半分だけ食べて、次にそのまた半分を食べます。その次はそのまた半分。このようにずっと半分こにするのを繰り返していけば、永遠にパンを食べ続けることが出来るという話です」 「だが実際にそんなことは起こらない。俺の歩く歩幅もパンを食う一口の量も、極小の世界をいちいち半分に切り分けられる程、精密じゃない。俺は背がでかいから一歩で一メートル近くざらに進むし、口もでかいから一口でたいていのパンは全部入る。そもそも、端から見て俺の歩幅はいったいどうなってるんだ?」 「すごく細かくなっています。ある程度近付くと、一歩進むごとに歩幅はちょうど半分になりますから。ほんの数ミリは進んでるっぽいですけど、それでもほとんどその場で足踏みしてる感じです」闇 「俺はそんなつもりはないぞ?」 「なくてもそうなんです。そういう認識災害がかかるようになっていますから」 「やっぱり門がおかしいんじゃないか! 催眠だか何だか知らないが、それを解け!」 「わたしにもそれは解けないです」 「本当か?」 「そうなのです。つまりこの館から出られないのはわたしも同じなのです。だから、わたし達はずっとこの館の中で暮らしていくことしか出来ないんですよ。仲良くしましょう。ね?」 そう言ってしなを作るように両手を合わせるI。 「君が出ようとしても、俺と同じようなことが起こるってことだよね?」 「その通りです」 「だったら、一回君もこの門をくぐろうとしてみて」 「良いですよ?」 澄ました顔で言って、Iは門の前まで歩き始めた。 Iは少しずつ開きっぱなしの門に近付いて行く。しかしその歩幅は少しずつ小さくなって、門の目前まで来てほとんど足踏みしているような形になる。 ほら言った通りでしょうと言わんばかりの表情でこちらを見詰めるが、その足踏みはどうにもわざとらしい。ほんの少しずつ近付いて行くというよりも、完全に同じ場所で脚を動かすか、何なら微かにだが下がるような挙動も見せている。 開きっぱなしの門の前でそれを続けるIの背中を、僕は力一杯押してみた。 「きゃ、きゃーっ!」 Iは道路へと飛び出して地面を転がった。そしてべそをかいた表情でこちらを振り向いて、すぐに門の内側に戻って来た。 「何するんですかーっ!」 「君さっきから嘘しか吐かないよね……」 僕は白い目でIを見詰めた。 「押すなんて酷いですよぅ。しかも道路になんて何かあったらどうするんですかいじめっ子なんですか? Mくんだけはそんなことしないと思ってたのに!」 「君今門の外に出られてたよね?」 「出られてましたよ! はい嘘吐いた! 吐きましたとも!」 Iはとうとう開き直った。 「なんで君は出られて僕は出られないの? 君が僕に何かしているんじゃないか?」 「してないですよぅ」 「答えてくれ。君は何者だ? この館はなんだ? 何もかも、明らかに異常だ。俺にいったい何をした? 俺の記憶を奪ったのも君なんじゃないのか?」 「違いますよ」 Iは目に涙を貯めて頬を膨らませた。 「そんなことはしません。他の何をしても、どんな手を使っても、あなたの心を直接操ることだけはしないとわたしは決めているんです。だって、それは意味がないことなんだもの」 「記憶を奪った訳ではないと?」 「そうです。洪水に流されてアタマでも打ったんでしょう。これは本当です」 「それは分かった。信じよう。ならば他の真実も話してくれないか?」 「真実なんて……」 「君は俺と仲良くしたいんだろう? だったら隠し事はなしだ。きちんと事実を全て話して貰って、その上で好意を伝えられたのでなければ、俺の気持ちだって変わりようがないだろう」 濡れた瞳でIは僕をじっと見上げる。頬を震わせて人差し指同士をつつき合わせ、視線を降ろして足元をじっと見つめる。 「俺は君を怪しんではいるが、俺への好意だけは疑っていないよ。誠実な対応をしたいんだ。その為にはまず本当のことを話して貰う必要がある。どんなに酷い真実だとしても、何も話してくれないよりも悪いことはないはずだ。さあ、話してみるんだ」 肩を震わせるIは僕の視線から逃げるように手遊びを続けている。小さな子供を追い込んでいるような気分だった。見た目よりも中身が幼いのだろうかと考えてみるが、しかし医者をやっているという話に嘘は感じなかった。立派な職業だからと言って立派な人とは限らないが、それでも、バカに務まる訳でもあるまい。 悪戯をした理由を詰められている女子児童のように、下を向いて肩をぷるぷる震わせているIだったが、そこに助け舟を出すように声がかかった。 「……あー。あのー、お取込み中のところ申し訳ないんすけどー……」 サイトウだった。向かい合う僕達に歩み寄り、ペラペラの身体を風になびかせている。 「そこで二人ですったもんだしてる内に、ですね? メシの支度がぁ、済んじまったって訳なんすよね? いえいえ、お話を邪魔をしに来た訳じゃぁないんすけどね。とにかく食いながら話すってのはどうなんでしょう? 冷めるとね、なんだってそれは、まずい訳ですから」 Iは震える瞳で僕の方を見詰めた。 僕は頷いておくことにした。 〇 食堂と呼ばれる部屋は広かった。 長いテーブルは十人やそこらは座れそうだった。それが2セット設置されていた。僕とIは向かい合ってサイトウが用意したという食事を口にした。焼いた魚と肉とジャガイモの煮物と漬物とキノコの味噌汁と和え物と飯。 食事中の僕らはそれぞれ自分の世界に入っていた。Iはもそもそ一人で箸を動かしていたし、料理を見るなり腹の虫がなり始めた僕は、何日ぶりかも分からない食事に舌包みだった。夢中だった。美味かった。余程腹が減っていたらしく食べ始めると止まらずに僕は飯を二杯もおかわりした。 「たくさん召し上がるんですね」 Iが食が進んでいない様子で口にした。 「無性に腹が減っている。俺は何日気を失っていたんだ?」 「二日ほど。ただそういう場合、通常はお腹が空かないものなんですけどね」 「正直に話してくれる気にはなったかい?」 「何をですか?」 「この館はいったいなんなんだ?」 「ここはわたしの生まれながらの家で、両親と祖父母と二人の妹と何人かの使用人に囲まれて暮らしていました。しかし祖父母は亡くなり父は気が触れ別館に閉じこもり、母は父と離婚して館を出て行きました。二人の妹の内一人は母の元へと出て行って、もう一人の妹は一緒に暮らしてはいますが、あなたに会いたくないとのことで今もお部屋に引き籠りです」 「何故その妹は俺に会いたがらない?」 「シャイな子なんですよ」 「俺はどうして中に囲われているんだ?」 「わたしの恋人だからです」 「ちゃんと話をして欲しいんだが」 「……わたしにはまだ話す勇気がないんですよ。もちろん、いつかすべてをお話しなければならないとは思っています。あなたの記憶喪失だって、恒久的なものではありませんから」 「話すのが遅れれば遅れる程、君への不信感は増していく」 「もう少しだけ待って」 「良いだろう」 僕が言うとIは微かにほっとした表情で席を立ちあがった。そしてサイトウを呼んで食事の残りを手で指した。 「これは片付けておいてください」 「体調でも悪いんすか?」 「気分がすぐれなくて……。ごめんなさいね。せっかく作っていただいたのに」 「いやぁ良いんすけどね。そんなことは」 サイトウは懐からライターを取り出すと、残りの食事に火をつけた。 紙に火が付いたかのように、食事はチリチリと燃え始めた。僕が唖然としている間に火は料理全体に燃え移った。そのころになると料理は三次元のものではなくなり、料理の描かれた単なる紙になっていて、瞬く間にそれらは全焼しその場から消えた。 跡には灰も残らない。 「おい。今の……」 「今日はもう休みます。おやすみなさいMくん。サイトウさんも」 Iは食堂の外に向かって歩き出し、最後に僕の方を振り向いて言った。 「酷いことをしてしまってごめんなさい。でも、いつか全部話すから」 部屋にはサイトウと二人残された。いや二人と言って良いのか悪いのか分からなかったが、とにかく僕はサイトウの方を見た。サイトウは澄ました顔で僕に言った。 「あんまりお嬢様を悲しませちゃダメっすよ」 「だったら真実を話すべきだ。俺は子供が何をしても最後には許すことにしているが、嘘を嘘のままにしておくことだけはしないことにしている」 「お嬢様はもう子供じゃないっすよ。それにね旦那、旦那とお嬢様がただならぬ仲だったっていうのも、これがてんで嘘っていう訳じゃないんすよ」 このサイトウから何かを聞き出せそうな気がする。と言っても特別な手管は必要なく、僕は食いついた様子をあからさまにサイトウに迫る。 「どういうことだ?」 「旦那がこの館に来るのも初めてじゃないんすよ。俺が作られたばかりの頃のお二人は、本当に仲睦まじいものでしてね。一緒に庭を散歩したり、テレビを見て笑ったり、一緒に妹を可愛がったりね。青春ってのはああいうのを言うんすかね? オイラは実は少しお嬢様に憧れてましたから、羨ましいやら悔しいやらで」 「そうなのか」 「ええ。なんで旦那の飯にはちょいとばかりオイラの想いを込めてあるっす」 「なんだ想いって?」 「そりゃあもう目くそ、鼻くそのオンパレー……ああやめて! 腕を掴んで折らないで! ひぎぃいそんな折り紙みたいにしたって鶴にはならないのぉおお! あぁあああ! いきゃああああああ!」 僕はサイトウの紙のようにペラペラな身体を丁寧に折りたたみ、珍妙なオプジェを作ってやろうとしたが、暴れるので上手く行かなかった。折り紙は得意だったと思うのでかなり芸術的な作品が仕上がったはずなので残念だった。 「二度とするな。良いな?」 「はい」 「で、俺はあの子にどうしてやれば良いんだ?」 「そりゃあ思いに応えてあげれば良いんじゃないすかね? 今の時代、二十五ならまだ生娘なんでしょうけど、それでも縁談の話とか全部断ってる訳っすからね。それでいっつもあんたのことばっかり付け回して……オイラはそりゃあもういじましくていじましくて」 「その物言いだと、やはり俺は、あの子の気持ちに答えてなかったのか?」 「…………」 サイトウは黙り込んだがそれは流石に察しが付く。Iは口では嘘を吐いてはいるが、態度や言動の端々から、実際には僕たちが恋人同士でなかったことは一目瞭然だ。 「どうして俺はあの子の気持ちに答えなかったんだろうな?」 「そう思うんすか?」 「あの子の俺への想いは本物だ。それは分かる。そしてあの子は綺麗だ。それもとびっきり。俺は面食いだし手のかかる女の子は好きな方だし、好かれてること自体は正直、そこまで悪い気はしない」 本心だった。バカっぽくて可愛くてその癖金持ちだなんてかなり良いじゃないか。今は真実を聞き出す為に厳かに接しているが、内心ではころころ変わる表情を見ていると心ときめかされることもある。僕には過ぎた上玉だと言えるだろう。 そんな女に好かれておいて、僕は何故付き合っていないのか。何か理由があったのだろうが……。 「……旦那の言う通り、お嬢様があんたを想ってること自体は真実なんすよ」 サイトウは悲し気な声で言った。 「旦那の為ならお嬢様はきっと火の中水の中、望めばきっとどんなことでもしてくれるんでしょうね。そりゃあもうあんなことやこんなことや、もっとモノスゴイことまで大喜びで……。ああっ。想像したらオイラまたムカついて来たっす! こりゃあ明日の飯はさらなる想いを込めて作らなきゃっすね! もう目くそ鼻くそじゃ済まないっすよ。旦那の飯だけ便所の水で炊いてやりまいたたたたたたっ、やめて! そんなに一杯折れ目付けないでっ。ひぎぃいいっ! いけない形になっちゃうのぉおおお!」 僕はサイトウのペラい体をあちこち折り曲げて芸術的なオブジェを完成させた。下半分は鼻を伸ばした像でその上に両手を挙げた人という形のその像は、記憶を失う前の俺が相当に折り紙に精通していたことを思わせる素晴らしい出来栄えだった。 「……俺も寝るわ」 僕は飯を食い終えて立ち上がった。 「風呂とか入れんの?」 「……ご用意しております。もうお嬢様も出られた頃でしょうからどうぞ。お着換えも浴室前においてありますので、今着ている服は籠の中に放り込んでください」 珍妙なオブジェから元のペラい人型に戻りながらサイトウは言った。 言われた通り僕は風呂に入った。 ヒノキで出来た見事な湯で、水回りの掃除もなされていて不潔ではなかったが、やはり建物自体が古く不気味な印象があった。 風呂から上がるとあてがわれた客室に引き上げて、ベッドに寝転んで泥のように眠った。 〇 目を覚ます。 天井の模様と目が合う。木の模様がくっきりと浮かんだ天井は、あちこち顔があってこちらを覗き込んでいるかのようだ。 かなりしっかりと眠った感覚がある。自然と時計を探す僕だったがこの部屋のどこにもそれは置かれていなかった。思えばこの館にはどこにも時計がない。カレンダーも、使いたくてたまらない電話機もない。平成十六年現在携帯電話の普及率は低くないが、僕は持っていないし、持っていたとしても取り上げられたことだろう。 僕は起き上がるととりあえず小便をする為に部屋を出て、昨日サイトウに案内して貰ったトイレで用を足そうとして、鍵がかかっていることに気付いて立ち止まった。 おそらくIが出てくると思うと何故か少し気まずい気がした。あんな美人でも便所に行くのだという実感が沸かない。それほどIは現実離れした容姿を持っているのだ。ドア一枚隔ててそれが行われていると思うと、下世話な気持ちになる程だ。 ドアが開く。中から出て来たのはサイトウだった。 「お? ようやくお目覚めですか旦那? おはようございます」 「えっ何おまえうんこすんの?」 「しっつれいしますね! そりゃ食うもん食ったら出すもん出すっすよ」 「何食うの? 紙? どんなうんこすんの? それも紙なの?」 「……ここでの旦那の生活の面倒、オイラが全部看てるっての忘れないでくださいね? いい加減にしないとマジで食い物に愛情仕込むっすよ?」 サイトウと軽口を叩きあった後俺は便所に入った。何がとは言わないがちゃんと臭った。あいついったいどんな生態してるんだ? 便所から出て洗面所で顔を洗っていると、背後からサイトウが話しかけて来た。 「朝飯どうしますか?」 「食うよ。食わないでか」 「そっすか。じゃあ温め直すんで食堂来てください」 僕が食堂に行くと、鮭の切り身とだし巻き卵と漬物とほうれん草の浸し物と赤だしの味噌汁が机に並んでいた。途端に腹の虫がきりりと鳴き出して僕は机に着いて飲食を開始した 「本当良く食うっすね」 「愛情は入れてないだろうね」 「ないっすよ。もう珍妙なオプジェにされるのはごめんっす」 「Iがいないようだけど」 「お勤めに行かれました。隣の病院の方の建物へ。旦那が起きるの遅いんすよ」 「ちゃんと働いているんだな。言っちゃなんだが、あの女に医者なんて務まるのか?」 「どうなんすかねー? 昔っからお勉強はすげー出来たんすけど、手足動かして立ち働くのは大の苦手で。料理だの洗濯だのもてんでダメだし、患者の腹さばいたり聴診器を胸に当てたりなんて、ちょっと想像がつかないっすねぇ」 「そうか」 「まあでも大丈夫じゃないっすか? あの病院だって実質あの人のモンみたいになってますから。患者相手にちゃんと仕事出来てるかはともかく、上級医にいじめられてどうのこうの、なんてことにはならないはずなんで」 僕は赤だしの味噌汁を啜った。味の濃さがちょうど良く出汁も効いていて非常に美味だった。だし巻きも美味い。鮭の切り身は脂の甘さが感じられそれほど塩味ではない割に飯が良く進んだ。ほうれん草の浸し物には臭みがまるでなく、しょうゆをかけて口に入れると鰹節の風味が引き立ちいくらでも食べられた。 どう作ってるのか知らんが、サイトウは飯が美味い。この男の唯一の長所だ。 「お嬢様が帰られるまで、どうします旦那?」 「どうって。テキトウに時間潰すしかないだろ。部屋のテレビでも見るか……」 館の中について調べるか。これが良い気がして来た。脱出の足掛かりを掴めるかもしれない。 「館の中うろつくんなら、別館には入らないでください。後出来たらオイラの部屋も二階の角部屋なんで覗いちゃダメっすよ」 「別に興味ないよ」 食事を終えた僕はとりあえず庭に出た。そして出入口の開かれた門の前まで向かった。 何度試しても、門までの距離を縮めることは出来ても外に出ることが出来なかった。本当にゼノンのパラドクスのようなことがここでは起きているらしい。怪奇だ。 向こうから人が歩いてくれば助けを求めるくらいのことは出来るかもしれない。そう思い一時間ほど待っていたが誰もやって来なかった。僕は諦めて館を探索しながら脱出のヒントを探ることにした。 手始めにと思い庭を歩き回っていると、庭の隅から大きな鳴き声が聞こえて来た。 「ワンっ! ワンっ!」 犬だった。見ると高さ二メートルはありそうな巨大な犬小屋が庭には設置されていて、そこから一匹の犬が顔を出してこちらに向かって猛烈な勢いで吠え続けていた。 「ワン! ワンワンワンワン! ワン!」 どこか悲痛な声であり僕はそこに近付いて行った。動物は嫌いじゃない、むしろ好きだった。こんな立派な館でどんな犬が飼われているのか気になった。犬種は何か、どのくらいの大きさか。サイトウはあれで仕事は出来るようだから、きっときちんと世話されているに違いない。 僕は犬小屋の中を見た。 見たことのない犬種だった。 体長は百五十から百六十センチ程で、後ろ足だけを使って器用に立っていた。体毛は頭にしかなくそれが長く胸のあたりまで垂れていた。前身は禿げ上がっているというべきかそもそも気がないというべきか、局部など一部を除いて肌色の肌を完全に晒している。 首には首輪がはめられていて、それが犬小屋の麓から伸びていた。こんなに大きな犬だから相応に犬小屋も大きく、熊や馬でも変えそうな程巨大だった。二つある皿の片方には濁った水が注がれており、もう片方にはドッグフードの茶色い汚れが微かに残っていた。 「ワン! ワンワンワン! ワン!」 犬は泣きじゃくりながら僕に縋りついていて声を発した。体はちゃんと洗われているのか嫌な臭いはしない。僕はその場で犬の頭を撫でまわしながら頬を緩めた。 「人懐っこい犬だな」 犬は絶望したような表情で僕の方をじっと見上げた。かと思うと今度はやけに悲痛な声色で激しく鳴き声をあげる。 「ワンワンワン! クゥン。クゥウウン。キャイン。ワン、ワンワンワン」 助けを求めているような声に聞こえた。そして僕の足元に抱き着いてボロボロと涙をこぼす。僕はそんな犬の頭を撫でまわしながら、何がそんなに悲しいのかと小首を傾げた。 「あんまそいつに構っちゃダメっすよ」 ドッグフードの袋を持ってサイトウが現れた。袋の中身をドバドバと乱暴に皿にぶちまけ、ホースを持って来てもう一つの皿に水を注いだ。 「かえって残酷っすよ」 「何が残酷なんだ?」 「何がっすかねぇ」 立ち去ろうとする僕の足元から、犬は離れることをしなかった。つい微笑ましい気分になる僕だったが、サイトウがそこにやって来て犬の首に腕を回して僕から遠ざけてくれる。 僕は犬を構うのをやめてその場を立ち去った。後ろ髪を引くように犬は鳴き声を上げ続けていた。この短期間で何をこんなに懐かれるのか分からなかったが、可愛い奴だと思った。後で名前を聞いておかなければと思った。 鯉の泳ぐ庭を堪能し、庭に生えている木々を見て回った。どれも丁寧に手入れがされていて見ごたえがあった。きっと鯉の一匹木の一本が凄まじい金額なのだろう。 探索とか無関係に金持ちの家の庭を歩き回るのが楽しくなっていた。僕は次にガレージに狙いを定め小走りに突入した。記憶喪失の僕だが自分が人並に車が好きだったのは認識していた。金持ちの家のガレージに停まっている車種を確認したかった。Iはどんな車に乗るのだろうか。 ガレージに入ると四台の車が目に入った。隅の方には一台のマウンテンバイクが停められていて、なるほどこれがサイトウが貯金をはたいて買ったという愛車であるらしかった。あのペラペラのサイトウがどんなふうに自転車に乗るのか気になった。僕は四台の自動車の内の一台に目を付けて中を覗き込んだ。 中で人影が動いた。 浮浪者のような男が現れた。髪は脂でべとべとでぼろ布のような服をまとっていた。そしてどうやらケガをしているらしく、顔中は血に塗れ窓に押し当てられた手にはケロイドのような火傷痕があった。 「開けろー! 開けろー! 開けろー!」 必死の形相で男は激しく窓を叩き始めた。恐怖に滲んだその表情に僕は頭を殴られたような衝撃を受ける。男は涙を流しながら僕の方を凄まじい形相で見詰めつつ、大きな音を発しながら窓を叩き続けた。 「助けてくれ! 助けてくれ助けてくれ! 出してくれー!」 僕は思わず扉を開けようとしたが扉には鍵がかかっていた。サイトウを呼んで鍵を開けさせることを考えて身を翻すと、目当ての人物が立っていてペラい体をなびかせながらこちらを見詰めていた。 「それ絶対開かないから意味ないっすよ」 「……は? 何を言ってるんだ。助けないとダメだろ」 「だーかーら。開かないんすよ。永遠に開かないんす。その男だって永遠に閉じ込められたままなんすよ。だから構うだけ無駄なんす」 「そんな訳には行かないだろう。第一、お宅の車なんじゃないか?」 「お嬢様は車には乗らないっす。行きたいところどこにでも存在出来る特技があるんで」 サイトウはそう言って隅に停めてあるマウンテンバイクに歩み寄り、うっとりとした表情で眺め頬ずりをした。 「うーんやっぱり最高っすねオイラのマウンテンバイク。仕事の合間にこれを見に来るのだけがオイラの楽しみっす」 そして満足したように立ち上がり、次の仕事に移る為だろう、ガレージから立ち去って行った。 僕は息を飲み込んだ。やはりこの館はおかしい。 他の三台の車も僕は確認することにした。 二台目は一人の男女が後部座席にいて裸で絡み合っていた。二人とも興奮した表情を浮かべており、結合部を見るつもりはないが何をしているのかは一目瞭然だった。僕はその様子をついまじまじと見つめたが、中の彼らが気付いた様子はなく一心不乱に彼らはその行為を続けていた。 三台目は何もなかった。ただの空の車で僕はすぐに目線を切った。 四台目が一番異常だった。全体は血塗れでじっくりと見ないとただ真っ赤であるということしか分からない。しかしじっくりと目を凝らして中を見ると、ばらばらにされた人体がひしめいていることがどうにか見分けられる。窓には切り取られた人間の腕が張り付いていて、運転席には人間の脚が何本も幾重に積み重なっている。後部座席には胴体が折り重なっていて、その数は三つ……いや四つに見えた。 「なんてことだ」 僕は言った。この館では何が起きていてもおかしくはないだろうが、これはあまりにも酷かった。一刻も早くこの館から抜け出してこのことを警察に知らせる必用がある。いや、そもそもこれは現実の、この世の景色なのか。意味のある景色なのか……。 この館には電話はないしとにかく脱出するしかない。ふと思いついて僕はサイトウのマウンテンバイクに駆け寄った。チェーンは車輪に巻かれてこそいたが、中央にあるのは単なるダイアルキーであり僕は歓喜する。これなら時間をかければ開けられる。 単に四桁のダイアルを回すだけでなく、回した上で横の突起のような形のスイッチを押すタイプのようだ。0000から順に一つ一つ試していく。地道に一つずつ回してスイッチを押して、1000まで到達する頃に、恐れていた自体が起きた。 「こらぁ! 勝手にオイラのマウンテンバイクに触るな!」 サイトウだった。僕は舌打ちでもしたい気持ちで立ち上がり、サイトウに媚びた笑顔を作った。 「いやぁごめんねサイトウくん。あんまり格好良いマウンテンバイクだったから、ついね」 「そういう旦那、ダイアルキー回してたでしょう? 盗む気じゃなかったでしょうね」 「この館からも出られないのに盗んでどうするんだ? ちょっと弄って見ただけだよ。いや、乗って見たかったのは認めるけどさ。あんまり格好良いから、ねぇ」 「……まぁ、格好良いのは、そうっすね。旦那がついぺたぺた触っちゃうのも、仕方がないんすかねぇ」 繰り返し車体を褒めるとサイトウはあっけなく相好を崩した。主人に似てアホなのだ。機嫌を取れたことを見て取って僕は早速仕掛けた。 「ああそうだ。ね、ちょっとだけ庭を走ってみても良いかな? お願いだよ」 「ダメダメ。旦那の頼みでもそれは無理っすね。すげー値段したんで人に貸すのはまずいんすよ。万一池にでも突っ込まれたり壁に激突されたら大変でしょ?」 「そうか。そうだよな。残念だ」 僕はこれ以上食い下がらずに諦めた素振りを見せた。こいつの許可を取らずともこれに乗る手段はありそうだったからだ。ようはダイヤルを回し続ければ良いのだ。今回は見付かったが次は慎重にやれば簡単に出し抜ける。 「一応言っとくっすけど、ダイヤル回して総当たりで解くのは無理っすよ」 考えを見抜かれて僕は微かに鼻白んだ気分になる。 「……どうして?」 「ダイヤル回してスイッチを押す度に、正解の四桁が別の数値に変わるんす」 「いや、そんな訳ないだろう?」 「それがそんなことあるんすよ。そういう設定にしてあるっすから。万が一の為に」 サイトウは微かに優越感を帯びた表情で言ってから、へらへらと笑いながらガレージを再び去って行った。 「……どういうことだ?」 スイッチを押す度に正解の数値が変わるなら、そもそも持ち主が数値を知らないから開錠することが出来ないだろう。しかしこの奇妙な館ならどんなことがあってもおかしくないが、それでも鍵としての意味がないというのはおかしいはずだ。 一先ずダイヤルを9999まで回してみるか? いや、そんなことをして次また見付かったらうるさい。まだサイトウが近くにいるかもしれないし、言葉の意味を考えてからでもおかしくないはずだ。 そう思い、不気味な車の合間を抜けようとして、僕は気が付く。 車の中の様子が変化していた。 一台目の車に浮浪者のような男の影はなかった。代わりに二人の男が後部座席でもう一人の男を金づちで殴り続けていた。殴られる男の顔は変形し原型をとどめなくなっていて、しかし生きてはいるのか手足をばたつかせて抵抗を続けていた。 「お、おい。何をやっているんだ? やめろ!」 僕は声をかけるが中に声は届いていない様子だった。無為を察した僕は、ふと思いついて他の三台の車の様子も確かめた。 二台目の車は人間地獄だった。無数の裸の人間が狭い車内にひしめいて、小さな居場所を争ってか互いに押しのけ合い、殴り合い、怒鳴り合っていた。絶えず争う彼らの人数は外側からは数え切れなかったが、それでも七人や八人はざらにいた。中年の男が六歳程の少女を押しのけようとして、その指先が目に食い込んで赤い血が流れている。少女は悲鳴をあげながら男に押しのけられ、今度は別の中年の女に伸し掛かる形になり肘打ちを食らっていた。 三代目の車には四つの人骨があった。それぞれの座席に綺麗に並んだ人骨は、まだ肉が剥がれ落ちる途中であり、顔には眼球などが残っているものも残っていないものもあった。剥がれ落ちた肉片が人骨の下に折り重なり、その中には腐りかけの内臓のようなものまであった。 四台目の車の中には一人の二十歳くらいの若者がいて、運転席に腰掛け両腕を頭の後ろで組んでぼんやりとフロントガラスを眺めていた。若い男はこちらに気付いたように微かに視線を向けると、片手を小さくあげて挨拶のような仕草を見せると、すぐにフロントガラスに視線を戻した。 「……なんなんだ。いったい……」 この短期間で車内の様子が変わるだなんて、ただごとではない。 最早科学的な現象としてどうだとか考えるつもりもなかった。多分車内の様子それ自体に理屈のようなものはないんだろう。経緯も理由も何もなく、それは内側から発生する現象なのだ。 でもそれはいったい何のために起こるのだ? 理屈も理由もなかったとしても、意味がないとまでは言えないはずじゃないか? 僕は車内を観察したがこれと言った手がかりはつかめなかった。おそらくだがこれ自体は見たままの情報しかない。深く観察しても軽く見回すだけで済ませても得られるものは変わらない。一目見て分かるもの……それがこの車内の意味だ。 思い付いて、僕はダイヤル錠まで移動してテキトウに回してからスイッチを押す。もちろん錠前は外れず僕はその場を立ち去る。そして再び車内の様子を見て回った。 変化している。 一台目は五人の人間が前側の座席に二人、後ろ側の座席に三人、目を閉じて祈りをささげるかのように両手を絡め合わせている。年齢も性別も様々で服装さえもバラバラだったが、真剣に祈りを捧げるその表情は一致していた。 二台目は一人の男が別の男の腹をナイフで割いていた。裁かれる男は激しく悲鳴をあげたがもう一人の男に躊躇する様子はなかった。 三台目の自動車は無人だった。目を凝らしても誰かが隠れているということはない。 四台目には一人の少年が胸に中年の男女の首を抱えて泣きじゃくっていた。鼻水を垂れ流し顔一杯をくしゃくしゃにして泣いている姿は悲痛そのものだ。首以外男女の肉体らしきものは車内になく、これはどういうことかと考えてみたが、人間の首と呼べるものは三つあるのでとりあえず三と考えることにした。 僕はマウンテンバイクに移動してダイヤルを回す。 『5203』 スイッチを押す。カチャリと音がして、ダイヤルキーから伸びていたチェーンが外れた。 「しめた」 僕は呟いた。ここに来てから、記憶を失ってから、僕が初めて館を出し抜いた瞬間だった。 〇 ダイヤルキーの四桁の番号は、車内に蠢く亡者たちの人数に対応していた。五人、二人、零人、そして三人。最後は頭が三つと言う意味だが、どちらにしろ、これでチャリに乗ることが出来る。。 僕はサイトウのマウンテンバイクに飛び乗ると激しく自転車をこいだ。そして加速しながら庭を爆走し、門の方へと突撃していく。 Iは言っていた。この門は僕の心理に働きかけて外に出られないようにして来るのだと。どれほど歩き続け距離を縮めようと、最後の最後門に辿り着くことだけが出来ない。距離を縮める度僕の歩幅は半減して行き、最後の最後は本の数ミリ、数ミクロしか進むことが出来なくなる。 この門に近付く僕にはある種の催眠術がかかるのだ。ならば、僕の精神など無関係に移動する仕組みに身をゆだねるとどうなるのか? 加速した自転車は僕がペダルをこがずして、門に向けて矢のように直進して行く。これでは門が僕にどのような催眠をかけようがかけるまいが関係がない。 門を抜けられる予感がした。開かれた門を通り外に抜けられる瞬間が、刻一刻と迫って来る。 その時だった。 「待てーっ! チャリ泥棒! ふざけるなー!」 サイトウの声だった。振り返るとサイトウはそのペラい体で全力疾走して僕に向かって来る。ペラい割には結構早い。いや人間のスピードを超えているんじゃないか? こっちだってマウンテンバイクで全力疾走しているのに、ほとんど同じ速度で付いて来ている。 「待ちやがれー! それだけは絶対に誰にも渡さんっ!」 サイトウは紙でできた体を活かしてその場で凧のようにしゅるしゅると舞い上がると、風に乗って空を飛びながら上空から僕に迫った。……一反木綿かよ! 目論見通り、僕は門をくぐることに成功した。一抹の感動はあったがそれ以上に上空から脅威が迫っている。僕はハンドルを切って壁をよけた後、直角に左折して道路を激こぎで爆走し始めた。 「殺してやる! オイラにマウンテンバイクを返せー!」 空を飛びながら迫るサイトウは、僕に追いついて周囲をしゅるしゅると飛び回りながらまとわりついて来た。 「バカ! これじゃ転ぶ!」 「転ばせて止めようとしているに決まっているだろう!」 「分かったチャリは返す! だから僕のことは見逃してくれ! 僕は外に出たいだけなんだ!」 僕が言った。サイトウは躊躇せず僕に絡みついて来た。たちまち両腕に巻き付いたサイトウは僕の両腕を持ち上げ自転車から引っ張り上げようとする。その時だった。 向かいの十字路の右側から一台の自動車が走って来て、僕の乗るマウンテンバイクに迫った。 「うおおお!」 本来ならばブレーキを握るなり方向転換するなりで簡単に回避できただろう。しかし一反木綿のように巻き付いて来るサイトウに両腕を取られていた僕には、そのどちらも不可能なことだった。 たちまち、自動車は車体に激突する。 その場を吹っ飛ばされた僕は、自転車からも絡みついていたサイトウからも投げ出され、コンクリートの地面に体をしたたか打ち付けて、そのまま意識を失った。 〇 喧騒がする。 何か台のようなものに乗せられてどこかに運ばれている。振動が僕の全身を躍らせる。面白い感触だったが全身には激しい痛みがあり、微かに目を開けると周囲には救急隊らしき制服を着た男達が、真剣な表情で僕のことを運んでくれていた。 とりあえず館の外だ。僕は安堵した。 しかし自分がこのまま生きていられるかは分からない。 というか、まずい気がする。全身は激しく痛んでいるし、身体のあちこち妙な方向に折れ曲がっているし、胸から白い骨が付きだしてすさまじい量の血液が漏れ出している。 ここは病院内のようで白い天井の中で規則的に証明が並んでいた。やがて僕は一つの部屋の中に運び込まれ、白衣を着た医者や看護師らしき人達に囲まれる。 その中にIがいた。 「……Mくん?」 Iは思わずと言った様子で目を白黒とさせた。そして泡でも飲みそうな動揺した様子で僕に縋りつきながら激しく喚いた。 「どうしたんですかボロボロじゃないですか! 事故にあったってMくんのことですか? でも何で外で? それよりも……うわぁあどうしようどうしようすごいケガだよ! 早く病院へ! 病院へ運ばないと! そうだ! 救急車! 誰か救急車呼んでくださいっ!」 ここが病院なんだろうがよ! 本当にこいつは医師らしい。それでこいつの勤める病院に運ばれて来たと。あの館と病院が隣接しているなら、そりゃあ一番近くのそこに運ばれて来るはずだよな。 あからさまに動揺して使い物にならなくなったポンコツをあっさりと退け、代わりに冷静な医師たちが僕の身体に妙な管やら点滴やらを差し込んでいく。切迫した状況であり僕は不安を感じる。 助かるのか? いや助からないよな。ものすごく血が流れていて床は血塗れ。医師たちの表情にも不安と言うより諦念のようなものが伺える。すごく、死にそうだ。 僕が絶望しそうになったその時だった。 「あのぅ。ちょっと皆さん、良いですか?」 Iの言葉に近くにいた医師たちが皆顔を上げ、その言葉を待った。 「I先生、何?」 「このままじゃこの人絶対死ぬんですけど」 「だからこうして措置をしているんだろう」 「関係ないです。死神がそこまで来ています。皆さんが何をどうしても絶対に死にますし助かりません」 「……Iちゃんがそういうならそうなんだろうね」 年嵩の意思がため息を吐いて手にしていた器具を置いた。 「だからって何もしない訳には……」 「わたしに任せてくれませんか?」 Iは黒飴のような瞳で部屋の医師達をじっと見つめる。 「わたしをこの人と二人きりにしてください。そしたらわたしがこの人を助けます」 「Iちゃん、それは……」 「わたしならそれが出来ます。分かりますよね?」 「でも皆を出て行かせるなんて」 「邪魔なんです」 「…………」 「これはわたしでも一刻を争う事態です。すいませんが早くしてください。大切な恋人の為です。出て行って」 研修医にはあるまじき居丈高な言い方だったが誰も文句を言わなかった。年嵩の意思が「おい」と周囲に合図をすると、彼を先頭に意思や看護師らしき連中は措置室の外に出て行った。 「……さて」 Iは静かな表情で僕を見下ろしている。 「どうやって館を抜け出したのかは分かりません。アタマの良いMくんだから何か方法を考えたんでしょう。でもね。なんたって記憶を失くしてまでわたしの傍から逃げて行くんですか? 酷いです……本当に酷い……」 Iは目からボロボロと涙を流した。震える拳でぐしぐしと目を拭い、そして決意に満ちた表情でじっと僕を見下ろした。 「でも好きだから助けます。そしてもう一度館の客室で目覚めて貰います。かまいませんね?」 僕は何も言わない。言うことが出来ない。 Iは静かに顔をあげた。そこにある何かをじっと見つめている。そして死神と取引でもするように、落ち着いた声音で何事か呟き始めた。 「がいりしがいりしばらじゅうずふろーいんじゅぶにぐらす。がいりしがいりしぐらごーてぐらごーてがいりしばらじうずじゅぶにぐらす。ばらみじあぐらごーて。がいりしがいりし。じゅぶにぐらず」 どこかで聞いたことのあるような呪文だった。すべてを忘れている僕だが、それを聞いたことがあるという記憶だけは、脳の奥底に焼き付いて離れることがなかった。何か人生の重要な局面で僕はこの声を聞き、それを忘れまいとして今日まで生きて来たのだ。 僕はこの呪文に何を思ったのだろう? この呪文に何を誓ったのだろう? 「がいりしがいりし。じゅぶにぐらす。ぐらごーてばらじゅうずにゃおぐるにゃおぐるがいりし。じゅぶにぐらす」 途端に瞼が重くなる。気が遠くなる。 何かからめとられてはならないものにからめとられるような、でもそれが心地良いような。何もかもを投げ出すような感覚の中で、僕は眠る。 〇 目を覚ます。 木の模様色濃い天井が、僕を出迎えた。 僕は体を起こす。Iの館の例の客室のベッドだ。 思わず身体をまさぐると完全な五体満足であり僕は驚く。あれほど血を流していて骨もあちこち折れていたのに、今となっては跡形もなく擦り傷一つ出来ていない。 生き返ったのだ。僕はそう感じた。 「うぅ……うぅうう。オイラの……オイラのマウンテンバイク……」 目覚めて最初に聞いた声がそれだった。ふと視線を送るとそこにはサイトウが蹲っていて、拗ねたように膝を抱きながらぐしぐしと自分の目を擦っていた。 膝を抱いていると言っても、膝を抱いた状態の絵が描かれた紙がそこにあるだけだったが。普段のこいつという存在は紙というよりアクリルスタンドというのが近い。紙がポーズを取るのではなくポーズを取った状態が描かれた紙が起立しているのだ。 「な、な、泣かないでくださいサイトウさん。自転車ならまたわたしが買ってあげますから」 Iが慰めるような口調でサイトウの隣に座り込み、肩を抱きしめて優しい声を発している。 「うぅ。うぅうう。大丈夫っす。自分でまた買いに行きますから。お気持ちだけで……」 「遠慮しなくて良いんですよ? 高かったんでしょう?」 「いやまだ貯金あるし……。つっても自転車だから車とかと比べたら全然安いし……。十万円くらいしたけど、お給料ちゃんと貰ってるから、買えるし……」 バカみたいなやり取りをするその様子を眺めながら、僕は身を起こして白い目をしていた。 「あっ。起きられましたか」 ようやく気付いた様子でIは僕の方を向いた。そして目を輝かせて抱き着いて来た。 「良かった。心配していたんですよ」 髪の匂いがする。背中に回される腕の感触はすべらかで柔らかで、押し当てられる身体はぬくもりに満ちている。僕は反射的に胸が高鳴るのを感じそうになり、死にかけの状態からおそらくはこの女に助けられたことに感謝しそうになり、そもそもの原因がこいつにこの館に閉じ込められていたことだと思い至り冷静さを取り戻した。 僕を抱きしめるこの両腕は、支配の手だ。 「けっ。人のチャリ壊しといてなぁに鼻の下伸ばしてんだ」 サイトウが舌打ちをした。 「お嬢様に買い直して貰うのは違うけどなぁ? おまえにはちゃんと弁償して貰うぞマウンテンバイク? おおおん? おおおおおおおん?」 「いやおまえの所為だろ。誰が巻き付いた所為で事故に遭ったと思ってんだよ。おまえはチャリだけで済んだけど俺は死にかけたんだぞ?」 「あ? そーもーそーもー、おまえが他人のチャリ盗んで勝手に館を抜け出そうとするからだろー! 当然の報いだろうがこの変態ロリコン教師!」 「黙れ一反木綿。切り刻んで千羽鶴にするぞ?」 「お?」 「あ?」 「やめてくださーい!」 僕達の喧嘩にIが入って来て必死の形相で制止した。 「お二人ともわたしの大切な人なんだから喧嘩されたら困ります。わたし、哀しいです。元はと言えばわたしがMくんをこの館に閉じ込めたのが悪いんです。どうか仲直りしてください。お願いします」 そう言って涙ながらに頭を下げるI。主人に制止されたサイトウがバツの悪そうな顔をして俯いた。そして僕の方を睨んで吐き捨てるように言った。 「おいM! 今回だけ許してやんよぉ!」 そしてずんずんと足音を立てながら部屋を出て行った。 「……良かった」 Iはほっとした様子で胸を撫でおろした。 僕はベッドを這い起きて、改めて自分の身体を撫でまわし、無事を確認した上でIに尋ねた。 「……君が助けてくれたの?」 「……覚えてるんですか?」 「まあね。君が何か呪文のようなものを唱えていたところも……。助けてくれたのは本当にありがとう」 「いいえ。気にしないで」 「ねぇ。君は本当に何者なの?」 「わたしには、霊感があるんです」 Iは微かに得意げな顔をした。 「いや霊感って……」 「信じないんですかぁ? 本当なんですよ? 小さいから他の人に見えないものを見たり、他の人が感じないことを感じたり……」 「それじゃ説明付かないだろって言ってるんだ。死ぬはずだった大けが人を、擦り傷一つなく蘇生するのを、何か特殊な感受性一つで片付けることは出来ないはずだ。君には何か、恐ろしい力が備わっている」 Iには何か特別な力が備わっていて、この館の怪異だってそれが関わっている。 魔法のような呪術のようなそれは、人の生死すら弄び心を自在にし、怪物を生み出し使役する、万能に近いような力のはずだ。僕が囲われているのはそんな存在だ。 「……恐ろしい力だなんて。わたしが持っているのは、本当にただの、ちょっとした霊感に過ぎないんです」 Iは言った。 「ただ、他の人に分からないことが分かれば、他の人に学べないことを学ぶことが出来る。そうして学んだ力を応用すれば、他の人に引き起こせないことを引き起こすことが出来る。それだけのことなんです。それは霊能力とか言える程、たいそうなものではありません。知ってさえいれば、本来誰にでも出来ることですから。わたしに備わっているのはだから、ただの霊感です」 「なら君は魔女ではないし化け物でもないと。そういうことだね」 僕が言うと、Iははっとした表情で僕をまじまじと見つめた。 「……そう思うんですね」 「君の言う通りならね。でも真実なんだろう。君が嘘を吐くなら僕には分かるから。君は変わった技術を持った、ただの人間の女の子だ」 「嬉しい」 Iは赤らめた頬に手を当てた。 「前にもあなたに同じことを言われました。同じことを言って貰えて、嬉しいです」 「……喜ばせる為に言ったんじゃない。つまりね、君が魔女や悪魔なら人間とは異なるルールで動いていても納得できるけど、そうじゃないということを言いたい訳だ。君は人間で、人間が人間を自分の館に閉じ込めるのは罪なんだから、早く解放して貰えないかな?」 Iは小さく舌を出して蠱惑的に微笑んだ。 「それは無理です。だって、わたしはあなたが大好きなんだもの」 僕が言い返そうとすると、それを察したのかIはその場を立ち上がり、部屋を去る。 「ずっと一緒です」 去り際にそんなことを言い残して。 僕はベッドに横になり、窓を見詰める。 あの時は確かにあったはずの門は消え失せ、広い庭のすべてが石垣に覆われていた。 僕は再び囲われることになった。それもおそらくは、以前よりもずっと厳重に。 うんざりだった。 |
競作企画 2025年07月19日 00時04分42秒 公開 ■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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