エルフの巫女と古代樹の木霊 |
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エルフの巫女フィリア・フリュールが初めて古代樹の声を聞いたのは十七歳の時だった。 森の聖樹祭が始まる当日。 巫女姫の役目を練習している時。 フィリアは古代樹の声を聞いた。 未来に起こる事象の幻影を見た。 故郷の森が、緑豊かな深い森林が、紅蓮の炎につつまれて灼きつくされてゆく光景。 激しく風がうずまき、無数の火の粉が狂おしくあたりを舞う。 一面の炎の中で次々と大木が崩れ落ちる。 空全体を覆うほどに巨大な古代樹すらも、火焔に焼かれ炎につつまれ、絶叫しつづけていた。 エルフたちは地面に倒れていた。 壮健なエルフの戦士たちも大地に倒れ伏していた。 エルフを縛って馬車の檻に投げ込んでゆく者たちがいる。 いくつもの奴隷輸送車が神聖な森に入りこんでいた。 何人も侵すことの叶わなかったエルフの里がなすすべもなく蹂躙されている。誇り高いエルフの民が長い年月をかけて守り続けてきた森が灰燼と化して消えてゆく。 燃えさかる炎を背にして、人間たちは下卑た笑いを浮かべながらエルフを狩っていた。 「大丈夫ですか、巫女姫様?」 古代樹の巨大な根の上で、祖先の骨で飾られた杖にもたれかかっていたフィリア・フリュールは、若者の声で意識を取り戻した。 「どなた、ですか……?」 「冒険者のリックです。巫女姫様の警護をする者です」 ……リック。 たぶん偽名か通り名だろう。 革の鎧に長剣、背中に革の盾を担いでいる。冒険者としてありふれた装備だった。 でも、私を警護する者? フィリアは白いローブのフードを背後におろして、リックの方に向き直った。神秘的な青みを帯びた長髪が風になびいて、エルフ特有の長い耳と白大理石のような肌を際立たせる。 リックはフィリアの顔を見て、驚いたような表情を見せた。 「エルフは美形が多いとは聞いていましたが、これほどとは。まるで彫刻の女神像のように整ったお顔なのですね」 「……ごく普通の顔立ちと思いますが」 リックは長剣を抜き、捧げてフィリアに渡そうとした。 訳が分からないまま、フィリアは抜身の長剣を受け取る。 リックが訊ねた。 「お名前を承っても?」 「フィリア・フリュールと申します。エルフの民の言葉で、『森と草原を吹きぬける風』という意味があります」 リックはフィリアの前で片膝をついた。 フィリアを見上げて言う。 「私は、聖樹祭が終わるまでのあいだ、巫女姫フィリア・フリュール様を主(あるじ)として仕え、その命を守ることを誓います」 フィリアは呆然とした。 こ、これは、いったい何なの? 当惑するフィリアに、リックがさらに続ける。 「その剣を私の首にあてて、『許す』とおっしゃってください」 フィリアは言われるままに、重い長剣の腹をリックの首にあてて、「許す」と声をかけた。 このときフィリアには明確な予感があった。 リックが自分の運命と深く係わってくる者だという予感。 そして、共に大きな試練にあうという予感。 リックの誓いは聖樹祭が終わるまでのもの。 しかし、聖樹祭が終わった後にも、きっと関係は続くだろう。 リックは、ほっとした様子で立ち上がり、長剣を受け取って鞘に収めながら言った。 「エルフの流儀には疎いので人間のやり方で忠誠を誓わせていただきました。ありがとうございます」 フィリアは思った。 たしかにずいぶんと変わった流儀だったわね。 でも、お礼を言うのはこちらなのになあ。 守ってもらうのだから。 司祭長様が依頼したのかな? いくら初めての巫女姫役だからといって、聖樹祭に備えてわざわざ冒険者ギルドに護衛を頼むなんて。 司祭長様は心配のしすぎですよ。 リックは話題を変えた。 「初めての巫女姫役でお疲れなのですか?」 フィリアは逡巡した。 幻影は克明に覚えている。 でも、あれは本当に古代樹様のお声だったのだろうか。自分が未熟なために間違えてもたらされた偽りの預言ではないのか? フィリアはこれまで古代樹様のお声を聞いたことがなかった。 ……だから、考えても分からないわよね。 リックは怪訝そうな表情で尋ねた。 「どうかしましたか?」 「……古代樹様のお声が聞こえたかもしれません」 「エルフの巫女姫様は古代樹の声を聞くことができるのですか。……すばらしいですね」 口調とは裏腹に、リックは納得しきれていない表情を浮かべている。 偽りの預言かどうかを確認するには、…… 「族長様と相談したいのですが、いまどちらに?」 「すみません、存じ上げません」 苦笑いしたリックの口調は丁寧だった。 しかし、エルフの巫女姫様がご存知ない事を一介の冒険者が知っているはずなど無いですよ、そんな考えが見て取れた。 古代樹の周辺ではエルフたちが聖樹祭の準備のために忙しく行きかっている。 その中に一人だけ、何もせずにこちらを眺めている者がいた。 戦士長が日焼けした顔にニヤニヤと笑いを浮かべて腕を組んで立っている。革の胸当てを着け、二本の長剣を左右にさげ、背中には弩弓が見える。防御を最小限に抑えた、攻撃に特化した装備だった。聖樹祭を前にして警戒を強めているようだ。 「もっとしゃきっとしろや。初めての巫女姫役で緊張しているのは判るが、あれでは居眠りしているようで、だらしなく見えたぞ」 戦士長は厳(いか)つい顔に人懐っこい笑みを浮かべながらフィリアの瞳をのぞき込んだ。 「どうした?」 「古代樹様の『お声』が聞こえたかもしれないのです」 「なんだと……?」 戦士長の顔に当惑の表情がうかぶ。ゆっくりと驚愕の表情に変わり、満面の笑みがあふれる。 「凄いじゃないか! 先代の巫女様ですら古代樹様の『お声』を聞いたのは五十歳をすぎてから、だったはずだ。エルフの民に祝福あれ。古代樹よ、我らに正しき道を示したまえ!」 「でも、自信がないのです。族長様に相談したいのですが、いまどちらにいらっしゃいますか?」 「長老の館のはずだ。祭りの準備を指示していると聞いている。同行させてもらうぞ。俺も古代樹様の『お声』を聞かせて欲しいからな」 「好ましい内容……、とは限りませんよ」 「分かっている。古代樹様の『お声』は厄災の到来を告げるものがほとんどだ」 「厄災の到来……」 「だから戦士長として一刻も早く聞いておく必要がある。正しく対処するためにな」 古代樹の巨大な根の手前は広場になっている。聖樹祭のために、広場の周囲にある木々の下草も広く刈り取られていた。 曲がりくねった道が広場から伸びている。聖樹祭のために作られた森の入り口まで続く道だが、木々に遮られて途中までしか見えていない。 広場の中央にはすでに薪が積まれている。周囲の木々の間には蔦が張られてランプを吊るす用意が整えられていた。 肉と野菜を煮込む香りが微かにただよってくる。まだ香草は使われていないようだ。 日が高い時刻にもかかわらず、食事の準備が始まっているようだった。 広場とその周辺にはすでに数多くの椅子と円卓が置かれている。さらに多くの椅子と円卓が運ばれてくる。 フィリアは、準備をしているエルフたちの間を縫って長老の館に向かった。冒険者のリックと戦士長がそれに従う。 長老の館は全体が蔦に覆われている。まるで良く繁った大きな樹のように見える。 フィリアは蔦をかき分けて館の中に入った。 中に入ると、建物が二階建ての丸太小屋であることが見て取れる。 壁に族長の持つ『エルフの杖』が立てかけられている。 呼び出しの鐘を鳴らすまでもなかった。族長が梯子を伝って降りてくる。灰色のローブが翻える。 族長はすでに千歳を越えている。いつ木々に呼ばれて土に還ってもおかしくない年齢だ。 しかしエルフの常として外見は若々しく精悍だった。長く伸ばした金髪は背中を半ばまで覆っている。 ほかのエルフと違って年齢を感じさせるのは、英知にあふれる表情と、何度も決断を下すことで培われた隠しようもない自信に満ちた態度、そして突きだした長い耳にある古木の幹を思わせるシワだった。 族長は黄金の光を放つ瞳をフィリアに向けた。 「どうした、巫女姫のフィリア様。お付の者たちを従えて族長の粗末な小屋を訪ねてくださるとは、いかなる御用向きですかな?」 長老の館はこの森で一番大きな建物だ。中で小規模な集会を開くことができる。 族長のからかうような物言いを遮って、フィリアは用件を伝えた。 「古代樹様からお声を賜りました」 「なんと、『お声』を!」 族長は二階に声を掛けた。 「フィリアが古代樹様からの『お声』を伝えに来たぞ。皆も降りて来い!」 二階から降りてきたのは、二人の副戦士長、三人の守り人、司祭長、そして料理長だった。 壁に立てかけられていた大きな一枚板の机が部屋の中央に置かれる。積み上げられていた切株の椅子が並べられる。 部屋の奥にある調理室から木製の湯飲みと木の皿が運ばれてきた。小さな固焼きパンが一つづつ配られ、中央の皿にお代わりが盛られた。 フィリアは思った。 固焼きパンにはマンネンロウが練りこまれておりタチジャコウソウで風味が整えられているわ。私の好きな香草。集中力を回復させる組み合わせね。 族長は素焼きの壺をかかえた。香草を取り出し湯の満たされた大鍋に加えてゆく。セイヨウヤマハッカを主体にしてハッカを加えて味を調え、西洋シナノキの花と苞を追加しているようだ。 この香草の組み合わせは、心を落ち着かせるためのもの。 長老は、磁器の壺から蜂蜜を木の匙ですくい取って大鍋に加えた。 磁器の壺は森の外からもたらされた貴重品。蜂蜜は祝い事や重病人のための特別な調味料。 この香草茶は、特別な時のためのもの。 古代樹様のお声にはそれだけの重みがあるのね。 族長はエルフの杖を手に取った。すべての湯飲みに香草茶が満たされたのを確認して、口を開く。 「巫女姫のフィリアが古代樹様から『お声』を賜った。エルフの民からすべての魔法が失われる『朔の刻(さくのとき)』に当たって、我らの進むべき正しき道が古代樹様によって示された」 集まっているエルフたちに驚きと動揺が広がった。それから全員が立ち上がり湯飲みを掲げた。 「エルフの民に末永く祝福のあらんことを!」 族長の言葉を合図に、全員が香草茶を口にした。 フィリアは不安と恐怖が薄れてくるのを感じた。族長が淹れた香草茶の効き目は予想よりもはるかに素早く強力だった。 冒険者のリックは、フィリアよりも少し後ろに椅子を引いて座っている。入口寄りにいてフィリアを守るために外からの侵入者に備えているようだ。 リックがたびたび姿勢を変える音が聞える。長老の説明に疑問を抱いているのだろう。 ここでは全員が正しく状況を把握することが求められているわね。 フィリアは、巫女姫として、状況の説明を始めた。 エルフの民はいつもなら古代樹様の加護とさまざまな森の精霊の助けによって自在に強力な魔法を操ることができます。 エルフの魔法は新月の刻にはその力が衰えます。そして今回は朔の刻が百三十年ぶりに巡ってきます。 今宵エルフたちは百三十年ぶりに魔力を失います。まったく魔法が使えなくなるのです。 リックが身じろぎする音が聞えた。動揺しているようだ。 ほかのエルフたちはフィリアの話に冷静に耳を傾けている。 フィリアは先を続けた。 聖樹祭は、魔法の使えなくなったエルフたちが集まって、互いに身を守りながら再び魔法が復活することを古代樹様に祈ることから始まりました。 今宵は、かつて行われてきた本来の聖樹祭が行われることになります。 聖樹祭に先だって、古代樹様から賜わられたお声を皆様にお伝えします。 フィリアは大きく息を吸い込んだ。 わたくし、聖樹祭の巫女姫に任ぜられたフィリア・フリュールは、古代樹様のお声によって、森が炎に焼かれる光景を見ました。 一面の炎の中で次々と大木が崩れ落ちてゆき、古代樹様も炎につつまれていました。 エルフやエルフの戦士たちは倒れていました。 奴隷輸送車が森に入りこみ、人間たちがエルフを捕え縛りあげていました。 しばらく、沈黙があたりを支配していた。 族長が口を開いた。 「それは、過去に起きた出来事だったのか?」 「今宵おこる事かと。古代樹様の枝振りも大木の様子も今のものでございました」 副戦士長が声をあげた。 「古代樹様は未来を告げることができるのですか?」 祭司長が答えた。 「古代樹様は、この世のものであって、この世のものではない。永い年月を過ごされた古代樹様の根は時空の壁を貫いて張り巡らされているという。これまでにも古代樹様が未来を示されたことがあると言い伝えられている」 戦士長が引き継いだ。 「だだし、未来は確定したものではない。これからの我々の行動によって未来を変えることはできる。古代樹様は未来が変わることを望んで『お声』を賜られたのだろう」 フィリアはしゃべりながら自分にもたらされたのが真の預言であることを確信し始めていた。 拳を握りしめる。 誰だって生きながら身を焼かれる未来など、なんとしても避けたいと思うだろうな。 誇り高いエルフの民が奴隷にされるなんて、…… 思わず身震いする。 リックが身じろぎする音が聞えた。何かをためらっているようだ。 「リック、ここでは誰でも自由に発言できるわ。遠慮はいらないのよ」 リックは少しためらってから話し始めた。 「冒険者ギルドに所属している『クラン黒鷲』が大量に眠り薬と痺れ薬の材料を買い求めているようです。黒鷲にはよそ者が多く、犯罪に手を染めることをいとわない者が目立ちます。奴らなら聖樹祭に乗じてエルフ狩りを行う可能性があります」 戦士長が口を挟んだ。 「エルフを狩って何になるのだ?」 リックは少しの間、考えを巡らせているようだった。口を開く。 「エルフの美しさは金になります」 「俺のような厳(いか)つい顔のエルフを捕えてもしかたないだろうに」 自覚があるんだ、とフィリアは思った。 即座にリックが答える。 「とんでもない! 戦士長殿が執事服を着て紅茶を供するなら、貴族のご令嬢や奥方たちは全財産をはたくことになろうとも、躊躇なくそのお茶会に参加しようとするでしょう」 全員が驚愕して黙りこんだ。 リックは続ける。 「仮に、仮にですが、フィリア様がメイド服を着て果実酒を供することがあれば、その酒杯をうけるために、子爵や侯爵、あるいは伯爵や公爵ですら、領地を捧げることになっても悔いることがないでしょう」 「そんな! 私の顔立ちはエルフとしてごく普通です。そんなことはありえません」 リックは何度も首を強く振った。 「フィリア様は、少女の時を過ぎて大人の女性へと成長なさろうとする、その最中にいらっしゃいます。もはや少女ではなく、さりとて大人の女性にはまだなっていらっしゃらない。この世の者とは到底おもえない儚い美しさをまとっていらっしゃいます。 フィリア様のもつ想像をはるかに越える美しさを前にして、その望みを知れば、人は喜んで全財産すら差しだすでしょう」 自分にそんな魅力が……、あるはずがないわよね。 フィリアはわざと冷たく言った。 「……リック、あなたが女性を口説く腕前は天性のもののようですね」 戦士長が口をはさんだ。 「天性の人たらしか。男を口説く腕前もたいしたものだ。あやうく俺も本気にしかけだぞ」 司祭長が続ける。 「リック殿の人たらしの腕前なら、王国の民すべてを引きつけることができそうですな。 はっ、はっ、はっ」 リックは強弁した。 「私は真実しか口にしていない。人間にとってエルフは金になるのだ!」 族長が腕を組んだ。 「リック殿によると、冒険者ギルドを隠れ蓑にして、よそ者たちがエルフ狩りを企てている。フィリアは『お声』によって森が焼かれエルフが狩られる未来を視た。 そういうことだな。 リック殿、この事を教えてくれたことだけでも、すべてのエルフの民が汝に感謝を捧げるだろう」 「ありがとうございます。ぜひ、悲惨な未来を変えてください」 族長と戦士長、副戦士長たちは二階に登って行った。 戦士長の声が聞こえる。 「たぶん眠り薬か痺れ薬だろう。それに森に火をつけてのエルフ狩りか。身体強化と解毒の魔法、水魔法も使えなくなるのは痛いな」 副戦士長が応じる声がした。 「解毒の魔法が効かないから、聖樹祭では酒に酔うことができるのじゃありませんか」 「お前らは気楽でいいなあ、うらやましいよ」 守り人の一人が二階に声を掛ける。 「眠り薬が使われるなら、狂毒を用意しておくべきじゃないのか?」 戦士長の声が二階から応えた。 「そうだな、用意しておこう」 「それにしても、盟約があるからエルフの民は人間に手出しできないのだろう。面倒だな」 「盟約は、『エルフの民と王国の民は互いに争わない。危機には協力して対処する』、だ。よそ者とは盟約を結んでいないし、盟約に背く者たちから自分を守ことは許されるさ」 司祭長と三人の守り人たちは、相談しながら長老の館を後にしていった。 フィリアとリックも外に出た。 リックが訊ねてくる。 「キョウドクとは、強力な毒か凶悪な毒のことですか? なんとも物騒な毒の名前のようですが」 「エルフが矢や刃物に使う毒は四つあります。眠り薬と痺れ薬。この二つは時間がたてば効き目が消えます。さらに、体が崩れおちる壊毒を、強力な魔獣に使います。もう一つが、判断力と運動能力を奪う狂毒です。少量の狂毒は、眠り薬の効き目を消し、痺れ薬の効き目を減らします」 それを聞いて、リックはしばらく黙りこんだ。 何かを考えながらフィリアの後をついてくる。 古代樹に向かう途中の人気のない路にさしかかったところで、リックがフィリアを呼び止めた。 リックが訊ねる。 「私のことが気になりますか?」 「はい、気にならないと言えばウソになります。でも、冒険者に過去を尋ねてはいけないのですよね」 フィリアはリックをまっすぐに見つめて微笑んだ。 「私を守ってくださる。それで充分です」 リックは顔を赤らめて満面の笑みを浮かべた。 「ありがとうございます!」 二人は広場に辿り着いた。 フィリアの脳裏にエルフや戦士たちが倒れ伏していた光景がうかぶ。 フィリアはリックと共に、いったん自分の小屋に戻った。念のために毒針を用意して腰の帯にはさむ。 「それは?」 「狂毒の毒針です。この量ならば命にかかわることは、まずありません」 それから、フィリアたちは広場に戻った。椅子に腰かけて休むことにする。 戦士長と司祭長、それに五人の守り人が広場を通り過ぎた。 フィリアが立ち上がって声をかける。 「どちらにいらっしゃるのですか?」 「森の外まで偵察だ」 戦士長が答えた。 森はエルフの国。そこから先は人間が支配する領域。森の外はエルフが勝手に行動できない異国になっている。 丘陵地帯に、人間の領域へ、これから偵察しにゆくのね。 五人の守り人は曲がりくねった路を進んでゆく。 気配を消し、森と同化してゆく。 フィリアの鋭敏な感覚からも、守り人たちの存在は消えていった。 日が傾いて、まばゆい陽光が黄金の光に変わるころに第一の角笛が吹き鳴らされた。 エルフたちが集まってくる。 全員が朔の刻に備えて武装している。 すでに『お声』の光景と違っているわ。 フィリアは握りこぶしに力をこめた。 広場の中央に積まれた薪のそばで火が焚かれている。その上に吊るされた大鍋にはシチューが煮込まれている。 希望する者にはパンとシチューが配られていた。 フィリアはリックに語りかけた。 「私たちも、少し食べておきましょうか」 「そうですね」 フィリアとリックは木の鉢によそわれたシチューと、大ぶりの皿に乗せられたパンと香草茶の入った木製の湯飲みを受け取った。広場の円卓に置いて椅子に座る。 リックが感想をもらした。 「塩と香草、素朴な味付けですが美味しいですね」 「ええ、マンネンロウは私の好きな香草、このシチューは私の好きな味です」 フィリアは微笑んで応えた。 リックはまばゆいものを見るように眼を細めてつぶやいた。 「これでは、まるで恋人同士が、…… しっかりしろ、使命を忘れるな」 リックはフィリアから目をそらして広場の中を見わたした。 フィリアは円卓に肘をついて、笑みを浮かべながらそんなリックを見つめている。 リックが尋ねた。 「私を見つめていると、なにか楽しいことでもあるのですか?」 「はい。くるくると表情が変わって、面白いな、と思っています」 「……そうですか」 「リックさんをながめていると、楽しくて見飽きることがないですね」 「光栄です、と言うべきなのかな…… 私はフィリアさんを見つめていると、心がざわついて直視できなくなるのに。 なんだか不公平な気がするなあ」 「私を見つめてくださって構いませんよ。守らなければならない相手を良く知っておいてください。どうぞご遠慮なく」 「……ありがとうございます」 そう言いながらも、リックはますます顔を赤らめ、視線をフィリアに向けることはなかった。 広場に集まったエルフたちは、椅子に腰かけ、シチューとパンを食べながら、時々古代樹の巨大な根の方を見つめている。 巨大な古代樹の根の上には台が置かれ、澄み切った水晶が光を放っていた。 空は茜色に染まっていたが、まだ明るかった。 しかし、森の中では日の光が遮られる。 森の中に闇が広がってゆく。夜の帳が降りてくる。 リックは、古代樹の根の上に置かれた水晶の輝きを見つめている。 「暗くなってきたのに、水晶の輝きがむしろ弱まったように見えますね」 「水晶は、古代樹から魔力が一番強くもたらされる場所に置かれています。魔法が失なわれるにつれて水晶の輝きが衰えてゆくのです」 リックはしばらくフィリアを見つめた。 それから、ゆっくりと視線をはずして首を振った。 「魔力は、……」 リックはつぶやくように言葉を紡いだ。 「失われた魔力は、自然に回復するのですか?」 「ええ。魔力は古代樹様からもたらされます。回復には数日かかり、七日かかったときもあるそうです」 「そのあいだ魔法が使えないのか…… 大変ですね」 「ええ。そういえば、しばらく前に森をおとずれた旅の方にこの話をしたら、目を丸くしていましたよ」 リックは真剣な表情になった。 「しばらく前に森をおとずれた旅人が『朔の刻』が来ることを、エルフが魔法を使えなくなることを、知ったのですね」 「わたくしがお話ししましたから」 リックは考え込んだ。 「旅人なら、あちらこちらでその話を吹聴するだろうな。ひょっとすると、今回のエルフ狩りを誘発したのは、フィリア様……?」 リックは腕を組んだ。 「王国の古の盟約はまだ生きている。エルフ狩りを企てているのはよそ者たち。そうなると、今回のエルフ狩りには帝国が絡んでいる可能性があるな」 リックは広場の隅に目をやった。 それに応じて目立たない男がやってくる。鉄の兜に鉄の胴当て、長剣を帯びている。 フィリアは、近くに来て初めてその男がガッチリとした体形であることに気がついた。 気配を消していたのね。 身のこなしから、かなりの手練れと思えた。 気がついてみると、広場には同じように気配を消している男がほかに四人いる。 リックは男を紹介した。 「冒険者仲間です。まだ登録したばかりなので私と同じ初心者クラスですが腕は立ちます」 リックは男に向き直って言った。 「伝えてくれ。朔の刻のエルフ狩りは帝国が影で糸を引いている可能性があると」 男はうなずき、何も言わずに早足で去っていった。 さきほど男がいた場所にはすでに別の男がいる。あたりに溶け込んでおり、誰も気にしていない。 「見事な穏行の技ね。どれほどの訓練を受けているのかしら」 「それをあっさりと見破られるとは。エルフの眼はとてもよいのですね」 「エルフは耳もよいですよ。人の耳には聞えない音で会話ができます」 フィリアはベルトに挟んだ束ねた枝を示した。 「笙(しょう)と呼ばれています」 「耳が長いのには理由があるのですね」 フィリアは思わず微笑んだ。 リックは頬を赤らめてフィリアから視線をそらせた。 リックは顔をそむけたまま尋ねた。 「巫女姫になるためには、どんなことが必要になるのですか?」 「どんなことだと思いますか?」 フィリアは質問で返した。 リックはフィリアを見つめた。 「年齢ですか?」 「いいえ、前の巫女姫様は十五歳の時から百三十年間勤めていらっしゃいましたよ」 「容姿?」 「ち、ちがいます!」 「う~ん、思いつかないなあ」 「巫女姫は古代樹様のお声を聞くことができないといけません。古代樹様のお声は、人やエルフの言葉とはまったく違います」 「……それで?」 「すべてを、あらゆる事柄のすべてをありのままに受け入れることができる。それがお声を聞くために巫女姫に求められることです」 「なるほど。だからフィリアは人を疑うことを知らないのですね」 「え? ど、どうしてそうなるのですか。そんなことはありませんよ!」 リックはフィリアをじっと見つめる。 ど、どうして、そんなに優しそうな目で私を見つめるの? リックは握りこぶしほどの大きさの黒い布の袋を取り出した。 「邪魔にならなければ、これを持っていてください」 袋の中に入っていたのは、見たこともないほど巨大な魔晶石だった。 驚愕するフィリアにリックは言った。 「魔力はほとんど残っていないので、役に立たないかもしれません。お守りにしてください」 「……ありがとうございます」 どうしてリックは、これほどまでに私の事を気にかけてくれるのだろう。 そうだ。 「私を守るようにギルドに依頼したのは、司祭長様ですか?」 「いいえ」 「では、戦士長様?」 そんなはずはないわよね。 「そうですね。族長様、ということになるかと思います」 リックも詳しくは聞かされていないのかな? いつしか森は深い闇につつまれていた。 空に月影はなく、無数の星が輝いている。やがて水晶の中の光がゆらめき、そして完全に光が失われた。その瞬間に、広場中でため息がもれた。 第二の角笛が吹き鳴らされる。 広場の中央に積まれた薪に火がつけられた。 張り巡らされた蔦にランプが吊るされて火が灯されてゆく。 それを見ながらリックが言った。 「儀式には火を使わないのですね。私たちと違って……」 「ええ、私たちが崇めるのは古代樹様と恵みをもたらす森、そして水と風と光と闇ですから」 族長が古代樹の巨大な根の最奥に立った。司祭長がすぐ後ろに影のように付き従っている。族長が聖樹祭の始まりを宣言した。 「今宵は百三十年ぶりに朔の刻がめぐってきた。いまやエルフの民はすべての魔法を失っている」 族長のまとう灰色のローブは闇に溶け込んでいるように見えた。黄金の髪が風になびき、金色の瞳が炎の輝きをうけて暗闇の中で光を放った。 族長は古代樹の枝で作られた『エルフの杖』をかかげた。 「かつてエルフの先祖は数が少なく弱かった。先祖は古代樹様から魔力をさずかった。あまたの聖霊たちの助力によってさまざまな魔法を使うことができるようになった。そして、エルフの民は栄えた」 ゆっくりと、エルフの杖で周囲を指し示してゆく。 「今宵われらはすべての加護を失った。わが身に宿る力のみで夜をすごすこととなった。ならば、われらはここに集いて、ふたたび森の恵みの与えられんことを乞い願おう」 エルフたちは一斉に唱和した。 「古代樹よ、我らに正しき道を示したまえ!」 「いってきますね、わたしの出番ですので」 フィリアはリックにそう語りかけて、金の糸で刺繍された白い絹のローブをまといフードをかぶって立ち上がった。聖樹祭で巫女姫を務める乙女が使用することが定められている儀式用の白いローブだった。 長い袖が風に吹かれてゆらめく。 フィリアは先祖の骨で飾られた『巫女の杖』を手にもち、ゆっくりと巨大な古代樹の根にむかった。 二人の巫女見習いがフィリアに従ってあゆむ。まだ幼いが、フィリアと同じ白いローブをまとっている。一人は円杯を、もう一人は銀色の壺を捧げ持っている。二人ともひどく緊張しているようだった。 「足元に気を付けてね」 フィリアが声をかける。 緊張するのは、うまくやろう、失敗してはいけない、などと余計な事を考えているから。 今は歩くことに集中すべきとき。 やるべきことに集中すれば緊張はほぐれる。 先代の巫女姫様はそうおっしゃっていたわ。 三人は、一歩、また一歩と古代樹の根を昇ってゆく。 巫女見習いの二人は、水晶が置かれた台の手前であゆみを止めた。円杯と銀色の壺を台の上に安置する。 フィリアは一人で進み続ける。 シャラ、シャラン…… 先祖の骨が歌う。 やがて、フィリアは古代樹の巨大な根にある『預言の結節』へと辿り着いた。上方へと回りこむ。 さらにその上に族長と司祭長がフィリアを守るようにたたずんでいる。フィリアは二人に軽く礼をした。 広場は静まり返っている。 フィリアは広場の方に向き直り、フードを背後におろした。 朗々と言葉を紡ぐ。 「先ほど古代樹様から『お声』を賜りました。私たちは迫りくる試練に立ち向かわなければなりません」 エルフたちは身じろぎもせずに沈黙を守っている。 フィリアは杖を高くかかげて宣言した。 「ここから発した響きは古代樹をめぐりて再びここにかえる!」 そして、フィリアは杖の石突きで古代樹の根にある『預言の結節』を正しく打った。 コオオオォォォオオォォォォオォォォォン 杖から発した響きが古代樹に広がってゆく。 音は永い年月のあいだに刻まれた年輪によって変化し、互いに響き合いながら、太い幹から枝へ、張り巡らされた根へと、果てしなく広がってゆく。 反響が届き始めた。 フィリアは自分を無にして、杖へと届く響きをありのままに受け入れる。骨を震わす響きを感じとる。風に乗って伝わる気配を心に刻む。 古代樹が生きた八千年を越える年月によって刻まれた時の残影が響いてくる。 大きく広がった枝から伝わる人の耳には聞えない響き、深く広がり時空の壁さえ貫き越えた根が奏でる神秘の曲目、古代樹から広がり周囲の風に乗ってながれる消えゆく旋律。 人間とは比べようもなく鋭敏な感覚によって、フィリアは骨に響く調べを、杖に宿る震えを、風に乗って広がる繊細な音を、ありのままに感じとり続けた。 膨大な書物をめくるように数多くの幻影がもたらされてくる。 フィリアは、ありのままに受け入れ続ける。 これ以上は受け入れられない。受け入れたらすべてが失われてしまう。 そのように感じ取れたときに、フィリアは耳を澄ますことを止めた。 幻影を心に刻みつける。 まず、皆に伝えるべきことは、…… フィリアはつぶやいた。たとえ側にいても人間の耳には聞き取れないだろう密やかなつぶやきだった。 「森の外にある丘陵の影に八十人ほどの人間が潜んでいるようです。まだ動く様子はありません。合図を待っているのでしょう。守り人たちに伝えてください」 その声に応じて、フィリアの背後にたたずむ司祭長が身じろぎをした。 司祭長は笙(しょう)を取り出して吹き鳴らした。 「森の外に潜む者あり。その数八十人ほど」 人の耳には聞こえない響きが森に広がり声を伝えてゆく。 フィリアは周囲とは異なる動きをする者に気付いた。 広場にあらたに五人の人間が入りこんでいるようだ。 いずれもエルフの戦士が見張っている。 すでに気づいて対処しているのね。 わざわざ指摘する必要はないでしょう。 「戦士長に、広場の警備をお願いします」 フィリアはかすかにつぶやいた。 広場の端にいる戦士長がうなずいた。 エルフの耳は、魔法で強化されていなくとも、人間よりもはるかに優れている。 広場ほどの距離で意志を伝えるだけなら、ひそめた声で十分だった。 儀式を続けなければ、…… フィリアは水晶の置かれた台の前へと戻った。 巫女見習いがフィリアに円杯を捧げる。フィリアは円杯を受け取った。 大きな金色の壺が運ばれてくる。この日のために造られた蜂蜜酒が満たされている。 それぞれの円卓から一人づつエルフが立ち上がった。途中で銀色の壺を受け取りフィリアの前に列をつくった。 フィリアは円杯で蜂蜜酒を酌み、銀色の壺に注ぎいれて分けてゆく。 すべての円卓に蜂蜜酒の入った壺が配られ、広場にいる全員の器が満たされたのを確認してフィリアは宣言した。 「エルフの民に祝福あれ!」 広場に集うすべてのエルフがフィリアに唱和した。一斉に器の蜂蜜酒を飲み干す。 フィリアは、異常に気づいた。 周囲の景色がグラリと揺らぐ。 あたりが急速に暗くなってゆく。 古代樹の根が眼前に迫ってくる。 気を失いかけている! 眠り薬? 蜂蜜酒の中に? 油断したわ。眠り薬なら、針かトゲを使うと思い込んでた。 でも、蜂蜜酒には眠り薬の素材の臭いも味もなかった。 効き目が速すぎる。 無味無臭の、…… 錬金術で作られた眠り薬! それにしても、 神聖な蜂蜜酒に欲望にまみれた眠り薬を入れることを思いつくなんて…… フィリアの意識は闇へと落ちていった。 突然に胸に焼けつくような痛みが生じた。全身に燃え上がるような感覚が広がってゆく。 狂毒が効力を発揮しているようだ。 フィリアは杖にすがって立ち上がった。 胸に刺さった毒針を引き抜く。 なんとか間に合ったようね。 広場にはエルフたちが倒れていた。 壮健なエルフの戦士たちも大地に倒れ伏している。 人間が、曲がりくねった路の先へと走ってゆく。すぐにその姿は見えなくなった。 森の外にいる仲間たちに知らせに行ったのね。 せっかく古代樹様が未来を教えてくださったのに…… 後悔の念がフィリアの心に満ちる。 立っているのは私だけなのか…… でも、まだ森は焼かれていない。 奴隷輸送車は、広場についていない。 そして、私しか動ける者はいない。 ならば、私が皆を救わなければ。 眠り薬の効き目を消さなくては! 『覚醒の魔法』を使う、そのためには…… まず、魔力が必要ね! フィリアは、痺れの残る身体に鞭打って杖をかかげた。 古代樹の根に『始まりの魔法陣』を描く。 魔法陣に力を与えるためには魔力が必要だ。 自然に魔力が満ちるのを待っていては数日かかる。 フィリアは、リックから受け取った巨大な魔晶石を魔方陣の中央においた。魔晶石にわずかに残る魔力をゆっくりと絞り出す。魔力はゆっくりと、ゆっくりと魔法陣に広がっていった。 魔法陣が淡い光を放った。魔力が満ちたのだ。 魔法陣の中に、古代樹の根が透けてみえる。一本の根の先に、ずっとずっと先に、蒼く光る魔力が視えた。 きっと、異界とつながった根なのでしょう。 古代樹の根を伝わって、魔力が細い糸になってゆっくりと始まりの魔法陣にあがってくるのが視える。 しかし遅すぎる。 魔力が少なすぎる。 これでは間に合わない! 大気がゆらぐ。馬に乗った人間たちが丘陵を進んで森に向かっていることを伝えてくる。 いけない! このままでは、森が炎に焼かれてしまう。 一面の炎の中で次々と大木が崩れ落ちてゆき、古代樹様も炎につつまれていた光景がありありと脳裏に浮かぶ。 つづいて奴隷輸送車が次々と森に向かってくるのが感じ取れる。 このままではエルフたちが捕えられてしまう! ガシャリ、ガシャリ、ガシャン…… 鉄の鎧がたてる音を響かせながら、何人もの人間が広場に入ってくる。 三十人以上いるわね。 騎士たちは倒れたエルフたちを一瞥すると隊列を組んで古代樹の根に向かってきた。 広場に入りこんできた鎧姿の騎士たちをみてフィリアは恐怖を感じた。 騎士たちは広場の中に広がり、フィリアを包囲するように進んでくる。欲望にまみれた視線でフィリアをなめまわすように見つめている。 さらに、フィリアは視線を感じた。はるかかなたから誰かがこちらを伺っている。 何人もの視線が自分に向けられている。 これほどの距離がありながら邪な欲望がはっきりと感じとれる。 なぜ、……なぜ、私だけを見つめているの? さらに、黒い鎧で身を固めた騎士たちが広場に入ってきた。その数はおよそ二十人。木々との境目を進んでゆき、広場全体を包囲する態勢をとると、そのまま動きを止めた。 私に向かってくるのが三十人。二十人ほどが広場全体を包囲している。鎧で身を固めた人間だけで五十人ほどいる。たぶん森の中から私を見ている連中が奴隷輸送車を担当しているのね。 奴隷商という忌まわしい言葉が思い浮かぶ。 そして、奴らの目的は、私! フィリアを包囲しおえて騎士たちの動きが止まった。 銀色に輝くいかにも高価そうな鎧をまとった男が進み出てきた。鎧には黄金に輝く精緻な紋様が描かれている。 「その姿は、まるで女神か妖精のよう、だったか。旅人の言葉だから話半分に聴いていたが、実際の美しさを表すためには、まるで不足だったようだな」 フィリアの恐怖は徐々に消えてゆき、悔しさが湧き上がってくる。 私が自由に魔法が使えさえすればエルフの民を守ることができるのに。こんな奴らの思い通りにはさせないのに。 気配を感じた。 一人のエルフが杖をつきながら古代樹の根をくだりフィリアの方に降りてくる。微塵も恐怖を持たない堂々としたあゆみだった。 騎士たちはあっけにとられてそれを見守っている。 「司祭長様、どうして……」 無事だったのですか? と尋ねる余裕はなかった。 「儀式の準備で蜂蜜酒を飲む時間がなかったのだよ。効き目が速かったから気づいた。戦士長や戦士たちは、まっさきに蜂蜜酒を飲んでいたよ。あいつらは毒が入っていると分かっていても飲みかねないからなあ」 司祭長は、そう言いながらエルフの杖で複雑な魔法陣を書き加えた。 「すでに『始まりの魔法陣』が働いている。それならば、魔力強化の補助魔法を」 司祭長は古代樹の根の最奥に目を向けた。 「非常事態だ。構わぬな、族長」 族長は座り込んだままだった。わずかにうなづいた、ように見えた。 司祭長が魔法陣を閉じる。 『始まりの魔法陣』の輝きが古代樹の根の中へ、その先へ、ずっとずっと先へと伸びてゆく。 立体積層魔法陣? でも、これは禁呪だったのでは…… 『始まりの魔法陣』の光が古代樹の根のずっと先にある魔力の光へとたどり着いた。 『始まりの魔法陣』が強い光を放った。膨大な魔力が激しく湧き上がってくる。 蒼い光に混じっていろいろな色が輝いている。赤や緑、黄色の細い筋が宝石のようにきらめいている。 魔力が暴れている。これでは魔法を制御できないわ。 誰かがフィリアの前に立った。 「くひがしひれてしゃへれなひ」 焦るフィリアに声が届いた。 「リック?」 「のんれなひかあ、かあらはうごく」 「体は動くのね?」 リックは剣をかまえ、フィリアを守りながら広場の方を向いた。四人の冒険者がリックとともにフィリアを守ろうとする。 それを見て、銀色の鎧の男が騎士たちに命じた。 「抜刀!」 ジャリィィン。 騎士たちは一斉に長剣を抜いた。 銀色の鎧の男が吠える。 「これだけの人数をたかだか五人で相手にできるはずなどあるまいに。愚か者めが」 侮蔑していることが明白な態度だった。 始まりの魔法陣からあふれ出た魔力は巨大な魔晶石の中へと吸いこまれてゆく。 魔晶石にいったん蓄えられた魔力なら安定して使えそうね。 フィリアは『覚醒の魔法』の魔法陣を描いた。戦士長を覚醒させる。 フィリアはさらに『解毒の魔法』の魔法陣を描く。リックの麻痺を解く。 「助かった。これでまともにしゃべれる」 リックが叫んだ。 「ゲスカム公爵家と王家の紋章の刻まれた鎧をまとう者たちに問う。なにゆえ王の命令なしに近衛兵が動いたのだ」 騎士たちの体が動揺するように揺らいだ。 先頭の男は、嘲るような笑みを浮かべた。 リックが凛とした声を発する。 「ゲスカム公爵に問う。国王陛下よりいかなる命令をうけて近衛兵を動かしたのか」 ゲスカム公爵はリックを嘲笑した。 「今宵は百三十年ぶりにエルフどもから魔法が失われると聞き及んだからだ」 リックが公爵に問う。 「眠り薬、痺れ薬を用いてエルフを狩ろうとする行為に、いかなる大義があるのだ」 公爵は馬鹿にするようにリックを睨んだ。 「なぜ大昔の約束を守らねばならぬ。なぜエルフどもを守らねばならぬのだ」 リックは長剣を自分の前に立てた。 「朔の刻にあたりエルフから魔法が失われる事にたいして、国王陛下から古き盟約に基づきエルフを守れとの勅命がくだされている」 ゲスカム公爵はリックをあざわらった。 「いまだに百年以上も昔の盟約にとらわれているとは、時代遅れも甚だしい。頑迷固陋もここに極まれりだな」 「百三十年前、王国が帝国に攻められたとき、エルフの弓兵隊が王国の危機を救ってくれたことを忘れたのか」 「そんな昔のことを知るはずがないわ。さて、逆らわぬエルフは奴隷としての身分を保証してやろう。主人に感謝し従順にふるまうなら御奉仕する栄誉を与えてやる。逆らう者どもは皆殺しだ!」 フィリアが反論する。 「誇り高いエルフの民を奴隷にする気ですか。下卑た根性は隠しようがありませんね!」 ゲスカム公爵は騎士たちに呼びかけた。 「ここにいるのは、高貴なる身分の貴族や騎士様にたてつく思いあがった無法者にすぎぬ。こいつらは、恐れ多くも王家に連なる方に手をくだした犯罪者どもだ。さあ、こいつらを殺せ! そして帝国から王国の支配権を受け取ろうぞ!」 自分たちでリックを殺し、人間殺しの罪をエルフになすりつけようとしてるのね。 「恩寵を与えた王国にたいしてあろうことか反逆を企て、かつて国難を救ったエルフを奴隷となし、それを手土産にして帝国の後ろ盾を得て、王国を支配しようというのか」 リックが大音声をあげる。 「ここにいる愚か者たちは、受けた恩を忘れた野蛮人、王国の民とエルフの民に害をなす人の姿をしたケダモノにすぎない」 リックは剣をかかげた。 「ケダモノを倒すことに遠慮も躊躇も無用だ」 ゲスカム公爵が吠える。 「遠くから矢や貧弱な魔法を飛ばすことしかできぬ軟弱なエルフごときは物の数ではないわ!」 戦士長が騎士たちの後ろで、ゆっくりと立ち上がった。動きが悪い。痺れ薬が効いているようだ。フィリアは解毒の魔法を戦士長へと飛ばした。 続けて、倒れ伏している副戦士長たちに覚醒魔法と解毒魔法をかける。 フィリアは、さらに戦士たちに覚醒魔法と解毒魔法をかけつづけた。 五名ほどのエルフ戦士が立ち上がった。 司祭長が笙をかなでた。 「守り人は敵の数を減らせ! 気づかれぬように」 人の耳には聞こえない響きが森の中へと声を運んでゆく。 広場の近くで笙が吹かれた。 守り人たちからの伝言だ。 「待ちくたびれたぞ。まず奴隷輸送車の連中を倒す」 守り人たちは森と同化することに長けている。気配を断って、草むらの中、樹木の上にひそんでいる。 守り人たちは気配を断ったまま奴隷商の死角へと音もなく移動した。合図とともに一斉に痺れ薬を塗った吹き矢を放つ。 攻撃されていることを悟らせずに奴隷商たちを倒してゆく。音をたてずに奴隷商たちを全滅させる。 数人の守り人が、エルフを捕えるために用意された縄で奴隷商を拘束して奴隷輸送車に投げ込んでゆく。 短い伝言が発せられた。 「全員捕えた」 公爵から命令されても、騎士たちはリックを攻撃することを躊躇してた。 公爵はそれを見てリックに駆け寄り、切りかかった。 ガキィィィン! 戦士長が素早く回りこんで、その斬撃を受ける。公爵の前に立ちふさがる。 「フィリアを守っていてくれ」 リックはうなずいて、一歩さがった。 公爵が戦士長に打ちかかる。 戦士長は力任せの打ちこみを真っ向から受け止めた。 呪縛が解けたように騎士たちが動き始めた。 四人の冒険者は、フィリアを守るために騎士たちを迎え撃った。 一人の騎士が戦士長に切りかかる。 戦士長はもう一本の長剣を引き抜き、騎士に斬撃を放った。 騎士は鎧ごと両断された。 さらに一人の騎士が切りこんでくる。 戦士長は二本の長剣で二刀流を操っていた。切りかかってきた騎士を盾ごと叩き伏せる。 公爵はぼうぜんとした。 「なんだと、王国の騎士が片手であしらわれているだと?」 「俺たちは酒に酔えることを楽しみにしていたのだ。本格的に酔うのは百三十年ぶりのことになる。それなのに、それなのに。俺たちの楽しみをよくも奪ったな!」 戦士長は長剣で公爵の剣を払った。 ゲスカム公爵の剣が吹き飛ばされた。 戦士長は立ちすくむゲスカム公爵に向かって自分の剣の一本を放り投げた。 剣はゲスカム公爵の前に突き立った。 「丸腰の相手を倒しても誉にはならぬ。剣を失くしたのなら、この剣を使うがいい」 「馬鹿にするな!」 公爵は、剣を抜こうとして驚愕した。 「な、なんだ、この重さは。この剣を片手で操っていただと!」 「樹上でくらす生き物は体重の二十五倍以上の握力がある。そうでなければ樹上で生活できないからな。森林エルフでも体重の十倍くらいの握力ならあるぞ」 「握力が体重の十倍だと? 化け物か!」 戦士長がこともなげに言う。 「森の中では射線が得られない。しぜんとケモノでも魔物でも接近戦や肉弾戦が主体になる。騎士団長様よりも日々の実戦経験の量や鍛えられ方がまるで違っていた。ただそれだけのことだよ」 騎士団長は剣を引き抜いて必死に振るおうとした。しかし、剣の重さに振り回されている。 戦士長があざける。 「騎士団長様は片手剣を両手で操ることも難しいほど剣技には不慣れとお見受けする。騎士たちの後ろに立って指示だけをなさってこられたようだな」 ゲスカム公爵は激昂した。 戦士長がさらに挑発する。 「それとも、俺の剣とダンスを踊っておられるのかな? なんとも変わった趣味をお持ちのようだ」 公爵は、自分の剣を拾いあげた。 戦士長の舌鋒はとどまることを知らない。 「王国に反逆するようなお方は普通の趣味をお持ちではないのだな。まことに道理にかなっている」 司祭長が、『感覚強化』の魔法陣を描いた。 戦士長の感覚を強化する。これで、もともと人間よりも優れているエルフの目や耳はさらに強化される。相手のフェイントを容易に見抜けるようになる。 フィリアは、さらに『神経強化』の魔法陣を描いた。戦士長に重ねがけする。 「ありがたい。ようやくいつもの調子が戻ってきた」 公爵が吠える。 「調子に乗るな!」 戦士長は『神経強化』によってゲスカム公爵の攻撃をわざとギリギリで回避した。そこから繰り出される神速の攻撃! エルフの戦士たちはさまざまな強化魔法によってその能力を遺憾なく発揮する。 戦士長の攻防一体の反撃に、ゲスカム公爵は翻弄され続けた。 戦士長が愉快そうに笑う。 「ひ弱な人間が相手では、エルフが得意とする接近戦をする前に、たいてい勝負がついてしまう」 笑いながら、ゲスカム公爵の長剣を吹き飛ばす。 「得意な戦法を見せることができて、俺は機嫌がいいのだぜ。また剣を拾わせてやるから、もう少し遊ばないか?」 ゲスカム公爵は地面に膝をついた。疲労困憊の体で地面に倒れ伏す。 「勝負あり、のようですね」 リックが判定をくだした。 戦士長が公爵をあざ笑う。 「ここなら弓矢が使えるな。軟弱なエルフの攻撃を見せてやろう」 フィリアは新たな魔法陣を描いた。 「身体強化、『筋力増強』!」 戦士長がそれを受けて命令する。 「獲物を狩れ!」 エルフの戦士たちが一斉に矢を放った。 ブン! 鋭い弓弦の音が響いた。 騎士たちの鉄の鎧を弩弓から放たれた矢が打ち抜いた。騎士たちがバタバタと倒れてゆく。 矢じりには痺れ薬が塗られていた。 公爵は蒼白になった。 「ばかな、この威力は弩弓ではないか。それを連射するだと!」 フィリアの唱えた『筋肉増強』によって、エルフの戦士たちは弩弓を連射、いや速射していた。 立っているのがゲスカム公爵だけとなったところで、広場全体を包囲していた黒い鎧の騎士たちが動いた。 戦士長たちに向かってくる。 鎧に刻まれた紋様を見てリックがうめいた。 「帝国騎士団だと? その兜の飾りは騎士団長か。帝国は本格的に王国を侵略するつもりなのだな」 ゲスカム公爵がわめく。 「王国の支配者にたいして反逆を企てたエルフどもに鉄槌を食らわせてくれ!」 帝国騎士団の団長が冷たく言った。 「軟弱なエルフどもに後れをとったのか。そのような弱虫に王国の支配を任せることなどできぬ相談だな」 「ばかな、約束が違いますぞ!」 帝国の騎士たちはゲスカム公爵を押しのけてフィリアたちの前に立った。 戦士長が挑発する。 「力がすべてか。その力とやらを見せてもらおうか」 帝国騎士団長が応じた。 「エルフどもに身の程をわきまえさせるのも一興か。相手をしてやろう。ほかの者は手を出すな!」 完全鎧の面貌を降ろして戦斧を構える。 「初手は譲ってやろう」 騎士道を重んじた行動ではなかった。 戦士長の攻撃では完全鎧に痛手を与えることなどできまい。無力さを思い知らせたうえで叩きのめそうという傲岸不遜な判断だった。 「いいのか? 後悔するなよ」 戦士長は風をまいて騎士団長に打ちかかった。右手の長剣で戦斧を打つ。 戦斧は地面に叩きつけられそうになった。 さらに左手の長剣で戦斧をすくい上げる。 神速の二連撃だった。 その勢いで、騎士団長の体は半回転した。 右手の長剣の腹で騎士団長の左肩を打つ。 騎士団長は一回転した。 戦士長は左右の長剣で騎士団長の肩と腰を打った。騎士団長の体はコマのように回転した。回転速度が上がってゆく。 騎士団長は態勢を整えようとする。しかし、完全鎧の重さのせいで回転の勢いが止まらない。 「くそ、くそ、くそ!」 戦士長が騎士団長を揶揄する。 「日頃から宮廷に出入りしてる上級貴族様だけのことはある。なかなか見事な舞踏だぞ」 「このような恥辱を帝国の伯爵に与えて無事にすむなどと思うなよ」 フィリアは思った。 この人、本当に貴族だったんだ。 戦士長はからかうように伯爵に語りかける。 「おお、怖い、怖い。では、後の憂いを断たせてもらおう」 左右の長剣を騎士団長の両肩に叩きつける。回転が止まり、脚をおおう鎧が胴体にめりこんだ。 騎士団長は悲鳴をあげた。 戦士長は、騎士団長の腕を長剣で持ち上げもう一方の長剣の腹を叩きつけた。 腕が肩に大きくめりこむ。 戦士長は、もう一方の腕も鎧にめりこませた。 兜を叩きつけて胴体にめりこませる。 そこから長剣による乱打が始まった。 ガン、ガン、ガン、ガン! ガガガガガガガガ、ガン、ガン、ガン! 激しく金属を打つ音が広場に響いた。 あまりの凄まじさに、居並ぶ騎士たちはそれをただ見つめるだけだった。 戦士長が長剣を止めたとき、完全鎧は鉄の塊になっていた。 そばに鎧の靴が片方、転がっている。 脱げたのではなかった。 靴の中には中身が入っていた。 戦士長は長剣で中身ごと靴を鉄塊の上に乗せて数回叩きつけた。 靴は鉄塊と一塊になった。 「こいつはエルフに害をなす人の姿をしたケダモノにすぎない、のだったよな。ほかに俺に屠殺されたいケダモノはいるか?」 戦士長の言葉に、見守っていた帝国の騎士たちが固唾をのむ。 フィリアが明るく言った。 「盟約があるから人間と争ってはいけないのだと思っていました。この連中ならケダモノと同じ扱いでいいのですよね?」 リックが頭を抱えてあきれたように言った。 「凄まじく残虐な扱いでエルフらしくないと思ったけれど、すべて私の言葉のせいだったか」 フィリアが当然のように言った。 「ええ、エルフと人間は種族が異なりますから。互いに理解しあうためには言葉をありのままに受け入れる以外に方法はありませんからね」 リックは肩をすくめてゆっくりと首を振った。 「おっしゃられる通りですね。それにしても、これがエルフの『剣舞』ですか。国王から実際に見るまで決してエルフに立ち向かうなと言われていましたが、深く納得です」 戦士長が問いかける。 「ほう、エルフの剣舞を知っているのか。お前、本当は何者だ?」 「名乗りが遅れて申し訳ありません。本名はリチャード・アレクサンドロス。王国の第三王子で王位継承者第四位にある者です。此度は古の盟約を履行せんがため王命により馳せ参じました」 リックは勅命御璽をかかげた。 「王子様なの?」 「ごめんね、白馬に乗っていなくて」 「では、誰に頼まれて私を守ってくれたの?」 「族長様に頼まれて、……ということになるのかな。百三十年前の約束だけれどね」 その時、森の入り口から笙の響きが聞えた。 「騎馬の騎士と武装した兵士が森の入り口の手前にある丘陵に出現した。その人数は百五十人ほど。壮健で士気が高く松明を掲げている」 百五十人、多い! 戦士長が緊張するのが分かった。 屈強な新手が現れたのね。 次から次へと。 笙の響きが続いた。 「王国の勅命御璽をかかげ、森に入る許可を求めている」 「王国の勅命御璽を持った騎士と兵士が森へ入る許可を求めているそうよ」 リチャード殿下が安心したように言った。 「私が呼び寄せた古の盟約を守る者たちでしょう。森に入れても大丈夫だと思うよ」 フィリアは巫女見習いの少女たちとともにエルフたちに覚醒魔法と解毒魔法を掛けた。状態異常の解けたエルフたちが仲間の異常を回復させてゆく。 三十人ほどの騎士が広場に入ってきた。大部分の騎士と兵士たちは森の外に残っているようだ。 その時には、ほとんどのエルフが立ち上がっていた。 司祭長がエルフの杖を戦士長に手渡した。 戦士長が挨拶をする。 「国王陛下は盟約に基づいてエルフを守れとの勅命をくだされたと伺っている。さらに、王国の第三王子で王位継承者第四位にあらせられるリチャード・アレクサンドロス殿下を遣わされ、エルフ狩りの企てをお知らせくださった。 エルフの民は予め備えることで森を失い奴隷の身分に落ちる定めを避けることができた。全てのエルフの民は王国にたいしてこのことを深く感謝する。 リチャード・アレクサンドロス殿下は王位継承者第四位という高位の方であらせられるにもかかわらず、自ら剣を振るってエルフの巫女姫をお守りくだされた。この誠意、このご恩は、何事にも代えがたい。 捕えた人間たちをどうすべき、だが……」 リチャード殿下が答えられた。 「今回の件について、人は人の定めた掟によって裁かれるべきだと考えます」 騎士団長が受けた仕打ちを見ていた帝国の騎士たちは激しく首を振って同意の意志を示した。 「そこで、森に侵入した者たちは、すべて王国でお預かりしようと思うのですが、いかがでしょうか? 処罰の詳細は後日お知らせします。異議があるならば、その時に承ります」 「よろしくお願い致す」 戦士長が応えた。 あら? この挨拶は族長がすべきなのでは。 それに、なぜ戦士長がエルフの杖を持っているの? フィリアは、座りこんでいる族長がまったく身動きをせず、顔やローブからのぞく手がしわだらけになっていることにようやく気付いた。 司祭長が描いた補助の魔方陣の効果は凄まじかった。しかし、その効果は命を削ることで発揮される。だから禁呪とされている。 フィリアは、そのことにようやく思い至った。 司祭長は、戦士長の脇に立っている。その顔と手にも深いシワが刻まれていた。 司祭長がフィリアにだけ聞こえる声でつぶやいた。 「族長はすでに千年を越える時を生きた。私も十分な時を生きている。悲しむことはない。私たちはいつ木々に呼ばれ土に還ってもおかしくない年齢だったのだよ」 奴隷商は奴隷輸送用の馬車を七台用意していた。 全ての奴隷商、ゲスカム公爵に従った騎士や兵士たち、帝国の騎士たちは縄で縛られて奴隷輸送用の馬車に詰め込まれた。 リチャード殿下が率いる百五十人の騎士と兵士によって王都へと護送されていった。 奴隷商は王国の辺境にある鉱山で強制労働に従事することになった。奴隷商によって鉱山に送り込まれた労働者は少なくなかった。労働者たちには復讐の機会が与えられることとなった。 ゲスカム公爵と王国に反逆した騎士たちは、領地没収、身分剥奪のうえで国外追放となった。ゲスカム公爵は、宝石と金貨を隠し持っていたことが発覚し、旅の途中で盗賊団の襲撃を受けて落命したと伝えられた。追放された騎士たちの消息は不明だった。 帝国の騎士たちは、偽りの身分を名乗っている者たちだと帝国から断定されて、事実上の国外追放処分となった。大部分の者たちは過去が問われることのない冒険者ギルドに所属して暮らす道を選んだ。 騎士としての誠実さと戦闘力の高さが評価されて、優れた前衛として冒険者たちに好意的に受け入れられている。 王国とエルフの民との間には、新たな盟約が結ばれる事になった。 その準備のために、双方からあわただしく人の出入りがあった。王国から派遣された使節団には、なぜか執事、侍女長、仕立て屋が加わるように要請されていた。 いよいよ盟約が締結される段取りになって、エルフ側から王国にたいして、出席者は、族長、司祭長、戦士長の三名、護衛は守り人が六名であると通告があった。 「なんだ、フィリアは参加しないのか。また会えるのを楽しみにしてたのになあ」 第三王子リチャード殿下の落胆ぶり凄まじく、周囲の者たちがその身を心配するほどであった。 「盟約の締結は政治的なこと。神事ではないから巫女姫は関係ない。だから出席しないかもと思ってはいたけれど、やっぱりこたえるなあ」 盟約を締結する当日は晴天だった。昼近くになって、王宮の玉座の間にエルフの使節団が到着したことを告げる声が響いた。 「エルフの族長様が到着なさいました。エルフの族長様はエルフの民の総意をまとめる立場にあるため固有の名前を持たないことが通例となっている、とのことでございます」 国王がつぶやいた。 「公正無私を目指すと言うのか。我が国の上に立つ者も参考にすべき信念だな」 元戦士長が『エルフの杖』を携えて玉座の間に姿を現わした。 「続いて御入場なさるのは、司祭長のフィリア・フリュール様でございます」 ガタン! 第三王子リチャード殿下は思わず立ち上がっていた。フィリアの元に駆け寄ろうとして、あやうく思いとどまる。 フィリアは満面の笑みを浮かべて、国王陛下とリチャード殿下、いならぶ貴族たちに華麗に挨拶した。王国貴族の洗練された流儀にかなった完璧な挨拶だった。 王国の出席者たちから賛嘆の声が漏れた。 「お見事でございます」 参列者の背後に控えた侍女長が思わず笑みをこぼした。 「最後に、戦士長様の御入場でございます」 元副戦士長が長剣を下げ弩弓を背負って入場してきた。 三人は、そろって中央に用意されたテーブルへと歩みを進めた。 王と宰相、リチャード殿下がテーブルの反対側に歩み寄る。 全員が同時に着席した。 盟約の文章が読み上げられる。 『王国の民とエルフの民は互いに争わない。危機に際しては協力して対処する』 文章は簡潔だったが、双方がこめた想いは深かった。 滞りなく盟約が締結されたのちに、懇親会が開催された。テーブルの配置が変えられて昼食の用意がされてゆく。 フィリアはローブを脱いでカチューシャを頭につけた。 国王陛下とリチャード殿下のグラスにワインをそそぐ。 リチャードは目を丸くした。 「わたくしにそんな魅力がないことは分かっています。でも、わたくしがメイド服を着て果実酒を供すれば、その酒杯を受けた方は、わたくしの望みを叶えてくださるのでしたよね」 国王は、面白そうに微笑んだ。 「ほほう、リチャード王子はそのような約束をしていたのか。王族として言葉をたがえることは許されぬぞ」 リックは唾を呑み込み、緊張した様子で尋ねた。 「何をお望みになられますか?」 「王国の民とエルフの民の平和なお付き合いが末永く続くことを望みます」 会場中から一斉に賛同する声があがった。 フィリアはメイド服で男性に、族長は執事の恰好をして女性に、参加しているすべての人のグラスにワインを注いで回った。 族長は見事に執事役を演じきっていた。 「ふむ、ふむ。姿勢も良いし、体のキレも見事じゃ。なにより体幹がしっかりしており、ブレがない。さすがは元戦士長だけのことはあるのお」 指導した執事はとても機嫌が良かった。 国王が乾杯の音頭をとった。 「一つの時代が終わりを告げた。新たな時代は若者たちに託される。輝かしい未来を迎えられることを祈って!」 リチャード王子が続けた。 「輝かしい未来を造りだすことを誓って、乾杯!」 次の『朔の刻』まであと百七十年のことだった。 |
競作企画 2025年08月22日 00時06分46秒 公開 ■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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