旅先にて |
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木造の小さな駅で電車を降り、一日に二本しかないバスにゆられゆられて辿り着いたのは木立に囲まれた古びた旅館だった。 平成を軽く飛び越えている。昭和レトロの落ち着いた雰囲気が疲れ切った心を癒してくれる。それが予想外に心地よかった。 ここならば呼び出されてもすぐには戻れないと言い訳できる。そう思って画面を開くと圏外と表示されていた。秘境という言葉に偽りはなさそうだった。 旅館へと続く道は掃き清められていた。打ち水の跡が新しい。歓迎されていることが伝わってくる。心が暖かいもので満たされてくる。 無事に高校を卒業して、なんとか大学へ入学した。学費は親が払ってくれるが、都会では生活費が足りなくなる。生まれて初めてバイトを経験した。そして社会人になることの厳しさを体験した。 「そんなものは注文してないわよ!」 テーブルに品物を届けたら、怒鳴りつけられた。 後ろのテーブルにいた女学生がつぶやいた。 「注文してたわよ。わたし、はっきり聞こえたもの」 「そうよねえ」 「あれは、ひどいわよねえ」 連れ合いの女学生たちが同意している。 そんな小さな声でなく、大きな声でこの客の言いがかりを否定してくれよ! そう思っても、理不尽な要求は覆らない。そして、店から失敗の後始末を要求された。 「この店では、順番を書かなければいけなかったのか?」 いま入って来たばかりの老人が息巻く。 「そんなことは知らなかったから、名前を書いていなかった。ずっと前から待っているのに後から来た者が先に呼ばれているぞ!」 あなたは、たった今いらしたばかりじゃないですか。 そう言おうとするが、老人の勢いに負けてしまう。 「申し訳ありません。こちらのテーブルにいらしてください」 本来は順番が先の家族づれやカップル、急いでいそうな会社員たちに頭をさげて、老人を案内する。老人は当然のような顔をして、たった一人で六人が座れるテーブルを占拠する。 暇を持て余しているくせに、忙しい現役社会人の邪魔をするなよ。 そんな思いを押し殺して、笑顔を見せる。 老人は、ふんぞり返って注文を出した。 内心を隠して、注文の品をテーブルに運ぶ。 すっかり食べ終わって、席を立つかと思ったら、ポテトとソーセージを追加注文してきた。 あんたが席を開けるのを、待っているお客さんたちが何人もいるのですよ。 そう言いたかった。 「注文をしてやるのだ。有難いお客様だろう。感謝しろ、この若造が!」 そんな内面の思いを傲慢な表情にだして、偉そうに席を占めている。 顔が引きつってくるのが自分でも分かった。 なんとか笑顔らしきものを浮かべる。 できるだけ素早く注文の品をテーブルに運んだ。 老人は、時間をかけて、ゆっくり、ゆっくりと食べている。 ようやく食べ終わった。 素早く小皿を片づけた。 ようやく居なくなってくれる。 そう思ったら、デザートを注文しやがった。 手が込んでいるから用意するのに時間がかかる品だった。 ほかのテーブルは、すでに3~4回客が入れ替わっている。皆が忙しい時間帯だから短い時間で食事を済ませてゆく。皆が殺気のこもった眼でこちらを見てゆく。 心配したとおり、この事はSNSに投稿されていた。 申し訳ないので、事情を伝えて謝罪した。 凄まじい反響があった。数えきれないほどの相手からひどい悪口を口汚く言われた。個人攻撃や人格否定が当たり前のように行われた。住所や電話番号、家族構成とその住所、仕事先や、通学先の大学名まで公表された。 職場や大学といった実社会にも大きな影響が出ていた。 近頃は絶対に謝らない人がネットでも実生活でも増えているという。『謝ったら死ぬ病』という言葉さえある。 バイトをして実感した。謝ったら死ぬ病なのではない。謝ったりしたら殺されるのだ。 「悪い事をしたから謝ったのだ」 「あいつは悪人だ!」 大勢が一斉に襲い掛かってくる。まったく容赦がない。 悪人に人権など認めてはならない。最初から人権などない。悪人には正義の鉄槌を食らわせなければならない。 そんな決意を固めて、社会的にも、精神的にも、追い詰められて自殺するまで、襲い掛かってくる。いや死んでからも残された家族を標的にして大勢が襲い掛かってくる。いつまでも、いつまでも。 だからバイトを休んだ。そして旅に出ることにした。心身ともに疲れ切り、心がささくれ立っていた。 簡素な門をくぐって敷地に入ると玄関まで石が敷き詰められていた。庭木の濃い緑が美しかった。大きな池があるらしく、木々の向こうから魚の跳ねる水音が響いた。 旅館は古い木造だった。玄関のガラス戸が大きく開かれている。玄関には大きな切り株を生かした上がりかまちがあった。磨きこまれて上品な艶を見せている。隅々まで掃除が行き届いているのが見て取れた。 旅館の女将が絶妙の間合いで出迎えてくれた。早すぎたらせわしなく思うし、遅ければ放っておかれたと感じるだろう。この旅館なら心から寛げそうだと感じた。 部屋は和室だった。畳の香りが微かにしている。窓際の籐椅子に座って体を伸ばす。長旅で固まっていた背中が心地よくほぐれてゆく。 窓は沢に面していた。すこし開けられたガラス窓の隙間から、さわやかな涼風が吹きこんでくる。深山を吹きぬけた風は、かすかに山の冷気を帯びていた。 ああ、都会の酷暑とはまったく違うな。 ここは刺々しさとは無縁の場所だ。 いわれのない非難にさらされて縮こまっていた心が恐る恐る緊張を解いてゆく。押しつぶされそうになっていた心の重荷が少しずつ消えてゆく。久しく感じたことの無かった安らぎが、ゆっくりともたらされてきた。 遠慮がちに入口のふすまが開かれた。 廊下から声を掛けられた。 「お風呂が沸いていますが、お入りになられますか?」 ここに到着するまでに、かなり汗をかいていた。夕食までには時間がありそうだ。 「はい」と答える。 入口に平たい籠が置かれており、中に男物の浴衣と甚平が入っているのが見えた。 「タオルは浴場にございます」 そう言うと、気配は遠ざかっていった。 人間関係に疲れ切った身には、直接に顔を合わせたり長い会話をせずに済んだのが有難かった。 風呂場までの廊下は意外と長かった。母屋とは違う棟にあり、離れ座敷のような位置づけになるようだ。 風呂場に入ると、ヒノキの香りに包まれた。数人が一度に入れる家族風呂の大きさだ。浴槽は総ヒノキ造りのようだ。この香りの立ち方からすると今年になって改装されたばかりなのだろう。 湯はやわらかく、温もりが体にじんわりと浸みこんでくる。窓から燃えた薪の香りが入ってくる。なんとも心地よかった。 薪焚きの風呂は湯がやわらかいと聞いたことを思い出した。町でも老舗の風呂屋は薪焚きにこだわるそうだ。 くだらない事を思い出した。 大学の同級生が、「湯が沸くのではない。水が沸いて湯になるのだ」と言っていた。でも辞書には、「水が沸いて、その結果湯になることを、湯が沸くと表現する」と書かれている。 「(水が沸いて、その結果、水が湯になって)湯が沸く(と表現する)」 そう解釈するのだそうだ。 心が自由になれたと実感する。 手足を充分に伸ばしてゆったりと風呂につかった。すっかりくつろぐことが出来た。本当に久しぶりのことだった。 部屋に戻ると、布団の入ったふすまの前に平たい籠が二つ置かれていた。片方には男物の寝間着が、もう片方には女物の浴衣が入っていた。大きさからすると、子供用のようだ。ピンクの地に可愛い花の模様があしらわれている。 近づくと女物の浴衣がふわりと浮きあがった。風に吹かれるように舞いあがる。身をよじるような動きで、すこし開いた天袋へ吸いこまれるように入っていった。 腕を伸ばして天袋を開けたが、中には何もなかった。ピンクの浴衣は姿を消していた。天袋の中をよく見てみたが、天井裏へとつながる入口などもないようだった。 いったい、どこに行ったのだろう。 トリックにしては、仕掛けが分からない。 なぜ、偶然に泊まっただけの客にこんなことをするのか。動機も分からない。 なぜ、こんなことが起こるのだ。 しかし、怪奇現象など、あるはずがない! なにか合理的な説明があるはずだ。 深く考えてみたが、分からない。 手がかりもない。 押入れの隣にあるクローゼットから、身じろぎをするような音が聞えた。扉を開いた。幼い妹が膝をかかえて座りこんでいた。 自分の不注意のせいで、SNSに投稿なんかしたせいで、幼い妹にまで怖い思いをさせている。 申し訳ない、すまなかった、そういった思いが込み上げてくる。 部屋の真ん中に置かれたテーブルには小ぶりな饅頭が置かれている。お茶を入れる用意もできている。 「お菓子を食べるか?」 妹はうつむいたまま首を横に振った。 風呂に入る様子はなさそうだ。このままクローゼットに入っているつもりのようだ。 窓から青空が見えている。しかし、山の日暮れは早い。すこし部屋が薄暗く感じられてきた。部屋を通り抜ける風の冷たさが増してきたような気がする。 部屋の明かりが点けられた。 「お食事をお持ちしました」 二人分の食事が用意される。妹の分は少な目だった。子供用のようだ。妹がクローゼットから這い出してきた。二人で夕食を食べた。 献立は、ありふれたものだった。 でも、とても美味しかった。 ただのホウレンソウのお浸しがしみじみと美味しかった。体の栄養となり力になることが実感できた。たぶん露地物で、たっぷりと太陽の恵みを濃い緑の葉に受けて育ったのだろう。温室育ちで栄養が露地物の四分の一しかないスーパーの野菜とはまったくの別物だった。 鮎の塩焼きは、おそらく天然ものなのだろう。味に深みがあり、滋養に富んでいる。最初は箸で身をほぐしたが、すぐに頭から丸ごと食べてしまった。腹の部分のほろ苦さが何ともいえぬ旨味を感じさせてくれる。付け合せの生姜との相性も抜群だった。 厚手の皿に盛られたトリの唐揚げは、噛むほどに旨味がでてくる。おそらく地鶏なのだろう。つけあわせのキャベツの千切りは甘味が強く野菜本来の味を感じさせてくれる。これも露地物なのだろう。 ブタの三枚と玉子、ネギのぶつ切りの醤油煮込みも絶品だった。白米が止まらない。たちまち三回お代わりをした。 大ぶりの御椀にたっぷりと盛られたトン汁には、ジャガイモ、里芋、人参、玉ねぎ、コンニャク、牛蒡、蓮根が入っていた。 食感が一つ一つ異なっており、一口ごとに楽しめた。ぜんぶ根菜だなあ、と思いながら食べた。あっ、玉ねぎは違ったか。体に力が満ちてくる。これなら頑張れるという思いがわいてくる。 食後のアンデスメロンは、さっぱりとした甘さで心地よく夕食を締めくくってくれた。 緑茶は上質な茶葉をたっぷりと使っているようで香り高くさわやかな後味を残した。 すっかり満足して食事を終えた。 食事をして妹も元気が出たようで、風呂に入ると言い出した。道案内をかねて長い廊下を進んだ。 「一人で大丈夫か?」 妹は大きくうなずいた。 男湯と女湯に分かれて入った。 さっきよりも少しぬるめの湯が心地よかった。先に出て待っているつもりだったが、妹の方が先に待っていた。 「ごめん、待たせたね」 そう言うと、フルフルと首をふった。 廊下を歩きながら、 「気持ちよかったね」 と言ったら、小さくうなづいた。 部屋に帰ると布団が敷いてあった。 妹は、さっさと布団に入った。 窓は締めてあった。山の中では夜風が寒くなるのかもしれないな。そう思った。 布団に入ったら、たちまち寝てしまった。 疲れていたのだろうな。無理もない。 久しぶりにぐっすりと眠った。 朝食は広間で食べた。女将が飯盛りをしてくれた。 アジの干物に、おろし大根。納豆に玉子。昔懐かしい献立だった。 短冊に切った濃い緑色の海苔は香りが良く美味しかった。梅干しは柔らかで、酸味がそこまで強くなく、絶品だった。昆布の佃煮も旨かった。浅漬けの胡瓜と沢庵もとても美味しかった。 女将に、全国の名品を取り寄せているのか、と聞いてみた。 「いえ、ほとんどがこのあたりで採れる材料ですよ。うちの手作りです。ああ、海産物は知り合いに頼んで取り寄せています」 鶏肉、人参、里芋、蓮根、蒟蒻、タケノコをいため、だし汁を加えて煮た小鉢がとても美味かった。 「がめ煮ですか、気に入っていただけて嬉しいです」 「この季節にタケノコが取れるのですか?」 女将は、上品に苦笑いした。 「五月に採って水煮したあと酢を加えておくと風味が保たれますよ」 さりげない気配りがすべてに行き届いているのだろう。 布団が片付き、掃除のすんだ部屋に戻った。出発の準備を整えながら、名残を惜しんだ。体は元気を取り戻した。気力も持ち直している。本当にここに来てよかった。心からそう思う。 門の手前まで、女将が見送ってくれた。 「最後にいらしたのが、あなたのような好い方で本当に良かった」 男女二組の箸と、薄青と淡い桃色のタオルを差しだしてくれた。 「よろしければ、いかがですか」 とても上品な造りだった。 有難くいただき、荷物の中に納めた。 門を出ると、自分が一人だけなことに気がついた。 「あれ、妹は……」 「妹さんがいらしたのですか?」 そうだった。一人っ子だから妹も兄弟もいるはずは無かった。なぜ妹がいるなどと錯覚したのだろう。何か合理的な説明があるはずだ。必ずあるはずだ。なければならない。 眩しい。肌をチリチリと焼く強い日差しが照りつけている。空気はどんよりとして湿気が多く、まるでサウナに入っているようだった。これほど離れていても、悪意が迫ってくるのがピリピリと感じられる。 しかし、今なら前を向いて立ち向かってゆくことができる。今度は敗けはしない。だから今は振り返ってはいけない。そんな予感を強く感じる。 でも。 ……背後には、崩れ落ちた古い木造の建物が伸び放題の夏草に埋もれていた。 |
競作企画 2025年08月22日 00時05分09秒 公開 ■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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