トビオリさん/ずきずき虫とぐるぐる様

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 トビオリさん

 〇

 ニュース番組なんかにおける「体を強く打って死亡」という表現は、遺体が原型を留めていない状態を指すらしい。
 高所から落下しただとか、トラックに跳ね飛ばされただとか。
 隣の県のとある小学校の近辺で、そうした状態の子供の遺体が発見されていると、連日報道が行われている。しかも不可解なことに、そうして見付かる子供の遺体の周辺に、転落死できるほど高い建物はなく、車に跳ね飛ばされたような形跡もないそうなのだ。
 アタマのおかしな殺人鬼が、金槌か何かで子供をぺしゃんこに叩きのばしているのか?
 遺体の状況だけで言えば、それはまさに高所落下による遺体という他ないそうなのだ。
 血塗れになった子供の遺体が、地面にぺしゃんこに広がって張り付いている。骨は粉々、内臓もぐしゃぐしゃ、しかし近くに高い建物はない。
 誰かがヘリコプターか何かで空から落としたとでも考えなければ、到底説明のつかない話ではあった。
 恐ろしい話だ。不思議な話でもある。けれど、小学五年生のあたしにとって、県境を越えた遠くで起きているその話題は、どこまで行っても他人事だった。それよりも、あたしが強く関心を寄せるのは、あたしにとってより身近な、客観的にはささやかないくつかの問題だった。
 例えば、前から親にねだり続けている、来週発売のゲームを買って貰えるかどうかとか。
 昨日の帰りしなに誤って割ってしまった窓ガラスのことが、バレてしまわないかどうかとか。
 先週クラスにやって来た転校生が、ただの一言も、誰とも口を利こうとしないことだとか。

 〇

 平成十六年九月某日。

 〇

 その転校生、仮に『N』としておこう。
 転校初日、教師によって紹介されたNは、誰の目から見ても綺麗な子供だった。けれどもそれでいて、或いはその美しさが故に、どこか異様な雰囲気も併せ持っていた。
 小学五年生としては背はあんまり高くなくて、どちらかというと幼いタイプの顔立ちだったけれど、小ぶりな高い鼻や薄さの割には柔らかく膨らんだ薄桃色の唇は、作り物めいて整っていた。髪の毛は肩に届かないくらいのボブカットで、漆のように暗い色をしている。信じられない程真っ白な肌と相まって、日本人形のような気配を醸し出している。
 何よりも特徴的なのはその瞳だった。見たことない程大きくて黒目がちな、宝石のように綺麗な瞳だ。しかしその目はなんというか、漫画でいうハイライトのない瞳の表現のように、どこかしら空虚で、あらゆる感情を人から読み取らせないものだった。
 あるいはNは本当に、何の感情も持ち合わせていないのかもしれない。そう思わされることも度々ある。いや、本当に何も感じないのでは生きていけるはずもないから、あたし達が持つような子供らしい感情を持たないだけで、何か彼女にだけ通用する感性が備わっているということなのかもしれない。
 転校初日、物珍しさから机の周りに集まって来る子供達の質問攻めに、Nはただの一言も返さずにただ虚空を見詰め続けた。そしておもむろに、ふらりと席を立ちあがったかと思ったら、教室の外へと出て行ってしまった。
 それっきり、Nは休み時間が来る度に教室の外に出るようになった。転校初日という友達を作る上で最も大切な一日を、そんな風に過ごすということは、多分Nは友達なんて一人も欲しくないんだろう。
 人嫌いの変わり者。
 ただNはそれだけではない。
 一度だけ……あたしはNに声をかけたことがあった。
 ある日の行間休み、図書室で時間を潰していたあたしの元に、Nがふらふらと訪ねて来た。訪ねて来たと言ってもそれは、ただ当てもなく校舎をふらつく過程で図書室に来たというだけなのだろう。
 「Nだよね? 何やってんの?」
 若干の期待を込めて、あたしはNにそう尋ねた。
 「Nも一人でいるのが好きだよね? 本は読むの?」
 Nは何も答えなかった。あたしのことを一瞥することすらしない。そもそもあたしに声を掛けられたことなど、セミが鳴いたのと同じくらいどうでも良いことのようだ。Nは忌憚のない足取りで図書室に背を向けようとした。
 「おい。待てよ。無視すんなよ」
 あたしは言う。
 「なんか言えよ。声かけてるだろ?」
 声に怒気を孕ませてみせると、そこでNはようやく、あたしの方を振り返ってこういった。
 「今あなたの座っている、その席。譲った方が良いですよ」
 あたしは何がなんだか分からなかった。『なんか言えよ』とは言ったものの、そんな意味の分からないことを言われる筋合いはなかった。
 「待っている人がいます。窓際で、校庭の景色を見ながら本が読めますから。風が吹いて来るのも、五月の今の季節なら、気持ちが良いですし。きっとそこが良いんでしょう。譲ってあげてください」
 「いや……意味分かんないよ。待ってるって、誰が? 今図書室、あたしとあんたしかいないじゃん」
 「いますよ」
 Nはその黒い宝石のように綺麗な、それだけに生者のものには見えない空虚な視線であたしの隣、窓際の壁の方を見詰めた。
 「あなたには見えないだけです」
 「何で? 何で見えないっていうの?」
 「生きていない人だから」
 そう言って、Nは再びあたしに背を向けた。
 「あたし、霊感があるんです。だから、見えちゃいけない者が見えるんです。今伝えたことを信じるかどうかはあなたの自由ですが……でも、ちゃんと譲った方が良いですよ。そこがお気に入りのようですから」
 そうしてNはあたしの前から消えた。
 そのやり取りを終えて、あたしはどこか安心した気持ちすら覚えていた。あの気味の悪い、何が何だか分からない転校生の姿が、おぼろげにだか掴めたような気がしたからだ。
 霊感少女なら、別にN以外にも何人もいる。無暗とアピールが強すぎない限りは嫌悪の対象となることも少ないが、しかし小学六年生にもなれば、本気で信じている者はそうはいない。
 不思議な力や体質を持つと口にすることで、特別な自分を演出できると考えている、痛い子の類。思えば誰とも口を利かない孤独なポーズも、彼女なりの自己演出の一環なのかもしれない。
 そう決めつけて、Nという少女を分かった気になっていたところで……行間休みの予鈴が鳴り響いた。

 〇

 Nはその後も他人のことを無視し続けた。
 それでは、周りから嫌われないはずもない。ある日の昼休み、クラスでも派手な女子であるOが、取り巻きを従えてこんな話をしていた。
 「Nってさ、帰る時西公園の前通るよね? そこで待ち伏せてさ、公園に引き込んで一回シメとかない? ウザいしさ、あいつ」
 分かる分かる、そうしようそうしようと話す取り巻き達に、Oはしたり顔でこう続けた。
 「やっぱりさ、ああやって他人のことずっと無視してて、それが許されると思ってるんなら、それはやっぱり叩いといた方が良いよ。ああやって鉄仮面みたいに無表情な顔で、ずっと無口で、そういう居直ったみたいな態度はさ、やっぱり自分勝手だと思うから。あいつの為にもなんないしね」
 その時、Nは教室の外にいた。あたしは教室を出て、Nを探して校舎の中を彷徨った。
 Nは校庭の池の前にいた。濁った水の上に浮かぶ蓮の花にじっと視線をやりながら、ただ茫然と立ち尽くしている。その表情からは、やはり何の感情も読み取れない。
 「ねえN。大事な話。無視しないで聞いて」
 最低限度の対応とばかりに、Nは視線だけを緩やかにこちらに向けた。
 「Oとかその取り巻きとかがさ、おまえをリンチしようとしてるみたいなの。西公園の前を通る時、中に引き込むんだって。だからさ……」
 だからどうしようというんだ? あたしは今更ながら、その事実を伝えることがNの窮地を救う訳ではないことに気が付いた。今日のリンチを上手く回避したところで、連中は執念深くNを狙うに違いないのだ。
 「そうですか」
 そのことに気付いているのかいないのか、Nはあたしの忠告に対し、こう返事をした。
 「なら、わたしの家まで一緒に帰ってもらって良いですか?」
 あたしは絶句して目を丸くした。
 「わたし、転校したてで、家までの道を一通りしか知らないんです。西公園前を避ける場合、あなたに案内してもらわなければ、家まで帰れません。お願いします」
 「……今までずっとシカトして来た相手にそのお願いは厚かましすぎない?」
 あたしが思わずそう返すと、Nは「じゃあいいです」とだけ口にして、あたしに背中を向けた。
 そして去り際に。
 「教えてくれて、ありがとうございます」
 と一言、口にした。
 その台詞を聞けたからなのか、そんなことは特に関係なくただの気まぐれなのか。それは、自分でも分からない。
 けれど気が付けばあたしはこう口にしていた。
 「待って。分かったいいよ。一緒に帰ってあげる」
 Nは振り返って小さく頭を下げた。

 〇

 あたしの住む街はまあまあ田舎で、通学路の左右には田んぼとか畑とかがずっと並んでいる。数十センチほどの段差の下にある田畑からは泥や土、植物の匂いが立ち上っていて、日焼けしたコンクリートの匂いと混ざり合って、あたしの鼻孔を穿り回す。
 下校を共にするNは無口だった。そのあまりの無言っぷりに嫌気がさしたあたしは、若干の怒気を孕ませた声でこう質問した。
 「Nってさ、どこから越して来たの?」
 「T県です」
 答えは端的に、最低限度のものが帰って来る。それはあたし達の住む隣の県で、それは今世界中から注目される怪事件の舞台でもあった。
 「なんか、大変なんだってね。何もないところで、ぺしゃんこになった子供の死体が見つかってるって、ニュースで見たよ」
 あたしが言うと、Nはやはり端的に「そうですね」と口にした。
 「見たことあるの?」
 「はい」
 「え? 本当に?」
 「はい」
 「人の死体って、ぺしゃんこになった人の死体って、どんな感じなの?」
 思わず変な質問をしてしまった。Nは表情を何も変えずにこう答えた。
 「汚いです」
 あたしが絶句していると、Nはふと何かに興味を持ったように、視線を道路の端に向けた。
 そこには一匹のカラスが横たわっていた。
 いつもは綺麗に畳まれているはずの黒い羽根が、二枚とも大きく圧し折れ、ひしゃげた状態で広がっている。全身のあちこちから血が滲み、乾いたその様子は、傷ついてからかなりの時間が経過していることが見て取れる。柔らかそうな黒いお腹は、息をするように僅かに上下しているが、息絶えるのも時間の問題というところ。
 車に轢かれたのか、それとも誰かに悪戯されたのか。いずれにせよ哀れな姿をさらすそれに、Nは衒いもなく近付いて、両手を伸ばして抱き上げて見せた。
 「え? ちょっとN、マジなの?」
 あたしは思わず声をかける。
 「なんでそんなことするの? ばい菌付くよ?」
 「まだ息があります」
 Nは答える。
 「持ち帰って手当をすれば、或いは……」
 相変わらずの無表情のNに、あたしは何を言って良いか分からなくなった。多分手当をしても治すのは無理に見えるし、死にかけのカラスを持ち帰ったら家の人に絶対に怒られそうだ。しかしそんなことをどういう風に言えば諭すことができるのかは分からなくて、あたしは途方にくれた。
 その時だった。
 「おいU。自分友達いないからって、そんな転校生とつるんでる訳?」
 Oの声がした。背後には数人の仲間を引き連れ、意地の悪そうな目の端を吊り上げている。
 「つか何それ? カラスの死骸? きったない」
 竦んで立ち止まるあたしに対し、Nはいつも通りの対応をした。こちらを睨み付けるOを無視して、死にかけのカラスを抱いておもむろな足取りで歩きはじめた。
 「おい。無視すんなよ!」
 OはNの襟首を掴む。
 「今日はあんたと話があって待ってたのにさ。見付からないからこっちから探しに来てやった。なんで道を変えたの? もしかしてUの奴に入れ知恵された?」
 立ち止まるNは何も答えない。無表情のままOの方に振り返り、虚ろな声で言った。
 「この子の手当てがあるので、帰らせてください」
 「うるさいよ!」
 OはNの手からカラスを叩き落とした。そして地面に着いたカラスの頭を、スニーカーの裏で思う様踏みつける。
 頭蓋骨の砕ける音がした。皮膚から飛び出した白い骨の破片が、カラスの黒い体毛の中で嫌な感じに映えていた。裂けた皮膚の隙間から、赤黒い血液と共にまろび出る薄桃色のゼラチン質は、頭蓋骨の中に入っていたカラスの脳味噌に見えた。
 本当に死骸になったカラスを無感情に見下ろすNの胸倉を、Oは掴んだ。
 「こんな汚いもんに構ってないでちゃんと話を聞きなよ。こっちはあんたのその態度がずっとアタマに来てるんだ! そうやって人をシカトするのはやめ……」
 「おまじない」
 Nは唐突に言った。
 「は?」
 「わたしが転校して来る前の学校で、流行っていたおまじないがあるんです」
 淡々とした口調で語り始めたNに、Oは鼻白んだような様子を見せる。
 「目を閉じて、どこか高いところに立っている自分を想像するんです。それから『トビオリさん、トビオリさん、いまそちらに参ります』と、口に出して三度唱えます。そしてその場でぴょんと前に向けてジャンプをすると、不思議なことが起こるというものです」
 Nが自分からここまでまとまった台詞を吐くのは初めてだった。胸倉を掴まれても睨まれても、動じる様子を見せず、無表情を崩さず、淡々と語るNの様子には、吸い込まれるような迫力があった。
 「やってみてもらえませんか?」
 黒目がちの大きな瞳にOの全身を映しながら、Nは静かな声で言った。
 「……何それ? なんで私がそんな気持ちの悪いことをしなきゃいけないのよ? 何も起きないに決まってるじゃない、そんなの」
 「何も起きなかったら、あなたの言うことを何でも聞いても良いです」
 「本当に?」
 「ええ。本当に」
 Oは思案するような顔を浮かべつつ、Nの胸倉から手を離した。
 冷静に考えれば、Nの持ち出した取引はOに何のメリットもない。取り巻き達と共にNを囲っているこの状況では、そんな取引に応じずとも、Nに言うことを聞かせる方法はいくらでもある。
 「……分かった」
 それでもOがそれに応じたのは、Nの語る『おまじない』に興味を持ったからだろうか? それとも、どう揺さぶっても何を言っても動じない、人形のように無機質なNの態度に、何か恐れのようなものを抱いていているからだろうか?
 いずれにせよ、Oは目を閉じて、気持ち顔を空の方へと傾けた。そして口に出して、呪いの中核となる呪文を三度唱える。
 「トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります」
 Oはその場で足を屈め、手順通りに前へ飛ぼうとした。その時。
 「ちゃんとやれ!」
 Nが鋭い声を発した。
 今まで聞いたこともないような声量で、胸にずんと来るような低く短い調子の声だった。取り巻き達は怯えた様子ですくみ上り、Oは思わず目を開けてNの方を見る。その視線には恐怖が滲んでいる。仲間と共に捕らえ、どうとでもなぶり者に出来るはずのNを相手に、Oは確かに怯えていた。
 あたりの電線から声を上げてカラスが飛び立ち、風に吹かれた木々が鳴る音が響く。そして静寂が訪れた世界の中心で、Nだけが無表情を保って立ち尽くしていた。
 「な……何よ。ちゃんとやってるじゃない」
 Oが声を震わせる。
 「ちゃんと高いところにいる自分の姿を想像してください。学校の屋上とか、切り立った崖の上とか」
 「あんたね……何も起きなかったら、本当に覚えてなさいよ」
 再び目を閉じて、「屋上、屋上……」と口元で呟いてから、呪文を唱え始めた。
 「トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります。トビオリさん、トビオリさん、今そちらへ参ります……」
 そう言って、Oはその場で一歩飛ぼうと足を折りたたみかけ、そして叫んだ。
 「きゃ、きゃあああっ!」
 周囲で見ているあたし達が、思わず息を飲み込むような、つんざくような悲鳴だった。
 「な、何よこれ! どうなってるの?」
 Oは目を閉じたまま、その場で我が身を抱きしめて喚いた。
 Nはあくまで淡々とした口調で言う。
 「良いから飛んでください」
 「飛べる訳ないじゃない……こんなの!」
 Oはアタマを抱えながら絶叫する。
 「高くて怖くて……それに何なのよ、下にいる奴は!」
 目を閉じたままOは下を覗き込んでいた。そこにはただ砂色の地面があるだけだった。否、目を閉じたOにはその砂色の地面すら見えていないはずだった。瞼に覆われた暗闇の世界で、しかしOはOにだけ見える何かを覗き込み、Oにだけ見える何かに怯えていた。
 「良いから。飛んでください」
 「嫌よ! こんな化け物のいるところに飛べる訳ない! 助けて! あんたなんか知ってるんでしょう?」
 瞼の上を掻き毟りながら、Oは喚き続けている。
 「ねぇ、お願い。目を開けさせて。助けてよ……ねぇ、助けてっ!」
 「助けません。飛んでください。……飛べっ!」
 目を閉じたまま半狂乱になっているOの背後に回り、その背中を勢い良く押した。
 Oは前のめりになってその場に倒れる。
 その時だった。
 正面から砂の上に倒れただけのOの身体は、まるで凄まじい高所から落下したかのように、激しい音と衝撃を響かせた。まるで飛び降り自殺の遺体のように、骨は砕け、皮膚は裂け、噴き出した血液があたりを真っ赤に染める。粉々になった顔面から赤黒い液が激しく溢れ出し、弾けた頭蓋骨から脳漿と共に薄桃色のゼリーのようなものが、数メートル先まで飛び跳ねた。
 幾重もの悲鳴が連なって周囲に響き渡った。その中にはもちろんあたしの声もあった。狂乱の中で、Oを突き飛ばしたNだけが静かな様子で立ち尽くしていた。
 Nはぐちゃぐちゃになって倒れ込むOをじっと見据えると、表情にも所作にも表れないが確かに満足した様子で視線を外した。そして地面にこびり付いているカラスの亡骸を、両腕を真っ赤にするのを厭わずに持ち上げた。
 それを抱いて衒いない足取りでその場を去っていく。自分が引き起こした惨劇に、最早興味を失ったかのように。
 悲鳴から現実に意識を回帰させたあたしは、そんなNを追いかけて肩を掴んだ。
 「ちょっと待ておまえ! 何をやったんだよ!」
 Nは最低限度の対応とばかりに、視線だけをこちらに向けて言った。
 「腹が立ったんです」
 「おまえ、Oを殺したんだよな?」
 「はい」
 あっさりと認めるNに、あたしはむしろ力が抜けてその場で蹲りそうになる。
 「そこまでやることなかっただろ……」
 「腹が立ったんです」
 「さっきの何だよ。いったいどうやったんだよ」
 「ですからおまじないです。そういうのに詳しいんです。あんまり人に教えちゃいけないって、教えてくれる姉さまに言われてるんですけどね。前の学校でも、広めちゃった所為で何人も死なせて、それで転校することになってしまいました。バレたら叱られるかもしれません」
 ニュース番組なんかである「体を強く打って死亡」という表現は、遺体が原型を留めていない状態を指すらしい。
 高所から落下して、全身がぐしゃぐしゃになったような、そんな状態を指すらしい。
 県境を三つ超えた先にあるT県の、とある小学校の近辺で、そうした状態の子供の遺体が発見される事件が相次いでいる。そして不可解なことに、そうして見付かる子供達の周辺に、転落死できるほど高い建物はないそうなのだ。
 この世ならざる何かの力が働いたような、そんなおかしな話の真相を、あたしは今目の当たりにしたのだ。
 慄くあたしを置き去りに、Nはカラスを抱いて歩き続ける。そして一本の大きな木の陰に狙いを定めると、真っ赤に濡れた手に土を張りつけながら、膝を折ってその場で穴を掘り始めた。
 あたしは尋ねる。
 「何やってんの?」
 Nは答える。
 「この子を土に埋めてあげるんです」
 それからNはあたしの方を振り向いて……それは『最低限の対応』ではなく、きちんと身体ごとこちらを振り向いて……そして微弱ながら、本当に霧のように幽かながら感情のようなものを纏わせた声で、あたしに言った。
 「手伝ってくれませんか?」
 その黒々とした大きな瞳に、吸い込まれるようにあたしは近付き、隣に座った。
 そして、Nと一緒になって、両手を土色に染めて穴を掘り始める。
 あたしは自分が魔に魅入られたとは思っていない。
 考えなしの好奇心で、奇妙なものに近付いた訳でもない。
 Nのしたことをあたしは決して支持しない。Oは最低な奴だけど、だからと言って、その無知と無思慮に付け込んで罠に嵌め、殺してしまって良い訳がない。
 だとしても……Oに思い付きのように踏み躙られ、助かるかもしれなかった命を散らした無辜のカラスを、土に埋めて供養することは、間違ったことではないはずなのだ。
 それが正しいことなのならば、別に手伝っても構わない。
 それにしても。
 「なあN。おまえ要領悪いだろ? 横に広げ過ぎだしさ。指でそんなに穿ったって疲れるだけだろ? 石とか使って削るように掘って、溜まってく土は後からどけろよ」
 「はあ」
 そう言った一瞬、鉄面皮のNがほんの一瞬だけ唇を尖らせたように見えたのを、あたしは絶対に忘れない。忘れてやるものかと思った。

 〇

 後日談。
 泣き喚く少女達に囲われたOの死骸は、間もなく大人達にも見付かって通報が成された。
 既に命がなかったことは言うまでもない。転落死できる程の高所が近くにないにも関わらず、明らかに高所から落ちたとしか思えないその死体は、不可解そのものだ。その死因が隣の県で起きている怪事件と一致していることに、警察官達はすぐに気付いた。
 だがそこまでだ。その事件を引き起こした忌まわしい呪文のことなど、大人達が信じるはずもない。事件を見守っていた少女達がどれほど強く訴えようとそれは同じで、集団的な自己催眠現象の類と解釈されるに留まった。流行のまじないを信じてしまい、級友の不審死をそれに結び付ける、哀れな子供達。
 子供達がその呪文の効果を大人達に示すには、大勢の見ている前で、己の命を犠牲に実証するしかない。しかしそんなことはできるはずもない。子供の言い分をそのまま信じたごく少数の大人にとっても、それは全く同じことなのだ。
 よって怪事件は怪事件のまま、未解決のまま据え置かれ、大人達は的外れな調査を今も続けている。
 その事件を引き起こしたNはというと、無口無表情を変わらずに貫いたまま、休み時間の度に校舎を徘徊する日々を送っていた。
 「なあおまえさ。教室に居たくないのはあたしにも分かるけど、そんな毎日ふらふらしてないで、ここで本でも読んでろよ」
 ある日。徘徊の途中で図書室にやって来たNに、あたしは本から顔をあげてそう言った。
 「おまえ学校中の噂になってるだろ? Oを殺したって。クラスメイトとかはマジだって知ってるから、怯えて声もかけて来ないけどさ。でもクラスや学年が違う奴は嘘だと思ってるから、外歩いてたらちょっかいかけて来るじゃん? あんまうろうろしない方が良いって」
 無視して立ち去って行くNの様子を想像しながら、それでもあたしは言った。しかしNは。
 「そうかもしれません」
 などと言って、わたしの隣にすっと腰かける。
 あたしはそれを意外に思った。こいつが素直に言うことを聞いたこともそうだし、無数にある席の中から、それが当然であるかのようにあたしの隣に座ったことも意外だった。
 だがその意外さを指摘したらこいつは離れて行きそうだ。確かにあたしはこいつの性格の全部をまだ掴めていない。気味の悪い奴でもあるし、変わった奴でもあると思う。でもだとしても、きっとあたしと変わらないくらいには、子供らしく偏屈な子供であることも、きっと間違ってはいない。
 だから今は多分、そのことについては、何も言わない方が良いのだ。
 本を読むでもなくただ茫然と、唇を結んで開けた窓を眺めているこいつに、わたしは声をかける。
 「その席、座っちゃいけないんじゃなかった? その席を気に入ってる霊がいて、譲ってあげなくちゃいけないんでしょ?」
 窓辺の陽だまりの中で、爽やかな春風に無表情のまま髪を靡かせているNは、あたしの方に視線をやって端的にこう言った。
 「だって、ここが一番気持ちが良いんですもん」
 表情や声音を変えずとも、その言い分は偏屈で意固地な子供そのものだ。
 霊から気に入りの席を奪う胆力に恐ろしいものを感じながらも、あたしはそんなNの様子に他愛もないものも感じ取っていた。

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 ずきずき虫とぐるぐる様

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 ロウコクロリディウムという寄生虫の話を聞いたことがある。
 そいつは鳥の糞を媒介にカタツムリに寄生する。で、寄生されたカタツムリはそいつに行動を操られ、普段行かないような目立ちやすい高所まで移動させられる。そいつの次の寄生先となる鳥の目に付きやすい場所へ。移動させられたカタツムリはそいつ諸共鳥に食べられる。そしてそいつは鳥の体内に産み付けた卵を糞と共に排出させ、卵は糞を食べたカタツムリに寄生して、また鳥に食べさせる……。
 カタツムリはどのようにしてそいつに操られるのだろうか?
 何も、脳を乗っ取ったり、マインドコントロールを行ったりしている訳ではない。
 そいつに寄生されたカタツムリの触覚は、何倍にも腫れ上がり、毒々しいほどの黄緑に変色する。それは単に炎症を起こしているというのではなく、その触覚にそいつが入り込んでもいる。そしてそいつはカタツムリが自分の意に沿う行動を取るように、触覚の中で暴れまわり、その痛みでカタツムリを操作するのだ。
 そいつはカタツムリが自分の意に沿わない行動を取ると、触覚の中で激しい痛みを齎してそれを制止する。カタツムリは自分の中で起きている痛みの原因が分からないまま、痛い思いをさせられずに済む行動を取り続けるしか出来なくなる。
 痛みはそいつが行きたがっている高所に向かっている時だけマシになる。
 カタツムリは本当はそこに行きたくない。高く目立ちやすい場所に行けば格好の獲物になるからだ。
 それでもそこに行ってしまう。触覚を襲う激しい痛みに耐えることはカタツムリには出来ない。いやカタツムリでなくても誰にも出来ないだろう。誰だってどんな生き物だって、痛みを避け、痛みに従って生きているのだ。
 だからカタツムリは自ら死地へと向かう。
 食べられることよりも死ぬことよりも、痛いことだけがカタツムリには嫌なのだ。

 〇

 平成十六年九月某日。

 〇

 水を含んだモップはずっしりとして重たい。
 それを何となく床に押し付け、擦るとか磨くとか、綺麗にするとかを考える訳でもなく、惰性のようにただただ前後に操作する。
 あたしは自分で割った花瓶の掃除を行っていた。ガラスの破片はM先生が始末してくれたが、濡れた床の掃除をするように求められたのだ。
 木の床はモップで塗り伸ばされた水で黒ずんだ色を発している。これが綺麗になっていると言えるのか言えないのか、良く分からなかったがとりあえずあたしは腕を止めた。それなりの回数の前後運動をこなしたことだし、何よりあたしの腕は疲れていた。
 「先生。終わりました」
 見守るでもなく、教室の先生用の机で書類仕事らしきことをしていたM先生に、あたしは告げた。M先生はゆらりと立ち上がって微かに前傾した姿勢であたしの傍まで来ると、けだるげな視線で掃除をしたことになっている床を一瞥し、特に褒めるような調子も込めず淡々と言った。
 「綺麗になっているな。ご苦労さん」
 「はいそうですか。じゃ、もう帰って良い?」
 「その前に訊きたいことが……あの。どうして花瓶を割ったりしたんだ?」
 「え……あたしまだ怒られるの?」
 別に怒られたという程怒られた訳じゃないのだが。というかそれほど怒る人でもないのだが。ただ、片付けるからそこにいろと言われ、破片を拾い集める先生の傍で待機させられるのには緊張感があった。最後に残った水滴を掃除しろとモップを渡された時は、罰を受けるという感触があった。あたしはそれらに十分なストレスを感じたし、それが先生の叱責なのだと理解していた。そしてそれ以上の沙汰があることにあたしは身構えた。
 「ああ違う違う。怒ってない怒ってない」
 M先生は微かに顔を顰めて、何ならそっぽも向いた。子供を怯えさせないようにする時に、愛想の良い表情を浮かべるのが得意でない代わり、M先生はいつもそっぽを向く。
 「でも訳は訊いておきたいからさ。怒らないから言ってみて」
 「別に訳なんてないぞ? 単なる不注意なんだって」
 「本当か?」
 「ほ、本当だよ。最初もそう言ったじゃんか。だからあたしに片付けさせたんだろ?」
 「……そうか。じゃ、片付けご苦労様」
 優しい顔をする訳でもなくM先生はそう言ってあたしを許してくれた。
 M先生は若い男の先生だ。ひょろりと痩せていて背が高い。大人の男の人だから高いというだけでなく、職員室のどの先生と比べても頭の先っちょが上の位置にある。目鼻立ちは整っているが髪の毛の手入れはぞんざいで、いつも寝ぐせがついていて、目付きが少し悪くて猫背気味で、退廃的で気だるげな雰囲気があった。昼休みや放課後の時間には学校の敷地の外の道路で、いつも煙草を吸っている。
 「じゃあ先生、さようなら」
 「いや待ってくれ」
 「え? まだ何かあるの?」
 「Nのことなんだが」
 あたしは再び身構えた。
 「おまえさえ良ければ、あいつについて話してくれ。特にそう、Oが死んだ時のことを、出来る限り詳しく」
 少しうんざりした。
 それは警察やマスコミの人に何度も聞かれたことだった。親にも話した。学校の人間から聞かれたことだってある。校長室で、カウンセリングの先生と校長先生が並んでいる前で、不自然なほど優しい態度で話を促して来るのに、あたしは見たまま体験したままを語ったのだ。
 その度に胡乱そうな目を向けられる。実際にOはぺしゃんこで死んでいるのにも関わらず。無論大人達は表面上尊重するような態度を取ってくれはするが、内心ではきっと、子供の集団妄想とかそういうもっともらしい理屈をいつも考えている。どんなに異常な現象であっても、この世で起きたことなのならば、今は解明されていないだけ何かしらカガクテキ説明が付けられるという、その一線だけは心の中で常に守っているのだ。
 だからあたし達の話をありのまま飲み込んでくれる大人はいない。Oの死の原因は、おそらく永遠に不明のままだ。
 それが分かっているから、あたしはもう何も話したくない。
 「校長先生にも一度話したぞ? M先生にもまた話すのか?」
 「そうして欲しい。頼む」
 「どうして? 学校からの聞き取りは終わってるんだろ?」
 「その通りだ。だからこれは俺の個人的なお願いなんだ」
 「なんでまたそんな」
 「死んだOは俺の生徒だろ」
 あたしは話す気になった。
 Oが仲間と共にNをシメにかかったこと。それを回避するために本来とは別のルートで帰路についていたけれど、あっさりと追い付かれてしまったこと。
 そこから色々あって、最後にNがOを背後から突き飛ばし、転んだOがぺしゃんこになって死んだところまで話し終えると、M先生は視線を天井に飛ばしながら頷いた。
 「ありがとう。参考になったよ」
 「他の奴にも訊いたのか?」
 「訊いたよ。関わった人間には全員同じことを訊いている。どこまで一致しているかを知りたかったんだ」
 「別に一致しているからって本当だとは限らないだろ? 話を合わせてるかもしれないし、誰かの妄想を全員で共有しているかもしれないって、大人達は皆思ってるはずだぞ」
 「違う。おまえ達の話はまったく一致していないんだ。だから信用できる」
 あたしは目を丸くした。
 「なんでだよ。一致していないから信用できるとか意味分かんないぞ。だいたい一致していない訳がないだろ。だってそれは本当にあった出来事なんだから」
 「いや、出来事の内容については一致しているんだが」
 「はあ? 意味が分からないぞ?」
 「一致した一つの出来事を共有した人間同士であっても、見るところや感じることや、覚えていることが異なっているのが普通だ。作者が提示した視点を追うしかない作り話と違って、現実の出来事は関わった人数と同じだけの視点があるからな。だから起きた出来事の内容としては一致していても、その語る内容には不一致があるのが当たり前なんだ。その方が信用出来る」
 「それは……」
 そうかもしれない。
 「もしおまえ達の言っていることが嘘や作り話や妄想だとすれば、もっと全員が同じことを話したことだろう。口裏でも合わせたかのようにな。しかし実際にはそうじゃなかった。おまえ達は同じ出来事をてんでバラバラに証言している。だからこそ、それが事実であることを俺は確信出来るんだよ」
 「…………」
 「NはOに妙なまじないをさせた。Oは怖がり初めた。そんなOをNは背中から押した。その結果Oはぺしゃんこになって死亡した。こういったことは本当に起きたんだ」
 「なあ先生。本当にNに普通じゃない力があるのか?」
 「ないと考える方が不自然だろうな。そして、NはOを殺した」
 M先生はあっさりとそう言ってのけた。
 「言っておくが、それを感じている大人は俺一人だけじゃないはずだぞ? おまえ達の言うことを信じている大人だってたくさんいる。ただそれを大っぴらに口に出す訳には行かないだけなんだ。小学生の女の子に何か霊能力のようなものがあって、それを用いて同級生を殺しただなんてこと、警察も教師もマスコミも、口に出したそいつの立場がなくなってしまう。それは分かってやって欲しいんだ」
 「でも先生は今大っぴらに口にしたぞ?」
 「それはおまえの前でだけだ。今のところはな。なあU、その後はNとどうしてる?」
 「休み時間は図書室で会う」
 「話とかは?」
 「するんだけど、あいつ不愛想で。……ああでも、前に勧めた本は読んでくれたよ」
 「そうか。……話してくれてありがとう。それじゃあ気を付けて帰れよ」
 M先生は静かにその場を立ち去って行った。
 Nと付き合うことについて、良いとか悪いとかは言わなかった。

 〇

 「Vの所為で先生に怒られた」
 翌日の行間休み、図書室で顔を合わせるなりあたしはNに言った。
 ただの愚痴だった。それを言える相手はあたしにはNだけだった。しかしそのNは最低限度の対応とばかりに微かに視線をこちらに向けるだけで、特に何も答えることなく再び窓の方へと視線を戻した。
 「何とか言えよ」
 「はあ」
 「というか聞いてくれよ。昨日の帰りしな、あたしが教室の後ろのロッカーに向かう時、Vの奴がいきなり背中から突き飛ばして来やがったんだ。突き飛ばされたあたしはロッカーの上に置いてある花瓶に肩をぶつけてさ」
 「はあ」
 「花瓶が倒れて床に落ちて、ガラスが割れちゃったんだ! Vの奴は『しらねー』とか言いながら、走って教室出てってさ。どうにか隠蔽できないかとガラスを集めてたら、そこに先生がやって来て、あたしが怒られたんだよ! ムカつくだろ! Vが悪いだろ!」
 吐き出し切ったあたしは息を吐いてNの隣に座った。うんともすんとも言ってくれないが、とりあえず相槌は(「はあ」と力なくだが)打ってくれるNに愚痴をこぼしたことで、微かに溜飲を下げたつもりになった。
 Nが何も言わないのであたしは取って来た本を開いた。しばらく無言の時間が続いて、鉄面皮のまま窓を見詰めていたNがふと口を開いた。
 「言わなかったんですか?」
 「は?」 
 Nは何も言わずに窓を見詰めていた。
 無言の時間が流れる。五秒。十秒。あたしはたまりかねてNに尋ねた。
 「言わなかったって何をだよ」
 「今の話です」
 「Vに突き飛ばされた所為だって? 言わないよそんなの。チクったらチクったってまた標的にされるだろ?」
 Vは教室で一番やんちゃな、一番体の大きな、一番威張っている一番腹の立つ男子だった。
 勉強も運動も一番出来るが、良くクラスの弱い奴からものを取り上げたり、突き飛ばしたり足を掛けたりしていじめるという、しょうもない奴だ。
 その加害性は主に同じ男子グループの中で発揮され、最も標的になっているある男子などは、酷いとトイレで裸にされるようなこともあるらしい。女子であるあたしのことはそれほど興味がなさそうだったが、時には気が向いたように突発的な意地悪を仕掛けて来ることもある。
 そこにはきっと理由なんてない。ただそこにいたから、背中を押したくなったから、そういう理由であたしは突き飛ばされ花瓶を割る羽目になり、その場に現れたM先生に虚偽の申告をして怒られることになったのだ。
 「M先生なら、後からあたしに何も言って来れないくらいに、ちゃんとしっかり怒ってくれたりしたのかな? でもあの人なんか頼りないっていうか、覇気がないところもあるじゃん? 信用しきれない以上、こっちも我慢して飲み込むしかなかったんだよ」
 「そうですか」
 再び沈黙が訪れた。
 三分が経ち、五分が経つ。あたしは本を読んでいたがNはひたすら窓を眺めていた。こいつは本を読みに来ているのではなく時間つぶしにただいるだけなのだ。
 時間つぶしに来ているのはあたしも同じだ。本だってそれほど好きじゃない。休み時間の喧騒の中を一人で過ごす、あのいたたまれなさを味わうのが嫌だからここに来て、ここに来るからには本を読んでいるだけなのだ。
 でもこいつはどうなんだろう?
 こいつだったら教室で一人でいたって何も感じないんじゃないか? 
 だったらなんでここにいるんだ?
 こう見えてあたしと同じだったりするのか?
 まさかな。碌に字を追うこともせず考えていたあたしの目の前に、Nがおもむろに一本の瓶を置いた。
 一匹の虫が入っていた。
 「ひ……っ」
 あたしは思わず息を飲み込み、身震いをした。
 見たことのない虫だった。いや虫かどうかも正直良く分からないが、しかし虫以外の他の何にも当てはまらないような姿をしている。それは大きく赤ん坊の拳くらいのサイズがある。そして脚が多かった。左右合わせて十数本ありそうな黒い針金のような長い脚は節が一つあって、.鋭角に折れ曲がって瓶の底を捉えていた。密集する脚の中央の胴体は小さく、しかしアタマは大きく、中でも突き出した二つの目玉はとりわけ巨大だった。小さなビー玉くらいのサイズはあって、血走った白目と赤茶けた黒目は、人間の眼球をそのサイズに縮小したようにしか見えなかった。
 カサカサと脚を動かしながら瓶の中をはい回る虫は気色悪かった。この図書室のどの図鑑にも載っていない虫だとあたしは思った。
 「何それ?」
 「ずきずき虫です。姉さまはそう呼んでいます」
 「なんだそれ? というかおまえ、それ、どこから出した?」
 瓶は大きくあたしと同じ制服のポケットに入るサイズとは思えない。そしてNは服のポケットの他に何かを入れておけるようなものを身に着けていない。
 「Vと言う人に腹が立つのなら、これをくっ付けておきますよ」
 「くっつけるって……」
 「ずきずき虫はぐるぐる様の家来なんです。くっつけた人をぐるぐる様に連れて行くんです」
 「おまえ、何言ってんだ?」 
 Nはそれ以上何も言わず、瓶の蓋を開けて『ずきずき虫』を中から出した。
 あたしがあっという間もなくずきずき虫は図書室の床へと降り立った。そしてその何本あるか分からない脚をせわしなく動かしながら、図書室のどこかへと消え去り、見えなくなった。
 何も言えないでいるあたしに、Nもまた何も言わず、ぼんやりと窓を眺める作業に戻った。

 〇

 翌日、Vは腕を大きく腫らした状態で登校した。
 見たことも無いほど巨大な炎症だった。V本人の拳と同等かそれ以上の大きさがある。傍目にもぶよぶよとして見えるそれは内部に相当な化膿を伴っているようで、Vは顔を顰めながら炎症に手を触れ、いじくっていた。
 「すげぇ熱い」
 「あんま触らない方が良いぞ」
 あたしは思わずそう声を掛けた。普段なら話すような相手ではないし、増して心配してやるような相手でもないが、昨日の図書室での出来事が気になったのだ。
 「うるせぇよ。ほっとけよ」
 「どんな感じなんだ? 痛いのか?」
 「普段は痛くない。中に何かいるような感じがするだけだ。でも時々、気が狂う程痛くなる」
 「中に何かいる……?」
 「針金の塊が暴れるみたいに痛むんだ。ズキズキして……うぅ!」
 Vは絶叫をあげた。それは教室中にとどろいた。Vは普段強がったように眉間に皺を寄せている顔をくしゃくしゃにして、泣き叫びながら椅子から転げ落ちた。両足をばたつかせ、ぼろぼろと涙を流しながら、痛みに悶え狂っている。
 「お……おい! 大丈夫なのか?」
 Vは何も答えない。しかしやがて痛みは治まったのか、息も絶え絶えの様子でゆらゆらと立ち上がる。
 「ほ、保健室行くか? それか先生呼んで来た方が良いよな?」
 「そ、そうだな……うぅ!」
 再び炎症を手で押さえて悶え苦しむV。あたしは教室を飛び出して職員室に向かう。
 「M先生! 来て!」
 M先生は何も言わずに立ち上がった。そして駆け足であたしの方に近付いて来る。
 あたしがどう説明したものかを逡巡して立ち止まっていると、M先生は言う。
 「なんだか知らないがとりあえず向かおう。急いだ方が良いんだろう?」
 「う、うん」
 この先生のこういうところは、少し好きだ。
 結局何も説明出来ないまま、先生を連れて来たわたしを待ち受けていたのは、放心状態で座り込んでいるVだった。
 「苦しんでいるんだったな? 今は大丈夫なのか?」
 「……何でもないよ」
 振り絞ったような声を出して、Vは視線をM先生から逸らした。
 「そんなはずないだろ? あんなに苦しんで……」
 「何でもねぇよ!」
 Vは恐怖に塗れた表情で吠え、立ち上がった。
 「もうほっとけよ! さっきのだって、多分おまえの所為だよ!」
 「は……? いや、あたしの所為って、どういうことだ?」
 「うるせぇよ。何もすんなよ。邪魔なんだよ!」
 あたしは意味が分からなかった。そしてVの剣幕に鼻白んで何も言えなくなっていた。一方で、M先生は考え込むように口元に手を当てながらVの方を観察し、腕に出来た大きな炎症に気が付いて指をさした。
 「その腕、どうしたんだ。偉く腫れてるな」
 「……腫れてねぇよ」
 「いや腫れている。それが痛くて苦しんでいたんだな?」
 「ち、違うよ」
 「どうして否定する?」
 「それは……」
 Vはその場で蹲って悲鳴をあげ始めた。ばたつかせた脚が近くにある机を蹴り飛ばし、傍にいた女子生徒に短い悲鳴をあげさせた。しかしVの絶叫はそんなものは容易く掻き消す程であり、あたしは心配や恐怖以上にその金切り声が齎す頭痛を感じていた。どうすれば人間がこんな声を出せるのか? そう思わせるような悪夢のような叫びだった。
 やがて痛みは治まったらしくVは腕を押さえながら涙目で立ち上がった。
 「もう放っておいて……先生」
 M先生は鋭い視線でVの炎症を見詰めつつ、口元に手を当てて考え込んでいた。その様子に動揺は見られない。先生らしい威厳も迫力もないが、いつだって冷静な人ではあった。
 「おいN。おまえ、何か知っているんだろう?」
 先生はその矛先をNに向けた。Nはまるで無関心な態度で席に着いて窓の方を眺めていた。こいつは何があってもどんな状況でもぼんやり窓を見ている。授業中はノートだって取らないし教科書だって出していない。きっとテストは酷いもんだろう。それをほったらかしにしているM先生だったが、今回ばかりはNの方に剣呑な表情で駆け寄って低い声で訪ねた。
 「説明してみろ。Vには何が起きている?」
 「…………」
 Nは黙り込んで何も言わない。M先生は珍しく生徒を睨むような表情になり、凄みのある声でNに尋ねた。
 「あんなに苦しんでいるんだぞ? 知っているのなら知っていると言え」
 Nは何も言わない。
 「お、おいN。先生が訊いてるんだぞ? 説明したらどうなんだ?」
 あたしはたまりかねてNに言った。
 「ナントカ虫とかいうのをVに付けたんだろう? その話を先生にすれば良いだろう」
 「ナントカ虫? なんだそれは」
 先生はあたしの方を見た。普段見ないような精悍な表情をしていたので、あたしは思わず鼻白んだ。
 「わ……分かんないよあたしは何も」
 「Nなら知っているのか?」
 「だと思う」
 「ずきずき虫です」
 Nは静かな声で言った。
 M先生はNの方を向いて、先程までより穏やかな声で訪ねた。
 「なんだそれは?」
 「ぐるぐる様の家来です。ずきずき虫は、憑いた人間をぐるぐる様のところに連れて行きます」
 「連れて行かれた奴はどうなるんだ?」
 「ぐるぐる様のものになります」
 「ぐるぐる様のものになるとどうなるんだ?」
 「…………」
 「どうやったら助けてやれる?」
 Nは話すことをやめたようだった。沈黙して何も言わないNに、M先生は諦めた様子で相手をするのをやめた。
 M先生は座り込むVを優しく助け起こした。
 「医者へ行こう」
 「やめろ!」
 Vは叫び声をあげてM先生を振り払った。
 「俺に何もしないでくれ! おまえらが俺を苦しめているんだよ!」
 走って教室を抜け出すVを、M先生は額に汗して見送った。

 〇

 M先生はVのことをVの保護者に連絡した後、他の先生に連絡して授業をその人に任せた後、自分はVのことを追って学校を飛び出して行った。
 いつもと違う先生の授業を受けながら、あたし達はどうしてもNのことが気になっていた。Oに何かをした、Oに何かをして殺したNが、今度はVに牙を向けただろうことは、誰しもに想像できることだった。
 行間休み、図書室のいつもの席で、あたしはNを問い詰めた。
 「おいN。おまえいったいVに何をしたんだよ?」
 Nは静かな声で答えた。
 「言った通りです」
 それで説明を終えたとばかりにNは窓の方へと視線を戻した。
 それっきり何を話しかけても突いても押してもNは何も言わなくなった。暖簾に腕押し糠に釘、あたしは苛立ちを感じつつ休み時間いっぱいを使ってNを問い詰めて、どうにもならないと分かって苛立ち交じりに捨て台詞を放った。
 「もういい!」
 そう言ってNの元から立ち去る時に、Nはあたしの背中に向けて一言、口にした。
 「あなたの為だったのに」
 あたしは振り向いた。
 Nは微かに唇を尖らせた表情を浮かべていた。ほんの小さな表情の変化だったがあたしにはそれを読み取ることが出来た。拗ねている。膨れている。へそを曲げている。
 「知るか!」
 あたしは叫んで図書室を出た。

 〇

 結局、M先生はVをどうにか見つけ出し、強引に病院へ連れて行ったそうだった。
 放課後のホームルームであたしはそれを知った。そのことについて、帰り際にコメントを求めたあたしに、Nはこう答えていた。
 「余計なお世話だったなら申し訳ありません」
 「……ちゃんと止めなかったあたしも悪いぞ。今からVの奴を助けてやれないのか」
 「一度憑いてしまったものは、わたしにはどうにも」
 あたしはNと共に帰路に付いていた。行きはともかく帰りは共にすることがあたし達の習慣になっていたのだ。特にそうするよう言葉を交わした訳ではなかったが、お互いに何か居残りの用事がある時以外、あたし達は何となく放課後にお互いの姿を探し何となく隣あって学校を出る。傍目に見ればあたし達は友達だったし、こんな奴でも一緒に帰る相手が出来て、あたしは嬉しいというより安堵していた。
 こいつの方が何を考えているのかは分からない。
 ずきずき虫の話をするとNは黙り込んでしまうので、あたしは別の話をした。昨日見たテレビやプレイしたゲームや読んだ漫画の話をすると、Nは「はあ」とか「そうですか」とか気のない相槌を打った。話を聞いていない訳ではないようで、ごくたまにだがちゃんとしたレスポンスが返って来ることがある。こんな風に。
 「その漫画があなたの家にあるんですね?」
 「ああそうだぞ。お小遣いで中古をちょっとずつ集めてるんだ。来月のお小遣いであと三冊買ったら連載に追いつくんだぞ」
 「今から読みに行って良いですか?」
 「は……? あ、ああ。別に良いぞ。汚すなよ」
 Nは頷くでもなく視線を正面に向けた。意外な展開にあたしは戸惑いつつも、自分が口にした漫画のレビューがNの琴線に触れたことが少し得意だった。同時に、こいつにも人が内容を語る漫画に興味を持ち自分でも読んでみたいと思うような、普通の感性があることに驚きと納得も感じていた。こいつは妙な霊感のようなものを持ってはいるが、間違いなくあたしと同じ歳の子供でもあるのだ。
 その時だった。
 向かいから一人の女性が歩いて来た。年齢は不肖と言う他なかったがとてつもなく綺麗な人ではあった。間違いなく大人の女の人の『綺麗』ではありつつも、どんな年齢の少女より愛らしくもある。
 背が高くすらりとしていた。大人の男の人と並んでも遜色ないだろう。瓜実のような面長の顔形をしていて、黒目がちの目が大きく、睫毛がくっきりとして長い。鼻翼の狭い鼻はつんと高く尖がっていて、肌の色は白く薄い唇は血のように赤かった。そしていつもどんな時でもそうしているだろうと予感させるような、自然体で柔らかな笑みを浮かべている。
 あたしは思わずNの方を見た。年齢は違うが良く似ていた。特に目が似ていた。Nのように生気も感情もない目と違って、輝きのある優し気な瞳をしているが、しかし黒目がちで大きいという点は共通していた。
 「I姉さま」
 Nが言った。Iと呼ばれた女性は答える。
 「帰るところですか」
 「ええ。姉さまは?」
 「Nちゃんのことを見に来ました。お友達が出来たのは本当だったんですね。わたし、安心しました。いえいえ、疑っていた訳じゃないんですよ? でもね、実際にこうやって隣り合って一緒に帰っているのを目にすると……ふふっ、嬉しくなっちゃいます。とっても可愛い光景だわ。この世界はこの光景を生み出す為に存在していたと思ってしまうくらい。ああ、時間を止めてずっとそのままにしておきたいくらい」
 Nの姉か? あたしは深く納得した。人形のようなNの姉ならこのくらい綺麗な人じゃないと釣り合わないだろう。そのIはNの十倍くらいは饒舌にそう語ると、じっとわたしの目を覗き込んでほほ笑んだ。
 「あなたもそう思わないかしら? つらいつらい学校が終わってお友達と二人で家に帰る時間が一番幸せですよね? それにね、あなたは知らないと思うけれど、この先のあなたの人生はとっても不幸なものになるんですよ? いえいえ、あなたが悪いからそうなる訳じゃないし、あなただけがそうなる訳じゃないんです。ただね、あなたに限らず人は大人になるに連れてどんどんどんどん不幸になって行くものだから。大切な友情とか、大好きだった色々なものを失って、代わりにガラクタのようなものをたくさん押し付けられるの。そうなるくらいならこの世界ごと時間を止めて、今この幸せな状態のままずっとそこにいたいと思いませんか? わたしだったらそうしてあげることが出来るんです。どうですか?」
 そう言って本気で尋ねているような澄んだ目を向けられる。あたしは何も答えることが出来ずに、ただ逃げるように助けを求めるようにNの方を向いた。
 「え、Nの姉ちゃん、ちょっと変わってるな」
 「まあ」
 Nはぼんやりとした口調で言った。
 「でも、あれがわたし達のふつうなのかも知れません。ふつうの人から見てもふつうだった方のC姉さまは、家から出て行ってしまいましたし」
 「姉ちゃんが二人いるのか?」
 「ええ、まあ」
 「あの子の話はしないで!」
 Iは激しく地団駄を踏んだ。そして目に大粒の涙を浮かべつつ顔に手を当てると、わあわあ泣きじゃくりながら金切り声を発した。
 「裏切り者のことなんてどうでも良いじゃないですか! 思い出させないで! わたしにはNちゃん、あなたが傍にいてくれればそれで良いのよ」
 そう言ってIはNのことを強く抱きしめて、肩を震わせ始めた。
 「その代わりあなたは何があってもわたしの元から離れないでね! わたし一人だけをあの地獄に置いてけぼりにしたら許しませんよ! ああっ、ああっ、ごめんなさい脅すようなことを言って! でもね分かってっ、それだけわたしはあなたのことが大好きなの。あなたを失うとわたしはどうにかなってしまうんです。分かっていただけますか?」
 「はい」
 Nは恐ろしくそっけない声でそれだけ答えると、そっとIの腕の中から抜け出して言った。
 「もう行きます」
 Iは取り残された様子でその場で蹲り、親指を唇に押し当てながら、寂し気な顔でNを見送った。
 「……姉ちゃんなんだろ? 一緒に帰っても良かったんじゃないか?」
 「これからあなたの家に行くのでは」
 そうだった。
 「お友達のお家に行くのですか!」
 Iが立ち上がってあたしの背中を追い掛けて来た。
 「そ、そうだぞ? 約束があるんだ」
 「わたしも一緒に行って良いですか? Nちゃんが友達と遊んでいるところを見たいんです」
 「い……いやそれは」
 「嫌です」
 Nはそっけなく言った。あたしは頷いた。あたしも嫌だった。
 「え……でもNちゃん。わたし……」
 「絶対に、嫌です」
 『絶対に』の部分に感情の温度を感じた。こいつは多分シャイなんだろうし姉ちゃんが友達の家に付いて来るなんて死んでも嫌なはずだ。Iはとうとう目に涙を貯めながら、しかしそれ以上食い下がりはせずにただ突っ立ってあたし達のことを見送っていた。
 「姉ちゃん、何をしている人なんだ? つかいくつ?」
 「二十五歳です」
 「かなり大きい、ってか大人だな。仕事とかは?」
 「医者です」
 ああ見えて立派な人らしい。詳しくは知らないが、二十五歳というなら病院のあちこちを回って勉強している状態のはずだ。そんな忙しい人が妹の様子を見る為に通学路を遡って来るなんて、余程Nのことが好きなんだろうとあたしは思った。
 あたしはふと思い出してNに問いかけた。
 「なあN。あのずきずき虫のことなんだけど」
 「はあ」
 「あれって姉ちゃんから貰ったって言ってたよな?」
 「はい」
 「その姉ちゃんがあの人で良いんだよな?」
 「そうです」
 「だったら、Vに憑いたずきずき虫のこと、あの姉ちゃんにどうにかして貰うことって出来ないのか?」
 Nの姉ちゃんというなら、Nよりもそういうことに詳しいのかもしれない。Nはその場で脚を止め、微かに眉を動かしつつあたしの顔を見詰めている。これが嫌がっている顔だと分かる程度にはあたしはNと交友を積みつつある。とにかく姉ちゃんの話題から離れたいようだ。まあちょっと恥ずかしいもんな、あの姉ちゃん……。
 「ずきずき虫の話ですか!」
 友達の姉ちゃんじゃなかったら不審者と思うような敏捷な動きで、Iはあたしの前に回り込んで来た。興奮した、はしゃいだ様子だった。しかしその動きは敏捷過ぎた為かIは脚をもつらせて転んだ。
 「いったぁっ」
 膝を擦りむいてIは涙目を浮かべた。痛いよう痛いよう、と言いながら立ち上がったIは、照れ笑いをあたしの方に向けてこちらの愛想笑いを引き出した。そして得意げな表情で尋ねて来た。
 「ずきずき虫の話ですか?」
 「う、うん。そうだぞ」
 「わたし、ずきずき虫が大好きなんです」
 「そ、そうなのか」
 「ええ。だからこのとおり、たくさん飼っているの」
 Iがそう言った、その時だった。
 Iの細く白く細い腕の各所がボコボコと盛り上がり始めた。それらはVの腕に出来ていた大きな炎症によく似ていた。
 絶句するあたしの前でIはニコニコと得意げな笑みを浮かべ続ける。炎症の先っちょを食い破るようにして、ずきずき虫の黒く鋭い足が姿を現した。数十匹にもなるそれらはIの体液で血塗れになりながらIの身体から這い出す。Iはたちまち血塗れになるが、Iの笑みに限りは見えない。
 あたしは悲鳴をあげることも出来ずに固まっていた。血塗れのIは大量のずきずき虫を体の上に従えながらあたしの方に近付いて来た。あたしが後退ろうとするとIはあたしの手を掴んだ。逃げられなくなったあたしにIは無邪気な笑顔で問うて来た。
 「ずきずき虫のことなら、何でも訊いてください」
 本物の化け物がいた。助けを求めるようにNの方を見るが、Nはどうでも良さそうな顔でぼーっとしていた。こいつは放っておくといつだってぼーっとしている。それが澄ました顔に見えるだけの整った面に生まれてさぞ得をしているだろう。おまえの正体がただのシャイなぼんやりさんであることを、あたしだけは見抜いているんだぞ……。
 そのNの姉はニコニコとしてあたしの方を見詰めている。全身は血塗れで服も真っ赤に染まっている。見れば皮膚だけでなく服まで『ずきずき虫』は食い破ったらしく、随所に服の裏側の白い肌や下着が露出していた。おでこからも『ずきずき虫』は這い出したので、その白く綺麗な顔も真っ赤になっている。たぶんこちらに敵意はないが、それでもあたしは蛇に睨まれたカエルのようになった。
 「さあ。話して」
 口を割るしかない。いや、隠していた訳じゃないのだが。とにかく、この人には逆らえない。あたしはそう感じた。
 「いや実はな。さっきNの奴が……」
 あたしは事のいきさつを説明した。あたしがVのことをNに愚痴った所為で、NがVの腕に『ずきずき虫』を仕掛けてしまったこと。あたしにそんなつもりはなかったのでどうにか助けてやりたいが、Nにはどうすることも出来ないらしく困ってしまっていること。
 「そうなんですか」
 Iはふんふんと頷いてから、小首を傾げて問いかけた。
 「でもなんでそのVとかいういじめっ子を、わざわざ助けようと思うんですか?」
 「は? いやだって」
 「どうでも良いじゃないですか」
 「そんなこと……」
 「花瓶割ったのUさんだけどUさんじゃないですよね? そのVとかいう人が背中を押して来たからそうなったんですよね? 酷いです。ええ。とっても腹が立つわ。わたしだったら許せませんし、でもきっとUさんと同じように告げ口する勇気も持てないでしょう。がんじがらめで哀しくて、悔しくてきっと泣いちゃうわ。そんなUちゃんの気持ちを思えば、そのVとかいう蛆虫にも劣る鳥の糞は、ずきずき虫で苦しんでからぐるぐる様のところへ行けば良いのだわ。そう思ったからNちゃんもVにずきずき虫を仕掛けたんですよね?」
 「はい」
 Nは短く答えてそこらのアリの巣に視線を落とした。早くあたしの家に行って漫画を読みたいと思っていそうだった。
 「で、でも、いくらなんだってあんなに苦しむことまではないと思うぞ? そりゃあやられた時はぶっ殺してやりたいくらいの気持ちになったけど、でもそれは本気じゃないし、本当に死なせちゃったらそれは絶対悪いだろ? なあNの姉ちゃん、Vの奴を助けてくれよ」
 「……でもそれだとぐるぐる様がお怒りになるんですよね」
 Iは目を伏せて言った。Nはとうとう座り込んで木の枝でアリの巣をほじくり始めていた。
 「しかしUさんはなんて優しい子なんでしょう。こんなに素晴らしい子がNちゃんのお友達だなんて、わたしは涙が出そうだわ」
 「そんなオーバーな……」
 「優しいUさん。素敵なUさん。そこまで仰るならUさんの言う通りにしてあげましょう」
 「本当か?」
 あたしは目を丸くした。
 「ええ。そのVと言う人を助けることは出来ます。ぐるぐる様がお怒りにならない方法は、たった一つだけですが」
 「そ、それで良いぞ。どんな方法かは知らないけど、あたしはそれで」
 「ああ。ああ。なんて健気なUさん。優しいUさん。とっても痛い思いをするのでしょうね。それに、ぐるぐる様は円環を司る怪異ですので、そこにとらわれた苦しみは未来永劫に渡って続きます。いいえ、それは正確ではないのです。永劫な未来などない。しかし、ある時からある時までを無限に繰り返すことなら出来るのだわ」
 「いけません」
 Nは言った。
 あたしの視線がNの方に向いた。
 その拍子にIは消えた。何の前兆も余韻もなくただ消え失せた。煙だってもうちょっと気の利いた消え方をするだろう。そもそもそこにいたのかどうかすら怪しい程だ。
 Nはあたしの方をじっと見詰めている。
 そして口を開いた。
 「漫画、今度で良いです」
 「は?」
 Nはそっとあたしに背を向けて立ち去って行った。

 〇

 家に帰る。
 まずはこないだ買ってもらったゲームで遊ぶ。
 母親が帰って来て、夕食作りの手伝いに駆り出される。宿題を理由に辞退を申し出るが、許されない。
 食後はその宿題をほったらかしたままテレビを見る。バラエティ番組に腹を抱えてバカみたいに笑う。
 風呂に入れと言われて入る。
 入浴後、宿題をする気にならず部屋で漫画を読む。
 就寝時間が近付いて来る。もうそろそろ宿題を始めないとまずい。というか既に若干オーバーすることが確定している。かと言って宿題をほったらかして学校に行ったらM先生に叱られる。あたしは焦り、ようやく机に着いた。
 算数のプリントはまだ楽だが、漢字の書き取りが面倒くさい。別に何の教科でも問題を解くのはそれほど苦にならないが、手を動かして文字を書くのがしんどいしつまんないんだ。算数や理科や社会のワークなんかはまだ書くところが少ないけれど、漢字の書き取りはプリント一杯のマスを複雑な漢字で埋めなければならないのが憂鬱に尽きる。
 半分に達さないあたりで嫌になって、勉強机の棚に置いてある児童文学を読み返し始めたところで、あたしはそのことに気付いた。
 腕が腫れている。
 手首の下あたりだ。思わず手で触れると驚くほどに熱を帯びていてあたしは火傷しそうになる。
 あたしは炎症の痛みでもがき苦しんでいたVのことを思い出す。
 恐る恐る力を込めてみる。何か固く細く鋭いものが入っている。それはまさに針金の束のような感触で、強く押すと微かに蠢いて痛みを齎す。
 あたしは冷や汗をかいた。 
 「……U! まだ起きてるの?」
 部屋の扉から明かりが漏れているのに気付いて母親が扉の外から文句を言って来た。入るわよー、と断ってから扉が開かれ、宿題のプリントを机に広げつつ手にはハリーポッター持ってるあたしに、オカンムリと言った表情を浮かべる。
 「まだ宿題をやっているの? もう寝る時間でしょう? そうならないように早めに済ませておきなさいって、いつも言ってるじゃない!」
 そりゃお小言貰うわな。いつもならテキトウにやり過ごして本を置いて宿題をやっつけるところだが、あたしは母親に縋るような目線を向けながら自分の腕を指示した。
 「ねぇお母さん。ちょっと腕に大きな腫れもうぎゃああっ!」
 あたしは腫物から激しい痛みを感じて椅子から転げ落ちた。そして両足をばたつかせてのた打ち回る。
 腫物の中でずきずき虫が暴れまわっている。針金のような脚の先端が肉のあちこちに突き刺さり、鋭い節が食い込んで気が狂いそうな痛みを齎す。たちまち腫物の中に血液が充満して行くが、どういう訳か皮膚が裂けるようなことは起こらない。
 「どうしたの?」
 母親は心配そうな顔をする。
 「だからこの腫物……っ」
 あたしが言うと痛みはより一層鋭くなる。母親に助けを求めようとするが声にならない。ずきずき虫はあたしのことを体内からさんざんいたぶった後、あたしが悲鳴以外の言葉を発するのをやめると静かになった。
 「……はあ、……はあ」
 どうやらこいつはあたしが助けを求めると腫物の中で暴れるようだった。母親があたしのところに駆け寄って優しく抱き起し、額に汗をしながら尋ねて来た。 
 「この腫物が痛むのね?」
 あたしが首を縦に振ろうとすると腫物の中でずきずき虫が暴れ始めた。
 「病院行く?」
 あたしは少し考えて首を横に振った。ずきずき虫は満足したように暴れることをせず静かにしていてくれた。
 「本当に大丈夫なの?」
 「大丈夫だよ」
 「ちょっと患部を見せてくれないかしら?」
 「良いよ。もう……放っていて」
 母親が言ったことへの答え方をしくじるとずきずき虫が暴れるのは分かっている。だったらもう何も言われない方がマシだ。
 「どっか行けよ」
 あたしはそう言って自分のベッドの布団の中に潜り込んだ。
 「U……本当に大丈夫なの?」
 「どっか行けったら!」
 こう言うように導かれていることは分かったがそうするよりもどうしようもなかった。あたしはベッドの中に潜り込んだまま、全身を震わせて汗だくになりながら、朝日を待った。
 明日になったら学校に行ける。学校に行けばNに会うことが出来る。あいつなら何か知っているはずだし何とかしてくれるかもしれない。
 やがてあたしは疲れ果てて眠り、朝が訪れる。平素を装いながら家族と朝の時間を過ごし、学校を休んで病院に行くよう勧める母親に首を横に振り、わたしは学校に行った。 
 教室に着くとVがいて、青白い顔に微かな安堵を乗せた表情で、自分の腕を友人に指示していた。
 「腫物、引いたんだぜ。昨日変なお姉さんがやって来て腫物に触って変な呪文みたいなも唱えたら、急にでかい虫みたいなのが出て来てさ……。いったい何だったんだろうな」
 「おいV!」
 あたしはVの肩に手をやった。
 「な、なんだよ」
 Vは面食らっていた。普段は威張り散らしているような奴だったが、それ以上にあたしの剣幕が凄まじかったのだろう。
 「おまえ、Nの姉ちゃんに会ったか?」
 「は? 知らねぇよNの姉ちゃんとか」
 「背の高い綺麗な人だよ。Nと同じような大きな目をした……」
 「ああー……確かに、昨日そんな感じの人に腫物を治して貰ったよ。あれ、Nの姉ちゃんなのか?」
 「他に何か言ってたか?」
 「『この虫を引き受けて下さるという方が現れました』だとさ」
 あたしは絶句して顔を青くする。
 「Nはどこに?」
 「知らねぇよ」
 あたしは何も言わずにVから離れて廊下を走り出した。図書室にNがいるかと思ったのだ。
 途中で大人の人にぶつかった。というより、その大人はあたしが走り込んで来る場所に先回りして、あえてぶつかるように仕向けて来た。ぶつかるようにというか、受け止められるようにというのが正しいかもしれない。
 M先生の胸に飛び込んだあたしはその場で脚を止めた。子供のタックルなどで動じた様子のないM先生は、真剣な表情であたしの肩を掴んで尋ねて来た。 
 「どうした?」
 廊下を走ったことに対する謝罪を口にする前に、あたしは思わずこう口にしていた。
 「たすけて……」
 その瞬間あたしの腕に激しい痛みが走って思わずその場で座り込んだ。これまでにないほどズキズキ虫はあたしの腕の中で暴れ続けた。こんなに痛む腕ならもう切り離してくれた方がマシだと思うような地獄のような疼痛だった。
 「……病院に連れて行こう」
 「いいっ! いいからっ! やめろ!」
 あたしは思わず叫んだ。
 「そんなことしたらこいつ余計に暴れるから! やめてくれ!」
 この虫のことを他者に伝えたり助けを求めるのはダメだ。だからあたしはこういうしかない。M先生は何かを察した様子でただあたしを立ち上がらせると、一言だけ言い残してその場を立ち去った。
 「……Nの奴を探して問い詰める。それまでの間頑張ってくれ」
 あたしは思わず頷いた。あたしが今一番して欲しいことがそれだった。
 その日の寿命もM先生は教壇に立たなかった。代わりの先生が授業をしている間、あたしはただ自分の腕の出来物が痛みだすことに怯えていた。
 Nは学校に来なかった。M先生に連れて来られることもない。あたしはNに対する呪詛のような言葉を頭の中で喚き散らしていたが、しかしNにあるのはあくまでも責任の一端であり、あたしのこの苦痛に関して言うならば元凶は他にいるような気がした。
 Iの整った顔を思い出す。
 全身に『ずきずき虫』を飼っていたあの化け物のことを思い浮かべる。
 あいつは『Vを助ける方法は一つしかない』と口にした。『ぐるぐる様を怒らせない方法は一つしかない』と話した。その方法というのはずきずき虫をあたしに移すことなんじゃないか?
 多分そうだ。きっとそうだ。でもだったら何故そうなることをIは言ってくれなかったんだ? こんなことだと知っていたら、あたしだって……。
 放課後が訪れる。とりあえず自宅に戻ろうとするあたしの腕の中で、ずきずき虫が激しく暴れ始める。
 「うううぅう……。こ、今度は何だよ……」
 あたしがその場で蹲っているとやがて痛みは治まってくれる。立ち上がって再び自宅へ向かうとまた痛み出す。どうやら家に行くのがまずいらしいことが分かる。
 あたしは家とは反対方向に歩き始める。
 それで正解らしかった。痛みは治まりあたしはつかの間ほっとするが、しばらく歩くとずきずき虫はまた暴れ始める。その度あたしは進路を変える。
 ずきずき虫はあたしをどこかへと導こうとしているようだった。そこに向かう道のりは痛みが教えてくれる。ようはずきずき虫が行きたい方に行っている時だけ痛みが治まり、そうでない方向に向かうと痛くされる。
 あたしはどこに連れて行かれるんだ?
 『ぐるぐる様』とかいう奴のところか?
 あたしは恐怖したが逃げだすことが出来なかった。得体の知れない化け物のところに連れて行かれるのだとしても、この激しい痛みから逃れられるのならそうしてしまう。
 痛いのには誰も逆らえないんだな。あたしは思った。だから相手に言うことを聞かせるのに暴力を振るう人がいるんだろう。そしてそれに支配される人がいるんだろう。でもそれってただの殴ったり蹴ったりの暴力だけじゃないぞ? 酷いことを言われたり何かを取り上げられたりむごい扱いを受けるのも痛みのはずだ。そういう痛みで誰かが誰かを逆らえなくするのは頻繁に行われることだ。
 痛みって神様なんだ。
 神様だから、誰も痛みに逆らえないんだ。
 途方もない時間を歩き続けた。数時間が経ったか数日が経ったか。それ以上かもしれない。五年や十年が経ったと言われても驚かないかもしれない。その間お腹が空くこともなければ眠たくなることもない。最早自分がどこに向かっているのかも分からない。知らない道に来て久しいし、そもそもこんな場所が現実にあるのかどうかも怪しい。
 そこは森の中だった。何時間も何日もずっとずっと左右に木々のある細い道を歩き続けている。あちこちに木が生い茂っているのに足元には踏み折る枝もなく、噎せ返るような土と自然のにおいがしているのに生き物の気配はまったくない。昼か夜かも分からなかったが暗いことは確かで、空には星も太陽もない。視界には限りなく続く森の木々が無限に広がっていた。
 あたしはどこに向かっているんだろうか?
 真っすぐただ歩いていれば良いというのではなく、あたしはしばしばずきずき虫によって進路を変えさせられていた。同じところをただぐるぐると回っているだけのようにしか思えなかった。このまま永久にこの森の中をぐるぐるとさ迷い続けるのかと思った。自分のいるこの場所こそがぐるぐる様の内側であることをあたしは悟り始めた。
 月日が経ったように感じた。いや実際には月日なんて高尚なものはこの世界のどこにもなかった。無限に続く時間だけがあった。同じことがただ延々と、永遠に続いて行くだけのことに時間なんてものが必要かどうかは曖昧だったが、しかしあたしの肌と心は気が狂う程の時間を明瞭に感じ続けていた。
 やがてあたしは森の中をさ迷っていない時のことを忘れ去る。
 自分のことも忘れ去る。
 ぐるぐる様の中でぐるぐると森を歩き続ける以外のことを、あたしは何も思い出せず、分からなくなっていった。

 〇

 気が付けばNがいた。
 木々の隙間からそれは突然現れた。腕の中で暴れるずきずき虫の導きに従って森を歩き続けるあたしの前に、Nは静かに立ちはだかった。
 「……N」
 あたしは思わず声を出した。その瞬間、あたしは忘れ去っていた色々なことを思い出した。自分自身のことを思い出した。この森に来る前の世界のことを思い出した。それは遠い記憶ではなくほんのついさっきまでそこで過ごしていたように感じられた。それと同時にこの森の中で永劫の時をさ迷っていたことにも疑いを持てず、背反する二つの記憶にあたしはアタマが割れそうだった。
 立ち止まったことに気付いたようにずきずき虫は気付いたように微かに手足を震わせたが、どういう訳かあたしに痛みを与えることはなく腫れものの中でじっとしていた。
 「何しに来たの?」
 「助けに来ました」
 「助かるの?」
 「はい。I姉さまにお願いして方法を訊いて来ました」
 Nはあたしの出来物に手をかざして、口元で何やら呟き始めた。
 「やんやむやんやむろじばらそぼるごおそ。さなとりあまやとりあぼるごおぞ。ばらじらぞざなとりあじゅぶにぐらす」
 ずきずき虫の脚があたしの腕の腫物から突き出て来た。
 血と膿がその切れ目から溢れ出してしたたり落ちる。木の根に落ちたそれらは湿った音を立てる。切れ目は広がって追い立てられるようにずきずき虫があたしの腕から這い出すが、Nはその脚を掴んで持ち上げてあたしの前に示した。
 「それをどうするの?」
 「こうします」
 Nはずきずき虫のことを握りつぶした。
 悲鳴が聞こえた気がした。それは人間が放つ叫び声と酷似していたあたしは身震いした。Nの手の中からずきずき虫の残骸が零れ落ちる。全身が針金で出来たその全身に血は通っておらず、ただ一対の大きな眼球からは透明な汁のようなものが溢れ出していた。
 「……そ、そんなことをして……」
 「ぐるぐる様の怒りについては、I姉さまが何とかしてくださるとのことです」
 「何とかって……」
 「姉さまがそう仰ったなら問題ありません。さあ」
 Nは身を翻してから、あたしの方を振り向いて言った。
 「帰りましょう。もう大丈夫です」
 あたしはNに続いて森を歩き始めた。
 ほんの十数秒で道は開けた。木々が途端にまばらになったかと思ったら、眩い太陽が現れてあたしの視界を照らした。思わず目を細め、改めて前を見るとそこは近所の空き地だった。
 あたしは思わず振り向いた。たった十数本の木々で構成される小さな林がそこにあった。この林は放置され生えっぱなしの木々と無数の雑草と、不法投棄された数々の家電類からなる小汚い場所で、秘密基地作りの子供も寄り付かないようなどうしようもない場所だった。持ち主が認知症で、売りに出されることもなくずっと放置されているのだと、親のどちらかが漏らしていたのを聞いたことがある。
 「あなたはこの小さな林をさ迷っていたのです」
 Nが信じられないことを言った。
 「嘘だろ?」
 「事実です」
 「あんなほんの十何本かしかない林の中で? あんな長い間?」
 「そうです」
 「いやおかしいだろ。空き地の林があんなに真っ暗なはずがないし、虫けら一匹いなかったんだぞ? だいたい、出口だって木の隙間のどこからでも見えるはずじゃないかよ?」
 「そういうのは全部、あなたが気付いていないだけで、すべてあるようにあったはずです」
 「嘘だぁ?」
 「事実です」
 Nは淡々と言った。
 「何も感じず考えず、ただ同じことを繰り返している人間にとって、あるものがなくなることはしばしば起こりうることです。決まりきったことを決まりきった通りに繰り返す時、繰り返すのに必要でないものは、目に入ることがなくなるんです」
 Nにしては長い台詞だった。そしてその長台詞の訳を説明するかのように、Nはそっと言い添えた。
 「……と、I姉さまはそう仰っていました」
 「なぁN。ぐるぐる様ってなんなんだ?」
 「怪異です」
 「おばけみたいなもんか?」
 「そうです」
 「この林の中に、それはいるのか?」
 「特定のどこかにいる訳ではありません。繰り返しという概念は、世界中のどこにでも存在していますから」
 「あのままおまえに助けられなかったら、あたしはいったいどうなってたんだ?」
 「この林の中を」
 Nは空き地の林をそっと見詰める。
 大して入り組んでもいない小さな林は、外側からでも向こう側が簡単に見通せたが、それでもVの姿はどこにも見当たらなかった。
 「ぐるぐると回り続けていたはずです。おそらくは永久に、或いはほんの短い時間だけを」
 Nは空き地を歩き去って行った。あたしは何となくその後を追った。
 そして道路に出てぼんやりとNは立ち尽くして、やがてあたしの方を見て言った。
 「あなたの家はどこですか?」
 「……なんでそんなことを聞くんだ?」
 「それは」
 Nは能面のような顔のまま言う。
 「漫画を読みに行くんです」

 〇

 家に来たNは漫画を読む以外のことをまるっきり何もしなかった。
 あたしが声を掛けても生返事しかすることをせず、あたしがレビューを話した漫画を一巻から順に読み続けていた。遊びに来てこうされると、家主にとっては半ば邪魔臭いだけなんだよなと思いながら、あたしは隣でテレビゲームで遊び続けた。
 母親が帰って来ると、Nは無言で立ち上がった。残る数冊を借りて帰って良いかを無表情で打診するNに、あたしは投げやりにそれを了承した。助けて貰った恩もある……というにはそもそもの元凶がこいつが放った『ずきずき虫』だがまあ一応……ということもあった。
 Nは目があったあたしの母親に挨拶することもせずに家を立ち去った。分かってはいたが、無礼な奴だ。
 「お茶の一つくらい、出してあげたんでしょうね」
 母親が言う。
 「あいつにそんな気遣いは無用だよ」
 「こら。何を言っているの。お友達は大切にしないと」
 「お母さんはあいつがどんな奴か知らないんだよ」
 「まったくもう」
 腕の腫物の様子を聞かれたので、平気と答えて腕を見せる。母親は安心した様子だったが、どうしてそんなことになったのかと首を傾げていた。
 一応は病み上がりということになるだろうに、あたしはまたも夕飯づくりを手伝わされた。宿題を理由に辞退しようとしたがこれも不発だった。そして夕食後その宿題を放置してアニメを見てストーリーに心を躍らせ、風呂に入って風呂から上がり、宿題をほったらかしたまま自宅のベッドで横たわり天井を見詰めた。
 あたしはNのことを考えた。 
 Nのしたこと、Nに助けられたことを考えた。
 Nはあたしをいじめて来たVを懲らしめる為にずきずき虫を放った。だがそれは懲らしめるという次元を超えて、あの暗い森の中で永劫の時をさ迷わせるという、死よりも尚恐ろしい目に合わせようとしたのだ。
 それは悪いことだ。それは確かだ。
 でもNはあたしを助けた。それも確かだ。
 良いこともするし悪いこともする。それが子供だ。ただあいつは変な力を持っているから、どちらを成すにしても、普通の子供には成せないようなことを成してしまう。その所為で人が死んだり、いなくなったり、悲鳴をあげてのた打ち回ったりしてしまう。
 Nは危険な奴だ。
 あいつから離れなければならないのだろうか、と思う。
 離れたくないな、とも思う。
 煮え切らないのはあたしに今他の友達がいないからで、一人ぼっちの学校生活に耐えきれないことが分かっているからで、あいつがどんな化け物でも悪魔でも、傍に誰もいないよりはマシだとそう思うからだ。
 悶々と考え込んでいるあたしを、お母さんが呼ぶ。
 呼ばれて受話器を渡されると、M先生の声がする。
 あたしの為にNを探していてくれたのだという。あたしの様子を伺う為に電話を掛けたのだと言う。そう言えばすっかり忘れていた。あたしは先生に平気だと伝える。Nが助けてくれたと説明する。そして力になろうとしてくれたお礼と、ほったらかしにしたお詫びを伝える。
 電話を切る前に、先生は「今日は宿題を忘れるなよ」と一言添えた。
 あたしは受話器を終えて、自室へ戻る。
 そして勉強机に着いて、ランドセルから、漢字のプリントを取り出して目の前に広げた。
競作企画

2025年07月19日 00時01分28秒 公開
■この作品の著作権は 競作企画 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
 ムッチャ昔『霊感少女N』というタイトルでリハーサルに投稿した作品を、大幅に加筆しました。

 そもそもこの『霊感少女N』自体が、過去の企画に投稿した『霊感少女C』の続編というか世界観を同じくする姉妹作だったりします。
 関連作全部合わせて二十万文字くらい溜まったのが三か月前くらいの話。そこで完結にするかしないのか悩んだ末に、他に書きたいものがあるという前向きなのか消極的なのかわからない理由で完結として、ぼちぼちカクヨムの方に垂れ流しを開始してます。もしよかったら読みに来てください。

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