経済予測は当たらない |
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僕——藤山創(ふじやま そう)は職場の一室で、PCモニターを前に独り頷いた。 今日、二〇二五年五月八日は、記念すべき日になる。「ちゃんと動くだろうか」という不安と、少しの期待に胸を膨らませながらシミュレータの設定を完了した。 計算を実行する。 「よし。エラーは出てないな」 誰もまだ結果を知らない瞬間、これが一番楽しい。 僕が勤めている研究所は先端ITに関する研究を専門に行っていて、その内容は多岐にわたる。例えばAI・人工知能、IoT、サイバーセキュリティ、量子コンピューティングといったテクノロジーを日々弄りまわして追求している。こう聞くと一見凄そうに思えるだろうが、僕が普段している仕事は到底、華々しいものとは言えない。 大した研究費も割り当てられていない弱小研究室の隅で、PCと一日中睨めっこし、少ないリソースで何とか可能な新しいことを試す。それが僕の主な業務である。まあ正直なところ、たとえ見た目が派手な研究だったとしても、実態は九割九分地味なものだと思う。研究とはそういう行いなのだ。 それでも、今日は僕にとっては残りの一分かもしれなかった。自作のシミュレータが完成し、初テストを行うことができるのだから。準備や実装が大変で思ったより手こずってしまったが、一年以上試行錯誤してついにテストまでこぎ着けたのだ。 「……あっ」 シミュレーション内にPCの前に座る僕自身を見つけ、僕は思わず声を上げた。 僕の作ったシミュレータは、人間の行動を高精度にシミュレーションするものだ。僕は元々サイバーセキュリティ対策を専門としている研究室に所属していたのだが、自分の限界を感じて一昨年に研究室を移籍した。今は「マルチエージェントシミュレーション」というものを専門にしている。これは何かというと、人間のように内部状態や行動ルールを持った「エージェント」という存在をシミュレーション上に作り、それらを用いて現実の事象をモデル化するものである。 僕は昔から、経済予測が当たらないのは何故だろうと思っていた。権威ある経済学者の面々でさえ、この混沌とした経済状況に対し手をこまねいて見ているしかないのはどうしてなのだろうかと。しかしこの分野に入ってすぐにその理由は明らかになった。人間は意思決定に用いるパラメーターが多すぎる上に、それらが複雑に相互作用しているのだ。消費者心理、個人的な経験、その日の体調、確証バイアス、突発的な自然災害、戦争の勃発、そして——関税政策の急な変更。他にも数えればキリがない。社会モデルは常に不完全にならざるを得ないのだ。現実の事象をある程度模倣するモデルを作ることはできる。しかし、当然ながら現実そのものとは大きくかけ離れている。そうしたモデルを現実の経済予測に使うことは極めて困難なのだ。 僕はこの課題をどうにかしたい、と強く思った。しかし、経済学においてはほぼ素人の僕がいきなり世界規模の経済を高精度にシミュレーションできるわけがない(できるなら誰かがとうにやっている)。だから、僕はアプローチを変えることにした。 まず、シミュレーション範囲を研究所内に絞り、研究所内の職員をモデルとしてエージェントを作成した。エージェント一人ひとりの設定には、全員に許可を得た上で職員の個人情報を可能な限り使った。さらに、許可を得て共用スペースにだけカメラを設置させてもらい、職員の行動パターンをつぶさに記録した。こうすることで各人の行動パターンを日々学習させ、エージェントの行動パターンにまで落とし込んだ。つまり僕のシミュレータはより正確に言えば、「研究所内の職員の行動を高度にシミュレーションする」ものだ。 僕はこのシミュレータを今後三か月くらい稼働させ続け、微調整して結果をできるだけ現実に近づける予定でいる。 「……ん?」 その時、僕はふと違和感に気づいた。 シミュレーション内の時間は現実より一日遅れに設定したはずだった。これは、現実のカメラ映像とシミュレーション結果を比較し、精度を評価するためだ。 今日は木曜日。昨日、つまり水曜日のこの時間は、僕は同僚とのテニスに興じていたからこの部屋にはいないはずだ。シミュレーションの精度が悪いのか? それとも…… 「うわ、やらかした」 僕は設定を確認し、自分の間違いに頭を抱えた。どうやら僕は設定を現実より一日先にしてしまったらしい。シミュレーション内にいる僕は、明日の僕をシミュレーションしたもの、ということになる。 「んー……まあ、このままでもいいか」 設定をやり直すにはそれなりに時間がかかる。それに、このシミュレータの計算はかなり煩雑であるため、一度動かし始めたら止めないほうがいい。下手に止めるとPCがクラッシュする恐れがある。そうなったら場合によってはこの一年の苦労がパーだ。 ただ、これは致命的なミスではない。本来は今日の残りの勤務時間は、昨日のカメラ映像とシミュレーション結果を比較する予定だった。シミュレータ内が明日――金曜日からスタートになっているなら、僕はシミュレーション結果をいったん保存しておき、土曜になってから金曜日のカメラの映像記録とシミュレーション結果を比較すればいい。 土日に休日出勤せざるを得ないのは少し面倒だが、実はこれもそのつもりで予定を組んであるので問題ない。土日は基本的に休みで職員が少ないため、シミュレーション結果の精査は月~金の結果だけに絞る予定でいた。しかし結局のところ一日前をシミュレーションしていたとしても金曜日分のシミュレーション結果は土曜日に見るほかないのだ。なので、月曜に代休を取ることを室長に伝えてある。 とは言え、今日と明日はただ暇を持て余してしまう。僕はやることもないため、何の気なしにシミュレーションの出力結果を眺め始めた。結果画面はあの有名な人生シミュレーションゲーム、「The CIMS」のゲーム画面に近い(なので僕はこれを「The engineers 」と呼んでいる)。シミュレーション内の研究所をエージェントたちがうろつき、好き勝手に行動していく。カーソルをエージェントに合わせると、その時の感情や、空腹度などのパラメーターが表示されるようにしてある。 僕はシミュレーション内の僕のエージェントから目を離し、他のエージェントを見ることにした。程なく、所長のエージェントが資料室にいるのを見つけた。 「あんなところで何してるんだ?」 資料室は印刷された論文や、紙媒体の古い研究記録などが保管されている場所だ。だが、紙媒体をスキャンした電子版が共有されておりいつでも見られるため、原本を使う人はほぼいないと言っていい。年一の資料整理の日以外はろくに開けられていないだろう。 しかし僕はこの日、資料室の用途が別にあることを認識することとなった。 「ひええ……」 僕は思わず変な声を出してしまい、口元を抑えた。所長エージェントは、二年目の若手女性研究員エージェントと資料室でウフフなことをしていたのである。えっ、所長、既婚者だよな? 確かキャビンアテンダントの奥さんがいるはず。 「これはまずいな」 職場内で堂々と不倫とは恐れ入る……いや、落ち着け僕。これはあくまで、シミュレーション内の事象であって現実ではないんだから。シミュレーション結果が間違っているんだ、そうに違いない。 だが、そこで僕には悪魔的な考えが閃いてしまった。 プライバシー保護の観点から、現実で設置したカメラは共用スペースにしかない。機密情報が多いエリア――個人の研究室内や、普段ロックされている資料室など――にはカメラを設置していない。トイレや更衣室ももちろん撮影対象外だ。 そして、そのことを所長は知っているはず。つまり、所長はわざわざカメラの死角を選んで逢引している可能性がある。だが、資料室の外の廊下部分にはカメラがある。恐らくシミュレータは、金曜日のこの時間に所長と女性研究員が資料室に入る映像を繰り返し学習し、この結果を出力したのではないか。 そして、僕はこの結果が正しいかどうか確認することが現実で可能だ。明日のこの時間、こっそりと資料室の様子を伺うだけでいい。そこまで考えて、僕は頭を振った。 「イヤイヤ、それはダメだろ」 逢引を出歯亀するのは倫理的によろしくない。その上、万一バレたら僕の職が危ういし、上役のイヤな秘密なんて別に知りたくもない。 だが研究者の性分として、どうしてもシミュレータの精度だけは知りたい。カメラ映像で学習できていない部分のシミュレーション結果が現実と合っているかどうか、それを確かめておきたいのだ。 「くそ」 小一時間悩んだ末に、僕は好奇心に負けた。 ▽ 土曜日になり、僕はどうしようもない罪悪感と共にPCの前に座った。手の中には、さっき資料室から回収したボイスレコーダーが握られている。僕は木曜のうちに資料室に小型のボイスレコーダーを仕込んでおいたのだ。 僕は念のため周囲の人間が休日出勤していないことを確かめてから自室の鍵をかけ、恐る恐るボイスレコーダーにイヤホンを接続し、音声を再生した。何も聞こえない部分は飛ばす。 しばらくするとドアの開閉音がした。所長の足音らしき音もする。少しの間所長だけの気配が感じられ、五分ほど後に再びドアの開閉音が聞こえた。直後、例の女性研究員の声が耳に滑り込んできた。 『あら、今日は早いのね』 『珍しく暇だった』 心音が否応なしに速まる。まるで昼ドラのワンシーンだな、と僕の冷静な部分が突っ込みを入れた。 『実は秘書にぜんぶ丸投げしてるんじゃないの?』 『そんな悪い男に見えるか』 『悪い男でしょ』 『そうかもな。でも、君も悪い女だろ』 『ふふ』 爛れた雰囲気の会話の後、チュッという音が聞こえた。続いて色の乗った息遣いと衣擦れの音。軽いリップ音が明らかな水音に変わってきた辺りで、僕は慌てて再生を停止した。いつの間にか溜まっていた唾を飲み込み、深呼吸してあらぬ妄想を頭から追いやる。 やってしまったという背徳感が脳を支配し、僕は後悔した。こいつは明らかにクロだ。今後所長やあの女性研究員に研究所内で会った時、どんな顔をすればいいのかと考えると非常に気まずい。 だが、シミュレーション結果の正しさは一つ確認できた。それだけが救いだ。 僕はさっさとボイスレコーダーの中身を消去した。所長の性事情の証拠など、大事に持っていても災いの種になるだけだ。所長の奥さんには悪いが。 「……コーヒーでも淹れるか」 僕は濃いめのコーヒーを飲んで気分転換してから、予定通り金曜のシミュレーション結果と現実のカメラ映像の比較に取り掛かった。 ▽ シミュレーション精度は上々だった。稼働初日にしては思ったより精度が良い。大食いの同僚が、食堂でかつ丼をおかわりしている部分が現実とシミュレーションで一致しているのを知った時は思わず笑みがこぼれた。あいつは丼物なら大体二杯食べるから、行動パターンの学習は容易だったのだろう。 午前中の間で細かい誤差をいくつか修正し、僕は明日――日曜日のシミュレーションに画面を戻した。その時、シミュレーション内で見知った同期のエージェントが研究所を歩いているのを見つけた。箭内(やない)すぐるだ。 彼と僕は旧知の仲である。中高同じ学校で、同じクラスになったことも一度や二度ではない。その上、すぐるは僕と似た部分が多かった。身長や体重、家庭環境、学力、体力、全てが同程度だった。 ただ、なぜかテストの点は僕の方がいつもほんの少しだけ上だった。不思議なことに、僅差に迫ったことは何度もあったが、彼が僕の順位を上回ったことは一度もなかった。そのせいか、あの頃の彼は僕のことを一方的にライバル視していた。 僕とすぐるの関係性が変わったのは、大学に入ってからだ。僕らは同じ大学を受験した。結果として僕はギリギリ受かり、彼は落ちてしまった。彼は隣県の滑り止めの私立に進学したので、たちまち僕とは疎遠になった。 だが驚いたことに、僕とすぐるは新卒で同じ研究所に入った。僕は中高の記憶を思い起こし、面倒なことになったな、と思った。しかし、久々に会ったすぐるはすっかり様変わりしていた。勤務初日、パリッとした仕立ての良いスーツに身を包んだ彼と廊下でばったり出会い、最初に交わした会話を、僕はよく覚えている。 『や! 久しぶりだね、創』 『あ、ああ』 『この場所で君とまた会えるなんて思わなかったな。幼馴染同士、困ったことがあったら協力して研究していこう』 僕は驚いた。高校生の頃のすぐるなら、何があっても僕と組むなんてことは言いやしなかっただろう。 『随分と、その……変わったな、すぐるは』 『そうかい? 自分では分からないな。でも、なんだか君は変わってないね。じゃあ、俺はこっちだから。また』 『ああ。またな』 そう言ってあっさりと二階に去っていった彼を、僕は拍子抜けして見つめた。 後で聞いて驚いたが、彼は博士論文が有名雑誌に載り、注目の若手としてこの研究所に入ったという。 それからというもの、彼はうだつが上がらない僕を尻目にめきめきと成果を上げ、同期のスター的存在となった。五年目の今はチームを率いる大黒柱として活躍している。彼は僕から見ても、昔からリーダーとしての素養があった。社会に出れば学力よりもずっと重要視される資質だ。やれやれ、中高の頃とは立場が逆転してしまったな、と僕は思った。 今となっては僕とすぐるは良き同期として協力している……と思う。このシミュレータの膨大な計算に、別研究室の量子コンピュータの試作機を使えるよう手配してくれたのも彼だ。大体において、僕が彼のコミュニケーション力に頼りっぱなしなので、最近は少し申し訳なく思っている。今度、酒でも奢ろう。 昔話が長くなった。とにかくその箭内すぐるのエージェントが、日曜にわざわざ研究室に来ていたのだ。僕はよせばいいのに、つい気になって彼のエージェントの動向を見守った。 彼のエージェントはさっきの僕のように、周囲に人がいないことを確かめてから自室の内鍵をかけ、PCを開いて熱心に操作し始めた。僕は結果画面を拡大し、彼が向き合っているPC画面の解像度を上げた。しばらく画面を眺め、僕はようやく彼のエージェントがやっていることを理解した。彼はディープフェイク画像を作り、それを自分の論文に貼っていたのだ。 「まさか!」 僕は足元が崩れるような感覚を覚えた。 彼のエージェントがやっていることは、明らかに研究データの捏造に当たる行為だったからだ。 「嘘だろ……」 いや落ち着け僕(再び)。あくまでこれはシミュレーション内での出来事であり、現実で起こっていることではない。所長の危ういロマンスに関してはたまたま現実と一致していたが、今回は違うという可能性も十分ある。 ただ一つ所長の件と違うのは、今回のシミュレーション結果を現実で確かめる術はないということである。資料室はここの職員であれば誰でもロックを解除できるが、個人の研究室はそうはいかない。セキュリティは万全であり、静脈認証装置でしっかりとロックされている。僕がすぐるの研究室にボイスレコーダーを仕掛けることは不可能だ。 「深入りはやめよう」 僕は思考を打ち切り、モニターをOFFにして席を立った。このことは忘れよう、それがいい。 ▽ 「奇遇だな、君も休日に出ているなんて。ここ、いいかい?」 しかし、忘れようと決心した直後に、僕は不運にもすぐると食堂で出くわしてしまった。僕は昼食の担々麵を吹き出しかけたが、気合いでこらえた。 「ど、どうぞ」 「どうしたんだ? 変な顔して」 「担々麵が思ったより辛かっただけだ、気にしないでくれ」 「そうか」 彼は普段通りの顔で僕の向かいに腰かけた。 僕は水で担々麵を流し込みながら、必死に自分に言い聞かせた。シミュレーション内の結果は現実とは関係ない、彼を疑惑の目で見ることは間違っている。 「最近はどうだい? 新しいプロジェクト、ついに始めたんだってね」 「へっ!? あ、えーっと、おかげさまで上手くいってるよ」 「それは何より」 ちょうど痛いところを突かれ、僕は心臓が鷲掴みされたような動揺を覚えた。ああもう落ち着けって、彼の手も借りたプロジェクトなんだぞ。話題がそこに行くのは当然だろ。 だが、このままこの話をしてしまうとボロが出かねない。僕は素早く話題を変えた。 「すぐるは、最近忙しいのか? 普段休日に来ているイメージないような」 「まあね。連休明けなのもあって、スケジュールがタイトでさ。並行してやっているテーマも多いし」 「じゃあ、明日も出るのか?」 「そうなりそうだ。勘弁してほしいね」 「大変だな」 それとなく明日の予定を訊いてみたが、すぐるには何ら動揺は見られなかった。とても、明日の午前中に不正行為をしそうには思えない。 「……なあ、ディープフェイクを見破るAIってどのくらい進んでるんだ?」 気づくと僕はそう言っていた。 「え?」 彼の表情がすっと無くなったのを見て、僕は慌てて適当な理由を言い連ねた。 「こないだ、大統領のディープフェイクが結構話題になっただろ。すぐるはサイバーセキュリティの方もやってるから、そっち方面の情報は詳しそうだと思って」 「また唐突だね。確かに、ディープフェイクのことなら良く知っているよ。検出ツールも既にそれなりの数が出回っている。とはいえディープフェイク側も進化していくから、結局はいたちごっこさ。完璧に防ぐのはなかなか難しい」 「そういうもんか」 その後は大した会話もなく、僕らは昼食を終えた。 ▽ 三か月近くが経ち、僕はすっかり人間不信に陥っていた。シミュレーションの舞台に身近な場所を選ぶことに、こんな弊害があるなんて露ほども考えなかった以前の僕を呪いたい。本当に。 シミュレーションの結果、所長の不倫相手の女性研究員エージェントはまさかの三股をかけていたし、その相手は全員研究所内の人間だった。あと、少しだけ気になっていた受付の女性エージェントはレズビアンだった(あるいはバイセクシャルかもしれないが)。そして、すぐるのエージェントは相変わらず捏造をし続けていた。 シミュレーション精度確認の記録には、もちろんこうしたことは書いていない。共用スペースでは皆、ごく普通の生活を送っているからだ。 だが、周囲の人間の知らない一面(かもしれないもの)を見すぎて、僕は精神的に疲弊していた。食も細くなったし、寝つきが悪いことこの上ない。 そんな最悪な日々も、もう少しで終わりだ。シミュレータのテスト期間は、終了まであと二日に迫っていた。今日は八月六日。八月八日になれば、全てが終わる。今日で一旦シミュレータは稼働を停止させる予定だ。七日のシミュレーション結果を八日に比較したら、こんな生活はもうおしまいにしよう。 空き時間に八月七日のシミュレーション結果を眺めていると、すぐるが僕を飲みに誘うのが見えた。僕は、久々に気持ちが浮き立つのを感じた。そうだ、飲むのは八日の夜にしよう。苦労したプロジェクトの一区切りをささやかに祝っても、バチは当たらないだろう。 翌日、シミュレーション通りにすぐるは僕を飲みに誘った。僕は二つ返事で了承し、僕らは八日の夜に飲みの予定を立てた。 ▽ 僕らは行きつけの居酒屋で大いに飲んだ。彼もどうやら何か鬱憤が溜まっていたようで、いつもよりペースが大分早かった。 「なあ、創、最近やつれてないか。なんか悩みでもあるのか?」 「そこそこ悩みはあるな」 「当ててやろうか、あのシミュレーション関係だろ」 図星だった。でも、すぐるのエージェントがしていた捏造のことに触れるのは流石に憚られ、僕は内心申し訳なく思いつつ受付の女の子の件を話した。 「その、気になっていた女性が、シミュレーション内で別の女性と熱烈なキスをしてたんだ。現実にそうとは限らないけど、それを見ちゃうと、アプローチしにくいなと思って」 「へえ、誰?」 「それは言えないよ。現実でそうとは限らないし、もし現実でもそうだったらそれこそ言ったら失礼だし」 「ふーん、真面目なんだな」 僕らはラストオーダーまで居座り、僕は感謝の気持ちだと言って強引に一軒目の会計を払った。すぐるは「別にいいのに」と言ったが、僕は引かなかった。 ▽ 二軒目に行こう、となった時、すぐるが自宅で飲まないかと誘ってきた。特に断る理由もなかったため、僕はすぐるの家にお邪魔した。彼の自宅は立派なマンションの高層階で、広々とした豪邸だった。 秘蔵のワインだという赤ワインを味も分からず飲んでいると、出し抜けにすぐるが言った。 「なあ、創。君は、俺が論文画像をディープフェイクで作ったのを知ってただろ」 「え」 「実は君のPCをハッキングして、シミュレータを不正にコピーして、俺もやってみたんだ。君がディープフェイクの話をしたときに、もしやと思ってさ」 僕は目を白黒させてすぐるを見つめた。彼は何を言っている? 理解が追い付かない。 「俺は、ずっと二日後をシミュレーションしてたんだ。なあ、君は何をするつもりなんだよ。俺、明日出勤する予定なのにさ、いなかったんだ、シミュレーションの中に。しかも、明後日もいなかったんだ。でさ、明日の君は室長の前で泣いてた」 「なんだって?」 「きっと、創は俺を陥れる気でいるんだろ?」 「ち、違う、落ち着け」 「俺の気持ちなんて分からないくせに! また俺の上位互換になるつもりなのか? あの頃みたいにさあああー!」 「や、やめてくれ!」 彼が勢いよくワイン瓶を振り上げたので、僕はとっさに避けた。彼はバランスを崩し、足をもつれさせて転倒した。 運悪くその先には、大理石のテーブルの角があった。彼はそこに頭から衝突し、「ぐがっ」という声を出したきり動かなくなった。血とワインが高そうな床にじわじわと広がっていく。 「血、血が」 僕はすっかり気が動転した。だが、冷静な部分は正確にスマホで一一九番を押してくれたらしい。気づいたときには、救急隊員がすぐるを運び出していた。 ▽ 「すぐる! 大丈夫か!」 僕がベッド脇に駆け寄ると、彼はきょとんとした顔をした。 「おっさん、誰だ? 俺のパパとママ知らない?」 僕はうろたえ、思わず医師の方を振り返った。彼は非常に言いにくそうに口を開いた。 「その……落ち着いて聞いて下さい。彼は脳への強いショックによって、幼児退行しています。自分のことを十三歳だと、そう言っていて……記憶にも混乱が見られます」 「そ、そんな馬鹿な」 僕は床に膝をついた。だが、すぐるは状況が分かっていないようで、無邪気に言った。 「なあ、おっさんは誰なんだよ?」 「僕だよ、藤山創だ。分からないのか?」 「へえ、偶然ってあるんだな。俺のクラスの友達も、藤山創って言うんだ。中一になって、初日にできた友達なんだぜ。あいつから話しかけてくれたんだ」 僕は息を詰まらせた。そうだった、かもしれない。忘れていた。 「俺、小学生の頃ずっといじめられててさ。友達、一人もいなかったんだ。だから、創は初めての友達なんだ! あいつホントすごいんだぜ、小テスト、俺よりぜんぶ点良かったんだ」 「……」 「俺さ――」 いつか、あいつと対等になれるくらい凄いやつになりたいな。 すぐるは満面の笑顔で、そう言った。 ▽ 僕はふらふらと病室を出た。唐突に涙が一粒頬を伝って落ち、床の絨毯にしみ込んでいった。後から後から、床の染みが点々と増えていく。病院の窓から差し込む朝日が、僕の全身を灼くように照らした。 こうなる前にどうにかできなかっただろうか。 どこで間違えた? どこから僕は間違っていたんだ。彼のことを、もっと気にしていたなら、結果は違ったのか。 彼は計画的な人間だし、僕は無防備だった。僕をどうにかするつもりならいつでもできた。今回のことは酔った勢いの突発的な事故で、そう、事故なんだ。 彼が研究データを捏造したことは確かに悪い。でも、この研究所は、捏造の成果だけで入れるほど甘くはない。彼の頭脳とリーダーシップは、これからの社会に必要だ。まだ若い彼なら、やり直すチャンスはいくらでもあった。 だが、彼は脳に障害を負ってしまった。 彼を狂わせたのは僕だ。もっと言えば、「The engineers」が全ての元凶だった。あんなもの、作るべきじゃなかったんだ。 僕は決意した。この研究は破棄しよう。室長にそう告げて、研究所から去ろう。 経済予測は、当たらないままでいい。 心の闇は、当人だけが知っているべきなんだ。 (完) |
春木みすず 2025年04月27日 21時10分29秒 公開 ■この作品の著作権は 春木みすず さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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