星を描く

Rev.06 枚数: 25 枚( 9,965 文字)

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 誰にでも出来ることを出来ない奴が嫌いだ。
 良い歳して靴紐が結べないだとか、箸をきちんと持てないだとか、簡単な漢字に書けないものがあまりにも多いだとか、そういうことだ。
 誰にだって欠点があることは分かる。だがどうしてそれを放置するのか? 普段から少し努力して、出来ないと分かったらすぐに克服する習慣を付けていれば良い。靴紐なんて少し親にでも聞けば結び方を教えて貰えるだろうし、箸の持ち方だって練習すれば一日足らずで習得できるだろう。漢字に至っては、日ごろの授業でノートをひらがなで取っているとかでない限り、書けない字なんてそうそう残るようには思えない。
 出来るようになることに興味がないのだ。出来ないでいる自分を恥ずかしいと思えないのだ。そうやって出来ないことを蓄積させながら歳を重ねることについて、真剣に考えたことがないのだ。
 「だって出来なくても困ったことなんてないし」
 なんて舐めたことをのたまうのは幼稚園の頃からの友人の篠崎ツバサで、そいつは靴紐も結べなかったし箸も正しく持てなかった。『注文』とか『送信』とか『家庭』とかいう簡単な字も書けなかった。
 そんなツバサの言い分はこうだ。
 「ちょうちょ結びできなくても履ける靴なんていくらでもあるもん。箸なんて自分の持ちやすいように使いやすいように使えば良くない? それに漢字なんて非効率だよ。何千通りも文字を覚えなくたって、ひらがなだけでも文章のやり取りは出来るもの。それに今は電子の時代だから、読む方が出来れば何とかなるし」
 「出来ないことを出来ないままにしとくっていうこと、それ自体が問題なんじゃないの?」
 わたしは言う。
 「人からの評価に興味がないんだ。そんなんじゃ誰からもバカにされるし相手にして貰えないよ」
 「人がどう思うかとか関係ないし。世の中には色んな覚えることっていうか、技術や手順が無数に存在するけれど、それ全部覚えるだなんて不可能じゃない? 覚えとくべきこととそうでないことの区別はどうつけるの? 自分で判断するしかないじゃんね」
 「何も心臓麻酔出来るようになれとか司法試験受かれとか、そういうことは言ってない。もっと基本的な物事の話をしているんだよ」
 「その基本的とか基本的じゃないとかはどう別けるのさ? 自分で考えて不要だと思ったことを覚えてないだけで、必要だと思うことはちゃんと教わって覚えてるよ。キャベツの千切りの仕方とか、洗濯物の畳み方とか、お風呂場のピンク汚れの取り方とかはね」
 ツバサの家は母子家庭で、家の用事のかなりの部分をツバサが担っていた。ツバサには廉太郎という兄がいたがそいつは家事労働全般にまったく関与しなかった。どころか自室に引き籠ってほとんど外に出て来なかった。食事はツバサが部屋の扉の前に置いて置くと、しばらくすると食い散らかされた食器が同じ場所に放り出されているという有様だった。
 その廉太郎は妹について以下のように言う。
 「色々言ってるけど、ちゃんと覚えるのが面倒臭いから屁理屈言ってるだけなんだよな」
 廉太郎はツバサや母親に買って来させた本や雑誌や、ポテトチップスの袋やそれを食べ終えたゴミに埋もれた部屋の隅、微かにエントロピーの低い空間に備えられたデスクの上のパソコンで、毎日のようにネットゲームに勤しんでいた。
 「子供の内は特になんだけど、何を覚えるとか何を学ぶとかってことに対して、自分で選べる部分って、驚く程少ないんだよな。これこれこういう課題がありますって提示されて、意味とか考えず受け身でクリアする時間が大半って言うか」
 ツバサの兄である廉太郎は当時十二歳のわたしより五つ年上。その偉そうで妙に自信に満ちた物言いの所為か、大したことを言っている訳じゃなくとも説得力のようなものがあると子供には錯覚させてしまうところがあった。
 「そうやって磨いてるのって課題をクリアすることで得られる技術自体よりも、覚えなきゃいけないことを覚える力そのものや、上位者に対する従順さだったりする訳じゃん? ほとんどの子供はそこまで考えず漫然と大人に従ってるだけなんだろうけど、でもその『やらされてやる』ってことを出来ない奴は、やっぱり落ちこぼれだよ。そんな状態でいたらそいつはその内」
 廉太郎は退廃的な笑みを浮かべる。
 「俺みたいになる」
 わたしは廉太郎の容姿が好きだった。
 妹のツバサも綺麗な子で手足が長くて色が白くて目が大きくて鼻筋が通っていたけれど、兄の廉太郎の美しさはどこか幻想的というか、フィクションの世界から現れたような非現実感があった。色が白いのも手足が細くて長いのも妹と同じだったけれど、廉太郎の肌は信じられない程きめ細かくて、髪は艶やかで、切れ長の大きな目は涼し気で人形のような顔立ちをしていた。ぶっきらぼうな態度ながらわたしの話をいつでも聞いてくれ、彼なりの答えを返してくれる。
 そんな廉太郎がどうして家に引き籠るようになったのかは、妹のツバサにも分からない。
 「お兄ちゃん、急に学校に行かなくなったんだよね。昔は成績だって良かったし友達も多かったのに。理由を話すように何度もお母さんに言われるんだけど、その度に黙り込むし、しつこいと暴れるようになった。一度なんて、殴られたお母さんが入院しちゃって」
 「本当に何も知らないの? あんたにも何も言ってない?」
 「さあ? つまんないし疲れたって何かに付けて何度も言ってる時期あったけど、でもそんなの何も言ってないのと同じだもんね」
 きっと廉太郎はダメな奴だ。
 何か理由があったとしても、話さない事情があるのだとしても、それでも廉太郎はダメな奴だ。距離を置いた方が良い、とまでは思わなくとも。何かしら影響されるようなことがあってはならない。容姿が良くて話すと面白くて、それ以上にならないように、廉太郎に対しわたしは気を付けていなければならない。
 そのつもりでいた。だから、『お兄ちゃんの方があたしよりよっぽどダメだしー』なんてほざいて、油断しきっているツバサのようにならないよう、気を付けていたはずのわたしに、思わぬ弱点が発覚する。

 〇

 塾の宿題を解いていた時だった。
 星形の図形を用いた出題だった。やや歪んだ形の五芒星の内角や外角のいくつかに角度が提示されていて、それらの情報を用いて書かれていない角の角度を求めるというものだ。
 横で見ていたツバサは勉強を『不要なこと』『習得せずとも良いもの』『出来なくても恥ずかしくないもの』と認識している為、問題自体には興味がないようだった。しかしその星型には興味を覚えたようで「星描けるー?」と唐突に声を発した。
 「描けるに決まってるじゃない」
 出来ないはずがないと思った。五芒星なんて誰もがノートに書いている。授業中に回って来る手紙の末尾に、ハートに次ぐ割合で(三番目はウンコだ)記載されている。誰もが描けて当たり前だし、そんなものをわたしに描けないはずがないと思っていた。
 しかし、それが描けなかった。
 どの線をどんな風に結べば星の形に出来るのか、実際に描いてみると分からなかった。星の天辺をイメージして点を打ち、そこから何となく斜め方向に線を引いてみて、それを今度はどこに繋げば星になるのかが分からない。分からないまま線を引いてみて、最初の点に戻って三角形を作ってしまう。
 「一筆書きなんだよ。最初の点に戻って来るのは最後だってー」
 ツバサに笑われた。わたしはかっとなって顔を赤くする。
 「あんたには出来んの?」
 「出来るよー」
 ツバサはあっさりと、そして無遠慮にわたしの机に鉛筆で五芒星を滑らかに描いてのけた。一片の狂いもない正五角形を中心とした綺麗な五芒星。
 「練習したの?」
 「練習するとかしないとか、そういうことじゃなくない?」
 ツバサは五芒星の隣に六芒星、七芒星と、より複雑な星の形を次々と描いて行った。滑らかに淀みなく、それでいて正確無比に。十芒星まで書いたあたりで、今度は「百芒星」とか言いながら、机のテキストの置かれていない部分一杯にしゃっしゃしゃっしゃ線を引き始めたのを、わたしは止めることすらせずについぼんやりとして見詰めてしまう。実際にそれが百芒星だったのかは数えていないが、とにかく複雑な図形がしかも一分足らずで完成した。
 「星なんて書けなくても何も困らないよ」
 そう言ったわたしに「いつもあたしが言ってる奴ー」とけらけら笑うツバサに、確かな敗北感をわたしは感じている。
 まあ良い仕方ない。誰にでも欠点があるのと同じように、誰にだって得意なことはあるしこいつの場合これがそうなんだろう。昔から絵や図を正確に描くことは得意な奴で、図工と算数の図形問題だけは何もしていなくても得意なのだ。
 星なんて練習すれば書けるようになるだろうと思ったし、実際わたしはその日の晩の内にその弱点を克服したけれど。些細なことであってもわたしに勝ったことが痛快だったのか、ツバサは暇さえあればノートのあちこちに星や多角形やそれよりもっと複雑な図形を組み合わせた、絵とも模様とも付かないものを描くようになる。
 「綺麗でしょ? 恰好良いでしょ?」
 ノート一杯にちりばめられた様々な図形が織りなすツバサの芸術は、魔法陣か何かのように複雑で綺麗だ。雑然としたツバサの手さばきから生まれるあまりにも秩序的で整然としたそれは、混沌としているようでその実綿密な計算に基づいているかのようだった。
 「幾何学構成的絵画、という芸術のジャンルがある」
 ある日部屋を尋ねると廉太郎が妹の絵について言う。
 「千九百十年代にロシアで始まった芸術家グループの流れを汲むもので、幾何学形態を用いた抽象絵画のことを言うそうだ」
 「何言ってんのかさっぱりなんだけど」
 「抽象絵画ってのは、リンゴとか犬とか具体的な対象を描かない絵のこと。それを幾何学的形態を用いて描くんだ。幾何学ってのは図形や空間の性質に対する数学の研究分野のこと。つまり幾何学構成的絵画っていうのは、数学と美術の複合芸術っていうことだ」
 意味が分からん。
 意味が分からないが、しかしツバサにある種の天性の才能があることは事実のようで、芸大卒で昔は画業を営んでいたという教師に見出され、近所の絵画教室を紹介される。
 「なんかねー。先生すっごい褒めてくれるのー。公募に出せば大賞になれる、とか言われてて」
 ぐりぐりとした筆致で、しかし驚くほど精緻な幾何学模様をノートに書きなぐりながら、ツバサは上機嫌に言う。
 「あんたすごいね」
 「うん。なんかあたし、すごいっぽい」
 「良かったじゃん。誰にでも出来ること出来なくても、誰にも出来ないことで出来ることがあって」
 わたしがそういうと、ツバサは微かに頬を赤らめて、照れたようにしかし誇るように言う。
 「たまたまなんだけどね」

 〇

 「そう。たまたまだ」
 中学生になったある日にツバサの家に寄ると、廉太郎がパソコンをいじりながら、妹の才能について冷笑的にそう言った。
 「偶然才能があって、偶然それが出来た。それだけだ。継続とか努力とか心掛けとか、そういう尊いことをして手に入れたものじゃない。だからその才能の価値はそれ自体にしかなくて、少々の自信には繋がったとしても、あいつ自身の人間的成長に繋がるようなことじゃないよ」
 「得意なことや才能があるって、それ自体すごいし得なことじゃないの? 他に取り柄もないんだし、ツバサは画家になったら良いんじゃん」
 「無理だな」
 「それはどうして?」
 「自分で自分をプロデュースするアタマがあいつにはないから。どうやってコネ作ってその為にどんな環境に身を置いて、そういうのを考えて実行する判断力とか継続力があいつにはない。偉い奴にも媚びなきゃなんないから態度とか言葉遣いとか立ち回りとかも必要だけど、あいつ敬語も使えないじゃん? 勉強の方だって、数学だけ天才的で後は全部ゴミだろ?」
 「勉強出来ないから絵なんじゃないの?」
 「違うって。売れる為の傾向と対策とかってのは、日々の勉強と同じだろ?」
 「それでもツバサには才能がある」
 「才能があるだけでやっていける訳じゃないだろうってことさ。成功する為にもの考えて、嫌なこと耐えて、面倒なこと学んで、自分のやりたい出来ること以外の、色んなことがあいつには無理だってこと。精々公募にいくつか絵が通って一時的にあぶく銭を稼ぐのが関の山だよ」
 廉太郎は妹のことを良く分かっていて、実際にツバサは絵を描くこと以外何も出来なかった。勉強もまるでダメだったしそもそも興味がなかったし、授業中はずっとノートに落書きをして過ごしていた。友達付き合いもダメで休み時間の度に隣のクラスからわたしに縋りにやって来たし、どうやらクラスでは無視されたり物を隠されたりしているようで、口を開けばそのことに対する愚痴や泣き言ばかりだった。
 「もっとシャキっとしたらどうなの?」
 気が付けばわたしはそんなことを言っているが、ツバサは目に涙を貯めて恨みがましい目をしてこう反論する。
 「あたしが悪いっていうの?」
 「悪くないよ無視されたり物隠されることについてはね。でも実際それされたら困るんだったら困らないように色んな事もっと何とかしなよ。舐められないように身の回りのこときちんとやって、わたし以外の子ともちゃんと話して仲良くなんなよ」
 ツバサの履いている学校指定のシューズの靴紐はグチャグチャな硬結びにされていて、夏服のシャツのボタンは段違いになっていた。家族以外でまともに話せるのはわたしくらいで、それ以外は誰に声を掛けられても、相手がコミュニケーションを諦めるまでじっと俯いていることしか出来なかった。
 ただ、絵は上手かった。
 ツバサは大きなキャンバスのどこにどう線を引けばどんな幾何学模様が描かれるのかを、目を閉じたままでも鮮明かつ綿密にイメージすることが出来た。そしてそれを寸分違わずに再現することが出来た。ツバサのイメージする幾何学は彼女にしか扱えない計算式に基づいていて、誰にも真似出来るものではなかった。
 中学二年生の時ツバサは絵画の公募で大賞を受賞した。まとまった額の賞金が振り込まれて、ツバサの父親が残していた大きな借金も、幾ばくか返済することが出来ていた。
 三年生の時ツバサの絵に落書きをした女子と口論になったわたしが手を出してしまい、というか近くにあった椅子で殴り付けてしまい家裁送致の寸前まで行った。ツバサは唯一の友人が少年院に行くことを恐れわたしに縋りついてワンワン泣きじゃくったが、相手が訴えを取り下げたこともありわたしは無事に済むことが出来た。
 高校は別々のところに行った。成績が違い過ぎたので当たり前だが。その頃には廉太郎はとっくに二十歳を超えていて、しかしその姿や暮らしは昔と何ら変わることなく、いつも同じ部屋の同じデスクの上で古びたパソコンのキーボードを叩き続けていた。

 〇

 ツバサは芸大に行かず、地元で就職するらしい。
 そんなことを本人に伝えられたのは、高校三年生の秋の夜。塾の帰り道で待ち構えていたツバサに声を掛けられてそのことを告げられた。
 「推薦で入れてくれるところは、いくつかあるんだけど」
 「じゃあなんで行かないの? 行かないでどうするの?」
 「行かないのは家から通えないから。行かないですることは働いて家にお金入れることかな」
 「何それ」
 「家のお金が苦しいんだよ。奨学金も安い奴なら貰えるとこあるみたいだけど、高い奴は勉強の成績がもっと良くないと貰えないみたいで。県外出て生活して行こうと思ったら絶対にお母さんに負担かけるし、そうまでして芸大出ても画家としてやってける保証ない訳じゃん。だから就職する」
 「そんな……」
 「別に芸大でコネ作って専業画家としてやってくみたいなの目指さないってだけ、働きながらでも絵は描くよ。日曜画家っていうの? それで十分じゃないのかな?」
 「あんたの才能はそんなんで終わるもんじゃない。芸大行ってちゃんと磨けば……」
 「わたしがいなくなってお母さんはどうやって生活するの? お兄ちゃんあんな状態なのに? 家のこと分担してやってて、お兄ちゃんの防波堤でもあるわたしがいなくなって、四年間もお母さん一人でやっていける? 気に入らないことがあった時のお兄ちゃんがお母さんにどんなふうに当たるのか、梨花にも話はしているでしょう?」
 「そうだけど……」
 「別に才能あっても絵以外のことで働いてる人なんていくらでもいるよ。それぞれの事情でね。あたしなんて恵まれてる方だよ。賞は取れたんだからさ」
 「普通に働くなんてあんたには無理だよ。他に取り柄がないんだから、賭けでも良いから絵に集中して……」
 「うるさい!」
 ツバサは目を赤くして吠えるように言った。
 「手を出せないなら口も出さないで。……梨花、東京に行くんでしょう?」
 打ちひしがれたわたしが呆然としていると、ツバサは何も言わずにその場を立ち去った。
 わたしは道路に棒立ちでいる。
 ツバサのことを考える。廉太郎のことを考える。
 ツバサの絵のことを考える。他の誰にも真似できない、悪魔のようなツバサの才能が、本当の意味では報われることなく埋もれていくことを考える。
 その不条理に耐えられなくなったわたしは、ツバサの家を訪ねて廉太郎の部屋に怒鳴り込む。
 「あんた妹の為に働けよ!」
 「無理だよ」
 二十三歳になった廉太郎は、幼い頃初めて会った時と変わらない美しさで、ゴミ部屋の隅のデスクからこちらに視線を向けた。
 「無理なんだ。俺には。やろうと思ったこともあったけど、でも、どうしてもそれだけは無理なんだ」
 「黙れ! 無理とかじゃなくてやれよ! やるんだよ! あんたがツバサを大学に行かせるんだよ! このままツバサの才能が埋もれてしまって、本当にそれで良いの?」
 「赤の他人が口を出すな」
 わたしは目の前が真っ赤になったように感じる。気が付けば廉太郎に掴み掛っている。
 廉太郎は冷静だ。わたしの血走った視線を受け止めて、涼し気に言う。
 「埋もれやしない」
 「埋もれる! ただでさえどんくさいあいつが、他で働きながら自分の絵が売れるように上手く立ち回るなんて出来る訳がない! 他でもないあんたが言ってたことでしょう?」
 「それで良いんだよ」
 「何が良いんだよ!」
 「空を見ろ」
 廉太郎は天蓋を指さして窓を開けた。秋の涼しい風と、夜の匂いが部屋に吹きこんだ。落ちて来るかのような星々が、空を見上げたわたしの視界に広がった。
 「どれも同じようには輝いていないだろう? 大きいものや小さいものがあるように見えるだろう」
 「そうだけど……」
 「でもここから見える大きさで星々の輝きは測れない。小さく見える星も、近くで見れば他のどの星よりも大きく強く輝いているかもしれない。星の輝きの大小は、その星の大きさで決まる訳じゃない。単に地球から遠いか近いかの問題なのさ」
 「……それがどうしたの?」
 「ツバサの才能だって同じさ。世間には届くことがなかったところで、間近にいる俺達にはそれが誰よりも強く輝いていることが分かっている」
 廉太郎はその美しい顔を微かに微笑ませてわたしの方を見た。
 「それで良いんじゃないか?」
 わたしは廉太郎の顔面を力一杯殴りつけた。
 良くはないあんたはいい加減働くべきだ。おまえがちゃんとしないからツバサは芸大に行けないんだ。何とかしろ何とかなれツバサはあんなに健気に母親を支えようとしているのにおまえの体たらくは何なんだと、わたしは廉太郎の部屋で泣きじゃくり喚き、繰り返し廉太郎を殴りつけた。
 廉太郎は無抵抗だった。やがて自分の部屋で不貞腐れていたツバサがやって来て、身体を張って兄の前に立ちふさがってわたしのことを止めた。あんたの為にやっているんだと怒鳴るわたしに、ツバサは首を小さく横に振ってこう言った。
 「梨花には何も出来ない」
 わたしは思わず頭に血が上るように感じたが、儚げに微笑むツバサに何も言い返すことが出来ず、その場で崩れ落ちるように跪いた。
 「……あんたはそれで良いの?」
 「良いんだよ。芸大行っても行かなくても、わたしの絵の価値は何も変わらない」
 ツバサは優しくわたしの傍に歩み寄り、肩を優しく抱きながらこう言った。
 「でもありがとう」

 〇

 わたしにはどうしようもないことだったのだと、大学生になった今となっては分かる。
 手を出せないなら口を出すなとツバサは言った。奴にしてはそれは正論で、実際にわたしはツバサとツバサの家族について、具体的なことは何も出来なかった。働け、何とかしろ、何とかなれと廉太郎に吠え叫ぶことは出来たけれど、廉太郎の言うところの赤の他人であるわたしに何とか出来るのならば、廉太郎はあんな状態にはなっていない。
 わたしは無事に大学に合格し、縋りつき泣きじゃくるツバサに後ろ髪を引かれながら、東京へと旅立っていった。
 ツバサはというと近所のドラッグストアに就職すると、彼女にとってあまりにも複雑な各種の店舗業務や突然の残業やシフト変更に苦しめられながらも、母親と兄を支えながら健気に日々を過ごしているようだ。
 ツバサは絵を描き続けている。
 その様子は、彼女が登録しているネットの投稿サイトのページで確認できる。
 画家を目指すことをやめたツバサは、絵を公募に出したり画商に売ったりする代わりに、作品をネットへ投稿するようになっていた。
 絵は廉太郎がスキャニングして、廉太郎のパソコンから投稿される。それは決して多くの人に見られることはない。幾何学構成的絵画なんてマニアックな絵を、いったいどれほどの人が見るのかという話だ。それでも少数の根強いファンが継続的に閲覧数を増やしているようだ。
 それでツバサの才能が相応しく日の目を浴びているとは、わたしは思わない。
 近くまで見に行った時、どれほど強く輝いているのだとしても、六等星は六等星だ。その輝きが知られることはない。ツバサの絵をネットの海の中で正しく評価できるものはごく少数で、たまに届いたところでそれは才能が正しく報われているとは言えないだろう。
 大きな星だからこそ、強く輝いているからこそ、その輝きが遠ざかって知られなくなっていくことに、わたしは憤りと悲しみを覚えてしまう。
 「才能なんて誰にでもある。自分でそれを見付けられるかどうかとか、時代や環境に合っているかとか、あとは運とか色々な要因で、多くの場合活かされないというだけで」
 里帰りをした時に、ツバサの家を訪ねた際に、相変わらず引き籠っていた廉太郎が、いつもの冷笑的な口調でそう言った。
 「自分で磨いてこそ才能だ。自分で活かしてこそ才能だ。あいつはそれを出来なかったってだけで、それは不条理なことでも何でもないんだよ」
 活かせなかった元凶のこいつが何を言っても仕方のないことだ。わたしはツバサを伴い外に出て、学生の頃たまに使っていた喫茶店に入る。
 向かい合うツバサは少し大人びたようだった。身嗜みとしての化粧は『不要なこと』の内には入らなかったようで、というかすっぴんで出社したら職場のお局に酷く嫌味を言われたようで、彼女なりに研鑽しているらしい。元々綺麗な子だったけれど、今でははっとしてたじろぐくらいになっている。
 口を開けば職場に関する愚痴や泣き言ばかりだ。三分に一回『もうやめる』と口にし、嫌味な上司の悪口を吐き散らすツバサに、わたしは言った。
 「でもあんた立派だよ。ちゃんと働いてるじゃん。お母さんとお兄さん支えてるじゃん」
 「そうだけど。そんなの誰だってやってることじゃない?」
 「そうだね。でもそうやってお母さんとお兄さん支えてるんでしょう? すごいよ。誰にでも出来ることが出来ないなんて、昔は酷いこと言ってて、本当にごめんね」
 昔からツバサは健気で家族思いだった。それを知っていたからわたしは当時から彼女の親友だった。だからわたしは本当は今も昔も、絵の才能のこととは関係なく、この友人のことを心から誇らしく感じるのだった。
 ツバサは頬を赤らめた顔を微かに俯けて、照れたように言った。
 「ありがとう」
 これからもツバサは星を描き続けるだろう。
 天才少女と持て囃された当時と比べると、その星はやがて世間から遠ざかり、霞んで見えなくなってしまうのかもしれない。
 けれどその星は消える訳じゃない。見えなくなるだけなのだ。
 ツバサの星の熱と光は、変わることも衰えることもなく、わたしの傍で輝き続けていくのだ。
粘膜王女三世

2025年04月25日 04時41分33秒 公開
■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆キャッチコピー:遠ざかる星の輝きは今も変わらず。
◆作者コメント:大昔僕の方からは友人だと思っている人が言ってたことを小説にしてみようと思いましたが、変にツバサに賞を取らせたりしたことでややこしくなった気がします。
 感想よろしくお願いします。

2025年05月10日 16時53分30秒
2025年05月08日 23時29分50秒
+30点
2025年05月03日 10時27分16秒
+10点
合計 3人 40点

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