【短編】熱の行方 |
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その人の横顔や後ろ姿を見たり、その人のことを思ったりするだけで、不思議な熱が体に満ちる。 その熱の名前をイズミが知ったのは十四歳の秋、とある喫茶店でのことだった。 久しぶりに会うマキと、思うさまおしゃべりをするつもりだった。 でもいざ待ち合わせの喫茶店でマキと向かい合い、控えめに付けられた彼女の香水の匂いを嗅ぐと、イズミは何も言えなくなってしまった。くだらない話をして、まだ子供だな、と思われるんじゃないか、そんなことを考えてしまうと、イズミの口は石のように固くなってしまった。 「久しぶり、元気だった?」 そう言うマキに、うん、とイズミは小さく答える。 そして、何か気の利いた話をしようとするけれど、焦る頭からそんなものは出てこなくて、なんとか話そうとすればするほど、口は重く、固くなった。 少し前から、イズミはずっとこんな感じだった。 マキはイズミの叔母だ。 ただし、歳の差は十歳で、おばさんというよりは歳の離れた姉妹の方がしっくりくる。 イズミにとっては明るくて、面白くて、綺麗な自慢のマキ姉で、遊びが公園を一緒に駆け回ることから、映画に行ったり、喫茶店で話をしたりすることになっても、それは変わらないはずだった。 ただ、いつからか、イズミはマキとの関わりに苦痛を感じるようになった。 彼女の顔を見る度に胸が苦しくなった。せっかく会っても何も話せなくて、会うのを控えるようにしたら、会えないことが逆に辛くなった。 その苦しさの正体が分からないこと。 それがイズミにとって一番の苦痛だった。 次いつ会えるのか分からないのに、何も話せないどころか、変な印象をマキに残してしまうかもしれない。そのことがイズミは苦しかった。 顔は熱くなり、視界は滲んでくる。 どうして私はこうなんだろう。 そんな自己嫌悪で潰れそうになったとき、不意に、手が温かいものに包まれた。 マキの手だった。 イズミが視線を上げると、マキは膝の上で握りしめられたイズミの手をそっと包んでいた。 口元に浮かんだ微笑は、ただ優しい。 マキの手に包まれた自分の手が、恥ずかしさとは別の熱を持つのを、イズミは感じる。 そして、頃合いを見たように、オーダーした飲み物が運ばれてくる。マキはブラックコーヒー、イズミはカフェオレだった。 「マキ姉」 「何?」 「私、最近変なんだ」 「変、って何が?」 「……ごめん、言えない」 一瞬、全てを洗いざらい言ってしまいたい、という衝動に駆られたものの、イズミは結局、そう言うことしかできなかった。 黙り込んだ姪に、マキは語りかける。 「大丈夫だよ、無理に喋らなくても。イズミちゃんくらいの頃は誰でも色んな悩みや苦しい思いを抱えて、それを上手く話せないのが普通だから」 「マキ姉も、私くらいの頃って悩みあったの?」 「そりゃ勿論。ていうか、今も悩みながらなんとか生きてるって感じかな」 「どうすれば、良いんだろう」 「うん?」 「苦しいんだ」 あなたのことで、とは言えないまま、イズミは言う。 「悩みで苦しくて、もうダメだ、って思っちゃうことが時々あるんだ。そんなとき、マキ姉はどうしてるの?」 マキは、「そうだね」と少し考えるようなしぐさをしてから、言う。 「イズミちゃん達のことを、思い浮かべるかな」 「私達のこと?」 「そ。私もときどき、自分が世界で一人っきりだ、って思っちゃうことがあるんだけど、そういう時にイズミちゃんや、アヤコ姉ちゃん、お父さんやお母さん。そういう大切な人達のことを思い浮かべたり、実際に会って話をしたりすると、そんな気持ちがいつの間にかどこかに行ってくれるんだ。 こうしてさ、イズミちゃんと時々会って何気ないことを話したりしてるから、私は何とかなってるんだと思う。悩みながら生きていけるのはイズミちゃんのおかげなんだ」 窓際の席で、コーヒーカップを持ったマキは穏やかな顔を向けてくる。 胸の中が温かいもので満たされていくのを、イズミは感じる。 そんな心地良い感覚の上に薄く、落胆が塗られる。 マキにとって、自分が大切な人だと言われたこと、こんな自分と会うことが生きる力になっている、と言われたことが嬉しかった。 そして、マキにとって、自分が家族でしかないことに、イズミは落胆していた。 不意に、イズミは自分の悩みの正体に気づく。 喫茶店のマスターが、マキがオーダーしたパンケーキを持ってくる。 クリームのたっぷり乗ったそれを見て、マキは顔をほころばせた。 「さ、食べよ。悩んだときには糖分とカロリーも大事だよ」 息が詰まりそうな気持ちのイズミは、それを隠そうと、いたずらっぽく笑う。 「もう二十四なのに、食べて大丈夫なの?」 「……ちゃんとジョギングしてるから大丈夫だもん。多分」 わざとらしくふくれっ面をしたマキだったけど、すぐに表情を崩して、イズミと笑いあう。 笑いながら、イズミは胸が締められるような感覚を味わう。 やはり、私はマキ姉に恋をしている。 この熱は、自分をどこに連れていくのだろう。 甘くて温かいパンケーキを口に入れながら、十四歳のイズミの脳裏は薄い闇色をした不安に染められていた。 1 想像していたよりも、一人暮らしの準備というのは色々あった。 部屋探しなんて、大学や駅との距離と家賃を比べて自分のニーズに合うところを探すだけ、と思っていたけれど、敷金や礼金、ついでに管理費、さらにはインターネット込み料金なのか、日当たりはどうか、スーパーには近いのかどうか……想像していたよりもたくさん考えるべきことがあった。極力全て自分の力でやってみよう、と思ってはいたものの、結局、見かねた母のアドバイスをそのまま聞く形になり、あらためて、自分はまだ十八になったばかりの小娘なんだ、ということをイズミは自覚した。 ここが良い、と思っていた物件の内覧を終え、親子は最寄りの喫茶店に寄っていた。 築二十年の1K、風呂トイレ別。学校や駅から少し距離があること、少し古いことが難点だけれど、地理の問題は自転車でカバーできるし、他の物件と比べても設備、家賃、日当たり、その他諸々が一番バランスが取れているね、とイズミと意見が一致すると、アヤコは先ほどの部屋で契約したい、と不動産屋さんに電話をかけた。 面倒な作業を終えてホッとしたイズミは、コーヒーを飲む。 ちなみに、アヤコはカフェラテを、イズミはブラックを注文していた。 最近、ようやく楽しめるようになってきた酸味と苦みを味わっていると、電話を終えたアヤコがふう、とため息をつき、自分のコーヒーを飲んだ。 「よくそんな苦いの飲めるね、イズミ」 「私、もう子供じゃないし」 「子供よ、まだまだ」 そう言ってアヤコはため息をつき、真剣な顔になってイズミを見てくる。 「初めての一人暮らし、大学生活が楽しみかもしれないけど、色々危険なこともあるんだから気を付けなさいよ」 「大丈夫だよ、何かあったら相談するし、近くにはマキ姉だって住んでるんだし」 「マキか……」 アヤコは、微妙な顔をしてカフェラテをもう一口飲む。 「何、お母さん」 「いや、マキは頼りになるし、相談しても良いと思うよ。でもあんまり遊びにいったりとかはしちゃダメだからね。なんたって――」 「分かってるよ」 母の言葉を断ち切るように、イズミは言う。 「分かってる」 「ならよし。あと、ちゃんと私やお父さんのことも頼ってよね」 「だから、ちゃんと相談するって」 「でもあんたさ」 そこまで言ったところで、アヤコは少しためらうように言葉を切った。 イズミが視線で促すと、アヤコは小さく息を吐き、言う。 「私やお父さんに、言えない悩みを抱えてるように見えたからさ」 イズミは思わず、目を丸くした。すぐに繕った笑みは、我ながらうまく出来ている、とイズミは思う。 「どうしてそう思うの?」 「あんた、高校の一時期から妙に聞き分けがよくなったじゃない。昔はもっと……ていうか、私の言うことにいちいち反発してたのにさ」 「酷いなぁ」 「実際そうでしょ。まあ私の言うこと素直に聞いてくれるのはありがたかったけど、何か悩んでるんじゃないかって心配なのよ、ずっと」 「考えすぎだよお母さん」 優等生の笑みを張り付けたまま、イズミは言う。 そんな娘をしばらく見つめたあと、やれやれ、と言うような溜息をつき、アヤコはカフェラテを飲んだ。 コーヒーを飲み終わったあと、ちょっと新しい家の周りを回っておきたい、と言ってイズミはアヤコと別れた。 晩御飯までには帰ってきなさいよ、と言うアヤコはイズミがどこに向かうのか察している様子だった。 アヤコが駅の中へ消えていくと、イズミは駅前の大通りから離れ、住宅街へ入っていく。 道を進むごとに風景の中の木の割合が増え、家々の合間に個人経営の喫茶店や雑貨屋といった、店主の個性やこだわりを感じさせる店が増えていく。そうした街区の中に、マキの住む二階建てアパートはある。 赤茶色の外壁にツタが這うアパートの外階段を上り、二階の角部屋がマキの住処だった。実家を出たマキが東京へ出てからずっと住んでいる古びた2DKマンションは、イズミも通いなれた場所だ。 「マキ姉、私。イズミだよ」 チャイムを鳴らして扉の向こう側にそう声をかけたものの、反応はすぐには帰ってこなかった。しばらくして、どた、ばた、と、部屋を満たす荷物にぶつかりながら歩く音が聞こえ、そしてがちゃりと音を立ててドアが開く。 スウェットの上とジーンズ姿のマキが目の前に現れた。化粧もしていない顔には、外で会うときのキリっとしたマキの面影は欠片もない。茶色いフレームの眼鏡をかけたリビングデットになったマキは、疲れた笑顔でイズミを迎えた。 イズミはわざとらしいくらいに、顔をしかめて見せた。 「何徹中?」 「ふふ……今どきの作家は徹夜はしないんですよ。文章力がガタ落ちするから」 「……でもずっとパソコンに向かってるんだ」 「まあ十何時間は確実に」 「……もう二時になるけど、ご飯は?」 「ゼリーを朝方飲んだかな……」 「とりあえず、何か作ってあげるね」 「いいよいいよ、年下の姪っ子にそんなことさせらんないよ」 「今更でしょ」 そう言われるともう何も言えなくなるマキを退かせ、靴を脱いだイズミは部屋に足を踏み入れる。 何か月ぶりかに訪れるマキの部屋は、乱雑、というタイトルの現代アートみたいな有様になっていた。 もっとも、普段からマキはここまでだらしない訳じゃない。確かに整理整頓が得意なタイプではないものの、掃除は週に一回はやるし、出したものはちゃんと元に戻す。 ただ、締め切りが近い、物語が佳境に入った、興味深いテーマが見つかった……そんな具合に頭が物書きモードになると、マキの頭から身支度や整理整頓という言葉は消え去り、良い文章を書くこと、読者の心を震わせること、仕事を終わらせること、その三つで彼女の頭の中は染め上げられる。 中学生の頃は、こんなマキ姉は知らなかったな、と豆乳のパックをゴミ袋に入れながら、イズミは思う。 昔、マキとは外で会うことがほとんどで、家で過ごしたり、仕事に向き合ったりする姿を見ることはなかった。高校生になってマキの家に一人で遊びに行くことを許されてから、イズミは時に寝食すら忘れる仕事モードのマキを知ることになった。そんなマキの横で、家事の手伝いをするまでに、それほど時間はかからなかったと思う。 「でも、ほんとに大丈夫だからね。部屋が散らかってても死ぬわけじゃないんだし」 「少なくともご飯ちゃんと食べなきゃ、文章力も上がってこないでしょ。良いよ、好きでやってるし。お陰様で一人暮らしもそんなに不安なく始められそうだし」 「うう、ありがとうね~」 そう言って、マキはイズミを抱きしめてくる。 自分の心臓が大きく鳴くのを、イズミは聞いた。 「良いから、仕事やってな。用意できたら声かけるから」 「うん、ありがとう」 そう言ってイズミから離れたマキが、仕事部屋兼寝室に引っ込むのを確認してから、イズミは小さく息を吐いた。 いい加減、このくらいのことで慌てるなよ、と自分の心臓に言い聞かせてから、イズミは遅い朝食兼昼食の準備に取りかかった。 食器やカップ、破かれた冷食の包装紙といったもので覆われたキッチンをとりあえず片づけてから、使えそうなものでご飯を作る。 ハムエッグにトースト、茹でたキャベツとわかめをマヨネーズとお酢少々であえたサラダ、それにコーヒー。 サラダはできればもっと彩りを良くしたかったけど、最近はコータローも来ていないのか、冷蔵庫の野菜室にはろくなものがなかった。生で食べるには憚られるキャベツと、しわしわになったミニトマトが入ってるだけ。悩んだものの、野菜が全くないのは栄養的に寂しいと思い、シンクの下のプラスチックボックスにあった乾燥わかめをもどし、さっと茹でたキャベツと合わせて一品を誤魔化すことにした。 軽く掃除したら買い出しに行こうかな、と考えながら、ものの一〇分くらいでこしらえた料理をトレイに載せる。 キッチンの先の六畳間はリビングとして使っていて、やはり散らかった室内の中央で、こたつ布団をまとったままのテーブルが昼下がりの日差しを気持ちよさそうに浴びている。六畳間とふすまで仕切られた右隣の四畳間がマキの仕事場兼寝室だ。イズミはリビングのちゃぶ台にトレイを置いて、マキに声をかけようとして、止まる。 ふすまは開けられていて、その向こうにノートパソコンに向かうマキがいた。 ディスプレイを見つめるマキから、玄関を開けたときのヘロヘロな様子はどこかへ行っていた。顔色に疲れは相変わらずあったものの、瞳はディスプレイを真っ直ぐに見つめ、すぐ近くにいるイズミの存在すら、完全に意識の外へ行ってしまっているようだった。 マキは、ノートパソコンに表示された自分の文章の中にいた。締め切りへの焦りはそこにはなく、ただ自分の文章と向き合い、戯れることへの集中と喜びが、マキの表情の中にはあるように、イズミには見えた。 イズミはマキを見つめたまま、動けなくなる。 マキのその表情は、ちょっとしたこと……少しの物音、それこそ、自分の息づかいくらいで、崩れてしまいそうな気がした。そうしてしまうことが酷く罪深いことのように思えて、イズミはちゃぶ台の前で中腰になった姿勢のまま、息を潜める。 私はやっぱり、マキ姉のことがまだ好きなんだな。 そのことを、苦い感慨と共に自覚する。 そのとき、マキがふと視線をノートパソコンから上げた。 「あ、ありがとうイズミちゃん」 そう言って、マキはよっこらしょ、と立ち上がった。イズミはどこかほっとしている自分に気がついた。 わかめとキャベツのマヨネーズ和えは洋風の他のメニューと合わないかも、というイズミの心配はよそに、マキはもりもりと食べた。 箸と口を動かしながら、合間合間にマキはつらつらと話をする。短編小説と記事の締め切りが見事に一致して大変なことになった、記事を書くための取材に結構な時間を取られて大変さに拍車がかかった、ついでに小説の方もプロットやテーマが固まるまでいつも以上に時間がかかってもう目も当てられない状況になってる……そんなことを、マキはどこか楽しそうに話す。 「でもあんまり焦ってないみたいだね」 食事を終えて、コーヒーで一息ついたマキに、イズミはそう言う。 「焦ってはいるよ? でも作業に入ってるときは文章に集中しないといけないからね、で、文章に集中するとなんか楽しくなってきちゃうんだよね、これが」 「マキ姉は小説書いてて辛くなることはないの?」 「そりゃ、上手く書けないときとか、編集さんからダメ出しをたくさん貰ったときとかは辛いけど、今のところは楽しくできてるかな。イズミちゃんがご飯作ってくれたりするし」 「そう?」 「とっても。イズミちゃんには本当に感謝してる」 テーブルの向かい側からそう言われて、思わずはにかんだイズミの目に、本棚の上に立てかけられた写真が入ってくる。 写真立てに入った写真は全部で三つ。 一つは、子供だったイズミと、まだ高校生くらいのマキが大笑いしながら花火で遊ぶ写真、一つはイズミの高校の入学式で、制服姿のイズミを、マキとアヤコが挟んで映る写真。 そしてもう一つは、どこか海外の写真だった。 雲がほとんどない青空を背に、マキと一人の男性が映っている。山の山頂で撮ったらしい写真で、マキとその人は楽しそうに笑っていた。ガラスの向こうから自分に向けられる満ち足りた笑顔に、喉の辺りに苦い何かが湧いてくるのを感じた。 「コータローさんの方が貢献してるんじゃないの?」 「まあ、コータローも介護はしてくれるけどさ、あいつ結構うるさいんだ。靴下が揃ってないとか、もっと日頃からちゃんとしろよ、とか」 「あ、でもそれ私もちょっと思ってるかも」 「……まあ、そうだよね。でも締め切りでカリカリしてるときに言わないでくれるのは凄く助かってる」 「マキ姉のこと、大切に想ってるからコータローさんは言ってるんじゃないの?」 「いやでも締め切りで死にそうになってる時に言わなくて良いじゃん」 私の前で、コータローの話はしないで。 イズミはそう叫びたかった。 しかしそんなことを言うことはできず、顔と口は〝仲の良いカップルを見守る出来た姪っ子〟を作るだけだった。 * マキがコータローを紹介してきた日を、イズミはよく覚えている。 それは高校の二年生の秋のこと、マキの部屋に通うようになって仕事モードのマキを知り、見かねて家事の手伝いを始めてしばらく経った頃のことだった。 紹介したい人がいる。 アプリでマキから送られてきたメッセージに不安を感じながら、家に向かったイズミを迎えたのは、緊張した様子のマキと、優しそう、という表現がしっくりくる男だった。 学生時代はラグビーをしていたというコータローはがっちりとした体格をしていて、その上に乗った人の好さそうな顔には整えられた顎髭が生えていた。剃り跡のくっきりとした髭は濃く、厚みのある体と合わせるとどこか熊のようだった。そんなコータローが華奢で色白のマキと並んだ様はどこかコミカルで、容赦なく言ってしまうと美女と野獣の取り合わせだった。 マキは、そんな野獣を今までイズミが見たことのない、はにかんだ笑みで紹介してきた。 熊のようなコータローは外見に似合わず出版社に勤めていて、マキとは仕事の関係で出会ったらしい。その出版社におけるイズミの担当で、打ち合わせを重ねる中で仲良くなっていった、とコータローは言う。 「俺も、締め切り間近のマキの家事してるかもしれないから、よろしくね」 私は、あなたがマキ姉と出会う前から知っている。マキ姉の良いところもだらしのないところも、癖も知っている。なのにどうして、あなたが付き合えたんだ。 イズミの小さな頭には、そんな言葉と凶暴な感情が渦巻いていたけれど、そんなことは口に出さず、イズミは熊の自己紹介に、笑顔を返す。 文章ばっかり書いてると思ったらちゃっかりそういうこともやってるんだね、でも良い人そうで安心したよ。 そんな具合にマキをいじり、コータローも交えて三十分ほどお茶をしてから、イズミは用事があると部屋を出た。そのあと、自分がどうやって家に帰ったのかはよく覚えていない。夕方近くに家にたどりついたとき、幸いなことに両親は二人ともにいなくて、イズミは思うさま、ベッドで泣くことができた。 同性への、しかも叔母相手の恋が上手くいかないなんんて、イズミも思っていなかった。いつかこんなことがあるかもしれないとは思っていたものの、実際に目の当たりにしたショックはどうしようもなかった。 体中から、水分が無くなってしまうくらいに、イズミは泣いた。このまま干からびて死んでしまえば良いのにと思ったものの、いつの間にか寝落ちして、気が付いたときは母親が夕食に自分を呼んでいた。 マキの初めて書いた小説が販売されたのは、イズミが十二歳のときだった。マキは二十二歳。大学卒業のタイミングとほぼ同時にちょっとした新人賞を取ったマキは、当時期待の新鋭として結構話題になったらしい。 ただ、話題になったのはデビュー作だけで、その後に出版された何本かの長編や短編集は高い評価を得ることなく、マキ自身が言うところ、〝売れない作家の典型的なルートを辿ることになった〟らしい。 ただ、イズミはマキの書いた小説が好きだった。 書いているのが好きな人だから、ということはもちろんあった。それでも、読みやすい文章で綴られる物語は面白く感じたし、抑揚のある展開に差し込まれる登場人物の心情の細やかな描写は、読んでいてハッとさせられた。マキの書いた小説は必ず買って何度も読み返すようにしていて、本棚の片隅にはマキの小説のコーナーになっていた。 コータローとのことを知ってから一週間くらい茫然としたあと、イズミはマキの本を捨ててしまおうと思った。マキの家に行くことも止めて、彼女に関わる全てのものを捨ててしまおうと思った。 そうしなければ、自分を潰してしまいそうなこの感情から逃げることはできない、そうイズミは思った。 本を抜き出し、綴じるためのビニール紐を用意して、いざ紐をより合わせようとしたところで、手が止まる。そのまま捨てることがどうしても躊躇われて、イズミは一冊の表紙を開いてしまった。 イズミが本を買うと、マキは表紙の次のページに、必ずサインとちょっとしたメッセージを書いてくれた。 〝大切なイズミちゃんへ、ご購入ありがとう!〟 〝受験勉強大変かな? 息抜きに読んでね!〟 〝ちょっとイズミちゃんには大人すぎる内容かも!〟 一冊に書かれたメッセージを読むと、次の本に書かれたメッセージも読んでしまった。気が付けばイズミは全ての本に書かれたメッセージを読んでしまい、脳裏には、マキの本を読んで感じたこと、疲れた様子のマキがメッセージを書いてくれたときのこと、その全てが蘇った。いつの間にか、イズミは泣いていて、ビニール紐を仕舞ったイズミは、捨てようとした本をもとの場所に戻していた。 自分のことを、マキはいつまでもただの姪っ子としか思わないかもしれない。 あのコータローと幸せになるのかもしれない。 それでも、自分はマキへの恋心を捨てることができないことを、イズミは理解した。 それから何週間か後に、イズミはマキの部屋に行った。 原稿中のマキは、久しぶりに訪れた姪っ子を丸い目をして出迎えた。 今までどうしてたの、心配してたんだよ、メッセージも返してくれないし……そう言うマキに、イズミの胸は痛んだ。 マキの言葉に嘘はないだろう。本当に心配していてくれたんだろう。でも多分、それよりも、マキは小説や、もしかしたらコータローのことの方が、大切なのかもしれない。 もう、やめよう。 頭のどこかで、誰かがそう言うのが聞こえた。 しかしイズミは、笑顔を顔に貼り付け、マキに言う。 テスト勉強が忙しくて、ちょっと来れなかったんだ。コータローさんにも悪いし。メッセージは、返さなくてごめん。 そうマキに言い、彼女の後ろに広がる部屋の惨状にわざとらしく眉をひそめる。ばつの悪い顔をしたマキの横を通り、イズミは部屋の中へ入った。 ……それから、マキの家には必ず連絡をしてから訪れるようにした。 コータローとマキの逢瀬に出くわしたら、衝動的に何をするか分からないと思ったからだった。そうなることはなくても、時間が経るごとに部屋の中には二人で映った写真や、マキのものよりも一回り大きい歯ブラシといった、コータローの痕跡が徐々に増えていった。そのことに気付いてしまう度に、イズミは胸が潰されそうだった。それでも、イズミはマキの部屋に通い続けた。 いつかマキがイズミのことを見てくれる、そんな儚いどころか、非現実的ですらある希望を繋ぐために。 その一方で、イズミは自分の想いをマキに告げることも、匂わすこともできなかった。 自分の恋をマキが知った時、温かい彼女との関係が永遠に変化するか、失われることが恐かった。 そうしている内に、イズミは高校を卒業し、大学生なってしまった。 2 自分を自由にできれば、どんなに良いのだろう、と私は思う。 頭の中に操縦室があって、その真ん中にある操縦席に、私が座る。外で起こった出来事は、ココアでも飲みながら、モニターやイヤホン越しに見たり聞いたりして、それにどうするか、落ち着いて検討する。操縦室にいる私は席に座る一人以外にも何人かいて、判断に迷うことがあれば皆で相談した上でどうするか判断する。そしてどうするかを決めたら、レバーやボタンを使って自分を動かす。このレバーを押せば大笑いして、このボタンを押せば泣く、そしてこのスイッチを入れれば怒る……そうやって、そのときそのときにするべきことを淡々と、スマートにできれば、どんなに楽なんだろう、と、私は友達や家族とのことで悩む度に夢想する。 この妄想を、私は結構な時間をかけて、育てている。笑い声のトーンを調整するレバーの形状や、悲しそうな顔から泣き顔までを演出するボタンの種類、自分でもそのディテールの細かさに若干引いてしまうくらいだ。 当然だけど、仲の良い友達にもこのことは話していない。結局のところ、現実からの逃避でしかないっていうのは自分でも分かっていた。 それでも、私はこの妄想を思い切って捨てることができなかった。泣きたい気分の夜、ベッドで毛布にくるまっていると、ふと妄想は頭にやってきて、私はその設定の詳細を深める作業を始めている。 私を取り巻く現実というのは、そのくらい、私の手に余るものだった。 不器用な私にとって、この妄想は現実世界をなんとか乗り切るために、大切なよすがの一つだった。 ついさっきまで読んでいたマキの新作小説の一節を、イズミは飲み会の喧騒の中で思い返した。 二十歳未満はノンアルのはずが、いつの間にか顔を真っ赤にしている新入生の男子、赤ら顔で女の子にからんでくる男子の先輩、それを見て楽しんだり、顔をしかめたりする女子の先輩、貰われてきた猫のように固くなる子から先輩たちに負けないくらいに飲み騒ぐ子まで様子様々な同級生。 大学生活を始めるに当たって、母親からは飲み会には気を付けなさいよ、とうんざりするくらい言われていた。 急性アルコール中毒、邪な考えを抱いた男たち……周りの喧騒を見ていると、母親の言う通りの危険はありそうだとは思ったものの、今のところの自分にその心配はなさそうだった。これが周りが感じるように楽しいものだとは思えず、お母さんの言うような危険の中に入る気になれなかったからだ。初めての飲み会で楽しみ方が分からないだけで、回数を重ねたりお酒を飲んだりするようになれば楽しくなるかもしれなかったけど、そもそも子供の頃から騒がしい場所は苦手だったので、もしかしたらさして変わらないかもしれない。 開始早々に飲み会の喧騒に、苦手、と感じたイズミの頭には、気が付けば今日発売された文芸誌に載ったマキの小説がやってきた。 エンタメ色の分かりやすい作品を書くマキにしては珍しく、今回の作品は心情・人物描写の重さを強く感じる作品だった。ただ、つまらないとは感じない。描写を丁寧に塗り重ねたような文章を読んでいくと、登場人物の感じる悩み、苦しみ、そして感動をまるで自分のことのように感じることができ、自然に先へ先へと文章を読むことができた。 もともと、マキはエンタメ作品の中にも、重厚な描写を入れることがあり、今回の作品はそれを煮詰めたもののようにイズミは感じた。今回載せられた雑誌が純文系のものだったのでそこに合うように頑張ったのか、それともこういうことを書くことも好きだったのか。そんなことを考えることも含めて、イズミは読書を楽しんでいた。 飲み会前に大学近くの書店で買い、食堂で時間が来るまで読んでいた小説のことを思い返すと、苦手、くらいだった飲み会への印象は、早く終われ、に近くなり、酔った先輩のあしらい方はよりぞんざいになるような気がした。 流石に新入生として不味いんじゃ、とは思ったものの、もうやってしまったものは仕方ない、と開き直った考えも浮かんできて、イズミは残りの時間を隣に座った顔見知りの同級生と話をして過ごすことにした。その頃には、しつこい先輩方も座る席が固定されるか、酔い潰れて寝てるかしていて、同級生と授業のこととか初めての一人暮らしのこととか最近観たショート動画のこととかを話している内に、どこからともなく、出るよー、という声が聞こえてきた。 店を出たとたん、近くでたむろする先輩たちの群れに向かって、すみません、お先に失礼します、とあまりはきはきとした言い方にならないように気を付けながら、イズミは言う。おう、お疲れ~、と、酔いつぶれた学生を介抱しながら答えた先輩に会釈してから、イズミは駅近の居酒屋を離れて自分のアパートへ向かって歩き出した。 万が一、お酒を飲まされた時に備えていつも通学に使っている自転車は家に置いたままにしていた。居酒屋からアパートまでは歩いて三十分。小説は家に帰ってから読もう、と考えていたイズミだったけど、ふと目に深夜営業のコーヒーショップが入って来た。 温暖化が進む一方とはいえ、春先の深夜はまだ気温が低かったし、深夜にコーヒーを飲みながら本を読むことがなんだか格好いいことに感じられたこともあった、そして、少しでも早く小説を読み進めたい、という気持ちもあって、イズミはその店のドアをくぐり、ホットコーヒーを注文していた。 コーヒーを受け取り、窓際のカウンター席に腰掛けると、イズミはバックの中から文芸誌を取り出す。折り目を付けていたページを開き、その、血の繋がらない家族のことで悩む女の子の物語を読み始めた。 マキは、イズミの母のアヤコとは母親が違う。 アヤコが十歳のとき、彼女の母親は亡くなり、その二年後に、マキの母親が継母として家にやってきたのだそうだ。 正直、気持ちは複雑だったよ、と、そのことが何かの時に話題に上ったとき、アヤコは言っていた。 マキの母親……今も母方の実家に行くと祖父と共に迎えてくれる、義理の祖母は、どちらかといえば物静かで几帳面だったらしいアヤコの母親とは違って、明朗快活な人だった。 自分や、母親とは性格が異なる、新しい母親を父が選んだことを、はっきり言ってしまうと不快だった、とアヤコは言った。実はお父さんはお母さんのことが嫌いで、お母さんが病気で死んでしまったことを喜んでいるんじゃないか、アヤコはそう、思ってしまったらしい。 もっとも、そんなことを気にしていたのは継母がやってきて最初の頃だけで、アヤコもすぐに、明るく、それでいて心配りが細やかな継母が大好きになったそうだ。そしてその一年後に生まれた、十三歳差の妹であるマキのことを、アヤコは実の妹のように可愛がったらしい。アヤコが四十一歳、マキが二十八歳になった今でも、二人はとても仲良しに、イズミの目には見えた。 今回の作品では、主人公の十五歳の女の子は、自分が実の親から捨てられ、赤ん坊の頃に引き取られた子供であることを、ふとしたことから知る。彼女が事実を知ったことを知らない両親と、以前と同じように接しようと思ってもできない、本当は血の繋がっていない兄との関わりにも悩む……そんな彼女の境遇は、作者のマキのそれとは違う。 それでも、もしかしたら、口には出さないけれど、マキも、この女の子と同じようなことを感じていたのかもしれない。仲の良いマキとアヤコの間にも、ふとしたときにすれ違いがあったのかもしれない。そこで感じたことを、マキは今回の作品で表現しようとしているんだろうか、そんなことを、イズミは思う。 イズミの目は、ひたすらに文字を追い、頭の中には手の平の上で広がる物語と、ページをめくることだけがあった。 実の両親が既に亡くなっていることを知った主人公は、自分が世界で独りぼっちになった気持ちになる。実の両親ではないことを知ってから、養父母に冷たく当たり、ぎくしゃくさせてしまったからだ。打ちひしがれた主人公は、養父母の元へ帰る。その家に灯った明かりに、安心と同時に不安を感じたところで、物語は終幕を迎え、イズミは深いため息をついた。 物語の中から、イズミは店の中に戻ってくる。 店内に、曲名を知らないジャズが控えめな音量で流れていることや、店内にイズミと同じように本を読んだり、ノートパソコンをいじる客が何人かいること、注文したコーヒーがすっかり冷めてしまったことに、ふと気づく。 暗くて、美しい物語だった、とイズミは冷めたコーヒーを飲みながら思った。 作品に描かれている暗く不穏な感情とは縁のないように見えるマキが、こんな物語を書いたことに、イズミは驚くと同時に、少し憂鬱な気分を覚えた。 近くにいて、誰よりも彼女を理解しようとして、それでも自分は、マキのことを全然理解できていないのかもしれない。コータローは、こんなマキの一面すらも、知っているんだろうか。 「隣、良い?」 冷たいコーヒーを飲むイズミに、横からそう、声がかけられた。 横を向いたイズミに、声をかけてきた女の子はにっこりと、深夜には明るすぎる笑顔を向けてきた。 「良い、ですけど」 そう答えるのが早いか、その子はイズミの隣のスタンディングチェアに腰掛ける。 明るい金髪が、まず印象的な子だった。ほとんど銀色に近いくらいに脱色された金髪はショートカットに揃えられ、丈の余ったパーカーとジーンズという恰好によく似合っていた。少し崩れた格好をした子の中には、背伸びをした感じが見るからに分かってしまう子がいたけれど、この子はそんな恰好がしっくりと似合っているように、イズミには見えた。 根本から地毛の黒髪が少し覗くその金髪がどこかで見たことがあるような気がして、ついその子のことをじっと見つめてしまう。すると、彼女は笑いながら視線を逸らす。 「そんなに見ないでよ、恥ずかしい」 「あ、ごめんなさい……見覚えがあるような気がして」 「まあ、ほぼ初対面って言っても良いか」 「やっぱり、どこかで会ったことある?」 「さっきのクソつまんない飲み会」 言われた途端、自分がいた席の隣のテーブルに確かに彼女がいたことをイズミは思い出す。 居酒屋の薄暗い照明の中、何十人もの人がひしめき合う中で、その金髪が浮かび上がるように見えた。明るすぎる髪の色と整った顔立ちが印象に残ったことは覚えているけれど、酔った先輩をあしらったり、マキの小説のことを考えている内に、話しかけるまではいかなかったらしい。 「あなたも二次会行かなかったんだ」 「うん、あんたがさっさと帰ったのに便乗してあたしも帰っちゃった。そしたらたまたまここに座ってるのが見えてさ、帰っても寝るだけだしせっかくだから声をかけてこうって思って」 「そう、なんだ。あなたは、えっと……」 「ヒカル。天木光。あなたは?」 「篠原泉」 「なんか雅な名前だね」 「何それ」 「名前は和泉式部っぽいし、苗字もなんか藤原っぽいじゃん」 「和泉式部と漢字は違うし、藤原ってそんなに雅かな?」 「雅、雅。今のあたしは雅って感じた」 「変なの」 イズミは笑い、ヒカルと名乗った彼女も真面目そうに装っていた顔を笑みに崩した。 「それ、そんなに面白い作品が載ってたの?」 ヒカルはそう言って、さっきまでイズミが読んでいた文芸誌を指さした。 「うん、凄く」 「誰の作品?」 「藤野真綺」 「誰それ」 「……まあ、そんなに有名じゃないけど、良い作品を書く作家だよ」 「へ~」 自他共に認める売れない小説家のマキの、当然の知名度の低さにイズミが苦笑いを浮かべると、ヒカルはじっと見つめてきた、 さっきまでの笑顔を仕舞い、真剣な表情で自分を見つめてくるヒカルに、イズミは居心地の悪さを感じた。何? と愛想笑いを浮かべて尋ねても、ヒカルはしばらくの間、イズミをじっと見てくるだけだった。 「ね、その本、貸してくれない?」 唐突に、ヒカルはそんなことを言った。 「いきなり、どうして?」 「実はイズミに気付いたの、ついさっきじゃないんだ」 「どういうこと?」 「イズミがこの店に入ったときから、気付いてはいたんだ」 そしてヒカルは話しかけようとイズミに続いて店に入ったらしい。彼女も飲み物を注文して隣に座ろうと思ったものの、そうすることはできなかった。イズミがあまりにも真剣に本を読んでいたからだ。 「そんな、大げさだよ」 「そんなことないよ、迂闊に話しかけたら殺される、って思うくらいに尋常じゃない集中力だったよ。完全に本の世界に入っているっていうか」 「無い無い」 そう笑って誤魔化すものの、マキの作品に自分が没頭していたのは間違いなくて、それを見透かされたことを、イズミは少し恥ずかしく感じた。 「それだけイズミが集中してたもの、読んでみたいんだ」 「でも、なんか、恥ずかしいよ」 「小説に没頭することって、恥ずかしいことじゃないよ」 真っすぐにそんな言葉を投げられて、無意識の内に顔が熱くなった。 「ね、ダメかな?」 もともと、人とのコミュニケーションには奥手な方なイズミは、こういう距離の詰め方は苦手だったはずだった。でも、この天木光という陽光のように明るい髪色の子の言うことには、不思議と不快感を抱かなかった。赤くなった顔をまともに見られないように伏せながら、イズミはヒカルに文芸誌を差し出した。 ありがとう、大切に読むね。そうヒカルが言って、イズミはようやく、笑顔を返すことができた。 3 ライターと小説家の二足のわらじを履くマキは、長く辛い締め切りを乗り越えた後、必ずサウナに行く。 マキ曰く、物語を書くという行為は心と体にとても悪いことらしい。小説を集中してずっと書いていると体中に毒素のようなものが溜まって、心筋梗塞を起こしそうになる。だから小説を書き終わったらサウナで毒を汗で体から流すんだ、と、結構真面目な顔で言う。小説を書いたことのないイズミには分からなかったものの、いつからか、マキのその儀式めいたサウナ通いに付き合うようになった。 今回の締め切りはとっくの昔に終わっていたものの、マキとイズミの都合が合わず、作品が載った文芸誌が発売されたタイミングでのサウナになってしまった。 サウナは決まって、マキのアパートから歩いて十分ほどのところにある銭湯で行う。お風呂がアパートに付いてないマキは普段の入浴もそこで済ませているけれど、サウナは締め切りを乗り越えたときだけ、と決めているらしい。 脱衣所で、マキと隣り合って服を脱ぐ。自然と湧いてくる、じっと見つめていたい、という衝動を抑えて、自分のシャツや下着を脱ぐことに集中するイズミだけど、ふと気が付けばマキの付けた下着の色や、大きくて張りのある胸を視界の端で捉えてしまう。そんな自分を自覚する度に、イズミは軽い自己嫌悪に襲われる。マキをそういう対象として見ることが、汚らわしいことのように感じられてしまうからだった。 そんなイズミの心の内には気付かない様子で、マキはずんずん、と洗い場に進む。シャンプーと洗体を手早く済ませると、濡れタオルで髪を覆い、狭いサウナ室に入る。きっかり五分汗を流したら、水風呂に一分、それが終わったら外の寝椅子でこれまた五分休み、再びサウナに入る。サウナ、水風呂、外気浴を三回繰り返す間、マキは無言だ。話しかけても薄い反応しか返ってこないのを知っているイズミもまた、黙ったままマキに続く。それは執筆明けのリフレッシュなんてものでなく、禊や儀式のようで、一緒にサウナに入るいかにも話し好きのおばちゃん達も、そんな二人に、話しかけるのをはばかっている様子だった。 三回目の外気浴を終え、最後にシャワーを浴びて、この儀式は終わる。 「この間の作品、とっても良かったよ」 服を着て、ドライヤーを終え、サウナ後の牛乳を飲みながら、イズミはマキにそう言った。マキは、ぐい、と牛乳を飲み干し、小さくため息をつく。 「大丈夫? ちゃんと面白かったかな?」 「面白い、っていう感じじゃなかったけど読んでて楽しかったよ。文章の上手さだけで読ませられたっていうか……」 「ありがとう、イズミちゃんにそう言われるとホッとするわ」 「でもちょっとびっくりした、マキ姉ってああいう作品も書くんだね」 「うーん、お世話になってる編集さんからこういう作品も書いてみませんか、って言われたのが発端だったんだけどね。今までああいうテイストのもの書いてこなかったから、試行錯誤しながらでさ、結構苦しかった」 「でも、楽しかったんだ」 「よく分かってるね、イズミちゃん」 にっ、と笑ったマキに、イズミは気になってたことを聞いてみる。 「あの女の子と同じことを、マキ姉も感じてたの?」 そうイズミが言うと、マキの顔から笑顔が引いた。瞬間、イズミの頭を不安が覆ったものの、マキは視線を床に向け、顎に右手の親指を当てていた。マキが考え事をするときの癖だった。その姿勢のまま、しばらくじっと考えたあと、マキはおもむろに話し始める。 「知ってるとおり、ちょっと複雑な家庭だったけど、アヤコ姉ちゃんとか、家族の仲は良かったからさ、小説の中のあの子みたいな深刻な悩みは持っていなかったよ。お姉ちゃんはすごくしっかりしてたし、私とよく遊んでくれたし。でもふとした時に、この人と私は半分血が繋がってないんだ、って思うときはあった」 目の前に並んだロッカーを見ながら、マキは一つ一つの言葉を丁寧に記すように話す。自分の発した言葉が自分の中にあるものを正しく現わせているか、吟味しながら、マキは言葉を紡ぐ。 「血が繋がっていても他人のような家族だっている。結局はどれだけ相手のことを大切に想えているかの問題だと思うけど、子供だった私にはその血の繋がりが半分ないことが気になってしょうがなかった。自分がアヤコ姉ちゃんに感じて、アヤコ姉ちゃんが自分に向けてくれる愛情が、血の繋がりで覆ってしまうんじゃないかと怯えていたんだ。 そのつもりはなかったけど、子供だった頃に感じたそういうことが、あの子の描き方に反映されてたのかもしれない。私は、家族も友達も他人も関係なく、結局は相手に自分がどういう想いを感じているかが大事だと今は思ってる」 「でも簡単に、思いを変えることはできない」 マキの話を聞いていたイズミは、不意にそう言っていた。マキは少し目を丸くして、イズミを見てくる。 「あの子も、血の繋がりだけが大事じゃ無い、なんてことは分かっていた。それでも、心は付いてきてくれない。そんな心情を、あのラストは表現してたのかな」 じっとマキを見つめ、イズミは言う。問い詰めるような口調になってしまったことに、自分でも気が付いていた。マキを不快にさせないかが少し心配だったけど、イズミは分かってほしかった。自分はあなたのことをよく理解している、少なくとも、理解しようとしている、と。 そんなイズミに、マキは正解、とは言わなかった。 ただ穏やかに笑い「それだけ読み込んでくれる読者がいるっていうのは、作者冥利に尽きるってもんだね」と言った。 * 「良かったよ。面白い、って感じじゃないけど、良かったよ」 昼時を過ぎた学食で、ヒカルはそう言いながら例の文芸誌を渡してきた。 自分の感想と大体同じことを出会ってからさほど経っていない女の子が言ったことに少し驚きながら、イズミは本を受け取った。 「なんていうかさ、歌うような文章を書くよねこの人。他の作品もエンタメだけど文章は上手いしさ」 「もう他の作品も読んだの?」 「大学の図書館に置いてたやつ、二冊だけだけどね。そんなに長くもないし余裕でしょ」 「……この本貸して二日しか経ってないけど」 「まあ、ほら、あたし優秀だから」 そう言って決めポーズらしく顎に手を当てたヒカルに、イズミは少し笑った。 「小説、好きなんだ」 「まあそれなりにね。ウチの親父が乱読家ってやつでさ、部屋の中足の踏み場もないくらいに本がありやがるの。それ拾って読んでる内に本読むのが習慣になったっていうか……そうだな、好きっていうより癖っていうのが近いかな」 「この作家、どう思う?」 「良いと思うよ。あたしは好きな方」 イズミのヒカルに対する好感度が、一気に上がった。 それが顔に現れてしまったのか、ヒカルは怪訝な顔で、イズミを見てきた。 「何、この作家の追っかけでもやってんの?」 「何でそうなんの」 「いや、滅茶苦茶嬉しそうな顔してたから」 「そんなことないよ」 と言いつつ、イズミは嬉しさがこれ以上顔に現れないように必死だった。 高校でも本好きの子はいたとはいえ、藤野真綺というドマイナー作家を知ってる子はほとんどいなかったし、好きな方、と言った人といえばヒカルが初めてだった。人としても、作家としてもマキが好きなイズミが、嬉しくないはずはなかった。 「まあでも、ヒットする作風じゃないのは確かだよね」 「……やっぱりそう思う?」 「うん、今回の作品もそうだし、前の作品もたくさんの人に受け入れられるようなテーマじゃないとぶっちゃけ思う。でも間違いなく一部の人の心には刺さる内容だとも思う。ヒットしてドラマや映画になったりするものじゃないけど、ファンには丁寧に、大切に読まれてく、そういう作品だと思うな」 そんな感想もいちいち自分と同じで、イズミは苦笑いを浮かべたくなった。そんなイズミを、ヒカルは面白そうな顔をして見てくる。 「実はこの作家さんと知り合いだったりするの?」 「いや、たまたま読んだことがあって、それでファンなんだ」 自分の叔母、と言うのが恥ずかしくて、イズミはそう誤魔化した。 そんなイズミに、ヒカルは、ふうん、と言ってから、身を乗り出してくる。 「それはそうと他にもこの人の作品持ってるの?」 「一応、出版されたものは全部……」 「やば、めっちゃ好きじゃん……それでさ、その本、貸してくれない?」 「良いけど、どうして?」 「あんたが好きな作家だから、興味が湧いたんだ。イズミのこと、もっと知りたい」 思わず、イズミは目を丸くする。 するとヒカルの頬にさっと朱が差して、彼女は視線を逸らす。 「ごめん、めっちゃキモイこと言ったわ」 「いや、そんなことないよ。ちょっと驚いたけど」 「うん、ごめん、今の台詞忘れて」 「いやほんとに気にしてないから……本、今度持ってくるね」 「ありがとう、うん」 そう言っても顔を逸らしたままのヒカルに、イズミはどうしてかドキドキしてしまう。会ってさほど経っていない人に、こうもストレートに好意を示されることに、イズミは慣れていなかった。 「気にしないでよ、友達なんだし」 そのせいか、イズミの口から、そんならしくない台詞が出てきた。すると目を丸くしたヒカルがイズミの方を見てきて、今度はイズミが顔を赤くして目を逸らす番だった。 「もう友達で良いの?」 「いいでしょ、読書の趣味も合うみたいだし、ヒカルって良い子みたいだし」 「うわー大学入って初めての友達だ」 「ヒカルって意外と陰キャ?」 「陰キャとは失礼だな、奥手って言えよ」 二人は笑う。 出会って距離感が近くなった子とは、あまり仲良くなれないことをイズミはそれまでの経験から知っていたけど、不思議と、ヒカルとは長く友達付き合いが続きそうな気がしていた。マキの作品が、そんな人と出会わせてくれたのかもしれない、ともイズミは思った。 ヒカルから本を返してもらったイズミはその日の授業を終えると、マキの家に行くことにした。新しい作品が出版されたとき、それをイズミが買ってマキにサインを貰うのが決まり事のようになっていた。この前サウナに行ったときに、マキはサインをしようとしたものの、本はヒカルの元へ行ってしまっていてできなかったのだ。 いつもなら、マキの家に行く前にイズミは必ずメッセージを送って、返信が返ってきてから行くようにしていた。しかし、ヒカルという友達を得た嬉しさからか、イズミはそのことをすっかり忘れていた。むしろマキの作品が好きだという子がいたことを報告すること、それにマキがどんな顔をするか、そんな期待と想像に胸を一杯にしていたイズミに、母親からも言い含められていたことを守ることはできなかった。 ビルの中に夕陽が消えかけた中を歩いていく。自転車で移動する方が間違いなく便利だったけど、最近のイズミは街をゆっくりと散策する楽しみも知ってしまい、気が向いた時は歩くことが多かった。 普段とは違う時間帯に訪れる建物は、夕闇の影を負い、どこか哀愁を感じさせた。そんなことすら楽しみながら歩いていると、マキのアパートが見えてきた。 マキの部屋には明かりは灯っていなかった。イズミは気にせず外階段を登り、マキの部屋へ向かう。昼寝が長引いたマキが夜になるまで眠りこけることはよくあることだった。 マキの部屋の前に着き、イズミがノックをしようとしたところで、その声は聞こえた。 甲高い、女性の声だった。 ドア横のサッシ窓から響くそれは、悲鳴でないのは間違いなかった。 苦しそうに発せられたその声は、自分のそれを必死に押し殺しているようにも聞こえた。 そこでようやく、イズミは自分の迂闊さに気付く。 血が、音を立てて引いていく。 頭から指先まで震えるように冷たくなる。そのくせ、心臓だけがひたすらに煩い。 視覚や、聴覚はより鋭敏になっていき、その甲高く、断続的で、リズムを刻んだ女性の声は五月蠅いほどに頭に響く。階下や隣の部屋からではなく、それは確かに、目の前の部屋から聞こえてきた。 マキ姉じゃない、と自分に言い聞かせる。 それは、今まで聞いてきたマキの声とはかけ離れていた。苦しさと喜びを帯びたその声が、マキ姉のものであるはずがなかった。 ドアノブを握る。 音を立てないように、手が震えないように、ゆっくりと回す。 不用心にも鍵は開いていて、古びたドアは小さく音を立てて開いた。 女性の声は、よりはっきりと聞こえてきた。キッチンの向こうのリビング、それとふすま一枚で仕切られた、マキの仕事部屋兼寝室から、それは聞こえてきた。ぎしぎしと、ベッドが鳴る音まで聞こえてくる。マキが真剣にノートパソコンに向き合う姿しか知らない部屋から、その忌々しい声と音は聞こえてきていた。外からは別人のもののように聞こえてきたそれは、今ははっきりとマキのものだと分かった。そうじゃない、と必死に思おうとするものの、同時に間違いなくそうだと自分の奥深いところは主張していた。 視線を落とす。 玄関には、見慣れたマキのサンダルや靴と一緒に、男物の革靴が並んでいた。 それは見慣れたものだった。 掃除や家事の手伝いに訪れたとき、行き合っていた、あの熊のものだった。 イズミは、ゆっくりと、ドアを閉じた。 耳を塞ぎ、足音を忍ばせ、その部屋を後にする。アパートの外階段を降り切ったところで、イズミはもう足音を気にせず、逃げるように走り去った。 * それから、自分がどう移動したか、よく覚えていない。 気づいたら周りには知らない街並みが広がっていて、イズミはそこで一人きりだった。夕飯時の商店街に並ぶ客は、主婦が多くを占めていたけど、中にはカップルや、子供連れの姿もあった。 どうしようもなく、自分が一人だとイズミは感じる。 今一つ、理解しきれていないけど、自分が好きになるのは同性らしい。高校生の頃、とても仲が良かった男子がいた。双子の兄弟がいたらこうなんだろうな、と思えるくらいにその子とは楽しく過ごせたものの、恋愛や性的な対象として見ることは結局できなかった。彼がそういう関係を求めてきたとき、自分の中に彼と同じ欲望が全くないことにイズミは気づいた。彼とは、それきり気まずくなって話すこともなくなってしまった。今、周囲のカップルや子供連れが見せつけてくる幸福は、どうやら自分には無縁のものだ。そして、自分が恋愛感情を持っている同性の相手にはどう頑張っても手が届かないことは、つい先ほど、五感で思い知らされたばかりだった。 ナイフで手あたり次第に、通行人を刺して回りたい、とイズミは思った。 そう思ったちょうどその時に、商店街の一角に包丁の専門店が見えて、イズミの足はそちらに向かった。 その店の前に立ったところで、店じまいの準備をしていたらしい店主のおじさんと目が合う。 怪訝な顔のその老人に、多分不気味だろう笑顔を向けてから、イズミはアーケードを歩いて商店街の出口に向かう。 部屋に帰って、運動着に着替えて走ろう、とイズミは思った。 そして何か温かいものを食べて、ゆっくり眠ろう。 母のアヤコが教えてくれた、辛いときに心を救う対処法で、この感情をやり過ごそう、と思ったイズミは、とにかく家に帰らないと、とスマホを取りにポケットに手を伸ばした。 しかし、そこにあるはずのスマホがなかった。 焦ったイズミは肩に下げていたトートバックを探るものの、そこにはあの文芸誌と、授業用のタブレットくらいしかなかった。財布はトートバックの底にあったものの、家に帰る道順がスマホで分からなければどうしようもなかった。 どうしよう、と軽いパニックになったイズミに 「お願いしまーす」 と、ティッシュ配りが声をかけてきた。 「結構です」 「そう言わずに、二十個くらい持ってってくださいよお客さん」 ふざけた口調にいら立ったのと、その声に聞き覚えがあることに気が付いたのは、ほとんど同時だった。 視線を向けると、明るい金髪は、おっす、と手を上げてきた。 「奇遇じゃん、イズミ」 「どうしてこんなところに?」 「ボランティアでティッシュ配りしてる訳ないでしょうが。バイトだよ、バイト」 そう言って、ヒカルは左手に持った、まだまだティッシュが大量に残るプラスチックのカゴを持ち上げた。 「こんなところ、って言っても大学の近くだし」 「そうなんだ、スマホ無くして、気付かなくて」 「うえマジか、すぐ携帯会社に連絡した方が良いよ……てか、イズミ、大丈夫?」 「え?」 「泣いてるよ」 そう言われてようやく、イズミは自分の頬に涙が伝っていることに気が付いた。 「ごめんごめん、目にゴミが入ったみたいでさ」 そんな、今どきドラマでも聞かないようなしょうもない台詞でイズミは誤魔化そうとした。適当な笑顔を繕い、ヒカルをこれ以上心配させないようにしたかった。自分にも他人にも、自分の感情を見せないようにするのは得意だった。レズビアンらしい自分が、好意を押し隠してマキの傍で生きていくために、そんなスキルを磨き上げた。しかし、今日に限って、涙は次から次へと留めなく出てくる。 ヒカルは、それ以上尋ねようとしなかった。 ただイズミの頭を抱き寄せ、そっと肩を抱いてくれた。 「大丈夫だよ」 そう言ってくれるヒカルの胸で、イズミは声を殺して、泣いた。 「大丈夫だから」 イズミの涙が少し落ち着いた頃合いに、ヒカルは「ちょっとお兄さん!」と近くを通りがかった同年代くらいの男子に声をかけた。はい? と戸惑う男子学生に、ヒカルはお構いなしに畳みかける。 「君、見かけたことあるよ。同じ大学だよね」 「そうだっけ?」 「同じ学校同士ってことで、コレ、よろしく」 「え」 そんな感じの雑なやり取りで、ヒカルはまだ大量に残ったティッシュを押し付け、イズミの手を引いて歩き出した。 先ほど出て行ったばかりの商店街を通り抜け、路地や住宅街をヒカルは迷いない足取りでずんずんと進む。そして、真新しいアパートの前で足を止めた。 「ここ、あたしんち」 そう言うと、ヒカルは再びイズミの手を引く。 外装もそうだったけど、アパートの中に入るためにもカードキーが必要だったし、内装も綺麗で洗練されているように、イズミには見えた。自分の部屋の倍くらいの家賃かな、と思っている内に、ヒカルは自分の部屋にイズミを入れた。外だけでなく、内装も真新しかった。1DKの間取りだったけど、多分イズミの部屋の一・五倍くらいの広さがある。広々とした部屋だったけど、意外に置いてあるものは少なくて、ダイニングテーブルにベッド、そして本が詰め込まれた本棚が、置いてある家具の全てだった。 ダイニングテーブルにイズミを座らせると、ヒカルはふう、と息を吐いた。 「ほうじ茶で良い?」 色々と言いたいこと、謝りたいことはあったものの、ヒカルのその勢いに負けて、イズミは「うん」と小さく答えた。 そしてヒカルはキッチンへ行くと、電気ケトルでお湯を沸かし、急須で熱いほうじ茶を手早く淹れてくれた。その手際は案外良くて、派手目の恰好とのギャップがイズミは少しおかしかった。 「お、ようやく笑った」 そう言いながら、ヒカルは湯気の立つ湯呑を持ってきてくれる。 「ありがとう、あと、ごめんね。いきなり目の前で泣いたりして」 「あー……いや、こっちこそごめんね。いきなり自分の部屋連れてきたりして。目の前で女の子に泣かれる経験ってなくてさ、ちょっとテンパっちゃった」 意外と繊細なんだな、と思いながらイズミはほうじ茶を飲んだ。 その後も、ヒカルはイズミの泣いた理由を聞いてこなかった。親が心配性でセキュリティがしっかりしてるところに入りなさい、って言われてこんな無駄に家賃が高いところに入ってる、経済的に親に甘え続けるのは良くないと思うからああしてバイトをやったり奨学金を借りたりして生活費を稼ごうと思ってるけど、全部は賄えていない、いずれ親と相談してもっと安い物件に移るつもり……そんなことを、何事もなかったような口調で言ってくれることが、イズミにはとてもありがたかった。 ふと、時計を見てみると時計の針は九時を過ぎていた。 イズミの視線に気付いてヒカルも時計を見ると、しまった、という顔をした。 「……ごめん、こんな時間まで。あたし話始めると終わんなくてさ」 「ううん、ありがとう。おかげで大分元気になったよ」 「どうする? この辺治安そんなに悪くないから夜道もそこまで危なくないと思うけど……」 「うん、なんとなく道は分かる気がするから、なんとか帰ってみるよ」 「あ、そっか……心配だからあたしも一緒についてくよ」 「でもそしたら帰りヒカル一人になっちゃうね」 「まあ、あたしは別に気にしないけど、あ、それか」 何でもなさそうに、ヒカルは言っていたものの、言葉を次ぐ前に、一つ息を吸ったことに、イズミは気が付いた。 「泊ってく?」 作り置きという、ヒカルのお手製のごはんとみそ汁で夕飯を食べて、お風呂とヒカルのスウェットを借りた。 「女の子を泊めるってなんかドキドキしちゃうよ」 「怪しいおじさんっぽいね、その言い方」 そうイズミが言うと、ヒカルはうっへっへ、と怪しいおじさん風に笑い、お風呂に向かっていった。 ヒカルが風呂場へ消えると、イズミはヒカルがスマホで聞いていたラジオに耳を傾けた。 七〇年代の曲という、自分が生まれる遥か昔に生まれた曲の向こうで、お風呂場から水が流れる音が聞こえた。 お風呂上りに、スウェット姿になったヒカルと、少しおしゃべりをする。 ヒカルはほぼ一方的に話し続け、イズミはただその話を聞くだけだった。時計がそろそろ十二時を過ぎようという頃合いで、イズミは明日も学校あるし、そろそろ、と言って、二人はようやく寝ることにした。ヒカルは自分のベッドを使うようにイズミに言うけど、それはさすがに申し訳なくて、イズミは冬用の毛布を敷布団にして床で眠ることにした。 部屋を暗くし、目を閉じるものの、眠りは一向に訪れなかった。眠ろうとすればするほど、意識と五感は研ぎ澄まされていく。 疲れ切っているはずだった。 心はフルラウンド闘ったボクサーみたいにボコボコだった。体にも頭にも、重い疲労が貼り付いているのを今も感じる。それでも、耳には自分の心臓の音、身じろぎして毛布が擦れる音、ヒカルの寝返りの音……そうしたもの一つ一つがくっきりと響いてきて、眠るな、とイズミに言っていた。 何をしてるんだ、私は。 そんなことを思いながら、イズミはタオルケットをのけて、立ち上がった。 闇に慣れた目には、部屋の真ん中のテーブル、その向こうにあるベッドがよく見えた。 足音を忍ばせずに、イズミはヒカルが眠るそこへ向かう。こちらに背中を見せているヒカルが起きているのは、よく分かった。 「起きてる?」 ベッドの傍に跪き、イズミはそう言う。 「うん」 そうヒカルが小さな声で答えたあと、イズミは少しの間、何も言わなかった。 「どうして、私のことを知りたい、って思ったの」 たっぷりの沈黙の後に、イズミはそう言う。 「友達になりたい、って思ったから」 「それだけ?」 「それ以外に何があるの」 「友達になりたい人に、いきなり、あなたのこともっと知りたい、って普通は言わないよね」 「変なこと言ったかもだけど、他意は無いからね」 「泊まる、って私に聞いたとき、ヒカル、緊張してよね」 ヒカルはベッドから起き上がる。 ベッドから足を下ろしたヒカルは、闇の中でイズミを見る。イズミを見下ろすヒカルの顔は、怒っているようにも、怖がっているようにも見えた。 「何を言いたいんだよ、イズミは」 震えたヒカルの声に、イズミは答えなかった。 暗闇に覆われたヒカルを見つめる。 胸の中で、強い熱が暴れるのが分かった。マキを想うときに感じる熱と同じようで、全く違う、その熱に促されるまま、イズミはベッドの端に手をかけた。 ヒカルの顔に、自分の顔を寄せ、そのまま彼女の唇を奪う。 突然のことに、ヒカルが体を震わせる。 唇から、ヒカルの全身が驚きと緊張に、硬直するのがよく分かる。それでも構わず、イズミは自分の唇を押しつけ、舌で彼女の唇をなぞった。 本当に、何をやってるんだ。 頭の中でそんな声がした。 4 包丁がまな板を叩く音で、イズミは目が醒めた。 タオルケットを除けると、味噌汁の良い匂いが鼻の中に入ってきた。 ぼんやりとした頭を起こすと、自分はヒカルの部屋の真ん中にいて、そこに置かれた毛布の上で寝ていた。服はちゃんと着ている。スウェットの袖をぼんやりと眺めてから、キッチンで包丁を使うヒカルの方を見る。 イズミが起きたことには気付いているだろうに、ヒカルは視線すら寄こさない。唇を引き結んだ彼女を見て、ようやく、昨晩のことをイズミは思い出した。 唇に、ヒカルの唇の感触が蘇る。 薄く、柔らかい唇をイズミが舌でなぞると、ヒカルに強い力で押しのけられた。 「やめて」 強ばった声に構わず、イズミはなおも体を寄せようとする。しかし、ヒカルは腕に力を込めてきて、そうさせてくれない。 「イズミ、おかしいよ」 「私を泊めたっていうことは、こういうことを期待してたんでしょ」 「訳分かんない。頭おかしいよ」 「そうかも、でもどうでも良いよ」 そう言って、イズミはヒカルになおも近づこうとした。 ベッドの端に片手をかけ、もう片方の手でヒカルの顔に触れようとしたところで、動きを止める。 闇の中でもはっきりと分かるくらいに、ヒカルは泣きそうになっていた。ヒカルの瞳に涙がいっぱいに溜まっている様に、頭の中を駆け巡っていた凶暴な熱が一気に冷える。 熱の代わりに、頭に冷たい罪悪感がやってくる。 何をやってるんだ、私は。 そう思うイズミの前で、ヒカルは涙を流さなかったものの、息を荒くし、イズミを睨んでくる。 「私は、イズミとこういうことをしたくない」 ヒカルがそう言い、イズミはもう、彼女を見ることもできなくなった。 イズミは泣きそうになったヒカルの前に跪いた姿勢のまま、視線を床に向けてしまう。 罪悪感と嫌悪感がないまぜになった頭で、まともなことは考えられなかった。どうすることもできないまま、固まっていたイズミの肩を、ヒカルが触れてくる。 「寝よ」 うん、と小さくヒカルに応じ、イズミは元いた毛布に戻る。 今日はもう眠れないな。 そんなことを思いながら横になったのは覚えているのだけど、篠原泉という人間は自分が思っている以上に無神経に出来ているらしく、いつの間にかぐっすりと、眠ってしまったようだった。 なんてことをしたんだろう、とイズミは思う。 頭がおかしくなる光景を見てしまったのは間違いがないけれど、それでも友達になったばかりの子に、あんなことをするべきじゃなかった。相手の好意を弄び、あろうことか迫った。 死にたい、消えてしまいたい、とここまで切実に思ったのは初めてだった。 朝食の用意をしているヒカルはイズミに視線をよこそうともしない。 起き上がり、彼女の傍へ行くと、イズミは「昨日は、ごめんなさい」と言った。 自分の消え入りそうな、情けないくらいにか細い声にも嫌悪感を感じるイズミに、ヒカルは包丁を置いて、溜息をついた。 「何があったの?」 ヒカルの問いかけに、イズミは答えることができない。 昨日自分が見てしまったことを、言語に表すことは、できなかった。言葉を選んで、口にすることはできてしまうだろう。でも、そうしたが最後、自分の気持ちが折れてしまうことが、そんなことを言ってしまって、ヒカルとの関係が崩れてしまうことが、イズミは怖かった。 何も言えないでいるイズミに、ヒカルはもう一度溜息をつく。 「ご飯、出来たから食べよう」 ヒカルはそう言ってくれた。 押し麦の入ったご飯と、わかめと豆腐、ほうれん草の入ったみそ汁、焼き鮭に、きゅうりの浅漬けのご飯をごちそうになり、スウェットから昨日着ていた服に着替えて、イズミはヒカルと一緒に部屋を出た。その間、二人の間に会話らしい会話はほとんどなかった。 イズミが伝えたアパートの住所をマップアプリで調べ、ヒカルが先に立って歩く間も、無言だった。イズミは自分が昨日襲いかけた人に、何を話せば良いのか分からなかった。 「あ、ここ」 自分のアパートが見えたイズミがそう言うと、ヒカルは立ち止まり、振り向いてくる。 やはりその顔は、怒っているように見えた。 「正直言うと、私はイズミのこと、ただの友達だって見えなかった」 ヒカルは、突然、そんなことを言ってきた。 「あの夜に見たとき、凄く綺麗な子だな、って思った……もう言っちゃうと、一目惚れに近かったかもしれない……昨日泊まる? って聞いたときは、あんたのことが心配だったっていうのも勿論あったけど、何かあったらどうしようっていう期待もあったかもしれない。それでも、あんなのは嫌だ」 ヒカルが言葉を続けるごとに、彼女の頬や目にはどんどん赤みが差してくる。それでも涙を流すことも、涙声になることもなく、ヒカルはイズミに言う。 「イズミは、私のことを好きだとかでキスをしたんじゃなくて、ただむしゃくしゃした気持ちを晴らすためだけにそうしたんでしょ。そうせざるをえないくらいの何かがあったんだと思うけど、でも、そんな理由でキスなんて、私はしたくない。それは最低なことだと私は思う」 ヒカルが言葉を発する度に、頭を殴られているような気持になった。 なんとか立っているイズミを、ヒカルは真っすぐに見てくる。太陽のような髪をした女の子は、その真っすぐすぎる光をイズミに容赦なく向けてきた。 「ねえ、何があったの。まだ会って時間経ってなくても、イズミがそんなことを好き好んでするような人じゃないのは分かってる。何があったのか、教えてよ」 イズミは、口を開く。 昨日あったことの一切を、包み隠さずヒカルに言おうと思う。ひび割れた唇で、言葉を発しようとする。 しかし、何も言うことはできなかった。 無意味なかすれた呼吸しか出てこなかった。 イズミは泣きそうになる。その心情をヒカルが理解してくれないか、と期待した。 でも、そんな下衆な希望に返って来たのは「もういいよ」という冷たい声だった。 スマホをポケットにしまい、ヒカルはイズミの横を通り、自分の家へ向かう。 「結局私はダッチワイフってことでしょ」 大きな声で言われたそんな言葉に、通りすがりのサラリーマンがぎょっとした顔でこちらを見てくる。でもヒカルはお構いなしに、言葉を続けた。 「むしゃくしゃしたときに都合よくやれる相手、って思ったってことなんでしょ……分かったよ、よーく分かったよ!!」 そう言い、イズミの方を見ないまま、ヒカルは走り去った。 鍵でドアを開け、自分の部屋に入る。 靴を脱ぐまではなんとかできたものの、リビングまで進むことはできなくて、イズミは玄関脇に腰かけ、壁にもたれると、大きな、大きなため息をついた。 頭が痛かった。 死んでしまいたい、消えてしまいたい、とあらためて思った。 全ては自分が悪いんだ、と強く思った。 同性の叔母に恋をして、それで果たされなかった欲望を想いを寄せかけてくれた女の子で果たそうとした。 どうしてあんなことをしてしまったんだろう、と思う。少し思い返すだけで、自分を殺してしまいたくなるくらい酷いことを、自分はどうしてしてしまったんだろう。 人間はそういうことをしてしまうものなんだ、と思えるほど、イズミは歳を取っていなかった。 ただ自己嫌悪に流されるまま、イズミは床に倒れこむ。 このまま、死んでしまえないかな、そんなことを思いながら床の冷たさを感じてしばらく経った頃、玄関のチャイムが不意に鳴った。 このまま寝てよう、と思ったのは一瞬のことで、イズミはすぐに立ち上がる。 もしかして、ヒカルが来たのかもしれない、そう思ったイズミに、ドア越しに声がかけられる。 「イズミちゃん、私。マキだよ」 ドアを開けると、そこには一見していつもと変わらない様子のマキがいた。 軽くウェーブがかかった長い髪も、落ち着いた色合いの服も、見ている人を安心させるような笑顔も、全てがいつものマキ姉だった。 「突然ごめんね、大丈夫だった?」 声を聞いた途端、昨日のことが脳裏に蘇る。記憶に引きずられるように、どす黒い感情が胸を満たしてくる。自分の顔が、ひきつっていくのを感じて、そんなものをマキに向けることもできず、イズミは彼女の足元に視線を落とす。 何も言えないイズミの前で、マキもまた黙ったままだった。感情がぐちゃぐちゃな自分に、マキも気まずい思いをしているんだろうか、とイズミが思ったとき「それでね……イズミちゃん」と、マキはおずおずと、声を出してきた。 「その、忘れ物だよ」 そう言って、マキはイズミの目の前に、スマホを出してきた。 昨日、いつの間にか無くなっていたスマホだった。思わず、マキの顔を見ると、彼女の顔は真っ赤に染まっていた。 「玄関先に落ちてたのを見つけたんだ。えっと、その、やっぱり、あの、見……いや、聞いちゃった……?」 恥ずかしそうに言ってから、マキは気まずそうに笑う。 違うよ、とイズミは心の中でマキに言う。 私が感じているものは、マキ姉が想像しているようなことじゃない。叔母の恥ずかしいところを見て気まずい、なんてことじゃないんだよ。もっと黒くて、熱くて、激しくて、自分も友達も傷つけてしまう、そんなものなんだよ。 イズミの表情筋は、全力でそのどす黒いものを隠す。 にこやかに、でも気まずそうな表情を繕って、イズミは言う。 「ありがとう、持ってきてくれて」 「あの……ほんとにごめんね」 「謝ることじゃないよ……カップルだもん、当然だよね。連絡しないで行った私が悪いよ。お茶淹れるから、上がらない?」 「じゃあ、ちょっとだけ……」 マキをちゃぶ台に座らせると、彼女に言った通り、イズミはお茶の用意を始める。お湯を沸かして、マグカップを温め、そこによく沸騰させたお湯を入れ、最後にティーバッグを入れる。てきぱきと、慣れた作業をする自分がどこか遠いものに感じられた。本当は、大声で暴れまわりたいくらいだった。しかし、慣れ親しんだ感情を、イズミはいつものように手なずけて、〝仲の良い姪っ子〟の所作をまとう。 マキの好みどおりに、少し濃い目に入れた紅茶を緊張した様子で座るマキに出すと、ありがとう、とマキは受け取った。自分の分のカップを持って、イズミは向かい側に腰かける。 「それで、ね、イズミちゃん。まあどうしても、こういうトラブルもあるから、その」 「うん、行くときはちゃんと連絡するのを忘れないようにする」 「お願いね……それと……ああ、こういうタイミングで言うのも、自分でもどうかなって思うんだけどさぁ……」 顔を赤くしているマキは、でもどこか、嬉しそうだった。 彼女にとっては、仲の良い姪っ子に喜ばしい出来事を報告するだけなんだろう。でも聞くイズミにとっては、まるで断頭台に上らされているようなものだった。 「コータローがプロポーズしてきてさ、それでその、受けちゃったんだよね」 マキの言葉を、イズミはどこか遠いところで聞いた。 「まだ話はしてないんだけど、多分別のところに引っ越すと思う。あ、全然今まで通りに遊びに来てもらって良いんだけど」 あー……それで盛り上がっちゃったんだね、お暑いね、お二人さん、でも、おめでとう。 冷え切った頭で、そんな返しを思いつく。 そして、今までのような、ぬるま湯のようでいて、実際のところは地獄のような状況に、自分も周囲の人間も傷つける状況に、イズミは再び、戻ろうとした。 よーく、分かったよ!! ヒカルの、悲鳴のような叫び声が頭に響いた。 イズミは立ち上がった。マキの横に移動すると、え? と戸惑った様子のマキに何も言わないまま、彼女の唇に自分のそれを押し付ける。 唇から、マキが戸惑うのが痛いほどに分かる。マキから立ち上る良い匂いを、イズミは絶望的な気分で嗅いだ。しかし、イズミはやめない。今まで何度も想像し、結局一度も触れられていなかったマキの胸に手を伸ばす。服越しにも柔らかい、彼女の胸に容赦なく指を立て、その形をなぞったところで、「イズミちゃん!?」とマキが言う。 イズミの体を離したマキの顔に、嫌悪はなく、ただ驚いた様子でイズミに言う。 「びっくりしたー……何いきなり?」 自分の目から涙が流れるのを、イズミは感じる。 「好きだよ」 目を白黒させるマキに、イズミは言う。 「ずっと前から、私、マキ姉のことが好きだったよ」 5 自分がマキのことを好きで、レズビアンかもしれないことを自覚したあと、イズミは彼女らを描いた小説を読んだ。 胸に迫るような切ない恋を描いたものから、モテてモテてしょうがなく、学生から老婆まで女性を抱きまくる、そんな話もあった。 イズミが好んで読んだのは、自分とは正反対な人物が暴れる、後者の作品だった。自分が求めているのは、通じない想いに苦しむことへの答えであるはずなのに、その、出会う女性をことごとく魅了し、ただ自分の本能と状況に流されるまま、彼女らを抱き、御せない自分の中の熱に浮かされるまま、自ら破滅へと突き進む、そんな主人公が描かれた作品を読んでいた。 描き方が鮮烈で面白い、ということもあったんだと思う。 でもおそらく、そんな作品を読んだ理由には、今の自分ではいけない、という想いもあったのかもしれない。 作品に描かれているような、奔放で享楽的で、破滅的な行動を取るまでもないにしても、今の自分の在り方が、苦しみのもとなのかもしれない。 そのことに、イズミは自覚しないまま、気付いていたのかもしれない。 マキを見つめたまま、イズミは泣く。 マキはイズミをじっと見つめる。その顔には最初驚きが、次いで戸惑いが塗られていく。 崖から飛び降りるときってこういう気分なのかな。 そんなことを、イズミは思う。 自分の想いを告げてしまった高揚はすぐに遠ざかり、イズミの小さな頭は恐怖と不安で染められる。 どうして言ってしまったんだろう、と後悔するイズミに、長い沈黙の後、マキは尋ねてきた。 「いつ、から?」 イズミの口から、堰を切ったように言葉が流れ出てきた。 マキ姉に抱いている気持ちが恋心だということに気付いたのは中学生の終わりくらいだったこと、マキ姉を見たり、考えたりする度に胸が熱くなったのはいつからは覚えていない。 マキ姉に、恋人として見てもらえるように通い始めたこと。 コータローを紹介されたとき、死にたいくらいにショックだったこと。 それでも関係を崩したくなくて、黙って傍にいたこと。 サウナで裸を見るたびに、興奮してたこと。 昨日、コータローとのことを聞いて、ショックだったこと。 ショックを受けた自分を慰めようとした友達を傷つけてしまったこと。 自分の中からこうも恥ずかしくてどうしようもないことが出てきたことに、イズミ自身、唖然としながら、それでも言葉は止まらなかった。 滝のような言葉は、途中から、涙と嗚咽で千切れ、ほとんど言葉にならなかった。 そんなイズミを、マキは顔を赤くしたり、青くしたりしながらも、ただじっと聞いてくれた。 自分の想いの丈をあらかた言い終えたイズミは、マキを睨む。 これが、あなたの近くにいた姪っ子の正体だ。 涼しい顔をしていながら、こんなことを考えたり、想っていた、どうしようもない同性愛者だ。 何故かマキに敵愾心のようなものを抱いてしまうイズミを、たっぷり見つめたあと、マキは言う。 「小説家失格だな、私」 「……どうして」 「こんな近くにいたのに、イズミちゃんの気持ちに、気付いてあげられなかった。人の気持ちに人の二倍は敏感じゃないといけない仕事なのに」 「どうしてそうなるの。言わなかった私が悪いんだよ」 心底ホッとすべきなのに、イズミの胸を怒りが染める。 「悪いのは私なのに、どうしてそんなこと言うの?」 「それは違う!」 イズミに、マキは怒鳴り返す。 気圧されたイズミの肩をマキは掴み、そして言う。 「自分を責めないで。人を好きになるっていうのは、とても自然なことなんだから……同性を好きだ、って打ち明けることが、どんなに怖いことか、不安なことなのか、私にだって分かる。言えなかったのは、無理もないよ。 ……正直、私のことを、イズミちゃんが家族以上に見てることは、気付いてた。でも、それを聞くのが、少し私、怖かった。イズミちゃんとの関係が崩れないか、心配になって。イズミちゃんが苦しかったのは、私のせいでもあるんだよ。イズミちゃんは、何も悪くないよ」 「でも、いや、でも……」 それ以上は、言葉にできなかった。 泣くしかないイズミを、マキは抱きしめた。マキの服を鼻水や涙でぐちゃぐちゃにしながら、イズミはただ、泣き続けた。服越しに、マキもまた呼吸を荒くし、激しく泣いているのが分かった。 私の初恋はこれで終わったんだ。 イズミはそんなことを思った。 イズミはいつの間にか、眠ってしまったようだった。 目が醒めると、陽はいつの間にか陰り始めていて、目の前には仰向けになったまま眠る、マキがあった。 自分が枕にしていたマキの胸を、しばらくイズミは見下ろす。自分の涙やらでガビガビになった服の上から、マキの胸をおもむろに揉む。 下から包むように、ふよふよとした感触を楽しんでいると「やめなさい」と、目覚めたマキが言ってきた。それでもなお揉んでいると、マキは額にチョップを打ち込んできた。 「あとちょっとだけ」 「ふざけるのはやめなさい、もう」 そう言いながら体を起こすマキ姉の頬は、少し赤らんでいた。 もうちょっと頑張れば、ヤレるんじゃないか、とイズミは考える。そんな考えを察したらしいマキが、結構キツ目に睨んでくる。イズミがわざとらしく舌を出すと、マキは怒り顔のまま、少し笑う。 「ちょっと、ホッとした」 「何が?」 「イズミちゃんがようやく弱いところを出してくれて。アヤコ姉ちゃん以上に、イズミちゃんってしっかりしてて、気おくれするくらいだったからさ。そういうおバカなところが見れて、ちょっと嬉しい」 「じゃあ、これからも揉ませてくれる?」 「それとこれとは話が別」 ちぇ、とイズミが言うと、マキはやれやれと言わんばかりの顔をしたのも一瞬、あ、と言って壁時計を見て、バッグからスマホを取りだし、うへぇ、と言った。 「どうしたの?」 「……編集さんとの打ち合わせ、完全に忘れてた」 もう行くね、とマキは立ち上がる。立ち上がりざま、マキはイズミに顔を寄せる。 「大丈夫?」 「うん、ありがとう」 「何かあったら、すぐに連絡するんだよ。辛い気持ち、苦しい気持ちを貯めこむのが、一番ダメなことだからね。 私は、イズミちゃんの苦しさくらいは、ちゃんと受け止められるから」 涙が出そうになった。 誤魔化すために、マキの胸に手を伸ばすけど、それはあえなく、マキに叩かれる。 玄関へいそいそと向かうマキの背中に、イズミは「ありがとう、行ってらっしゃい」と声をかけた。 「またね、イズミちゃん」 そうマキが返してくれたことに、イズミはまた、泣きそうになった。 * シャワーを浴びて、身支度を整え、イズミは大学に向かった。 自転車で構内に着いた頃には授業はあらかた終わっていた。しゃべったりスマホを見たりしながら歩く学生達の群れの中にヒカルの姿を探す。 金髪を見かける度に、心臓の拍動が高まるけど、どれもヒカルじゃなかった。同じ学科の子を見つける度に、ヒカルがいないか尋ねたものの、返ってくる答えは、見てないよ、か、誰その子? のどちらかだった。 構内を一時間くらい探したあと、イズミは自転車で大学を出る。地図アプリと昨日の記憶を思い返しながら、ヒカルの家を探す。 途中、出くわしたおじいさんに、ながら運転は犯罪だぞ、と注意されつつ、さらに一時間ほどうろついたあと、イズミはようやっと、ヒカルのアパートを見つけ出した。 ホッとしたのも束の間、部外者はアパートに立ち入れないことと、そもそもヒカルの連絡先を知らないことを、イズミは思い出す。インターフォンのようなものはアパートにはなく、入口にあるのは郵便受けだけだった。 イズミはアパートの前に立ち尽くす。 ヒカルが出かけるか、戻ってくるかするまで待つつもりだった。自転車のハンドルに手をかけたまま、立って何十分か経った後、ようやく周りから見て自分が大分怪しい人間だということに気付いて、イズミは近くのコンビニに自転車を移動する。そこで肉まんとお汁粉を買い、アパートを見ながら食べ、それが無くなった後もアパートの周りをうろうろした。 夜はいつの間にかとっぷりと更けていて、道にはコンビニに夕飯を買いに来た国籍不明の外国人や、残業終わりのOLや、赤ら顔のサラリーマンが増えてくる。 もう一時間だけ粘ろう。 そう思いながら三階建てのアパートを見上げたイズミの腰を、誰かが突いてきた。うげ、と呻きながら突いてきた奴の方を見ると「もう、いい加減帰ってくんない?」と、不機嫌そうに言うヒカルがいた。 「もしかして、ずっと前から気付かれてた?」 「そう、気付いてて声かけなかった」 「話したいことが、あるんだ」 「話したくないんだよ、私は」 「それでも、聞いてほしい」 唇をへの字に曲げて、ヒカルはアパートの入口に歩いていく。 その背中を、イズミが泣きそうになりながら見送っていると 「何してんの、来なよ」 とヒカルは言った。 ダイニングテーブルでヒカルと向かい合ったイズミは、全てを話した。 自分がずっと好きだった叔母がいたこと、その人には恋人がいて、その恋人と寝ているところに出くわしたこと、泣いていたのはそのせいだったこと……今日ヒカルと別れた後の顛末まで、イズミがほとんど一息に話している間、ヒカルは不機嫌そうな顔を崩さないまま、聞いてくれた。 イズミが言い終えた後、ヒカルの口に冷笑が浮かぶ。 「それで、今まで度胸不足でできなかった、正直に気持ちを話すことでそのお姉ちゃんとわかり合えたから、同じことをすれば私とも仲直りできる、って思ったんだ?」 「それは、違う」 冷たい言葉に心臓を掴まれるような想いを抱くものの、イズミははっきりとそう言う。 「ヒカルが言ったとおり、私は、あなたを傷つけた。謝るためには、自分が思ってることを正直に言わないといけないと思ったの……それと、お礼が言いたかった」 「お礼?」 「ヒカルが、私のこと怒鳴ってくれなかったら、私は、マキ姉に自分の気持ちを告げることはできなかったと思う」 なおも冷たい視線のヒカルに、イズミは笑顔を向ける。 「ヒカルが怒鳴らなかったら、多分今も、片想いを抱えたまま、苦しい想いをしたまま、私はただその人の隣にいることを選んでいたと思う。ヒカルのおかげで、私は前に進めたと思う」 そう言ったイズミを、ヒカルはしばらくの間、睨み続けていた。 不意に、ヒカルは小さく息を吐くと、気まずそうに視線を逸らした。 「そんな、お礼言われるようなことはしてないよ……私も、あの時は頭に血が上ってて、イズミのことをあんまり考えてなかった」 「仕方ないよ。私、酷いことしたもん」 「あーあーあー、もうそれ無し。謝りあいっこってあたし嫌いなんだよ」 そして、ヒカルは右手を差し出してきた。 イズミが見ると、顔を赤くしたヒカルは視線を逸らす。 「はい、これで手打ち。お仕舞。それで良いっしょ」 「これからも、仲良くしてくれる?」 「だからそう言ってんでしょうが。ほら」 ありがとう。 そう言いながら、イズミはヒカルの手を取った。 ぎゅ、と握り合わせた互いの右手を、上下に強く振って、ヒカルはようやく、笑う。 「お疲れ、大変だったね」 そう言ってくれたヒカルに、イズミの胸は熱くなる。 そして不意に、自分の熱を、イズミは自覚した。 その唐突さと強さに、イズミ自身、戸惑う熱だった。 こんなとき、どうして。 そう思ったのは一瞬で、気付けばイズミは、それに身も心も委ねていた。 握った右手を一度解くと、ヒカルのそれに、自分のそれを絡ませた。 手の平は、どうしようもないくらいに熱くなっていた。 ヒカルは怪訝な顔をして、次の瞬間、目の傾斜を強めてイズミを見てくる。 「……何この手は」 「仲良く、しよう」 「下心は無い、って言ったばっかりじゃん」 「下心〝だけ〟では無いよ」 「……恋が叶わなかったからってすぐ別の人に行くって、最低なことだと思う」 「マキ姉のことは、まだ好きだよ」 ヒカルを真っすぐに見つめながら、イズミは言う。 「でも、ヒカルのことも私はどうしようもなく好き」 「……最低」 「嫌だったら、昨日みたいに突き飛ばして」 イズミはヒカルの右手を両手で包む。ヒカルはそこから逃れようとするものの、その力は、弱かった。 イズミは、手をほどくと椅子から立ち上がり、ヒカルのすぐそばへ移動する。 睨みながらも、ヒカルの顔はどうしようもなく赤い。 「いくら何でも、昨日のことがあったのに、これは酷いと思わん?」 「仲直りしたじゃん」 「だからって、舌の根も乾かない内にこれは酷いって」 「難しい言葉知ってるんだね。ヒカルって結構良いとこのお嬢さんなの?」 「話を誤魔化す」 なおも言うヒカルの唇に、自分の唇を押し付ける。 イズミは、ヒカルをどうしようもなく求めていた。ムシャクシャした気持ちを誤魔化すためなんてものじゃなく、どうしようもなく、ヒカルを自分のものにしたかった。それが、ヒカルも分かっている――そのことに気付いたイズミは、もう止まらなかった。 唇を押し付け、彼女の唇を舌で弄ぶ。固く閉じた唇を舌でこじ開け、彼女の歯や歯茎、そして舌を蹂躙する。 脳髄が溶けるのをイズミは感じた。いつの間にかどうしようもなく荒くなった自分の呼吸と、同じようになったヒカルの呼吸がハミングして、イズミの理性は溶けだして、全身から流れ出た。 イズミはヒカルを抱きしめる。 どうすれば良いのか、よく分からないまま、気持ちよくなりそうなところを手あたり次第に触った。 唇で感じるヒカルの吐息は、最初、戸惑ったようなものだったけど、徐々にそれが熱と湿り気を帯びた。イズミは、ただ熱の赴くまま、舌を手を動かした。ヒカルの息も、どんどん熱を帯びていった。 ヒカルの体は、ダイニングテーブルになんとかしがみついている状態だった。イズミが手を離すと、ヒカルは堪えきれずに、床に倒れ伏した。 潤んだ瞳でイズミを見上げるヒカルを、イズミは見下ろす。 「おかしいって、だから」 「ヒカル、好き」 「嘘言うなよ、馬鹿……」 「嘘じゃないって、ヒカルも分かってるでしょ」 「嘘だ、絶対嘘だ……」 イズミは、ヒカルの着ていたシャツのボタンに手をかける、やめろよ変態、と言いながら、ヒカルはイズミの手をのけようとしない。 何やってんだろう、私は。 そんな、冷静に、呆れたように呟く自分がいることに気付いたものの、イズミはヒカルのフロントホックのブラに手をかけた。 6 「おい、マキ。生き返れ」 その声に、マキの意識は覚醒した。 ごふぁ、という自分の汚い呼吸が聞こえた。上手く呼吸ができなくて、何度か荒い呼吸を繰り返しながら、自分の現状を確認する。 マキは自室の机に向かっていて、目の前には文字を書きなぐったノートがある。 そう、自分は新作のアイディアを練るためにノートに向かっていて、ついでに言うと締め切りは一か月後に迫っている。プロットも上がらない状態に焦って陽が落ちた後も机に向かっていたら、疲れで眠ってしまったようだった。 ふう、とため息をついてから、自分を起こしてくれたコータローを見る。 「どう思う?」 「諦めて寝た方が良いと思う」 「だよね」 そうして、布団に入ったものの眠りはなかなか訪れてくれなかった。 書きあがらない作品のこと、これからの生活のこと、そんなことをつらつら考えると神経は昂ぶり、目は冴えるばかりだった。 「イズミちゃん、最近どう?」 そんなマキの内心を見透かすように、隣で寝るコータローはそう声をかけてくる。起きている? なんてことも聞かずにそう言ってきたこの男は、普段鈍感なようでこういう時にはよく気がつく。 「例のヒカルちゃんと仲良くやってるらしいよ。時々喧嘩はするみたいだけど」 「もうマキへの気持ちは吹っ切れたのかな」 「だと思うけど、今でも時々隙あらばおっぱい揉もうとしてくるよ」 「ま、恋愛感情って簡単には片付かないわな」 「妬かないの?」 「何がよ?」 カーテンの隙間から差し込む外灯の薄い明かりの中で、マキは腕枕をしたコータローを見る。 「可愛いお嫁さんを性的な目で見られて、旦那さんとして嫉妬はないんですか?」 「いくら相手が若くて綺麗な子でも、ウチの嫁さんは旦那にメロメロだって分かってるから」 「そう思ってるのは旦那だけかもよ」 「そんときは惚れ直させるだけだよ」 真顔のコータローに、マキはつい笑ってしまう。布団の中で笑うマキの頭を、コータローの大きな手が優しく撫でる。 「次の作品は、イズミちゃんとのことをテーマにするんだよな」 「うん、色々インタビューさせてもらった」 「彼女的には、それは良いんだ?」 「ちょっと恥ずかしいとは言ってたけど、良い、って。むしろ書いてくれると嬉しい、って言ってくれたよ」 「だから責任、感じちゃってるんだな」 「むしろ、感じなきゃダメだと思う」 「うん」 「恋をするのは人として当たり前のことだし、何も恥じることはないの。それでもイズミちゃんは、何年も言えなかった。同性愛を打ち明けるってことは、それだけ重いことだから。関係性が壊れるかもしれない恐怖と不安があることだから。 その重さを、異性愛者の私は理解しきれてないところがあると思う。理解するために、この作品は書かなきゃならない」 「人間って、人のことを理解しきれないのは当然のことだよ」 「そう思い切っちゃいけないのが、小説家と政治家だと思う」 「そっか」 「そうだよ」 枕と布団の柔らかさ、頭の上に置かれた手の温かさ。それを感じる内に、自分の頭に帳が降りていくのをマキは感じる。 「イズミちゃんがさ、ヒカルちゃんって子を紹介してきたとき、ちょっと寂しかったんだ。ああ、イズミちゃんが私から離れちゃうんだな、って……イズミちゃんのことは恋愛対象として見れなかったけど、それでもやっぱり、寂しいな、って」 「そりゃ子供の頃からずっと一緒だったんだからな」 「なのに、気付いてあげられなかったのは、申し訳なかったな」 「ちょっと失敗しても、取り返せば良いんだよ」 「そっか」 「そうそう」 その後も、マキは何事か言っていたものの、いつの間にか小さな寝息を立てていた。 そのことを確認したコータローは、そっと手をマキの頭からどけ、自分の布団の中に収めた。目を閉じたコータローが眠りの中に落ちるまでに、さほど時間は経たなかった。 |
赤木 2024年12月29日 10時58分07秒 公開 ■この作品の著作権は 赤木 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2025年01月19日 11時18分01秒 | |||
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Re: | 2025年01月19日 11時00分12秒 | |||
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Re: | 2025年01月19日 10時52分10秒 | |||
合計 | 3人 | 70点 |
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