【長編】ざまあみろナイフ |
Rev.13 枚数: 153 枚( 60,987 文字) |
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※一部流血表現あり。グロくはないです。 【第1章 イケブクロ】 やってしまった。 私──杉崎アヤカはひどく後悔していた。家出なんてもの、自分とは絶対、無縁だと思ってたのに。 いや、厳密にいえば家出とはちょっと違うかもしれない。そう、私はきっと自分から家出することはできなかっただろう。 話は今日の放課後、帰宅部の私が早々に家に帰った時にさかのぼる。家に着いた私は、母の顔を見て、すぐに状況を把握した。 うわ……、バレた。 「アヤカちゃん」 「……!!」 「これ、なにかな?」 お母さんが指した先には、私がなけなしのおこづかいで買った、最近流行りの漫画の最新巻があった。 「……」 私は、この感じはウソをついても無駄だろうなと思った。 「アヤカちゃんのよね? 掃除してて、見つけたんだけど」 頑張って隠してたのに……どうして見つけられるんだ。私の部屋どんだけ調べてるの? 「うん……」 お母さんは、小さな子に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を紡ぐ。 「アヤカちゃんは勉強が一番、大事よね?そうよね?」 「うん……でも、」 「よかった! じゃあ、馬鹿になっちゃうのは嫌だよね?」 「うん……」 「コレは馬鹿の読むものなの。だから、捨てていいよね?」 「……お母さん」 「嫌じゃないよね? アヤカちゃんは馬鹿じゃないもんね?」 「……」 やめて、と言いたい。 でも、私はいつも、その一言を口に出せない。 「うん」 「よかった。コレより小説とかの方がアヤカちゃんはずっと好きだもんね! 今度、また一緒に本買いに行こうね」 「……ごめん、お母さん。ちょっと、散歩に行ってくる」 「すぐそこの公園までよね? わかってるとは思うけど、夕飯までには戻るのよ。戻ったら、」 次にお母さんが発する言葉がわかる。一番言ってほしくない言葉。 「一緒に、コレを捨てようね」 「……」 バタン。 ドアが閉まった瞬間私は公園へ駆け出した。 もういやだ。もう沢山だ。 なんで私はこんなにダメなんだろ。豆腐メンタルの私の目には涙がにじんで視界が悪かった。 私はお母さんに色んなものを管理されている。漫画とゲームは禁止。テレビもバラエティはNG。SNSのやり取りは見られるし、時間も制限されてる。他にもいろいろ。それが当たり前だと思ってた頃はまだ、良かった。高校1年になった今、友人の話についていけないことは死活問題だ。 嫌だと思ってるけど、お母さんにそれを伝えるのが怖い。お母さんは否定されるとすごく不安定になって、私が折れない限りは機嫌が直ることはない。私のせいで家族の空気がギスギスするのが嫌で、結局は言うことを聞いてしまう。 「こんなんじゃダメだよね……」 わかってるんだけど、なんとかできない自分が本当、嫌い。 ため息をつきながら、夕飯の時間ギリギリまで粘ろうと公園のブランコに座っていた私は、変わった人を見かけた。 (外国人かな?) 浅黒い肌をした、すっごく美形な男の人だった。キョロキョロしてたので、道に迷ったのかな? と思った。執事みたいな燕尾服を着込んでいる。 その男の人は、私を見ると、まっすぐこちらに向かってきた。 「杉崎アヤカさんですね?」 道を聞かれるつもりでいた私は、急に名前を呼ばれて驚いた。 「ど、どちら様ですか」 「申し遅れました、私はスズキと申します」 「……何のご用ですか」 「貴女をご招待しに来ました」 「へ?」 「公園のブランコで人知れず泣く、そんなベタな悲劇のシチュエーションに陥っている貴女。貴女のような、どこか遠くに行ってしまいたいと思っている人を、私の街に案内するのが私の役目です」 「いえ、間に合ってます」 ヤバい人だと悟った私はブランコから立ち上がった。 「まあまあちょっと待って下さい。貴女は家出って、したことあります?」 「ないです」 「絶対にバレない家出があったら、してみたいですか?」 バレない? 「家出したことがバレないってことですか?」 「そうです。親にも、友達にもバレない。誰も、貴女が遠くに行ってしまったことに気づかない」 随分めちゃくちゃなことを言い出した。そんな家出、不可能に決まってる。 「できるわけないじゃないですか。できるもんならやりたいですけど」 それを聞いたスズキは、嬉しそうに笑った。イケメンの笑顔は眩しい。 「良かった。それじゃあ早速ですが、貴女をご案内致します」 「『イケブクロ』へ」 スズキがそう言ったそのとたん、ぐわんと視界が揺れ、重力が逆転するような感覚がした。 私が吐き気を感じて頭を抑え、視界が定まったときには、私は見慣れないバスの中にいた。 「えっ!?」 一瞬前まで、夕暮れの公園にいたはずだった。それが現実だった。でも今の私の感覚器官は、バスの揺れ、独特の匂い、白い蛍光灯の情報をありありと私に伝えている。 私は突然の出来事に卒倒しそうになりながらも、とりあえず運転席に向かって揺れるバスの中を移動した。そこにはさっきの男性がいた。 「ちょっと!」 「はい」 彼はこちらを見ずに、落ち着いて答えた。 「ここはどこですか?」 「停滞と混沌の街、『イケブクロ』へ向かうバスの中です」 池袋? 「さっきの、本当だったの?」 「もちろん」 私はひどくうろたえた。冗談だとばかり思っていたからだ。 「か、帰して! 家に帰してよ」 すると、彼はゆっくりと振り返って言った。 「いいですよ。杉崎アヤカさん。別に、戻してあげても。でも、あなたはあそこに帰りたいですか?」 「え」 「戻ったらあなたは、捨てるんでしょう、漫画を」 長い睫毛の間から、全てを見透かしたような褐色の瞳で見つめられて、私はうろたえた。 帰りたくは……ない。 でも、さっき公園にいたときは、本当に帰らないつもりはなかった。私は結局、お母さんのルールを守るつもりでいた。 でも、今なら……この謎の人物のせいと言い訳して、それを破れる? 池袋なら、うちからそんな遠くもないし。帰ろうと思えばすぐ、帰れるし…… 彼はわたしの葛藤を見て目を細めた。なんだかこの人に見つめられると自分がよくわからなくなる。 「大丈夫ですよ。言ったでしょう。絶対に、誰も気づかないですから。それでも、戻りますか?」 私は無意識に、首を横に振っていた。 あーなんであの時「戻る」って言わなかったんだろ。私は放課後から今までを振り返ってまた後悔しだした。そもそも、今の状況がめちゃくちゃ意味不明だ。やっぱ夢かなんかかな?実はあの運転手が催眠術師、とか。 私はバスの窓を見つめた。薄暗くなった街に、いつの間にか降りだした雨が打ち付けていた。 小さな舌打ちが聞こえたので、私は驚いて振り向いた。他にも、乗客がいたんだ。 そこにいたのは男の子だった。小学生高学年くらいかな?中学生ではなさそう。 私は少し迷ったけれど、その子に話しかけることにした。だいぶ話しかけられたくない雰囲気を醸し出していたけど、あんな小さな子、放っておくのも良くないよね。他に乗客もいないし。 ああ、この期に及んで人目を気にしてる自分がイヤだ。 私は運転手の近くの席から、その子の隣に席を移動した。 「こんばんは。名前は何て言うの?私は、杉崎アヤカ」 男の子は私を忌々しげに見た。 「教えるかよ」 私は少し傷ついたが、フォローするように言った。 「! ……そうだよね、見ず知らずの人に、教えたくないよね、名前」 「……」 「うん……いや、君はどうやってここに来たのかなって思って」 もう喋ってくれないかな? 「俺は」 お、喋った。 「俺は親を捨ててやったんだ」 「親を、捨てた?」 【第2章 出会い】 「そうだ」 男の子はニヤリと笑った。私は意味が分からなくて戸惑った。 「どういう意味?」 「そのままだよ。あんな親、願い下げだったから、捨ててきた」 「ええ!?そんな、心配してるよきっと」 「っ、」 私が反射的にそう言うと、男の子はびくりとした。その後、不思議なものを見るような目で私を見てきた。 「……お前はどうしてここに居るんだ?」 「私? えーとね……」 私は手短に自分の状況を説明した。それをじっと聞いていた男の子は、なんだかだんだん表情が険しくなって、怒ってるようにも、悲しんでるようにも見えた。 「って感じで……。ごめん、何か気に触ったかな」 「お前、そんなことで家出したのか」 「え」 そんなこと? 私がこんなに悩んでることが、「そんなこと」?? 堪忍袋の緒が切れた。立ち上がって言う。 「信じらんない!! なんで、私が死ぬほど悩んでることを『そんなこと』なんて言うの? 子供だからって、許されると思わないで!!」 男の子は突然叫んだ私にびっくりしたようで、怯えた顔で座席を後ずさった。 でも、私もすぐに我に帰った。やば……なにやってんだろ。こんな小さい子に怒鳴るなんて。私は座席に沈んだ。 「ごっごめん。びっくり、したよね……普段はこんなんじゃないんだけど……私も、混乱して余裕なくて」 「なんでお前が謝るんだよ……」 「怖かったかなって」 「……悪いのは俺の方だろ」 私はちらりと男の子の方を見た。男の子はちょっとためらってから言った。 「俺、カケル。宮野カケル。小5だ」 「カケルか、良い名前だね……よろしく」 私がなんとなく言っただけの「良い名前」という言葉にも、カケルは動揺したように身動ぎした。 なんだろう。この子には何か、かなり事情があるような気がする。「親を捨てた」って、家出とはまた違うのかな。なんか言い回しが独特というか。 そう考えていたその時、バスが停まった。ハッとして私達はバスの外を見た。 バスの外はいつの間にか真っ暗だった。もう夕食の時間は過ぎただろうな。お母さんなら、警察に通報したりとか、もうしてるかな……。 「着きましたよ」 前からスズキの声が聞こえた。 「……降りよっか」 私はカケルに声をかけた。カケルはこくりと頷いた。 出たところは狭い駐車場だった。外は雨が降っていたが、傘なんて持ってなかったので、スズキが傘を貸してくれた。カケルも傘を持っていなかったが、傘は1本しかなかったので、相合傘することにした。 「カケル、一緒に行こう。ほら、入って」 「なんで?」 「なんでって……カケルが濡れないようにだよ、濡れたら嫌でしょ? 寒いし」 「……」 私がそう言うと、カケルはうつむいて身を震わせた。 「どうしたの?」 「なんでもない。行くぞ」 「う、うん。あっちょっと、どこ行くの」 ずんずん歩き出そうとするカケルに傘を傾けながら、私はあわててカケルを制止する。 カケルは不満そうに足を止めた。私はとりあえず、スズキにここは池袋のどの辺りなのか聞こうと思い、バスの方を振り返った。 「……えっ!?」 そこにバスは無かった。中にいたスズキごと忽然と消えていた。私はしばし呆然とした。私の声で振り返ったカケルも状況に気づいた。 「おい!! バスないぞ!!」 「わかってるよ!! ……えぇ……どうしよ……」 私はとりあえず今いる場所を確認しようとスマホを出した。しかし。 「うそ……圏外?」 池袋で圏外なんてこと、普通あり得ない。スマホの故障? こんなときに。 それとも……。 私はもっとも考えたくなかった可能性に思い至る。 ここは、本当は池袋じゃない? 私は不安になり、カケルを放って駆け出した。幸い、駐車場のすぐ前を通りかかる人がいた。とりあえず声をかける。 「あのっ」 「はい?」 その人は少し気後れするほどに綺麗な人だった。肩で切られたまっすぐな黒髪。清潔感のあるボーダーシャツ。中性的で性別がわかりにくいが、胸を見るに、たぶん女性かな。 「突然すいません、えっと、ここはどこですか?」 そう言うと、彼女はああ、と声を上げた。 「きみ、ここに来たばかりかい?」 「え、あ、はい」 ここで、カケルが私に追い付いてきた。どんと乱暴に私の腰をどつく。 「おい、どこいく気だよ、アヤカ。……なんだ? コイツ」 カケルがいかにも胡散臭げに彼女を見上げる。私はあわてて謝る。 「すいませんっ!! ……この子、私の連れというかなんというか……、ちょっと、訳ありで」 彼女は、カケルと私を見比べて一瞬呆気に取られた後、あははと笑った。 「大丈夫。ここに来る人は皆、訳ありだから」 申し遅れてすまない、私の名前はスミカ。少しややこしい話になるから、私の店に来てくれないか。 そう言った彼女──スミカに、私は着いて行くことにした。カケルはぎゃんぎゃんと文句を言うがなんとかなだめる。他に行くところもないし。 それに、と私は思う。彼女の後ろを歩きながら辺りを見回しても、標識も看板も全然見あたらなかった。しかも人の数も(池袋の割には)少ない。どう考えても、何かがおかしいように思う。ここは少々怪しくても、彼女の話を聴いた方がいいだろう。 私もカケルも、まだ未成年だ。夜遅くに見知らぬ場所にいたら何が起こるかわかったもんじゃない。 スミカは、いくつか角を曲がり、狭い路地にあるバーに私たちを案内した。猫の形をした看板が軒先にぶら下がっている。「Cafe and Bar SUMICA」と洒落た文字で刻印があった。 スミカは私たちにレモネードを振る舞い、ひと息ついたところで話を始めた。 「きみらは、今日ここに着いたんだね?」 「はい、そうです。その……ちょっと変な人に、連れて来られました」 「そいつは、スズキと名乗った。違うかい?」 私は思わず立ち上がった。 「あの人を知ってるんですか!?」 「知ってるも何も、実を言えば、私も彼に連れられてここに着いたんだ」 「え!?」 「アヤカ、それに……カケルと言ったね。信じられないと思うが、落ち着いて聞いてくれ」 「は、はい」 スミカの重たい雰囲気に、私は顔がこわばるのを感じた。 「ここは……きみたちのよく知っている、現実の世界とは違う」 「現実の……世界じゃない?」 いったい、どういうこと? 【第3章 永遠の夏休み】 スミカはゆっくりと言った。 「ここはそう、永遠の夏休みのような所なんだ」 そう言って、スミカは壁のカレンダーを指した。 「今日は何日だと思う?」 今日……たしか、 「6月24日、だったと思いますが」 「はぁ?」 私の答えに、カケルはすっとんきょうな声を上げた。 「今は4月だったはずだろ。頭おかしいんじゃないのか?」 「えっ!?」 私とカケルは顔を見合わす。 スミカはそんな私たちを見て、何かに気づいて言った。 「そうか……2人はバスに乗りこんだ時間が違ったんだね。実はこの場所は今、4月でも6月でもないんだ。正確には、何月でもない」 え?と私は思った。何月でもない?どういうことだろう。スミカが指したカレンダーをよく見ると、カレンダーはなんと9月だった。しかも年号は……2003年!? 今は2023年のはずなのに…… 「なんで20年前のカレンダーなんてかけてんだ?」 カケルが私も思った疑問を口にする。 「20年……そうか、もう外ではそれだけ時間が過ぎたんだね。私がここに来たのは、間違いなく2003年の9月だった。その時も、今と同じく30歳だった」 えっ、と思ってスミカを見る。嘘をついているようには見えない。スミカは30歳より少し若く見えるくらいだったし、50歳にはどう見ても見えなかった。 「ここに来たものはその肉体年齢が止まるんだ。外の時間は進んでいくけど、私たちはずっと止まったまま。食事は一応するけど、食べる必要はない。食料はときどき来るスズキが運んでくるけど、受け取らなくても問題はない」 私はとんでもない話に絶句した。 「外の世界で私たちがどういう扱いになっているかは、実際のところはわからない。でもスズキが言うには、誰にも気づかれないように『改変』してある、とのことだ」 それが、彼の言っていた「バレない」ということなのかな、と私は思った。 「それで、君たちはどうしてここに来たの?」 「……」 私はちらりとカケルを見た。カケルは言う気はないとばかりに顔を背けた。なので、しょうがなく私は口を開いた。 「……家出です」 「そうか……カケルは?」 「彼が言うには、『親を捨てた』そうです」 スミカはカケルを見た。カケルは顔を背けたままだ。 「そうしたら、とりあえずは私が君たちの面倒を見るよ。空き部屋はいくつかあるから、好きに使ってかまわない」 「そんな、ご迷惑をかけるわけには」 「だって、君たちは今日寝るところもないんだろう?」 「それは……」 「俺、腹減った!!」 カケルが急に大声を上げた。 「ちょっと、カケル」 すると、スミカはにっこりして言った。 「じゃあ、夕飯にしようか。来たばかりの君たちはきっとまだ空腹を感じるだろうから、多めに作るよ」 そうして、私たちはスミカのカフェで寝泊まりすることになった。 ちなみに、スミカの作ってくれたビーフシチューは、お店の味って感じでとても美味しかった。さすがカフェ経営してるだけはある。 カケルはよほどお腹が空いていたらしく貪るように3杯平らげ、すぐに眠った。 私はお風呂をいただいてから、歯磨きをして(パジャマと歯ブラシはスミカが新しいものを出してくれた)、寝床についた。今日のできごとを思い返す。信じられないようなことがいくつもあった。でも私は今ここにいる。 私はスマホを取り出し、画面を見た。いつまでも圏外のままだし、時刻表示はバスに乗った時間で止まっている。やっぱり、スミカの言っていたことは真実なのだ。 ここが本当に異世界のようなものだとしたら……どうやって帰ればいいのだろう。 でも、こんな事態になっても、私は帰りたくはなかった。なので、とりあえずあまり考えないようにしよう、と結論付けた。 それに……気になることは他にも色々ある。 たとえばカケルのことや、スミカの過去について。考えてわかることでもないが。 神経が高ぶっていて寝つくのには時間がかかったが、眠り始めると意外とぐっすり寝られた。 【第4章 SUMICAの常連客】 翌朝、普段通り(だと思う)時間に起きた。ここでは時計が役に立たないので、正確にはよくわからないが。 私はパジャマから制服に着替え、まだ寝ているカケルを起こさないようにまたいで部屋を出ると、歯を磨き、顔を洗って1階に降りていった。 ここは1階がカフェandバー、2階が居住スペースになっていて、私たちの与えられた部屋は2階にある。空き部屋は2つあったが、1つの部屋は物置のようになっていたので、私たちはとりあえず相部屋になっている。 1階ではすでにスミカが朝食の用意をしていた。また、スミカ以外に2人の男性がおり、カウンターの椅子に腰掛けていた。 ひとりは中年くらいの男性。わりと派手な格好で、カラフルなペイントのTシャツとダメージジーンズ、タッセルのついたローファーを合わせていた。 もうひとりは……年齢がよくわからない。20代にも見えるし、40代くらいにも見える気がした。非常に古びたツナギのような服を着ており、ヒゲが長くて、体のあちこちに泥がついていた。たぶん多くの人は彼を見て、『清潔感に欠ける』と評価するだろう。 私はその2人を警戒しながらそろそろとカフェに入り、スミカに向かって「おはようございまーす……」と遠慮がちに声をかけた。 スミカはフライパンを置いて振り返ると、「おはよう」とにこやかに私に挨拶し、男性2人の方に私を紹介した。 「この子は、昨日ここに来たばかりのアヤカって子なんだ。今はうちに住んでもらってる。あともうひとり、カケルって子も来たんだけど……」 ここまで言うとスミカは私をちらっと見た。私はあわてて言った。 「カケルは、まだ寝てるみたいでした」 「そうか、OK。カケルっていう男の子も来たんだけど、まだ上で寝てるみたいだね」 「それはそれは」と、派手な男性は言った。そして手に持っていたコップを置いて、自己紹介をした。 「申し遅れた、俺はナガシマってもんだ。永島アキラ。ここではナガシマって呼ばれてる。外の世界では売れないシンガーソングライターだった。事務所が潰れた後、ここに来た。以上!!」 「あ、よろしくお願いします」私は頭を下げた。 「よろしく」とナガシマさんは頷いた。 少しの沈黙が続いた後、ナガシマさんは隣の小汚い男性の座っている椅子をポンと叩いた。 「ほら、ミヨシさんも自己紹介しな」 ミヨシと呼ばれた男性は少しびくりとして、聞こえるか聞こえないかといったか細い声で、まったくこっちを見ずに自己紹介をした。 「……ミヨシです。……どうも」 「よろしくお願いします」私はとりあえずまた頭を下げた。 ミヨシさんからの反応は無かった。彼の視線は相変わらずテーブルの1点にそそがれたままだ。 ナガシマさんはミヨシさんから私に視線を移して言った。 「ところで――、アヤカはどうしてここに来たんだい?」 私は昨日と同じ内容をもう一度口にした。 「……家出です」 「家出かあ。俺も昔、覚えがあるなぁ。俺ね、昔はだいぶヤンチャしてて……」 「よし、それじゃあ朝食にしようか」 スミカはナガシマさんを遮ってそう言い、フライパンからパンケーキをお皿に移した。 ナガシマさんは少し不満そうにした。 「ちょっとスミカ、俺今しゃべってるじゃんか」 「ナガシマさん、自分語り始めると長いでしょ~。アヤカ、パンケーキの味付けは何がいい?生クリーム、バター、チョコペースト、ブルーベリージャム、クランベリーがあるけど。あと、目玉焼き乗っけるのもできるよ~」 「ええと、そしたら、バターでお願いします」 「バターだけでいい? 蜂蜜もいる?」 「それじゃあ蜂蜜も……お願いします」 「はーい」 ナガシマさんはぶつくさ言いながらもスミカにコーヒーのお代わりを頼んだ。さっきのやり取りを見るに、ナガシマさんはスミカとの付き合いは長いみたいだ。ミヨシさんは相変わらず微動だにしない。 少しして、階段からカケルが降りてきた。まだやや眠そうで、寝癖がついている。こうして見るとカケルはごく普通の子供みたいに見えた。昨日のとげとげしい態度が嘘みたいだ。 「カケル、おはよ」私はパンケーキを食べる手を止めて言った。 「お……ふぁよぅ」カケルは目をこすった。 「あ、君がうわさの、カケルくんか。俺はナガシマ。よろしくね」 カケルは「?」を浮かべたような顔をした。 「おっさん、何で靴にポンポンついてんの?」 「ポンポン? あー、これはタッセルって言うんだわ。賢くなったろー、カケル。あと、おっさんじゃなくてナガシマな」 カケルは興味なさそうに「ふーん」と言った。 私は内心ヒヤヒヤしたが、コーヒー牛乳を飲んでごまかした。ミヨシさんは無反応だった。 ミヨシさんも再び自己紹介するかと思いきや、何も言わなかったので、私は一応カケルに「こちらはミヨシさんって言うんだって」と紹介した。カケルは特に何も意見を述べずに頷いた。 「カケル、顔洗ってきたら? 寝癖もついてるよ」とスミカが声をかけた。 「うっせーな! 俺の勝手だろ」カケルは悪態をついた。 「こら、カケル」 私はカケルを諌めようとしたが、その時、ガタッと大きな音がしたのでそちらを振り向いた。 見ると、ミヨシさんが、さっきとはまるで違う鬼のような形相で立ち上がっていた。カケルをめちゃくちゃ睨んでいる。私は心臓の拍動が激しくなり、体が固くなった。 「謝れ」 ミヨシさんが言う。場がシーンと静まりかえった。ミヨシさんはもう一度、今度はより大声で怒鳴った。 「スミカさんに、謝れっ!!」 私はカケルの方を見た。すると、カケルは私どころじゃない反応を見せていた。ものすごく怯えた表情。両手を、頭をかかえて守るようにかざし、カタカタと震えている。 「や、やめ……、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」 スミカがはっとしたように、ミヨシさんを止めに入った。 「ミヨシさん!! いいから、座って!!」 ミヨシさんは、なおもカケルを睨んでいた。 「やめろ、みるな……」カケルはうめいた。 「みるなぁああああ!!!!」 カケルはそう叫ぶと、脱兎のごとく走り出し、2階へ向かって階段を駆け上がっていった。 「カケル!!」私は思わず、後を追った。 【第5章 ざまあみろナイフ】 階段を上がると、カケルは廊下の突き当たりで座り込んでいた。 私は、隣まで行ってカケルの顔を覗き込んだ。 「う……う……う」 カケルは、小刻みに上下に体を揺らしながら、無表情のまま一定の間隔でうめいていた。本当は涙を出したいのに、どうしても出せない、といった風だ。それはとても痛々しい表情に見えた。 私は、なんとなく勘づいてはいた。さっきカケルが怒鳴られた時の、カケルの怯えた表情。昨日の食事で腕まくりした時見えたアザ。並んで寝た時に気づいた、驚くほど痩せ細った身体つき。 「虐待」の二文字は、すぐ脳裏に浮かんだ。 「カケル……、話したくなかったら、話さなくてもいい。でも、もしかしてカケルは、『親を捨てた』んじゃなくて」 次の瞬間、カケルは私の言葉を遮るように手で私の口をふさいだ。私は目を見開き黙り込んだ。 「……」 「アヤカは、いいよな。窮屈でも、居場所はあった」 カケルはぽつり、ぽつりと言葉を紡いでいった。 「俺には居場所なんて、最初からなかった」 「母ちゃんは家の事なんて何もせずにいつもテレビ見て寝てた。俺が全部の家事をして、それを少しでも怠けると、パチンコから帰ってきたオヤジに殴られた」 「泣くと、もっと殴られるんだ。その後ベランダに出されて、鍵を閉められる。泣き止まないといつまでもそのままだ」 「……」 私は、声が出なかった。かけられる言葉が、無かった。 「あの日…やつらは妙に機嫌が良くて、『旅行に行くから、いい子でお留守番してるのよ』、って猫なで声を出して。おかしいと思った」 「まず電気が止まった。ガスも止まった。その後、アパートの大家が部屋にきた。」 「やつらは先月から家賃を払ってないと、大家は言った。そして、」 カケルの声が震えた。私の口から手が離れ、カケルはその手を握りしめた。 「やつらから大家宛に、『家のものは適当に処分してくれ』って手紙が来たって」 「それを聞いて俺は家を出た。やつらのことなんか、こっちから願い下げだって、思って、」 カケルはそこで言葉をつまらせた。私の目から、涙がこぼれたのを見て。 「……カケル」 「なんだよ、っておい!?」 私は乱暴にカケルを抱き締めた。カケルはじたばたと暴れた。 「離せよ、このバカ女、なんでお前泣いてんだよ」 私は、精一杯大人のふりをして、ひきつる喉からなんとか言葉を絞り出した。 「辛かったね。もう、安心していいんだよ」 「う、」 私の腕の中で、カケルは歯を食い縛った。その目からぼろぼろと涙がこぼれる。 「うう、くそっ……、くそが」 「うん。カケルは頑張ったよ」 「うあああああん!!」 ついにカケルは私の腕の中で号泣しだした。私はカケルの背中をさすった。 「話してくれて、ありがとうね……」 この子はこんな頼りない肩で、ものすごく辛い境遇の中を必死に生きてきたのだ。なんでこの子はそんな目に合わなければならなかったのだろう? カケルの、「そんなことで家出したのか」という言葉の意味が、今はとても重く感じる。そう、私はとても無神経だった。ごめんカケル。私は知らないうちに、カケルを傷つけていたんだ。 カケルはしばらく私の服にしがみついて泣いた。それから、しゃくりあげながらゆっくり顔を上げた。 「アヤカ……、俺はやつらを許さない、絶対に、」 「やつらが羨むようないい生活して、『ざまあみろ』って言ってやるんだ!!」 その時、突然カケルの手が眩しい光に包まれた。 「えっ!?」 「わあ!?」 私とカケルは仰天してひっくり返った。 起き上がると光は消えていたが、カケルの手には見慣れない物体があった。 「なんだこれ?」 カケルは目をパチパチさせていた。 「今光ったよね?」 私も混乱して言った。 「光った。それとこれ、気づいたら手にあったんだけど?」 カケルの手には、パッと見サバイバルナイフのような感じの刃物があった。 「???」 今起きた現象の意味が分からず、私達はただ首をかしげた。 「よく分かんないけど、このナイフなんか温かい」 「へ?」 「触ってみ」 カケルに手渡されたナイフを持ってみると、確かに柄の部分が温かい。それと同時になんだか、力が沸いてくるような気持ちになった。 「ほんとだ~」 しかし、これはどういうことなんだろう? いや、こんな場所だから何が起きても不思議じゃないのかもしれないけど。こういうことは、ここではよくあったりするんだろうか。 「そうだ、スミカに見せてみようか?」 「……いい。とりあえず、部屋に置いとくわ」 カケルはそう言って、ナイフを持って私達の部屋に引っ込んだ。もしかすると、カケルは大人に対しては不信感があるのかもしれない。無理もないだろう。 その時、スミカが上がってくる足音がした。 「ごめんねカケル、ミヨシさんが急に怒鳴っちゃって」 彼女はひょいと階段から顔を覗かせた。 「あっ、アヤカ……カケルは?」 「今ちょっと部屋に行ってて……でもとりあえず、落ち着いたと思います」 そこで、部屋からカケル(まだ頬に涙のあとがついている)が出てきた。カケルは、バツが悪そうにスミカを見上げた。 「カケル……ミヨシさんが急に怒鳴っちゃって、ごめんね。どうかミヨシさんを悪く思わないであげて。話すのは苦手な人なんだ」 「……別に、スミカが謝ることじゃない。俺も、悪かったし」 「お、えらいカケル」 私はカケルの頭をわしわしと撫でた。 「えらいって何だよ、やめろよアヤカ」 カケルはわちゃわちゃと抵抗した。 スミカは私たち2人の顔を交互に見て、何かを察したように頷いた。 「ミヨシさんは?」 「落ち着かせようとしてたら、出てっちゃったんだ。ナガシマさんがそれを追っかけて行った」 私は、ミヨシさんには悪いけど少しほっとした。すぐにカケルとミヨシさんが鉢合わせることはなさそうだ。 「またしばらくしたら戻ってくると思う。感情を引きずることはない人だから、もう怖がらなくていいよ」 「そうですか……」 ひとまず一安心、かな? 「とりあえず朝ごはんの続きだね。アヤカの朝ごはんが冷めちゃう。カケルもとりあえず顔洗って」 スミカがそう言うと、今度は素直に、カケルは頷いた。 「ついでに、アヤカも顔洗った方がいいかもね。ふふっ、鼻水出てるよ」 鼻をすすり、私も頷いた。 【第6章 スズキの訪問】 それから私達は顔を洗って朝食を食べ(朝食ではカケルはあまり量は食べなかった)、スミカといろいろ話をした。ナイフのことと、カケルが虐待されていたことはとりあえず伏せた。 「私達、これからここで何をすればいいんでしょうか」 「別に、好きなことをすればいいさ。ここでは時間は意味をもたないから」 スミカはグラスを拭きながら言った。 「そうですか……」 私はぼんやりと表の道路に目をやった。今日は曇りで、日は差していない。昨日は雨だったっけ。ここに時間がないなんて、にわかには信じられない。 でも、なんだかここは確かに、季節が変な気がするなと私は思った。空気に、季節感がないというか。建物の中の空気に似ている。 外の時間は今も私達を置いて、進んでいるのかなと私は思った。お母さんはどうしているんだろう。私の不在は、どのように埋め合わせがされているのだろうか。 「スミカは、ここで何をしているんですか?」 「私? 私はここの店主だよ。ここでも、キリッと冷えたビールとか、温かいご飯を必要としてる人はたまにいるからね。食事はどうしても必要って訳じゃないにせよ、こういうのは心の問題だ」 「……それだったら、」 それだったら、外の世界でもできる。スミカはどうしてここに来たんだろう?私はそれを聞こうとしたが、その時スミカは驚いたように扉の方を見た。 私も扉を振り向くと、扉の窓から大きな人が見えた。白人の男の人で、ブロンドヘア。綺麗な緑の目で、優しそうな垂れ眉だ。どこの国の人だろう? パリンと、唐突に大きな音がした。スミカの方を見ると、スミカは拭いていたグラスを落としたようだった。 「……アラン」 アラン? あの人の、名前かな。 スミカはゆっくり頭を振った。その顔に、次第に怒りの色が浮かんでいった。 「違う、そんなはずがない……。スズキだな」 カランと扉の鈴が鳴る。 「ご名答」 入ってきたのは、あの白人ではなかった。昨日見たばかりの、浅黒い肌に褐色の瞳、とびきりの美形――それは間違いなく、スズキだった。相変わらず燕尾服を着ている。 「あっ! お前!」カケルが叫ぶ。 「えっ? なんで?」私は混乱した。 「スズキ……アランを、侮辱するな。いつもいつも」 スミカがなんかちょっと、ヤバい雰囲気だ。アラン……がさっきの白人だとして、スズキがアランに変装してたってことかな? 「ふふふっ、スミカさん、あなたもいつまでも慣れないですねぇ」 スズキは満面の笑みで、トンと箱をカウンターに置いた。その箱の外側には、今さっきスミカが割ったのと寸分違わぬグラスの画像があった。 「出ていけ!!」スミカが出し抜けに叫んだ。 「おっと、今日はあなたに用ってわけではないんです」 スズキがパチンと指を鳴らすと、スミカの口はまるでチャックをされたかのように閉じた。スミカは面食らったように口を押さえた。 「アヤカさん、それにカケルさん」 「な……何?」 「あぁ?」 「今日はあなた達にプレゼントですよ、喜んでくれると嬉しいです」 プレゼント? なんか、嫌な予感がする。 「まずはアヤカさんに。これをどうぞ」 スズキはそう言うと、私に袋を差し出した。 「あれ、……これって」 漫画だ。しかも、ちょうど読みたかったやつ……!! 「あ、ありがとうございます」 なんだ、いいことするじゃん、スズキ。 「カケルさんにも」 カケルは、恐る恐るスズキから袋を受け取った。でも、中を見ると、カケルは目を輝かせた。 「あっ! プラモ!」 そう言って彼は袋の中に手を突っ込んだ。そうか、カケルはプラモデルが欲しかったんだ。 次の瞬間、私は目を疑った。 プラモと言いながらカケルが袋から取り出したのは、まぎれもなく、拳銃だった。 「……え?」 カケルはさも当たり前のように、自然な動きで安全装置を外し、その銃口を自分の頭に向けた。私は呆気にとられてそれを見ていた。え? 本物? 「――っ!!」 スミカがカウンター越しにカケルの手を掴んだ。 ズドン!! 凄まじい爆音がした。私は衝撃でカウンターの椅子から滑り落ちた。 急いでカケルの方を見ると、銃口はスミカのお陰で逸れたようで、カケルは無事だった。かわりにカフェの壁に穴が開いている。 本物だったんだ……。 カケルは青ざめた顔で、拳銃を見つめていた。 「えっ? なんだ……これ? さっきまで、プラモ、持ってたはずじゃ」 スミカはスズキを睨んだ。 もしかして、今のもスズキの仕業なの? じゃあ……私に渡された漫画って……。 私は袋の中から漫画を取り出してみた。何の変哲もない漫画に見える。開いても、普通? ……いや、よく見ると、2ページ目から内容がおかしくなっている。登場人物がみんな、触手をもった謎の生物に、次々と襲われている。 私は恐る恐る、次のページを見た。私が大好きな、この漫画の主人公は、四肢をもがれ、頭からその生物に喰われていた。 「いやっ!!」 私は漫画を放り出した。すると、漫画は内容に出てきた触手生物に変わった。 「いやぁーー!!」 私はあわてて生物から後ずさった。でも、カケルはキョトンとしている。カケルには、見えてない!? 私が泣き叫んでいると、スミカは、店の奥からフライパンを取り出して、スズキの頭めがけて投げた。しかし、スズキは軽やかにそれをかわした。ガタンと、フライパンが壁に当たる。 「あっ!!」 私がそのフライパンに気を取られて触手から目を離し、もう一度触手の方を見た時には、触手は消えていた。 「なに……何なの?」 「くくく……、アッハッハ!!」 スズキは堪えきれないというように笑い出した。 「いやあ、来たばかりの人たちはまんまと引っ掛かりますね。スミカさんから聞いたでしょう。ここはあなた方のいた世界とは別なんですよ? 漫画や、プラモデルが手に入れられると、思いましたか?」 「そんな……」 それって、もう漫画は読めないってこと? 私は気づいた。このままでは、漫画を読むことができないどころか、高校も通えないし、密かに見ていた『漫画家になる』という夢も決して叶わないということに。 「出して……ここから、出して!!」 私は口調をあらげてスズキに詰め寄った。そう、私を言いくるめてこんなところに連れてきたスズキが悪いんだ。 スズキは私に詰め寄られてもまったく動じず、私の顎を黒い手袋をした右手でスッと掴むと、言った。 「アヤカさん。あなたは可笑しなことを言う方ですね」 「あなた方は今、望んでここにいるんですよ」 「あなた方が現実から逃げ、イケブクロに救いを求める限り、この場所からは出られない」 「自分にも勝てないようじゃ、永遠にここから出ることはできません」 「アヤカを離せ!!」固まっている私を助けるように、カケルが叫んだ。 するとスズキはパッと私を離し、カケルの方を向いた。 「カケルさんはアヤカさんとは違うかもしれませんね。あるいは、私を倒すことができるかもしれません」 スズキがカケルの頭をポンポンと叩いたので、カケルはすばやく飛び退いた。 スミカはカウンターから出ると、スズキを思い切り平手打ちした。パン!! と痛そうな音が響き、私は首をすくめた。 しかし、スズキはむしろ嬉しそうにスミカを見た。 「……これはこれは、手加減されたものですね」 「出ていけ!!」スミカは動くようになった口で再度叫んだ。 「言われなくとも、そろそろお暇しますよ。他の方の所にも行かないといけないもので」 そう言うと、スズキはあっさりと踵を返し、扉を開けて出ていった。 「あっ!!」スミカが突然、声をあげてカケルの目をふさいだ。 しかし私の目はふさがれていなかったため、私はその後に起こったことをはっきりと目にすることになった。 扉から出ると、スズキはふたたびスミカが「アラン」と呼んでいた白人の姿に変わった。 アランはこちらににっこり笑いかけ、次の瞬間――トラックに轢かれた。 「えっ!?」 ギギギギギ!! という大きな音と共に、扉の窓にビシャッと血が大量についた。 私はすぐに扉に駆け寄った。 意を決して震える手で扉を開けようとしたが、スミカに「開けるな!」と止められた。 「開けちゃダメだ。今そこには……死体がある」 私は無言で、扉から離れた。 スミカはカケルの目から手を離し、疲れたようにカウンターの椅子に座り込んだ。カケルは扉を見て「あれ、血!?」と驚いたが、それよりスミカが心配なようで、彼女の方を伺った。 スミカは手で顔を覆い、静かにすすり泣き始めた。 【第7章 スミカの絶望】 私はまださっきの出来事に困惑していたが、それはともかくスミカを慰めないといけないと思った。 「スミカ……」 私は彼女の背をさすった。 カケルはちょっとの間オロオロとした後、ぎこちなくスミカの頭を撫でた。 スミカはしばらく、はらはらと涙を溢していたが、次第に落ち着いていった。 「……すまない、2人とも。ありがとう」 スミカは大きく深呼吸した。 すると、カランと音がして、扉からミヨシさんが入ってきた。いつの間にか、扉にあった血は消えていた。 ミヨシさんはスミカの泣き腫らした顔を見て、目に見えて狼狽した。そして無言のままあわてて側に駆け寄り、彼女の手を握った。 「……スズキの野郎が、来たんですね。私の方にも現れたんで、スミカさんの所にも、来てると思った」 「ああ……」スミカは力なく呟いた。 そして彼女は、このイケブクロにやってきた理由を、たどたどしく語ってくれた。 スミカは以前、現実世界でも、この「SUMICA」というカフェandバーを経営していたらしい。彼女は幼い頃から料理人を目指していた。彼女は順調に調理学校を出て調理師免許を取り、海外に留学した。留学先はフランスだった。 そこで、彼女はアランに出会った。 彼は留学先の店舗で見習いをしていた。快活で、とても優しい人柄だった。それに、見た目もスミカの好みだった。ブロンドの髪に、深い緑の瞳、優しく垂れた眉。スミカは抗いようもなく、アランに惹かれていった。アランも、スミカに好意を示してくれた。 スミカはその頃、自分のジェンダーに対して不安を抱えていた。彼女はバイで、しかもけっこうレズ寄りだった。彼女は基本的には女性と付き合うことが多く(それはその時代においてはかなり珍しいことだった)、そのことに特に不足を感じてもいなかった。そのため、アランに恋心を抱いたことは彼女にとっては意外なことだった。 でも最終的に、スミカはアランに恋心を打ち明け、彼はそれを喜んで受け入れた。アランはスミカのジェンダーに関する不安を適切に受け止め、そのことで彼女に偏見を持つことも、不満を持つこともなかった。 アランはスミカに惜しみなく愛を与えてくれた。もちろん、スミカもアランをとても深く愛していた。それは愛なんて一言では言い表せないくらい、魂の深いところでのつながりだったのだ。 5年後、彼女はアランと一緒に日本に戻り、この「SUMICA」を立ち上げ、営業を開始した。その時には、2人の薬指にはお揃いの結婚指輪があった。 2人は幸福の絶頂にあった――20年前、スミカが30歳になった年の、9月までは。 その日、アランは病院に健康診断に行く予定だった。彼はいつものように朝食を取り、スミカの頬にキスをして、カフェの扉を出た。 そしてその直後、トラックに轢かれた。 スミカは一部始終を目撃した。悲鳴を上げてカフェの扉を開けた彼女が見たのは、まだ笑顔の名残のある、アランの死体だった。 運転手はすぐに警察と救急車を呼んだ。でも、もう助からないことは誰の目にも明らかだった。アランの緑の瞳はもう何も映していなかった。スミカを、映していなかった。 あれよあれよと警察に連れられ、事情聴取を受け、病院に行き、医師から死亡診断書を受け取って、茫然自失のままスミカはカフェに戻った。彼女の脳裏には、アランの何も映さない瞳が、彼の顔にへばりついた笑顔の名残が、次々に浮かんだ。 スミカは、深い混乱と絶望に陥った。 もう、アランはいない。どうしよう。彼のいない世界なんて、スミカには受け入れがたかった。 スミカは心の底から願った。嘘でもいいから、アランが戻ってくることを。 そしてそれは最悪の形で叶った。 彼女は目を疑った。カフェの窓に、アランがいたのだ。 「アラン……!?」 驚いて扉を開けたスミカの目に映ったのは、今と全く変わらないスズキの姿だった。 「こんにちは、スミカさん」 スズキは彼女に一礼した。 「アランさんのいないこの世界から、出ていきたくはないですか?」 そうして、スミカはこのカフェごとイケブクロに移動してきた。 その時の彼女にとっては、アランのいない世界になんか、意味はなかった。スミカは外の世界への興味を一切無くしていた。それほどまでに絶望していた。彼女の一部は、もう戻らないほどに、決定的に損なわれてしまっていた。 だから、スミカはスズキの提案を迷いなく呑んだ。 スミカの時間はその時に止まったのだ。 彼女は話の途中で淹れたコーヒーをすすった。 「後悔はしてないよ。あれ以上外にいても、遅かれ早かれ私は壊れてしまって、命を絶っていただろうから。」 「ここにいる人たちは、少しずつ時間をかけて、私の傷を癒してくれたから、感謝してる」 でも、と私は思った。さっきのスミカの反応を見るに、完全に癒えてはいないんだろう。いや、そういった傷は永遠に癒えたりはしないものなのかもしれない。 そしてスズキは、20年経った今も、さっきみたいにして彼女を傷つけ続けているんだ。 スミカの絶望を、私が推し量ることは到底できない。それでも、さっきの事故の『再現』を見ただけでも、その衝撃がとんでもなく大きいことは分かる。 私はやりきれない気持ちを感じて、ため息をついた。それは今まで感じたことのない種類の感情だった。何か大切なものが、汚されてはいけないものが、修復不可能になるまでぐちゃぐちゃにされてしまう所を、ただ見ていることしかできないような。 スミカは幸せだった。その幸せは、ずっと続くべきものだったのに。 現実は彼女に、永遠の絶望を与えてしまったのだ。 【第8章 可能性と選択肢】 昼になり、私とカケルは軽食を取った。昼ごはんはスミカを手伝って一緒に作ったサンドイッチ。粒マスタードの風味がよく利いている。スミカとミヨシさんは何も食べなかった。 「……」 食べながら、私は沈黙した。スミカは本当は、20年前の人間だ。20年前、私はまだ生まれていない。つまり、共通する話題が、見つからない。困った。 スミカが20年前にここに来たのだとしたら、肉親は今どうしているのだろう。それに彼女は、もしここから出たらどうなるのだろう。浦島太郎みたいに、一気に20年分老いたりするのだろうか。 サンドイッチはとても美味しいのに、食も進まない。スミカの言うように、私もだんだん食べ物がいらない体になっているんだ。…ちょっと怖いな。 私はミヨシさんをチラリと見た。ミヨシさんは少し前まではスミカを心配そうに見ていたが、今は普通にジンジャーエールを飲んでいた。 ミヨシさんはいつからここにいるのだろう?聞いてみたい気もするが、私はあまりその話に触れたくなかった。スミカの話みたいに、重い内容だったら、ミヨシさんにとっては地雷の話題かもしれないし。 カケルは早々にサンドイッチを食べ終え、今は店内に置いてある雑誌なんかを物珍しそうにパラパラとめくっている。 私はスミカに「あの」と声をかけた。 「なんだい?」 「手伝うこと、ありませんか? ここに置いてもらってる身ですし、できることあれば、手伝いますよ」 彼女は「うーん」と視線を宙にさ迷わせた。 「そうだね、外を散策してもいいかと思ってたんだけど……まだスズキがいるかもしれないから、今日は外に出るのはやめておいた方がいいだろう」 私は頷いた。今日はもう二度とスズキに会いたくはない。 「そしたらアヤカには、2階の倉庫になってる部屋を片付けてもらおうかな。あそこはずっと、放ったらかしになってたんだ」 「一応、必要なものは段ボールに分けられてるから、それ以外の雑多なものを袋に入れといてもらえれば嬉しい。缶・ビンは一応分けといて」 「わかりました!!」 私は袋を受け取ると、意気込んで2階に上がった。ただ暇をもてあましているよりはマシだ。時間があると、ろくなことを考えそうにない。 「うわ」 異常なほど埃っぽい空気。十数年はそのまま、なんて物もあるかもしれない。部屋には段ボールが12個と、奥にキャスター付きの木造の棚があった。加えて、棚の隣にある円形の窓にかぶさるように、枯れた植木鉢が一つ、天井からぶらさがっていた。植木鉢にはかつて生えていたのであろう細い葉の植物の名残があり、触るとパリパリと音を立てて粉々になっていった。 私は言われた通り、段ボールの周りに散らばっているゴミを無心に片付け始めた。短くなった鉛筆。紐が切れたサンダル。缶、ビン。積まれてる雑誌は、後で紐で縛ろう。 しばらく手を動かしていると、埃まみれのループタイが目に入り、私は手を止めた。金具にあしらわれた鮮やかな緑の宝石に、ヒビが1本、走っている。スミカがループタイをしている所は見ていないし、これは多分男物だ。もしかしたら、アランの物かもしれない。 私はループタイをとりあえず棚の上の方に置くことにした。棚にはアランとスミカの写真が入った写真立てや、料理に関する本なんかがあったが、一番上の段には30センチくらいのスペースが空いていた。 体を起こして棚の方を向くと、窓から西日が目に入った。あれから結構時間が経ったようだ。私はまた、お母さんのことを考えた。あと、友達のこと。確か今日は平日のはず。歴史の小テスト、あったかもしれない。 まだここに来て1日しか経ってないのに、みんな、私のことを忘れてしまったのかな。このまま、誰にも思い出されないでずっと暮らすの? 目眩がした。 『ここはそう、永遠の夏休みのような所なんだ』 その通り。終わらない夏休み。それは自由のように見えて最も不自由なものだ。限られた期間に与えられる無限の可能性があってこそ、人間は自由を満喫できる。ここには時間はいくらでもあるけれど、可能性は閉じられている。意味のない時間だ。 でも、スミカにはそういった時間がどうしても必要だったんだろう。 ――私には? そして、カケルには? 「アヤカ、大丈夫かい?」 突然声をかけられて、私はびくっとした。 スミカが扉の前に立っている。 「すいません、ちょっと……考え事してて。」 「そうか」 「これ……アランさんのですか?」 彼女はループタイを受け取ると、目を細めた。 「ああ。アランの瞳と同じ色の……彼の誕生日に私が贈る、予定だった」 「あの時の私は、今思うと荒んでいたんだな。思い出したよ。そこに叩きつけたんだった」 スミカは扉の少し左の壁を指した。そうか、それでヒビが入ってたんだ。 彼女はループタイをエプロンのポケットにしまった。 そして、ふと私の目を見た。 「アヤカ。実はここに子供が来るのは、私が見ている中では珍しかった。でも最近は、君たちみたいな子が増えてる」 「そうなんですか……」 「こんなことは、私には言う資格もないかもしれないが……帰るなら、早く決めた方がいい」 私は目を見開いた。 「私は、人生の様々な側面を体験しないまま、ここに来る人が心配になるんだ。私は、ここに来たことを後悔してないし、ここに来るまでも人生をそれなりに楽しんで生きていた。でも、そうじゃない人もここには来る。中にはここに来るまで、人生の素晴らしい面を体験できなかったどころか、想像すらできなかった人もね」 私はカケルのことを思った。カケルは、きっと、まだ修学旅行も行ったことがない。 「そういう人たちにとって、ここにいることは、果たして幸せなんだろうか。私は、違うと思うんだ。彼らは外の世界では生きるのが難しかったのかもしれない。それでも、私は彼らには外の世界で幸せを見つけることができると思う」 「ここから出た人がいるのか、確かには知らないんだけど……君たちにはまだ、選択肢はあるんじゃないかな」 スミカは私から視線を外し、遠い目をした。 「私は自分に選択肢があるかどうかに興味が無かった。だから、今も出ようとすれば出られるのか、それとも私はもう既に選択肢を失っているのか、それはわからない」 「でも、本来の寿命を超えてこちらに留まっている人もいる。そういう人には、選択肢はないらしい。スズキの話だから、当てにはならないが」 「……」 「時間はある。けど、ここにいるとだんだん帰るのが億劫になってくる。その期間が長いほど、外の世界との繋がりは希薄になる。それは……なんとなく感じるんだ。だから、よく考えてみてくれ」 「……はい」 私は今も、帰りたくない。でも、永遠に帰りたくない訳じゃない。一時的なものだと、思ったからこそ、あのバスに居続けたのだ。 お母さんにだって、二度と会えなくなることを望んでた訳じゃない。こんなことになるなんて、思ってなかった。 スミカが去り、ほぼ同時に日が完全に落ちた。 私は残された部屋で一人、唇を噛んだ。 【第9章 お前のいたところを俺は知らないけど】 その後、私はスミカが沸かしてくれたお風呂に入ることになった。私は一番風呂を遠慮したが、彼女が「片付けで汚れてるでしょ」と私に一番を譲ってくれた。カケルはお風呂自体があまり好きじゃないようで、「あとでいい」とふてくされたように言った。 「後で、ちゃんと入るんだよ?」と私は念押しした。カケルも明らかに『清潔感に欠けて』いる。 「しょうがねえな……おれ最後な」カケルはスズキの置き土産の拳銃を見ながら言った。あれ、まだ持ってたんだ……危ないな。私はそう思ったけど、何も 言わなかった。なんだか、疲労がどっと押し寄せてきた。 私は重たい気分のまま、一階の奥にあるお風呂場に入った。ここのお風呂はシックなランタン型の間接照明が2つあるだけで、少し薄暗い。でも、落ち着ける空間だった。 私は風呂に浸かる前に、まず頭をシャンプーとリンスで洗い、次に体を石鹸ですみずみまで洗い、最後にしっかりと顔を洗った。そして、なみなみとお湯が満たされた風呂にゆっくり身を沈めた。 身体はさっぱりしたはずなのに、私の気持ちはぜんぜん晴れなかった。 スミカの言葉が、頭の中でこだまする。 『帰るなら、早く帰ったほうがいい』 『私は、人生の様々な側面を体験しないまま、ここに来る人が心配になるんだ』 そんなの、他人事だから言えるんだ。 そりゃ、スミカからしたら他人事だろうけど。でも、あんな言い方って。まるで、私がうじうじしてるからダメみたいな。そんな気持ちになってしまう。 カケルもカケルだ。どんな時もすかさず人に突っかかって、トラブルになって。私がなんで、毎回間に立たないといけないんだ。だんだんイライラしてきて、私はばしゃんと水面を叩き、水滴のついた間接照明を睨んだ。 まだ、帰りたくない。それに帰ろうにも、方法は誰も知らないんでしょ。だったら、私はどうすればいいんだよ。誰か教えてよ。 ここにいることが、幸せじゃない? だったら、ここに来なければよかった? ここに来ないで、漫画を捨てて、漫画家になることも、諦めればそれでよかったの? 唐突に、涙がこぼれた。 「っう、――ひっ」 膝を抱えてうずくまる。涙は後から後から、堰を切ったように溢れだした。私はできるだけ声を殺しながら、慟哭した。 「うぅ、ひっ、ううぅ……ひっ、ぐすっ」 人生の様々な側面。 スミカの言うことは正しい。そんなことは分かってる。私も、今のまま、ここにいることは間違ってると思う。カケルだって、まだまだ、未来があるはずだったのに。 だけど、彼女は私達のことを何も分かってない。 私達はどうすればよかったの? カケルは、捨てられて、外の世界で、どうすればよかったって言うの。私は、外の世界で、不機嫌なお母さんに対して、何をすればよかったんだよ。 どうしようもなかった。 そう、どうしようもなかったんだ。誰も私達を助けてはくれなかったから。 ここに来なかったら、カケルは、外で誰にも守られることなく、捨てられたまま。もし運が悪ければ、のたれ死んでいたかもしれない。 そして私は、あの家でお母さんの言いなりのまま。お父さんだって、先生だって、結局はお母さんの味方をするだけ。 それなら、外へ出たって、これから、どうすればいいの? 辛いよ。苦しいよ……。 涙が止まるまで、長い時間がかかった。ぐすぐすと鼻を鳴らしながら、やっとのことでお風呂から上がって体を拭き、着替えた。急いでカウンターにいるスミカのところへ行き、短く上がったと声をかけると、私は彼女の顔を見ずにすぐ2階に上がった。 2階の部屋でしばらく休み、ある程度落ち着いてから1階に降りると、スミカはおらず(風呂に行ったに違いない)、ミヨシさんもいなくなっていた。カフェには入れ替わるようにナガシマさんがやって来ていて、入り口近くでタバコをふかしていた。今日はギターケースみたいなものを足元に置いている。 こっちを見たナガシマさんと目が合ったので、私はおずおずと挨拶した。 「あっ、ナガシマさん……こんばんは」 「こんばんは、アヤカちゃん」 ナガシマさんは挨拶すると、灰皿にタバコを押し付けた。 「あ……おかまいなく」 「いやいや! アヤカちゃんの、綺麗な肺を副流煙で汚すわけにはいかないって」 ナガシマさんはそう言って、にっと笑った後、急に眉をひそめた。 「なあ、おたくにもスズキが来たんだって?酷いこと、されなかったか?」 「はい、来ました……私はまあ、なんとか大丈夫です。でも、カケルはあともう少しで死ぬ所で」 カケルは自分が話題に上がったのに気付き、こっちに顔を向けた。 「そりゃ酷い!! まったくスズキ、あの悪逆非道のバケモンが」 ナガシマさんは苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。この分だとナガシマさんも、何かされたんだろうな。 「スズキは、よく来るんですか」 「まあ、多くて週一ってとこかね。でも新入りが来る時には、一緒に現れることが多いな。あんたらが来たのは昨日だって言うから、今回は来ないと思って油断してたら、次の日に来るもんなあ」 「なんか、すいません……」 「イヤ! 悪いのはアヤカちゃんじゃねぇよ。気にすんな」 ナガシマさん、いい人なんだな。ちょっと偏見があったかも。 私は気になっていた事を聞いた。 「……あの、ミヨシさんや、スミカとはいつ知り合ったんですか」 「ああ――、俺が来たのは割りと最近つうか、3年前なんだ。俺が来たときにはもう既に、スミカの姉ちゃんも、ミヨシさんもこっちにいたよ」 「あ、そうなんですね……」 「俺はな、確か前も言ったが、しがないシンガーソングライターだったんだ。それまでさんざん貧乏くじばかり引いてた人生、一発逆転してやると大見得切って上京したんだが、現実はそう甘くなかった。 路上で歌ってホームレス同然みたいな生活をしばらく続けた後、なんとか転がりこんだ零細事務所で、動画編集とかの副業もやりつつ細々と活動してたんだが、ついに事務所も潰れっちまってなあ」 「はあ」 「大見得切った手前、情けなくて親んとこにも戻れねえ。行くところがなくなった俺を、美辞麗句をまくしたててここにスカウトしてきやがったのが、スズキっつうわけよ」 「な、なるほど……」 「それからはスズキのやつに時たまバカにされながら、ここをフラフラしてたんだが、ふと立ち寄ったこのカフェが気に入ったもんだから、よくスミカに飯食わせてもらってんだ。俺の下手くそな歌じゃ礼にもなんねえけどな!!」 がっはっは、と笑うナガシマさんに、自分も笑っていいものか分からず、私はひきつった笑みを浮かべた。 ナガシマさんはその後も、シンガーソングライターだった時の苦労話や、上京する前どれだけ貧乏だったかとか、勉強がとことんできなかったことなど、ありとあらゆる話をしてきた。 私は途中でうんざりしつつも、適当に相づちを打った。 自分語り長いって、こういうことかあ……。 ナガシマさんはふと私の冷めた目に気づいたのか、私の方に話を振ってきた。 「どうだ、アヤカちゃんは。ここの暮らし、……まだ慣れねえよな。昨日の今日だしな」 「そうですね……。でも、スミカに良くしてもらってるんで」 「スミカは優しいよなぁ。あんな美人なのに、可哀想な姉ちゃんだ。スミカの昔のことについては、聞いたか?」 「あ、はい……。ここにスズキが来た後に、おおむねは聞きました」 ナガシマさんはしかめ面をした。 「スズキのやつ、いっつもここに嫌がらせしてきやがる。やつがスミカにすることは、いつも、なんつうか、エグいよなぁ……。アヤカちゃんとカケルには、嫌なもん見せちまったな」 「いえ……」 私はもう1つ、気になっていた事を聞いてみることにした。 「ナガシマさんは、ここから出る方法って、知ってますか?」 ナガシマさんはうーんと唸った。 「それが、知らねえんだ。俺が人づてに聞いた話では、出る方法はあるらしいんだが……。その話では、スズキのやつを俺らが倒さないと、道は開けないらしい」 「スズキを、倒す……ですか」 聞いただけでも、できそうにない話だ。 「そんなこと、できるんですか?」 「イヤ、俺は無理だと思うね。別のやつに聞いた話だと、この『イケブクロ』自体が、スズキによって作られたっつーことらしいし。そんなやつに、俺らがどうこうできるとは到底思えねえな」 「そう、ですよね……」私はがっかりした。 「……まあ、他にも方法はあるかもしれないし、気ぃ落とさんでくれ。俺にできることがあったら、何でも言ってくれな」 「ありがとうございます……」 沈黙が場に流れた。ナガシマさんはカケルの方を向くと、カウンターに座っているカケルの近くまで行き、おもむろにカケルから拳銃を取り上げた。 「あっ!! おっさん、何すんだ。返せよ!!」 「ダメだ。これは子供が持っていいもんじゃねえ。あとおっさんじゃなくて、ナガシマな」 「これはスズキが俺にくれたんだぞ、ナガシマ」 「だからダメなんだ。お前、それのせいで死にかけたんじゃねーのか?」 「……」 カケルは黙って、壁の穴に顎をしゃくった。 それだけじゃ通じないだろうと思い、私が補足説明をする。 「カケルが、『プラモだ!!』って言ってその拳銃を持った後、自分に向けて撃ったんです。でも、スミカがカケルの手を掴んで軌道をそらしたんで、そこに弾丸が当たったんです」 「……なるほどな」 ナガシマさんはこの説明でも大体の事情が分かったようだ。こういうことをスズキはよくしているのかもしれない。 「あん時はプラモだったんだって! 信じてくれよ! くそっ」 私はそこでなんとなく、カケルが拳銃に執着する理由がわかった。カケルはプラモがもらえると一度は思ったのに、それを裏切られたから、諦めきれないんだろう。 カケルは抗議しようとしたが、そこでスミカが風呂から上がってきて、カケルをなんとか風呂に引っ張っていった。カケルは恨みがましい目でナガシマさんを見たが、命を救われたこともある手前スミカには逆らえないらしく、そのまま風呂に消えた。奥からぎゃーぎゃーと騒ぐ声が聞こえる。 「触るな、離せ! 1人で入れるって」 「1人で大丈夫かい?」 「大丈夫だから! 俺を何歳だと思ってるんだ、じゅーいちだぞ、11!」 「そうか……ちゃんと、耳の中まで洗うんだよ」 「えっ、耳って洗うもんだったのか?」 「……やっぱり一緒に入るかい?」 「やめろ!! 入ってくんな、クソババア!!」 「あれま、ひどいねー。カケル、反抗期なのかもな。あるよなー、何でもかんでも反抗したくなる時期って」 ナガシマさんはミヨシさんと違って、カケルが暴言を吐いても特に気にしてはいないようだ。ナガシマさんはお風呂場の喧騒に興味を失くしたようで、私に向き直った。 「アヤカちゃん、家出したんだっけ。アヤカちゃんも、反抗期みたいなやつかい?」 「反抗期っていうか、なんというか……。親と、ちょっと合わなくて」 「なるほどなー。分かるよ。俺も特に親父とはとことんウマが合わなかったからな。親父と殴り合いのケンカとか、しょっちゅうだったぜ。家を飛び出して、友達んとこ泊まり歩いたり、車中泊したりしてよ。まあ結局、上京する時に縁を切っちまったしな」 うへえ。私は首をすくめた。そんなことは想像もしたくない。私がお母さんに手を上げて、友達の家に行ったりしたら、結末は目に見えている。お母さんは私を徹底的に問い詰めて、私が非を認めるまで絶対に手を緩めないだろう。そのためなら、警察にだって、教師にだって泣きつく。 きっとお母さんとお父さん、それに先生と警察が一緒に友達の家にやってきて、お母さんが泣きじゃくり、私はそこでジ・エンド。友達にお母さんに暴力を振るったことがバレて、友達を失うし、先生にも腫れ物を扱うようにされて、あっという間にクラスで孤立する。 場合によってはニュースにも載って、将来への希望だって無くなるんだ。そして『最近は優等生が突然暴力を振るったり、そんな事件が増えてますよね。こういった問題をどうお考えですか』とかそんな言葉がテレビから流れて―― 私はそんなことになれば、さっさと首でも吊るだろう。 「どうした?」 「あ、いえ……なんでも」 嫌なことを想像しちゃったなと、私は思った。 「それで、どういう所が合わなかったんだ?」 突っ込まれたので、私は仕方なく、今までのことを話し始めた。母親と性格が合わないこと。母親から色々な制限を受けていて、本当はそれが嫌なのに、うまくそれを言えないこと。母親の機嫌が悪くなると、家族の空気がすごく悪くなること。実は将来は漫画家になりたいけど、とてもそれを言えないし、応援してくれそうもないこと。 最初はしぶしぶだったはずなのに、話し始めると、止まらなかった。 途中、言葉が詰まったりもしたが、ナガシマさんは思ったより優しく、うんうんと聞いてくれた。ナガシマさんからは、一笑に付されるかと、思っていたのに。 気がつくと、スミカもやってきて、夕飯を作りながら、私の話を聞いていた。パチパチと揚げ物油が跳ねる音が、静かなカフェの店内に時おり響いた。 ひとしきり話し終わり、私はまた、涙が出てくるのを感じた。 「私は、お母さんにひどいことをしちゃった。黙って出ていくなんて、ひどいよね」 「でも、私、どうすればいいか、分からなかった……ぅ、ひっく」 ナガシマさんはポンポンと私の頭を撫でた。 「……辛かったな。俺には、アヤカちゃんの気持ちは、全部は分からねえ。俺だったら、母親の言うことなんて、最初っから聞いてねえし……でも、アヤカちゃんにとっては、そういうことじゃないんだよな」 「でも、俺には、アヤカちゃんが本当はおふくろさんのことをとっても大事に思ってるってことは、十分すぎるほど分かるぜ」 私は、今度は声を抑えずに号泣した。スミカが、側にきて抱きしめてくれた。 「う、うええ~~っ、ひっ、そう、そうなの……そうなのに……ぐすっ、うあぁ」 ナガシマさんはそんな私達を見ながら、床のギターケースから年季の入ったギターを取り出すと、おもむろに弾き語り出した。スミカがはしゃぐ。 「おっ、ナガシマさんの単独ライブ。久しぶりだね」 ナガシマさんはゆったりと、歌い始めた。 ♪お前は とても 遠い場所 から来た お前が いたところを 俺は 知らないけど お前の どうしようもなく優しい所は きっと そこで 出来たんだろう♪ 時々調子の外れるギターから流れる、少し古めかしいメロディ。歌だって、すごく上手いとは言えない。それでも、とても暖かさが伝わる歌声だった。私はそっと目を閉じて、その声に聴き入った。 ♪お前が 時々 つらそうな顔で 泣いてる ことを 俺は 知ってる 俺には お前の 苦しみは 分からない それでも 朝まで お前の 側にいれば 朝めしの 時までには 泣き止むだろう♪ ♪泣き止んだら 明日 遊びにでも 行こう お前の 大好きな 隣駅の レストラン そこで 大きな パフェを 頼もう 食べ終わったら 動物園に 行こう♪ ♪俺は 茨城の すみっこ から来た それはもう 田舎で つまんねえ 所だ 俺の バカなとこや 一本気な所は 多分きっと そこで 出来たんだ♪ ♪でも おかげで 俺は今 お前と こうして 一緒に歌える だから バカでも 一本気でも 俺は ありがとう そう言える 産んでくれて ありがとう そう言える♪ 私とスミカは拍手をした。ナガシマさんが歌ってくれた気持ちを、とても嬉しく思った。また涙が少しこぼれたけど、気持ちは前よりずっと晴れていた。 【第10章 もうやめてソード】 すっかり垢の落ちたカケルが不機嫌そうに風呂から出てきた後、私達は夕飯(豚カツとキャベツの千切り、そして白米とお味噌汁だった)を食べた。今日はスミカとナガシマさんも、一緒に夕飯を食べた。 カケルは豚カツを初めて食べたらしく、食べ始めると機嫌はすぐに直って、幸せそうに豚カツを頬張っていた。ナガシマさんはビールをなみなみと注いだジョッキを楽しそうに傾け、スミカは透き通った赤色のお酒──カンパリというらしい──をオレンジジュースと混ぜて、綺麗な夕焼け色にして飲んでいた。 食べ終わってしばらくすると、またナガシマさんは良い調子で何曲かを歌い始め、私達は身体を揺らしながらそれを聴いた。ここに来てから一番と言えるくらいの、楽しい時間だった。 その後、私とカケルは夜もふけた頃合いに2階へ上がった。ナガシマさんがだいぶ酔ってきて、絡み酒を始めたので、スミカが私たちを避難させたのだ。 私達はしばし無言で寝支度をしていた。ふと、カケルを見ると、カケルは朝に現れたナイフを手に持って、眺めていた。ナイフは光を反射して、キラキラと輝いて見えた。よく切れそうだ。 「スズキのやつ、許せねえ」カケルはぽつりと言った。 「そうだね……スズキをなんとかして、ここから出ないと」 「え、どういうことだ?」 そうだった。カケルはナガシマさんが話してた時はお風呂に入ってたんだったっけ。私はナガシマさんから聞いた話を手短に説明した。スズキを私達で倒さないと、ここからは出られないらしいこと。もしかしたら、この場所自体がスズキによって作られたのかもしれなくて、スズキを倒すことは到底無理そうなこと。 「そうか……分かった。でもな、俺はここから必ず出る。外でもっと、良い暮らしするんだ!!」 私の話を聞いてもなお強気なカケルの言葉に、私も頷いた。 ずっと迷っていたけど、やっぱりここにいちゃダメだ。ナガシマさんに話を聞いてもらって、素敵な曲で励ましてもらったことで、ようやく私にも勇気というものが芽生えてきたようだ。 「私も、帰らなきゃ」 でも、どうやって? スズキを倒せばなんとかなるとしても、倒す方法がわからない。 スズキが人知を超えた力を持っていることは、今までの出来事から確かだ。もし、ナガシマさんが聞いた話が正しくて、このイケブクロを作ったのもスズキだとしたら、その力は桁違いだろう。 「やっぱり、方法がないよね……スズキが言うこと聞いてくれるとは、全然思えないし」 私がそう言うと、カケルはナイフの背を指で撫でながら、思いついたように言った。 「もしかして、これでスズキを倒せるんじゃないか?」 「え? なんで?」 「いや、なんとなく。でも、アニメとかでありがちな展開だろ。主人公サイドに武器が出てきたら、それは敵を倒すためじゃね?」 「うーん」 私は唸った。今の状況ってそんな単純か? というか、カケルってアニメ見るんだ。 でも、あり得るかも。私はスズキが言ったことを思い出していた。 『あなた方は今、望んでここにいるんですよ』 『あなた方が現実から逃げ、イケブクロに救いを求める限り、この場所からは出られない』 『自分にも勝てないようじゃ、永遠に私を倒すことはできません』 つまり、スズキの言うことを信じるならば、ここから出るには私達自身が現実と向き合う必要があるということだろう。自分自身に勝った上で、スズキを倒すことが重要なのだ。 私はカケルのもとにあのナイフが現れたときの状況を、より詳しく思い返した。カケルの言葉が、脳裏に響いた。 『アヤカ…、俺はやつらを許さない、絶対に、』 『やつらが羨むようないい生活して、「ざまあみろ」って言ってやるんだ!!』 カケルはあの時、「自分が捨てられた」という現実を認め、そして現実に立ち向かう覚悟を決めた。今思ってもすごいぞ、カケル。 そこで、私は気づいた。 つまり、カケルはここから出るための条件を一部満たした……? 「そうか!!」 「なんだよ急に」 「ここから出る方法が、分かったかも!!」 「ほんとか!?」 「ちょっと待って……私の考えを確かめるためには……」 「?」 「そうだ、他の人も……」 「おい?」 「はっ、ごめんごめん。えーとね」 私はカケルの声で我に帰り、さっき考えた仮説を頑張って説明した。 「えーと、スズキの話によると、私達が受け入れられない現実から逃げ、イケブクロに救いを求める限り、スズキも倒せないし、ここから出られない、ってことみたいなんだよね。自分自身に、勝たないといけないんだ。 カケルはこのナイフが出てきた時、自分が捨てられたってことを、私に話してくれたよね。その上で『自分が捨てられた』ということを認めて、それに立ち向かうことを決めた。それは、カケルがそれまで受け入れられなくて逃げていた現実を認めて立ち向かうこと、つまり自分に勝つことだったんだよ! つまり、カケルはここから出る条件を、ひとつ満たしたのかもしれない!!」 「な、なるほどな?」 カケルは微妙に私の言うことを理解できていない気がしたが、とりあえずという感じで頷いた。 「カケルのおかげですごいことが分かったかも!! 本当、カケルは強い、すごいよ!!」 「いや……アヤカが、いたからってのもあるし……」 カケルは頭を掻いた。 「でも、本当にこれで、スズキを倒せるのか?」 「それは……分からない。やってみないと……。でも、他の人もさっき言った条件を満たしてみて、武器が現れたら、可能性あると思うな」 「えーと、『現実に立ち向かう』ってことか?」 「そう」 「じゃ、アヤカやってみろよ」 「ぅえ!?」 「『ぅえ!?』じゃなくて。ここから出たいなら、アヤカも条件、満たさないとだろ?」 「そんな簡単に言われましてもぉ」 私は眉を下げた。 そりゃ、カケルにしてみれば簡単なことかもしれない。でも、私にとっては長い間どうすることもできなかった問題だから。 「……不安なんだ。お母さんは、私が言うことを聞くと信じきってるから、その期待を裏切るのが恐いの」 「私が反抗したら、お母さんが、傷つくんじゃないかなって思って」 「それに、私のことも簡単に否定されそうで恐い。私が実は、漫画家になりたいなんて言ったら、なんて言われるか」 「あきらめんなよ!!」 カケルが声を荒げたので、私はビクッとした。 「アヤカ、お前は一生母親に、ニセモノの自分だけ見せるつもりか?そんなん無理だろ」 「……それは」 「大丈夫だって。アヤカの親はアヤカを愛してる。今まで育ててくれたんだから。アヤカがはっきり言って、話し合えば、なんとかなるって! はっきり言わないで、いなくなる方が、多分アヤカの親は傷つくだろ」 「うう……おっしゃる通りです……」 小5に説教される16歳。まったく自分が情けない。カケルは私よりよっぽど大人だ。 そう、わかってた。お母さんの愛情は私に伝わってる。お母さんの行動はやっぱり、私を思ってのこと。でも、それを全部受け入れることはもう無理だって、ちゃんと言葉で伝えないといけない。 今までの私が偽りであったことを伝えるのは恐いけど、それでも。むしろ今まで騙しててごめんって、謝らないと。 「わかった。私もがんばる! とりあえずお母さんに、『漫画禁止はもうやめて!!』って言う」 「そうだ、その意気だ!」 「あと、ゲーム禁止も。それから私服は私に選ばせてほしい。あとライン勝手に見ないでほしい。この子とは付き合うなとか言うのもやめてほしい」 「お、おう」 「やらされてたボランティアももうやめる。私の将来の夢を勝手に弁護士にしないでほしい。あと茶道は正直趣味にしたくない」 「多いな……」 「とにかく全部、『もうやめて』って言うんだ!!」 その瞬間、私の手が光った。 「あっ!」 「アヤカ!」 眩しさに思わず目をつぶり、そして次に目を開くと、私の両手には大きな剣があった。 「やった、私にも来た!!」 「アヤカ、やったな! かっけえ、両刃の剣だ。お前が『もうやめて』って言ったら出たから、『もうやめてソード』な」 「なにそのネーミングセンス。じゃあカケルのは、『ざまあみろナイフ』だね」 「ざまあみろナイフか……改めて言うとダセーな」 「そんなことないよ! 私はカケルの名付け方気に入った」 私達は二人で笑い合った。そう、今や私達はスズキに、そして現実に立ち向かう戦友だった。 もう私は泣かない。泣いたって、何も変わらなかった。でも今、私には武器がある。後は、戦う覚悟を持つだけだ。 【第11章 それぞれの現実】 翌朝、私達はスミカと、例によって店に来たナガシマさん、ミヨシさんを集めて話をした。話したのは私とカケルの武器についてと、脱出方法の仮説だ。カケルの過去も、カケルに了承を得て、今回は隠さずに話すことにした。 スミカと、ナガシマさんはすごく驚いているようだった。ミヨシさんは、話を聞いているうちになぜか険しい顔になった。 「というわけで、その……みんな武器を持って立ち向かえば、スズキをやっつけられるかもしれないって、思うんですけど…」 私の言葉が尻すぼみになる。昨日はあんなに勇気が出たのに、実際に三人を目の前にして話すと、自信がどんどん失われていく。 ナガシマさんは私とカケルを交互に見た。 「二人は、ここから出るって決めたんか?」 「はい」 「うん!」カケルが力強く頷く。 「……そうか。俺も、ちょうど出ようと思ってたところだ」 ナガシマさんがそう言ったので、今度は私たちが驚いた。 「ここはまあ、慣れれば楽しい所だ。だが、今のままここに居たら、俺はどこにも進めねえ。惰性で生きるのも悪かねえけど、俺にはここじゃ達成できない目標があるんだ」 「ナガシマさん……」スミカが言葉を詰まらせた。 「それに、スズキと戦うなら人数が多い方がいいだろ。お前さんらとの出会いはラッキーだよ。子供二人だけじゃ心配だしな」 「ほ、本当ですか」 「ああ。ナガシマさんに二言はねえよ」 私は嬉しくなった。ナガシマさんの笑顔が心強い。 「……スミカは? ここに残るのか?」カケルが訊いた。 「わ、私は……」彼女は戸惑ったような顔をした。 「二人と、ナガシマさんを応援したいとは思うよ。でも、私はあまりに長い時間をここで過ごしてきた。今更現実に戻るなんて、考えたことも無かったよ」 「そう、ですよね……」 私が俯くと、スミカは申し訳なさそうな顔をした。 「力になりたいとは思うけど……すまない」 「いえ、そんな」 私がそう言うと、カケルが私の脛を蹴った。 「痛っ! 何するの、カケル」 「何甘っちょろいこと言ってんだ、アヤカ! 俺たちだけでスズキを倒せるかなんて、分かんないだろ。一人でも戦力を増やさないと、俺たち一生このままだぞ!」 「そんなこと言ったって……行きたくない人を無理に連れていけないよ」 私がそう言うと、カケルは唇を噛んでスミカの方を向いた。 「なあ、スミカ。お前、スズキに散々傷つけられたんだろ。このままコケにされて、黙ってるつもりか?」 スミカは困った顔をした。 「ちょっと、カケル!」 ミヨシさんがこちらを見ているのを感じる。私は前回の二の舞になることを恐れ、必死でカケルを止めた。 しかし、彼は思ったより冷静に言った。 「……カケルさん」 「な、なんだよ」 「君は無責任です」 「は?」 「ここに居る人は皆、事情があってここに辿り着きました。外に出ても、幸せになれるとは限らない。それは、君も例外ではないでしょう」 私はミヨシさんの言葉に息を飲んだ。 「現実には、味方はいない。結局は、自分一人で生きるしかないのです。ここに居るより、ずっと悪い状態になるかもしれない。分かっているのですか?」 「そんなの、分からないだろ。良くなる可能性だってある」 「では、長い時間ここに居る人間が外に出た時どうなるか、知っていますか? その瞬間に何が起こっても、外に出たいですか?」 カケルはしばらく口を開けたまま固まり、それから黙り込んだ。 私も、少し疑問には思っていた。外に出たら、私がここに居た時間はどうなるんだろう? ここに来てから、私の主観ではもう数日が経っている。戻った時、それは現実世界ではいつなんだろう? スミカみたいに長い間ここに居る人は、今の年齢のまま現実に戻れるんだろうか? 「君たちはまだいいです。たぶん、まだ現実世界で生きていくことはできると思います」 ミヨシさんはゆっくりと、私達の頭に浸み込ませるように言った。 「でも、僕はここから出たら、確実に死にます」 【第12章 消えるはずだった命】 痛いくらいの沈黙が、場を支配した。全員の視線が、ミヨシさんに集まる。 「僕は、70年以上前から来た人間です」 「ええっ!?」私とカケルは同時に叫んだ。 「初耳だな」ナガシマさんも驚いていた。 「私も」スミカも目を見張っている。 「これは、ナガシマさんにも、スミカさんにも言っていなかったことですから」 70年前って言ったら、私はもちろんスミカも生まれていない。祖父母だって、まだ幼い頃だろう。 「僕は前の戦争の折、ずっと軍の工場で部品を作っていました。どんどん物資は少なくなるし、納期は厳しくなりました。徴兵で人がどんどん減り、管理が行き届かなくて事故だってしょっちゅう起きました。それでも僕らは働きました。お国のために。それが当然だったのです」 私は不思議な気分でそれを聞いた。まるで日本史の授業を聞いてるみたいだ。 「敗戦の知らせを受けた時、安心しました。もう兵隊にとられることはないから、自分は死ななくて済んだと思いました」 カケルはよく理解していないような表情だった。多分、戦争のことをまだ習っていないんだろうな。 「ですが、現実は非情でした。僕は結核にかかりました」 「けっかく、ってなんだ?」カケルが訊いた。 「肺の病気です。今はどうか知らないですが、当時は不治の病でした」 「……なんてこと」スミカは振り絞るように言った。 「僕は隔離され、少しずつ弱っていきました。最初は親が面倒を見てくれましたが、末期にはホスピスという療養所に移ることになりました」 「その時には、もう死は僕の間近に迫っていました。苦しくて、苦しくて——悪魔に魂を売り渡してもいいと、幾度思ったか知れない」 ミヨシさんは当時を思い出したように、表情を歪めて胸をさすった。 「驚いたことに、死の間際になって悪魔は本当に現れました。彼は、スズキと名乗りました。後は皆と同じようなものだと思います」 私は何も言葉を見つけられなかった。ミヨシさんは、私たちとは全然違う。彼はここに来なかったら、その時点で死んでいたんだ。 「分かりますか。僕は苦しみと死から逃れるためにここに来た。戻っても、僕には苦しみと死しか待っていないんですよ」 「それに、戻れるとしてもあんな暗い時代に戻りたくはありません。今の方がずっとましです。だから僕は、何を言われてもここから出ません」 ミヨシさんはそう言って立ち上がり、外へ続くドアに向かった。ドアを開けて出る前に、彼はこちらを見ずにボソリと呟いた。 「皆さんも、ここに居た方が楽なのではないですか」 扉が閉まった後も、私達は誰も言葉を発せなかった。 しばらく時間が経ってから、スミカが言った。 「……初めて知った事ばかりで、正直私は頭が混乱してる。でも、ミヨシさんの言うことも何となく分かるよ。私も、悲しみから逃げてきたようなものだから」 彼女は儚げな笑みを浮かべた。 「ただ、私はこれからもアヤカとカケルの選択を応援する。君たちの未来は、君たち自身のものだ」 「ありがとう、スミカ」 私はスミカに礼を言った。 カケルもこれ以上は説得しても無駄だと悟ったのか、じっと俯いていた。 【第13章 夢やぶれて】 「よし、それじゃあ俺たちだけで行くか! 二人とも心配すんな、このナガシマさんが居ればスズキなんてちょちょいと一捻りよ」 ナガシマさんは重たい空気を吹き飛ばすように明るい声を出し、私とカケルの肩をガシッと掴んだ。 「そうしたら、俺たち三人で作戦会議するか。スミカ、二階借りてもいいか?」 「どうぞ。疲れたらお茶でも淹れるから、降りてきて」 「了解! さすがスミカ、気が利くな」 私達は階段を上がり、私とカケルが寝ている部屋に入った。大人を中に入れることにカケルが反対しないか私はヒヤヒヤしたが、意外なことに彼は何も言わなかった。 ナガシマさんは床にどっかと胡坐をかいた。私はその隣に腰を下ろす。カケルは少し迷ってから、ナガシマさんと距離を取りつつ私の近くの壁にもたれた。 「いや~驚いたよな。まさか、ミヨシさんが70年前の人間だったとは……」 「そうですね……」 「もしかしたら俺のジイさんよりも年いってるんじゃねえか? 凄いよな、生きた化石っていうやつだ」 ちょっと違うような気がしたが、私は曖昧に微笑んだ。 「おっとっと、話が逸れちまったな。んで、これからどうすんだ?」 そう言われ、私は考えた。 「うーんと……まず、ナガシマさんも武器を出す必要があると思います」 「そうだな」カケルは頷いて、自分のざまあみろナイフを寝床から取り出した。 「カケル、見せていいの?」 私が驚いて言うと、彼は頷いた。 「ああ。だって、これからは一緒に戦うことになるだろ」 「お! それが例の武器ってやつか?」 ナガシマさんは興味深げに身を乗り出し、ナイフをしげしげと見つめた。ナガシマさんがナイフに手を伸ばそうとすると、カケルはさっとナイフを引っ込めた。 「ちょっと触らせてくれよ~、減るもんじゃなし」 「気安く触ろうとすんな! 危ないだろ」 「心配してくれてんのか? カケルは良い奴だな」 「そんなんじゃねーし!」 私は二人の騒がしいやり取りを横目に、自分のもうやめてソードを取り出した。 「私のなら触ってもいいですよ。刃のところは触らないでくださいね」 「おお、アヤカちゃんは太っ腹だな。どれどれ……? ふーん、思ったより重いな」 「そうですよね、私も驚きました」 「あと、持ってると身体がポカポカしてくるな。カイロ機能でもあるのか?」 「暖かいのは確かですけど……理由は分からないです」 「それで、武器を出すにはどうすればいいんだ?」 「ええと、その……自分が逃げていた現実を認め、立ち向かう……ことが必要だと思います」 「何だか難しいな」 ナガシマさんは顎に手を当てて考えた。 「自分が逃げていた現実ねー。すぐには思いつかねえな。俺はややこしい事は考えられねえから、ひたすらがむしゃらに進んでて、気づいたらここに辿り着いたって感じだし。そういう真面目なこと考えるのは元々あんま向いてねぇと思う」 「確かに、かなり抽象的な話ですもんね……」 「二人は武器を出した時、どうやったんだ?」 「えっと……」 私とカケルは武器を出した時の状況を詳しくナガシマさんに説明した。まずカケルが照れくさそうにざまあみろナイフを出した時の私とのやり取りを話し、次に私がもうやめてソードを出した時の話をした。感情移入したナガシマさんが度々泣くせいで、話はなかなか進まなかった。 「そうか……ここに来るまで、二人とも本当に大変だったな」 ナガシマさんは鼻をすすりながら言った。 「話してくれてありがとな。でも……結局どうすればいいのかよく分からねえや」 私はガクッとした。こんなに時間をかけて話したのに……。 「えっと、今ナガシマさんが悩んでることは無いですか?」 「うーん……無い!」 ナガシマさんが即座にそう言ったので、私は頭を抱えそうになった。 「おい! おっさ——ナガシマ、もうちょっと考えろよ」 カケルはまたナガシマさんを『おっさん』と呼びそうになったが、彼がギロリと目線を厳しくしたのを見て素早く方向転換した。 「いや、これでも俺なりにはいつもより考えてんのよ?」 「……そう言えばナガシマさんは、ここでは達成できない目標を持ってる、と言ってましたよね。それはどんな目標なんですか?」 私は気になっていたことを訊いてみた。ここでは達成できない、という部分に引っかかっていたからだ。 「ああ、そりゃあ『メジャーデビュー』だ! 俺はずっとインディーズだから、いつかでっかいホール一杯の観客に俺の曲を聴いてもらうのが昔っからの夢なんだよ」 「なるほど……」 「あー、分かる。テレビとか出てちやほやされてみたいよな」 「お、カケルもそういうタイプか? 弟子にしてやる」 「願い下げだね」 ふと疑問が生まれた。そんなに立派な目標があるのに、ナガシマさんはどうしてここにずっと居たんだろう? 夢を叶えるために現実に向かおうとしているなら、彼は既に武器を手に入れていてもいいはずだ。でも、彼は武器を持っていない。 つまり、彼はまだ自分の逃げている現実を認めていないし、立ち向かってもいないんだ。 「ナガシマさんは、今までここから出ようとは思わなかったんですか?」 「いや、出たいとは思ってた。だが無理だと思ってたんだ、方法もあやふやだったしな」 「……じゃあ、もしここからいつでも出れたとしたら、出ましたか?」 「いつでも出れたとしたら、か……」 ナガシマさんは間をおいてから言った。 「うーん、すぐには出なかったかもな。家無しだったからな……。友達ん家にでも転がり込めれば良かったが、あん時の友達はみんな事務所のヤツだった。事務所が潰れて貧乏暮らしのヤツんとこに押しかけるのは、気が引けてな」 ナガシマさんらしい考え方だな、と私は思った。 「それに、3年前、ここに来て俺は楽になったんだ」 「楽になった?」 「ここでは、『売れること』にこだわる必要が無かったからな。ただ俺が歌いたいように歌えば、皆が耳を傾けてくれた。そうやって俺の曲を聴いてもらえることが、嬉しくてな。ここに来る前は、路上で歌ったって誰も聴きやしねえし、聴いたヤツにも古臭いって言われるばっかりで——」 唐突にナガシマさんは言葉を切り、宙をじっと見つめた。瞳孔がぐっと開いていて、ちょっと怖い。 「ナガシマさん?」 「そうか……分かった」 彼は俯いて、自分の手の平に目を落とした。 「……思い出したよ。俺、歌うの嫌になってたんだ」 【第14章 変わるんだボウ】 「路上ライブでは冷たい目を向けられるし、事務所でも俺の歌はちっとも認められやしねえ。仕事だっていつの間にか動画編集がメインになって……俺はとっくに、夢を諦めてた」 そう言うナガシマさんは、急に萎れて見えた。彼は呟くように言った。 「でも、夢を諦めたってことを、俺は認めたくなかった。ここに来てからも、事あるごとに俺は昔のことばっか話して、諦めてねえフリしてたんだ。……無意識だったよ。情けねえな、俺」 自嘲気味に彼は口元を歪めた。 「でも、東京で一旗揚げるっつって地元を飛び出してきた俺には、その夢しか縋るもんが無くてな。だから、俺はここから出なかった——出ようとしてなかったんだ。現実では、夢ナシで生きていかなきゃならねえ、それは……俺には無理だ」 私は胸を衝かれた思いがした。 私とナガシマさんは対照的なタイプだけど、少しだけ似ているところがあったから。 私が漫画を捨てるのが嫌だったのは、現実で『漫画家になる』という夢を捨てたくなかったからだ。あのまま現実で生きていたら、私がその夢を捨てるのは遠くない未来だと感じていた。きっと、お母さんに諦めるよう説得されたら、最後には捨てただろう。漫画を捨てるのと同じように。 「もちろん、ここに来て色々あった今の私は違うけど!」 「急にどうした、アヤカちゃん?」 「すいません、ただの独り言です」 ナガシマさんは私と逆で、どんな時でも夢をずっと持ち続けていた。でも彼は、厳しい現実の中で、『メジャーデビューする』という夢を持ち続けることが辛くなったんだ。でも、彼はそれを認めたくなかった。自分や周囲を騙してまで、ずっと夢を掲げ続けた。 私もナガシマさんも、ここでは絶対に夢を叶えられない。でもそれは、言い換えれば好きなだけ自由に夢が見られるということ——。 その気持ちは、何となく分かるような気がした。 黙って話を聞いていたカケルが、ふと口を開いた。 「ナガシマは、現実に戻っても歌いたいのか?」 「歌えるもんなら、歌いたいけどな。でも、それで食っていけないなら、結局他のことやるしかねえし……」 「歌いたいなら、歌えばいいんじゃねえの?」 「また古臭いって言われるの、懲り懲りなんだよ……」 カケルは困った顔をした。そして、う~んと唸ってから言った。 「んじゃ、外国行けばいいんじゃね?」 突然話が飛んだので、私はびっくりしてカケルを見た。 「ちょっと、カケル!?」 「だって、日本だから古いって言われるんだろ。だったら外国行けば、流行とか違うかなって」 「それはそうかもしれないけど……突拍子なさすぎない?」 しかし、ナガシマさんは違った。瞳を輝かせながら叫ぶ。 「それ、名案じゃねえか!!」 「「ええ!?!?」」私とカケルが驚いたのは同時だった。 「ギター一本で各国飛び回りながら、実力で成り上がるミュージシャン……いーじゃねえの。やっぱ目指すなら世界だよな!」 「め、メジャーデビューしなくていいんですか……?」 私が恐る恐る訊くと、ナガシマさんはケロッとして言った。 「したいはしたいけどな。まずは世界で名が売れてから、ってのもアリじゃね? そういう生き方、憧れるよな~」 「ええ……」 「それに、俺はここに来て一番大事なことを学んだんだ。俺はただ売れたいわけじゃねえ。お前らみたいな苦労してる奴に、俺の歌で笑顔になってほしいんだよ」 私は、昨夜聴いたばかりのナガシマさんの歌声を思い出した。 そうか、その気持ちが籠っているから、彼の歌は暖かいんだ。 「きっと、ナガシマさんなら、沢山の人を笑顔にできると思います」 私が心からそう言うと、ナガシマさんははにかんで言った。 「……そうか。ありがとな、アヤカちゃん」 「アヤカ、でいいですよ」 カケルが横から口を挟んだ。 「でも、ナガシマは英語しゃべれるのか?」 「どんとうぉーりぃ~、びーはっぴぃ~!」 滅茶苦茶カタカナ英語で言うナガシマさん。これは……前途多難そうだな。 「大丈夫かよ……」 カケルにも流石に何かが違うことが分かったらしく、あきれ顔で呟いていた。 「ま、言葉は何とかなるだろ。要はハートだよハート。とにかく俺は、今日から変わるんだ!」 そう言った瞬間、彼の身体が見覚えのある光に包まれた。 「うわ!?」ナガシマさんは驚いて後ろにひっくり返りそうになった。 「あっ!」私は慌ててナガシマさんを支えた。 「来た!」カケルは嬉しそうに叫んだ。 光が消えると、ナガシマさんの手には強そうなクロスボウが握られていた。彼の身体をよく見ると、革製の矢筒が彼の腰に付けられていた。 「かっけ~!! いいな~、ナガシマの武器」 「すげえ……これが……」 RPGにでも出てきそうな装備に、カケルは目に見えてはしゃいだ。 一方ナガシマさんは言葉を失っているようだ。目を白黒させながら、クロスボウや矢をあちこち触っている。 「ええと、ナガシマが『変わるんだ』って言って出たから……」 「「変わるんだボウ!」」 私とカケルは顔を見合わせて叫んだ。 「なんだそれ?」ナガシマさんはキョトンとしている。 「あ、武器の名前です。出すときに言った言葉を付けてて」 「俺のが『ざまあみろナイフ』で、アヤカのは『もうやめてソード』って言うんだ」 「はー、なるほどな。それで俺のは『変わるんだボウ』か」 「そう言うこと」 ナガシマさんは私達を見て穏やかな顔をした。 「なんだか、本当に変われるような気がしてきたな……。アヤカ、カケル、ありがとな。柄にもなく弱気になってたけど、これでようやく前に進めるよ」 「いえ、私は何も……」 「よっし! 今日から俺の夢は世界一周ライブツアーだ!」 そうぶち上げるナガシマさんを見て、私は苦笑した。本当に極端で、ぶっ飛んでる人だ。 でも、そうやって自分の夢を語っている彼は、今までで一番楽しそうだった。 【第15章 安息のあとに】 いつの間にか昼になっていたので、私達は一階へ行こうと扉を開けた。すると、辺りには美味しそうな匂いが漂っていた。 「お、こりゃ良い。トマトスープかな?」 「さっきまで平気だったのに、急に腹減ってきた」 「私も」 一階にミヨシさんは戻っておらず、カウンターにはスミカ一人だった。彼女は私達を見ると、すぐに昼食を用意し始めた。 「時間があったから、今日は鶏肉のトマト煮にしてみたよ。ナガシマさんも食べる?」 「もちろん! スミカの料理はいつでも絶品だから、飽きが来ないよな」 「もう、おだて上手なんだから。今日は、久々に私も頂こうかな」 ナガシマさんの言う通り、トマト煮はすごく美味しかった。トマトの酸味とジューシーな鶏肉の旨味。温かい料理は、お腹だけでなく心も満たしていくようだ。 スミカの言っていたことが、今なら分かる気がする。イケブクロの中では、身体にとって栄養は必須ではないけれど——心には、栄養が必要なんだ。彼女はデザートに、ブルーベリージャムを乗せたヨーグルトも出してくれた。私達はそれをのんびりと味わった。 その後、私達は思い思いの時間を過ごした。ナガシマさんはスミカに自分の『変わるんだボウ』を見せて自慢していた。カケルは『変わるんだボウ』を触りたいようで、ナガシマさんの周りをウロウロしている。私は少し眠くなってきたので、スミカに断って入口近くの長椅子に寝転んだ。 うつらうつらしていると、カランという鈴の音がしたので、私は薄目を開けた。しかし、そこに居たのはミヨシさんだったので、私は慌てて目を閉じた。今話すのはちょっと気まずいと思ったからだ。私は必死に狸寝入りを続けた。 「スミカさん」 ミヨシさんはスミカを呼んだ。 「あ、ミヨシさん……。お昼ご飯、まだ残ってるけど食べるかい?」 「お気持ちはありがたいですが、結構です。それより、少し話したいことがあって……お店の外で話せますか」 「ここじゃ駄目?」 「出来れば、二人だけでお話したいんです」 「……分かった、行くよ。ナガシマさん、店番頼める?」 「おうよ! 行ってら」 ナガシマさんが元気に返事をした。 「じゃあ、行こうか」 「はい」 再び鈴の音が鳴り、二人分の足音が去っていった。ミヨシさんがスミカにどんな話をするのか少し気になったけど、すぐに考えるのを止めた。秘密にしたいことだってあるだろうし。 その後、私の意識は急激に遠のいていった。 「……い! ……カ!」 何か聞こえる。でも、私はまだ睡眠を欲していた。 「……ヤカ! ……ろ!」 うるさいな、寝かせてよ。 「やば……——!」 あれ? もしかして、カケル? 「助けっ……! あああああ!!」 カケルが助けを求める声を認識した瞬間、私は跳び起きた。 「……え?」 そこは、見慣れた自宅の自室のベッドだった。 【第16章 私自身の弱さ】 どういうこと? 私はさっきまで、SUMICAの長椅子で寝てたはずじゃ…… 「なんで?」 周囲を見回す。何の変哲もない、自分の部屋だ。小説や実用書が詰まった壁際の本棚、参考書が並んだ大きな勉強机、ウォークインクローゼット。 私は酷く混乱した。 「そうだ、カケルは!?」 彼の叫び声で目が覚めたことを思い出し、私は慌ててカケルの姿を探した。しかし、どこにも見当たらない。それどころか、ナガシマさんも、スミカも、ミヨシさんもいない。 私は戸惑いながらベッドから降りた。なんとなく手を握ったり開いたりしてみるが、異常は無さそうだ。服装も、変わらず制服のままだった。 「全部夢だった……なんてこと、無いよね?」 家出をする前と全く変わりない部屋の様子を見ていると、まるでイケブクロに居た時間が嘘のように思えてくる。 とりあえず部屋の外に出ようとした時、ドアノブが向こうから回された。 「あっ」 「アヤカちゃん? 起きてたのね」 「お、お母さん!?」 数日ぶりに目にしたお母さんは、イケブクロに行く直前と全く同じだった。 「よかった……」 私は思わず涙が出そうになった。もう二度と会えなかったらどうしようと思っていたから、心から嬉しかった。 お母さんの元に駆け寄ろうとしたけど、その手にあるものを見て、喉奥からひゅっ、という音が漏れた。 「それじゃ、お夕飯の前に、コレを捨てましょうか」 漫画だ。 「雑誌と一緒に縛るから、アヤカちゃんも手伝ってくれる?」 分かってた。家出の直前に戻ったのなら、それはつまり、お母さんは何も変わっていないということ。 変わったのは、私だけ。 「お父さん、こういうのは全然やってくれないのよね。自分の趣味で取ってる雑誌なのに、捨てるのはこっちで、本当嫌になっちゃう」 私はぱくぱくと口を開いたり閉じたりした。うまく声が出ない。実際にお母さんを目の前にすると、ちっとも身体が言うことを聞かないみたいだ。それでも、必死に自分を奮い立たせる。 「何してるの? ほら、こっちに来なさい」 「お、お母さん」 カケルに約束したんだ。『もうやめて』って、言うんだ。早く、言うんだ。言うんだ! 「……やっぱり、漫画、捨てたくない……」 ようやく口にした言葉は、情けなくなるほど酷くかすれていた。 「……は?」 その瞬間、お母さんの表情がすっと消えた。張り詰めた空気が肌を突き刺す。私は震えた声で言い連ねた。お母さんを見ないように、目をぎゅっとつむって。 「私、ね。その漫画、好きなんだ。どうしても、捨てたくないの。漫画読んでも、勉強は、ちゃんとするから……馬鹿になんて、ならないから。だから」 「……」 粘ついた唾液が喉に引っかかる。ごくりとそれを飲み込む音が、やけに大きく響いた。 「もう、やめてほしいの。ゲーム禁止とか、漫画禁止とか、交友関係に口出ししたりとか……。お母さんの理想を、私に押し付けるのは、やめて」 言い切って、私は大きく息をついた。……言えた! 「……」 「お母さん?」 私はそうっと目を開いた。お母さんがやけに静かだ。 「そっか……アヤカちゃんは、そう思ってたの」 お母さんは俯いてそう言った。 「なんてこと。アヤカちゃんは、気づいてなかったのね」 「……何に?」 「これに」 ふと気づくと、お母さんは右手に赤黒い紐を持っていた。 その先を目で追って、私は驚愕した。お母さんの股の間から伸びたその紐が、私のお腹に繋がっている。慌てて服を捲ると、それは私のへそから出ていて、指ぐらいの太さはある血管が走っていた。 「何、これっ!?」 まさか……へその緒!? 私は困惑してお母さんを見た。しかし、お母さんは平然とした顔で言った。 「あなたはいつも、自分で決めることを怖がってたでしょう」 その言葉に、私は足元がぐらりと揺らぐような気がした。 「アヤカちゃんは心配性で、何を決めるにもすご~く時間がかかるのよね。だから、昔からお母さんにしょっちゅう相談してきたじゃない。習い事も、付き合う友達も、一人じゃどうしたらいいか分からないって言うから、お母さんが決めてあげたのに」 「そ……そんな、」 どくり、どくりとへその緒の中で血管が脈打つ。あり得ないくらい太い血管が、私とお母さんの間で血を循環させている。だらりと垂れた赤黒いそれを、お母さんが愛おしそうに撫でた。それを目にすると、言い知れない嫌悪感が込み上げた。 「それにアヤカちゃんは、自分で決めたこともやり通せないじゃない。ホラーゲームやりたいって言ったから買ってあげた時、結局最後までやれなかったの覚えてる? そういう失敗をしないように、お母さんが守ってあげてたのよ」 「ち、ちが」 「違わないわよ。アヤカちゃんは結局、私がいないと何もできないの」 私は頭をがつんと殴られたような衝撃を受けた。 お母さんの言っていることは、間違ってない。 昔から私は、お母さんがいないと何も決めることができなかった。自分一人で何かを決めることが不安で、お母さんが良いと思うことをしていれば安心だって、そう思い込んでいた。 でも、そうやってお母さんに頼っているうちに、いつの間にかお母さんは私が頼む前になんでも決めるようになった。私が決める機会を奪い、私が反発すると機嫌が悪くなるようになった。 だから私は、お母さんの顔色を見て物事を決めるようになった。 「アヤカちゃんは、何も背負うことなんてない」 つまり、この状況を招いたのは。 「私に従っていれば、責任なんて取らなくていいのよ」 私自身の、弱さだ。 【第17章 断ち切るため】 「違うっ!!」 私は力いっぱい叫んだ。 「そんなのは、私の人生じゃない!!」 その瞬間、目の前に虹色の光を纏った『もうやめてソード』が現れた。私はその柄を両手で強く握りしめて、お母さんを真っ直ぐに見た。 お母さんは驚いた表情をして後ずさった。 「アヤカちゃん……!?」 「私は、一人じゃ何にもできなくなんかない!!」 今ようやく分かった。これは、ただの武器じゃない。 「時間がかかっても、自分のことは自分で決める! 間違っても、その責任は自分で取る!」 「やめなさい、アヤカちゃん!」 「それが、自由だああああ!!」 私はもうやめてソードを振り上げ、へその緒目がけて力いっぱい振り下ろした。 お母さんは止めようとするが、間に合わない。 ザクッ! プシャーー! 切断されたへその緒から、大量の鮮血が噴き出す。 「ぎゃあーー!」 その途端、お母さんが悲鳴を上げ、見る見るうちに部屋が崩壊していった。グニャグニャと空間が歪み、お母さんの姿をした何かが空気の抜けた風船のようにしぼんでいく。 「うわ!?」 床が不安定になり、私は宙に放り投げられた。もうやめてソードを握ったまま、私は真っ逆さまに落ちて行った。 「きゃああああ!! 落ちる!!」 視界のはるか先。小さく見えたのは、SUMICAの内装だった。それがぐんぐん目前に迫ってくる。 「あっ!!」 ぶつかる——と思って反射的に目を閉じた瞬間、聞き覚えのある声がした。 「お見事です、アヤカさん」 目を開けると、そこはSUMICAの中だった。そして、顔の数センチ前にはスズキの笑顔があった。 「ひゃあ!」 「おっと」 私が奇声を上げてひっくり返りそうになると、スズキは私の背中を片手で支え、流れるような動作で床に降ろした。その間、私は緊張と恐怖で心臓が止まりそうだった。ただでさえ至近距離の美形は心臓に悪いけど、スズキの場合は存在そのものが心臓に悪い。 「な、なんでここに」 「私は何処にでも居ますよ」 答えになっていないことを言われ、私は反応に困った。 「それにしても、よく自分の部屋から出られましたね。正直、アヤカさんには難しいと思っていました」 「ま、まさか、さっきのって……」 「ええ。もちろん全部、私の仕業です」 「な……!!」 私は言葉を失った。驚愕、憤慨、羞恥、そういった感情が嵐のように巻き起こる。きっと今、私の顔は真っ赤になっているだろう。 「ちょっとした余興ですよ。さっきアヤカさんが会った貴女のお母様は、私です。といっても、無数に存在する私の化身の一人なので、私であって私ではありませんが」 「は、はぁ!?!?」 つまり、さっきのは全部スズキの罠で、あれはお母さんじゃなくてスズキだったってこと……!? というか、無数に存在するって何!? 感情がぐちゃぐちゃになっている所に意味不明なことを言われ、私は情報過多でどうしたらいいのか分からなくなった。 「貴女の記憶領域にアクセスして作ってありましたから、部屋の中も良く出来ていたでしょう? 化身が倒されると仮想空間を維持できないのが玉に瑕ですが……そのくらいのハンデはあげますよ。すぐ壊れてしまっては面白くない」 「私は玩具じゃないんだけど!?」 なんとか精一杯声を荒げる。しかし、スズキは褐色の瞳を細めて微笑んだ。 「そうですね、貴女は単なる玩具ではありません。遊びがいのある、上質の玩具ですよ。ふふ、仮初のお母様を前にした時の貴女の掠れ声といったら……もう少し聴きたかったくらいです」 「気持ち悪っ……」 声に思い切り軽蔑を込めてやったが、彼はどこ吹く風だ。 「ところで、そんなに悠長にしていて良いのですか? 貴女はすぐに出られたので運よく壊れずに済みましたが、他の人もそうとは限らないですよ」 「えっ?」 私はそこでようやく、SUMICAの店内が静かすぎることに気づいた。スズキがSUMICAに来てるんだから、もっと騒ぎが起こっていてもいいはずだ。 「……や、め……」 「……うう……」 そこで私の耳は、天井の方から微かなうめき声を拾った。急いで上を見る。 「あっ!」 店の天井近くに、大きな黒いボールのようなものが二つ浮かんでいる。そして、その中には——。 「カケル! ナガシマさん!」 【幕間 祈り】 「ミヨシさん」 「……」 「どこまで行くんだい?」 「……」 「ちょっと疲れたよ」 「……」 「ミヨシさーん?」 「……スミカさん。ここを、覚えていますか」 「ここ?」 「この、裏路地です」 「えっと……ああ、思い出した。ミヨシさんと初めて会ったところだね」 「……!」 「私がここに来てから、一週間くらいだったかな。散歩に出たら路地に人が倒れていて、すごくびっくりしたよ。なんとかSUMICAまで連れて行って、急いでチャーハン作って食べさせたっけ」 「その節は、ご迷惑をおかけしました」 「別にいいよ。もう昔のことだし」 「僕にとっては、昨日のことのようです」 「そう」 「スミカさん」 「何?」 「お慕いしています」 ▽ 「え……それって、」 「はい。貴女を、愛しています。初めて会ったときから」 「そう、だったのか」 「ええ」 「……そうか。気持ちは嬉しいよ。でも、私は……」 「アランさんのことを忘れられない、ですか」 「ああ。決して忘れることはできないだろう。永遠に」 「そのことは構いません。ですから、ここで僕と共に生きてくれませんか」 「ここで?」 「はい。スミカさん、お願いです。これからもずっと、イケブクロで、僕と一緒に暮らしてくださいませんか」 「……私は元々、ここから出るつもりはないよ。でもね、きっと私はミヨシさんが望むような存在にはなれない」 「どういうことですか」 「そうだな。ミヨシさんの想いにこたえられるものが、もう私には無いから、かな。上手く言えないけど」 「……無い、とは」 「たぶん私は、アランが死んだ日に自分を無くしてしまったんだ。今の私はあの店——SUMICAの部品でしかない。お客さんが来たらねじが巻かれて、お客さんが来なくなったら動かなくなる、ただの人形だ」 「スミカさんは、人形ではありません。一人の女性です」 「本当にそうだろうか。ねえ、ミヨシさんは、最後に眠ったのはいつか覚えているかい?」 「……いえ」 「やっぱり。20年しか居ない私が覚えていないんだから、当前だろうね」 「でも、貴女は笑うし、時々涙を流します」 「そしてミヨシさんは私に恋をしている」 「……」 「ごめん、意地悪なことを言ったね」 「スミカさんは……幸せになりたい、とは思わないのですか」 「幸せ、か。それがどんな感情だったかなんて、とっくに忘れてしまったよ」 ▽ 「納得してくれたかい?」 「……はい」 「すまないね」 「いえ」 「じゃあ、戻ろうか」 「もう少しだけ、歩きませんか」 「え?」 「まだ、一緒に話していたくて」 「まあ、いいけど。思ったよりまっすぐ感情を伝える人なんだね。ミヨシさんは」 「……」 「……」 「スミカさん。一つ聞いてもいいですか」 「いいよ」 「もし、イケブクロを出て現実に戻れたら、スミカさんは何をしますか」 「戻らないって言ったばかりだけど?」 「もしもの話です」 「……実は、一つだけやりたいことがある」 「何ですか?」 「アランの弔いさ。彼が死んだその日にこっちに来たから、アランのお葬式も火葬も納骨も、何一つできていないんだ」 「なるほど」 「お別れを言えないままになっているのが、心残りでね」 ▽ 「もし、アランさんにちゃんとお別れを言えたら……スミカさんはご自分の幸せを思い出せますか」 「それは……分からないな。他にやりたいことも無いし。もう生きている意味がないと思って、すぐに死を選ぶかもしれない」 「そうですか」 「暗い話をしてしまったね」 「大丈夫です。戻りましょう」 「そうしようか」 「スミカさん」 「うん?」 「貴女はもう、現実世界に戻るべきです」 「……どうしてそう思うの?」 「ずっと、貴女が戻ることを願っている人がいるから」 「願っている?」 「今がその時です」 「わからないな」 「貴女にも、すぐに解ります」 【第18章 きっかけ】 「スズキ! 二人に何をしたの」 「アヤカさんにしたことと同じですよ」 「早く、二人を離してよ!」 「精神領域での空間構築は化身に任せていますので、こちらからの制御はできません」 「そんな……」 私は茫然と黒いボールを見つめた。二人をそれぞれ包むボールは半透明で、うにょうにょと生きているかのように動いている。質感はまるで薄いコーヒーゼリーのようだ。 「そうだ、手を掴んで引っ張り出せれば……」 私は靴を脱いでなんとかカウンターによじ登り、上に立って目いっぱい手を伸ばした。中指の先が、微かにカケルの入っているボールに触れる。 「届いた!」 しかし、カケルの身体はボールの真ん中に浮かんでおり、引っ張り出すことは無理そうだ。ボールを押して動かそうにも、ヌルヌルとした感触を指が搔き分けるだけで、全く動く気配がない。 「……どうしよう……」 私は途方に暮れた。でも、二人は固く目を閉じたまま、今も苦しそうなうめき声を上げている。……このまま放っておくわけにはいかない。 その時、私は武器のことを思い出した。 「そうだ、私は『もうやめてソード』が現れたから出られたんだ!」 あの時は、もうやめてソードを使ってへその緒を断ち切ることに、何のためらいも無かった。むしろ、その行動を当然と感じていた。そして、そうすることで結果的には化身を倒してあの空間から脱出できたのだ。 私と同じような状況にあるなら、二人も同じように武器を使えばあの空間から出られるかもしれない。 でも、私はあの空間の中で『もうやめてソード』を最初から持っていたわけじゃない。確か、へその緒を切ろうとしたときに突然現れた、ような気がする。 「何か、きっかけが必要なのかな……」 私が考えていると、ナガシマさんが不思議な手の動きをした。左手でネックを支え、右手の指にピックを挟んで撫で下ろすように……もしかして、ギターを弾くときの動き? 「空間の中で、ギターを弾いてる?」 私は店の隅にあるギターを見た。ギターを取ろうと、カウンターから降りようとした時—— 「きゃあ!!」 ——足を滑らせカウンターから落下した。今度はスズキが助けてくれなかったので、私は強かにお尻を打った。 「いったぁ……」 「ん……? アヤカちゃんか!?」 「ナ、ナガシマさん!?」 慌てて上を見るが、ナガシマさんはボールの中に閉じ込められたままだ。しかし、ナガシマさんは目を閉じたまま口を動かしていた。意識がある! 「聞こえますか!?」 「ああ! どこにいるんだ? アヤカちゃんの声は聞こえるんだが、姿が見えねえ」 「えーと……」 私は今の状況をどう伝えたらいいか分からずうろたえた。とにかく自分が知っていることを大声で説明する。 「そこは、スズキの化身? が作った幻覚なんです!」 「なんだと!? そりゃあ、たまげた。こんなリアルな夢、変だと思ったんだよな~」 「冗談じゃないですからね!? そこに居る人はスズキが化けた姿なので、倒してください!!」 余りにも緊張感のないナガシマさんの声を聞き、私は心配になった。名前を出されたスズキが反応するかと思ったが、彼はただ私達を静観しているだけだった。 「道理で、難癖付けてくる胸糞悪い客ばかりなわけだ。任しとけ!」 ナガシマさんは頷いてグーサインした。私のことが見えていないので、見当違いな方向にしてるけど。 「お前ら、覚悟しろ!! うりゃあ~~~!!」 ナガシマさんが気合いを入れると、カウンターからぴょんと『変わるんだボウ』が空中に飛び上がった。そうか、彼がお昼ご飯の時に自慢してから、ずっとそこに置きっぱなしだったんだ。 変わるんだボウは矢筒を伴い、まっすぐ上に浮かんでいく。ボールの中にざぶんと飛び込むと、ボールの表面に大きな波が立った。そしてナガシマさんの胸元まで達すると、ふっと掻き消えた。 その瞬間、彼はかっと目を見開き、ボールはバシャッ!! と音を立てて弾けた。 【第19章 絶望の果て】 「うおあああ!!!!」 ナガシマさんは真っ逆さまに落下した。助けるヒマもなく、彼が床に激突——すると思いきや、寸前でふわりと宙に浮き無事着地した。さっき、私もああなっていたから大丈夫だったんだな。 「ナガシマさん! 良かった」 「あ、ああ」 「おや、貴方もようやく出られたようですね」 「うわ! スズキ!?」ナガシマさんはスズキを見て仰天した。 「どうでした? 久しぶりの路上ライブは。素敵だったでしょう」 「このクソ野郎! ついでにお前もぶっ殺す!」 ナガシマさんがすごい形相で息巻くが、私は慌ててそれを止めた。 「待ってください! それどころじゃないんです、カケルが!」 「カケルがどうしたんだ?」 「上を見てください!」私は天井を指さした。 「げ、何だアレ!?」 「よく分からないんですけど、スズキがあのボールみたいなのに皆を閉じ込めたみたいで……ナガシマさんも、さっきまでアレに入っていたんですよ。私も多分入っていたんだと思います」 「マジか! アヤカちゃん、よく無事だったな。その、キツくなかったか?」 「精神的にダメージは負いましたけど、まあなんとか……もうやめてソードのおかげで出られました」 「お! アヤカちゃんもか。俺も、変わるんだボウでウザい客撃退したら出られたぜ」 「はは……」 ナガシマさんは私と比べ、随分と過激な手段を取っていたようだ。 「じゃあ、カケルもあの最悪な夢を見ちまってるのか?」 「たぶんそうです」 「ヤバいじゃねえか! 早く助けねえと」 「そうなんですけど、助ける手段が無くて……カウンターの上に乗って手を伸ばしてみたんですけど、カケルに全然届かないし」 「そしたら、二人なら何とかなるんじゃねえか? 俺手足長いし、肩車すれば」 「カウンターの上で肩車するんですか? あんな狭い所で、危ないですよ。私さっき足滑らせてカウンターから落っこちましたし」 「……アヤカちゃん、意外とドジっ子なのな」 「運動神経が悪いだけです」 私達があーだこーだと押し問答していると、カケルの声がした。 「……やめて……やめ……」 私達はハッとして上を見た。カケルが苦悶の表情を浮かべ、目を閉じて胎児のように丸まっている。 「俺頑張るから、全部、ちゃんとやるから、だから」 「邪魔だって言わないで」 「いらないって言わないで」 「産まなきゃ良かったって言わないで」 彼の悲痛な声に、胸が締め付けられた。どんなに酷い幻覚を見ているのか、想像するだけで辛い。 「カケル!! 聞いて、そこにいるのはスズキなの!!」私は必死に、カケルに呼びかけた。 「負けるな、カケル!! 見返してやんだろ!!」ナガシマさんも、声を限りに叫ぶ。 だが、声が届いた様子はなかった。 「ああそうか、何をやっても無駄なんだ」 【第20章 ありがとうシールド】 カケルがそう言った途端、2階から凄い速度で真っ黒い何かが飛んできた。 それは、澱み切った色をした——変わり果てた姿の、ざまあみろナイフだった。 「俺はもう、誰にも愛してもらえないんだ」 ナイフがボールにざぶんと飛び込む。しかし、ナイフはナガシマさんの時のように消えず、カケルの手に収まった。 「だったら俺なんか、死んじゃえ」 そして彼は黒光りするざまあみろナイフを、自分に向けた。 「危ないとか言ってる場合じゃねえ! 肩車だ、アヤカちゃん!」 「はっはい!」 全速力でカウンターによじ登り、しゃがんだナガシマさんの上に私がまたがろうとしたとき——唐突にカラン、とベルの音がした。 「何してるんだい?」 スミカは私とナガシマさんを見てキョトンとした顔をした。 「「スミカ!」」 「危ないよ、早くカウンターから降り——」 そこで彼女は言葉を切り、息を飲んだ。 「カケル、危ない!!」 彼女はそう叫ぶなり、カケルに向かって突進した。 次の瞬間、私達は目を疑った。 スミカが金色の光に包まれ、ふわりと浮いたのだ。 「あっ!?」「と、飛んだ!?」 彼女は空中を歩くように浮遊し、私達の頭上を通り過ぎた。彼女は最初の数歩はふらついたが、途中からまるで誰かに手を引かれているように、迷いなく進んだ。 「そうか、君だったんだな。願っていてくれたのは」 金色の光は、いつの間にか人の形を取っていた。少し癖のあるブロンドヘア、優しそうな垂れ眉。その人を、私は見たことがあった。正確に言えば、彼の偽物だけど。 瞬く間にカケルのいるボールに達した彼女は、躊躇いなくざまあみろナイフの前に身を躍らせた。その瞬間、彼女の両手が眩く光り——現れた盾が、ざまあみろナイフを防いだ。彼女は、今まで見た中で一番幸せそうに笑った。 「ありがとう、アラン」 盾は意思があるかのように、ギリギリと音を立ててざまあみろナイフを止めている。 「カケル、私の声を聞け!!」 「……っ」彼はピクリと反応した。 「私は、君たちと一緒に現実に戻るよ。そして、君を見つけて必ず幸せにしてみせる」 「そんなの、できるわけないだろ」 カケルが、初めて返事をした。スミカは盾から片手を離し、彼を抱き寄せた。 「できるさ。君には、私とアランがついてる」 「……でも、俺に……幸せになる価値なんてない」 「それは違う。そう思い込まされているだけだよ」 スミカは目を閉じた。 「……酷いね。君の見ている幻覚が、私にも見える。ぐしゃぐしゃに潰されて歪んだ姿の君が」 「っ!!」 カケルは激しく顔をひきつらせた。スミカは間髪入れずに続けた。 「いいかいカケル、それは偽物だ。身勝手な大人という鏡に映された、ただの君の歪んだ虚像に過ぎない」 「……消えたい……死にたい……俺なんて、いなくなった方がいい……」 「本当に?」 「え……」 「少なくとも私は、それがカケルの本心じゃないと知っている」 「俺は……」 「そうだろう?」 スミカが私達に問いかける。私とナガシマさんは強く頷いた。 「カケル、お前はずっとくすぶってた俺らを変えた!! 本当のお前は、そんな弱気な奴じゃねえ!!」 「ナガシマ……」 「俺だって、現実世界でもお前の味方だ。一人なんかにさせねえ、だから……生きろ!!」 ナガシマさんの言う通りだ。私が変わることができたのは、カケルのおかげだ。 カケルとバスで会った時から、今までのことが脳裏を駆け巡る。 「私はカケルのこと、最初は失礼な子だなって思った。危なっかしいし、口悪いし……でもカケルは、今まで見た誰よりもまっすぐに、生きたがっている子だった!!」 ざまあみろナイフの色の澱みが、少しずつ薄れていく。 「私はカケルに、お母さんに立ち向かう勇気を貰ったんだ!! 私は、ここでカケルに会えてよかった!!」 黒ずみが完全に無くなると、ナイフはするりと盾をすり抜け、カケルの胸元へと消えていった。 「一緒に行こう」 「出てこい!!」 「生きて!!」 「「「カケル!!」」」 「俺は……!!」 次の瞬間、彼は目を見開き——同時にボールが弾けた。 【第21章 混沌の王】 カケルとスミカは、私達の前にふわりと着地した。 「カケル、良かった!」私はカケルに抱き着いた。 「よくやったな!」ナガシマさんはカケルの頭をわしゃわしゃと撫でまわした。 「うわ、やめろよ」カケルはそう言ったが、表情はまんざらでもなかった。 入口の方からミヨシさんの声がした。スミカにばかり気を取られていて気付かなかったが、彼もSUMICAに戻って来ていたようだ。多分、スミカと一緒に。 「よく、ご無事で」 スミカはミヨシさんを見た。彼は、スミカのことを泣きそうな表情で見つめていた。 「ありがとう」 その時、パチパチと音がした。見ると、スズキが拍手をしている。 「これでカケルさんも、私の化身を倒しましたね。それにしても、スミカさんの武器は盾ですか。他人を傷付けない、守るためだけの道具……まさに、貴女に相応しい」 スミカは警戒するようにスズキを睨み、カケルを背に匿った。だが、スズキはスミカからあっさりと視線を外し、ミヨシさんの方を見た。 「しかし、思ったより早かったですね、ミヨシさん。用心深い貴方なら、万が一でも彼女に危険が及ばないよう、もっと時間を置いて戻ってくると思いましたが」 あることに気づき、私は思わずミヨシさんを見つめた。 眠りに落ちる直前の、あの会話。彼はスズキがここに来ることを知っていて、スミカだけを避難させたんだ。 「気が、変わったんです」 「ほう?」 「もう、彼女には帰る時が来ました。僕はそれを受け入れようと思います」 スズキはそれを聞いて目を丸くした。そして、一拍置いて激しく笑い出した。地獄の底から響くような恐ろしい笑い声に、全身の毛が逆立った。 「……失礼。20年以上も愚図愚図していた貴方の恋が、こんなにあっけない幕切れを迎えるなんて、可笑しくて」 「……」ミヨシさんは何も言わない。 私はようやく気付いた。ミヨシさんが、スミカが傷つくことにあんなにも敏感に反応していたのは——そういうこと、だったんだ。 「スミカさんを見送った後も、貴方は帰らないつもりでしょう?」 「はい」 「それは残念。貴方の臨終の苦しみを、特等席で眺められるのを楽しみにしていたのですが」 「諦めてください」 「仕方ないですね」 スズキはそう言うと、両手にずっとしていた黒い手袋を外した。ぱさり、と床に手袋が落ちたのを合図に、彼のシルエットがボコボコと歪んでいく。私は、喉奥からひきつった悲鳴を漏らした。 「ひ……!」 肌が泡立ち、悍ましい触手が彼の全身を覆う。頭部は円錐形に変わり果て、もはや人の面影は無かった。私はその形容しがたい姿に、生理的な嫌悪と恐怖を感じて後ずさった。 スズキ——いや、『スズキだった何か』は告げる。 「直接私が貴方を殺してあげましょう」 鋭く尖った触手の先が、ミヨシさんに向いた。 「やめて!」 このまま黙っていたら、彼は殺されてしまう。 そう思った途端、身体の強張りが解けた。私はミヨシさんの前に立ち、両手を構えた。光とともに「もうやめてソード」が現れる。彼に近づく触手にソードを振るうと、いとも容易く切断できた。 「ミヨシさんに何もしないで!」 「おや、アヤカさんはお気づきではないのですか? ミヨシさんは貴女がたを見捨てたのですよ。スミカさんの身の安全のために」 「そうだとしても……彼の命を強引に奪うことは、許さない!」 「よく言った、アヤカちゃん」 ハッとして左隣を見ると、ナガシマさんが「変わるんだボウ」を構えて矢を放っていた。矢が触手のど真ん中に刺さると、触手の群れは怯んだように距離を取った。 「俺はミヨシさんと3年過ごしたから、ミヨシさんの想いはなんとなく分かるぜ」 「ナガシマ、さん……」ミヨシさんは後ろで狼狽えたような声を出した。 「何も言わなくていい、ついに男見せたんだろ! スミカを見送りたいなら、俺も一肌脱ぐぜ」 触手が、ムチのようにしなって私を襲う。思わず目を閉じるが、痛みはやってこない。目を開けると、スミカの盾——「ありがとうシールド」が頭上で私を守っていた。 「ミヨシさん」 「……はい」 「私の料理、いつも食べてくれてありがとう。この場所での生きがいを見つけられたのは、ミヨシさんのお陰だよ」 床を這う触手が、ずるずると足元に近寄る。足首に巻き付こうとした一本を、鋭い銀色の光が一閃した。 「俺も加勢する」 「ざまあみろナイフ」を持ったカケルが、私の右隣に着く。 「カケル!」 「俺はミヨシのことは好きじゃない。でも、別に死んでほしい訳じゃない」 「……怒鳴って、すいませんでした」 「気にすんな。俺も、悪かったから」 私はこんなとんでもない状況なのに、二人が仲直りできて良かった、なんて呑気なことを一瞬だけ考えた。 【第22章 幸せだアックス】 「げほっ、はーっ、はあっ」 あれから何分経ったんだろう。ソードを振る腕が、鉛のように重い。 武器を持つ私達は、触手の攻撃をなんとかいなすことはできた。だが、手数の差は歴然だった。それに、無数の触手を操る人ならざるモノと違い、私達はただの人間だ。動けば疲れもするし息も上がる。 劣勢を覆すことができないまま、じりじりと触手の包囲網が狭まっていく。 「うわあああ!」 ナガシマさんが宙にぶら下げられ、悲鳴を上げた。不意を衝かれて触手に足を取られてしまったようだ。 「ナガシマさん!」 「くそっ! 離せよ!」 カケルが悔し気に叫ぶ。彼の方を振り返ると、カケルもまた、触手によって身動きが取れなくなっていた。 「カケ——きゃあ!」 彼に向けて手を伸ばそうとするが、視界を塞がれ私は態勢を崩した。触手はいつの間にか私の背後に回っていたらしい。 「うぐっ、アヤ、カっ……」 スミカの苦しそうな声がどこかから聞こえる。彼女も触手の餌食となってしまったに違いない。私は顔にまとわりつく触手を力任せにはぎ取ったが、掴んだそれが巧みに手に巻き付いてきて、利き手を拘束されてしまった。しかも、ヌルヌルした触手が口の中にまでなだれ込んできて、声が出せなくなった。 万事休す、という言葉が頭に浮かんだ。 「——さて」 混沌の間から、スズキの声がする。ミヨシさんは守る者のいない無防備な姿で、ただ茫然と触手の塊を見ていた。 「ミヨシさん。これでもまだ、貴方には分からないんですか?」 「……何がですか」 「貴方に取れる選択肢は二つだけです。今ここで死ぬか、現実で死ぬか」 私は必死に抵抗を試みたが、触手は石のように動かなくなり、身体に力を込めてみてもピクリともしなかった。 店内には触手が溢れかえり、調度品という調度品は壊れて、戦争の後のように散らかっている。にもかかわらず、嘘のような静けさが空気を支配した。私自身の荒い息遣いと心音が、辺りに響いているような気さえする。 「ずっと、考えていました」 ミヨシさんの声は、思ったよりずっと落ち着いていた。 「僕の人生は、いつになったら終わるのだろう、と」 「ほう?」 「70年前に死んでいたはずの僕は、この場所に来て思いがけない余暇を手にしました。でも、正直僕は、ここで何をしていいか分からなかった。痛みも苦しみもなく、過酷な労働の必要もなくなって、気づいたんです——僕には生きる目的が無い、と」 ミヨシさんは遠くを見るような目をした。 「僕は長い間、この場所をあてもなく放浪しました。最初はよく悪夢を見ました。血を吐いて、息ができない夢です。でも、時が経つと眠くならなくなって、悪夢に悩まされることもなくなりました」 「しかし、僕はいつも何か満ち足りないような気がしてなりませんでした。だんだん動くことも面倒になって、裏路地で何年か寝転んでいた時、スミカさんに会いました」 私は、目の端でスミカが微かに身動ぎするのを捉えた。 「スミカさんの食事を食べた時、僕は生まれて初めて満ち足りた気持ちになりました。僕はその時、幸せという感情を初めて知ったんです」 「スミカさんと出会わなければ、美味しい物をお腹いっぱい食べることが、こんなにも素晴らしいことなんて知らないまま、僕は死んだでしょう」 「ナガシマさんと出会わなければ、ギターという楽器の音色を知ることもなかったでしょう」 「カケルさんとアヤカさんに出会わなければ、僕はスミカさんを身勝手に縛り付けたままだったでしょう」 ミヨシさんはゆっくりと、右手を宙に掲げた。スミカが激しく身動ぎする。 「僕は、さっきまではまだ死ぬのが怖かった。今は違います。死は、その後どうなるのかが分からないから、漠然と怖いだけです。でも、ここで皆さんが死ぬのを見ることは……それよりずっと怖い。皆さんの死体はありありと想像できるから」 「だから、誰も責任を感じる必要なんてない。これは、僕自身の選択だ」 ミヨシさんが、一瞬だけ少年のような笑顔をした。 「SUMICAで過ごしたこの20年間——僕はずっと、幸せだった」 その瞬間、ミヨシさんの右手が眩く輝いた。その光に怯んだように、触手が退いていく。燃え盛る炎を纏った斧が振るわれ、それらの触手を消し炭に変えた。 「混沌も停滞も、もう終わりにしましょう」 視界が滲んで、彼の姿がまだ少年のように見える。目から零れる液体を、今だけは炎の眩しさのせいにして、乱雑に袖で拭った。 私は共に戦う仲間に向けて叫んだ。 「絶対に、勝とう!!」 「ああ!」「おう!」「うん!」「はい!」 四人分の返事が、力強く帰ってくる。 もう、目の前の邪悪な存在に負ける気はしなかった。 私達は、既に自分自身に勝ったのだから。 【第23章 帰還、もしくは別れ】 「喰らええーーーーっ!!」 戦いの最後にカケルが食らわせた一突きは、あやまたずスズキに致命傷を与えた。触手がザラザラと砂になって消え、人型に戻ったスズキが力なくその場にくずおれた。燕尾服は大きく裂け、大量の黒い液体が流れ出ている。 「……がはっ」 彼がせき込むと、口から同じ液体がだらりと垂れた。褐色の瞳は濁り、今にも閉じてしまいそうだ。私達は恐る恐るスズキの周囲を取り囲んだ。 「はは、やってくれましたね……」弱弱しい声で彼は言った。 「これで帰れるのか?」カケルは呟いた。 「貴方がたには、非常に面白いものを、ごほっ、見せていただきましたからね。……それに免じて、帰して、あげましょう」 スズキは時々せき込みながらそう言って、にやりと笑った。この期に及んでも、偉そうな態度のままだ。 「どうやったら帰れるんだ?」ナガシマさんが尋ねる。 「私が、生命活動を停止すると、っ自動的に……ポータルが開きます」 「お前でも死ぬんだな」スミカは感情の無い声で言った。 「アヤカさんには、少しお話、しましたが……私、は、無数に存在する、私の一人でしか、ありません……人間の、死とは、少し、違います」 「それ、結局どういう意味?」 「説明、するには、時間が、足りませんね……ごほっ、げほ!」 ミヨシさんは何も言わず、ただじっとスズキの目を見ていた。 「ところで、現実に戻ったらどうやって連絡すればいいんだ?」 カケルの言葉に、私は考えた。これから現実に戻るなら、確かにみんなとの連絡手段は欲しい。 「うーん、電話とか」 「俺電話持ってない」カケルが言う。 「あ、俺もだわ。ここに来るより前に解約したんだった」ナガシマさんは頭を掻いた。 「そっか……」 「それに、俺たちみんな来た年がずれてるじゃん。もしここでの時間が現実では一瞬だとしたら、現実でも俺たちはずれたままだ。例えばスミカが俺に電話しても、俺がイケブクロに来る前だったら、ただの知らないおばさんだ」 スミカはカケルの言い草に苦笑した。ふと何か思いついたように、彼女がパンと手を叩く。 「……そうだ! 私は店ごとイケブクロに移動したから、現実に戻る時も店ごと戻ると思う。元々のSUMICAは現実の池袋にあるから、そこで集合しよう。もし店が戻らなくても、必ず同じ名前のカフェを開くよ」 「私最後だから、戻ったらすぐカフェに行きます」 「仮に来た日に戻るとして、アヤカちゃんがここに来たのは何日だ?」 「2023年の6月24日なので……その週末でどうですか? 27日とか」 「じゃあ、27日にカフェ集合な!」 「おう!」 「カケル、一人で来れるかい? 電話番号教えておこうか」 「いや、だから俺電話持ってないんだって。大丈夫、池袋なら俺んち近所だから。まあもう俺の家じゃないんだけど」 その時、ミヨシさんが緊迫した声で告げた。 「今、スズキがこと切れました」 途端、悪夢の中で化身を倒した時と同じ、重力が逆転するような感覚が私を襲った。……戻る時が来たんだ。 ミヨシさんはスミカの手を握りしめて言った。 「スミカさん、戻ったら人を愛してください。貴女には現実で幸せだった経験がある。必ず、またその感情を思い出せるはずです」 「ミヨシさん……本当に、ありがとう」 「皆さんも、お元気で。……さようなら」 ミヨシさんは彼女の手を離した。 ぐるぐると光が渦巻く中で、皆との距離が少しずつ離れていく。最後に見たのは、カケルの不安そうな顔だった。 「絶対に、また会えるよ!」 そう叫んだけど、彼に聞こえたかは分からなかった。 【最終章 ついに自由は彼らのものだ】 あれ、何してたんだっけ? 夕暮れの日差しが眩しい公園のブランコで、私はぼんやりと周囲を見回した。寝起きのように頭がボーっとしている。 でも、寝ていたにしてはさほど時間が経っていないような気がする。太陽の傾き具合も、風の温度も、まだ夕飯までの時間があることを示している。 そうだ、夕飯ギリギリまで帰らないつもりで、公園まで来たんだった。私は大きくため息をついた。差し迫った問題のはずだが、何故だかお母さんとのやり取りが遠い昔のことのように感じられて、私は首を捻った。 ブランコに揺られていると、さあっと風が私を吹き抜けていった。その風に混じった初夏の匂い。それを感じられることが、訳もなく嬉しい。 やっぱり、何かがおかしいような気がする。頭にトゲか何かが引っかかっているような変な気分だ。その理由を探るように記憶を辿るが、何の変哲もない学校での一日と、家を出る前のお母さんとのやり取りしか浮かばない。 しばらく考えているうちに、日は暮れ、公園の街灯が光りはじめた。私が帰らなければならないことを思い出した時には、もうお母さんが目の前に来ていた。 「……あ、お母さん」 「もう、遅いじゃないアヤカちゃん。そんなにボーっとしてると、変質者に連れていかれるわよ」 「ごめん」 私は急いで立ち上がった。ただでさえ、漫画を見つけたことでお母さんの機嫌は悪いだろう。その上、夕飯の時間に遅刻してしまった。これ以上お母さんの機嫌を損ねたら、また食卓がお通夜状態になってしまう。そうしたら、お父さんが面倒そうな表情を向けるのは私なのだ。 「漫画を捨てるのは、食後にしましょうか」 漫画。その言葉を聞いた瞬間、ドクンと心臓が跳ねた。何かを忘れている感覚がぐっと強くなる。 「……アヤカちゃん? どうかした?」 唐突に、私の口が勝手に動いた。 「漫画は捨てない」 「え?」 「お母さん。私はもう、お母さんに決めてもらわなくても良くなったの。だから、もうやめて」 『もうやめて』。 その言葉を口にした瞬間、堰を切ったように記憶の濁流が私に押し寄せた。イケブクロでのすべての出来事が鮮やかに蘇り、胸の隙間を埋めていく。私の目から、とめどなく涙があふれた。 そうだ、私は、私達は——現実に戻ったんだ。 「アヤカちゃん!?」 慌てたお母さんが、謝りながら私を抱き寄せた。ごめんなさいね、そんなにあの漫画が大事だったなんて知らなかったの。そう話すお母さんの声は、ほとんど聞こえていなかった。 ▽ マップで検索すると、「Cafe and Bar SUMICA」は現実の池袋にちゃんと存在した。私はそのことに心底ほっとした。現実に戻ってからの日々はあまりに普通すぎて、どこかであの出来事は夢ではないかと疑ってしまっていた。 6月27日の朝、私は制服を着て一人で池袋へと出かけた。私服にしなかったのは、イケブクロでは制服を着ていたから、私服だと見慣れないかもしれないと思ったからだ。 現実の池袋は人混みでごった返していて、あの世界はやっぱり現実とは違う世界だったのだなと実感した。 駅から少し離れた路地の隙間に、SUMICAはひっそりと佇んでいた。 間違いない。イケブクロにあったSUMICAと、寸分違わず同じだ。私はまた涙が込み上げそうになったが、泣き顔だとスミカが心配しそうなので、どうにかこらえた。 カラン、という扉の音に、初老の女性がこちらを見た。 「やあ、いらっしゃ——」 「……スミカ?」 女性は私を認めると、一瞬驚愕に目を見開き、すぐに満面の笑みを浮かべて私を出迎えた。 「アヤカ!」 彼女は私にハグし、嬉しそうに頭を撫でた。 「知っている人?」 気づくと、キッチンに知らない男の人がいた。中性的な顔つきと茶色の目をしていて、ぱっと見では年齢が分かりづらい。でも、雰囲気がなんとなくスミカに似ているような気がした。 「うん。ほら、いつもの話に出てくるアヤカさ」 男の人は「ああ」と言い、私に微笑んだ。 「ようこそ、アヤカちゃん。僕はマサって言うんだ。よろしくー」 ▽ スミカは私にアールグレイを出してくれた。驚いたことにカケルは今、スミカとマサの二人と一緒に暮らしているらしい。 「彼、今日は部活らしくてね。帰ってくるのは午後かな。アヤカが来るから、部活終わったらすぐ帰るって言ってたよ」 「カケルも、元気なんですね。良かった……」私は心底ほっとした。 「彼が戻るまでに、私の話を済ませておこうか」 彼女は自分も紅茶を飲みながら、自分がイケブクロに戻ってからの話を始めた。 「戻ってすぐは、とても不思議な気持ちだったよ。私はすぐアランの家族に連絡して、アランの葬式の日取りを決めた。彼の家族は、それはもう悲しんだ。当たり前だ、彼らはアランの死を知ったばかりなんだから。でも私は嘘のように冷静だった」 スミカは相変わらずまっすぐな黒髪をいじりながら、そう語った。 「葬式は彼の母国で、しめやかに執り行われた。私はその時もまだ記憶を取り戻してなかったから、自分の感情の穏やかさに戸惑っていた。そうしたら、彼の妹が、私をぎゅっと抱き締めてくれたんだ。彼女は、酷い顔をしていたにも関わらず、私を慰めようとしてくれた。私は、『ありがとう』と彼女に告げた。その瞬間——全てを思い出した」 やっぱり、武器が出た時のワードが記憶のトリガーになっているらしい。 彼女は遠い目をしていた。彼女にとっては20年前の出来事なのだから、昔話をしているようなものなんだろう。 「私は彼らを一度は捨てたことを、とても申し訳なく思ったよ。私は、アランのいない世界なんて耐えられないと思っていたけど、それは彼の家族だって同じだ。それでも、彼の家族は皆、私と哀しみを分かち合おうとしてくれたんだ」 「全ての手続きを終えてから、私は日本に戻った。両親も友達も、私を凄く心配してくれていたから、また申し訳なくなったな。でも、私は実家で一緒に暮らそうと言う両親の提案を断った。アランのためにも、イケブクロから戻ってくる皆のためにも……SUMICAを無くすわけにはいかないからね」 「それに、カケルを受け入れられる体勢を作っておく必要があった。それを手伝ってくれたのが彼だ」 彼女はマサの方を見た。 「養子を取るのは、法律的に私だけでは難しかったからね。だから、店の常連だったマサに相談したんだ。利害が一致したから、私たちは書類だけの結婚をした」 「……利害?」 私が訊くと、マサがのんびりとした声で言った。 「僕ねー、もとは女なんだ。手術して戸籍を変えたから、今は男性だけど。そういう訳で、僕は結婚ってものを半ば諦めてた。血の繋がった子供は作れないから、女性に選んでもらえないだろうと思ってさ。でもスミカの話を聞いて、僕たちはお互い『ちょうどいい』相手だと気づいたんだ」 「最初はただのビジネスパートナーのつもりだったんだけど……20年も経ったら色々あってね。結局、今は普通の夫婦ってわけ」 「はー……そうだったんですね」 情報過多で頭が整理しきれていない気がしたが、私はそれだけ口にした。 「そうだ、ナガシマさんは?」 「彼は、宣言通り世界中を飛び回ってるよ。アヤカが来るから、今日までに絶対日本に帰るって意気込んでたけど、空港がストに遭っちゃったらしくてね……結局、まだ飛行機飛んでないんだよね」 私は、空港で困り果てるナガシマさんの姿を想像して、ちょっと笑った。 「電話なら通じるから、かけてあげよう。声だけでも、きっと喜ぶよ。話してあげて」 「あ、はい!」 ▽ スミカは固定電話から国際電話をダイヤルし、私に受話器を渡した。しばらくコール音がした後、ナガシマさんの大声がした。背後ではザワザワと慌ただしい喧騒が聞こえ、時たま不満そうな外国語が飛び交っている。 『はいはい、もしもーし!! まだスト終わってねえんだよ!!』 「あ、いや、あの」 『えっもしかして、アヤカちゃんか!? いやー懐かしいな!! 戻れたんだな』 「おかげさまで……」 『おふくろさんとは仲直りできたか?』 「ま、まあなんとか」 『スミカとは会えたんだな、良かった良かった! カケルとも会ったか?』 「あ、まだです。部活行ってるらしくて」 『そうかそうか。俺もあんま会ってないから、よろしく言っといてくれ!』 「はい」 『絶対に日本に帰るから、俺ともまた会おうな!』 「あの、ナガシマさんは今どこにいるんですか?」 『あ? えーっと……ここの国って日本語で何て言うんだっけな……ヘイ! ブラザー!』 ナガシマさんは近くの外国人を呼び止め、何やらカタコトの英語で喋りはじめた。私はどうすればいいのか分からず、受話器を持ったまま戸惑った。時々笑い声が混じるので、どうやら会話が盛り上がっているようだ。たっぷり5分くらい待ったところで、ナガシマさんはようやく電話口に戻って来た。 『知らねえってさ。日本人じゃないんだから、そりゃあそうだよな』 ナガシマさんがそう言うので、私はついに噴き出した。 電話を終えると、スミカが言った。 「元気だったろ。彼ね、なかなか記憶が戻らなかったらしくてね……本来戻る年になっても、全然店に来ないから、心配してたんだ」 「あー」 そうだ、彼のワードは「変わるんだ」のはずだ。日常生活でさほど頻繁に言うような言葉ではないから、時間がかかるのも無理はない。 「それでね……彼が、何で思い出したと思う?」 「え? うーん……」 「なんと、アメリカ大統領選挙だってさ。『へー、大統領変わるんだな』って独り言した時に、全部思い出したって! 全く、面白いよね」 「あはは! なんか、ナガシマさんらしいですね」 ▽ スミカが作ってくれたサンドイッチを食べていると、カランとベルが鳴った。振り返ると、目をまん丸くしたカケルが、私を見ていた。 「カケル!!」 「アヤカ!!」 カケルが全速力で突っ込んできたので、私は思わずサンドイッチを喉に詰まらせてしまった。 「うっぐ、ゲホゲホ」 「わわ、大丈夫か?」 「ゲホッ……うん、大丈夫、落ち着いた」 「こーら、嬉しいのは分かるけど、まず手洗いうがいね」 マサがひょい、と彼を持ち上げた。 「分かってるって」 「そう言っていつもしないじゃん。はーい洗面台まで直送便―」 運ばれていったカケルを見つめていると、スミカが言った。 「彼を探すのは本当に苦労したよ……東京じゅうの児童相談所の職員に覚えられるくらい電話かけたかな」 「でも、最後には見つけたんですね」 「約束したからね、幸せにするって。見つけた時はまだ記憶が戻ってなかった。少しずつ距離を縮めて、彼の……親の話を聞いたときに、記憶が戻った」 私は彼が「ざまあみろナイフ」を出した時のことを思い出した。きっと、あの時と同じだったんだろう。 「親になるのは初めてだから、色々苦労は多かったけどね……。今は、カケルを引き取って本当に良かったと思ってるよ」 そう言うスミカの顔はとても穏やかで、今の幸せを噛み締めているように見えた。 その後は、カケルの学校での話を聞いて、私の近況も話した。話しても話しても話したりなくて、私はお母さんに電話してから、SUMICAに泊まらせてもらった(お母さんの文句は無視した)。カケルの幸せそうな寝顔を見ていると、とても心が落ち着いた。 次の日の昼前、私はまた来る約束をしてSUMICAを出た。 帰り道、少し足を伸ばして公園に寄った。スズキが現れた、あの公園だ。 昨日の夜に雨が降ったらしく、広場には所々に水溜りができていた。抜けるような青空が、その水溜りに映りこんでいる。遠くには入道雲が見え、その雲につながるように飛行機雲が伸びていた。 少し暑いくらいの日差しは、木陰に入ると心地よい木漏れ日となって私を暖めた。辺りの草は身にまとった水滴をきらめかせ、恵みの雨を喜んでいる。 空を見上げた。もうすぐ、夏が来る。 私は自由だった。 ▽ 吸い込んだ空気の冷たさに、僕は喉を引きつらせ、激しくせき込んだ。 冬のホスピスの冷気は発作を激しくする。息ができなくて、頭痛がして目が回った。 ふと誰かの体温を近くに感じ、僕はうっすら目を開けた。そこには、中性的な顔立ちをした美しい女性がいた。 咳が落ち着いてから、僕は女性に話しかけた。 「どちら様ですか」 しかし、彼女はただ微笑むだけだった。じっと彼女を見ていると、何故だか懐かしいような、泣きたいような心持になり、僕は不思議に思った。 ふと気づくと、外には雪が舞っているのが見えた。僕はきっと、この冬を越すことはない。 「どこかでお会いしましたか」 やはり返事はない。 また発作が襲って、僕は血反吐を吐いて床に伏した。 彼女は僕に近づくと、僕の頭を彼女の膝に乗せた。 「駄目です、伝染りますよ」 彼女は僕が止めるのも構わず、僕の頭をゆっくりと撫でた。僕は仕方なく抵抗をやめた。正直な所を言えば、抵抗するだけの力はもう残っていなかった。 「貴女は誰ですか」 返事はない。もしかして、喋ることができないのだろうか。 「……僕が寝るまで、ここに、居てくれますか」 そんなことを言ったのは、死の間際になって心細くなったからだった。もう上手く息も継げない。 だがやはり彼女は無言だった。 しばらく無音の時間が流れた。積もった雪が音を吸い込んでいるのか、とてつもなく静かだ。 彼女が再び僕を撫でる。僕は動かしづらくなった口で感謝を伝えた。 「ありがとう。最期、に、貴女のような、方に、会えて、幸せだった」 その瞬間、僕は全てを悟った。僕は必死に腕に力を込め、起き上がった。 「何のつもりですか」 彼女は一瞬のうちに黒い燕尾服姿をした男に変わった。 「ちょっとしたサービスですよ。貴方には色々、楽しませていただきましたから」 「……今すぐ消えてください」 「連れない人ですね」 スズキはまた僕を膝に寝かせ、猫でも撫でるような手つきで髪を弄った。僕にはもはや、この男を何とかする術はなかった。諦めて目を閉じる。 「思ったより、穏やかな終わりのようですね。拍子抜けしました」 「貴方も、そんなもの、だったでしょう……」 「それを確かめるために、私の死に顔を見ていたのですか?」 どうだろう、と僕は思った。この男の死に顔をどんな気分で眺めたのか、自分でもよく分からなかった。 撫でられているうちに、だんだん瞼が重くなってきた。 「スミカさん、は、……大丈夫、でしょう、か」 「ええ、きっと」 「よかった」 意識が遠のいていく。 僕は、人として死を迎えられるのだ。そう思うと、肩の荷が下りるような気がした。 もし次の生があるならば、遠くの空を、鳥になって飛びたい。 ようやく迎えた自由は、どこまでも澄んでいた。 完 |
春木みすず 2024年12月28日 01時31分12秒 公開 ■この作品の著作権は 春木みすず さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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作者レス | |||
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Re: | 2025年01月19日 01時18分55秒 | |||
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+30点 | |||
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Re: | 2025年01月19日 01時30分27秒 | |||
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+30点 | |||
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Re: | 2025年01月19日 02時27分22秒 | |||
合計 | 3人 | 100点 |
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