【超長編】吹雪の豪邸ゾンビパニック忍者美女 |
Rev.04 枚数: 300 枚( 119,877 文字) |
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~これまでのあらすじ~ 2011年12月某日。 大富豪の御曹子、田中勘八は、自身の住まう洋館で恐るべき事件に遭遇した! なんと彼の姉である田中あゆみが、自室のベッドで死亡していたのだ! 遺体の傍らで、猛毒の塗布されたコップが発見されたことから、毒殺事件だと断定! 勘八を除き、容疑者となるのは…… 勘八らの従妹である小学生の田中銀子、 特筆するところのないメイド、 外国人、 の、三人だった! 〇 物言わず眠る姉の待つ部屋に、俺(十六歳:館の御曹子)を呼び出したのは、部屋の中央に立つ少女だった。 「これは皆さんお揃いで。飲み物に紅茶などいかがですか?」 田中銀子(11歳:俺の従妹)は、集められた俺たちを不敵な表情で見回した。 百四十センチに届かない矮躯と、日本人形の如き黒いおかっぱ頭を持つ、丸顔の少女だ。柔らかげな赤い唇を歪ませ、悪戯っぽい表情を浮かべている。 俺は眉をひそめた。「お揃いでも何も。ここに俺たちを呼んだのはおまえだろ? こんな夜中に……」 「そうよ銀子ちゃん。早いところ要件を聞かせなさいよ」特筆するところのないメイド(19:メイド)は、喧嘩腰に言った。 この女性は本当に館のそこらに何人もいるメイドの一人なので、これと言って説明するところもない。ステレオタイプな若いメイドを思い浮かべて貰えば事足りる。 「こっちは仕事で疲れているの。今日も一日中こき使われて……。せめて夜くらい休ませて貰えないと困るわ。こうやって集めたということは何か考えがあるのよね? 早く事件を解決して欲しいものだわ……探偵さん?」 皮肉塗れの口調。銀子に剣呑な表情を向けるメイドに、ശീതീകരിച്ച ട്യൂണ(??:外国人)がおろおろとした様子で声をかけた。 「めいどさん。やかたの、こどもと、けんか、よくないです。おちついて」 ട്യൂണは、少しウェーブのかかった色の淡い髪をポニーテールに縛った見た感じ二十歳くらいの女性で、背は百六十センチ台の半ば程。太っても痩せてもいないが、美人ではある。 しかし髪の色こそ抜いてはいるが、見てくれはどう見ても日本人だ。少なくとも、アジア圏の典型的な容姿ではある。だが、喋り口調がわざとらしいカタコトであることからも分かるように、彼女が外国人であることは疑う余地もない。 なお、名前をどう発音するかは誰も知らない。 「まずは、おはなしを、ききましょう」 「そうね。さっさと初めて貰おうかしら」 憮然とした顔で促すメイドに、銀子は不敵な表情を浮かべた。 思わせぶりのつもりなのか、何かしらの自己陶酔を感じさせる足取りで、部屋を歩き回る。そして、大雪の降り注ぐ窓の前に立ち尽くした。 真っ白な夜の庭が見える窓ガラスに、愛らしく幼い顔立ちが反射する。その口が動いた。 「今日は災難でしたね。せっかくの冬休みだというのに、猛吹雪で外にも出られない。おまけに、こんな殺人事件まで……」 銀子が振り返った先には、ベッドで物言わず眠る田中あゆみ(十七歳:死体)の姿があった。 あゆみは俺の姉で、生まれつき色素の薄い赤茶けた髪と瞳を持つ少女だった。 美形の多い我が田中家ではあるが、中でも特に恵まれた容姿の持ち主で、大きな瞳と鼻翼の小さな高い鼻、桜色の薄い唇をしていた。肩甲骨にひっかかる程度の髪には適度なボリュームがあり、背は平均でスタイルも良くおっぱいが大きいので俺は好きだった。 性格は大人しく無害といった感じで、使用人にも横柄に振舞うタイプではなかった。誰かから殺される程の恨みを買うようには思えない。しかしそんな大切な姉であるあゆみが、毒を飲まされたと思われる状況で、ベッドで眠りに付いているのだ。 「何を言い出すかと思えば……あゆみちゃんが毒で死んだなんてことは今更だわ」 メイドは皮肉っぽい笑みを浮かべる。 「この中の誰かに殺されたのよね? あなたとあゆみちゃんと勘八君の三人が、シアタールームの大型スクリーンでテレビゲームをして夜更かししていたところ、こっそり飲んでいたワインであゆみちゃんが酔いつぶれて、給仕をさせられていた私となんかいた外人さんの二人でそれを自室まで運ぶこととなり、ベッドで寝かせてシアタールームに私達が戻ってからしばらくしてあなた達が小腹が空いたとか言い出し」すぅー……とメイドは息継ぎをした。「私と外人さんが一階のキッチンで夜食を用意してエレベーターで四階のシアタールームに持っていくと、銀子ちゃんがあゆみちゃんも誘おうと言いだして、皆で二階のあゆみちゃんの部屋に移動し、銀子ちゃんがかなり執拗に夜食に同席するように求めたものの、結局起きてこず死亡が確認され、ベッドのサイドテーブルにあった水の入ったコップに毒が塗られているのが見付かったことから、これは殺人事件だと結論付けたんじゃないの!」 言い終えたメイドははあはあと荒い息を吐いて呼吸を整えた。 状況がとても良く分かったことに満足したのか、銀子は上機嫌に頷いた。 「その通りです。尚コップは割と大きめで、下手なジョッキくらいあります。水は半分ほど残っていました。猛毒が塗られていたことは、勘八兄さまがコップの縁をねぶり回すことで確認済みです」 「すげー辛かったぞ」俺は言う。「あと、俺はねぶり回した訳じゃない。フチに少し汚れていたところがあったから、指で掬って舐めてみただけだ」 「ぺろ……せいさんかり……」ട്യൂണが呟いた。 「どっちにしろ、軽くキモいと思いますけどね」銀子は言った。 「そうだよ」と死体が言った。 「その後皆でさらなる調査と推理を行ったけど、結局犯人は分からなかったのよね」メイドが言う。 それに銀子が答える。「そうですね。しかし妙ですよね。あのコップは特にあゆみ姉さまのお気に入りという訳でもありません。犯人はどうしてあれが使われることを予測できたというのでしょうか?」 「犯人自ら、姉ちゃんにあのコップを渡したというのは? だとすると、台所にいたメイドと外人が怪しい」俺は言った。 するとട്യൂണは「あやしい、ないです」と首を横に振るった。 「だって……わたしたち、だいどころ。おたがい。だから……」ട്യൂണは言葉に詰まるように思案顔を浮かべつつ、続けた。「つまり……えと、കുട്ടി、കൾക്ക് അഭിമാനത്തോടെ、കാണിക്കാവുന്ന ഒരുമാങ്ങ」 「母国語出ちゃったよ……」 「私達は二人一緒に台所で夜食を作っていたのよ?」メイドは言う。「互いに目を離したタイミングなんてなかったから、あゆみちゃんのところにカップを運ぶなんて無理。そしてその時はあゆみちゃん自ら台所に訪れたりもしてないわ」 「じゃあ、台所中のコップに毒が塗られてたとか」 「それがないことはさっき確認させられたところじゃない」 「なら、テキトウなコップに毒を塗って、それがたまたまあゆみに当たったというのは?」 「その線は薄いでしょう……」銀子が言う。「それでは無関係な人間を毒殺してしまう可能性があります。通常の殺人事件ならば、そもそも犯行が無差別だったということで説明付けられますが、今回に関しては絶対にそれはあり得ませんからね」 「確かにその通りだが……。こうして呼びつけたからには、何かおまえに推理……真相の心当たりがあるというのか?」 「その通りです勘八兄さま。それを発表する前に、訪ねたいことが一つだけあります」銀子はട്യൂണとメイドの二人に視線をやった。「姉さまを部屋に運んでいた最中に、姉さまは喋ったり身じろぎしたりしましたか?」 「したわね。基本目を閉じてじっとしていたけれど、それでも時々は、頭が痛いと呟いておられたもの」メイドが鼻を鳴らす。「途中で目を擦ったりする仕草もあったくらいだから、あの時生きていたのは間違いないと思うわ」 「それはどのようにして聞きましたか?」 「どのようにって……普通に耳元で聞いたわ」 「そうですか。では」銀子は不敵な笑みを浮かべる。「謎はすべて解けました」 静寂が降りる。 雷の落ちる音が響き渡る。 「一体この事件の犯人は誰なのか。これからお話します」 雪をまとった暴風が、ガラス窓に絶えず打ち付けられていた。 〇 「わたし達は勘違いをしていたんです」 銀子が言う。他の誰もしようとしないので、相槌を打つ役は俺が買って出た。 「勘違い?」 「ええ。わたし達が犯していた勘違い。それは、コップに塗られた毒があゆみ姉さまの死因であると認識していたことです」 「違うのか?」 「ええ違います。確かにコップからは酔い覚ましに汲んだであろう水と、縁に塗られた猛毒が確認できましたが、必ずしもそれが犯行に使われたとは限りません」 「あれは間違いなく猛毒だったぞ。飛び上がるほど辛かったし」 「しかし共有した情報によれば、あゆみ姉さまのコップに狙って毒を仕込める人物はいません。それもそのはず。犯人はコップに毒を仕込んだのではなく、あゆみ姉さまの口に直接毒を詰め込んだのですから」 静寂が訪れる。 ട്യൂണは窓を一瞥して、それから銀子の顔色を窺った。そして言った。 「がっしゃーん」 雷の落ちる音っぽい声だった。 ムードを盛り上げる為に、気を利かせたつもりらしいが、特に気を良くした素振りもなく銀子は続けた。 「犯行に使われた猛毒は超強力な即死性を持っており、ほんの僅かでも接種したらたちどころに死に至ります。よって誰かの目の前で堂々と服毒させたとしても、姉さまが酔い潰れてダウンしている状態であれば、そこで殺害したという事実を悟られずに済むことでしょう」 「シアタールームで潰れてた姉ちゃんに、こっそり毒を飲ませた奴がいるっていうのか?」俺は言う。 「いいえ。その時ではないでしょう。何せ、運搬中あゆみ姉さまが何度か『頭が痛い』と呟いていた、つまり生きていたことは、メイドの人が証言してくれていましたから」 「死んでいたとしても、酔っぱらって頭が痛いくらいのことは言うんじゃねぇのか?」 静寂が訪れた。 俺以外の全員が、唇を結んで俺を白い目で見つめた後、あゆみの方を一瞥した。 死体は静かに首を横に振った。 咳ばらいをして俺は言った。「失礼。もう二度とこんなことは言わねぇよ」 「つまり姉さまが死亡したのは、運搬中最後に『頭が痛い』と呟いて以降のタイミングということになります。それはいつか? ベッドに横たえたそのタイミングで、こっそりと口の中に、猛毒の付着した指先を差し込むくらいのことは、できたのではないでしょうか?」 「ഉസുയി വളർന്നപ്പോൾ, തൻ്റെ മാംഗയെ തൻ്റെ ……」ട്യൂണは何かを言った。 「そしてそれが出来たのは、姉さまを運搬する時頭の方を抱えていた人物ということになります」 「頭の方を抱えていた人物……まさか」俺は息を飲み込んだ。 「メイドさん。あなたは『耳元で』姉さまの『頭が痛い』という声を聞いたと言いましたね?つまり、そう。……姉さまを殺害した人物……この事件の犯人は、メイドさん! あなたなのです!」 得意げな銀子の指先がメイドに向けて突き付けられる。 メイドは涼しげな眼をしてその小さな手を凝視した後、軽く欠伸をして、けだるげな調子で言った。 「……それで良いの?」 「ええ。かまいません。これが最終回答です。お二人も良いですね?」 「ああ良いぞ」俺は頷いた。「見事な推理だと思う。探偵の勝ちだ。外人さんもそれで良いよな」 水を向けると、ട്യൂണは困ったような表情を浮かべ、それからもじもじと両手を擦り合わせていた。 「どうした?」 「あのこっぷ、さいしょ、なかったです」 「え?」銀子が目を丸くした。 「こっぷ。さいしょ、あゆみさま、へや、はこんだとき、なかったです」 「それがどうかしたんですか?」 「あれ、もちこんだの、だれ?」 「姉さま自身でしょう? わたしと甚八兄さまはシアタールームにずっといましたし、メイドさんと外人さんは一緒に行動していた訳ですから」 「それ、おかしい」 「どうしてですか?」 「あゆみさま、しんだの、ぎんこさま、いうとおり……പ്രധാന കഥാപാത്രം ഒരു കുട്ടിയോ」 「最初部屋にあゆみちゃんを運んだ時コップは枕元になかった。部屋に運ばれてからあゆみちゃんが酔い覚ましに水の入ったコップを取りに行ったと主張するなら、部屋に運んだ際に殺害されたという推理はおかしい」メイドがため息交じりに言った。「……そういうことよね?」 「はい!」ട്യൂണは笑顔と共に元気良く返事をした。 「そんな……でも、死体を発見した時にでも、こっそりコップを持ち込んで部屋に置けば……」銀子は食い下がる。 「それはさすがに無理だろう」俺は腕を組んだ。「あのコップは下手なジョッキ並にでかいし、何より水が入っていた。そんなものをばれずに持ち運びサイドテーブルに置くのは至難の技だ」 「いやでも……そのコップ以外全部説明付いている訳だし……」銀子は顔を真っ赤にした。ムキになっているようだ。「何か理由があるはずです! そうだ! この部屋をもう一度詳しく調べなおしましょう! きっとこの矛盾を解消する手がかりが残って……!」 その時、ベッドで横たわっていたあゆみが、布団を握りしめながらおもむろに身を起こした。 そして俺達の方を見て言った。 「銀子ちゃんのそれ……違うから」それから照明の方に指を向け、続ける。「だから……ごめん。もう明かり消して。お酒で酔ってるっていうか……もう二時だから」 そして再び横たわり、布団の中へと潜り込んで言った。 銀子はぷんすか怒って地団駄を踏んだ。「殺されて死体役になった人が喋るのはルール違反だと言ったじゃないですか! ムキーっ!」 〇 第一話:正義の忍者・白兎登場! あゆみ毒殺事件を解き明かせ! の巻。 〇 初めまして。 私は天の声である。 ここまでの描写はプロローグであり、物語の本編はこれから始まるものである。だが第一話を開始する前に、親愛なる読者の皆様に断りを入れて置かねばならないことがある。 作中の出来事について、主人公の勘八はその一人称でハッキリと『死体』『毒薬』と言った言葉を使用している。しかし実際にはあゆみは死んではおらず、猛毒はただの激辛パウダーだった訳だ。これはある種のアンフェアで推理小説におけるルール違反とも取れる。ある程度までならゲームにおける設定に基づいて語られていたと言い逃れるかもしれないが、冒頭の『あらすじ』に関しては言い訳の余地はないように思う。 よってここまでの不誠実な描写について謝罪すると共に、今この瞬間から、田中勘八の一人称に明確な嘘は記載しないことを約束する。ゲームの設定に基づいて何かを語ることは依然としてあるだろうが、その場合そうであることが明白であるように描写させていただく。 田中勘八という主人公は精神的に極めて健康な人物で、これから彼がどれほど突飛なことを物語ろうとも、それは作中世界における掛け値なしの明確な真実なのである。そのことを前提条件として、語り部を再び勘八へと返し、物語を再開させていただくものとする。 〇 これと言って大きな問題ではないのだが、いやまあ本当は大きな問題ではあるのだろうが、俺達自身はそれほど困っていないこととして、2011年12現在、この街はゾンビで溢れかえっていた。 ゾンビというのはアレだ。まあたいがい知ってるよなと思いつつ説明すると、全身が中途半端に腐った状態の人間の死体が、不快なうめき声をあげながらあちこち徘徊するというあのグロい奴だ。生きた人間に遭遇すると襲い掛かって来る訳だが、襲われて体の一部を食われた人間はそいつ自身がゾンビになってしまう。それによりゾンビはどんどん増殖しながら、この世界全体を覆い尽くしていくという仕組みだ。なんとも恐ろしい怪物なのである。 例によって、街は今封鎖状態にある。ゾンビが外に漏れるのを防ぐ為だ。 俺達の済む館はその街の中にあるので、住人は当然館から出ることが出来ない。しかし館のセキュリティは万全であり、壁や窓ガラスや玄関扉は堅牢な為、内部は完全な安全地帯だ。 それでも館に閉じ込められているのは不便である為、俺達の叔父で銀子の父である銀次郎が、ヘリコプターで救助を依頼することもあった。不死の怪物であるゾンビには基本的に太刀打ち出来ない為、救助隊は通常の手段では俺達を救出に来られない。しかしゾンビも空は飛べないことから、ヘリを用いて屋上から助けて貰えば安全な街の外へと出られる訳である。 そこへ来ての、この吹雪である。 並の吹雪ではない。低温化で強力な台風が来たらこうなるという、大雨洪水がそのまま雪となったような原因不明の悪天候が、一か月近く続いている。異常気象だ。もっとも雨が雪に代わるのは特別気温が低くなる時々の話であって、それ以外の時はただの冷たい雨なので、館の一階が全部雪に埋もれるようなことはなかったが。 それでも庭は雪に埋もれているか洪水に浸されているかのどちらかである。庭の周囲にはいくつかある門を除き鉄壁で囲まれていた為、ゾンビこそ侵入してくることはなかったが、庭の設備が使えなくなったことに違いはない。庭は亡き母が残した綺麗な庭園で覆われていて、中央にある池は銀子のお気に入りで錦鯉がうじゃうじゃ泳いでいて、巨大なガレージは銀次郎自慢の高級車で満車状態だった。だが今となってはそれらもすべてが台無しだ。かくいう俺も、良く友達を招いて打ち合っていたテニスコートが惜しくてならない。 だがそれ以上に問題なのはヘリでの救助が不可能という点である。この嵐の中でそんなものを飛ばせばたちまち墜落してゾンビ共の餌食となることは必至であり、電話口で銀次郎が如何に「ここでワイに恩を返そうとは思わんのか!」だの「言うこと聞かへんならクビにするぞ!」などと喚いたところでどうにもならない。 俺達はこの館の中で閉じ込められてしまっていた。 だが、そのことに悲観したり、増してパニックになったりするようなことは、まったくない。 館の中にいる限り死ぬことはない。ゾンビは館内はもちろん、鉄壁で囲われた庭にすら侵入不可能なのだ。本館地下の体育館くらいの巨大な規模の食糧庫には、缶詰などの食糧が満載されており、向こう数年、十数年に渡って食い逸れる心配はないそうである。ゴミは地下にある焼却炉で灰にしておけば済むので館の衛生も確保できる。館のインフラは何か特殊で安全なルートで今も届いているし、それらに万が一のことがあったとしても、ガスや電気や水道を館で賄う貯えや手段はあるようだった。 どうあれ衣食住に渡って完膚無きまでに安心・安全だ。娯楽もたっぷりある。ネット環境ももちろん館内では生きているのでそれで遊べる。2011年現代でも、書籍や映像作品、ゲームソフトを電子的にやり取りすることは可能なのだ。そして俺達はそれを広々とした自室のモニターから、或いは映画館と見まごう巨大なシアター・ルームから、安全快適に楽しむことが出来る。 運動不足になることもない。本館と渡り廊下で繋がった西館には多様な設備を誇るジムがあり、そこでしょっちゅう筋トレをしているので俺の肉体は絞られている。叔父の銀次郎などとても中年とは思えないムキムキのマッスルボディを維持している。同じく別館のプールは適温の温水で満たされていて、あゆみが良くダイエットの為にビート板にバタ足でぱちゃぱちゃ泳いでいる。銀子はインドア派だが、たまには体育館でバトミントンをやりたがる。 外に出られないのがつらくないかと言われると、まあちょっとはつらいが、そんなにである。使用人達にとっては職場に閉じ込められたようなものでしんどそうだが、俺達家族は皆この館が大好きだった。館は広くて清潔で便利で贅沢だった。2000坪の広大な土地と四つの館があった。その内訳は地上四階地下二階建ての本館と、プールやジムのある西館と父の研究棟である東館、時計塔とも呼ばれる旧館だった。築年数はかなり経っていたが、度重なるリフォームによりどの建物も常に最新の設備があった。何よりここは父の館だから、そこにいる限り俺達は皇族だった。家族内での人間関係の方も、なかなかに仲睦まじくそれなりに良好だった。 姉のあゆみとも従妹の銀子とも俺は仲が良いし、使用人や部下に対しては暴君のように振る舞う叔父の銀次郎にしても、俺達に対しては優しかった。父の金一郎もまた教育的に振舞うことは少なかったが、極めて優秀な科学者で、それゆえに莫大な財を築いており俺は尊敬していた。父は今もゾンビ騒動を収める為の研究で東館に引き籠っている。母親はいない。俺とあゆみにも銀子にも。 俺は館の環境に深く感謝していた。館でしか俺は暮らせなかったし館で暮らせるなら他は何でも良かった。中学三年間、お受験して入った学校の寮に住んでいたことがあるが、そこの環境は地獄そのものだった。中防の汗が染みこんだ寮はあちこちに砂埃が張り付いていて、乗ると軋みをあげる二段ベッドからは、絶えず同級生のイビキが聞こえて来てまるで休まらなかった。風呂には黒カビがびっしりしみついていて、それらを繰り返しスポンジで擦って少しでも薄くするのは俺一人の仕事だった。寮の仲間はそんなもん何も気にしなかったからだ。寮の四人部屋の面積は館の自室の半分を大幅に下回り、自分のものを置くスペースは勉強机の他には粗末なカラーボックス一つしかなく、床は三人の同居人が座り込めば通路すら確保出来なくなる程だ。提供される食事はと言うと、館で飼われているアルダブラゾウガメの餌よりも遥かに粗末かつ安価で、とても食べ物とは言えなかった。自由がないことよりも家族から離れることよりも、俺はその寮の設備環境を前に発狂寸前に追い詰められた。 そんなんだから中学を卒業してすぐ、高等部への進学を拒否して俺はこの街に戻ってきた。そのまま学校に残っていれば、日本でも一二を争う知名度の私立大学までエスカレーター式に進学出来たのだが、そんなものは惜しくもなんともなかった。それほどこの館が恋しくてならなかった。世の中には規則・環境共にもっと過酷な寮がいくらでもあるそうだったが、それでも三年間しか我慢できなかった俺を、学友たちは内心バカにしただろう。だがそれにしたって、同じ学校の女子寮で一か月半で体調を崩し、泣きながら館へ逃げ帰ったあゆみと比べれば、中等部を卒業できた分遥かにマシであるに違いない。 そんなんだから俺とあゆみは、可愛い従妹である銀子に、親に何を言われても進学先は自宅から通えるところにするよう、口を酸っぱくして促している。かくいう小六の時の俺も姉の忠告に従えば良かったのだ。敬服し尊重すべきありがたいその忠言を何故俺が拒んだのかというと、幼さ故の愚かさで、館の外での暮らしに無謀な憧れを抱いていたからだ。そうすることで温室育ちのお坊ちゃんから抜け出せると信じていた。だがそんなものは愚かな考えだった。何せ「あそこは猿の住む動物園の汚い檻だよ!」というあゆみの表現は、誇張でも何でもなかったのだから! この館に帰ってこられて、俺は本当にほっとした。ここは天国であの寮は地獄だと心から思った。だから当然高校は館から徒歩圏内の場所を選んだし、大学だって、運転手に何時間でも車を運転させて実家から通うつもりだ。この館にいられるのなら、何があっても俺は幸せだったし、それはあゆみも銀子も同じ気持ちに違いなかった。 例え街中にゾンビが溢れかえって、一歩も外へ出られないのだとしても。 〇 『死体役』のあゆみに勝手に口を開かれた銀子は、地団駄を踏んで文句を言った。 「こういうゲームは、ルールをちゃんと守らないと白けるんですよ。姉さまはその辺のこと分かってないんです」 「まあそういうな」俺は銀子の肩を叩いて軽く宥めた。「もう二時を回って、姉ちゃんも眠たいんだろう。今のおまえの推理も、良いところまでは行っていたと思う。明日また一緒に改めて検討しようじゃないか」 銀子はしばらく口を尖らせていたが、ここ数日この遊びに付き合わされて碌に寝ていないというメイドの白い目線を一瞥して、解散することを了承した。 館での豊かながら退屈な日々を楽しく過ごす為、俺達は銀子の発案であるゲームに興じていた。 その名は『毒殺ゲーム』。参加者は以下の五人。俺とあゆみと銀子とメイドとട്യൂണだ。 俺とあゆみは銀子の遊びに良く付き合っており、自身も楽しんでいる。メイドは執事の娘ということもありこの館に俺らより長く住んでいて、付き合いも長く銀子に気に入られている。そこにいつもなんかいる外国人のട്യൂണも加え、五人でその遊びは始まった。 ルールは以下の通りである。 くじ引きにより『犯人役』を一人決める。残りの四人は『探偵チーム』だ。誰が犯人役を引いたかは明かされない。犯人役は猛毒に見立てた激辛パウダー(チューブ入りで練り状・サイズはポケットに入るくらい)を常に持ち歩き、『探偵チーム』の誰か一人にそれを服毒させる。毒を飲んだ一人は『死体役』となり、自身が死亡した旨を伝え、後は物言わぬ屍の振りをしなければならない。そして残る四人が、誰が毒を盛った『犯人』なのかを推理するという訳だ。 尚、犯人役の『自殺』は認められていない。 銀子発案のなかなかに面白いそのゲームにより、ここ数日の俺の暮らしはスリリングなものとなった。探偵役達はいつ誰に毒が盛られるか警戒しながら日々を過ごし、とうとう事件が起きたのが本日だった。 〇 広く快適な自室に戻った俺は、高い天井を眺めながら事件について考えていた。 その始まりは、今日の夜の十時頃、部屋でくつろいでいた俺の元に、姉のあゆみが訪ねて来たことだった。 あゆみは胸が弾んでいる様子だった。同時に目を赤くして涙を浮かべてもいた。2011年現在普及率三割未満であるスマートフォンを握りしめて、あゆみは俺に力強い口調で訴えた。 「クラスメイトの高橋真里菜が死んだ!」 「そうか。そりゃ残念だな」俺は姉に共感する口調で言った。 「残念なんかじゃない! 嬉しいの!」 「そうか。そりゃ良かったな」俺は姉に共感する口調で言った。 「こんなに嬉しいことがあたしにあるなんて……。お金持ちの家に生まれたこと以外、何も良いことのない人生だと思っていたのに……。……うぅうう……ふぁあああああんん……!」 感激のあまりむせび泣くあゆみ。手に握られていたスマートフォンには、『四津崎市生存者志望者まとめサイト』のページが表示されていた。 四津崎市生存者志望者まとめサイトとは、まあサイト名そのまんまの趣旨で、ようはこの街で起きているゾンビパニックの犠牲者をまとめたサイトである。Wi-Fiや光回線は業者によるメンテなしでまだ生きている個所もあり、というか外の人達が街の中にインフラが届くよう工夫し続けてくれていて、そのお陰でこうしたサイトも成り立っていた。 ゾンビはびこるこの街では過酷なサバイバルが行われており、毎日かなりの人数がゾンビに襲われるなどして死亡している。限られた食料は奪い合いであり、飢え死にということも珍しくない。親しい友人たちの訃報を知るのは珍しいことでもなく、その度に俺は心を深く痛めたが、それと同時に、自分達だけは安全であることへの安堵のようなものが、仄かに沸き立って来るようでもあった。 「その高橋真里菜ってのは誰なんだよ?」俺はあゆみに尋ねた。 「嫌な人だったの!」あゆみは両手を握り締めて訴えた。「聞こえよがしに悪口言って来たり、教科書や筆記用具を隠されたり、脚をかけられて転ばされたり……。あたし、その人がいる所為で学校に行くのが毎日嫌で嫌で……」 あゆみは生粋のお嬢様故やや性格に癖があり、空気を読めず協調性もなく、館と家族と自分以外を何とも思っていないのが外に伝わるところがあるので、周囲からはあまり好かれることがなかった。嫌われた相手の質によってはちょっかいをかけられることもある訳だが、それを跳ね返したり受け流したりも出来ない大人しいタイプでもあった。その為学校ではしばしば継続的に酷い仕打ちを受けることもあった。 無論そんなクソガキなど、親父である金一郎の権力を使えばどうとでも捻じ伏せられる訳だが、自分から事を構える行動力はあゆみには備わっていないようだった。よって父の力が発動するには追い込まれた本人に体調不良や引き籠りなど具体的な問題が生じた後、俺や執事の長者原などが穏やかに理由を聞きだしてあげるというプロセスが必要となる。 そしてそんなあゆみを現代進行形でいじめていた高橋ナニガシが、ゾンビパニックによって死亡したという報せがあったようだ。 「嬉しいぃ……本当に本当に嬉しい……!」あゆみはさめざめと泣いていた。嬉し泣きである。「ねぇ勘八。お酒飲もう。祝杯を挙げるんだよ。良いでしょう?」 気が弱くて無抵抗主義な癖して、いざ加害者が死んだら本気で嬉し泣きして、祝杯をあげようとか言い出すのがこの姉である。そういう根性してる上それを取り繕わないから友達も出来ないんだ。将来が危ぶまれる。とは言えどうせこの人は一生涯、俺と同様この館と父の金にしがみ付いて生きられる訳だし、特別指摘するつもりもなかったが。 「良いぞ。でもその酒はどうするんだよ?」 「それをこれから一緒に取りに行くの」 ようはこれを一人でする度胸がなかったんだろうと俺は思ったが、まあ楽しそうだし、口には出さず俺達はキッチンの奥にあるワインセラーに忍び込んだ。 館のメインキッチンは一階であり、ほとんど一日中館の料理人がごぞごぞやっている場所だったが、夜中である今は誰もいなかった。なので簡単に酒蔵庫に忍び込むことが出来た。叔父の銀次郎自慢の酒蔵庫には、毎日一本ずつ消化しても十年は持つという量の古今東西の美酒が詰め込まれていた。 分かりもしないのにまる一分ほどワインを吟味したあゆみは、指運としか思えない手つきで一本の瓶を手に取った。 「これがおいしそう」 「ようし。使用人共に見えないよう、カバンに入れて持ち帰ろう」 そのままあゆみの部屋に移動する。それはちょっとした冒険であり俺達は楽しかった。俺は美人でスタイルも良い姉の容姿が好きだったし、外に出ると途端に孤独になるあゆみの方も、歳の近い身内の俺に深い親しみを持っているようだった。それ故に、二人で叔父のワインをちょろまかしあゆみの部屋で飲酒に耽るという行いには心地良い一体感と興奮が伴い、二人でかなり盛り上がった。実態としては、あゆみが延々と高橋ナニガシの悪口を言うのを、俺が共感した風に聞いていただけではあったけれども。 十一時も回ろうというところに、従妹の銀子がやって来て、部屋をノックした。 「あゆみ姉さまーっ。兄さま知りませんか?」 あゆみはその時点で結構ぐにゃぐにゃに出来上がっていて、座椅子に深く腰掛けていた。そのまま心地良く寝落ちしてベッドまでは俺に運ばせる魂胆なのだ。しかしそれを遮ったノックの音に、あゆみは「んぁ?」とけだるげな視線を扉の方に向けた。 「どーしよぉ。今眠いんだけど……」 「居留守は可哀そうだよなぁ」 「そーだけど……そーだよねぇ……」 「まあ用があるのは俺みたいだし、姉ちゃんはそのまま寝てろよ」 「んん……」 俺は姉の代わりに銀子に対応した。「よぉ」 「ああ兄さま。ここにいたんですか。……おや?」銀子は俺達の飲んでいたワインに目を付けた。そして唇を尖らせた。「何を楽しそうなことを二人だけで!」 「おまえにゃ酒は早いよ」 「人のこと言えないでしょう! しかし兄さま。今はそんなことしてる場合じゃないですよ」 「なんでだよ」 「カオス・クレイドルの新作! そのデータが今日、とうとう届いたのです!」 「マジか!」 俺は歓喜した。カオス・クレイドルと言えば世界中で大人気の傑作ロールプレイング・ゲーム・シリーズであり、俺も銀子もその大ファンだった。しかし2011年現在そのソフトのネット配信が成されていない都合上、ゾンビに囲まれた館から出られない俺達がそれをプレイするには、不正な手段を用いて外部から解析・圧縮したデータを送って貰う必要があった。 「早速シアタールームに行こうぜ。大画面で楽しまなくっちゃあ」俺は興奮して言った。 「もちろんです。そのお誘いに来ました。そして」銀子は座椅子でうとうとしているあゆみにも目を付けた。「あゆみ姉さまも一緒に行きましょう!」 銀子は同性の身内であるあゆみに懐いていて、何をするにも一緒に来て貰いたがる。あゆみは気が乗らない様子で「今、眠くて……酔ってて……」などと言っているが、銀子は一度わがままを言い出したらしつこい。 「そんなこと言わずに来てくださいよぅ。ねぇねぇ」 銀子はあゆみにしがみ付いて離れなくなった。手を引き肩を引き強引に立ち上がらせようとまとわりついている。それで仕方なくあゆみは目をこすりながら立ち上がった。 四人で四階にあるシアター・ルームに移動する途中、二階の隅に並んでいる住み込み使用人の部屋の前を通る時、銀子がその内の一つの扉を叩いた。 「あ、おい」 そこは銀子の気に入りの使用人のいる部屋だった。ゾンビパニックの影響で館に閉じ込められた本来は通いの使用人達は、基本的にこの本館ではなく西館の方に住んでいる。だがこの部屋の主は元々この館の住み込みであり、俺達と同じフロアの使用人室で寝起きしていた。 「何? 銀子ちゃん?」 使用人室からは見知ったメイドが姿を現した。執事の長者原の娘である彼女は俺達の生まれる前から館に住んでいたが、俺やあゆみはそれほど使用人ごとの違いに気を配らない為、彼女もまた特筆するところのないメイドの一人と言えた。 「これからシアター・ルームで姉さまと兄さまと遊ぶので、お菓子とかジュースの給仕してください」 「もう勤務終わってるんだけど。今私オフなんだけど。絵の練習とかしたいんだけど」 「良いじゃないですか。遊びましょうよ。あ、そうだ。お酒も持ってきてください。姉さま達が飲んでたようなの。わたしも飲んでみたいです」 「ダメだよ。お父さんにチクるよ?」 「こっちこそ父さまにあることないこと言いますよ? 良いから持って来てくださいよ。ねぇねぇ」 俺達の叔父である銀次郎は、娘の銀子を溺愛しており、自分や娘に逆らった使用人に物理的な鉄槌を加えることも辞さない。館の使用人たちにもぶっちぎりで嫌われている暴君だった。 メイドは屈したように深くため息を吐くと、「かしこまりました。お嬢様」と皮肉っぽく言った。 俺達にもタメ口を利いてこんな態度だが、それが銀子にとっては受けが良いらしい。俺達にとっては幼馴染と言えないこともなく距離感も近い。ようは友達感覚の相手ということだ。 その後俺達はシアタールームでメイドの給仕を受けながら騒いでいた。ട്യൂണもなんかずっと一緒にいた。菓子も食えば酒も飲んでいて何ならコントローラーも握っていた。俺達の中で一番プレイが上手く、戦闘シーンでは恐ろしく頼りになった。 それほどゲームをやらないあゆみは退屈そうに後ろから眺めていて、「なんであたしいるんだろう」という表情で、銀子の為にメイドが持ってきたワインをちびりちびりと飲んでいた。 「もうその辺にしとけよ」 「暇だもん」あゆみはワインを煽った。 「一緒にやらないか?」コントローラーは余っている。 「負けたら銀子ちゃんにもんくゆわれるもん……」あゆみは唇をふにゃふにゃとさせ、目を薄く閉じたり開いたりした。「あたしげーむへたあしみてるのきらいじゃないけどろうれあふあらひふどふ……」 「呂律回ってねぇぞ」 あゆみは完全は潰れて、「あたまいたい、あたまいたい」としきりに目をこすりながら、メイドとട്യൂണに運ばれて行った。 あゆみがいなくなってからも銀子は夜宴を終わらせなかった。十二時を回り一時が近づいてもゲームをやり続け、その内腹が減ったと言い出してメイドとട്യൂണに夜食を作らせた。 「もういい加減にして?」とメイド。 「夜はこれからですよ」銀子は言うことを聞かない。 メイドは俺の方に白い眼を向けた。あんたが終わらせなさいよと言いたげだった。確かに俺が強く言えば銀子も夜宴をやめただろう。しかし館に閉じ込められた生活の退屈さや窮屈さを、従兄である俺達との夜更かしとゲームで発散している、幼い銀子の気持ちの方を俺は慮った。なので俺は銀子を止めることなく、魔法使いのキャラクターを操作して、怪物に向けて火炎や電撃を浴びせ続けた。 やがて夜食が出来上がると、銀子は今度は「姉さまも誘いましょう」と言い出した。 「寝てるんだろ? 起こすことはないんじゃないか?」と俺。 「姉さまがいないと夜食もつまらないです。皆で起こしに行きましょう」 結局皆であゆみの部屋に行くことになった。と言っても部屋の中に入ったのは俺と銀子だけでメイドとട്യൂണは扉の前で待機していた。ご令嬢の部屋に家族でもない者が必要性もないのに入るのはノン・マナーという訳だ。 銀子が明かりを点ける。部屋は広く扉からベッドまでは距離があった。あゆみはうつぶせで眠っていた。普段通りの眠姿勢であゆみはいつも両手を脚の方にピンと伸ばしてうつぶせで眠る。分厚い冬用布団に隠されているが多分その姿勢だろう。広いベッドの枕元には自分で作った下手糞な(と本人に言ったことはないが確かに下手糞な)テディベヤが並んでいた。これを銀子が心から感心して褒める点が、二人の絆を支えていると言える。 「姉さま。夜食作ったんで起きてください」作ったのは銀子ではないが銀子はそう言った。 「……」あゆみは死んだように動かない。 「姉さまぁ。起きてくださいよぅ。ねぇねぇ」 銀子は布団の上に両手を置いて中のあゆみを揺すった。この時あゆみの身体のいずれの箇所にも直接触れた様子はなかった。あゆみは身じろぎして顔だけをこちらに向けた。銀子ではなく俺の方に。そのアイコンタクトによって、何とかしてくれというあゆみの意思が長い付き合いから来る以心伝心で伝わった。 「やっぱり眠いみたいだぞ」俺は銀子の肩を叩いて言った。「勘弁してやれよ」 銀子は尚もあゆみの体を揺すり続けていた。あゆみはうんざりした表情で、軽く身を起して銀子の方を見た。 「お? 起きられましたか?」銀子は目を輝かせた。 「……ごめん」あゆみは口元のよだれを手で拭った。「今あたし死んでる」 「……は?」銀子は目を丸くした。 「……死んでるから……。毒殺されてるから。じゃ、おやすみ」 ばたんきゅう。という感じであゆみは顔から枕に向けて突っ伏した。 〇 それから銀子は誰が殺した誰が犯人だと喚き、死体役のあゆみが寝ている部屋を無遠慮に弄ったが、枕元の激辛パウダーが塗られたコップ以外の手がかりは見付からなかった。 そのコップが、最初にあゆみがメイドとട്യൂണによって運ばれたタイミングで自室になかったことは、先の議論で把握済みである。部屋に運ばれた後、あゆみが酔っ払いの本能で自ら水を取りに行ったか、他の使用人に頼んで持ってこさせたかだというのが、探偵チームの共通見解だった。 あの後いったん用意された夜食だけ食べて解散となった俺達だったが、一時間後の午前二時、銀子によって俺達はあゆみの部屋へと呼び出され、的外れの推理を披露されることとなったという訳だ。 回想を終えた俺は時計を見つめた。午前三時前。流石に眠ろうと思い、俺は目を閉じた。 眠気はなかなかやって来なかった。妙に目が冴えている。 数分経つ。軽くまどろんではいるのだが、意識を手放すことが出来ない。 さらに数分。眠れずに俺は目を開いた。 天井が目に入る。 そこに忍者がぶら下がっていた。 俺はがばりと身を起こした。 忍者がいた。それもくの一だ。髪の長い女の忍者だ。まるで天地が翻ったかのように高い天井に足袋を付け逆さまに立っている。白に近い紺色の忍び装束で、艶やかな模様の付いた水色の布が腰回りに巻き付いて、スラリとした袴を固定しつつ上衣との境界を明らかにしている。頭巾は付けておらず、その為やけに長いつややかな漆の髪が露わになっており、ベッドに座る俺の眼前まで垂れていた。漂う甘い匂い。 やけに美しいくの一だった。まず肌が白い。色白の肌とかそういう次元ではなく、プリント用紙とかそういうものを彷彿とさせるほどはっきりくっきり白い。目は切れ長で澄み切った黒い色をしていてまるで宝石のようだ。鼻は高く涼しげな瓜実顔で、唇は血のように真っ赤だった。 「だ、誰だおまえは!」俺は思わず叫んだ。 「私は正義の忍者・望月白兎(もちづきしろうさぎ)!」忍者は瞳孔をかっぴろげて叫んだ。かと思えば照れたような顔になった。「あ、うさぎさんって呼んでね。その方がね、かわいいからね」 「どうやってここに入った? セキュリティは?」 「すべて解除させてもらった! うさぎさんはすごいだろう!」 「嘘だ! そんなこと忍者でもない限り出来る訳がない!」 「うさぎさんは忍者だ!」 望月白兎を名乗る自称忍者は天井から足を離し、空中で一回転して俺の前に直立した。曲芸染みた体術。部屋の家具との比較で女にしちゃかなりタッパが高いことが目の前に来て分かる。百八十の俺とそれ程変わらない。百七十五かそれ以上はあるはずだ。 そして望月白兎はその直後、俺の肩を掴んでベッドに押し倒していた。 「何をする……!」 「貴様を諜報活動のスパイに仕立て上げるのだ!」望月白兎は叫んで俺の服を脱がしにかかった。「篭絡してくれる! さあ! うさぎさんの蜜壺を味わえ!」 いちいち声が裏返る程叫ぶ奴だ。普通に喋っている時はむしろ明るくて可愛らしい声なのだが、叫ぶと途端に頭に響く。俺は抵抗したが、その変態忍者女の腕力は化け物染みていて、なかなか振り払うことが出来ない。 「暴れんな! 暴れんなよ!」 「そっちこそ手ぇ止めろこの変態女! なんのつもりだよ!」 「このゾンビ騒動を収める為には、元凶たるこの館の調査が必要なのだ! その為には住人である貴様の協力が必要だ! ……大丈夫。優しくするからね。うさぎさんもこういうの初めてだけときっと上手くやるからね」 「何を訳分からねぇことを……」 俺は渾身の力で望月白兎の腕をつかみ上げることに成功し、そのまま大きく体を左右に振り、寝技の姿勢に入った。俺は中学三年間柔道をやっていて二段も獲得している。国体出場! 俺は培った技術を活用して最後には体勢を入れ替えることに成功していた。 「もう観念しろよ」俺は相手を抑え込みながら息も絶え絶えだった。「使用人共に突き出してやる! たっぷり話を聞かせてもらった上、外に放り出すか館の地下牢に監禁か……」 「勝ったと思っているのか! 愚かなり!」 白兎が叫ぶと同時に俺の視界が真っ白になった。俺の周囲に白い煙が充満して目が痛み喉が痒くなった。思わず咳が出る。 「うさぎさん忍法……煙玉!」 煙玉らしかった。しかし俺は白兎の体をがっちりと掴んでいる。いくら並の男より背が高く力が強いと言っても、所詮女の体だからがっちり体重を掛けておけば、抜け出すことは出来ないはずだ。 ……と思っていた。しかし煙が晴れた時、俺が白兎だと思って抑え込んでいたものは、百六十センチ程の大きさのラブドールに変化していた。 「……嘘だろ……」 何年も前館の地下倉庫を探検して見付けた奴だ。銀子に付き合わされたとかじゃなく、小学生の頃あゆみと一緒に発見したのだ。その時はこれが何なのかさえ分からず、あゆみなどは「可愛いお人形さん」と感心していた。 呆然とする俺の背後から白兎の長い腕が俺の背後から巻き付いて、ぞっとする程冷たい感触のする苦無が首筋に突き付けられた。 「うさぎさん忍法……変わり身の術!」 変わり身の術らしかった。どういう原理だよ! 「……ごめんね。こんな手荒なことは本当はしたくないんだ」 「じゃあやめろよ」 「やめない! 私は絶対にゾンビ騒動の真相を突き止める! 協力しろ!」 「この館とゾンビ騒動に何の関係があるんだよ!」 「希代のマッドサイエンストである田中金一郎を除いて、こんな異常事態を引き起こせる奴がいるものか!」 俺はカチンと来る。父金一郎がゾンビパニックの元凶というのはネットでは有名な陰謀論だが、そんなものはただの言いがかりに過ぎない。確かに金一郎は世界最高峰の科学者と言って良いが、だからって人をゾンビにするような研究をするはずがない。 アタマに来た俺はベッドの傍に設置された緊急ボタンを防御ガラスごと蹴り飛ばした。瞬く間にサイレン音が鳴り響き、真っ赤なライトが屋敷中を駆け廻った。 「何をする!」 「こういう時の為のボタンを押しただけだよ! 今に警備員が来るから覚悟しやがれ!」 「く……っ」白兎は苦虫を噛んだような顔をした。「一時離脱!」 白兎は俺を離すとその場をその場を跳躍してどこへともなく消えた。俺の部屋は広く隠れるところも数か所あるとは言え、この一瞬で姿を眩ますとはどういうことだ? どうあれこの部屋にいる限りいつ白兎から奇襲を受けるか分からない。俺は部屋の外へ逃げ出した。すると同じ二階で寝起きしている執事の長者原(ちょうじゃばる)が血相を変えて駆けつけている他、その娘である住み込みメイドも背後であくびを噛み殺している。何故かട്യൂണもひょっこり立っていた。 「お坊ちゃま。どうなさいましたか?」長者原は必死の形相だ。 「謎の忍者が部屋に忍び込んで俺を逆レイプしにかかったんだ!」俺は起きたことをありのままに述べた。 「……は? ……はあ?」長者原は耳を疑うとばかりに俺の顔を覗き込んだ。 「だから……謎の忍者が部屋に忍び込んで……」言いながら俺の声は小さくなっている。 「ねぼけてんじゃないの?」メイドが冷笑的な声で言った。 「よさんか紬!」長者原は娘であり部下でもあるメイドを叱責した。「それで、その忍者というのはいったいどこに……」 「この部屋のどこかだ。姿を眩まされたけど、きっとどこかに隠れているはずだ」俺は言って、扉を開けようとして、硬直した。 「どう、しましたか? あけない、ですか?」ട്യൂണがいぶかしげな顔をする。 「い……いや」 俺は部屋の中に置きっぱなしのはずのラブドールのことを思い出す。あれを俺の持ち物と誤解されないか? 俺は思わず言う。「ちょっと待ってくれ」 「待っている場合ではありません」長者原は俺の部屋の扉に手をかけた。「もしその忍者……不届き者が本当にこの部屋にいるのであれば、お坊ちゃま一人をこの部屋の中に入れる訳には行きませんから」 「それはそうだが……」俺は冷や汗をかいている。「分かった。でも、誤解すんなよ」 躊躇している場合じゃないと判断し、長者原達を部屋に招き入れた。 部屋のベッドにはラブドールが腰掛けておりメイドは「うわぁ……」と白い眼を俺に向けた。 「これは俺のじゃないんだって」 「じゃ、なんでここにあるのよ」 「忍者が変わり身の術でこれに変身したんだ」 「あんたバカぁ? もっとマシな言い訳をしなさいよ」 「俺だってこんなバカげたこと言いたくねぇんだよ!」 「紬。これはお坊ちゃまのプライベートの問題だ。十六歳という年齢を考えれば、不健全ということもない。悪戯に言及するのは失礼の極みであるぞ」長者原は娘を叱責した。「お坊ちゃま。このことは私共の誰も他には漏らしませぬ。いいや、私共も、この騒動が終わりましたらすぐに忘れます」 「もうそれで良いよ」俺は泣きたい気分だった。 その後部屋の捜索が行われたが、白兎はどこにも見付からなかった。 「……見付かりませんな」ここまで来ると、長者原までもが俺のことを疑っている様子だった。 「本当にいたんだって……」俺は子供のような声を出すしかない。 「寝ぼけてんのよ」メイドは呆れた様子だ。 「自分でもそうじゃないかと思えて来た」 「そもそも、この館に侵入する方法が思いつきませんからな」と長者原。「警備の者に館中の監視カメラを調べさせていますが、族が侵入した映像は見付けられないようです。……どうしたものですかな」 「人騒がせね」メイドは鼻を鳴らした。「まあ、無理もないわ。いくらその子がお坊ちゃんで館で好き放題出来ると言っても、ゾンビに囲まれてずっと閉じ込められてたら、妄想に取り付かれるくらいのことはあり得る話よ。私の同僚も何人かそれで気が変になってるし」 「ふうむ……」 「あの、みなさん。そうきめつけるのは、きけん、じゃないですか?」ട്യൂണがおずおずとした口調で言った。「もし、ほんとう、だったら、それは、その……でんじゃー! でんじゃー!」 「もちろん警備は強化いたします」長者原は厳かに頷いた。「引き続き警備員達には不休で不審者の捜索をさせましょう。そして、使用人達を全員起して館中を巡回させます」 「えーっ。だるっ」メイドは舌打ちした。「それ、私も参加するんでしょう?」 「紬。業務はちゃんとこなさんか」 「こいつの妄想にどこまで付き合えば良いのよ?」メイドは俺の方に親指を向けて悪態を吐く。 「貴様自分の仕事にプライドを持たんか! そもそも使用人というのはだな……」 「ああ……もういいよ。いいよもう」俺はいい加減くたびれていた。「流石にそこまでさせるのは申し訳ないよ」 「しかしお坊ちゃま……」 「きっと夢でも見たんだろう」 俺はそろそろ本気でそう思いつつあった。考えてもみれば女の忍者が夜這いを掛けに部屋に侵入して来るなんて、男子中学生の妄想みたいなことが現実に起こるはずがない。そして俺は男子高校生だからそういう夢をいつ見てもおかしくないし、あゆみに付き合って酒が入っている状態でもあるから夢を現実と勘違いすることもある。監禁生活のストレスに夜更かしと飲酒による酩酊が加われば多少の錯乱状態は引き起こされるというものだ。 「騒ぎを起こしてすまなかった」俺は頭を下げた。「メイドさんも、それに外人さんも」 「……今回の騒動は、警備システムの誤作動ということにしておきます」長者原は俺を気遣った。「お坊ちゃま。今夜はしっかりと休まれてください」 そして長者原達は去っていく。「しっかりね」とメイドが一言残していったのを、俺はあいまいに頷いて部屋の扉を締め直し、ラブドールを蹴飛ばしてベッドに横になった。 ……なんでこんなことになったんだ? そもそもあれは本当に夢なのか? そこが曖昧なのだとすれば、使用人たちを帰したのはまずかったんじゃないか? 飲酒によってもし俺がまともでなくなっているのだとしたら、それは夢を夢でないと勘違いしたことではなかった。現実を夢だと勘違いしたことだ。自分で自分を信用できず、いたたまれなさに耐えかねて、安易な妄想論に取り縋ってその場を収めてしまったことだ。 その報いは天井からすぐに表れた。天井に脚を付けて逆さまの姿勢の、白兎の端正な顔が眼前に現れる。 「ねぇ。なんであんなヤバい奴いるの?」白兎は話し掛けて来た。 「……ヤバいのはおまえだよ」俺は頭を押さえた。なんてこった。どう見ても現実だ 「いやさ……流石にうさぎさんもあれはどうにもなんないよ? かくれんぼは得意だけどもし見付かっちゃったら」 「どこに隠れていた?」 「そこの棚の中」白兎は本やゲームソフトなどが入った棚を指さした。「入ってるもの整理したら中に隠れられた」 「嘘だぁ? 人が入れるスペースねぇだろ」 「うさぎさん忍法! 関節外し!」白兎は全身の関節を外して自信をコンパクトに、百七十センチ後半台の身長を通学カバンに入りそうなサイズに折りたたんだ。それはまさに曲芸というしかなく俺は思わず感心して、逃げることもせずに見入ってしまった。 「す、すげぇ……」 「どうだ驚いたか!」白兎はバキバキと音を立てて関節をはめなおして元の体に戻った。「うさぎさんはね……忍者なんだよ!」 「それはもう信じるけどさ……」 「改めていざ参らん!」白兎は天井から足を離し、空中で一回転して床に着地した。「うさぎさんの蜜壺を味わえ!」 俺は焦った。もうこの変態糞忍者と格闘する気力はなかった。というか多分勝てないだろうことも先ほどのやり取りで分かっていた。そして別に勝てなくても良いんじゃないかという意識もにわかに芽生えていた。この女に俺を殺したり傷つけたりしようという意思はなさそうであり、どころかむしろイイ思いを出来そうな成り行きでさえある。諜報活動のスパイにするだのなんだの言っていたが、一発蜜壺とやらを味わったくらいで篭絡されることはないだろう。 そう思い、俺は抵抗を諦めて体の力を抜いた。 白兎は来なかった。 白兎は俺の目の前で突っ伏して倒れていた。俺は訝しんだ。さっきまであんなに元気だったのに急に倒れて動かなくなっていた。やけに真っ黒で長い髪があたりに広がって、長い手足は力なく伸びきって身じろぎ一つしない。なんだ? 俺は呑気にも白兎の肩を叩いた。「もしもーし……」 白兎は震える声で言った。「……か、すいた」 「は?」俺は耳を澄ませて聞き返した。「なんて?」 「お腹……空いた」白兎は死にそうな表情で顔を上げた。「この街に来てからこの館に辿り着くまで……一回もごはん食べてない……。ごはんどこにもなかった……。お腹……空いた……」 〇 館のメインダイニングはやたら広く、今通っている高校の体育館の面積を軽く凌駕している。銀次郎がパーティを開くのが大好きで、良くこの部屋に要人を集めて贅を尽くした料理を振舞うのだ。何か社交的政治的な意味があるというのもないではないが、それ以上にでかい館に偉い奴らを招いて自尊心を満たすことが目的のようだ。 俺達も良く参加させられる。おめかしした服装をしてお坊ちゃまお嬢様らしく振舞うという訳だ。どちらかというと面倒な行事だったが、要人達もまた俺達と歳の近い子供を連れて来る為、そいつらとつるんでいれば時間は潰す程度は事欠かない。銀子もまあ知らない大人たちにちやほやされて喜んでいるようだ。あゆみの奴は放っておくとたいてい一人で手持無沙汰にしているので、時々は気遣って声をかけてやる必要もあったが。 だがそんなメインダイニングも夜中誰もいない状態となれば、寂しいを通り越して軽く不気味だ。最低限の視界を確保する明かりは常に灯っているので、前が見えないということはなかったが。 そんな中俺はキッチンの食材をテキトウに拝借して得意料理のチャーハンを作り、テーブルに着く白兎に差し出した。 「……ありがとう」白兎はレンゲを取り勢いチャーハンを食い始めた。「おいしいね」 「あんたどこから来たんだよ」 「……街の外から」 「どうやって?」 「君も見たでしょ? 私、忍術を使えるというか、人よりちょっとだけ運動神経とかそういうの良いんだ。たくさん訓練もさせられたしね。それで二日寝ないでゾンビ達を搔い潜って館にやって来て、上手く侵入したんだ」 そう言う白兎はやや元気のない様子だった。良く見れば疲弊の色が表情にも表れており、さらに言うなら最初の印象より顔立ちがあどけない。不眠不休で飯も食わずゾンビ地獄の中館までたどり着いたのだから当然だ。むしろ良くさっきあんなに元気に叫んで動いていたものだ。 「良く生きてたな」 「正義の忍者ですから」白兎は満面の笑みだ。 「正義っていうけどさ。何の目的があってこの館に来たんだよ」 「言ったでしょ? このゾンビ騒動を収める為に。鍵は必ずこの館にあるはずだから……」 「あんたは何者なんだ?」 「正義の忍者なのだ!」白兎は迫真の表情を浮かべた。 「そういうのいいから」 白兎は少し傷付いたような表情で言った。「君のお父さんの腹心の部下の次女」 「ああ……それで望月か」 この女は望月白兎を名乗っていた。望月と言えば良く叔父さんが「どないかしてワイらを助けんか!」と電話越しに怒鳴っている相手であり、タナカカンパニーの常務にあたる人物だ。 「覚えてる? 私達、昔このパーティ会場で一度会ってるんだよ。勘八くん」 「思い出してきたぞ」俺はふんふん言って頷く。「望月さんなら昔良く遊んで貰ったからな。そうだ。俺が小五の時、二人の娘を一度だけ連れて来たんだ。確かどっちも俺より二つ三つ年上だった。あんたはそのどっちかって訳だ」 「私は妹の方。君より二つ上のはずだよ」 「そうか」つうことはこの人十八歳か。「懐かしいな」 言いつつ俺は今一印象になかった。パーティには多くの子供が集まるし、増して色気づく前の小学生の俺にとって、二つ上の女子なんてどうでも良い存在だったのだろう。 「勘八くん、言ってたよね。『僕は将来、お父さんを超える大科学者になる』って」 「ああ? そうだったかな」当時の俺ならそんなことも言いそうな気はする。 「その為に遠くにある中高一貫の名門私立に通うんだってね。それで私はこう返したんだよ。『私は正義の忍者になる。絶対なる』って」 「ああ? ……そうだったかな?」当時の俺でもそんなこと言われたら引いたと思う。 「約束通り、うさぎさんは正義の忍者になったぞ!」口の周りをチャーハンにした白兎は、両手を振り上げて宣言した。「その為に家を裏切って山に籠り、忍者修行に明け暮れていたのだ! そして今、うさぎさんは使命を帯びている! このゾンビパニックを終結させ、ゾンビ溢れる街の中、今にも死にそうに生きている人々を救い出すのだ!」 「だから、どうしてこの館に来ることが、ゾンビ騒動を止めることになるんだよ?」 「君のお父さんがゾンビパニックの元凶だから」 俺は眉を潜めた。この女は狂人の類だとは思うが、だからと言って何を言われても聞き流す訳でもない。 「安楽死させた十二体の豚の脳を、ケーブルで有線接続する実験があったじゃない?」 白兎は真剣な表情だった。受けて立ってやるつもりで、俺は白兎の向かいに腰掛けて頷いた。 「あったな。父さんの行った尊い研究の一つだ」 「あの時の豚は、安楽死と言っても脳だけが機能停止にさせられた状態で、他の臓器はすべて生きていた。そして機能停止した脳にしたって、前頭葉と大脳と海馬の一部はまだ機能を保っていた」 「それが何か?」 「あの実験は有機コンピュータの先駆けと呼べるものを作り出す実験で、実際に相互接続された豚の脳は互いにシグナルを交換し合い、豚の脳としてはあり得ない高度な思考活動を展開することが出来た。事実その実験によって脳同士を接続された豚の内『アルファ』と呼ばれていた個体は、実験開始から一か月で人語を理解し、豚の声帯を使って確かに言葉と呼べるものを話したそうだよね。そしてアルファと会話をした研究者達の多くは、アルファに人間の成人並、或いはそれを凌駕する知能があることを認めた……」 「素晴らしい実験だ」俺は芝居がかった仕草で言った。「父は生物化学においても情報工学においても世界的な……いや世界一の権威だ」 「あの状態の豚は、まさに生ける屍というべき存在だった。歩いて餌を食べて糞をして交尾をしてと言った豚としての自由意思を完全に奪われて、金一郎の意のままに脳の機能を提供するゾンビだったんだ」 「豚をゾンビにしたから人をゾンビにしたのも親父だと?」 「金一郎は豚をゾンビにして脳同士を繋いで高度な知能を実現した。次にする実験は? 人をゾンビにして脳同士を繋ごうとしないとどうして言えるの?」 「しないと言える。何故なら倫理的に問題があるからだ」 「この街を覆っている嵐の発生源がこの館の上空だってのは知ってる?」 俺は目を見開いて白雪を見た。 「知らないだろうね。それはマスコミにも発表されていない……というより、タナカカンパニーの一部幹部しか知らない事実だから」 「どうしてそんなことが分かる?」 「知ろうと思えば一定以上の実力を持った研究機関なら知ることの出来る事実だよ。でもそれを調べさせないように、もし調べられても世間に公表しないように、カンパニーの幹部達が圧力を掛けているんだ。で、その圧力を掛けるっていうの指揮しているのが、カンパニーの常務である私のお父さんって訳」 「俺が言いたいのは、そんな事実をどうしてあんたに分かるかってことだ」 「それはうさぎさんが正義の忍者だから」 「忍者としての諜報活動とやらで入手した情報だと?」 「そう」 「可能か不可能かという話をすれば、嵐を起こすのもゾンビを作るのも、父さんには或いは可能かもしれない」俺は肩を竦める。「父さんの科学に出来ないことはないからな。そしてこの館になら嵐を巻き起こす装置がどこに隠されていてもおかしくはない。十数年住んで来て、俺はこの館の半分も知らないんだ。研究棟である東館は銀次郎叔父さんすら入れないくらいだ。研究棟の地下室に実験用のゾンビが大量に幽閉されていて、その内の数匹が逃げ出してゾンビパニックを引き起こしたという妄想も成り立たなくはない」 「その研究棟を私に調べさせてほしい」 白兎は真剣な表情だった。宝石のような黒い瞳が真っすぐに俺に向けられる。見たこともないほど美しい瞳。美しい顔立ち。俺はたじろいだ。 「君がお父さんを信じようとするのは当然だと思う。でもね、君がお父さんを信じるってことと、私にこの館を調査させるってことは矛盾しないんだ。お父さんを信じているならば、どんなに探られたって平気でしょう? 君はただ、お父さんを疑って館を調べまわった結果却ってお父さんの潔白を証明してしまう私を、後から笑えば良いんだから」 言っていることは筋が通っている。少なくともディベートでそう思わされている。そもそも口でいう程には、父親に対する忠誠心が俺にある訳ではないのだ。純粋な小学生だった数年前ならともかくとして、今の俺は父がヒーローであることを必要としていない。自分が吸いだすことの出来る金と権威の塊であることの方が重要になっている。 それでも面白がる為のただの陰謀論で父に言いがかりを付けて来るなら、少しはイラつかないでもない。金一郎はゾンビ騒動を起こしてなどいないはずだ。むしろそれを収める為の研究に今も励んでいるのだ。 しかしこの白兎という人物は、安全な街の外からゾンビ地獄を抜けてこの館にやって来たのだ。それは生半可な覚悟では出来ないことだ。そこには確かな善意がある。無辜の人々をゾンビ騒動から救うという、そこだけを切り取れば確かに高尚な正義感が。 意思はある。本物の忍者と見まごうような数々の技術と身体能力もある。でははたして、知力の方はいかほどか? 俺が考えに浸っていると、ひたひたという小さな足音が、メインダイニングの入り口の方から聞こえて来た。 「……誰か来る」白兎は素早くそれを察知した。「これ、君が食べてることにして。私は隠れるから」 言い終える前に白兎はその場から消えていた。俺は白兎の前にあったチャーハンの皿を自分の前に移動して、その足音が近づいて来るのを待ち受けた。 「おやおや兄さまではないですか。お早い目覚めで」足音の主は銀子だった。 「寝てないんだよ」俺は答えた。「また腹減って、また夜食だ」 「寝てないのはわたしもです。セキュリティの誤作動でサイレンが鳴りましたでしょう? あれですっかり目が冴えちゃって。まったく迷惑な話です」 「おまえはそもそも夜型だろ? 毎朝昼頃に起きて来る癖に」 「まあそうですが」銀子は笑った。「ちょっとお話しませんか」 「そうだな。座れよ」 「はい」銀子はさっきまで白兎が座っていた席に座った。 俺は天井を見上げた。このメインダイニングのどこに白兎がいるかは分からない。しかし誰にも見付からないどこかには確実にいて、俺達の話を聞いているはずだった。 〇 「やはり話題と言えば、先ほどあゆみ姉さまが毒殺された事件についてですか」と銀子。 「そうだな。ちょっと事件のあらましを振り返ってみるか?」と俺。 「はあ? 今更ですよね、それ」 「良いからさ。確か、かくかくしかじかだったよな」俺は事件のあらましを語った。 「……そうですね。それでまあ、これこれうまうま、でしたね」銀子もまた、事件のあらましを語った。 二人の語った内容を合わせれば、推理に必要な情報の全てが開示されているはずだった。 「わたし、ちょっと兄さまが怪しいように思えて来たんです」 「それはどうして?」 「メイドさんも外人さんも、怪しいところがないからです」 「それは根拠になっていない。そしてもっと言うなら、俺も同じ理屈でおまえのことを怪しめることになる」 「それはそうなんですけどね」 「探偵役イコール犯人というのは推理小説じゃむしろ定番でさえある。一番積極的に推理して、自分の考えを開示しているおまえが犯人だとすれば面白い」 「兄さまが犯人だったら、もっと面白いと思いますけどね?」 「それはどうして?」 「さあ。なんだかそんな気がしただけです」 「仮にそういう理由で俺を怪しむ者がいたとして、それは一種のあてずっぽうに過ぎない。仮にそれが当たっていたとしても、明瞭な推理を述べられなければ何の意味もない」 「それはそうなんですけどね」 「しかし眠いな」俺は大あくびをかました。「もう遅い……いや、そろそろ朝方だな。冬の夜は長いとは言え……」 「これからどうします?」 「これ食って寝る」俺はチャーハンの残りを平らげ、立ち上がった。「おまえもそろそろ寝とけよ」 「え? もう話したり遊んだりしないんですか? わたしさっきのゲームの続きが……」 「すまんが食ったら眠くなって来た。俺はもう限界だ。一人でやってくれ」 「それじゃおもしろくないですよぅ」銀子は頬を膨らませる。「付き合ってください」 「悪いが、また明日、続きをやろう」 銀子はしばらくこちらを睨んでいたが、俺だって常にわがままを通させている訳でもない。表情や態度から俺があくまでゲームに付き合わないことを悟ったのか、「ちぇ」と呟いて銀子は去って行った。 銀子が完全に消えるのを見送った後、俺はキッチンへと皿を運んで流しに置いた。 「……おもしろい遊びしてるんだね」 白兎が現れた。例によって天井に足袋を付けてぶら下がっている。メインキッチンのある一階は特に天井が高いので、垂れた黒髪は立っている俺の鼻先にあった。 「あんた、この館にはいつ来たんだ?」 「ついさっきだよ。館に到着して真っすぐ君の部屋に来たんだ。篭絡するなら若い男の子の君が良いってのは、うさぎさんのニンジャ・インテリジェンスで明らかだったからね」 「それは大したインテリジェンスだ」 「人をスパイに仕立て上げるのにハニー・トラップは基本なのだ。それはニンジャの時代から変わらない。そもそも、かつてより、くの一というのは……」 「良いから降りて来いよ」 白兎は天井にくっついていた足袋を離した。そして例によって天井で一回転して俺の目の前に着地する。 「さっきから思ってたけど、それどうやってるの?」 「足袋の方に仕掛けがあるのだ!」瞳孔ガンギマリで腰に手を当て、誇る白兎。 「どんな仕掛け?」 「それは秘密なのだ」腕を組み目を閉じて不敵な表情をする白兎。 「そうか」 「そうなのだ。ところで……」白兎は不敵な表情のまま言った。「分かったよ。さっきの推理ゲームの答え。これからそれを発表するけど……良いよね?」 〇 「うさぎさんに分からないことはないのだ!」白兎は胸を張る。結構でかい。「だって正義の忍者なのだから。正義の忍者は頭も良いのだ」 「良いから話してくれ。聞いてやるから」俺は促す。 「その前に、いくつか質問から」意外にも白兎は慎重な姿勢だった。「まず、犯人役の自殺は禁止されてるんだよね?」 「ああ。それやられたら難易度が上がり過ぎるからな」 「犯人と被害者が共謀するのはどうなの?」 「それについての規定はないが、それは小学生の銀子が明確に規定し損ねただけのことで、まあまあまあまあ、そこはきちんと空気を読むさ」俺は唇を捻じ曲げ、肩を竦める。「俺達は大人気なくルールの穴を突くようなことをしない。そんなことをしてはつまらなくなるし、ゲームを台無しにするようなことをすれば銀子を悲しませることになる。館の人間は皆あの幼い女の子を可愛がり、愛し、配慮している。それはあの態度の悪いメイドも良く分からない外人も同じことだ」 「あからさまな共謀はしないって訳ね」 「ああそうだ。少なくとも、はっきり口に出して『いついつどこどこで毒を盛るから、何の注意も払わずにそれを飲んでくれ』と相談するなどして、ゲーム性自体を破壊するような真似はしていない」 「分かった。まあ、でも良いよ。その条件でも、私の推理なら十分成り立つから」 白兎は小さく頷いた。 「ねぇ勘八くん。ゲームの参加への熱意や積極性には、人によって差があると思わない?」 「あるだろうな」 「特に、今回被害者となったあゆみちゃんは、いつも銀子ちゃんに仕方なく付き合っているという感じじゃないの?」 「まあ、勝ち負けのある遊びを誰かとやるのが好きな方ではない。一人で絵を描いたり、楽器を触ったり、裁縫をしたりするのがあの人の趣味だ」 「それに限らず、あゆみちゃんは普段から銀子ちゃんに振り回されている。今日の夜にしたって、不本意な夜更かしを強いられていた」 「誰に対しても、強く言えない性質なんだ。懐いてまとわりついて来る銀子のことも、だから拒めずにいるんだな」 優しいというのとも少し違う。大人しくて気が弱くようするにトロい。性根も決して明るくはない。とは言え、積極的に人を加害するという意味での悪人でないのも確かではある為、愛すべき姉だと俺は思っている。何より美人でおっぱい大きいから俺は好きだ。 「夜食に誘われた時もそう。銀子ちゃんはその時毒殺されていたから、死体役として横になり続けることが出来たけど、そうじゃなかったら叩き起こされてシアタールームに行かされていたことだろうね。真夜中でお酒が入っているのに連れ出されてものを食べさせられるのは、なかなか酷だったろうとうさぎさんは思うよ」 「だがそうならずに済んだ。死んでたからな」 「あゆみちゃんはいつ死んだんだろう?」 「重要な問題だな」 「あゆみちゃんは銀子ちゃんに何度も揺すられた後、身を起してから『ごめん』『あたし今死んでる』と宣言した。そしてうつ伏せになって再び寝倒れた」 「そうだな」 「『今』死んでるというのは、『今死んでる』と宣言したその瞬間より以前の、あらゆる時間帯が死亡推定時刻となりうることを示している。より言いたいことをハッキリさせるなら、それを言ったコンマ一秒前が死亡時刻というのもありうるということ」 「そうだな」 「そしてあゆみちゃんは自分の死を宣言する前に、口元のよだれをぬぐうような仕草をしている」 「その手に毒が付いていたと?」 「そう」 「問題はそれがいつ、どのようにして付けられたかということ。そして何故あゆみがそれに気付かなかったかということだ」 「付けられたのは君たちがあゆみちゃんの部屋に入ってからだよ」 「確かに、俺と銀子はあゆみの枕元に立っていた。銀子に至っては、あゆみの体を布団の上から絶えず揺すり続けていた」俺は頷く。「しかしその流れであゆみの手に激辛パウダーを塗りたくるなんて真似を、犯人はしようと思うだろうか?」 「どうしてしないと言えるの?」 「あゆみにバレるだろう。パウダーはチューブ入りで練り状。そんなものを手にこすりつけられてみろ。自分が犯人だと言わんばかりだ。相手が酔っぱらって寝ぼけているからって、そんな危険な方法で勝ちに行く犯人役がいるものか」 「勝算があると思ったとしたら?」 「勝算とは?」 「あゆみちゃんが自分の手に激辛パウダーを塗りつけられているのを察した上で、それに気づかない振りをすると犯人が考えたのだとしたら?」 俺は頬に笑みを浮かべる。 そして片手を開いて白雪の方に差し出した。どうぞ、続けて。 「あゆみちゃんはその時酔っ払いで頭痛を感じていたし、強い眠気もあった。静かに寝かせて貰えるなら、割と何でもする状態だったんじゃない? 塗りつけられた激辛パウダーを気付かなかったことにして、うっかり口を拭った拍子に接種しちゃったことにする程度には」 パウダーを毒に見立てる以上、飲み込まずとも唇などの粘膜に触れた時点で接種されたものとすることは、世界観を順守する上で自然なことだ。少なくとも、後からそう主張することは可能である。 「君の話によれば、あゆみちゃんの近くに立っていたのはあなたと銀子ちゃんだけ。他の二人は入り口付近でずっと立っていた。そして君の話によれば、銀子ちゃんは布団の上あゆみちゃんを揺すり続けていただけで、直接あゆみちゃんに触れたようには見えなかった」 俺は頷く。「その通りだ。俺が保証するというのも変な話ではあるが」 「銀子ちゃんに叩き起こされそうになったあゆみちゃんは、あなたに『何とかしてくれ』というアイコンタクトを送っていた。それを受けたあなたはあゆみちゃんがベッドで目を閉じていられる方法を思い付いた。……殺せば良いんだ」 その通りだった。 眠りたがるあゆみを起こそうとする銀子を見て、俺は気の毒に感じていた。銀子はわがままで、柔らかく言い諭してもそれをやめることはしないだろう。怒鳴りつけでもすれば話は別だが、俺は五つ下の従妹を可愛がっており、傷つけるようなことはしたくなかった。 そこで俺は、あゆみにまとわりつくのに夢中な銀子の目を盗み、ポケットに常に忍ばせていた激辛パウダーをあゆみの布団の中に入れた。そしてあゆみの手のひらを探り当て、その上にチューブを絞った。 銀子の目を欺くのは簡単だ。背後にはメイドとട്യൂണがいたが、俺自身の背中が遮蔽物となって、何をしているのかは分からないと考えた。 チューブを絞った手の動きだけで、あゆみがそれに気付いたのが分かった。何の工夫もなくぶちまけたのだから当然だったが。だがあゆみはそれで俺が犯人だと告発することはしなかった。どころかその場で身を起こし、よだれを拭う振りをして自分の唇を拭ってこう言ったのだ。 ……あたし、今死んでる。 「かく乱のために枕元にあったコップの毒を偽装したのも当然俺だ。姉ちゃんの手に毒を絞る時自分の指にも毒が付いたもんで、枕元のコップにそれを塗りつけてから『ここの色がおかしい。毒が塗ってあると思うから舐めてみる』と言えば良い」 舐めてみてかなり辛かったが、唇にそれを付けたであろう姉ちゃんが、耐えられない程ではなかった。あの人辛いの割と平気な方だし、それ以上に眠くてしんどかったろうしな。 「……お姉ちゃんの飲んだコップに対してそれはキショくない?」 「蜜壺とか言ってたやつに言われたくねぇな」 「ごめん」 「あゆみは『酔っていて寝惚けていたから気付かなかった』と言い訳が出来るし、俺もまた『酔っていて寝ぼけていたから気付かないと思った』と言い訳できる。手の平なんかに毒を塗ってどうするつもりだったのかと問われたら、目でも口でも擦るタイミングはあると思ったと言えば良い。実際、姉ちゃんは口元を拭った結果服毒して死んでいくんだからな」 「それ、共謀と何が違うの?」 「口に出して相談はしていない」 「銀子ちゃんはそれで納得するの?」 「本当の意味で共謀していたのだとすれば、もっと込み入ったトリックを仕掛けるはずだと、銀子も考えるんじゃないのか? 即席のアイコンタクトだけで犯人と被害者がそこまでの連携をしただなんて、銀子も思わないはずだし、思わないように俺が上手く誘導する」俺は手を叩いて白兎を称えた。「あんたの推理で大正解だ。参った。おめでとう」 「やった!」白兎は元気の良い笑みを浮かべる。「正義の忍者は賢いんだぞ! うさぎさんの頭脳を思い知ったか!」 「ああ良く分かった。じゃ、その頭脳でこの館のことを調べてくれ」 「……へ?」白兎は目を丸くした。「良いの?」 「あんたの言う通りだからだよ。俺は親父のことを信じている。この館のことも信じている。だから調べられても何も困らない。命の危険を冒してゾンビ地獄の中この館まではるばるやって来たあんたが、満足するならそれで構わない」 白兎は狂人だが善意の狂人だ。この人の言うことが事実なら、この館に何かがあると疑う気持ちも良く分かる。俺だって盲目的に親父を信じる訳じゃないし、俺自身の中に靄のようなものが生じたのなら、白兎に捜査をさせることでそれを払いのけたかった。 そしてそれだけの洞察力があることを、白兎は今の推理で示した訳だ。 「蜜壺なしで協力してくれるの?」白兎は恐る恐る言った。 「ああ。良いとも」正直惜しい気はするが俺はそう言った。 「……良かった」へにゃへにゃと、白兎はその場に座り込んだ。「実はすっげぇ緊張してたんだ。男の子とそういうことするの、初めてだから」 「ヤりゃあ言うこと聞くって訳じゃないけどな」 「うさぎさんの魅力を持ってしてもか!?」白兎は裏返った声で叫んだ。 「どんだけ自己肯定感高いんだよ……」俺は苦笑した。「とりあえず衣食住は何とかするよ。まずは安全な寝床から……」 こうして、俺は白兎の潜入捜査の協力者となった。 〇 第二話:新たなる侵入者? テディベヤの居場所を突き止めろ! の巻。 〇 熱かった。 全身を熱気に蝕まれていた。 今に汗が吹き出るはずだった。何せ百十五度の灼熱だ。芯まで冷え切っていた体はたちまち熱を取り戻しつつある。 俺は館の浴室に設置されているサウナを楽しんでいた。 体内の冷気がほぐれ溶かされていく感覚が心地良い。テレビも何もないのでぼんやりと過ごすしかないが、だがそうやって思考を放り出し熱さという感覚の世界に入り浸るところに醍醐味がある。外へ出たら当然すぐに水風呂に浸かる。外が吹雪な為、露天湯で外気浴出来ないことがつくづく残念でならなかった。 ぼーっと壁を見詰めていた俺は、壁に描かれたある落書きに気が付いた。 何者かが木の壁に爪を立てるという方法でその落書きは描かれていた。観光地などでアホな若者が良くやる奴。しかしそこに描かれていることは『ちんこ』とか『SEX』とかその手の下品な言葉とは異なり、意味深な、或いは意味不明な以下のような言葉だった。 『旅の入り口は七色の大地の果てに』 ……どういう意味だ? 「おお勘八」 サウナの入り口が開いて銀次郎が入って来た。黒光りする百八十六センチの肉体は日々のトレーニングによってバルク・アップされており、とても四十七歳には思えない。精悍な顔立ちに金髪のオール・バック、耳にはぶっといピアスという、不良中年の出で立ちをしていた。 「やあ叔父さん。相変わらずでっかいな」 「どっちのことや?」銀次郎はポーズを取って筋肉を強調すると共に、股間の汚物をぶらぶら揺らした。 俺は愛想笑いだけで済ませた。「トレーニングはもう終わったの」 「今終わったところやで。勘八こそ、こんな昼間にサウナに来るん珍しいな」 「銀子が姉ちゃんの部屋のテラスで雪遊びしててさ」 「なんやそれ。危ないな」 「だからやめさせたんだ。ゾンビは二階のテラスまで来られないだろうけど、脅威は他にもあるだろうし。でも銀子結構頑固なとこあるだろ? やめさせるのに時間がかかって、それで体が冷えたって訳。そういう時はサウナしかないだろ」 「そんなら銀子も体冷えとるんとちゃうか?」 「そのはずなんだけど、いやあ子供は風の子だね。銀子が風呂入るんならそりゃ譲るけど、そのままシアタールームで別の遊びしだしたんで、放っといてこっち来たんだよ」 「あゆみは? どうせ銀子に付き合わされたんやろ?」 「今はリビングの暖炉の前で安楽椅子で読書してるよ」 身体が冷えたらそう過ごすのがあゆみの習わしだ。暖炉も安楽椅子もほとんどその為にあると言って良い。特に暖炉なんてもんはなくてもエアコンで館は適温に保たれているからまったくの無駄だが、あゆみが言うには冬は暖炉に安楽椅子で読書しないと始まらないという。 「あの子の文学かぶれは金一郎によく似とるわ。あいつも学生の頃は本ばっかりやった」 文学かぶれかなあ? カバーかけて誤魔化してるけど、読んでるの主に表紙でイケメン同士が絡んでいるティーンズ小説な訳だし。たまに俺にレビューを語るのは、正直勘弁して欲しい。 「それだけやなく、あの子は他にも色んなとこ親父の方に似とるんよ。大人しいとことか、自分一人でちまちま手先使うことに没頭するところとか、夢想家なとことかな。見てくれは一歩(かずほ)義姉さんにそっくりやけど、中身はまるで子供の金一郎を女にしたようや」 銀次郎は如何にもおっさんの無駄話のようなことを言って細い目をした。 「そんで勘八、おまえはお母さん似や。いつでも余裕があって人に優しいけど、自分が損をせんように一線引いとるところもある。賢い子ぉや」 「褒めてるのかよそれ」 「褒めとるよ。でもワイはそれが出来んでなぁ。若い頃はよぅ人に騙された。そもそも、タナカカンパニーとか言うて起業する時も、本来はワイがトップのはずやったのに、金一郎の嫁のあの女が……」 始まった。百回は語られているその愚痴みたいな昔話を、俺は今回も神妙な顔で相槌を打たなければならなかった。 「そもそも金一郎は学者としては一丁前やけど、経営者タイプではなかった。企業は商売をするところなんやから、学業が得意なあいつより商売が得意なワイの方が社長に相応しかったはずなんや。ところがワイには人が良いところがあるから、あの女に『お兄さんの顔を立ててよ』とか言われると、つい跳ね除けられんで専務の地位に甘んじてしもうたんやわ」 「でも父さんは言ってたぞ。自分が財を成せたのは、弟である叔父さんのお陰だって」 俺はテキトウに叔父さんの喜びそうなことを言っておく。弟である叔父さん『や他の皆』のお陰だというのが、実際に聞いたセリフだったが、そこを省くのは嘘という程ではない。 「いやいやいやいや。そりゃあまあ、あいつは、ひたすら自分の研究が出来ればそれで良いみたいなところがあるし? せやからサポートする人材がいる訳やけど、そこをワイのような頭脳的なブレインが巧みに金一郎を導いたことが、アイツが会社を大きく出来た要因やと周りは言うとるけども? タナカカンパニーもワイの力で持っとるようなもんやと、周りの奴らは言うとるけども?」 実際のところ、この銀次郎が言うところの『頭脳的なブレイン』は、金一郎の腹心である望月であり、銀次郎は甘い汁を啜っているだけの存在に近いと聞いたこともある。館のパーティにやって来るカンパニーの要人達が、銀次郎のいない隙にそう語っていたのだ。銀次郎自身、酒に酔うと良く、『周りの奴らがくだらぬ陰口を叩いている』ことへの不満をぶちまけては、周囲の使用人達に八つ当たりしていた。 その証拠かどうかは知らないが、2011年現在も自宅にいながらリモートで仕事をする設備は館にあるもので簡単に用意できるにも関わらず、銀次郎が仕事をしているところを俺は見たことがなかった。銀次郎の一日の過ごし方と言えば、午前中はジムで汗を流して午後からは株とオンラインカジノ、夜は女の使用人にセクハラをかましつつ寝倒れるまで飲酒と言った有様だった。 銀次郎は自分がこれまで如何にしてカジノで儲けたが、これから株で如何にして儲けるかの話を俺にした後で、少しの間黙っていてくれたかと思ったらこんなことを言い始めた。 「勘八。ワイと勝負せんか?」 「勝負ってなんだよ?」 「ワイとどっちがサウナに長くおれるかや」 俺の方がちょっと先に入ってるんだけど。まあいいか。「良いよ。叔父さんが勝ったら肩でも揉もうか?」 「いや良い。それより頼みがある」 「なにかな?」 「あゆみが銀子のことを寮のある私立に入らせんようにしとるやろ。それをやめさせてくれ」 銀次郎は銀子に対して日ごろ教育的に振舞うことはないが、それでも自分の見栄の為良い学校には通わせたいらしく、あゆみや俺が通ったのと同じ私立の寮に入れようと画策している。だがお嬢様育ちでクソ我が儘な銀子が寮の馬小屋のような環境に耐えられるはずもないので、あゆみも俺も自宅から通えるところに進学するよう口を酸っぱくして勧めていた。 当然、銀次郎からするとそれが気に食わない。俺はそこに気遣って銀次郎のいるところではその話はしないようにしているが、あゆみは場も時も読まないので、夕飯の席とかで普通に寮の悪口を言いまくっている。甥や姪から優しい叔父として慕われていると思い込んでいる銀次郎としては、それをやめるようあゆみに直接強く言えない訳だ。 「だったら、俺が勝ったら旧館の案内をしてくれよ」 旧館というのは本館の裏、北東のあたりにある時計塔のことだ。俺達が幼い頃から旧館と呼ばれ、研究棟である東館ともども、子供は立ち入りが禁止されている。旧館の中がどうなってるのか気になってしょうがなかった時期が俺にはあり、今もまったく無関心という訳ではない。銀子を連れて行ってやったら喜ぶだろうし、あゆみだって幼い頃からの悲願を叶えたいはずだった。 「それは厳しい条件やなあ。なんせあそこにはとっておきの秘密があるんやからなあ。そしてその秘密はワイしか知らん」銀次郎はにやにやしてる。 「そんなこと言われたら、ますます気になるじゃねぇか。頼むよ」 「まあええやろう。もしおまえが勝ったら時計塔までの秘密の通路を教えてやる。かかってこいや!」 と、いう訳で。俺は銀次郎とサウナ我慢対決をすることになった。 今現在、サウナに入って俺は七分、銀次郎は五分が経過している。俺としてはそろそろつらく感じ始める頃だが、銀次郎は比較的余裕があるだろう。ハンディキャップ・マッチだ。 そこから五分が経った。俺はかなり息苦しくなっている。十二分計が一周するこのタイミングでいつもなら出ているが、これは勝負なのでここを過ぎてもまだ耐えねばならない。 そこからまた五分。今すぐに立ち上がりたくてたまらない。昔どれだけ長くサウナにいられるか一人で試したことがあるが、その最高記録を突破した。 やがて開始から二十分が過ぎる。俺はもう限界だった。心臓が早鐘の如く鳴り響き、接種して来た水分をかなりの部分まで使い果たしている。精神力のみならず体力の方も黄色信号を発しているようだ。もうダメだ。 「……俺の負けだよ叔父さん」俺は隣の銀次郎の肩を叩こうとして、汗でぬめっているのを見て引っ込めた。「約束通り、姉ちゃんには俺から言っとくよ。だから一緒に……」 銀次郎は泡を吹いて白目を剝いていた。 俺は慄く。銀次郎は口を半開きにし紫色の舌を突き出し、サウナの壁に背を預けて放心している。全身は汗でびちゃびちゃで浅黒いはずの顔は青紫色に変化しており、声をかけても肩を揺すっても反応がない。 「叔父さん……叔父さん! おい銀次郎おまえ! このボンクラオヤジ!」俺は焦りのあまり叔父に暴言を吐いた「大丈夫か?」 何も言わない。死んではないだろうがすぐサウナから出さないと流石に命に係わるだろう。しかしその為にはこの全身汗だくぬめぬめの中年男の肩を抱かねばならず、その不快感たるや想像を絶するに違いなかった。 ……重くて運べなかったことにして、誰か使用人を呼んで来て運ばせるか? いやいやいやいや。それは流石に薄情だ。俺は覚悟を決めて銀次郎のマッスル・ボディに肩を貸し、歩き始めた。ずっしり重く想像以上に体液で滑り信じがたい程汗とオヤジ臭い。 サウナ室を出たところで、「う……うぅうう勘八」と銀次郎が呻き声を発した。 「大丈夫なのか叔父さん?」 「大丈夫やあ。ちょっとくらっと来て……。更衣室まで運んでくれたらそこで水飲んで休むから、連れてってくれ」 更衣室にはウォータサーバーもある。このまま浴室で休ませたいところだが、シャワーノズルなんかから水なんて飲めるはずないので、それは致し方ないところだった。 俺と銀次郎はなんとか更衣室へとたどり着いた。しかしそこで緊急事態が起きる。なんと更衣室のウォーターサーバーに『使用中止』の張り紙が張られていたのだ! そう言えば今朝の業務連絡で長者原が『壊れた。修理は無理なので今週中には他の部屋のと取り換える』と言っていたのを、俺はこの時になって思い出した。 「なんてこった!」俺は頭を抱えた。「叔父さんの命を繋ぐ水が!」 「喉が……喉が渇いて……」焦る銀次郎。「こうなったらこのままキッチンへ行くで! すぐ隣やから目と鼻の先や!」 「分かったよ叔父さん!」 愛している訳でも尊敬している訳でもないが、叔父さんの命は大切だ。俺は銀次郎をキッチンまで運ぼうと更衣室を出た。 キッチンまでは廊下を一本渡ればすぐだ! 汗だくの俺は汗だくの叔父さんの肩を抱き、ぬめったい体をこすり合わせるように互いに密着しながら、フルチンで廊下を歩いていた。そこへ向かいからあゆみが歩いて来た。 「え、あ、う……」あゆみは目を丸くしながら口元に拳を当てて硬直した。「何やってるの……?」 「姉ちゃん! 良く来た!」汗だくの俺は汗だくの叔父さんの肩を抱きながらあゆみに言った。「水を持って来てくれ!」 「……うう……うぁあああ……。きゃああ……」 あゆみは顔を林檎のように真っ赤にしながら、両目を両手で覆った。そして割としっかり開かれた指の間から、汗の滴る俺と銀次郎のボディを舐めるようにして上から順に、下半身のある部分で若干の引っ掛かりを伴いつつ、下まで観察した。 「ふ、二人とも……裸で……」 「そんなことは良い! 叔父さんに水を……」 「なんで勘八……叔父さんと抱き合って……」 「なあ、早く水を!」 「あの、勘八……」 「なんだ?」 「あたし! そういうの嫌いじゃないから!」 そういってあゆみは顔を真っ赤にしながらその場から逃げ出した。 思わずぽかんとする。そこへメイドが水を持って駆け寄って来て、「この馬鹿ども!」と叫んで後ろから俺の頭をぽかんと叩いた。 〇 「……って、いうことがあってだな」 俺は自室のクローゼットに隠れている白兎に言った。 クローゼットに即席で作った白兎の寝床には、一組の布団に座布団と卓袱台が備わっていた。卓袱台の上にはケトルに入った麦茶とコップ、ミカンと煎餅、それに暇つぶしに差し入れたドラゴンボール全42巻が三つに分けて積まれている。昔館の各所にあゆみと作った秘密基地と同等以上の快適さがあると言える。 これらを用意してやる為、俺は物置から圧縮袋に入った布団や卓袱台や座布団などを夜な夜な確保し、自室のクローゼットへ運び込んでやったのだ。尚ドラゴンボールは過去に銀次郎から貰ったもので、大のドラゴンボール・ファンである銀次郎は布教活動に余念がなかった。 「緊急事態だからある程度しょうがないけど、確かにちょっとバカかもね」俺の話を聞いて、白兎は困ったような曖昧な顔をした。 「自分でもそう思う。いくらキッチンが近いからと言っても、更衣室に寝かせて水を取りに行くべきだった」 「そうじゃなくて、浴室でシャワーノズルから水を飲ませれば良かったんだよ」 「汚いじゃないか」俺は白兎の常識を疑った。 「いやそこから出るお湯に浸かってるんでしょ?」 「でもなんか嫌だろ」俺は怖気を奮った。 「そんなこと言ってる場合じゃなかったと思うけど」 「どんな場合だろうと、無理なもんは無理だろ。飢えてるからってあんた、芋虫やゴキブリを食べるか? 飢え死にした方がマシってなもんだ」 「……その辺の感覚はお坊ちゃまくんだよね。もしうさぎさんがその場にいたら、水遁の術で助けてあげたのに」 「なんだそれ? どうやるんだ?」 「こうするのだ!」白兎は袖から水を噴射して俺の顔に掛けた。 「あ! こらやめろ!」俺は白兎の忍者衣装の上衣に手を突っ込んで、中に入っていた水鉄砲を取り上げた。 「ああっ! トイザらスで買った2000円くらいする奴なのに!」 白兎はやけにでかい水鉄砲を隠し持っていた。幅六十センチ以上。こんなものがどうやってこの衣装の中に入るんだか。暗器術か。そっちの方がすごい。 それより床がびしょびしょだ。白兎は自身の忍術を披露することを最優先事項に位置付けており、しばしばこうした暴走を繰り返す。火遁の術を披露された時は館に火事が起きかけた。 俺は自分の顔を拭いてから言った。「……床は自分で拭けよ」 「はい」 「じゃあ俺、そろそろ出かけて来るから」 「どこ行くの?」 「宝探し」 「何の?」 「銀子の提案した遊び。宝探しごっこ。館のどこかに隠れている、でっかいテディベヤのぬいぐるみを探さなきゃいけない」 「へぇ。面白そう」白兎はふんふん頷いた。「詳しく教えて?」 「気になるのか?」 「うさぎさんは今暇なのだ!」 「館の調査はどうしたんだよ?」 「研究棟への入り方を捜してる最中だけど、分かんなくて……」 「研究棟って東館のことだよな? 普通に庭へ出て入れば良いんじゃないか? まさか外は吹雪だから出れないとか、忍者であるあんたは言わないだろう?」 「侵入経路がないのだ。本館から地下で繋がってたりしないの?」 「ないよ。渡り廊下は本館と西館の間だけで、それ以外は外に出ないと行き来出来ない」 「それお父さんへの食事とかはどう届いてるの? まさか外へ出てはいないはずだよね?」 「知らないよ」 長者原がちょくちょく「旦那様に届けて参ります」とか言ってどこかへ消えているから、何かしら移動手段はあるのだと思う。子供である俺達はこの館について知らされていないことも数多い。 「秘密の通路がありそうな気がするのだ」 「じゃあそれ探せよ」 「今はヤバい奴が館をうろついているから隠れてるしかないのだ!」 「なんだそれ。……まあ良いや。じゃあ、宝探しについて話すから、聞いてくれ」 俺は前日の夜のことを話し始めた。 その時俺達は三階にあるあゆみのコレクション・ルームに集まっていた。コレクション・ルームには大小さまざまなテディベヤのぬいぐるみがところ狭しにひしめいており、それらはあゆみのコレクションだった。 あゆみには遠近問わず様々なベヤ・ショップを使用人が運転する車で訪ねては、館の子供に与えられているクレジットカードを用いて、目に付いたものを片っ端から収集するという習性がある。もともとあゆみの自室に並べられていたそれらはやがて外へとあふれ出し、三階の空き部屋の内の一つが彼女のコレクションの為にあてがわれることとなった。 「姉さまのコレクションは素晴らしいものばかりです」と銀子は本気でそう信じており、度々コレクションルームに訪れてはぬいぐるみと戯れた。「色んなのがあるのですよ。お腹のスイッチを押すと声を出すものや、背中にものを収納するスペースがあるもの。全身に継ぎ接ぎがあってマジックテープで繋がっていて、ばらばらに出来るものなどなど……」 ぬいぐるみ達は確かにどれも可愛らしく、なるほど集めたくなるのも理解できるが、しかし最後のはセンスとしてどうなんだ? 「ぬいぐるみの悲哀を表現しているの」とあゆみは両手を重ねて朗々と語るが、実物を見ても悪趣味としか感じない。 しかしそんな妙な代物よりも何よりも、俺の目を引いたのは棚と棚の間で豪奢な椅子に腰かけるひと際大きなベヤだった。 とにかくでかい。百四十センチ弱の銀子とそれほど背丈が変わらない。中に綿を含んで膨らんでいるので、中に空洞があればすっぽり収まれるはずだ。他にも大きなベヤは無数に存在し一メートルくらいのものもあったが、それらの中でもそのベヤは一際の存在感を放っていた。 「今回はこれを使って宝探しをします」銀子は言う。 「こんなにでかいものをどうやって隠す?」と俺。 「隠す範囲は館全域です。というより、館全域を使って宝探しをするのなら、このくらい巨大なお宝でないと難しいです」 「なるほど。面白そうだ」 俺は隠し役を立候補したくなった。前回の毒殺ごっこは結局誰にも謎を解くことが出来ず、俺の勝利に終わっていた。悔しがる銀子の顔と銀子より余程悔しがり母国語で酷い侮辱語らしきことを吐き捨てたട്യൂണの顔と、割とどうでも良さそうだったメイドの顔を思い出すと今も気分が良かった。隠し役になれば今回も俺が勝つだろうという自信が、胸の奥から沸々と湧き出してきた。 勝利の為どこに巨大ベヤーを隠すかを俺は考えた。キッチンの冷蔵庫の中身をどこかにぶち放って突っ込むのも良い。重りを付けてプールの底というのもある。紐を付けてダストシュートからぶら下げるのも悪くはないだろう。或いは地下二階にある巨大焼却炉に突っ込み上から大量の灰をぶちまければ、おそらく誰も見つけられないに違いない。 「あ、あの、それするんだったら、あたしが隠す」あゆみがおずおずと手を挙げて言った。 「姉ちゃんがやるのか?」俺やりたいんだけど。 「じゃんけんとかくじ引きで決めませんか?」と銀子。 「ごめんあたしがしたい。この子が汚れるようなところに隠されたら嫌だもの。だめかな?」 俺と銀子は顔を見合わせた。正当な要求に思われた。 「ならそれは良いでしょう。姉さまが隠してください」 「待て。ルールを設けよう」俺は言った。探し役をやらされるなら、一線は引いておきたいところだ。「いくつか禁止の場所を決めるんだ。倉庫の中でも貴重品の入ったところとか、割れ物の棚とか、或いは叔父さんの書斎とか。その他入ると怒られる場所、漁ると誰かの迷惑になる場所、鍵のかかる場所は禁止。その他姉ちゃんのモラルと常識に従って、フェアに隠してくれ」 「分かった。じゃ、隠し場所考えるから、館の中探して来るね」 あゆみは館の中をうろうろし始めた。俺達は手持無沙汰となったのでいつものようにシアタールームに向かった。大画面でテレビゲームが出来るそこは俺と銀子の一番の遊び場だった。 三十分ほど経って、あゆみから「隠したよ」という声がかかる。 俺達は夜を徹してベヤを捜した。 夜の内に見付かるだろうと俺はタカをくくっていた。言っちゃなんだが相手はあゆみだ。おっとりしてぼんやりしたタイプでありはっきり言ってトロかった。顔が良くおっぱいが大きいのは長所だが、知恵比べの相手としては容易いように感じられた。 しかし見付からなかった。館は広いので長期戦は覚悟したが、それでも入れる部屋にはすべて入ったし、発想らしい発想はすべて潰した。無論同じことを銀子もしているので、ある種のダブルチェックになっているはずだった。なのに見付からないということは、これはつまり何らかの知恵をあゆみが絞りその術中に俺達が嵌っていることを意味していた。 「まあ。館は広いですからね。そこらのテキトウな机の下、棚の裏に突っ込んだだけでも、見落とすということはあるでしょう」 と銀子は言うが俺は内心忸怩たる思いだった。あゆみは館中をおろおろと探して回る俺達を見て、結構面白そうにニコニコ笑っている。俺はあゆみを侮っていたことを思い知ると共に、何が何でも見つけてやるという闘志を燃やした。 「俺は絶対にテディベヤを見つけて見せる」俺は白兎への説明を終え、闘志を滾らせた。 「楽しそうだね!」白兎は笑顔だった。「きょうだいと仲良いのは本当に良いことだよ」 「今の話を聞いて、どこか怪しい場所が分かるか?」 「とても分からないよ。候補が多すぎて……もう少し何かヒントがないと」 「ヒントならあるぞ」 「本当?」 「俺がテディベヤを捜して屋敷内を必死で駆け巡ってたら、見かねた姉ちゃんがヒントをくれたんだ。もちろんこっちから頼んだ訳じゃないぞ? 向こうから言って来たんだ」 「なんて?」 「『あたしのテリトリーのどこか』だって」 「でっけぇヒントだな!」白兎は目を丸くした。「え……でもちょっと待って。それだったら……」 白兎は途端に上の空のようになって、クローゼットの天井を見詰めた。そしてある瞬間に笑顔になったかと思ったら、「閃いた!」と言って両手を挙げた。 「正義の忍者たるうさぎさんは分かったぞ! テディ・ベヤがあるのは恐らく、ほぼ間違いなく……」 「待て! やめろ!」俺は開いた手のひらを白兎の前に差し出した。「それは言うな」 「なんで?」 「自分で解かなきゃ意味がないからだ。だから絶対に答えは言うな」 「お姉ちゃんに負けたくないの?」 「別に張り合う相手じゃないよ。ただ分かんないのは格好悪いだろ?」 「そっか。……なんかつまんないの。せっかく解いたっていうのに」 「つか本当に分かってんのか? 館を自分で捜索した訳でもないのに、俺の話を聞いただけで分かる訳がないと思うんだが」 「分かってるもん!」白兎は張り上げた声を裏返らせた。「うさぎさんを舐めるな!」 「舐めちゃないけどさ……」 「疑うんだったら答え言わせろよ! それで証明になるだろ!」白兎はムキになった様子だった。 「だからそれはダメなんだって。これは俺達のゲームなんだから」 「つまんなーい!」白兎は両足をばたばたさせた。 「本当に分かってるっていうんだったら、俺より先にテディベヤのところに行って、自分が見付けた印か何か付けておけよ。出来るもんならな」 「出来るもん!」 「じゃあやれよ」 「やるもん!」 そう言って一瞬にして白兎はクローゼットから姿を消した。ほんのわずかに俺の脇を何かがすり抜けたような感触こそ感じたが、それ以外は音もなく目にも止まらず、瞬く間に消え去ったようにしか感じられなかった。 「……忍者かよ」 俺は呟く。呟くが、自称とは言え奴は忍者で、まさに忍者としか言いようのない技量と身体能力を持っていることは間違いなかった。 考えをまとめる為に俺は窓を眺めた。気温によって空から降るものは雨と雪を行き来しているが、ここ数日はずっと雪の状態が続いている。俺の部屋にもテラスはあるが、その全体はかなりの量の雪に覆われている。テラスには天井もあるというのに、横から吹き込んでくる雪だけでこのありさまだ。テラスの床は部屋の床よりかなり低い為、内側に近いところはガラス戸が開閉できる程度の埋もれ具合で済んでいたが、外側の柵の近くにはかなり高く雪が積もっていた。銀子も雪だるまでなくかまくらを作れば良かっただろうに。 「……見ているだけで寒いな」 部屋はエアコンによって適温に保たれていたが俺はそう思った。そして立ち上がる。暖炉の前で読書をしているあゆみの前に、一刻も早く発見したテディベヤを掲げて見せたかった。 〇 夕飯の時間まで探し回ったが、結局テディベヤは見付からなかった。 『あたしのテリトリーのどこか』というヒントに従い、まずは姉ちゃんのコレクションルームを調べてみた。しかしあの巨大なぬいぐるみが棚の裏にあったり、他のぬいぐるみに埋もれていたりする訳もなかった。寝室の方もここぞとばかりにかなりきわどいところまで調べたが、目新しい物は何も見付けることは出来なくて非常に残念だった。 結局夕食の時間が来て俺はメインダイニングに座っていた。宝が見付からなくて気持ちが若干萎えていたが、メニューがアワビのステーキだったことから俺は上機嫌を取り戻した。鉄板に乗った肉厚のアワビの表面には網目状の焼き痕が付けられており、今もじゅうじゅうと旨そうな音を立てていた。白い湯気と共にしょうゆベースのソースの香りが立ち上っており、とても食欲をそそられた。付け合わせのアスパラガスやニンジンやホウレンソウもシャッキリと仕上がっている。フォークとナイフでアワビに触れると弾力を主張するように微かに震え、しかし身は柔らかくするすると切れた。 「今夜のはまあまあやな」銀次郎が大きく切ったアワビをでかい口で丸呑みし、続けて麦茶でも飲むようにがぶがぶと白ワインを飲んだ。「まあ、うん。美味いで。ふつうやけど」 「このスープも俺、割と好きだな」大きなフカヒレが丸ごと入ったスープも美味であり俺は舌包みを打った。 「わたし、アスパラガスはいらないです。アワビをもっとください」銀子が言うと給仕のメイドによってアスパラガスが下げられる。そしてアワビのお代わりが食べ盛りの少女の前に速やかに届けられた。 「たいへん、よい、おてまえ。くにでたべる、はえを、あつめてつくる、はんばーぐにも、ひってき!」 家族の食卓だったがട്യൂണがなんか席についていてなんかアワビを食っていた。そのことに銀次郎も執事の長者原も他の使用人も何も言わなかった。俺もまったく気にしていない。この人がどこで何をしていてどう振舞っていても、気にする者は館にはいない。 「こうした鮮度そのままの冷凍保存の高級食材が、あと三、四年分はある」と銀次郎。「どうせそれまでには、外のゾンビ騒動は終わるやろ。安心やな!」 「もしそれがなくなっても、他に缶詰やカンパンみたいな保存食が大量にあるもんな」と俺。 「でもカンパンとかまずい缶詰なんて、あたし食べられないよ」とあゆみ。「あと袋にお湯注いで戻す奴。あれ本当に味ないのに味濃くてびっくりするほどまずいんだよね」 「あの食糧庫に無限にある奴な。肉とか野菜とかごちゃごちゃ入ってるけど、美味くはないよな。味ないのに味濃いって表現も良く分かるよ」と俺。「味見の為に作って見た時はサバイバル感あって楽しかったけど、実際食ってみたらかなり大味でさ」 「うん。しょっぱいだけ」 「そういうのは使用人にだけ食わしときゃええんや。まともなモンはワイらだけで食べよ。そうすりゃ長持ちする」銀次郎は娘同様アワビをお代わりして食い散らかし、二本目のワインを瓶からグビグビと呑んだ。「どうせその内騒動も終わるんや。国のことは正直頼りにならんが、金一郎がどうにかするに決まっとる」 俺達は頷いた。俺達の父金一郎は今も東館の研究棟でゾンビ騒動をどうにかするか、或いは俺達を安全な外に逃がす方法を探す研究を続けている。父の科学力を用いれば不可能などあるはずがない為、食材の備蓄量も相まって俺達は館に閉じ込められながら安心しきっていた。そうでなくとも、俺達は生まれながら何もかも何とかなって来た為、物事を不安に感じるということがそもそもないのだ。 「何も心配はいらん。心配はいらんが……しかし退屈なんはたまに傷やな。おう紬ちゃん。こっち来て給仕してくれや。酌や、酌!」 食指を向けられた若いメイドは、冷たい表情で銀次郎に歩み寄り、グラスにワインを注いだ。 「次は肩を揉んでくれや」 「セクハラです」 「仕事で疲れとるんや!」 「セクハラです」 「主人の疲れを労わるんは使用人の務めやろ!」 「業務外です」 「貴様!」 「セクハラです」 「確かにこれはセクハラやろ。貴様がそう訴えるならな? 問題は貴様がそれをホンマにセクハラと主張するかどうかや! するなら凝った肩はそのままやろ。しかしそうなったらワイの気持ちはどうなると思う? この非常事態に雇い主のワイの心にシコリを残して、貴様ら親子はいったいどうなるんやろな?」 メイドは忌まわし気な顔をしながら銀次郎の背後に周り、汚物に触れる手つきで肩を揉み始めた。まあこれくらいは日常茶飯事なので誰も何も思わない。銀子も幼い頃から父親のこうした姿を見ているので、特にがっかりする訳でもないようだ。 「銀次郎様。我々の雇い主は金一郎様です。銀次郎様ではありません」長者原がかすかに声を低くして言った。 「はん! 兄貴が使用人の扱いにいちいち口を出すかい。金一郎の嫁はもう死んだんやぞ?」 「奥様は優しい方でした。優れた芸術家でもありました」 「うるさいだけや。器量はともかく、ワイの嫁の方がよっぽど従順で家柄も良かった」 「銀次郎様は目に余ります」 「黙らんかー! というか長者原ぅ! 貴様風呂の更衣室の前のウォーターサーバー壊れたまんまにしとったやろ? あれの所為でワイは死にかけたんやぞー! 使用人が雇い主を殺すとはどういう了見やー! これは貴様らの雇用についてもよーに考えたらなあかんやろなぁ! そもそもやなあ!」 メイドに肩を揉ませながらその父親である執事を説教する銀次郎。銀次郎の説教というか言いがかりと言うかパワハラは、ネチネチネチネチネチネチと食事の時間いっぱいに渡って続けられる。銀次郎は部下や使用人に説教をするのが大好きで、特に酒の肴にするには最適と思っている節があった。 これも食事時にはいつものBGMなので、あゆみも銀子も特に気にした様子はない。ナプキンを折りたたんで人形を作る芸を披露するあゆみに、銀子が感心するという牧歌的な光景が繰り広げられるのみだ。 メイドは肩を揉むその手で銀次郎の首を絞め殺しそうな顔をしている。いつものことながら、俺がいい加減うんざりし始めた頃、メインダイニングに有象無象の使用人が入って来た。 「執事。来客がありました」 「どなただ?」長者原が使用人の長としての精悍な顔になって問う。 「あゆみ様のご友人を名乗られています。外崎という方です」 「この館に縋って来る奴は追い返すのが決まりやろがーい!」銀次郎は難癖を付けた。 「銀次郎様。しかし相手はあゆみお嬢様のご友人ということでございます」長者原は窘めた。「一度、お嬢様にお伺いを立てるのが本来だと判断した、この者は何も間違っておりません」 「会ったこともない『ご友人』が何人この館に入れて貰おうとやって来たと思っとる? だいたい、あゆみに友達なんか一人もおらんやろうが」 「ひ、酷い……」あゆみは傷ついた表情を浮かべた。「叔父さんが知らないだけで、ちゃんといるのに」 「誰ですか」と銀子。 「えっと……」あゆみは混乱した表情で目をくるくる回しながら天井のシャンデリアを見上げた。必死で考えているようだ。「えっとね……」 「姉ちゃん姉ちゃん。その外崎というのが姉ちゃんの友達を名乗ってるって話じゃなかったか?」俺は助け舟を出す。 「あ! そうだ! 外崎さん! うん! 外崎さんは大親友だよ!」 外崎というのはちょくちょくこの館にやって来ていたあゆみのご友人だ。あゆみの買い漁ったブランド物の服だの鞄だのに目を付けては、あゆみが根負けして「あげるよ」と言い出すまで「良いなぁ欲しいなぁ」と言い続けるという手合いである。この大切なご友人がやって来る度、結構な頻度で「あげる」と言っていないものまであゆみの部屋から消滅したが、何故消滅するのかその原因はまったく不明でありはなはだ謎だった。 「外崎さんは良い人だよ。学校でも話しかけてくれたし。修学旅行の班にも入れてくれたんだ。旅行中の買い物を全部あたしがお金出すっていう簡単な条件で……」 使用人は言う。「庭の入り口である正門の前に立っているお姿をモニター越しに拝見したのですが、相当に飢えておられるようで。着る服も誰かに奪われたのか、半裸の状態で凍えておりました。何か、暴行を受けた直後のような風貌で、ケガもされておられるようです」 「それはかわいそう」あゆみは同情したようだった。 「どうか中に匿い、住まわせて貰えないかとのことです。どうなさいますか?」 「えっと……」あゆみは銀次郎の方をおずおずと伺った。「良いかな?」 「……うーん。ホンマにお友達なんやったら、しょうがないんやないかなあ?」銀次郎はあからさまに渋い表情を浮かべて目を逸らした。「ゾンビ騒動の最初の方山ほどやって来た自称知人共は全員追い返した訳やけど、どうしてもと言うんやったらなぁ。可愛い姪っ子の頼みやしなぁ。ホンマは良くないけど……うーんうーん……。しゃあなんかなあ。うーん……」 「良いってこと?」態度も空気も文脈も人の気持ちも読み取れないあゆみは、銀次郎の言葉尻を本気で快諾と受け取ったらしく目を輝かせた。「じゃあ、とりあえず中に入れて?」 「やですよ。知らない人が館に住むなんて」銀子が切って捨てた。「気まずいです」 「そっか。じゃあ、良い」あゆみはしゅんとした様子で食事に戻った。 「追い返せ!」 銀次郎が指示を下し、使用人がメインダイニングから飛び出して行った。 「おい待て。弱すぎだろ」俺は突っ込んだ。「碌な奴じゃなさそうだが友達は友達なんだろう?」 「でも銀子ちゃん嫌って言ってるし……」 「住まわせるのがダメなのなら、せめて食べ物でも恵んでやれば良かったんじゃないか?」 「あそっか。そうして貰おうかな」 「もう追い返してもうたで」銀次郎は言った。「だいたい、一度でも誰かに食べ物を別けたら、そいつ自身何度も何度も乞食にやって来るに決まっとるし、他の連中もそいつから話を聞いて大量にここに訪れるやろ。完全に面倒見る気なら館に入れればええけど、そうでないなら最初っから全員追い返した方がいいんや」 「じゃあ良い」あゆみは気持ちを切り替えたようにアワビのステーキに取り掛かった。 「いやー心が痛むわー。大切な家族や使用人を守る為、心を鬼にするのは心が痛むわー!」 銀次郎は大きな声で心にもないことをぼやいていた。 〇 食事を終え、それぞれ思い思いの場所に引き上げる際、俺はあゆみに声をかけた。 「姉ちゃん」 「あ。勘八」あゆみは笑顔で振り向いた。軽く肩の位置を横に下げて、俺の顔を見上げている。可愛い姿勢だ。「晩御飯おいしかったね」 「さっきの良かったのか?」 「さっきのって?」 「外崎さんのことだよ」 「外崎さん? あれはしょうがないよ銀子ちゃん嫌がってたんだから。勘八だって知らない人館に来るのは嫌でしょ?」 明るい声。本当にこだわっていない様子だった。友達を助けたい気持ちは本物なのだろうが、それ以上に館の人間の意思があゆみには最優先だ。 「早くゾンビいなくなると良いな」そんなあゆみに俺はそれしか言えなかった。 「えー別に良いよ」あゆみは言った。マジかよ。「館の中にいれば安心だもん。ゾンビいたら学校行かなくて良いしさ。あたしここが一番好きだよ」 凄まじいことを言う姉だ。俺だってそこまで呑気には構えてないぞ? この人はいつだって浮世離れしていて、館にいて館に従っている限り、自分に不都合なことは何も起こらないと信じている。 「学校行かなかったら、勉強はどうするんだよ」 「一人で出来るよー。してるよー。勘八はどうなの?」 「え? 俺?」ちょっとまずいところを突かれて俺は頬に手をやった。「いやまあしてるにはしてるんだけどな。もう一つ捗っていないというか」 はっきり言って怠けがちだった。まったくやっていない訳ではない、というか長者原が頼んでもないのに見付けて来るオンライン授業や学習アプリを強制的にやらせて来るのだが、それを除けば自学自習というのは週に数回もやれば良いところだ。 「ふうん? そっか。……あ、じゃあ」あゆみは目を輝かせてずいと俺に一歩近づいた。「お姉ちゃんが教えてあげようかっ? 文系科目なら教えられるよ?」 微かにはしゃいだ様子。一人称が『お姉ちゃん』となる時のあゆみからは、姉ぶって優位に立ちたいという欲求があからさまに溢れ出している。それに対し、俺は弟としての適切なコミュニケーションとして、笑顔を浮かべてこう答えた。 「それはありがたいな。じゃあ、教えてもらって良いかな?」 「いいよいいよ。じゃあ勘八の部屋に行こうね」 「それはやめろ」俺はクローゼットに潜む白兎のことを思い出して言った。 「え? なんで?」 「姉ちゃんの部屋に俺が勉強道具持っていくよ。教わる立場なのに来てもらうのも申し訳ないだろ?」 実のところ、この姉に勉強を教わるのは嫌いではない。とても勉強が捗るから……ではなく、あゆみが美人でおっぱいも大きいからだ。机に椅子を二つ並べて、肘や肩が触れ合う距離で同じテキストに向かっていると、確かな幸福感がある。特に最高なのは風呂に入った後の状態のあゆみで、ほのかに漂う甘いシャンプーやボディソープの匂いが素晴らしいのだ。 あゆみは優しいというかダメ出しや厳しいことを言うタイプじゃないし、本人なりに親切に物を教えようとする姿勢は健気で愛くるしい。まあ説明は下手糞だが。「そうなるからそうなるんだよー」とか平気で言うし。しかしその学力は実のところ優秀で、整理された知識があるのみならず、論理的に物事を理解して記述する能力が備わっているようでもあった。 才色兼備だ。素晴らしい。悪いところは根性だけだ。その根性が致命的なのだが。 学業優秀なのは田中家の面々に共通する。あの銀次郎も例外ではなくかなり立派な学歴をしている。そして俺もまた優秀でありあゆみの素っ頓狂な説明もするすると理解してアタマに入れていく。勉強も姉弟のコミュニケーションもしっかり捗り、健やかな時間が幸福に過ぎて行った。 そんな時だった。ノックもせずに開かれた扉から、この館でもっとも小さな影が現れた。 「おやご一緒ですか。ちょうど良かった。これからお二人に宝の在り処をご覧に入れましょう」 銀子だった。俺とあゆみは顔を見合わせた。俺はまあ十分勉強できたし満足していた。それに宝の在り処をご覧に入れるというのも気になった。俺達は勉強を中断して銀子を可愛がることにした。 「分かったのか? つか見付けたのか?」 「これからご覧に入れます。あゆみ姉さまは仰っていました。宝は姉さま自身のテリトリーにあると。その言葉を聞いて勘八兄さまは荒い息を吐きながら姉さまの部屋を徹底的に漁り、偏執的な手付きで隅々まで確認しましたが、宝を見付けることは叶いませんでした」 「妙な言い方するなよ」 「でもちょっと変な目付きしてませんでした?」 「言いがかりだ」 「言いがかりでないならゴミ箱の底まで確認する必要がどうしてあるんです?」 「念の為だ。それで? 俺が見付けられなかった巨大テディベヤを、どうしておまえに見付けられるというんだ?」 「兄さまには調べなかった場所があります」 「それはどこだ?」 「ここです」銀子はテラスのガラス戸を叩いた。「テディベヤは雪に埋もれて沈んでいるのです」 俺はガラス戸の向こう側を見た。振り続けている雪は勢いを落とすことなく、テラスを白く染め上げている。午前中に銀子とあゆみが作った雪だるまは横から降り注ぐ雪をまとって、合体した二つの球体から単なる巨大な雪の塊になりつつあった。しゃがんだ人間なら隠れそうなくらいには大きい。 「このテラスも部屋の一部なのですから、十分に姉さまのテリトリーと言えます。テラスには天井がありますが、柵に近い部分にはうず高く雪が積もっていて、あの中になら十分にベヤを隠すことは可能でしょう」銀子は勝ち誇ったような笑みを浮かべた。「雪だるまを作った時に掘り出せなかったのが悔やまれます。さあ勘八兄さま。今からあの雪をかき分け、中のテディベヤを見つけ出すのです」 俺は銀子の披露する推理について検討し、すぐに首を横に振った。色々な意味で、それが真実である可能性はゼロに近かった。まずルールに引っ掛かる。テラスの中は「入ると怒られるところ」に該当するはずだ。 「なあ銀子。テラスは違うと思うんだ。何故なら……」 「兄さまが行かないんなら良いですよ。わたしが自分で探してきます」銀子はテラスのガラス戸に手をかけた。 「おい待てよ。ゾンビは二階に来られないけど、それでも今テラスを開けるのは危な……」 実際のところ、俺は最悪の事態が起こるとは思っていなかった。だからそう深刻な態度では銀子に注意しなかった。言ってしまえばそれは深夜の赤信号のようなもので、あえて危険を犯す必要もないから渡らないというだけのことであり、本心では車に轢かれる可能性など露程も考えていないのと同じことだった。 しかしそれは起こった。雪だるまの背後から薄汚れた服を着たやつれた男が現れて、開かれたガラス戸から部屋に入り銀子の体を掴み、抱き寄せた。 「え……?」銀子の顔は蒼白になった。「な、何?」 「おまえら一歩も動くな!」やつれた男は低い声で叫んだ。「言うことを聞け!」 男の髭は伸びていて目付きは淀んでおり全身からは耐えがたい悪臭がした。全身はやせ細っていて、食糧供給のないゾンビ地獄から来る飢えが窺える。見た感じそれほど歳は取っておらず、三十代くらいに見えた。その手には拳銃を持っておりそれを銀子に突き付けていた。隣の椅子に座るあゆみが顔を青くして俺の腕を掴んだ。震えている。 「分かった。俺達はあんたの言うことを聞くよ」俺は努めて冷静に、おだやかに話し掛けた。「何をしようか? たらふく食糧を持ってくれば良いのか?」 「食糧なんぞいるか! 俺はこの安全な館に住むんだ」 「それは無理じゃないか?」 「ああ?」 「ずっとそうやってその子に拳銃を突き付けるのは無理だろう? あんただって寝たり食べたりするんだから。物を渡して帰って貰えるならこちらも抵抗しないから、それで穏便に済ませられないか?」 「黙れ!」 男は拳銃を天井に向けて発射した。 鼓膜にじんと響くような発砲音がして、天井の一か所に黒い穴が穿たれた。拳銃は本物であるようだ。 「駆け引きのつもりか? 何が『抵抗しないから』だ? 端っから抵抗なんてさせるもんか! バカがよ! おまえ達は一方的に言うことを聞く立場なんだ。黙って言う通りにしろ!」 「ひ、ひぃっ」銀子が男の腕の中で滂沱の涙を流した。「兄さま、言うことを聞いてください」 俺は首を横に振るった。「悪かった。言う通りにするよ」 「今の……音で……誰か助けに……」あゆみは泣きじゃくりながら言った。 「防音設備があるんだろうが。こんな大層な館なんだからな」男は高笑いした。狂っているように見えた。「もっとも、助けが来たところで、この拳銃に、人質もあれば負けはしないが」 俺は警報装置を起動させるか悩んだ。しかし男を刺激する可能性があったし、そもそも装置のボタンはあゆみのベッドの傍にあり遠い。 「いやあ思った通りだったぜ。ダメ元で鉄の壁を乗り越えて侵入したら、テラスに雪だるまを見付けたもんでな。裏に潜んでたんだ。雪ダルマがあるということはそれを作りにガラス戸を開けたガキがいるということだ。ならば待ち伏せしていれば同じことがまた起こると踏んだ訳だ。冴えてるぜ。はははっ」 根気のある奴だ。それに運もある。確かに雪だるまの裏に隠れれば、この吹雪の中でカメラに映ることはないだろう。しかしそこに至るまでに見つかる機会はいくらでもあった。普段シフトに入っている警備員の全員が館に閉じ込められている訳ではない都合上、四六時中監視カメラを見張る人員がいる訳ではないという、その隙を突かれた形になった。 「どうやってこの館に住むかって? 館の全員を追い出すに決まっているだろう。まずはおまえらという訳だ。さあ、この窓から出ていくんだ!」 「それで俺達は追い出せるけど、他はどうするんだ?」俺は冷静に話しかける。「その拳銃を持ったまま部屋の外に出たら、館の全員とあんたの戦いになる。拳銃と人質で善戦出来ても、最後にはあんたが負けるんじゃないか? こっちには警備員とかボディガードみたいなのもいるんだから」 「……さっきからうるさいガキだな。何が言いたい?」 「食糧で妥協して欲しいってことなんだ。あんたの存在は伏せて、カバンにいっぱいの食糧を持って来るよう使用人に電話をかけるから……」 「結局それか! 何が警備員だ! ボディガードだ! そんな腰抜け共が何かの役に立つんだったら、ハイジャックだの銀行強盗だのが起きるはずもない。おまえ! こっちに来い!」 俺は男の言う通りにした。男は拳銃のグリップを俺の顔面に叩き付けた。火花が散る感触と鈍い痛み。俺はその場に蹲った。 「おまえは俺を舐めた。これはその報いだ。大人しく言うことを聞け」 「……悪かったよ」俺はか細い声で言った。「……出ていけば良いんだろ?」 「それで良いんだ。おっと、スマホは貰うぜ?」 俺はスマホを渡してからよろよろとテラスに向かい、柵に手をかけた。ここを降りた後も柵はある。大丈夫だ。 「……いや、ちょっと待て」そこで男は低い声で言った。「いくらスマホを取り上げたとしても、外に出して良いものかどうかは迷うな。この手の館にはあちこちに警報装置のようなものがあるはずだ。それを起動されることになるかもしれない。警報が鳴り響き身構えている奴らを制圧するよりは、奇襲をかける方がはるかに優位だ」 男はぶつぶつと何やら考え込んでいる。 「拘束するのが丸いか? 俺はこっちの女から手が離せないが、そっちの女に縛らせれば良い」男はあゆみの方に視線を向けた。 「ミナミの部屋に、人を縛るものはないと思うぞ」俺は賭けに出る為の布石を打った。 「ミナミの部屋とはなんだ?」男は訝しむように言う。 「ミナミというのはその人の名前」俺はあゆみを指さした。「ここはその人の部屋なんだ」 「確かに、如何にも女の部屋だが……」部屋には大量のテディベヤが溢れている。「何か縛れるものはあるか?」 状況を読んでくれたのか本当にないのか、あゆみは泣きながら首を横に振ってくれた。 「ふん。まあ、この部屋にあるとしたら毛糸くらいのものだろうな。毛糸で縛る訳にはいかない。骨でも叩き折ってやろうか?」 「やめてくれ。そうだ! 使用人に持ってこさせれば良い。俺が連絡するよ。もちろん、あんたのことは話さずに、ロープが必要とだけ言うから」 「浅はかだな。助けを呼ぶつもりか?」 「ロープを持った使用人が一人来たところで、何の助けになるんだ?」 「それはその通りだ。使用人ごとふん縛れば良い話だからな。しかし、おまえがか弱いメイドを呼ぶ振りをして、その実屈強なボディガード集団を呼ぶと言った可能性は否定できない」 「そんなことはしないよ。ただ、ロープがなくて拘束できないからと言って、骨を折ろうとか殺そうとか、あんたが考えるのが怖いだけだよ」俺は怯えた振りをした。 「まあそんなところだろう。しかしおまえに電話させるつもりはない。そこの泣いている女も同様だ。隠語を喋られるかもしれないし、何より喋り口調や雰囲気から危機的状況にあることが悟られる可能性もある」 「ならあんたが自分で呼ぶのはどうだ? さっき渡した俺のスマホでLINEが出来る。俺に成り済ましてこの部屋に使用人を呼びつければ良いんだ。そんなことが出来るようになれば、今後のあんたにとっても有利だろ?」 「確かにそれなら安全だし、使用人共を手玉に取れれば言うことはない。だが、どうしてそう、いきなり協力的になるんだ?」 「協力するから、これ以上痛めつけるのはやめて欲しいということなんだ」 「なるほど。一見情けないようだが、その実利口な態度だ。こういう状況になれば、むしろ犯人に協力的に振舞った方が生存率は高い。そう考えるのは人間心理でもあるからな」 「そういう訳だから、もう暴力はやめてくれ」俺は媚びを孕んだ表情を浮かて見せた。「スマホの暗証番号は……」 男は右手で拳銃を銀子に突き付け、左腕を銀子の首に巻き付けているが、左の手首から先は自由だった。その自由になる左手で、スマートホンを操作し始める。 「ホーム画面にLINEのアイコンがあるはずだ。それで使用人達に連絡が出来る」俺はあゆみのLINEアイコンが自作のテディベヤだったことを思い出しながらそう言った。 「ところで、さっきから言っているLINEというのはなんだ? 最近のスマホアプリという奴だろうとは思うが……」 「ああそうだ。今年の六月から始まったコミュニケーション・アプリで……」 「そんなことはどうでも良い。どれだ?」 「緑色のアイコンだ。吹き出しのような形をしている」 「もう見付けた。使い方も、まあ何とかなりそうだ」 「そこに館全体のグループLINEというのがある。そこに連絡すれば誰かは持って来るだろう」 「ああ。分かった。ところで、この部屋はそこのミナミという女の部屋だったな」 俺は頷いた。「ああそうだ」 男はスマートホンを操作する。少しして、俺のスマホに返信音が響いた。 「おっと。返信が来た。何々……?」男は俺の方を見た。「おい。使用人の一人から、『ミナミ様のお部屋は、南館の方ですか?』と送られて来たんだが、それで良いのか?」 「ああ。ここは南館のミナミの部屋だ。俺達は金持ちだから、館ごとに自分の部屋があるんだよ」 男は了承の旨を伝える為にスマートホンを操作すると、俺達に言った。 「おまえ達、場所を変えるぞ。扉を開けた瞬間、俺の姿を見て逃げ出されたら厄介だ。死角に入れ」 言う通りにする。銀子は放心した状態で男の腕の中で身動ぎ一つせず、あゆみは泣きじゃくりながら両手を握り合わせていた。体が震えている。強力なストレスに晒されている二人の姿に俺は胸を痛めた。 あゆみの部屋の扉が開かれた。 男が拳銃を突き付ける前に、現れたട്യൂണが自身の持っている拳銃を発砲した。 銃を握る男の右腕に見事に弾丸が命中する。鮮血が迸り男は拳銃を取り落とす。そして痛みに蹲る時間さえ与えず、狙撃を終えたട്യൂണが男の元へ飛び込んで、無精髭の伸びた顔面を蹴飛ばした。 まるごと一秒に渡って男はその場で宙に浮いた。そして激しく床に叩き付けられる。肺の中の空気を唾液と共に吐き散らした後、男は息も絶え絶えの様子で仰向け状態で部屋の床に伸びた。 「けんじゅう、なんて、やばんです。わたしは、きらい。こんなものを、つかうのは……」ട്യൂണはゆっくりと男の拳銃を拾い上げ、自分のものと両方を男に向けた。「けだもの! おに! きちく! あくまーっ!」 二丁の拳銃を左右に二発ずつ、合計四発ട്യൂണは発砲した。それらは男の左右の肩と太ももに命中した。男はたちまち悲鳴をあげ、あゆみの部屋は瞬く間に血塗れになった。 「が、外人さん!」あゆみは安堵の表情でട്യൂണに駆け寄った。 「外人さん!」銀子もまた歓喜してട്യൂണの元に飛びついた。 「良くやった外人さんっ!」俺は両手を振り上げてട്യൂണを称えた。「メッセージが通じたんだな!」 「ひーろー、けんざん! それとも、ひろいん、かな?」ട്യൂണは片目を閉じて可愛らしくウィンクした。「かんぜんちょうあく! あつあくようぜん! やきにくていしょく! ついちょうかぜい!」 「う……うぅうう」男は弱った芋虫のようにその場でもがいた。「どうして……いきなり拳銃なんて……。ガムテープを持って来たんじゃなかったのか……」 「あなたという、ふしんしゃがいたことは、わかってました」とട്യൂണ。 「なんだと……」 「南館というのは隠語よ」サスマタを構えたメイドが部屋に入って来た。「館に不審者が来て緊急事態が起きた時、南館という言葉を使うのよ。本当はこの敷地に南館というのはないわ」 「そしてそちらのお嬢様の名前も『ミナミ』ではありません」長者原がやはりサスマタを構えて現れた。「おそらく『南館』という隠語をそのまま使える状況ではなかったのですね」 「その通りだ。そもそも、そのLINEを送ったのは俺じゃなく、そこの不審者だ。この部屋の主を『ミナミ』と偽って、LINEを送らせたんだ」俺は仮初にでも媚び諂った自らの自尊心を回復させる為、男に言った。「ざまあみろ。おまえは自分で自分の存在を知らせる隠語を送ったんだよ。ばーかばーか」 「あーほ! うんこー!」ട്യൂണが追従した。 「ちくしょう! このクソガキが!」男は怒りで血走った目で叫んだ。 「もっとも、どの部屋にいるかまでは分からなかったけどね。その子のスマホから送られて来た訳だから、まずは子供部屋を順番に当たって、こうして見付けた訳だけど」メイドは言った。「それでこいつ、どうするの?」 男は今にも死にそうに床で伸びている。無意味に四発も弾丸を浴びたので、死にかけだ。 「警察に突き出す……にしても、こっちが逮捕されそうな状況よね? そもそも、今この街の警察は機能していないし……」 「そいつ自身が警官らしいぞ」俺は言った。 「そうなの?」 「ああ。いや、人間ここまで腐るもんだな。街の秩序を守る警官が、拳銃振り回して子供を脅して、館を乗っ取ろうとしやがるなんてな」 「黙れ! おまえのようなボンボンに何が分かる!」 男はやけくそのように叫んだ。全身を撃たれていてこんなに叫べるのは、何かのアドレナリンが出ているのか。 「本当に追い込まれたことがないからそんな風に言えるんだ! おまえらだって外で飢え苦しめば兄弟だって殺して食べる! こんな安全な館に住んでいる奴らに何が分かるものか!」男は泣き笑いのような声を発した。「外がどんな状況か、おまえらは知っているか? 恐ろしいもんだぞ? ゾンビが? ……違う! 人間がだ! 一部の人間の暴虐の所為で、俺達は飢え苦しんでいるんだ!」 俺は小首を傾げた。「どういうことだ? ゾンビ以上に怖い人間などいないだろう」 「いくら外から食糧が届かなくとも、ショッピングモールやスーパーに行けば食糧はある。最初の内は、それらを秩序的に分け合っていた。俺は警察官としてその秩序を守っていた。輪を乱す者を懲らしめ子供を庇い、色んな人から頼られた。だが」男は嗚咽を漏らしていた。「そんなものはすぐに終わった。食糧が尽きたからじゃないぞ? 食糧はまだいくらかあるんだ。俺達には回ってこないだけで!」 「そりゃまたどうして?」 「独占が起きたんだ! このままでは食糧が無くなって全滅すると思った奴らが、街に存在する食糧を手あたり次第ショッピングモールに運び込んだ! そいつらはそこのことを『王国』と呼んでいる。最初は食糧を奪い合うことがないように、適切に食糧を分配する為にモールの中に一旦食べ物を集めただけだった。しかしある時そこのモールのリーダーが、自分達だけであらゆる物資を消費し始めた。お陰で『王国』に属さないものは飢餓地獄さ! 非国民達は残された僅かな食糧を探し求めて、ゾンビ蔓延る外に出なければならなくなった。いつでもどこでも、当たり前のように人が死ぬんだ!」 防音の行き届いた静かなあゆみの部屋に、男の狂気じみた声だけが響き渡っている。 「その『王国』の中も今となっちゃ、食糧の減少に伴い間引きのようなものが始まっているそうだ。それほど外の人間は飢えているんだ。俺が最後にまともに食ったものが何か分かるか? おい、そこのガキ!」 男は銀子の方を睨みつけた。銀子は震えあがって近くにいたあゆみの方に身を寄せた。 「ちょうどおまえくらいの歳だったなあ……。三日前のことだ。俺は友達と食糧を捜して街を歩いていた。そして街で半裸で倒れている女のガキを見付けた。服が剥ぎ取られていたからおそらくは乱暴されたんだろう。友達はそのガキに駆け寄った。ガキの腕を引いて運び始めた。何の為だと思う?」きひひひひひひっ、と男は常軌を逸した笑みを発した。「ガキを自分のシェルターの中に運び終えた友達は、ノコギリを取り出すとそのガキの太ももにあてがった。そして音を立てて引き始めたんだ! ガキは当然さっきまで倒れていたのが嘘のように、渾身の力を振り絞り抵抗し始めた。俺はどうしたか? そのガキを上から抑えたんだよ!」 銀子は怖気を奮っていた。顔を真っ青にして震えあがっていた。どう考えても今すぐに黙らせるべきだったが、しかし男の迫力を前に俺達は身動きが取れなくなってしまっていた。 「大の男が二人で寄ってたかって、おまえくらいの子供から足を切り落としたんだ! そしてそれをそのまま切り分けることもせず大鍋の中に放り込んだ。加減が分からなかったからとにかくひたすら煮込み続けた。血色の鍋の中に骨から分離したガキの肉が浮かんでいた。俺達は肉の浮かんだスープを器によそい、啜った。どんな味がしたか? これがな、美味いんだよ! 血液の大量に混ざったただの水煮で、本来ならまずいなんてもんじゃないはずだったが、今の俺達には食えるってだけでたまらなく美味いんだ。そして美味くてたまらないってことを、情けないとも悲しいとも思わないんだよ!」 吐き出し切った様子の男は力なく笑い、それから呟くように言った。 「なあ……教えてくれよ。おまえ達はいったい今日、何を食った?」 「関係ないよ」 か細い声がした。 皆がその声の方を振り向いた。泣き終えて落ち着いた様子のあゆみの顔は、握りつぶした花のようだった。 「あたし達に関係ない。ねぇ、この人片付けて。お部屋汚れちゃったし。もうやだ」 「この者はいったん医務室に運びましょう」長者原が言った。「手当をした後、処遇は旦那様に電話で伺います。あゆみ様には今日は客室の一つでお眠りいただいて、お部屋をどうするかは改めて考えましょう」 「がってんしょうち」 ട്യൂണは男を持ち上げ、あゆみの部屋から運び出していた。ぬいぐるみでも扱うような、軽い扱い方だった。 〇 「ごめんね」 自室に戻り、あゆみの部屋で起きたことを話すと、クローゼットの中の白兎はそうつぶやいた。 「何で謝るんだ?」 「助けてあげられなくて。何が起きているのか、全然わかなかった。研究棟への入り方を調べてて……」 「良いんだよ。別にあんたに責任がある訳じゃないし……」俺はその場に座り込み、仰向けになった。「でもくたびれた。あゆみも銀子も大丈夫かな?」 天井を眺める俺の方に柔らかな手が添えられた。白兎だ。白兎はそのまま俺の顔を両手ですっぽり包むと、そっと折りたたんだ自分の膝の上にのっけた。 「なんだよ」 「白兎さんのケアを受けるのだ」 「エッロい太ももしてんな」俺は白兎の白い太ももの上で寝がえりを打つ。 「そういうんじゃないだろ!」白兎は声を裏返らせた。「うさぎさんは望月の家で修行してた時年下の子をこうやって慰めたてたんだ!」 「ごめんごめん。でもちょっと助かるよ」 俺はそう言って白兎の太ももに縋りついた。細身に見えてちゃんとむっちりしてんね。人肌の匂いと感触と体温に俺は癒された。そしてそれはただエロいというだけではなかった。こうやって自分より少し年上の女に縋っていると、昔あゆみに甘えていた頃が思い出される。配慮と優しさに包まれ自身が承認されるこの感触は確かに、しっかりと精神をケアされるものだった。 十分に癒された俺はおもむろに立ち上がる。「もう大丈夫だ」 「本当?」 「ああ本当だ。ありがとう。じゃあ俺、行くとこあるから」 俺は白兎を残して自室を出た。 あちこち探して、俺は三階のコレクション・ルームに辿り着いた。 立ち並ぶテディベヤの山の中で、あゆみが床に直接座り込んで呆然としているのを見付けた。それは俺が近づいて来るのにも限界まで気付かない程で、直接肩を叩いて初めてあゆみはこちらの方を見た。 「勘八」 「姉ちゃん。大丈夫か?」 「うん。でも怖かった」 「そうだよな」 「銀子ちゃんも怖かったみたい。さっきまで、すごく泣いてた」 「今どうしてる?」 「部屋で寝てる。寝るまであたし、付き合ってた。ぎゅって抱きしめて泣かせてたら、その内寝ちゃった。勘八」 「何?」 「はい」あゆみは両手を開いて俺の方を見た。 俺は何となくその意図を察して腕の中に頭を近づけた。あゆみは両腕を閉じて俺のアタマを抱きしめた。暖かい感触。優しく良い匂い。労わりに満ちた手使い。 「怖かったね。お姉ちゃんが慰めてあげるね」 これが本家の包容力。さっきまで顔中ずるずるにして泣いていたのに、今では弟の俺を慰めることを考えられている。銀子のことを泣かせてやり寝かしつけてやったりと、日ごろの面倒見の良さからしても結構母性的な部分もある人なのだ。顔が良くスタイルが良いだけでなく、割と見直した部分もあるのだと思いなおした。 しかし目論見が外れた。俺は一応、この人をケアするつもりでこの人を見つけ出したのだ。だがもちろんこれはこれで良い。俺自身良い思いをさせて貰っているし、この人自身俺をケアすることで自分を癒しているんだろう。決して精神的に気丈な人とは言えないが、おそらく大丈夫だろうと俺は思った。 「勘八はがんばったね。あの怖い人に正面から対峙してくれたんだもの。上手に外人さんを呼んでくれたのも賢かった。お陰であたし達助かったもん。すごいよ」 「ありがとう。もう大丈夫だよ」 「もう少しこうしてようよ」 「そうか? なら、そうするか」 それからしばらく俺達はいちゃついた。心と体の距離は小学生の頃のように近くなっている。今も姉弟仲は良いが、何となくあの頃には戻れないという諦観のようなものがあった為、俺はこの瞬間に喜びを感じた。俺は今では顔が良くおっぱいの大きなこの人が好きだったが、昔は優しいお姉ちゃんとしてこの人が好きで頼り縋っていたのだ。 「あの人のことどう思った?」俺は尋ねる。 「さっきの汚い男の人?」 「そうさ」 「怖かったね」 「そうだな」 「すごく怖かった。嫌だった」 「外がゾンビ塗れにならなきゃ、あの人も立派な警察官だったかもしれない」 「そうだね」 「俺達はこのままで良いのか? 自分達だけ安全で裕福で、何もかも独占して」 気が付けば俺はそんなことも尋ねている。自分で思っているより俺は動揺していたし、自分で思っている以上にこの姉に縋っていた。自分だけがこましゃくれていて姉はトロいままだという俺の世界観は大きく揺らいでいた。 そんな俺の泣き言に対するあゆみの答えはこうだった。 「関係ないよ。この館は生まれつきあたし達のもので、あの人のじゃないよ」 「……それで良いのか?」 「良いよ。蟻はアリの巣に住むし犬は犬小屋に住むし、人間は人間の家に住む。それは生まれつきで変えられない。あたし達はこの館に住む。それだけのことじゃないのかな?」 「他の人間と俺達がどう違う?」 「違うよー。だってあたしは世界で一番可愛くて素敵なんだもの。だからこんな立派な館に住めるの。当然でしょ? そう思うでしょ? 違うって言ったら絶交だよ? それにね、勘八だって格好良いし優しいし何よりあたしの弟でしょ? お父さんだって世界で一番の科学者でお金持ちだし、叔父さんは面白いし、銀子ちゃんは可愛いでしょ。でも館の外にいる人達はそうじゃないでしょ」 あゆみは満面の笑顔で宣った。今語られたこの世界観は、確かにあゆみにとっての現実の一部なのだと俺は感じた。 俺はこの話題から離れるべきだと思った。俺はこの人のことをおかしな意味でなく家族としてきちんと好いていたが、だからと言ってこの人に飲み込まれるのはやはり怖かったのだ。 「銀子が言ってたけど、この部屋には背中に収納スペースのあるテディベヤがあるんだろ?」 「そうだよ」 「その中で一番でかいのってどれ?」 「あれ」あゆみはテディベヤの内の一つを指さした。 俺はそっとあゆみから離れた。俺はあゆみが指さした体長一メートル程の大振りなベヤーの背中に腕を突っ込み、中に入っていた圧縮袋を取り出した。 「お宝発見だ」 俺は圧縮袋を開封して中身を取り出した。中に圧縮されていた茶色い塊が、徐々に形を取り戻していく。今に一メートル四十センチのテディベヤの形をとるはずだ。 「すごい!」あゆみは感心した様子で両手を合わせた。「絶対見付からない自信あったのに」 この宝探しゲームには『良識に従って、フェアに』隠すという合意がある。つまり答えは考えれば分かる場所なのだ。圧縮袋という発想に行きつけば、後はあゆみという人間を考えることで、自慢のコレクションの『背中にものを入れられる』という特性を活かすはずだと推測できる。むろん圧縮袋に入れればあゆみのテリトリー内で他のどこにでも隠すことは出来るが、かと言って、ここ以上に蓋然性の高い場所も存在しないのだ。 「また勝っちゃったね勘八。すごいなぁ……って、あれ?」 あゆみは自身のぬいぐるみの額に、手裏剣の形をした缶バッチが取り付けられているのに気が付いた。 「え? なにこれ? あたし……知らないんだけど」あゆみは俺の方を不安げに見る。「どういうこと? 勘八が付けたの?」 俺は首を横に振った。「俺は付けてない」 「じゃあどうして……えっと……怖いんだけど。また侵入者?」 「大丈夫だよ」俺は笑った腹の底から。「心配いらないって俺は知ってるから」 「どういうことなの?」 「きっと忍者が先に見付けてったんだよ」 「何か知ってるんでしょ? ねぇ? 教えてよ、ねぇ、ねぇねぇ」 あゆみは俺の肩を繰り返し揺すった。自分の知らないことを俺が教えてくれないことに、可愛らしい憤りを切実に訴えて来たが、こればっかりは俺も教えられない。 この俺だって、いつまでも姉に逆らわない訳ではないのだ。 〇 第三話:時計塔の冒険。銀次郎の秘密を暴け! の巻。 〇 中学時代、この館から離れて寮生活も経験した俺だったが、何が一番嫌だったかといとトイレだ。 中防共は洋式便座に対し平気で立小便をぶちかますので、飛び散った小便で室内には常に強烈なアンモニア臭が漂っていた。酷いと便座を上げずに立小便をかます中防すら同室の奴には存在していて、一度など俺はそいつと殴り合いの喧嘩をしたことさえある。 またそいつらにはもちろん便器内を清掃するという習慣もない為、便器内には常に汚らしい大便がこびりついていて、それをモップで擦り上げるのは常に俺の仕事だった。「田中は綺麗好きで良く働くな」と同室の中防が口にする度、俺は血祭にあげたくなった。こいつらには生涯に渡りしっこをする資格もうんこをする資格もないと思った。 ……などと、どうして俺がしっことうんこの話を展開しているのかというと、今トイレにいてしっことうんこをしているからである。 本館には合計で十三か所のトイレが存在しており、使用人達によりそれらは日に数度の清掃が行われ、常に衛生が保たれている。室内は十分な広さがあり、空調も完備されているので悪臭の心配は皆無だった。 心地良くうんこをした俺は念入りにウォシュレットをして便座を立ち上がり、ふと気付いた。 床が虹色だった。 床というか絨毯がだが。確か、トイレに絨毯とかカーペットとか敷かれているのって、一階のここだけだったような。柄はちょくちょく入れ替わるけど、そう言えばここ最近はずっとこのおめでたい虹色なんだよな。 ……その時、俺のアタマの中にある言葉が過った。 『旅の入り口は七色の大地の果てに』 そう。確かそんな感じのことが、サウナの壁に描かれていたのだ。 俺は思い付いて、七色の絨毯を捲ってみた。 床の中央に一メートル四方の正方形の枠のようなものがあった。その端の方には手を差し込める窪み状の取っ手が取り付けられており、取っ手の傍には鍵穴のようなものも備わっている。 何かの収納スペースだろうか? いや。そうでないはずだ。 取っ手に手を差し込む。鍵穴は付いていたが、俺はそれを開くと思った。 床に設けられた扉が持ち上がり、床に対し七十五度くらいの角度でかちりと固定される。その床の扉の向こうには、地下室へ繋がる階段が備わっていた。 「……ビンゴ」 俺は拳を握りしめた。 〇 「うさぎさん!」俺は部屋のクローゼットを開けた。「大変だぞ!」 「乙女の部屋をノックもせずに!」クローゼットの下の段に住む白兎は寝そべって床に肘を付いて漫画を読みつつケツを掻き毟っていた。「何事だよ!」 「秘密の地下室を見付けたんだ」 「マジで?」白兎は歓喜して両手を上げながら立ち上がり、二層になっているクローゼットの境界部分にアタマをぶつけた。「いってぇ!」 俺は地下への階段を発見した経緯を白兎に語った。白兎は目を輝かせてそれを聞いていた。 「これでようやく捜査が進展する!」白兎は万歳をした。「それにちょうど良いタイミングだ! 今日はアイツもいないから、自由に捜査が出来るぞ!」 「アイツって誰だよ?」 「ヤバい奴だよ。アイツの所為でこの数日間うさぎさんが見付けたものと言ったら……」白兎はポケットから白い紙を取り出した。「さっき見付けたこの紙切れだけ……」 それはくしゃくしゃの紙切れであり俺はそれを見た。『DB42上 時計塔 秘密の部屋』と描かれており字は汚かった。 「なんだそれ?」 「君の叔父さんの部屋の絵画の裏にあったんだよ。ほら、あのやたらにでかい肖像画の奴」 銀次郎にはお抱えの画家に年に一度自身の肖像画を描かせる習慣がある。今年の絵は豪奢な椅子に座りニヒルな笑みを浮かべる銀次郎の傍に、澄ました顔で銀子が立っているというものだ。絵に描かれた二人はまさに裕福で上品な親子に見えた。 「時計塔? 秘密の部屋? おいおい。極めて重要な手がかりじゃないのか?」 「そうだけど私本命の研究棟は愚か、時計塔への侵入もまだ出来てないしさ。この紙も描かれている意味は分かるんだけど、それをどこで使うのかまでは分からない訳だし」 「俺が持ってて良いか、これ?」 「別に良いよ。覚えたしね」 その時、ノックもなしに部屋の扉が勢い良く開かれた。 「兄さま! 大変です!」 俺はクローゼットを勢いよく閉じた。白兎が三本の指をクローゼットの扉に挟んで「いってぇ!」と声をあげた。忍者なんだからこれくらいよけろよと思った。油断しすぎだろ。 「どうした銀子?」 「わたし、秘密の地下室を見付けたんです!」 まずい、開けっ放しだった。俺は冷や汗をかく。しかし手柄をこいつに取られるのは癪だ。ここは主張しとこう。 「それは俺が見つけたんだ」俺は腕を組んで手柄顔をした。 「マジですか?」 「ああ。サウナに『旅の入り口は七色の大地の果てに』って描いてあったのを見付けてな」 「じゃあなんでそれをすぐ知らせないで部屋でちんたらしてたんです?」 「色々あるんだ」俺は誤魔化した。「早速行くんだろ?」 「もちろんです! あゆみ姉さまも誘いましょう!」 俺は銀子と共に部屋を出た。 廊下を歩いていると、ポケットのスマホにLINEの着信音があった。 確認する。白兎からだった。 『今あなたの後ろにいるの』 背中を人差し指でつーっとなぞられて俺は怖気を奮った。思わず振り返るとそこにはいるはずの白兎はもういなかった。 「どうしたんですか?」 「い、いや……」 再び着信音。そこには白兎から『一緒にいくからね』と表示されていた。 〇 「なあ姉ちゃん、銀子。DB42って何か分かるか?」地下室の階段を降りる時、俺は同行者の二人に尋ねた。 「何ですか?」銀子は小首を傾げる。「DBの部分はどこか、聞き覚えがあるようなないような」 「アルファベット二文字の略称っぽいよね? GUとか、AIとかの」あゆみは言った。 長めの階段だった。本館には俺達の知っている地下室もあるが、その地下一階よりも多分低いだろう。そう言えばここに来る時に通ったトイレは、館の南の一番端っこに位置している。つまりこの空間は通常の地下室とは関与しない位置高さにあるということだ。 階段を降り終え地下に降り立つ。そこは地下室というよりも地下道と言った方が良い長い空間だった。青白い強い蛍光の灯された白い空間で、その雰囲気は明かりの点いた夜の病院の廊下も彷彿とさせた。 俺の方向感覚が正しければ、廊下は東側に真っすぐ伸びていてかなり長い。突き当りに何かバリケートのようなものがあり、そこから左に道が分岐しているのが、数十メートル先に伺えた。館内にも長い廊下は存在するがそれらを上回る長さだった。 そんな長い廊下を進んでいると、あゆみが「あっ」と声を上げた。そして壁の方を見て立ち止まった。 そこには四枚の絵が掛けられていた。 大きな絵だった。それぞれ一メートル以上の大きさがあった。立派な額に入れられていた為油絵か何かだと思ったが、実際にはそれは絵画というよりはプリントアウトされたもののようだった。 四枚とも、まるっきり下手な絵という訳ではない。門外漢の俺などからしたら、人物や服装、建物や自然の描き方などは玄人のそれにも見える。しかし、随所には明らかに不審な点のある奇妙な絵だった。 一枚は夜のコンクリート・ビルジャングルの方に体を向けた少年を、背中側から描いたようなクールなイメージの絵だった。少年は何か建物のテラスのような場所の真っ黒な柵に両足を置いており、身を屈めた姿勢で振り向き鋭い眼光をこちらに向けている。ビル群には大型のモニターのような機構も付いていたが、良く見れば映っているのはただの奇妙な色の渦であり、どこか気色が悪かった。 二枚目は背の高い木に囲まれた広い芝生の中で、足元に小さな動物を連れて佇んでいる少女の絵だった。白い服と青いスカートの彼女は首を絵の奥の方に向けていて、その顔立ちは伺えない。小さな動物は、長い大きな耳のような機構が一本だけ突き出ている以外特徴もなく、地上のどの生物にも似ていない。芝生の中央には白い砂場のようなものもあり、それがバンカーだとすればゴルフ場にも見える。 三枚目は西洋風の古びた建物の合間の、あちこち崩れた石作りの道に、二人の少女の立っているものだった。どちらの衣服もセーラー服をベースにしていたが、上衣の丈が妙に長かったり背中にマント状の布が垂れていたり、頭に傘のような形の布が被せられていたりで、かなり奇妙だ。何より驚くべきことに、どちらの少女の顔にも目や鼻や口が描かれていなかった。 四枚目は窓際に面した席に腰掛けた黒い服と髪の女性を建物の中から捉えたものだ。女性はカップを手にして体と視線をこちらに傾けている。壁から突き出たりポールに支えられていたりする椅子や机は、どれがどれと対応しているのかも分からない。壁の棚に並んでいるものも、写真立てにも鏡にも見える板や、瓶にも袋にも見える物質などで、何が何だか分からない。 「変な絵だな」俺は言った。 「遠目には綺麗な目に見えますけど、ところどころごちゃごちゃしてるというか、ぼんやりしてますね」銀子が言った。 拙い言い回しだが、その説明が俺にはかなりしっくり来た。 「芸術かぶれの姉ちゃんから見て、この絵はどうなんだ?」 「人間の描いた絵じゃないみたいに見える。技巧を感じる部分はあるし、ある意味で描ける人が限られる絵ではあるんだけど……価値があるかと言われると……」 あゆみは困った様子だった。煮え切らないのはいつものことだが。もし褒めて無名な絵だったら恥をかくし、けなして有名な絵だったらやはり恥をかくと思っている感じだった。 俺はじっくりと絵を見詰めた。画風は全く同じなのでおそらく同じ人物の描いた絵なのだろう。印刷物ということはパソコンを使って描いたのか? 人物の服装の描き方や背景とのバランスや構図なんかは、何が大きな既視感のようなものもある。……幼い頃、この人の描いた絵をたくさん見ていた、というような。 俺が引っ掛かりを覚えていると、あゆみが「あっ」と彼女にしては大きな声を発した。 「なんだよ」 「これ、お母さんの絵に似てる」 「母さん?」俺は目を丸くした。「今母さんって言ったか?」 俺達の母親は俺が七歳、あゆみが八歳の時に事故で亡くなっている。同じ事故に銀子の母親も巻き込まれやはり亡くなっていた。使用人の運転する自動車で二人で移動していて、不幸があったのだ。そして俺達の母親である田中一歩(たなかかずほ)は芸術家を生業にしていた。 「似てる……ああ、似てるな。母さんの歪んだコピーライトって感じ」 そう。歪んでいる。拙いのでも下手でもなく、歪んでいるのだ。人間が描いた絵とは思えない程に。 「一歩叔母さまの絵はわたしも見たことがありますが」銀子が言った。「あの人世界的な芸術家だったんでしょう? この絵はそういう感じに見えませんよ?」 「確かに、お母さんのようにすごい絵じゃない。でも、似ているのは間違いなく似ているの」あゆみは言った。「どうしてこんなものがこんなところにあるの?」 「地下の秘密を一つゲットですね」銀子は嬉しそうだった。「秘密の地下道に謎の絵、これは冒険と言って良いですよ」 確かにこの絵は謎は謎だが、わくわくする謎というより、胸の奥に冷たい重石を落とし込むような謎だった。俺は憂鬱な気分になったし、あゆみもまた表情を陰らせていた。 絵の前でしばらく呆然とした後、俺達は再び歩き始めた。やがて見えていたバリケートの場所まで差し掛かる。バリケートは大量の長机や金属製の棚などが積み重なって形成されており、俺くらいの背丈のダビデ像なんてものまで使われている。そしてそれらはきっちり嚙み合っていて簡単に突破できそうにない。 バリケートの左側には分岐した道があり、壁に貼られた紙にはそちらの方向に大きな赤い矢印が描かれた。『順路』という文字。 「ここは通れないな」と俺。 「通れないとなると突破したくなりますよ」と銀子。 「えーこっちにしようよ」あゆみは北側を指さした。「順路って書いてあるよ」 しかしそっちへ行けと言われればそっちに行きたくなるのが子供というもので、銀子はバリケートを乗り越えようと登ったり掻き分けたりを試していた。 「やめとけよ。崩れてきたらケガするかもしれん。ここを突破するのは諦めよう」と俺。 「ここまで来て引き返せますか!」と銀子。 「そこを突破できたとしても、たどり着くのは多分東館だぞ? 父さんの研究棟に行って何になるんだ。その点こっちは北向きだから、旧館の時計塔に繋がっている。どっちが面白いかっていうと、時計塔の方に決まってるだろ」 「それはそうですね」 銀子は北側へと進路を変更することを納得した。 北側の廊下もやはり長かったが、やがて果てまで辿り着く。そこには地上へと続く階段があった。当然登る。 鉄製の扉が設置されていて、『時計塔入り口』と描かれていた。扉には小さなタブレットが埋め込まれていて、パスワードを要求するかのような白い枠の下に、0から9までの数値を囲った十個の四角形が画面の中に並んでいた。タップして入力しろということだろう。 「ここを開ければ時計塔に行けるんですね!」銀子は興奮した様子だった。 「その通りだ! 問題は、このパスワードが何かということだ」と俺。 「壁に何か書いてあるよ」あゆみが発見する。「これ」 黒いマジックで『英雄の瞳を見よ』と書かれている。俺達はそれを前にして頭を捻った。 「これがパスワードのヒントだとして、なんでそんなものを扉の前に書くんだ」と俺。 「扉の前だからじゃないですか?」と銀子。 「でも推理して分かるなら入られちゃうよ」とあゆみ。 「そうなんだよな。なんでそんなことをするんだろう。なんかの覚え書きにしたって、もっと厳重に管理すべきだろうに」 「どうでも良いですよ! とにかくこれを解けば時計塔に入れるんですから!」 銀子は目を輝かせていた。俺もまたわくわくし始めていた。先ほどの謎の絵が齎したメランコリーが吹き飛んで時計塔に入ることへの期待が膨らんだ。この時計塔に入りたくて入れずにいた十六年間の生涯で持て余し続けた冒険心を、何としても報わせなければならなかった。 「英雄……英雄……」俺はスマホを取り出した。「ちょっと待てよ」 俺はメールを起動して白兎に『今どこにいる?』とメッセージを送った。 すぐに返信がある。『あなたの後ろにいるの』何者かの指が俺の背中をつぅーっと撫でた。 「うっきゃあっ!」俺は悲鳴を上げた。 「な、なんですか?」銀子が目を丸くした。 「い、いや……何でもない」 俺はあたりを見回して白兎を捜した。どこにもいない。ちくしょうふざけやがって。つかこの真っ白い長い廊下のどこに隠れてるんだ? 隠れ蓑の術! とか言うんだろうけど……。 とにかく付いて来ているならありがたい。俺はLINEを送った。『答えは分かるか?』 返信がある。『正義の忍者はすべてお見通しなのだ!』手裏剣のマーク。『答え送るね?』 俺はLINEを送る。『待て。一度自分で考えさせろ』 俺は考える。間違いなくこれはアタマの中だけで解ける問題ではない。考えて、そして見なければならないのだ。『英雄の瞳』とやらを。その在り処はこの地下道のどこかというのが自然だろう。館にはあちこち『英雄』と呼べそうな絵画だの銅像だのあるからな。となると。 「姉ちゃん」俺はあゆみに尋ねた。 「なあに?」 「ダビデって英雄なのか?」 「え? 昔のイスラエルの王様だったと思うけど……でも巨人と戦ったんだから英雄でもあるのかな? ダビデ像っていうのがそもそも巨人に石投げようとしてるところで……って、ああっ!」あゆみは勘付いたようだった。 「ダビデ像ならありましたよ!」銀子は叫んだ。「バリケートに組み込まれていました。あれが関係あるんですね! 行ってみましょう!」 関係あるっていうか、多分あの目の部分に数値が描かれてるんだと思う。一目散に駆け出した銀子を俺達は追いかけた。 バリケートまで戻ると俺達はダビデ像を確認した。周囲を机やら棚やらでがっちり固定されたそれは俺と同じくらいの背丈をしていて、教科書などで何度か見たことはあるが精悍な顔と肉体をしている。 「これ本物ですかね?」銀子はバカなことを言う。 「それならこんな扱い方しないだろ」俺は言った。 「本物は五メートルくらいあるしね」あゆみは背伸びをして一メートル八十センチのダビデ像に顔を近づけた。瞳を見ようとしている。鼻先が触れ合う距離でダビデとじっと見詰めあっているその様は若干エロティックであり俺は苛々した。 「チュウでもしそうですね?」ダビデと顔を接近させるあゆみに銀子は言った。 「そんなことないだろ? たかだか石像とチュウなんてするか」俺は鼻を鳴らした。 「でもダビデってムキムキだしイケメンじゃないですか?」 「俺だって筋トレしてるし。それにちんこは明らかに俺の方がでかいし剥けてるんだからな」 「え……っ? キモ……!」 幸いにしてその会話はあゆみには聞こえていなかったようだ。背伸びを終えたあゆみは俺達の方に近づいて来て「15040908だって」と告げた。 「瞳にボールペンで小さく描いてあったの。本当に小さく描いてあるから、すごく顔近付けないと分からなくって。……二人で何話してたの?」 「いや兄さまが」 「そんなことより、行こうぜ!」俺は銀子の手を取った。「時計塔は目の前だ!」 俺達は扉まで戻り銀子の手によってパスワードを入力した。『OK』と表示され、カチリという音が響く。銀子は扉を開けた。 「……いよいよ時計塔なんですね」銀子は大冒険に身を震わせた。 「だな」十六年来の興味を果たせることに俺は興奮した。 「行こう」あゆみもこの時ばかりは目を輝かせている。 そして俺達は時計塔に脚を踏み入れた。 〇 「今更だけど。絶対怒られるよね」あゆみは不安そうだった。 「背に腹は代えられませんよ!」銀子が叫ぶ。 「違いない。長者原に何言われようと、時計塔を見られることには引き換えられない」 内部は旧館なのに古びて見えず、砂埃にまみれているどころか、床は磨かれてワックスまで掛けられているようだった。 旧館に来て最初の部屋は六角形の形をしており、入った瞬間から薄っすらとした照明が既に付いていた。やや薄暗い印象もあったが、この部屋の趣向・コンセプトを考えるとそれは良い風情だった。 その部屋は六面の壁の内の一つが鏡になっていて、残る一つには水槽が埋め込まれていた。幅も高さも二メートルを超えそうな大水槽だ。中には無数のピラニアが飼育されており、照明の光を鱗で跳ね返し綺羅星のように水槽内を泳ぎ回っていた。フロア中の壁に設置された五面の鏡が水槽の様子を複雑に反射していて、俺達はまるでピラニアの巣の中に閉じ込められ水中にいるかのようだった。ピラニア達のいる水中には常に室内よりも強い照明が、水槽の天井の方から降り注いでいた。 「ピラニアじゃないですか」銀子が目を丸くした。 「ああ。すごい部屋だな」俺は感心した。 「怖いし不気味だよね」あゆみは眉を潜めた。「この目が嫌だな」 ピラニアは想像より大きく全長二十センチはあった。宝石のような輝く鱗をしていたが、黄色い三白眼は殺し屋のような鋭利さも秘めていた。時たま口を開けるとカミソリのような歯が伺え、指をつっこめばたちまち食い千切られそうな迫力があった。 何より俺が気に入ったのは水槽の底に転がった人間の骨だった。本物同様のサイズ感の骸骨が、丸ごと一人分転がっているのだ。二メートルの大水槽だからなせる技。まさか本物だったりはしないだろうが、ピラニアの巣に転落し食いつくされた間抜けな船乗りを見事に演出しており迫力があった。 「ピラニアって人を食べるんだよね?」とあゆみ。 「違いますよ姉さま。それは迷信で、実際に食べるのは死体だけです」と銀子。 「まあ、溺死して水に沈めば、全身丸ごとピラニアの餌だがな」俺は水槽の底の骸骨を指さした。「こいつみたいに」 「なんで本館で飼わないんでしょう?」と銀子。 「部屋をこういう風にしたいんじゃないかな? それか違法だから隠してるとか」とあゆみ。 「ピラニアは違法じゃなかった気がするが……」俺は水槽の底の骸骨を見た。「まさかな」 部屋の壁には一面に一つ血のように赤い文字で数値が描かれていた。水槽の右側の壁から順に、1,3、7、1、4でありこれもまた乱反射する鏡の各所に踊っていた。 ピラニア部屋を堪能した俺達は二階への階段を捜した。鏡の壁の一つに良くみれば扉になっている個所があり、窪み状の取っ手を引くことでそれを開けることが出来た。 現れたのは普通の廊下でその先に階段があった。この旧館の広さを考えると、ピラニアの水槽の面積を考慮しても、他に色んな部屋があってもおかしくはなさそうなものだが見当たらなかった。 「二階へ行きましょう」 銀子が言う。階段を上りきると、そこには鍵のかかった扉があった。 地下から一階への扉同様、その閉鎖された扉にはタブレット画面が設置されており、パスワードを要求する白い枠の下に0から9までの数値があった。ここでも謎を解く必要があるのだろう。 「いち、さん、なな、いち、よん……」あゆみが早速鏡に書かれていた五桁を入力するが、ブブーっとムカつく音が流れただけだった。 「それを試さない訳には行かないが、まあハズレだろうな」俺は言った。「やはり何か謎を解くんだろう。ほら、意味深な言葉が壁に描いてある」 扉の傍の壁にはマーカーで『魚も鏡で色気づく』と描かれていた。 「これがヒントだ。また皆で考えよう。謎を解いて先に進むんだ」俺はわくわくしていた。「三人寄れば文殊の知恵だ」 あゆみと銀子が頷いた。そして俺達が考え始める前に、俺のスマホにLINEの着信音が鳴った。白兎からだった。 『正義の忍者はもう答えが分かったのだ』 メッセージの隣には手裏剣のマークが置かれていた。またも瞬殺したらしい。悔しかった俺は苦し紛れにこう返信した。 『見栄張ってるんじゃないだろうな?』 『本当に分かってるもん!』 『なら十秒後にパスワードを俺のスマホに送っておいてくれ。見ないから』 俺がポケットにスマホを仕舞う。十秒経っても送られてこなかったのでほれ見たことかと思ったが、そこからさらに少ししてちゃんと着信音があった。 なんだ、今の間は? 打ち込みにそんな時間はかからないと思うが。 とりあえず俺達はピラニアの部屋に戻ることにした。壁の鏡に一つずつ書かれた1、3、7、1、4の血文字は高さも位置も異なっていて、それらは鏡同士で乱反射する光の中で、場所によって折り重なって現れた。この数値の並べ替え、或いは何かしらの計算によって答えが分かるのだろう。 ……本当にそうだろうか? もしこれらの並べ変えが答えなら総当たりで解けるということになってしまうし、計算が必要なのだとしたらそれを示唆するヒントがどこにもない。 ならば答えはいずこに? ……魚も鏡で色気づく。どういう意味だ? 鏡はこの部屋中にある。だがこれは俺達の為の鏡だ。魚が見る鏡じゃない。これを魚達にとっての鏡にしてやるにはどうすれば良い? 俺は閃いた。なるほど。そういうことか。 「……あ!」俺が言う前にあゆみが声をあげた。「分かったかも」 俺は姉に譲ることにした。「言ってくれ」 「うんっ。あのねっ」あゆみは目を輝かせていた。自分で解いたことが嬉しいようだ。「『魚も鏡で色気づく』……これがヒントだよね? でも魚は水の中に住んでるよね? 部屋にはあちこち鏡はあるけど、あたし達がいるこっち側は人間の住むスペースだから、そこから鏡が見えてもしょうがないよね?」 「じゃあどうすれば良いんです?」銀子が首を傾げた。 「魚にも鏡が見えるようにしてあげれば良いんだよ。ピラニア達じゃなくてね」 あゆみは部屋中を歩き、あちこち探し始めた。俺はあゆみと同じものを部屋の中から探し、壁の鏡になっていないわずかな箇所に照明のスイッチを見付けた。 「これだろ?」俺はあゆみにそれを示した。「メーターを使って明度を変えられるようになっている。ということは、多分正解だ。これをいじって、きっと色々見せられるんだろう」 「分かってたの?」あゆみは首を傾げた。 「どういうことですか!」銀子が待ち遠しそうに言った。「早く教えてくださいよ」 「勘八。やって」あゆみが言う。 「分かった。つまり」俺はメーターを最大にして部屋をより暗くした。「こういうことだ」 元々薄暗かった部屋がさらに暗くなることで、壁を覆っていた鏡の一つが透明なガラスに変わった。ガラスの向こうにはやはり水に満たされた水槽になっていて、そこには薄っすらとした照明の中で大型の魚たちが泳いでいる。アリゲーター・ガーやアジア・アロワナやレットテール・キャット・フィッシュなどの大型の古代魚達だ。 「うおおおっ」銀子は興奮した様子だった。「どうして部屋を明るくすれば鏡が水槽になるんですか?」 「水槽のガラスにはマジックミラーが使われているんだ」俺は言った。「マジックミラーというのは、それで区切った二つの空間の内、明るい側から見ると鏡に、暗い側から見るとガラスに見えるんだ。部屋の明度を下げたことで、この大型古代魚の水槽の方が明るくなったという訳だ」 ピラニアの水槽と俺達のいる室内と古代魚達の水槽は、それぞれ異なる明度に照らされていた。ピラニアの水槽が一番明るく、俺達のいる室内はやや薄暗く、古代魚達の水槽はそれよりもさらに暗い。照明の明度メーターをいじることでこの部屋が最も暗くなり、鏡にしか見えなかった古代魚達の水槽が出現する仕組みという訳だ。 俺達は古代魚達の水槽を見詰める。悠々と泳ぐアロワナやガーやナマズの背景の壁に、『2572148』と描かれているのが見えた。 「これが答えだね」あゆみはじっと数値を見詰めた。「さっきのより一桁少ないけど、さっきのと違って意味ない数列だから、覚えとけるか不安だな。勘八もお願い出来る? どっちかが忘れなければ……」 「いや姉ちゃんメモしろよ。スマホ持ってるんだから」 「あ……そっか」 ということはさっきのダビデ像の目の時もガン見して暗記してたのか。道理で長くダビデと見詰めあっていたはずだ。あゆみはいそいそとスマホを取り出して、普段スマホのメモ帳を使っていない所為か、何故か俺へのLINEメッセージとして七桁の数値を送信した。 俺はスマホを取り出して、数分前に送られた白兎からのメッセージを確認した。 『2572148。257.2cmと148kgは世界最大のアリゲーターガーの体長と体重だね。ちなみに、13714はイミナイヨで、意味ないよ』 「あー糞」俺は悔しさを漏らした。「先を越された」 「あれ? 勘八分かってたんじゃなかったの?」あゆみはやや身を屈め、悔しがる俺を下側から覗き込んだ。「説明に付いて来てたから、そうじゃないかと思ったんだけど」 「あ、いや」俺は少し考えて、この姉を立てることにした。「実は分かったのは姉ちゃんより後なんだ。姉ちゃんの説明の途中で、やっとピンと来たんだよ」 「そうだったの」 「ああ。今回は姉ちゃんの勝ちだな」 「いやいや全然そんなのたまたまだよー」あゆみは嬉しそうだった。「実はねー。昔館中の鏡をマジックミラーなんじゃないかと疑って調べたことがあるんだよー。それで分かったってだけでー」 「だとしてもすごいさ」俺は本心から言った。「さあ、次へ行こう!」 俺達は階段の方へと向かっていった。パスワードを入力する為だ。 〇 「アリゲーター・ガーって、個人飼育は違法だよな」俺は尋ねた。 「違法だって聞いたよ」とあゆみ。「スポテット・ガーっていう、小さいのはまだ大丈夫だけど。それも将来危ういって前に叔父さんが言ってた」 パスワードは正解であり俺達は二階へ辿り着いていた。二階には一階で見た二つの水槽を上からメンテナンスする部屋があった。しかも水槽は二つでなかったらしく、さらにもう一つブラジルカイマンの水槽まで一階にはあったようで、それも上から見られるようになっていた。六角形の部屋の二面の壁にまたがって設置された水槽は一際巨大で、陸地と水場に区切られている。きっと部屋を真っ暗にでもすれば、これが出現する仕組みだったのだろう。ブラジルカイマンは一メートル五十センチ程の体躯で、今は水場に潜んでおそらくは獲物を待っていた。こいつこそ絶対に資格のない個人が飼っちゃいけない。 「くさい……」爬虫類の特有のニオイにあゆみは顔を顰めた。「それに怖い……」 「格好良いじゃないですか」銀子は興奮していた。 「爬虫類やだもん」 「姉ちゃんムゼイのこともダメだもんな。見たら逃げるし」 ムゼイとは銀次郎の飼っているアルダブラゾウガメのことだ。一メートルを超える体長があり、人に良く慣れていてその振舞は愛くるしく、俺も銀子もそいつのことが大好きだった。 「だって絶対噛むじゃんっ」あゆみは両手を握り締めて訴えた。「あたし嫌いあのかめっ。叔父さんはペット部屋からあの亀を出さないで欲しいっ。二人はなんで怖くないの?」 「動物から見た人間の方が大きくて怖いはずですよ。だからそのワニも多分大丈夫ですよ。と、いう訳で……」銀子はあゆみの背中を水槽の下に向けて軽く押した。「うぇーい!」 「きゃーっ!」 あゆみはブラジルカイマンの水槽に落とされそうになって本気の悲鳴をあげている。尚もうぇいうぇい言って背中を押そうとする銀子から、あゆみは必死の形相で逃げ出した。 哀れなあゆみは六歳年下の従妹に泣かされ、今も目に涙を貯めて壁に背を当ててぷるぷる震えている。銀子は腹を抑えて笑っていた。 「ばかっ」俺はそんな銀子のアタマをはたいた。「落ちたらどうする!」 「ただの冗談ですよ。いくら姉さまがトロくても、落ちないような力加減にしましたよ」銀子は唇を尖らせる。 「万が一があったらどうすんだ! それにこういうのは冗談でも怖い。増してやノミの心臓なんだぞその人は!」 謝った銀子にあゆみが「大丈夫だよ」と反射的に答えている。その顔は今も真っ青だった。 水槽の管理室の他には館全体の資料室のような空間があった。中央には敷地内を再現したジオラマ、壁には館のある敷地を上空から見た地図の他、全ての棟の全ての部屋の間取りを示した紙が貼られていた。 俺は壁に貼られた上空図が気になった。一際大きな本館を中心に、その西側に西館、東側に東館(研究棟)、そしてやや北東のあたりに旧館(時計塔)が描かれたその上空図は、俺達の住んでいる敷地全域を網羅していた。しかし地図には不自然な点があった。 本館・西館・研究棟・時計塔の四つの建物のそれぞれに一点ずつ、黒い点のような打たれていたのだ。本館と西館と研究棟に描かれた三点は、それぞれ同じ緯度にあり直線で繋げるようにも見え、時計塔の点はそれらよりかなり北側だ。また本館の点の左上には丸で囲われた『1』が、時計塔の点の左下にはマルで囲われた『2』、右下にもマルで囲われた『3』の文字があった。加えて西館の点の右上には、こちらはマルで囲われていない裸の『26』という数値が他より小さく描かれていた。 「妙な地図だな」俺は言った。「謎解きに使われそうだ」 「そろそろ三階の階段を捜しますか?」 銀子が言い出して俺達はその部屋を出た。階段はすぐに見つかった。階段を登り切った先には鍵のかかった扉があり、やはりタブレットが埋め込まれており数値のパスワードを要求していた。俺達は壁に描かれているヒントの文字を見た。 『二人の偉大な王がいた。王達は四つの城を作った。王の一人は最も背の高い城に部屋を設け、もう一人は最も背の低い城に部屋を設けた。二番目に背の高い城には王子と二人の王女が部屋を設け、三番目に背の高い城には王達の一番の臣下が部屋を設けた』 そこで段落が別けられている。 『王子の部屋から二人の王の部屋までの距離はどちらも同じだった。またそれらの距離は二人の王同士の部屋の距離とも同じだった。また背の低い城に住む王の部屋と、王子の部屋と臣下の部屋は、一本の直線で結ぶことが出来た』 それを読み終える頃、俺の背後に長い髪がひっかるような感触があった。 「分かったよ」俺の耳元で白兎がささやいた。「答え送るからね」 「うおおっ!」俺は振り向いたが、そこには白兎が消える際に残した空気の流れがあるだけで、白兎自身はどこへともなく消え失せていた。 「どうしたんですか勘八兄さま」銀子が振り向いて尋ねる。 「銀子、姉ちゃん、今ここに誰かいなかったか?」 「誰かって……? この三人以外で?」とあゆみ。「いなかったよ」 「わたしも見てませんね」銀子も言う。 「そうか分かった。俺の気のせいだ」 俺がそう言うとポケットの中でスマートホンがLINEの通知音を鳴り響かせた。きっと謎の答えであるパスワードの数値が送られてきたに違いなかった。 俺達は謎を解く為に怪しい上空図のある部屋に戻った。 改めて上空図を見る。そこには中央の本館と西にある西館と東にある研究棟と北東にある時計塔が描かれていた。四つの棟にはそれぞれ黒い点が刻まれていて、本館の点の左上にマルで囲われた『1』、時計塔の点の左下と右下にそれぞれマルで囲われた『2』と『3』、西館の点の右上に裸の『26』が刻まれていた。尚時計塔を除く三つの館に描かれた点は、おそらくは同緯度に位置しており時計塔の点はかなり北側だ。 ……誰とは言わないが真剣に解くんなら、今のは紙に描いて再現しておけよ? 実際に地図に描かれた点や数字の見えているこの俺にも、考え方を掴むのにはもう少し思考が必要そうだ。俺はヒントを求めて姉と従妹に水を向けることにした。 「壁の文章にも、四つの建物が登場したよな。対応してんのかな」 「しているでしょうね」銀子が言った。「建物の高さによって四つが表現されてましたね。『最も高い城』がこの時計塔、『二番目に高い城』が四階建ての本館で、『三番目に高い城』が別館、『最も低い城』が研究棟である東館だと思われます」 「二人の王とか王子とか王女とかは、お父さんと叔父さんとあたし達?」あゆみが首を傾げた。「一番の臣下って誰?」 「ゾンビパニック以前から三階に住んでるのはあの外人くらいだが……」と俺。「王子の部屋とかあったけど、俺もこの地図のどこに自分の部屋があるのかは分からん」 「それがこの点なんじゃないですか?」と銀子。 「まあそうなんだろうが」 議論が一度停止して俺達は地図を前に立ち尽くした。銀子は真剣な表情で、あゆみは口を半開きにしてそれぞれ地図を覗き込んでいる。 考えるとすれば地図のそれぞれの点にAからDを振ってみるべきだろう。そしてパスワードは数値なのだから、この四つの点とマルで囲われた『1』から『3』、そして別館の点の右上にある『26』から、何かしらの数値を導き出さなければならないということだ。 「なんだか見覚えがありますね」と銀子。 「館の地図なんだから、とうぜん見覚えはあるんじゃ……」とあゆみ。 「違いますよあゆみ姉さま。むしろ学校で見ているんですよ、この点とかを」 「え? そうなの?」 「見ていると思うぞ」俺は頷いた。「姉ちゃんは文系志望だろうけど、それでも数学は毎日やってるだろう。そもそもこれは高校数学なんかじゃなくて、銀子もやっているような算数の……」 「あたし芸大行くよ」あゆみはあらぬことを言った。「テディベヤのデザイナー目指すの。来年は美術予備校行こうかなって!」 俺は世界的な芸術家の母の血が流れているとは思えぬあゆみの下手糞なテディベヤと、独特のセンスこそあれ技巧面では稚拙そのものの絵画を思い浮かべた。しかし何も言うべきではないと思い沈黙した。 「姉さまならどんな芸大にも入れますよ。裁縫も絵も天才的ですから」広い世界を知らない銀子は本心でそう信じ込んでいた。「それよりパスワードの数値を考えましょうよ。文章を読んで、どこで何を出せば良いのかを考えれば……」 「ああ。それなら多分、こことこことここの……」俺は地図を指さして講釈をぶろうとした。 「待ってください!」銀子は俺の方に手のひらを差し出した。「さっきもその前も姉さまと兄さまに先を越されました。今度はわたしに譲ってください」 やる気のようだ。俺は譲ってやることにする。こいつも中学受験組だ。お手並み拝見と行こうじゃないか。 「銀子ちゃん、分かるの?」とあゆみ。 「実は考え方は分かっているんです。しかし答えとなる数値そのものを割り出せている訳ではないので、それは考えながら話していきます」 「おお。やってみろ」俺は後方腕組みの構えである。 「この上空図には四つの点があります。まずはわかりやすく、それらの点にアルファベットを振るところから始めましょう。本館にある点を点A、西館の点を点B、研究棟を点C、そして北東の時計塔を点Dとします。 壁に描かれていたヒントによれば、点A、B、Cは一本の直線で結ぶことが出来ます。これは上空図を見ても明らかで三点は同じ緯度に位置しているように見えるので、間違いないでしょう。また同じく壁に描かれていたヒントによれば、点A、C、Dを結んで出来る三角形は正三角形であると推測できます」 「そうだな。『王子の部屋から二人の王の部屋までの距離はどちらも同じだった。またそれらの距離は二人の王同士の部屋の距離とも同じだった。また背の低い城に住む王の部屋と、王子の部屋と臣下の部屋は、一本の直線で結ぶことが出来た』とあるからな」 「ここですべての点同士を線で結びます。点BACは直線で結べますので、線分BCは線分BAとACを包括していると言えます。その全体は大きな三角形BDCの中に、三角形BDAとADCが含まれるような形になります。 ここでマルで囲まれた『1』『2』『3』の数字に注目しましょう。マル1は角DABに、マル2は角BDAに、マル3は角ADCに、それぞれ位置していることが分かります。また同様に、マルで囲われていない裸の『26』という数値が、角DBAに位置していることが分かります。 ……ここまで言えば、あゆみ姉さまにも分かったんじゃないですか?」 あゆみは首をちょんと縦に動かした。まあこれしきの図形問題を解けないあゆみじゃない。単に上空図から図形を見出すことに思い至らなかっただけだ。 「ではここからが仕上げに入ります。マル1からマル3の数値を解明するのです。 と言ってもマル1とマル3の値は簡単です。マル1のある角DABは、直線の角度である180度から角DACの角度を引けば求められます。角DACは正三角形を形成する角なのでその角度は60度、これを180から引いて120度。マル3はもっと簡単で、角ADCはそのまま正三角形の角なので60度です。 最後にマル2に当たる角BDA。これは三角形の角の合計180度から角DBAと角BADの角度を引き算すれば求められます。西館の点Bの右上、ちょうど角DBAの位置にある『26』という数値は、やはり角DBAの角度でしょう。また角DABが120度であることはさっき割り出したばかりです。これら二つの角の角度を180度から引き算すれば、角BDAの値が34であることが求められます。 最後に、マル1、2、3の順で割り出した数値を並べてみましょう。120、34、60となります。つまり三階へ上がる為のパスワードは『1203460』となる訳です」 「銀子ちゃんすごいっ。頭良い!」あゆみがそう言って銀子を称えた。 「日々の予習復習の賜物だな」俺は感心した。 「この時計塔にいくつの謎解きがあるのかは分かりませんが……一つくらいはわたしも解いておきたいですからね」銀子は鼻を高くした。 あゆみが頭を撫でまわすのを銀子は心地良さそうに味わっている。まあ高校生の従兄や従姉の後ろを付いて行くだけでは、小学生のこいつもつまらないだろう。自分自身が活躍し見せ場を貰う実感を得られたのは良いことだった。 四階へ向かう道すがら、俺はさりげなくポケットからスマートホンを取り出して白兎のメッセージを確認した。『1203460。上空図の四つの点を線で結んで、マル1からマル3の角度を割り出すのだ!』と記載されている。考えれば分かる問題とは思うが、見てすぐに瞬殺するのはなかなかすごい。 俺達も最終的には謎を解き明かしてこそいるが、ことごとく先を行かれているのも確かだった。次の謎こそは、白兎を出し抜いてやると俺は心に誓った。 〇 パスワードは正解だった。 三階に上がって最初の部屋には五つの石像が並んでいた。それらは二十代程の女性の姿をしており俺は目を奪われた。それぞれ髪型や体格・顔つきの異なる五人の淑女はそれぞれ違った美しさがあった。顔立ちは白人風で誰もが豪奢なドレスや宝石を身に着けており、西洋の貴族のような高貴さがあった。 「こういう石像を見付けると、男子の誰かがおっぱい触るんですよねぇ」銀子が半笑いで俺の方を見た。「前の遠足で美術館行った時、それでクラスメイトが怒られてましたよ」 どうしてこっちを見るのか知らんが俺は無視をした。石像の表面は磨き上げられておりつるつるとした光沢があった。俺は手触りを確かめる為に石像に手を伸ばした。 「えっ? 触らないよね?」あゆみが目を丸くした。 「触らないよ。いや触るんだけどおっぱいは触らないよ」 「じゃあどこを触るの? ……どこが好きなの?」あゆみが微かに頬を赤らめた。 「どこなら良いんだ?」俺はあゆみに手を伸ばした。 あゆみは頬の赤らみを増した。「か、髪とか頬とかなら別に良いよ? 最初の方はねっ? 最初はそのくらいから、じっくりが良いかなって……」 「変なことやってないで石像を調べてください!」銀子が心底不快そうに言った。 俺達はふざけるのをやめて石像を調べることにした。石像はそれぞれ四角い台の上に乗せられており、それにより総合的な高さは二メートル近かった。台には五人の淑女の名前が書かれておりそれぞれ『クララ』『アリシア』『フローラ』『イングリット』『カーレン』とあった。それらの名前の上にはいずれも、ちょうどコインが入れられそうな暗い穴が開いている。また台には赤いランプのようなものも設置されており、その内の一つに手をかざすと石像の中から声が響いた。 「私はコウシャク婦人です。アリシアは伯爵夫人です」 クララは言った。言ったというか、台に設置されたセンサーが反応して、録音されていた音声が再生された。 「なるほどこういう仕組みか」と俺。「コウシャクとか伯爵とか、やはり西洋貴族風なんだな」 「でもコウシャクって二種類いますよね。一番偉い公爵と二番目に偉い侯爵で」と銀子。「続けて……伯爵、子爵、男爵だったはずです。このコウシャクがどっちなのか、どう聞き分けるんでしょう?」 「発音が違うんだよ。公(↓)爵(↑)と侯(↑)爵(↓)で……」とあゆみ。 「え? なんて?」銀子が聞き返す。 「公(↓)爵(↑)と侯(↑)爵(↓)」発音を強調するあゆみ。 「だから、なんて?」 「公(↓)爵(↑)と侯(↑)爵(↓)っ」必死に頬を赤らめてハッキリと言うあゆみ。 「もう一回言ってください」にやにやと面白そうにする銀子。 「やめろ」俺は言った。「発音強調すんのが面白いしなんか可愛いのは分かるけど、何度も言わせるな」 「……公(↓)爵(↑)と侯(↑)爵(↓)だよ」あゆみは最後にもう一度だけ発音を強調した。「前に叔父さんがわざわざ部屋に来てそれだけ言ってった」 「何事だよそれ?」と俺。「で、どっちがどっちなんだっけ?」 「公(↓)爵(↑)がオオヤケの方で、侯(↑)爵(↓)がオオヤケじゃない方」 俺はもう一度赤外線センサーに手をかざし、クララに身分を尋ねた。 「私は侯(↑)爵(↓)婦人です。アリシアは伯爵夫人です」 「なるほどな」 五人の淑女達全員に身分を尋ねたところ、以下のような答えが返って来た。 クララ:私は侯爵婦人です。アリシアは伯爵夫人です。 アリシア:カーレンは侯爵婦人です。クララは公爵婦人です。 フローラ:私は公爵婦人です。公爵婦人がパスワードを知っています。 イングリット:フローラは伯爵夫人です。侯爵夫人がパスワードを知っています。 カーレン:私は子爵婦人です。クララは男爵夫人です。 「ふむ……」 五人の証言は明らかに相互に矛盾し合っている。嘘を吐いている奴がいるということだ。俺はスマホのメモ帳に五人の淑女達の証言を記録した。 「四階に行く階段を捜しませんか?」と銀子。「きっとそこの壁にヒントがあって、それと合わせて謎が完成するんだと思います」 俺達は階段の場所を探した。四階は五つの石像を初めとして絵画や彫刻など芸術作品の並んだフロアであり、一度は館のどこかに飾られていたものも多かった。銀次郎がお抱えの芸術家に描かせた肖像画のバックナンバーもあった。今は亡き銀次郎の妻に赤ん坊の銀子が抱えられているものもある。年に一枚ずつ描かれる十四枚の自画像の中で、モチーフである銀次郎がグラデーションのように歳を取っていた。 「ああ母さま」銀子が母親の描かれた絵の前で両手を合わせた。「銀子は元気ですよ」 「俺らもこういうの欲しいよな」俺は芸術家によって美しく描かれたあゆみの姿を想像した。あゆみなら綺麗に歳を取るんだろうが、十七歳の姿は今しかない。残す価値があった。 「勘八の絵なら前にあたしが描いてあげたじゃない? また描こうか?」あゆみは上半身をやや傾けながら上目遣いの目を輝かせた。 「いや……」俺は六時間半に渡って椅子に座り続けた苦行と、その成果物である絵具で厚ぼったいだけのただの落書きを思い出した。「それはその……」 「それよりも階段が見付かりましたよ!」銀子が助け舟を出した。「行きましょう」 俺達は階段を登った。そこにはやはり閉ざされた扉がありパスワードを要求するタブレット画面があった。壁にはパスワードを解くためのヒントが以下のように書かれていた。 クララ、アリシア、フローラ、イングリット、カーレンの五人の淑女がいる。 彼女たちはそれぞれ、公爵婦人、侯爵婦人 伯爵婦人、子爵婦人、男爵婦人にあたる。 彼女達は他の淑女について嘘を吐くことがあるが、自らの亭主より爵位の高い亭主を持つ淑女については、嘘は言わない。 彼女達は自身の身分を偽ることがあるが、自らの亭主を本来より低い爵位に偽ることはない。 誰か一人がパスワードを知っている。 扉にはパスワードを要求するタブレットの下に、一枚のコインがセロテープで張り付けられている。五人の淑女の像の台には、コインを入れるような穴があった。コインには銀次郎の顔が彫られており、これらの謎を仕掛けたのが誰であるのかを暗に示していた。 「これってやっぱり……」あゆみが自信なさげな顔をする。 「論理パズル!」銀子が言う。「わたし苦手なんですよ~。お受験で出るからって問題集父さまから貰ってるんですけど、ちんぷんかんぷんで……」 「あたしも嫌い。それにこれ、きっと難しい奴だよ……」 「俺は結構得意だったぞ?」俺は胸を張る。「パターンが分かればすぐだ。銀子、今度教えてやろうか?」 「別に良いです。中学受験やめるように言ってるのは兄さま方ですよね?」銀子がそっぽを向いた。「それより、得意だっていうんだったら、さっさと解いちゃってくださいよ」 「勘八。お願い」あゆみは両手を合わせた。 「任せておけ」 コインは一枚、チャンスは一回だ。責任重大。しかし俺には自信があった。ここまで俺はガールズに見せ場を譲って来た。今回くらいは良い格好をさせてもらいたいところだ。 俺はスマホを取り出して先ほどメモした淑女達の証言を改めて見た。 クララ:私は侯爵婦人です。アリシアは伯爵婦人です。 アリシア:カーレンは侯爵婦人です。クララは公爵婦人です。 フローラ:私は公爵婦人です。公爵婦人がパスワードを知っています。 イングリット:フローラは伯爵婦人です。侯爵婦人がパスワードを知っています。 カーレン:私は子爵婦人です。クララは男爵婦人です。 俺は自分に出来る最速で思考を始めた。 まずカーレンの証言に嘘がないことが分かる。カーレンの亭主は子爵以下の爵位しか持たず、そしてクララを男爵婦人と言っている。クララがもし子爵ならカーレンは男爵な訳だが、すると自分より爵位の高いクララについて嘘を吐いていることになる為矛盾が生じる。よって、カーレンが子爵婦人、クララが男爵夫人となる。 男爵夫人であるクララは他の淑女について嘘を吐くことがない。男爵より低い爵位はないからな。クララがアリシアを伯爵婦人というなら伯爵婦人なんだろう。 残るはイングリットとフローラ。この二人が公爵婦人と侯爵婦人となる訳だ。 イングリットはフローラを伯爵と述べている。もちろんこれは嘘だ。そしてもしフローラが公爵であるならば、侯爵のイングリットが公爵のフローラについて偽りを述べていることになり、矛盾する。 よってイングリットが公爵。フローラは侯爵だ。 ここまで来るとあとは簡単だ。何故なら、侯爵婦人のフローラが、公爵婦人がパスワードを知っていると主張しているからだ。自分より爵位の高い淑女について嘘を吐けないというのは、パスワードを知っているか否かについても適応されるルールだろう。フローラのこの証言に嘘はなく、パスワードを知っているのは……。 「分かった!」俺は歓喜した。「パスワードを知っているのは公(↓)爵(↑)婦人のイングリットだ!」 俺が叫ぶのとほぼまったく同時に、俺のスマホからLINEの通知音が鳴り響いた。俺はLINE画面を開く。案の定それは白兎からのメッセージだった。 『パスワードを知っているのは公爵婦人のイングリット! 論理パズル得意じゃないから時間かかっちゃったのだ……』 俺はスマホ画面から目を離し、あゆみと銀子の方を見た。 「姉ちゃん! 銀子! 今のどっちが早かった?」 「うお!」俺の剣幕に銀子が表情をひきつらせた。「な、何がですか?」 「今のLINEの通知音と、俺が『分かった!』というのと、どっちが早かった?」 銀子は呆然としている。「……通知音の方がコンマ一秒早かったように聞こえましたが……」 「あたしもそう思う」あゆみがおずおずと言った。 「ちくしょう!」俺は地団駄を踏んだ。「あと一瞬の差だったのに!」 再びLINEの通知音が鳴り響く。白兎からのLINE。『正義の忍者に勝とうなど百年早いのだ!』俺はスマホを床に叩きつけそうになった。 「誰かと勝負してんですか……?」銀子はいぶかるような表情を浮かべる。「しかし本当に得意なんですね。わたしだったら一時間かかって解けてないと思います。やりますね」 「うん、すごいよ勘八」あゆみが俺のアタマを撫でてくれる。「いつでもお姉ちゃんの役に立つよね。偉いよ」 その手のひらの感触で報われたものと思うことにする。俺達は石像の部屋に戻り、イングリット像の土台の穴にコインを投入した。 イングリットは無機質な声で繰り返す。「『パスワードは02172633です。パスワードは02172633です。パスワードは……』 「わたしの誕生日と出生体重じゃないですか」銀子が言った。 「そうなの?」とあゆみ。「それ絶対叔父さんが考えたパスワードだよ」 「もしかするとこの時計塔は、父さまのテリトリーなのでしょうか……?」 「まあそうだろうな」俺は頷いた。「次へ行こう」 俺達は四階への階段の方へ向かった。 〇 パスワードは合っており俺達は四階へと向かった。 四階の最初の部屋は管制室のようになっており無数のモニターに時計塔内の様子が映し出されていた。そこには一つの人影があった。俺達は驚いたが同時に納得もした。 人影の正体は叔父の銀次郎であり、豪奢な椅子に腰かけてワインを飲みつつモニターを見詰めていた。銀次郎はやって来た俺達を認めると片手をあげて気さくな声を出した。 「よっ」 「父さま!」銀子は目を丸くした。「どうしてこんなところに」 「ここはワイのテリトリーや」 「それは何となく察していましたが……」 俺達はここに来るまでに見た水槽や館の資料室や石像や数多くの芸術作品のことを思い出していた。この館には使用人を除けば二人の大人が住んでいるが、研究の虫である金一郎があんなものを時計塔に隠し持つはずがなかった。 「勘八。こないだワイとおまえで賭けしたやろ?」と銀次郎。 「したな」俺は頷いた。「俺が勝ったら時計塔の案内をしてもらう、という約束だった」 「あの勝負をする前から、ワイはそろそろおまえらに時計塔の案内をしてやるつもりやったんや。それで一階のトイレの隠し階段の位置をそれとなくサウナに描いておいたんや。勝負はどっちの勝ちとも言い切れん形で終わったから、それを教えることはなかったがな」 「時計塔の各所には謎解きがあった。それも俺達に解かせる為に叔父さんが用意したのか?」 「その通りや。と言っても元々この時計塔の内側は秘匿されとって、各階にはパスワード付きの扉があらかじめ設置されとった。ワイはあくまで、そのパスワードを解く為のヒントとなる謎解きを設定し、最初の扉が破られた瞬間にワイのスマホに通知が来るようにしとっただけや」 時計塔の内側が秘匿されていたのは、やはり違法に飼育された生物などが原因だろう。他にも俺達が見つけていないだけで、見付かるとまずいものがあるのかもしれない。俺達子供にそれを公開して万一口外されたらたまらない為、入らないように言い含められていたのだろう。 そして今回、俺達がある程度分別の付く歳になったことで、暇を持て余した銀次郎によって時計塔の公開が決定されたのだ。 「それは分かったが……だがどうやって先回りしたんだ?」 「秘密のエレベーターがある」 「秘密だらけだなこの塔は」 「叔父さんが現れたってことは……ひょっとしてクリアー?」あゆみが小首を傾げた。「あたし達、もうゴールしたってこと?」 「その通りや。おめでとう小さな冒険者たちよ」 叔父さんは俺達に向けて拍手をした。あゆみは照れくさそうに頬に手をやり、銀子は嬉しそうに父親に駆け寄って腕を掴んで飛び跳ねた。俺もまた達成感を覚えて頬が綻んだ。 時計塔に勝手に入り込んですぐの時は、この咎で俺達は三人並んで怒られるものだと覚悟していた。しかし実際には俺達は楽しい謎解きのもてなしを受け、最後には拍手によって称えられることとなった。このわくわくとする催しに俺は感銘を受けた。 「お陰で楽しかったよ、叔父さん。ありがとう」俺は心から礼を言った。「叔父さんって昔からサービス精神があるよな。子供を楽しませるのが好きというか」 俺は館に閉じ込められる前、この叔父によってしょっちゅう旅行などに連れて行って貰っていたことを思い出した。銀次郎が新しい車を買う度にドライブにも連れて行って貰えた。高級車の左ハンドルを握るサングラスをかけた銀次郎はなかなかに渋いのだ。 「楽しめたようなら何よりや」銀次郎は満足そうだった。「おまえらの頑張りは塔のあちこちに仕掛けられた監視カメラから見とったで。皆頑張った。ほら、これがご褒美や」 「ご褒美まであるの?」あゆみが喜んだ。「なになに?」 「これや!」 銀次郎は懐から金色に輝く小さな像を取り出した。それはゲーセンで取れるフィギュアくらいの大きさをした銀次郎本人の像だった。袴を着用し不敵な表情を浮かべる銀次郎は実際よりも幾ばくか若く作られていた。 「全部純金で出来とる」迂闊にもご褒美という言葉に喜んだあゆみに銀次郎は像を渡した。「部屋に飾るとええわ」 俺達は顔を見合わせた。こんなものを部屋に飾るくらいなら、トッケイゲッコウの死骸を置いた方がまだマシだという統一された意思がそこにはあった。 「すまんが一つしかない。しもたなぁーっ。取り合って喧嘩にならんか心配やなぁっ!」 「これは一番活躍した勘八にあげるよ」あゆみは俺に銀次郎像を押し付けた。 「ご褒美は小さい奴に譲るものだろう」俺は銀子に銀次郎像を押し付けた。 「良いから姉さまが持ち帰ってください」銀子はあゆみに銀次郎像を押し付けた。 堂々巡りが繰り返され最終的に銀次郎像はあゆみの手に渡った。あゆみはものすごく嫌そうな顔で像を抱いていた。 「あゆみが代表して持って帰るんやな? まあええやろ。必ず部屋に飾るんやで? 捨てたりしたら承知せぇへんからな」 そう言って銀次郎はあゆみにトドメを刺した。あゆみは深く深く肩を落とした。俺と銀子はあゆみにいたく同情したが助け舟を出すことはなかった。俺達はこんなくだらないものを自室に飾りたくなかった。ちゃんと飾っているか頻繁に銀次郎に視察に来られたくなかった。 「ほな解散や。ワイも見ていておもろかったわ。良かった良かった」 銀次郎は上機嫌そうにその場を立ち去って行った。残された俺達は顔を見合わせた。俺と銀子は苦笑していたが、銀次郎像を抱くあゆみは泣きそうな顔をしていた。 「ねぇ。お願いだから、誰がこれ持つかじゃんけんにしてよーっ」 「それは姉さまが持つんです。終わった話を蒸し返さないでください」銀子は無情にも告げた。「というか、ちょっと思ってたんですけどね。この時計塔、まだもう一つ上の階があるんじゃないですか?」 俺は頷いた。この時計塔は四階建ての本館よりも背が高かった。一階ごとの天井が特別高い訳でもない以上、もうワンフロア存在するのが自然だった。 「ちょっとこの四階を探ってみよう」俺は言った。「五階への階段があるのかもしれん」 階段自体はすぐに見付かった。これまでに登って来た階段とは位置や形が異なり、フロアの中心に螺旋階段が備えられていた。 螺旋階段を登るとパスワードを要求する扉があった。しかしこれまでとは異なりヒントが壁に描かれていることはなく、あゆみも銀子も途方に暮れていた。 「これまでのようには行かない感じですね」と銀子。 「大丈夫だ。俺に考えがある」 俺はポケットから一枚の紙切れを取り出した。そこには『DB42上 時計塔 秘密の部屋』と書かれていた。銀次郎の寝室から白兎が見つけたものだ。 「おまえらまだ時計塔におるんか」四階から下りて来ない俺達を訝ってか、銀次郎が螺旋階段を訪れた。「その扉は本当の秘密や。この館でもそのパスワードを知っとるんはワイしかおらん。おまえらにも立ち入らせる気はないから早く帰れや」 「……ドラゴンボール四十二巻」俺は言った。 「は? 勘八……おまえなんで……?」 「ドラゴンボール四十二巻の上のバーコードだろ? 13桁の」俺は螺旋階段を登って来る銀次郎に紙を見せた。「叔父さん本当好きだよな、ドラゴンボール」 銀次郎は大のドラゴンボールファンであり、甥である俺への布教活動も怠らなかった。その為俺の幼少期の愛読書はドラゴンボールだった。DBがドラゴンボールの略であることは勘付くし、JC版のドラゴンボールの全四十二巻であることも知っている。そしてあらゆる書籍には上下で二つのバーコードがあるはずだった。 「こうして答え言い当てたんだからさ、案内してくれても良いだろ?」俺は交渉する。 「あかんわ勘八。その紙、どこで手に入れた?」銀次郎は俺の手にある紙のメモを指さした。 「館に入り込んだ忍者がくれた」 「アホ抜かせ。ほら、早ぅ返せや」 「はいはい」俺は銀次郎に紙のメモを返した。「本当に入れてくんねぇの? 俺達、最後までこの館を探検したいんだけどな」 「あかん言うとるやろ」 「ここで追い返しても、後からバーコード調べてまた来るだけだろ? だったら叔父さんの監視がある状況で見られる方がまだ良いんじゃないか? どうしても見られたくないものがあるなら、隠すまでここで待ってるよ」 「パスワードなんていくらでも変えられるわ。その紙をワイに見せた時点でおまえの負けやで」 「出し抜くような真似をしたくなかっただけだよ。俺は一つも嘘を吐かず叔父さんに正直にお願いしているんだ。叶えてくれたって良いだろう」 「あかんあかん。ここだけは絶対に……」 その時、天井から一冊の本が降り注いで俺の脳天を直撃した。 それはドラゴンボール四十二巻(JC版)だった。俺の頭にぶつかって床に落ちたそれを銀子が拾い上げる。表紙では神龍を背景に大人の孫悟空が読者に向けて手を振っていた。 「やったぞ!」俺は言った。「たまたま偶然天井からドラゴンボール四十二巻が落ちて来た!」 「そんな偶然があるか!」銀次郎が悲鳴をあげた。 きっと白兎が落としてくれたに違いなかった。メモの描かれた紙を見て答えに勘付いたとして、別にドラゴンボール四十二巻を持ち歩く必要はなさそうだったが、とにかくこれで十三桁の数値が手に入った訳だ。 「この上のバーコードですよね?」銀子が本の裏表紙を見て扉のタブレットに数値を打ち込んだ。「ぴっぴっぴっ。ぴっぽっぱっ」 「あかーん!」銀次郎が銀子に向けて手を伸ばした。「やめろっ!」 ピーッと音が響いて扉が開錠された。銀子は容赦なく扉を引っ張って銀次郎の秘密の部屋に入って行った。 と言ってもそこは何も特別な空間でもなかった。十五畳ほどの部屋が一つあるだけで、その部屋もどこか殺風景で、時計塔の時計を内側からメンテナンスする為らしき装置の他は、小さな窓が一つあるだけだった。 「この部屋の何が秘密なんですか?」銀子が首を傾げた。 「時計を弄る為の部屋や。下手に触ると壊れるから子供は立ち入り禁止や」と銀次郎。「はよ帰れ」 「それにしては厳重すぎねぇか?」と俺。「装置も時計のツマミのでかい奴にしか見えないし……この窓だって何の変哲も……」 窓を覗いて俺は愕然とした。 敷地内で最も高い建物である時計塔の頂点からは、庭の様子が一望できる。そう、全てを一望出来てしまうのだ。そしてその中には、今現在雪で埋もれて使えなくなっている露天湯までもが含まれていた。 「これって……ひょっとして覗き放題……」 館の大浴場には内湯の他に露天湯もあった。吹雪と洪水によって露天湯は締め切られていたが、使えた頃は俺もあゆみも銀次郎も露天湯が大好きで良く浸かっていた。無論覗きなどあってはならないので、露天湯は鉄壁で囲われていた。本館のどの窓も露天湯の方を向いてはいなかった。西館や研究棟から覗こうにも、本館の建物や周囲の鉄壁が邪魔になって覗くことは出来なかった。それらは本館よりも背が低かった。しかしこの時計塔の最上階の窓だけが例外だった。 「えっえっえっえっ、嘘、嘘でしょ?」あゆみが窓を覗いて震えあがった。「嘘だよねっ? 覗きなんてそんな……嘘だよねっ?」 「父さま……。そんなまさか……」銀子が真っ青になって銀次郎の方を見る。 「ち……ち……違、違うで銀子。あゆみ。ワイは何も覗きなんて……」 「……まあ証拠はないよな」俺は冷静に言った。「確かにこの部屋からは覗きが出来るようになっている。しかし覗きが可能だということと、実際に覗いたかというのは別問題だ。今すぐに決め付けられる状況とまでは言えない」 「でもこの部屋父さましか入れないんですよね?」銀子がいぶかる様な顔をした。 「当然や。誰か良からぬ変態が、この部屋に入り込んで、大切なおまえらの裸を覗くようなことがあっては困るからな」銀次郎は腕を組んで真面目ぶった顔を作った。「ワイが責任を持って封鎖しとるんや」 「窓を潰さなかったのはなんでだよ?」決め付けないなりに俺は追及した。 「部屋に入れんようにしとるんやからそれでええやろが」 「俺達が入ろうとした時必死で止めたのは?」 「この状況がその理由やないかい。あらぬ疑いを掛けられたくなかったんや」 「しかしこんなものを見付けたんですが」銀子が双眼鏡を持って俺達に示した。「なんかそっちの壁にぶら下がってたんですけど」 冷たい沈黙が場を支配した。 「……ああもう無理だ!」俺は嘆いて天井を仰いだ。「一縷の望みもなくなった! 庇いようがない!」 そもそも銀次郎の主張は最初から無理筋だ。覗きが出来る窓があるなら館の人間同士で共有して部屋じゃなく窓を潰すべきなのだ。誰にも言わず自分だけが入れるようにしておく理由なんてないし、窓を潰さない理由もどこにもない。 銀子は双眼鏡で窓を見た。「うっわかなり良いレンズですよこれ。いつもあゆみ姉さまが外気浴してる椅子もくっきりです」 「ど、どのくらい良く見えるの……?」あゆみが恐る恐る訊いた。 「それはもう。きっと乳首の色までしっかりと」 「きゃーっ! きゃあいやーっ!」あゆみが我が身を抱きしめて悲鳴をあげた。 「誰が覗くか貴様のようなガキぃ!」銀次郎は本性を現して逆ギレをかました「多少でかい乳ぶら下げとるくらいで自惚れんなやあっ! 貴様まだ十六、七やろがい! ワイに言わしたらあゆみも銀子も変わらんわぁ! 金一郎のノロマ娘の身体見て喜ぶかいこの陥没乳首!」 「陥没してない!」あゆみは泣き出した。「ちょっと人よりへこんでるだけなのに……。ぅううう……。ふぁああああっ。あああああんっ」 「今のは酷い暴言だ」俺は声を低くして銀次郎を睨んだ。「姉ちゃんの身体は素晴らしいぞ? 取り消せ!」 「そこじゃないでしょう!」銀子が吠えた。 俺は顔をくしゃくしゃにして泣いているあゆみの肩を掴んで言った。「これは長者原に報告しよう。父さんにもだ。厳正に対処して貰った方が良い」 「待てっ。金一郎はええ。あいつはどうとでもなる。でも長者原に言うんはやめろ勘八」銀次郎は取り縋るようにして俺に言う。「いくらワイでもこれが使用人にバレたらただではすまんっ。使用人共に結託して告発されたら完璧な不祥事や。ワイは専務やから会社にとっても大ダメージや」 「そうは言うがな叔父さん!」 「会社のCMに出とる女優だのアイドルだのに、この浴場を使わせることもあるんや。話が外に漏れて、そいつらにも騒がれたら、芸能界とのパイプも少なからず消滅する。会社のイメージダウンも著しい」 「そうは言うが、内々で処理するにしたって、長者原に言わない訳には行かないだろう? 父さんは仕事とか研究ばっかりだし、実際に家族のこと回してるのあの人だろう?」 「ワイは使用人に嫌われとる。使用人の誰か一人でもワイがしたことを知ったら、連中は必ず外に漏らすやろ? そうなったらおまえらの暮らしにも影響しかねん」 銀次郎はとうとうその場に跪いてしまった。 「銀子、あゆみ。信じてくれ。おまえらのことは覗いてない。そこまで鬼畜やないで。覗くとしてもこの館に接待でやって来る女の芸能人達なんや。本当や」銀次郎はあゆみの方を見た。「それとあゆみ。さっき言ったことは取り消して謝罪する。すまんかった。おまえの乳首は陥没してない。人よりちょっとへこんどるだけや……」 「……わたしからもお願いします。姉さま、兄さま」銀子が俺達に向けて頭を下げた。 「銀子ちゃん……」あゆみが泣きじゃくりながら銀子の方を見た。 「父さまが館を追い出されたらわたしはどうすれば良いのですか? それによくよく考えればわたしはお金持ちの家で贅沢に暮らせれば良いのであって、父親の覗きの前科はそれほど大きな問題ではないのです」 「割り切り方が小五じゃねぇな……」俺は感心するやら呆れるやらだった。「そうは言うけどショックじゃないのかよ? おまえだって覗かれてないとは限らないんだぞ?」 「いや流石に十一歳の実の娘を覗かないでしょう。何が楽しいんですかそれ」銀子は呆れた様子だった。心底そう思っているようだった。「わたしなんてあゆみ姉さまと比べるまでもなくただのちんちくりんです。自分がそういう目で見られるなんて思ったこともありません。体育の授業の前などでは、クラスの男子が教室を出るのを待たずして着替えを始めるタイプでもあります」 「それはそれでどうかと思うんだけどな……」 「……銀子ちゃんがそう言うなら、あたしもそれで良いよ」あゆみは涙をぬぐいつつ言った。 「おい姉ちゃん。良いのかよ?」こんな時まで流されるあゆみに、俺は思わず強い言い方をした。「陥没乳首見られた上、逆ギレされて泣かされといて、泣き寝入りするつもりなのか?」 「陥没してないっ!」顔を真っ赤にしたあゆみは目から鼻から汁を飛ばしつつ、喉ちんこ丸出しで叫んだ。「人よりちょっとへっこんでるだけ!」 「ごめん」俺は謝った。心から。「でもなんで許すの?」 「だってどうしたら良いか分からないんだもん。それに告発しようとしたら、絶対また逆ギレされたり怒鳴られたりすると思うし。今は認めるみたいなこと言ってても、他の人の前ではまた白を切る可能性もあるし。そういうの怖いし嫌なんだもん」 あゆみに誰かを告発し糾弾するだけの根性はない。事を構え沙汰を起こすストレスを乗り越えられないのだ。相手が銀次郎のような輩タイプなら猶更である。学校でいじめなどの被害者になった時、やられたい放題になるのはこの為だった。 「それに……あたしショックだったけど、叔父さんが館から追い出されるとかは嫌なの。お父さんの会社や銀子ちゃんのこともあるし、事を大きくするのはダメだと思う」 俺は悩ましかった。納得いかない気持ちもあった。しかしこの場合銀次郎をどうするか考えるのはあくまでもガールズだろう。その決定に俺は従うことにした。 「……分かった。じゃ、この窓は俺達が責任を持って潰すってことで。後」俺はあゆみの抱いている銀次郎像を指でさした。「これは返却させてやってくれ。いらないから」 〇 時計塔の冒険から帰還してすぐ、俺達は資材を取りに物置に向かった。 大きめの木材を壁に打ち付けるという形で窓を潰した。さらに『秘密の部屋』のパスワード変更も銀次郎に承諾させた。パスワードはあゆみが考えて管理することになり、銀次郎にはもちろん知らせなかった。 「とんだ大冒険だったね……」 自室に帰ると白兎がクローゼットの中で俺を待ち受けていた。俺は生返事を返すと勉強机に座り込み、天井を仰いでうめき声をあげた。 「げんなりしてるね」 「そりゃそうだよ。叔父さんが覗きしてたんだから」俺はため息を吐いた。銀子には優しく接しようと決意した。「あんたにとってもがっかりだったんじゃないか? 時計塔にはゾンビパニックに関わる秘密が何もなかったんだから」 「そんなことはない!」白兎はくわと目を剥いて裏返った声で叫んだ。 「でかいよ声が……」 「あそこはそんなもんだろうと思ってた! 重要なのは研究棟の方! あの地下道のバリケートを超えたらやっと研究棟に行ける! 大収穫だよ!」 「まあ、地理的には行けるだろうな」 「地下道の四枚の絵も重要! 人間以外が描いたような変な絵だった! おそらくこれが一番の手がかり!」白兎は両手を振り上げた。「一気に真相が近付いてる気がする! この調子で館の秘密を……」 その時、部屋の扉が突如として開いた。 「うおおっ!」俺はクローゼットの扉を勢いよく閉めた。白兎が指を挟んで「いてぇっ」と喚いた。 「なんか、ねずみのにおいが、しますね」ട്യൂണが入って来た。全身汗だくでバケツの水をかぶったようになっていた。 「鼠ってなんだよ?」俺は目を丸くした。「勝手に入って来ないでくれよ」 「しつれい、しました」 「なんでそんな汗だくなの?」 「にしかんの、じしつで、とれーにんぐ」 ട്യൂണは元々この館に住み込んでいる一人で、西館に自室を構えている。そこは俺達の部屋と変わらないくらい広く豪奢で、別館のジムとは別にട്യൂണ個人用のトレーニング器具が並んでいる。それらは俺や銀次郎では扱えないような特殊で高度なものだった。 「やっぱり、におう」ട്യൂണは何故か俺の方に近付いて来て首筋に顔を近づけて鼻をひくひくさせた。「ねずみの、におい、いろこく。ぺっとしょっぷの、はむすたーこーなーの、ごとし……」 「あんたの方が汗臭いよ……」 「しつれい。ちょっと、はずかし」ട്യൂണは特に恥ずかしそうにするでもなく頬に手を当てた。「このへやが、やっぱり、あやしいのかな?」 「変な言いがかりはやめて出て行ってくれ。今日は色々あって疲れてるんだ」 「りょうかい、しました」 ട്യൂണは特に焦る様子もなく、素直に俺の部屋から去って行った。 「……なんだったんだ」俺は言った。そしてクローゼットの方を見る。「もう出て来て良いぞ?」 返事はなかった。 「おい。どうしたんだ?」俺はクローゼットの扉を開ける。「もう良いって……」 白兎は震えていた。 クローゼットの隅で身を丸めていた。顔を青くして、目に微かに涙を浮かべてさえいた。いつも明るく天真爛漫で自信に漲っている表情が、追い詰められたように弱気に歪んでいる。 「なんで帰って来てるの? ヤバかったよ、今のマジで……」白兎は歯を打ち鳴らす。「死んでてもおかしくなかった」 「何を言って……」 「皆アイツに殺されたんだ。青烏も緋熊も桃猿も。残ったのは私とあいつだけ……」白兎は我が身を抱いて頭を抱え続けている。「早く終わらせなくちゃいけない。見付かったら一貫の終わり。外で苦しんでいる人達の為にも……早く」 白兎は凍えるようにして震え続けていた。 〇 第四話:ゾンビ騒動の真実! 街に平和を取り戻せ! の巻 〇 「なんか昔優しいお姉さんいなかった?」あゆみは俺の左端を取った。 「お姉さん?」俺は銀子から一枚取り、数の一致する自分の手札と合わせて捨てた。その後銀子はあゆみの手札から一枚抜いた。「館にか?」 「そう。あたしの二つくらい年上でさ。勘八も良く遊んで貰ったじゃない? こんな風に一緒にトランプしたり……」あゆみはまたも俺の手札の左端を取った。「お母さんのアトリエで一緒に絵を描いたりもしたなぁ。あたしが十歳になるくらいまで館にいたのかな? あの人なんだったんだろ?」 その時メイドがやって来てテーブルを囲む俺達に紅茶を配り、クッキーの並んだ皿を置いた。 「いや姉ちゃんそれ……」俺はメイドの方に一瞥をくれながら銀子の手札から一枚抜いた。ババだった。 「マジで言ってます?」銀子が呆れた声で言った。「当時四歳とかだったらわたしですら理解しているというのに……」 「え? 何それ何の話?」俺が左端に配置したババを案の定あゆみは抜き取った。「なんかいつの間にいなくなってたよね? 今どうしてるのかな? ゾンビになってたらちょっと嫌だな。まあ確か使用人の子供とかだったはずだし別にしょうがないたたたたたた……っ」 メイドが冷たい表情であゆみの髪の毛を掴み上げた。リビングのソファに腰掛けていたあゆみはその場で引っ張り上げられ、その手からカードがボロボロ落ちた。メイドはあゆみよりも背が高い為、あゆみはたちまちつま先立ちになった。 「なんてことするの……?」あゆみは信じがたいと言った表情を浮かべる。館の使用人があゆみに危害を加えることはかつてないことだ。「痛い痛いっ。助けて誰か。勘八っ」 「おいやめろ」俺は声を低くして立ち上がった。「いくらなんだって、やって良いことと悪いことがあるぞ?」 メイドは反応せずに「妹だと思ってた」と表情のない声で告げ「どこまで傲慢なの?」と空いている方の手であゆみの頬をぶった。その衝撃でソファに放り投げられたあゆみは、赤くなった頬に手をやってみるみる泣き出した。 「うーわっ。やりやがりましたね」銀子が口をぽかんと開ける。 「……これは執事に報告するからな」俺はメイドを睨んだ。 「好きにすれば?」メイドは表情を隠すように背を向けた。そして広いリビングルームから立ち去って行った。 「そんな……どうして」あゆみはボロボロ泣きながら、テーブルに突っ伏してしゃくり声をあげた。「あたし……使用人にまでいじめられなきゃなんないの?」 俺はあゆみに聞こえないようにため息を吐いて、それから言った。「姉ちゃん。あの人が『紬お姉ちゃん』。忘れちゃったのか?」 「え? 紬お姉ちゃんって……確か昔の……」あゆみは涙でぐずぐずの顔をあげた。 「そう。今姉ちゃんが言った『優しいお姉さん』で、長者原の娘。中学に進学する時俺らと同じ寮に行くために館を出て、去年高等部を卒業して館に戻って来たんだ。もう一年以上は前のことだ」 長者原の娘である彼女は高等部の寮を出た後に、許されなかったのか選ばなかったのか一人暮らしはせず、『実家』であるこの館に住んで大学へは原付で一時間かけて通学している。そして館で暮らす以上はということで、夜と休日は使用人として働き、給料も受け取って学費に充てているようだ。 かつては、使用人の子と主人の子とで立場は違えど、俺達とあのメイドはこの館で同じ幼少期を過ごした。長者原は娘に厳しかったが、しかし父さんと、生きていた頃の母さんは執事の娘を俺達とそれほど区別なく扱っており、当時の俺達の実感としてはあの人は姉のようなものだった。 しかしそんな時代も終わりを告げた。去年館に戻って来たあの人は一介の使用人としての振る舞いを身に着けており、メイドとして業務をこなしていた。かつての関係が消滅したことを理解した俺は、彼女を特筆するところのないただのメイドとして捉えることにした。依怙贔屓はすべきでないと考えた訳だ。それは館の御曹司として正しい認識で態度だったはずだ。 あゆみの方がどう考えているのかは、これまで気にしたこともなかったが。 「そりゃあ背も伸びて顔立ちも少し変わりましたが……。しかしあの人自身あゆみ姉さまにかつてのように親しく接していましたし、姉さまを『お嬢様』と呼ばず『あゆみちゃん』と呼んでいました。おかしいと思わなかったんですかね?」あゆみは呆れた様子だった。「そうでなくとも、戻って来たその日の朝食の席の業務連絡で、改めての自己紹介とかあったでしょうに」 「しゃあねえよ。直接名指しで言われない限り、姉ちゃん朝の業務連絡一言も聞かないから」 というか俺以外誰も聞いてない。誰も使用人の話など何とも思っていないのだ。銀次郎などは良く『なんで今まで黙っとったんやーっ!』とか逆ギレしている。かくいう俺も朝は眠いので、時々聞いていないことがあるのは否定できなかった。 「なんかタメ口利いて来るなとは思ってたけど……そういう事情だったの?」と理解した様子のあゆみ。「言われてみたらピンと来るけど……。でも分かんないよ使用人の顔なんていちいち見ないし。お店の店員さんとかと一緒でしょう?」 「それは確かに、しょうがない部分もありますかね」銀子は少し共感できるようだった。 「どうしよう? 怒らせちゃったよね?」あゆみはおろおろしていた。「これ絶対またなんか嫌なことしてくるよ。館の中が快適じゃなくなっちゃう! どうしよう? どうしたら良いの勘八?」 あゆみは泣き顔で俺に縋りついた。俺はあゆみをなだめる為に、肩を抱きながら言った。 「きっともう何もしないよ。不安なら、長者原に報告して何か処分して貰えば大丈夫だ。姉ちゃんの留飲もそれで下がるだろ?」 「えーっ、ダメだよーチクったらチクったって余計いじめられちゃうよー。メイドなんだったらあたし達の生活管理してるのに、色々陰湿に嫌がらせして来るよっ」あゆみは両手を握り締め、泣き続けた。 その時、リビングルームに銀次郎が威張った歩き方で入って来た。背後には食材や酒瓶の乗った盆を持った長者原を連れている。リビングで昼酒をするつもりのようだ。 「あっ。父さま!」銀子が銀次郎に歩み寄ってその手を引いた。「ちょっと聞いてくださいよ」 「おお銀子。何があった? あゆみが泣いとるやんけ?」銀次郎は子供向けの笑顔を薄っぺらく張り付けて、銀子に手を引かれた。「どうしたんや? 叔父さんに話してみい?」 揉み手でもしそうな程優しい態度だった。覗きがバレた失点を叔父として頼もしく振舞うことで埋め合わせようという魂胆が伺えた。 「使用人の一人があゆみ姉さまの顔を殴ったんです」銀子が言った。 「なんやーっそれーっ! 許しがたいなぁ!」銀次郎は大げさに怒り狂って見せた。「ワイの可愛い姪っ子を良くも殴ったなあーっ! 誰やそいつーっ! 名前を言えやーっ!」 「長者原さんですよ。と言ってもそこの執事じゃなくて、娘の方の」 長者原は目を丸くして銀子の方を見た。 「それは本当ですか?」 「ええ。この目で見ました」銀子は先ほどの経緯を語った。 「あゆみ様。お怪我は……」 「……ない」あゆみは多少赤くなっているだけの頬っぺたを手で撫でた。「でも痛かった……」 「クビやクビやーっ! 今すぐ館を追い出さんかーっ!」銀次郎は怒鳴り散らした。「長者原貴様、自分の娘やからって温情掛けるような真似したら承知せぇへんぞーっ!」 「温情を掛けるような真似は致しません」いつも冷静な長者原も微かに冷や汗をかいていた。「この件については、すぐに旦那様に報告させていただいて、然るべき処分を……」 「えっ? あの人クビになるの?」あゆみは目を輝かせ、合わせた両手を顔の横に持って行く仕草をした。「館からいなくなればいじめられようがないよっ。良かったーっ!」 「そうやあゆみ。ワイに任せとけ。絶対に追い出したるから」 銀次郎が腕を組んで言う。あゆみは笑みを浮かべて何故か俺の顔を覗き込んだ。 「叔父さんって、こういう時は頼りになるよねっ。ねぇ勘八」 「……マジでクビになんのか?」俺は呆然とした。「いなくなるのか? あの人が、館から?」 実際に殴ったのだから、解雇は不当なことでもないだろう。本来なら感情を押さえられなかった使用人に多少の哀れみを感じるだけで、解雇については俺も納得したはずだった。 しかし俺はどこか釈然としなかった。あのメイドをクビにしようとしているあゆみや銀次郎が遠く感じた。だから俺は気が付くとあゆみに尋ねていた。 「……姉ちゃん、本当にクビにすんのか?」 「えっ? 叔父さんがしてくれるんだよ。ダメなの?」あゆみは目を丸くした。「勘八も執事に言おうって言ってたじゃない?」 「それはそうなんだけど、クビ云々は叔父さんが言い出したことで、俺は何もそこまで……」 「勘八。おまえは優しい奴やな。けどな」銀次郎は諭すような口調で偉そうに言う。「これは正当な解雇なんや。メイドにとって館の子供は雇い主の娘であると共にそもそも顧客や。暴力を振るったんなら懲戒解雇がない方がおかしい。それが社会というものなんや」 「でもあの人の気持ちも俺は……」 「昔とは違うんや。あのメイドも所詮小娘、立場というものを本当には理解出来てなかったんやろ。せやから感情が高ぶったくらいで簡単にこういうことをする。そんなガキンチョをウチで雇う訳にはいかんのや」 「でもそれは叩かれた姉ちゃん次第で……」 「そのあゆみは庇うとらんやろ? もう決まりや」 「……お嬢様。この度は真に申し訳ございませんでした」長者原は深々とあゆみに頭を下げた。「お坊ちゃまの仰る通り、紬の処分については、お嬢様の御意思が非常に重要になるかと思います。じっくりとお考えになり、お気持ちに変化があればいつでもお伝えください」 「クビにしたいんやろ?」銀次郎は阿るような顔であゆみに言った。「あゆみのしたいようにしたらええんやで? クビにしたれや。なあ?」 「どうすれば良いの……?」あゆみは何故か俺の方を見る。困っている時の顔だ。だがその意思がどちらに傾いているのかは、弟の俺は長い付き合いで良く分かっていた。 俺は何も言うことが出来なくなり、その場にいる全員に背中を向けてリビングを去った。 〇 自室へ戻ると俺はベッドに仰向けになった。高く広い天井を眺めつつ大の字になり大きくため息を吐いた。 クローゼットが開いて白兎が顔を出した。「見てたよ」 「どこから?」 「リビングに潜んでた。諜報活動の一環」 白兎は腕を組んでしばし唇を結んでいた。普段無暗に元気良く明るい表情を浮かべている顔を陰らせて、俯き加減に漏らすように言った。 「……あんなに悲しいことってあるんだね」 俺は冷笑的に答えた。「実際に殴ったんだからクビはしゃあねぇだろ?」 「でも悲しいよ」白兎は目線を落としたままだった。「小さい頃、初めて君と会ったあのパーティで、私あゆみちゃんとも話をしたんだ。こういうパーティで自分は友達も作れなくていつも一人だけど、それでも優しい『紬お姉ちゃん』が相手してくれるから大丈夫だって、あゆみちゃんは言ってた」 「そんな時代もあったな」 「紬ちゃんは本当にあゆみちゃんを妹のように可愛がっていた。嬉しかったんだろうね。館の中に子供が四人いて自分だけが使用人の娘で、幼いのに色々分け隔てられて弁えなくちゃいけなくてきっとつらくて。そんな中でお嬢様のあゆみちゃんが自分のことを心から慕って頼りにしてくれたことが、紬ちゃんはきっと嬉しかったんだろうね」 「そうかもな」 「大学通いながら館に住み込んで使用人として毎日働くってきっと大変だよ。たくさん遊びたい年頃だろうに、余暇も土日もなく働かされて、住んでる家が安らぐ場所じゃなくて、酷い叔父さんもいて。それでもやって来られたのはきっと、紬ちゃんがなんだかんだ君やあゆみちゃんを家族のように思ってたからじゃないのかな? なのにあゆみちゃんは紬ちゃんの顔も忘れ去っていて、今もクビにしようとしている……」 「姉ちゃんが悪いみたいに言うなよな」俺は息を吐いた。「別に姉ちゃんは思い出を忘れた訳じゃない。使用人なんて動く家具としか思ってない所為で、思い出の中の『紬お姉ちゃん』とあのメイドとが一致しなかっただけだ」 「使用人にきちんと目を配ることは大切だよ? 異なる立場の者への理解や慈しみというのは、人を従える人間には常に求められるもののはずじゃない?」 「そりゃちょっと高尚過ぎる。あの人は何も、叔父さんみたいに自分の楽しみの為に使用人をなぶったりしない。横柄に振舞うこともない。空気読まないからたまに素面で無茶を言うが、それにしたって断られたらすぐ引き下がる。それで充分さ。優しいお嬢様だよ」 「でもクビにしようとはしてるんだよね?」 「そうだな。ただそれは自衛の為だ。相手の気持ちも自分の落ち度も考えないから、手や口を出して来た相手はおしなべて脅威で外敵で、排除する以外の方法では安心できないのさ」 「そこまで分かってるなら、君がお姉ちゃんを説得するべきじゃない? あゆみちゃんは優しい子だと私も思う。君が心を込めて話せばきっと……」 「面倒臭い」俺は本心を言った。「あの人に物事を説いて聞かせるのがどれほど厄介かは分かるだろ? 威圧して無理矢理言うこと聞かせるのは簡単だけど、俺はあの姉ちゃんが好きで、嫌われたくない」 俺は今生涯あの人の卑小な根性に向き合うつもりはない。俺にとってあの人はあくまで、おっぱいのでかい可愛い姉ちゃんであれば良い。 「……このままクビになったら、あの酷い叔父さんは館の外に放り出すくらいのことは平気でするよ? それでも良いの?」 「だったらあんたがさっさとゾンビ騒動を終結させれば良いんだ。そしたらあのメイドもこの糞っ垂れた館からおさらば出来て、せいせいするだろ?」 「……分かった。そうする」 白兎はクローゼットの外に出た。 「どこに行くんだよ?」 「研究棟」 「は? いや待てよ。確かに地下道のバリケートを突破すれば研究棟の方に行けるが、流石に鍵がかかってない方がおかしい……」 「研究棟への扉を突破するのに必要なのは、鍵じゃなくても網膜認証とパスワードだった。そしてパスワードの方はもううさぎさんには分かってる」 白兎は懐から一枚の紙を取り出して俺に見せた。 「流石は兄弟だね。金一郎は銀次郎と同じような場所に、研究棟の入り口のパスワードのメモを隠してた。ロビーに飾ってある館で一番大きな、生きていた頃のお母さんが描いた、大切な家族の肖像画の裏にね」 紙には『あゆみの誕生日から10』と描かれている。父の字だ。 「ただパスワードはともかく網膜認証はうさぎさんにはどうにもならない。君が来て。血の繋がった家族なら、網膜認証を突破出来るみたいだから」 〇 白兎は俺を小脇に抱えてひとっ飛びにバリケートを飛び越えた。本当にぬいぐるみを抱いているかのような白兎の身のこなしに俺は舌を巻いた。俺だって軽くないし、バルケートだって二メートル近い高さがあるはずだった。 「あんた、本当にどういう鍛え方してる訳?」 「望月の家にいた頃は、毎日気が狂いそうな訓練させられてたからね」白兎は自嘲げな顔をする。「お父さんの養子には、将来の跡継ぎ候補が何人もいてさ。厳しい訓練で選抜された二人だけが、君とあゆみちゃんの将来の懐刀になるって制度なんだ」 「……なんだそれ? 聞いたことねぇぞそんなの」 「私のお父さんは世界一の科学者である金一郎の熱狂的な支持者なんだよ。金一郎を支え金一郎を導くことを生き甲斐にしている。そしてその忠誠心を次の世代に引き継ごうと考えている。色々疑問はあったから、私は逃げ出したんだけどね」 俺達は廊下を進んで突き当りに階段を見付けた。階段の先には『研究棟』と描かれた扉があり、パスワードを要求するタブレットの他に網膜認証を行う為のカメラが設置されていた。 「まずは網膜認証。お願いします!」 「……あいよ」 俺はカメラに向けて片目を突き出した。「ピピーっ」という承認されたらしき音がした。 「どうして俺の網膜で開くって分かったんだ?」 「執事の人が金一郎と電話してるのを盗み聞きしたのだ! 『あの扉は我々二人の他は血縁のご家族しか開けられない』とかなんとか」 「そうだったのか」 「あとはパスワードだ! これも白兎さんは分かっている! その数値とはズバリ……3657595919!」 白兎は口に出しながら十桁の数値を入力した。しかしモニターは『ブブー』とムカ吐く音を出すだけだった。 「あっれぇーっ?」白兎は瞳孔かっぴろげて吠えた。「いやおかしいだろ! 絶対この数値じゃなきゃおかしいだろ! どうなってんだよ!」 「いや普通にあんたが間違えたんじゃ……」 「確認するけど君のお姉ちゃんの誕生日って何日?」 「四月九日だけど」 「合ってんじゃん! 0409なら409からってことで良いはずだろ! ……いやちょっと待てよ? これもしかして……」 白兎は口元で何やら数値の羅列を詠唱した後で、再びモニターに手を掛けた。 「1058209749!」白兎がパスワードを入力すると扉は開いた。「流石うさぎさん! 天才! 冴えてる!」 「……良かったな。じゃあ、行こうぜ」 研究棟に侵入する。実のところ初めて入る空間だった。四つの館の中でも最も背が低く床面積も二番目に狭い研究棟は、その廊下にまで大量の書籍や電子機器が積み上げられており、くしゃくしゃの書類やディスク類がそこらにまき散らされ足の踏み場もない程だった。 「きったないな!」白兎は声を裏返らせた。「まるで山奥のうさぎさんの住処のようだ!」 「あんた自分の家も汚いのか」俺は呆れた。「クローゼットの中ほんの数日でぐちゃぐちゃにしやがって。いい加減館のあちこちから気に入ったもの見繕って持って来るのは控えろマジで。泥棒だぞ?」 「そもそも不法侵入なんだから今更だろ!」 研究棟にはいくつも部屋があったが、ほぼすべての部屋は廊下のように雑多な電子機器や書籍や書類で埋もれていた。しかし二階の角にある部屋だけは例外だった。 そこは二十畳程の空間で、壁には高さも幅も二メートル程のモニターが設置されていた。そのモニターの背後には巨大なコンピューターのようなものが聳え立っており、外部カバーも付けられていないそれは複雑な配列を剥きだしにしていた。部屋の中央には一メートル二十センチ程の高さの円柱が設置されていて、その上にはキーボードを中心として複数のスイッチやメーターを備えた入力機器が埋め込まれている。他の部屋とは異なりこの部屋のみ床も壁も清潔に磨き上げられており、チリ一つ落ちていなかった。 「なんだこれ?」白兎は円柱状の入力機器に近付いた。「ポチっとな!」 「ああっ。また躊躇もせずに!」 白兎が電源ボタンらしきものを押すと、正面のモニターに一人の女性が現れた。 美しい女性だった。そして、俺の良く知っている女性だった。 大きな瞳と形の良い鼻筋、薄いが膨らみのある桃色の唇はあゆみとそっくりだった。赤茶けた色をした髪は肩にかかるくらいの長さにまとめられ、微かに朱の刺した白く柔らかそうな頬を覆っている。背丈は平均的で今のあゆみとは同じくらい、痩せているがメリハリのある身体や細やかな肌艶はとても三十代には見えなかった。 「……母さん?」 まごうことなく俺達の母親だった。亡くなった当時の姿なので三十五歳であるはずだったが、今改めて見ると二十代のそれも前半に見える。親子だから当たり前だがあゆみとは物凄く似ていて、二人が並べばそれぞれがそれぞれの過去と未来の姿のように感じられるはずだった。 「……勘八?」母・一歩はモニターの中からまじまじと俺を見詰めた。「勘八? ……勘八がどうしてここにいるの?」 会話が成立したことに俺は度肝を抜かれた。七歳の頃亡くした母との再会だというのに、実際に俺が味わっているのは胃の内側が底冷えするようなひりひりとした感覚だった。 「……何者だあんた?」俺は声を低めた。 「あなたのお母さん。そう見えるでしょ?」 「死者は生き返らない」 「……正確には、田中一歩を模倣して作られたAIということになる」一歩は腕を組んで悩まし気な顔をした。「あなたの言う通り、本物の田中一歩は死んで、生き返らない」 「AI? 人工知能が喋ってるのか?」 「そういうことになる。でも、意識は本物だしあなたの姿も見えていて声も聞こえる。この部屋は私のテリトリーになっていて、この部屋の中のことは全部分かるの」 「誰かが母さんの役をしているとかじゃなくて、本当に意思のあるAIということなのか?」 「そうよ。あの人に……金一郎によって私は作られた」 「バカなっ!」俺は頭を抱えた。「いくら父さんでも、人間一人の思考をシミュレートできるコンピュータなんて出来る訳が……」 「……ところがそうとも言えないよ?」白兎は言った。「ただでさえ君のお父さんはゾンビにした豚の脳みそを接続して、人語を理解し会話が出来る有機コンピュータを作ったんだから。それをアレンジして自分の亡くなった奥さんを再現してないと言い切れはしない」 俺は気が遠くなりそうだった。確かに、2011年現在の科学は発達している。人工知能に関する研究もなされている。将棋でプロ棋士をAIが負かす日もそう遠くないなどと吹く奴もいる。しかし生きた人間そのもののように物を感じ考え話すAIなど、十年後も二十年後も登場しているとは俺には思えない。 「おかしいだろ! ここには豚の脳みそはどこにも見当たらないだろ?」 「……豚じゃないとしたら?」と白兎。 「は? おまえ、何を言って?」 「人間を生きたままゾンビにして、その脳みそを接続して作られた有機コンピュータなら、人間一人の思考と反応をシミュレートするくらいのことは簡単なんじゃない?」 「ここには人間のゾンビだっていない!」 「ここじゃなくても良いんだよ。この装置の裏側に拘束され脳同士を接続されたゾンビが大量にいるかもしれない。いや、何も有線的な繋がりである必要すらないな。もしかしたら外にうじゃうじゃいるゾンビ達が、脳から電波を飛ばし合っているのだとしたら? それはいわば、ゾンビ・ネットワークとでもいうべきかもしれないね」 「おとぎ話だ」 「ゾンビ云々はね。でもね、人間と同じように喋るAIなんてのは、別におとぎ話でも何でもないんだよ。早ければ十年後にも実現している技術かもしれない。その兆しとなるような研究は現代でもいくらでもあるのだから」 「……大きくなったわね、白兎ちゃん」AI一歩は知人のような口を利いた。「望月さんはあなたを捜しているわよ。どうして勘八と一緒にいるの?」 「……外で起きているゾンビパニックはご存じですか? 奥様」 「ええ知っているわ。そしてあなたの言う通り、彼らは私というAIを成り立たせる為に存在しているの」AI一歩は悲し気に首を振った。「金一郎は狂ってしまった。私というAIを生み出す為に人間を何人もゾンビに変えて、それらの生きた脳を無線で接続して私の思考を計算させているのよ。今白兎ちゃんが推測したとおりにね」 「バカな!」俺は目の前が真っ白になりそうだった。「父さんがそんなことをするはずがない!」 「悲しいけどそれが真実なのよ、勘八。私はそれを終わらせたいの」 俺はその場で膝を付いて、意識が遠のきそうになるのに何とか耐えていた。「……あんたが俺の母親だという証拠を見せろ」 「ここに来るまでの廊下に四枚の絵が飾ってあったはずよ」 「……ああ。そうだな」 「あれは私が描いたのよ。本物の田中一歩に限りなく良く似たその絵をね」 「……芸術なんて最も機械には再現不可能そうな分野だ」白兎は腕を組んだ。「金一郎はまさに生きた人間をAIで再現したんだ。その心や魂までね。あれほどの絵を描けるのがその証拠だ」 「……いや。それは違うぞ」俺は冷たい声で言った。「あんなのは母さんの絵じゃない。あんたは母さんじゃない」 母さんの絵はもっと美しい。確かに良く見れば画風は似ているし、細部を気に掛けなければ十分に達者な絵だが、しかしあの絵は人間の絵としてはあまりにも異質だった。人間はあんな絵を描かないし機械に母さんの絵は描けない。あの絵から覚えた違和感こそが、こいつが母さんの偽物であるという何よりの証左だ。 「あなたが私を母親と思わないのならそれは仕方がない。実際、母親じゃないのだから。でも私にとっては勘八、あなたは私の息子なの。そう感じるように作られているのよ」AI一歩は微かに涙ぐんだ。「大きくなったわね。会えて嬉しいわ」 「やめてくれ」俺は蹲った。「頭がおかしくなりそうだ」 「……ゾンビパニックを終わらせたいと、奥様は仰いましたよね?」白兎は冷静な声でAI一歩に話しかけた。「それはおそらく、あなたの死を意味するはずです。ゾンビ・ネットワークの崩壊はあなたというAIを消滅させますからね。それでも意思は変わりませんか?」 AI一歩は力強く頷いた。「構わない。私は一度死んでいるし、ゾンビ騒動が続けばこれからも数多くの死者が出てしまう。どちらが尊いのかは分かり切っているわ」 「立派です。実は私も同じ目的で命を賭けて動いています。こうして元凶に辿り着けたことを喜ばしく思います。あなたと力を合わせたいです。何か出来ることは?」 「ゾンビ騒動を終わらせるのは簡単よ」 「その方法は?」 「嵐を止めれば良い。ゾンビは熱と光に弱い。雪と雨が止んで日光が降り注げば彼らは死滅する。それはやがて春が来ても同じだけれど、それを待っていては死者は現時点の数倍に増えるでしょうね」 「この嵐はどのようにして起こっているか分かりますか?」 「この館に嵐を起こしている装置がある。すぐ隣の部屋よ。物理的に破壊しても止まるけど、厳重に作られているからそれは難しいでしょうね。停止用のコードがあるからそれを使いたいところだわ。ただしその為にはこの部屋のコントロール・パネルを操作するか、或いはこの棟の全てのコンピュータを掌握している私がコードを起動する必要があるの」 AI一歩が言うとモニターに一つのQRコードが出現した。 「これは私があなた達の端末に入る為のコードよ。このモニターとスマホの画面が同期するの。すぐに読み込んで。そして一緒にコードの数値を考えるのよ」 「やろう。勘八くん」白兎はスマートホンを取り出した。 「…………」俺はスマートホンを取り出してQRコードを呼び出した。 数秒の時間もなく俺のスマホ画面にAI一歩が現れた。一歩は部屋のモニターに映っているのと同じ姿と表情で、重なった声で俺達に話しかけて来る。 「成功したようだわ」 「コードを特定すれば、あなたにそれを伝えることで、私達はいつでもゾンビ騒動を止められるんですね?」白兎は言う。 「そうなるわね。でもそのコードが分からないのよ。ヒントとなるメモの文面は得たんだけど……」 「教えてくださいますか?」 「『勘八の誕生日から10』」 俺と白兎は顔を見合わせた。 「金一郎がそう書かれたメモ用紙をこの部屋で広げたのを見たことがあるの。下に『ハリケーンメーカー 起動/停止コード』と描かれていたからまず間違いないわ。私にはこれの意味するところが分からないけれど……」 「私は分かります!」白兎は興奮した様子だった。「勘八くんの誕生日は一月六日だから、23……」 その時だった。 背後から風のように現れたട്യൂണが白兎の首に絡みついた。白兎はたまらず窒息して顔を青くする。ട്യൂണを振り払おうと爪を食い込ませる程腕を握り締めるが、微かに血が流れるだけでその腕はびくともしない。 「き……あげは……」白兎は唇の動きだけでそう言ったのを俺は見て取った。 「白兎。あなたは愚かな義妹なのだわ」ട്യൂണは驚くべきことに流暢な日本語を発した。「金一郎なら、AI一歩を自分の端末で監視していることくらい想像がつくはずなのだわ。どうやって監視カメラを避けて来たのかは知らないけど、得意のかくれんぼで負けたら世話がないわね。このまま落ちると良いのだわ」 「どういうことだ!」俺はട്യൂണに向けて吠えた。「おまえ喋れたのか!」 「കാണിക്കുന്നത് സുരക്ഷിതമാണെന്ന് ഞാൻ!」ട്യൂണはいつもの口調で言った。「わたしは、にほんご、しゃべるひつよう、ないです。いまはまだ、きんいちろうさまとしか、いしそつう、いらないですから。ときがくれば、あなたかあゆみさまの、どちらかとは、くち、ききますけど」 「ああ。ああ。勘八。こんなところに入り込んでしまって……」金一郎が廊下から現れて、おろおろとした様子で言った。「悪戯をしたらダメじゃないか。ああ。ああ。でも、どう言って良いか……。ぼくは叱るのが下手なんだ。なあ、一歩」 「……あなた」AI一歩は苦虫を嚙み潰したような顔をした。 「父さん!」俺は一か月ぶりに見る父に目を丸くした。 金一郎は弟の銀次郎とは異なり細身の体格の中年男で、背は俺や銀次郎と同様高かったが全体のフォルムはゴボウのようだった。伸びっぱなしの髪に無精髭とよれよれの白衣という風体だったが、その瞳は精悍であり鼻筋も良く通っており、青白い皮膚の肌艶も消えていない。脂の乗った五十歳の壮年というよりは、研究に疲れ果て薄汚れた三十代の学者のような印象を受けた。 「母さんが言っていたことは本当なのか? 父さん」 「ああ。ああ。本当だとも。まいったなどうも」金一郎は頭をぽりぽりとかいた。息子を前にしているというのに叱られる子供のようだった。「時期が来るまでは黙っているつもりだったのにな。やれやれ。やれ、やれだ」 「じん……ぱち、くん」首を絞められながら白兎は渾身の力で振り絞るような声を出す。「にい、さん、はち……」 「黙るのだわ」ട്യൂണが白兎の口を防いだ。 「んーっ! んんんーっ!」白兎は必死で口を押える手を離させようとするが、腕力ではかなりの差があるらしくびくともしない。「んんんーっ!」 代わりに白兎は身振り手振りで何やら伝え始めた。白兎はまず立てた人差し指で目の前に円を描いて見せ、その中点に指を移動させたかと思ったら、そのまま円に触れるような位置まで真横に指を動かした。 しかし続かなかった。その仕草を二回程繰り返したあたりで、あえなく白兎はട്യൂണに締め落された。床に崩れ落ちる白兎。 「……良くやった黄揚羽。これで勘八や一歩に停止コードは伝わらなかったようだ」 「金一郎様。しかしヒントとなるメモ書きの内容は伝わってしまったようです。パスワードは変更した方が良いのでは?」ട്യൂണは白兎の顎を持ち上げながら言った。 「そうはいかない。この棟の全ての機器を一歩は電子的に掌握している。今パスワードを変更すれば、その変更後のパスワードも一歩に知られてしまうだろう。一歩にハリケーンメーカーを止める意思がある内は、パスワードはいじれないということだ」 「金一郎様。何故一歩様にすべての機器を掌握させてしまったのですか?」 「夫である僕が伴侶である妻を信じ任せるのは当然だろう。カンパニーだってそれで上手くやっていたんだから」 「金一郎様。しかしその所為でとても不便なことになってしまっています」 「何。一歩はしっかり者だけどそれほどアタマが良くないから、あれだけのヒントだとパスワードを解けはしない。何せその為の表をぼくは入力していないのだから解きようがない。勘八が入れ知恵すれば別なのだが、そこはスマホを取り上げれば良い話だしね」 金一郎は俺の方に枯れ木のような手を差し出した。 「スマホをお父さんに渡しなさい」 「……嫌なこった」俺は微かに逡巡してから言った。 「そうか? それはその……困ったな」金一郎は照れたように頭をかいた。「このくらいの年の子は、スマホを親に渡すなんて絶対に嫌だろうからな。どうしよう、どうしようかな?」 「そういう問題ではありません。金一郎様」ട്യൂണは白兎の首に手をかけ、骨を折ろうとする。 「待ってくれ!」俺はട്യൂണに言った。「殺す気なのか?」 「കരുതി, പക്ഷേ ഉസുയിക്ക് മൃഗങ്ങളെ……」 「そういうの良いから!」 「やかたに、はいりこんだ、ふおん、ぶっし。まっさつ、あるのみ!」ട്യൂണはいつものわざとらしいカタコトになった。「げんじつはひじょう! きりすてごめん! ねんまつちょうせい! あく、そく、ざん!」 「ダメよ! 黄揚羽ちゃん。そんなことをしてはダメ!」一歩が鋭い声で言った。「同じ望月の家で修行した義理の姉妹でしょう? 金一郎! あなたもやめさせなさい」 「……やめてあげてくれ」一歩に指図された金一郎は渋々と言った様子で言った。「まあ、殺すのはね。少し、うん、やりすぎというか可哀そうというか。いや、何人もゾンビにしてきて今更なんだけどね。でも、ほら、一歩がこう言ってるから。うん」 「かしこまりました金一郎様」ട്യൂണはその手を降ろした。「地下牢に入れますか?」 「そうしよう。もちろんスマホは取り上げて……そして」金一郎は俺の方を一瞥した。「秘密を守る為にはこの子のことも捕らえておかねばならないが、しかし我が子に対しそんなことは出来るはずもない。だが口止めも不可能だ。この子は昔からお姉ちゃんっ子だから特にあゆみにはすぐ言うだろう。ここは最早、家族全員に洗い浚い説明して理解を求めるしかなさそうだ」 「良いのですか?」 「ああ。きっと大丈夫だ」金一郎は楽観的な笑みを浮かべた。「皆素直な良い子たちだから。それにいつかは言うつもりだったしね」 「では長者原に連絡を」 ട്യൂണは自分のスマホを取り出して電話をかけ始めた。 〇 「つまりあれかい?」銀次郎は俯けた顔を顰めさせた。「ゾンビ騒動も連日の嵐も、兄貴の仕業やっちゅうことかい?」 「そうなんよ。ぼくがしたことなんよ」金一郎は弟と話す時だけ田舎の言葉が出る。「黙っとってくれんか?」 「そりゃまー黙っとくけどなぁ? 貴様が逮捕されたらワイかて困る訳やし」銀次郎はバカにしたような顔を金一郎に向けた。「けどもなぁーっ。金一郎おまえなぁーっ。昔っからアタマええんか悪いんか分からんなぁ!」 AI一歩のモニターのある部屋に、館に住む家族全員が勢揃いしていた。金一郎銀次郎兄弟に、俺とあゆみと銀子。ട്യൂണと長者原もいる。白兎はട്യൂണによって館の地下牢へと連れて行かれていなくなっていた。 「えーっ。お父さんアタマ良いよー?」あゆみが一月ぶりに会う父に言う。「ねぇねぇお父さん。いつものアタマ良い奴やってよ」 「ああ、ああ良いだろう。お父さんはアタマが良い奴をやるぞ」娘にせがまれて金一郎は相好を崩した。「何でも言ってくれ」 「じゃあまず円周率」 「3.141592653589793238462643383279502884197169399375105820974944」 「次山手線」 「大崎、五反田、目黒、恵比寿、渋谷、原宿、代々木、新宿、新大久保、高田馬場、目白、池袋、大塚、巣鴨、駒込、田端、西日暮里、日暮里、鶯谷、上野、御徒町、秋葉原、神田、東京、有楽町、新橋、浜松町、田町、高輪ゲートウェイ、品川」 「バンコク」 「クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロック・ポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシット」 「すごい! 何聞いてもいつも全部言える! 流石お父さんアタマ良い!」 「ふふふ。未だにこんなことで喜んでくれるわ」金一郎は銀次郎の方を見た。「やっぱり女の子は可愛いなぁ、銀次郎」 「一生やっとれアホ親子」銀次郎は心底くだらなさそうに悪態を吐いた。「何がアモーンピマーンや」 「しかしこれ……すごいですね」銀子は呆然としていた。 「ん? なにかな銀子ちゃん? 叔父さんの円周率や山手線やバンコクがすごいのかな?」金一郎は鼻の下を伸ばした。 「いえ。このモニター映像と、人工知能のことです」銀子はモニターの中の一歩を見詰めた。「亡くなった時二歳だったわたしにとっては、絵や写真で見るだけの人でしたよ。一歩叔母さま、初めまして。そう言いたい気分です」 「ああ銀子ちゃん。大きくなって」AI一歩は目頭を熱くしているようだった。「でも、叔母さんの私に敬語なんて使わなくて良いのよ」 「いいえ。わたしは父さまに誰にでも敬語を使うよう躾けられていますから」 「どうしてそんな躾を?」 「その方が良家のお嬢様感が出るからだそうで。お陰で学校で浮きまくっていますが、雑魚バカ貧乏人のクラスメイト達から何を言われようと気にしません。そんな連中の吐く言葉はすべてボットン便所に糞が落ちる音と同価値だと、敬愛する父さまも姉さまも仰いますから」 「銀次郎このアホ! アホな躾して!」AI一歩は銀次郎を睨み付けた。「娘はペットやアクセサリーじゃないのよ! 金一郎も長者原もそういうのは止めさせなさい!」 「はん。機械如きが何を言おうが取り合わんわ」銀次郎は鼻を鳴らした。「機械になっても生意気やのー。生きとった頃から女だてらに意見しおってからに」 「銀次郎。彼女は機械やない。夫としてのワイの記憶に基づいて作られた、生きたAIなんや」と金一郎。 「そんなもん貴様の主観が全てやろうが」 「そうや。ぼくの主観が全てなんや。ぼくから見る世界のすべてはぼくの主観で構成されとる。せやからぼくの主観を満足させられるなら、これはぼくにとっての一歩なんや」 「金一郎。貴様はやはりアタマが良いんか悪いんか分からんなぁ」 「これ……本当にお母さんが喋ってるみたいだね」あゆみが恐る恐る近付いた。「本物のお母さんはもう死んじゃったけど。なんか蘇ったみたいで嬉しいよ」 「ああ、あゆみ。綺麗になったわね」AI一歩は涙ぐんだ。「若い頃の私そっくりよ。本当に綺麗ね。若い頃の私そっくりで」 「お母さん。私今お母さんのアトリエ受け継いで芸大目指してるの」あゆみは指先同士を絡め合わせた。「お母さんのような芸術家になる。応援してくれるよね?」 「は? ダメよあゆみ」AI一歩は眉間に皺を寄せた。「言ったでしょうあなたは才能ないんだから、頑張ってお勉強してお父さんの会社で出来る仕事を探しなさいって。そしてアトリエは紬お姉ちゃんに譲るのよ」 「本物と違う!」あゆみは顔を覆いながら父親の方に飛びついた。「本物はこんなこと言わない!」 「ああ一歩……そこまで言うのは流石にあんまりだろう」金一郎はあゆみを抱き留めながらおどおどと言った。「娘は君に憧れて絵やぬいぐるみ作りを頑張っているんだ。アトリエを使用人の子に譲るだなんて、可哀そうだろう」 「僭越ながら、旦那様の仰る通りでございます」長者原が深々と頭を下げながら言った。「私からもどうかお願いいたします。紬のことはお気になさらず、アトリエはどうかお嬢様にお譲り下さい」 「黙れ男共! そうやってあゆみを甘やかすから昔と全然変わってないじゃない! 才能と根性の両方がいるのが芸術の世界よ! その子にはどっちもないじゃない! 芸術なんて志したら不幸になるだけよ!」 本物の母さんそっくりの剣幕だ。そう言えばこんな風に気が強くて身内に厳しい人だった。使用人には慕われていてあゆみや俺も懐いていたが、叱られて泣かされることも多かったのが思い出される。 「というかあのメイドの人、芸術の才があるんですか?」銀子が長者原に尋ねた。 長者原は答えた。「不肖の娘ですが、芸術に関しては左様でございます。幼い頃、奥様に才能を見出され、アトリエへの出入りを許されていた程度には。今ではあそこはあゆみ様専用ですが……」 「確か原付で一時間かけて芸大通っとるんやろ」銀次郎は言った。「長者原貴様ええ給料貰っとるやろうに。学費くらい払ったればええんちゃうんか?」 「甘やかせば生きる力を減らします。あの子は私の子です。旦那様のような特別な親の元に生まれた訳ではないのです。自分で人生を切り開く力を養わせなければ」 「その、おやのこころ、こは、しってる」ട്യൂണは言った。「しんしん、とも、たくましく、せいちょう。りっぱな、わかもの。たまに、すとれすで、ひすてりーおこすのが、たまにきず。いまは、もうせいちゅう」 「アホ金一郎の作ったアホAIのことは、ワイは興味ないわ。しかし問題はそのAIにパスワードを知られた瞬間、嵐を止められてしまうということや」銀次郎は金一郎を鋭く睨んだ。「この館は実のところ当局にも疑われとる。嵐を起こす装置もそうやけど、ゾンビを生成する技術に関しても、証拠となるものが研究棟にはごっちゃりあるんやろ? それを隠滅する前に嵐を止められたらアウトやで」 金一郎は頷く。「その通りや。嵐が収まりゾンビがいなくなれば、警察はすぐにでも館に踏み込んで来るやろう。せやからゾンビネットワーク無くしてAI一歩を存続させる方法を開発次第、証拠はじっくりと始末するつもりや」 「証拠さえ見つからんかったら問題ないんやな?」 「問題ない。望月もそう言っとる」 「なら気が済むまで研究せぇ。おい勘八」銀次郎は手をこちらに開いて見せた。「スマホ渡せ。そこのAIと繋がっとるんやろ。その繋がりを消したらすぐ返したるわ」 俺は口を噤んで何も言わず、握り締めたスマホをポケットの中に匿う。 「もう火遊びは終わりや。あの忍者の姉ちゃんとしばらく楽しかったやろ。おまえが潰そうとしとんのはおまえが継ぐかもしれん会社やで? 渡せや!」 俺は何も言わない。スマホを失う訳には行かない。 「いまは、そうやって、おとなに、はんぱつして、いられる。でも、それは、たんに、おとなが、ほんきになっていないから」ട്യൂണが言った。「そのきに、なれば、あなたから、それを、とりあげるほうほうは、いくらでもある。むだなていこう。いさぎよく、あきらめて」 「それは分かるけど意地くらい張らせろよ。ぶん殴って取り上げるんならそうしてみろよ」 「言うたな糞ガキ」若い頃プロボクサーだった銀次郎は、現役さながらの足さばきで俺に近寄ろうとした。「十年早いわ!」 「待ってください父さま!」銀子が必死の形相で止めに入る。「男の人の喧嘩なんて見たくありません。兄さまも早く降参してください。きちんと状況の分かる賢い人でしょう?」 「……ねぇ勘八。あたし達一生この館で仲良く暮らすんだよね?」あゆみが俺と密着する程の距離までにじり寄って、俺の頬に両手を添えた。「勘八はお父さんの会社を継いで、あたしはお母さんのアトリエを継いで。それ以上に幸せなことなんてない。でも勘八がそのスマホでお母さんにパスワード伝えたら、それが全部なくなっちゃうんだよ?」 あゆみは目を潤ませてじっと俺を見上げている。懇願するような響きの言葉だったが、頬に添えられた両手は弟を包み込む支配の手のようでもあった。 「ねぇ勘八。勘八って一回お姉ちゃんの言うこと背いたよね? お姉ちゃんがあんなに言ったのに私立の寮に入って、たくさんつらい思いをした。可哀そうだった。長い休みに実家に帰る度に泣き言を聞いてあげると、あたしの胸も締め付けられた。勘八が寮に戻る度哀しかった。もう二度とあんな思いはしたくない。どうかお姉ちゃんのいうことを聞いて」あゆみが俺の頭を強く抱きしめた。「勘八に裏切られてこの館が無くなったら、あたしきっと死んじゃうよ」 そして泣き落としのような嗚咽が聞こえて来る。俺はヤケクソのような気持ちでスマホを取り出した。 「ほらよ」俺は首を横に振るってあゆみにスマホを突き付けた。どっちにしろ、もうどうしようもない。「これで良いんだろ?」 「ありがとう!」あゆみは目を輝かせてスマホを持つ俺の両手を握り締めた。「勘八なら分かってくれるって、お姉ちゃん信じてたからね!」 ട്യൂണがその様子を見て呟いた。「なんまいも、うわて」 「ありがとう勘八。ああ、ああ、これで解決だ」金一郎はあゆみからスマホを受け取った。「ぼくはまだまだこちらで、AI一歩をゾンビネットワークなしに継続させる研究を続けるが、それが成功したらゾンビ騒動も終わらせて家族の元に戻るからね。それまでの間、地下道は閉鎖した上で、この部屋も黄揚羽に守らせよう」 「おいおまえら。勘八も。行くで」銀次郎が立ち上がった。「本館へ撤収や。ああ。疲れた」 〇 誰とも口を利かないまま、夕食の時間もパスして、俺は自室に引き籠っていた。 ベッドに横になり空っぽになったクローゼットを見詰める。白兎が散々散らかした名残で、卓袱台にはお菓子のカスが山盛りで布団は敷きっぱなし、枕元には図書室から自分でパチって来る漫画がまき散らされて酷い有様だった。 白兎は今は地下牢にいる。ゾンビに襲われる人々を救う為、命を賭けて立ち上がり館に侵入して戦い抜き、後一歩というところで敗れて閉じ込められた。その悲願は果たされることなく、今も街の人々は死に続けている。 「……ちくしょう」 俺は何もできなかった。思えば俺が白兎の役に立ったのなんて、網膜認証を突破する時の一回きりだ。俺は誰のことも救うことが出来ない木偶の坊で、今はこうして拗ねていることしかできない無力なお坊ちゃんだった。 鍵をかけていたはずの扉から音がして、外から人が入って来た。 特筆するところのないメイドが、冷ややかな表情で俺を見下ろしていた。その手には館でもごく一部の人間にしか触ることの出来ない万能キーがある。万能キーは四角いカードの形をしていて今は黒いケースに入れられていた。 「……なんだよメイド。クビになってなかったのか?」 「あんたの姉ちゃん、なんだかんだ庇ってくれたわ」 「へえ」俺は本気で感心した。「あの姉ちゃんがそんなことをするんだな」 「『紬お姉ちゃん』としてでなく、一介のメイドとしてだけどね」 「ますます感心じゃないか」 「一時はこの館を出て行こうと思ったんだけどね。優しかった奥様が亡くなって、あゆみちゃんにも忘れられて、何の為にこの館で働いているのか分からなくなったから。あんたはあんたでボンボンであることに順応して、夢を語っていたあの頃の見る影もないし」メイドは自嘲気に笑った。「でもね、考え直したの。もう少し続けることにした」 「何のためにだよ?」 「学費の為よ」メイドは露悪的だった。「大学生がバイトする理由が、それ以外に必要なの?」 「立派だよ」俺は両手を叩いた。「誰が敷いたレールにも乗らず、誰が建てた城にも住まず、他人にも自分の感情にも振り回されず、自らの人生を切り開く為成すべきことをする。立派な態度だ」 「幼い頃は、私、あんた達のことが羨ましかった。私に出来ない贅沢をして誰からも傅かれて、同じ館で生まれたのにどうして私はそうじゃないんだろうって、そう思いながら育ったの」執事の子である彼女は主人の子である俺に語る。「でも気付いたの。おかしいのはあんた達の方で、私は至って普通なんだと。そう分かったら館で働くことも一つの選択肢でしかない。父は大学の学費を払わないし仕送りもしない。だったらここで働いて、自分の人生を築き上げるのよ」 「俺にはとうてい真似できないことだ」俺は心から羨望した。 「持って生まれたものは使えば良い。与えられた環境は享受すれば良い。あんた達はそれで良いのよ。憎くもなければ嫉妬もしない。ただの別の人間というだけよ」 「それで、その別の人間の部屋に何をしに来たんだ?」 「お父さんから事情は聞いた。AIになった奥様がいるのよね?」 「……話したのか?」 「私にだけね。どんな意図があるのかは分からない。でも、きっと自分では旦那様を裏切れないんだと思う。あの人は本物の使用人だから」 「どういうことだ?」 「これをあんたに」 メイドは俺に黒いケースに入ったカード型の万能キーを投げた。 「これはあんたにも手に入れることは出来ないはずよ。触れるのは旦那様と執事だけだから。これがあれば地下牢だって開けることが出来るし、閉鎖された地下道にも入れるはず。ああ、監視にはそれほど気を使わなくて良いわ。あんたの監視役には私が立候補したけど、その職務は放棄するからね」 「……どうしてこんなことをする気になった?」 「奥様のことは私の思い出。奥様がゾンビ騒動を収めたいなら協力する」 「使用人を続けるのに、こんな真似をしてただで済むのか?」 「あんたはそれを執事室の金庫からちょろまかし、私が居眠りしている隙を突いたのよ」 「その通りだな」俺は鍵を持って立ち上がる。「お手柄だぞ使用人。下がるが良い」 「幸運を。お坊ちゃま」メイドは深々と頭を下げた。 俺は万能キーを持って館の地下牢に向かった。 〇 地下牢は本館の地下にある。地下牢なのだから当たり前だが。 存在は知っていたが入るのは初めてだった。黒いケースに入った万能キーを、地下二階の端にある扉に掲げる。音がして、開かれた扉を抜けると、そこには冷たいコンクリート製の鉄格子の部屋が二つ並べられていて、その片方に白兎はいた。 「……勘八くん?」 白兎は疲弊した様子だった。 「行くぞ、うさぎさん。ゾンビ騒動を止めるんだ」 俺は万能キーを用いて牢獄を解放する。まさに万能だ。館の扉のあちこちに設定されたパスワードは、これが盗まれた時の対策なんだろう。 「……あなた軟禁も監視もされていないの? それにそのキーはどうやって手に入れたの?」 「監視役が居眠りしている隙を突いて、執事室からキーを盗んだんだ」 「嘘吐けよ! 都合良すぎるだろ!」白兎は声を裏返らせた。 「事実だ。……とにかくAI一歩のいるあの部屋に移動して、パスワードを伝えるぞ。あの外人……黄揚羽っていうのが本名だっけか? アイツは強敵だが二人でなら何とか突破出来るかもしれない」 「分かった。私に何かあった時の為に、パスワードを勘八くんにも教えておくね」 「その必要はない」俺は言う。「2384626433」 白兎は頬を捻じ曲げ、牢獄から立ち上がり手を掲げた。「流石」 俺は自分の手をそこに叩き付け、握った。「あんたにゃ負けるよ」 どうしてその十桁になるのかって? それは伏せておく。誰にとは言わないが、自分で推理する楽しみを残しておくのも一興という奴さ。 俺と白兎は地下牢を出た。途中何度か使用人に見付かりそうになったが、白兎はその度に素早く姿を眩ませた。白兎が簡単に見付かる訳がなかった。そして俺は館の御曹司で、館をうろうろしていても何も言われることはない。 俺達は一階のトイレから地下道に向かい、閉鎖されていたそこを万能キーを用いて開錠する。地下道を移動して階段を上り、最後は網膜認証とパスワードを改めて突破して、研究棟へと入った。 「ここのセキュリティはそのままなんだね」と白兎。「それが一番心配だった。ひょっとするとAIの奥さまが気を利かせてくれたのかな? 館のシステムをすべて電子的に掌握しているなら、金一郎が変更しようとするのを妨害することも出来たかもしれない」 研究棟の廊下を進みながら、俺は漏らすように言う。 「……母さんは本気で、俺達を手助けしてゾンビ騒動を収めようとしているんだな」俺は複雑な気分だった。「ゾンビネットワークが無くなれば、母さんは死ぬ」 「……あれは君のお母さんじゃないよ」白兎は唇を結んで肩に手を置いた。「ただのAIだ。AIだけど……君のお父さんは酷なことをするね。子供から二度も母親を奪うんだから」 「おくさまは、しにません」廊下を歩く俺達にട്യൂണが背後から現れて白兎の首に絡みついた。「……死ぬのはあなたなのだわ。白兎」 「黄揚羽!」白兎の首を折ろとするട്യൂണに俺は掴み掛った。「やめろっ!」 「きあげは? のんのん。わたしは、なぞの、がいこくじん、ശീതീകരിച്ച ട്യൂണです」片手だけで俺の両手を捌きながらട്യൂണは言う。「しょうらいの、あなたの、ゆうしゅうな、じゅうしゃ。かんぱにーの、なんばーつーに、して?」 俺はどうにかട്യൂണの腕を取り上げ白兎を助けようとする。ട്യൂണのその注意がこちらに向かった隙に、白兎がട്യൂണの腕から脱出して距離を取っていた。 「黙れ! おまえは黄揚羽だ!」白兎は手裏剣をട്യൂണに投げ付けた。「なんだよശീതീകരിച്ച ട്യൂണって名前! それ『冷凍マグロ』って意味だろ! ふざけんな!」 「まぐろは、わたしの、こうぶつ。ねぎとろが、すき」カタコトになったട്യൂണは、手裏剣を片手で掴み取る。そしておちょくるように言う。「വളർത്തുന്നതിൽ പരിചയമില്ല, അതിനാൽ അദ്ദേഹം ഒരു കുട്ടിയെ」 「黙れ! そのマラヤーラム語も全部『クレヨンしんちゃん』のウィキペディアのコピペだろ! マラヤーラム人に謝れよ! 色々失礼なことやってんぞおまえ!」白兎は声を裏返らせて叫ぶ。 「マラヤーラムってハエのステーキ食べるの?」俺は言う。 「食わねぇよ!」 「そうよ。私の名前は望月黄揚羽」ട്യൂണ改め望月黄揚羽は、気取った仕草で頭を下げた。「タナカカンパニー常務望月黒鷲の養女にして長女。将来のタナカカンパニーを守り担う為育てられた。今はカンパニーに仇を成すネズミを始末する」 黄揚羽は容赦なく拳銃を取り出して白兎に向けて早撃ちした。白兎は素早い身のこなしでそれを回避すると手裏剣で反撃。黄揚羽はそれを鷲掴みにした。 俺は一応援護するつもりで黄揚羽に掴み掛ったが、普通に拳銃のグリップで殴られてその場で蹲った。糞が。どうも黄揚羽は特殊な訓練によって相当に鍛え上げられているらしく、柔道国体一回戦負けの俺の実力を持ってしても太刀打ちできない。 だが白兎の方は黄揚羽と対等に渡り合っていた。飛び道具の応酬の隙を突いて苦無で突っ込むと、回避の遅れた黄揚羽の肩に切り傷を与えることに成功する。しかし黄揚羽も負けてはおらず、至近距離にある白兎の腕を取って関節を決める。 「いてててててっ!」悶絶する白兎。 「諦めるのだわ。望月の家で訓練していた時も、あなたは一度も私に敵わなかった」 「それは忍術を身に着ける前だろう!」白兎は両目をくわと見開いた。「うさぎさん忍法……変わり身の術!」 叫ぶと白兎の周囲が白煙に包まれる。黄揚羽がそれを払いのける頃には、その腕の中に捕えていたはずの白兎は、単なる丸太棒に変化していた。 煙と共に白兎は俺の隣に現れる。「フハハハハハハ! どうだ! うさぎさん忍法の威力を見たか!」 「最初首絞められた時もそれ使えよ!」俺は突っ込みを入れた。 「色々条件があって発動する技なんだよ。腕なら何とかなるけど、首は無理だね」白兎は腕の関節をゴキリと嵌めた。「腕なら関節外して抜けられても、首は無理だし」 「相変わらずデタラメね」黄揚羽はいっそ感心しているようだった。「才能は私よりずっとあるのに、素直に教官の話を聞かずオリジナルのトンチキ技ばかり練習してたわよね。でも基礎を疎かにする者に上達はないわ。地に伏しなさい」 「正義の忍者は誰にも負けないのだ!」白兎は瞳孔かっぴらいで叫び、袖から火炎放射を放った。「食らえ! 火遁の術!」 袖に火炎放射器を仕込んでいるのだろう白兎の『火遁の術』に、そう広くもない廊下は簡単に真っ赤に染め上げられた。黄揚羽の姿は炎の中に閉じ込められて見えなくなり、焦げ臭いニオイと煙があたりに広がった。 「おい! これ大丈夫なのか?」俺は叫ぶ。 「こんなんで死ぬ義姉さんじゃない!」白兎は瞳孔かっぴらいで館を焼き続ける。 「ちげぇよ俺んち全焼しねぇかつってんの!」 「終わったら水遁の術で消し止めてくれるわ!」 「トイザらスの水鉄砲に何を期待してるんだおまえ!」 その時炎の中から黒いパイナップルのようなものが投擲され、俺達の足元に落ちた。 「あ。やば」 白兎が言い終わる前に手榴弾が爆発した。俺達はその場を吹き飛ばされ、倒れこんだ。幸いにして手足が吹き飛ばされるとかはなく五体満足だったが、衝撃のあまり立ち上がることが出来ず、咄嗟に顔を庇った両手は皮膚が焼け爛れグロいことにいなっていた。 「殺す気かー!」白兎が叫んだ。 「こっちの台詞なのだわ!」髪が若干焦げ服が焼けセクシーなことになっている黄揚羽が叫んだ。着せ痩せするタイプらしくなかなかにでかかった。「どこかで線引きしなさいよ! 義理とは言え姉妹でしょ!」 「拳銃持ち出しといて良く言うよ! さっきも殺そうとした癖に! だいたい義姉さんはいつもいつも容赦なくて、青烏も緋熊も桃猿もあんたの手にかかって……」 「こっちの命バチクソ狙ってたでしょそいつら! 二人しか残れないからって。こっちから仕掛けなければ私達の方が死んでたのだわ!」 「だから一緒に逃げようって相談したんじゃん! あんた無視したろ! ざけんな!」 「口喧嘩やめろおまえら!」俺はたまりかねて叫んだ。「話し合いなんてやめて、暴力で決着つけてくれ」 「言うこと逆だろ!」白兎は声を裏返らせて叫んだ。 しかし黄揚羽はもっともだと思ったらしく白兎に掴み掛った。白兎は苦無で応戦する。しかし白兵戦では黄揚羽の方に分があるようで、応酬の末白兎は強烈な蹴りを食らって吹っ飛ばされ壁際で蹲った。 「ううぅ……糞!」白兎は忍者装束のあちこちから、火炎放射器やトイザらスで買った水鉄砲や大量の手裏剣や、その他数多くのガラクタをばらまいた。「この忍者道具が重たいから勝てないんだ! これで身軽だ!」 「とうとう自分が忍者であることを全否定したのだわ……」黄揚羽は表情を引き攣らせた。 「うるさい! 勝つのが忍者だ!」苦無だけを武器に白兎は黄揚羽に襲い掛かった。 しかし不利だった要因は荷物の多さだけではなかったようで、またも白兎は劣勢に立たされた。そもそもの馬力が違うらしく、苦無で刺しにかかっても簡単に片手で払われてしまう。対する黄揚羽の拳は重く鋭く、食らう度白兎は息を吐き切って蹲りそうになっていた。 それを何度も繰り返せば白兎の動きはどんどん鈍くなっていく。とうとう致命的な一撃を腹に食らって床を転がった白兎の、大きな隙を見逃す黄揚羽ではない。黄揚羽は白兎にトドメを刺そうと距離を詰めた。 「く……っ」俺は白兎の敗北を察し、苦し紛れに足元の水鉄砲を手に取った。「水遁の術!」 手裏剣を投げても火炎放射器で攻めてもその他数多くのガラクタを使っても、戦況を打開するビジョンが俺には見えなかった。なのでとりあえず俺は、黄揚羽の足元に放水しワンチャン転ばせるという、苦し紛れの作戦に出た。 「あっ」 狙っておいて何だが意外なことに、黄揚羽は濡れた床に足を取られてつんのめり、驚くほど大きな隙を晒した。 「ナイス!」白兎はその隙に立ち上がった。 「そんなバカな!」黄揚羽はあまりの理不尽に苦悶の表情を浮かべた。「こんなのすぐに体勢を整えてくれるのだわっ」 しかし黄揚羽は濡れた足場に苦戦して千鳥足になる。焦れば焦る程泥沼に嵌るようだった。 「なんでこんな……ヌルヌルじゃない! ねぇこれただの水じゃないわよね?」 「フハハハハハ!」白兎は哄笑した。「こんなこともあろうかと、中の水にローションを大量に混ぜておいたのだ!」 「なにぃ!」俺は仰天した。「だから俺の部屋のローションが減っていたのか!」 「その通りだ! オカモト・ペペの威力を見ろ!」 「もう死ねば良いのだわ!」黄揚羽はその目に涙すら浮かべていた。 ねっとりぬるぬるの足場の上で、黄揚羽はどうしてもまともに立つことが出来ない。白兎はそこににじり寄り、懐を掴んで抱き寄せて、手刀をこしらえて黄揚羽の首にあてがった。 「あ……っ」 「私の初勝利だね義姉さん!」白兎は満面の笑みを浮かべた。「えいや!」 首筋に強烈なチョップを食らった黄揚羽はその場で泡を吹いて意識を失った。そして足元にばらまかれた大量のオカモト・ペペ入りの水の上に、ぬるぬると沈み込んで行ったのだった。 〇 「行こう」白兎は黄揚羽をローション水の隣に横たえた。「動ける?」 「なんとかな」 手榴弾のダメージはあったが歩けない程じゃなかった。むしろ白兎が心配だったが、彼女もまた身を引きずるようにしてどうにか歩いていた。 俺達は二階の角部屋に辿り着き、二メートル四方のモニターにAI一歩を表示させた。 「……来たのね」AI一歩は言った。 「母さん! パスワードは2384626433だ。それで嵐は止まる」 「分かったわ。早速、嵐を起こしている装置を停止させる」 「……今すぐなのか?」薄々分かっていたことだが、いざとなると流石に躊躇の気持ちを覚えた。「父さんが悪事の証拠を隠滅するまで待たないのか? でないと会社は潰れて大勢の従業員や、俺達までもが露頭に迷ってしまう」 「勘八くん……それは」白兎は俺の肩を掴んで、沈痛な表情で首を横に振った。「無理なんだ。そんなことをしている間にも、ゾンビ騒動によって人は亡くなり続けている。証拠隠滅にかかる時間で亡くなる人だってたくさんいるだろう。今は一秒を争うことを分かって欲しいんだ」 「大丈夫よ勘八」AI一歩は慈母の笑みを浮かべた。「確かに父さんの庇護を失えば、あなたもあゆみも平気ではいられない。館を追い立てられて荒野でのたうち、両親もおらず、つらくて貧しい思いをするかもしれない。でもね、そうやって試練の中に身を置いてもがき続ける中でこそ、あなた達は確かに成長し、大人になっていくのよ」 俺は胡乱な気持ちだった。苦労してつらい思いをすれば成長する? 痛めつけられ傷つけばそれだけ立派になる? それは安直な考えであり俺の唾棄する思想の一つだった。俺は俺自身もあゆみも銀子もそんな風に育てられたくなかった。 「どんな環境に身を置いたとしても、そこでどうなるのかはあなた次第よ。お母さんは信じているわ。あなただったら館の外でもやっていける。立派に成長できる。館で暮らす以上の幸せを手に出来る。それだけの未来をあなた自身の手で築いていくことが出来るのよ」 綺麗事だ。どんな家に生まれどんな支援を受けるかで、子の人生は何もかも変わる。俺が一番知っていることだ。 「私はパスワードを知ってしまった。あなたが教えた。こうなることはあなただって本当は分かっていたはずよ」 「分かっていたさ」俺は答える。母さんは父さんに悪事を隠蔽する時間を与えたりしない。「でもそれはただの自己犠牲だ。無辜の人達が何人も死んで行くのを放置してまで、自分一人ボンボンでいられる程恥知らずじゃないというだけだ」 「それで良いんだと思う。立派だよ」白兎が申し訳なさそうな顔で言った。「今まで協力してくれて本当にありがとう。お礼に君のことはこれから私が支えるからさ」 「そんなことしなくて良いわ。あなたはあゆみと勘八の為に育てられ鍛えられたけど、もうタナカカンパニーは滅びるのだから、自由に自分の人生を生きると良いじゃない?」 「私は自由に考えて判断しました。彼の力無くして騒動は収まりませんでした。正義の忍者は恩を忘れず、生涯に渡り忠義を尽くすのです」白兎は決意した表情だった。「奥様こそ、大丈夫なのですか? ゾンビがいなくなれば、他でもないあなた自身が……」 「それは……いよいよとなれば少し躊躇があるわね」AI一歩は微かに目を伏せた。「でも、最後に勘八やあゆみの顔が見られた。思い残すところはもう何も……」 「ダメだ一歩。ぼくを置いて行かないでくれ」金一郎が部屋に駆け込んで来てAI一歩に縋り ついた。「二度も君を失うことがあれば、ぼくはもう生きていくことが出来ないんだ。頼むよ」 「だったら私のことを作るべきじゃなかったのよ」AI一歩は夫を突き放すようだった。「死者は蘇らない。私は一歩じゃない。あなたの妻じゃないのよ」 「絵を描いてくれたじゃないか! 一歩が描くのと同じ絵を……綺麗だった」 「あれしきの絵なら十年後なら平凡なAIでも描くわ。あなたのようなたいそうな科学者でなくても、あれくらいの絵は誰にでも描かせられる時代が必ず来る。あんなものを描いたくらいで奥さんが蘇ったと喚くだなんて、あなたは本当にダメな人ね」AI一歩はそこで泣き笑いのような表情を浮かべた。「さようなら」 隣の部屋から大きな音がした。それはエラーを知らせるピーピーとした耳障りな音であり金一郎はその場で崩れ落ちた。 「……一歩。君は嵐を……」 「ええ。今止めた。勘八が教えてくれたパスワードを使ってね」 「ああ、ああ。なんてことだ」金一郎は頭を抱えた。 「見に行こう」白兎が俺の手を取った。「嵐が本当に止まっているか。この研究棟には屋上があるはずだ」 白兎に引っ張られて俺達は屋上へと出た。降り続いていた雪は収まっており、無風状態で屋上は静寂に包まれていた。足元に積もった雪を踏みしめながら、俺はしばらくぶりに味わう見晴らしの良さに目を細めていた。 空を覆っていた雲が少しずつ晴れていく。冬の外気は身を切るように寒かったが、その中で一か月ぶりに味わう日光が本当に心地良かった。ゾンビ騒動が齎す混沌が終わりを告げ、世界に平穏が齎される予兆を俺は感じとった。 「……してやられたね。勘八」 スマホに表示させたAI一歩を握り締めながら、金一郎が屋上に訪れた。 「父さん。すまない」俺は言った。「尊敬しているよ」 「ありがとう。そしてさようなら」 金一郎はAI一歩の表示されたスマホを握り締めながら、屋上の縁に移動した。この屋上には柵がなく飛び降りようと思えばいつでもできた。俺は制止の声を発した。 「待てっ。何のつもりだ?」 「二度も妻を失うことに、ぼくは耐えられない。逝かせてくれ」 「逃げるなぁーっ!」白兎が吠えた。「あんたはこれから罪を償うんだろ!」 「ああ。本当いダメな人」スマホの中でAI一歩が嘆いた。「本当にしょうがない人ね。良いわ。一緒に逝かせてあげる」 「ダメだよ奥様! 最後の最後にそれは甘いよ!」 AI一歩は首を横に振った。「今だけじゃないわ。好きだからずっと甘やかし続けていたの。もっと厳しくすれば良かったわ」 「遺言はすべて望月に伝えてある」金一郎は言う。「ぼくの財産は勘八とあゆみに公平に分配する。ただその一部は長者原を初めとした主要な使用人に定額的に支払われる。彼らは君達が大人になるまで、或いは大人になってからも支え続けてくれることになる。カンパニーのことは銀次郎と望月に任せるが、勘八にその意思があるのなら、大人になってから会社に入るのももちろん構わない」 「何を言っているんだ?」俺は言った。「カンパニーはもう終わりだろう? 父さんの財産だって、きっと取り上げられるはずだ」 「そうはならない」金一郎は俺の方を振り返って言った。「一時間後にこの館は爆破される。証拠はすべて隠滅されるのだ。財産は残され、会社は存続できる。ぼくと館だけがこの世から消える」 その時、銀次郎を先頭にして、館にいるすべての人間がこの屋上に集まって来た。あゆみや銀子はもちろん、長者原を中心とした使用人達もいた。長者原の腕の中にはローション塗れで気絶している黄揚羽の姿もあった。 「おう兄貴! どういうことや?」銀次郎はくってかかるかのようだった。「この館があと一時間で爆破されるやと? 長者原がいきなりそう言ってワイらを集めたが、何をふざけたことを……」 「ふざけてなどいないのです」長者原が言った。「旦那様は冗談でそのようなことを仰いません。兼ねてより爆破する準備をなさっていたのでしょう。万一のことがあった際、ご家族の皆様が困らないよう、自身の悪事が外に漏れることがないように」 「卑怯だろ!」白兎が目を赤くして怒鳴った。「何が家族の為だよ! 自分がしでかしたことで家族までもが犠牲になるなんてこと、やる前から分かっていたじゃないかよ!」 「どういうことなの?」あゆみは顔を真っ青にしておどおどきょろきょろとしている。「ねぇお父さん? 嘘だよね? なんでそんな屋上の縁にいるの? 危ないよ?」 「爆破なんて冗談じゃないですよ!」銀子が叫んだ。「さっさと止めて下さいよ! わたし達も巻き添えじゃないですか!」 「ああ。ああ銀子ちゃん。大丈夫。ちゃんと君たちを助けに飛行船が来るからね」金一郎は優しい表情で館の住人達を見詰めた。「ぼくだけがこの館と運命を共にする。さようなら」 あっけなかった。 躊躇も何もなかった。一人一人に何か言葉を残すということもなかった。小さな段差から飛び降りるように簡単に、金一郎はその命を屋上から投げ捨てた。 俺とあゆみはすぐに屋上の縁に移動して金一郎を見た。雪に覆われた地面の一か所が赤く汚れていて、その中心に金一郎が横たわっていた。 「……これは打ち所が悪いな」俺の隣で白兎が呟いた。「首がダメな方向に曲がっている」 「ちくしょう!」俺は屋上の足元を覆う雪を叩いた。「本当に卑怯だ!」 その時プロペラの大きな音がして俺は頭上を見上げた。そこには空を大きく覆い尽くすような巨大な飛行船が屋上に降りて来るのが見えた。雪で覆われて見えなくなっているが、この屋上にはヘリポートがあるようで、飛行船はそこに着地した。 今この屋上には使用人を含めて二十人程の人間がいるが、その全員が乗り切れそうな巨大な飛行船だった。姿は大きなヘリコプターのようだったが、これほどの大きさならやはり飛行船と形容するのがしっくり来る。その壁面の扉が開くと中から七十代程の髭を蓄えた老人が現れた。 「お待たせいたしました。坊ちゃま、お嬢様、その他の皆様」 「お……とう……様……」長者原の胸の中で、意識を取り戻した黄揚羽が言った。 「……お父さん」白兎が老人を見た。「会いたくなかったよ」 「反抗期が長いな白兎。だが今は無駄話をしている場合じゃない。おまえのことも特別に乗せてやるから早くしろ」 タナカカンパニー常務である望月黒鷲は、そう言って俺達を一人ずつ飛行船内に案内した。三十からある席の一つ一つに俺達全員が腰掛けるのを見送ると、望月黒鷲は自身は操縦席に乗り込んで飛行船を離陸させた。 「……本当に爆破されるんだね」あゆみは目に涙を浮かべていた。「あたし達の館が……」 「冗談じゃないですよ!」銀子が泣き叫んだ。「館がなくなって叔父さまが死んだら、わたし達家族はバラバラじゃないですか!」 あゆみはそんな銀子を隣の左席から抱きしめた。「大丈夫。何とかなる。何とかなるからね。きっと何とかなるから……。勘八も安心して。大丈夫だから」 涙に濡れた目を右隣から向けられて、俺は大きく頷いた。必死に自分に言い聞かせていることを俺にも同意して欲しいというのではなく、長子として俺や銀子のことを励まそうという意思が、あゆみの表情からは感じられた。 「いったい何がどうにかなるんですか? わたしは姉さまとも兄さまとも離れ離れになりたくないですよ!」 「ならないよ。ならないからね」あゆみは銀子を強く抱きしめて宥めている。「また何度でも一緒に遊べるから。ほら、指切りしよう。ゆびきり、げんまん、うそついたら……」 「お坊ちゃまとお嬢様のお二人のことは、旦那様の遺言通り、この私が生涯に渡り仕え、お支え致します」長者原が席に座ったまま深々と頭を下げた。「旦那様の財産も、時期が来るまでは私が責任を持って管理をいたします。むろん財産に纏わる重要な証書の類は、全て持ち出しておりますのでご安心くださいますよう……」 「そんな木っ端使用人に財産なんぞ任せんなやー!」銀次郎が怒鳴った。「特に会社の株式やー! これは非常に繊細な管理と運用が求められる。そいつらにそれが出来るか? 出来る訳ないやろーっ! 悪いことは言わん。あゆみも勘八もそれは叔父であるワイに任せるんや!」 「黙れ旦那様に張り付いて生きて来た薄汚いヒルが!」長者原が生まれて初めて激昂した様子を俺達の前で見せた。「旦那様が亡くなられた傍からご子息に取り付こうというのか? 恥を知れー!」 「これからも長い付き合いになりそうね」メイドが頬杖を突きながら俺の方を一瞥した。「芸大卒業してもし絵が売れなかったら、あんたの家のメイドにしてくんない?」 俺は頷いた。「良いぞ。あんた専用のアトリエを、俺の建てる館に作ってやる」 「勘八、館立てるの?」あゆみが隣から俺の顔を覗き見た。 「ああ。俺はやっぱり、でかい家に住みたい。一生かかっても立ててやる。姉ちゃんのことも、そこに住まわせたいからな」 「ほねのづいまで、しすこん」黄揚羽がわざとらしいカタコトで言った。「でも、おてつだい、します。そのために……私は育てられたのですから」 「私もそうしようかな?」白兎は考え込むような顔をしている。「望月の家を逃げ出してから、いつかは忍者として仕える主君を自分で決めようと思ってたけど。結局それが勘八くんになるなんて、元の木阿弥で皮肉だね」 その時だった。 大きな爆発音がして、飛行船の中が微かに揺れた。 俺達は飛行船の窓から小さくなって行く館を見詰めた。爆破された館は真っ赤に燃え上がり白い煙を立てていた。その中にある俺達の思い出の部屋も品物も、絵も父の仕出かした悪事の証拠までもが、炎上し吹き飛んで消滅していくのを俺達は目の当たりにした。 「ああ……無くなっちゃった」あゆみはボロボロと大粒の涙を流した。「あたしの大切な館が……。世界で一番好きだった場所が」 「怖いです。姉さま」銀子はあゆみに縋りついた。「怖いです。わたし怖いです……」 滅びゆく館を見て俺は心臓が打ち砕かれたような衝撃を覚えていた。一生俺の傍にあると思っていた、一生俺を孕んでいると思っていた。そんな大切な館が燃えてなくなっていく。 「……勘八くん」白兎が言った。 俺は答える。「なんだ?」 「君さ。お父さんの会社継ぎなよ?」 「あんたがそれ言うのか?」 「証拠は消えたから、ゾンビ騒動の責任を残された君達が負うことはない。そもそもゾンビ騒動は金一郎が一人で起こしたことで君達やカンパニーに責任はないんだ。しかしそれだと、ゾンビで何もかもを失った人々への償いと支援を誰がする? 国が何とかしてくれる部分もあるだろうけど、力のある民間の誰かが全面的にそこに取り組むことにも価値はあると思うんだ」 「俺にそれをしろと?」 「そういうこと。私にもそれを手伝わせて欲しい。自分の館建てるって野望があるんなら、ちょうど良いでしょ?」 俺は炎上する館を見詰めている。 あゆみと銀子の嗚咽が聞こえる。銀次郎が怒り狂って長者原と口論をしている。メイドはそれを静観し、黄揚羽と白兎の二人は普通の姉妹のような会話を始めた。 やがて飛行船は館から離れていく。館は見えなくなっていく。もう二度とあそこに戻ることはないのだと思うと、俺の頬にも涙が伝い始めた。 |
粘膜王女三世 2024年12月27日 01時19分55秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2025年01月21日 00時16分06秒 | |||
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Re: | 2025年01月20日 23時54分03秒 | |||
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