デス・カルボナーラ ~死のカルボナーラ~ |
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※残酷な描写が多少あります。 鰻(ウナギ)たちは、皆うなづいてしまっていた。 その所為で、水槽には全体的にガッカリな雰囲気が漂っており、だが当然、それなりには皆ハッピーでもあった。 この『うなづく』とは、鰻の世界に存在する、ある種の心理的・生理的状態である。これがどういった状態かを、人間が理解できる言葉に表すことは、しかし、まず不可能であろうね。 〇 昼の12時は、昼食の時間。 水槽にいる鰻たちは、今日も、餌を食べている。 「うん。香りも食感もいい。ステキな鰻だよ」 うなづきの最中にある鰻たちも、美味しいうな重にはみなご満悦なのだった。 「ごっそさん」 なお、この物語にこれ以降『うなづき』の概念は関わってこない。特にお話に関係があるわけではないのだ。ただ、鰻の世界は鰻の世界で大変なんだよと、他生物の事情めいた事柄について、お伝えしたかっただけ、なんです。 お腹いっぱいの鰻たちはお昼寝をする。彼らの水槽は十分に広く、皆が思い思いに体を伸ばせた。 そんな時間に、水槽の一角から、鋭い叫び声があがった。 「デス・スコーピオンだ!」 なんということだろう。 一体どうして、こんなことになったのか! 水槽に、一匹のデス・スコーピオンが紛れ込んでいたのだった。 呑気な鰻たちも、皆がぬるぬるした。 デス・スコーピオンは、その尾の先端に猛毒の針を持つ、死を招くサソリ。鰻がこいつに刺されれば死ぬ! 「サトル、メアリー、水槽の奥へ逃げるんだ!」 「兄ちゃん、でも!」 「早く!」 長男のケビンが、勇敢に声をあげ、弟と妹を逃がしたのだった。その代償として、彼はデス・スコーピオンにほど近い位置に留まった。 ケビンのきょうだいを含む、誰もが目にした。デス・スコーピオンの尻尾が大きく持ち上がり、そして、ケビンへと高速で向かうのを! 「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 嫌ぁぁぁぁぁ!!」 メアリーの絶叫が水槽を揺らした。 〇 「これが、スーパー紙やすりです。ひと擦りで鉄棒を消滅させる威力があります」 京都大学の教授が壇上で見せたのは、その手に収まる、一見して単なる紙やすりだった。だがそれは、のんびりした品物ではないのだ。 彼は、彼のチームの研究成果が本物であることを、その場でただちに証明してみせた。 用意された鉄パイプは、教授の持つスーパー紙やすりによって、ひと擦り。それで、それはまるで呑み込まれるようにして、この場から姿を消したのだった。これは、鉄パイプが目に見えないほど細かい粒となって、空気中に散ったから、消えたように見えるのだった。 手品のような光景だった。 こんなことを、科学は可能にしたのか。会場中が興奮のるつぼとなった。スーパー紙やすりは、凄まじいやすり力(りょく)を持ち合わせている。これの諸分野への応用性は計り知れない。この発明は、人類を大きく飛躍させる、期待のまなざしを集めるに相応しいものなのだった。 〇 「そう、被害者は消滅したんです。犯人がスーパー紙やすりでやすることによってね!」 「くっ……!」 一方その頃、お金持ちが所有する島の洋館では、探偵がこのスーパー紙やすりを用いた殺人事件を看破したところであった。確かに、スーパー紙やすりであれば、死体を消滅させることは容易い。その場に集まった人たち全員が探偵の推理に納得した。 今まさにそう言い当てられた、この事件の犯人は田所さん。被害者を逆恨みしての犯行だった。探偵は田所さんを悲しそうに見やった。料理人としての田所さんの腕前は本物だったからだ。 「田所さん、とても残念です。とても残念ですよ、田所さん。あなたは逮捕され、間違いなく死刑でしょうね。残念です」 「くそおお、そんなはずがないのだあああ」 田所さんはその場を逃げだした。 吉岡さんは冷笑的に言う。 「ふっ、逃げ出すとはな。最後まで愚かな奴だ。ここは今、嵐によって船の出入りができない孤島。どこへ行ったってどうにもならないのにね」 その通りだった。だが、これに賢い上原さんが指摘した。 「だが、犯人はスーパー紙やすりをまだ持っているのではないかね!?」 この言葉は、その場の弛緩した空気を、再び緊張させた。そうだ! 犯人はまだ、あんなにも危険なものを……スーパー紙やすりを持っているんだ! 「皆さん、落ち着いてください! 決して、この部屋から出ないようにしてください。私が……」 探偵がそう言いながら、ショットガンを手に取った。 「責任をもって、これから田所さんを粉々にします。これから私は、田所さんのもとへ行きます。これから責任をもって、田所さんを粉々にするためにね」 探偵は勇ましく、責任感があった。犯人を言い当てて、それで探偵の業務はおしまいなのではなかった。皆の安全を確保するところまでが仕事だと、探偵は心得ているのだった。 〇 田所さんは死刑になるのが嫌過ぎる恐怖の感情から、無我夢中で館を逃げ回った。その最後に田所さんは地下へ向かう階段を降り、廊下の突き当たりにあった部屋の扉を開けた。一風変わったその部屋のようすは、田所さんに驚きの声をあげさせた。 「なんだここは、水槽!?」 「お兄ちゃん! お兄ちゃん! 嫌ぁぁぁぁぁ!!」 同時に、メアリーが叫んだのだった。 メアリーの兄、ケビンが、デス・スコーピオンによる、毒針の一撃を受けた、そのようにしか見えなかったからだ。 だがケビンは、メアリーを振り向くと、笑みを浮かべ、メアリーを安心させた。 ケビンは血色が良く、メアリーから見て、とても毒が入っている鰻には見えなかった。 ケビンは平気そうに述べた。 「大丈夫。平気さ、メアリー。そう泣くことはないよ。僕は、デス・スコーピオンの毒針に刺されてなんか、いないんだからね」 「そうなの!? よかった……」 メアリーは安心した。どうやらデス・スコーピオンの毒針は、兄のことを刺さなかったみたい。 しかし、安心の余韻もつかの間だった。この水槽の部屋に、闖入者があったからだ。 最初の一人はどうでもよかった。問題は、後から入室してきた一人だ。その人間は、ショットガンを手にしていたのだ。 ショットガンは、人間が扱う場合に、大きな音を鳴らすことがある。鰻たちは皆そのことを知っていたので、全員が嫌だったのだ。 「田所さん! あなたの衣類に発信機をつけておいたので残念でした! 殺しますので死んでください!」 「くそおお近寄るなああ」 田所さんは床に腹ばいになると、一段低い位置にある水槽の中へ手を伸ばした。 その手は、スーパー紙やすりを握っている。 田所さんは叫んだ。 「この鰻を殺すぞ!」 「何!? 鰻質(うなじち)をとろうというのか!? 卑怯だぞ!」 「銃を捨てろ!」 「嫌だ!」 「一匹、見せしめにやすらなければ、わからないようだな!」 鰻には人間の言葉がわからない。なので今スーパー紙やすりを向けられているメアリーには、自分に向いている殺意のことも、何もわからなかった。 鉄棒すら消滅させるスーパー紙やすりが、メアリーの体を撫でた。田所さんはごく最近、同じ方法で人間の死体をこの世から消滅させたことがあった。 だが田所さんの意図に反して、この一匹の鰻は、ちっとも消滅しなかったのだった。 「何!?」 探偵は引き金を引いた。 ドン、という音と同時に、ぶわっと血の霧が部屋の中を吹き上がった。田所さんは、簡潔に述べて、田所さんの成れの果てになったのだった。物凄い速度で飛来する散弾の群れは、人間の体に当たると、人間の体をみんなそういうふうにしてしまう、残念な威力を有していたのだった。 田所さんの粉々死体をしげしげと眺めつつ、探偵は得心したように述べた。 「なるほど……鰻はぬるぬる。摩擦がないので、通用しないんだ。スーパー紙やすりも、偶然水槽に紛れ込んだ、デス・スコーピオンの毒針もね」 目敏い探偵は、水槽に死のサソリがいることも、その毒がどの鰻も殺していないことも観察して、この通り、すべての事情を推理してみせたのだった。続けて探偵は特に理由はなく田所さんの死体をもう一度ショットガンで撃った。 「うるさい!」 ケビンが怒鳴った。 鰻のぬるぬるは、探偵の明察通り、いかなる物理攻撃も無効化する。毒針も、スーパー紙やすりも、滑って無効化した。 しかし屋内で発射される銃火器の轟音には、鰻も、ほかの生物同様に耐性を持たない。うるさいのが嫌なのは、鰻はそうだし、人間もそこは同じですよね。 そして鰻の言葉は人間に聞こえないので、探偵は悪びれる理由を持たず、口笛を吹きながら部屋をあとにしたのだった。 〇 「今日は私の友人たちにパーティーに集まってもらえて嬉しいんだ。堅苦しい挨拶は何なので、みんなで仲良しに乾杯をしようね。乾杯だね」 お金持ちの高峯氏がステージ上でそう挨拶することで、都内での立食パーティーは始まった。 広いパーティー会場に、高峯氏に招待された人たちが集まっていた。高峯氏の所持する洋館で先日起きた殺人事件をその折見事解決してみせた探偵や、高峯氏と探偵、両方の友人である京都大学の教授などがいた。教授は、彼の研究チームが先日、スーパー紙やすりを発明する偉業を成し遂げたので、みんなから話しかけられる人気者だった。 その教授が、雑踏の中に探偵の姿を認めると、教授の方から声をかけた。 教授は、この探偵の頭の良さに、過去何度も脱帽させられている。教授は探偵に個人的な恩義もあるし、大いに尊敬の念を寄せているのだった。 「探偵さん、ローストビーフかね?」 「もちろんです。私はローストビーフを食べます。お腹いっぱいになるためにね」 探偵はそう自明のことを語った。 ここで教授は、ふと悪戯を思いついて、敢えて探偵の頭脳を馬鹿にするように笑ったのだった。それはこの探偵が、頭脳を馬鹿にされると怒るのを知っていたから、面白半分で仕掛けたのだ。 「どうやらあなたの頭脳は、事件のこと以外ではまるきりと見えるね。今この会場にはロービーよりも良い料理があるのに、そのことに気づかないようではね」 「ローストビーフよりも良い料理ですって!? そんなものは、私の頭脳に誓ってあり得ませんよ!」 探偵はそう言うが、実のところ、パーティー会場にいる人間の非常に多くが、あるひとつの料理の周りに集まっていた。探偵はロービーを好き過ぎて、会場の人間の動きを観察し損ねていたのだった。 それは、大人気の料理だった。 みんながそれを良い料理だと認めて、食べたがっているのは、会場の様子から明らかだった。逆にローストビーフの近くにいる探偵は、現状、はっきりと少数派に属してしまっていた。 「不愉快だ、まったく不愉快だ。ここにいる人間たちは、ローストビーフを侮辱していること、この上ないものだな」 そう独り言ちながら探偵は、山盛りのローストビーフ皿を適当にテーブルに置くと、人だかりの中へ混ざって行ったのだった。 (ほう、これが皆の興味を惹いてやまない料理か……確かに、見目麗しい品ではあるようだな) それは、クリームソースの海と、そこに浮かぶスパゲッティーニ。一般的に、カルボナーラと呼ぶべき料理であるようだった。 〇 ステージ上でのヴァイオリン演奏が終わった後で、再び高峯氏がそこに姿を現した。通り一遍の挨拶を述べた後で、こう口にした。 「ところで皆様、会場にある料理の中でも最高の逸品、『デス・カルボナーラ』はもう召し上がったかね?」 デス・カルボナーラ? 探偵は、頭にクエスチョン・マークを浮かべた。 「まあ、素敵なクエスチョン・マークだわ」 無関係の婦人が、探偵の頭に浮かんだクエスチョン・マークを背後から手に取って、どこかへ持って行ってしまった。しかし、このことは特に探偵を困らせはしないことである。 探偵に、デス・カルボナーラの名は初耳だった。だが、この会場にあるカルボナーラといえば、一つだけしかないと思われた。 みんなに大人気だが、それだけではない。極めて美味な、上質の逸品だった。あれと比べると、ローストビーフも霞むほどだった。しかし、そんな変な名前だったとはね。 高峯氏が続けて口にしたのは、驚愕の事実だった。 「あれにはね、猛毒が入っていたんだ。あれを食べた者の命は、個人差はあるが、そうだな、1時間ぐらいだろう」 猛毒。デス・カルボナーラ。高峯氏のその言葉から少しすると、パーティー会場はたちまち、嘔吐する者が発する喘ぎ声の嵐に包み込まれた。誰もが毒を吐くことで、自らの命を救おうをしているのだった。その様子を見た高峯氏は笑った。 「はっはっは、嘔吐で助かることで、こちらの用意したゲームに付き合わないというのも、また一興だね。だがね諸君、猛毒の解毒剤を持っている私の話を聞いてみたくはないかね? これは高貴なゲームでね。嘔吐する音に包まれながら話すようなことではないんだよ」 ジャキン、と金属音が鳴った。 それは、テーブルの下に隠しておいたショットガンを手に取った探偵が、それを持ってステージにあがった後で銃身のポンプを引いて、ショットガンをいつでも撃てる状態にした音だった。 「解毒剤を寄越さんかい!!!!!!」 探偵は叫んだ。 会場は相変わらず、ゲボと悲鳴と罵り合い等とによって包み込まれている。 デス・カルボナーラは美味しかった。すでに誰もがデス・カルボナーラを口にしていたのだ。それによる猛毒で、このままでは死んでしまう人間が、会場の大多数だった。 「まあ、こういう状況でルール説明をするというのも、それはそれで一興かもしれんね。解毒剤は、ここにある」 高峯氏は銃を向けられてなお余裕な態度だ。 高峯氏が言うのを聞いた彼の使用人たちが、何人もで協力して、大きくて重いそれをステージ上へ運び入れたのだった。 ステージ上に置かれたのは、巨大な水槽だった。 中には、幾匹かの鰻が入っている。 皆の注目を集めながら高峯氏。 「これは、私のペットたちさ。みな、幼少期からええっと、解毒餌を食べて育った鰻たちでね。その血液には、毒への解毒成分があるとみて、まず間違いはないだろうね」 巨大な音のために、会場中が静まり返った。 それは、探偵がショットガンを撃ったからだった。 弾丸によって水槽が割れ、中の水が溢れ出た。 「くっ……!」 探偵は弾が尽きるまで撃った。 だが、探偵の狙いであった鰻はどれも、一滴の血も流さなかったのだった。 「はっはっは! 鰻はね、ぬるぬるだから、弾は滑って当たらないのだよ!」 そう、探偵は以前の事件の時、他ならぬ自分自身で、そのことを推理してみせたのだった。鰻のぬるぬるは、物理攻撃を無効化する。 高峯氏の楽しそうな哄笑だけが、しばし会場に響いた。 〇 「お兄ちゃんたち、何回も大きい音がしたよ。それに、ここはどこ? なんだか、怖いかもしれない……」 水槽にいるメアリーは、二人の兄に対して不安そうにそう述べた。メアリーの皮膚は、ぬるぬるしている。 「大丈夫さ。仮に何か起きるのだとしてもね、何も心配することはないんだよ。メアリーのことは、いつものように、僕が守っちゃうからね」 ケビンは、平気そうにそう答えた。 メアリーは、それで安心した様子を見せたのだった。 「ふふっ、ケビンお兄ちゃんがそう言うのなら、安心ねっ。ケビンお兄ちゃんはとっても頼りになるし、これまでメアリーに嘘をついたことがないもの。サトルお兄ちゃんとは違ってねっ」 妹からいじわるにそう水を向けられた次男のサトルは、はは、と頼りなく笑った。もう、勘弁してくれよ、あの一回きりのことはさ。 サトルはこう思考した。……僕がケビン兄さんと比べて、出来の悪い男だということは、自覚があるさ。だけどね、メアリー。僕だって、ケビン兄さんにも負けないぐらい、おまえを守りたい気持ちを持ち合わせているんだよ。 おまえに幸せに生きて欲しいと、強く、強く、願っていて、おまえを大切に思っているんだ。僕は要領が悪くて、頼りないかもしれないけれど、それだけは本当なんだよ。幼いメアリーは、それを信じてくれないかもしれないけどね。 〇 大勢の人間が、鰻に手を伸ばした。 鰻に触れることは誰もに可能だった。だが、触った手を握って、掴もうとすることは、常に滑って、するりと鰻をその手から逃してしまうことを意味した。 「どきたまえ! 私の軍手の出番だ!」 軍手を持っているお金持ちが軍手をはめて鰻に触ろうとしたが、まったく意味を為さなかった。鰻のぬるぬるの前では、人間の素肌も、軍手も、似たようなものでしかなかったのだった。 水槽に大勢が立ち入ったことで、人間同士がぶつかり合った。ある時、押されて転倒した男は、立ち上がると、鰻ではなく押した男のところへ行って、その顔に肘を叩きつけた。 顔に肘がめり込んだ男は鼻を折って、衝撃で折れた前歯が何本も飛び散るということが起きたのだった。 そんなことに何の意味もないのに、人々は少なからぬ人数が喧嘩をした。 そんな彼らの様子を最初楽しそうに眺めていた高峯氏は、いつしか無表情でただ見るようになっていた。 「わあ! ふふっ! きゃあっ! だめよ、くすぐったいわ!」 メアリーは嬉しそうに悲鳴をあげた。 ほかの鰻たちも同じく、楽しんでいた。 鰻たちは、人間に掴まれることを好むのだった。それは、マッサージのように感じるものだった。鰻たちにとって、自分たちにはないごつごつした人間の手が、体の表面を滑っていくのは、面白かった。 〇 タイムリミットの訪れた人間が、次々に倒れていった。 最後までスーパー紙やすりの力を信じていた教授も、鰻に血を流させることはできず、倒れた。 そもそも、鰻の血が解毒になるなどというのは、高峯氏のついた真っ赤な嘘だった。皆の奮闘には最初から何の意味もなかったのだ。実際のところ高峯氏の狙いは大量殺戮にあり、プレイヤーの命が助かるチャンスを与える意志を、最初から持ち合わせてなどいなかったのだ。 「立っている最後の一人は君かね、探偵さん」 「…………い…………が」 「何を言っているのか、全然わからんのだよ」 探偵は、毒で意識が朦朧としている様子だ。死ぬのも時間の問題だろう。 高峯氏は、立ったままで涙を流し始めた。 その顔は悲しみに、そして、怒りにと、交互に移り変わるのだった。 探偵は、血色を失った虚ろな顔を、高峯氏へ向けている。 「どうして……これだけなのかなぁ……」 高峯氏は述べた。 「鰻たちは…………必要もないのにさ…………一方的に命を弄ばれ…………殺されてね…………なのに君たちは…………どうして…………たったのこれだけしか死なないのかなぁ! あんなにもお金も時間も使ったのにねえ!」 高峯氏は泣き叫んだ。 「うおおおん、ケビン、サトル、メアリー、許してくれ! お前たちの両親を殺した人間の仇は、きっと討てなんだ! わかっているとも! いくら社会的地位の高い人間を集めたとて、その中に彼らを食した者が含まれている確率など、無にも等しいことは! でも、でもお!! 割り切れないことってあるんだもんねえ!!!」 探偵の体が大きく揺れた。 高峯氏は、元々は金持ちでもない、一般的な家庭で生まれ育った人間だ。 子どもの高峯氏は賢く、休日に川遊びに出かけた時、罠で鰻を捕まえる方法を試した。図書館の本でその方法を見たことがあったのだ。両親は高峯氏を、ほほえましく笑った。そんなので、鰻を捕まえられるわけがないよ。 だが実際には、二匹の鰻が捕まった。 生まれて初めて見た鰻たちの姿は、高峯氏の目に愛らしかった。高峯氏は、一目でこの生き物たちのことを、気に入ったのだった。 高峯氏は、二匹の鰻を、ペットとして迎えた。 学校で同級生と話が合わなかった高峯氏は、この世のすべてよりも、その二匹の鰻のことを大切に思った。高峯氏の心にとって、彼らは、最も大きな存在だった。 高峯氏は、彼ら二匹の鰻のかんがえが、まるで自分のことのようにわかったから、二匹のことを幸せにしてあげるだけでよかった。それだけで高峯氏は幸せに生きられたのだった。 ある日、二匹の鰻は産卵し、子どもを産んだ。 後日、高峯氏が学校から帰ると、二匹がいなくなっていた。 鰻の身に何かを起こせたのは、最近失業して家にいた父親だけなのは明らかだった。高峯氏が問い詰めると、父親は、新しく生まれたんだから、いいじゃねえかと怒鳴った。 父親には、高級料亭を開業した友達がいて、鰻を買い取ってもらうことができた。 高峯氏の鰻は、誰かによって、食い殺されたのだった。 探偵の手が、高峯氏の表面を滑った。 最後の力を振り絞って高峯氏に踏み出し、おそらくは高峯氏を絞め殺そうとした探偵の手は、しかし、すでに度重なる鰻との格闘によって、ぬるぬるになってしまっていた。 摩擦を失った手は、人を絞め殺せず、地面に当たって跳ねた。そうして、動かなくなった。 「メアリー、サトル、ケビン、どうだろう。楽しかったろうか。気は晴れたろうか。君たちの両親を奪った、人間の死ぬ姿を、こんなにも間近に見ることができて」 高峯氏はひざを折って泣き崩れた。 「そうだと言っておくれよおお、どうして君たちの言葉は、私にも、まったく、なにもわからないのだああ、最初の二匹の時と違ってええ」 高峯氏は、最初の二匹を失った時から、ずっと孤独だった。 高峯氏は、人間に気を許したことが一度もない。それは、彼らが鰻を食べるからだった。 一方で高峯氏と関わった人間たちは、みな高峯氏の良いところを見て、それぞれに彼のことを好いていたのだった。 だが今、もうこの世にいる誰も、彼のほうを見ていないのだった。 〇 この頃、まだ小さかったケビンは、今よりもずっとぼんやりとして過ごしていた。この時もうとうとしていて、楽しそうな笑い声を聞いたことで目を覚ましたのだった。 「この人は、きっと、“のぶお”のお父さんだよ。遊んでくれるなんて、珍しいね」 「うふふ、そうね。とっても楽しいわ」 両親が、人間に遊んでもらって、気持ち良さそうな声をあげているのだった。幼いケビンもそのようすを見て、いいな、と思ったのだった。 ケビンが人間の顔を見上げると、人間は、“のぶお”ではなかった。 ケビンの父が今言った通りならば、“のぶお”のお父さんなのだ。 『暫定“のぶお”のお父さん』は幾度かケビンの両親に触れた後で、何か大声を発してから、どこかへ行った。 しばらくすると、道具を持って戻ってきた。それは、網だった。 ケビンの父親が、突然真剣な声色になった。 「いいかい、大切なことを言うから、よく聞くんだよ、ケビン」 肉親の態度と言葉に、ケビンは素直に頷いた。 「サトルとメアリーのことを、お前が守るんだよ。お前だけは、知っておいてくれ。いいかい、人間はね、“のぶお”のようないい者だけではないんだ。目を見つめても、ぽかぽかした気持ちにならない生き物からは……ケビンは、これから生まれてくる弟と妹のことを、守らなくてはいけないんだよ」 「ケビン」 母親が言った。 同時に、網が母親を捕まえ、すくい上げた。 「愛しているわ。あなたのことも、今は卵の中で眠っているふたりのことも。そう伝えてね。私はこれからもずっと、いつまでも、あなたたちを愛しているって。ね、伝えて」 これは眠るケビンの見ている、ケビンの両親がかつてその姿を失った日の、思い出の夢なのだった。 ケビンは眠っている。 すぐ近くに、サトルとメアリーもおり、三匹は寄り添って眠っていた。 眠りながらケビンは、弟と妹のことを思っている。 ふたりのことを思うと、体の中がぽかぽかした。 そこに両親がいるのだと、ケビンには思えた。 母さんは永遠に愛していると言った。だから、ぽかぽかする場所は永遠なのだと思えた。 ケビンにとってきょうだいを思うことは、両親を宿す自身の体にとって、必然だと考えていた。父さんと母さんが、僕の体を使って、ふたりのことを愛しているのだ。 ケビンは眠りながらきょうだいのことを思い、ぽかぽかした気持ちになった。 |
点滅信号 2024年08月11日 23時56分18秒 公開 ■この作品の著作権は 点滅信号 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2024年09月03日 00時04分35秒 | |||
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Re: | 2024年09月01日 04時43分47秒 | |||
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Re: | 2024年08月30日 22時39分52秒 | |||
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Re: | 2024年08月30日 00時43分23秒 | |||
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Re: | 2024年08月29日 00時10分47秒 | |||
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Re: | 2024年08月28日 21時09分28秒 | |||
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