名駅狂騒曲

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 名古屋駅お馴染みの待ち合わせ場所である「金時計」の前に立ちながら、平塚有佳子(あかね)は髪の先を左手で、スマートフォンを右手で弄っていた。傍らにはキャリーバッグ。一緒に旅行へ行くため、高校の友人と待ち合わせ中なのだった。
 しかし、約束の時間を過ぎても友人はやってくる気配がない。そもそも誘ってきたのは友人の方で、なのに遅れるとはどういう了見だ、という気持ちがないわけではなかったが、
「……それにしても遅いな」
 怪訝そうな表情で有佳子は呟く。
 待ち合わせの時刻から十五分は経過していた。
 彼女が地元の棒術を習っていることから親しくなった半谷紗良は、礼儀正しく素直な娘であった。世間知らずで多少抜けているところはあったが、友人との約束を違えるような人間ではない。そういう事情もあり、有佳子も紗良の遅刻を心配こそすれ怒りはしなかった。
 理由なく遅れるやつじゃないもんなぁ。少し迷ってるのかも知れない。うん、そうに違いない。ただでさえ名駅は迷いやすいし。
 もう少し待ってみるか――そう考え始めた有佳子の後ろを、暗い顔をした青年が中央線の方角に向かって歩いていく。
 有佳子はそれに気付かないし、面識のない青年も言うに及ばず有佳子に視線は向けない。


 彼女に振られた。
 就活は上手く行っていない。
 バイトでは毎日怒られている――この先生きていても、良いことなんて本当にあるんだろうか。止まない雨はないと言うけれど、今降っているこの雨こそが耐えられないものなのに。
 浅井遼一は湿った考えを頭の中に巡らせながら、人通りの多いコンコースを行くあてもないままにぐるぐると巡っている。今まさに彼女から手酷く振られたばかりなのだった。
 マッシュの黒髪に白シャツという大学生然とした趣ではあるが、どこか垢抜けていない挙動と表情の暗さが湿った印象に拍車を掛けている。世界の終わりに腹痛で苦しんでいたらこんな顔になるだろうか、と思われるほどに絶望的な様子だった。
 ……思えば自分の人生で晴れていた日なんて数えるほどもない。
 いつまでこんなことが続くんだろう。こんなことならいっそ、全部投げ出してしまおうか。
 そんなことを考えながら歩いていた遼一は、注意力が欠けていたことも相まって、目の前から歩いてきた男性に気付くことができず、肩をぶつけてしまう。
 しかし、そのことすらも彼の意識には入らない。
 ひたすら虚ろな目で、遼一は帰りのホームに向かうこともできずに構内を彷徨う。


「なんじゃあいつは、ぶつかっておいて反応もないんか」
 遼一にぶつかられた男性、勢力篤もまた、少し腹を立てながら構内を彷徨い歩いていた。……全く、これだから都会は嫌いなんじゃ。
 年の頃は二十といったところだろうか。しかし、端正な顔立ちに漁業の手伝いで鍛え上げられた体格、加えて堂々とした立ち振る舞いが年齢に相応しからぬ雰囲気を醸し出していた。どこぞの俳優と紹介されても通用しただろう。その証拠に、擦れ違う女性たちが黄色い悲鳴ならぬ黄色い視線をちらちらと向けている。
 ただ、迷子である。
 篤は故郷である離島から、怪我をした親族を見舞うためにわざわざここ名古屋まで足を運んできたのだった。情に厚いのである。しかし、田舎から出てきた篤にとって名古屋駅は十分すぎるほど複雑であり、そもそも電車に乗った経験が少ないため迷うには事欠かない。
 無事に駅まで辿り着いたはいいものの、今度はどの出口から出てどのバスに乗ればいいのかさっぱりだった。本来ならば人に訊くべきだったろうが、故郷の人間と比べると皆急いでいるように感じられるし、窓口は混み合っているしで気乗りがしない。
 やれやれ、誰かに迎えに来てもらった方が良かったか。
 そう考えながらしばらく歩いていると、篤の眼前に大きな時計が現れる。
 その足元では一人の少女が、なかなか来ない友人を待って立ち尽くしていた。


「遅いですねえ」
 半谷紗良は大きな時計の足下でのんびりと呟いた。
 ブロンドの長い髪に整った顔立ち、加えてすらりとした手足をしている彼女の姿に、同じく待ち合わせをしている男どもの視線が纏わり付く。が、お嬢様育ちである当の本人はそれに全く気づく様子がない。
 ドイツ人の父と日本人の母を両親に持つ紗良は、父親の影響もあって大の日本好きであった。生まれはドイツなのだがネイティブと遜色ないレベルで日本語が堪能であり、「半谷紗良」という和名にしても、サラ・ベッカーという彼女の本名を自分で和訳したものなのである。ベッカーというのは母国の言葉でパン屋のことなのだった。パン屋紗良。
「有佳子ちゃん、割とお寝坊さんですからねえ」
 紗良は再びのんびりと呟く。
 しかし、有佳子は確かに「金時計」の前で待っているし、待ち合わせ時間に遅れてもいない。だから問題は、のほほんとしている紗良の方にあるのだった。
 紗良の背後にある時計を見上げてみよう。
 ――銀色をしている。
 そう、ここは有佳子から指定された「金時計」ではなく、コンコースを挟んで逆側にあるもう一つの待ち合わせ場所「銀時計」なのであった。
「やれやれ、探しに行きましょうか」
 上品な笑みを浮かべながら紗良は「銀時計」から動き始めたが、この行動にもまあまあ問題があると言わざるを得ない。有佳子が危惧していた通り、彼女はそこそこ道に迷いやすいと言うか、ぶっちゃけ方向音痴なのである。
 しかし、幸か不幸か。
 歩き始めた直後、彼女は声を掛けられて立ち止まった。


 さて、さまざまな人種が行き交う「駅」という場所の性質上、もちろん異世界の住人も来訪している。いくら無理があっても、来訪しているのだから仕方がない。
 ユーリカ=グチュリモア・レイドノヴァン。
 頭から二本の可愛らしい角を生やし、大事な部分以外は露出しているビキニにも似た衣装に身を包みながら、異世界の住人ユーリカ――淫魔である――は中央線のホームのすみっこで身を縮こまらせていた。コスプレにしても過激なその風体に、老若男女がちらちら視線を向けているのは言うまでもない。
「ふえぇ、気が重い……」
 そうユーリカが溜息を吐いたのは、彼女が重度の人見知りだからである。
 これは淫魔としては致命的な弱点であった。
 異世界、要するに魔界の住人であるユーリカは割と高貴な家の生まれだったこともあり、今までは不自由なく「食事」を与えられていた。しかし年頃になったのを機に母親から「あんたもいい加減働きなさい」と無理矢理ここ日本に送り込まれたのであった。
 淫魔にとっての「食事」とは、要するに精気のことだ。つまりユーリカは自分で男性を誘惑してご飯にありつかねばならない。だが、ただでさえ人見知りの淫魔ユーリカには、自分一人で「食事」をした経験など一度もなかった。
「ふえぇ、でも頑張らないと……」
 そうしなければおうちに帰れない、ゲームができない。
 引きこもり淫魔ユーリカにとって、それは急を要する死活問題だった。
 もう誰でもいいから、ささっとお話して捕まえて精気をもらって――。
 …………。
 あれ?
 そんな折、顔を上げたユーリカは一人の青年を発見する。
 やたらと暗い顔をした若い男性である。
 ほとんど男性と話したことさえないユーリカが、所謂ウェイ系やハンサムな男性に自分から声を掛けるのはハードルが高い。仮に話し掛けられても怖くて逃げだしてしまうのが関の山である。しかし、目の前に現れたのは自分と同じような雰囲気のチョロそ……もとい、押しに弱そうな獲物である。
 しかも観察していると、まるで今から飛び込もうとしているかのように虚ろな目で線路をじっと見つめている。これなら自分が何をしても許してくれそうに見えた。
 …………。
 あの人なら、いけるかなぁ?
 停止線の手前で立ち尽くしている彼に、ユーリカは涙目で近付いていく。


「……ん?」
 銀時計が目に入った直後、勢力篤は同時に一悶着している一団も捉えた。どうやら複数人の男が女の子に声を掛けているらしかった。
「ねえ彼女ー。待ち人来ずなら俺たちと一緒に遊ばなーい?」
「そーそー。探すのをやめたとき、見つかることもよくある話、ってさ」
「え、いや、その」
 軽薄な声に執拗な誘い。言っていることはよく分からなかったが、その光景を見るに所謂ナンパというやつらしい。しかも絡まれているのはハーフっぽい女の子である。「でも、待ち合わせが、」と狼狽えているあたり、日本語は通じているようだったが。
 ……腹の立つやつらばかりおるな。
 元来、篤は怒りっぽい性格ではない。加えて、自分が怒ると相手を委縮させかねないことが分かっているため、何かトラブルがあっても努めて冷静に場を取りまとめようとするタイプの人間だった。
 しかし今回は久し振りの都会で迷子になっていること、先程ぶつかられて詫びもなかったことなどから、イライラしていなかったと言えば嘘になる。そこに来て、困っている女の子に言い寄っている輩ども。……気がつけば篤は、ずんずんと大股で一団に向かって足を進めていた。
「おい」
 後姿に声を掛けると、ナンパ男たちは「あぁん?」と不機嫌そうに振り返り――そして、そこに立っていた篤の姿に凍り付く。
 鍛えられた体。自分らを睨め付ける視線。
 さながら仁王像の如く。
「――おんしら、何しとるんじゃ。恥を知らんかい」
 若干不機嫌の混じった篤の声音に、男たちは射竦められたように震え上がった。


 いくらなんでも遅い。
 紗良を待っていた平塚有佳子は、あまりに彼女が遅いことに懸念を抱き始めていた。すでに約束の時間から三十分ほどが経過している。
 少し抜けているところがあるとは言え、半谷紗良は日本人より礼節を弁えている、何なら「大和撫子」と言って支障のない娘である。その彼女がここまで遅れて連絡の一つも寄越さないのは、どう考えても不自然だった。……これは何かあったな。
 もちろんスマホの充電が切れているとか、それが原因でマップすら使えず道に迷っているとか、色々と可能性は考えられる。だとすれば単純に遅れているだけということになり、下手に動くのは得策でないと頭では分かっていたが、それにしても三十分は長いし、有佳子はそれほど気の長い方ではなかった。
 何より、何かあった時のことを考えると気が気ではない。
「……探しに行くか」
 もう限界だった。
 有佳子はそう呟くと、まずは紗良の勘違いを想定して「銀時計」の方へ足を向ける。


 ここから飛び込んだら、もう楽になれるんだろうか。
 行く宛てもなく彷徨し、無意識の内に帰りのホームまでやってきていた浅井遼一は、目の前の線路を見下ろしそんなことを思う。
 ……思えば子供の頃からこうだった。何をやっても上手くはいかず、それでも努力をし続けてきたのに報われず。誰か好きな子が出来て、勇気を振り絞って告白しても、「あんたなんかが」と嘲笑の内に断られる。
 それでも大学に進学してからはイメチェンを図り、自分なりに容姿や性格も改善し、やっと念願の彼女もできたと思っていたのに、……その結果がこれだ。
 俺の努力なんて、最初から徹頭徹尾無意味だったんだ。そんなことを思う。努力してもこれ以上良くならず、ずっとこんな人生が続くくらいなら、いっそここで終わった方が――。
「――あ、あのう」
 何度かそんな考えを繰り返していた遼一は、背後から不意に女性の声で呼び掛けられ、はっとして振り返る。そして、ぎょっとした。
 そこで目に入ったのは、普通に道を歩いていてはまずお目に掛かることができない、何だったら大学でもお目に掛かったことのない、可憐な美少女である。……何故か悪魔のような過激なコスプレをしているが。
 その風体に絶句している遼一に向かい、彼女はおずおずと話し掛ける。
「い、命は大切にしないとダメですよぉ。ふぇえ……」
 そんなことを言っている。
 ……他にも要因はあれ、振られたことで線路に飛び込もうと考える程度に恋愛体質の遼一にとって、それを女の子に止めてもらうなどといったことがあれば、一瞬で恋に落ちるのが適当ではあっただろう。
 しかし彼に声を掛けたのは露出も甚だしいコスプレ少女だったし、どこの国に属しているかも分からない無国籍な顔立ちも気弱な彼には気後れを覚えさせた。何より度重なる失敗経験により、自己肯定感がどん底まで下がった遼一には眩しすぎるレベルの可愛さだった。
「どうですか……? 死んじゃうくらいなら、あたしと、そのぉ……」
 何度も声を掛けようとしては躊躇っていたユーリカもユーリカで、人見知りの常として口籠ってしまい、なかなか自分の真意を伝えることができない。
 固まってしまった遼一。
 顔を真っ赤にするユーリカ。
 ここ名古屋駅に似つかわしくない静寂は、不意の行動で破られた。
「すみませんっ」
 そう口にするや否や。遼一が脱兎の如く逃げ出したのである。
 えっ。
 残された人見知りのユーリカは、逃げられたことに茫然としながら再び瞳に涙を浮かべ始める――はずだった。本来であれば。
「…………」
 しかし。
 あくまで彼女は淫魔であり、人間の男性は捕食対象である。
 ――その獲物に逃げられたという段になって、彼女の狩猟本能が生まれて初めて顔を出す。今まで体験したことのない「狩り」の高揚、淫魔としての本能。それはヒキニートダメダメぼっち淫魔ユーリカをして、捕食者へと一変させるに十分な経験だった。
「……あはははっ。逃がしませんよぉ!」
 我を忘れたユーリカは、その全身から魔気を噴出させる。
 煙幕の如く周囲を覆い始めた瘴気に、人々は我先にと逃げ惑い始めた。


 半谷紗良はぽーっとしていた。
 いや、普段からぽーっとしているのであるが。
「まったく……都会には訳の分からん輩がおるもんじゃ。大丈夫か、あんた?」
 声を掛けてきた迷惑な人たちを追い払ってくれた後で、目の前の男性が心配するような言葉を掛けてくれた。しかも色々と「武士」を体現したかのような男気溢れる日本男児。ぶっちゃけ紗良にとってはドがつくレベルでタイプである。
 そもそもお嬢様育ちの紗良の外泊を、両親が許したのは有佳子の存在が大きい。何かあっても彼女なら娘を守ってくれるだろう――という暗黙の信頼。他ならぬ紗良も有佳子のことを信頼しており、見知らぬ土地でも彼女がいれば大丈夫でしょう、と頼りにしていた側面は大きい。
 そんな有佳子不在の頼りない状況で、助けてくれた見知らぬ男性。
 運命的な出会いであった。
「あの」
 故に半谷紗良は、無意識の内に初めての行動に走った。
「よろしければ、そこの喫茶店でお茶でもどうですか。お礼がしたいのです」
 逆ナンだった。


 有佳子は探していた。
 銀時計まで辿り着いたはいいが、肝心の紗良の姿はどこにも見当たらない。しかも先程からラインを送り続けているにもかかわらず、当の紗良から全く返信が来ない。既読にもならない。
 ……それは単純に篤との出会いに浮かれていた紗良が、全くスマホに気を配っていなかったというのが原因であるが、そんなことなど知る訳もない有佳子が、普段と異なる紗良の行動に異変を感じるのは仕方のないことだった。
 これは、絶対何かあったな。
 紗良が数分前に好みの男性と喫茶店にしけこもうとしていたことなど知らず、有佳子は手にしたスマホをぎゅっと握りしめる。
 無事でいてくれよ。……紗良。


 遼一は混乱していた。
 美少女に声を掛けられたこと自体は後で思い出してニヤニヤできるくらいに嬉しい事態ではあったが、その少女がえらい剣幕で自分を追いかけてきたとなれば話は別である。
「えへへ~。精気くださぁい」
 しかもこっちを追いかけながら、そんなことまで言っている。ユーリカが悪魔のコスプレをしていることも相まって、遼一には彼女が「生気ください」要するに「お命頂戴」と言っているようにしか聞こえない。
 人通りの多いコンコースを逃げる逃げる逃げる――自分がどこに向かっているのか、どうして追いかけられているのかも分からなかったが、立ち止まれば恐らく命はない。まぁ実際に数億の命が搾り取られる可能性はあったのだが、事情を知らぬ遼一には知る由もない。
 通行人とぶつかりながらも我武者羅に逃げる。なるべく人の多い場所を選んで姿を隠そうと試みる。……しかしそこは覚醒したユーリカの方が一枚上手だった。
「うわっ」
 不意に何かに足を取られ、遼一は地面に倒れ込む。
 逃げることに集中しすぎて足元に注意を払っていなかった。……早く、早く立ち上がってもう一度逃げないと――そう起き上がろうとした遼一が目にしたのは、自分の足元に纏わりつく数匹の蛇。彼の口から、思わず「ぎゃーっ」と悲鳴が漏れる。
「逃げられるわけないじゃないですかぁ!」
 ユーリカは高笑いを上げる。
 先程中央線のホームで、彼女が瘴気と共に呼び出した魔界の蛇だった。


「……い、いや。茶は別に要らんのじゃが、それよりも良かったら案内してくれんか?」
 よく分からないまま紗良に喫茶店まで引っ張ってこられた篤は、店に連れ込まれる寸前で我を取り戻す。「ちょっと道が分からんで困ってての」
「あ、そうでしたか。それならそうと早く言ってくださればいいのに」
「いや、おんしが」
 篤を引っ張ってきた紗良は、友人が自分を探していることなど思いもよらず、すんなりと案内を了承する。構内には「半谷紗良様。半谷紗良様。ご友人がお探しです――」と有佳子による呼び出しの放送が掛けられていたが、一目惚れにより普段にも増してぽーっとしている彼女の耳にそんな言葉は入ってこなかった。
 篤とは互いに自己紹介はしていたが、彼女は無意識に和名ではなく本名を名乗ってしまっていたため、篤にしてもその放送が隣の少女を指していると思い至ることはできなかった。
「まあ善は急げです。篤さんはどこに、あっ」
 歩き出そうとした紗良は、浮かれていたせいで足元の段差に躓く。
 驚いたのは篤である。
「大丈夫か? 怪我でもしたら大事じゃ、気ぃつけんと」
「あはは……すみません、お見苦しいところを――」
 と、差し出された篤の手を、紗良が取ろうとしたその時だった。
 ――構内が、突然の阿鼻叫喚に包まれる。
「ぎゃーっ」
 誰かが悲鳴を上げたかと思えば、その周りの人々も悲鳴を上げながら散り散りに逃げ去っていく。一体何事かと篤が目を遣れば、そこには蛇に巻き付かれた青年と悪魔の姿。
 さすが都会じゃ。悪魔までおるわ。
 そう感心したのも束の間、正気に戻った篤は正義感から声を張り上げる。
「そいつから離れんかぁ! この悪魔!」


 有佳子もまた、騒動に巻き込まれていた。
 先程係員に頼んで放送を掛けてもらったはいいが、突然七割増しほどになった喧騒に構内は混乱しており、この中で紗良一人を探し出すことなどできなくなっていたのである。
 何が起こっているのかは分からなかったが、何かが起きているのは確かだった。俄かに焦りと混乱とが押し寄せる。……まさか紗良のやつ、この騒動に巻き込まれてるんじゃないだろうな。
「くそっ」
 飛び出したコンコースでそう悪態を吐くが、それで事態が好転するわけではない。
 そんな中。
 有佳子は良く通る男性の声を聞いた。
「――そいつから離れんかぁ! この悪魔!」
 何事かと声の方向に目を向ければ、そこには悪魔(?)のコスプレをした女を中心として輪ができているところだった。そして、その輪からつかず離れずの場所に――。
「紗良!」
 友人の姿を認め、有佳子は思わずそちらへ駆け出す。意味の分からないコスプレ女などどうでもいいが、これが原因で紗良が遅れていたのだという間違った事実に辿り着いていたのである。
 しかも先程までへたり込んでいた遼一は、ユーリカの注意が篤の方に向いたのを好機と、無我夢中で蛇を追い払って逃げ出していた。そのため有佳子が目にしたのは、コスプレ女と対峙している男性と地面にしゃがみ込む紗良の姿である。
 紗良に何かしたのか、あの女。
 有佳子の胸に燃えるような怒りが込み上げる。
 気がつけば有佳子は、近くにあった喫茶店の幟を引き抜くと、それを手にユーリカ目掛けて走り始めた。――変な格好しやがって、絶対に許さない!
「ふえ?」
 いきなり現れた少女が棒状の何かを手に突進してくるのを見て、目を丸くしたのはユーリカである。
「は?」
 何故か幟を片手に持った少女が悪魔に向かっていくのを見て、今までの気勢を削がれたのは篤である。
「あら、有佳子ちゃん」
 この期に及んでものんびりとしているのは、言うまでもなく紗良である。そして紗良は、有佳子がなんだか凄い格好の女性に向かっていったのを確認すると、地面から立ち上がりながら「大丈夫そうですね」とこれまた平和な考えを思い浮かべたのだった。
「篤さん、ここは彼女に任せて行きましょうか」
「はぁ? じゃが、あんなおなごを一人で置いてくわけにゃ……」
「大丈夫です。あの子強いですから」
 紗良はにこにこと笑みを浮かべながら、篤を案内しようと引っ張っていく。
 有佳子が棒術において並々ならぬ実力を持っていることは、それが切っ掛けで彼女と知り合った紗良には先刻承知の事実であった。――有佳子ちゃんに棒状の何かを持たせて、有象無象が相手になるはずないじゃないですか。もっと太めの棒だったらより良かったんでしょうけど。
「――チェストォ!」
「邪魔するやつはゆるしませんよぉ!」
「あの、篤さん、携帯番号教えてもらってもよろしいですか?」
 背後で苛烈な争いが始まったのを尻目に、紗良は酔っ払いのように腕を篤に絡ませながらバス停へと向かっていく。
 篤は訳が分からず狐につままれたような気持ちだったが、本当に少女が悪魔と渡り合っている(と言うか圧倒している)様子を見て、「これが都会か」と感心するのだった。


 ふえぇ?
 どうしてあたし、戦ってるの?
 有佳子と戦っている最中に、ユーリカは至極真っ当な疑問を抱き始めた。
 あの気弱そうな獲物とならばともかく、自分が今相手にしているのは突然向かってきた見も知らぬ少女である。しかも悪魔であるユーリカからしても、なかなかに強い。棒術の達人と言っても過言ではなかった。
 その上、いつの間にか周りを取り囲むようにして数多の人間たちが輪を形作っている。それはこの決闘を特撮モノか何かの撮影と勘違いした野次馬の集まりだったが、ユーリカにはそんなこと思いも寄らない。何せ初めての人間界である。ただ人見知りのユーリカにとって、苦手な人間たちに囲まれると言う状況が不得手なものであったことだけが事実である。
 一方の有佳子は目の前のコスプレ女が紗良を傷つけたと勘違いし、怒り心頭と言った様子で「コーヒー一杯250円!」と書かれた幟を振り回している。少し冷静になって考えれば有り得ない状況であることは分かったはずであるが、そもそも気が長くない上に頭に血が上っている有佳子はそのことに思い至らない。
 ――この悪魔が! あたしたちの旅行を邪魔しやがって!
 有佳子の流れるような一撃が繰り出される度に、周囲の野次馬たちが歓声を上げる。そしてその歓声がそっくりそのまま不憫なユーリカを委縮させるという悪循環。
「うわぁん……もうやめてくださいよぅ」
「騒ぎを引き起こしといて一体何を!」
「だってあたし、男の人を誘惑しないと死んじゃうんですぅ……」
「はぁ!? この期に及んでふざけやがって!」
 すでに状況に耐えられず涙を浮かべているユーリカの言葉に――それでもさすがは魔族、攻撃を素手で捌いていたが――有佳子は幟を繰り出す勢いをさらに強める。そもそも両者ともに戦う意味はどこにもなかったが。
「……ふぇ!?」
 しかし、遂に均衡が崩れた。
 ユーリカが瞳に浮かべた涙が、彼女の視界を滲ませたのだった。
「隙ありっ!」
 その瞬間を見逃すはずもない有佳子の一撃が、ユーリカの頭に生えている左の角を強かに打ち付ける。そして、思わず地面にへたり込んだ彼女の喉元に、有佳子の棒が突き付けられた。
「まだやるか」
 勝敗は決した。
 茫然と涙を浮かべるユーリカの瞳から、さらにボロボロと大粒の涙が溢れ出す。
「うわぁああん……どうしてみんな、あたしを苛めるんですかぁ……!」
 そして嗚咽。子供のような表情で泣き始めたユーリカに不意を突かれ、有佳子は思わず棒を引っ込める。引っ込めざるを得なかった。
 泣いた? え? これじゃあたしが悪者みたいじゃん。
「もうあたし、おうちに帰りますぅ!」
 大声で泣きじゃくるユーリカが、再び周囲に瘴気を噴出させる。
 それが辺りを覆い尽くし、しばらくの間視界を煙らせる。
 ――有佳子が気がついた頃には、ユーリカの姿はどこへともなく消え去っていた。


「じゃあ篤さん。ここでお別れですね」
「何を今生の別れみたく言っとるか。連絡先まで交換させておいて」
 篤と共にバス停へと辿り着いた紗良は、「そうですね」と微笑みながら目元に浮かぶ涙を拭う。篤にしてみればその涙の意味が分からなかったが、紗良の容姿と乙女の涙の相乗効果でドギマギしてしまったのは否定できない。
 やがてバスが来て、篤はゆっくりとそれに乗り込んでいく。
「じゃあ、ありがとの、嬢ちゃん。お陰で助かったわ」
「いえいえ。ご縁があれば、またお会いしましょう」
「おう。またここに来た時は、連絡するわ」
 扉が閉じ、やがてバスは発車する。
 名残惜しそうに手を振る紗良を窓から見ながら、篤は名古屋駅からどんどん遠ざかっていく。短くも濃い時間を過ごした、名古屋駅から。
 ……はっはっは。
 変わった娘もおるもんじゃ。
 バスの座席で一人、篤はそんなことを考える。土産話には事欠かんな。迷子に、悪魔に、紗良ちゃんときた。この話をしたら、向こうも少しは気晴らしになるん違うか。
 そうして篤は当初の目的地へと向かう。彼を乗せたバスは、高いビル群の合間を抜けて、故郷では考えられないほど広い道路を飛ばしていく。
 しかし、その前に彼は気付くべきだったろう。
 自分もバス停の場所が良く分かっていなかったことに加え、案内してくれた少女、半谷紗良が並々ならぬ方向音痴であったことに。それでなくとも彼女の実名を聞いていた篤は、果たして外国人が正しいバス停に案内してくれたのだろうかと疑ってみるべきだった。
 ただし人を疑うという行為は実直な人柄の篤にとって恥ずべきことであったし、何より力強く案内してくれた少女が、まさかバス停を間違えたなどとは思わなかった。なのでこの結果は必然である――偶然の出会いがもたらした、必然なのである。
「意外と都会も悪くないわ……」
 背もたれに頭をあずけながら、彼はどこか満足げに呟く。
 そうして勢力篤は、目的地とはまるで逆方向へと運ばれていったのだった。


 意味不明な激闘を終えた後、「コーヒー一杯250円!」を振り回していた平塚有佳子は、当然のことながら近くの交番でご厄介になっていた。
 しかし、そこは花の女子高生。「か弱い」乙女であるというアドバンテージと自らの舌先三寸によって、数十分の事情聴取を受けた後に「大変だったね」と釈放されることとなった。
「なんなんだよ、今日は……」
 そう愚痴を零しながら、有佳子は交番を後にする。
 と、そこで待っていたのは、柔らかく笑っている半谷紗良だった。有佳子は紗良の姿を認めると目を丸くし、やがて苦笑いを浮かべながら近づいていく。
「遅いですよ、有佳子ちゃん」
「悪い。でもそれ、どっちかっていうとわたしの台詞」
 ようやく合流を果たした二人は、少し離れた中央線のホームへと歩いていく。
 そこに辿り着くまでの間、有佳子は紗良が遅れた理由や例のコスプレ女のことについて訊ねたが、当の紗良には自分が何を間違えていたのか自覚がないため、要領を得ない会話になる。コスプレ女に関しては「すごい格好でしたね」という返答を寄越されるばかりである。
「まぁ、無事で良かったよ。でもどうしてラインに返信くれなかったの?」
「え」
 その言葉によってようやく、紗良は自分のことを心配したラインが携帯に十件近く送られていることを確認する。「確認し忘れてました」と申し訳なさそうに言う紗良の頭を、有佳子は溜息と共に小突いた。
 そうこうしている内に、中央線の改札である。
「でも、楽しみですね、旅行」
「あぁ。なんか色々あったけど、これも思い出かな」
 そして二人は改札をくぐると、電車が来る予定のホームへと降り立つ。
 そこで待っていたのは停止している電車と、「Keep Out」の文字である。
「……は?」
 有佳子と紗良は目を丸くする。――人身事故?
 でもそれにしてはブルーシートが張られておらず、駅員たちの動きも妙に殺気立っている。どちらかといえば今まさに闘いが繰り広げられているような、そんな気配だった。
「あ、有佳子ちゃん。あれ見てください!」
 紗良の指し示した方向に有佳子が目をやると、駅員たちが線路上でさすまたを持ち、何か黒くて長い生物と格闘している光景が視界に入る。
『――お、お客様にお伝え申し上げます。只今、JR中央線の線路上にて大量の蛇が出現しております。蛇です、蛇なのです。駆除が終わるまで中央線は運休とさせていただきます。危険ですので、ホームには近づかないでください――』
 この時点での彼女たちには、知る由もない。
 その蛇というのが、ユーリカがこの場所で呼び出した魔界の蛇であるという事実や、後に到着する専門家により生態不明の新種の蛇と判断されることで、今日の中央線は動き出す気配すら見せないことを。
 だから彼女たちは呆然とホームに立ち尽くし、結局旅行を延期せざるを得ないのであった。これもまた、必然である――不憫な偶然が生んだ、不運な必然なのである。


「何だったんだ、あれは……」
 ユーリカから逃げてきた浅井遼一は、駅の外を息を切らしながらも歩いていた。
 突然少女に追いかけられ、蛇をけしかけられ、散々な一日である。
 先程まで何をしようとしていたかなどすっかり忘れてしまった彼は、疲れた顔でバスに乗り込む。ちなみにこのバスこそ、本来は勢力篤が乗るべきであったバスだが、そんなことを遼一が知るはずもない。そもそも遼一は篤の顔さえ見ていなかった。
「はぁ……」
 バスの二人席に一人で腰掛けると、どっと疲労が押し寄せてくるのを感じる。
 全く、とんでもない経験だった。
 もっとも、その「とんでもない経験」によって彼は命を救われたのかもしれなかったが、それもまた偶然が引き起こした必然である。ユーリカが話しかけなければどのみち中央線は止まっていたのかもしれないし、篤が彼女の気を逸らさなければ遼一はこのバスに乗ってはいない。
 俺、どうすればいいんだろうな。
 遼一はぼんやりと考える。……就活は上手く行かないし、バイトは辛いし、彼女には振られるし。ただ、命を狙われた(と自分では思っている)経験をした今となっては、線路に飛び込もうなどとしていた自分の行動が、どうしようもなく愚かしいもののように思えてきた。
 失いそうになって初めて気付くものがある。だとすればそれを気づかせてくれたあの悪魔の姿をした女の子は、もしかしたら。
「……女神だったのかもな」
 少なくとも、自分にとっての。
 いや、できれば二度と会いたくはないけれど。
 とりあえず、明日からはもう一度頑張ろう。遼一はそんなことを思う。生きててつらいことばかりの人生だけれど、それでも死にたくない、とは思った。生きてこそ、なんて安い言葉を言うつもりはないけれど、まだ生きたい、とは思った。
 小さく笑みを浮かべる。
 その時、ふと足が熱を帯び始めた。
 最初は走り続けていたせいだと思っていた遼一だったが、熱い。明らかに熱い。あの時、あの蛇に噛まれてはいないよな? 体表に毒でもあったのか? でもズボン越しだったし。
 そこでようやく足下を見やり、蛇に巻き付かれた箇所が鈍く発光していることに気がつく。
 …………。
 何の冗談だよ?
 笑みを浮かべていた遼一は、あまりにも不可解な状況に一転してその笑みを引き攣らせる。そして次の瞬間、自分の隣に、あの美少女が音もなく出現した。
「――ふえぇ……おうちに帰れませんでしたあ……。やっぱり精気をもらわないと帰っちゃいけないみたいですう……」
 そんなことを言っている。
 仰天した遼一は悲鳴を上げることもできず、ただ口をぱくぱくと動かす。そんな彼の様子に気がついたのか、ユーリカは恥ずかしそうに顔を伏せながら隣で呟く。
「あの蛇ちゃん、巻き付けばマーキングできるんですよ。その魔力を追っていけば、あなたを見つけるなんてわけもないことなのです」
「な、なんで、また」
「……謝りに来たんです」
 そう言ってユーリカは、今にも泣きそうな顔で遼一に頭を下げる。
「やっぱり、無理矢理はだめなんです。でもあたし、ちょっと正気を失ってて……だからあんなに追いかけ回したりしちゃいました。ごめんなさい、なのです」
「え? は?」
 神妙に紡がれるその言葉に、嘘は含まれていないように感じられた。そしてユーリカは「でも!」とぼろぼろ泣きながら顔を上げ、真正面から遼一の顔を見つめる。
「やっぱり、死んだらだめなのです」
「…………」
「死ぬくらいならあたしに精気を恵んで欲しいですし、それでなくても生きてください、なのです」
 ユーリカは小さな声で「あたしたちの食料が減るから」と続けたが、遼一の頭にはその前の言葉が響いていて聞き取ることができなかった。彼はただただ絶句している。本当にこの子は俺の命を救うために戻って来てくれたのか、と。
「それだけ、ですぅ」
 ユーリカは真っ赤にした顔を遼一から背けると、出現した時と同様に音もなく消えていこうとしていく。
 待って。
 そう口に出そうとした遼一だったが声は出ず、伸ばした手はユーリカに触れることなく虚しく宙を掴んだ。しばらくそのままの体勢で呆然としていた遼一は、はっと思い立って足下を見つめる。もう光は消え失せていた。
 本当に、なんだったんだ。
 遼一は座席に全体重を投げ出すと、現実感もそこそこに先程のユーリカの言葉を反芻する。生きてください。それは確かに安っぽい文句ではあったが、遼一が他人に対して求めていた言葉でもあった。
「……もうちょっと」
 生きてみよう。深刻な青年はそう考える。
 もしかすると、生きてさえいればまた彼女に会えるのかもしれない。もう一度話ができるのかもしれない――この先何が起こるかなど、誰にも分からない。神様にも。
 だから、生きてみよう。
 遼一の胸は甘く波打った。

 ――緩やかなカーブを描き、バスは駅から遠ざかっていく。
瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o

2024年08月11日 19時18分06秒 公開
■この作品の著作権は 瀬海(せうみ) G3b0eLLP4o さんにあります。無断転載は禁止です。

■作者からのメッセージ
◆使用したお題:

    ゲーム:×
    神  :○
    ひよこ:×

◆キャッチコピー:

 この先何が起こるかなど、誰にも分からない。神様にも。

◆作者コメント:

 修学旅行の際、金時計と銀時計を間違えて置いてかれそうになりました。強く生きます。

 短いですが、企画が盛り上がることを祈って。

2024年08月25日 19時54分24秒
作者レス
2024年08月24日 23時24分58秒
+30点
2024年08月24日 18時52分18秒
+20点
2024年08月23日 22時36分34秒
+20点
2024年08月22日 22時27分17秒
+20点
2024年08月19日 22時00分07秒
+30点
2024年08月19日 00時59分37秒
+10点
Re: 2024年09月08日 19時18分38秒
2024年08月17日 21時31分08秒
+20点
Re: 2024年09月08日 19時04分43秒
2024年08月13日 09時29分12秒
+30点
Re: 2024年09月08日 15時22分01秒
合計 8人 180点

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