失われた資料と記憶に残る感情 |
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「あーっ、見つからないー! 資料どこー!?」 年々日差しの強さが増していく都内の七月上旬。 図書室のドアに手を掛けた俺こと、高校二年生の江西淳(えにし じゅん)は悲鳴のような声に渋い顔で動きを止めた。 じんわりと額に汗が滲み、周囲を見渡すと他の文芸部員達が、「お前が入れ。お前担当だ」という視線を向けて来る。 これは逃げられないな……と俺は、がっくりと肩を落とし、呟いた。 「暑さにやられただけなら、いっそ救いなんだけどなぁ……」 しかし、そうはいかないのが世の中というもので。 俺は乱暴に頭を掻きながら、図書室のドアを開けた。 「稲坂(いなさか)ー? 提出用の課題でも無くしたかー?」 俺がそう問いかけると図書室の机に頭から突っ伏し、触らぬ神に祟りなし状態になっていた少女こと、同級生の稲坂香織(いなさか かおり)が顔を上げた。 ブレザー姿で身長も標準だが腰まで伸びた髪が印象的で、ちゃんと手入れされた絹のような部分と、元気かつ雑に毛先が跳ねている部分がアンバランスな少女だ。 「んー? 来てるのー、淳?」 そう問いかけながら上げられた顔には人懐っこい幼さと、本に没頭したら徹夜も辞さなくなる頑固さが滲んでいる。 前者で無知な男子を魅了し、後者で半日持たずに失望されるを繰り返す変人だ。 俺は彼女の左右でうず高く積まれた本を片付けながら、稲坂を発掘する。 「ああ。今日はこういう巡りだったんだと諦めたとこ」 何とか本人を見つけ出し、本の砦の中で唸っていた彼女へ声をかけた。 すると稲坂は嬉しそうに目を細めた後、腕を組んで何度か頷いて見せる。 「うんうん、淳の決断の速さ、わたし好きだよー。幸運な運命も悲惨な運命も受け入れてからがドラマだよね」 「安い三文芝居の見過ぎだ。……で、何がないって? みんなびっくりしてるだろ」 俺がそう問うと稲坂は、「ちょっと待ってねー。課題を書いたメモはすぐそこにー」と唱え、たっぷり十五分ほど時間を置いた後、ペラいメモを突き付けて来る。 隣の椅子に腰を下ろし、視線を向けた先には、 『源義経を見逃したアイツの生涯を追え! 武運長久の夢の果てとは!?』 と書いてあり、俺の表情が激しく曇り、背中越しに覗いていた文芸部員達が蜘蛛の子を散らすかのように逃げていく。 ツッコミどころしかない文面だが、わらにも縋る思いで俺は問いを投げかけた。 「えーっと……『ぶうんちょうきゅう』ってのは……?」 「ん? 書いたままだよ。武人としての命運が長く続くこと。義経は短かったねー」 「……政争の果てに自刃だっけ? ちょい、うろ覚えだけど」 「うん、それで合ってるよ。享年31歳、骨肉の争いって怖いねえ」 「妙なところで真っ当な言葉を使うやつだな……」 俺はため息交じりに呟きながら、頭を掻く。 まあ、その意味で言うなら源義経……いわゆる『牛若丸』の生涯は確かに短い。 そっちの方の資料は調べればいくらでも出て来るだろうが……? 「見逃したアイツってのは?」 その問いに稲坂は得意げに笑い、人差し指と頭頂の髪先を逆立てて説明を始める。 「加賀の守護をしていた富樫泰家(とがし やすいえ)って人だよ。聞いたことない?」 「……い、いや、知らない」 口調にくやしさが滲んだのがお気に召したらしく、稲坂はよりご機嫌な表情を見せた後、話を続けた。 「身をやつした義経は兄の頼朝に追われて安宅関(あたかのせき)って関所に逃げ込むんだ。でも、富樫さんは義経本人だと気付いていながら見逃しちゃうの」 「え、なんで。守護じゃないのか?」 「そうなんだけどね。武蔵坊弁慶の読み上げた武士の情け、『勧進帳』に感心しちゃったんだって」 「しちゃったんだって……って、大丈夫なのか、それ?」 彼女は少し行儀悪く椅子の上で膝を抱き、答えた。 「大丈夫じゃなかったよ。頼朝の怒りを勝って、守護職ははく奪されたし。で、その後、義経と再会したりしつつ天寿を全う……って感じかな」 「へ、へぇ……初めて聞いた話だな。けど、それはそれとして資料が足りないってどういう話だ? 現に」 俺はスマートフォンの検索結果を稲坂に見せながら、眉根を寄せる。 「調べれば大体の経歴は出て来たぞ? 資料が欲しいのは、分からないことがあるからじゃないのか?」 若干、質問攻めのようになってしまったが、彼女は気を悪くした様子もなく、再び机へ突っ伏した。 癖のある長い髪が無造作に投げ出され、ちょっと異様な状況になる。 「んー、そうなんだけど。でも、大体は義経よりの歴史ばっかりでさ。富樫さんの心情とか残ってないから」 「……あー、まあ、それは、そうだけど」 改めて検索結果を見てもやはり、『牛若丸』こと源義経の名は強く、富樫泰家が彼をどんな心境で見送り、再会して、その自刃を知ったのか? の記録はない。 俺は軽く下唇を噛んで、腕を組んだ。 「なるほど、その謎が『武運長久の夢の果て』……か?」 その答えに満足したのか稲坂は顔を横に向け、「にへー」とだらしなく笑う。 「そのとーりー! 歴史の闇って一言で片付けるにはもったいない題材じゃん? もうちょっと掘れると思うんだ」 「ま、まあ、そんな気はするが……。でも掘るってどうやって? ネットで調べて出て来ないなら、大分厳しいと思うんだが」 そして渋い表情になった俺に対し、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、 「そんなの決まってるじゃん。見に行こうよ、『兵(つわもの)たちの夢の跡』を!」 と自信満々に答えたのだった。 「峠の標高は260メートル。逃げた先も崖だから、角に松明を付けた牛の大群に襲われたらひとたまりもないな……」 さっきの会話から数時間後。 夕暮れにさしかかった、とある山の峠で俺は山頂を見上げながら呟いた。 歴史国道として整備され、今は人気ハイキングコースとなっている峠を歩きながら、隣の稲坂も頷いて見せる。 「有名な、『俱利伽羅(くりから)峠の戦い』だね。七万の平氏軍のほとんどがここで失われたって話。流石に、ゾッとするね?」 「そ、そうだな。具体的に数字を言われると更に背筋が寒くなる」 俺は背中に寒気を覚えながら、改めて周囲を見渡し、稲坂との会話とここに至る経緯を思う。 『見に行こうよ、兵たちの夢の跡を!』 急に何を言い出すのかと思ったのもつかの間、彼女は図書室を飛び出し、スマートフォンで新幹線の予約をしながら廊下を突っ走った。 驚く生徒、注意の声を上げる教師、目を白黒させる俺を尻目に環状線から新幹線乗り場、そして地元のローカル線とバスを乗り継ぎ、今に至る。 正直、この無鉄砲な行動力はどこから来るのか……? と呆れる他ない。 「『夢の跡』なんて言うから、壮大なイメージ持っちゃったけど意外と来れるもんだなあ……」 そうして、思わず呟いた俺へ稲坂は峠の上へ視線を投げながら、「あの辺りかな? あの辺りから牛を放ったのかな? 角度あるねー、殺意高いねー」などとテンション高く物騒なことを言っている。 記録では源氏軍が牛500頭を平氏軍70000へ峠の上から突撃させると同時に攻めかかり、逃げた兵もその先の崖から転落していったそうだ。 当然、谷底には多くの死体が積み上がり、今は『地獄谷』と呼ばれているらしい。 俺は何とも言えない胸の重さを感じながら、頭を掻いた。 「何よりびっくりなのは牛を放って夜襲をかけたのが、富樫泰家ってことだよな。義経を見逃した逸話だけ聞いてたらそんなイメージ湧かないけど……」 「そうだねえ。武士の情に篤い、温厚な人物のように思わせて……というか。まあ、時系列としては戦が先で、義経のエピソードは後なんだけど」 「正直、前後の温度差で風邪ひきそうだ。まさに、『兵たちの夢の跡』だな。でも、だからこそ――」 俺は話しながらもう一度、周りの風景を見やる。 そんな苛烈な出来事があったというのに、山林の緑は豊かで瑞々しく、草と土の匂いがもたらすのは痛みではなく静けさだ。 勝どきを上げた源氏の栄光も、谷底へ消えた平氏の敗北も、時が全てを忘却の彼方へ押し流してしまった。 そして今、残っているのは山河の緑と青、そして澄んだ空気だけ。 「なんでかな。義経を見逃した富樫泰家の心情の答えが、ここにあるような気がする……」 その発言に稲坂は少し悪戯っぽい口調で問う。 「へえ、その心は?」 「……人の命って、小さいんだなって。困ってる若者を見逃すくらい、言い訳が立つならしたくもなるだろ」 俺の返答を聞いた彼女は一瞬目を丸くさせた後、なぜか嬉しそうにクスクスと笑う。 夕闇に少し冷めた風が吹き、その癖のある髪がふわりと揺れる。 草原のそよぎの中、なぜか彼女の髪の梳かれる音が響いた気がした。 「あはは、やっぱりわたし、淳の決断の早いとこ、好き。全体を見渡せるのに結局、自分の感情のためにしか生きられないんだ」 「な、なんだそりゃ、普通のことだろ。大体、全体を見てからだと、むしろ遅いんじゃないか?」 「……そんなこと、ないよ。命のやり取りを、即断できる方がわたしはやだ」 「?」 小さく密やかな声で稲坂は謎めいたことを言うが、意味の分からない俺は首を傾げるしかない。 微妙な間が流れ、気まずさに耐え切れなくなった俺は口を開く。 「それに、その……あれだ」 「ん?」 「確かに、こういう感傷は資料に残らない。だから後に生まれた俺達は勝手な想像をして、自分の信じたい道を選ぶしかないんだ」 ひどく身勝手な理屈だが、それこそが資料に残らなくても記憶には残る感情なんだろう。 その言葉がどう聞こえたのか稲坂は驚いた表情を見せた後、もう一度静かで穏やかな微笑みを俺へ向けた。 じゃれるような視線のくすぐったさに耐え切れなくなった俺は、そっぽを向きながら彼女に問う。 「そんなの、俺が言うまでもないだろ。稲坂なら分かってると思ってた」 「わたしが? なんで?」 「知りたい! って気持ち一つで新幹線を乗り継いで、ここまで来たから。俺から見れば立派な才能だ」 図書室にこもり、課題を見つけ出して、こんなところまで来ることができる。 それは間違いなく才能と呼んでいいものだ。 「才能……才能かぁ」 だが稲坂は困ったように笑い、小さく俯くだけだ。 「そんな立派なものじゃないよ。わたしはただ相手を知りたいと願っている間なら、普段の自分を忘れて、本当の自分自身でいられる気がするからそうしているだけ」 「え?」 よく分からない言い回しに、俺は眉根を寄せてしまう。 「自分を忘れられるのに、自分自身でいられるって矛盾してないか?」 「でも今回もそうだったよ? ここまで来て、淳と話していた時のわたしは自由だったから」 「そう……なのか?」 「うん、そしてこの峠で資料にない本物の風景を見て、答えを得た。……きっと明日からまた勝手な想像をして、図書室にこもるんだと思うけど」 俺は赤ずんだ夕闇とくすんだ夜闇が描くグラデーションに視線を向けながら、答える。 俯く稲坂の姿を見て、『彼女の無鉄砲な行動力』の正体を掴めた気がしたから。 「……それもいいんじゃないか? 稲坂は失われた資料を探して頭を抱えてる瞬間が、一番自由なんだから」 そして、きっとそこから、あの爆発的な行動力が生まれるんだろう。 その言葉に彼女は驚いた表情でこちらを見上げた後、瞳を閉じて密やかに、「……うん」と頷くだけだ。 周囲に人影はなく、煌めき始めた星々が人間の時間の終わりを告げている。 やがて稲坂はトーンの落ちた声で、問う。 「あ、あはは、やっかいだなーって思うんだけどね? 自分でも。ほら、現存してない資料なんていくらでもあるし?」 「いや、それこそそんなに気にしなくてもいいんじゃないか?」 「え?」 頭に疑問符を浮かべる彼女へ、俺は何を今さらと得意げに笑って答えた。 「さっき言った通りだ。俺達は結局、勝手な想像をして、自分の好きな道を選ぶことしかできない。けど、それ以上の自由なんて他にないだろ?」 そう言い切った俺へ稲坂は、「ぷっ」と小さく吹き出して、笑った。 「あはは、やっぱりわたし淳の決断の速さ、好き。……これからも、迷惑かけてもいいなら助かるんだけど」 不意に立ち止まり、何かを願う真っ直ぐな視線を彼女は向けて来る。 癖のある髪が、ぴょんと跳ねて、それが稲坂自身の感情の発露に見えた。 俺は頭を掻きそうになった手を下ろし、彼女の目を見て答える。 「それくらい、いつものことだろ。決断の速さ……とやらが俺にあったとしても、稲坂のような行動力はないから」 すると彼女は、ぱっと表情を輝かせて歩み寄り、再び隣に立つ。 「なるほど、お互いにないものを補い合うってこと?」 「富樫泰家と源義経みたいにな。……きっと俺達の進む先にも、『兵たちの夢の跡』はあるはずだから」 「あはは。ならその結果は、資料に残らないね?」 どういうわけか彼女はとても嬉しそうで、楽しそうだ。 歩き続け、振り返っても何も残らないという、どうしようもない話をしているはずなんだが。 まあでも、その気持ちは分からないでもないから、俺も頷く。 「それもいいだろ。記憶に残る感情は、探したやつだけが見付けられる。それを求めて生きるのが」 俺は言いながら、かつて大きな戦と栄光と敗北のあった峠へ振り返った。 「探求ってもんだ。いつも形には残らない」 「……うん、そうだね。だから止まることができないんだ」 こうして、『武運長久の夢の果て』を探した俺達の旅は、密やかに幕を下ろす。 空を見上げればとっくに日は落ち、いくつもの綺羅星が瞬いていた。 夜が明ければ、彼女に振り回される毎日が再び始まる。 同じようで二度とない、かけがえのない日々が続いて行くのだ。 「さて話は終わったし、最終の新幹線の時間まで美味いもんでも探すか!」 「おー、日本海の海産はいいらしいよー? どこ行ってみようかー?」 そんなことを言い合いながら、俺達は一つの夢の果ての跡地に背を向ける。 資料にない感情を得た足取りは軽く、心も晴れやかだ。 そしてここから新しい自由と探求の旅が始まることを願いつつ、俺達は自分自身の夢の果てへ向かい、最初の一歩を踏み出したのだった。 |
サイド 2024年08月10日 21時35分33秒 公開 ■この作品の著作権は サイド さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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Re: | 2024年08月27日 20時24分15秒 | |||
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Re: | 2024年08月27日 20時17分25秒 | |||
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