コカトリス |
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1 〇 自動車の窓を流れる景色は山林の闇色を増していた。街灯一つない山道の不気味さは、ここが文明から隔絶された僻地であることを思い知らせる。 生えているのはクヌギだろうかコナラだろうか。ハンドルを握る鳥飼は、幼い頃田舎の山奥で捕ったカブトムシのことを思い出していた。 父の拳ほどもある立派な個体で、祖母の家に帰省している間中、鳥飼はそいつを酷く可愛がっていたものだった。しかしある日朝起きた鳥飼が虫篭を見ると、カブトムシは体の中央から真っ二つになって死んでいた。 カブトムシの良いところは、夏が終われば死んでくれるところだ。縁日の金魚、水路から網で掬った緑亀、街で見かけて心奪われた野良の雑種犬。全て数か月もしない内に鳥飼は飽きてしまった。しかし厳格な母の前では飼い飽きた生き物をそこらに放棄することは許されず、鳥飼は最早面白いとも思わない生き物の世話を続けさせられた。我慢の限界を迎えた鳥飼は、最終的に、金魚や亀の水槽に洗剤を混ぜて病死と言い張り、雑種犬は車に轢かせて事故と言い張る羽目になったのだ。 「何を考えているの?」 助手席から成美が話しかけて来た。大学の同級生で、鳥飼の今の恋人だった。 「昔田舎で捕ったカブトムシのことさ」 「ここが山の中だから?」 「ああ。知ってるか? カブトムシは死ぬとアタマと胴体が泣き別れになるんだぜ。上半身と下半身を繋いでいるゼラチン質が崩壊してしまうんだ」 成美とは付き合って約一年になる。大学のオカルトサークルで知り合ったのだが、その白い肌と涼し気な目元と、モデルのようにしなやかな身体つきと、ニットやストレッチの服を着ると姿を現す形の良い乳房が気に入って、鳥飼の方から声を掛けたのだ。 夏休み初日の今夜、二人は兼ねてから興味のあった、山奥の廃村へと出かけていた。 「そろそろかしら?」 「そろそろだ。なんだっけ? ミドリカワ村?」 「ええ。蛇を表す巳に、鳥類の鳥に、川と書いて巳鳥川村よ。間違っても数学の緑川教授と同じ字ではないわ」 戦時中に鉱山から大量の毒ガスが噴き出して、村中の人が被害にあってたくさんの死者を出したという、曰く付きの土地だった。サークルの皆で行こうという話もあったのだが、そんなわくわくするような廃村なら、あんなダルい連中と一緒でなく二人きりで楽しもうと、鳥飼が説得して押し切ったのだ。 鳥飼は自動車を走らせ漆黒の山道を抜ける。村へ繋がる橋を渡ると、カーナビが『目的地に到着しました』の音声を発した。ここが巳鳥川村だ。 周囲を山に囲まれているというのに、異様な程樹木のない空間が広がっている。そこにいくつかの民家、というより崩れかけの木の塊が点在していた。百年近い年月によってもう少し草木が生い茂っていると予想したが、実際には同じ種類の背の低い草が茂っているだけで、自動車で走行するのに支障は感じられない。 「降りましょう」 成美の声に従って鳥飼は車を停め、二人は自動車から降りた。 懐中電灯の明かりが街灯一つない巳鳥川村の視界を青白く照らした。足元に生える草は見たことのない種類で、いっそ黒に近いと言えそうな深緑色と、針のように固く尖った葉を持っていた。背は鳥飼の膝に届かない程だが、避けて通らないと半ズボンの足元を引っ搔いて、それなりの痛みを齎しそうだ。 「早く行きましょう」 成美は焦れた様子だった。 「ちょっと待ってくれ。その前にやることがあるんだ。ちょっとこっちに来てくれないか?」 「何をするの?」 「来てくれてからの方が説明しやすいんだ。さあ、こっちへ」 無警戒に成美は鳥飼の方へと歩み寄った。鳥飼は懐中電灯を放り出すと、成美に飛び掛かってその細い首を掴んだ。 首を締めながら、鳥飼は成美をその場に押し倒した。乾いた土を背に暴れる成美だったが、腕力の差は歴然としている。このまま何の支障もなく絞め殺してしまえそうだ。 窒息しながら成美はその目で驚愕と疑問を訴えていた。震える唇が不規則に動く。その口元が『どうして?』と尋ねているのに気が付いて、鳥飼は頬が裂けるような笑みと共にこう返答した。 「おまえはカブトムシじゃない」 妊娠を告げられたのが一週間前のことだった。酔った勢いで避妊をしなかったことが災いした。それとなく堕胎を勧める鳥飼だったが、成美は頑として首を縦に振らなかった。極めて面倒な事態が進行しているはずだというのに、成美の振る舞いは、鳥飼の子を宿したことに対する歓喜に彩られてすらいるようだった。 育てられるのか、大学はどうするのか、将来の見通しは。言いたいことは山ほどあった。出産を決意するという成美に対し、鳥飼が取るべき行動は一つしかないように思われた。 「おまえのことも、おまえの腹の中の子供のことも、俺には面倒が看きれないんだよ。カブトムシみたいに首が捥げて死んでくれるんじゃないんだったら、こっちから殺すしかないもんな」 絶望した表情の成美の首に、鳥飼は容赦なく力を加えて行く。 徐々に抵抗する力も弱まって行き、やがて最後の一息が成美の口から漏れ出したかと思ったら、目の中の光が完全に掻き消えた。転がった二つの懐中電灯に見守られながら、鳥飼は恐る恐る掌を首から離した。 こと切れているように思われた。鳥飼は大きく息を吐いた。達成感と安堵が全身を包む。面倒事が首尾良く片付いて行く爽快感が、鳥飼の胸の内に広がって行った。 完全犯罪が成立するはずだった。この廃村に来ること自体、ほんの数時間前に鳥飼が言葉巧みに誘導して成立させたことで、他に知る者などいないはずだった。死体の始末も、この廃村のどこかに隠しておけば、いくらでも時間を掛けて完璧に始末する方法はいくらでもある。 ほくそ笑んで鳥飼は顔を上げた。 転がった懐中電灯の先に、ワンピース状の白い服を着た少女が立っていた。 思わず目を疑う。こんなところに人がいるはずがなかった。そして少女は目にしたことがない程整った顔立ちの持ち主だった。小さな鼻翼の高い鼻、薄いが膨らみのある唇、黒く長い髪、信じられない程大きな瞳。月明かりを背にした少女の美しさは、いっそ物の怪や幽霊の類と言われた方が信じられそうな程だった。 「おまえ……いったい」 中学生か高校生くらいに見えた。少女はやや怯えた様子で、俯きがちの視線をちらりちらりとこちらに向けている。鳥飼は思わず立ち上がり、少女の方ににじり寄り、その腕を掴もうと手を伸ばした。 するりと鳥飼の手が空を切った。幻でも掴もうとしたのかと一瞬本気で思いかけたが、実際には掴もうとした腕が少女になかっただけだった。両腕ともだ。それは本来なら一目見て分かる程の特徴のはずだったが、その顔立ちの可憐さにたじろぐばかり、鳥飼はそのことに気付けていなかった。 改めて少女の肩を掴む。少女は恐る恐ると言った様子で鳥飼の方を見る。怯えた様子で視線を背けてはいるが、逃げる様子はない。 「誰と来たんだ?」 「どこかから来た訳ではありません」 「何を言っている?」 少女は俯いたまま何も言わない。 「おまえのような子供が一人で来られる訳ないだろう? 増してや、おまえは両手がないんだ。到底免許が取れる歳には見えないが、そもそも車の運転が出来ないはずだ。誰と何人一緒に来たのかを言え。そいつらはどこにいる?」 「あたしは元々ここに住んでいます」 「嘘を吐くな」 「嘘ではありません」 「嘘を吐くなと言っている!」 鳥飼は胸倉を掴んで声を荒げた。少女はたちまち目に涙を貯めて肩を震わせ始めた。 気が弱そうだ。この分だとテキトウに痛めつければ吐くだろう。鳥飼はその場に少女を押し倒すと、握った拳で顔を何発か、続けざまに殴った。少女は物も言わずに、ただ顔を顰めて苦痛を耐えるだけだった。 鳥飼はしばらくの間、それを続けた。腫れあがった顔一杯で泣きじゃくりながら、少女は少々のうめき声をあげるだけで、悲鳴をあげたり逃げ出そうと暴れたりすることもない。 「誰と一緒に来たんだ? 言え!」 少女は嗚咽を漏らしているだけで、要求に答えることはなかった。 その時だった。 鳥飼は自分の全身を真っ黒な霧のようなものが取り巻いているのに気が付いた。 見ればそれらは少女の全身から発されている。視界を覆い尽くす黒い霧の臭気を微かに感じ取った途端、鼻先から全身を蹂躙するような激痛に襲われ、鳥飼はたちまち意識を失った。 〇 ……オイ、ナンダ、コイツ、ニンゲンノ、オス、ジャナイカ。 声がする。 ……ナンデ、オマエ、オスッテ、ワカルンダ? ……バカ、ダナ。カミガ、ミジカクテ、ゼンタイガ、ゴツゴツ、シテルダロ。 声がする。 ……ホントウダ。メスノ、ネエチャンハ、カミガ、ナガクテ、ヤワッコイ、モンナ。 ……デモ、ナンデ、ニンゲンガ、イルンダ? ……ネエチャンガ、ツレテ、キタンダ。マタ、ヘンナコト、ハジメルンジャ、ナイカ? ……コンド、ナンカ、アッタラ、メダマヲ、ホジクッテ、ヤル。 飛び起きた。 暗闇の中にいた。鳥飼はスマートホンのライトを点けた。 古びた小屋の中だった。巳鳥川村に無数に存在する廃屋の内の一つなのだろうが、それにしては床はほとんど砂埃めいていなかったし、天井に蜘蛛の巣が張っていたりもしなかった。しかし壁の窓ガラスは砕け散っていて、月明かりと共に外気が入り込んでいた。 地獄から蘇ったような錯覚があった。少女の身体から放たれた猛毒の霧が、確かに自分を死の淵へと追いやっていたのが鳥飼には分かった。単に意識を失っていたのではなく、一度は命を失って、そこから何か超常的な力で生還したようにも感じられる。だとすればどうして自分の命が救われたのか、鳥飼には不思議でならなかった。 その時、鳥飼の手が何か柔らかく、毛を纏ったものに触れた。 手元を見るとヒヨコのような生き物が鳥飼の周りを無数に蠢いていた。ヒヨコのようなと言っても、実際には一匹一匹が鳥飼のアタマ程の大きさがあり、全体は黒っぽい色をしている。未完成の翼は爬虫類の皮膚のような素材で出来ていて、漆のような光沢があった。目が異様な程に大きく、血走った三白眼は化け物染みているとしか言えず、長い嘴は鳥飼の中指程の大きさがあった。翼を除く全体には柔らかな産毛のような物が生えていて、その点に関しては手触りを含めて、ヒヨコらしきその生き物のヒヨコらしき点と言えなくもない。 小屋の中には無数の生き物たちがあたりに散らばっていて、その総数は三十にも四十にも見えた。そしてそこかしろから囁くような声が響いて来る。 ……オキタ、オキタ! ……オマエ、クッテ、ミロヨ。 ……ヤダヨ。マズイシ、ソレニ、オレハ、ネエチャン、ミタイニ、デカクテ、ミニククハ、ナリタクナイゼ。 気分が悪くなって鳥飼は立ち上がった。部屋の中央には大きな机が設えられているのが見える。鳥飼が近づくとそこには薄橙色の藁が敷き詰められていて、白い卵が無数に置かれていた。その卵には異常な点はない。スーパーでも売られている鶏卵そのものだった。 まじまじと見詰める鳥飼の眼前に、突如として藁の中から一匹のヒキガエルが飛び跳ねて来た。 「うわっ」 鳥飼が身を引いたことで接触は免れた。ヒキガエルは再び藁の中へと着地すると、近くにあった鶏卵に近付き、でっぷりとした腹をこすりつけるようにして覆いかぶさった。鶏卵を温める雌鶏の如き仕草に思えた。不可解と言うよりいっそおぞましい光景だ。 足音が聞こえた。 ぴたり、ぴたりと、その足音は鳥飼のいる部屋に一歩ずつ近付いて来る。やがてそれが部屋の扉の前で立ち止まると、建付けの悪そうな音が響いて、先ほど鳥飼に毒の霧を放った両腕のない少女が部屋に入って来た。 「……おまえは」 「起きられましたか」 どういう訳か、その顔からは鳥飼が殴って出来た痣が消え失せていた。両腕のない少女は、今にも剥がれそうな壊れかけの扉を肩で押し開くと、控えめな口調で鳥飼に言った。 「この先すぐ玄関です。どうぞ。その、お帰り下さい」 さっさと帰ってしまっても良かった。それが正解であるようにも思えた。少なくとも、明らかに超常的な存在である少女やこの小屋の生き物たちについて、好奇心で深入りするべきではなさそうだ。しかし鳥飼はこの少女に成美を殺すところを見られているのが気になった。この少女がそれを告発するような世俗性を持った存在には思えなかったが、だからこそ立ち去る前にそこに確信を持っておきたかった。 「待てよ。聞きたいことがある。君は何者なんだ?」 「神様です」 鳥飼は思わず面食らった。 「なんだそれ? 本当に言っているのか?」 「すいません。実は良く分かりません」 「どういうことだ?」 「昔、一方的にそう呼ばれてただけで、あたしも神様良く分かってなくて」 「神様じゃないなら、君は何? 少なくとも、人間じゃないよね?」 「人間じゃないです」 「じゃあ何なの?」 「鳥です」 思わず首を捻った。鳥飼を昏倒させる毒霧を出していたのだから、物の怪や悪魔か、せめて神を名乗るならまだ理解できる。しかし鳥と言われても釈然としない。両腕がないとは言え少女の姿は人間そのもので、しかもめっぽう美しい。 「鳥なの?」 「はい」 「何の鳥?」 「ニワトリです」 「ニワトリには見えないけど」 「化けてます。この村で出会った中で一番綺麗だった女の子を、あたしなりにさらに綺麗にしてみました。綺麗ですか?」 「綺麗だけど」 少女はちょっと笑った。嬉しそうだ。 「その子も両腕なかったの?」 「いいえ。あっても分からないので、ぶら下げてても邪魔なので、なしにしました」 「分からないって何が?」 「手が」 「手の何が分からないの?」 「使い方が」 「鳥だから?」 「はい」 「翼はあるのに手は分かんないの?」 「分かりません」 「不便じゃないの?」 「ついばめば良いので……」 「クチバシないでしょ?」 「形違うけどあるので……」 「唇はものついばむ形してなくない?」 「逆にクチバシないのに人間はどうしてるんですか?」 「手を使うんだよ」 「手は分かんないので……」 「そう」 「はい。ついばめば味とかでそれが何か全部分かるので。でも手だと掴めるのは分かるけどそれが何かは分からないので。逆に人間は味も分からないのに掴むだけの手でどうやって暮らしてるんですかね。そんなんだから毒に気付かなかったりしょっちゅうお腹壊したりするんじゃないですか? 食べるもの食べるものいちいち火を通すのあれ絶対非効率ですよ。その癖たまに魚とかそのまま行ったりするの何なんですかあれ?」 「急に饒舌になるね君は」 「すいません」 少女は目を伏せて謝った。少しでも何かを咎められれば反射的に謝りそうな気配がこの少女にはあった。 「良いんだけどさ。ぶっちゃけ化け物でしょ、君?」 少女は傷付いた様子を浮かべた。 「なんでそんなこと言うんですか……?」 「だって君さ。さっき全身から黒い霧みたいなの出してなかった?」 「出しました」 「毒だよね?」 「毒です」 「あんなの浴びせられたら死ぬんじゃないの?」 「死にます」 「なんでそんなことしたの?」 「ごめんなさい。だってあなたがあたしを何回も殴って来るから痛くて……」 「うんそれはごめん。でも今俺平気でぴんぴんしてるよね?」 「はい」 「それは君が治してくれたの?」 「はい。毒は吸い出しました」 「そんなことも出来るんだ。でもどうしてあんなに君を殴った俺を助けたの?」 「おかしいですか?」 「俺には理解できない」 「あなた達人間で例えます。例えば一匹のカマキリが、たまたまあなたに噛み付いて来るとします。痛いですよね? 引きはがす為に払いのけますよね? 足元に落ちたそれのこと、わざわざ踏み付けて殺しますか? そんなことはしないですよね? 殺さずに済む方法があるのなら、そうするはずです」 「それはどうして?」 哀れみでもかけられたのか。そう感じた鳥飼だったが、少女の答えは違った。 「殺すのは無意味だし、気持ち悪いからです。生き物は死ぬと汚くなりますから」 衒いのない口調そうで言ってのけた少女は、やはり化け物なのだろうと鳥飼は思った。鳥飼はそこに人間とは隔絶した価値観を感じ取ったが、同じくらい物凄く人間臭いことを言っているようでもあった。 「ねぇ。君、俺が成美を……女の子を殺してるのを見たよね?」 「はい」 「君、普段人間と話すことってあるの?」 「ないです」 「最後に人と話したのいつ?」 「だいたい八十年前です。そのくらいの時に村の人は皆死にました」 「君はこの村から出ないの?」 「はい」 「分かった。じゃあ俺、もう帰るから」 少女は視線と首の動きだけで部屋を出る鳥飼を見送った。その様子は部屋に入り込んだ羽虫が窓や扉から外に出るのを確認する時に良く似ていた。少女にとって鳥飼にはその程度の価値しか存在せず、それ故無暗に捻り潰すこともしない。 それでもここに長くいれば気が変わることもあるかもしれない。鳥飼は早めに退散することにして、まっすぐ玄関へと向かい、やはり建付けの悪い音を立てる扉から外に出た。 「オイ」 背後から声がした。 「オイ、ニンゲン、クモツダ! クモツ! サケヲクレ」 鳥飼は振り向いた。小屋にいたヒヨコのような生き物の一匹が、どうやら鳥飼を追って来ていたようだった。 どう対応するのが正解かは分からなかったが、下手に関りを持ちたくないことが全てだった。その為には話し掛けるより無視した方が良いに違いなかった。 「オイ! オイ! サケダヨ、サケ! クモツ! サーケ!」 ヒヨコは繰り返し要求をしながら鳥飼の後ろを付いて来た。 スマートホンの明かりを頼りに、鳥飼は乗って来た自動車を探し始める。すぐに見付かった。少女のいた小屋は自動車から然程離れていない場所にあり、数分も掛からず鳥飼はそれを見付けることが出来た。 そして自動車の傍にはやはり成美の遺体が転がっている。この巳鳥川村に再訪する気がなくなった今となっては、どう始末して良いか持て余す代物だった。 「オレタチハ、オマエタチノ、カミサマ、ナンダロウ? クモツヲ、ヨコセ! ネエチャン、ミタイニ、オレハ、フヌケジャ、ネェゾ!」 「フヌケじゃないとしたら、どうするんだ?」 いい加減に鬱陶しくなって来た鳥飼は、無視し続けることをやめ挑発的に返答した。本人の気質として鳥飼には、相手が動物のような自分より肉体的に脆弱な存在と見ると、攻撃的に支配的に振舞う傾向があった。それは非現実的な怪物である目の前の生き物であっても差別なく発揮された。少しばかり外見が異常であると言っても、このやや大振り過ぎるだけのヒヨコに、どうして下手に出る必要があるというのだろうか? 「オマエヲ、クッテヤル! アシモトカラ、ジワジワト、クルシメテ、クウ!」 「そんなことが出来るってのか?」 「アア、デキルトモ」 「出来るって言うんなら、ここに落ちてる女の死体、これを食ってみろよ。これをこの世から完全に消し去ってくれるんなら、酒なんていくらでもくれてやるよ」 「ホントウダナ?」 「ああ。本当だとも」 ヒヨコは成美の死体の方ににじり寄ると、その小さな嘴で肉を突き始めた。 どうせすぐ音を上げるだろうと思っていた。成美の体積はヒヨコの何倍も何十倍もあるはずだった。いくらヒヨコがヒヨコとしては巨体の持ち主で、鳥飼の頭程のサイズを誇っていると言っても、自身より大きなものを胃袋に収めることは不可能である。 しかし目の前では信じられないことが起きていた。ヒヨコが規則的に死体をついばむ度、あり得ない程の速度で成美の肉体はその体積を減じていく。やがて数分と経たず成美の肉体は元あった半分ほどが消失し、鳥飼は愕然としてヒヨコに話し掛けた。 「おい……どうやって……」 何が起きているのか分からなかった。ヒヨコが目にもとまらぬ速さで死体を突いている訳でもなければ、一口が然程大きいようには見えない。なのに死体はあり得ない速度で減って行く。 やがて成美の死体がこの世から消失するのに時間はかからなかった。ヒヨコはどことなく誇らしげな表情で鳥飼の方を見ると、その爬虫類の鱗のような素材で出来た黒っぽい翼をはためかせ、叫んだ。 「クッタゾ! サア、サケダ! サケヲ、ヨコセ! デナイト、オマエヲ、クイコロス!」 鳥飼は懐からウィスキーの入ったスキットルを取り出して、ヒヨコの方に差し出した。ヒヨコは大喜びでスキットルの口に嘴を突っ込み、一口舐めると首を大きくのけぞらせた。 「ナンダ、コノサケ! カライ! カライゾ!」 「今これしかないんだよ。度数が高くて飲めないか?」 「イヤ、コレマデ、ノンダ、ドノサケヨリ、ウマイ!」 ヒヨコは血走った三白眼を爛漫と輝かせながら、スキットルの中のウィスキーに夢中になっている。鳥飼は身を焦がすような胸の高まりを感じていた。 「なあ。おまえ、俺と一緒に来いよ」 「アア? ナンデ、コノ、オレガ、オマエト、イカナキャ、ナラナイ?」 「酒を……供物をやるっていうんだよ。これより上手いのを、もっとたくさん、浴びる程だ。その代わり、おまえは御利益を俺に与えてくれれば良い」 「リヤクテ、ナンダヨ?」 「人を食うんだ。死体が食えるんなら、生きた人間だって食えるはずだろう。なんたっておまえは神様なんだからな」 それがどのくらいリスキーな提案なのかは、鳥飼にも測り知れない。しかし鳥飼は目の前の魔物に完全に魅入られていた。こいつを手に入れたい。それは過去に金魚を掬い、カメを捕り、犬を拾った時とは比べ物にならない程強い願望だった。 ヒヨコは少しだけ考え込むように小首を捻ると、しばし鳥飼を見詰めて小さく頷いた。そして針金のように細く鋭い脚で飛びあがると、鳥飼の肩に着地した。 「ワルクナイナ」 鳥飼は胸の内に広がる歓喜に酔いながら、自動車に乗り込んでエンジンをかけた。 2 × 西野楓はコンビニのアルバイトに飽いていた。仕事自体は相方の男にテキトウに媚びを売って働かせておけば楓自身は楽に済んだが、そうすると返って一人でレジに立っている時間が増え、その退屈がじわじわと身体を蝕むようだった。 「ヒマだなぁ。ああ。ヒマヒマ。ヒマすぎる」 そう嘯く楓の眼前では相方の男がせかせか飲料の品出しを行っている。コンビニバイト歴八年というベテランで、学生バイト達には常日頃威張り散らしているという性質の男だが、楓のような若い女学生が軽く尻尾を振れば馬車馬のように働くという便利な点もあった。特に楓はいわゆるたぬき顔巨乳で男好きするルックスをしている。篭絡するのは赤子の手を捻るようなものだ。 大学生活の多くはヒマな時間で出来ていると楓は思う。達成や学びより楽を追い求めて進学した楓のような学生には猶更だ。九十分間の講義の時間や、週三で入っているアルバイトの時間の大半は、精神を現実から切り離し妄想癖を持て余すことに費やすことになる。そうしたヒマ時間を自嘲的に捉えつつも、退廃的にだらけ抜くところに今の暮らしの意義はあるのだ。 レジで突っ立って持ち前のオカルト知識を用いた妄想話を考えていた楓の前に、短いメロディが流れ一人の客が来店した。 「いらっしゃー……」 楓は目を疑った。 それほど美しい少女がそこにいる。長い髪と白い肌をしていて、驚く程大きな目はくっきりした二重瞼と、綺麗に整列した長いまつ毛に彩られている。鼻翼の小さな鼻はつんと高く尖り、唇は桜色で薄いがふっくらと膨らんでいだ。 その可憐な顔立ちと同じくらい目を引いたのは、白いワンピース状の衣類から露出する両肩に、あるはずの腕が連なっていないことである。 目を奪われている楓の前に、少女が一歩ずつ近寄って来た。そして目の前に立つと、視線を床の方に俯けたまま、遠慮がちな声音でこう口にした。 「ここにお酒があるんですか?」 「は?」 「お、お酒があるんですか?」 「ありますけど」 「良かった。建物に大きく『酒』と描いてあったので。あるんじゃないかと思ったのです。今日のあたしはとても冴えています」 「はあ。そうですか」 「持って行きたいんですが」 「じゃあ持って来てくださいよ」 「どれなら良いですか?」 「は?」 「どれを持って行けば良いのですか? 分からないので、そちらが持って来て下さるのが助かるのですが」 視線を俯けたままおどおどと口にする少女に、楓は胡乱な表情を向けていた。こいつはひょっとすると腕だけでなくアタマも足りないんじゃないかという予感がする。 「商品はお客様にご自由にお選び下さり、こちらのレジで精算いただいています」 「はあ」 「お酒のコーナーが分からないなら、案内しましょうか」 「お願いします」 楓は少女を酒のコーナーに連れて行った。腕のない少女の両肩を見て、どうやって商品を持ち運ぶのだろうと楓は疑問に感じた。すると少女は「これはお酒ですか?」と酒瓶の一つに尖らせた唇を向け、楓が頷くなりそれを口に咥えた。 「ありがとうございます」 口に瓶を咥えているとは思えない流暢な言葉だった。未精算の商品を思いっきり口に咥えられた。大丈夫なのだろうか。本来であれば、体の不自由なお客様には代わりに商品を運んでやるなどの配慮が店側に必要なはずだったが、そんな接客力も思いやりも楓は持ち合わせていなかった。 少女は瓶を咥えたまま店の出入り口へと向かった。 「あ、ちょっと待って。お客様、レジ」 少女はその場で楓の方に振り返った。 「レジとはなんですか?」 「お金だよ。お金払わないと商品買えないでしょう?」 「供物にはならないんですか?」 「何言ってんのあんた? 良いから金払ってよ。つか持ってんの?」 「今はないです」 「じゃあ買えません。それ、置いてって」 「困ります」 「いやこっちが困るんですけど……」 「人間って何でもお金ですよね。それ絶対回りくどくて非効率ですよ。そもそも交換とか所有とかの概念がまずおかしいんです。万物はそもそも海や大地に宿るものであって、ただそこにあるだけで誰の持ち物でもないはずなのに、それを勝手に自分達のものだからとか言ったって、何の意味もないじゃないですか」 「急に早口でまくしたてないでよ……」 楓は表情を引き釣らせた。 「つかおかしいのはあんたの言ってることの方でしょ。お金は物事を平和にやり取りする為に必要じゃん。非効率とかじゃないし。第一交換とか所有とか否定するんなら、同じものを必要とする人間同士でどうやってそれを分け合うの? いちいち殴り合いの喧嘩でもする訳?」 「その為に普段からお互いのお尻を突き合って序列を決めておくんじゃないですか? 草でもお酒でも、誰から順にクチバシを付けるかはそれで決めておけます」 「何それ? ニワトリのツツキの順序みたいな話? 何だって強い者からありつくみたいなルールじゃ一部の奴が全部独占するだけで、そんなんで文明的な社会が築かれる訳がないでしょうが。両腕ないあんたなんて真っ先に淘汰されるよ?」 「それは違います。確かにあたし達は強い者が真っ先に糧を得ますが、自分が食べている時はそれに夢中で、他者が食べるのを妨げることはありません。だから全体に必要な量さえあれば、誰も淘汰されることはないのです。しかしあなた方人間は、自分が食べている以上のものを自分の物だと言い張って他者が手を付けることを許さないので、量は足りているのに飢える者が出るなどという、おかしなことが起こるんです」 妙に熱心に訴える少女に、楓はいよいよ頭が痛くなって来た。どうしてこんな奴とこんなテーマでディベートをする羽目になったのか。 「とにかくお金がないのなら販売できません。お帰り下さい」 「お、弟の一匹が出て行ったんです」 少女は必死の形相で訴えた。 「弟たちは全員がお酒が好きなんです! だからお酒をくれると思って人間に付いて行ったに違いありません。連れ戻す為にはお酒を用意する必要があるんです。だから供物としてこれを下さい」 「あげられません。つか良く考えたらあんたどう見ても二十歳未満でしょうが! 弟と仲良く非行したいんなら止めないけど、他所でやって。違法販売とかやらかしたら、色々面倒だし」 楓が言うと、少女は肩を落として退店していった。 妙な客だった。いや、客じゃないか。妙な奴だ。 明日、鳥飼先輩に聞いて貰おう。 〇 アパートの天井から音がする。 上の階の子供が跳ねまわり、はしゃぐ音だ。 不快感と共に鳥飼は目が覚めた。良くあることだ。真上の階で飼育されている四歳のガキは、多動症を患っているのか朝起きるなり奇声を発しながら跳ねまくり、床を揺らして鳥飼の安眠を妨げる。 いつもならこの場は我慢してどうにか寝直し、ガキの飼い主である母親がパチンコ屋のバイトから帰ってから文句を言うことにしていたが、その日の鳥飼はのそのそとベッドから起き上がった。 鞄の中にあるものを詰め、眠たい眼をこすりながら上の階に向かう。緊張はなかった。 「あのー! すいません。子供がうるさいんですけどー!」 チャイムを鳴らしながら、鳥飼は上階の住人に訴えた。 「毎朝毎朝上で運動会やられたらたまらないんですけどー! 静かにさせられないんですかねー? いったいどうやって躾けてるのか、一度きちんと話をさせて貰えませんかねー?」 最初は無視されるが、何度もチャイムを鳴らしている内に、痩せた金髪の若くもない母親が顔を出した。 「いつも言ってるじゃん。どんなに躾けても注意しても、子供はうるさいもんなの」 「俺の両親は子供に人に迷惑をかけさせるようなことはありませんでしたよ。母親として、あなたの資質に問題があるんじゃないです? それとも母子家庭じゃ子供の教育にまで手が回りませんか?」 「床が薄いんだからしょうがないでしょ。嫌なんだったら、他のところにあんたが引っ越しなさいよ」 「勝手なことを言わないでください。一度腹を割って話し合いましょう。入らせていただきますよ」 鳥飼は母親を中に押し込むようにして、自分も部屋に入った。何度かトラブルのあった相手だが、ここまで強引なことをされるのが初めてだった母親は、金切り声をあげて抵抗した。 「ちょっと! 不法侵入でしょ!」 無視して鳥飼は後ろ手で扉を閉め、鍵もした。激しく鳥飼の犯罪行為を咎め立てている母親の顔面に向けて、鳥飼は持って来た鞄の口を開いて見せた。 真っ黒い霧が吐き出され母親の顔面を覆った。 たちまち、母親はその場に崩れ落ち、膝を着くことも出来ずに仰向けになった。息を止めていた鳥飼は霧が晴れたのを確認すると、窓を開け部屋を換気した。鳥飼は息を吸ってから母親の元へ戻ると、脚のつま先でその首を持ち上げた。瞳孔の開き切った顔を確認する。死んでいるように見える。 「コレデ、イイノカ?」 鞄の中から一匹のヒヨコ型の怪異が飛び降りた。鳥飼の顔くらいの図体があるので、大きなカバンでなければ持ち運びがままならない。 「ああ。良いぞ」 「コイツガ、ニクインジャ、ナイノカ? ヒトイキニ、コロサズ、アシモトカラ、ジワジワ、クッタ、ホウガ、ヨカッタロ」 「俺がやってるのは単なる害虫駆除なんでね。ゴキブリの脚を一本ずつ引きちぎって弄ぶような、気色の悪い趣味はないよ」 その時、部屋の奥で物音がした。四歳の幼女が一人、倒れた母親と、真っ黒なでかいヒヨコとの間で視線をさ迷わせている。怯え切った青白い表情で、唇を震わせながら「ママ、ママ……」と呟いていた。 こいつが残っていた。鳥飼は素早く踏み込んで子供の眼前に到達すると、顎を思いっきり蹴り上げる。顎を砕く感触の後、幼女は床へと仰向けに倒れた。 床に伸びた子供の首を持ち上げて鳥飼は軽く左右に揺さぶった。顎を砕かれた子供はひゅうひゅうと力ない息をしているだけで、悲鳴をあげる様子もない。これならトドメを刺す必要もないだろう。 「コイツラヲ、クエバ、イインダナ」 「そういうことだ。だがその前に浴室に運ぶ」 「ココデ、クウンジャ、ダメナノカ?」 「血塗れになるのがまずいんだ。風呂場ならすぐ洗い流せる。それでも良く調べりゃ色々と痕跡は出るんだろうけど、警察に捜査の理由を与えなければ問題はない。死体は消えるんだから事件にもならないさ」 鳥飼は死にかけの子供と死んだ母親を共に風呂場へと運び込む。狭い浴室は横たわる母子で一杯になった。 「ほら。食えよ」 「ソシタラ、クモツヲ、クレルノカ」 「そういう訳だ。さあ、やれ」 成美の亡骸を食いつくした時のように、ヒヨコは物凄い勢いで母子の遺体を貪り始めた。 鳥飼はほくそ笑んで浴室を出た。 〇 騒音母子の駆除を終え、鳥飼は上機嫌で帰宅した。 殺害行為がバレることはないだろう。何せ死体はこの世から消え失せたのだ。事件として立件されるには要件が足りないはずだ。あの母親は方々に借金を作っているようでよく借金取りが押しかけていたが、仮にそのことがなかったとしても、警察もただの失踪事件だと考えるに違いない。 「祝杯だ」 鳥飼は戸棚からとっておきのウィスキーを取り出すと、氷を入れたグラスを二つ用意して、ヒヨコと自身の前にそれぞれ注いだ。キンキンに冷えた炭酸水を混ぜてグラスを揺らすと、爽快な気分と共にそれを嚥下した。 ヒヨコはグラスに嘴を突っ込むのに夢中になっている。鳥飼はいよいよこのペットが気に入っていた。今度は誰を殺させようかと、鳥飼はほくそ笑んで想像を膨らませた。殺したい奴は山ほど存在したが、まずは誰をと問われるとピンと来なかった。先ほど殺した母子を含め、改めて考えると別に手間をかけて殺さずとも対処のしようはありそうなものだったが、せっかく手に入れたオモチャを自分は試さずにはいられないだろうという確信もあった。 「コレ、ウマイ」 「そうだろう。これからは美味い酒をいくらでも飲ませてやる。その代わり、俺が殺したい奴を毒霧で殺して、死体を食って始末するんだ。神への供物と御利益、持ちつ持たれつだ」 「ムラニ、イタ、コロハ、クモツハ、ネンニ、イチド、ダッタ。オマエト、イルト、マイニチ、ノメルノカ」 「ああそうだ。毎日でも飲ませてやる。金が足りなくなったら、おまえを連れて強盗に入るのも手かもしれないな」 鳥飼の手元には先ほど上の階の部屋からせしめて来た財布があった。三万円と少ししか入っていなかったが、大学生の鳥飼にとってはそれなりにまとまった金額だ。祝杯を挙げ終えたら再び寝倒れて、昼間に目を覚ましたらこの金で遊びに行くつもりだった。それはおよそ非の打ち所がない完璧な計画だった。 チャイムの音がした。 まさか警察が……という思考が一瞬だけ頭を過ったが、すぐに打ち消す。成美のことも母子のことも、バレる要素などどこにもない。 玄関に行くと、覗き穴の向こうには大学の後輩である西野楓がこちらを伺っていた。 「なんだ楓か」 鳥飼は扉を開ける。特徴的な垂れ目を細めて笑うと、丸顔の左右で珍妙かつ複雑な形で結んでいる二房の髪が揺れる。長身の鳥飼が背の低い彼女を見おろすと、レースを纏った服の開いた胸元から、本人も自慢に思っているだろう豊満な胸の谷間が目に飛び込んだ。 「なんだとは何よ。遊びに来たって良いじゃん」 「玄関で良いからちょっと待ってろ。片付けるものがあるから」 「エロ本?」 「おい」 「シコってた?」 「マジでそうだったら?」 「キモ」 楓を玄関に残して部屋の奥に引っ込むと、鳥飼はヒヨコをベッドの下に隠した。出て来ないように念を押し、大きめのジョッキに酒を注ぎ直してやると、ヒヨコは大人しくそれに従った。 「待たせたな」 「部屋、いつもと違う雰囲気しない?」 「そうか?」 「なんか変な気配がある感じ。禍々しいっていうか。それほど気になる訳じゃないけど……」 確かにあのヒヨコの周囲には、何か魔物が放つオーラのような不気味な空気を感じる。鳥飼はそれを、ヒヨコの化け物ぶりを目の当たりにするあまり感じる、錯覚のようなものだと解釈していた。しかし何も知らない楓がこの部屋に同じものを感じているのなら、何か実態のあるものをあのヒヨコは放っているのかもしれない。 「と言うか、朝からお酒飲んでたの?」 楓の視線はグラスの置かれた机に注がれた。妙な邪推を与えないように、コップは一つだけにしておいてある。 「そんなところさ」 「そ。ねぇ先輩、成美さんと別れてくれた?」 鳥飼は心底からの愉悦のあまり口角を高く上げて答えた。 「別れたさ」 「本当?」 「ああ。こっ酷く振ってやったからな。あいつ口も聞きたくないって言ってたぜ? 疑うなら俺のスマホであいつに電話を掛けて見ろよ。絶対に出やしないから」 そう言って向けてスマホを差し出すと、楓は鳥飼に抱き着いて柔らかな胸を押し当てながら笑った。 「信じる」 さて。鳥飼には寝直してから騒音母子の金で遊びに行くという計画があった。しかし西野楓が家に現れた以上計画には修正の価値がある。鳥飼は酔っている振りをすることにして、そのまま楓をベッドに引きずり込んだ。 楓は抵抗しなかった。鳥飼は枕元に常備してある避妊具を手にしようとしたが、ベッドの下にいるヒヨコの存在を思い出して手を引っ込めた。また面倒なことになったらあいつを使えば済む話だ。 ひとしきりベッドを軋ませ終えた後、二人は身を寄せ合いながら壁に背を預けていた。鳥飼はどちらかと言うとこの時間を面倒に感じる性質だったが、どういう訳か女共はやり終わった後もベッドでいちゃつきたがるので、テキトウに付き合うことにしていた。 「ねぇ先輩。今度二人で、巳鳥川村に行ってみない?」 楓の言葉を聞いて鳥飼は昨日の夜の濃密な出来事を思い出した。あそこには両腕のない少女が大量のヒヨコ共と一緒に住んでいるはずだったが、もう二度と用はないように思われた。 「サークルの皆で行くんじゃなかったのか?」 「雰囲気ある廃村なんだってさ。二人きりの方が楽しいよ」 「鉱山から毒ガスが出たんだろう? 危険じゃないのか」 「もう百年くらい前の話だよ? というか、鉱山が毒ガスを出して廃村になったんじゃないんだよ。村でまつられていたメンドリ様という神様が、怒って村を滅ぼしたっていうのが、巳鳥川村に残る本当の伝説なんだって」 鳥飼は思わず目を丸くした。普段なら一笑に付すところだったが、毒の霧を発し自分の何倍もある人体を食いつくすヒヨコを飼っている身としては、興味を持たざるを得ない話だった。 「何、その伝説って?」 「ネットとかには毒ガスとだけ描いてあるんだけどさ。図書館の郷土資料館にあった巳鳥川村に関する本に、そういう伝説が乗ってたんだ」 鳥飼達の所属するオカルトサークルにおいて、楓はガチ勢で知られる存在である。ネット知識で物事を完結させたがる他のメンバーと異なり、多様な資料に目を通し、裏を取りたがる。 「それ、普通逆じゃないか? ネットにあるのが根も葉もないただのオカルト話で、郷土資料館にはちゃんとした史実の描いた本があるべきだろ」 「今時はネットの人も、非現実的なことは信じないんだってば。最初っから全部作り話ならそういうものとして楽しむけど、実在する村とかが絡んでくると、どうしても現実的なオチを付けたがる。それで鉱山から毒ガスとかそういう一見してまともな説に飛びつく訳だけど、そんな話資料館で読んだどの本にもなかったし、ウィキペディアにも載ってない。だいたいあの辺に鉱山なんてどこにもないよ」 「だからって魔物が村を滅ぼしたってのもな」 「信じない?」 「いや、興味はある。ちょっと話してくれないか?」 「良いよ」 楓は微笑んで話し始めた。 「先輩はさ、コカトリスって知ってる?」 鳥飼はつい一昨日にもプレイした、ファンタジー世界を冒険するゲームソフトのことを思い出して、言った。 「知ってる。口から火を噴くでかいニワトリだろ?」 「それはバシリスク。良く混同されるんだけど、コカトリスは口から毒を吐く方。ニワトリのような蛇のような姿をしていて、龍のようなウロコの付いた大きな翼がある。ヒキガエルが九年温めた鶏卵から孵ると言われてるんだ」 「それがどうした?」 「それがメンドリ様の正体だよ。巳鳥川村に祭られていた神様で、巳鳥川村を滅ぼした魔物」 「ちょっと待て。コカトリスってのは名前からして、海外の伝説上の生き物だろう? でも巳鳥川村は日本の廃村だぜ?」 「コカトリスの伝説は、世界中のあらゆる地域に同一のものが多数見られてね。もちろん全部が全部『コカトリス』って名前じゃなくて、地域によって色んな呼び方があるんだけど、特徴はほとんど同じ。一つの地域で伝承されているのならその人達の創作で済むけど、世界中に散らばって存在していたなら、それは実在を疑う証拠に成り得るよね? そしてもちろん、日本に存在しても不思議じゃない」 「不思議だろ」 「もちろん現実的には色々と反論が考えられる。けど今はとにかく、無数にあるコカトリス的伝説の一つが、日本にもあると考えて見て」 「まあ、構わんが」 「ある村に住む妖術師が、興味からヒキガエルに鶏卵を温めさせてコカトリスの子供を産ませたの。ところが妖術師はそのコカトリスを制御し切れず、目を離している隙に、自分の手の内から逃がしてしまったの」 鳥飼は巳鳥川村で見た光景を思い出していた。おそらくはあの少女がヒヨコ達と共に暮らしているのだろう家に、鶏卵とヒキガエルの乗った藁の敷かれた机があった。あそこでは確かにヒキガエルが鶏卵を温めていたのを、鳥飼は確かに目の当たりにした。 「その後コカトリスの子供は妖術師の追求を逃れる為に山に籠った。そして山賊や落ち武者などを食べることで成長して、大人のコカトリスになった。やがてコカトリスは山を降りて来て一つの村を訪れた」 楓は調子良く伝説を語っている。 「巨躯を誇るコカトリスのおぞましい姿を恐れた村人達はそれを退治しようとする。しかしコカトリスを槍で刺してもまったく効かないどころか、その槍を毒が伝って刺した人の全身を腐らせてしまう。コカトリスに睨まれた人間は炎に包まれて炭と化し、コカトリスが口から吐き出す猛毒の霧は、村の田畑を枯れさせ雑草一つ残さなかった」 「そうなると、村はすぐに滅ぼされるんじゃないか?」 「そうなる訳にはいかないと感じた村人達は、コカトリスと対話を試みた。幸いにしてコカトリスは自身に敵対的でない者に対しては寛大だった。年に一度樽に四十二杯のお酒を供物として捧げることを条件に、コカトリスは村を襲わず山に帰り、むしろ必要に応じて力を貸し与える守り神となることを承諾した。そしてコカトリスはメンドリ様と呼ばれるようになった」 「樽四十二杯の御神酒か。その妙な数字はどこから来たんだ?」 「コカトリス……メンドリ様は四十二匹のコカトリスの子供を眷属として従えていた。メンドリ様は自分達が生み出されるプロセスを、自身を生み出した妖術師から知っていて、自身の籠っていた山の中で、四十二匹の眷属を生み出していた。そして眷属達は皆酒を飲むのが大好きだったんだ」 「一匹一樽か」 「そういうこと。メンドリ様は眷属達に与える供物と引き換えに、山からやって来る野盗や他の妖魔から村を守り続けた。またメンドリ様の住処にはまともな草木は一本も生えない代わり、特有の硬く黒っぽい草が生えた。コカトリスは人を食らうことで成長する妖魔だけれど、生きる為の栄養は別に必要で、それを得られる唯一の植物がその草だった。それは人間にとってはどんな万能薬にも加工できる稀有な代物で、コカトリスは供物を持って山を訪れる人々に、その草を自由に持ち替えさせた。それによって村は栄え、どんどん豊かになって行ったんだ」 楓はそこで一度話を区切るように息を吐いた。 「コカトリスであるメンドリ様は蛇のようなニワトリのような姿をしていた。そんなメンドリ様を奉っていた川沿いの村を、人々は『巳鳥川村』と呼んだ」 「良い関係が築かれていたんだな」 「そうだね。でもどんな信仰も年月と共に薄れて行く。百年近く前に起きた世界大戦で働き手の男達が徴兵に取られたこともあり、供物として樽に注がれるお酒の量が年々減って行ったんだ。そんなことが続いて、ある時眷属達が酒の少なさに怒り狂い、もっと酒を寄越せと村を襲った。メンドリ様は共に村を襲うことこそしなかったけど、眷属達を止めることもなかった」 「それで、村は滅んだと言う訳か」 「そういうこと」 楓は鳥飼に笑い掛けた。 「それって本当なのか?」 「それを確かめに行くんじゃない?」 「気が進まないな」 「どうして?」 「メンドリ様に殺される」 おかしそうに楓は声をあげて笑った。 「本当な訳ないでしょ。バカじゃん」 鳥飼は微笑みを返した。 × 楓は今日もコンビニのアルバイトに入っていた。 今夜は夜の十時からの勤務だった。夏休みということで深夜勤のシフトも入れてある。夕勤と比べると接客機会が少ないのが良い。夜に寝て朝に起きる生活は送れなくなるが、楓にはどちらかというとこの方が性に合っていた。 元々楓は、朝方まで起きて漫画やゲームやネットで夜更かしをして、大学に行くと授業中を睡眠時間に充てることもしばしばという暮らしを送っていた。言ってしまえば決まった時間に眠るという習慣からして備わっておらず、生活リズムなどという高尚なものとは無縁だった。思う存分自堕落でいることが大学生活における楓の主義であり、夏休みともなればその主義は遺憾なく発揮されていた。 今日も今日とて、仕事は相方の男に丸投げして、楓はレジに立って一人欠伸をかみ殺している。適度に胸や尻を揺らして媚びを売ってあるので文句を言われる心配もない。これで昨日のような意味不明な客が現れなければ、今夜も怠け抜いてテキトウに賃金を受け取ることが出来るのだが。 しかしそうは問屋が許さなかった。 額にカブトムシをくっつけた男が入って来た。 小汚いとしか言い様のない風貌の若い男で、よれよれのシャツと染みのついたジーンズを身に着けていて、垢めいた肌をした小太りの肉体を持っている。その上変なのは額にカブトムシだ。カブトムシはむろん生きていて元気良く六本の脚をばたつかせていて、男の顔面を所せましと歩き回っている。 そんな男が妙に姿勢の良い足取りが楓の元へと近づいて来る。真夏の外気の中を歩き回っていたのかシャツは汗で肌にびっちりで、砕いたスイカと腐ったネギを合わせたような、独特の臭気がその全身からは漂っていた。 「店員さん」 「は、はいなんですか?」 「なんかにおうなぁ」 臭うのはあんたの方だよ! 叫びたくなる楓の首筋に、男は容赦なく鼻先を近付けて荒く息を吸い込んで来る。近付けるというか普通に接触している。脂ぎった鼻先の感触は怖気を振るう程だった。 「ちょっと! 何するんですか!」 「妖気がムンムンやなぁ。妖魔の放つ毒の気配が、肌に薄っすら染み付いとる」 「何言ってんの? 頭おかしいのか! やめろキショキショマン!」 身を捩って抵抗するが男は肩を掴んで顔全体を楓の首筋に押し付けて来る。男の顔に張り付いているカブトムシの角が楓の顎を掠め、楓は怖気を振るった。キショキショマンの脂ぎった顔面を押し当てられるのも相当キショいが、それ以上に楓は昔から甲虫の類が大の苦手だった。あんなのは所詮でかくて硬いゴキブリと同じであり、男ともども殺虫剤を振り撒いて薬殺せんことには全宇宙に平和は訪れない。 「ちょっと指原さん! 通報ボタン押して!」 ほとんど悲鳴に近い声だった。相方の男はそれでようやく事態に気付いたように業務の手を止めて振り返ったが、おどおどしてもたつくばかりで、首から下げた通報ボタンを押すには至らない。警察が来てしまうそのボタンは少々の思い切りがないと押せないが、ヘタレ指原がそれを押すにはもう少し心の準備がいるらしい。 「もういい! 自分で押す!」 楓は男に首筋を嗅がれまくっている体勢から、どうにか自分の通報ボタンに手を掛けようとした。その時だった。 「あのぅ。ちょっと良いですか」 両腕のない少女が楓の前に姿を現した。 「あれから色んなところに行ってお酒を貰おうとしたんですが……年齢がどうとか、良く分からないことばかり言われて断られてしまうんです。お金ならこの通り持って来たので、どうか恵んでは貰えませんか?」 少女は胸のポケットから唇で数枚の紙幣を摘まみだすと、レジカウンターの上に置いた。聖徳太子の描かれた数枚の百円札がエアコンの風になびいた。 「それはセミセルフじゃ読み込まねぇよ!」 楓は叫んだ。 「つうか状況見ろ! どうにかしてよこのキショキショマン!」 「おんやぁ……?」 男が楓から鼻先を離して少女の方を見た。 「ひさしぶりやなぁメンドリちゃん。やっぱこの街に来とったんかぁ」 少女の目が一瞬だけ赤く輝いたように見えた。それはほんの一瞬の出来事だったが、超常的な何かが少女の両眼から放たれたらしきことが、本能のある部分で楓にも薄っすら知覚出来たような気がした。 男の全身が赤く燃え上がる。 何が起こっているのか分からなかった。どこからともなく噴き出した炎が男の身体を覆い尽くしている。男は悲鳴をあげるでもなく直立不動のまま焼かれ続けている。そのまま灰の塊のような姿なって男はようやく床に倒れた。 火がやんだ。大人しげな雰囲気のある少女だったが、焼け死んだ男を見るその目だけは、静かな敵意が滲んでいるかのようにも見えた。 「ちょっと……今のあんたがやったの?」 少女はかくんとこともなげに頷いた。 「いやどうやったの?」 「ふつう、睨んだらその相手が燃えますよね……?」 「燃えねぇし」 「燃えます。燃えない人間の方がおかしいだけでふつうは燃えます」 「おかしくねぇし。つかあんた何なの? 妖怪なんか?」 「鳥です」 「は?」 「ニワトリです」 「こけこっこー?」 「こけこっこーです」 「意味分からんって。つかなんでこいつ燃やしたの? 酷くない?」 「どうにかしろとあなたに言われたので……」 「殺しちゃダメでしょ! バカなの?」 少女は微かに目に涙を貯め、肩を震わせ始めた。 「ゆ、言う通りにしただけなのに……。なんでバカとか言うんですか……? 酷いです。ぐす……ぐす……」 「めそめそすんな! どう責任取るんだよ! 人の命だよ? キショキショマンだったけど……キショキショマンだったけど!」 「ちょっと西野さん。これどうなってんの?」 呆けの案山子のように突っ立っていた相方の指原が、ようやくと言うべきか行動を開始した。と言っても小走りでこちらに寄って来ただけではあるが。 「流石に店長に連絡だよね? いや、その前に警察か、それとも救急?」 その時、炭となった男の亡骸から一匹のカブトムシが飛翔して、指原の額に止まった。 指原が一瞬白目を向いた。そしてその場に倒れそうになりかけて踏みとどまるというアクションを取った後、首を二度振ってから少女に笑い掛けた。そして人が変わったような口調で言った。 「もうメンドリちゃん。冗談キツいわ。燃やさんといて」 楓は目を丸くした。指原は両手を晒しながら飄々とした調子で少女に向けて、ニヤニヤとした笑みと共に語り掛ける。 「ずっと巳鳥川村に籠っとったはずやろ? なんでこんなところに来たん?」 「……弟を探しに来ました」 「あかんで。村へ帰り?」 「でも弟が」 「あかんで。それとも喧嘩する?」 「いよいよとなったら仕方ありません。でもあたしに勝てるんですか?」 「さあ。でも、メンドリちゃんが人里で悪さをするなら、それを押し留められるのはこの世にワイ一人や。捨て置く訳にはいかんわなぁ……」 「そんなこと言うんだったら、最初からあたしのことなんて作らなければ良かったんです」 目に涙を貯めながら少女は訴えた。大人し気な少女にしては珍しく、明確な敵意と怨念のようなものがそこには滲んでいる。 どうやらバイトの相方の指原に、先ほどのキショキショマンが乗り移ったかのようだった。指原の額ではカブトムシが今ももぞもぞと這い回っている。昆虫特有の空虚な瞳が、意味が分からず絶句している楓の目と合う。表情のないカブトムシが一瞬だけ笑ったように感じられた。 「アホウ。妖術師に妖怪生み出すなは魚に海泳ぐな言うんと一緒やで? 当時西洋妖怪に手を出す妖術師は少なかった。価値ある学術研究言う奴やで。だいたい弟とか称して大量の幼体こさえとるメンドリちゃんに、それは言えたことやないやろ?」 「一人ぼっちは寂しいです。……仲間が誰もいないこんな島国にあたしを産むから」 「幼体の産み出し方を教えたんが失敗やったかもしれへんなぁ。で? その弟というか、眷属の一匹がこの村に来とって、メンドリちゃんはそれを探しよるんか?」 「その通りです。弟はお酒が好きなので、それを求めて人間に付いて行ったのだと思います」 「ほなそれを探しなな。手伝ったるから。ほんでさっさぁ村へお帰り?」 「ただ見付けるだけでは……。闇雲に帰って来いと言っても通じないです。こっちもお酒を持って行って、これあげるから帰って欲しいと言わないと……」 「力付くでええと思うんやけどなぁ」 「弟にそんなことをしたくはありません。あと」 少女の瞳が再び赤く輝いた。 それはまさに一瞬の出来事であり楓はあっけにとられた。キショキショマンの乗り移った指原が先ほどの男のように赤く燃え上がる。しばらく炎に包まれた後、灰塵と化した指原があっけなく床に転がった。 「あなたの力は借りません」 楓は口元を抑えていた。別に知り合いが目の前で死んだからと言って安直に嘔吐感に襲われたりはしないが、それでも胃はシクシクと痛んでいたし、指先は微かに震え始めていた。眩暈もする。 「……指原死んじゃったじゃん」 「死んでません」 「いや死んでるって」 「でもこれは本体じゃないので……」 「いや指原にとってはこれが本体なんだけど!」 「指原というのは……」 「今あんたが燃やした人だよ!」 「それは別にしょうがないというか……たまたま燃やすことになっただけというか……」 「指原が可愛そうだろおお! こんなんでもこいつなりに毎日必死に生きてたんだよおお! たまにセクハラして来るけどさぁあああ! おおおおん!」 炭と化した指原の中から一匹のカブトムシが這い出して羽根をはためかせて飛び始めた。何故あの炎に包まれてカブトムシが焼け死んでいないのかは疑問でならなかったが、とにかくそいつは嘲弄するかのように楓と少女の間を羽音を立てて飛び交っている。 少女は敵意を滲ませた表情で繰り返し目を光らせた。しかしカブトムシは何かを回避するかのように、カブトムシとしては考えられない程の高速旋廻を見せ、燃え上がる気配がない。 おちょくるように少女の眼前へと飛んで来たカブトムシが、少女の形の良い鼻に飛びついた。少女は大きく顔を捩ってカブトムシを振り払ってから、その柔らかげな唇でカブトムシに食らいついた。咀嚼音と嚥下音。 「食ったの?」 「ついばみました」 「それであんたの勝ち?」 「内側から体内の毒で溶かします。あたしの毒でそれをされたら流石に生きては……」 少女は絶句すると胸元に手を当てて苦しむように蹲り始めた。胸や首を形の良い爪でかきむしるような動作を行いながら、身体をくねらせて悶え始める。 「う……うぅうう」 「ちょっと……何やってんの?」 「うぅ……おぇえええええええええええ!」 うわ吐いた。少女は胸をかきむしったまま、口を大きく開けて真っ黒な泥のようなものを吐き出し始める。ゲロだ。いやゲロではない。それはふつうの人間がふつうに嘔吐する吐しゃ物とはまったく姿が違い、例えるなら墨汁をスライム状にしたような光沢のある物質だった。 黒い物質の中から、一匹のカブトムシが羽ばたきながら出現した。そしてそれはあろうことか楓の眼前へと飛びついて来た。 声をあげる暇もなくカブトムシは楓の額へと取り付いた。そして楓の口を使って喋った。 「アホやなぁ自分。取り付いた相手を操るのがワイの特技やで? そんなもんを体内に取り込んだら内側から操られるん分かっとるやん」 その時楓には楓自身の意識があった。自分が妙な関西弁で喋らされているのを、楓自身の意識で聞いていた。自分の身体の操縦権を失い別の誰かがそれを動かすのを、クリアなままの五感でただ知覚するというのは、声を出せるなら絶叫したくなる程の恐怖を伴った。 「自分が自分の毒で死なへんのがどんだけ繊細な仕組みで成り立っとるんか、考えたこともあらへんやろ。ちょちょいっといじくれば、内側から本人を毒に犯させるくらいは簡単や」 少女は青い顔で荒い息をあげながらカブトムシの取り付いた楓を睨みつけている。 「とは言え流石は二百年ものの成熟したコカトリス。殺し切れんと吐き出されてしもうた。やっぱどんな生き物でもオバハンは強い。幼体や若い個体ならひとたまりもなく死んどるとこやで?」 「オバハンじゃない……」 息も絶え絶えに、割と本気で嫌そうに少女は抗議した。 「オバハンや。まあ最大千年ある寿命全体からすると若いんかも知らんけどな。……で、どうする? まだ喧嘩する?」 「……今の以外で……あなたにあたしを殺せる手段があるの……?」 「ナンボでもあるでぇ! さあどうする?」 少女は何も答えずに立ち上がると、ふらりふらりとコンビニの出口へと向かう。 「弟探すんか?」 「そうですが」 「付いていかせてもらうで」 「……そうですか」 「おう。ほんでな。今取り付いとる娘っ子の記憶によれば、どうも怪しい男がおんねん。記憶にあるその男の部屋の妖気から察するに……多分、弟くんはまずそいつに取り付いとる」 「本当ですか?」 「ああホンマや。ほんでちょっとまずいかも知れへんな。この成長途中の幼体特有の妖気からするに……多分、弟くんは人を食っとる」 「……じゃあ弟はいずれ」 「ああ。少なくともワイらにとってそれはまずい。こら急がなあかんな」 カブトムシに取り付かれた楓は、声に出来ない悲鳴を胸の内だけで泣き叫びながら、身体を操られながら少女と共にコンビニを出た。 〇 鳥飼は自動車を走らせていた。 懐かしい景色だった。ロードサイドに構える店舗の数々は、二年前鳥飼が住んでいた頃から変わっていない。あの道路脇の歩道を、かつては仲間と共に自転車で数キロも十数キロも駆け抜けたものだった。時間はかかったが、そうでもしなければ行けない店がいくつもあり、買えないものや出来ないことが山ほどあった。 今では鳥飼は格安の中古車とは言え自分の自動車を持ち、自分の免許証でそれを運転し、県境をまたぐような距離を快適に自在に移動するようになっていた。出来ることが増えるということは自由になることが増えるということだ。そして最近の鳥飼に新たに加わったのが、人を殺せるという自由だった。 鳥飼はあるマンションの駐車場に車を停車させる。鞄を背負って車から降りると、104号室のスペースに車がないこと、そして自転車置き場にシルバーの見慣れた自転車が停められていることを確認し、目当ての部屋に向かってチャイムを鳴らした。 「どなた?」 「高橋。俺だよ」 「おー。鳥飼か」 高校時代の友人の高橋が、微かに喜びを滲ませた表情で扉を開いた。浅黒い肌と短くした茶髪、精悍な顔立ちに白い歯が眩しい。 「都会の大学に行ってたんだろ? どういう風の吹き回しだよ」 「ふらっと帰って来た。夏休みだからな」 「一人暮らしはどうだ?」 「一度味わうと、実家にいた頃が考えられなくなる」 「羨ましいねぇ」 「おまえも都会に出れば良かった。俺んとこ一緒に入学してくれれば、またつるめたのに」 「そんなアタマねぇよ」 高橋は軽く笑った。 「まあ。入れよ」 鳥飼は笑顔で応じた。 子供部屋に通された鳥飼は、持って来てもらった氷入りのコーラを一息に飲み干す。卓袱台の向かいに腰を下ろした高橋に、鳥飼は何気なく問いかけた。 「地元はどうだ?」 「実家は楽で良いが、高校生活の延長みたいなもんだ。通うところが変わっただけでよ。つくづく思う。おまえが羨ましい」 「彼女とはどうなってる?」 「それが別れた」 「そうなのか?」 「ああ。新しい環境で、互いに目移りしたってとこだ。今は別の子と付き合ってる」 「俺は浅野が好きだった」 鳥飼はコーラのグラスに入っていた氷をかみ砕いた。 「薄々そうだろうと思っていた。だが、付き合ってみれば思う。碌なもんじゃない」 「今にしてみればそうなんだろうと思う。俺も大学生になって、あれより良いと思える女と何人か付き合ったし」 「なら良いじゃないか」 「屈辱は消えない」 「屈辱?」 「好きな女を寝取られたという屈辱だよ。そういう屈辱は注いでおかないと、俺の今後の人生に差し支えるような気がするんだ。自分でも気づかない内に、負け癖として残ってたら嫌だろ?」 「いきなり何を言い出すんだ。おまえらしくもない」 「おまえんち、共働きだったよな」 「ああ」 「定時まで帰らないな?」 「そうだが。なあおまえ、いったい何のつもりで」 鳥飼は息を止めると、鞄の口を高橋に向けて解放した。 中に入っているヒヨコが高橋に向けて毒霧を吐いた。それを吸い込んだ者が数秒と意識を保っていられないことは、鳥飼は深く理解していた。 高橋はその場に仰向けに倒れ込んだ。いつものように、鳥飼は口を押えて息をしないまま部屋を換気し、十分に空気が洗浄されたとみなしてから息をした。 鳥飼は倒れた高橋の元に戻った。つま先で目や顎を触り、絶命していることを確かめる。胸の奥に焦がすような喜びがちりちりと燃え上がり、全身に心地良い熱気が駆け巡るのが感じられた。 「トモダチ、ナンダロ? コロシテ、ヨカッタノカ?」 「まあ、無理に殺す必要まではなかった気はするな。高校の頃は一番の親友だったし、一緒にいると楽しかった」 「ジャア、ナンデ、コロシタンダ?」 「さっきこいつに話したの聞いたろ? 女を取られたんだ」 言ってみて、それがしっくり来ないことを鳥飼は自ら感じ取っていた。あんな女今となっては心底からどうでも良かった。そこで鳥飼は言い訳するようにこう付け足した。 「まあ、正直言うと、理由なんてどうでも良くて、おまえを使って邪魔な奴やムカつく奴を殺すのが、単純に愉快だっていうのが一番なのかもしれない。全能感というか、特権を行使している優越感みたいなのがあるんだ。この感覚は癖になるよ。これからも……」 その時だった。 鳥飼はふと頭の重さを感じて壁に手を付いた。軽い吐き気と頭痛。最近こうした体調不良を覚えることが増えた気がする。断続的に訪れるそれらは時間の経過で緩解するが、その頻度も治るまでの長さも増しているように感じられる。 「なあおいおまえ」 「ナンダ?」 「最近俺の体調が悪いのは、今みたいにおまえに人を殺させる時、おまえが吐いた毒霧を俺も吸ってしまってるってことなのか?」 「マア、ソレハ、イナメナイ、カモ、シレネェナ」 「霧が晴れるまで息は止めてるし、換気だってしてるんだが」 「ソレ、ダケジャ、ダメダナ。オマエニ、ハイリョシテ、ヨワイ、ドクニ、シテイルガ、ソレデモ、スコシハ、ハダカラモ、キュウシュウ、スルカラナ」 息を荒くする鳥飼に、ヒヨコは続けてこう告げた。 「アト、ソレト、カンケイナク、オレノ、ソバニ、イル、ダケデ、イキモノハ、ゼンブ、ヨワッテ、クンダ。ミロヨ」 ヒヨコは子供部屋に置かれている水槽の中に入った。水槽内では縁日で捕ったのが肥大したフナ尾の金魚が数匹泳いでいたが、彼らは数秒の内に動きを止めみるみる水面へと浮上し腹を晒した。絶命しているように見える。 「イキテル、ダケデ、オレラハ、ドクナンダ。マイニチ、イッショニ、イタラ、ソリャ、オマエモ、オカシク、ナルヨ」 「どうしてそれを早く言わない」 「オマエガ、シンデ、オレニ、ソンガ、アルカ?」 「酒が飲めなくなる」 「オマエノ、ソバニ、イナクテモ、ソレハ、オナジダロ? ダッタラ、オマエガ、イキテイル、アイダ、ダケデモ、オマエカラ、サケヲ、モラッテ、ノンダ、ホウガ、イイッテ、ワケダ」 ヒヨコはけたけたと笑った。 「サア、コイツヲ、フロバニ、ハコベヨ。クッテ、ヤルヨ。モチツ、モタレツダ。サケヲ、クレルナラ、ハタライテ、ヤルゼ」 「……今回限りで関係を解消させて貰って良いか」 もう一人くらい殺してからにしても良い気がしたが、しかし鳥飼は自分の体調不良がどの程度深刻な領域にあるのか分からなかった。今すぐこいつから離れなければ命が危ないかもしれず、一刻も早く関係解消を打診するべきだった。 しかしヒヨコの答えはこうだった。 「ヤダネ。オレヲ、ステルナラ、オレハ、オマエヲ、クッテヤル」 ヒヨコは針金のような足で飛び上がって鳥飼の肩に着地した。 「ソレモ、ツマサキカラ、コキザミニ、ジカンヲ、カケテ、クルシメテナ。イヤナラ、オレノ、タメニ、シヌマデ、ハタラクンダゼ?」 鳥飼は絶望的な気分になった。 「ソレガ、オマエノ、エランダ、コトダ。ワカッタナ?」 〇 明くる日の夜だった。自動車から降りた鳥飼は、重たい荷物の入ったカバンを肩にかけながら、おぼつかない足取りでアパートの階段を上った。 頭痛と吐き気と全身のだるさは、このままではやがてあのヒヨコに取り殺されるという恐怖を齎した。それは鳥飼の精神を確実に蝕んでいた。 アパートの自室へと帰り着くと、鳥飼の定位置だったはずだった座椅子の上に、部屋の主人であるかのような態度でどす黒い色をしたヒヨコが座り込んでいる。ヒヨコは蛇のような血走った三白眼を讃えた瞳で鳥飼を迎えた。 「オソカッタ、ジャナイカ」 「色々あるんだよ」 「サケハ、アルンダロウナ」 「ああ。この通りだ」 鳥飼がビニール袋を放り投げると、ヒヨコはクチバシでついばんで中の酒瓶を取り出した。そして鋭く硬いクチバシでいとも簡単に蓋を開けると、器用に瓶を傾けながら中身を啜り始めた。 こいつと同じ空間にいるだけで眩暈がして倒れそうになりそうだ。最早一刻の猶予も許されず、鳥飼は対処を迫られていた。 ペットというのは飼い主が好き好むからこそ飼育されるものであり、興味が尽きたり負担が目立つようになったりするようであれば、手元に置いておく意味はない。邪魔なものは殺してでも排除する。所詮畜生でしかない彼らの生き死により、鳥飼自身の都合の方が優先されるのは当然のことだ。幼いころの鳥飼は心の底からそう考え、また実行して来た。 今回も同じことをするのだ。鳥飼は強い憎しみと共にそう思った。 「なあおまえ」 「ナンダ?」 「また殺しに行くぞ」 「キョウハ、ノラネェナ」 「何故だ?」 「ソロソロ、アレガ、キソウナンダ」 「アレってなんだ?」 「イヤ……ソレハ。トウイカ、ヨクヨク、カンガエレバ、ダナ。ベツニ、オマエニ、リヤクヲ、アタエズトモ、コロスゾト、オドセバ、サケハ、モラエルンダヨナ」 「おまえにも、曲がりなりにも神様としてのプライドはあるんだろう?」 「マア、ソウダナ。カミサマト、マツラレテタ、コロハ、ユカイ、ダッタゼ」 「相手を脅して一方的に何かを奪うのは、ただの悪魔や妖怪だ。おまえはそうじゃないんだろう」 「マア、イイダロウ。コノ、ナリユキデ、ネエチャント、オナジ、スガタニ、ナルノモ、ワルクナイ。イツカハ、ソウナル、ウンメイダ。ハヤイカ、オソイカノ、チガイ、シカナイ」 何を言っているのかは良く分からなかった。しかし付いて来るのなら何でも良かった。 「入れよ」 鞄を開いて見せると、ヒヨコは黙っていつもの鞄の中に入って行った。 「セマイナ。ナカニ、ナンカ、ハイッテルゼ」 「我慢してくれ。次の殺しに必要な道具なんだ。手ごろな鞄は二つもないし、一緒に入れて行く」 「ドウグッテ、ナンダヨ」 「おまえに説明しても分かんないだろ?」 鳥飼は鞄を持って自動車に乗り込んだ。そして国道を逸れて山道の方へと入り、そのまま数十分かけて山中の川原へと辿り着く。 自動車から降りる。この山の深さなら通りがかるものなど誰もいないはずだ。実際、鳥飼は昼間数時間この川原で作業していたが、近くの道路を自動車が通りかかることさえなかった。 鳥飼は背負っていた鞄をひしめいた小石の上に置くと、中に手を突っ込んで装置を起た。 「デバンハ、イツダ?」 「もうすぐだよ。声が聞こえるとまずいから、黙ってろ」 鳥飼は鞄を置いたまま自動車へと戻った。そのまま発進するかどうか少し考えて、どうせなら最後まで見届けようと思い直し、しばしの時を待った。 やがてその瞬間は訪れた。 爆発音がして鞄の内側から激しい炎が立ち上った。暗闇に満ちた夜の川原を、燃え盛る炎が朱色に照らす。バチバチと炎が弾ける音が、車内にいる鳥飼の耳にまで響き渡った。 「どうだ?」 如何に魔物めいた力を持っているとは言え、相手は鳥飼の頭程のサイズしかないヒヨコである。大学の工学部で学んだ知識を用いた鳥飼の自作爆弾は、実験によれば川原にあった大ぶりな岩を木っ端微塵に打ち砕く威力があった。しぶとく燃え続ける燃料をたっぷりと使ったあの炎も、ヒヨコの生命を蝕むはずだった。一たまりもないはずだと思ったし、もしあれが効かないのなら、鳥飼に成し得る方法ではあのヒヨコを殺害しえないということだ。 鳥飼はこれに賭けるしかなかった。しかし同時に、薄々分かってもいた。相手は神を名乗る妖魔であり、鳥飼の知る現実の理からかけ離れた存在であり、そんなものは基本的に人間の力ではどうしようもないのだと。 炎の中から一匹のヒヨコが翼をはためかせながら飛び上がった。そして炎を背負ったまま着地すると、一度の身震いで全身に付いた炎を消し去る。そして血走った三白眼を向けながら自動車に向けて突っ込んで来た。 「キサマァアアア!」 鳥飼は慌てて自動車を発進させた。 効かなかった。殺せなかった。やはりあいつは無敵なんだと、鳥飼はある種の納得すら覚えていた。不用意にあんなものを拾ったことが間違いだった。あれは幼い頃に殺して捨てた金魚や亀や子犬とは訳が違う禁忌の魔物だったのだ。 それでも幸いなことに自動車の速度は迫り来るヒヨコを上回っていた。逃げ切れるかと考える鳥飼だったが、そこでサイドミラーに写るヒヨコが車に向けて毒霧を放射して来る。それは自動車に追いすがるヒヨコを何倍も上回る速度で自動車へ到達した。たちまち自動車は黒い霧で覆われ視界は闇に閉ざされる。 幸いにして車の窓は締めきっているから、そう簡単に車内に霧など入れないはずだ。それでも一刻も早く毒霧から逃れる為、鳥飼はアクセルを踏み込んだ。真っ黒な視界の山道でそれをやれば危険性は計り知れないが、それで鳥飼は無事に死の霧の中から逃れることが出来た。山道の様子が鳥飼の視界に戻って来る。 鳥飼は恐る恐るミラーを見詰めた。ヒヨコがこれ以上追い付いて来ている様子はない。鳥飼は勝利の雄たけびをあげた。 「ははははっ! 逃げ切ったぞ! ざまあみろヒヨコ風情が!」 鳥飼は山道に自動車を走らせ自宅へと向かった。この先も奴に付け回される危険と恐怖は残ったが、とにかく今を生き延びたことが鳥飼を限りなく躁にさせていた。 喉の奥にひりつくような感触がする。 腕が震え、頭が冷たくなり、度々意識が遠くなる。 今までで最悪の体調が訪れていた。蝕まれていた体調がとうとう限界を迎えたのか。それとも、先ほど自動車を包んでいた毒霧が、微かにだが車内に漏れ出していたのか。 おそらく後者だ。でなければこの急激な衰弱には説明が付かない。 鳥飼を殺害する為に放った先ほどの毒霧は、これまでヒヨコが放って来た中で最強の威力を誇っていたはずだ。密閉された車内にいた如きことで、そこから完全に身を守れるなどというのはムシの良い考えだったようだ。自動車のほんの僅かな隙間から、微かに1マイクロリットルでも毒霧の侵入を許したとすれば、それが鳥飼の命を奪ったとしても何らおかしくはないだろう。 ほとんど死にそうな気持になりながら、それでも強い精神力で鳥飼は自宅へと辿り着き、アパートの駐車場に鳥飼は自動車を停めた。 しかし鳥飼は運転席から立ち上がることが出来なかった。 激しい嘔吐感。大量の血を吐いた鳥飼は、そのままハンドルに向けて前のめりに倒れると、僅かな身動きも取れなくなった。 やがて意識が暗転する。 3 〇 女の腕の感触がした。 何となく楓の腕のような気はしたが、感触はともかく触り方や鳥飼を引っ張る力加減が異なっていた。前に酔いつぶれた時に楓の介抱を受けたことはあるが、その時はここまでテキパキと手慣れてはいなかったし、これほど乱暴かつ力強く鳥飼の全身を持ち上げたりもしなかった。しかし度々接触する豊満な胸や、いつも着ているフリルやレースをたっぷり使った衣類の感触は、間違いなく西野楓そのものにも思われた。 鳥飼は目を開けた。 気が付けば自宅にいた。鳥飼は自身を抱えあげていた楓によって、勢い良くベッドの上に放り投げられる。ベッドは柔らかなスプリング性能により鳥飼の身体を受け止めた。 「女の子は力が弱くて敵わんなぁ。ここまで運ぶだけで腕が痛いわ」 楓は妙な関西弁でそう言った。何故か額にはカブトムシが張り付いていて、楓のぱっつんとした前髪の上を這い回っている。 「……楓?」 「おっ。起きたか?」 普段の彼女が作らなさそうな精悍な笑みを楓は浮かべた。粗野で挑発的なその表情は、鳥飼の前ではいつもぶりっ子している楓には考えられない。 「ギリ間に合ったみたいやなぁ。危ないところやったで。それもこれもメンドリちゃんが帽子を選ぶのに時間がかかるから」 そう言った楓の隣で両腕のない少女が微かに身を震わせた。アタマにはボリュームのある白っぽい帽子が被さって、少女の可憐さをさらに引き立てている。 「そ……それはだって……可愛いのが一杯あるから……。それを言うなら、最初大崎さんが温泉施設に入ったのにも問題はある訳で……」 「本日限定ほうじ茶ロウリュウならしゃあないやんけぇ! サウナはワイの生き甲斐なんや! ワイかって何も人間社会の平和維持の為だけに生きとるんとちゃう! ワイ自身が浮世を愉しむのが一番や! 限定なんやったらそっちから先に行くんは当たり前やろがい!」 「でもあたし、大きなお風呂入れないです。同じお湯に入ってる人が皆死んじゃうから……」 「待たしたんは悪かったけどもやなぁ。お詫びにリゾートホテル一泊と大都会での買い物を楽しませてやったやろ? この女の子の金やけど、それを乗っ取ったんはワイの手柄やでぇ。感謝せんとあかんでぇホンマに」 やり取りに耽る人外二人。いや一人は楓のはずだが、何者かに乗っ取られているようにしか思えなかった。虫嫌いのはずの楓の額を這い回っているカブトムシを見るに、そこに異常の種があることは想像が付いた。 「……お宅、何者? 本当に楓?」 「ちゃうで。ワイは大崎。大崎三太郎」 「だから、何者?」 「しがない妖術師の家系の三男坊や。つっても家も肉体もとっくに滅んで、こうして魂移しの術を繰り返しながら、辛うじてこの世に執着しとる身分やけどな」 「楓に取り付いた、不思議パワー系の幽霊ってとこ?」 「察しの良いお兄ちゃんやなぁ。まあ、平らに言うとそんなところや」 「大崎さんは、あたしの生みの親でもあるんです」 少女がおずおずと口を挟んだ。 「もう百年以上会ってなかったんですが、今更あたしの前に現れて……。弟を探してくれるっていうので、一緒にここに来たんです」 「弟っていうのは、俺に付いて来た黒ヒヨコのことだよね」 鳥飼は答える。 「そうです。やっぱりあなたに付いてたんですね」 「なんでここが分かったの?」 「大崎さんがここだというので……。そして車の中で死にかけているあなたを発見したので、あたしが毒を抜いて手当しました」 「この娘の記憶を探ったところ、この部屋でコカトリスの幼体が放つ妖気を感じた記憶があったんや。娘本人は大して気にもしとらんかったみたいやが、ワイにはここが幼体コカトリスの居場所やと察しが付いたんや」 カブトムシに取り付かれた楓こと大崎三太郎は言う。楓はこの部屋に来て、『禍々しいって言うか、なんか変な気配』があると口にしていた。その記憶を辿って彼らはここにやって来たらしかった。 「こっちの成体コカトリスは、人間に化けることで妖気も隠しとるけどな。化け物の癖に人間の娘っ子に憧れて、姿まで変えて、昔っからこの子は変わっとるんや」 「何でも良いけど……。とにかくじゃあ、あんたらはあのヒヨコを回収しに来たんだよね?」 鳥飼は尋ねる。 「まあそうや。ワイは何なら駆除でもええけど」 「それは助かるよ。俺、多分あいつに恨まれてるからさ。このままだといつあいつに殺されるか分かったもんじゃない」 「それが兄ちゃん。事態はそう簡単やないんや。テレビ付けてみ? どのチャンネルでもええで」 促され、鳥飼は訝しく思いつつもテレビを点けた。 どす黒い色をした、蛇のようなニワトリのような生き物が、街に毒霧を吐き散らす映像が流れていた。 そこらの一戸建てを軽く上回る程の巨体を誇る、異形の怪物だった。上半身はやけにタテガミの長いことと血走った大きな三白眼を持つこと以外は黒いニワトリだが、でっぷりと膨らんだ腹部の先には、禍々しい蛇の尾が長く伸びている。そのニワトリの腹部と蛇の尾のちょうど中央くらいから、針金のような鋭さを持った鍵爪付きの脚が生えていて、重量感のある全体を支えていた。光沢のある翼は全体でも特に深い漆黒で、龍のような荒い目の鱗がひしめくようだ。 「嘘だろ……?」 ゲームに出て来るコカトリスそのものだ。いやどんな流麗な最新の3D映像を持ってみても、ここまでの生々しさ禍々しさを出すことは出来ないだろう。生きて暴虐を働く怪物がそこにいて、しかもどうやら、鳥飼の住む街を破壊している。テレビは非常事態を知らせる音声を垂れ流しながら、アナウンサーの声やテロップで、繰り返し避難を促している。 「この街の映像や。このあたりの住人は皆避難中。死にかけて寝取った兄ちゃんを除いてな」 「なんでこんなことに……」 「兄ちゃんが幼体に人を食わせるからや。コカトリスの幼体は一定数人を食うことで成長し大人になるねん」 「いや待てよ。そんな兆候はどこにもなかったぞ? あのヒヨコ、俺が見た時はあんなに小さくて……」 「条件を満たしたコカトリスは、ある日突然前触れなく大人になるんや」 「いやおかしいだろ! もっとじわじわと、段階を経て大きくなれよ!」 「そりゃあまあ人や動物と妖魔は違う言うことなんやけど……どう説明したもんかなぁ?」 「ポケモンみたいなものですよね? 経験値を貯めてレベルが一定に達したら、徐々にとかじゃなくて、一気に別の姿に進化するんです」 とても良い例えを見付けたように、少女は微かに誇らしげな表情で口にした。鳥飼は突っ込みを入れる。 「いや君がポケモン知ってるのはおかしいだろ。百年近く廃村に潜んでたんだから」 「……ご、ごめんなさい」 「いやごめんなさいじゃなくってさ……」 「昨日ホテルでヒマしとったからワイのswitch遊ばせただけや! とにかく! あれは何とかせなんだから人類の危機や! おう兄ちゃん、おまえも手伝えや」 大崎は鳥飼の腕を乱暴に引いた。 「手伝うって何を……?」 「ワイが今取り付いとるこの身体が壊れた時のスペアになるやろ? 全部終わったら返したるから! ほら来いや!」 無理矢理立たされた鳥飼は、そのまま大崎に引っ張られて玄関へと向かわされる。玄関の扉は何者かに溶解させられたように、腐敗した微かな断片を残して消え失せていた。 「何も村から幼体コカトリス街に持ち込んで、育てて捨てたことに責任を取れ言うんとちゃう! ワイら超越者にとって見たら、人類の振る舞いもまたこの地球上の普遍的な営みの一部であって、外来種の持ち込みとか生態系の破壊とか含め、いちいち断罪するようなこっちゃない。それが人間の性質というだけのことや。たわいもない。ほなけど兄ちゃん、大人になったコカトリスをどうにかせんかったら、困るんは命狙われとるおまえやろ? 協力せんかい!」 大崎の先導で、鳥飼達三人はコカトリスの待つ街へと繰り出した。 〇 街に人気はなかった。住人は皆避難中というのは本当らしい。鳥飼が意識を失っていたのはほんの数時間に、ヒヨコは成体へと姿を変え街を襲っていたらしい。大きな道路では未だ避難中の自動車がひしめいているようだったが、少なくともこの近辺は静かなものだ。 「そこを左や」 助手席の大崎が運転手宇野鳥飼に指図した。コカトリスが今いる場所は彼が知っていた。鳥飼は指示に従って左折した。 「違う違う。そこやない! その次や!」 「いやここって言っただろ?」 「そこって言いもって指もさしたやろ。そっちの方や! しゃあないなじゃあ今度はそっち……ってアホ! 通り過ぎてもうとるやないかい!」 「そんな急に言われても曲がれるかよ! そんな言うんなら、あんたが運転してくれないか?」 「この娘免許持っとらんやないかい! 交通違反させる気かおまえは!」 「知らねぇよ! 言ってる場合か!」 「あの……あたしが運転しましょうか……?」 後部座席の少女がおずおずと口を出した。 「腕ないじゃん」 「ついばめば良いので……」 「そのついばめば全部解決するみたいに思ってるのやめない?」 「物を取り扱うガジェットが一つじゃなく二つなのって非効率ですよね……? 視線も注意も一つに集中させてる時間の方が多いのに、そっちの方は二つに分散させるの意味が分かりませんよ。直立二足歩行ってやっぱり色々無理があるんじゃ……」 「黙れニワトリ。炭火で焼いてツマミにすんぞ。……とか言うとったら、ほら、着いたでぇ」 大崎が言った途端鳥飼は全身に怖気を感じた。禍々しい気配が自動車の壁越しにも鳥飼に伝わって来る。妖気を感じた方に視線を向けると、そこには蛇のようなニワトリのような姿の巨躯が、あたりの建物を蹴散らすようにして歩き回っているのが見えた。 鳥飼は自動車を停車させた。大崎が勢い良く、少女が口を使ってたどたどしくドアを開けて外に出る。恐れを感じながら、鳥飼は震える脚でそれに続いた。 「姉ちゃん?」 成体と化したコカトリスは蛇のような血走った三白眼をこちらに向けた。喋り方が流暢になっているように感じられた。かつて鳥飼に飼われていたヒヨコだったコカトリスは、訝しむような調子でこちらに声を掛けて来た。 「それに、大崎の旦那。いったい何の用だ?」 「村に戻って来て十四号! あなたがいないと寂しいの!」 少女がコカトリスに向けて訴えた。 「十四号って……」 呟いた鳥飼に、大崎が大きく肩を竦めた。 「ちなみに四十二号までおるで? 成体になったんはこいつを含めて六体目」 「え? 他に五体もいんの?」 驚いている鳥飼のすぐ傍で、少女は声を張り上げ続けている。 「十四号! お酒ならお姉ちゃんがいくらでも用意してあげるから!」 「酒なんて自分でいくらでも用意できるけどな」 コカトリスは近くにあったコンビニに、カギ爪の付いた脚を掛けた。 「こういう店を襲えばいくらでも酒は手に入る。人間を脅して供物として持って来させても良い。この街で俺は再び神として奉られるのさ」 「おいこら鳥公! そんな甘い考えでおったらあかんでぇ」 大崎が威圧的な声を発した。 「人間舐めとったらあかんでぇ! 今に自衛隊が出動しておまえを駆除しにかかるわ。そうなったらおまえなんぞ一たまりもない。今の時代、おまえらは神様にはなれへんねや。さっさ村に帰りなな!」 コカトリスは冷笑的に小首を傾げた。 「そんな訳があるか。八十年前村が空襲で襲われた時も、成体だった姉ちゃんはもちろん、ヒヨコの俺達も傷一つ付かなかった。人間の現実の摂理からは掛け離れた肉体を俺達は持ってるんだよ」 「実際、どうなんだその辺は」 鳥飼は気になって大崎に尋ねた。 「まあ、ぶっちゃけそれはこいつの言う通りやな。人間は妖魔に基本的に適わん」 「ダメじゃん」 「兄ちゃんも説得にかかりなな。兄ちゃんが怒らせて街を襲っとるんやから、兄ちゃんが上手く謝って機嫌取れば村へ帰ってくれるかもしれへんやろ?」 そう言って背中を押され矢面に立たされる鳥飼。丸々とした三白眼が鳥飼を睨んだ。 鳥飼はやむを得ず説得にかかった。 「なあおまえ。あの時は……」 コカトリスは猛毒の霧を噴き出して鳥飼の全身に浴びせかけた。鳥飼は一瞬にして意識を失いその場に倒れ込んだ。咄嗟に息を止めた鳥飼だったがそんなことで毒の浸透を妨げられるはずもなく、皮膚から入り込んだ猛毒が鳥飼の命を確実に蝕んでいた。 「おっ。死んだ」 「死にましたね」 大崎と少女は他人事のように言った。 「助けたれや。メンドリちゃん」 「別に良いですけど」 少女が鳥飼の方に視線をやると、どういう原理かは分からないが鳥飼の全身から黒い霧が吐き出され、少女の方へと吸収された。鳥飼は意識を取り戻しのそのそとその身を起こした。 「話くらい聞けよな……」 鳥飼はよろよろとした足取りで少女の後ろに身を隠した。 「十四号……お願いだから帰って来て」 少女は涙ながらに訴えた。 「帰らねぇよあんな退屈な村! それよりそいつを俺に差し出せよ! そいつは俺を騙して殺そうとしたんだ!」 「別に良いけど……」 「えっ? 良いの?」 助けたり差し出そうとしたり、本当にどっちでも良いようだ。主体性がない様子の少女は弟に鳥飼を差し出す為その後ろに回ろうとしたが、鳥飼は少女の背中にしがみ付いて離れなかった。二人はその場でしばらくもぞもぞやっていたが、少女の方が諦めてその場に立ち尽くした。鳥飼は少女の後ろの安全なスペースを死守することに成功した。 「かーっ。こら打つ手なしかもしれへんなぁ。メンドリちゃんが説得すれば或いはと思うたけど、この分やと言うこと聞きそうにあらへんし」 大崎は両腕をアタマの後ろにやって投げやりな態度だ。鳥飼は思わず眉を潜める。 「そんなこと言わないで何とかしてくれよ」 「ワイには出来ることとできんことがあるんやって」 「あんた妖術師だろ? 不思議パワーで何とかあいつを倒せないか?」 「無理無理無理! メンドリちゃんの前ではハッタリ言うたけど、コカトリスを殺す手段なんて、ワイにはとても持ち合わせとりません」 「そんなこと言って、あいつを殺さないと人類が亡ぶんだろうが」 「何とかあいつに取り付いて操ることが出来ればなぁ。メンドリちゃんと違って若い個体やから内側から操って自分の毒で殺すんは簡単やけど……。とは言え人間みたいに顔にくっ付いただけで取り付ける訳でもあらへんし、せめてこの身を食べさせんかったら」 大崎は嘆くように言って、額に取り付いているカブトムシを指でさした。それが大崎の本体らしいことは察しが付いている。コカトリスを倒すには、それを上手く食べさせる必要があるらしい。 「だったら今すぐに食われて来いよ」 「試してみよかぁ?」 大崎の操っていた楓の額から、カブトムシが羽音を立てて飛翔した。そしてコカトリスのくちばしの先へ勢い良く突っ込んで行く。コカトリスはそんなカブトムシに向けて毒霧を放った。カブトムシは殺虫スプレーを浴びせられた羽虫のように情けなく飛行を停止し、あっけなく地面に落ちた。 カブトムシはもぞもぞと身を起こし、再び飛び上がって楓の額に付いた。そして再び楓の口を使って大崎は言った。 「あかん。無理みたいやわ」 「クソがっ!」 鳥飼は地団太を踏んだ。 「十四号! あなたは一匹で寂しくないの!」 少女は変わらずコカトリスの説得を試みるようだ。 「一人になったら後悔するよ。本当にすっごくすっごく寂しくてつらいんだから」 「俺は姉ちゃんとは違う。俺は人間の世界に君臨して王となり神となるんだ。そしたら寂しさなんて何も感じないね。姉ちゃんがどうしてそうしないのか、俺は前々から不思議でならなかったんだ」 このままでは世界はコカトリスに支配されてしまうらしい。だがそんなことはどうでも良く鳥飼は自分の命が惜しかった。コカトリスを何とかしなければ自分はこいつに殺害されるに違いない。それは何としても回避しなければならないことだった。 少女とコカトリスがやり取りに夢中になっている内に、鳥飼は覚悟を決めて大崎に囁いた。 「なあ大崎さん」 「なんや兄ちゃん」 「俺に作戦がある」 「なんや?」 その詳細を説明する鳥飼に、大崎は頬を捻じ曲げてニヒルに笑った。 「上出来やで。兄ちゃん」 最早泣き言は言っていられない。鳥飼は覚悟を決めた。人類の危機の為などでは毛頭なく、自らの生命を守る為あらゆるものを犠牲にする決意を鳥飼は固めた。それはただ背に腹は代えられないという話だった。 「おいヒヨコ野郎! 話がある!」 鳥飼は少女の後ろから前に出て、コカトリスに叫んだ。 「随分と醜い姿になったな、ヒヨコ野郎」 「なんだぁ?」 コカトリスは血走った三白眼で鳥飼を睨んだ。怒りを滲ませているが、それ以上に訝しむような気配がその瞳にはあった。 「おまえはまた酒を得るのに、人間を脅して供物として捧げさせると言うが、はたして鳥頭のおまえにそんな器用な真似が出来るのか? どうせまた散々利用されて捨てられるのがオチだろう?」 コカトリスの瞳に滲む怒りの気配が増して行く。 「どれだけ図体がでかくても、どれだけ強い毒の霧が吐けても、おまえのような木偶の坊に出来ることなんてたかが知れてるんだよ。だったらまた俺のペットになった方がおまえの為さ。以前のようにこき使ってやるからよ」 「ふざけるな!」 妖魔は咆哮をあげた。それには周囲の空気を切り裂いて歪ませる程の迫力があった。 「俺はおまえら人間の神だぞ?」 強い憎悪と殺意が鳥飼を見おろしている。鳥飼は動じることなく挑発的に頬を歪めた。 「鳥だろ? ただのニワトリだ」 「神を怒らせた者がどうなるか教えてやる」 「どうするんだ? 前に良く言っていたように、つま先から苦しめながらじわじわと食べるのか?」 「あれはハッタリじゃねぇぜ? 村に人がいた時から、俺は逆らう奴は全員そうして来たんだ」 「そんなことをしても何にもならないだろう。少しは冷静に考えろ鳥頭」 コカトリスは鋭いクチバシで鳥飼を持ち上げた。宙へと持ち上げられる感覚は本能的な恐怖と無力感を鳥飼に思わせる。コカトリスはついばんだミミズをそうするように、微かに宙を浮かせながら鳥飼の身体を弄ぶと、脚の方を自身の喉に向かせてこう言った。 「……楽には食わねぇぞ」 コカトリスのクチバシがぱちんと閉じられる。 鳥飼の両足が膝の下から切断された。血液を噴射させながら鳥飼は地面へと落下した。コンクリートにしたたか叩き付けられ鳥飼はのたうつしかなかった。苦しんでいる鳥飼を満足そうに見下ろしながら、コカトリスはついばんだ両脚を嚥下した。 「まずいな」 鳥飼は痛みと消失感にうめき声をあげた。俺の脚、俺の脚とうめきながら、膝の下から消え失せいる自分の脚を見る。どこか現実感のない光景だったが、それが鳥飼から失われ生涯に渡って戻って来ないことは明らかだった。 「おいおい。これで終わりじゃねぇぜ?」 コカトリスは笑いながら再び鳥飼をついばもうと嘴を近付ける。 「おまえはこれから何回も何回も身体をついばまれて少しずつ食われるんだ。さあ、後悔するんだな」 その時だった。 コカトリスの両目が白目を剥いた。そして何度か身体を震わせながらえずいたかと思ったら、その口の中から大量の真っ黒な泥状の物質を吐き出した。 白目を剥いていた目が今度は真っ赤に染まった。吐き出される黒いゼラチン質の中に鮮血らしきものが入り混じり、それらはとめどなくコカトリスの胎内から吐き出され地面に広がる。コカトリスの全身は震え、身体を支えていた両脚は折れ曲がり、その巨体がコンクリートに向けて倒れ込んだ。 二、三度の痙攣。 コカトリスの全身はそれで動かなくなった。 「……十四号?」 動かなくなったコカトリスに、少女が顔を青くして近付いて行く。 「十四号? 十四号! どうなっているの?」 鳥飼は悶えながらその光景を目の当たりにして、頬に笑みを浮かべた。倒れたコカトリスの肉体から、一匹のカブトムシが飛翔するのに、少女は気付かない。カブトムシは鳥飼を讃えるようにその場を数度旋廻すると、満足した様子で夜空の中へと消えて行った。 靴下の中に潜り込んでいたあいつを、鳥飼は自分の脚ごとコカトリスに食わせたのだ。ヒヨコだった頃、奴は相手をつま先から苦しめながらじわじわとついばんで食らう話を何度かしていた。本気で怒らせれば憎悪にたぎるコカトリスがその方法で鳥飼を食い殺そうとすることは、十分に予想が出来ることだった。 鳥飼は賭けに勝った。自らの両足を犠牲にして、鳥飼は鳥飼自身の生命を守り切ったのだ。 「ざまあみろ……!」 コカトリスの亡骸を見詰めながら口元でそう言った後、鳥飼は意識を失った。 〇 目が覚める。白い病院の天井があった。 鳥飼は全身をチューブに覆われた状態でベッドにいた。両足を見ると白い包帯が巻き付けられ、膝から下はやはり失われていた。これを失った状態で今後の人生を生きることを思えば憂鬱だったが、そう思えるのも鳥飼が自らの生命を守り抜いた為だった。 あのコカトリスを活かしておけば鳥飼は確実に殺害される運命にあった。どんな手段を用いてもこちらから奴を殺すしか生存戦略は存在し得ず、それを成し遂げる為には自身の身を削る覚悟が鳥飼に必要だった。 鳥飼は勝ったのだ。あのデタラメな怪物を殺し、生き残ったのだ。それは間違いなく鳥飼の輝かしい勝利だった。 ナースコールのスイッチが目に入った。迷わずに押すと、すぐに医者と看護師が部屋にやって来て、鳥飼にいくつかの質問をした。 「両脚はあの大きな鳥に食べられたの?」 「そうです」 「それからどうなった?」 「分かりません。気が付けば意識を失っていて……目が覚めたらここにいました」 鳥飼の回復を待たずして多くのマスコミ等が部屋に駆け付けた。誰よりも間近で怪物を目の当たりにした者として、鳥飼は一躍時の人だ。 これほど有名になり多くの人達から同情されたのだから、両足を失った分の補償は十分なものを国がくれるに違いない。鳥飼はそんな算盤も密かに弾いていた。 やがて両親が訪れ大学の職員が訪れ、今後の生活についての段取りも進んだ頃……楓が病室を訪れた。 「先輩」 「楓か」 「ええ。もう、先輩の所為で大変でしたよ」 楓は微かに頬を膨らませた。大崎に取り付かれていた間も意識を保っていたらしい楓は、大崎と少女のやり取りなどから、事態の詳細を良く知っていた。それでもそれほど強くは鳥飼に文句を言ってこないのは、他でもない彼自身が両足を失うという報いを受けたからだろう。 「これからどうする?」 鳥飼は尋ねた。 「どうって?」 「俺との交際は続ける? 両脚、こんな風になっちゃったけど」 「なんか問題あるんですか?」 「君を守れない」 「気障なこと言わないでください。先輩は確かに強い人ですしそこに惹かれてましたけど、だからって身を挺して人を守るようなタイプじゃ絶対ないです。格好良いから付き合っていただけで、最初からそんなことわたしは期待してなかったですよ」 「それじゃあ……」 「良いんじゃないですか? 関係はそのままで。大学、まだ通うんですよね? 先輩の車椅子を押すのも悪くないです。他の女に押させたら絶対にダメですからね」 そう言って楓は悪戯っぽく微笑んだ。恋人が身障者になったことを嘆くより、むしろそうなることによってより完璧に鳥飼を手に入れたと思っているような、そんな愉悦もその時の楓には感じられた。 いずれにせよ楓が鳥飼の元に残ったのは確かだった。鳥飼は歓びを感じていた。本当に心の底から楓のことを愛しているかのような錯覚すら、鳥飼は感じそうだった。両脚がなくなったことはショックだが、そこに楓がいることは確かな救いであり希望となるように思えた。 その時だった。 聞き覚えのある足音が響いて、そらから病室の扉が開いた。 両脚のない少女がそこには立っていた。 「君は……」 「あんたは……」 「ど、どうも……」 訝しむ鳥飼と楓。少女はぎこちなくその場で頭を下げると、鳥飼の元へと歩み寄った。 「まだ村へ帰ってなかったの?」 鳥飼は少女に尋ねる。少女はちょんと頷いた。 「その内帰りますけど……ちょっとやることがあって」 「大崎の行方は?」 「必死で探しましたが、とうとう分かりませんでした。逃げ切られたようです」 「そうかい。弟は?」 「死にました。遺体も人間に取られて……」 「そう。それでどうしてここに来たの?」 「いえその」 少女は軽く俯いて、目に涙を貯め始めた。小さく嗚咽をあげてから、震える声で口にする。 「弟は死にました」 「そうだね」 「あなた、大崎さんを使って弟を殺しましたよね?」 「そうだけど」 「それを許しません」 涙に濡れた少女の目が鳥飼の方に向けられると、その瞳が一瞬だけ赤く輝く。 鳥飼は全身を炎に包まれ、あっけなく灰になって絶命した。 |
粘膜王女三世 2024年08月09日 21時07分12秒 公開 ■この作品の著作権は 粘膜王女三世 さんにあります。無断転載は禁止です。 |
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