愛の惨禍 |
Rev.03 枚数: 26 枚( 10,016 文字) |
<<一覧に戻る | 作者コメント | 感想・批評 | ページ最下部 |
【若干グロ描写あり】 苦しかった。 お前と戦っていた時の方が、今より、ずっと。 ▽ 「愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、 不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。 不義を喜ばないで真理を喜ぶ。 そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。」 穏やかな朝の陽ざしに包まれた教会に、落ち着いた低音が響く。 「これは、コリント信徒への手紙1 13章4節~7節、『愛の賛歌』と呼ばれる有名な聖句だ。結婚式においては必ずと言っていい程引用されるため、聴いたことのある者も多いだろう」 私——神父アルバーンは、礼拝堂を見回しながら、ゆっくりと語りかけた。この辺鄙な村の、しかも外れに位置する教会に礼拝に通ってくるのは、だいたいが老人だ。祈っているのかはたまた眠っているのか、傍目からでは区別がつかない。 「しかし、この聖句で説明されているのは、男女間の恋愛に代表されるエロースではなく、神の愛──アガペーのことである。アガペーは『無償の愛』とも言われ、神が人をいつくしむような愛を指す」 「う」 私の耳は、背後からの微かな呻き声を拾った。……クリストファーの声だ。また古傷が痛むのだろうか。 「——神の愛は無限であり無償であるとされているが、その上でこの世に存在する『悪』をどのように解釈するかは神学者の間でも意見が分かれる」 彼のことは心配だが、まだミサの最中だ。私は逸る気持ちを抑え、深く息を吸った。 「古代ローマの聖アウグスティヌスは、善の実現に濃淡があるために、相対的に善でない状況が悪として認識されるという解釈をした。これを『善の欠如としての悪』という。 その後、13世紀には聖トマスが別の見解を提示した。彼によれば、世界や私たちが存在するという事実そのものが神からの恩寵であり、無償の愛であるとされる。彼によれば、最悪の悪は『無』という状態である」 そう、聖トマスの言葉が正しければ—— クリストファー、彼こそがアガペーを体現している。 ▽ つつがなくミサを終え、教会から立ち去る村人たちを見送った後、私はすぐにクリストファーの様子を見に行った。 この教会はバシリカ式という、上から見ると建物全体が十字架型になっている建築様式が使われている。入口からまっすぐ進むとアプスと呼ばれる半円形の空間があり、そこに祭壇が設置されている。 彼がいるのは、そのアプスの壁に備え付けられたベッドの上だ。ちょうど祭壇の陰になっている場所のため、村人には見えない。ただ、彼にもプライバシーというものはあるので、ミサの際は覆いとしてベールを掛けてある。 私は深紅のベールを捲り上げ、中にそっと呼びかけた。 「大丈夫か、クリストファー」 「……ああ、アルバーン。おはよう」 栗色の巻き毛をした褐色の肌のエルフは、そう弱弱しい返事を寄越してきた。強い意志を感じさせる瞳は、私を見ると嬉しそうに細められた。 「おはよう。また傷が痛むのか?」 「いつもの事だ、気にしなくていい」 「後で薬を塗ろう」 「いい。どうせ気休めだ」 「しかし」 「アルバーンは優しいな。いいから、掃除済ませてこいよ。ここで待ってる」 「……分かった」 ミサを終えると、私は日課である清掃を行う。広い教会を私一人で掃除する必要があるため、最初はとても時間がかかったように思う。今では手慣れたものだが。 掃除の途中で、床のタイルにひび割れを発見した。この教会は随分古いようで、あちこちガタがきている。空いた時間に補修をした方がいいな、と私は思った。 掃除の後は、花壇に水をやったり、市場で買う物のリストを作ったりといった細々とした雑事を行う。 一通りのことを終えたところで、私はクリストファーの元へ戻った。 「おかえり」 「ああ」 「じゃあ、ほら」 「……ああ」 これは、私たちの間での日常的な儀式だ。 彼は笑顔で傷だらけの腕を目いっぱい広げ、私に抱擁を促す。 いつも通り、ぎこちなくその腕に自分の身体を預ける。すると、彼はそっと優しく私を抱き締めてくる。しばらくすると、次第に彼の体温が伝わってくる。それは、高くもなければ低くもなく、心地よい温度だった。 何故かは分からないが、こうしていると胸がざわめく。得体の知れない感情が、頭の芯を揺さぶってくるのだ。 それは懐かしさのようでもあり、安らぎのようでもあり—— 同時に深い哀しみのようでもあった。 ▽ 昼になると、私は村の中心部にある市場へ向かった。 すれ違う村人らは私を見ると「こんにちは、神父様」とにこやかに挨拶をしてくる。私はそれらに返事をしながら市場まで歩いた。 市場に顔を出すと、商人たちが手作りの屋台を寄せ合い、新鮮な食材や近隣からの輸入品を売っている。 私はリストを見ながら日用品をあらかた揃え、最後に市場近くにある大工の家を訪ねた。タイルの補修のため、パテを手に入れようと思ったからだ。恐らく、彼なら持っているだろう。彼の名は……何といったか。 大工は作業台の前に座り、パイプを吹かしながら自分の道具一式を手入れしているところだった。私が近づくと、彼はパイプを片手で持って少しだけ驚いたような顔をした。 「おんや、神父さんでねぇか。変わりはねぇようで」 「お陰様で。だが、教会はそうでもない」 「というと?」 「タイルにひび割れがあってな。パテか何かないか」 「あぁ、ちょっくら待って下せえ」 彼はそう言うと、パイプを作業台に置き、奥に引っ込んでいった。 私は何の気なしに大工の家を眺めた。……前に来たのはいつだろう。随分昔だったかもしれない。家にあるインテリアには、ほとんど見覚えが無かった。大工の趣味が変わったのだろうか? 「待たせちまってすまんね。いやー、物置が暑くて暑くて」 額の汗を拭いながら、大工がパテを手に戻って来た。私はその声で我に返り、胸でくすぶりかけていた微かな違和感は形になる前に霧散した。大工が差し出すパテを受け取る。 「助かる。代金は」 「いらねぇよ、そんなもんならただで持ってってええですから。うちは、色々世話になったしな」 そこでようやく、私は彼の名を思い出した。確か、彼は病気の治療のために教会を訪れたことがあったはずだ。 「そうか、すまないな」 「それより、神父さんはそんな分厚い恰好で、暑くねえかい? 良かったら冷たいもんでも」 「いや、結構だ」 「暑さで倒れねえように気つけて下せえよ、何かあったら大変だ」 「ああ、ありがとう。ウィル」 私が礼を言うと、彼は一瞬目を丸くしたが、すぐに破顔した。 「そいつは、俺のおやじだよ。俺はジャックだ」 「え……?」 「おいおい、呆けるにはまだ早いんでねーの? 神父さん」 「申し訳ない、……ジャック」 日の傾きかけた帰り道を、私は首を傾げながら歩いた。 教会に来た時は、彼はウィルと名乗っていたはずだ。 それだけなら、記憶違いと思いきっと気にも留めなかっただろう。だが、もう一つ違和感があった。 今日は良く晴れているが、そんなに『暑い』だろうか? 私の胸に広がる言い知れぬ不安を表すかのように、入道雲が西の空に湧き上がっていた。 ▽ 教会にもう少しで着こうかという時になって、激しい雨が降り出した。教会に着くなり自室に駆け込み、濡れたカソックを脱ぐ。前髪が額に張り付いてきて不快だった。 タオルで身体と髪を拭いて新しい服に着替え、鏡の前に立って髪を整えると、ようやく気分が落ち着いた。 「おーい、アルバーン」 祭壇の方からクリストファーの声がしたので、私は彼の元に向かった。 クリストファーは枕に肘をつき、気だるげに私を見上げた。 「おかえり」 「ああ、ただいま」 クリストファーは窓に視線を向けた。外はまだ土砂降りが続いている。 「ひどい雨だな、大丈夫だったか」 「少し濡れたが、もう着替えたから問題ない」 「そうか……その服も似合ってる」 彼の深いブラウンの瞳は、一瞬私の服を眺めたが、すぐに私の目を見据えた。 「どうした? なんか心配事でもあるように見えるぞ」 「……別に大したことではない」 「言ってみてくれ」 私はため息をつき、大工の家で感じた違和感について彼に説明した。 「あの煙草好きの奴か」 「そうだ。確かに、彼の名前はウィルだと思ったのだが……」 「うーん、俺はよく覚えてないな。別にそんな気にすることないんじゃないか? 多分、似たような奴と間違って覚えてたんだろ。教会には多くの人間が来るし」 「そうか……?」 まあ、クリストファーがそう言うならそうなのかもしれない。だが、どうも釈然としなかった。 私がしきりに首を捻っていると、彼は眉を下げて笑った。 「アルバーンは神経質だよな。俺と違って」 「お前が大雑把すぎるだけだろう」 不貞腐れたように言い返す。 そのやり取りに、私は強い既視感を覚えた。 頭の中のドアを、誰かが執拗にドンドンと叩いている気がする。 叩きつけるような雨音が、一層激しさを増した。 「ところで、どうして大工の家なんか行ったんだ?」 「ああ、床のタイルにひびが入っていたから……、直すものを買おうと思ってな」 私は教会の隅の床を左手で指し示しながら説明した。 「あー、ここも年季が入ってるもんな。崩れないだけすごいと思うよ」 「崩れる前に建て直しを依頼せねば。ここは村にとって重要な教会なのだから」 「皆、良く通ってくれてるよ。こんなボロい所まで」 「それはお前のお陰だろう、クリストファー」 彼の傷だらけの手にそっと自分の手を添える。きっとこの手は、悠久の時代を生きてきたのだろう。エルフである彼の寿命は、私には想像もできないほどに長い。 「お前は、生ける伝説だ。過去にお前が崩壊の危機から世界を救ったからこそ、この世界が存在しているのだろう? 世界や私たちが存在するという事実そのものが無償の愛なら、お前はまさしくアガペーの体現と言える。少なくとも私は、そう信じている」 私がそう信仰を告白すると、クリストファーは少しの間キョトンとした顔をして——それから大声で笑い出した。 その瞬間、彼の背後にあるステンドグラスに稲妻が走り、目が眩んで彼の表情が見えなくなった。 「アガペーの体現、だって? 可笑しいな。それは俺じゃない」 恐ろしい程の轟きが礼拝堂に反響する。 それが静まった時、彼は私の手を払いのけた。 「昔のお前だよ」 「クリストファー——」 彼の目が金色に光った。 気づくと、自分の周りを魔力が取り巻いているのが見えた。これは、精神に強く作用する魔法だ。 ……一体、いつからだ? いつから私は彼の魔法にかけられていた? 「お前は真に敬虔な人間だった。聖書には『義人はいない』と書かれている。神の律法613個を全て守れる人間なんて、普通は存在しないからだ。だがお前は異常なまでの完璧さでそれをやり遂げていた」 「やめろ……」 私はついに悟った。最初から全てが狂っていたのだ。 今の私たちは汗をかかず、腹も減らない。排泄もしていない。 「お前は神を信じ、父母を敬い、隣人を愛した。どんな時も嘘をつかなかった」 「ヴ、おぇっ」 私はクリストファーの上半身を改めて見つめ、そのおぞましさに吐き気が込み上げて口を押さえた。しかし、何も出てこなかった。 何故おかしいと思わなかったのか。彼の全身の傷がいつまでも治らないことを。 そして、彼の腰から下が、『アプスの壁と融合している』ことを。 「だが、お前は道を誤った。それは——」 クリストファーをこんな惨い姿にしたのは—— 「俺のせいだ」 私だ。 ▽ アルバーンは頑なに律法を守る敬虔な神父だった。彼は十八の時には白魔術の随一の遣い手となり、神の加護を受けた「聖人」とまで呼ばれた。 だが、恐らく彼はずっと疲れていたのだろう。律法を守らず堕落しきった人類を横目に、自分だけが正しく生きることに。 俺は長い時を生きるエルフだから、為政者の都合でころころ変わる人間の宗教なんて正直どうでも良かった。だから、アルバーンが宗教を理由に俺の愛情を拒んでも、俺は気にも留めなかった。 最初の頃はたぶん、長すぎる人生の暇つぶしに過ぎなかった。俺はただ彼に構ってもらえればそれだけで良かったんだろう。 毎日飽きずに教会に押しかけ、心地の良い彼の声に耳を傾けた。ふんだんに時間をかけ、少しずつ距離を縮めた。好きなものを聞いて、彼のわずかな心の隙間に付け入る術を覚えた。 ある日、アルバーンの母親が死んだ。彼女はよりによって、一晩の宿を与えた旅人に殺されたんだ。その時、彼の中の何かが、とうとうプツンと切れてしまった。 彼が俺の愛を受け入れてくれたのは、その直後だった。俺はようやく彼と結ばれた嬉しさに浮かれて、その重大さを良く考えていなかった。できるならあの頃の自分を殴ってやりたい。 愛し合える幸せを嚙み締められたのは束の間だった。アルバーンは自分自身が罪を犯したことで、人間の善性を信じられなくなってしまったのだ。敬虔な神の信徒である自分でさえ罪を犯すなら、他の人間が犯さないはずがないと気づいてしまった。この世のほとんどの人間は救いようがないほど堕落しきっているという現実に、打ちのめされてしまった。 彼は絶望し、見る見るうちに黒魔術に傾倒していった。天使が堕天すると強い力を持つように、彼は黒魔術においても稀代の才能を発揮した。 そして彼は最悪の選択をした。白魔術と黒魔術を極め、類稀なる魔力量を誇るアルバーンは、「最後の審判」を人為的に開始させる魔法——Dies iræ(ディエス イレ)の研究を始めたのだ。 世界の全てを、その手で浄化するために。 俺は「そんなことをする必要はない」と彼を説得しようとしたが、どうすることもできなかった。神をまるで信じていない俺の言葉が、彼に届くはずもない。 アルバーンは、俺にこう言い放った。 『何故分からない、クリストファー。人間はいずれ皆メシアによって裁かれる、それが少し早くなるだけだ』 俺は人生で初めて苦悩した。彼をいっそ殺そうとしたこともあったが、果たせなかった。それをきっかけに俺たちは決別し、命を狙い狙われる関係になった。 研究は教会本部に知られ、彼は異端とみなされて粛清対象になった。俺はなんとかして彼を止めようと、教会本部の奴らと組んで彼と戦った。何度も研究の邪魔をするうちに、彼は俺を憎むようになっていた。 だが俺の努力の甲斐なく——ついにDies iræは完成した。 ▽ アルバーンの澄んだ青色の瞳が、俺を憎々しげに見る。 予想通りだ。彼が近いうちに記憶を取り戻すことは分かっていた。彼の魔力量は元々多いので、どれだけ強力な忘却魔法と認識操作でも、時間が経つと無意識下の抵抗によって破られてしまう。 俺はすぐさま仕掛けた。重力魔法で彼を床に押し付け、身動きを封じる。彼は戦闘に長けてはいないが、魔法の扱いは上手い。下手に動かれると厄介だ。 「ぐうっ……」 彼のうめき声に心が痛むが、仕方ないことだ。 「クリストファー……何故邪魔をする?」 そのまま忘却魔法を掛けようとしていた手を思わず止める。 記憶の戻った状態の彼が話しかけてくることは珍しかったから。 「そうだな……。お前がかつて愛していた世界を、お前の手で終わらせたくないから、かな」 俺が目を逸らしてそう言うと、彼はハッと鼻で笑った。 「相変わらず嘘が下手だな。それとも、私が後悔しているとでも思っているのか? そうだとすればそれは大きな間違いだ」 「分かってるよ。本当は……、ただの俺のエゴだ」 俺は目を伏せた。彼を堕としてしまったのも、彼の人生を賭けた願いを叶えてやれないのも、俺のエゴでしかない。 しばしの沈黙の後、彼はため息をつき、怖いくらい優しい声音で言った。 「お前は馬鹿だ。昔からずっと人間に踊らされている。純粋で、騙されやすいお前は人間にとっては格好の操り人形でしかない。……今でさえ!」 俺はハッとして彼を見た。その時にはもう、魔力弾が目の前まで迫っていた。反射的に顔を逸らした直後、左目に激痛が走る。 「がっ!」 左目を押さえ、揺れる右目の視界で必死に焦点を定める。 彼の右手が禍々しい魔力を纏っている。眉間を狙って攻撃されたのだ。 「くそっ!」 俺は重力魔法で彼の頭を力任せに床に打ち下ろした。鈍い音がして、彼は声も無く昏倒した。急いで忘却魔法と認識操作をかける。 「……油断した」 会話に気を取られ過ぎた。珍しく饒舌だったのは、隙を作って脳を破壊しようとしていたからに違いない。アルバーンが頭の切れる奴だってことは知っていたはずなのに。 魔力弾の直撃を受けた左目は、治癒すらできないほどに破壊されてしまっていた。これで次の戦いは片目で臨まなければならなくなった訳だ。 雨音を聞きながら、眠る彼に目を落とす。 俺の身体の損傷は確実に増えている。彼を殺さずに打ち負かすことができなくなる日はそう遠くない。 それに、彼の魔力は日々蓄えられ続けている。俺の意に反し、彼にかけた忘却魔法が解ける頻度は多くなる一方だ。一番強い認識操作も、効きが悪くなってきている。 この仮初めの生活にも、いずれ終わりが来るだろう。 ▽ Dies iræが発動され、終末のラッパが聞こえた時、俺と彼はまさに殺し合いの真っ最中だった。アルバーンの膨大な魔力がほぼゼロに減っていることに気づき、俺は世界の終わりが来ることを悟った。 『残念だったな、クリストファー』 『な……まさか!?』 『これで死者も生者も、平等に裁かれる。祝福せよ! 大いなる救いの時が来たのだ!』 彼は興奮して膝をつき、赤黒く染まり始めた空に祈りを捧げた。俺はその場に立ち尽くし、途方に暮れた。 『……なあ、アルバーン。お前は俺のせいで、罪人になったんだろ? 敬虔なお前がどうして地獄に堕ちなければならないんだ?』 そう問うと、彼はこちらに顔を向けた。戦闘で乱れた金糸が、色素の薄い肌にまとわりついている。 『神の御前にすべては平等だ。私が地獄に堕ちるとしても、それこそがあるべき姿なのだ』 彼はそう言って、清々しい顔で笑った。俺はそれが物凄く腹立たしかった。お前の運命を、神になんて渡したくなかった。 覚悟を決め、渾身の魔力で籠を編み、俺とお前をその中に閉じ込める。 そう、あの時俺は結局のところ自分のためにお前を止めたんだ。 『何をする——』 『永遠を——aeternitas(アエテルニタス)!』 そうして俺たち二人は、時間の流れから外れた。 俺がアルバーンの時を止めたことで、Dies iræの発動は不完全なものとなり、訪れかけていた世界の終末は文字通り「保留」された。 俺たちは、実質不老不死の存在と化した。生命活動は魔力によって行われているので、魔力が尽きなければ永遠に生きられる。だが、流石に脳を破壊されれば死ぬ。彼が死ぬか、もしくは俺が死んで彼の時間停止が解ければ、その時が本当の終わりだ。 俺は彼の記憶を忘れさせ、代わりに偽りの認識を植え付けて操った。彼に罰を与えようとする人間もいたが、俺はそれを決して許さなかった。幸い俺は世界の危機を救った英雄と持て囃されていたので、どんな人間も容易に俺たちに手出しできなかった。 俺は念には念を入れて小さな村にある寂れた教会に居を移し、村全体に暗示をかけた。おかげで皆、彼のことをただの神父と信じて疑わなかった。俺は名が知られ過ぎていたので、あえて英雄であることは隠さず暮らした。そのほうが色々とやりやすいこともあったからだ。 不死になってからの百年は、かつてなく平穏なものだった。あの悪夢の日々が無かったかのように。 しかし、当然それはアルバーンの意志では無かった。 俺の身体が両断されたのは、最初に彼の記憶が戻った日だ。彼は十秒ほど表情を失った後、すぐさま攻撃に転じた。脳への損傷を避けられたのは奇跡に近い。 彼は、俺に勝てないと見るや否や俺をアプスの壁に埋め込み、俺の力が届かない所まで逃げようとした。恐らくは俺に邪魔されない所で自死しようとしたのだろう。村人を操ってなんとか止めたが、俺の前に引っ立てられてきた彼は殺意に塗れていた。 俺は悟った。知り合った頃のあいつはもういないのだ。そして、戻ってくることもない。 それこそ永遠に。 ▽ 雨が止んだ頃、アルバーンが目を覚ました。 「ん……」 「良かった、目が覚めたか」 「……貴方は……?」 「おいおい、頭を打ってどうかしちまったのか? 自己紹介はもうしただろう。俺だ、クリストファーだよ」 「そうか、貴方が、英雄の……」 彼に植え付けてある認識は3つ。 「自分はこの教会の新任の神父であること」 「俺は英雄としてこの教会を守っていること」 そして、「俺とは知り合ったばかりであること」 他のことは、綺麗さっぱり何も覚えていない。彼にかけた忘却魔法は強力なので、忘れることと忘れないことを選ぶような繊細なことはできないのだ。 「その目は、どうしたんだ」 彼は俺の左目を指さした。 「ああ、古傷でね。気にしないでくれ」 「……そう、か」 彼は立ち上がり、所在無げに辺りを見回した。 「俺は、何をすればいい? すまない、なんだか少し混乱していて」 「長旅のせいだろう。こんな辺鄙な場所まで来るのは誰だって疲れる」 「いや、そのせいではない……」 彼の碧眼は濁り、親を失った子供のように不安に揺れていた。 強い忘却魔法を使うと、副作用が出るのは当然のことだ。彼は今、自分のアイデンティティを根こそぎ奪われてしまっている。地面に足が付かないような、寄る辺ない気持ちだろう。 「おいで」 俺は、落ち着かない様子のアルバーンに向けて両腕を広げた。 「……は?」 「ハグだよ、ハグ」 「何故、私が貴方と抱き合わなければならない」 「連れないな。これから長い付き合いになるんだから、親睦を深めたっていいだろう?」 「……」 彼の目が胡散臭そうに眇められる。半分になった視界に映る彼は、ステンドグラス越しの光に照らされ、この世の物とは思えないほどに美しかった。 「そんな顔をするなよ。ほら、ハグには鎮痛作用があるとか言うだろう? まだ、少し左目が疼くんだよ」 俺は、こう言えばお前が拒まないことを知っている。根は優しすぎるくらいに優しい奴だから。 思った通り、彼は渋りながらも俺に身を寄せてきた。優しく抱き締めると、彼の手がおずおずと俺の背に回った。 しばらくすると、ふっと彼の身体から力が抜けた。彼の頭が、俺の胸にもたせかけられる。 「アルバーン?」 「不思議だ」 「不思議……って、何が?」 彼の顔をそっと伺い、俺は息を詰まらせた。 アルバーンが、あまりにも安堵しきった表情をしていたから。 「こうするのは初めてのはずなのに……懐かしい。ずっとこうしていたいような気分だ」 ああ、お前はなんて狡い奴だ。 「っ俺も、……俺もだ」 完璧主義で潔癖で、人に頼るのが苦手で。誰に対しても平等に優しい癖に、どこか不器用なお前。 お前にそんな無防備な顔をされたら——まだ共に生きていたいと、そう思ってしまうだろうが。 「クリストファー? どうしたんだ」 突然泣き出した俺に、アルバーンが驚いて声を掛けてくるが、俺は首を振って泣きじゃくることしかできなかった。 彼は狼狽えつつも俺の背をさすり、ゆっくりとベッドの上に横たえてくれた。 「何があったのかは知らないが、貴方は傷つきすぎている。……少し眠りなさい。側についているから」 俺の頭に、彼の大きな手が載せられた。ゆっくりと撫でられていると、次第に睡魔が襲ってくる。 彼は子守唄のように、聖書の一節を語り始めた。 「愛はいつまでも絶えることがない。しかし、預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう。 なぜなら、わたしたちの知るところは一部分であり、預言するところも一部分にすぎない。 全きものが来る時には、部分的なものはすたれる。 わたしたちが幼な子であった時には、幼な子らしく語り、幼な子らしく感じ、また、幼な子らしく考えていた。しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。 わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。しかしその時には、わたしが完全に知られているように、完全に知るであろう。 このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。 愛を追い求めなさい。」 (コリント信徒への手紙1 13章8節~13節、14章1節) どうか、もう少しだけ、愛の賛歌を。 Fin |
春木みすず 2024年08月09日 11時34分02秒 公開 ■この作品の著作権は 春木みすず さんにあります。無断転載は禁止です。 |
|
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
|
作者レス | |||
---|---|---|---|---|
|
+30点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2024年08月25日 01時20分50秒 | |||
|
+20点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2024年08月25日 01時29分08秒 | |||
|
+10点 | |||
---|---|---|---|---|
Re: | 2024年08月25日 01時33分32秒 | |||
合計 | 4人 | 70点 |
作品の編集・削除 |